PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

プロフィール

kapon2

kapon2

バックナンバー

2024年09月
2024年08月
2024年07月
2024年06月
2024年05月

コメント新着

お気に入りブログ

三河(豊橋、豊川)… New! M-65さん

HC-130J 主翼固定 New! あずま、さん

お札ポーチ 全4種… New! 第三権兵衛丸 漁労長さん

ティーガーエース … mahoroba1234さん

気になったことを調… ASDICさん
2005年03月09日
XML
テーマ: ニュース(99926)
カテゴリ: 教育時事
 本日は、ニート・フリーター生産を食い止めるために、教育システムに何が期待できるかを考えてみる。
 そもそも、この日記は中山文部科学大臣の発言「今の教育機関は、フリーターとかニートの予備軍を大量に生産していることに手を貸しているのではないか」「社会は厳しいということを、子どものころから教えないといけない」を受けてスタートしたのだが、やや漠然とした大臣の発言を勝手に解釈するならば、「競争社会の厳しさを学校で教えておく必要がある」ということだと思う。

 私は、学校に多くの使命を与えることには基本的に反対の立場である。たかだか教師ごときに、学業に加えて、人格形成などあれもこれも押しつけるのは現代社会の悪癖であり、土台無理なことだからだ。過度な期待が学校や教師を逆に潰しているのが現実ではなかろうか。基本は知識(運動能力)の蓄積を行う場所とし、その上で何がプラスして期待できるかを考えてみたい。

 人間個体の道徳観念教育は、まずは家庭で行われるべきものである。道徳観念は親から教わる物であり、家庭によって微妙な差違が生じることが当然あり得る。社会ではこうした差違を、町内会の取り決め、市町村条例、都道府県条例といった風に社会共同体の規模に応じて調整することとなる。子供達にとっては、いわば家庭の次にある社会共同体が学校なわけだ。
 当然、学校では様々な家庭の子供がいるわけであるから一定の社会共同体ルールを定める必要がある。これが「校則」であり、各々が快適に過ごすためには校則を守る必要があるわけだ。この時点で、学校教育における使命に 「ルールを守ること」 を付加することができそうだ。ルールの意味や、それを遵守する意義を学ぶことが可能だ。

 次に学校生活を送るにあたってルールさえ守っていれば済むかというと、そうでもない。個人から共同体へ組織が大きくなるに連れ、全体の利益に供する行為というものが発生してくる。つまり、個人の机やロッカーなど身の回りさえ整理整頓しておけば良いわけではなく、教室や廊下、便所の清掃が発生するということである。これはいわゆる 「義務」 という言葉で置き換えられるかと思うが、義務とは、その行為に対して必ずしも相応の対価があるとは限らないが絶対に行わなければならない行為のこととなる。
 この義務については、家庭内においては、かつては子守や食事作りなど極めて義務に近い「役割分担」があったものだが、現代の生活上ではそうしたものはほとんどないだろう。あったとしても、配膳や食器洗い、風呂掃除、買い物など「お手伝い」の範疇におさまってしまうのではないだろうか。お手伝いはしなくても済むが、義務はしなければならないという違いがある。そういう視点では学校教育における「義務」の存在はかなり重要なものであると捉えることが出来る。

 さて、話を昨日までの企業における新入社員の傾向に戻してみると、(1)自分の能力に過度に自信過剰である、(2)わからないのに聞いてこない、(3)コミュニケーションを取りたがらない、ということであったが、視点を変えてみるとこれは業務の「囲い込み行為」に他ならない。自分の仕事は自分一人で完結させる、他人に関わって欲しくないということであり、業務の評価を独り占めしたいという意図を見て取ることが出来る。この傾向はやはり近年多々見られるようであり、企業の担当者からは共同成績を認めたがらず、個人成績を欲しがる若者が多いという。このことは、「やりがいがない」「自分が認められない」として職を離れる傾向とリンクするのかもしれない。

 上記の傾向は、能力主義が主流となりつつある現在、個人業績を勝ち取ることはある意味死活問題なのだから、時代潮流に乗った行動パターンと言えなくもないが、社会活動は個人業績ばかりではないのは誰もがわかっていることだろう。企業活動の半分以上はルーチン業務であり、いわば義務的業務ではなかろうか。そうした義務的業務は誰かがやらねばならないし、その上で社会は成り立っていることを忘れてはいけないだろう。こうした観点から、義務への理解と義務への忍耐力というものは必要なことと言える。

 学校に話を戻して、社会に出てから経験する義務というものの訓練機関として、学校は適していると言える。義務は決められた行動規範に従うだけのことであるから、教師が人間性や人格形成に各個の資質を要求されることもなく、番人と化せば良いだけのことである。学校の清掃活動のみならず、地域の奉仕活動など義務労役をもっと増やしても良いかも知れない。社会経験の絶対量の増加は、ニート・フリーターの増加に歯止めをかけることができるかもしれない。

 ただし、近年の学校を取り巻く環境は逆行している。教師の権限は抑えられ、課外活動も塾や習い事などで制限される始末。加えて、自由と権利と義務をきちんと使い分けられる教師も少ない。親の意識改革も必要だし、学校の体制づくりも大変な課題がある。しかし、ニート・フリーター世代が40,50歳台になる時代を想像すると、もはや避けては通れない時期に来ているような気がするのは私だけだろうか。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2005年03月09日 11時16分35秒
コメント(0) | コメントを書く
[教育時事] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: