全25件 (25件中 1-25件目)
1

「図書3月号」でもつぶやいたように、実は私は今度の参議院選挙(衆参同日選挙かもしれない)に対してはかなり悲観的な見方をしている。今度こそ負けたならば、ずるずるずるずると、改憲、自衛隊員の戦死、テロによる外国の脅威、軍備増強、福祉の切り捨て、「強くて美しい日本」が現出し、あとは「なるようになる」国民が出来上がるだろう。そして突発的に戦争が起こる。今度は負けられないのだ。しかし、勝てる展望が見いだせない。勝てるかもしれない。それはいくつかの幸運と、日本の知識人がずっとやってきた「読み違い」が起きた時だけだ。今のままでは負けるだろう。もちろん「野党共闘」や「2000万人統一署名」の戦略は正しいし、私はそのためにこの半年間10数回にわたり毎週金曜日に集会&デモに参加しているし、署名行動もしている。その他のこともできるだけやっている。私の力は微々たるものだし、自覚的な人は私よりも頑張っている人たちが周りを見渡しただけでも何百人といる。それでも、約25%の絶対得票で75%もの議席を獲得する小選挙区制の「魔術」の前に、我々はなす術もなく立ち尽くすのではないかという気がしてならない。そういうもんもんとしている中で、平和新聞3月25日号の一面特集「市民連合対談」を読む。「野党共闘」の次に選挙で「勝つ」ために必要なことをテーマに、「市民連合」の中野晃一上智大学教授、SEALDsの千葉泰真さんが対談を行っている。2月19日に野党党首会談で共闘合意がなされて以降、「野党統一候補」が次第と決まっている。市民の立場から、その動きを創り見守ってきた2人の感想を聞くと、この合意もなかなか大変だったことが分かる。しかし、中野教授は連合に近い福山真劫氏と全労連の小田川義和氏が一緒にやっているので、いつかは実現するだろうと見込んでいたらしい。問題はこれからだ。果たして展望はあると、2人は思っているのか。千葉さんは「市民連合」をマスメディアにコンスタントに報道される必要を言う。SEALDsはそのための「絵づくり」と自覚している。「本当に市民が一体になって野党を応援している「絵」をうまく発信していくことが必要」中野教授は、前提条件は投票率が上がること、だという。同感だ。上がらなければ、小選挙区制のカベは崩れない。「投票率が60%を超えて70%に迫るぐらいになると、いい勝負になるでしょう」「そのためには、これまで投票に行く意義を見出せなかった人たちに、今度の選挙はすごく意味があると思ってもらわないといけません」「単に与党対野党という構図ではなく『暴走する安倍政権と市民の野党を使った闘い』という構図を作らないといけない」千葉さん。「今の状況で、安保法廃止のシングルイシューでの争点化は厳しい」私もそう思う。少しづつ局面を変えてゆく。「選挙はアクションをかけてそれがバズれば(インターネットなどを通して爆発的に話題になること)、実際に票が動きます。だから、いろんなことをし掛けてみようと思います」「ブームをつくる」の本に書かれていることは、既に彼らには当然のこととして頭に入っている。そのことに先ず、安心した。私は、「今のままでは負けるだろう」と言った。それは「どうせ何も変わらない」と、選挙に行かない私の身近な無党派の青年とは真逆の問題意識ではある。状況は依然と真冬のように厳しい。しかし、桜のわずかな膨らみにも恐ろしいほどに敏感になるのが、日本人でもあるのだ。状況は常に変わり得る。いい方にも、悪い方にも。
2016年03月30日
コメント(0)

「ペテロの葬列」宮部みゆき 集英社作品のラストに訪れる杉村三郎の意外な運命のことは知っていた。でも、どうして、どうやってそうなったのか、は知らなかった。最終ページに辿り着く迄にある程度推理出来たのは、私としては上出来だと思う。(これをアップする時点でアマゾンの書評を見ると、圧倒的に「菜穂子許せない」派が多かったが、私は許せる。彼女は籠の鳥から抜け出す方向に舵を切ったのだ。その方法は間違っているけど、そもそも宮部は正しい人だけを描くことはない)知っていたのは、文庫の「ソロモンの偽証6」のスピンオフ中編「負の方程式」(杉村三郎が探偵で出てくる)を読んでいたためである。あれを読みおえた時点でこの作品は読まなければならないと思っていた。あの頃同時にテレビドラマでこの作品が放映されていたが、観るのを我慢した。正解だった。冒頭のバスジャックの緊迫した「心理描写」は、流石に映像では無理だったろうと思うからである。やはり宮部みゆきにとって、杉村三郎は得難い等身大のヒーローなんだと思う。彼女には、通常人は到底真似出来ない特技がある。見たものを確実に描写出来る(「日暮らし」のおでこに似た)「カメラアイ」を持っているのである。その一方では、身近にいない人たちや、壮大な社会批判は出来ない性質の女性である。デビュー以来の30年間で、ギリギリ今多コンツェルン会長のような社会的地位の高い人は描写出来るようにはなったが、そのコンツェルンの中で生き馬の目を抜くような人物は描けないだろう。よって、コンツェルン運営にも関わらない、かと言ってまるきり社会の頂点にも関係なくはない杉村三郎は、宮部には自由に動かすことの出来る分身だった。あの肝の座った観察力、素早い判断は、しかし探偵業にしか向かない。経済小説や政治小説で活躍するには、杉村三郎は(能力的には可能かもしれないが)性格的には優しすぎるだろう。話の流れで、トールキン「指輪物語」における「指輪とは何か」という解釈があった。私は私なりのその解釈を持っている。しかし、宮部みゆきのそれが知れて、大いに収穫だった。しかも、それがそのままこの作品の大きなテーマになっている。〈一つの指輪〉は、冥王サウロンの力の源泉であると同時に分身だ。指輪はサウロンのもとへ還ろうとする道筋で出会う中つ国の人びとを汚染してゆく。その心をむしばんで、人格どころか容姿まで変えてしまうのだ。 悪は伝染する。いや、すべての人間が心のうちに隠し持っている悪、いわば潜伏している悪を表面化させ、悪事として発症させる 〈負の力〉は伝染すると言おうか。 現実を生きる我々は、 〈一つの指輪〉を持ってはいない。だが、その代替物なら得ることが出来る。それは誤った信念であり、欲望であり、それを他者に伝える言葉だ。ー影横たわるモルドールの国に。我々もまた、生きている。(356p)宮部みゆきは、作家になってこの方、ずっとこのことを描いて来たのである。一つだけ、私がこの作品の瑕疵だと思うところ。バスジャック犯と迫田さんが乗り合わせたことを、杉村三郎は偶然だと思っている。本気でそう思っている。もしそうならば、迫田さんの慰謝金が一人跳ね上がっているのが説明出来ない。また、田中さんの額も納得出来ない。しかしそれを論理的に説明すると、物語がすべてひっくり返る恐れがある。私が瑕疵だと云う所以である。
2016年03月28日
コメント(0)

「DAYS JAPAN 4月号」表紙写真はクリスチャン・ムンテアス。ルーマニア・ブカレスト南部に、かつて豪華を極め、やがて取り壊された豪邸街の跡地がある。そこに住み着いた、貧しくても明るいロマ人の家族を取材している。ロマ人は、かつてジプシーと呼ばれた人々。現在、ジプシーは差別語となり、ロマ人と呼ばれる。ルーマニア人口約2000万人の一割はロマ人とされ、厳しい差別にさらされている、らしい。そうか、ロマ人と言われていたんだ。好きで放浪していたわけではなさそうだ。2年前に「鉄くず拾いの物語」という映画を観た。そこで、ロマ族は領土というものを一度も持ったことがないが、ヨーロッパ各地にいて、推定800〜1000万人いるということを初めて聞いた。彼らの80%が貧困ライン以下の暮らしをしているらしい。寿命はヨーロッパ平均より10-15歳短く、15%が常に飢えと闘っているそうだ。この写真の家族も、映画と同じように、豪邸跡で拾った金属やゴミ置き場のプラスチック、それに池で釣った魚や、岸に生える葦を売って生活していた。一度も国を持っていない彼らがアイデンティティを保っているのは、宗教や言葉や差別的な囲い込みその他があるだろう。それらは、もっと勉強しなければわからないことではある。ただし、一つ確信的にわかるのは、彼らから観るヨーロッパが、現在のヨーロッパを最も立体的に見せているだろう。ということだ。『カムイ伝』と同じ理屈である。最も底辺から見る姿が、最もその国の姿を現している。この家族は公園化のために、立ち退きを当局から要請されている。幸か不幸か、元の豪邸関係者が土地権利で訴えているので、それが決着しない限り家族たちを退去させることは出来ない。この号は大きな特集はない。世界のいろんな姿が、厳選された写真と共に紹介されていた。ほんの少し世界は広がった。2016年3月26日読了
2016年03月26日
コメント(0)

「ビッグイシュー283号」ゲット。前回販売者さんは「三月からは休まず立てる」と言っていた。今回は珍しく二回続けて出逢えて購入することが出来た。体調が戻ったのは本当らしい。表紙は「リリーのすべて」のエディ・レッドメイン。この雑誌で紹介される作品はいつも必ず傑作ではないが、外れはない。今度も観ようとは思う。特集は「始まる市民電力」。リード文は以下の通り。福島第一原発事故から5年。この4月から始まる"電力の小売り全面自由化"で、電力会社を選べる時代がやってきた。「再生可能エネルギーを利用したい」「地元産の電気を使いたい」という人も多いだろう。しかし、地域や市民による再エネ発電を重視し、大手電力会社と資本関係がない市民電力は現在12社(3月8日時点)。4月から家庭向けに小売りするのは4社のみ、他は6月や今秋開始を計画しているという。この背景には、家庭向けの小売りは薄利多売で一定の契約数が必要なこと、国により再エネの"受け入れ上限"が設けられたことなどがあり、市民電力の普及の障壁となっている。そんななか、4月から家庭向けの小売りに挑戦する市民電力である、「みんな電力」(東京)、「みやまスマートエネルギー」(福岡)、「千葉電力」(千葉)を取材。また、安田陽さん(関西大学准教授)に「電力自由化の本質」について聞いた。"市民電力の今"をレポート。安田陽さんの話はとてもわかりやすかった。「パソコンのOSと同じ、変更を急ぐ必要はない」「悪い影響は3つあげられます。一つ目は、小売会社による『過剰な宣伝合戦』で消費者が混乱して疲弊すること。(略)煽られない方がよいでしょう。二つ目は、割引により、『電力多消費型のライフスタイル』が奨励されてしまう危険性があること。(略)三つ目は、電気料金が期待したほど下がらなかった場合、そのリバウンドで電力自由化に対する懐疑論が噴出しやすいこと。(略)」「よい影響とは。最終的に『透明性と公平性』が生まれること。そして多くの市民が電力システムの行方に関心を持つであろうことです。」しかし、安田さんの話を聞いて思ったのは、アベ政治のもとでこれがホントにそのまま進むだろうか、ということ。なにしろあのお方は国会前に10数万人が集まっても我関せずだった人なのである。元ドイツ海外派兵帰還兵のPTSDの事情を伝える記事も、考えさせられた。ドイツは今まで38万人もの兵士を海外に派兵している。近い将来の日本だと、容易に想像出来る。去年の秋に読んだ感想をアップした北野慶氏の『亡国記』が編集部のイチオシとして紹介されていた。知らなかったのだが、北野慶氏は、原発事故後に埼玉から岡山に移住しているらしい。この本は岡山で書かれていたのだ。集会に行けば会えるかな。
2016年03月26日
コメント(0)

