わたしのこだわりブログ(仮)
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タイトルを変更しました。これは次の「アジアと欧州を結ぶ交易路 」の序章となっています。 ラストに画家カラヴァッジオ (Caravaggio)について説明不足だったので追記もました。さて、そろそろ向き合わないといけない頃合いです。中断していた「アジアと欧州を結ぶ交易路 」シリーズですが、実質マゼラン隊の活躍までを紹介していましたから、ポルトガルからスペインが台頭してきたあたりで終わっていました。リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)一時はポルトガルとスペインにより独占されていた世界への航海事業ですが、1537年以降、大きく事情が変わり、世界への進出は早い者勝ちのサバイバル戦に突入していきます。その後、オランダが参入し、英国も大航海に参入。フランスも艦隊を持ち、欧州各国の東インド会社が林立する欧州勢によるアジアの植民地化が始まるのです。この情勢の変化については、すでに「マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図」の中、「サラゴサ条約線と教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)」で紹介していますが、教皇パウルス3世(Paulus III)(1468年~1549年)が1537年に公布した教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)が要因でした。教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)は1493年に発令されていた教皇勅書「インテル・カエテラ(Inter caetera)」を否定し、無効としたと言う内容です。これによりローマ教皇アレクサンデル6世(Alexander Ⅵ)(1431年~1503年)が決めたポルトガルとスペインの海洋進出の境界線となる「教皇子午線」が無効となったのでした。※ 1493年の教皇勅書は、海洋進出の先端を行っていたポルトガルとスペインの争いを止める為にローマ教皇による裁定として、ポルトガルは東へ、スペインは西へと領土の獲得を認めたもの。その境界の線が「教皇子午線」と呼ばれるものです。※ この教皇子午線を後に両国の話し合いで微妙にラインの位置を調整。それがトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)線です。そもそもこの境界線を設けるにいたった1493年の教皇勅書インテル・カエテラ(Inter caetera)は、実はスペイン王(カステーリャの王)からの申し出で、スペイン出身の教皇アレクサンデル6世(Alexander Ⅵ)を使いスペイン有利に動かした勅書だったようです。しかし、各国の海洋進出が始まるとそもそも「ポルトガルとスペインだけが世界の土地を獲得できる。」とする裁定は不公平だ。と言う苦情は当然の話。それが1537年の教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)の発令に至ったようです。そんなわけで、1537年以降、大航海時代は欧州各国が参戦しての第二章? に突入したのです。今後、どこまで書けるかは資料しだいです。現段階では白紙なので・・で、今回はまだ病み上がりの身。とは言え退院の報告だけと言うわけにはいかないので「アジアと欧州を結ぶ交易路 」のイントロのつもりで、次の大航海の覇者となるオランダの静物画から紹介しようかと思います。静物画? これは大航海がもたらした交易品の見本でもあるのです。大航海時代の静物画オランダの貿易を示した名画アメリカ大陸からの珍獣とブドウと黄金絵画のカキとオレンジ80年戦争終結後のオランダの快進撃ヴァニタス(vanitas)画カラヴァッジオ (Caravaggio)「stillevent」はオランダ語で「静物」。静物画は17世紀のオランダで確立した絵画と言われる。オランダ語で stillevent → 英語で still life「動かない生命 or 物言わぬ生命 or 静かな生命」 の意から 日本語では「静物」と和訳。しかし、フランス語では → Nature Morte「死せる自然」と、「静物」を意味しながらも解釈に違い(悪意)がある。これには、フランスやイタリアなどでは、静物画に対する評価が低かった。と言う背景があったらしい。昔から静物画の絵師はいたし、少ないながらもあるにはあったのですが、ジャンルとして確立したのがこの時代なのかもしれない。理由の一つがオランダはプロテスタント国であると言う事。つまりプロテスタント国なので宗教画が存在しない。それ故、オランダでは風俗画や静物画が生まれる土壌にあったと言う事です。今回紹介する絵は静物画でも、オランダならではの静物画と言える逸品です。また、それは当時のオランダを物語る絵画でもあるのです。オランダの貿易を示した名画今回はウイーン美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)で見つけたヤン・ターフィッツゾーン・デ・へーム (Jan Davidszoon de Heem) (1606年頃~1683/1684年)の静物画から。A Richly Laid Table with Parrots(オウムと豪華なテーブル) 1650年代一見、豪華な食卓。