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<サブカル展>中止 「不快な作品」来場者が苦情 東京 東京都渋谷区の西武渋谷店美術画廊で1月25日から開かれていた展覧会「SHIBU Culture~デパート de サブカル」が2日、中止となった。会期は6日までの予定だった。主催の同店は「来場者から『百貨店にふさわしくない作品がある。不快だ』などという苦情が寄せられたため」と説明。一方、出展作家たちは「突然の打ち切りで、説明もあいまい」と不満をもらしている。(毎日新聞) またしても苦情による事業の打ち切りが発生した。近年、企業や役所などに限らず、いたるところでこうしたクレームによる見直しが発生している。これらはいわゆる「善良な市民」による感情や感覚の相違から来る不快感がクレームとして届けられた結果なわけだが、近年の「クレーム文化」にはいささか疑問を感じるものがある。 一般的には、今回の件もしかりだが、展示物に対する価値観の相違から来るものであり、本来ならば「見たくなければ見なければいい」という次元のものである。ただ、百貨店のように公共の目に触れる場所であるが故に、こうしたクレームにつながっているのだろう。それはそれで「善良な市民」の感覚としては間違いではないのかもしれない。 だが、考えても見て欲しい。不快感に思うのも善良な市民ならば、作品を提供する者も、楽しみに観覧する者も、ひいては開催する百貨店職員すらも善良な市民なのだ。そこには単なる価値観の相違が存在するだけなのだ。クレーマーの多くは、いわゆる社会的通念や道徳観を盾に語ることが多いが、この社会的通念や道徳観というものは実にグレーで、うつろいやすいものであることを忘れてはいけない。人間の生活する中で、社会通念や道徳観は時代とともに変化していく。もちろん、こうしたクレームによって社会通念や道徳観が変化することにもなるのだが。 問題は、現在の世の中において「クレーム文化」の及ぼす影響が余りに大きくなりすぎているのではないかという懸念である。クレームは価値観の相違を意見すると言う行為であって、それは一部の提案行為でしかない。本来ならば、提案された側がそれを咀嚼し、人々に与える影響を勘案していくという手順を踏むべきものだが、今回の件を見ても、十分に咀嚼されたようにも見えないし、圧倒的少数の意見に萎縮したようにしか見えない。 民主社会においては、何だかんだ言っても多数決の論理が重要視される。選挙にしても会議にしても多数決で決まったことには従おうという気になるし、逆に少数意見を押し通せば独善主義というレッテルを貼られかねない。 にも関わらず、クレーム文化においてはその論理がいとも簡単に覆されているのが何とも不可思議だ。 このクレーム文化がこんなにも市民権を得ている、いや誰もが見てみぬふりをしているのは、現在の社会体制にも問題があるような気がしている。 例えば、国会での運営を見ていてもわかるが、野党側からのほんの些細な、もっと極端に言えば個人的生活の問題で糾弾され、議員を辞職するケースがここ十数年顕著に見られるようなった。現在約一名のらりくらりと逃げている議員もいるが(笑)、そんな問題で議員を辞職する必要があるのかと疑念を抱く人も多いだろう。だが、その反面それだけの社会的地位なのだから仕方がないかなと思う傍観者的な自分もある。実は、まさにこれがクレーム文化に毒された感覚なのではないかと思っている。何か違うと思いながらも、世間の風潮や雰囲気に飲まれていってしまう。異論を提起することに背徳感を感じさせる世論やマスコミの論調。この繰り返しによって「クレーム文化」がいつのまにか市民権を得てしまったのではないだろうか。 そもそも、こうしたクレーム文化の予兆は20年以上前からもあったような気がする。20数年前、学校現場から不良の姿が消えたことが取りざたされた。いわゆる「いい子ちゃん」が増え、それが没個性にもつながり、ひいては「ゆとり教育」邁進の原動力ともなった。 だが、これは当時から論評されていたように、不良が消えたのではなく、いい子ちゃんの仮面の下、いじめの深淵化、不良行為の潜在化につながっていった。表面上はいい子を装いながらも、裏で悪質ないじめや不良行為を行う。人間関係は希薄化し、互いの距離感を取ることが難しく、いわゆる「ちくり」行為につながって行く。 そもそも人間は異なった個体であるが故に、互いに競争するため「闘争本能」が備わっている。いい意味でも、悪い意味でもこればかりは仕方のないことだ。それまでの見るからに不良は自己の外見や行動で誇示することによって自己の闘争本能を満たしたと考えられるが、いい子ちゃんの不良は陰湿な行為、つまり相手を引きずり落とすことによってそれを満たしている。バレなければいい、相手の苦しむ顔が快感だといった行為は人間関係をより一層希薄化させ、互いの信頼を失っていく。これにネット、携帯文化が拍車をかけていることは間違いない。 この変化の要因の一つとして世代交代があげられた。つまり、戦前世代の親の子供から、戦後生まれの親の子供に遷移したというのであり、戦後の解放された価値観に育てられた子供の変化だというのだ。思うに、戦前の抑圧されながらも忍耐と我慢、寛容さが、戦後の開放によって欧米型の自由と権利を得ると同時に失われていったのではないか。 もちろんこれが全てではないだろうが、少なくとも忍耐と我慢、寛容さが欠如していると指摘されて久しいのは事実だ。他者を引きずり下ろすことによって自分の優位性を保つ行為は、決して豊かで明るい心を醸成はしないだろう。 話をもとに戻すが、今回の件についても、やはり自分の不快感を拒否するため、クレームという匿名性に保護された強圧権力に頼るという行為は、他者を引きずり下ろすことによって自己の優位性を確保する闘争本能の化身ではないかと思えてしまうのである。先にも書いたが、見たくなければ見なければいいのであって、そこに我慢や寛容性さえあれば済む話ではないのか。我慢や寛容でいられないほど逼迫したご時勢であることは理解できるが、そこには他者の気持ちを考えない自己本位さが見える。 また、企業側の姿勢にも課題が見える。直すべきところは直すにしても、クレームの恐怖に戦々恐々とする姿勢は、今後の経済や社会を考える上でマイナス要因になっていくような気がする。クレームがあった場合に、うやむやのうちに無しにするのではなく、きちんと情報公開と意図を示し毅然とした態度で対応すべきではないだろうか。大企業バッシング、公務員バッシングが流行のご時勢だが、このままでは萎縮した社会になっていくだろう。 いずれにせよ、せちがないこのご時勢で、今一度忍耐、我慢、寛容の心で対応できれば、もっと豊かな人間関係と信頼が生まれるような気がしてならない。 批判するのはたやすいこと。許すことは難しいことかもしれない。だが、一人一人が1回づつ許した時、世の中はもっと豊かなに明るいものにならないだろうか。今回の件を見て、日本の行く末に危惧するとともに、自分自身の身の振り方も考えさせられた。
2011年02月03日
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“擁護派”横審委員長も怒!朝青クビにしろ!1月30日7時1分配信 スポニチアネックス 大相撲の横綱・朝青龍(29=高砂部屋)が16日未明に起こした暴力騒動について、横綱審議委員会(横審)の鶴田卓彦委員長(82=元日本経済新聞社会長)は29日、東京・両国国技館を訪れ武蔵川理事長(元横綱・三重ノ海)と会談。会談後、鶴田委員長からは、事実上、協会に解雇処分を求める発言も飛び出した。横審の中でも朝青龍擁護派だった鶴田委員長にも見放され、朝青龍はいよいよ窮地に追い込まれた。(以下略)朝青龍もいよいよ土俵際に追い込まれましたね。確かに朝青龍の横綱としての行動や品格は、私も結構嫌いでした(笑)。ただ、今回の暴行騒ぎでクビにすれば済む問題かなあ、と言うとそうでもないような気がして、またマスコミに煽られているよな微妙な気がします。そもそもの問題はやはり日本人力士の弱体化と外国人力士の台頭にあるような気がしますね。相撲と言う国技が心技体を体現するものだとするならば、その心を理解できない外国人力士を多数入門させている現体制に問題があるのであって、今後再発する可能性は大ですね。どこかで外国人力士を制限しないと体力に勝る外国人に乗っ取られてしまうでしょう(笑)。まあ、外国人力士のおかげで日本の国技相撲が世界で認められているのも事実ですが・・・あと、問題は相撲界のモラル、横綱の品位、品格って何ってことでしょうね。何となく漠然とわかるんだけど、はっきりと定義、明示できる人っているんでしょうか。もともと相撲界って中卒で入門する力士が多く、閉ざされた空間で育っていることが多いわけで、いわゆる社会的な品位、品格とは求める次元も内容も違うんじゃないかって思うんですよね。いわゆる人格者っていうわけでもないですしね。昔の横綱っていつも黙って仏頂面で・・・ってイメージなんですが、それって人間性が高いというわけではなくて、喜怒哀楽を表面にあえて出さない日本人的美徳の表現方法の一つなんですね。天皇陛下のお言葉がかつてそうだったように、頂点に立つものは臣民を惑わせることのないように、あえて感情をあらわさないのですね。そういうことを考えると、朝青龍のガッツポーズや日頃の言動なんかは全然ダメなわけなんですが(笑)もう一つ気になるのは、最近のマスコミ報道ですね。従来の横綱だって人間的に出来てたわけじゃないし、ほんと色々と問題起こしてはいるんですよね。でも、何となくタブー視されて隠されてきたわけで。それが近年の情報公開や隠匿撲滅運動的な社会風潮で何でも暴露されるようになってきてしまった。確かに社会的には公正明大であるべきだというのはわかるんですが、些細なことにはあえて触れないというのも円滑に丸くおさめる大事な手法ではあると思うのです。これまでは、相撲協会がもみ消したり(笑)、マスコミも見て見ぬ振りしたりしてたんでしょうが、そういう体制が崩れちゃった。まあ、ここまで来ちゃうと後戻りはできないんでしょうが、ちょっと見ていて嫌らしい感じですね。まあ、個人的には朝青龍が相撲界というか日本をなめてる感じするんで、クビになっても仕方ないかなと思うんですけどね(汗)。
2010年01月30日
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全裸で寝る遊ぶ…ネット生中継容疑で男逮捕 読売新聞 新潟県警は7日、新潟市東区海老ヶ瀬、無職関川聡容疑者(36)を公然わいせつの疑いで逮捕した。 発表によると、関川容疑者は昨年10月上旬、自分が自宅で全裸で生活する様子をインターネット上で複数回にわたり生中継し、不特定多数の人に閲覧させた疑い。調べに対し「公然わいせつになるとは思ったが、やってしまいました」などと供述し、容疑を認めているという。(中略) 県警は昨年8月、「男が全裸になって生中継している。早く取り締まってほしい」との匿名の投書を受け取り、捜査していた。 だそうで・・・(笑)。変な人がいるもんです。まあ、いろんな性癖の人がいるということでしょうね。で、これはこれでいいんですが、あたしがひっかかったのは後段の匿名投書の部分・・・。「早く取り締まって欲しい」・・・うーむ、何なんだこれは。路上や公共の場など見たくない人々の前で強制的に見せているならば当然のことなのかもしれませんが、今回のは完全にネット上なわけで、むしろアドレス検索して辿っていかないと見れなかった訳ですよね。見たくない人は見なくても済むというある程度の閉鎖性があるにも関わらず投書しちゃうのってあたし的にはどうも・・・。確かに、見てはいけない年齢層のアクセスが可能であるとか、法律上の規制対象であることは否定しませんし、サイバー警察が自ら発見して摘発ならごもっともなことだとは思いますが。あたしはこの「ちくり精神」が日本をどんどん駄目にしていくような気がしてならんのです。屁にもならないような些細な事にまでいちいち反応することも大人げないし、何より全てをカチカチに縛り付けていく行為は、社会ルールの硬直化と画一化の恐怖を感じるのです。常に他人と比較して、同等でなければならない・・・出る杭は打つ、自分も出ない・・・つまらん世界です。「見て見ぬふり」、「大目に見る」こうした言葉は今や悪の代名詞と化しつつあるような気もするのですが、やはり人間円滑に生きて行くには寛容さやおおらかさが必要なんではないでしょうかねえ。人のことなんてどうでもいいんです。自分はどうなのってことが大事なんでは・・・。
2010年01月08日
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なんだか最近事業仕分けが流行りのようで・・・(笑)。 でも、既に多くの人から指摘されているように、ほんとうにそれでいいの的一刀両断採決が多く、テレビで見ていてもなんだか不快です。 確かに、暗部にメスを入れるという意味でもなかなか意義深い作業なのはわかるんですが、何でもかんでも効率性、費用対効果の基準で見るのはいかがなものかなあと。そもそも役所の仕事って、弱者にも未発展分野にもできるだけ公平に将来を見越した政策を実施する位置づけもあるわけで、全てを効率性や費用対効果で判断したら、結果弱者いじめになるし政策の新規開拓なんてできるわけないですよね。 なんだか悪性の功利主義路線を驀進しているようで、不安です。それに加えてこの作業の潔さに拍手喝采する人々も、大多数の幸福に名を借りた全体主義人民のようにも思えて怖いです。 ただでさえ、最近は法律やルールを傘に着た規制路線が厳しい世の中になって、窮屈でぎくしゃくしているのに、それに輪をかけてどうするんだろう。 特に文化や芸術なんて「無駄」の中にこそ発生するのであって、抑制された中で発生する文化や芸術なんて面白みがなさそう。科学技術だって、開発が一度途切れたら復活するのは至難の業だと聞くし、日本の行く末を自ら狭めていく方向性にも思えます。 まあ、始まったばかりだから静観してみたいと思いますが、どうなっていくんだろう・・・ちょっと不安。このまま行くとおもちゃ集めなんかしている人種は、国賊扱いされちゃうかも(笑)
2009年11月18日
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昨日久しぶりに銭湯に行ってきたのですが、そこでふと思ったこと。 露天風呂があるんですが、小学生低学年の子と大きい子がいて、小さい子は全然寒そうにしていなのに、大きい子は凄く寒そう。 そういえば、あたしもガキの頃は寒いなんてあまり感じなかったなあ、いつから寒いと感じるようになったんだろうなんてことを考えていたわけです。 寒いと感じるのは冷点という知覚が感じるのだそうですが、もしかもすると小さい頃は冷点が発達していないのかな、なんてこともちょっと思ったりもしたので、ネットを検索してみたら日テレの目がテンで放送したのかな?こんなページがありました超重ね着(秘) 寒さ 克服法 これによれば、『子供は風の子』と言われるが、実は大人よりも体が小さい分、子供の方が寒さに弱かったのだ! 子供の方が早く冷えるので寒さには弱い!のだそうで、脆くも私の仮説は崩れました(笑)。 じゃあ、何故と思いましたら下の方に興味深い内容が・・・。心理学の専門家によると、どうやら人間は寂しいと心理的に寒くなったと感じてしまうようなのです。 ふーん、なるほどねえ、心が寒いというのはあながち嘘ではないのですねえ。だからあたしは最近とっても寒いのか・・・(爆)。 ところで、先の子供たちを見ていたときに思ったことがもう一つありました。小さい子は周りの目を全く気にしていないんですが、大きい子は周囲のことが気になっている様子。 ここでもう一つ仮説を思いつきました。大きい子は周り事やら色々なことに気を使うので寒いということにも反応するのですが、小さい子は遊ぶという一つのことに集中しているので、寒いということを忘れているのでは。 確かにガキの頃必死に集中していると、周りのことが何も見えなくなりましたよね。そう言うときに暑いとか寒いなんて感じなかったかも。大人になって、雑念が多くなると寒く感じるのかも知れませんねえ。 寒さを感じるようになったら大人への第一歩か・・・。そんなことを考えてたら、そう言えば、大学時代東北の寒い冬に、薄いスタジャン一枚でバイク乗ってたなあ・・・なんて思い出しました。あたしって・・・ずっとガキだったのか・・・(笑)
2009年02月09日
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昨日テレビを見ていたら、大学生や小中学生にネットでコピペが蔓延しているという番組をやっていました。この話題すでに昨年夏に記事になっていたようで、ほぼ同じ内容でした。大学生から小学生まで 「ネットでコピペ病」蔓延 J-CASTニュース ネットでコピペ(コピー&ペーストの略)と言えば、大学生のレポートが話題になっている。ところが、なんと小学生の読書感想文にまでコピペが広がりつつあるというのだ。はたして、防ぎ手があるのか。(以下略) うーむ、由々しき事態になっているのですね。レポート書くのに、ネットで使えそうな文章を大目にコピーしてきて、あとは要らないところを削っていくのだそうで。 確かに、今はネットでほとんどの情報を得ることが出来ますし、かなり有用な文章も載っていますからね。使えるモノは使うというのも合理的ではあるけれど。ただ、やっぱり大学生なら自分の意見を自分の表現で著すのが勉強であって、そういう訓練をする場はこの時期しかないのだからねえ。 記事では盗用という表現を使っていますが、もはや引用と盗用の境界がないんでしょうか。引用というのは、他者の文章に共感したり批判して自分の意見を高めていく行為で、それをどのように探してきて、使うかという技術を鍛える場でもあるんですが、盗用じゃあ自分の意見にすり替えているだけですものね。 社会に出ると、自分の意見をいかにオリジナリティ、説得性を持たせるかということが重要になりますから、コピペばっかりしていたら本当に困ることになるでしょうね。 ただ、コピペ能力も社会で活躍することもあるんですね。例えば、挨拶文や紹介文、通知文などの定型文書なんかは、あまりオリジナル性が要らないので、逆にコピペが大活躍することが多いです。ネットなどの中から優れた文章を引っ張ってきて、ちょっとアレンジした方が、優秀でリスクの少ない文章ができるんですね。 私の身近でも非ネット社会のおじさんなんかが、必死に文章こねくりまわしているのを見てきましたが、むしろ若者が飄々とどこかから良い文章をパクってきたりしてます。出来具合はもちろん後者の方が良い場合が多いですね(笑)。 素早く効率のいいコピペ文化もまあ捨てたものではないんでしょうが、やっぱり時と場合によりますね。大学のレポートぐらいなら、まあいいかとも思いますけど、まさか卒論なんかにやってないだろうね。ましてや小中学生の読書感想文は・・・絶対にダメでしょう。 ネット社会でどんどん変わっていくわけですが、これからどうなっていくのでしょうか。 ちなみに、私らパソコンのまだ無かった時代はレポートは手書きだったわけですが、パソコン文化ともちょっと違うんですよね。パソコンは加除修正がいとも簡単なので、あんまり考えずにとりあえず打ち込んでいけばいいのですが、手書きの場合は書いてしまうと修正が大変なんですね。そのためにかなり先まで文章を頭の中で構成しないといけないわけで、そういう訓練には良かったなあとつくづく思います。今は、ブログなんかでもそうですが、取りあえず思いついたこと打ってますけど、何かちょっと頭が呆けてきているような気がしないでもないです(汗)。
2009年02月06日
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2002年より始まっている日韓歴史共同研究委員会ですが、本日付の読売新聞に委員の一人木村幹氏のコメントが掲載されていました。 もともと、歴史的見解においてはタカ派の小泉政権下による日韓歴史摩擦のもと、歴史教科書を巡る見解の相違を詰めようとしたものでありますが、すでに第二期の委員会となっており、その動向が気になっていたところです。 そもそも、歴史教育の基本的立ち位置の違いがあるので、「歴史学=歴史教育=歴史の政治利用」という日本以外の世界各国の歴史スタンスを、日本人が理解しない以上、そう簡単にはいかないだろうと思っていましたが、日韓歴史研究報告に思ふ今更ながらのコメントでした。それでも、当事者からこうしたコメントがなされたことは一歩前進でしょう。内容の一部を抜粋しますと「(前略)すぐにわかったのは、日韓の間では、歴史教育の目的が全く異なる、ということだった。日本では一般的に、日本史や世界史に関わる「事実」を教えることに重点が置かれている。(中略)しかし、韓国では歴史的事実よりも、歴史に関わる「物語」に重きが置かれている。(中略)日韓の教科書の違いには、「歴史観」の違いが表れている。(中略)だとすれば、日韓の間で妥協が成立するためには、日本側の歴史観が韓国のそれに合致する形で是正されるか、韓国式の歴史観そのものが変わる他ない。(後略)」(1/19付けアジアスコープ記事より)ということです。 多分、全世界のうち日本ほど「事実」に固執した歴史教科書はあるまいと思うのですが、そう言う意味で日本ほど歴史学が進んでいる国はないのではないかと思うのです(半分、自虐的に)。 そもそも、日本には木村教授の言うところの「歴史観」というものが存在しないのです。ですから、歴史学という事実探求のためのマニュアルはあっても、歴史教育という国家プロジェクトのためのシステムが存在しない。そこに韓国をはじめとする各国が歴史認識についてクレームをつけるとなると、歴史学のための歴史教科書に対して批判することになるわけです。ですが、歴史学として歴史教育を受けてきた日本人にとって、「事実」を批判されることは学問そのものを否定されていることになるのであって、それに対する抵抗は非常に大きいのです。 片や日本以外の諸外国では、歴史はあくまで国家プロジェクトの一環であり、国家の正統性を標榜するため、または国民の思想統一を図るための手段でしかない。ですから、歴史教科書には不都合なことは一切書く必要もないし、最悪の場合は捏造だって厭わないわけです。そういう国家から見れば、何故日本の教科書は全てを暴露しているのだ、と感じるのでしょう。 さて、解決策として木村教授は歴史観の寄り合いを求めているわけですが、それはそれで国家間の解決策としてありだと思います。 ですが、忘れてはいけないのは、第二次世界大戦後の日本にとって歴史観がないということです。歴史学は事実を証明していく学問であり、日本人は事実の信憑性を確かめる手法については卓越した能力を持っていると思います(ただし、日本史の専攻が必修ではなかった世代は甚だ疑問ですが・・・)。ですが、その事実をどのように組み立て、解釈していくか、そしてそれを世の中にどう生かしていくということについては、タブー視されてきた経緯があるわけです。 世界各国との歴史観を詰めていくというのであれば、まず我が国の歴史観をきちんと作らなければならないでしょう。 では、歴史観は誰が作るのか。各国を見る限り、それは世論、マスコミ、政治家、宗教家などが見えてきます。最も影響力の強いのは独裁性が強い国家元首及びグループです。これらは歴史観を作りやすい反面、大変危険な側面があることは言うまでもないでしょう。 果たして、日本において歴史観など作ることが出来るのか・・・それは私も疑問です。ただ、唯一言えるのは歴史観の根底にあるのは愛国心です。愛国心なくして歴史観は成立しない。ただ、その愛国心が歴史的事実検証を経ているかどうかが大きいのです。他国の愛国心は決して歴史的事実に基づいているとは思えないことも多々あります。それが感情の亀裂を呼び起こすのです。 本来ならば、歴史的事実の世界共通化ができれば一番良いのでしょう。しかし、他国の歴史家の多くは事実よりも利害をバックボーンにするケースが多いように見受けられます。それは、先にも述べたように歴史の利用目的が異なるからです。先に結論ありきの歴史学では決して事実に基づく融合などありえはしないでしょう。 これからどういう方向に向かっていくのか。人類の智恵と愚かさの行方を見守りたいと思います。 ちなみに第1期の報告書が出ています。特に第3分科(近現代)の日韓研究者の応酬は面白いです。特に韓国研究者の了見の狭さというか、基盤となる歴史学の足下の狭さが目立ちますね。■ 日韓歴史共同研究委員会 第1期(2002-2005年)
2009年01月19日
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最近、職場の若い衆や学生さんと「仲間意識」について話す機会がありました。しかし、若い人たちには余り仲間意識という感覚はないようで、「結局は個人ですから」という答えも結構多かったのです。昔のように飲みに行く機会も激減していますし、定時退社、権利の主張も当たり前になっているご時世ですから、人と人とのつながりが希薄になっているのも致し方ないのでしょうが。 ミリヲタ的見地から言えば、仲間=戦友という構図がすぐに頭に浮かぶのですが(笑)、仲間というのは私利私欲を超えて、ある一定の価値観を堅守するグループのことを指すのだと理解しています。 例えば、戦友で言えば、生死という価値観を前提に結ばれたグループということになります。一人では戦えないわけであり、自分の身勝手が仲間を殺し、仲間の身勝手が自分の命を奪う。そこには、その他の価値観、信条の相異はまるで関係なく、どんなに友達になれそうもない相手であってさえも、最低ラインである生死という価値観だけは堅守されなければならないのです。戦場において命令違反、脱走、離脱行為が厳罰に処されるのは、この生死の価値観を崩すことになるからなのです。 戦場での仲間意識は極端な例ではありますが、一般社会においても少なからずこうした仲間意識によって構成されているのではないでしょうか。会社しかり、学校しかり。言い換えれば、限定的なルール、モラルでもあるわけですが、この仲間意識が希薄になれば、組織としての基盤がぐらついてきます。 ある若者が言いました。 「それは派閥のようなものですか。」 「似たようなものだけれども、違うんじゃないかな。派閥は自分の権利を主張するためのグループだけれど、仲間は共通の義務を課したグループなんじゃないかな。」 「自由主義社会では、権利を主張して戦わせてこそ発展があるんじゃないでしょうか。」 「もちろんそれは正しいと思う。でも、一定のルールがなければ、裏切り、造反などかえって混乱を招くことにもなるだろうね。」 仲間意識は、ややもすると、馴れ合い、コネクション主義、贈賄の温床にもなりやすい性格を持っています。同窓生、同郷などもその一種と言えるでしょう。 近年ではこうした弊害を排除するため、公正性、透明性の強化によって仲間意識を意図的に排除する傾向は強いように感じます。確かに、公正性、透明性は大事なことではありますが、他人をまるで信用しないシステムは、本当に無機的で味気ないものです。逆に言えば、他人に厳しい公正性、透明性の目の監視下で、日々怯えて暮らすのは果たしてどうなのでしょうか。人間、そんなに完全な生き物じゃないですからね。 まあ、そんなことを考えながら、日本人には実は一番適していると思われる(笑)、仲間意識の復権の日はくるのでしょうか。
2008年02月07日
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いやあ、開けてビックリ!凄いことになりましたねえ。最近の議員の低レベル化で、政治問題には口を挟む気はなくなっているんですが、今回の結果はあまりに笑えます。 テレビなんかを見ていますと、自民党の奢りが原因なんて言われてますけど、まさにそうでしょうね。また、参院で多数党となった民主の政策実行能力も疑われていますが、これもまたしかり。どちらも、下らない不毛な争点で争ってきていますから、期待は薄いというのも筋。 このほか、社民、共産あたりはもはや政党ではなくなりつつありますね。社民の福島党首など得票数から言ったらテレビに顔出せるレベルじゃないですからね。 ところで、自民党惨敗ですが、いわゆる無党派とか浮遊層といわれる人たちがこぞって民主に流れたと言われてますね。さらに、自民の基盤層の遊離があったとか。自民党はこのあたりをしっかり肝に銘じなければ、今後の政権維持は赤信号となりそうですね。 小泉さんあたりから自民党は、民営化とか構造改革、公務員改革なんてものを前面にやってきましたが、直近の選挙活動を見ていて、かなり違和感を感じていました。というのも、選挙戦の争点や主張がいわゆる野党式、野党レベルなんですね。確かに、無党派層や富裕層を確保することが選挙戦では一つの焦点ではありましたが、それは基盤層を確保してからのこと。自民党はこれまでの郵政民営化をはじめ、税制改革、公務員改革と、大企業・建設業・公務員・農協をいわば敵に回した政策、主張を進めてきたわけです。自民党の基盤層は誰だったのか、誰とタッグを組むべきかをすっかり見失った党にとって、基盤層の再取り込みこそ必要だったはずです。 失った基盤層は大きいでしょう。無党派層、浮遊層というのは言葉は悪いですが、流されやすい人々が多いわけです。ちょっとした巧みな言葉でいくらでも流れを変えることが出来ます。しかし、基盤層というのはじっくりと醸成した信頼関係の上に成り立っているわけであり、一度の裏切りは未来永劫禍根となるのです。 今回の選挙で基盤層からの離反が、自民党にちょっとお灸をというレベルならば、次回揺り戻しもあるでしょう。しかし、これからの施策対応次第では完全離反にもつながりかねません。その辺を理解しているのかしていないのか。政治なんて、主義主張なんてきれいごとで動くもんじゃないことぐらい、一番自民党が知っているはず何ですけどねえ。 民主のバッシング一辺倒の選挙手法にも辟易としますが、自民党はその相手をすることで、すっかり民主のペースに巻き込まれてしまったようです。 もう一点、いわゆる労働組合系の票はどこに行ってしまったんでしょう。それまでの労働組合御用達の社民、共産もまたジリ貧なわけで、全労働者の支持政党なんて言えるもんじゃないですね。両党政治家の無能さに、もはや誰も期待しなくなって久しいわけですが、多くの労働者票は民主に流れたと言ってもいいんでしょうね。いわゆる反自民として行く所はそこしかなかったと。 ただ、民主の主張を見ていますと、自民党以上に労働者には厳しい姿勢をとる施策も少なくないですよね。烏合の衆の民主が労働組合系と未来ビジョンを含めた施策をとることは、現状では極めて厳しいと思われるので、結局労働者票は無駄に浮遊している、といっても良いのではないでしょうか。 そうなると、やはり労働組合の立脚した政党の存在が重要になりますね。元は社民が担っていたわけですが、妙な思想主張を排除し、国民の実態に沿った施策を実行できる政党が欲しいところ。民主がそうなってくれれば、まともな2大政党制になるんでしょうが・・・。 相変わらず、日本の政治はつまらない。
