全31件 (31件中 1-31件目)
1
『違いだけ 気にする時に 全体を 忘れて孤独 地獄に落ちる』『個だけでは 生きていけない ふるさとを 求め求めて さまよい歩く』『子に親が いるのと同じ 個の親は 全体という 宇宙そのもの』『個であって 全体である その時に 淋しさもなし 苦しさもなし』『個であって 全体である その時に 心の底から 安心できる』『個であって 全体である その時に 調和のなかで バランス取れる』『個であって 全体である 状態は 色即是空 空即是色』『個であって 全体である 状態は 星々であり 宇宙そのもの』『個であって 全体である 状態は 人でありつつ また神でもある』これが日記を書き始めて1491日目の心境。
2009.01.31
コメント(4)
『花咲いて 星が瞬(またた)く この宇宙 ただ美しい この上もなく』『限りない 無限宇宙の 豊かさに 気づけるならば 何より豊か』『めくるめく 無限宇宙の 豊かさに 言葉も消えて 夜空見上げる』これが日記を書き始めて1490日目の心境。
2009.01.30
コメント(5)
『中心は 無色透明 何もなし そこからすべて 現われてくる』『中心の 光はやがて 色づいて 豊かさという 宇宙生まれる』『どこまでも 色の世界は 多様性 花も色々 星も色々』『様々に 組み合わせては 日々新(あら)た 多層多次元 創造宇宙』 『新しい 料理を毎日 作ってる ようなものかも 創造宇宙』『水晶の 色や形は 違えども その本質は 二酸化珪素』『不純物 混じれば色に 違い出る 出会いで水晶 豊かに育つ』『出会いから いろんなものを 取り込んで 豊かに育つ 人も何でも』『ものすごい 数と種類の 水晶を 見れば宇宙の 豊かさ思う』『色のない 光が徐々に 複雑化 多様化すれば 現象宇宙』『色香り 姿形は 違えども 光の花が 咲いているだけ』『根本は 光一元 光だけ 光が姿 変えているだけ』これが日記を書き始めて1489日目の心境。
2009.01.29
コメント(3)
今日の屋久島は、雲が近い。山々は、半分以上が雲に覆われている。たぶん、山は雨が降っているだろう。里は、まだ降ってはいないが・・・九分九厘光であれば、一厘の闇は問題ではなくなる。ところが・・・一厘の闇の方にフォーカスしてしまうと、九分九厘も闇になってしまう。実際は、九分九厘が光なのだが・・・人の本質は、光。中心部は、無色透明の光。その光が、波紋のように広がっている。外側に行くにつれて、だんだんと光の色が濃くなる。それは、波動が遅くなるから。物質化していくから。一番外側は、かなり暗い。そこにフォーカスすれば・・・この世界は闇と錯覚するかもしれない。光を自覚できないかもしれない。しかし、本当は、その闇でさえも光でできている。全宇宙に、光でできていないものなど存在しない。人は、光。光のグラデーション。色の付いた部分が、個性。それは、過去の経験の賜(たまもの)。その色彩は、傾向であり、得意分野であり、役割分担。これまでの宇宙創造の結果、身に付けたもの。個別化した光のノウハウみたいなもの。人で言えば、技術や言語や知識などなど。魂的に言えば、叡智ということだろうか。宇宙的な経験。そういうものが、色彩の構成要素。宇宙経験によって、それぞれの光の色が違っている。それは、星々のようなもの。星々は、みんな色彩が異なる。それぞれの光で輝いている。人も、星々と似たようなもの。今生でも、多くの経験を経て個性が形作られる。魂もグループソウルも同じ。宇宙自体が、同じ構造。何層にも何層にも渡る光のグラデーション。その一番外側に、今生の個性がある。その個性が一厘の闇にフォーカスすれば、九分九厘の光までもが闇に見えてしまう。お先真っ暗!一寸先は、闇。それは、外側を見ているから。自分の内を見ていないから。夜空の星々も、外を見れば、ほとんど闇に見える。しかし、自分自身を見れば、光り輝いている。人は自分を見ないで、外側ばかり気にしている。だから、闇しか見えない。自身の光が見えない。この世は闇だと思い込んでいる。この世は闇だから、神にすがって身の安全を図ろうとする。あるいは、たくさんの物を所有して安心しようとする。しかし、いくら神にすがっても、いくら物を所有しても、根本的な解決にはならない。不安な心は、けっして消えることはない。神や教祖にすがることによって、自分は安全だと思い込んでいるだけ。たくさんの物を所有することで、身の安全が保障されると思い込んでいるだけ。正確に言うと、必死にそのように思い込もうとしているだけ。しかし、実際は・・・心のなかには、常に一抹の不安がある。これでいいのだろうか。これで大丈夫だろうか。本当に信じていいのだろうか。この世限りの物質的な人は、物に依存する。物をたくさん所有することで、身の安全を確保しようとする。精神的な人は、神々や教祖にすがる。今風な人は、チャネリングや宇宙情報にすがる。自分のハイアーセルフや魂にすがる人もいる。いずれにしても、何かにすがっていることに変わりはない。どうしてすがったりするのだろうか。どうして神頼みなどするのだろうか。それは、外を見ているから。自分の内を見ていないから。一厘の闇を見ているから。九分九厘の光を見ていないから。外側を見ている限り、どこまでも闇が続く。その闇のなかに光の世界を創造するのが、宇宙創造。つまり、現実創造。それには・・・自分自身が光であるという自覚がいる。自分が光でなかったら、光の世界は創れない。自分が闇であったら、闇の世界しか創れない。だから、何よりも大切なことは、自分が光であることに目覚めること。内なるものを外に現わす。それが、宇宙創造。現実創造。それが、この宇宙の創造原理。にもかかわらず、自分を一厘の闇と思い込んで、人を支配し、物を所有しようとする。自分が九分九厘の光であれば、何もいらない。必要なものは、すべて創造すればいい。光なのだから、光で何でも創造できる。この世のものは、すべて光でできている。いや、宇宙全体が、すべて光でできている。ただその波動が違うだけ。根本材料は、すべて光。その波動が遅くなると、変化も遅くなる。そのため、創るのにも時間がかかる。その代わり、いったん創ったら、長い時間、その形状がキープされる。それが、この物質次元。物質次元で生きれば、意識の波動も遅くなる。やがて、自分を物質と錯覚してしまう。波動が遅いので、思い込みは持続する。一厘の闇が、九分九厘の光を支配する。しかし、人は物質と同じ波動に非ず。確かに、肉体は物質と似たような波動。しかし、肉体のなかには遥かに高い波動が内在している。それは、意識。意識も、いろんな波動がある。いろんな光のバリエーションでできている。感覚や感情や思考や直観・・・無色透明まで続く光のバリエーション。しかし、物質も肉体も意識も、根本は光によってできている。ただ波動の違いだけ。その波動の違いが、創造宇宙。いろんなバリエーションを楽しむ世界。それは、神の遊び場。神遊び。リーラ。それが、創造宇宙。意識を内側に向ければ、そういうことがわかってくる。意識が外側に向いている限り、闇しか見えない。時々、星々のような光が見えるだけ。しかし、その光は、すぐに消えてしまう。内側に目を向ければ、光は常にある。眩しいほどの光が、常時存在している。なぜなら、自分自身が光だから。光が、自分自身だから。宇宙は、光のバリエーション。人も、光のバリエーション。すべては、光のバリエーション。まるで花火大会・・・『元々が 光によって できている 創造宇宙は 光の世界』『一厘の 闇にフォーカス する時に 世界はすべて お先真っ暗』『肉体と 共に育てば 外側に 意識が向いて 物質人間』『物質の 光がすべてと 思い込み 物質次元に のめり込む人』『外側を 見れば世界は 闇となる 内なる光 自覚するまで』『自分見る ことがなければ 一輪の 黒い花咲き 終わる一生』『九分九厘 光であれば 一輪(厘)の 黒い花さえ 愛(いと)しく見える』『中心は 無色透明 外側は 人それぞれの 個性色々』『外側を 見ている限り 光なし 光は内に 在りて在るもの』これが日記を書き始めて1488日目の心境。
2009.01.28
コメント(3)
今日の屋久島は、寒い。今にも雨が降り出しそうな曇り空。夜中は、激しく降っていた。山の方は、雪だろうか。今年の冬は、雪が多い。天気の良い日は、青空をバックに雪がキラキラ光る。それはそれは、美しい。なんと美しい地球。人は、なぜ地球にやって来たのだろうか。地球で何をしようとしているのだろうか。なぜ人は、地球に住んでいるのだろうか。それは・・・この美しい自然と共に暮らしたいと思ったからだろうか。青い地球という星に魅了されたからだろうか。この星を自分の目で見てみたいと思ったからだろうか。いずれにしても、この星へやって来た。この星に来て、この美しい自然と共に暮らし始めた。しかし・・・最初のうちは、楽しかった。苦しみはなかった。珍しい地球の生きものに感動した。ところが・・・だんだんと物質に魅了されていった。肉体の魔力に取りつかれていった。「過ぎたるは及ばざるが如し」過ちとは、過ぎたること。人は、やがて物質の虜となり、肉体に呑み込まれてしまった。それが、今の人類のありのままの姿。肉体ベースの快感に溺れ、快に執着し、不快を避けようとする。思考力が発達するにつれて、それは欲望と化していった。果てしない欲望は、地球を蝕(むしば)むまでになった。地球を破壊してまで、自らの欲望を満たそうとする人類・・・そのようにして、人類の欲望は地球の自然体系が危機に瀕するところまで膨れ上がってしまった。それが、逆に人類を危険に陥れることになった。このままいけば、人類は地球と共に存続できなくなってしまう。既に地球が黙って見過ごす限界を超えてしまった。人は、そもそも地球の美しい自然と共に暮らすために地球へやって来た。しかし、長い間にそのことを忘れ、欲望のままに地球を破壊する存在になってしまった。動物を殺し、植物を根絶やしにし、鉱物を破壊し尽くす。地球だけでなく、お互いをも殺し合うようになった。愚(おろ)かな人類・・・人は、自然を支配するために地球に来たと錯覚している。そのような人が、大多数を占めるようになってしまった。本来の目的を喪失してしまった。新しい時代は、自然と共に生きる時代。美しい地球と調和しながら生きる時代。物質を支配する時代ではない。殺し合う時代でもない。実は、物質を思いのままに支配しようとして、逆に物質の虜になってしまっている。それが、偽(いつわ)らざる実態。ミイラ取りがミイラになってしまっている。自分の本来の霊性を忘れてしまった人類。このような人類が、このまま存在を許されるだろうか。地球を破壊してしまいかねない人類を、地球は黙って見過ごすだろうか。もう限界。地球は、その本来の状態に戻ろうとしている。自然循環のシステムを再生させようとしている。傷ついたところを修復しようとしている。青く美しい地球に戻そうとしている。それが地球の意志。人類が、今のまま目覚めなければ・・・地球にとって、人類は邪魔な存在になってしまう。人類が地球と調和して生きる道に目覚めれば、何も問題はない。しかし、いつまでも目覚めなければ・・・人類も地球も太陽系も・・・すべてが本来の状態に戻ろうとしている。自分の本性に目覚めようとしている。モラトリアムは、終わる。自然と調和して生きる。地球の循環システムと共に生きる。自然との共生。人間の自分勝手は、もう許されない。地球資源を無駄に使い、地球の循環システムを破壊するのは、もう終わり。自然と共に、美しく調和して生きる生き方にシフトする。自然を支配しようとしない。自然と共に生きる。自然と調和しながら生きる。地球と共に生きる。それが、これからの人類のコンセプト。それなくして、人類が生き残る道はない。循環システムを尊重する。すべてと調和して生きる。動物と、植物と、鉱物と・・・人と人とも仲良く調和して生きる。『欲望を 理解しないと 人類は 地球と共に 滅んでしまう』『人類が 選べる道は ただ一つ 自然と共に 調和して生きる』『支配する ことではなくて 調和する ことが世界を 救う近道』『調和点 見い出すためには より深い 自然と人の 理解必要』『内面を 見つめていけば 本来の 自分に目覚め 生き方変わる』『自然とも 人とも共に 調和して 循環のなか 平和に暮らす』これが日記を書き始めて1487日目の心境。
2009.01.27
コメント(4)