「ブームをつくる 人がみずから動く仕組み」外村美樹 集英社新書著者は少ない予算から「香川県はうどん県と改名されました」という記者会見で、ネット騒然を引き起こして、8億9千万円の広告効果を作った「PR」のプロです。こういうハウツー本は避けて来た私ですが、ある事情から、たいへん興味深く読むことが出来ました。感想を一言で言えば、市民運動をしている人には必読本です!なぜか。(1)市民運動は金と権力がないので、マスコミを動員出来ない。(2)広く世間にPRしたい切実な欲求がある。(3)市民運動家は十年昔日の宣伝方法しか持っていない。一方、著者はPRは政治的な意図を持って人々を煽動するプロパガンダとは異なると自負する。それは以下の四点の理念を守っているからである。●事実に基づいた正しい情報を提供する。●ツーウェイ・コミニュケーションを確保する。●「人間的アプローチ」を基本とする。●「公共の利益」と一致させる。これは正に「市民運動の理念」そのものである。それならば、堂々とPRのノウハウを借りればいい。私なりにまとめたのは、以下の点である。(1)社会層ではなく、個人にむけて情報を発信する。ターゲットを絞る(女性の母性本能をくすぐることも大事)。(2)2%の人々が動けば、当該地域が変わる。(3)始まりはメデイアか何かのインパクト→インターネットでの拡散→みんなに「ああ、みんな面白いと思っているんだ」安心・信頼感→「取り残されたくない」欲求→社会的な動き(3)「三面記事的なネタ」を怖れない。「物語」を発見する。ここに書いてある数々の成功事例は、そのまま使えないけど、数々のヒントがあるのは確か。課題は炭の様に硬くなった市民運動家の頭の中を豆腐の様に柔らかくすることだろう。最近、正にこの通りの「動き」があった。「保育園落ちた。日本死ね」のブログがインターネットで拡散されて、「あゝ、私もそうだ」という言葉が広がり社会が動きつつあるのである。国会の答弁を受けて「落ちたのは、私だ」と動いたのは、正に教科書通りだろう。公益もあるし、物語も、三面記事的な話もある。問題は最初のインパクトをどう作るか、である。2016年3月25日読了
2016年03月25日
コメント(0)
![]()
「プリニウス 1-3巻」ヤマザキマリ とり・みき 新潮社ローマ時代紀元一世紀。皇帝ネロの時代。「博物誌」で知られたプリニウスの世界を描く。「テルマエ・ロマエ」がコメディタッチだったことに不満があったヤマザキマリは、今度はシリアスに描きたいと思っていたらしい。しかし、彼女はアシスタントを使わない主義。しかし今度は1人では描けない。そこで相棒に選んだのがとり・みき。凝り性の2人が描けば相乗効果で、とんでもない「博物誌的な漫画」が出来上がった。彼らが描くローマ時代を見ると、つくづく現代の古いヨーロッパとほとんど変わらない世界が現出する。日本では弥生時代なのである。しかし、プリニウスの頭の中は、ところどころ非科学的な性急さはあるものの、科学的に世界を見つめているのが、私的にはツボである。その好奇心の強さ。そして時々現れる現代にも通じる真実。特に三巻目の40Pから46pにかけて、おそらく「博物誌」の記述を元にしたプリニウスの呟きは、優れた人間洞察である。曰く。「人間というのは、これだけ弱虫に生まれておきながら、やがてはすべての生き物に対して主人面をするようになる‥。素っ裸でこんな無防備な姿で生まれてくるのに、誇りだけは高生き物に育っていく‥」「猛々しいライオンですら、彼ら同士で無意味に闘ったりはしない。しかし人間は、たいていの禍いは仲間同士で引き起こされる‥」現代最先端の霊長類学であり、平和学だろう。
2016年03月23日
コメント(0)

「IN・POCKET 1月号」講談社とりあえず、読書感想。200円の本の月刊誌と思って読めば、時々買ってもいいかなと思う。しかし、半分以上が全く読まない連載小説というのが玉に瑕。今回買ったのは、一つは「経済から読み解く江戸時代」うんちく満載で面白そうだったこと。もう一つは、「水木しげる漫画大全集」を刊行中の講談社ならではの追悼特集があったこと。略年譜もあったし、1番読み応えあったのは、京極夏彦「水木しげると戦記漫画」という一文。元は「大全集」の別冊総論に載せた文章。しかし1番弟子らしく、1番的を得ていると思う。水木しげるの戦記漫画は「反戦漫画ではない。決して戦争を礼賛する内容ではないものの、意図的に戦争否定を示唆するような要素は見受けられない」水木しげる自身は食うために書いたとはいう。しかし、そうとは思えない。でも説教臭さはない。おまけに恨み言もない。いったい何を創作の原動力にしたのか。生き証人として、「虚飾を廃した戦争の真実を次代へ繋ぐためか」確かにそういう動機もあっただろう。しかし初期の傑作はあまりにも若く貧しかった。そんな余裕があったとは思えない。京極夏彦は、それは「復讐のためというのが近いように思う」と書く。もちろんそれは「水木しげるの作風人柄には凡そ似つかわしくないけど、ここではそう呼びたい。水木しげるは漫画を描くことで理不尽な時代に復讐したのだ、と。」「自分を苦しめた戦争を飯の種にすることで戦争を「食い物」にしたのである」「水木はー生きていた。勝った、ということである。1番最初に無駄死にしてもしかるべき名もない一兵卒が、どういう訳か勝ってしまったのである。勝敗を決したのは努力でも才能でも氏素性でもなかった。運であり、偶然だった」「戦争をネタにして飯を食うーそれは復讐であり、鎮魂であり、水木しげるの勝利宣言でもあったのである」(93p)やはり残りの戦記漫画も読まないとなあ。世の村上春樹ファンは、ちょこっと講談社文芸文庫の「私の一冊」という推薦文があってビックリすらかも。しかしそれに釣られて「鉄仮面(上・下)」はどれくらい売れることやら。マイナーな本が売れるのはいい。けれども、ここで村上が書いているのは要はこの本、B級映画のようなモンです、ということなんだけど。私は好きな料理研究家・枝元なほみさんの「せめて昼メシ」講座の連載を発見して嬉しかった、。2016年3月1日読了
2016年03月22日
コメント(0)

「ビッグイシュー281号」ゲット。久しぶりに会えた。二ヶ月ぶり。四冊飛んでいる。バックナンバー全部を紹介出来ないから、とりあえずこれから。それにしても販売者さんは、やはり病気がちだったそうだ。毎年この時期に彼は病気になる。風邪をひきやすいのは、分かる。冬だからだ。それが直ぐに治らないのには、おそらく理由がある。医者にかからないからだ。何故か。おそらく健康保険をかけていないからだ。そんな立ち入ったことは聞かない。ただ、無駄だと思いながらこう言ってみた。「こういう時のために生活保護制度があるんだよ」彼は販売者生活長いから、おそらく私の言いたいことはすべて察してくれているはずだ。販売者は、当然貧困生活から抜け出すために、この雑誌を売っている。なんとか生活費用以上を稼いで、安定的に一定住所に住むことが出来るようになれば、定職に就けるだろう。ところが、彼らはたいてい無理する生活が祟って病気持ちである。だから、雑誌を売りながらも生活保護申請した方がいいのだ。稼いだ額は生活保護費から引かれるけど、重要なのは医療費が無料になることだ。ともかく、健康な身体をつくることが、まともな労働者になる近道なのである。それが周り回って国のためにもなる。けれども、以前彼は「生活保護申請したくないから、これを売っているんです」と言っていた。彼の基本は週休一日、正月も一日しか休まない。ひと一倍働いていると思う。そんなに無理するのは、生活保護に頼りたくない一心だと私は想像している。それなのにいったん病気になれば長期休みになってしまう。収入はなくなる。自分の首を締める。バカなのは、わかっているはずだ。「事情があるんです」「そうなんだろうけど‥」それ以上言えない。おそらく事情は一つしかない。生活保護申請すれば、踏み倒した借金のことが明らかになる、ということも、もしかしたらあるかもしれないが、詳しい人から説明は聞いているだろうから、「なんとかなる道筋」は知っているはずだ。おそらく事情は「扶養照会」だ。もちろん、法の改悪で少し扶養者への圧力は増したが、決して決して親族の扶養は義務ではない。そのことは彼も知っているはずだ。それでも「照会」だけはして欲しくないという、貧困者は山といることを私は承知している。そういうことを「想像」出来ない人たちが、あいもかわらず生活保護パッシングをするのである。彼にも「事情」はあるのだ。それがバカなプライドなのか、それともどうしようもない理由なのかは知らない。今は聞かない。聞けるような立場ではない。私は、単なる一回に五冊買う共同購入の客の1人なのである。「もう暖かくなったので、これからは休めないで立てると思います」「無理しないでね」そういうしかなかった。さて、今月号の顔はウィリアム王子である。なんか、不倫するお父さんよりはよっぽど王族らしい。民間救急救命の救急輸送のパイロットとしてフルタイムで働いたり、チャリティ事業としてホームレス若者を支援する団体の後援者もしている。もちろん、皇族公務もこなす。もちろんそれらはキリスト教的な伝統精神の発揮には違いなくて、だから日本の皇族はダメだとは思わないが、日本もこういうのをやってくれたら、と思わずにはいられない。
2016年03月21日
コメント(0)
![]()
「考古学で現代を見る」田中琢 岩波現代文庫著者のことは、佐原真と共同でいくつかの共著と「日本考古学事典」という重要な仕事をしているということで、親しみがあった。てっきりバリバリの考古学研究者だと思っていたので、むしろ考古学と役所との橋渡し的な仕事が長かったということを知りビックリした。しかしだからこそ、柔軟な発想をする佐原さんとは馬が合ったのかもしれない。重要なことが幾つも書かれていた。考古学は極めて実証主義的な科学的な学問ではある。が、それでも領土問題という極めて政治的ナショナリズム的な問題に、考古学研究者が動員されて来た。イスラエルやナチス・ドイツ、そして中国における南沙諸島、北朝鮮の壇君陵等々。考古学は、その扱う対象の性質から民族主義、国家主義、地域主義の影響から離脱することが極めて困難な学問であることは、知っておくべきことなのかもしれない。日本文化財保護の歴史についても、まとまった論文がここに置かれてあった。知らないことも多かった。80年代では、発掘に科学的な知見を応用するのは、非常にまれだった。田中さんたちの努力があって、今は当たり前のように理化学的な技術が動員されている。ここに収められた文章の多くは、田中琢全集が発刊されない限り陽の目を見ないような様々な場所に書かれたものばかり。佐原世代の考古学者の問題意識がわかる好著だった。
2016年03月20日
コメント(0)