2007年07月30日
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来週投票に迫った参院選ですが、さすが衆院選なんかに比べると静かですね。街宣カーがかなり少なめで、時折来るのが妙に五月蠅く感じます。 その街宣カーですが、毎度思うのですが本当に五月蠅いですね。子供が小さい時は寝付かした時に限ってやってくるので、「コ●シタロカ」と本気で思いましたね。そういう奴には絶対投票しないわけですが、街宣カーでまともに政策語っているケースはほとんどなく、本人か姉ちゃんが「○●をよろしく」か「○●を助けてください」なって絶叫だけ。ひどいのになると、「○●を殺さないでください!」とか言ってますな。もう選挙なんだか何なのだか。 はっきり言って騒音公害以外の何者でもない、街宣カーは百害あって一利なしですね。街角演説ならいざしらず。むしろ選挙民は政策や人柄を知りたいのであって、その手法としては余りに稚拙で愚かな行為です。ネット使用も含めて早い所公職選挙法の改正を望みたい所ですね。 ネット解禁では誹謗中傷などを危惧しているようですが、このご時世ネット情報の真偽性を確かめるのも自己責任というのは、もはや常識となっていますから、あんまり心配することはないような気がします。逆に、ネット上で活発な施策比較や、批評が飛び交うようになって良い効果が出るような気がするんですけどね。スパムメールみたいのだけは規制してくれないと困りますけど。 テレビで党首がくだらない馬鹿の一つ覚えを喋っているだけでは何にも伝わらないしねえ。
2007年07月22日
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いまさらで恐縮ですが、改正教育基本法について、ちょっと思ったおやじの戯れ言です 教育基本法は昨年12月の国会で可決・成立し、12月22日付で公布・施行されたところでありますが、マスコミ報道等では「愛国心」の記載が議論の焦点となってきた経緯があります。 愛国少年、愛国青年、愛国おやじと変遷してきたわたくしとしては、「愛国」理念が国民に根付いていくことは、日本という社会共同体の平和的維持という観点において、誠に喜ばしいことであり、ましてや教育という分野において明確にされたことは画期的というか、ようやく原点に戻ったなという感慨があります。 さて、その改正教育基本法ではどのように記載されたのでしょうか。第1章第2条第5項にそれが出てきます。(教育の目標)「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」 あれ?、思ったほどはっきりとしませんね。まあ、教育基本法は総体理念を記載したものですから、この程度でちょうどいいんでしょうが。極々当たり前のことが書かれていますし、我が国を愛するだけでなく、他国を尊重して国際社会の平和の発展に寄与しましょう、という素晴らしい理念です。 そういえば、この教育基本法改正にあたって、野党、日教組系をはじめ多くの団体が法律改悪と気勢をあげておりましたが、ハテ、このどこが改悪だったんでしょうか。 そこで、ある改悪反対団体のホームページから拾ってきました。 「教育の憲法」とも呼ばれる「改正」前の教育基本法は、天皇制国家主義教育を支えた教育勅語を否定し、個人の尊厳と平和主義を基本理念としています。しかし「改正」後の教育基本法は、「伝統文化」や「愛国心」といった国家主義を教育現場に強制し、「教育の機会均等」を解体することで、子ども一人ひとりが平等に学ぶ権利を奪い、新自由主義によって生み出される「格差社会」を固定化するものです。教育基本法「改正」とは改悪に他ならず、これによって教育現場は根底から変えられてしまう危険性があります。さらに改悪教育基本法は自民党の新憲法草案との整合性をチェックしたとの伊吹文科相の発言からもわかるように、この次に憲法の改悪が狙われていることは間違いありません。 むむむ、コメントしようと思ったけど、なんだかバカバカしいので1点だけ。彼らは他国を尊重することや国際平和を望む態度も改悪だと思っているんですかねえ。それとも、「他国を尊重」から始める条文にすれば良かったんですかねえ。まあ、彼らの真のターゲットは教育基本法なんかじゃないんでしょうけど。 さて、思ったよりもトーンの低い改正教育基本法ですが、喜ばしいと思う反面、気になるのは、「伝統と文化を尊重し」という点であります。以前、愛国心教育について述べたことがありますが、愛国心教育に思ふ(その1)愛国新教育に思ふ(その2)愛国心教育に思ふ(その3)この中で私は、伝統と文化を理解する事が愛国心教育の第一歩であると書きました。確かに今回の改正教育基本法でもまず、伝統と文化を大事にしようという表現となっているのですが、「尊重」と「理解(学習)」は私としてはかなりニュアンスが違うのですね。尊重というのは、確定した事象を尊び守るという意味であるのに対し、理解(学習)は事象を多角的に解釈・判断するという意味です。つまり、前者には伝統・文化を改変する余地がないと理解されるのですが、後者は改変の余地が多分にあるのです。 確かに、日本の伝統文化は貴重であり、尊重すべき点も多いのですが、そもそも「文化」いうのもは各時代で世相を反映して作り上げられる現在進行形のものです。過去の素晴らしい文化が「伝統」と呼ばれるわけですが、あくまで過去の栄華であって、必ずしも現在に適用されるものではないのです。そこから学ぶべき事はあっても、模倣、継承するばかりでは「文化」の進化や発展はあり得ないということになってしまいます。 あんまりガチガチの事を言いなさるな、と言われそうですが、理念上ではこの程度の表現でいいかもしれませんが、教育現場に降りていったときに果たして理解されているのかが心配です。古くさくて、現実味のない伝統文化は、はっきり言って子供たちには受け容れがたい分野です。退屈でつまらないと思うのは、伝統文化が他人事だと思っている証拠です。伝統文化は姿形は変われども、私たちの日常生活の中に、ずっと引き継がれ根付いているものです。それに気づかせる教育と、現代社会に適応した形で、自らが体験できるようなシステムが必要でしょう。やはり「身をもって体験する」ことに勝る教育はありません。また、それ以上に、教科書やテキストといったものが明確に、そして多角的に作られていることも大事ですね。そのためには、伝統文化を十分に理解し、把握している大人の教育も重要です。 最後に、もう一点「我が国と郷土を愛する」という表現ですが、このニュアンスからは押しつけ愛国心教育という風には受け取れませんが、現場教育の中で曲解されることのないように願いたいものです。この点は左まきの方々と一致するところでもありますが(笑)。私の表現で言えば、「同族愛」による愛国心は自生的なものであり、神聖で貴重な存在なのですが、「仲間愛」による愛国心は社会共同体の契約関係でしかないものですので、法律のようなものに記載すべきものではありません。そういう意味では、改正教育基本法は「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とあるように伝統と文化を基盤にした愛国心と理解されますので、同族愛と一致するもの、と理解しています。 まあ、結果から言うと、愛国心に関してはどうってことない改正だったんじゃないでしょうかねえ。それよりも、私としては、前文に「公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた・・・」の一文が加わった事と、第13条「・・・地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」の方が価値が高いと感じますね(笑)。 「公共の精神」「豊かな人間性」ですね今必要とされているのは。それから、どんな国民でも「地域住民」として責任を果たしましょうという記述はいいですねえ。近所の雷おやじの再来かっ?。
2007年01月30日
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全然関係ない話題で相済みません。ムカついた話があったので不満爆発させていただきます。 昨日歯の詰め物が取れたので歯医者に行ってきたのですが、それまで行っていた歯医者は遠いし、説教ばかりなので、どうせ詰めるだけだからと家の近くの歯医者に行きました。 最近の歯医者って腕もないくせにやたら治療したがる傾向があるので、嫌な予感もしていたのですが、案の定、こちらの要望も症状も聞かないうちに、レントゲンやらなんやらかんやらの検査づくめ。レントゲンだってこちらが撮ってくれとも言わないのに勝手に撮るし、挙げ句の果てに助手のおばさんがやってきて、針で歯茎刺しまくって血だらけにして、お決まりの説教。「歯茎が歯槽膿漏気味です。歯垢があります。ヤニが付いてます。まず、こちらの処置が必要です。」一方的に言い放って去っていったので、嫌な予感が倍増しましたが、不細工な中年医者がやってきて的中しました。 信じられないくらいに無愛想で横柄な態度で、口の中の写真をひたすら撮ってパソコンに取り込んで一言。「虫歯だな」。んん、詰め物が取れた歯はどうするの?。続けて一言「いろいろな虫歯や歯垢があるからその治療をするまで仮の詰め物しとくわ」。 ああ!?。そんなこと頼んでないから、まず詰め物だけ先にして欲しいわな。そこで、我慢して丁寧に「詰め物はやって貰えないんですか」。 そしたら、明らかに不機嫌な態度で「やってやってもいいけどねえ。予約の客がいるからいつ終わるかわからないよ」 「今日やって貰えるんですか?」 「ああ、今日やるよ。まず、麻酔して・・・・」 私は麻酔でいつも歯が腫れるし、麻酔の方が痛いので、麻酔無なしでやって貰おうと頼むと、「麻酔なしなんて絶対無理。飛び上がるほど痛いし、そんなこと未だかつてやったことない」と怒りまくり。 正直、私の子供の頃なんて抜歯以外は麻酔なんてしなかったし、今まで行った歯医者でもそれでやって貰っている。そりゃ神経削れば痛いけど、我慢できないほどじゃない。 あげくのはてには、「麻酔で歯茎が腫れるのは歯槽膿漏のせい。まず、歯茎の治療をしないと詰め物はできない。」と言い始めて仮詰めを一方的にやって終了。「はい、帰って」 渋々受付に行って、高い検査代3000円弱を払って、紙切れを渡される。次回は「歯のクリーニング」。はあ?、じゃあいつ詰め物はやってくれるのかと受付のお姉ちゃんに尋ねると、奥に行って聞きに行く。帰ってきた返事は「次回はクリーニングだけとしか言いようがないです」だと。 結局、横柄な態度に腹立ったあげく、今後の治療の見通しすらなし。今まで、たくさんの歯医者に行ったけど、こんなに酷い医者は初めて。そういうわけで、もう次は行かないことに決めました。あーあ、3000円無駄に損した。そういやあ、領収書も治療明細も何もなかったな。腹立ってて忘れてたわ。 しかし、最近の若い歯医者は皆この手の検査重視ですな。まあ、検査するだけなら良いけど、患者の意向も聞かずに一方的に治療を押しつけるのはいかがなものでしょうかねえ。二言目には「こちらは歯のプロなんだ。言うこと聞け。」なんか、違うんじゃないですかねえ。大学で治療を学ぶ前に、人間性を学んで貰いたものだと思いましたよ。 次行く歯医者はまともであることを期待します。 ご静読有り難う御座いました。
2007年01月21日
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教育者のトップが…恐喝いじめ隠しの校長首つり(ZAKZAK) 金銭をたかるいじめがあった福岡県内の小学校校長が12日午後、自宅近くの山林で首をつって自殺した。校長は前日、「市教委に(たかりを)金銭トラブルと報告したのは怠慢だった」と陳謝したばかりだった。いじめに未履修、タウンミーティングやらせ問題と大揺れの教育界。生徒たちに命の大切さや社会ルールを教えるべき現場のトップはなぜ、次々と自らの命を絶つのか。(以下略) 次々に噴出するいじめ、いじめによる自殺、学校側の不手際、さらには高校での社会科履修不足問題の発覚。そして、最近は校長クラスの自殺が相次いでいる。校長クラスの自殺は今に始まったことではないが、こうした管理職、公職の自殺者が多発する時代の背景には、マスコミと批判主義的一般人の盛り上がりが必ずある。確かに、何らかの問題が発生し反省や謝罪に奔走しなければならない立場の人々であり、言い訳や慢心が許されるものではないだろう。しかし、何かあれば完膚無き善人のごとく吊し上げに走るマスコミや一部批判好きの一般人の行為は、まさに集団言論暴力そのものであり「いじめ」そのものと言っても良い。逃げ道や言い逃れの閉ざされた管理職、公職者を叩くことはさぞかし爽快で楽しいことであろうが、それが子供達のいじめと本質的になんら変わりがないということを自覚できていないことに、毎度のことだが不快感を感じるのだ。 さて、今回は奢ったマスコミや一部のヒステリックな人々のことはさておいて(全然さておいてないかも知れないが・・・)、いじめについて考えてみたい。かつて教育問題の調査に関わったことがある身として、思う所を述べてみたい。 いじめという行為は明らかに「悪」である。しかし、いじめられる側が「善」であるという決めつけには繋がらない。そもそも、いじめという行為の多くが悪と善という構図の中で発生しているわけではなく、個々の関係の中での力関係に過ぎないからだ。いうまでもないが、いじめの定義はあってないようなもので、ボーダーラインの解釈もしかり、それが個人の価値観や感情の中で判断されるものだからだ。いじめという用語が一人歩きしている現在、犯罪としてのいじめと力関係によるいじめをしっかりと見極めていかねばならないだろう。 さて、力関係という観点で見れば、人間という生き物である以上、強者と弱者という関係は必然的に発生する。それによる物理的、精神的被害を未然に防ぎ、万人が公平に過ごすためには、人間だけが有する「理性」と「知性」に依らなければならない。自己が強者であることを理解し弱者を思いやる気持ち、弱者であることを理解し強者のプライドを侵さないこと。しかし、複雑な人間の心の中にあって、完璧な人間関係を維持することは大人であっても大変難しいわけで、ましてや子供達にそれを求めることは酷である。従って、子供達に正しい道を導いてやるのが親であり教師であるのだが、その親や教師とても完全な人格を持ち合わせているわけではない。そもそも、いじめの由因でもある心の力関係を当事者以外の人間が完全に解決できるはずもないのだ。一時的に被害現象が治まったとしても当人同士の心の禍根は消えていないことが多い。 そこでだ。いじめの原因と解決を学校や教員に、そして教育委員会に押しつけた所でどうになる。もちろん、危機管理能力の高い教員がいじめを未然に防ぐこともできるだろう。しかし、全ての教員にその資質があるはずもなく、また、いじめと称される全ての事象に目を配ることができるはずもない。はなから出来もしない学校や教育委員会に期待するのが間違っている。いじめに加担する教員がいることすら驚くほどのことではない。歳を取った大人であろうが、単なる一人の人間だ。 結局のところ、いじめの根絶を学校や社会組織として実行しなければならないのだとすれば、それは強制的な法拘束以外ないだろう。近年定着しつつあるセクハラ、パワハラといったものと同様に、いじめの厳密な定義を設け、それに対する社会的制裁を子供であろうと無慈悲に適用することである。いじめというものが精神的被害であった場合には、自己申告制でありかつ心の被害度は第三者には図りかねるので、血みどろの裁判沙汰も多発するだろう。また、それを悪用した犯罪行為も想定できる。 果たしてそれが好ましいのかどうか。言うまでもないことだが、それが冷酷で恐怖の社会への第一歩であることは想像できるだろう。だが現在、学校や教育委員会そして政府にまでその責任を押しつけ、他人に問題解決を押しつけている風潮は、まさにそれに向けての布石とも思えるのだ。いじめの悩みをしたためた投書が文部科学大臣に直接送られたり、いじめホットラインに電話が殺到するのは、子供達が潜在的な問題を多く抱えているという現れではあろうが、自己解決に向けてのプロセスではなく、第三者の責任に押しつけたり、もしくは第三者に話を聞いて貰ってヨシとするのは、いささか方向が違うような気がする。しかし、それが増えつつあるのはマスコミをはじめとするいじめの責任追及姿勢と学校現場の弱腰に原因があるだろう。 だとすれば、どうしたらよいのか。一義的にはいじめという力関係は、当事者の自己解決に依るのが一番であり、とすれば、出来るだけ早い時期からの「理性」「知性」教育、いわば道徳教育が重要となるだろう。もちろん、当事者間での解決が困難場合に仲裁や救済を円滑に出来る学校、教員の資質や体制作りも大事だろう。だが、先にも書いてきたとおり全てのいじめという力関係問題を当事者間、学校等の第三者で解決に導くことは不可能であろう。かといって、放置するわけにもいかない。 そこで私は逃亡しかないのではないかと思っている。私らの世代はいじめから逃げるなと良く言われたものだが、解決できないいじめは逃げるしかないのではないかと思っている。いわゆる脱走兵、敵前逃亡である。言い方は悪いが、いじめから逃げることのタブー化を排除し、そうした転校、転籍といったものへの柔軟な配慮と体制作りが最も有効ではないかと思うのだ。確かに歳いった世代から見ると、弱虫や負け犬に見えるが、人間の力関係は決して善悪ではなく、生まれ持った人間性の組み合わせによる偶然の産物なのである。決して合わない組み合わせを無理に続ける必要はない。自己の持つ個性を生かせる、または適合する学校や職場体制づくりの柔軟性とそれに対する世間の認識を高めていくことが大事であろう。 「嫌ならやめてしまえばいいじゃん」という言葉がもっと簡単に出せれば、いじめによる自殺は減っていくことだろう。もちろん、忍耐力が身に付かない、いじめる側の制裁がないという問題は孕んだままではあるが。 いずれにしても、子供達に言いたい。マスコミの馬鹿な風潮に乗せられてはいけない。いじめは第三者の誰のせいでもない。責任を押しつけるものではない。まずは「理性」と「知性」という文明人がもつ能力を駆使して自分たちで解決するべきものだということを忘れてはいけない。どうしても駄目なら、逃げて別の道を行こう。それも悪くない。
2006年11月14日
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履修漏れは学校ぐるみ、県教委にウソ…富山・高岡南高(読売新聞) 富山県立高岡南高校(篠田伸雅校長、生徒数557)の3年生全員197人が、地理歴史教科の必修科目を履修していなかった問題で、同校は2004年12月、国の学習指導要領に沿った「教育課程表」を県教委に提出していたが、授業内容を記す生徒指導要録には、実際には取っていない必修科目を履修していたかのように記録していたことが24日、わかった。 県教委は要録の訂正と生徒の負担に配した補習の検討を同校に求める。 篠田校長は県教委の聞き取り調査に対し、時間割と異なる授業をすることを教諭が生徒に説明。さらに指導要録には世界史、日本史、地理のうち1科目しか履修していないのに、もう1科目も履修したかのように単位を記録したと答えた。(読売新聞) だそうだ。ローカルネタではっきり言ってどうでもいいととは思うのですが、富山の事なので思った事をいくつか。 こんなことは私の時代(東京都)でも日常茶飯事だったし、鬼の首を取ったように騒ぎ立てるほどのことでもないと思うのですが、学校ぐるみで・・・・となると、やっぱり学校側がアホですな。こういうのは分からないようにうまくやるのがミソで、生徒と担任のアウンの呼吸が必要です。それでも、3年生はこうなっちゃったようですが、2年生はきちんと履修しているようですので修正する必要性も感じていたようです。 気になるのは、この事態が暴露されたのはどうも内部のマスコミ告発だったそうで、一部反対勢力の教員のしわざか、生徒のしわざか、はたまたPTAかと言ったところでしょうか。いずれにせよ、公になってしまえば正当に抗弁できない内容なわけですから、事態がどうなることかは想像がついたことでしょう。 世の中には嘘も方便という諺があるとおり、暗黙の了解で進んでいることも、見て見ぬふりをすることが美徳である事象も多いわけで、今回の事態が果たしてそれに該当するかどうかはさておき、密告するという行為自体が私には納得いかないのです。鬼の首をとったかのように騒ぎ立てるマスコミもそうですが、密告して「エヘン」と社会の警鐘者のフリをしている輩も気にくわないですね。 さて、そもそも的にはどうなのかという点で見れば、私自身は履修科目を選択制にしていること自体不満です。ましてや、今回のように授業せずに履修したことにしようなどもってのほか。だから、お馬鹿な学生が増えるのだ!!と怒っているわけです。まあ、いろいろなあるから履修しないというお受験事情もわからんでもないので、これこそ見て見ぬふりなわけですが、やはり私個人的には全科目広く浅く学習するのが高校段階の努めではないかと思うのです。 私自身は文系でしたが、受験前日まで受験科目にもなかった物理、科学、地理、世界史はては音楽、美術まで幅広く学習させていただき(笑)、おかげで学友からは変人扱いされ、お受験競争にはいささか支障が出た(爆)のですが、それでも広く浅くやったことが社会に出てから活かされている事を実感します。 同じ文系で英語と論文だけで受験した学友は、確かに一流私立大学に入りましたが、社会に出てからお隣の国の首都はおろか、遺伝子(DNA)の存在も、川が上流から下流に流れることすら知らなかったのは驚きに値します。 まあ、全ては自分自身に帰ってくる事ですから生徒さん達は自分で判断して頑張ってもらうしかないのですが、世界史だけの補習ならお受験後はどうせ暇なんだから集中的にやったら意外に成果があがるかもしれませんね。
2006年10月25日
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どうも眠くていけません。昨晩も8時には子供と一緒に寝てしまい、起きたのは8時。12時間も寝てました・・・・てなわけで愛国心シリーズの最後です。<今の日本に求められている施策> 現在改正論議のある教育基本法は誰を対象にしているものだろうか。言うまでもなく、日本国民全体を指すものであり、子供達だけに限定したものではない。とかく、学校教育現場への愛国心教育の押しつけが議論となっているが、そもそも愛国心教育は日本国民全体のものではないかと思っている。すでに戦後教育を受けた世代が定年を迎えている今、日本の伝統・文化を正しく理解し、愛している大人がどれほどいるのか。特に、日本人の道徳観やモラルの低下は子供たちに限らず団塊の世代からすでに指摘されていることである。こうした大人たちがどうして子供たちに愛国心教育などできようか。 同族愛に限定するならば、自然発生的に備わる資質であり、それは伝統と文化を学習することである。今求められるのは子供と共に大人が伝統と文化を再学習することである。家族の交流はもとより、親族との交流、郷土の隣人との交流こそが重要となる。こういうことはいきなり日本国を愛せよといっても理解できることではない。 いくら仲が悪くても家族の血は切り離せない。生まれ育った郷土を消そうとしても消せない。出自の歴史は燦然と輝いている。その優劣を語る者は愚かなだけであり、出自の偶然性と神秘性に感動することこそ、伝統と文化の理解の一歩なのだ。 もう一つ、国家施策として愛国心(仲間愛)を強要することは現実問題あまり意味がない。ともすれば、左寄りの人々が危惧するような偏った愛国心を育むことにもなりかねない。隣の韓国や中国が行ってきた愛国教育を見れば一目瞭然である(皮肉にも、これが共産主義、社会主義、全体主義の求むる方向なのだが)。もちろん、確実に正しいと言える絶対的な権威があるのならば、それにこした事はないが、そんなものがあるはずもない。そう言う意味で、国が国民に仲間愛としての愛国心押しつけることは得策ではないし、必ずやどこかでボタンの掛け違いが起きるであろう。そこで、私たち日本の場合、国家=同一民族という利点を活かすべきではないだろうか。他民族国家には真似の出来ないことであるが、国家としての仲間愛と同等の意識を同族愛で補完するのである。同族愛から沸き上がってくる国家意識と仲間愛から来る国家意識は180度違う。これこそ、長い日本の歴史の中で日本人が持ち続けてきた伝統であり、外国人が恐れてきたものである。 日本人の美徳感覚、そして武士道という伝統は、同族愛の上に成り立っているものである。是非とも、愛国心のあり方について、欧米的価値観ではなく、日本の伝統と文化の視点で考えていただきたいと思うのであった。(終)
2006年06月25日
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昨日も朝早かったためか・・・9時には子供と寝てしまいました。おもちゃの整備をする余裕も御座いません。なので、引き続きつまらん話の続きでも・・・(書き置きしておくと楽なのよねえ) <愛国心を育む方法> 愛国心は制御不可能で自然発生的な「同族愛」と、コントロールが可能で意図的に操作できる「仲間愛」があるということを前回述べたが、当然その育み方は異なっている。 同族愛は、自然発生的なものであり強制的なものであるから、その契機付け的なことについては口を挟む余地はない。あとは、その同族愛の強さの問題であるが、それは自己と同族的な繋がりをいかに感じるか如何である。私たちは少なからず、親子だから兄弟だからという理由だけで、我慢したりあるいは援助したりした経験があるはずである。現在の世の中は、金と理屈ばかりがまかり通るにもかかわらず、なんら論理的な理由で説明できない血の繋がりで納得してしまうのである。さらに、近所の幼馴染みや雷おやじ、噂好きのおばさんなど嫌がおうにも付き合わざるを得ない隣人達がいる。中にいる時には気づかないが、いったん外に出たとき郷土の言葉や風景が懐かしく思えることがある。思いがけず、同郷の人と遭遇したときに感じる感情こそ同族愛である。 この同族愛を高めることは同族の事をいかに知っているかということに尽きるだろう。家族のことはもちろん、郷土、そして国家のことを知っていれば知っているほど、思い入れと郷愁がつのるのである。これを「伝統・文化」という。つまり、同族愛とは伝統・文化を学ぶことによって高まっていくものと言える。 もう一つの仲間愛はどうであろうか。集団とは何らかの要因があってはじめて形成されるものであり、その要因を突き詰めて昇華させていけばその結束力は高まっていく。その要因が同じ学級だからとか同じ会社だからといった比較的偶発的な場合であった場合は、その偶然性に神秘的なものを感じる事が出来るが、クラブ活動や政治組織、宗教組織といった自発的な集団であった場合には要因を昇華させていくことはなかなか難しい。言うまでもなく個々人の個性がある故、その考え方は千差万別となる。その不統一性をまとめあげるためには、法律やルールといったものを制定していく事が必要となる。同族愛の場合は無常の愛というもので我慢できるものが、仲間愛の場合はそうはいかずに、紙に書いた理屈が必要なのである。お互いがその理屈(ルール)を最低限守る事によって互いを信頼できるし、逆にルール外のことを我慢することにも納得できるのだ。 ただし、この仲間愛のルールは改変される余地があり、内外部の力によっていくらでも変更できる性質のものである。それは集団内のリーダーにとって不都合と思うこともしばしばあるため、強圧的なルールづくりにまで発展するケースがある。言うまでもなく、戦前の日本は天皇という神格をもって絶対的存在を作り出したし、ドイツはヒトラー、ソビエトはスターリンという絶対的恐怖でそれを支配した。これらは、仲間愛のルールの設定に同族愛を無理矢理に押し込んだ結果であり、結局の所大きな誤解と混乱を招いた。 この仲間愛を高めていくためには、ルール規制を厳しくしていくことに尽きる。自分の置かれた身に制限がかかればかかるほどその特権意識も向上していくからだ。そう言う意味で、国家という社会契約集団が法律改正という形で縛りを強めることは愛国心を高める効果となり、まさに的を射たものと言える。 また、前回書いた左系の論調である「愛される国づくり」を考えてみると、愛される国づくりが「互いに争いのない、住みやすい」という解釈であれば、まさにより厳しい規制を強めていくことに他ならないし、「自分の権利が行使される、奪われない」という意味であれば小泉首相の進めている規制緩和の流れとなり、逆に国家的愛国心は失われていくこととなる。 次回は、では私たち日本人はどのような愛国心を持って行くべきなのか、求められる施策について考えてみたい。(まだ続くのか!)