今日の屋久島は、曇。雲が低く垂れ込めて、暗い。今日は新月。旧暦では、元旦にあたる。今年になって、意識は完全にシフトした。シフトすると、過去は重要性をなくす。過去世も同様。光とは、今ここ。意識の中心は、光。意識のなかは、光がいっぱい。その光は、今ここ。今ここに、すべてがある。意識の表面は、今生の意識。それは、屋久杉で言えば表皮の部分。表皮のすぐ下には、潜在意識がある。それが、過去。過去世が、どうであったか・・・それは、今生の過去がどうであったかということと、さほど変わらない。今となっては、両方とも、あまり意味はない。過去は、どうでもいい。過去の栄光も過去の惨めさも、遠い遠いところにある。あるのは、今ここだけ。意識の中心は、屋久杉の中心部。幹のほとんどは、空洞。その空洞は、光でキラキラ輝いている。そうなると、光がメインの意識となる。今生の過去や過去世は、ほとんど重要性がなくなる。必要な時に使うデーターバンクに過ぎなくなる。今ここは、光の世界。今ここに、暗さは微塵もない。意識の中心は、光そのもの。人類の悲惨な歴史も、光に比べれば取るに足りないもの。光とは、それほど強烈なもの。圧倒的な光の前で、人類の暗部は微々たるものに感じられる。ほとんど児戯に等しい。自我は、未熟な子供。意識の中心は、空洞。そのなかは、光で満たされている。そこには、悲苦の欠片(かけら)すらない。ただ光が満ちているだけ。表皮だけが、今生の意識。そのわずか下に、潜在意識の暗部がある。苦しみや悲しみの部分がある。しかし、それは全体から見れば、可愛いぐらいのもの。今生の過去も過去世も、全体のほんの一部。意識の中心が、どこにあるかということ。自我か今生の過去か過去世か・・・それとも、光か。意識の中心は、光にある。それは、微動だにしない。時々、この世の意識で遊ぶ。それもまた楽しい。しかし、遊んでいても、基本は光。そこから中心がずれることはない。あくまで、光。間違っても、光。光と共に生きるのではない。自分自身が、光そのもの。自分は、光。光が、今生の意識の皮を被って生きているということ。光をベースに生きている。それは、もう揺らぐことはない。揺らぎようがない。なぜなら、自分は光そのものだから。『本来の 光になれば 人類の 悲苦は意識の わずかな部分』『悲苦だけに フォーカスすれば 悲苦だけが すべてと映る 人の悲しさ』『九分九厘 光であれば 一厘の 闇も抱(いだ)いて 進んで行ける』『今生の 過去も過去世も 遠い夢 光の意識 常に今ここ』『揺るぎない 光ベースで 生きていく 光遍(あまね)く 振りまきながら』これが日記を書きじめて1486日目の心境。* 今日の日記は、旧暦の元旦にふさわしい日記ですね。
2009.01.26
コメント(6)
『透き通る 意識は常に 雲の上 青空だけの 光の世界』『下界では 土砂降りのなか ずぶ濡れに なって救いを 探し求める』『不安から 何かにすがり しがみつく しがみつくたび 不安がつのる』『妄想が 不安をつくり 扇動し 心乱れて やすらぎはなし』『様々な 不安・動揺 心配の 想念(おもい)がつくる 幻想(マーヤ)の世界』『幻の 想念(おもい)のなかに 埋没し 絡(から)め捕られて 自分失う』『霊静さ 欠片(かけら)もなくて 情念の 世界のなかで 酔いしれるのみ』『情念の 世界を抜けて さわやかな 風吹き抜ける 大空へ舞う』『人類の 想念(おもい)を超えて 曇りなき 青空だけの 領域へ行く』『透き通る ただ透き通る 雲の上 アクエリアスの 透明な青』『クリアーと いう言葉すら 意味がない 澄みきり切って 想念(おもい)浮かばず』『イメージも 言葉も色も 何もなし ただ限りなく 澄んでいるだけ』『透き通る 意識が少し ゆるむ時 イメージ浮かび 想念(おもい)が浮かぶ』『真実の アセンションとは 雲の上 想念(おもい)を超えた 光の意識』『人類の 想念(おもい)を超えて 雲の上 ただ透き通る 意識あるのみ』これが日記を書き始めて1485日目の心境。
2009.01.25
コメント(3)
『全体と 繋がることが ない限り 真に心は 満たされはせぬ』『満たされぬ 思いが数多(あまた) 所有する ことで自分を 満たそうとする』『満たしても また満たしても 満たされぬ 外から満たす ことはできない』『ひとときの 渇きが癒える だけのこと 心の底の 穴は埋まらず』『こんこんと 内から湧いて こぬ限り 心の渇き 終わることなし』『満たそうと すればするほど 渇くもの 自然に満ちる ほかに手はなし』『満たそうと すれば満ちない 手放せば 何もせずとも 満ちてくるもの』『執着が 外れて空に なる時に 自然に心 満たされていく』『自分から 満たそうとする ことよりも 手放すことが 満たす近道』これが日記を書き始めて1484日目の心境。
2009.01.24
コメント(8)
今日は、種子島宇宙センターからH2ロケットの打ち上げがありました。ところが・・・打ち上げ予定時刻の少し前から雨が降り出し・・・とうとう雨で種子島が見えなくなってしまいました。という訳で、残念ながらロケットの打ち上げを見ることはできませんでした。そういうこともあります。人生いろいろありますね。でも・・・残念なことがあれば、うれしいこともあります。次のようなメールが届きました。「昨夜は、溺れる夢を見ました。いきなり増水した川に転落して、うっそー!ってパニクりかけましたが、そうだ、霊静だ!って思って、冷静に水の流れに逆らわずにいたら、しばらくして浮かび上がりました。(助かりました~~~)」よくぞ霊静さを思い出してくれました。霊静であれば、たいていのことは何とかなります。何ともならなくなるのは、パニックに陥るからです。冷静さをなくし、自分を見失ってしまうからです。霊静であれば、助かる道が見つかるものです。そういうふうにできているのです。身に起きることは、ほとんど自分で設定しています。生まれる前に設定したことを忘れているだけです。自分で解決できないことを、自分で設定するはずはありません。霊静であれば、なんとかなるのです。霊静でないから、問題が拡大するのです。問題が燃え広がり、自分の手には負えなくなるのです。それは、自分で問題を拡大しているとも言えます。霊静であれば速やかに処理できるものを、大騒ぎしてしまうのです。そうやって、問題がどんどん大きくなっていきます。初期消火を間違えたばかりに・・・霊静とは、スピリチュアルで心が落ち着いている状態です。単なる冷静さとは違います。バックグラウンドに、霊性があるのです。つまり、物質次元だけで生きている冷静さではないということです。物質次元だけの冷静さでは、表面的なものの見方しかできません。霊静であることは、もっと深い冷静さなのです。物質次元を超えてスピリチュアルな次元へ進み、更に奥に繋がっているのです。その究極は、霊聖ということです。この世的なレベルの冷静さは、冷静。スピリチュアルな次元の冷静さは、霊静。そして、究極の冷静さが、霊聖です。霊聖とは・・・それは、限りない静けさ。涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)に繋がる静けさです。霊静とは、そこへ向かう途中の静けさ。冷静とは、この世限りの静けさ。その究極まで繋がる霊静さを思い出したことは、称賛に値します。よくぞ思い出しましたね。それによって救われたということでしょう。自分で自分を救ったのです。日記を真剣に読んでいることの証(あかし)でしょうか。真剣に読むことによって、霊静さは潜在意識に浸透していきます。それが、いざという時に出てくるのです。夢のなかにまで出てくるようになれば、しめたものです。顕在意識だけでなく潜在意識でも、その重要性を理解したということです。真剣に日記を読めば、それが働き始めます。人生に変化をもたらします。自分自身を救います。真剣に読み、真剣に理解することでしょうか。それが人生を変えていきます。望み通りの人生になっていくのです。真に自分の人生の主人公になるのです。霊静さというものは、究極に繋がるものです。それは、愛にも慈悲にも繋がっています。無限の広がりを持つ意識です。今生で身に付ければ、この世だけでなく、あの世でも通用します。霊静であるという心の状態は、何よりも貴重なものです。霊静さのなかに、愛や慈悲が流れ込んできます。霊静であれば、そういうものと融け合っていきます。究極は、霊聖というところに収斂(しゅうれん)していくのです。『パニックに なれば精神 錯綜(さくそう)し 助かるものも 助かることなし』『霊静で あれば自分を 救い出す スピリチュアルな 勘が働く』『霊静で あるところから 始めれば すべて聖なる 調和へ向かう』『霊静な 意識は遥か 霊聖へ 静かに深く 融け込んでいく』『霊静な 次元を超えて 霊聖な 次元へ向かう 魂の旅』これが日記を書き始めて1483日目の心境です。
2009.01.23
コメント(3)
『急激な 変化が起きる 年なれば 時代と共に 変化していく』『身を守る 意識が変化 忌み嫌う 自分なければ 怖いものなし』『守るもの 何もなければ 変革の 流れと共に 生きてゆくだけ』『身を捨てて 流れのままに 身をゆだね 流れと共に 流れゆくだけ』『五年目の 春を迎えて 劇的に 変化する時 削ぎ落とす時』『四年経ち 幾山川を 超えてきて 間近にピーク 見えてきた春』『人類の 悲しみ包み 見守れば 今日も地球に 慈悲の雨降る』これが日記を書き始めて1482日目の心境。
2009.01.22
コメント(8)
今日の屋久島は、曇。明るい曇。愛子岳も見えている。頂上の雪が、わずかに残っている。アセンションのための必要最低条件 - その5。それは、記憶に負けないことだろうか。人は、重たい記憶を背負って生きている。過去の亡霊に悩まされている。記憶は、出てくる。記憶が反応しないと、同じミスを何度も繰り返す。そういう意味では、記憶は役に立つ。ところが・・・思い出したくない記憶もある。身の毛のよだつような記憶もある。ショッキングな記憶もある。傷つき倒れた記憶もある。そういうものも、同じ記憶。そのため、似たような状況になると甦ってくる。記憶とは、そういう性質。危険を知らせるものであり、チャンスを知らせるものでもある。動物は、美味しいもののありかを記憶している。危険なところも記憶している。それは、生きるための基本。よりよく生きるためのシステム。それは、思考と同じ。思考も考えることによって、より効率的に生きることができるようになる。その思考は、記憶の蓄積と共に発達する。ある程度の記憶量がないと、比較による思考力は発達できない。思考力は、両刃の剣。有効に使えば、現代の科学文明を築き上げることもできる。しかし、思考に振り回されると、恐怖による戦争へと突入する。記憶も同じ。冷静に使えば、いろいろ役に立つ。役に立つどころか、記憶がなければ日常生活は成り立たない。ほとんど記憶の世話になっている。箸の動かし方一つを取っても、記憶の賜(たまもの)。何をやるにも無意識に記憶を使っている。このパソコン作業でさえ、記憶がなければ成り立たない。日記を読むにしても、文字や経験の記憶を通して読んでいる。よくよく考えると、記憶に依存しているものは計り知れない。しかし、記憶は役に立つ半面、その使い方を間違えると、過去の亡霊に悩まされることになる。過去の強烈な記憶が、今の自分に影響を及ぼす。既に終わったことなのに、今も思い出すと動揺する。またあのようになりはしないかと、恐怖に身が縮む。過去の失敗が、ネガティブ発想を誘い出す。過去の惨めさが、今を惨めにする。過去の自分が、今の自分に覆い被さる。過去が今を呑み込んでしまう。単なる記憶なのに、過去の記憶が今を支配する。恐るべし、記憶の力。侮(あなど)るべからず、記憶というもの。そのメカニズムを冷静に理解することだろうか。記憶は、役に立つ。しかし、記憶に振り回されては、元も子もない。しっかり記憶のメカニズムを理解して、使いこなすことだろうか。記憶に使われないように、主体性を確立することだろうか。似たような状況で、おぞましい記憶が甦ってくる。その時に、どうするか。自分を見失うか。それとも、冷静でいられるか。自分を見失えば、自分が自分でなくなる。自分の人生を失くす。それでは、自分の人生とは言えない。過去に支配されている人生になってしまう。必要以上に反応して混乱するのは、自分をコントロールできないということ。自分の主体性を喪失しているということ。どのような状況になっても、冷静でいる必要がある。そうしないと、道を誤る。車を運転していて、事故を起こせば・・・その場所は、記憶されている。またその場所に差し掛かった時、人はどうするだろうか。心臓が、パクパクするだろうか。あるいは、パニックになるだろうか。それは、事故の程度にもよる。衝撃の強さにも左右される。だから、一概には言えない。しかし、その時が最も重要なポイント。冷静であること。注意深く進むこと。けっして甦ってくる記憶に負けないこと。記憶のフィードバックは、赤信号ではない。それは注意が必要なことを知らせる黄信号。だから、ゆっくり注意しながら進むこと。けっして、青信号のように進んではいけない。青信号のように進めば、また事故が起きる可能性がある。それでは、記憶は何の役にも立っていないことになる。学習していないことになる。記憶は、活かして使うもの。つまり、危ないので注意しながら進む。赤信号ではないので、そこでストップしてしまう必要はない。青信号でもないので、スピードを出してはいけない。黄信号であることを肝に命ずる。それが、記憶の扱い方。赤信号ではないので、パニックになる必要はない。しかし、無視してもいけない。青信号ではないことを自覚して進む必要がある。過去の失敗の記憶は、黄信号。過去の悲惨な記憶も、黄信号。過去のネガティブな記憶は、すべて黄信号。それは、これからの人生に役に立てるためのもの。そのことを深く自覚することだろうか。間違っても黄信号で急ブレーキを踏まないこと。自分を見失って、そこでフリーズする必要はない。ただ注意して進めばいいだけ。危険を知らせる記憶の反応は、赤信号でも青信号でもない。それは、黄信号。そのことを忘れないことだろうか。そうすれば、過去の亡霊に脅かされることはなくなる。過去のショッキングな記憶も、単なる黄信号。どんな悲惨な記憶であれ、それは単なる黄信号。単なる電気信号であって、事実ではない。それは、既に終わったこと。潜在意識のなかにあって顕在意識を脅かしている記憶は、すべて過去の亡霊。単なる電気信号。注意を促す黄信号。そうであるならば、それを有効に活用すればいいだけのこと。過去の記憶に振り回されない!記憶は、すべて活用するものだと、しっかり心に留めること。そうすれば、もう記憶の奴隷になることはない。記憶が、自分の召使となる。記憶に振り回される人生から、記憶を自由に使いこなす人生へ。それが、アセンションのための必要条件。記憶に負けていては、アセンションは覚束(おぼつか)ない。記憶のマスターにならないと。記憶は、人の意識のなかのシステム。思考と同じ。感情と同じ。感覚とも同じ。それは、身を守るためのもの。健全に生きるためのもの。人生を謳歌するためのもの。そのシステムに翻弄されていては・・・ミイラ取りがミイラになってしまったようなもの。肉体、感覚、感情、思考、記憶・・・それらすべては、生きるためのシステム。そのメカニズムを深く理解することだろうか。理解して、それらを十全に発揮することだろうか。それらと共に実りある人生を創り出すことだろうか。前向きに生きればいい。前を向いて歩けば、目の前は明るい。理解のない人生は、暗い。闇雲に生きる人生は、危ない。しっかり地に足を着けて、一つ一つ理解しながら生きる。そうすれば、道は開ける。記憶は、使いこなすもの。けっして使われてはいけない。記憶のメカニズムを理解して、記憶を活用して生きる。それが、アセンションのための必要最低条件。『過去である 記憶に今を 支配され 翻弄されて 終わる人生』『記憶とは 電気信号 黄信号 この世を生きる 役に立つもの』『どのような 記憶も人を 生かすため 翻弄されず 活用していく』『記憶とは データーベースと 見極めて 振り回されず フルに活用』『主体性 持って記憶を 見定めて 振り回されず 振るに活用』『負けないで 注意しながら 進むこと どんな記憶も 過去のデーター』『黄信号 赤や青では ないことを 肝に銘じて ゆっくり進む』『甦(よみがえ)る 記憶は過去と 見定めて 記憶に負けず 今を生き抜く』『霊静な 意識に己(おの)が ベース置き 記憶・思考を 使って生きる』これが日記を書き始めて1481日目の心境。
2009.01.21
コメント(2)
『個であるが 故の悲しみ つきまとう 全体となる 晴れの時まで』『ふるさとを 求め求めて 旅をする 個の淋しさが 消える時まで』 『個を極め 極め尽くした その先は ひとつの世界 ひとつあるのみ』『ふるさとを 求め求めて 来てみれば 個のふるさとは 個の奥にある』『個となって 個を楽しんで なりきって 極め尽くせば ひとつの世界』『ひとつから 一つになって ふるさとの ひとつへ戻る 一つの旅路』これが日記を書き始めて1480日目の心境。
2009.01.20
コメント(5)
今日の屋久島は、暖かい。まるで春のような陽気。山々は、霞んでいる。風も強い。もしかして、春一番?もしかして、黄砂?まさか・・・まだ一月中旬。今日は、山羊座の水晶祭りで行き先が決まった水晶たちを、すべて発送した。明日から順に届くことだろう。発送が終われば、次の水晶祭りの準備に取り掛かる。次は、水瓶座・・・大切なのは、行為ではない。行為以前の心の状態。いくら慈善行為をしても、その心の底に偽善があれば・・・その行為は、偽善的な行為となる。いくら平和を唱えても、心のなかに闘争心があれば・・・結果は、反発を招くだけ。本当は嫌いなのに、好きというふりをしても・・・世の中の欺瞞が増えるだけ。大切なのは、心の状態。それが、自然に行為に現れればいいだけ。大切なのは、行為ではない。行為以前。心のあり方。心が、静かであること。霊静な心から起きる行為は、周りに調和をもたらす。しかし、荒々しい心から生まれる行為は、周りを荒涼とさせる。行為は、結果。結果を云々(うんぬん)しても、問題の本質的な解決にはならない。問題は、心の状態。心の状態が、現実を創造する。見栄や外聞のために慈善行為をしても、何の意味もない。一時的に物質に恵まれるかもしれないが、単なる一時凌ぎ。鼻もちならないエネルギーと、卑屈なエネルギーが社会に充満するだけ。そのような一時凌ぎの物質的な満足に、何の意味があるだろうか。大切なのは、心の状態。心が、霊静であること。そうすれば、霊静な行為が自然に生まれる。それは、社会に調和をもたらす。形から入らない。心から入る。自分の心の状態をチェックする。心を霊静に保つように心がける。それが、何にも増して重要なこと。霊静に生きようと決める。霊静に生きようと心掛ける。霊静でない自分に気づき、霊静さを取り戻す。静かな心や霊静な心が、社会に真の平和をもたらす。社会運動や平和運動をいくらやっても、真の平和は生まれない。人の心のなかに平和がない限り、平和な社会は生まれない。行為以前の心こそが、何にも増して大切なもの。『心こそ すべてを創る 元の元 心の状態 色の源』『霊静な 心の波動 外に出て 行為となって 調和もたらす』『霊静で あれば行為も 霊静に なって社会も 霊静になる』『霊静な 心ベースに 生きていく 空をベースに 色を生き抜く』これが日記を書き始めて1479日目の心境。
2009.01.19
コメント(9)
今日の屋久島は、雨が降ったり止んだりしている。目の前の山々は、暗い。太陽が顔を出さない。風が強い。元旦から夫が家出したという人からメールが届いた。無事に帰ってきたらしい。しかも、やわらかくなっていたとのこと。昨日は、家族で温泉に行ったらしい。めでたし、めでたし。まずは、一安心。今年を象徴するような出来事も、とりあえず一段落。大切なことは・・・現象に囚われないことだろうか。現象は、心の現れ。結果を修正しようとしても無駄なこと。原因の方に目を向けないと。何か思わぬ出来事が起きた時の基本スタンスは、霊静であること。現象に振り回されない。穏やかに静観する。自分の心を見つめる。心の状態が変われば、現実も変化する。結果は、後から付いてくる。まずは自分の心のなかを確かめること。自分は、本当は何を望んでいるのか。どのように生きたいのか。どんな家庭がほしいのか。相手に何を求めているのか。深く深く自分の心を見つめていった方がいい。そして、自分の真に望む状態を見つけ出す。それから、そのイメージを楽しむ。それだけでいい。結果を求めない。結果は、後から付いてくる。自分が真に望むことを、ありありとイメージして楽しむ。真に望むことであれば、イメージしても楽しいに違いない。イメージのなかで、できるだけ具体的にリアルに楽しむ。そうすれば、そのような現象が現実化する。ただ、そこで注意すべきことがある。それは、強制しないこと。自分のイメージを他の人に押し付けないこと。たとえば、夫が自分の言うことをよく聞いてくれるとか。妻が、自分の望み通りにしてくれるとか。会社のみんなが、自分に都合のいい行動をしてくれるとか。そんな自分勝手なイメージは、実現しない。なぜなら、それは強制された人が反発するに違いないから。その人たちは、無意識の圧迫感を感じるだろう。潜在意識レベルの圧力によって、気分が悪くなるかもしれない。まるで奴隷にされるようなプレッシャーを感じる可能性がある。そんな利己的なイメージをしても、誰も幸せにはなれない。自分さえよければいいというイメージは、結局、自分も不幸にしてしまう。人を活かし、自分も活かす。それが、大原則。相手が活き活きとして、自分と調和している。そのようなイメージだったら、本人も納得するだろう。その人が、喜び、楽しんでいるイメージでなければならない。自分の我儘を押し付けるようなイメージは、控えた方がいい。相手が真に望むように生き、それが結果的に自分の幸せにもなる。そのようなイメージならば、相手も活き、自分も活きる。お互いを活かす。そのようなイメージを想像=創造することだろうか。そういうイメージであれば、イメージしている時も楽しい。それを十分に楽しんでいれば、やがて、それが現実化してくる。イメージングを続けることによって、自分の意識状態も変わる。毎日のイメージングは、自分の顕在意識にも影響を及ぼす。徐々に顕在意識も調和されていく。眠りに就く前のイメージングは、翌日の意識に影響する。現実生活でも調和しながら生きられるようになる。それこそが、現実創造。イメージのなかと現実生活の両方で創造していく。それが、この世における現実創造。自分の望む世界を自分の周りに創り出す。それが、この世を生きるということ。相手が本当に何を望んでいるのか。相手にとっての幸せとは何か。相手が活き活きと生きている状態とは・・・そこまで考えて、イメージすることだろうか。もちろん、自分の真の願いをイメージすることが第一。もしそのなかに誰か他の人が関わってくるようなら、その人の幸せも考慮すること。みんなが幸せになるようにイメージすること。そうすれば、自然にそのようになっていく。今年は、激動の年。しかし、年末には笑うこともできる。それは、自分しだい。日々を真剣に生きるかどうかにかかっている。真に自分の望むように生きることだろうか。自分の真実をイメージのなかで生きることだろうか。自分の真実を現実のなかで生きることだろうか。そうすれば、身の回りの世界が変わるだろう。『どうせなら みんなを活かす イメージを すれば自分も 活き活きできる』『自他共に 活き活きとした イメージを 続けるならば やがてそうなる』『自他共に 幸せである イメージを 続けることが 幸せの道』『お互いに 思いやりつつ お互いの 個性活かして この世を創る』『自らも 周りも共に 活きる時 調和のとれた 世界実現』『自分から 光あふれて 関わりの ある人みなに 光が届く』これが日記を書き始めて1478日目の心境。
2009.01.18
コメント(5)
今朝の屋久島は、快晴。青空をバックに、愛子岳山頂の雪が美しい。朝陽にキラキラ輝いている。久しぶりのさわやかな天気。アセンション講座が続く。アセンションのための必要条件。今日は、悪夢について。最も大切なことは、何だろうか。これから社会的にも個人的にも浄化が激しくなる。個人的には、潜在意識が急速に浄化されていく。その際に、悪夢を見るかもしれない。それは、潜在意識が浄化されるプロセス。悪夢を見た時に、最も大切なことは何だろうか。それは、慌てないこと。パニックにならないこと。そして、霊静に見切ること。悪夢というのは、これまで潜在意識のなかに溜まっていたものの解放。だから、ただ見守っていればいい。何もすることはない。ただ出てくるままに見ていればいいだけ。悪夢は、潜在意識の浄化作用。自然現象。体の傷が回復するのと同じ。心の傷が回復しているだけ。これまで潜在意識のなかに溜まったいた不要なものが解放される。時代のエネルギーによって、これから急激に解放されていく。普段は固まっているものも、エネルギーが入ると動き始める。潜在意識の襞(ひだ)から離れ始める。それは、洗剤のCMに見られるようなもの。洗剤によって、汚れが剥がれて浮き上がる。浮き上がった汚れは、濯(すす)いで流すだけ。それを再び衣服に付ける人はいない。それとまったく同じこと。潜在意識から剥がれ落ちようとする悪夢は、そのまま流せばいい。慌てて、また掴まないこと。掴めば、また潜在意識の襞にしまわれてしまう。出てくるものは、ただ出してあげればいい。極めて単純。ただ見守っていればいいだけ。嫌な記憶が解放されているだけ。人は、嫌な記憶を潜在意識の奥にしまっている。見たくないものには、蓋(ふた)をしている。日常に現れないように、無意識に抑え込んでいる。しかし、それは潜在意識の底で生きている。悪夢に限らず、フィードバックは起きる。似たような状況が起きると、昼間でも現れたりする。記憶とは、本来そのようなもの。役に立つものや危険を知らせる役目。役に立つ記憶は、問題ない。しかし、悪夢が再現されると、人はパニックに陥りやすい。しかし、それは単なる夢。過去の記憶。そういうことを深く理解することだろうか。そして、悪夢が起きても、静かに見守っていることだろうか。何もすることはない。