2月に観た映画の後編4作品です。新作・旧作合わせて一番すごかったのが、「秋刀魚の味」だったということに、2月鑑賞の不作がある。いつもの年ならば、2月は豊作の年のはずなんだけど。「完全なるチェックメイト」驚くべき話が描かれている。観るまでは、この希代の天才チェスプレイヤーの正体を明かす作品だと思っていた。ところが、蓋を開けてみると繊細に繊細に描かれたフィッシャーの描写は、レイキャビクの三戦目が終わると、一切なくなる。そのあと23戦もあったのに、である。さらに言えば、彼はそのあと36年も、しかも数奇な人生を生きたのに、である。途中、何度も挿入される60年代、70年代のドキュメント映像、そして当時としては異常なほどに盛り上がっていた頂上対決のテレビ中継。そのなかで、明らかに脅迫性障害で奇行を繰り返しているボビー・フィッシャーの姿は、冷戦という国家的な大事業(負けつつあるベトナムの下でこれ以上負けられない)の前で、必死に自分保とうとしている、1人の小さな魂の話である。というように作られていた。そのように見て初めて、チェスを始めたきっかけが、政治運動に親に置いてけぼりにされる子供の慰みとしてだったというエピソードが活きる。フィッシャーの奇行も、相手のスパスキーの第五戦での奇行も、決して相手を当惑させる戦術ではなく、「本心だった」という脚本家の意図がよく伝わってくる作品だった。トビー・マグワイアは、「スパイダーマン」の失敗興行のあとに永く潜伏して、渾身の繊細な演技を果たした。リーヴ・シュレイバーも、チェス名人として繊細な演技を果たした。しかし本当のこの男の物語は、チェス界を去って世界放浪をして、日本の浦田にも放浪をしたという、その(自殺もしなかった)半生にあるように思う。何が、彼の自殺を思いとどめたのか。もう一度スパスキーと再戦した時の気持ちは何だったのか。それはまた、新たな映画になり得ると思う。(解説)『マイ・ブラザー』などのトビー・マグワイアが実在の天才チェスプレイヤー、故ボビー・フィッシャーを怪演した白熱の心理ドラマ。米ソの冷戦時代、盤上での代理戦争を死にものぐるいで戦ったアメリカの奇才対ソ連チャンピオンの手に汗握る対戦を活写する。貫録ある世紀のライバルを『ラスト・デイズ・オン・マーズ』などのリーヴ・シュレイバーが熱演。変わり者の奇才の波瀾(はらん)万丈の人生と、緊張感あふれる頭脳戦に手に汗握る。(ストーリー)1972年、アイスランドで行われたチェス世界選手権で、ボビー・フィッシャー(トビー・マグワイア)とボリス・スパスキー(リーヴ・シュレイバー)が対戦する。長きにわたりソ連がタイトルを持ち続けてきたが、史上初のアメリカ人挑戦者が誕生。若き天才の登場に世界中が注目する中、ボビーは第2局に出現することなく不戦敗となり……。スタッフ監督・製作: エドワード・ズウィック製作: ゲイル・カッツ / トビー・マグワイア脚本: スティーヴン・ナイトinシネマクレール2016年2月21日★★★★☆「キャロル」性的マイノリティの話ではなかった。2人の目力が素晴らしい。しかし、私的にはピンとこなかった。当時のファッション再現などは素晴らしく、それを堪能するために映画館で観るのはいいかもしれない。(ストーリー)1952年ニューヨーク、クリスマスを間近に控えて街は活気づき、誰もがクリスマスに心ときめかせている。マンハッタンにある高級百貨店フランケンバーグのおもちゃ売り場でアルバイトとして働く若きテレーズ・ベリベット(ルーニー・マーラ)。フォトグラファーに憧れてカメラを持ち歩き、恋人のリチャード(ジェイク・レイシー)から結婚を迫られてはいるが、それでも充実感を得られず何となく毎日を過ごしていた。※PG12本年度アカデミー賞6部門ノミネート主演女優賞、助演女優賞、脚色賞、撮影賞、作曲賞、衣装デザイン賞監督 トッド・ヘインズ出演 ケイト・ブランシェット、ルーニー・マーラin TOHOシネマズ岡南2016年2月25日★★★☆☆「秋刀魚の味 (新・午前10時からの映画祭)」製作年 1962年初めて観た。大傑作ではないが、晩年の小津はダメだという評価は当たらない。傑作である。113分、一瞬一場面ともに、見逃がすことが出来ない非常に緊張感ある画だった。大画面で見る価値のある作品だった。岩下志麻が匂うように美しかった。高度経済成長が始まったばかりの、東京近郊の下町。工場はもくもくと煙を吐いてフル回転をし、そこの役員をしている平山は54歳くらいか。戦争時は駆逐艦の館長をしていた。たまたま出会った当時の兵士からも「威張っていなかった」と評価される穏やかな性格。やっと「復興」が終わったばかりの都会の片隅で、平山の関心は24歳の家事を取り仕切っている娘のことだ。この当時、24歳は微妙な年齢だったようだ。仕事を持っている彼女たちにとってはまだいき遅れてはいないという意識だった。しかし、いき遅れると、惨めだという認識は社会に浸透していた。平山に家長的な尊厳はないが、微かに家族からは尊敬されている雰囲気はある。長男夫婦は、既に家事分担が始まっている。そんな彼らにしても、その後日本の家族がこうも大きく変動するとは思っていなかっただろう。1962年の日本の東京を見事に記録していて、それは即ちその後の10年の日本全体を記録していたということにもなるだろう。事実、私の昭和40年-50年代の倉敷がいたるところにあった。秋刀魚の料理も台詞も出なかった。この題名は、どういう意味だったのだろうか。(解説)「小早川家の秋」のコンビ、野田高梧と小津安二郎が共同で脚本を執筆。小津安二郎が監督した人生ドラマ。撮影は「愛染かつら(1962)」の厚田雄春。(ストーリー)長男の幸一夫婦は共稼ぎながら団地に住んで無事に暮しているし、家には娘の路子と次男の和夫がいて、今のところ平山にはこれという不平も不満もない。細君と死別して以来、今が一番幸せな時だといえるかもしれない。わけても中学時代から仲のよかった河合や堀江と時折呑む酒の味は文字どおりに天の美禄だった。その席でも二十四になる路子を嫁にやれと急がされるが、平山としてはまだ手放す気になれなかった。中学時代のヒョータンこと佐久間老先生を迎えてのクラス会の席上、話は老先生の娘伴子のことに移っていったが、昔は可愛かったその人が早く母親を亡くしたために今以って独身で、先生の面倒を見ながら場末の中華ソバ屋をやっているという。平山はその店に行ってみたがまさか路子が伴子のようになろうとは思えなかったし、それよりも偶然連れていかれた酒場“かおる”のマダムが亡妻に似ていたことの方が心をひかれるのだった。馴染の小料理屋へ老先生を誘って呑んだ夜、先生の述懐を聞かされて帰った平山は路子に結婚の話を切り出した。路子は父が真剣だとわかると、妙に腹が立ってきた。今日まで放っといて急に言いだすなんて勝手すぎる--。しかし和夫の話だと路子は幸一の後輩の三浦を好きらしい。平山の相談を受けた幸一がそれとなく探ってみると、三浦はつい先頃婚約したばかりだという。口では強がりを言っていても、路子の心がどんなにみじめなものかは平山にも幸一にもよくわかった。秋も深まった日、路子は河合の細君がすすめる相手のところへ静かに嫁いでいった。やっとの思いで重荷をおろしはしたものの平山の心は何か寂しかった。酒も口に苦く路子のいない家はどこかにポッカリ穴があいたように虚しかった。スタッフ 監督 小津安二郎脚本 野田高梧 小津安二郎製作 山内静夫撮影 厚田雄春美術 浜田辰雄音楽 斎藤高順録音 妹尾芳三郎照明 石渡健蔵編集 浜村義康スチール 小尾健彦出演 笠智衆(平山周平)、岩下志麻(平山路子)三上真一郎(平山和夫)佐田啓二(平山幸一)岡田茉莉子(平山秋子)中村伸郎(河合秀三)三宅邦子(河合のぶ子)北竜二(堀江晋)環三千世(堀江タマ子)東野英治郎(佐久間清太郎)杉村春子(佐久間伴子)吉田輝雄(三浦豊)加東大介(坂本芳太郎)岸田今日子(「かおる」のマダム)高橋とよ(「若松」の女将)菅原通済(菅井)織田政雄(渡辺)浅茅しのぶ(佐々木洋子)牧紀子(田口房子)須賀不二男(酔客A)東宝シネマズ岡南2016年2月26日★★★★「黒崎くんの言いなりになんてならない」CMモニターで、無料で観ました。ていうか、そういう立場でないと到底観ない種類の作品。でも冒頭に、日本平和大会御殿場集会の公園でやっていたロケの場面が出てきた(写真)。あの短い撮影では、やっていない演技や人物も出てきたので、また撮り直した可能性が高い。まさかあんな大きな集会&デモがあるとは想定していなかったんだろ。助監督は大変だったろうな、と変に感心した。テレビドラマの最終回二回分をわざわざ映画館に来させて、見させるという内容。それでも1番大きいスクリーン、383席の半分近くが埋まっていた。目当ては小松菜奈がほとんど居なくて、中島健人と千葉雄大2人なのは、98%が女の子という観客層で明瞭。しかも、小学生、中学生で7割を占めていた。オイオイ、そんなに今時の女の子は「お前は俺の奴隷だ」と言われたいのか(ーー;)チェック:別冊フレンド連載のマキノによる人気少女漫画を実写映画化した青春ラブストーリー。周囲から「黒悪魔」と恐れられる超ドS男子と、「白王子」と呼ばれる学園のスターの間で揺れる女子高生の姿を描く。「俺に絶対服従しろ」と言い放つ主人公・黒崎役には Sexy Zone の中島健人、ヒロインの由宇を『渇き。』などの小松菜奈、黒崎の親友で女子の憧れの的・白河役に『通学シリーズ』などの千葉雄大。脚本は『L・DK』などの松田裕子、『この世で俺/僕だけ』などの月川翔がメガホンを取る。ストーリー:親の転勤で寮に入ることになった女子高生の赤羽由宇(小松菜奈)は、絶大な人気を誇る「白王子」こと白河タクミ(千葉雄大)がいる学園寮に住むことに。有頂天になる由宇だったが、そこには「黒悪魔」と周囲から恐れられているSっ気満載の黒崎晴人(中島健人)も暮らしていた。ある日、副寮長を務める黒崎に逆らった由宇は罰として初キスを奪われ、以後彼に服従しなくてはならなくなり……。in Movix倉敷2016年2月27日★★
2016年03月19日
コメント(0)

二月に観た映画は8作品でした。二回に分けて紹介します。「フランス組曲」不覚にも最後までこの原作が、ユダヤ人作家によって書かれていたことを失念していた。主人公は純粋なフランス人とドイツ人だし、テーマは戦争における勝者と敗者との軋轢というものだったからである。しかし、これを当時もっともドイツから弾圧を受けていたユダヤ人が書いたことに、やはり感動を覚えるのである。安易に二人の愛を成就させなかったのもよかった。ただ、未完成ということだったので、実際はどこまで描いていたのかが気になる。映画はそれだけ、きちんと落としどころがあったので。(解説)フランス人女性とドイツ将校との愛の行方を描くラブロマンス。1940年、ドイツ占領下のフランス田舎町。戦地に赴いた夫を待つリュシルが暮らす屋敷に独軍中尉ブルーノがやって来る。音楽への愛を共有する二人はいつしか心を通わせていくが……。アウシュヴィッツで生涯を閉じた作家イレーヌ・ネミロフスキーによる未完の同名小説を「ある公爵夫人の生涯」のソウル・ディブ監督が映画化。同作でアカデミー衣装デザイン賞を受賞したマイケル・オコナーが再度衣装を担当。出演は「マリリン 7日間の恋」のミシェル・ウィリアムズ、「イングリッシュ・ペイシェント」のクリスティン・スコット・トーマス、「君と歩く世界」のマティアス・スーナールツ、「オン・ザ・ロード」のサム・ライリー、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」のマーゴット・ロビー。あらすじ1940年6月。ドイツ軍の爆撃にさらされたパリは無防備都市となり、フランス中部の町ビュシーにパリからの避難民が到着した頃、独仏休戦協定が締結、フランスはドイツの支配下に置かれた……。結婚して3年、戦地に赴いた夫を待つ妻リュシル(ミシェル・ウィリアムズ)は、厳格な義母(クリスティン・スコット・トーマス)と大きな屋敷で窮屈な生活を送っていた。そんなある日、屋敷にドイツ軍中尉ブルーノ(マティアス・スーナールツ)がやって来る。緊迫した占領下の日々の中、ピアノと音楽への愛を共有するリュシルとブルーノ。やがて二人はいつしか互いの存在だけが心のよりどころとなっていく。それは同時に、狭い世界に生きる従順な女性だったリュシルが、より広い世界へと目を向ける転機にもなっていくのだった……。inシネマクレール2016年2月4日★★★★☆「ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲」少女が頑張る話ということと、虐げられた犬たちの反乱というアイディアが可能性を感じられて、少し無理して観ることにした。ファンタジーである。いろんな面で、ありえない展開がある。それを承知したうえで、テーマと何よりも少女と犬のキャラクターがどうだったのかを見てみる。テーマはやはり、犬という半人間的な存在に対して、「支配するもの」ではなく、「友人」として扱おう、というものだったように思う。犬を友人として、あるいは家族として扱うのか、それとも自然・野生の動物として扱うのか、というのは、まだまだ結論が付かない人間としての課題なのかもしれないが、日本人の私としては、まだ犬を「支配・被支配の関係」でのみとらえているような気がして座りが悪かった。少女のキャラは、あまり可愛くなくて感情移入できなかった。スウェーデンの女の子なんだろうか。そんなこんなでイマイチでした。チェック:第67回カンヌ国際映画祭・ある視点部門賞を受賞した異色のドラマ。心ない人間に対する強い怒りを抱えた一匹の犬が、施設に送られた犬たちと一緒に人類への反乱を起こす姿を見つめる。メガホンを取るのは、俳優業も務めてきたハンガリー出身のコルネル・ムンドルッツォ。『ハヌッセン』などのシャンドール・ジョーテールらが出演。センセーショナルな物語に加え、数百匹の犬が市街地を疾走するビジュアルにも圧倒される。ストーリー:とある町で、雑種犬に対して重税をかける法律が制定される。ハーゲンという犬をかわいがっていた13歳の少女リリ(ジョーフィア・プソッタ)だが、父親にハーゲンを捨てられてしまう。突如として飼い主と引き離された悲しみを抱えたままさまようハーゲンと、その行方を必死になって追い掛けるリリ。やがてハーゲンは、人間に裏切られ、虐げられた果てに、保護施設に放り込まれた犬たちと出会う。その姿を目にして憤怒に駆られ、施設から犬を引き連れて人間への反乱を起こすハーゲンだが……。制作 ハンガリー/ドイツ/スウェーデンinシネマクレール2016年2月4日★★★☆☆「オデッセイ」原題はTHE MARTIAN(火星人)。邦題よりもこちらの方が良かったかもしれない。宇宙というひとつ間違えただけで、生命がない環境の中で、(フィクションとはいえ)瞬時に正しい判断をして、決して諦めない、ポジティヴに考える、正確に理解する、やるべきことをやる、ユーモアを忘れない、孤独感に押しつぶされない、というこの作品の一種の「シュミレーション」は人生に有益な映像のように思える。NASAがあれ程までに協力的になるのは、この場合ならば、世論が沸騰しているから、理解出来る(おそらく日本はほとんど関係ないけど、連日ワイドショーを賑わしていただろう)。中国が協力するのも、戦略的には正しい判断だろう。ただし、一役人が判断するのではなく、国家元首の判断でなくてはならなかったはずだ。それでも、後半のランデブーは、映像のためだけに作られた話のようで、お勧め出来ない。この月の新作の中では、これが1番見応えがあった。チェック:『グラディエーター』などのリドリー・スコットがメガホンを取り、『ボーン』シリーズなどのマット・デイモンが火星に取り残された宇宙飛行士を演じるSFアドベンチャー。火星で死亡したと思われた宇宙飛行士が実は生きていることが発覚、主人公の必死のサバイバルと彼を助けようとするNASAや乗組員たちの奮闘が描かれる。共演は、『ゼロ・ダーク・サーティ』などのジェシカ・チャステインや『LIFE!/ライフ』などのクリステン・ウィグなど。スコット監督による壮大なビジュアルや感動的なストーリーに注目。ストーリー:火星での有人探査中に嵐に巻き込まれた宇宙飛行士のマーク・ワトニー(マット・デイモン)。乗組員はワトニーが死亡したと思い、火星を去るが、彼は生きていた。空気も水も通信手段もなく、わずかな食料しかない危機的状況で、ワトニーは生き延びようとする。一方、NASAは世界中から科学者を結集し救出を企て、仲間たちもまた大胆な救出ミッションを敢行しようとしていた。キャストマーク・ワトニー: マット・デイモンメリッサ・ルイス: ジェシカ・チャステインアニー・モントローズ: クリステン・ウィグビンセント・カプーア: キウェテル・イジョフォーテディ・サンダース: ジェフ・ダニエルズリック・マルティネス: マイケル・ペーニャベス・ヨハンセン: ケイト・マーラミッチ・ヘンダーソン: ショーン・ビーンクリス・ベック: セバスチャン・スタンアレックス・フォーゲル: アクセル・ヘニームービックス倉敷2016年2月7日★★★★☆「残穢−住んではいけない部屋−」私事ではあるが、今日現在も起きているのだが、縁側に置いている勉強机の上にある電気スタンドが時々自動的に点くようになった。また、先日はネズミの音どころではない、真夜中にポスターガイストともいえる大きな音が、その縁側の隣の部屋で何度もした。最近天井が運動会なのである。どうも猫とネズミが追いかけっこしているのだと、私は踏んでおいたのであるが、この前真夜中に目をさますと、猫とは言えない細長い黄色いモノが飛んでいった。イタチらしい(^_^;)ちゃんちゃん(←おいおい、怖いぞ!通り道らしき穴は塞ぎました)。ところで、玄関前モノが通ると電気が点くようになっているのだが、電気は点かないで物音だけが時々するのだが、あれはなんなのだろうか。話をすると、祟られる。聞くだけで祟られる。というわけで、見るべきではなかった、という類の映画でした。1人で部屋に居ると、異様な音はとかくするもので、なんか今日だけは、あの音、ホントはどうだったんだろ、と気になって来た。中村監督は大好きな監督で、今まで外れはひとつもなかった。これも、外れなかった、と言っていいんだろうな‥。(チェック)「屍鬼」などで知られるベストセラー作家・小野不由美の本格ホラー小説「残穢」を、『予告犯』などの中村義洋監督が映画化。読者の女子大生から「今住んでいる部屋で、奇妙な音がする」という手紙を受け取ったミステリー小説家が、二人で異変を調査するうちに驚くべき真実が浮かび上がってくるさまを描く。主人公には中村監督とは5度目のタッグとなる竹内結子、彼女と一緒に事件の調査に乗り出す大学生を、『リトル・フォレスト』シリーズなどの橋本愛が演じる。(ストーリー)ミステリー小説家である私(竹内結子)に、読者の女子大生・久保さん(橋本愛)から自分が住んでいる部屋で変な音がするという手紙が届く。早速二人で調べてみると、そのマンションに以前住んでいた人々が自殺や心中、殺人などの事件を起こしていたことが判明。久保さんの部屋で生じる音の正体、そして一連の事件の謎について調査していくうちに、予想だにしなかった事実がわかり……。(キャスト)私: 竹内結子久保さん: 橋本愛三澤徹夫: 坂口健太郎直人: 滝藤賢一平岡芳明: 佐々木蔵之介山下容莉枝、成田凌、吉澤健、不破万作、上田耕一in movix倉敷2016年2月10日★★★★☆
2016年03月18日
コメント(0)