明らかにこれは王侯貴族や富裕な商人の食卓?はっきり言えばこれは自慢(じまん)とも言える絵画です。こんな豊かな、種類豊富な品がうちにはあるのですよ。と言う絵なのです。つまり、オランダがすでに海洋進出を果たして、「世界から素晴らしい逸品を集めて来た」と言う自慢の絵であり、同時にこんな品が手にいれられますよ。と言うセールスの意味もあるのです。アメリカ大陸からの珍獣とブドウと黄金大型インコカラフルな鳥は Red-and-green macaw(紅コンゴウインコ)。南米北部と中央部の森林や林地に広く生息するAra属(新熱帯のコンゴウインコ属)の中で最大の種。ペットとしてのみならず、肉用に狩猟もされていたらしい。はるばる大洋を越えて運ばれて来た大型のカラフルな鳥。珍品中の珍品である。しかも生きて運ばれてきた事は凄い事である。またその美しい色に魅了された事だろう。※ 近年は土地利用の変化によりアルゼンチンの生息域全体で絶滅されかけ、絶滅危惧種に指定されている。また、紅コンゴウインコは一般的に生涯にわたってつがいで行動するらしい。黄金絵画に描かれている黄金はもちろん南米からの品と思われる。むしろ南米を示唆する為に敢えてのせたのかも・・。オランダは当初スペインハプスブルグ家の統治下にあったから、オランダが最初に船を進めたのは南米であったと思われる。ブドウブドウであるが、これもまた輸入品であろう。スペインかポルトガルかフランスあたりから?ブドウの栽培には一定の温度が必要。近年は品種改良して北限が上がっているが、かつてはドイツが北限とされていた。オランダでも南のフランドル地方では10世紀頃にはワイン用のブドウ栽培はされていたらしいがかつてのフランドルは広域だったからね。※ ワインの産地ブルゴーニュもフランドルと合併して、かつてはフランドル公領であった。桃と生ハム絵画の桃もまたスペインかもしれない。丸い桃だから。では生ハムは?諸々スペインなのでスペイン産の生ハムやかもしれないが、私的にはイタリアのパルマの生ハムの方が優位。鍵のついた箱は、中に富がつまっている事を象徴としているのかも。こういう静物画は、描かれているモチーフの意味がよく言及されるものだ。特にヴァニタス(vanitas)と呼ばれる静物画はそのモチーフが象徴を持って暗示される事から、絵画事態の意味を言及しがちであるが、今回の「オウムと豪華なテーブル」のような単に持って要る物自慢のような静物画も存在する。ヒラガキの皿の手前の銀の容器は胡椒(こしょう)入れかも。つまりスパイスも輸入できます。アジア方面もお任せください。と言う意味かも。絵画のカキとオレンジ学名:Ostrea edulis 俗にヨーロッパヒラガキと呼ばれるカキで、分布域はノルウェー中部からモロッコ、特にブリテン島および地中海沿岸に生息しているカキ。絵画のヒラガキは現在は養殖され欧州の主流であるが、当時オランダには生息せず、これらは輸入品である。フランスブルターニュのブロン川(Belon River)が本場な事からブロン牡蠣(Belon oyster)とも呼ばれる。1950年代になってオランダは自国での養殖を試みたが失敗している。(その後自生)オレンジも同じく輸入品。オランダでは生産できないのだ。スペインからの輸入品と思われる。先にも触れたが、オランダは独立を果たすまで、長い間スペインの統治下にあったからだ。それにしてもオランダでは現在もオレンジは非常に人気のフルーツ。そのまま食すと言うより、主にジュースとして食す。スーパーにはオレンジと共にオレンジ絞りのマシンが必ず置いてある。80年戦争終結後のオランダの快進撃この絵の制作年は1650年代。この絵は80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)終結後に描かれたと推定される。80年戦争は結果的にオランダがスペイン・ハプスブルグ家支配から独立を果たした戦いであったが、戦争終結後も変わらず物流はあったのだろう。80年戦争については、以下で書いてます。リンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)独立の中心人物となるオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)については以下に。リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)この回もよかったら見てね。オラニエ公の屋敷と、オランダと日本の関係のきっかけとなったヤン・ヨーステン(Jan Joosten)の事にふれています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)オランダが30年戦争(1618年~1648年)でプロテスタント側として勝利し、神聖ローマ帝国からの離脱が認められた事。80年戦争で勝利し、ネーデルラント連邦共和国が国家として認められた事。これらはオランダの海洋進出の快進撃につながって行く。つまり、オランダの快進撃が始まるのはスペインからの独立後であり、ローマ・カトリックからの離脱後なのである。1603年、すでにオランダはジャワに商館を置いてアジア諸国との交易は始まっていた。国の独立とカトリックからの離脱はオランダと言う国が宗教にとらわれず、商魂たくましく、利益追求で商売を成功させる後押しになっている。ヴァニタス(vanitas)画ヴァニタス(vanitas)とは虚しさを現す静物画の一つです。