慌てないで、ただ見守っていればいいだけ。もちろん、夢のなかでは、そんなに冷静ではいられないかもしれない。夢のなかでは、この日記のことを覚えていないかもしれない。しかし、しかし・・・明確に決意すれば、それは夢のなかでも働く。夢のなかでも冷静に見守ると決めること。夢のなかでも常に霊静であると決意すること。そうすれば、そのようになっていく。強く明確に決意すれば、それは夢のなかでも生き続ける。実は、これは夢のなかだけに限らない。日常生活でも応用できること。問題は、冷静さをなくすこと。ポイントは、慌てないこと。いかなる事態が起きても冷静であれば、なんとかなる。霊静であることが、何よりも重要。それが生きる基本スタンス。それは、昼夜を問わない。夢とは、潜在意識の開示。夢のなかで霊静でいられたら、合格。いくら頭でわかったつもりになっていても、夢のなかではごまかせない。夢では、ありのままの自分が出てしまう。昼間は建前で過ごせても、夢のなかでは本音が出る。夢のなかまで昼間と同じ行動が取れたら、それは本物。昼間と夢のなかが違っていたら、それは偽物。まだ本当の理解には達していないということ。夢のなかでは嘘をつけない。夢のなかでは本当の自分が出る。浄化が進めば、夢のなかもきれいになる。美しい夢を見るようになる。大多数の人は、潜在意識にドロドロしたものを抱えている。それが、これから一斉に噴き出してくる。それは、個人に限らない。人類の潜在意識も一気に浄化へ向かう。社会的にも混乱が起きる。個人的にも混乱する可能性が高い。そういう時に最も大切なことは、霊静であること。パニックに陥らないこと。霊静であれば、アセンションは近い。パニックになれば、アセンションは遠い。極めて単純。自分自身が試される。日頃の理解が本物かどうかがわかる。頭だけの理解であれば、夢のなかで霊静ではいられない。夢のなかでも霊静に見守れるようになったら、アセンション合格。日常生活も霊静に違いない。夢のなかでパニックにならないこと。起きてくるものを霊静に見守ること。何もしなくていい。ただ静かに見守っていればいい。ぜひトライしてほしい。最初はうまくいかないかもしれない。うまくいかなかったら、更に強く決意する。霊静でいられるまで、何度も決意を繰り返す。霊静に見守れるまでチャレンジ。日々挑戦。昼も夜も。顕在意識でも潜在意識でも。そのように生きていたら、やがて不動の霊静さが身に付く。それが、何よりも貴重。生きる基本姿勢。アセンションのための必須条件。それは、この世だけのものではない。あの世に行ってからも役に立つ。どんなところでも役に立つ。宇宙で生きる基本スタンス。『身に起きる ありとあらゆる 問題は 潜在意識の なかにあるもの』『霊静で あれば何でも 過ぎていく 潜在意識 解けているだけ』『霊静で あればいかなる 事態にも 臨機応変 対応できる』『パニックに なればすべてが 混乱の 渦に呑まれて 自分失う』『霊静で あると心に 決めること 深く決めれば それが働く』『霊静に 見守れるなら 問題は 滞りなく 解決される』これが日記を書き始めて1477日目の心境。
2009.01.17
コメント(10)
今日の屋久島は、穏やかに晴れている。暖かい。室温が、20度近い。久しぶりに晴れたので、水を汲みに行く。ヤクスギランドから先は、雪のため通行止め。そのため、いつもの水ではなく、もっと下の方で探す。かなり下の方に、美味しそうな水があった。道路から簡単に降りられる。冷たい!けれども、美味しい。雪解け水だろうか。体に染み透る。山の水を飲むと、体が生き返る。細胞の一つ一つに浸透する感じ。最高に美味しい。何よりも美味しい。アセンションのための最低条件の追加。それは、物事をネガティブに捉えないこと。ポジティブに捉えろとは言わない。事実のみを捉えるように。起きてくる現象をネガティブに捉えている限り、人生は暗く重たい。起きてくるのは、事実のみ。それをどうして、わざわざネガティブに捉えてしまうのだろうか。それは、癖としか言いようがない。親からの刷り込みだろうか。それとも、社会通念だろうか。あるいは、人類の共通無意識だろうか。いずれにしても、潜在意識のなかにインプットされているパターン。物事を一切、ネガティブに捉えない。事実ベースで生きる。解釈しない。解釈は、思考の次元。ただ事実と共に生きる。良い、悪いと判断しない。プラス、マイナスと区別しない。ただ事実があるだけ。そうすると、起きてくる現象に振り回されなくなる。事実をしっかり受け止められるようになる。現象に翻弄されて、自分を見失うことがなくなる。しっかり自分自身にグランディングできる。起きてくる現象を、一切、ネガティブに捉えないと決めることだろうか。もしネガティブに捉えている自分に気づいたら、即座に解釈や判断をやめる。ニュートラルに戻す。事実ベースに戻る。そのように生きていれば、現象に振り回されて一喜一憂しなくなる。静かに安定して生きられるようになる。外側に翻弄されて自分の主体性を喪失することがなくなる。落ち着いて内にあるものを表現できるようになる。大切なのは、外側の現象ではない。目に見えるものではない。内にあるもの。目には見えないもの。内在する無限の可能性を外に表現する。ネガティブに物事を捉えていると、内在する可能性が開かない。物事をネガティブに捉える時、心は閉じてしまう。そうなると、奥にあるものを表に出すことができない。事実がある。その事実を思考が、ああでもない、こうでもないと捻(ひね)くり回す。それで頭のなかがゴチャゴチャになる。事実ベースで、頭を整理整頓する必要がある。自分のなかからネガティブな判断や解釈を手放せば、人生は楽に生きられる。ネガティブがなくなると、人生がまるで違ってくる。一気に春が来たような感じになる。もう暗い冬とは、縁が切れる。物事を一切、ネガティブに捉えないと決めることだろうか。そうすれば、人生が変わる。ネガティブに捉えている限りは、アセンションは難しい。なぜなら、そんな重たい状態ではアセンション=上昇は無理。上昇ではなくて、下降してしまう。重たいものは、すべて手放す。軽やかになって、飛翔(アセンション)していく。蛹(さなぎ)から蝶になる。『解釈と 判断により 動揺し ネガティブになる 自我の人生』『ネガティブな 判断・解釈 すべてやめ 事実と共に 生きてゆくこと』『一切の ネガティブ要素 手放して 軽く明るく アセンションする』これが日記を書き始めて1476日目の心境。
2009.01.16
コメント(2)
ここ数日、自分の背後に別の存在を感じている。それは、菩薩と如来を足して二で割ったような感じ。とてもやわらかな表情。静かに微笑(ほほえ)んでいる。夜寝る時に、よく感じてみた。その存在からは、やさしい慈愛のエネルギーがあふれ出ていた。そのエネルギーは、波であり粒子。金粉のようなこまやかな粒子が、波になって押し寄せてくる。慈愛のエネルギーが、こちらの全身に浸透する。細胞の一つ一つにまで浸み渡る。やがて、慈愛のエネルギーと融合する。深い深いやすらぎがある。その存在に、意図や目的はない。ただ慈愛のエネルギーがあふれ出しているだけ。それが手に取るようにわかる。慈愛が肌で感じられる。こちらは、今生の意識。慈愛の意識からは、ほど遠い。その間には、何層もの意識がある。しかし、慈愛のエネルギーは直に感じられる。そのエネルギーが、この日記を書かせている。いや、正確に言うと、日記の源になっている。日記という形を取るためには、いろんな層の意識が関係している。魂が、これが最もふさわしいと判断したのだろうか。慈愛のエネルギーには、判断や決断はない。人々を救いたいとも、アセンションさせたいとも思ってはいない。そんな思いの世界とは、まったく関係のないところに存在している。ただ慈愛が存在するだけ。しかし、それは慈愛。けっして、慈悲でも愛でもない。慈悲は、ただ見守っているだけ。愛は、実践行為。慈愛は、見守りながら行為を促(うなが)す感じ。慈悲のように何もしないわけではない。愛のような実践部隊でもない。周りの意識を見守りながら、静かに行為を促す。そのエネルギーに触発されて、グループソウルや魂が働く。最終的に実践するのは、今生の意識。つまり、光のkimi。ところが・・・この光のkimiが、なかなか。仕事がない時は、真面目に日記を書く。しかし、仕事があると、疲れて日記を書かない。なんと!真面目にやれ!と、魂やグループソウルは思っているに違いない。そんなことは、気にも留めない光のkimi。可愛いギャルを見て喜んでいる。多くの人に目覚めてほしい。今度こそアセンションしてほしい。というのは、たぶんグループソウルや魂の願い。もちろん、今生に生まれてくる前の光のkimiの願いでもある。しかし、慈愛のエネルギーは、そのような願いは持っていない。ただひたすら慈愛のエネルギーを降り注いでいるだけ。そこから何層もの意識を経て、実際の行為となる。実は・・・この今生の意識に、すべてが集約されている。中心の意識だけが重要なわけではない。意識の中心には、色と空に分かれる以前のひとつの意識がある。末端には、今生の意識がある。それは、巨大な屋久杉のようなもの。今生の意識は、屋久杉の表皮に過ぎない。しかし、表皮がなければ、屋久杉はこの世に存在することはできない。表皮が、屋久杉全体を保護している。この表皮の意識である今生の意識に、宇宙のすべてが集約されている。今生の意識が行動しない限り、現実創造は起きない。今生の意識が目覚めない限り、新しい時代は始まらない。今生の意識こそが、焦点なのだ。それは、つまり、あなた!この日記を読んでいる、あなた!あなたこそが、宇宙のポイント。全宇宙の焦点。あなたの双肩に、全宇宙がかかっている。あなたが動かないことには、宇宙の意志は実践されない。魂やグループソウルは、何もできない。ハイアーセルフでさえ、この世のことは為す術(すべ)もない。ただ今生の意識である、あなただけが現実創造ができる。なんとすばらしいことだろうか。あなたに宇宙の存亡がかかっている。あなたこそが、宇宙の代表選手。慈愛の存在は、静かに微笑んでいる。常にやさしく見守っている。限りない慈愛のエネルギーを降り注いでいる。それは、無上のやすらぎ。その慈愛の存在は、自分でもある。今生の意識としての自分ではない。もっと大きな存在としての自分。人は、慈愛に他ならない。慈愛のエネルギーに包まれて眠った朝、夢を見た。その夢のなかでは、実家のトイレが畳張りになっていた。「あれ、畳張りにしたの?」と、母親に聞いた。そこは、6~8畳ぐらいのきれいなトイレになっていた。目が覚めて考えると、畳張りのトイレなど見たことも聞いたこともない。あれは、どういう意味だったのだろうか。それは・・・慈愛のエネルギーによって、潜在意識が浄化されたということだろうか。この世のドロドロしたものが、慈愛のエネルギーによって溶けてしまったということだろうか。トイレの畳は、新品ではなかった。艶があって、美しい畳だった。豊かな畳だった。慈愛のエネルギーによって、心が豊かに満たされたということだろうか。あるいは、先祖代々の想念が浄化されたということだろうか。いずれにしても、その慈愛の存在は、いつでも感じることができる。常にやさしく見守りながら慈愛のエネルギーを降り注いでいる。慈愛のエネルギーと共に、これからも日記を書いていくのだろう。それが、今の自分のやるべきこと。今の自分ができること。魂やグループソウルの願い。時に今生の意識が顔を出し、ギャルが好きだとか水晶がほしいなどと言っている。それは、ご愛嬌。刺身のツマみたいなもの。リラックスタイム。今生の記憶をベースに文章を書く。これまでの経験を活かして、文章を書いていく。そのために、いろんな経験をしてきた。そのために、生まれる前から、いろいろ計画してきた。それを実践しているだけ。今生の意識は、実戦部隊。宇宙意識の最先端。現実に創造している主体。自分一人で現実創造しているわけではない。一人の背後には、全宇宙が連なっている。全宇宙の代表として、この世で現実創造をしている。人は、全宇宙に他ならない。『全宇宙 背負って生きる 今生の 意識がまさに 現実創造』『今生の 今ここにある 意識こそ 宇宙の夢を 実現するもの』『今生の 意識の肩に 全宇宙 かかっていると 知る冬の朝』『慈しみ 深い慈愛の 存在は トイレ掃除が 得意なのかな?』『今生の 意識は常に オヤジギャグ 言って自分で 楽しんでいる』『慈愛降る 慈愛のなかに 包まれて 慈愛と共に 生きるよろこび』これが日記を書き始めて1475日目の心境。☆ 実は、この日記は布団のなかでも書いていました。 布団のなかでは、もっと感動的な日記になっていました。 しかし、現実に書いてみると、それほど感動的にはなりませんでした。 現実創造は、なかなか難しい・・・☆ 本当は、3時半頃に目が覚めました。 しかし、寒かったので布団の外に出られませんでした。 それで、頭のなかで日記を書いていたのです。 ハー、ナマケモノ!