県労会議機関紙に掲載された今月の映画評です。「百円の恋」 去年観た映画で、ベスト2の作品を紹介します。負けっぱなしで百均のように安っぽく見られる人生。そんな女が、百円ショップから始まった初めての恋だけど、恋を原動力に再出発する話です。恋だけは百円ほど安くはない。 私は一生懸命頑張る女の子の話に弱いんです。安藤サクラは女の子じゃないけど、32歳ならば私にとってはギリギリ女の子みたいなもの。 冒頭にぶよぶよに太った彼女が出てきます。 その役者魂、見事です。実家で自堕落な生活を送るニートの一子(安藤サクラ)は妹とのケンカをきっかけに家を出て百円ショップで働き始めます。この店が、また負け犬の吹き溜まりのような店。そんな時、ボクシングジムで練習する狩野(新井浩文)と出会い、不器用な恋が始まるのです。 一子が狩野に恋をする理由は、実はよくわかりません。でも恋が生き方を変える原動力になるのはよくわかります。狩野と同じボクシングを始めてみたり、手料理も作り出す。狩野は引退試合にも負けていたせいか、そういう彼女の変化にいや気がさして去ってゆきます。失恋してから、一子はボクシングに打ち込み、プロ資格をとるのです。 この時の安藤サクラの頑張りが鬼気迫ります。しかもインタビューを読むとたった10日間で絞ったという。いくら役の上だといっても、すごいです。是非、映像で確かめて欲しい。 安藤サクラは名俳優や名監督を家族に持つサラブレッドの家系です。しかしこの作品では彼女は、700人以上のオーディションを勝ち抜いて自力で主演を獲っています。そんなハングリーさがよく作品に出ている。日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を獲ったのも当然です。 クライマックスはガチのボクシングの激しい試合でした。完全ボクシング体型と技術を持った彼女の「痛い」試合を観ることが出来ます。 そして、ラスト。ある方向に歩いて行くんだけど、作品的には必然かもしれないけど、私は完全に親心になっているから「オイオイ、そっちはダメだよ」と心のなかで叫んでいました。 脚本は第一回「松田優作賞」グランプリの足立紳。監督は武正晴。(2014年作品、レンタル可能
2016年03月16日
コメント(4)

最後は、久しぶりの全国的な考古学展示となった「発掘された日本列島2015」をむかえて、岡山県が珍しく張り切った「邪馬台国と吉備」展の残りの展示を紹介する。その前に紹介し忘れた。これがわが岡山県立博物館である。旧態依然とした建物。全国屈指の遺物があるのに、企画展が非常に貧弱な博物館である。吉備の墓制をもう一度振り返る。これはみそのお遺跡の写真である。岡山市の弥生後期から終末期にかけての遺跡だ。区画を持たない集団墓から区画を持つ集団墓へ。さらに区画を持つ個人墓へと変化していく様子がこの遺跡の中で展開された。出土土器の多くは高坏で赤く彩色されたものもあり、墓の上でのまつりがあったのではないかと言われている。これは甫崎天神山遺跡(岡山市 弥生後期)出土の大型彩色器台と壺。特殊器台の祖形ではないかと言われている。墓は集団墓だった。その遺跡から出土した鳥形土製品。埋葬祭祀に鳥の力をかりて霊界に送ってもらおうとしたのか。この遺跡の主がどこまでの人物だったのか。それにもよるが、いわゆる伝統的な鳥の霊力を借りる墓は、これ以降吉備の王墓には出てこなくなる。神殺しはなかったが、神の代変わりはあったのではないかと、私は推測する。初めて見た。鯉喰神社墳丘墓の出土品である。楯築の次の王だといわれている。楯築のふもとに作られた墳丘墓であることと、楯築以外に唯一弧帯文石が発見されているという風に私は聞いていた。その石を初めて見た。楯築のそれによく似ているそうだ。ふーん、そうなんですか。というほかはない。こんな破片とは思っていなかった。所蔵はなんと、鯉喰神社。一応40m×35mの方形墳丘墓と考えられている。本気で弧帯文石の秘密に迫るならば、楯築遺跡と同じように墳丘墓の中に破砕された弧帯文石が混じっているかどうかを確認しなくてはならない。残念ながら発掘はされていない。特殊器台も鯉喰神社所蔵のものしかないみたいだ。破片である。しかし、専門家はこのわずかな情報で、向木見型(2番目の形)の特殊器台であると喝破する。つまり最初期の立坂型から約10-30年間で次の流行に移ったということになる。私が職人の代変わりごとに器台の文様が変わったのだと主張する所以である。宮山墳墓群である。時期は弥生時代終末期から古墳時代初期。説明プレートを読んでほしい。墳墓ではなくて、古墳である、という説がある。特殊器台の完成形はすでに前々回にみせた。ともかくも、この宮山の時期に、吉備と大和で日本史上もっとも重要な何かがあった。と私は見ている。最後に特殊器台復刻プロジェクトの仕事が展示会場のロビーに飾ってあったので紹介する。ながいこと、こんな大きな器台は昔ながらの焼き方ではひび割れがして作れないと思われてきた。それを土の採取から作り方まで研究して、なんとか当時の大きさと形をまねてつくったのがこれである。反対に言えば、あらためて、昔の職人はすごかったというのが、これを見ての正直な感想である。私はプロジェクトのホームページを注視していたので、土の選定から、野焼きでの焼成まで、非常に厳密に苦労して二年がかりくらいで作ったのを知っている。ところが、作成者には全く申し訳ないのだが、炭のあとがどうしようもなく着いている。また、なんかうすっぺらく、重々しさがない。もっと他に作りようがなかったのだろうか。もっときれいに線は引けなかったのか。どうしてこんなにガタガタの線になるのか。また、線のゆがみ。昔の職人の正確さは、相当な訓練の末でないと難しいことが証明される。復刻プロジェクトは画期的な試みで、尊敬するが、それよりも尊敬するのはやはり神の継承儀式の要になる土器をつくった職人は、いったいどんな人たちだったのか、という「謎」が浮き彫りになったということになるだろう。
2016年03月15日
コメント(0)

もうしばらく、三か月前の岡山県立博物館特別展示「邪馬台国と吉備」について、私が考えたことに付き合ってほしい。今まで主に「龍神信仰」「分銅型土製品」「家族祭祀用銅鐸」「特殊器台」について書いてきた。それはすべて楯築遺跡に集約される課題である。倉敷庄パークという新興住宅団地の頂上にあるその遺跡は二世紀後半に突如現れた弥生時代空前絶後の王墓である。70mという弥生時代最大の大きさ、30キロ以上の朱、謎の立石、特殊器台、等々。特別なことは数え上げることができないぐらいにある。そして、特に言及しなければならないのは弧帯文石である。これはレプリカではない。本物の埋葬祭祀において破砕され、墳墓の土の中にばらまかれた弧帯文石である。見るのは二度目。しかし、こんなにきちんと写真に撮ったことはない。岡山大学所蔵のこれがこんなにも堂々と展示されていている。もうそれだけで興奮してしまう。そして、やはり思い付きなのだが、このあとに紹介されるもう一つの弧帯文石との比較研究をきちんとしてほしいのだ。一般的に、楯築神社の御神体の弧帯石とこれとは兄弟のようなもので、同時に作られ文様も同じだと言われている。本当にそうなのか。文様がどのくらい一致するのか、確かめたのか。もし本当に同じならば、その徹底ぶりが確認されるだろうし、今度は筆跡鑑定もしてもらって、同じ職人で作られたのかどうかも確かめてほしい。また、違うのならば、それは何処なのか。なぜなのか。職人は同じなのか。違うのか。検証してほしい。遺物の保存というのは、そういう検証作業のためにあるのではないだろうか。そしてこれが約1700年間「楯築神社ご神体」として人の目にさらされ続けてきた弧帯文石である。レプリカではあるが、元岡大の松木先生は「非常によくできている」と太鼓判を押していたものだ。また、これほど綿密に写真を撮ったのも初めてである。上から見る。下から見る。ご神体の弧帯文石しかない「顔」。謎である。後代に付け加えられた等の説もある。また、いったん描いて削られたのは後代だという説もある。本当はこの顔は龍だったのだという説もある。そもそもなぜここに顔があるのか。弧帯文はこの人物を縛るためにあるのか。すべてが謎である。楯築の特殊器台である。特殊器台はここから始まった。そして、その始まりでは弧帯文様はついていない。よくみると、朱がかけられている。おろそかにはつくられてはない。何もかも特別である。楯築のこの弧帯文からすべての「祀り」つまり古代の「政治」は始まった。日本の原像といっていい。それを日本全体に発信したい。岡山県にはその意思がない。私は非常にもどかしい。
2016年03月14日
コメント(0)