ウィキペディアには、「16世紀から17世紀にかけてフランドルやネーデルラントなどヨーロッパ北部で特に多く描かれた。」と書かれていますが、実は古代ローマの時代にはすでに存在していたのです。※ 以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権」の中、「古代のヴァニタス(vanitas)画」として紹介しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権ただし、内容はカトリックの時代のヴァニタス(vanitas)画と古代ローマ時代のヴァニタス画は全く意味が異なるのです。それは宗教の違いによる死生観が異なるからです。カトリックの時代のヴァニタス画を最初に描いたのはイタリアのカラヴァッジオ (Caravaggio)(1571年~1610年)かもしれません。バッカス(Bacchus) 1596年制作。ウィキメディアからかりました。所蔵 ウフィツィ美術館(フィレンツェ)バッカス(Bacchus)は、ローマ神話のお酒の神様。※ ギリシア神話のディオニューソス(Dionȳsos)。通常のバッカスならば、描かれるのはブドウのみ。彼は酒の神。ワインの神であるからだ。しかし、カゴの中には熟してはじけたザクロと虫食いのリンゴや腐りかけたフルーツなどもりだくさん。しかも、若い少年でバッカスを表現したカラヴァッジオ。しかも妙になまめかしく少年バッカスは誘っている。故に、そこには若さは一瞬のもの。すべては腐敗し、滅びゆくもの。喜びもまたつかのもの儚いもの。と言う暗示がこめられている。この絵は彼の後援者であった枢機卿の為に描いたとされる事から枢機卿に男色があったのか? と言う事も想像される。モデルは枢機卿のお気に入りか? あるいはカラヴァッジオ自身も男色だったので、彼の恋人がモデルの可能性もある。カラヴァッジオはこれ以前にもバッカスを描いているし、また少年がフルーツ籠を持つ絵も描いている。こだわったのは少年か? フルーツか? いずれも儚い生命だ。ところでカラヴァッジオは「花を描くことは人物を描くのと同じ価値がある」と言って静物画も描いている。その言葉通り、彼の静物画はまるで写真のような写実画となっている。さすがカラヴァッジオである。素行は悪かったが、絵の腕は一級品だった。果物籠(Basket of Fruit) 1595年~1596年頃制作。ウィキメディアからかりました。所蔵 アンブロジアーナ図書館以前デルフトのプリンセンホフ博物館で見つけたヴァニタス(vanitas)画を紹介しています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)一般的にヴァニタス(vanitas)画が意図するのは、「人生の儚さ(はかなさ)、現世の虚しさ(むなしさ)を警告する寓意」が主となっています。が、ローマ時代のヴァニタス(vanitas)画と、中世キリスト教下のヴァニタス(vanitas)画と、また新教誕生後のヴァニタス(vanitas)画とは、儚さ虚しさの意図する所が微妙に異なっているのです。つまり、与える教訓が違う。一言で言えば同じヴァニタス(vanitas)画に見えても、解釈には宗教による死生観の違いがある。という事です。カラヴァッジオ (Caravaggio)カラヴァッジオ (Caravaggio)(1571年~1610年)聖書をモチーフにした作品が多いイタリア、バロック期の画家。彼の描く聖人のドラマはどれも傑作で、本当に腕は素晴らしい画家であるし、彼の功績は諸々あるのだが、他の画家らの作品をけなしたり、破いたり、誰に対しても不品行で喧嘩っ早く、すぐに暴力事件を起こす問題児であった。その為、恨みで襲われる事もあったからか? 画家なのに常に武器を携帯し、ついにはそれで人を殺してしまう。パトロンらも彼をかばいきれなくなるとローマから逃走。ナポリに逃げ、次に地中海に浮かぶマルタ島に渡るが、ここでもマルタ騎士団といざこざを起こし投獄される。それを脱獄して今度はシチリア島に渡る。彼の後半生は逃亡の歴史だ。しかし、彼は行く先々で多数の名画を残している。シチリアでも素晴らしい作品をたくさん残している。逃亡中とは言え、彼は一流の画家、多額の謝礼を受け取れる仕事をあちこちでこなしているのだ。素行は悪いのに彼はカトリックの聖人像を多く描いているのだから驚く。教会の仕事が多いのだ。光と影の画家と言うとレンブラントが思い浮かぶ人は多いかもしれないが、そのレンブラントは実はカラヴァッジオをお手本にしている。しかもカラバッジオはリアリズムを追求する画家。「死せるキリスト」を描くのに、テレベ川に浮かんだ水死体をモデルに描いた。と言うとんでもエピソードが私に画家カラバッジオを印象づけた。美術館に行けば必ず確認する画家の1人となったのだ。たいていの大きな美術館には必ず所蔵されています。シチリアに9か月滞在し、またナポリに戻るが、最終的に恩赦を待ちローマに戻る予定であったらしい。が、ここで彼の消息は消える。途中熱病で亡くなったと言う知らせがローマに届いたらしい。本当に病死なのか? 殺されたのでは? 1610年7月18日に亡くなったと言う知らせ以外に情報はなく、遺骸がどこに埋葬されたかも不明なのだ。次回は、「アジアと欧州を結ぶ交易路 」シリーズ、オランダ編の予定。Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2024年09月02日
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