2009.01.15
コメント(5)
今日の屋久島は、南の方は晴れている。しかし、ここ東の方は、雨が降ったり止んだり。まったく天気が違う。気温も五度以上差がある。昨日の日記に、アセンションの最低条件の一つを書いた。今日は、もう一つ。それは、批判しないこと。非難しないこと。批判したり非難したりすることは、天に唾(つば)しているようなもの。それは、結局、自分に還ってくる。「人を呪わば、穴二つ」自分が苦しくなるだけ。どうして人は、批判したり非難したりするのだろうか。それは、欲求不満をぶつけているのだろうか。あるいは、自己正当化するためだろうか。それとも、自分が満たされていないからだろうか。自分が満ち足りている時、批判したり非難したりする気分にはならない。自分がイライラしている時、周りに当たり散らす。周りの欠点ばかりが目に付く。つい口や手が出てしまう。要は、自分の状態しだい。自分のなかの満たされないものが、外への批判や批難とな.る。自分が満ち足りていないということ。いくら批判や批難をしても、自分が満ち足りることはない。逆に、批判や非難をすればするほど、心はいらだつ。酒でも呑みたい気分になる。呑めば、ヤケ酒。挙句の果ては、自暴自棄。批判しても非難しても、心は満たされない。逆に、淋しくなるだけ。更に辛くなるだけ。遂には、虚しくなるだけ。批判や非難をしている限り、自分が満たされることはない。それは自分のエネルギーを消耗しているようなもの。批判や非難をすればするほど、エネルギーは枯れていく。周りの人たちも遠ざかる。人は、満ち足りている人の近くに寄ってくる。イライラしている人の傍には寄りつかない。人は、心地よいものの近くに行きたがる。批判や非難をしている人の近くは、心地よくはない。批判や非難をしている限り、人生はどんどん惨めになっていく。豊かさが消えていく。淋しさが増えていく。辛い人生となる。他人(ひと)の批判や非難をする前に、自分の心を満たすことだろうか。そうすれば、批判や非難も出てこない。自分が満たされていないから、他人(ひと)の批判や非難をしているだけ。内なる不満を外に出しているだけ。不満と共にいる。不満をわかってあげる。わかって、理解してあげる。深く理解して、抱きしめてあげる。それは、他人(ひと)に対してだけでなく、自分に対しても当てはまる。多くの人は、満たされていない。まず自分を満たしてあげることだろうか。そうしないことには、何も始まらない。自分を大切にすればいい。自分を満たしてあげればいい。自分を抱きしめてあげればいい。そうすれば、批判や非難は自然に収まる。自分が満たされていないから、そのはけ口が外へ向かう。外へ向かえば、みんなの気分が悪くなる。結果、巡り巡って自分も更に苦しくなる。何も良いことはない。他人(ひと)を批判したり非難したりしている限り、アセンションは難しい。そんなことは、アセンション以前の問題。人としての生き方の問題。ところが・・・これがメチャクチャなのが、ありのままの現実。基本的な生き方が、混乱している。道を見失っている。それは、学校教育が未熟だから。知識に偏っているから。生き方を真剣に扱っていないから。上からの押し付けになっているから。決まりきった規範になっているから。もっと一人一人の心の奥を理解する必要がある。生き方を真剣に問い直す必要がある。それを子供のうちから身に付ける必要がある。話し合いを通して・・・しかし、既に大人になってしまった人は、それを自分でやるしかない。自分を見つめ、自分を理解していく。間違っても自分を批判したり非難したりしないこと。それでは何も解決しない。それは、隠れた自己保存。自分を批判したり非難したりすることによって、ダメな自分を正当化している。単に予防線を張っているだけ。自分を弱者にして、自分を守っているだけ。そんな独り芝居をいつまでやっているつもりだろうか。そんなことをしていたら、アセンションなどできるはずがない。もうそろそろ素顔の自分で生きたらどうだろうか。ありのままの自分で生きない限り、アセンションはないのだから。一切、批判や非難はしないと決めることだろうか。他人(ひと)のことも自分のことも。決めてしまえば、楽になる。ひたすら自分を満たせばいいだけ。自分を満たして豊かになればいい。アセンションとは、豊かになること。心身共に真に豊かになること。本来の自分に還ること。本来の自分は、自他の批判や非難などはしないだろう。ひたすら豊かに暮らしているだろう。そういう自分を感じてみればいい。それに比べれば、なんと貧しい今の自分であることか。豊かに生きればいい。豊かさを分かち合えばいい。奪い合う時代は終わった。豊かに楽しく生きる時代になった。『自らの 貧しさ外に 現われて 批判や非難 自他を苛(さいな)む』『内側の 豊かさ外に 現わして 無限創造 豊かに暮らす』これが日記を書き始めて1474日目の心境。
2009.01.14
コメント(4)
今日の屋久島は、寒い。断続的に雹(ヒョウ)が降っている。そうかと思うと、青空も見える。また強風が吹く・・・このところ、天候は荒れ模様。予測のつかない天気になっている。太陽が出たと思ったら、突然、雹が降る繰り返し。まるで先の見えない2009年のようだ。アセンションの絶対条件は?まず、他人(ひと)のせいにしないことだろうか。他人(ひと)のせいにしている限り、アセンションは諦めた方がいいだろう。なぜなら、主体性を放棄してのアセンションはあり得ないから。他人(ひと)のせいにすることは、自分の人生を他人(ひと)に委ねるようなもの。他人(ひと)のせいでは、自分ではどうすることもできない。そんなバカなことがあるだろうか。自分の人生なのに・・・自分の人生が、他人(ひと)のせいで左右される?そんなことがあっていいのだろうか。そんなことが許されるのだろうか。いや、そんなことはあり得ない。それは、自分が主体性を放棄しているから。他人(ひと)のせいにして、責任逃れをしているから。自己正当化のために、他人(ひと)をダシに使っているから。自分で自分の人生を切り開く勇気がないから。自分の人生は、自分で切り開く。その主体性を取り戻さない限り、アセンションは絶対に無理。自分の人生を他人(ひと)のせいにしている限り、意識の飛躍は望めない。すべてのことについて、他人(ひと)のせいにするのをやめることだろうか。そうしない限り、100%アセンションはない。自分に関わることは、すべて自己責任とすることだろうか。自分の主体性を確立することだろうか。自分の意識を他人(ひと)に支配されないことだろうか。他人(ひと)のせいにしないことは、意外と難しい。自分の意識を他人(ひと)に支配されないことは、思うほど簡単ではない。「あなたの方が間違っている!」と、決めつけられた途端・・・意識は動揺してしまう。ひとこと、ひとことに反応する。そして、その動揺を他人(ひと)のせいにする。「あんな言い方をするから・・・」「一方的に決めつけるから・・・」自分の心が反応しているにもかかわらず、それはあの人のせい。自分の心のなかに反応する種があることには気づかない。そのパターンが癖になっている。その癖にも気づいていない。何か起きれば、すべて他人(ひと)のせい。自分の責任ではない。それは、逆に言うと、他人(ひと)に左右されているということ。周りの他人(ひと)に振り回されているということ。主体性を確立することだろうか。自分自身にしっかりとグランディングすることだろうか。一切、他人(ひと)のせいにしないことだろうか。それだけで、人生は大きく変わる。他人(ひと)のせいにしないことは、アセンションの必要最低条件。自分の主体性を確立することが、何よりも重要。ガラスのように傷つきやすくては、アセンションは夢のまた夢。「私って、デリケートだから・・・」とんでもない!ただ単に自己中心的なだけ。プライドが高いだけ。自分に関心が向いているだけ。自分のことしか考えられないから、すぐに傷つく。すぐに自分のことに還元するから、いつでも傷つく。他人(ひと)は、そんなに自分のことを気にしてはいない。自分が自分のことを執拗に気にしているだけ。傷つくのは、他人(ひと)のせいではない。他人(ひと)が一方的に傷つけることはできない。傷つけられるのは、自分に傷つく種があるから。種のない人を傷つけることは、不可能。自分が傷ついたと言っては、他人(ひと)のせいにする。そうしている限り、アセンションは遠い。そうやって、自分を守っているだけ。それでは、アセンションが起きることはない。本当にアセンションしたかったら、真剣に取り組むしかない。もうそんなに時間は残されていない。今、真剣に生きないと、後悔しても後悔しきれないことになる。真剣に生きれば、急速に変化することができる。他人(ひと)のせいにするのを、一切やめることだろうか。それがアセンションのための最低条件。これが、必要最低条件。けっして十分条件ではない。しかし、最低のところから始めるしかない。何よりスタートを切ること。まず最初の一歩を踏み出すこと。大切なことは、もう他人(ひと)のせいには しないと決めること。自分の人生は、自分でクリエイトすると決めること。決めれば、変わる。決めれば、人生は変わり始める。いかようにも自分の人生をクリエイトできる。もう他人(ひと)のせいにはしない。自分の主体性を確立する。自分の人生は、自分で創造する。そう決めること。真剣に決めること。そうすれば、人生が変わり始める。転換が起きる。新しい時代に近づく。『気に入らぬ ことは何でも 他人(ひと)のせい 自分はいつも 安全地帯』『悪いのは みんな他人と 決めつけて 誰か助けて くれるの待つわ』『うつむいて 弱いふりして 待ってても 誰も救いに 来てはくれない』『助けると 言って来るのは 下心 持った詐欺師か 新興宗教』『アセンション すればなんとか なるかしら やさしい人に 出会えるかしら』『主体性 放棄しすべて 他人(ひと)任せ 誰かわかって くれないかしら』『いつまでも 待てど暮らせど 鬼ごっこ ここにいるのを 見つけてほしい』『主体性 確立せねば 人生の 波に呑まれて 溺れ死ぬだけ』『他人(ひと)のせい やめない限り 人生は 自分の手では 切り開けない』『アセンション したいのならば 他人(ひと)のせい 即刻やめて 自分を生きる』これが日記を書き始めて1473日目の心境。☆ 実は、「1434日目」が二日間あることが判明しました。 つまり、1日分ずれていたのです。 そこで、今日の分で調整することにしました。 順当なら今日の日記は1472日目となるところですが、1日分スキップします。 これで正確になるはずです。
2009.01.13
コメント(5)
昨夜は、満月が顔を出した。今回の水晶祭りに出ている水晶たちを月光浴させた。それにしても、満月の輝きのすばらしいこと。光の強さに圧倒される。先月の末に屋久島に引っ越して来た人がいた。その手伝いを一週間ぐらいした。その時に感じたのは、水晶のすごさ。改めて水晶を見直してしまった。自分が住んでいる家は、光り輝いている。その引越し先の家に行くと、普通の家。その違いが、よくわかった。その家をもう少しバージョンアップしたかった。光に満ちた家にしたかった。そこで、自宅にある水晶を三個持っていった。それは、自宅でもベストスリーと言えるぐらいの大きなもの。それを新しい家に置くと・・・置いた途端、家の雰囲気が変わってしまった。水晶の偉大さに、改めて驚く。まったくエネルギー場が一変した。その家の淀んだ空気を一瞬でクリアーにしてくれた。水晶があるだけで、まったく感じが変わる。これには、本当に驚いた。いつも水晶に囲まれて暮らしているので、このような劇的な変化は体験したことがなかった。恐るべし水晶効果!水晶は、クオーツ時計があるくらい波動が一定している。水晶は、エネルギーが集中固体化したもの。それだけに強く凝縮されており、安定している。揺らぐことのないクリアーな波動を発し続けている。そのピュアーな波動が、家のエネルギー場に影響を与える。家のなかに置いた途端、雰囲気が変わったのには本当にビックリした。水晶の存在感に感服!もっとも、20cmほどもあるものを三個も持っていったからということもあるかもしれない。いずれにしても、水晶のパワーは抜群。その集約されたエネルギーは、半端ではなかった。有効に活用すれば、本当に役に立つ。それをつくづく感じた。人に内在する可能性と水晶の持っている性質が一致する時、大いなるサポートとなる。 たとえば、自分の身心を浄化したい時は、無色透明のポイント。やさしさに気づきたかったら、ローズクオーツ。真の豊かさを体験したかったら、シトリン。宇宙と繋がりたかったら、カテドラルクオーツ。内なる光に目覚めたかったら、ゴールドルチル。数え上げたらきりがない。それぞれ特徴を持った水晶が、たくさんある。しかし、水晶であれば何でもよいということではない。やはり、TPOというものがある。力強く生きたい時にローズクオーツを持っても、サポートにはならない。元気になりたい時に黒系の水晶を持ったら、逆に沈んでしまう。心が興奮している時には、黒系の水晶は落ち着く。やさしくなりたい時には、ローズクオーツは役に立つ。それぞれの水晶の性質を理解して使う必要がある。今の自分にとって必要なエネルギーをサポートしてくれる水晶を手にした方がいい。水晶には、たくさんの種類がある。それぞれが独自の性質を備えている。それをうまく活用することだろうか。そうすれば、水晶を使わない時よりも遥かにスムーズに事が運ぶ。気がついたら、望み通りになっていたという感じ。もちろん、本人の努力も必要。しかし、真剣に生きれば、気がつかないうちに成就している。水晶が、人知れずサポートしてくれている。水晶は適切に使えば、人に内在しているものを増幅し、それが花開くのをサポートしてくれる。 人と水晶とのコラボレーション。水晶も人をサポートできて喜ぶ。人もサポートされて喜ぶ。人は、人とだけ生きているわけではない。植物とも鉱物とも動物とも一緒に生きている。それらと共に生きることだろうか。協力しながら生きることだろうか。地球のために。人々のために。自然のために。宇宙のために。自分を含めたすべての存在のために生きることだろうか。自分のためだけに生きるのは、もう古い生き方。そんな時代遅れの生き方は、やめることだろうか。新しい時代の生き方を始めることだろうか。みんなが幸せになる生き方。共に幸せになっていく生き方。地球上のすべての存在と共に生きる生き方。お互いに助け合いながら生きる生き方。『自分だけ よければいいと 思うのは 時代遅れの 古い生き方』『みな共に 幸せになる 生き方が 次の時代の 人の生き方』『水晶と 一緒に開く 可能性 内にあるもの 外に現わす』『水晶は 人の望みが 叶うのを 見守りながら サポートしている。』これが日記を書き始めて1471日目の心境。
2009.01.12
コメント(3)