私のブログでは、特殊器台の重要性をひつこいぐらいに書いている。とりあえず詳しくは私の記事のヤマト王権成立のカギを握る「特殊器台の世界」を参照してほしい。この展示会にはふつうここまではそろわない特殊器台が展示されていた。右から真庭市中山遺跡の特殊壺(立坂型)。同特殊器台(立坂型)。新見市西江遺跡の特殊器台・特殊壺(向木見型)。(ここまでは弥生時代後期)。総社市宮山墳墓群の特殊器台(宮山型)。(弥生時代終末期~古墳時代初期)。岡山市都月坂一号墳の特殊器台形埴輪(都月型)。(古墳時代初頭)。正直、都月坂の特殊器台型埴輪と宮山墳墓群の特殊器台は初めて見た。宮山型の特殊器台では弧帯文は非常に簡略になっているのがわかる。楯築からここまでいったい何年なのだろうか。もしかしたら50年も経っていないのではないか。その間に特殊器台の型は少なくとも二回もしかしたら三回リニューアルされている。これはもしかしたら、そのまま特殊器台職人の代変わりごとにそうなったのではないか。だとすると、この文様には「カミの意味」はあまり反映されていなくて、むしろ職人の美意識、つまり現代の洋服のような「モード」だったかもしれない。などという「思い付き」さえ考えてしまう。こんなことを書いている研究書は一切ないはずだ。この模様の意味を突き止めた研究者はひとりもいない代わりに、この模様の意味があまりないといった研究者も一人もいないのである。都月型の「特殊器台型埴輪」に至ると、弧帯文とさえすでに言えないで蕨手文という言い方がされる文様になっている。埴輪と器台の違いは、下に台が付かないで土に直接埋めるようになる。壺はすでに必要がなくなっているので、口縁部は縮小。しかし、この文様にはまだこだわっていることだけは感じられる。楯築からいったい何代目の職人なのだろうか。四代目か五代目か。研究者の方には、「研究課題」を提案したいのだが、文字には癖があって「筆跡鑑定」がある。それならば、文様の線の描き方にも「癖」がないだろうか。土にわりと石先か鉄先かの圧力さえわかるように文様が描かれていて、よく見ればその描く順番さえ想定できるように描いているだろう。それならば、その「癖」は見分けることができるのではないか。そしてそれができれば、同時代にどれほどの特殊器台職人がいたのか推定できるのではないか。うまくいけば、初代から立坂型に至る時に職人の代変わりがあったのか、どうか等々のこともわかるだろう。そうなれば、文様の変化は、職人の気まぐれではなくて意味があったことになる。その他、いろいろなことがわかるのではないか。もちろん胎土によって、どの工場出身の職人かもわかるようになるだろう。非常に面白い研究だと思うのだが、どうだろうか。
2016年03月13日
コメント(0)

分銅型土製品。こんなに揃っているのはもちろん初めてだ。弥生時代中期に分銅型に整ったというのは初めて知った。また、顔の表現を持つようになったのは後期だということも初めて知った。ということは、龍神信仰と「共存」したということだ。今回、顔をまじまじとみつめた。ひとつわかったのは、ハート型龍の顔の土器とは対極にある顔だということだ。この顔には表情がある。よく見ることのある顔だ。赤ん坊の顔である。分銅型土製品はほぼ割れて出土する。また、墓からではなく、住居跡などから出土する。ということは、家族の子どもとの儀式だった可能性があるのではないか。でも死んでから作るのでは遅すぎる。子どもができたときにつくる。そして、あるいは死に安い子どもの代わりに、霊界に行ってもらうための土偶だったのではないか。分銅型土製品は吉備とその周辺にだけに流行した「祈りの形」だった。きっと、吉備地方で霊験あらたかな「物語」があったに違いない。朱の製作道具。楯築遺跡からは異例の30キロにも及ぶ朱が出たそれである。それだけ作るのに、おそらく気の遠くなるような工程と人手とが必要だったはずである。そのことを側面から証明する初めて見た土器である。小銅鐸の土製品。これも非常に興味深い。もし、説明プレートにあるように、銅鐸祭祀が終わった後も家族のような小さな単位において銅鐸祭祀が続いていたのだとしたら、銅鐸祭祀の終焉とは決して「銅鐸の神」を殺して成立したわけではないということになる。この時代における「カミ殺し」は、現代における「戦争による政権転覆」と同じ意味を、もしかしたら持つのではないか。それが発生しなかったということは、銅鐸祭祀から墳丘墓における祭祀への変化の過程で、戦争は起きなかったことを意味するだろう。実際、現代でも昔はお殿様や天皇・貴族がしていたような儀式を普通の家庭で当たり前のように行っていることがある。それは決して、お殿様や天皇を殺して手に入れたものではない。つまり、少なくとも「銅鐸祭祀の終焉において、戦争は起きなかった。」という仮説は有効になるだろう。
2016年03月12日
コメント(6)

昨年の秋、岡山県立博物館で待望の「発掘された日本列島2015」が開催された。それだけでも岡山県の博物館にとってはすごいことなのですが、併用して開催される地域展が予想以上に素晴らしくてまだ興奮している。それは「邪馬台国と吉備」というテーマで、邪馬台国時代の吉備の岡山県所蔵遺物が一堂に会していた。岡山県の、それも私がこの十数年ずっと関心を持ってきた遺物なので、一度は見たものばかりではあるのですが、それが一つのフロアに集まることはなかったのです。各地域の埋蔵文化センターや予約してからでないと見ることができない(結果一度しか入ることができていない)岡山大学埋文センターの遺物が隣同士で見ることができる。しかも、フラッシュをたかなければ写真撮り放題なんです。その日は午後から用事があったので、10時から見始めて十分に余裕があると思っていたのですが、気が付くと午後二時に迫っていました。もう一度じっくりと見る必要があり、じつは写真を撮りに後日もう一回入りました。。本当は「発掘された日本列島」展のことも紹介したほうがいいのでしょうが、こちらには詳しく解説された本がすでに出版されているので、機会があればそれを紹介します。今回はとりあえず「邪馬台国と吉備」展を見て気がついたことを中心にメモしたい。総社上原遺跡のトリ型立体仮面も久しぶりに見た(弥生時代前期)。幅20センチほどで、こうやってみると小さな頭の人なら被れるかもしれないと思うようになった。子供用かと思っていたが、実は今回絵画土器で岡山県からも鳥のいでたちをしたシャーマンの絵が出土していたのに気が付いた。だとすると、被る主体は子供ではありえない。小さい頭だとすると、成人女性だったかもしれない。弥生時代中期、新庄尾上遺跡の絵画土器である。頭は鳥の格好(嘴と鶏冠)をして、両手を広げ何かマントを羽織っている。これは大和にも同じようなものが出土している。そうなると、鳥の姿に神性を求めるのは、広く強く西日本を覆っていた可能性がある。もっといえば、朝鮮半島から、稲の文化とともに来たのかもしれない。これは勉強になった。邪馬台国時代の吉備の土器ということで展示されていたのであるが、やはりこの帯をまいたような形が吉備特有なのだと再確認したことと、甕(かめ)は「器の壁が非常に薄く作られており、熱効率に優れています。また、大きさや形態が規格的で、商品として生産・流通していた可能性が指摘されています」と説明文があった。なかなか素人目に「これは吉備の土器だ」とわからないのですが、これからはそういう目で見てみようと思う。二股鍬は柄の組み合わせ方によって鍬(くわ)や鋤(すき)として用いたものだそうだ。漢字変換して気が付いたのだが、スキは鍬と書いてもスキと読ませることもできるようだ。弥生時代にできたこの道具によってそういう読み方になったのだろう。そして、なんとこの二股鍬は弥生時代後期に吉備で考案されたそうだ。「古墳時代に全国に広まった」とある。岡山県人よ、もっと誇りをもとう!百間川遺跡から出土したこの彩文土器(弥生時代後期)は、何度も見たことのある有名なものなんです。でも、今回の展示会には「突っ込んだ説明文」が書かれているのが特徴でした。この土器に関しては「井戸から出土したもので、赤色で書かれたS字形は龍を表しているという説もあります」と書いていた。後期から晩期にかけて吉備の国が「隆盛」しました。そのときに、弧帯文等の龍を思わせる模様を作る過程の一つして、祭祀土器のこれに龍の文様が描かれたことは、充分ありうることです。吉備の国の信仰の一大特徴は、龍神信仰である。それが時にはこういう模様になり、または弧帯文、特殊器台になる。それを今回つくづくと確認した。その龍神信仰が王位継承儀礼と密接に結びついている。その王位継承儀式が、おそらく大和朝廷の王位継承儀式に受け継がれた。つまり、この吉備の文様の秘密を知ることは、日本という国を知るためにも、とてつもなく重要なことなのである。日本の政治体制が、戦争が決定的な契機にならないで大きく変わったことは、史上二回あると私は見ている。一つが明治維新であり、一つが倭国統一である。明治維新では、国境を越えて若者が縦横に行き来をした。おそらく、倭国統一前夜もそうだったのではないか。奈良の纏向遺跡に各地の様々な土器が搬入しているのは有名であるが、実はここにあるようにそれと同等に吉備の国でも各地の土器が搬入している。四国、山陰、機内、東海、北陸、九州遠隔地のものが多いが、それぞれに弥生時代を代表する国がある。弥生時代後期、倉敷市矢部(楯築遺跡のおひざ元)から出土した「龍型土製品」である。立体的な龍の造形としては、国内唯一のものである。頭頂部と口が大きく開いており、液体を注ぎ入れる容器の一部である可能性が考えられる、とのこと。「両側面にも龍を表すとみられるS字形の文様が描かれている。」と説明にあって、びっくりした。とりあえず、この龍は「人の顔」をしている。言葉を解していたとみていいだろう。龍神信仰の正体にひとつ近づいた気がする。弥生時代後期、足守川加茂A遺跡のハート形の顔のついた「龍」の絵の土器である。やはり人面だ。二つの遺物の出土地域は、足が速ければ1時間も離れてはない。時期も近いか重なっている。しかしこの遺物の「隔たり」は何なのだろう。基本的に同じ信仰を共有していると見たほうがいいのだろうが、本当に同じ信仰なのかとさえ思ってしまう。基本的に「龍」は神なので、こちらのように抽象的に描くほうが正しいのかもしれない。もしかしたら、「龍型土製品」の具象性は異常なのかもしれない。とはいえ、これも抽象的とはいえかなり突っ込んだ描き方だ。この顔の無表情は何を意味しているのだろうか。喜怒哀楽がないように思える。「人間性がない」ということの現れなのだろうか。ギリシャ神話と比較して見ると大きく違うような気がする。また、身体のこの模様は何を意味しているのだろうか。蛇のような鱗なのだろうか。説明文には「稲妻のような文様」と書いていた。私はそんな風には見えないのだけど、私の観察眼が弱いのか。この弧帯文土器の欠片群の多くは初めて見たような気がする。こうやって集中的に展示されると、楯築弥生墳丘墓という弥生時代最大の王の登場よりも早い時期に弧帯文は吉備の国に広く強く普及していたのだと思う。私は楯築の王か、その祭祀を主催したシャーマンが弧帯文を「発明」したのだと思っていたのだが、その考えは修正したほうがよさそうだ。それにしても、「龍神信仰」についてここまで突っ込んだ説明は、今までの本とか現地説明会でも全く聞いたことがない。この説明プレートは展示会が終わると撤去されるので勇気をもって書いてくれたのだと思う。これでも私にとってはおとなし過ぎるくらいだ。だから私は素人の特権でこのように自由に「妄想」を書かせてもらっている。しかし、そろそろ特殊器台祭祀の本質は「龍神信仰」なのだということを公的に論議するころなのだと私は思う。この展示会では、細かい出土地域の広がりや作成時期などはわからなかった。私はそのあたりをきちんと検証しながら論議するべきだと思う。
2016年03月11日
コメント(0)

日本人の神 河出文庫 / 大野晋 【文庫】私の最近の関心事の一つは、縄文時代から弥生時代の青銅器の祭へ、そして墳丘墓を作って大王継承の儀式を始めるようになった時に、日本人の神の意識はどのように変化したのだろうか、ということである。そのために今回大野晋さんの格好の論考があったので紐解いてみた。もちろん本当のことを知るためには、縄文、弥生の考古学的な遺物からそれを証明しないといけない。しかし、文字を持たない人々の精神世界を知るのは、極めて困難である。大野晋さんの研究にしても万葉仮名から論考しているわけだから弥生時代とは少なくとも300年以上の時の隔たりがある。そのことは当然承知していなけばならない。しかし、文献嫌いの私には意外だったのだが、この論考に拒否感はなかった。伝説は大きく歪められる。しかし、言葉は案外歪められない。私たちはいまだに「山」とか「川」とかの大和言葉のいくつかを数千年にわたり使っているのだ。カミという言葉はどこから来たのか。幸いにも巻末に大野晋の書いた「古典基礎語辞典」(角川学芸出版)の神の項の「解説」が載っている。それがそのままこの本の要約になっていた。私の関心は弥生から古墳までなので、そこに関すると思われる部分だけ抜粋して書き写したいと思う。かみ【神】 カミ(神)の古形は、カムカラ(神の品格)、カムナガラ(神そのもの)などのカムである。 カミ(神)とカミ(上)とは本来別語だったが、カミ(神)は「カミ(上)にあるもの」という意味だと一般に信じられてきた。ところが上代の発音にはミに甲類と乙類という二つの使い分け(甲類は万葉仮名の「美」「民」「弥」などの一群で、乙類は「微」「味」「未」などの一群をいう)があり、甲それぞれ類と乙類を漢字の字音から調べると、別音として区別されている。それを便宜上ローマ字でmiとmiiとに書き分ける。実際の発音がどんなだったかには論があるが、万葉仮名の用法(上代特殊仮名遣い)から「相違があった」という点については異論がなく、カミ(上)・ミコト(尊)・ミチ(道)・ミル(見る)などのミは常に甲類の万葉仮名、カミ(神)・ヤミ(闇)、副助詞ノミなどのミは常に乙類の万葉仮名で書いており、この奈良時代の文献には例外がほとんどない。カミ(神)のミは上代では常に乙類のミで書いてあり、カミ(上)のミは常に甲類のミで書いてあるので、その二つの語は、上代には発音上区別があったことがわかる。 それが中古に入り、片仮名・平仮名が使われ始めたころにはミの甲類・乙類の区別は失われ、仮名では片仮名「ミ」、平仮名「み」一文字で書かれるようになったので、上代の区別がわからなくなって同音化し、カミ(神)の語源をカミ(上)とする考えが生じた。 しかし、タミル語との比較研究で、カミ(神)の古形カムはカとムとの複合によって成った語であると判明した。 ここでは日本のカミ(神)の性質を順次挙げていく。1.神は唯一の存在ではなく、きわめて多数存在した。一神教(キリスト教・イスラム教・ユダヤ教など)では神は唯一の存在で、その複数形はありえないとされている。しかし日本の神は、「万葉集」には「ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ」とあり、また、竜田の風の神、山の口に座す神、水分に座す神、御門の神、竈の神など「延喜式」の祝詞に見える神もきわめて多い。2.キリスト教ではGODは創造主であり、光も水もGODの命令によって作られ存在したとする。人間もGODによって作られたとするが、日本では、人は神の意志の発動によって存在したのではない。「万葉集」には「石木より成りいでし人か」〈800〉、「人と成る ことは難きを」〈1785〉などとあるように、ナルは、「成る」であり「生る」でもあり、寒くなる、暑くなる、木の実が成るというのと同じで、日本人は、人間は自然にこの世に生まれ出る存在ととらえてきた。これはGODと神との根本的な相違である。3.神は具体的な形を持たなかった。今日では神社は神殿を持っているが、歴史以前の日本の神は、神殿を持たず、神は形のないものだった。神殿が造られたのは、仏教の寺院建築が輸入をされてからのことと考えられる。伊勢神宮の内宮の社殿は、私(大野)が見たタイ国北部の国境の町、チェンライ付近のアカ族の米倉とそっくりの形をしており、その集落の家は千木・鰹木を持っていた。その村の入り口に鳥居があり、その横木の上に鳥の形の像がいくつも置いてあって、それは鳥居の原形と思われた。(略)4.神は漂動していて、時に人や物にとりつく。(略)また、豊富な酒・食糧(海の産物・山の産物)をマツリ(奉り)、祈ると、降下来臨する。招聘された神は、人に限らずさまざまな物に依り憑く。神はマツリを受けて、人間に安全と食糧を与えるとされた。マツル(奉る)とは基本的な意味は「飲ませ食わせる」こと。(略)5.神は恐ろしい存在であった。神は人間の願いを受けて、来臨し、幸いを人間に与えるとされたが、神意に背くと、神はその人に死を与える恐ろしい存在だった。それはカミ(神)がカミナリ(神鳴り、雷)の語源であることからも推測出来る。雷は一度発生すると、落雷して大木でも家でも焼き壊す。カミに「神」の字をあてるが、漢字として「神」は、示偏をもつ。示偏の字は、神・社・祈・祝などで、みな神に関する意味を持つが、それは「示」が、神に対する捧げ物をのせる台の象形であるということに由来する。また「神」のつくり「申」は雷光の象形であるという。つまり「神」は本来、雷電を表した文字だった。だから神が恐ろしい存在という意味を含むのは自然である。その「神」の字を含む意味が日本語のカミと合致したので「神」をカミと和訓し、日本語カミに「神」の字を当てたのである。また転じて、虎のような恐ろしい動物をも神と称した例「韓国の虎とふ神」(万葉3885)がある。6.神は物・場所・土地を領有し、支配している。(略)神は「領主」の意味を含んでいた。土地の領有者が神であるならば、日本国全体を領有支配するに至った天皇・天皇家の祖先は、神ということになる。(略)7.神話とは文字のない社会で、その社会の成立の由来、さらにさかのぼって天地の誕生、男女の区別の発生、統治権の由来などを音声言語で語り伝え、また実際にそれを具体的演劇的行動によって人々に示し、社会的規範を人々に教える役割を負うものである。だから日本の統治に関して、天地の発生、生命の起源、男女の別の登場、日本国の版図の明示などが記紀の巻頭に順序をおって述べられる。そこにはじめて男女という区別の発生とその開始、その結果としての国生みの話が続く。領主の祖先であるから、それはすべて神として扱われ、神に対する尊称としてミコト(命•尊)が用いられた。ミコトのミはカミ(神)よりも古い時代の聖なる神を指す言葉だったから、ミのつく言葉はすべて「神のもの」「天皇のもの」、のちに「仏のもの」であったことを示す。(略)コトは人間どうしの義務とか約束の言葉、任務など人間の義務的行動を表すのが最も古い意味だった。それが行為者そのものを表すに至り、尊敬の接頭語ミを加えてミコトとして「貴い行為者」の意を表し、それが神々に対する尊敬の接頭辞となった。この段階に至って神は人格的存在となった。しかしそれは記紀の日本の歴史記述によって確立した意味で、世俗一般では、カミは、今まで記述してきた意味の1〜5の意味を保つ存在として畏敬されて来た。以後の日本の神々はおよそこうした本来的な成立事情を負う。したがって日本の神の性格には、恐ろしい、支配的である、という点は顕著であるが、人間を愛するとか、いたわるとか、苦しみを救うとか、慰めとかいうことはなかった。8.仏教の伝来に伴い、神の本質に変化が生じた。(略)つまり、「仏」は数限りなく存在した「神」の一つであるホトケ(仏)という名のカミ(神)として迎えられた。仏教を広めるに当たっては本地垂迹ということが唱えられ、日本の神は、仏が衆生を救済するために仮の姿をとって現れたものだとといた。神は本来多数いたので、その考えは受け入れやすかった。(略)平安時代以後、神は助けるもの•救うものとする意識のほうが多数を占めるに至った。(211p-220p)以上が引用である。日本人は稲作を受け入れなくても、長い長い長い間、豊かな縄文時代を過ごした。しかし、それでもやがて世界的な趨勢は受け入れる時がやってくる。世界へのアンテナはその頃から過敏だったのかもしれない。稲作の新しい「カミ」はしかし、縄文の古いカミとどう違っていたのか。また、弥生時代にしても、青銅器から鉄器に移る段階でカミの姿は大きく変わったように、考古学的知見から考えると思える。そして私には比較的スムーズに神の委譲が行われた(倭国大乱は起きなかった)ように思える。その時の個人の働きと、背景としてのカミの存在、それはどうだったのだろうか。いつかは描かなくてはならないことではある。少なくとも、神は「上」(直接の行政支配者)ではなかった。お「上」に逆らうことは神に逆らうことではないのである。おそらく、お「上」が神になるほどは、お「上」は神としての権威がなかったのだろう。救済の教えとしてのカミの伝統は新しく、また地域限定的であった(仏教)。しかし、神によって支配を受けるという伝統は古い。神は民を作らなかった。民は自然に成ったのである。その相関関係が日本の歴史を作って来た。神は無数にいる。だとすれば、必然的に神々は最上級の神になろうとして戦い合うという神話が出来てしかるべきなのに、ギリシャ神話とは違い、それは残っていない。なぜなのか。一つの大きな課題になるだろう。
2016年03月09日
コメント(0)
![]()
「聞き書き 倉本聰 ドラマ人生」北海道新聞社編(内容)誕生、飢えとの闘い、ニッポン放送入社、富良野自然塾…。シナリオ作家・倉本聰が、これまでの歩みと生み出した作品について語る。テレビドラマ「北の国から」の撮影にかかわった人々のドラマへの思いなども収録。「北の国から」とか「風のガーデン」とか、好きなドラマは多いが、「歸國」などを観ると、この人のことがイマイチわからなかった。自分を語ることの少なかった倉本聰が初めて人生と自分の作品を縦横に語った貴重な本。もし、シナリオライターの文学評論、或いはドラマ批評という分野が存在するならば、基本的なテキストになるだろう。1935年東京の裕福な家庭に生まれる。戦中に没落。一時期岡山県金光町に学童疎開(時々富良野塾の公演が岡山で開かれるのはその縁か)。東大入学。演劇に没頭。脚本家になることを決意。テレビ初期のシナリオライターになる。倉本聰の名前は金光の実家の屋号「蔵元」、聰は妹の聰子から採ったらしい。両親との相剋は、倉本聰の生涯のテーマになっている。その死は、例えは「前略おふくろ様」に結実。父親のことは例えば「北の国から」「風のガーデン」などに影響しているだろう。倉本聰は演劇から入ったので、当時の左翼演劇をどう考えるかは考えている。しかし、倉本の出発点は加藤道夫やアーサー・ミラー「セールスマンの死」。左翼運動とは距離を置く。それがずっと貫かれていると思う。だから、資本力に協力を求め活用することには躊躇はしない。しかし、北海道に拠点を置くことで、物質至上主義には疑問を持ち、虐げられる者に対する眼差しは優しい。私は約20年間、テレビを見る暇があれば読書か映画鑑賞をするというのが矜恃だった。テレビドラマの録画が簡単に出来るようになって、最近はドラマも観る時間が増えた。そのきっかけが2008年の「風のガーデン」だった。それまでよく見ていたジェットコースターのような韓流ドラマとは真逆にある倉本聰の脚本から受けた衝撃は、未だに記憶に新しい。倉本聰の仕事は、もっと日本文学史上或いは日本映像史上にきちんと評価されるべきだと思う。
2016年03月08日
コメント(0)

今年初めての現地説明会。操山の金蔵山古墳。造り出し(前方後円墳の祭祀の場)を去年に引き続いてさらに調べた結果。非常に珍しい形の形象埴輪を使った祭祀が行われたようだ。去年でははっきりわからなかった囲型埴輪の形がはっきりした。とんがっているのは邪鬼を払うためだろうと言われる。聖なる空間を演出し、中には木樋を通した水の祭祀を行った可能性があるという。埴輪は、当然現実にある施設の「模型」だから、それと同じ施設が現実に何処かに存在して水を司る祭祀を主催するのが、築造時点で吉備最大の金蔵山古墳の首長の役割だったことになるだろう。山を登って発掘現場にたどり着く。今年の発掘は去年のそれの確認みたいなもので、大きなものはなかったようだ。しかし、造り出しの前後で段を設けるなど、複雑な墳丘形態が明らかになった。葺石は、操山にあった石を砕いたそれと、河原石を使い分けている。河原石はそばの旭川から持って来たとしても相当の量であるのは確かである。やはりこの墳丘築造には相当な労力がいったと思える。今回聞いてびっくりしたのは、操山の先行古墳として網浜茶臼山古墳と操山109号墳があり、こちらには特殊器台型埴輪が使われていたのである。特殊器台型埴輪とは、特殊器台から埴輪に移行する最初形態の埴輪である。それがやがて円筒埴輪になってゆく(円筒埴輪バウムの記事で発祥の地は吉備だと書いた所以)。その間約70-100年。しかも特殊器台型埴輪の出土地は、都月古墳や備前車塚や近畿地方一部を除けば、この地域に集中しているらしい。その辺りの古墳祭祀の重要な流行がたった100年もせずに、細かいところ言えば、世代が変わるごとに次々と新しい祭祀を取り入れていることに、私は驚きを覚える。箸墓古墳から言えば、金蔵山古墳は4世紀後半で、100年後。その間に形象埴輪は大きく発展した。網浜から金蔵山に至るまで、何かが起きたはずだ。と、この道の専門家は一様に言う。さらに言えば、金蔵山以降、山の頂上に墳墓を築くこと自体がなくなる。そうやって、次々と流行が変わっているのである。写真は沢田地区から金蔵山古墳頂上を臨む。聖なる山の特徴であるお盆を伏せたような形になっている。築造時点では、墳丘は当然こちらかも見えただろうし、南側は海が迫って旭川の入江がすぐ側まできていた。そこからも見えていただろうという。流行が変わるその一方で、地域ごとの横並びは統一される。造り出しや円筒埴輪はヤマトとの同一性を意識している。変化のスピードと横並び意識は、まさに今の日本人だ。せっかくここまできたので、少し足を伸ばして、この地域で最大の石室を持つ沢田大塚古墳に行った。普通腰を屈めてやっと入れる石室が多い(入れない石室が圧倒的に多い)なかで、ここはここはまるでアパートの中に入るように広い。この石室は特別であるが、操山がおそらく数百年に渡り聖なる空間だったことが、こういう規模の古墳がゴロゴロしていることでも分かる。柿畑にはこんな古墳もある。
2016年03月07日
コメント(0)

どーしても欲しくて、送料に商品代金と同等以上掛かったのですが、新潟丸屋本店から送ってもらいました。「円筒埴輪バウム」です\(^o^)/素晴らしい造形。考古学ファンとしては、永遠に飾っときたい衝動にもかられますが、遺物の保存には厳しい眼を持っているので、写真撮影して記録にとったあとはすぐに食しました(^-^)/ザラメの砂糖が、まるで土器の手触りのようでドキドキしました。初めて知ったのですが、新潟県では、古墳時代前期に当たるこの円筒埴輪出土は初めてらしい。豊かな縄文文化の土地なのに、弥生から古墳時代にかけては「辺境の地」になっていたのだろうか。ちょっと興味深い。説明書には、しきりと大和の古墳との類似性をうたっているのですが、円筒埴輪発祥の地は吉備の国であることを、新潟の人々は知らないのだろうか?
2016年03月06日
コメント(0)

「健康で文化的な最低限度の生活 3」柏木ハルコ 小学館生活保護マンガの第三弾。不正受給(になってしまう)実態のパートから、今度は扶養義務者問題に移る。今回も、新しいパートに移る時に、一話完結の週があった。優秀で堅物のえみるの同期、栗橋千奈が主人公になっている。これがなかなか、秀逸だった。栗橋にとっては、主人公えみるは「社会人になっても遅刻」「机の上ごちゃごちゃ」「ぬるま湯につかったようなフワフワした脳みそ」に見えて許せない。しかし、そのえみるが何度聞いても病院を受診しない理由をいわないで保護打ち切り一歩手前の受給者をたまたま応対して、その真の理由を世間話で聞いてしまう。たぶん受給者にとっては、こっぱ恥ずかしい自分の事情を「怖い」栗橋にはどうしても話せなかったのだろうし、えみるは話しやすかったのだろう。こういうのは、福祉の現場ではよくあることだと思う。ミスばかりしている職員なのに、なぜか利用者の受けがいいのである。生活保護は、たとえどんな生活破綻者でも「健康で文化的な最低限度の生活」をする権利があることをうたった憲法により保障されている制度である。それはえみるのような役割の人物が社会に必要だから存在する制度なのではないかと私は思う。きちんとした生活をする人間しか生きていけない、存在を許されない社会だったのだとしたら、やがては社会が摩耗し壊れてしまう。というようなことに納得がいかない人は、いつまでたっても生活保護費をパチンコに使って最後の一週間は水ばかり飲んでいるような受給者を一人たりとも許さないだろうし、生活保護パッシングを続けるのだろうな。ところで、栗橋の最後の怖いほどの怒り顔。たぶん自分に対しての怒りだと私は思う。{
2016年03月05日
コメント(0)

「図書3月号」今回の表紙が何を拡大したものか、分かる人は絶対いないと思う。もちろん着物の図柄ではない。ビタミンC(アスコルビン酸)の結晶が作る模様を偏光顕微鏡で撮影したものらしい。結晶化する時の条件のわずかな違いで模様が変化し、作るたびに異なったパターンが生まれる。世界はまだまだ謎に満ちている。「こぼればなし」(編集者あとがき)で書いている。ずっと前に私のブログでも取り上げた池澤夏樹「春を恨んだりしない」の「文庫版のためのあとがき」で、池澤夏樹は震災をめぐって考えたこととして、この五年間についてこう述べているらしい。この五年の間に事態は想像もしないほど悪い方に動いた。(略)原発の再稼働が進められ、その輸出の動きさえあり、放射能ダダ漏れの福島の現実が「アンダーコントロール」とぬけぬけと言い抜けられる。秘密保護法が成立し、憲法はバイパスされ、三権分立のはずが行政権ばかりが突出し、辺野古の工事は強引に暴力的に推し進められる。被災地の復興は土木ばかりが目立って被災者の支援は手薄く、今も仮設住宅を出られない人がたくさんいる。(略)ぼくにはこの未来がまったく見えていなかった。目前の悲惨に目を奪われる一方で、先の方に希望を幻視していた。今はただ自分の不明を恥じるしかない。(略)池澤夏樹のような知識人でさえ、そうだったのだ。と、改めてこの五年間の「逆コース」を想う。昭和の時代にも大正デモクラシーからの逆コースはあった。それと、現代の違いは何か。言論の自由は「まだ」保障されていて、池澤夏樹の「あとがき」のような言葉は、昭和初期とは比べ物にならないほどに巷に溢れている。それなのに、「アベ」というファシズムの「勢い」は止まらない。反知性主義という怪物が跋扈しているからだ、としたり顔で言っても仕方ない。メディアやインターネットなどの怪物があまりにも大きくなりすぎて、見事な衆愚政治が始まっている。一部が気がついても、理性と思いやりは消し飛ばされ、欲望と「俺だけは洪水から逃れてみせる」という根拠のない愚かな展望の元に、四年先のオリンピックのことしか見えていない70%の人々が、自らを含めて99%の人々を海に沈めるのだ。あゝどうしてこんな悲観的なことしか書けないのだろう。
2016年03月04日
コメント(2)

「エンピツ」再掲第四弾。最後に書いていることは今も意見は変わっていないが、当然のことながら誰も意見を送ってくれるような人はいなかった。楽天ブログに移り、映画記事には(いまはなき)トラックバックを送ると、日本中の映画ファンと話ができて、私はかなり浮かれたと思う。そして多くのことを学んだ。それにしても2004年の映画は豊作だったと思う。ちなみに、「ロード・オブ・ザ・リング」については、長い長い長い評論をこの「エンピツ」誌上に書いている。機会があればアップしたい。2005年02月02日(水) 04年映画ベスト23(その二)長文 ベスト12「モーターサイクルダイアリーズ」ウォルター・サレス監督 ガエル・ガエシラ・ベルナル主演。23歳のチェ・ゲバラは友人と共に、アルゼンチンの自宅から半年以上かけ、南米大陸を横断する旅に出る。見事なロード・ムービー。青年ゲバラはしだいに社会の不公平に目を向ける。それは旅に出た事のあるものには全員思い当たる、必然であろう。旅の魅力が一杯。私も旅に出たくなった。彼のように半年も出る事は出来ないが、当てのない旅を何日も。いや、きっと行くぞ、と決心をさせるだけの力を持った作品。ベスト11「油断大敵」成島出監督 役所広司 柄本明主演。刑事と泥棒は切磋琢磨し、「自分の仕事」を全うする。奇妙な友情も芽生える。「天職」に気が付くのは大切である。なんか救われた気がしました。監督第1回とは思えないほど堂々とした演出。娘の2回に渡る決心に泣いちゃいました。ベスト10「折り梅」松井久子監督 原田美枝子主演。同じアルツハイマーを扱っているが、前作「ユキエ」では、夫婦愛に焦点を絞って描いていた。どちらかというと二人とも芯の強い人であまり悩んでいなかったが、別離の物語であった。今回の登場人物たちは思い悩み、試行錯誤し、精一杯介護保険を使い、そして最後には「共に生きていく」所で終る。非常に良かった。日本のアルツハイマー介護の到達点(ヘルパー、グループホーム、デイケア)も見えるし、吉行和子と原田美枝子の演技合戦も見応えがある。「アルツハイマーになってもなお、東美展に入賞するような才能が花開く。(事実にもとずいているらしい)」人間とは凄いものだ、と率直に思わせるような映画である。ベスト9「父と暮らせば」黒木和夫監督宮沢りえ主演。原爆で生き残った女性は、数年経ってもまだいきる力を取り戻せていない。彼女は今、原爆で死んだ父親の幽霊といっしょに暮らしている。8月の中ごろ広島市で鑑賞した。映画館の人も誉めていたが、「宮沢りえのなんともきれいな広島弁が素晴らしい。」私はあらかじめ原作を読んで、ある程度のイメージをもってこの映画に望んだのであるが、へたにCGでご魔化さずに二人の演技力を全面に出した演出。俳優とは素晴らしいと思った。宮沢りえは「生きる力」取り戻す。同時期、DVDで監督の第二作「美しい夏、キリシマ」を観た。監督の半自伝という事もあり、こちらは言いたい事を詰めこみすぎて返って散漫になっている。たった一つの事を描いているこちらの作品のほうが良かった。ベスト8「チルソクの夏」チルソクとは韓国語で七夕の意。70年代の下関と釜山。高校生の陸上交流大会で芽生えた淡い恋。その中に、朝鮮人差別やら、貧富の差やら、日韓断絶などをさりげなく描く。それを吹き飛ばすような女の子四人組の友情が爽やかだし、彼女たちが本気で走っている姿が心地よい。イルカの「なごり雪」ピンクレディーの「渚のシンドバット」が効果的に使われている。地味な映画だけど、地方で火が付いて全国公開になっただけの力がある作品。ベスト7「下妻物語」中嶋哲也監督 深田恭子主演。コスプレ映画だと勘違いしてはいけない。しっかり元気になれる映画。しっかり応援できるキャラクター。土屋アンナちゃんも熱演しているのだけど、深田恭子が凄い。あのキャラで全然不自然ではないというのは凄い。脇役も大熱演。青春映画の王道を行くけど、先の見えない展開。楽しい映像。細かいところへの気配り。全然期待せずに観て、傑作に出会えたときの幸せな気持ちはちょっと忘れられない。ベスト6「ビッグ・フィッシュ」ティム・バートン監督。父親の昔話というのは、ホント半分空想半分が多いのではないか。「お父さん、小学校時代は学級でいちばん頭が良かったんだ。ただ家が貧乏なもんだから上の学校に行けなかった」これはこの映画の話ではなく、私の父親の何度も聞いた話である。最初はお父さんを尊敬する。しかし、中学になって話を聞くのも50回目を超える頃になると、うんざりするのと同時に「本当かな」あるいは「それがどうした」となるのである。子供は多くは反発する。この作品の子供のように、父親とは正反対の「今」と「事実」を大切にする仕事をするようになる。この作品父親のほら話は一言でいって「ファンタジー」だ。うちの父親とはレベルが違う。事実が必ずしも真実ではないのと同じように、ファンタジーはときどき真実を突く事がある。私はもともとファンタジー派である。だから最後の葬式の場面などは言わずもがな、なのであるが、ファンタジーをほら話としてか受けとめれない息子派の人には必要な場面だったろう。ベスト5「ブラザーフッド」カン・ジェギュ監督チャン・ドンゴン ウォンビン主演。大きな悲劇的な事件を描くとき、その事件の全貌を描くよりも、二人のキャラクターを中心に描いて、事件を背景として描くほうが、よりその事件の悲劇性が浮き上がる事がある。「タイタニック」はまさにそうやって成功した事例であるが、この作品もそれと同じような作品として長く記憶されるかもしれない。「タイタニック」でも二人の別れの場面では全然泣けずに他の場面で大泣きした私であるが、今回も「これでもか」という「泣き」の場面がうっとおしくて、それがマイナスではあるのだが、それを吹き飛ばすほど、同じ民族が戦う肉弾戦の「朝鮮戦争」という悲劇の描写に時の経つのを忘れた。すごい戦争映画が出来あがった。結局数ある韓国映画でこの作品しか良いのが無かった。確かにここ数年で言うと韓国でいい作品は増えている。しかし「韓流」というブームに踊らされてはいけない。「オアシス」「悪い男」は未見。ベスト4「モンスター」パティ・ジェンキンズ監督・脚本 シャーリーズ・セロン主演。セロンが13キロも体重を増やすという役作りをして、アメリカ初の女性連続殺人事件犯人として死刑になったアイリーン・ウォノースを演じる。この作品には、これでもか、と彼女のささくれだった肌がアップで出てくる。様変わりした顔、ぶよぶよの腹、下卑たセリフとガニ股で歩く姿、セロンのファンの私としては、辛い体験だった。主人公アイリーンは確かに可哀想な部分はあるが、一方殺人に弁解の余地は無い。そして彼女の立ち振る舞いは彼女が嫌っていた自分を買う男たちの態度そのままだ。のぞけり、空威張りして、時々卑屈になる。彼女の環境をそのまま見せることは、80年代のレーガン政権が行ってきた弱いものを顧みない政策のツケを観る事にもなる。やはり彼女のアカデミー女優賞の受賞は本物だった。彼女のファンとして心からおめでとう、と言いたい。ベスト3「ジョゼと虎と魚たち」犬堂一心監督 妻夫木聡 池脇千鶴主演。恒夫(妻夫木)は下半身不随のジョゼと付きあおうとする。しかし冒頭ナレーションで二人はやがて別れる事が予言される。いったい二人はなぜ別れるのか。身障者問題がテーマではない。恋愛の「核」を描いた物語。恋一般にありがちななんらかの「障害」を併せ持った愛の行方の物語であった。 恒夫は優しい男ではあるが、こずるい男でもある。ジョゼは幼い所もあるが、将来の事もよく見えて自立心の富んだ芯の強い女の子である。二人が別れた理由。恒夫の独白では「ボクが逃げた」といっていたが、そうではない。恒夫はジョゼに向きあうにはひと皮むける必要があったのに、変わる事が出来なかった。ジョゼが恒夫を振ったのである。最後の脂ののったシャケをジョゼが焼いているシーンが全てを物語っている。原作では「近松人形のように白く小さい顔をした」と表現されるジョゼを池脇千鶴が迫真の演技をしている。彼女のぶっとい大阪弁と背中のか弱そうな演技。池脇はまた一つ大女優への階段を登った。ベスト2「誰も知らない」是枝裕和監督・脚本・編集 柳楽優弥 北浦愛 木村飛影 清水萌々子 韓英恵 YOU出演。ゆきちゃんが大好きな「アポロ」の御菓子を大事に食べているのを見て、最初兄弟四人だけで生きてやがて悲劇に至る事を描く現代版「火垂るの墓」なのかなと思ったのだが、「泣かせ」の映像は極力排除している。そんな物語ではなかった。子供から少年へ、子供から少女へ向かうときの貴重な表情たち、「生活」する事の大変さ、都会の無関心さ、そして「寄り添う」ことの美しさ(素晴らしさ)。ゴンチチの音楽がどうしようもなく美しく、優しい。子供たちがいい。彼らの生活が破綻する直前でカメラを止めたのはよかった。現代で人間でありつづける事は厳しいけど、希望はある。子供たちでさえ、一年間は頑張ったのだ。いわんや私たち大人をや。私はそのようにこの作品を受けとめた。この映画は劇場で2回観た。誰も注目していないけど、足のアップと手のアップが多用されていることに気が付いた。子供たちは靴に気を使う。長男の明は運動靴。長女の京子は女の子らしいスニーカー、次女のゆきはくまさんのアップリケがついたきゅっきゅっと鳴るスリッパ。明のゲーム友達は中学にはいって親に真っ白でまぶしいような運動靴を買ってもらっていた。明のそれはそのときは真っ黒にすすけていた。やがて彼はスリッパしかはかなくなる。お母さんに塗ってもらったマニキュアが京子にはまぶしい。その色が禿ていっても彼女は色を落とす事が出来ない。事故で死んでいくゆきの体に触る手と手と。「お別れ?」と聞くシゲルに京子は思わずぐっと手を握り返す。足のアップは生活を証明し、手のアップは想いを現す。どちらも含めて子供たちは頑張った。ベスト1「ロード・オブ・ザ・リング三部作」ピータージャクソン監督。あくまで三部作全体を通しての評価です。世界を滅ぼすかもしれないが、世界を支配する事もできるかもしれない「謎」の指輪を、人々の多大な犠牲を伴いながらも「捨てに行く」物語。原作はそのために我々と全く違う民族、地図、歴史、言語を設定した。この物語に入りこみ、見事に解放された暁には、「世界を相対的に観る目」を持つ事だろうと思う。詳しい事はすでに04年の三月号の会報に書いた。未公開映像の入ったDVDの特別版を観たなら、新たな感想が書けるのではないかと期待していたのだが、05年の2月に発売が延期された。なぜ一位に推すまで私がこの作品にいれこんだかは三月号会報を読んで欲しい。ひとつ、このベスト23に付いて言及しておきたい。私がこういう批評文を書くことで願っているのは、あくまで読者の一つ一つの映画に対する観方を広げてほしいという気持ちからであって、私の観方が正しいと思っているからではない。私は映画を分析したいのではない、楽しみたいのだ。でも、楽しんだ、よかったといってそのまま忘れたくないのである。できる事なら皆の意見を聞きたいと思っている。そうする事で私の映画を観る目を高める事ができるだろう。と思っているからだ。私の持論。「意見が分かれるところはその事象のいちばん大切なところである。」映画作品でも政治でも同じだろう。
2016年03月02日
コメント(0)

「エンピツ」再掲シリーズ第三弾。昨日の記事より一年後の「映画のまとめ」である。やはりちょっと長いので二回に分ける。映画の題名は太文字加工している。また、三作品だけ画像も付け加えた。2005年02月01日(火) 04年映画ベスト23(その一)長文 私は毎年、学習サークルの会報にその年の映画の総評を投稿しているのですが、それをここにコピーします。あまりにも長いので二回に分けます。とはいっても、この日記にいままで載せた短評をベストの順番にほぼそのまま載せていますので、あまり目新しい文章はないはず。ただ一通り読むとその年の見るべき主な映画は半分以上網羅していると自負しています。2004年の映画評も去年に続いて、私の合格作品を順番に並べただけのものにさせてもらいます。合格作品とは私の中で100点満点のうち80点以上の作品の事です。今年は12月25日現在104作品観ました。今年は合格作品が23作品。その中で大きな特徴は邦画がなんと12作品も入っているという事です。何が入っているかは後のお楽しみですが、今年の特徴はずばり「邦画豊作の年」という事でしょう。その前に「あの話題作がどうして入っていないんだ。見ていないんだろう」とお叱りを受けるかもしれないので、選外になった「話題作」に付いて若干のコメントをしておきます。「世界の中心で愛をさけぶ」今年の純愛ブームの火付け役で、今年の映画を引っ張った重要な作品であることは間違いない。長澤まさみはこの作品でやっと「女優に化けました」。残念なのは、柴咲コウの出番が付け足しでしかなかったこと。もっと短くまとめればよかった。「隠し剣鬼の爪」大いに不満。力作であるし、心地いい感動も与えてくれるだけに、画龍点晴を欠く、永瀬、松、両者のたった一つの演技(永瀬の家老に詰め寄る所と、松の嫁入り先での苦労)に不満。私が藤沢周平を好きなだけに、私の点数はきつくなっているのかもしれません。でも二人には大事なところで命がけの演技をしてもらいたかった。「ハウルの動く城」前作でもそうだったのですが、宮崎駿監督は分かりやすさは拒否して作品をつくっている。前作は舞台が閉じた世界だったので返ってイメージの広がりが心地よかったのだ。しかし、今回は冒頭から戦闘機、戦車が描かれ、軍服が闊歩する。それは歴史的であり、世界的な開かれた世界だ。宮崎駿が初めて「戦争」を正面から描いた、と思ってはいけない。いや、私は最後の瞬間までそう思っていた。そうでなければこの作品が終らないと思っていた。けれどもそれは裏切られる。この弱いラストはいったいどういうことなのだろう。一方「純愛」物語としては?私はとうとうハウルにもソフィーにも共感を覚えなかった。期待していたのに残念!。あと惜しい選外としては「ゼブラ-マン」「25時」「ラバーズ」「月曜日のユカ」があります。ところでこの選外、おやおや、邦画豊作といいながらがすでに選外に邦画が5作も入っています。だとすると、あと12作にはいったい何が…。ベスト23「花とアリス」岩井俊二監督 鈴木杏 蒼井優主演。なんとも愛しく愛しく残酷で残酷な少女の話。ここにはイメージの広がりがあります。ベスト22「ゴジラファイナルウオーズ」北村龍平監督 松岡昌宏主演。ゴジラ怪獣総出演。待望のヘドラも出てくるし、エビラみたいなマニアックなのも出てくるし、「ジラ」という明かにハリウッド版ゴジラも出てくる。ジラの最期は爆笑もの。テンポ良く進んで、人間アクションまで盛り込んで。ゴジラシリーズの一本としては良いほうだとは思う。しかしながら、これでゴジラシリーズが終るというのが気にいらない。ゴジラ最後の年に、10年に一度という災害が立て続けに起きたのは偶然ではないだろう。(と、かってに断言)まだまだ壊すべき建物は次々に出てくる。まだゴジラは必要なのだ。なぜ私たちはゴジラを愛するのか。ゴジラはもともと水爆実験という「人類の罪」から誕生した怪獣であるが、実は人類の罪はそれだけではない。戦後の繁栄は実はとんでもない虚妄の上に建っているのではないかという漠然たる想いを私たちはみんな持っているのではないか。だからゴジラが国会議事堂を壊し、東京ツインタワーを壊し、福岡ドームを壊し、各地域の原発を壊していくことで私たちは「癒し」を得ているのではないか。ゴジラは破壊神です。逆説的ではあるが、日本の高度成長が生んだ神であったと私は思う。ベスト21「釣りバカ日誌15」朝原雄三監督 西田敏行 三国連太郎主演。 久しぶりに映画館で見た。もっぱら二人は恋の指南役に徹するようになった。というよりか偶然二人を引きあわすだけになった。それでも笑えるのである。お気楽サラリーマンの浜ちゃんが健在でいるだけで楽しくなってくる。見事なワンパターン化。1000円興行のせいか、客の入りはマズマズ。こういう作品は劇場で見るにかぎる。だってみんなと笑えるもの。あの着信音とポスト私も欲しい。ベスト20「トリコロールに燃えて」ジョン・ダイガン監督・脚本 シャーリーズ・セロン主演。奔放で美しい上流階級の娘、英国の労働者階級の男、スペイン内戦を逃れてきた娘、よくある男女三角関係の物語。しかしそれだけではない。1930年代のパリ、芸術が花咲き、スペイン内戦に義勇軍が馳参じる。40年代の欧州、ドイツがパリに進駐し、レジスタンスが闘われる。久しぶりの欧州歴史大河ドラマ。しかし、それだけではなかった。「モンスター」の撮影直後にすぐこの映画をとったシャーリーズ・セロンが、疲れも見せず、惚れボレするように美しく、本格女優としてひと皮剥けて登場していた。ベスト19「スパイダーマン2」サム・ライミ監督 トビー・マグワイヤ主演。アメリカ人はどうしてこうも「正義」という言葉が好きなんだろう。スパイダーマンの悩みはそのまま現代アメリカ人の悩みでもある。でもやはりアメリカ人は「正義」を選ぶのである。スパイダーマンはどのようにして「正義」を選ぶのか、注目して欲しい。アメリカよ、悩め、悩め、もっと悩め。ベスト18「ラブアクチュアリー」監督・脚本 リチャード・カーティス。群像恋愛劇。見てみるとなんとまあ幸せな気分になれることか。こんなにもたくさんのエピソードを詰め込みながら一人一人に見せ場をきちんと作っている。全員が幸せに成るわけではない。その事が私にはとても心地いい。演技として秀逸なのはエマ・トンプソンの泣き。脚本として秀逸なのはアンドリュー・リンカーンの紙芝居。キャストとして秀逸なのは英国首相と小太り秘書のくみ合わせ、リーアム・ニーソンのお父さんぷり。ベスト17「ザ・デイ・アフター・トゥモロー」迫力満点の映画。決して作品として優れているとは思えない。科学的にどうかなと思えるような描写も目立った。しかしこの映画は今年観るのに意義があった。異常気象、台風、地震、津波、まるで映画をなぞるかのように今年は世界各地、特に日本で天変地異が頻発した。映画を観て肝を冷やして欲しい。たぶん大統領選がらみだったのだろうが、この作品は明かに京都議定書を批准しないブッシュ政権を批判している。その志も了としよう。ベスト16「ターミナル」スティーブンスピルバーグ監督 トム・ハンクス主演。クーデターで事実上祖国が無くなった男性が9ヶ月、ジョン・F・ケネディ空港のターミナルで暮らすことに。クスリと笑い、大いに笑い、やがてしんみりとする、素敵な「旅」の物語。いや、「人生」の物語。男は暮らし始める。寝るところを確保し、言語を覚え、小銭の稼ぎ方を覚え、仲間が出来て、仕事をつかみ、恋をする。そして思い通りにいかないことも多い。しかしそれこそ「人生」というものだろう。男はそれでも「旅」の目的を達成する。仲間に支えられて。9ヶ月も待って達成したのだ。夢を忘れず、待つこと、それこそ「人生」というものだろう。ベスト15「華氏911」M.ムーア監督編集。「この映画は政治的に偏っているのでおかしい。」というテレビの番組が堂々と流され、「だから私はこの作品を評価しない」という若者が何人も続出した。なんてばかげた話かと思う。どのような作品であれ、偏っていない作品などあるはずがない。別の言葉で言えば、主張のない作品など作品には値しない。特にドキュメンタリーはそうだ。ムーア監督はアメリカの人々に、あるいはそのアメリカを支持している国々の人々に、「実は自分たちはばかげた指導者のおかげで沈みつつあるのだ」と衝撃的な映像を次々と突きつける。ベスト14「いま、会いにゆきます」土井裕康監督 竹内結子 中村獅童主演。小さい子供を残して死んでしまった母親は、雨の季節に帰って来ると言い残していた。主役の二人に存在感があった。純愛映画は引く事が多い私ではあるが、いろんな伏線を見事に活かしたこの映画は最後しみじみとさせた。泣きはしなかったが。そこで一首。「出会いとは不思議でもあり奇跡とも必然とでもいえるものかな」くまベスト13「ヴァイブレータ」寺島しのぶ主演。いきずりの恋。ずっといっしょに生きていかなくてもいい。しばらくお互いの体温を感じているだけでいい。男と女。ウソと真実。単純だけど、あとからいろんな場面が思いだされて、あとを引きずった不思議な映画。(現代からのコメント)画像付きのこの三作品。奇しくも、ムーア監督、竹内結子、中村獅童、寺島しのぶ、大森南朋の出世作になった。今回のベストには、何と絶版になっているような作品を選んでいない。ちょっとバランスの取れた選択をしている。
2016年03月01日
コメント(0)
全25件 (25件中 1-25件目)
1
![]()

![]()