2006年06月24日
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サッカーは第一次予選敗退となってしまいましたね。それでも、あのブラジルに先制点を入れたのは感激しました。多くの日本人が沸いたワールドカップでしたが、愛国心についてもちょっと気になることがあったので記事にしてみました。<愛国心教育に思ふ> 近頃教育基本法改正論議の中で愛国心教育を盛り込む云々が取りざたされているが、私自身、これまで日本人には愛国心が薄いと感じ、何故これほど自国の誇りを捨て去ろうとするのかと、マスコミの論調、著名人・個人の発言等訝しく思う事がしばしばあった。それ故、愛国心教育の必要性は切実に感じてきたところであるが、最近の手を翻したかのようなマスコミの論調、政府の施策についてはいささか首をかしげざるを得ない点も多い。 やはり、この問題はじっくりと愛国心について考えてみる必要がある。<愛国心とは何か> そもそも、愛国心とは何なのか。左まきのマスコミや知識人はこぞって「愛国心教育よりも愛される国づくりが先決だ」などという論調だが、これはある意味愛国心を考える一つの切り口である。分かり易い例えで言えば、親子の愛情を豊かにしましょうと言っているのに、子供に愛される(模範的な)母親になりましょうと言っているようなものであり、言うまでもなく、親子の愛情は子供が母親を愛することで育まれるものではない。ここに問題があり、「愛」という用語をどちらも用いているが、実は意味しているものはかなり違うのである。親子の愛情はまさしく「情念」であって、生まれ持った自然発生的なそれであるのに対し、ここでいう子供の母親への愛というのは「信頼感」なのである。先のマスコミの言葉に言い換えれば、愛国心は情念であり、愛される国は信頼感ということになる。 何となく理解していただけかと思うが、果たして皆さんの思っていた「愛国心」とはどのようなものであったでしょうか。 このことを、もう少し分かり易く考えてみよう。これまで私たちが「愛国心」と言ってきた事には、大きく分けて二つの要素があると言って良いだろう。 一つは「同族愛」と呼べるもの。同じ民族、同じ言語、同じ文化。我々が生まれ持った情念の一つで、愛しさ、懐かしさなどという表現でも代用できる。この同族愛の特徴は生まれ持ったものであって、事後の力では変える事の出来ない強制力をバックに持っている点である。我々はその押しつけられた強制力に、神秘性や必然性というものを感じるのである。それは、親子愛に始まり、家族愛、郷土(地域)愛、そして民族愛に広がっていく。ただし、一見民族愛に類似するものとして捉えられる宗教的結束力とは異なるものである。 この同族愛は自然発生的に沸いてくるものであるから、何人にも、もちろん国家にも強要される類のものではない。逆にそれを排除することもできないのであり、実はそれが我々の持っている道徳心やモラルの源流となるものでもある。 もう一つは「仲間愛」である。勝手な造語であるが、なかなかいい用語が思いつかなかった。これは何らかの要因によって集まった集団における仲間意識のことである。お互いをカバーし合い守りあうために結ぶ社会契約の一つでもある。これには学校の同級生、クラブ活動、会社、政治組織、そして同族愛のところで除外した宗教といった集団等が考えられる。その最大形が国家ということになるのだ。この仲間愛の特徴は、あくまでも自発的なもので自己の意志によって選択が可能なものということである。もともと、必然性のない集団であるから構成員にはお互いに異論もあるところだが、互いの利益を尊重するためには、互いに攻撃しない、守りあうという一定のルールを定める必要がある。これが社会契約であり、仲間愛なのである。従って、ここで定められたルール=仲間愛は臨機応変に変化するものであり、外部の力によって恣意的に変化させることも可能なのである。 日本は社会契約組織の最大形である国家=同族集団であるが故に、両者が混同されやすい難点があが、愛国心問題を考える上では、はっきりと明確にしておかないと様々な誤謬を産み出すであろう。外国の例を取れば、アメリカの黒人の場合、黒人同志の強い同族愛を持ちながらも、アメリカ合衆国への深い忠誠心も併せ持っていたりもする。 さらに、これを今真っ盛りのワールドカップに例えてみると分かり易いかもしれない。私たち日本人が日本チームを応援するのも、ふがいない戦いに落胆するのも愛国心である。この愛国心はまさに同族愛であり、同じ民族、同じ言語、同じ文化を持っているものとして深い同族感を感じているからに他ならない。中には、国家利益を考えている人もいるやもしれぬが極稀なケースであろう。 だが、戦っている日本チームの選手達はどうであろうか。もちろん相当量の同族愛は持っているであろうが、それ以上に彼らは仲間愛で戦っているのではないだろうか。日本代表というチームメイト、ジーコ監督とスタッフ。彼らは日本人の同族愛という重責以上に、チームメイトとの仲間愛に結ばれているはずだ。 これはどういう事かというと、日本全国のサッカーファンの愛国心を制御する事は何人にもできないし、当然国がそうしろ言ってコントロールしたものではない。しかし、日本代表選手の愛国心(仲間愛)は、現在のチームのメンバー構成や待遇に至るまで自己の努力と選択によって「勝ち得た」ものであり、それを維持するために別の感情が働いているはずである。 以上のように、愛国心と呼ばれるものには制御不可能で自然発生的な「同族愛」と、コントロールが可能で意図的に操作できる「仲間愛」があるという点を理解しておく必要があるだろう。 次回は、その愛国心を育む方法について考えてみたい。
2006年06月23日
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昨晩はすっかり疲れていたので、子供と一緒に寝てしまいました。なので、おもちゃは何ら進展なし。というわけで、久しぶりに時事ネタでもいってみましょー。シンドラー社「閉じ込め」事故85件…読売調査 東京都港区の高層住宅で今月3日、高校2年生の男子生徒(16)が死亡した事故機の製造元「シンドラーエレベータ」(江東区)製のエレベーターが、32都道府県で少なくとも459件の故障やトラブルを起こしていたことが、読売新聞の全国調査で分かった。 扉が開かなくなって中に閉じ込められたトラブルは85件にのぼり、うち4件は小学校で児童らが閉じ込められていた。 また扉が開いたまま上下するという、今回の事故と極めて似た重大トラブルは2件が確認された。専門家は「一般的に予想されるより、故障の率はかなり高いのではないか」と指摘している。 全国約7000台とされるシンドラー社製エレベーターについて、自治体や消防、警察などにトラブルの有無などを照会、集計した。(読売新聞) 調べれば調べるほど事故例が出てきますが、5階から1階まで急降下したとか、1階と3階を行ったり来たりしたとか怖い話も出ています。私は、よくエレベーター落下(というか、すごい斜めに傾いて揺れる)の夢を見るので、ますます恐怖が募ります。 さて、上記の文には出ていませんが、読売新聞本紙ではシンドラー社エレベータについて導入状況を記載しています。それによれば、スイス本社のシンドラー社は指名競争入札でも価格制限ぎりぎりで落札する事もあったようで、廉価競争に勝ち抜いて日本市場を切り開いてきたようです。指名競争で勝てるとなると、当然公共機関への進出が顕著になるわけで、学校や公共機関への設置例も多いようです。 事故の原因は今後解明されるでしょうか、どうも制御板、コンピューターの誤動作というのが有力ですね。機械ですから誤動作の確率は必ずあるわけですが、今回の読売新聞調査においてもシンドラー社の確率はかなり高そうにも思えます。他社よりも安い製品で故障率も高いとなると・・・・「安かろう、悪かろう」と思わざるを得なくなります。 少しでも安くするために、製品の精度に手を抜いた、と結論づけるつもりはありませんが、昨今の事件・事故に起因する多くの要因にはこうした廉価競争が背景にあったことが思い出されます。そもそも、競争入札というのは談合防止や価格競争のためにあるわけですが、このことが異常な競争にまで発展する事は誰にでも想像できる事です。もちろん最低制限価格などという方式もあるのですが、それが何の制止力にもならないことはわかりきったことでしょう。ここで談合が良い事か悪い事かというそもそも論はさておいて、昨今のマスコミ等に主導された価格競争の助長は、製品品質の劣悪化という問題と表裏一体であると認識しておくべきでしょう。 簡単な例で言えば、ウォークマン(古いか!)のような製品で言えば、出始めの頃はオール金属製で頑強で重かったのですが、価格競争の結果、フレームを始め主要部品にまでプラスティックが使われるようになりましたね。軽くて安いのはいいですが、かなり重要な部品にまでプラ材のために破損率が高く、ちょっと落としてもすぐ壊れるようになりました。 さて、こうした価格競争の結果でも良質な製品を提供するためには、「企業モラル」というものが重要になるでしょう。最低限の安全・安心ラインを守った上での経費削減ということであり、どのあたりに安全・安心のラインを引くかが企業の姿勢とも言えます。 今回のシンドラー社のラインがどこにあったのか、事故後の対応や過去の事故対応の例を見ると、あまり高いレベルにはないように思えます。 昨今の拝金主義、利益第一主義、効率化、能力主義、いろいろな呼称で企業改革が進められてきたわけですが、その反面製品の安全性や消費者重視の姿勢を改革として打ち出している会社は決して多くありません。むしろ、マスコミや経済界で祭り上げられているのは欧米型の合理主義による企業整理を行った例ばかりです。確かに、企業は企業利益と株価の上昇というものが主たるバロメーターではあるわけですが、先般にも「会社は株主のもの」と言い放った御仁がいたように、企業=財産、資金という構図でしか図られなくなってきたのは誠に嘆かわしいばかりです。「企業モラル」という言葉が実に軽々しく絵空事のように響いています。 私は「会社は社員のもの」と信じて疑わない、古い日本型終身雇用信奉者なのですが、企業が金という物理的財産であると同時に、社員の心という精神的財産であることが忘れられているような気がします。言うまでもなく、企業は社員によってなりたっているわけで、製品開発から営業、メンテナンスまで一人一人の社員の熱意と誠意で動いています。いくらワンマンな社長であっても、社員を完全に言いなりにはできません。社員一人一人が良い製品を作ろうとか、良い仕事をしようという誇りをもって働いているからこそ成り立つわけです。ですから、社員の会社に対する誇りの程度具合が企業モラルの具合だとも言え、結局は個人個人のモラルに成り立っていると言えます。良い社員と誇りのある社員が増えれば必ずや企業モラルは向上します(利益が向上するとは限らないところがアレですが・・・)。 先日来マスコミを賑わせている堀江さんや村上さんというのは、まさにモラルというものを完全に排除した方々であり、企業としての精神的財産を放棄した典型例でもあります。こういう手法が破綻したのは良かったことと思っていますが、まだまだ日本にはこうした欧米型?経営論が流入し続けています。私が好きな日産自動車でもゴーン社長の投入によって企業経営としては息を吹き返しました。しかし、その改革によって日産自動車らしい製品の特性は失われましたし、製品へのこだわり(安全性、環境適応性)は他社に比べて遅れをとりました。さらにその裏で生活の場を失った人々も多いわけですし、個人的には日産が好きですし期待していますが、残念な思いも多くあります。 ちょっと話がずれちゃいましたが、今回のシンドラー社の件においては企業モラルというものをもう一度取り上げて貰いたいと思ったわけです。企業のモラル度、そういうものを図るバロメーターってのはないんでしょうかねえ。
2006年06月09日
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ローカルな話で恐縮だが(汗)、本日の富山のローカル紙の記事で「富山県が団体補助金610件を見直し、うち142件を廃止、468件を縮減し計21億3000万円の財政削減を行う」という記事が出ていた。 この手の補助金削減は何も富山県だけの話ではなく、国レベルでも他の都道府県でも同様に行われているものだろう。富山県も税収入の減少等によりかなり厳しい財政赤字を抱えており、スリムな行政と的確な財政支出が望まれているのは当然のことだが、この団体補助金削減にあたり記者会見した富山県知事のコメントとしたり顔を見て、今後の富山県の先行きを案じざるを得なかった。 富山県の団体補助金の多くは、経済界や文化界の外郭団体等への補助金がほとんどのようで、今回削減の対象もそうしたものが多いようだ。もちろん、削減すべき団体もあることは間違いないだろうが、少なくとも私の知っている文化団体については「廃止」という憂き目をみたものがいくつかあり、果たしてそれで良かったのかという感は否めないし、単に「切りました」から財源が浮きました的な行政改革という成果重視の内容軽視的手法は疑問がある。 そもそも、文化団体というものは何なのかというと、ほとんどが高度成長期に行政の後押しもしくは行政からの依頼によって成立したものが多い。美術、工芸、書道、華道、伝統芸能、文学など様々なものがあるが、いずれも本来は個人が余暇や趣味で興じるものであって、団体を形成するような性格のものではない。「文化」とはそういうものであって、はっきり言って個人個人が楽しめればそれでよしというものである。そういった個人的な趣味の世界に行政が後押しして、金を出すという行為そのものがおかしいと言えばそうなのだが、実はその背景には「文化の底上げ」と「伝統の衰退対策」という側面があるのだ。 「文化の底上げ」とは言うまでもなく日本人としての資質向上、民度向上のためであって、対外的な文化アピールにも繋がるものである。小中学校生は学校教育である程度補完できるが、成人については嫌でもある程度は引きずり込んで文化教育を施す必要がある、という判断によるものだ。 「伝統の衰退対策」も読んで字の通り、日本古来より伝わる伝統文化の伝承危機である。確かに文化は個人の趣味の世界でしかないため、やりたくない人はやる必要などない。時代の経過とともに「古い」ものは敬遠される傾向があるのは事実だ。しかし、グローバルな世界ではやはり国の文化というものは前面に出ざるを得ない。「いやあ、日本の伝統文化は全部廃れました、あはは」では済まされないということであり、趣味のレベルを超えて、後継者育成や技術継承のための活動をしなければならないということになる。 こうした経緯があって、文化団体に行政からの補助金等の支援で活動がなされてきているのが実態であろう。書道教室などの経済的行為が成立しているものはともかく、他人に伝授すると言う行為はそもそも趣味の範囲を超えているため、こうした経済的な支援がどうしても必要ということになる。 今回の補助金廃止の余波を受けたある文化団体の主宰者は、行政担当者からこう言われたと教えてくれた。「担当としては断腸の思いですが、知事から補助金の見直し指令が出て、10年以上継続している団体補助金は役割を終えたということで一律カットということになりました。」 確かに、ダラダラと補助を続けていくのは行政の硬直化であり好ましくない。しかし廃止するなら、当然廃止後のフォローも必要であろう。担当者はさらに「これからは民間活用、NPOの時代なので、自分たちの体力を高めて活動して頂きたい」と言ったそうである。そもそも、文化などは個人プレイの世界であるから行政が手をかけたのに、今度は突き放すというのである。伝統文化の継承はこれから先100年、200年を見越して行っていくものであり、5年や10年で成果が出るものでもない。知事が変わったら(今の知事は新任)ハイさようならでは、あまりに行政の身勝手だと言えよう。 その文化団体主宰者は、補助金が廃止になったら確実に活動は停止するので、文化の体系的な組織活動はなくなるだろうと話していた。本人の趣味としての文化活動は続くが、後継者がいないし、教室を開くにも資金がないのだそうだ。本業を抑えてまで活動はできないのは当然と言えば当然である。ちなみに、その文化活動は本来プロというものが存在しない類のものである。 はっきり言って、私個人はこの文化団体については全く興味がないので、日本の伝統から消えたところで痛くもかゆくもないのだが、日本人としては大いに恥ずかしいと感じるであろう。 行政の補助金は一度切ったらもとに戻る事はないと言われる。文化も一度断絶したら元に戻る事はない。誰かが継承しなければ廃れていく文化は、果たして無理にでも継承すべきなのかという疑問はあるにせよ、直接関わりがないにせよそうした文化の土壌の上に育ってきた日本人として努力はすべきだろうと思う。 テレビの映像で、富山県知事の「私はこんなに行政改革を断行しました。私の業績です。」と言いたげな自慢顔を見て、この人は文化などはこれっぽっちも考えていないのだなという憤りと、財政赤字解消のためには文化の切り捨てもやむを得ないのかという悲しみを感じたのでありました。
2006年02月21日
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客室増設で違法状態に、15年以上も放置…東横イン(読売新聞) 次々と不正改造などが発覚した大手ビジネスホテルチェーン「東横イン」(東京都大田区)。急成長の裏では、経営効率化のため、15年以上も前から多くのホテルで施設の不正改造を繰り返し、行政の是正指導にも従わない実態が浮かび上がった。(以下略 読売新聞) またしても起きた金儲け主義の悪。経営努力として色々な方策を講じることは決して悪い事ではないが、東横インの社長はホリエモン騒動と同様に法(条例)を遵守しないという「ズル」を堂々と公言して憚らないという大失態をやらかしてしまった。 確かに、建築基準法はザル法であり、同一基準を日本全国の全ての建築物に適応させるにはあまりに無理があることは良く知られている。従って、あまりに理不尽だったり、無意味だったりする規制事項が存在するのも事実で、法自体は決して完全ではないと言える。日本古来の伝統的木造建築を守ろうとする立場の人からも、消防法とともに日本の伝統文化を滅ぼす悪法とまで言われている。 とはいえ、法は法である。法というものはあくまで、人間が作った社会的なルールであって、一定の基準を持って抜け駆けを許さないことに意義がある。誰か一人が自分だけはと守らなければ、芋づる式にルールが壊れていくことは容易に予想され、それがために我々は粛々と法に従っているのだ。ところが、先にも述べたが、法はあくまで流動的なルールであって、人類にとって絶対的というものではない。改正もありうるし、極端に言えば全く正反対の法にだってなりうる。そのために、社会的共同体が成り立つために法は必要だが、人類として絶対に守らなければならないものでもない、という不可思議な感覚が生じてくるのだ。 今回の東横インにしろ、ライブドアにしろ、法というものの不可思議さを「不備」と勝手に解釈し、おかしなものに従う必要はないという確信犯的な行動に出た点で共通点がある。法を破っても罰金払ってそれでチャラ、というスピード違反的な発想で捉えている節がある。法を極めて軽んじて扱い、信用していないのだ。確かに、法(条例)は社会的に絶対正しいとは限らず、かつ全人に公平に機能するものではない。おかしい部分があったり、改善すべき点があれば改善していくのが筋ではあるが、今回の東横インにしろ、ホリエモンにしろ法の不備を破ることによって改革しようと言う発想は極めて危険だと言えるだろう。法を破る行為が公然と正当化されれば、法によってルール化された社会共同体の秩序は崩れる。 この感覚は近年問題視されている「若者の社会性欠如」と良く似ている。コミュニケーション不足、引きこもり、ニートなど色々と言われるが、いずれの場合も社会に対して受動的であるという点で共通する。自ら能動的に社会に参画できずに、自分の身に降りかかる災禍だけに反応しているのである。 東横イン社長もホリエモンも、法に対して自ら作り上げ遵守していこうという意識は全くない。自分に課せられた法にいかに対処するかという観点でしかなく、法は自分を包括する社会のためにあるのではなく、自分に対してだけあると思っている節がある。これが社会性の欠如である。 こうした、スピード違反的発想による「ズル」が横行しだせば、法で構成された社会共同体は立ちゆかなくなる。あとは法で縛る事の出来ない「社会的制裁」しかなくなってくる。社会的制裁はともすれば危険な一面を孕んではいる。できるだけ発動する事が無い事を祈るが、東横イン社長も、ホリエモンも、この際社会的制裁を受け、「ズル」をしないことの意味をじっくりと噛みしめて貰わねばならないだろう。
2006年02月03日
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ついにライブドアのホリエモンが逮捕されましたが、罪の重さや内容ということではなく、いわゆる社会的制裁が下されたものと理解しています。 逮捕劇に対して世論は見事に両極端に分かれました。「自業自得」「逮捕は当然」という意見もあれば、若年層やサラリーマン層では「かわいそう」「逮捕はおかしい」などといった擁護意見もあります。擁護派で特に目立つのは、「社会に新しい流れを作った」とか「若者に希望を与えた」と言ったコメントが目につきますが、これを見ていて感じた事があります。 結構昔に書いた私のブログ「道徳教育に思ふ(4)」で触れたのですが、近年の若者のモラル低下と言われている事象は、質や量の低下ではなく、「恥」や「分別」の認識が低下しているということです。奇しくもこの時のブログでは「迷惑となる「恥」「分別」のできない成人ができあがったとしたら、それは社会的制裁を加えればいいだけのことでしょう。そうやって大人になっていくものと理解しています。」と書きました。 何を言おうとしているのかというと、ホリエモン氏の一連の行動は「恥」「分別」をわきまえない行動であったということです。ルールの間隙を縫って金儲けをするということは、誰もが思いつく事ではありますが、我々には小学生の頃から慣行としてやってきたように「ズルはしない」という暗黙の行動ルールがあったわけです。 ホリエモン氏は、誰もがあえてやらないその「ズル」を公然と大見得を切ってやってしまったわけで、社会の大人達はみな苦々しく見ていたということです。世の中金で動かせない物はないなどという、余りに子供じみた言動に対して、やはり社会は動かざるを得なくなったということでしょう。 危険なのは、こうした「ズル」行為に対して同調する若者等が増えたことでしょう。世の中、ズルすれば楽で儲かることはいくらでもあります。しかし、あえてそれをやらないのが成熟した民主社会であり、文明国です。 先日、ある社会学者さんと話していたときに、分かり易い例え話で話をしました。ホリエモン氏はディズニーランドで順番待ちの列に、難癖を付けて割り込んできた客だと。割り込んではいけないという法律はないし、それに反抗する奴もいなかったので氏は列のトップに堂々と割り込めた。しかも、声高らかに「こんなに簡単に割り込めるのに真面目に並んでいる奴は馬鹿だな」と言うのだった。すると、後ろで見ていた若者達がこぞって同じように前列に割り込み始めるのであった、と。 実は、この話はディズニーランドで実際にあった話がベースであります。某大陸系の人が訳のわからない事を話して割り込んだあげく、仲間が後から後から割り込んできたのです。中国では割り込みやズルなど当たり前であって、自分の主張できる権利は全てするのが国民性です。日本人にとってこうした行為が正しいのか、カリスマ性なのか、考えてみればわかる話でしょう。 「恥」は日本人固有の文化でしょうが、「分別」は文明人の勝ち得た勲章です。ホリエモン氏のやってきた行為がどこまで「ズル」であったかは良くわかりませんが、少なくとも彼のこれまでの言動が余りに「無分別」であったことが社会の警鐘となったと感じます。「ズル」を闇で行えば良かった(とは言わないが)ものを、公然と行ったことで「恥」「分別」を知らぬ者が前面にでることを嫌ったのです。日本人の良くもあり悪くもある伝統的浄化作用が働いたのだと感じたのでありました。
2006年01月24日
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英語リスニング、故障などで436人が再テスト(読売新聞) 大学入試センター試験は21日、「公民」「地理歴史」「国語」「外国語」の試験が行われ、初日の日程を終了した。 今年から新たに英語のリスニング(聞き取り)テストが導入されたが、ICプレーヤーの故障などのトラブルが相次ぎ、同センターの22日午前1時半のまとめによると、全国で436人が再テストを受けた。同センターは今後、メーカーに原因を分析させる。(以下略 読売新聞)教諭のミスで受験できず 願書提出忘れ佐賀の2児童(共同通信) 佐賀県千代田町の町立千代田西部小で、6年担任の男性教諭(39)が、児童2人の佐賀大付属中(佐賀市)入試の願書を提出し忘れたため、児童が今月17日の入試を受験できなかったことが22日、分かった。 同小によると、佐賀大付属中の願書は小学校の担任を通じて提出することになっている。締め切りは昨年12月22日だったが、教諭は年明けと勘違いし、提出しようとした今月4日に間違いに気付いた。 同小は付属中に事情を説明したが、同中は「募集要項にのっとって公正公平に実施する」として受験を認めなかったという。 小学校側は児童と保護者に謝罪。佐賀県教育委員会は教諭と校長らの処分を検討する。(共同通信) 大学のセンター試験でリスニングにICプレーヤーを導入したそうだが、案の定故障申告が相次いだそうだ。このICプレーヤー導入の是非については特に意見を持たないが、近年の試験に対する過剰意識にはいささか不安を感じている。 上記に2種類の記事を引用したが、その意味は「機械のミス」と「人のミス」である。学生・生徒にとって試験は人生の岐路であり、極めて重要である事は確かである。それが公明正大に行われ、不公平のないように実施するのは異論のないところであるが、その結果機械に頼るようになってきたということだろう。 さて、皆さんは下の佐賀県の記事をどうご覧になったであろう。ミスをした教諭が処分されるのはいたしかたないところであるが、付属小が受験を認めなかったのは余りに無慈悲と感じる。人間という生き物は、どんなに注意していても必ずミスを犯すものであるから、本来それをフォローするシステムが必要である。しかし、JRの脱線事故にしろ、日航機の事故にしろ、世論では人為的ミスを人為的にフォローするシステムについてはあまり顧みられていない。 この原因には、人為的ミスを減らす手法として、機械に頼る傾向があることと、人の裁量権の幅の縮小にあると思っている。 前段の機械に頼る傾向は時代の流れでもあり、ある程度やむを得ないものだと思うが、機械絶対信頼主義には警鐘を鳴らずべきであろう。あくまで、機械は人間のフォローに回るべきものであり、「壊れる」ものであることを理解してフォロー策を考えておかなくてはならない。 最も気になるのは後段の裁量権の幅の縮小である。確かに人為的ミスのほとんどは、個人の裁量の範囲内での思惑違いに端を発している。人為的ミスを減らすにはその裁量幅を切ってしまえば事が足り、その部分を機械が受け持てば済む。我々は、余計な事をせずにマニュアル範囲内の事をマニュアル通りに勧めればいいというこになり、実際あらゆる職種でそのような傾向にある。 しかし、果たしてミスは完全になくなればいいのであろうか。ミスのない社会は一見いいように思えるが、その発展性はないと言える。人類の発展はミスや欠陥の克服にあるのであって、それなくして改革や改善という文字も存在しない。さらに、ミスや欠陥の克服は人間が考え、工夫して行うものであり、決して機械が自動的に行うものではない。 我々の社会は、マニュアルやルールに雁字搦めにされ、多くを機械によって管理されてしまっている。このことは、自分の裁量というものを許されなくなったということでもあり、義理人情・慈悲というものが無視されていることでもある。逆に言えば、責任回避のための手段でもある。自らの裁量権を放棄することによって自分の責任の所在を明確にしていると言っても良い。 その結果、他者のミスや欠陥を指摘することに終始し、いわゆる創意工夫の能力は乏しくなってくる。個性の時代へなどと言っているが、まるで逆行しているのだ。 話がセンター試験から離れていってしまったが、人間という生き物である以上、また機械は故障、破損という宿命を持っている以上、絶対公平性というものは確保できない。もちろん、出来る限りの公平性は確保すべきだが、我々人類は絶対公平性の享受などと言う夢は捨て去る必要がある。人それぞれ、人生には色々な障害や課題が出てくるのであるから、早くに不公平性を知る事も大事なことかもしれない。 そして、人為的ミスをフォローする裁量権の復権を切に望みたい。マスコミのようにミスをあげつらう風潮こそ憂慮すべきであり、義理人情・慈悲の心で助け合うシステムは重要だ。その安心感があるからこそ減るミスも多くあるのではないかと思うのだが。 なんでもかんでも、ルールやマニュアルで管理され、他人のミスに目を光らせているようなせちがない世の中にはもううんざりである。 一番かわいそうなのは、勝手に完全だと信頼されてしまったICプレーヤーかもしれない。