昨日からの寒波で、目の前の山には雪が積もっている。久しぶりに見る雪山は、とても美しい。今日は、満月。はたして月は出るだろうか。「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、今日から山羊座の水晶祭りが始まっている。今回も色とりどりのものが、20組出ている。そのなかに観音様が入っているものと、金龍が入っている水晶がある。前回も観音様は出たのだが・・・前回出たものは、その形が観音様に似ているクラスターだった。今回のものは、ポリッシュされた水晶のなかに入っている。正確に言うと、ガーデン水晶だろうか。しかし、その形が観音様に酷似している。金竜の方は、似ているというレベルではない。まさにゴールデンドラゴンそのもの。まるで生きている龍に見える。龍神様が飛んでいる!水晶のなかに金龍がいるのは、これまで見たことがない。しかも、角も眼も足もある。おまけに髭まで付いている。写真で見ると、それらがはっきりとわかる。華僑の世界では、金龍はとても尊ばれる。風水的にも、金龍は偉大な力を秘めている。運気を上昇させる。金運をもたらす。こちらは、彫刻したのではない天然のもの。しかも、まったく研磨されていない美しい水晶。その中に見事なゴールドルチルの龍が浮き出ている。これは、もしかすると、とてつもないものかもしれない。購入したサイトでも、そんなことは一言も書かれていなかった。届いた後も、これまで気がつかなかった。水晶祭りに出そうと思って、写真撮影して初めて気づいた。ということは・・・この龍は、今回初めて認知されたということ。これまで水晶の中で眠っていた。それが、初めて陽の目を見たことになる。つまり、これからこの龍は活躍する。不思議なことがあるもの。天然の水晶の中に龍が住んでいるとは・・・小さいけれども、肉眼でも確認できる。今日のトップ写真では、その詳細まで見ることができる。こちらは、オークションになっている。最初は、購入価格の66000円で出すつもりだった。しかし、龍が住んでいるのがわかって、急遽、オークションに切り替わった。さて、いくらで落札されるだろうか。華僑系の人が見たら、一億円ぐらいにはなるだろうか。なにしろ生きている龍だから。と、まあ、初夢みたいなことを思ったりもしている。いやはや、これは宝船かも?この龍は、ほぼ水平。天に登っていれば、昇竜。トントン拍子の出世。あるいは、天と繋がれることを意味する。下に向いていれば、天のエネルギーを地上にもたらすことができる。天をバックに絶大な富と権力を手にすることができるかもしれない。しかし、この龍は水平。それは、どういうことを意味しているのだろうか。それは、今ここということだろうか。今この瞬間のすばらしさに目覚めるということだろうか。あるいは、身近な価値に気づくということだろうか。足下に幸せはあるもの。いずれにしても、今ここ。永遠の今ここ。その重要さに目覚めさせてくれるに違いない。それが水平な竜の意味ではないだろうか。ゴールドルチルというのは、この世的にもスピリチュアル的にも使える。この世的に使えば、富貴をもたらしてくれる。そのため、華僑の間では非常に珍重されている。特に大きな取引の際には、ゴールドルチルのブレスレットをはめることになっている。それは、先祖代々引き継がれているもの。ほとんど家宝に近い。最近の中国の成金も、盛んにゴールドルチルを購入している。そのため、ゴールドルチルは年々価格が上昇している。特に質の良いものは採れなくなっているので、上昇度が激しい。元々ゴールドルチルは、美しく結晶しているものは少ない。そのため、ほとんどが加工される。特に中国では、風水的な加工を施す。ゴールドルチルは、ブラジルで採れる。その大部分を中国系のバイヤーが買い占めている。日本に流れてくるのは、ほんの一部。大多数は、中国で消費される。中国に渡れば加工されてしまうので、原石は極めて貴重。日本では、どちらかというと原石の方が好まれる。そのため、わずかながら質の良い原石も流れてきている。今回のものは、そのなかでも特級品。美しい六角形に結晶している。まるで磨いたかのような照り。剥離した跡のないゴールドルチルは珍しい。それに、ものすごいルチルの量。これだけ揃ったゴールドルチルは、滅多に見ることはできない。最高レベルのゴールドルチル。それだけでもすばらしいのに、なんと龍まで住んでいる。これは、超貴重!スピリチュアル的に使えば、宇宙と繋がれる。宇宙からのエネルギーを自分のなかに取り込むことができる。地球的な生から、宇宙的な生へ転換する。まさに水晶の王者のような水晶。さて、いくらになるのか楽しみではある。軽い気持ちで楽しめばいい。ほとんどゲーム感覚。一億円ぐらいになったら、神殿でも建てようか・・・『一億の 夢を背中に 龍が飛ぶ ゴールドルチルの 金の龍神』これが日記を書き始めて1470日目の心境。
2009.01.11
コメント(1)
今日の屋久島は、寒い。昨夜から断続的に雹(ひょう)が降っている。雨も風も強い。山の方は、雪が積もっているに違いない。人は、迷子の迷子の子猫ちゃん。名前を聞いてもわからない。お家を聞いてもわからない。泣いてばかりいる子猫ちゃん。なぜこうなってしまったのだろうか。それは、ふるさとを忘れてしまったから?自分の本質を忘却してしまったから?自分の出自(しゅつじ)がわからなくなってしまったからだろうか。逆の言い方をすると・・・個になりきってしまったから?肉体人間になってしまったから?。物質にのめり込んでしまったからだろうか。個になりきった時、全体がわからなくなる。しかし、これは人に限ったことではない。宇宙の根本的な構造。空から色が生まれたことによる歪(ひずみ)。色=個だけになってしまえば、宇宙の孤児となる。全体を忘れれば、調和は難しい。空の意識を持った個でなければ、迷子の子猫と同じ。それは、人であろうと神々であろうと変わらない。個そのものになりきった時、構造的な問題が生じる。しかし、個でなければ現実創造はできない。個であると共に全体である必要がある。その時に初めて調和ある現実創造ができる。空から色が飛び出した時、今のようになる種があった。色だけになる時、色の世界は混乱する。空と共になければ、バラバラの宇宙ができあがってしまう。それは、地球に限った問題ではない。神々さえ争い合った。源を忘れた神々は、個々バラバラの存在。色になりきったものに調和は望めない。個であると同時に全体であることは、宇宙の原理原則。この原理原則を忘れる時、すべての存在は宇宙の迷子となる。それは、いかなる次元においても言えること。地球の現状は、そのミニチュア版でしかない。全体を忘れた個は、混乱の種。人は、肉体と自己同一化して生きている。肉体を自分自身だと思い込んでいる。肉体は、独立している。故に、自分も独立していると思い込む。確かに肉体と共に成長した意識は、独立している。それが、自我。自分の身を守ることを最優先とする意識。自己保存こそが原理原則。それぞれの自我が、ぶつかり合う。その時、世界は弱肉強食。いつ寝首をかかれるかわからない修羅の巷。それが、世界の現状。全体を忘れた個は、自分しか見えない。あるいは、自分の周りしか見えない。地球全体や宇宙全体に意識が及ぶことはない。意識が及ぶのは、それを支配したい時だけ。その支配は、身の安全を図るためのもの。自己保存こそが、個に徹した者の原理原則。それは、果てしない争いと苦しみをもたらす。心がやすらぐ時はない。人は、心のやすらぎを求めて旅に出る。真に心がやすらげるところを探し歩く。数えきれないほどの人が、そのようにしてきた。それが、人類の遺産となっている。仏教やキリスト教のように真理を説いた教えが残っている。しかし・・・それらもまた物質化してしまった。教えは形式となり、形骸化し、いのちをなくしてしまった。固まって物質化した真理に人を救う力はない。物質化したということは、全体から切り離されたということ。全体は、固定化することはない。現象化する前の空は、ただゆらゆらと・・・固定化すれば、わかりやすい。形に見えるようにすれば、多くの人が信仰しやすい。そうやって、仏像やキリスト像ができあがった。しかし、それは生きているものを固定化すること。固定化とは、全体から切り離すこと。現実創造とは、常にその危険をはらんでいる。固定化したものに囚われれば、その瞬間に全体から離れる。実際は・・・すべては、瞬間・瞬間のもの。色と空は、別々のものではない。現実創造も瞬間的なもの。次の瞬間は、別のもの。固定化すること。囚われること。過度にのめり込むこと。それが、過ち。しかし、固定化することこそが、物質化。波動を下げてゆるやかにすることこそが、多様化。次元が下がるごとに、全体から遠くなる。個別化する度に、全体から遠ざかる。この絶対矛盾。にもかかわらず、個であり全体であるとは?調和の道は、それしかない。では、どうすればいいのだろうか。色と空に片足ずつ置くことだろうか。個と全体を同時に生きることだろうか。色即是空・空即是色を自分自身で体現することだろうか。それ以外に真実に生きる道はない。色だけに足を置けば、転んでしまう。空だけに足を置けば、現実創造はできない。片足ずつ置いた時に、初めて調和された現実創造が可能となる。現実を創造し、それに固執しない。過度に囚われない。握って放さないと、色そのもの。色になりきれば、物質の虜となって宇宙の孤児。色は、あくまで楽しむもの。のめり込むものではない。のめり込めば、物質化、固定化の道。生きたいのちが、死んでしまう。正確に言うと・・・死んだわけではない。波動が落ちて、更にゆるやかになっただけ。超ゆるやかなものを、死と呼ぶ。実際は、超ゆるやかに変化している。固定化、物質化と言っても、程度の差。波動を遅くしているだけのこと。遅くして、長く楽しんでいるだけの世界。しかし、長引けば、それにのめり込む人も出てくる。のめり込めば、全体との繋がりが切れてしまう。そうやって、自分のふるさとを忘れた肉体人間ばかりとなった。それも無理からぬことではある。宇宙の構造だから。意識の波動が遅いからこそ、物質に埋没する。しかし、意識の波動を遅くしなければ、物質を扱うことはできない。波動を遅くしながら、物質に埋没しないことは可能だろうか。この絶対矛盾を解く鍵はあるのだろうか。多層多次元のなかを貫く一本の線。命綱。それこそが、神の分霊(わけみたま)。空と直結する意識。多くの次元ができる前の、ひとつの意識。現象化以前。色が生まれる前。何もなかった時。その意識と共に現実を創造することだろうか。空の意識と共に、この世の意識を生きることだろうか。空でありながら、色でもある。それ以外に調和の道はない。昨夜、自分自身が大きな屋久杉のように感じた。真っ直ぐに天に伸びる屋久杉。どこまでも高く、大きく・・・にもかかわらず、しっかりと大地に根を下ろしている。表皮以外は、自分ではない。この世の意識は、屋久杉の皮のようなもの。内部の意識は、自分であって自分ではない。その中心は、ひとつに繋がっている。表皮は、この世の次元。内部は、更に深い次元。最深部だけが、次元を超えたひとつのところ。それは、宇宙の構造に同じ。一人一人が、巨大な屋久杉。表面意識もあれば、神の意識も持っている。表面意識だけで生きれば、物質的な生となる。固定的な遅い人生となる。過去に執着し、物事に囚われ、引っ掛かりばかりの人生となる。傷つき、悩み、苦しむ人生となる。現象世界に囚われれば、人生は悲苦の巷。空をベースに生きない限り、救われることはない。色即是空・空即是色を体得しない限り、目の前の現象に翻弄される。色と空を同時に生きない限り、固まってしまう。創造したものに囚われ、現象に振り回される。無限の自由自在を生きることはできない。色であると同時に空であること。個であると同時に全体であること。現実を創造しながら、そのすべてを見守っていること。結果に囚われないで、刻々を生きること。迷子の迷子の子猫ちゃんは、自分のふるさとを見つけ出すことができるだろうか。青い鳥を探し回った者たちは、希望の虹を掴めるだろうか。砂のお城を創っている子供たちは、それが波に呑まれて消えていくことを知っている。知っていながら、せっせと創り続ける。なぜ?なぜなら、それが楽しいから。それが、神遊びだから。神の子たちは、今日も浜辺で遊んでいる。『肉体と 共に成長 することで 個となりきって 生きる人生』『個の意識 だけで生きれば 人の世で 心やすらぐ 時はないもの』『個であって 全体である その時に 共にやすらぐ 世界生まれる』『個であって 全体である ことにより 調和に満ちた 現実できる』『ゆるやかな 波動の世界 現実は 物質化して 楽しむところ』『波動落ち 意識が固定 する時に 過去に囚われ 今を忘れる』『物質に のめり込む時 カナリヤは 歌を忘れて 虚しく生きる』『物質の 遅い波動に ありながら 高い波動の 意識で生きる』『表層の 意識と共に 深層の 深い意識で 生きるしかない』『肉体の 意識と共に 個を超えた 意識を持って 創る現実』『静けさの 深い意識は 色を超え 空に繋がる 己がふるさと』これが日記を書き始めて1469日目の心境。
2009.01.10
コメント(5)
今日の屋久島は、不思議な天気だった。一日中、断続的に雨が降っていた。時に太陽が顔を出し、青空も見えた。しかし、気がつくと、また雨になっていた。「あやまち」とは、何だろう。漢字で書けば、「過ち」となる。即ち、過ぎたること。過ぎたることとは?人類は、この物質次元に地上天国を創造しようと思ってやって来た。地上天国を創るためには、まず物質次元を学ぶ必要があった。食べる必要があり、着る必要があり、住む必要もあった。衣食住を確保するなかで、人類は物質の性質を学んでいった。ところが・・・いつの間にか物質に魅了され、物質の虜となってしまった。食欲や性欲の奴隷となった。物質次元の快感に溺れてしまった。気がつけば、人類は、なぜここにいるのかがわからなくなっていた。何のために生きているのかが見えなくなっていた。ただ身の安全を確保することだけに汲々として生きていた。ただ快を求め不快を避けることだけに専念していた。「過ぎたるは及ばざるが如し」過度に物質にのめり込んでしまえば、ミイラ取りがミイラになってしまう。考えることも必要だが、考え過ぎればノイローゼーになる。身の安全を確保することも必要だが、それだけを気にすれば恐怖に縛られる。集中して取り組むことも必要だが、それが過ぎれば「木を見て森を見ず」になってしまう。過度の集中は、固執や執着を生み出す。力を入れないと曲がらない。しかし、力を入れ過ぎれば折れてしまう。「過ち」とは、過ぎること。やり過ぎて自分を見失うこと。人類の最大の過ちは、物質にのめり込み、自分の本質を見失ったこと。しかし、それもまたプロセス。過ちに気づいたら、改めればいいだけ。過ぎたものは、中心に戻す。両極端に行き過ぎたたものは、中心に戻すのみ。それを仏教では「中道」、儒教では「中庸」と言う。しっかり自分自身にフォーカスすることだろうか。自分の中心にフォーカスすることだろうか。そして、物質に過度にのめり込まないことだろうか。しっかり自分をキープしながら、物質次元を学ぶことだろうか。自分をキープするとは、霊静であること。霊静とは、霊性であると共に冷静であること。静かにすべてを見守る意識。静かに自他を見極める意識。人類は霊静さをなくしたために、今日のような混乱状態に陥った。自らの本質を忘却したために、迷子の子猫ちゃんになってしまった。「あなたのお家はどこですか」答えられない子猫ばかり・・・考えることも必要。しかし、考え過ぎない。食べることも必要。しかし、食べ過ぎない。過ぎれば、自分を見失う。自分の本質を見失うことが、「過ち」ということ。人類最大の過ちは、霊静さをなくしたこと。霊的な源を忘れてしまったこと。しっかり自分の中心にグランディングすることだろうか。しっかり霊静さをキープして、物事に対処することだろうか。感情に呑み込まれて自分を見失わないことだろうか。恐怖のパニックに翻弄され、霊静さをなくさないことだろうか。人生は、波乗りゲーム。だから大波に乗る必要もある。しかし、波に呑み込まれないように。常に霊静でなければならない。霊静であること。常に自分の本質と共にあること。自分の本質を見失わないこと。しっかり自分自身と共にあること。しかし・・・既に本質を見失ってしまった人は?まだ自分の本質を見い出せていない人は?どうすればいいのだろうか。霊静であること。静かに物事を見つめること。静かな時間を持つこと。自分の本質を感じる時間を持つこと。いつも自分を見守っていること。いつも自分の行動を見極めようとすること。静かに静かに・・・それが、自分の本質に出会う最短コース。何ものにも固執しない。過ぎたるは、自分を見失う道。バランス。調和。すべてを活かす道を選択する。状況をポジティブに捉え、活かして使う。常に霊静であろうと心する。霊静に生きる。『霊静さ なくしたことが 人類の この世における 最大の過誤(ミス)』『物質に 翻弄されて 呑み込まれ 自分自身を 忘れた人類』『人類は 迷子の迷子の 子猫ちゃん 自分忘れて 地上さ迷う』『過ちに 気づいたならば 改める のめり込まずに 自分に戻す』『しっかりと 見守りながら 見極める それが生き方 生きるスタンス』これが日記を書き始めて1468日目の心境。
2009.01.09
コメント(4)
今日の屋久島は、雨。山々の頂(いただき)は、雲に覆われている。そんなに寒くはない。しかし、水晶祭りの写真を撮りたいので、太陽がほしい。昨日のコメントに次のようなものがあった。「『神になった、神人になった』という言葉には、正直抵抗があります。」その気持は、よくわかる。巷には、怪しい神様が五万といる。別に「神」や「神人」にこだわることはない。それらは、言葉に過ぎない。他に適当な表現がなかったので使ったまでのこと。特に「神」という言葉は、手垢にまみれている。「kimi神」も「kimi神社」も、遊びのようなもの。そんなことは、どうでもいい。要は、その中身。中身が、明らかに変わってしまったということ。だから、新人類だけは、残しておきたいと思っている。明らかに旧人類とは違う。まったく新しい人類の誕生。新しい時代の雛型(ひながた)。神々の世界も、人間界とそんなに大差はない。神話などを読むと、人間並みにドロドロしている。人間界は、神々の世界の投影。だから、似たようなもの。そういう神々の世界に未練はない。もっと遥かに自由な領域がある。そういうところに意識のベースを置いて生きる。色が生まれる以前のところ。色が生まれて、初めて空が認識される。空だけでは、認識不能。比較するものがなければ、認識することはできない。元々は、色も空もない、ひとつの世界。そこから色が生まれる。色が生まれて、色の源として空が認識される。ひとつの世界=空の領域から色という現象世界が現われる。その現象世界の波動が徐々に遅くなる。波動が遅くなるということは、変化がゆっくりと進むということ。つまり、固定化していくということ。その極限が、物質世界。それまでに何段階もの波動の違う次元がある。それぞれ波動の違う次元に、それぞれの色の世界が存在する。速い波動の世界が、遅い波動の世界に投影される。宇宙は、多重構造。相似形。地球の現状は、幽界の投影。幽界は、霊界の投影。霊界は、神界の投影。神界は、更にその上の投影。すべては、投影。つまり、グラデーション。波動の違い。どんどん複雑・多様化する無限宇宙。今の地球の現状は・・・元を辿れば、宇宙に因がある。元々ないものが、地球に投影されるわけがない。今の混乱も、元々あったものに違いない。海岸で砂のお城を創る。うまくいかなかったら、すべて壊して、また創り直す。うまくいっても、更にステキなものにするために、壊して創り直す。何度も何度も飽きずに創り直す。それは、子供の砂遊び。ところが、宇宙も似たようなもの。よりすばらしいものを創造するため日夜創り直している。最初から完璧ではない。最初から完璧だったら、そこですべてが終わってしまう。次はない。より精緻に、より精妙に、より美しく・・・創造に限界はない。色の世界は、比較の世界。比較によって、違いが生まれる。黒をバックにした白は映える。白だけでは、面白くもおかしくもない。多様なものを生み出し、創りあげていく。人の個性も同じ。百花繚乱の花々も同じ。天空の星々も同じ。常に新しいものが創造され、新たな展開が起きている。そのプロセスのなかで、まだ未完了のものも出てくる。製作途中のものもある。修正中のものもある。人間の営みは、神々の営みに同じ。神々の営みは、宇宙の営みに同じ。試行錯誤。楽しんでいるだけ。間違ったと思ったら、改めればいい。創り直せばいいだけ。これまでの生き方が間違っていたと気づいたら、生き改めればいいだけ。物創りも自分創りも、まったく同じ。創造は、自由。自由自在。自分の人生は、いかようにも創造できる。人は、神の分霊(わけみたま)。神の一翼を担う者。末端の創造者。物質世界を創造する者。それが、ミイラ取りがミイラになってしまった。物質次元をすばらしい世界に創りあげるつもりが、物質次元の虜(とりこ)になってしまった。物質に魅了され、物質に翻弄されて、自分の本質を見失ってしまった。それが、現状の混乱をもたらしている。人は神の分霊(わけみたま)であるという事実を忘却してしまったがために・・・しかし、それもまた宇宙創造のプロセス。どの次元にもあること。上の次元の投影。宇宙は、試行錯誤。間違ったら改めればいいだけ。もう一度壊して、美しく創り直せばいいだけ。それが、これから始まる建て直し。この世のシステムを、すべて創り直す。そのためには、まず意識の変革が必要。歌を忘れたカナリヤに、歌を思い出させなければならない。宇宙の歌。真実の歌を・・・人は、神の末裔。人は、神の分霊(わけみたま)。人は、神人。人は、神。「神」という言葉を使わなければ、人の本質に目覚めるということ。人の本質は、宇宙。人のなかに無限の空が宿っている。人は、色だけに非ず。人は、色であり空。人は、個であり全体。人は、宇宙の創造者。人は、無限の創造者。自覚。自分の本質の自覚。自分の真実に目覚めること。自分の真実とは・・・それは、言葉を超えている。神や神人などという言葉は、どうでもいい。自分のなかに真実が生きている。今ここに、実際に生きて在る。その真実は、真実を生きる。真実以外を生きることはない。真実を忘れた者だけが、物質にのめり込む。自らのふるさとを忘れた者だけが、物欲に耽る。人は今、己の真実に目覚める時。自らの真実を生きる時。物質にのめり込んでいることに気づく時。もう個だけで生きている場合ではない。個であり全体であるという真実に目覚め、真実を生きる。旧人類から脱皮し、新人類となる。サナギから蝶になる時。地上の頸木(くびき)から解放され、自由に天を舞う時。『あやまちに 気づいたならば 生き直す 自分本位は 苦しみの道』『真実は 己の内に 生きて在る 閉じた扉を 開ければいいだけ』『閉じられた 扉を開ける 鍵こそが 見守りながら 見極めること』『真実に 目覚めたければ 自(みずか)らを 見守りながら 見極めること』『物質の 虜(とりこ)となった 殻破り 翼広げて 天空を舞う』これが日記を書き始めて1467日目の心境。
2009.01.08
コメント(7)
今日の屋久島は、晴と曇の間。明るくて暖かい。過ごしやすい冬が続いている。雪で通行止めになっていたヤクスギランド以降も解除になった。昨日の日記のコメントあたりから、雰囲気が変わってきた。それまでは、まだ2008年バージョンだった。それが、やっと2009年バージョンに変わりつつある。本格的に2009年が始動し出したということだろうか。新年早々、こちらは神になったと書いた。アセンションしたと報告した。それに対するコメントは、半信半疑。それは、無理もない。人間レベルに降りてきて、人間的な日記を書いてほしいというコメントもあった。しかし、それは無理な相談。後戻りはできない。一方通行。引き戻すのではなくて、みんながアセンションする。それが、これからの方向。これからの生き方。それしかない。人は、支配しようとする。自分の思う通りにしたい。自分のテリトリーの範囲にいてほしい。自分の見えるところに囲い込んでおきたい・・・夫婦関係も親子関係も、支配・被支配のコントロールゲーム。会社での人間関係も、まったく同じ。自分の思う通りにしたい。それができないと、不満、イライラ、怒りの爆発・・・人は、あらゆるものを自分のコントロール下におきたがる。それによって身の安全を求める。自己保存志向。肉体保存ベース。それは、根深い。ありとあらゆるところに根を張っている。日常生活の一挙手一投足が、何かを支配しようとする動き。それは、西洋的な考え方に顕著に表れている。彼らは、山を征服しようとする。地球を征服し、自分の思うようにしようとする。自分の都合のよいように、あらゆるものを支配し、コントロールしようとする。それが、欧米の植民地支配の歴史。日本は、元々はそうではなかった。「和をもって尊しとなす」国だった。大和の国は、大調和の国。しかし、人々は、そのことを忘れてしまった。西欧列強と同じようにアジア支配を試みた。その結果は、悲惨な傷跡を今に残している。現代の資本主義も、マネーによる支配とコントロールのゲーム。しかし、それも限界に近づいている。金融資本主義に未来はない。競争による支配・コントロールゲームは、終焉に近づいている。これから断末魔の混乱がやってくる。新しい時代が始まるための荒療治。しかし、外側が変わっても内側の意識が変わらなければ、何の意味もない。外側は、内側の意識が現れた結果に過ぎない。内なる支配・コントロールゲームをなんとかしない限り、根本的な変化は訪れない。逆に言えば、内側から変容しない限り、新しい時代に生きることはできない。自分の内なる支配・コントロールゲームを終わらせることだろうか。夫婦間で、親子間で、あらゆる人間関係において・・・・支配しようとする意識を放棄することだろうか。自分の思うようにしたいという気持ちを手放すことだろうか。これまでは、力によって支配・コントロールが可能だった。しかし、力の時代は終わる。男性原理の時代が終わる。上下関係から、対等に生きる時代に変わる。一人一人の生き方を尊重する。一人一人の個性を尊重する。それ以外に新しい生き方はない。自分の思うようにはできない。自分の思うようにしたいと思えば、悲苦が待っている。それぞれを尊重すれば、悲苦とは縁が切れる。光の時代に支配やコントロールはない。共に楽しく生きるのみ。自分のなかが光で満たされると、周りを支配しようとはしない。自分のなかが満たされないから、周りを支配しようとする。周りを支配して自分の空虚(むなしさ)を満たそうとする。内なる空虚(むなしさ)を外のもので満たそうとする。内にすべての源泉がある。外に求める限り、内が満たされることはない。外のものは、移り変わる色の世界。無常の色に心の安定を求めれば、悲苦が忍び寄るだけ。内側から無限に湧いてくるものにベースを置かない限り、真の安心はない。人のうちには、無限が宿っている。無限創造。大切なのは、創造した結果ではない。それは、愛でて楽しむだけのもの。最も大切なのは、自由に創造できる心。無限創造を可能にする心の状態。結果である色ではなくて、原因である空。空にベースを置き、色を生きる。その時にのみ、尽きることのない豊かさに出会える。自分の内から無限のものが湧き出してくる。一切の心配なく、自由に生きられる。支配・コントロールのゲームから離脱することだろうか。肉体の自己保存ベースから離れることだろうか。そういう自分を見守り、見極め、手放していくことだろうか。新しい時代は、すぐそこにある。『支配して 自分の内に 留めおき 自分の空虚 満たそうとする』『支配して 自分の空虚 満たすのは 古いやり方 上下の時代』『内側に フォーカスすれば 揺るぎない 無限の泉 湧いてくるもの』『内側が 真の光で 満ちる時 コントロールも 支配もいらない』『外に向く 意識は常に 満たされぬ 掴んだ途端 こぼれ始める』『抜け落ちる 砂を掴んで 安心を 得ようとすれば 悲苦が同席』『移りゆく 色にベースを 置く時に 悲苦の涙は 尽きることなし』『空ベース 色は結果と 見極めて 創って遊び 愛でて楽しむ』『肉体に ベースを置いて 生きる時 外へ外へと 意識は向かう』『内側に 無限のものが あるものを 外に求める 人の悲しさ』『内側に ベースを置いて 外側に 内にあるもの 花開かせる』これが日記を書き始めて1466日目の心境。
2009.01.07
コメント(7)
人にとって、悲苦は大問題。ところが、神の視点では、たいした問題ではない。光の片隅の小さな闇でしかない。なぜこうも違うのだろうか。人は、悲苦にしっかりフォーカスしている。光ではなくて、悲苦に意識が向いている。だから、悲苦が人生の大問題となる。意識が光に向く時、悲苦はさしたる問題ではなくなる。光にベースがあると、闇は光の影に過ぎない。闇にベースがあると、闇はお先真っ暗となる。意識のベースをどこに置くかで、人生は大きく変わる。物事の見方が一変する。肉体ベース、自己保存ベースの者にとっては、悲苦は大問題。悲苦の泥沼のなかで生きているようなもの。少しでも自分にとってマイナスの要素があれば、それは悲苦に繋がる。自己中心的なところにフォーカスしていると、自己の利害で即座に悲苦が発生する。軸足を光の場に移すことだろうか。そうすれば、もう悲苦は大きな問題ではなくなる。軸足が物質や肉体次元オンリーでは、悲苦の泥沼から抜け出すことはできない。その世界は、ほとんど底なし沼に近い。光に軸足を移せば、悲苦は心の影とわかる。それは、思い込みや執着がつくり出す錯覚。悲苦に実体はない。幻が自己増殖しているだけのこと。思い込みの幻想ワールド。独り芝居。自縄自縛。自分の尻尾を追いかけまわしている犬。もうそろそろ、そのような錯覚の世界から離脱する時。真実の光の世界にシフトする時。光の世界のなかで、光と共に生きる時。光の世界のなかには、悲苦はまったく存在しない。フォーカスを切り替える。軸足を移す。闇から光へ。物質からスピリチュアルへ。そうすれば、新しい生き方が始まる。悲苦のない人生がスタートする。些細なことに振り回されず、大きな心でいられる。しっかりと人生を見渡せる。『摩訶不思議 光の世界に 住む時に 悲苦は即座に 消えてなくなる』『軸足が 光にあれば 悲苦はない 悲苦は思いが つくる幻想』『フォーカスを 光に取れば 闇はない あふれる光 降り注ぐだけ』これが日記を書き始めて1465日目の心境。
2009.01.06
コメント(6)
2009年の誕生日を期して、意識の状態が一変してしまった。ほぼアセンションしたという感じ。これまでとは、意識の状態がまるで違う。基本的に別人になったような・・・肉体は、変わらない。見かけも変わらない。表面意識も変わらない。では、何が変わったのだろうか。意識の中心が変わってしまった。まるで体のなかに大きな円筒形の別の空間があるような・・・たとえて言えば、透明なプスチックの丸い筒が体を貫いている感じ。意識の中心は、その空間になってしまった。それは、この世の意識ではない。まったく別の次元の意識。この世の言葉では、説明不可能。ただただ透き通っている。こまやかな光の粒子に満ちている。神聖な意識とでも言うのだろうか。三次元から見ると、不可侵の意識という感じ。まったく三次元の影響外にある。その空間が、自分のなかに常時存在している。これまでの意識は、脇に追いやられてしまった。もうどうでもいいような感じ。神聖不可侵の意識が、中心を占めている。その空間は、スーッと透き通っている。この世的なモヤモヤは一切ない。それが、自分のメインの意識。正確に言うと、「自分の」という感じではない。自分の意識ではない神聖な意識が中心にある。それは、神の意識に通じるもの。だから、神人と言った。神人は、新人でもある。なりたての神人=新人。だからこそ、その状態を書くことができる。神人になりきれば、もう書くことはできない。これまでの意識との比較があってこそ、書けるもの。今は、神人見習い。つまり、新人。新人とは、新人類。これまでの旧人類とは、明らかに異なる。アセンションした後の人類の姿。それを早目に体験している。とても不思議な感じ。自分であって、自分ではない。明らかに自分ではない空間がある。でも、その空間に違和感はない。高次元の意識であることは、間違いない。神の意識と呼んでもいい。神とは、宇宙の唯一絶対神ではない。唯一絶対神にも通じてはいるが、神々の一柱という感じ。つまり、八百万の神々の一神。それが、自分の本来の姿。人間は、一人、二人と数える。神々は、一柱、二柱。神人の場合は?一人or一柱?まだ神になりきったわけではない。あくまで神人なので、やはり一人だろうか。それとも、一柱人だろうか。まあ、そんなことはどうでもいいのだが・・・意識は、完全にシフトした。突然、シフトしてしまった。何の前触れもなく。気がついたらシフトしていた。アセンションとは、そのようなものだろうか。これまでとは、明らかに違う。しかし、これまでの意識もある。意識が継続している部分もあれば、断絶しているところもある。年末年始は、少し神がかっていた。神人になって、少し浮き立っていた。まるでピカピカの一年生のように。まさに、新人。新人は、神人。新人は、新人類。新人は、見習い神人。新しい人生のスタート。『神人は 新人であり 新しい 時代を担う 次の雛型(ひながた)』『これまでと 異なる意識 新しい 意識はスーッと 透き通っている』『どのような 事態になっても 中心の 神の意識は 揺らぐことなし』これが日記を書き始めて1464日目の心境。
2009.01.05
コメント(2)
一昨日、「神と人はかみひとえですよ。気をつけてくださいね。」というコメントがあった。「天才とキチガイは紙一重」という言葉は、よく聞く。また、神と名乗る悪魔が多いのも、よく聞く話。しかし、神と人が紙一重というのは、あまり聞いたことがない。しかし、このコメントは、なかなか含蓄に富んでいる。たぶん、書いたご本人は、お気づきではないと思うが・・・「かみひとえ」とは、「神人重」ということ。つまり、 神と人は重なっているということ。「身は社(やしろ)、心は神の分霊(わけみたま)」と、神道では言う。人の真実は、神が肉体に宿った姿。人の精神の源を辿っていけば、神に行き着く。一人一人が、神の分霊(わけみたま)。しかし、世間では、「人」とは、お互いが助け合って生きる姿と解釈されている。「人」という字は、二本の棒がお互いに支え合っているという意味。これは、人間サイドの見方。横の視点による解釈。この見方には、縦の視点がない。神から連なる縦の視点がないと、単なる肉体人間になってしまう。それでも、お互いが理性的に生きられれば、それで問題はない。しかし、現実は、個々がバラバラに自己中心的に生きている。その結果、社会は混乱の巷と化している。それは、横の視点だけでは足りないということを証明している。横の視点だけでは、全体と繋がれない。全体と繋がれない限り、理性だけでは孤独を超えられない。精神の源を辿っていけば、神に行き着く。あるいは、全体に行き着く。全体から、万象万物に分かれている。空から、すべての色は生まれている。人は、霊止(ひと)。肉体に神の霊が止まったもの。まさに、神の分霊(わけみたま)。人は、肉体人間にあらず。人は、全体と繋がる存在。全体は、どんなに分けても全体。人とは、神人重。神と肉体が合体したもの。それぞれが、神。本来は、そういうもの。しかし、今の常識では、人とは肉体人間のこと。横の視点だけで人は生きている。縦の視点と横の視点。その両方が必要。人は神の分霊(わけみたま)であり、お互いに協力して生きる存在でもある。片方だけでは、片手落ち。大多数の人は、自分が神の分霊(わけみたま)であるという自覚に欠けている。頭でわかっている人はいても、実際に実感している人は少ない。それが自分のなかで確立されている人を、「神人」と呼ぶ。自分自身の本質をわかっている人という意味。そういう人は、神であり人でもある。神の意識を持ちながら、人として生きている。神と同通している。自分のなかに神の意識が明確に存在している。それは、頭でそう思い込んでいるのではない。イメージで、そのように想い描いているのでもない。実際に、神の意識が自分のなかで生きている。神と一直線で繋がっている。神人は、一人ではない。八百万(やおよろず)の神々のように、神人もたくさんいる。どれだけの神人が地上にいるかは、わからない。しかし、この変革期のために多数存在しているであろうことは疑いない。人は、本来、神人重神と人は、別々のものではない。人は、肉体に宿った神。全体が、個のなかで生きている姿。人類は、永い間、全体から分離して生きてきた。神を自分の外に置き、恐れ、祈ってきた。そういう歴史が終わる。人は、神となる。神人となる。人は、自分の本質に目覚める。神人重の真実に気づく。人は、神として生きる。『肉体に 宿った神を 人(霊止)と言う 真にわかれば 神人となる』これが日記を書き始めて1463日目の心境。
2009.01.04
コメント(3)
今日の屋久島は、ほぼ快晴。愛子岳の山頂には、真っ白い雪。青空をバックに、その美しいこと。太陽の光で雪がキラキラ輝いている。大晦日には、海から立つ虹を見た。元旦には、島に架かる弓なりの虹を見た。年末年始は、嵐のような天気だった。しかし、三が日の最終日は、すばらしい天気になった。まるで今年を象徴しているかのような天候。どんなに困難な時期があっても、希望の虹は見えている。嵐の後には、快晴の青空が待っている。青空をバックに純白の雪が煌めく。困難であればあるほど、人は磨かれる。不必要なものが抜け落ち、シンプルになる。心も体も、今年は禊(みそぎ)の年。生まれ変わったように美しくなる年。元旦から夫が家を出て行ってしまったというメールが入った。どうしたらいいのかアドバイスがほしいとのことだった。元旦早々・・・思わぬことが起きるもの。何が起きても大切なことは・・・アタフタしないこと。落ち着いていること。冷静であれば、物事は落ち着くところに落ち着く。結果は、どうでもいい。結果は、後から付いてくる。大切なのは、心の状態。心が安定していること。心が安定していれば、怖いものは何もない。落ち着いて対応すれば、道は開ける。どんな困難な状況であれ、乗り越えられないものはない。降りかかってくるものは、自分を磨くための砥石。自分の潜在意識が同意していないことは、起きることはない。乗り越えられないものを、潜在意識が用意するはずはない。だから、どんな困難も乗り越えられる。自分自身を信頼することだろうか。どんな状況であれ、冷静に対応する。そうすれば、ベストの道が見えてくる。最初は試行錯誤でもいい。自分で道を切り拓こうとする姿勢が、道を切り拓く。結果は、重要ではない。どんな状況にも柔軟に対応できる心が、最も大切なもの。その心をベースに、人生の波乗りゲームを楽しめばいい。波は一定していない。ベタ凪の時もあれば、荒れ狂う時もある。大波小波、寄せる波に引いていく波。波瀾万丈。それが人生。波を恐れないことだろうか。波に立ち向かい、波と戯れ、波を楽しむ。上手に波に乗れば、次々と夢が叶う。それが人生の醍醐味。波に呑まれないことだろうか。波を乗りこなすことだろうか。それには、心構えが必要。波を霊静に見守り、見極める。霊静であることが、最も重要なポイント。霊静な心で、人生の波乗りゲームを楽しむ。霊静な意識状態で、この難局を乗り越える。2009年に最も必要なものは、霊静な心。『霊静な 心があれば どのような ことが起きても 乗り越えられる』『霊静な 心を持って 人生の 波乗りゲーム 楽しめばいい』これが日記を書き始めて1462日目の心境。
2009.01.03
コメント(11)
今日から、この日記は五年目となります。この四年間で、精神状態は大きく変化しました。もう四年前の状態ではありません。ほぼ旧人類卒業という段階になっています。今朝は、神人=光のkimiという感じでした。神人は、新人。新人類です。既に旧人類ではない感じです。kimi神社に住む神の人。屋久島の自然を案内するヒーリングガイド。そして、どこにでもいる普通のオジサンです。世俗のなかで、世俗と共に世俗から離れて生きています。2009年が明けて、精神状態は一新されました。ほとんどアセンションした後の状態に近いですね。2008年までとは、まったく異なります。別の次元へシフトした感じです。意識の中心は、神です。その周りに人間的な意識もあります。人間的な記憶を使って、この世の生活も可能です。記憶の周辺に潜在意識の残滓もわずかに残っています。メインの意識が、明らかにチェンジした感じです。もう後戻りすることはありません。新しい意識で生きるしかないでしょう。そういう意味で、新人=神人の誕生です。思ったよりも早く意識が切り替わった感じです。いずれそうなることはわかっていたのですが、予想より早かったですね。2009年は、新しいスタートとなりました。神と人に片足ずつ置いて生きることになりそうです。意識は、神。見かけは、人。それは、この家と同じです。見かけは普通の家ですが、中身は既に神社です。外から見ただけでは、わかりません。外見は、他の人と異なりません。しかし、中身はまったく違います。旧人類と新人類の差があるのですね。その差は、物質に基礎を置くか、精神に基礎を置くかの差です。あるいは、地球に基礎を置くか、宇宙に基礎を置くかの差でもあります。肉体ベースで生きるか、意識ベースで生きるかの差とも言えます。思い込みベースと、事実ベースの差でもありますね。いずれにしても、人類はシフトするでしょう。新しい段階を迎えるでしょう。その先導役を担当しているというだけのことです。それぞれが、自分のペースでシフトしていきます。人生を堪能し、深く理解してシフトすることになるでしょう。そのための一助として、この日記は存在します。この日記を書いている個人が重要なのではありません。書かれている内容を理解することです。理解して、実践することですね。書かれている内容を生きることですよ。そうすれば、シフトが起きるでしょう。それは、書いている本人によって実証済です。今日の屋久島は、太陽が顔を出し始めました。しかし、風が強いですね。2009年は、こんな感じでしょうか。困難のなかでも光の道を歩めば、新しい希望が見えてくるでしょう。困難を乗り越えてこそ、新しい意識が開きます。困難とは、古い意識が引き起こしているものです。古い意識を手放せば、困難は消えていきます。困難とは、思い込みがつくり出す幻想です。幻想から、真実へ。思い込みから、事実へ。外側に振り回される人生から、内側が花開く人生へ。これから大きくシフトしていきます。『kimi神社 神主様は 神の人 見かけはただの 普通のオジサン』『肉体の 社(やしろ)のなかに 神おわす 深き意識の 揺らぐことなし』これが日記を書き始めて1461日目の心境です。
2009.01.02
コメント(7)
新しい年が明けた。屋久島は、激しい雨と風と雹(ひょう)。まさに今年を象徴するような元旦。2009年は、激動の年。心身をシェイプアップするには、最適の年。これまで積もり積もった不要なものを一掃する年。スッキリさわやか。禊(みそぎ)の年。昨日の日記に、今住んでいるところが神殿のように光に満ちていると書いた。今朝、目が覚めたら、ここは既に神社になっている気がした。宇宙空間から見たら、ここは光り輝いているに違いない。地球の神社と呼んでもおかしくはないだろう。ということは、ここに住んでいる人は?既に人間ではない?神様?生き神様?と書いてしまうと、新興宗教になってしまう。教祖様に納まって、のうのうと暮らすことになる。それは既に過去世でやっているので、今生ではやらないことになっている。そのために細心の注意を払って今生の計画を立ててきた。そういう訳で、普通の人として生きる。どこにでもいるオッチャン?オヤジギャグ連発ガイド?プアーな水晶オタク?残念ながら教祖様にはなれずに、普通の人として暮らすことになりそう。しかし、意識は、もうこの三次元にはいない感じ。住んでいるところと共に、既にアセンションしているのかもしれない。今朝は、そんな気になっていた。今年は、心身を更にシェイプアップする。光の体に変えていく。心の方は、光の器にしていく。潜在意識に残っている人間的な残滓を一掃する。必要のないものを整理して、更にスッキリすることになるだろう。たぶん、今と一年後とでは、天と地ぐらいの差があるだろう。そのくらいの変化があるに違いない。それは、個人に限らない。社会的にも激変が起きるだろう。地球全体が、アセンションシフトになっていく。すべてのものが、急速に変化していく。新しい時代の夜明けは近い。 『新しい 夜明けと共に 住む場所も 住んでる人も 新たな次元』これが日記を書き始めて1460日目の心境。
2009.01.01
コメント(10)
全31件 (31件中 1-31件目)
1