2006年01月23日
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東証、初の全取引停止 一時700円下げ(産経新聞) はっきり言って、株式や金儲けについてはとんと縁がないので、口を出すなと言われればそれまでですが、今回のライブドアの強制捜査でちょっとホッとしました。 というのは、もともと私は株式制度というもの自体がどうもすっきり理解できないのと、近年の個人投資家(デイトレーダー)の急増という現象を苦々しく思っていたからです。もちろん、合法的な枠組みの中での話ですから投資家の方々の存在を否定する気も、非難する気も毛頭ありませんが、果たしてこれでいいのかという一抹の不安はあったわけです。 すでに、多くの紙面や評論家、一般の方が述べているように、堀江氏のライブドアやデイトレーダーの行動様式は、マネー至上主義であったわけです。株式制度自体は、社会資本の循環を促進するための投資であったわけですが、堀江氏やデイトレーダーの視点は決して、そこにはないと言えましょう。ある経済学者が言っていましたが、日本の株式制度は消費者・社員のためにあるものであったが、堀江氏らの出現によって株主のためという考え方が出てきたと言います。いわゆる株主至上主義というものらしいですが、株主=金を握っている者が全権を持っているという認識は、マネー業界では当たり前なのかも知れませんが、社会的には決して当たり前とは言えないはずです。それが、堀江氏へ嫌悪感を抱く人々の拠り所ではないでしょうか。 「人生金が全てではない」こんな言葉は古くから使い古されてきたわけですが、堀江氏の金でできないことはないと言い切る姿勢は、余りに子供じみて愚かしいものでした。今回の強制捜査によって、人間の倫理的部分に警鐘を鳴らしたという点で、私は高く評価しています。 日本人の特性として、義理人情、道徳心というものがあります。はっきりと物は言わずになあなあで事を流したり、多少悪い事であっても「嘘も方便」として受け入れる寛容さもあります。しかし、きっちりとした明文化を良しとしない日本人でも、決して許されない行為があります。それは「裏切り」です。義理も人情も道徳も全て「信頼」によって築かれていますが、その信頼を根底から崩す裏切り行為は、修復のできない最悪の行為とされます。 これを今回の株式制度に当てはめてみた場合、本来の企業をもり立てるために投資しようと言う株主の行為、消費者や社員、そして株主に答えるべく頑張る企業の姿勢は全て「信頼」に基づくものです。しかし、堀江氏のM&Aは思い切り裏切り行為でしかない。さらに個人投資家のデイトレードにしても、そこには企業に対する投資家の信頼は極めて希薄です。 今後、どのような倫理観が示されるのかが注目ですが、私としては、株式で儲けることはいいにしても、一攫千金を夢見た若者が、「信頼」を知らずして「裏切り」にだけ奔走するような仕組みだけは避けて貰いたいと切に願うのであります。堀江氏のばらまいたドリームは、私には悪魔の囁きにしか見えないのでありました。
2006年01月19日
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超少子化国 来年にも「人口減少社会」(産経新聞) 政府は十六日の閣議で、平成十七年版「少子化社会白書」を閣議決定した。一人の女性が生涯に産む子供の平均数(合計特殊出生率)が十六年に過去最低を記録した日本の現状について、「超少子化国」という表現を使い、死亡数が出生数を上回る「人口減少社会」が予想された十九年より早く到来する可能性を指摘した。 白書によると、十六年の出生数は約百十一万千人で前年比で約一万三千人減少した。十六年の合計特殊出生率は1・289で、過去最低だった十五年の1・291を下回った。「人口動態統計速報」によると、十七年上半期の速報値は死亡数が初めて出生数を上回っている。 白書は「社会全体で若い子育て世帯を支援し、少子化の流れを変えなければならない」と提言。地方自治体が独自に実施している事業などを紹介している。(以下略 産経新聞) ついに人口マイナス状態に入ったわけですが、政府の少子化対策については以前から言われているように、小手先の中途半端なものでしかないのが気になります。児童手当の拡充、育児休暇の復帰者支援など、確かに必要なことではありますが、少子化の根本的な解決につながっているとは思えません。 まず第一に、職を持つ女性が子供を産みにくいとか、再就職先がないという問題は古くから指摘されており、さらには女性の社会進出とともに、自ら責任ある立場を産休で放棄できないという問題も発生しています。これを企業側の努力によって育児休暇の促進や再就職の促進を図らせるという、現在の政府の政策には無理があるでしょう。そもそも企業は営利組織であって、ワンマン経営ならばともかく、そうでない企業にとっては経営にマイナスになる行為に積極的に取り組むはずもありません。公務員でさえ、育児休暇があまり取られていないと言われている中、民間企業で実施されるのは到底無理というものです。 こうなると、育児休暇を取らせない企業にはペナルティを与える制度にするか、もっと根本的に企業から多少白い目で見られようとも、女性自身が育児休暇を取った方が有利と思わせる支援制度を作るしかないのではないかと思います。最初は企業も仕方ないと思っていても、次第にそれが当たり前になる日が来ます。 第二点目に、児童手当の拡充(小3から小6まで引き上げ)などの金銭的支援も出されていますが、我が家にとっては大変有り難いことは有り難いのですが、はっきり申し上げて、これから子供を産む人にとって、月5,000円の児童手当が貰えることで、「良し産もう」と思うかどうかは疑問です。 そもそも、政府の少子化対策研究などを見ていても、かねてより税制調査会の馬鹿な委員発言などもあるように、政府の各諮問機関が少子化問題の本質をきちんと調査、研究しているとは思えないのです。いろいろな調査、アンケートを見ても、出産世代を対象に「何故子供を産まないのか」という統計はほとんど見ることがありません。少子化の原因は子供を産まないことであって、子供を産まない理由を直撃、分析することが一番重要なはずです。 とは言っても、実は私もかつて少子化対策プロジェクトに関わったことがありますが、現在の「個人情報保護法」に引っかかって、出産世代の少子化原因の統計を得ることができませんでした。ただ、明確な根拠とデータを提示することはできないのですが、保育園、幼稚園児の親の年齢、学歴、収入による相関関係に着目したことがあります。実は、学歴と収入は思い切り個人情報なので外部に出すことは出来ないのですが、ある一定の法則性を見いだすことが出来ます。こういう言い方は極めて語弊があるのでしょうが、学歴が低い=脳力の余り良くない部類に属する人の比率が高いのです。つまり、ヤンママ系とも言われる若くして子供を多産する方々の比率が高い。それに対して、高学歴系は年齢も高く、初産の子が多いのです。 このことは、言うまでもなくインテリ系の晩婚化、非婚化、非出産傾向を示しているものであり、少子化の最も大きな要因と思われます。つまり、このインテリ系に子供を産ませることが少子化対策の近道なわけです。実は、ここまでは政府機関も調査済みで、この対策が先の育児休暇促進政策につながっています。インテリ系=職業女性=育児休暇という構図なのです。 しかし、ここから先が異なるのです。いわゆるインテリ女性に突撃アンケートを取ったらどうなるでしょうか。多分、育児休暇が取りにくいから子供を産まないという人はさほど多くないと思われます。別に根拠があるわけではありませんが、多くの女性はさしたる理由も持たないはずです。「相手がいない」「子供が嫌い」「子育てが面倒」などと言うかも知れませんが、それらは総じて「子供を産む義務感の欠如」として捉えられるのではないかと思っています。 話がそれていきますが、そもそも旧社会(戦前、江戸時代以前)において、子供は地域社会の宝でした。宝というのは将来の働き手であると同時に、子供時代は地域の貴重な小間使いだったからです。自分の家に限らず、年長者が年少者の面倒を見、水汲み、買い物など些細な事は地域の子供達が担う社会構造です。ですから、成人して結婚して子供を産むのは当たり前で、産まないことは地域社会にとってはマイナスでしかないのです。 現代になっても、社会構造は大きく変わったとはいえ、年金問題など子供たちが各家庭の次元を超えて社会の担い手であることは変わりがないのです。ところが、ある段階から、義務であった子育てが権利となり、さらには、産まないことが権利となってきたことに大きな要因があると思っています。 そういう視点で、上記のインテリ女性たちの「子供を産む義務感」の欠如という表現をとりました。これは女性だけではなく男性も全く同じですが、自分のやりたいことが子育ての義務より優先するという結果を生んでいます。確かに法律的にも、結婚も出産も個人の自由です。誰からも強制されないし、好きなようにすればよい。ただし、昔は結婚、出産が当たり前という暗黙の了解が前提であったのであり、その前提が崩れたいま、その義務と権利については再考する必要があると思っています。 現在の少子化施策は基本的に、一般的な税制・支援を基準に、子供が生まれると控除や補助などの付加的支援を加える構造になっています。しかし、上記の子育ての義務という概念を前提にするならば、子育て家庭を基準に、子供のいない人に課税していくようなシステムの方が有効かと思います。結果的には一緒のことかもしれませんが、やはり社会的義務に反しているという感覚を感じさせることが必要だと思うのです。 言いたいことを勝手に言ってきましたが、現在のままでは少子化は食い止められないでしょう。さらに、大学等の教育費の軽減や医療費など様々なところで複合要因はあるでしょう。このあたりで、抜本的な対策を考える時期だと思うのですが。 もしくは、少子化を見越した社会体制の整備をするかです。それこそ、日本は冬の時代に突入することになるでしょうが。
2005年12月23日
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政府の「規制改革・民間開放推進会議」がいよいよ美術館・博物館の民間開放にむけて、独立行政法人国立博物館の市場化テスト導入の検討を始めた。これまでも、数多くの公共事業の民営化が進められてきたが、ついに文化分野にまで及ぶに至り様々な議論が起こっている。 推進派は、これまでの民営化と同様に公共事業の「効率化」を主張し、サービスの最良化・効率化を目指そうというものだ。これまでの公立博物館の独占的運営が、いかに効率が悪く独善的であったかを指摘するもので、民間導入でより良いサービス、より良い人材登用が可能になるとしている。 確かに、民間ノウハウの導入により、「もっと魅力的な展示の開設」「子供・児童向けコンテンツの充実」「夜間開館など柔軟な対応」が可能になると思われ、美術館・博物館のイメージは一新されるものと思われる。 一方、反対派の文化庁、日本画家の平山郁夫氏などは、日本文化の継続性は一時の変革によって惑わされるべきではないという視点に立ち、総体的な文化事業の運営は高い専門性を要求され、長い蓄積と経験が必要である(公共主導のもとで行われるべき)とする。平山氏は民間公開により、文化の蓄積が失われ、国際的信用も失うだろうと指摘する。 確かに、現段階で民間が十分にこれまでの美術館・博物館の蓄積と経験を肩代わりできるとは思えない。民間がそれを得るにはさらに数十年の年月がかかるであろう。 さて、両者の議論はご覧の通り、焦点が一致しておらず平行線のままである。推進派は経済性を重視しており、文化のなんたるかは眼中外である。一方反対派は文化の特殊性に言葉を借りて、利権に固執している感がなきにしもあらずだ。 ここで、そもそも美術館・博物館はどのような経緯で作られているのかを考えてみたい。日本国民たるもの文化を公平に享受できる権利がある。また、国家にとっては国民に日本伝統の文化を滞りなく知らしめる事が日本文化の伝承、ひいては国家安泰のためになる。そういう視点から、公共機関が設置した美術館・博物館は設立されたと言って良い。博物館法による定義では「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む)し、展示して教育的配慮の下に、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関(博物館法第2条第1項)」とある。 つまり、日本文化(外国文化も含めて)を網羅的に収集し、国民に提供するのが主たる業務なのである。ここで、勘違いしてはならないのは、「一般公衆の利用に供する」という点であり、これは博物館側が一般公衆に「見せてやる、見てくれ」というのではなく、一般公衆の「見せてくれ」という要望に応えるものであるということだ。 上記の点を考えるに、確かに現在の美術館・博物館行政はサービス面ではまだまだ改善すべき点が多い。民間参入により、一般公衆の「見せてくれ」というニーズにもっと柔軟に対応できるだろうし、そうした声を拾う事も可能になるだろう。推進派はまさにこの点を撞いているのであり、ニーズに応えれば観客も増え、収入も増え、その分さらに新たなコレクションも購入できるし新たなサービスも可能になる。この観点においては何ら異論を挟む余地はない。 しかし、博物館行政において重要な業務の一つとして「展示活動」のほかに、定義の下段にあるように「これらの資料に関する調査研究をおこなう」とある点にも着目せねばならない。展示活動は我々一般人から見れば、単に収蔵品をチョイスして並べれば良いだけのようにも思っているが、実はコンセプト設定、作品借用、解説書作成など実に多用な業務の上に成り立っている。さらに、コンセプト設定と簡単に記述したが、コンセプト設定は事前の膨大な調査研究成果の上に成り立っている事を忘れてはならない。 歴史系博物館で言えば、一つの文書を展示するにあたり、その文書の解読と出所の調査、関連する歴史文献の調査などを経て、文書が展示に値するかどうかを判断する。それがあって初めて展示物が博物館資料としての価値を得る。つまり、一作品の展示の背景にはその何十倍もの時間と労力が隠されているのだ。こうした背景の調査研究がなされていない展示物は、まさに単なる珍品陳列でしかない。 文化庁、平山氏はこの点を強調しようとしているのだ。美術品の価値評価そうだが、特に歴史系の場合、歴史認識の正統的評価は蓄積と経験に裏打ちされたものでなくてはならず、歴史問題が国家間問題に発展するように、政治的、経済的権力から独立した公正な視点である必要がある。 民間開放を受けて、今後の実際がどうなっていくかを考えた場合、やはり文化庁・平山氏の懸念は払拭できない。想定するに、企画展示は観客の入るものを設定することになろう。私が知っている美術館などでは年に数本ある企画展示のうち半数以上は大赤字だそうだ。黒字になる企画展は、皮肉にも平山郁夫氏など超大物作家の展示なのだそうだ。確かに、平山郁夫氏などの著名展示を行えば黒字にはなるが、そのかわり余り名の知られていない地元作家や、学術性の高いコンセプト企画などは見向きもされず抹殺されていくだろう。歴史系にしてもしかりである。これらは確かに一般公衆のニーズに応えたものと言えるが、博物館活動が網羅的ではなく局所的になっていく危険性をはらんでいる。このことは更には美術館・博物館が儲かるものに偏っていくという特化化につながり、収集、調査研究業務が偏ることにもなる。ついでに言えば、全国の美術館・博物館が同じ儲かるものに集中する事により、美術館・博物館の淘汰が行われ、当然のことだが地方の美術館・博物館は潰れていく運命にある。 先に挙げた一般公衆の「見せてくれ」という要求は、単に珍品・逸品だけにあるわけではない。マイナーかも知れないが、網羅的な調査研究の成果を「見せてくれ」というニーズに応えるのも美術館・博物館の重要な責務なのである。大学の研究は特化したテーマを深く掘り下げるものだが、広範の情報を体系的にまとめあげる調査は、美術館・博物館学芸員の仕事でもある。これを肩代わりできる機関や民間組織はないであろう。 美術館・学芸員が行う調査研究の多くは、直接企画展示に結びつくものはあまり多くないと聞く。しかし私は、これらの行為が無駄というのではなく、日本の文化を継承していく上での貴重な下地であるという点を強調したい。これらの体系的に整理された情報があってこそ、世に出るメジャー作品の価値付けにつながってるのだから。歴史を理解する上でも、メジャーな出来事だけに着目した研究は必ずや破綻する。武家の生活を研究する上で、平民民衆の生活を知らずして語れないのと同じ事である。 21日に最終答申が出るそうだが、果たして結果はどうなるのか。管理部門の民間開放は推進すべきだと思うが、学芸部門の開放は時期尚早だと思う。まあ、国立博物館はもともとお上の博物館だから、多少の民間開放でも問題はないだろうが、この市場化テストの余波が地方に及んだとき、日本の文化性が失われるかもしれない。 最後に、ある知識人が、「金にも役にも立たない研究など無駄だ」と暴言を吐いた事があったが、自国の歴史を知らず、文化を尊重できないなど余りに愚かだ。自己の存在価値を捨て去る刹那主義でしかない。これこそ赤化革命の論理と一緒なのである。規制改革・民間開放推進会議 規制改革 神戸新聞社説
2005年12月19日
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「二重チェック制」や抜き取り調査導入へ 国交省(産経新聞) 姉歯秀次建築士による構造計算書の偽造問題を受け、国土交通省は、建築確認など建物の検査体制のあり方を抜本的に見直す方針を固めた。偽造を見抜けなかった民間確認検査機関への信頼性が大きく揺らいでいることから、二つの機関による「二重チェック制」などを導入したい考えだ。 また、民間機関に対する国交省の調査は年一回程度の形式的なもので、「事実上の放置ではないか」(建設業関係者)との指摘があることから、抜き取り調査などを行って監督も強化する。(以下略) 起こるべくして起こった問題である。私はかねてより軽々しい民営化は危険であると述べてきたが、まさにその弊害というよりも当然予想された事態が明るみとなった。 公務員削減公約に思ふ あまりこの分野は明るくないのだが、1999年の民間検査機関導入以前は、各都道府県や大きい市に所属する「建築主事」と呼ばれる人たちが建築確認検査をしていたのだそうだ。いわゆる建築担当課やその出先機関で申請し、認可をもらうシステムである。これが、政府の行革推進本部の意向によって民間参入が許されることになった。当時の行革推進本部では「建築主事は既得権益を持っており、全廃すべき」との強硬意見もあったそうだ。 その結果、現在では建築確認の取り扱い数は、民間が行うものが行政が行うものを超えるまでになった。民間は行政に頼むよりも手数料も高いはずだが、利潤を求める建築主は目先の金額や安全性よりも、時間と目こぼしを選択したようだ。 そもそも行政とは公平かつ正直に業務を行うためにある機関であり、何やら最近では不正や贈賄の典型例のように捉えられがちだが、本来は民間とは比べようもないくらいに真っ正直な所である。そのため、融通が利かない、業務が遅い、愛想がないなどの批判も受けるのであるが、贈賄や目こぼし、ミスを避ける上では、仕方のない所だろうと思うのである。 法令遵守のための業務は、申請者から「早くしてくれ、ちょっと大目に見てくれ」と言われようと耳も貸さずに決められた検査と手続きをこなすことが求められる。それは、安全性と公平性の確保の第一歩である。ところが、民間の場合、金の動きがあったのかどうかは知らぬが、互いに営利目的であるが故に手抜きが発生する。 今回の事件で驚いたのは、検査機関会社のコメントで「申請から3週間以内に審査を終えねばならないので、数千項目のチェックは無理なので主要な10%程度の項目に絞り込んで点検するしかない」と言うのである。初めに時間ありきであり、加えて平然とその手抜き方策を実現しているのである。民間企業における利潤のための経営努力というのは、「無駄を省く」と言うよりも「最低限必要なもの以外は切り捨てる」という方策をとるのが通例である(この陰で泣いている失業者も多いのだが)。役所の場合は、やったとしても無駄を省くところで止めざるを得ない。それは民事関係法令を預かる以上は、必要がなくても法令上守るべきものは守らなければならないからだ。ここに、行政と民間のスタンスの根本的な違いがある。 私が先の日記で、民事法令を扱う行政部門を民営化すべきではないと言ったのはまさにこの点であり、その責任を取れるのはやはり行政以外にはないと考えている。 あるブログなどでは今回の責任を行政に押しつける向きもあるが、それこそ本末転倒である。民営化を進めてきておいて、責任は行政にあるというのは余りにも虫が良すぎる話。過去の判例でも行政責任を問う例もあるようだが、今回のような民民間での責任を行政が問われるようであれば、民間の反省や自浄は期待できない。儲けるだけ儲けて、やばくなったら倒産、破産か。補償費用は行政で、なんてことは絶対に許してはならない。 今回の検査機関は民間会社であるが、その検査員は「みなし公務員」なんだそうだ。守秘義務もあるし、贈賄罪にも問われるのだとか。結局の所、民間会社参入と言えども、根幹部分では行政的であることを求められる。その上、今回のような事件が発覚すれば締め付けも厳しくなる。そうなれば、民間会社である必然性がなくなってくる。 民営化神話が起こした弊害はこれだけに留まるものではないだろう。各方面で行われている民間導入の陰で、バッサリと切り捨てられたものがあることを頭に刻んでおかなくてはならない。法令は10%しか守られていないのだということを。
2005年11月24日
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<東武鉄道>長男を運転室に、運転士解雇に「厳し過ぎる」 東武鉄道の30代の運転士が、長男(3)を運転室に入れて約4分間乗務したとして、同社が懲戒解雇の方針を固めたことが明らかになり、同社に「解雇は厳し過ぎる」などと抗議が殺到している。寄せられた電話やメールは、11日夕時点で約1500件に。しかし、同社は「解雇の方針は変えない」としている。 問題が起きたのは、1日午前11時50分ごろ。東武野田線の大宮発柏行き普通電車(6両編成)の1両目の先頭に、運転士の妻と長男、長女(2)が春日部駅から乗り込んだ。走行中に長男が運転室の扉をたたき始めたため、運転士が注意しようと駅に停車中に扉を開けたところ、長男が中に入り、しゃがみ込んで泣き出した。出発時刻になったため運転士は出発。隣駅まで長男が同乗し、到着後に妻に引き渡した。この日、運転士の勤務は同線の途中の駅までで、午後からそのまま家族4人で、買い物に行く予定だった。 寄せられた抗議は「処分は仕方ないが厳し過ぎる」「長男が将来、自分のせいで父親が解雇されたことを知ったらショックを受ける」など。運転士は現在、自宅待機を命じられている。 同社は服務規定などで、第三者を運転室に入れないよう定めている。入れた場合の処分は明文化していないが、同社は「安全運行を使命とする鉄道事業者にあってはならないこと」と解雇方針を変えるつもりはない。【堀文彦】(毎日新聞) 結局解雇されたようで。個人的に言えばやっぱり厳しすぎるかと思いますね。最近の鉄道関連不祥事・事故のあおりをうけて自浄作用が働いているとはいえ。 会社の危機管理体制の強化という物が社会的に進んでいる今日ですが、そのマニュアル的な管理システムの裏で、いわゆる人情という物が切り捨てられていくのも実状です。確かに、危機管理は確率ゼロにするまで徹底した目標を掲げる必要があるのは道理ですが、それを突き詰めていけば人間の感情や個性がその最大の障壁になる事もわかっていることです。 このことは、私個人的にはマスコミの責任が大きいと思っているのですが、事あるごとに社会のミスを重箱のスミまで突くように書き連ね、人為的ミスが致命的であるかのような印象操作を行ってきた事です。人間社会であるのだから全てのミスは人為的ミスで当たり前。あとは、どこの点で妥協点と解決策を模索するかの方がずっと建設的だと思うのですが。 その一方で、社会の人情に訴えるのもマスコミ。これだけ、管理社会と人情が遊離した、矛盾した論調を貼るのはマスコミの特性でもあり、それを真に受ける人々の愚かさでもあります。 そもそも、人情とは「甘さ」であり、非道理であり、想定外のことです。全てを法令やルールで縛っていけば人情などが成立する余地はないのです。人情のない世の中の成立を本当に我々は望んでいるのか、といえばそうではないでしょう。ではどうすればいいのか。 私個人的には、他者の責任を追及しない事だと思っています。自分の身に降りかかった事は致し方ないとしても、他者のミスをあげつらう事はやめることです。もちろんミスを犯した物は何らかの制裁を受けるわけですから、第三者がそれ以上の制裁に関与しない事が寛容の心だと思うのです。 何を言いたいかというと、新幹線車掌が乗務中に撮影 HPに写真掲載、懲戒解雇(共同通信) にもあるように、東武鉄道の場合もいわゆる「チクリ屋」がいるということです。もちろん、全てに目をつぶれとか、ちくるなとは言いませんが、懲戒解雇になるような処分に至る事を望んでチクっているのでしょうか。我が身を振り返ってみれば、甘い事、他人の世話になることばかりです。叩けばいくらでも埃の出る身。誰にでも同じ事のはずです。「甘さ」が社会問題・事故の温床であることは確かな事実。しかし、我々が人間らしく生活できるのも「甘さ」のおかげであるのも事実。あんまり余裕のない生活・社会になることは果たして住みよい社会への近道なのだろうか。などと思うのでした。 にしても、解雇は厳しいよねえ。役所より官僚的と言われる東武鉄道のことだから、裏で何か善後策でもあるといいんだけどねえ。長男(3)がグレないためにも人道的処置希望。
2005年11月16日
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自民党、新人議員対ベテランで「マナー」論争(読売新聞) 先の衆院選で初当選した自民党新人議員83人でつくる「八三会」(土屋正忠会長)が、禁煙運動に乗り出した。 マナーから政党や国会を変えようという試みだが、一方で先輩議員からは、「新人議員の方が議場でのマナーがなっていない」との怒りの声が出ている。(中略) 一方、自民党の川崎二郎議院運営委員長は20日の議運理事会で、新人議員について、「本会議場の壇上からヤジを飛ばしたり、起立採決で(賛成表明なのに)立たなかったりと、与野党ともルール、マナーを守っていない」と各党に注意。民主党の野田佳彦国会対策委員長は21日の記者会見で、自民党の藤野真紀子氏が講演で本会議を欠席したことや、片山さつき氏がテレビで民主党の前原代表を「こいつ」と呼んだことを挙げ、「社会人の常識に欠ける。『小泉チルドレン』の座る席はチャイルドシートだ」と強く批判した。(読売新聞) 確かに世の中では禁煙が行き渡り、煙草を吸うスペースを探すだけでも大変になってきていますからね。未だに、禁煙の会議でも国会議員が来ると灰皿を出すというケースもありますから、国会議員は特権意識があるのかもしれません。 しかし、禁煙に限らず、ヤジのルールだとか、こいつと言っただの、この記事を聞かせてやったうちの幼稚園の娘曰く、「なんだか幼稚園みたいだね」・・・・端的に物を言い当てています。 大体において、国会でのヤジ・罵倒の姿は見ていて気持ちの良い物ではありません。品位も方正もよろしいはずの国会議員があのように、人の話を聞かない、遮る、馬鹿にする姿を子供達が見てどう思うかは言わずとも知れたこと。いつから、国会での戦術になっているのかは知らぬけれども、日本で最もマナーもルールも守られていない下品でゲスな場と言ってもいいでしょう。 この他、大仁田議員と新人杉村議員のバトルもお茶の間を賑わせていますが、それはそれで見ていて、馬鹿じゃねえのかと面白いのですが、果たして国会議員の為すべきことでしょうかねえ。国会は幼稚園かと疑いたくなります。 それらも、今回の選挙もしかりですが、パフォーマンスと、芸能性に頼り切った選挙のツケだと言えるでしょう。国会議員をステータスと考えている議員がいる以上、こうしたおままごとは永遠に続いていくのでしょう。 全く持ってくだらない・・・・<ミリタリーフライトジャケット>MA-1のページを更新しました。JOHNBULL ジョンブルフーデッド・MA-1ちょっと風変わりなMA-1?かな フード付きでデニム地のMA-1といえるのかどうか微妙だけど、エラく売れているようです。
2005年10月23日
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「太りすぎて作業着が着られなくなった」--米会社員のズル休みが増加(CNET-JAPAN) いまや、社員が欠勤する際に会社に入れる連絡も、「飼い犬に宿題を食べられた」という学生の言い訳も、レベルはたいして変わらないようだ。 米国では、会社員のズル休みがこれまでになく増えているようだ。求人情報サイトのCareerBuilder.comが行った調査では、米国の会社員の 43%が、ここ1年の間に少なくとも1回は仮病を使って仕事を休んだ経験があると回答している。CareerBuilder.comは米国時間4日に調査結果を発表し、この数値が、35%という2004年の調査結果を上回ることを明らかにした。 調査結果からは、多くの会社員が休暇をとる理由(体調が悪いのか、それともレジャーに出かけるのか、など)をさほど意識しなくなっていることが読み取れる。調査では、全回答者の3分の1以上が、どちらも同じ休暇であると認識していることが判明した。なお、調査は8月に2450人を対象として実施された。(以下略 CNET-JAPAN) 今日はあんまり書く事がないので、ちょっと目についた記事から。 サラリーマンならたいてい年次休暇という制度があって、年間一定数は休暇を取る権利を持っていますね。その休暇を取る理由に「仮病」を使うということらしいですが、私なんて日常茶飯事だったりして(笑)。権利である休暇を行使するのに理由なんて必要なのか!・・・などと言ってみたいのですが、実際にはなかなかそうは行かないのが現実です。 個人的には、日本人は働き過ぎだし、真面目すぎると思っています。他人が休むのに目くじらを立てるなど人格上問題があるとさえ思います。この背景には「俺が働いているんだからおまえも・・・」という無意味な平等観念と、「物理的に問題がなければ(体調)働くのが当たり前」という勤勉さから来る脅迫観念にあります。これらは日本人の特性でもあり、欠点でもあるのですが。 ただ、休暇を取る事から生まれる新価値も注目すべきだろうと思っています。文化などは余剰価値から生まれる所産ですし、精神的余裕がなければその発展も期待できません。また、余暇から生まれる副産物にレジャー産業、娯楽産業があります。休暇を促進することで、経済的にも良い結果が生まれる可能性も大きいでしょう。 多くの会社では、建前上、休暇に理由は必要ないことになっているはずです。しかし、実態は正当な理由がなければ休めないようです。確かに管理職からすれば、一人の欠員で業務ができなくなるケースもあり、休暇もコントロールしたいのもわかります。休暇どころか、倒れる事すらできないなどという笑い話にもならない話も聞きます。 加えて、上記記事では「しかし、こうしたジョークがいつまでも上司に通用すると考えるのは間違っている。マネージャ層の23%が、正当な理由なく欠勤した社員を解雇したと回答している。」んだそうで、能力主義アメリカはとっても怖いですねえ。 まあ、そういうわけで(どういうわけだ)、休暇ぐらいとれる体制を作らなければ、日本の文化は廃れていくぞという危機感を表示しながら、今日もまたわたしは仮病の理由を考えるのであった・・・(爆)
2005年10月06日
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愛知万博最終日、ドイツ館など会場全体で大混雑(読売新聞) 愛知県で半年間にわたって開催されている愛・地球博(愛知万博)は25日、最終日を迎えた。(以下略 読売新聞) 終わってしまうと寂しいものですね。開幕直後に行ってきましたが、予約だとか、長蛇の列とかで大変でしたが、結構楽しめました。前回の万博はまだ小さかったもので連れて行ってもらえず、今回は意地でも行くぞと決めていました。 そんな万博ですが、終幕を迎えて思ったことをいくつか。 今回の万博のシステムはインターネットを使ったりと、時代の最先端を先取りしたような形を取りましたが、実態は非ネット人口に対して実に冷たいものとなりました。ネット予約をしなければ見ることの出来ない主要館では、あまりに寂しすぎます。環境に優しくというキャッチフレーズでしたが、人には全然優しくない万博となりました。最終日のドイツ館は開園直後から5時間待ちなど、常軌を逸しています。ネット技術の有効性と、実態との隔離が浮き彫りになったと言えます。ネット技術に依存しすぎることの危険性と未知さを思い知らされたとも言えるでしょう。 もう一点は、業績評価システムと商業ベースの価値観の変化です。今回の万博は民間と行政がタッグを組んで実行委員会方式となっていますが、後にも先にも評価指標が「入場者数」だけです。商業ベースから見れば、売り上げという指標もあるのですが、行政が関与すると大体はこの入場者数という指標にたどり着きます。確かに、何かのイベントを起こせば、達成目標などをたてる必要があるのは理解できますが、今回の万博のようなものは単に人が入ればいいというものでもないはずです。結局の所入場者数稼ぎに奔走し、入場者数に見合った対応までは至っていなかったと言えるでしょう。 さらに、パビリオンは民間商業ベースですから、お客間相手とはいえ、所詮採算性ベースでしかないです。確かに各パビリオンとも混雑防止等にいろいろ工夫はしてましたが、民間商業ベースでは限界がありました。 今回の万博を見て、哀しいかな近年の採算性、効率性重視の弱者斬り商業価値観がひどくクローズアップしたように見受けられました。万博は商業目的なのか、公共目的なのか、微妙なところですが、やっぱり日本を上げてのイベントですから、万人が楽しめるように商業ベースに公共的な管理体制がもっと入っても良かったのではないかと思うのです。ところが、公共団体自体が民営化や効率化推進の風潮で民間化傾向が強いでしょうか、何ら改善に寄与できていなかったように思います。 今回の万博では障害者や子供に対しての配慮の工夫がされていましたが、弱者はそれだけではないと思います。今後発生するだろう、経済的弱者、情報弱者に対する配慮という観点が薄れていけば、どうなるのか。ちょっと不安を感じた万博なのでありました。 <ミリタリーなグッズ情報>サウスアフリカサイドBAG \1,350特売中です。ショルダーバッグになります。
2005年09月25日
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公務員の人件費削減に数値目標、諮問会議で提案へ(読売新聞) 第3次小泉内閣の重要な政策課題となる公務員の人件費削減問題で、経済財政諮問会議(議長・小泉首相)の奥田碩・日本経団連会長ら民間議員4人は21日、総人件費削減に向けた数値目標を設けるよう提案する方針を固めた。(中略) 2005年度予算の人件費は、国家公務員が5兆4410億円、地方公務員が22兆7240億円に上る。地方公務員の給与は国家公務員にならって決められる例が多いため、民間議員は、地方公務員の給与の抑制にもつながると見ている。(読売新聞) また公務員の質を落とそうという画策があるようですね。国家公務員の給与が高いとは決して思いませんが、今日は最後の段である地方公務員の給与の抑制にもつながるという所で引っかかりました。 人数を減らすのはまだいいが、給与は落とすなというのが私の持論です。給与を落とせば公務員の質は確実に落ちます。それは、私でなくとも想像がつくのではないでしょうか。 給与の一例を挙げておくと、大学の友人Aはマスコミに就職し初任給は20万でした。一方友人Bは国家公務員になり初任給は12万でした。すでに倍近い差なんですね。そして現在、Aは支局長を経て本社の準幹部として年収1,200万貰ってます。一方国家公務員のBは本省の課長補佐で年収600万。いつも彼らと一緒に酒を飲むのですが、笑えない笑い話になります。それでもBが公務員を辞めないのは、仕事に対する責任とやりがいなんだそうで、もちろん今のご時勢辞めたら再就職なさそうですけどね。 そういうわけで、公務員の民間給与並みという新聞報道を見て、いつも思うのですが、どこの民間と比較しているんだろうと思うわけです。まあ、その点はいろいろな専門家がそう言っているんだからそうなんでしょうけど。 さて、地方公務員ですが、そもそも地方公務員が国家公務員より給与が高かったり、独自の給与体系を持っていた背景が最近ではかなりないがしろにされているような気がします。今でこそ、就職難で地方公務員も応募が多いようですが、ちょっと前ならば、わざわざ田舎の公務員になるなんてよほどの物好きだったわけです。なり手がいないし、優秀な人材が確保できないからこそ、地方では給与をあげたり、特別な手当を作ってきたのが経緯ではないかと思うのです。 ここで片田舎の町を考えてみればわかりやすいのです。温泉しかない小さな町で職員はとりあえず大学を出ただけという人しかいない。住民票の発行などの事務手続きはスムーズに出来るが、法律や国家予算に即応した施策立案や実施するにはほど遠い能力なわけです。温泉街を活性化しようにも、どうすんべえと思案するばかり。そう言うところに、一人でも法律・経済に長けてキレる人材がいるだけで町の活性化施策は飛躍的に伸びるわけです。しかし、こういう人材は当然中央で活躍したいわけですから、こんな片田舎の町村には来ない。だからこそ、給与を倍にしてでも確保すべきなんですね。 ちょっと極論で書きすぎましたが、今回の民間議員の提案のまま行けば、地方公務員はますます質が低下するだろうと思うのです。地方は地方の特性や理屈があるのですから、中央の給与体系論理を押しつけるのはいかがかと思うのです。むしろ、うちの町は給与高いから優秀な人材おいでーというような売りが出来た方がいいんじゃないかと思うのですが。まあ、地方はどんどん切られていく時代に入ったということなんでしょうが。
2005年09月22日
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NHKが「新生プラン」、不払いなどに法的手段で対応(読売新聞) NHKの橋本元一会長は20日、一連の不祥事による受信料不払いの拡大などを受けた新たな経営改革計画「新生プラン」を発表した。(中略) 受信料の不払い者に対しては、公平負担の見地から簡易裁判所を通じて督促手続きに踏み切る。未契約者に対しても、契約の意思表示を求める訴訟を検討している。いずれも具体的な適用については、今後検討していくという。橋本会長は「まずは受信料制度への理解を求め、どうしても支払ってもらえない場合の最後の手段として法的手続きに訴える」としている。 「新生プラン」ではこのほか、すべての職場を対象に組織の統廃合や委託業務の拡大などを進め、来年度から3年間で全職員の10%にあたる1200人を削減。開局以来、最大規模の人員整理を行って、組織のスリム化を目指す。(読売新聞) いよいよ遅まきながらNHKも改革に乗り出したようだが、やはりNHKに対する疑問はぬぐいきれない物がある。 受信料不払いへの強制徴収については、不払いを続ける者への不公平感という観点で当然だと思うが、それはNHK受信料を払わなければならないというNHK受信料制度の法体系が真っ当であるという大前提での話だ。何故、我々国民は公共放送と名乗るNHKに受信料を払わねばならないのか。 そもそもから言えば、戦後のGHQのプロパガンダ放送の片翼を担うために形作られ、その企図が薄れてからはいわゆる災害時緊急時の公共放送機関として、また放送技術の研究のためにあると言っていいだろう。NHKは政権や政府のプロパンダ放送機関ではないわけで、国営放送とは全く異なる性格となっている。また、既に露呈しているが放送内容は極めて恣意的に偏向したものとなっており、他の民放となんら変わらないのである。公共放送と名を打ちながら、他局と競合して記者が取材し、ニュースを流す必然性もどこにあるのかわからない。 つまり、公共放送として価値を認める事ができるのは、教育番組と伝統芸能中継、放送技術の研究ぐらいのもので、特番やニュース、ドラマなどNHKが作る必要性など何もないのだ。極端な話、放送など災害緊急時のみ電波を飛ばすだけでも十分だと言える。 かつて、NHKはシルクロードなどという大番組を製作したが、この経費は民放では信じられないほどの額に上る。さらに、番組作成のために現地へ与えた金品や自動車などがもたらした影響も計り知れないものがあるという。もはや、NHKがこうした番組作成を行う時代は終わったのではないか。 NHKには受信料制度をやめて民放となるか、もしくは教育番組を除く特番、ドラマなど番組製作をやめるか、どちらかを選択してもらいたい。さもなくば受信料を気持ちよく払う気には到底なれないのである。<ミリタリーウエア特売情報>US.N2B.JKT ¥13,500N2Bフライトジャケットが信じられない価格で出ました。もちろん米軍の本物デッドストック新品です。本物ならではの味わいがありますね。N2Bの本物が新品で出る機会はあまりないはずです。ただし、フードのボアはナイロンだと思います。民間品のバスリクソンなどのはコヨーテだったりしますが、この辺りは本物らしさを逆に堪能できますね。フランスF2カラーパンツ(新品後染め) ¥3,450こちらも新品後染めで黒、茶、ネイビーの3色があります。フランス軍のF2パンツといえば、スリムでショートレングなのが特徴。女性が丈を短めにはくのもいいですし、大きめのサイズでだぼっとはくのもいいです。民間品でショートレングのカーゴパンツをよく見かけますが、多分このF2パンツの模造品だと思います。
2005年09月22日
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昨日、久しぶりに友人と外で飲む機会がありましたが、その場で郵政民営化を含み公務員削減問題について論が及びました。飲み屋のマスター、他のお客さんなども参戦しての議論でしたが、結論から言うと、明らかに無駄のある行政部門の切り直しは当然だが、安易な公務員削減は反対であるというものでした。 以下、その内容を記してみます。 公約では主要各党とも公務員削減と謳い、警察官は増員という所もありますが、警察官は刑事部門の担当であるのに対し、行政は民事部門担当であることを忘れているのではないかという指摘がありました。警察は民事不介入の原則を貫いており、刑事関係法に関してのみ担当する立場です。いわゆる民事に関係する法律の警察官的立場は行政がやっているのです。行政は各種法律の公平な執行と、権利の分配のためにあるのであって、公務員削減は民事関係法の無法化を増長するものではないかということです。当然、民営化が進めば効率や利益優先で「公平」な法の執行は望めず、結局行政代執行や差し止め処分などに頼らざるを得なくなる事は目に見えているはずです。 具体的に想像するに、ゴミの収集業務を完全民営化したとします。当然過疎地や、収集がしにくいエリアは儲からないのでやらないことに。となると、ゴミが山積される地区がでてきて環境汚染問題になっていきます。住民からクレームがあがっても、この法律を監督する公務部門は削減されているのでその実態の把握もできていませんし、その監督指導もできません。全ては実施している民間会社の責任だと。民間会社は嫌になって業務撤退。結局、役所でやるようになりましたとさ。 おわかりだと思いますが、民間企業は法律を指導・監督する権限はありません。というか、それを持たせたら法治国家ではなくなってしまいます。結局の所、法律を公平に執行するためには公務員が絶対に必要だという事です。ましてや、各党ともに公務員何割削減などと、具体的な削減項目実体がないにもかかわらず、数量だけ減らすということはどうにもいい加減としか思えません。 次に、行政の民営化や民間委託の促進という「神話」について話が及びました。民間委託を受注する立場から聞くと、はっきり言って民間委託しても効率は決して良くないと言います。一番の問題は行政民営化、行政民間委託は法律に規制された業務がほとんどであって、業務内容に自由度がほとんどないことだそうです。行政サービスの一環としてやってきた事を利益のために突然やめることは困難だし、おかしい部分も民間では自ら法や条例を変える事ができるわけではないからです。また、行政特有のクレーマーというのがいるらしく、民間企業では到底対応できないのだそうです。結局の所、民営化や民間委託したところでたいした経費節減は見込めないのではないかということでした。もちろん、郵政等の法改正を含んだ制度自体の大規模改革ともなれば別の次元ですが。そもそも民営化・民間委託の神話はどこから出てきたものなのだろうか。 もう一点は公務員の立場からの意見でした。公務員削減と簡単に言うが、2割削減すれば当然業務内容も2割削減して貰わねば成り立たないと。確かに、現状の仕事量を維持しながら2割削減するための方策は何一つあげられていません。公務員はもっと働け、無償で残業しろなどというのは別の次元です。多分、先に挙げた業務の民営化を図る事で削減ということなのでしょうが、郵政業務などの現業を直雇用しているところ以外は実際の所、民間委託できるところはほとんどが委託されているそうです。あと残されているのは窓口業務のようなものなのだそうで、ただこれは個人情報や民事損益に関わる秘密事項を扱うところでもあるので、すでに民間業務委託している所では問題が発生しているとも聞きます。となると、単に2割削減といった場合、一般行政部門の削減に及ぶ事となり、どこかで公務の放棄を果たさねばならないということです。 そもそも、今のような大きな政府になってきた過程を考えてみる必要があるでしょう。猫の死体が道路に転がっていた場合どうしますか。今ならまず市役所に電話をしますね。市役所が来て死体を持って行きます。30年前ならどうでしたか。普通は発見した地域住民が処理しました。近所の用水やドブが詰まっていてもしかりです。道路の電灯が消えていたらどうですか。直接電力会社に電話すればいいのに、いちいち役所に言わせいたり、ひどいケースでは役所に見回りをして管理しろとクレームを出す場合もあります。何でも行政に頼ったり、行政のせいにしたりしていませんか。多分、私自身を振り返ってみても20年前と比べて行政に頼る部分が大きくなっている事がわかります。 何も行政に頼るなというのではありません。多分、この傾向を分析するに、人間間のコミュニケーション能力の低下とともに、民事問題の相互解決がしにくい時代になってきたことと呼応していると思うのです。民事問題なら最終的には裁判に持ち込むことになるのですが、そこまで至らない場合は結局行政にまかせよう、ということなのでしょう。そういう自己解決が出来ない時代に突入しつつあるのに、現在の公務員削減問題は何やら逆行しているのではないかと言う事です。 もちろん、行政の無駄部分を削いでいく事は当然必要です。しかし、具体的に何がいらないか。何が行政でやらなくてもいいかという議論をしっかりし、我々国民が行政に頼らないという意志をしっかり持たずして、安易な公務員削減論はいけないだろう、というのが満場一致の意見でありました。 なお、蛇足ですが、大きな政府というのは民事関連法律を遵守する民治国家でもあるということではないかと思うのですが。それよりも小さな政府で民事裁判の嵐の方が良いと言う事なのかなあ
2005年09月08日
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郵政民営化で揺れる政界でありますが、今日はそれに伴う公務員制度について思う事を少々。 この問題に関しては、小さな政府、公務員人員の削減効果というものが良く利点として取り上げられますし、国民の意見の中には公務員バッシングという形でしばしば見受けられます。ですが、果たして郵政民営化=公務員削減というものが実態としてどうなのかを考えてみたいと思います。 さて、公務員制度とは何なんでしょうか。もともとは明治政府の発足と共に成立した官吏にあると言っても良いでしょう。ただし、この当時の官吏は今とは比べものにならないほど絶大な権限を有し、どちらかというと今の政務次官的なものであったと言えます。その後、行政機能の拡大と末端化によって、国家公務員、地方公務員制度が成立し、いわゆる大きな政府という現在の形に至ったわけです。 ここで大事なのは、行政機能の拡大と末端化という行為が行われた背景であります。それは、行政恩恵分配の公平化、効率化のためです。戦前までは、行政官(特にトップである事務官や地方では派遣知事)は絶大な権限を持っており、いわば有無を言わさない高圧的な支配であったわけです。従って、公務というよりは場合によっては中央支配者の意思伝達機関としての役割が強かったとも言えます。それが、戦後の軍隊解体による軍的支配がなくなってから、民主主義、自由主義の標榜のもと民衆末端までの行政恩恵を効率よく行うことが求められたのです。 行政恩恵を効率よく分配することは、実は簡単なようで大変難しいものです。学校や職場で大人数を取りまとめる事の難しさを誰もが経験しているように、国民各個の希望や主張は千差万別です。こうした中、自分の意見を通すためには、権力者(議員や金持ち・暴力団)の圧力(暴力や金を含む)に頼る事となり、結果、権力者による実効支配(暴力、賄賂、不法商売)が優位に立つようになるのです。当然、そこには正義の論理はなく、弱者はひたすら虐げられるしかないわけです。 そこで、登場するのが公務員です。権力者の暴力に対しては警察が配置され、賄賂、不法商売に対しては事務職員が実権を握ることにより、国民間の統制を図る事になるのです。そう言う意味で、公務員とは本来権限を有す事を目的にあるのであって、時折言われるように公務員から権限を剥奪せよなどというのは公務員制度を根本からひっくり返すような事なのです。 許認可や罰則など権限を有する公務員にとって、最大の問題は不正や贈賄です。少しでも自分の利益になるように、先に挙げた権力者(議員、金持、暴力団)は圧力をかけたり金品で釣ったりと手を尽くして近づいてきます。戦前の日本、現在ではフィリピン、北朝鮮、中国など発展途上国ではほぼ例外なく公務員の不正や贈賄が横行しています。その理由は何か。公務員の人数が少ないことと公務員の給料が安い事に尽きます。いわゆる小さな政府には汚職が目立ち、大きな政府の国では汚職が少ない状況を見て取る事が出来ます。 もちろん、私は大きな政府を推奨しているわけではありません。重要なのはその理由です。公務員の人数が少ない事は相互チェック機能が働きにくいことを示します。つまり、無駄でも決裁権者を増やす事により多くの目が監視できるのです。さらに、人数が少ないことにより異動ができないこともあるでしょう。現在の日本の公務員制度では2,3年で職場を異動するのが通例だと思います。これは、同じ所に止まって不正が露見しにくくなることを防ぐために行われています。 次に、給料が安い事はいうまでもなく、公務員が副業に走る事を意味します。権限を金で売る事によって肥えていく姿は、発展途上国のどこにでも見られる姿です。 さて、公務員制度の必要性と危険性を理解したところですが、公務員は毅然と外圧に耐え、誘惑に打ち勝つのが職命と言えると思います。その上で、公平で効率的な施策を打ち出すことが期待されます。そう言う意味では、最近世間で言うように、民間の意見を聞き入れろとか、政策決定のための諮問機関に民間人を多用するのはいかがなものかと思うのですが。開かれた役所は必要ですが、民間人の意見に左右される役所は本来の公平分配の原理を忘れているとしか思えません。 ただし、今の日本の政府が肥大化していることも事実でしょう。それは事業の肥大化に起因しているものであり、役人の保身と寄生する業界もそれに輪をかけているでしょう。果たして、何が行政として果たすべき内容かを再度問い直すことも重要です。こうした弊害を打破するには再編という行為が必要であり、郵政民営化問題はそう言った意味で、いいタイミングなのではないかと思います。もちろん、それが民営化なのか再編なのかでは大きな違いなのでありますが。民営化は公務員の原理である行政恩恵分配の公平性を捨て去る事です。儲からない所は切り捨てるし、外圧によって公平性が左右されることもあるでしょう。しかし、郵政業務が果たしてそうした公平性を必要としていたのかどうか、我々が再検討するチャンスでもあります。もし、やっぱり民営化では困るという事になれば、その時また公務化すればいい。大波乱を巻き起こす事は必至ではあろうが、その痛みや失敗を経験しなければわからないこともあるということです。 もう一点、公務員制度バッシングについて思う事があります。それは、現代日本人の行政頼みの姿勢です。近年、何でも行政に頼り、行政に責任を求める傾向は世論調査の結果でも露骨に見て取れます。猫の死体が道路に転がっていても、道路の除雪にしても行政が出動するまでは何もしない。少なくとも20年までだったらどうだったか。行政に責任を押しつけて安心する姿勢こそ、効率良い行政事務を滞らせていることに気づくべきです。こうした些細な業務を行政に頼む姿勢を続ける限り、我々に公務員制度をバッシングする資格はないと思います。 私個人的には、いったん公務員制度を大幅な縮小にすればいいと思っています。「もうこの手の公務はいたしません」の張り紙と共に、我々国民自身で解決する能力を身につける。その中で、どうしても公務でやらねばならない事項を再抽出する。それくらいの大改革をしなければ国民にはわからないのではないでしょうか(私も含めて)。少子化の波がやってくる前に、いい機会かもしれません。 なお、公務員給与を下げる事には反対です。下げる事によって愚かな人材が公務に携わる事だけはお断りです。人数は少数精鋭でも優秀な人材で固めて欲しい。あとは、不正・贈賄を未然に防ぐシステムとして、ある程度の事務公開性を義務づけるしかないだろうか。 いろいろ書いてきましたが、公務員制度を叩くのではなく、公務員制度に何を期待するか、そういう視点で今回の郵政民営化問題を見据えてみたい、とふと思った事を連ねてみました。(追記) 具体的に公務員制度の行政恩恵の公平分配とは何かを考える上で、事例をあげてみました。知り合いの役人から聞いた話を参考にネタにしています。(フィクションです) あるA地区で下水道が初めて通る事になりました。そこでは1本の下水道に20戸の家が関係しています。本線の下水道管は市の税金で設置しますが、各家までの分岐管は各家の分担金が必要なのです。19戸までは承諾しましたが、1戸だけがどうしても分担金は払わないと言ってきました。下水管の形状計画もありますので、その地区の下水道計画は頓挫し、計画順位では最低ランクになりました。当然、その先の地区も計画順延です。その代わり他のB地区が工事計画に着手しました。しかし、それを知ったA地区関連の議員が市役所の担当者の自宅へまんじゅうを持って赴き、A地区着手を強く要望していきました。議員は中学時代の先輩であったため、担当者は悩みます。仕方なく、担当者は再度計画変更し、行政代執行(反対者の分担金は棚上げという形)という形でA地区の下水道工事に入りました。ところが、今度はB地区の住民が市役所の計画決定過程がおかしいということで、クレームをつけました。調べたところ、担当者が議員からまんじゅうを貰っていた事が判明。翌日、マスコミにも取り上げられます。 さて、上記の話で行政恩恵の公平性とはどのようになっていたでしょうか。そもそも、このような順位がついている業務の場合は真の意味の公平性などありえません。ましてや、住民一人一人の意見を聞くことなど到底出来ません。結果、担当者が一定の順位決定基準によって強圧的な公平性を作り出すしかないのです。これが役人の役人たる所以で、誰もを納得させる順位決定基準作成の能力にかかっています。しかし、上記の担当者は自分の基準を捨てて議員のいいなりになってしまうわけです。この時点で公平性は失われてしまいます。あくまで、冷徹に信念を持って立ち向かう必要があったでしょう。 もう一点、担当者が簡単に決定を変更できたことも問題です。民間ならば一事業一担当者は当たり前ですが、役所の場合、強圧的な公平性を押しつけるわけですから、一担当者の私情や感覚は極めて危険です。やはり複数の担当者によって行われ、さらに複数の決裁権者によって監視される必要があります。いわば、一人で決定してはいけないのです。このことは反面、責任者不在ということにも繋がります。しかし、私は公務員の顔が見えない事がむしろ喜ばしい事と思っています。誰がどのように決めたか。極論ですが、それがわからないうちは国家も安泰だと思うのです。 私も公務員問題を考えるときは、この手の課題を想定して、自分が担当者だったらどうするかを考えます。果たして、上記が民間会社だったらどうだろうか、いろいろ想定してみるのも大事なことだと思うのです。
2005年08月15日
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基本的に今の政治には無関心を貫くつもりなのでありますが、今回の衆院解散を見ていて思う事を少々。 まず、小泉首相は大統領気分なんですね。俺は首相なんだから、言う事聞かない場合は解散、公認なしというのは、政党政治の党首とは思えない発言です。まあ、それくらいやらないと日本の政治は変わらないという、ある意味猪突猛進型の姿勢は好感が持てるのですが、それを日本の首相という立場でやるからおかしいのですね。そもそも、日本の首相は与党の党首がなるものと決まっていますから、首相と言えども党の代表であり、国策は政党の公約とイコールということになるのが通例です。 アメリカの大統領制は言うまでもなく、政党のバックアップは受けてはいるものの、与党政党の党首がなるというのではなく、あくまで個人の立候補による個人の選出なのですね。だから、大統領は議会とも政府とも距離を置いて絶大な権限を発揮できるわけです。 多分、小泉さんは世界各国の首脳と会談していたりする中で、徐々に我が身を大統領に置いてきたのではないかと思うのです。しかし、良いか悪いかは別にして、日本の政治体制の中では、こうした小泉大統領流のやり方はやっぱりまずいし、違和感があるのです。 私個人は徒党を組むのが嫌いというのもあって、実は日本(に限りませんが)の政党政治が嫌いです。大体、千差万別の個性を有する人間がまとまって意見を集約できるはずもありませんし、歴史から見れば、徒党を組むとロクなことは起きないのが習わしです。 とはいえ、現状では意見を反映させるためや、民衆に周知させるためにはどうしても徒党を組んで固まらざるを得ないのも理解できます。それが政党であって、徒党を組む意義から言えば、多数決の論理と大義の精神に基づいて、自己の意見を抑えるというのが理屈です。つまり、徒党を組んだ以上、一定のプロセスを踏んで決定した事項には従うのが秩序のはずです。 そう言う意味で、今回郵政法案に対して反対・棄権に回った自民党議員は秩序を破壊したともいえるのです。もちろん、決定事項に至るまでのプロセス、つまり党内での議論をし尽くすのが前提なのではありますが。まあ、我々国民にとっては党内の調整などどうでもいいのであって、法案否決のような結果だけが問題なわけです。 とにかく、今回の一件は日本の政党政治制が根底から覆されているような、いや無視されているような気がするわけです。もし、日本の政治体制を変えるのでなければ、今後、離反議員は新党を結成すべきでしょう。小泉さんは離反議員を除名すべきでしょう。そうしなければ、政党政治制は機能しなくなりそうです。それはそれでいいんですけどね。日本は一回ハカイダー的危機を迎えてもいいのかも・・・<ミリタリーなウエア情報>今回はデニム系パンツの新作リストアップJOHNBULL ジョンブルデニムカーゴパンツジョンブルからカーゴタイプです。色落ち加工がリアルですね。JOHNBULL ジョンブルデニムブッシュパンツこちらは前ポケットタイプのブッシュパンツ。TEDMAN'S テッドマンズDEVIL001Wオリジナルジーンズ「TEDDY'S JEANS」ミリタリーウエアのテッドマンからジーンズです。招福ロゴのパッチや、青・赤色の内布が見えないところに斬新なデザインです。今なら限定品Tシャツがついてくるそうです。
2005年08月09日
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政府税調 配偶者控除議論 委員の発言波紋(産経新聞)「家でごろごろしている主婦が子供を産まないんです」 政府税制調査会(首相の諮問機関)の配偶者控除の存廃をめぐる議論の中で、複数の委員が専業主婦を侮辱したと受け取れる発言をしていたことが議事録で分かり、波紋を広げている。政府税調の事務局を務める財務省では「議事録を公開することで、税制改正論議の透明性を高めている」としているが、配偶者控除の廃止論議は賛否が分かれており、委員の発言は今後の改正論議にも影響しそうだ。(産経新聞 以下略)税制調査会第37回基礎問題小委員会(17.5.27)議事録<問題部分抜粋>その1発言「ちょっと先ほどの委員は誤解していると思うんです。今、専業主婦であれば子供を産むとは限らなくて、逆に専業主婦で何もしないのが多いんです。子供も産まないで。つまり、人生に前向きかどうかというと、働く女の人は前向きで、子供を産みたいわけ。働かないで家でごろごろしている主婦が、子供を今産まないんです。逆になっているので、先ほどの委員に時代とのずれを少しわかってもらったほうがいいので、つまり、パラサイト・シングルっているけれども、今、パラサイト・ワイフというのができてきた。つまり、変な生命力のない人たちがたくさん生じていて、お金を持ってぶらぶらしているんですよ。消費にはいいかもしれないけれども。(以下略)」その2発言「先ほどの委員は意欲のある女性という言い方をしましたけど、働いている女性のほうがちゃんとご飯を作るというデータもあるんです。専業主婦で時間がいっぱいある人こそ、コンビニで買ってきた発泡スチロールで食べさせちゃうというのが多いんです。(以下略)」 財務省は議事録の公開を原則としてるので、こんな発言まで世に出ちゃいましたね。ただし、小委員会は発言者が特定できないようになっています。 確かにこの委員会は税制調査会であって、少子化や育児・家庭問題のためのものではないので、ある程度の暴言は許されるのでしょうが、この発言にかかわらず、全体の論議内容を見るとちょっといただけない箇所も多いですね。こんな低レベルの委員で議論されていていいのだろうかと感じます。 どうもこれまでの過程を見ていても、税制と厚生労働省の少子化対策の施策は連動していないようです。確かに、税源確保の問題と少子化問題は密接な関係にありますが、ただやみくもに悪者をしたてあげて税制を改革するのでは効果は得られないでしょう。少子化問題の根は深く、基本的には精神的な問題であろうと思います。税制改革というダメージを少子化対策を担う出産世代にプラスの施策で安心させる必要があるでしょう。そう言う意味で、上記の発言は非常にまずいダメージを与えていると言えます。 フランスでは、大がかりな税制、優遇施策により出生率が大幅に向上しています。こうした好例を参考にしていながら、ほとんど反映されない税制調査会の意味には疑問を感じます。 で、本当は今日書きたかったのは、実は「専業主婦は悪なのか」なのであります。税調の雰囲気なんかをみていますと、男女平等のもと女性も働くべきであるというのが主流のようで、女性が家庭を守る(子育てに専念する)などというと、「古い」と罵声を浴びせられるようであります。 とりあえず、専業主婦のうち、子育てのために家にいる女性を対象に考えてみますと、まあ、こんなこと議論するまでもありませんが、子育て中の主婦は子育てが「仕事」ですよね。本来外で働いて稼ぐ分を全て子育て業務をしている自分自身に支払っている。それで帳消しになっているという風に考えるべきだと思います。これを仕事と考えないと、働いている女性が汗かいて労働したうえに、子供を金をかけて保育所に預けるなんてあまりに不公平という事になってしまうわけです。 子育てというのはやってみないとその苦労がわからない、と良く言いますが、まさにその通りで、肉体的な労苦ももちろんありますが、精神的なダメージが大きいと考えられます。確かに、手のかかる子とかからない子がいて、個人差は大きいでしょうが、ごろごろと家で寝ているような状態ではないことは確かでしょう。そう言う意味では、働く女性が子育て業務の一部を他人に委ねるかわりに対価を払うのと、公平と言えるのではないでしょうか。 にもかかわらず、「専業主婦が家でごろごろ」などと平気で言えるのは子育てを自らの手で行っていない人間である事を暴露したようなものです。この発言者が誰かは存じませんが、ある国の教育関係の諮問機関の委員のメンバーを見たとき驚いたのは、男性、未婚のキャリアウーマン、子育てがはるか昔の老人、子供はいるがどう見てもばあやがいるような高貴な婦人で構成されていた事です。現在の子育て世代の実状を知っていそうな人がまるでいないのです。ちょっと世間離れしているという印象でした。確かにこうしたレベルの人々が知っている専業主婦とはごろごろ家でしてるかも知れませんね。日中は銀座でお食事なんてね。 あと、気になるのは夫婦共働きの推奨的潮流です。統計をとったわけではないので信憑性には疑義がありますが、私の経験から申しますと、小学校高学年から中学生で不良化していく子供に共通していたのは、片親もしくは共働き(鍵っ子)でありました。片親や共働きであることに対して批判をするつもりは毛頭ありませんが、少なくとも彼らに欠けていたのは母親(父親)の愛情(会話)でした。親が日中ほとんど家にいないため、当然おやつや夕食が現金渡しとなり、買い食いやゲームセンターへ流れやすいこと、親のいない自宅が友人のたまり場となりやすいこともあります。 確かにこういう子供達は全ての判断を自分でしなければならないので、決断力や活動力という点では群を抜いておりました。その利点が良い方に向かえば問題はないのでしょうが、往々にしてこの世代は悪い事に魅力を感じやすいのです。 また、別にある保母さんから聞いた話ですが、幼稚園の子供達は表情が豊かであるのに対して保育園の子供達は無機的なのが気になると言っていました。反対に、幼稚園の子は言う事を聞かないが、保育園の子は言う事を聞くのだそうです。幼稚園の場合は母親が専業主婦である場合が多く、保育園はほとんどの母親が働いているようです。この理由については断言できませんが、少なくとも外部の人間に対する接し方を保育園の子は早く身につけている(ませている)、言い換えれば子供らしくないとも言えるのではないでしょうか。 決して、働く女性を非難するつもりは毛頭ありませんが、時代の潮流として「家庭の効用」が議論の場から失われていくことに非常に危機感を感じるのです。もちろん、働く女性が子供達に愛情を注げるようなバックアップ体制づくりも重要なことであります。個人的には、各職場に保育施設設置を義務づけるのが望ましいと考えていますが。出来うるならば、母親の隣に子供を座らせて執務するなんてのが微笑ましくていいんですが。 で、配偶者控除廃止はやめてくれー。これが本音だったりして・・・・ <ミリタリー系ウエア特売情報>jalanaさんで夏物30~80%OFF開催中です。"FRESH JIVE [フレッシュジャイブ]#3138 OPERATION SHORT ブラウンAVIREX [アビレックス] S/S TEE CAROLINA BELLE ホワイトAVIREX [アビレックス] CAMO TANK TOP カーキAVIREX [アビレックス]DAILY CREW NECK TEE オリーブDickies [ディッキーズ] 4879 ブラック
2005年07月22日
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組踊音楽歌三線の城間さんら人間国宝に(読売新聞) 昨日、人間国宝の指定答申がなされましたが、富山県からも一人が選ばれました。以前、「彫金」(金属を彫ったり金銀などを埋め込む技術)で人間国宝がおられましたが、亡くなられていたため、富山県には一人もいない状態でした。 今回人間国宝になられたのは「鋳金」というジャンルで、同じ金属を扱うのですが、溶けた金属を鋳型に流し込むと言う技法です。 さて、この人間国宝ですが、日本の伝統技術が評価され、伝承されていくわけで大変喜ばしいわけですが、その裏ではいろいろ泥臭い動きがあるようです。もちろん、金属工芸界では序列というものがあって、誰が人間国宝に選ばれるかというのは戦々恐々としているのでしょうが、それよりもバイヤーの方が大変なようです。 一説によれば、人間国宝になると作品の値段は数倍から数十倍に跳ね上がるのだそうです。ですから、(悪徳?、先見の明のある?)転バイヤー達はあらかじめ安いうちにその作品を買っておくのだそうです。そろそろ指定がありそうだ、と言う情報はどこからか流れてくるようで、実は今回の場合にも高岡方面で一人出そうだと言う情報がありました。で、私の知り合いも「アタリ」をつけていくつか作品を買い込んでいたようですが・・・見事はずれました(爆)。違った人でした。 もちろん、私はそういうあこぎなことはしませんが(資金もないんですが)、欲がからむとろくなことはないということですな。楽天でも売っている人間国宝の作品(意外とあるもんですねえ)羽田登喜男作 訪問着京友禅ですね \3,600,000重要無形文化財喜如嘉の芭蕉布 着尺平良敏子作"沖縄の芭蕉布という布地らしいです陶酔境 幸兵衛窯 大吟醸 吟雪花 1.8L焼き物ですね。三彩がきれいです10号耀彩花器 人間国宝三代徳田八十吉加賀九谷焼ですね。\924,000薬師寺夕べ(平山 郁夫)平山郁夫が人間国宝ではありません。作品に使っている和紙が人間国宝です琉球紅型 九寸名古屋帯人間国宝 玉那覇有公作琉球びんがたです金森映井智『象嵌鋳銅一輪生』彫金こちらが富山県の人間国宝だった金森氏の彫金です。\367,500【人間国宝】 松井康成 『灰釉粉引 抹茶碗』灰釉陶器ですねこのほかにもいっぱいありました。
2005年07月16日
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6月14日付・読売社説(1)[日韓歴史研究]「認識の不一致があるのは当然だ」(読売新聞)異なる国家や民族の間で、歴史観や歴史認識を一致させることがいかに難しいかが、再確認されたということだろう。 日本と韓国の歴史研究者らでつくる日韓歴史共同研究委員会の最終報告書が公表された。 委員会は、日韓首脳会談の合意に基づき、2002年5月に発足した。 2001年の教科書検定に合格した中学校歴史教科書の一部の記述に対して、韓国政府が「歴史を歪曲(わいきょく)している」と抗議し、外交摩擦に発展したことを受けて始まった。 報告書は、古代から近現代まで、19のテーマにわたって日韓双方の主張を、両論併記の形で掲載している。 韓国側研究者からは、きわめて政治性の強い主張も展開された。 日本政府に対する韓国国民の請求権を放棄した1965年の日韓基本条約を批判し、条約の再考を求め、「日本国内の歴史進歩グループと国境を超える連帯」を提唱する研究者もいた。 さすがに日本側からは、「分析者としての第三者的な立場を離れて、直接的に政治的主張を強く展開していることに驚き、大いに失望した」と厳しい批判の声が上がった。 この研究者を含め、韓国側の近現代史を担当する2人が、国会議員になるため途中で委員を辞めている。(以下略 読売新聞) 先般より話題になっている日韓歴史研究作業ですが、あまりにあきれて、コメントをするのも憚っていたのですが、やっぱり書いておかねばと筆(キーボード?)を取りました。 参考までにこれまでの記事と報告書です。日韓歴史共同研究報告書日韓歴史共同研究、認識の違い浮き彫り(読売新聞)「併合条約の効力」などで溝…日韓歴史共同研究(読売新聞) まあ、予想された事と言えばそうなのですが、かの国とは物の考え方の基盤そのものからボタンがかけ合わないということが改めて露呈しました。この日韓歴史共同研究ですが、日本側のメンバーはそれなりの面々で、日韓歴史の認識一致に寄与してくれる事を期待しておりましたが、彼らの能力云々以前のところで大きな障壁がありました。 さて、毎度の事ですが歴史とは何かについて復習しておきましょう。「歴史」とは過去に起こった事件・事象のことで、一般的には紙や伝承と言った媒体を通じて記録されたものが歴史として認識されます。この歴史は確かにたった一つの「事実」があるのですが、この事実とは「現象」でしかなく、再現する事は不可能なものです。従って、後世の我々が歴史として認識するのは、誰かによって「記録」された状態なのであって、それは既に記録者の手(脳)によって印象操作がなされた状態のものであります。つまり、歴史とは「歴史事実」と「歴史記録」に分かれるのであって、我々歴史家が追い求め、追求するのは歴史事実ですが、結局手に入れるのは歴史記録ということになります。 では、「歴史学」とは何か。先の歴史記録(史料)の信憑性や真偽性を研究したり、歴史事実が引き起こした影響や関連事象を研究するものです。歴史研究者によっては、さらに歴史の反証として、歴史事実への否定や仮想モデルの構築までを含む人もいますが、ここで重要なのは歴史学と言われる研究は全て想像の世界だということです。つまり、この歴史学の時点では研究者の解釈によって構築されているものであり、決して事実ではないのです。従って、絶対の解釈は存在せず、複数の解釈論が出てくるのも当然の事です。そこで、歴史研究者は歴史の事実に一歩でも近づくために、また持論を支持して貰うために「客観性」というものを重視します。この客観性をいかに高めるかが歴史学の醍醐味であり、逆に言えば、客観性のない(史料がない、史料が信用できない、史料に基づいていないなど)解釈は歴史学の価値はないということです。今回の日韓歴史共同研究はまさにこのレベルの作業であると言えます。 次に、「歴史教育」について触れてみます。そもそも、この歴史共同研究の発端は中韓の日本の歴史教科書への批判から始まっています。歴史教育に用いる教科書の記述に異議があるということですが、すでに私自身のbrogでも触れていますが、各国の歴史教育へのスタンスの違いがこの問題の複雑化の要因です。歴史教育とは、我々日本人の場合は「歴史学」の学習だと思っているケースがほとんどだと思います。複数の教科書が選択できるし、左寄りの新聞もありますので、歴史に対して様々な議論を聞いたり話したりする機会があります。ですが、世界各国の歴史教育の現状を見てみればわかるとおり、歴史教育が開かれた歴史の議論の場となっている国はほとんどないと言えるでしょう。中国、韓国に至っては国定教科書であり、国を挙げて単一の歴史造りに奔走しています。つまり、歴史事実は一つだが、歴史解釈は複数あって当たり前という歴史学の大前提を無視しているわけです。それを教育に用いるということは、到底、歴史学の学習とは言えません。 とはいえ、こうしたことに驚くことはありません。この背景には国体維持のための国策が強く反映されているだけの事なのです。自国の歴史に都合のいい解釈を取って、これから国の基盤を作る若者に国への忠誠と敵国への敵愾心を植え付ける必要があるのです。中国の反日暴動もその結果ですし、韓国は徴兵制を実施する上で絶対に必要なことなのです。 もうお気づきだろうと思いますが、韓国側の歴史研究者は歴史学的解釈ではなく、歴史教育用の政治解釈に持ち込んでしまっているのです。韓国の歴史研究者はその国家形成の過程から「歴史学=歴史教育=歴史の政治利用」という面でしか活動してこなかったため、歴史研究者でありながら、何の臆面もなく歴史学の解釈を飛び越えて政治的な主張を盛り込もうとするのです。もちろん、歴史教育のスタンスは各国の内政問題ですから、好きにやればいいのでしょうが、歴史学と言う学問が世界中である一定の学問レベルという物を維持している以上、歴史学にもなっていない歪んだ主張を歴史と言い張るのはいただけない訳です。ましてや、他国に歪んだ歴史学を押しつける事など、ちゃんちゃら可笑しいわけです。 今回の歴史共同研究ですが、読売新聞の社説にもあるように「認識の不一致があるのは当然」なのでありますが、認識以前であったわけです。日本のメンバーにとっては単なる無駄足だったとしか言いようがありませんが、もはやこうした歴史共同研究は無駄でしょう。韓国側が歴史学というものを学問として認識できるようになってからでしょう。歴史の研究なのに「日韓基本条約は無効だ。謝罪して賠償すべきだ。」って何? まあ、日本は「歴史は学習するもの」と思っていますが、韓国は「歴史は造るもの」と思っています。ちなみに中国は「歴史は抹殺するもの」でしょうか。仕方がないか。 報告の中で、筑波大の古田教授の「相互認識」 東アジア・イデオロギーと日本のアジア主義は必見。<ミリタリーなグッズ情報>フランスレザーバンドリア革製で格好良い。\3,400フランスレザーパウチ単品なら850円ワールドフェイマスバックパックなんと\300です
2005年06月14日
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<日本語の語彙力>私大生の19%「中学生並み」(毎日新聞) 大学生の語彙(ごい)力が低下していることが、大学、短大の中堅校を対象にした調査で分かった。独立行政法人メディア教育開発センター(千葉市)が実施し、私立大1年生の19%、短大1年生の35%が「中学生レベル」と判定された。補習や授業で「日本語技法」「日本語コミュニケーション演習」などを開講する大学が増えているが、調査はこうした大学側の不安を裏付けた。(中略)◇各レベルの代表的な例題◇(正しい意味を五つの選択肢から選ぶ)<中1>重視 (1)重たいこと(2)大事だと考えること(3)目が疲れること(4)見えにくいこと(5)じっと見ること<中2>さじを投げる (1)ひどく怒る(2)乱暴な様子(3)非常識(4)あきらめる(5)好き嫌いをする<中3>一目置く (1)周囲をみわたすうちに目を留める(2)検分していた目を休める(3)大勢で特定の人物を凝視する(4)相手の目をじっと見て真意を確かめる(5)相手を自分より優れたものと認める<高1>露骨に (1)ためらいがちに(2)おおげさに(3)あらわに(4)下品に(5)ひそかに<高2>奔走する (1)逃げ出す(2)競争する(3)忙しく立ち回る(4)無駄な努力をする(5)大変な目にあう<高3以上>嫡流 (1)激しい流れ(2)正当な流れ(3)清らかな流れ(4)よどんだ流れ(5)亜流<同>憂える (1)うとましく思う(2)たじろぐ(3)喜ぶ(4)心配する(5)進歩する<同>懐柔する (1)賄賂(わいろ)をもらう(2)気持ちを落ち着ける(3)優しくいたわる(4)手なずける(5)抱きしめる=答えは上から順に(2)、(4)、(5)、(3)、(3)、(2)、(4)、(4)(毎日新聞) だそうです。高3以上レベルに嫡流、憂える、懐柔する、が入っていること自体疑義はありますが、それはさておき、私立大1年生の19%、短大1年生の35%が「露骨に」「奔走する」がわからないということです。この大きな要因としては、読書などの活字離れ、コミュニケーション用語の変革があげられています。まあ、活字離れという観点から言えば、インターネット社会に於いては、ネット上でも十分に活字に触れる事ができますので、たいして大きな要因でもないでしょう。しかし、コミュニケーション用語の変革、つまりネット語やギャル語と呼ばれる変則的日本語の普及は大きな要因となっていると思われます。 ただし、私自身はこうした動きにたいして驚きはしません。そもそも、言語というものは時代世相を反映して変化していくものであります。例えば、「全然」という言葉は我々の世代では「~ない」と否定に続くものと教わりましたが、近年は「~だ」と肯定に用いるケースが多くなっています。しかし、これを紐解くと、もっと古くは肯定であったという説もありますし、現在ではどちらに用いても良い事となっています。同様に用法が変化していった言葉は少なくありませんし、ではどの時代の用法を持って正しいと言うのかということも一概に言えません。最近、テレビなどで「正しい日本語」と称して、もはやほとんど使われなくなった用法を持ち出してきたりしていますが、果たしてこれが正しい日本語なのでしょうか。むしろ、大多数の日本人が用いる用法こそ日本語と言うべきだろうと思うのです。 極論で言えば、若者が「露骨に」という単語を用いなくなったとしても、それに代わる「みえみえでぇ」でも良いんですが、そういった言葉に置き換わっていったり、または若者が間違った用法として「露骨に」を下品にと理解して、「あいつの会話露骨(下品)だよね」という風になったらなったで、それが文化の流れだとも言えます。もちろん、国語という課目で採点をしなければならない側にとっては大変困るわけですけど。 とはいえ、用語の正しい意味がわからないのでは、文章や会話を読解する事はできませんね。要は若者が、小説を読んだり、仕事上での会話で不都合と思わなければそれはそれでいいのですが、不都合であると言うことを認識して修正するかどうかにかかっているわけです。若者自身が日本語を使いこなせない事を「恥」と感じるか、または日本語の「美」に共鳴するか。いずれにせよ、日本語は日々刻々と変わっていくのでしょう。もし、不都合だと思わない若者が増えてくれば、近い将来、現在我々の使っている日本語は「古語」の扱いになっているかも知れません。未来の子供達は古典を読む感覚で日本語を学習する事でしょう。「うぜえ」が標準語になる日も近い?! 余談ですが、このテストですが「露骨に」の選択肢「ためらいがちに」「おおげさに」「あらわに」自体の意味がわからなかったんじゃないでしょうかねえ。
2005年06月08日
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まずこの毎日新聞の記事を<尼崎脱線事故>事故後も「日勤教育」JR西日本で続く(毎日新聞) この記事を読んで、私がヘタレだからでしょうか、何が問題にしようとしているのかさっぱりわかりませんでした。 日勤教育とやらが、事故の背景の一つである可能性が示唆されており、事故調査員会も日勤教育の実態調査に乗り出すそうでありますが、毎日新聞は何か問題の所在をはき違えていませんかね。 毎日新聞記事は、日勤教育そのものが事故の背景というふうに読み取れますが、問題は日勤教育のやり方(内容)なんではないでしょうか。 そもそも、「この運転士は50歳代で、今年2月6日にJR大久保駅(兵庫県明石市)で約170メートルオーバーランし、約2カ月間の日勤教育を受けた。乗務を再開した4月中旬、高槻駅で停車中にブレーキをかけ忘れ、ドアを開けたまま電車を約50センチ動かしたとして、リポート書きを課せられた。(毎日新聞)」ようなケースにおいて日勤教育を課しているのであって、このような能力に乏しいものは、二度と運転勤務には戻すべきではないと考えるのが安全管理上は妥当なところです。しかし、職員数等の関係上、そうもいかないので、再教育(日勤教育)を施して復帰させるのですね。これって、至極普通の考え方ではないでしょうか。もちろん、日勤教育の手法については別問題ですがね。 よくわかりませんが、毎日新聞のこの記者は、事故後も日勤教育をやっていることはおかしいと言っているんですよね。ミスを犯した運転士らは続々と出ているわけで、彼らはその間どうすればいいのですか。日勤教育なしで職場復帰?自宅謹慎?どうしたらいいのでしょうか。 もう一つ、「脱線事故前に日勤教育を命じられた大阪電車区の運転士は事故後、「遺族に謝罪した社長の対応をどう思うか」「現場に献花に行った社員をどう思うか」などのリポートも書かされているという。(毎日新聞)」だそうだ。んん?このテーマで何が問題なのでしょうか。レポートを書く方も、書かせる方もこの問題を良く考える上で、実にタイムリーで適切な題材だと思うのですがね(もちろん、書かせる方の捉え方次第ですが)。 それで、「運転士らからは「会社の体質はまったく変わっていない」という声が上がっている。(毎日新聞)」だそうですが、何も変わってないのは、マスコミと、運転士ら組合側の体質じゃあないんでしょうか。 私は、JRを擁護するつもりは毛頭ありませんが、こうした重箱のスミをつついて、問題の本質をはぐらかせるのには、いささか不快感を覚えます。 加えて、「今月6日に前日までと違う入線ホームを信号が指示していたため、尼崎駅手前で停車し安全確認を行って約1分50秒の遅れを出した運転士が日勤教育を命じられ、抗議を受けて撤回された(毎日新聞)」ことも紹介されていますが、確かこの運転士にはあらかじめホーム変更の事務連絡が手渡されており、運転士が確認してなかったとの情報もありましたよね。だとすれば、無用な安全確認であり、業務上は全く正当性などないと思うんですが。抗議されて撤回するJRよ、それもおかしいぞ。 「綱紀粛正」という訳のわからぬ大義のおばけに支配されつつある日本よ、私は大変憂いている。このままじゃ、小物ばかりの日本になってしまうぞ。<ミリタリー ウエア情報>今日は、ミリタリーブーツを探してみました。フランス軍タイプ キャンバスブーツ\3,990 フランス軍タイプです。あくまで、タイプです。フランス軍コンバットブーツ\12,600 こちらは本物です。オリジナルジャングルブーツOD\3,990 米軍タイプのオリジナルだそうです。安いのがいい。BLACK TACPUコンバットブーツ\5,040 すみません。よくわかりません。BLACK TACサイドジッパー タクティカルブーツ\6,090 サイドジッパータイプで、履きやすい。BWゴアテックスブーツUSED\8,040 本物の西ドイツ軍ゴアテックブーツ。だが、夏にはちとつらいだろう・・・ドイツ パラトルーパーブーツ USED【0428FASALE】\8,190 空挺部隊用ブーツ。中古だが、格好良いなこれ。スイス マウンテン ブーツスパイク付 USED\6,090 レアものだが、これどこで履けばいいんでしょうか。
2005年05月20日
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脱線事故会見巡る不適切発言でおわび…読売・大阪本社(読売新聞)読売新聞大阪本社は12日、尼崎脱線事故記者会見での同社記者の不適切な発言について、社会部長名で談話を出した。(以下略 読売新聞) 先日の記者会見で「ヒゲの記者」が「人がしんでんねんで」「あんたらもうええわ はよ(社長)呼んで・・・」などと何様のつもりか、記者らしくない暴言を吐きまくったが、その記者の正体がついに割れたようだ。 一時期は某アカ新聞の記者ではという噂も流れたが、なんと読売新聞の遊軍記者だった。面が割れたと同時に、上記の謝罪?文が新聞の地方面に小さく掲載された。面が割れるまではシラを切るつもりであったということでもある。 最近の読売新聞の報道内容等について、好意的な印象を持っていたのだが、すっかりその評価を下げざるを得ない。やはり読売新聞も腐った自己満足、自己保身マスコミでしかなかったということだ。 好意的に見れば、謝罪文を出しただけ、某アカ新聞とは対応が行って帰ってくる程違うのではあるが、何よりも謝罪文の内容がいただけない。「JR側の説明が二転三転したため、会見は全体として詰問調になったようですが・・・」「使命感や熱心さのあまりとはいえ、・・・」などと、記者の擁護にまわる言葉が少なくない。マスコミという絶対的言論圧力を独占する機関としての反省が微塵も感じられないのだ。 取材相手に対しては、手厳しく重箱のスミをつつくような批判をする割に、自社の話になればなんと甘いのか。 社会の真実を知らしめるのが使命だとするのは結構だが、取材方法が云々と言うよりは、記者自身が「人間的」「道徳的」に上だという、恒常的にある傲慢な意識からきているのではないのか。記者(新聞社)に独自の価値観があるのは当然だが、その価値観が社会に汎用なものであると勘違いしてはいないか。真実とは、多様な価値観を総合して判断すべきものではなかろうか。 新聞社も記者も、言論暴力を傘に着た、絶対価値観の押しつけはすべきではない。政府や政治家からの言論弾圧には抵抗すればよい。しかし、自らが一般国民に対して言論弾圧している事を忘れるべきではない。そんなことすらわかっていない、読売新聞には猛省を促したい。(追記)期待しているからこそね。 <ミリタリーウエア特売情報>US.3カラーデザートパンツ\2,750 米軍の砂漠迷彩です。なかなか格好良い。カナディアンブッシュJKT\1,990 カナディアンブッシュのポケットがたくさんあるジャケット。1950から70年代のデッドストックだそうだ。フランスネービーシャツなんと\990 ネービー色がいい。肩等にベルクロがついているので、別売のワッペンをつけるといかにもミリタリーになります。 特選ショルダータブ25枚セットちなみにこんなショルダーワッペンがあります。特選小菱形ワッペン25枚セット菱形のもあります。
2005年05月13日
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<尼崎脱線事故>3時間後、天王寺車掌区長らボウリング大会(毎日新聞) 兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故が起きた先月25日、JR西日本大阪支社天王寺車掌区の区長(53)ら職員43人が発生から約3時間後、懇親目的のボウリング大会を開催していたことが分かった。(以下略 毎日新聞) 事故直後だし、区長、助役クラスの行動としては軽率だったろう。しかし、マスコミのここぞとばかりに、叩きまくるこういう報道はいかがなものかと思う。第一、事故は兵庫県の尼崎で、ボウリング大会をやったのは大阪天王寺な訳で、直接救助活動に行くほどの距離ではない。もし、救助活動等の要請が来れば出動すればいい訳で、大事なのはそういった緊急時の連絡場所なのだ。各社マスコミの書き方だと、事故が発生したらJR西日本の社員全員が現場に急行すべしとか、全員社内に待機すべしとでも読めるような論調だが、現実問題、全員が社内待機などしてたら機能しなくなるので、通常勤務につくだろう。むしろ、ボーリング大会で1カ所に集まっていた方が緊急連絡しやすかったかもしれない。結果論だが。 確かに、ボーリング大会を開催していたのは「不謹慎」かもしれない。しかし、同じ西日本管轄の富山駅の職員がボーリングしていたらどうなのか。同じ、JRの東日本の職員だったらどうなのか。こういう話は、どこで線がひけるのかということに終始する。直接事故に関係しないところでの行動くらいは自由にさせてやれよと思う。これが許されないのなら、自由主義国家の名が泣くぞ。結局は、マスコミネタのためのバッシングでしかないのであって、こういうネタに振り回されてはいけない。 もう一つ、<尼崎脱線事故>電車に乗っていた運転士2人のやりとり公表(毎日新聞) 尼崎脱線事故を起こした快速電車に乗り合わせたJR西日本の運転士2人が救助活動をせずに出勤した問題だが、いわゆる「人道的見地」から見て、疑問を感じる行動ではあるが、マスコミ報道を見てやはりマスコミネタのためのバッシングの匂いがプンプンする。 人命救助しないで非難されるのはJR西日本の社員だから?。いやそうではないだろう。目の前で消えかかろうとしている命を救う「人道的行動」を行わなかったことそのものが非難されるのであろう。同様に、事故車両に乗っていて人命救助を行わずに、目的地へ行った人は他にはいなかったのか。目の前で苦しむ人々がいながら取り巻いて傍観していたギャラリーは?、写真を撮っていただけのマスコミは?同じ人間としての「人道的行動」にこそ焦点が当てられるべきものだと思うのだが。 もちろん、JR西日本の一連の行動は反省すべき点は多々あるだろう。しかし、物事の本質をボカして、興味本位のマスコミネタにしてしまう、マスコミの報道姿勢には大いに疑問を感じるのだ。 最後にこの事故における報道を見て思うことが一つ。時間に縛られた結果とか、JR西日本のお役所体質だとか、懲罰的な研修制度だとか、いろいろと報道されているが、何故か報道されないことがある。それはJRの労働組合体質についてだ。 JRになる以前の国鉄時代は、国労・動労など労働組合の天国であった。私の学生時代などは落書きだらけの山手線なんて当たり前だったし、信じられないくらい超怠惰な駅員など珍しくもなかった。名前こそJRに代わり、本当にろくでもない奴はクビになったものの、「中の人」の体質はさほど変わっていないのではないか。マスコミ報道で明らかとなった懲罰的研修制度にしても、外部から見れば驚きに値するが、国鉄時代の労使抗争の過程を顧みれば驚くに値しない。言うことを聞かない連中に、どうやって言うことを聞かすかだけの話だ。 国鉄当時、会社側に食ってかかった連中が、ちょうど今JRの責任ある立場になりかかっている時代ではないかと思う。もともと、仕事に対して熱意も努力もなかった労働組合の連中が、責任ある立場になどなれるとは到底思えない。 上記の記事で、「2人が所属する西日本旅客鉄道労働組合(JR西労組)の森正暁委員長は4日、「2人は現場で人命救助にあたるべきだった」と謝罪。一方で「勤務を優先させた指示は許し難い」と同社の体質に問題があると批判した。(毎日新聞)」というコメントも載っているが、こういったJR体質は旧国鉄来の労働組合体質によって形成されてきたのではないのか。それを、社の体質に問題とはまさに自分ことを言っているに他ならない。 マスコミもそうだが、「社」という漠然とした組織を批判するのはいとも簡単なことなのだが、物事の本質を何も見ていないと言うことでもある。
2005年05月05日
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ライブドア、フジテレビ、ニッポン放送の和解がなされたとのことであるが、結局この騒ぎはなんだったのだろうかと不思議に思う。ライブドアの堀江という男には興味もなかったが、飛び道具的な発想の人間だなという印象はあった。フジテレビ、ニッポン放送側はいいように引っかき回された感じだな。 さて、テレビ誌のアンケートで「嫌いな男」のトップに堀江氏が当選したようだ。「旧世代に挑む若者の代表みたいな図式に単純な男子はだまされちゃうんだろうけど、ようするに浅慮で軽薄な目立ちたがり屋」「一流の金持ちならもっと腰が低いし、大言壮語もしないもの」なんだそうで、これまでの言動を見てきた大衆はそう見たようだ。確かに、彼の言動は最初は裏と表があって、面の皮の厚い表を装って、思慮深い何かが隠れているのかとも想像していたのだが、結局の所、裏なんてものはなかったようだ。全てが表で、思ったことを全部喋ってしまうタイプらしい。 そんな彼が何をしようと知ったことではなかったのだが、次の記事を見てそうは思えなくなってきた。「日本企業の成長が止まったのオーナーがいないため」ライブドア堀江社長(中央日報) ここでの言動は、日本では朝日系列が好んで報道したらしいが、言動の主題である日本企業の成長が止まった原因についての内容はどうでもいい。それでも、自分が全て正しいと言わんばかりの言い方には浅慮で軽薄さは感じるが。 問題は、「これは結局、三菱には強力なオーナーが不在で、自らを守ろうという社長らだけがいるためだ、というのが堀江社長の主張だ。 堀江社長は「われわれが資本の力を動員して、無理やりにでも変えていきます」と語った。(中央日報)」「 「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史歪曲教科書を出版している扶桑社など、フジサンケイグループの右傾化に対しては憂慮を表した。 堀江社長は「新しい教科書を作ったからといって世の中は変わらないというのが自分の率直な本心。(中央日報)」 典型的なインターネット、ゲーム世代の考え方が現れている。ゲームの世界では、自分が全ての中心であり、リセットも効く。ネットの世界では、大人も子供も関係なく自分の意見が言えるが、責任を取らされることはない。こうした中で、自分が一国の首相と同じくらいの能力を持っていると勘違いし、実際にそれを行使しようとして失敗する若者が増えている。当然、実社会では多くが年功序列だし、若いときは経験を積むために下積みから入る。これに耐えられない、自分の能力に見合ってないと錯覚する若者は、「ニート」となっていくことが指摘されている。 堀江氏の場合は、失敗せずに成功したのであろうが、その根底に潜む考え方には大きな違いはないように思える。彼のように、金と発言力を持ち合わせたにも関わらず、その影響力を思慮しないやり方は子供じみていると言っても良いだろう。 彼はIT界の人間であるが、彼の発言をみていると、IT産業以外のことには全く興味がない様子だ。興味がないのは結構だが、その影響が及んでいることを全く思慮していないように見える。このことは、先の発言の中にも見える。日本をこきおろして韓国を持ち上げる。日本の歴史問題を馬鹿にする。彼の発言が政治的、外向的問題にも発展しかねないということを、彼はどれほど考えているのか。考えていないからこういうことになるのだろうが。 人間には血が流れている。貧しかろうが、金持ちだろうが、思想や理想はある。そんな原則的なことを、自己主観で嘲るような考え方は、典型的なゲーム世代の申し子としか言いようがない。これ以上、世の中の前面に彼を出すことは日本のためにはならない、と強く思うのであった。自分一人の力で育って、生きてきたと思いこんでいるんだろうね、この人は。 そんな中、ライブドア内部でも良識派の抵抗があったようだ。<ライブドア>堀江氏、社内で孤立 側近「和解」に転向(毎日新聞) まあ、大人の社会とすれば当たり前なんだがね。<ミリタリーウエア情報>PIN UP GIRL S/S SILK SHIRTS【ターコイズ・ブルー】格好いいTシャツだEMBROIDED B.D.U SHIRT【オリーブ・グリーン】バックにフィリピン島の絵柄だ
2005年04月19日
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本日は、ニート・フリーター生産を食い止めるために、教育システムに何が期待できるかを考えてみる。 そもそも、この日記は中山文部科学大臣の発言「今の教育機関は、フリーターとかニートの予備軍を大量に生産していることに手を貸しているのではないか」「社会は厳しいということを、子どものころから教えないといけない」を受けてスタートしたのだが、やや漠然とした大臣の発言を勝手に解釈するならば、「競争社会の厳しさを学校で教えておく必要がある」ということだと思う。 私は、学校に多くの使命を与えることには基本的に反対の立場である。たかだか教師ごときに、学業に加えて、人格形成などあれもこれも押しつけるのは現代社会の悪癖であり、土台無理なことだからだ。過度な期待が学校や教師を逆に潰しているのが現実ではなかろうか。基本は知識(運動能力)の蓄積を行う場所とし、その上で何がプラスして期待できるかを考えてみたい。 人間個体の道徳観念教育は、まずは家庭で行われるべきものである。道徳観念は親から教わる物であり、家庭によって微妙な差違が生じることが当然あり得る。社会ではこうした差違を、町内会の取り決め、市町村条例、都道府県条例といった風に社会共同体の規模に応じて調整することとなる。子供達にとっては、いわば家庭の次にある社会共同体が学校なわけだ。 当然、学校では様々な家庭の子供がいるわけであるから一定の社会共同体ルールを定める必要がある。これが「校則」であり、各々が快適に過ごすためには校則を守る必要があるわけだ。この時点で、学校教育における使命に「ルールを守ること」を付加することができそうだ。ルールの意味や、それを遵守する意義を学ぶことが可能だ。 次に学校生活を送るにあたってルールさえ守っていれば済むかというと、そうでもない。個人から共同体へ組織が大きくなるに連れ、全体の利益に供する行為というものが発生してくる。つまり、個人の机やロッカーなど身の回りさえ整理整頓しておけば良いわけではなく、教室や廊下、便所の清掃が発生するということである。これはいわゆる「義務」という言葉で置き換えられるかと思うが、義務とは、その行為に対して必ずしも相応の対価があるとは限らないが絶対に行わなければならない行為のこととなる。 この義務については、家庭内においては、かつては子守や食事作りなど極めて義務に近い「役割分担」があったものだが、現代の生活上ではそうしたものはほとんどないだろう。あったとしても、配膳や食器洗い、風呂掃除、買い物など「お手伝い」の範疇におさまってしまうのではないだろうか。お手伝いはしなくても済むが、義務はしなければならないという違いがある。そういう視点では学校教育における「義務」の存在はかなり重要なものであると捉えることが出来る。 さて、話を昨日までの企業における新入社員の傾向に戻してみると、(1)自分の能力に過度に自信過剰である、(2)わからないのに聞いてこない、(3)コミュニケーションを取りたがらない、ということであったが、視点を変えてみるとこれは業務の「囲い込み行為」に他ならない。自分の仕事は自分一人で完結させる、他人に関わって欲しくないということであり、業務の評価を独り占めしたいという意図を見て取ることが出来る。この傾向はやはり近年多々見られるようであり、企業の担当者からは共同成績を認めたがらず、個人成績を欲しがる若者が多いという。このことは、「やりがいがない」「自分が認められない」として職を離れる傾向とリンクするのかもしれない。 上記の傾向は、能力主義が主流となりつつある現在、個人業績を勝ち取ることはある意味死活問題なのだから、時代潮流に乗った行動パターンと言えなくもないが、社会活動は個人業績ばかりではないのは誰もがわかっていることだろう。企業活動の半分以上はルーチン業務であり、いわば義務的業務ではなかろうか。そうした義務的業務は誰かがやらねばならないし、その上で社会は成り立っていることを忘れてはいけないだろう。こうした観点から、義務への理解と義務への忍耐力というものは必要なことと言える。 学校に話を戻して、社会に出てから経験する義務というものの訓練機関として、学校は適していると言える。義務は決められた行動規範に従うだけのことであるから、教師が人間性や人格形成に各個の資質を要求されることもなく、番人と化せば良いだけのことである。学校の清掃活動のみならず、地域の奉仕活動など義務労役をもっと増やしても良いかも知れない。社会経験の絶対量の増加は、ニート・フリーターの増加に歯止めをかけることができるかもしれない。 ただし、近年の学校を取り巻く環境は逆行している。教師の権限は抑えられ、課外活動も塾や習い事などで制限される始末。加えて、自由と権利と義務をきちんと使い分けられる教師も少ない。親の意識改革も必要だし、学校の体制づくりも大変な課題がある。しかし、ニート・フリーター世代が40,50歳台になる時代を想像すると、もはや避けては通れない時期に来ているような気がするのは私だけだろうか。
2005年03月09日
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昨日に続いて、ニート・フリーター問題を考えてみたい。昨日は、日本の企業雇用制度の変革に原因の一つを求めたが、本日は若者の就業意識というものについて触れてみたいと思う。 ニート・フリーター問題を調べる上で、雇用側の意見も聞く機会があった。まず、若者の就業意識に触れる前に、企業が言う「使える子」「使えない子」の基準は何なのかについて。 どの担当者も一様に「使える子」は、仕事の理解と作業が早い、言わなくても自分で考えてできる子としている。「使えない子」はそうでない子。これは、何を示しているかというと「即戦力」なのである。企業スリム化等で人件費の削減を図る企業にとって、安くて(体力的に)動ける新人即戦力はのどから手が出るほど欲しいのだ。しかし、中学、高校、大学出たての若者が専門性の強い企業で即戦力となることはほぼ不可能なことは誰もがわかっている。昨日の日記に書いた「スーパースター型社員」が優遇されるのと同様に、新人にもスーパースター型を求めている姿が見て取れる。若者にとっては大きな垣根であることは間違いない。 加えて、担当者が嘆くのは「新人を育てようにも、余裕がない」と言うことだった。終身雇用制度の中では、かなりの時間を割いて新人を育て上げていく風土があった。しかし、能力主義制が謳歌する現代では、いつ辞めるかもわからない社員に育成経費は割り当てられないと言うのだ。これは、「使える子」にとってはヘッドハント等でステップアップしやすい環境であると同時に、「使えない子」にとっては、いつまで経っても「使える子」になれないことを示す。恐ろしいのは、使えないまま歳を重ねることである。嫌な表現を使うが、どんなに使えない子でも育成経験を重ねればなんらかの成長があるのだ。 さて、現代の新入社員像だが、先の企業担当者からの言葉を借りると、最近の若者(新入社員)に特徴づけられれる傾向として、(1)自分の能力に過度に自信過剰である、(2)わからないのに聞いてこない、(3)コミュニケーションを取りたがらない、のだそうだ。 この点については私の職場にも思い当たる節がある。若者A君がある仕事機材の前で腕組みをしていた。横目で見ること30分。皆忙しく仕事しているのだから、ぼーっとしていて貰っては困ると言うことで「どうした。使い方がわからないのか。」と言うと、「いや、わかってます」と言う。それで私が席をはずして1時間。戻ってくると、まだ、腕組み状態である。見るに見かねて「使い方わからんのだろう」と言うと、小さな声で「わからないということもないんですが・・・・」と言う。結局が私が操作して終わったが、後日、彼の同期生から話を聞くと、当日のことを彼は「私よりの学歴の低い先輩(私のことではない 爆)がいとも簡単に操作するのに、自分が操作できないことに腹が立った」と宣ったそうである。やったことのない操作など誰にもできるはずもないのに。早く聞きなさい! つまり、自分に自信過剰であり、他人に聞くことを恥と考えている風潮があるようである。加えて、担当者曰く、怒られたり能力にケチをつけられると、逆ギレするか救いようのないほど意気消沈するのが困るという。まあ、これは自信過剰の裏返しであるのだが、顕著になれば退職ということにも繋がる。年寄りから見れば、こうした状況は「忍耐力がない」「我慢が足りない」という風にも見えるのだが、若干ニュアンスが異なるような気がする。自分の能力が認められないことへの怒り、自分が思ったほど能力を発揮できない事への驚きと言ったところであろうか。 (3)のコミュニケーションを取らないことについては、若干若者に同情的な部分もある。電子機器も使えず、酒を飲んで猥談放談のおじさんどもと、どうしてコミュニケーションを取らねばならんのだという気持ちもわかる。若者のコミュニケーション手段がパソコン、メール、携帯と変革している流れの中、企業(おじさん)側が変化する必要もあるだろう。 確かに、雇用する側としてはこうした自信過剰タイプはとても使いにくい。会話がないので何を考えているのかわからないし、何をやりたいのかもわからない。仕事をさせても、聞いてこないので重要な所で停滞していたり、大きなミスも発生しやすい。実は、先に挙げたスーパースター型新人はコミュニケーション上手の若者として評価されていることが多い。つまり、ただ単におじさんどもと会話をするだけでスーパースター社員になることが出来るという裏返しでもある。それだけ、企業にとってコミュニケーションが重要だと言うことだろう。 いよいよ本題なわけだが(前置き長いなあ)、こうした自信過剰な若者はどうして生産されてきたのか。もともと若者は自信過剰な生き物である。ファンには申し訳ないが、石原裕次郎の主演映画などは信じられないくらいの自信過剰な若者像である。これからの将来を背負っていき、自らの夢を実現するために若者は自信を持っていて当たり前である。戦後間もない頃の若者が夢と希望を抱いて自信を持ってやってきたからこそ、今日の日本の繁栄はあると言っても良い。では、今の若者と何が異なっているのか。 この課題について私自身明確な答えを導き出せていないが、一つ感じていることは、見えない物への自信過剰と見える物への自信過剰の違いではないかということである。良く言われていることだが、戦後間もない頃の若者はサラリーマンに憧れを感じ、誰もがサラリーマンになりたがった。ただ、サラリーマンが最終目的ではなく、サラリーマンの先に「社長」とか「実業家」という壮大な夢があったのである。誰もが社長になれるかもしれないという無謀な夢を抱いていた時代であり、何もわからないからこそ情熱的に動けた。しかし、現代は会社の歯車で働くサラリーマンは「負け組」の代名詞でもあり、そこから先に社長になることなど夢のまた夢と感じている。ベンチャー企業で学生社長が億万長者になっている現実もあり、企業の歯車からの下積みに夢も希望も持てないのだ。 つまり、戦後混乱期から高度成長期には若者の自信過剰は「見えない夢」に対するものだったのだが、現在の若者はそれが本当に夢であることを知っている。これは情報社会の進展に起因する事例と考えている。書籍、インターネット、テレビ等で様々な情報が氾濫している中、いとも簡単に夢の実現性を判断できてしまうのだ。従って、若者の自信過剰は夢や希望から、極めて現実の課題にシフトしているのではないかと考えるのである。この企業に入れば自分の学歴からすると部長までにはなれるとか、同期の誰それよりは絶対に負けるはずがないなどである。もっとストレートに行けば、自分の能力から行けばどこそこの企業には入れないとおかしい、自分の能力から行けばこのポストについていないとおかしいということになる。 この情報化社会の功罪は、多面性を持っているが、良い面から言えば自分の能力の可能性を示唆してくれるものであり、無謀な夢を追いかける冒険を食い止めることが出来る。また、自分の能力にあった適職を選択する情報収集もしやすくなっただろう。反対に弊害としては、情報が行動の自由性を規範化していることである。情報は社会統計的なデータにもとづくものが大半であり、逆に社会統計的な物であれば信用する傾向がある。これは、モデル化、マニュアル化とも繋がってくることだが、行動パターンの画一化を導き出す結果となる。標準的な行動パターンに従ってさえいればほぼ安泰という安堵感を与える。さらに、自らを標準パターンにあてはめ続けていると、いかにも自分が標準パターンの能力を有しているかのような錯覚に陥る危険性がある。私はこれを「疑似能力」と呼んでいるが、現代の自信過剰型若者にはこのケースが多いのではないかと思っている。自分は標準パターンにあるのだから、この程度の能力はあるはずだと錯覚し、かつ、パターン外の行動を取ることに予測できない危険性を感じるために臨機応変の対応ができにくい。 ここに、本日の冒頭で述べた企業ニーズとの齟齬が発生するのだ。情報化社会の進展等で社会構造が変わってきているのだから、自信過剰な若者が多くなってきていることはやむを得ない一面であろう。だとすれば、やはり受け入れ側の企業が自信過剰の若者の鼻っ柱を折りつつも、適正な育成システムでケアしてあげることも肝要なのだろうと思う。このご時世で企業にとっては苦しい限りであるが。 また、この自信過剰な若者生成ラインについては、昨日の日記の冒頭にあった中山大臣の教育システムにも期待すべき箇所がある。それについては機会を改めて。ニート フリーターでもなく失業者でもなく ( 著者: 玄田有史 / 曲沼美恵 | 出版社: 幻冬舎読んでいませんが、興味深い本です。どういう視点で見ている本でしょうか。参考になるデータリンク「 "フリーター"の就業意識をさぐる」 (日本雇用創出機構)就職活動と就業意識 (厚生労働省) 性・年代間比較で見る各層の就業に対する意識の特徴(インターネットリサーチ「DR1」)
2005年03月08日
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教育がニート予備軍生産=子どもの競争意識醸成を-中山文部科学相(時事通信) 中山成彬文部科学相は5日、松江市で開かれたタウンミーティングで、学校卒業後も就職しないフリーターやニートが増えていることについて「今の教育機関は、フリーターとかニートの予備軍を大量に生産していることに手を貸しているのではないか」との認識を示した。さらに「社会は厳しいということを、子どものころから教えないといけない」と述べ、教育現場で競争意識を醸成することの必要性を強調した。(時事通信) 中山大臣のコメントは、まあまあ一理あるなとは思うだが、果たしてそれだけなのだろうか。 私はちょっとした機会からフリーター・ニートの問題についての対策検討に参加しているのだが、この問題を調査していくうちに実に様々な要因があることがわかってきた。多種の要因が複雑に絡まり合って発生していることは間違いなく、単に一つの要因を指摘して解決する問題ではない。 ニートやフリーターの増加現象は、競争社会に対応できない、もしくはする気のない若者の増加ということであり、中山大臣のいう競争意識の醸成ということも必要なことは十分理解できる。しかし、果たしてフリーター・ニートの増加傾向と学校教育での競争意識醸成が反比例しているのかどうかはいささか疑問がある。少子化の波を受け、受験戦争は一面激化しているとも言えるし、私の子供の頃に比せば塾通いなど格段の競争社会となっている。 では、何がフリーター・ニート増加に拍車をかけているのか。フリーター・ニートと呼ばれる若者に聞いてみると、大部分が「会社という組織に馴染めない」「仕事のスピードについていけない」「対人関係がきつい」「自分のやりたいことと違う」「やりがいがない」と言った点に集約される。 確かに上記の発言を見ると、バリバリ会社人間の世代から見れば、何を甘えたことをとか忍耐が足りない、努力が足りないと言いたくなるのもわかる。現代の若者に忍耐力が(戦前の若者に比べて)欠けつつあることは否定しないが、いつの時代でも若者というものはそういう存在ではなかったか。 はたと困ったとき、あるニート(半フリーター?)青年と出会った。青年は一流大学を卒業し、決して精神的に問題があるわけではないのだが、最初の就職につまづいてから正職についていない。彼に何の問題があるのだろうかと観察してみるに、性格がやや大人しいこと、地道な積み上げ型の仕事が好きなことがわかってきた。最初の職場は証券系の企業だったそうだが、営業にまわされて良い成績があげられず、馬鹿にされたあげく無能者呼ばわりでいずらくなったそうである。一般知識は相当レベル持っているし、話せば敬語も人当たりも十分である。事務仕事も決して遅くはないし、丁寧なのがいい。何故、彼のような青年が競争社会に適応できないのか。 そこで、視点を変えて雇用側の体制に変化があったのではないかと考えてみた。外資系の進出とともに、日本企業が徐々に終身雇用制度から個人能力制にシフトしてきたことは周知のことである。終身雇用制の場合、雇ってしまった人間は無駄に出来ないから、企業はその個人差に応じて職を与える工夫を図る。これが「適材適所」という考え方である。つまり、証券会社にしても外向的性格に向く営業職とデータベース作成など内向的性格に向く事務仕事がある。適材適所ならば、個人の能力に応じて職が得られるのだ。 しかし、外資系の能力主義というのはどうしても数字に表れる結果で評価されがちとなる。この結果、営業能力のみが評価対象となり、さらには事務職は隅に追いやられる結果となる。隅に追いやられるだけなら良いが、実は能力主義は他の職業をも食っていくことが多い。つまり、事務仕事も出来る営業職などだ。近年の企業人員スリム化に伴って、こうした「使える」スーパースター社員が多くの企業で登場しているのだ。 このスーパースター社員は特別な能力であり、誰でもできるわけではない。しかし、企業の能力評価の頂点がスーパースター社員を中心に据えられてしまった場合、もはやそのほかの個性的な能力を有する社員の存在価値は低い。加えて、スーパースター社員は「ワークシェアリング」を阻害する存在でもあり、ますます雇用機会を狭くしているのだ。 日本人は欧米人と異なって基本的に内向的性格の遺伝子を持っている。他の人間を押しのけて優位に立とうとすることを嫌い、陰で支えることを美徳とする。こうした日本人的心は近年薄れてきたとはいえ、欧米人に比べればはるかに濃い。 つまり、自分の長所をアピールして能力を開花させていく欧米型と、他人が適材適所の能力を見いだして開花させてやる日本型の違いがあるのだ。終身雇用制が崩壊し、能力主義を前面に出すようになった現代社会に若者のみならず日本人が適応できないのは自明の理ではないだろうか。 スーパースター型社員のみがクローズアップされる競争社会で、スピードや業務についていけないタイプの若者がいるのは当然。そうした型のみが能力と誤解される社会に興味ややる気がもてないタイプがいるのも当然。言い方は悪いが、「のろい子」「使えない子」が活躍できる場を提供できる「競争社会」が必要なのではと思い至ったのだった。こうした社会構造の変化にも焦点をあてて論じる必要があるんだろうなあ。<春だ MA-1ジャケットだ>段々と暖かくなってきましたね。春先にはやはりMA-1です。新作は出揃ったところですが、冬物最終ということで大分安くなっている店もあります。MA-1ジャケットを探す(一覧)
2005年03月07日
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学力低下に不安8割、ゆとり教育反対増…読売世論調査 政府が学校教育における「ゆとり教育」の見直しを進める中、読売新聞社が実施した「教育」に関する全国世論調査(面接方式)で、国民の8割が子供たちの学力低下を「不安」に感じ、「ゆとり教育」を「評価しない」人が7割超に上ることが明らかになった。(読売新聞) 文部科学省の戦後最大の間抜け施策「ゆとり教育」への反論が高まってきたことは、当然予想されたことである。しかし、このゆとり教育なるものについて、その目的、失敗点、成功点をしっかりと理解できている国民がどれほどいるかは疑問である。それは、ゆとり教育への方針転換時の将来ビジョンの甘さと、現場への周知徹底がなされていなかったことに起因し、今ではその再検証すら組織的になされていないという、手抜き施策にあると言える。 それだからこそ、今回の読売新聞の世論調査結果を見て、唖然とする箇所がいかに多いことか。訳もわからず、賛成と批判をしている、哀れな国民の姿を見て取ることができる。 学校教育への不満(複数回答)では、「教師の質」60%がトップ 今更でもないでしょうが、どこにぶつけていいかわからない不安を教師にぶつけるという王道だ。私は教師ではないが、教師を弁護すれば、戦後以来教師の「質」というものについては対して変化などしてはいないと思う。大体において何の「質」が低下しているのか聞いてみたい。確かに、教師の学力という点では劣ってきていることは間違いないだろう。しかし、教師の質の本質は「教え方」「人間性」に最重要点があるのであって、そういう点では現在の教師が劣っているとは思えない。少なくとも、戦後混乱期から近年までの日教組全盛期の教師の「質」に比べれば飛躍的に質は上がっているだろう。加えて、経験的なものから教え方の工夫が向上していることも間違いない。 そういうことで、「何はともあれ教師を批判しておけ」的な論点に持って行くことだけは避けねばならないし、そういう論点になっていること自体、逆に国民の教育への「無関心」を露呈してるように思う。 次に、学力低下の原因(複数回答)では、「ゲームやマンガなど誘惑の増加」53%がトップ。続いて、「授業時間の削減」50%、「教師の質の低下」41%、「日常生活の乱れ」37%、「教科内容の削減」36%などの順 という段においては、再び教師への批判が登場しているが、これについては前述の通り。この調査で気になるのは「家庭」という文字がどこにも見えないところである。「家庭の教育力」を棚上げにする世論の風潮が顕著なのは実に憂慮すべき事である。 まず、ゲームや漫画?。日常の生活の乱れ?それを阻止するのも、選択するのも、是正するのも家庭の仕事ではないのか。次に、授業時間の削減とあるが、確かに授業時間の削減は学力に直結する要因ではある。しかし、考えてみればゆとり教育による授業時間の削減は「体験学習」の重視によるものであって、体験から学習する効果が、相乗効果として一般学習へフィードバックするというビジョンにあったことを忘れてはいけない。例えば、理科でカエルの産卵から成体になるまでの課程を学習する際に、現物を飼育することで体験した方が、教科書で学習するよりも何倍も効果的であることは言うまでもなかろう。 ただ、問題は文部科学省が、体験学習を学外(家庭)に押しつけてしまったことにあり、押しつけられた側の家庭がそれを「無視」した結果がこれである。要は、本来家庭で相乗効果を期待すべく体験学習するべき時間を、他のことに使ってしまったからであることを忘れてはいけない。 このまま、家庭教育というものをないがしろにしていく以上は、いくら文部科学省で新たな教育施策を立てようが、教師の質がいくら良くなろうが、学力の低下は避けられないだろう。 家庭や地域活動が学校教育の一環に組み入れられていく仕組み作りに期待したいところだ。 最後に、教師を批判する親が特に増えているという。校長室に毎週出入りする母親がいると言う話も聞いたことがある。こうした恥知らずの行動が子供の道徳教育に悪影響を及ぼしていることに気づかないのが悲しい。 私としては、学力低下の原因の第一位に「親の資質の低下」をあげておきたい。(もちろん自省も含めてね)
2005年02月06日
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今日は本当に書くことが思いつかないので、ちょっと疑問に思っていたことを。 三位一体改革の流れで、国の財源を地方に移譲することとなっていますが、ちょうど議論が真っ二つに割れているのが「義務教育費」と「生活保護費」補助金の廃止問題。通常、補助金の廃止というケースの場合、地方は廃止に反対するのが通例ですが、義務教育費については逆の立場になっていますね。 義務教育費補助金とは、義務教育(小中学校)の教員給与について1/2を補助するという制度ですが、地方6団体(知事会など)は全額地方でまかなうべきだとしているのに対し、国(文部科学省)は、教育は国家的戦略であり、地域格差が生じる可能性があるので反対としています。 要は、地方は教育現場の自由裁量権を確保したいし、国は権限を取られたくないという姿にも見えます。確かに、現在の教育システムは、学校教育法やら様々な法律で教員定数や、カリキュラムの基本が縛られています。全国一定の基準で縛っているために、地方によっては実態にそぐわないケースも多分にあるわけです。近年では、地方での自由裁量も大分認められてきてはいますが、国からの「補助金」という足かせの元、地方は国の言いなりにならざるを得ない部分もあったわけです。補助金という足かせが取れることによって、自由で独創性のある教育が可能になるのです。ただ、それを生かすには相当な知恵が必要でしょうが。 一方、地方に義務教育財源を委譲すると「教育の地域格差が生じる」という懸念があります。実は、義務教育費補助金の削減分は税源移譲と交付税措置によってまかなわれるわけですが、これが曲者なのです。特別に用途を縛られない限り、与えられた地方では何に使っても良い財源となるのです。つまり、本来義務教育費に相当する金額として交付されても、必ずしも満額義務教育費に用いなくても構わなくなるのです。 昨今の厳しい地方予算の中で、教員数の削減や教育経費が削られる可能性も出てくるわけです。その結果、地域格差が生じる。文部科学省もその辺を心配しているわけですね。そのうち、東大合格者からとある県出身者が消えていくということが起きるかもしれません。 ということで、地方6団体が何故、ここまで義務教育費にこだわるのか、やや理解に苦しむのですが、その裏には「義務教育費」に隠された大いなる無駄経費の存在(地方にとっては悩みの種であった)の可能性もありますし、土木等の他財源の削減を助けるための生け贄であったという可能性もあります。いずれにしても、弱小県の声が今ひとつ聞こえてこない地方6団体の本音が知りたいところです。 ところで、日教組はどういう立場なのか気になったのですが、当然のことながら義務教育費補助金維持の姿勢のようですね。それで義務教育費制度堅持で一致/文科相と日教組委員長(四国新聞)ということになったようです。なんとも笑える姿ですね。でも、他の日教組関係の記事なんか見ていると、多くは「補助金削減」=「政府を糾弾」という関連性になっていますね。やっぱり、「政府=文部科学省と足並みを揃えて!闘おう!」という記事にはならないのしょうかねえ。<ミリタリーなグッズ>USタイタック\330結構渋いです。尉官クラスのなんて最高に渋いです。スイスショルダーBAG\990この生地感がたまりません。ミリタリーぽいんだけど、そうでもない独特の味わいですね。
2005年01月30日
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読売新聞の社会面に、都立高校定時制の給食費滞納が目立っており、未納者には給食打ち切り方針、との記事があった。 以前、仙台市の小中学校で3ヶ月以上の未納者が1500件以上もあり、その半数近くが家計の問題ではなく「払いたくない」という確信犯であったという衝撃的なニュースもあったことは記憶に新鮮だ。 岩手県の滝沢村では督促に応じない世帯に対して「財産差し押さえ仮執行宣言」を出すなどの異例の事態も。(岩手日報) 沖縄県読谷村でも給食費納付指導月間なるものまである始末。 全国で同様の事態が発生しているようで、どうしたのだ日本と耳を疑いたくなる。 いくら家計が苦しいと言っても学校の給食費さえ払えないのであれば、それは生活そのものができないレベルと判断されて良い。しかし、そうした家庭は一定の保護施策があるのあって、給食費を払えないということにはなり得ないのが建前。 問題は、わざと払わない確信犯なのだ。どうも未納グループ!というのがあって、口コミで「払わなくてもいいらしい」とか「払わなくてもどうせ学校だから厳しい督促はない」「居留守使えば大丈夫」などという流言が飛び交っているようなのだ。NHK料金の未納問題と同等レベルとして受け止めているようだ。もはや、学校給食は垂れ流されている電波と同じように勝手に給付されている既得権としか思っていないのではないか。 中には、「義務教育で学校に連れて行かされるんだから、給食くらい支給するのが当たり前だ」という珍論まで出るらしい。こういう人には教育基本法などただの紙くず同然なのであろう。 はっきり言って、親の資質に問題があるのだが、こうした確信犯には毅然とした態度で接する必要があろう。そのためには、学校で子供に給食が与えられないという事態が発生してもやむを得ない。 しかし、実際問題学校で給食を食べられずに教室の片隅で腹を空かせている子供がいては問題となる。ではどうすればいいのか。学校経営上、払われた給食費分の給食しか出さないのは当然。結果、出された分量を皆で分け合うことになる。もちろん、滞納の子供は他の子供たちに恵んで貰うという格好になる。 実際、私の小学校の頃そういう子供がいた。生活保護を受けているわけではなく、親がルーズな性格だったのが原因だったが、数ヶ月我々の給食を少しずつ分け与えていたうちに、親にもその情報が入ったらしくその後はまじめに支払うようになった。 世の中の仕組みを「ナメた」親が増えてきているのも事実だ。それはきちんと社会の義務と権利を教育されてこなかったらからである。色々なところに問題の種はあるのだ。ミリタリーウエア情報オーシャンパシフィック(OP) レディース服袋¥4.980「新春福袋」オーシャンパシフィック(OP) Tシャツ5枚おまかせ服袋服袋¥4.980「新春福袋」Spell BoundコンバットパンツSpell Bound 迷彩 タイトコンバットパンツ
2005年01月10日
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経済協力開発機構の国際学習到達度調査(PISA)、国際教育到達度評価学会の国際数学・理科教育調査(TIMSS)という二つの国際学力調査の結果が出て、日本の順位が落ちていることが判明したところですが、TIMSSでは小学校理科が2位から3位に、中学理科が4位から6位になったということです。 この結果を著しい学力低下と捉えるかどうかに問題はあるものの、少なくとも学校現場サイドからの声を聞いてみても「明らかに読み書き計算の基礎学力が10年前と比べて低下している」という現象が起きています。 文部科学省は、この結果を受けたわけではありませんが、教育基本法の改正とともに、学習指導要領の抜本的な見直しを図ることに着手しました。明言はしていませんが、「ゆとり教育」に欠陥を認めたということでもありましょう。 さて、この学力低下問題について各新聞の社説があったのでみてみました。読売新聞社説(2005/1/5)毎日新聞社説(2004/12/16) 読売新聞のほうは、はっきりと学力低下の原因は「ゆとり教育」にあると断罪していますね。しかも、ゆとり教育を近年の文部科学省施策にとどめず、4半世紀前からの方針全体として捉えています。結果、学力低下の戦犯は文部科学省、日教組、中(臨)教審の3者に求めているわけです。この論点に私は賛同します。 文部科学省はちょっと可哀想ですが、そもそもGHQ戦後教育政策の中で、文部省は教育のリーダー的イニシアチブを持たされていなかったわけです。戦前教育に戻らせないために国が教育に関わるなというタブーがあったわけで、そういう意味で、GHQは暗に日教組を支援していました。毒をもって制すということですね。 それが、昭和末あたりから突然、リーダー的存在に祭り上げられた訳です。それまで、教員と施設をいかに管理するかということのみに専念し、教育手法について考えるという素地と蓄積がなかったわけですから、いきなり野に放たれてもどうしようもなかったわけですね。 そこで、中(臨)教審に指導を仰ぐわけですが、この中教審がまたくせ者なのです。実は、過去の中教審メンバーに数人知り合い(大先輩ですが)がいるのですが、問題はメンバーの資質にあるのです。というのは、確かに個々人としては大変立派で人間的にもできた道徳観あふれる方々ですが、いかんせんお年が・・・。そして、家柄が・・・。つまり、彼ら自身が自らの子を教育した経験がない、もしくは遙か遠い過去なのです。ばあややじいやに任せっきりで、教育理論はあっても、教育現場の実態には全く無知と言ってもいいでしょう。そういう人たちが教育施策の理念や施策方針を作っていったわけです。 この傾向は現在でも同様で、ネット上で様々な審議会の議事録が掲載されていますが、やはり机上の空論である感は否めません。本来は、文部科学省で「結果ありき」の上で、ご意見をいただくという位に十分施策を練っておく必要があるのですが、何せ下地がないので中教審に振り回されるといった結果なのですね。 もう一つ、日教組の罪ですが、読売新聞の社説「敗戦、復興から高度経済成長期へ。日本の教育は「知識偏重」路線をひた走った。当時の文部省は学習指導要領に法的拘束力を持たせ、学力の実態把握へ全国学力テストを導入した。日教組は、「教育内容の国家統制だ」と激しく反発した。学力テストを十年で廃止に追い込んだ。「詰め込み」が高じて、一部に「落ちこぼれ」が出現したのは事実である。すると日教組は、学校五日制、授業時間数削減などを主張した。一九七〇年代後半、これに押される形で文部省が「ゆとり教育」路線に舵(かじ)を切った。」とあるように、現在のゆとり教育の下地は日教組の活動によって作り上げられたと言っても過言ではないでしょう。結局、日教組のやってきた活動は「労働争議」であって、子供達の教育について等考えてはこなかったのですから。自分たちの労働条件向上のために、授業時間を減らし、授業内容を減らすことを要求してきた。それを腰抜けの文部科学省は飲まざるを得なかったという構図ですね。 余談ですが、かつて、日教組の教科研究会?なるものの講師で行ったことがありましたが、そりゃあひどいもんでした。日教組内の取り決めなのか、必須授業のような感覚で来ている教師が30人ほどでしたが、全員聞く気なし。机に突っ伏して寝ているか、新聞を読んでいるか。全く持って不良生徒以下でしたね。 さて、最期ですが今後の教育施策改革について。読売新聞は勉強を子供に“押しつけ”ていた「詰め込み教育」「学歴偏重」の時代には、今更戻るべきではないだろう。子供に自分から学ぶ意欲を持たせる必要がある。〈いい大学〉〈いい会社〉に入ることが必ずしも人生の目標点とは言えない時代になった。意欲の動機付けが難しい。教師の指導力、授業法の工夫がかつてないほど求められる。「競争」で切磋琢磨(せっさたくま)の精神を教えることも重要だ。としている。一方毎日新聞は心配なのは今の子供たちは、知識量だけでなく体力や、精神的なたくましさ、粘り強さなど、生きていくのに必要な基本的な力が衰弱しているように感じられることである。数字の上ではっきりしているのは、体力・運動能力の低下だが、内面的な力にかかわる部分も、低下傾向にあるのではないか。学力についていえば、勉強しようとする、競おうとする意欲や、ものごとを考える姿勢の乏しさが気になる。(中略)こうした背景を考慮に入れた総合的な対応策が必要だ。文科省は二つの調査結果を多角的に、丁寧に分析し、今後の施策に生かしてほしい。「学校週6日制に戻せ」「競争させよ」などという短絡的な措置で、「学力」が復活するとは思えない。昔の詰め込み教育に戻せば済む話ではない。としている。 両紙に共通しているのは、詰め込み教育には戻さないという点です。かわりに読売新聞は、競争させる意欲を持たせること、そのためには教育現場での指導力、授業法の工夫が必要としています。毎日のほうは、競争させるのも駄目ということで社説なのに解決案の提示もないまま終わっているのは相変わらずですが。 さて、競争させる意欲を持たせるために現場の指導力、授業の工夫ということですが、これは無理でしょう。もはや現場の教師にこれ以上の努力を求めることは無謀。教師そのものの個人差があり、学校単位での温度差もあります。教師は教えるという第一人者ではなく、学習するための援助者に徹するべきというのが持論です。 ではどうせうればいいのか。個人的にはもはや「詰め込み教育」に戻すしかないと思っています。詰め込み教育の何が悪いのでしょうか。ある意味、かけ算九九や漢字などは詰め込み以外の何者でもなく、いわゆる暗記系学習は詰め込み型でしか体現できないと思うのですが。かつて、中教審では、詰め込み教育は応用力、読解力の低下につながるとの指摘があったわけですが、この点を再検証してもらいたいと思います。果たして、詰め込みをやめてから応用力、読解力が向上したかどうか。私個人的な経験から言うと、詰め込んで杯からあふれた部分をどう始末しようか、どう整理しようかと考えることが応用力であり、読解力だと思っています。つまり、あふれなければいつまでたってもその部分が育たないんじゃないかと。 ということで、今日の結論は「詰め込み教育」を再評価せよ、ということなのでありました。ミリタリー系食玩情報陸自車輌 コレクションフィギュア BOX(予約)ようやくこの謎の製品の実態が判明。どうやら、ガシャポンだったようです。スケールはややまちまちですが、なかなかレアな車両が入っていますね。 詳しくはここを参照
2005年01月05日
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