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実は再検査の予約があったので朝から病院に行っていたのです
実はその予約、昨年の6月(8ヶ月前)に入れた予約である。
もう体調も良いので「今回の血液検査で問題なければもう良いよ」と先生に言われていたので実はスッポカしてしまうかギリギリまで迷って出かけたのだが・・・。
結果、数値に何の異常もなく、当初予定していた特別な検査もしないで終わってしまった。「これで終わりだ。」と私は期待したのだが・・・予想外・・・「また1年後に来てね。」と言われてしまった
で、とりあえず1年後じゃスケジュール帳にページがないので記入できない・・・「せめて年内にしてもらえないか・・」と頼んで次回は12月に検査と決めてきたのだが・・・。
道々歩きながら「そうだ次回こそスッポカそうと心に決めた
今回事情によりロンダ番外編となりました。
スペイン・ロンダ 2 (番外編 カルタゴ)
フェニキア人のカルタゴ
フェニキア人のイベリア進出とギリシャと古代ローマ帝国
カルタゴとギリシャと古代ローマ帝国
ローマ配下のカルタゴ
ロンダの歴史を遡っていたらたどり着いたのでとりあえず載せます。内容はロンダと言うよりほぼカルタゴの話です。(だから写真もカルタゴのものにしました。)
BC814年にフェニキアの王女エリッサにより(植民都市として)建築され「カルト・ハダシュト(新しい街)」と名付けられ、ラテン語読みでカルタゴと呼ばれるようになったそうです。
フェニキア人のイベリア進出とギリシャと古代ローマ帝国
最初の入植者は定かではないが、 イベリア半島沿岸はBC7~6世紀には、ほぼェニキア人の植民地
になっていたようです。
(マラガはBC1000年にフェニキア人が建国したという・・。)
フェニキア人は西地中海に植民都市を次々開設。その1都市としてイベリアのマラガや北アフリカのカルタゴと言う貿易都市があったのですが、最後まで残ったフェニキアの都市がカルタゴでした。
注 1987年に「カルタゴ建国2800年祭」がチュニジア政府によっておこなわれた事から、逆算してBC814年」がカルタゴ建国となるようです。
カルタゴとギリシャと古代ローマ帝国
この頃、地中海中央部まで勢力をのばしていたギリシアとの対立はカルタゴの目先にあるシチリア島を舞台に展開され、3回に渡る大きな戦争をしています。(シチリア戦争)
2回目の戦争の時にイベリア半島の植民都市がカルタゴから分離ロン
ダもこの中にあったようです。
眼下に見えるのはヨット・ハーバー かつて交易船がたくさん停泊する巨大港湾都市。
下はローマ時代のカルタゴの港の絵です。カルタゴ博物館より
6月の「古代ローマ水道 5 (チュニジア編)」の時に使用した写真。
ところでこの頃ギリシャはローマとも戦っていました。ローマは勢いに乗り南ローマの戦いで勝利。結果ギリシャは自滅して領土を縮小。
カルタゴにとってはギリシャとローマ軍の戦いはラッキーでもあったが、今後ローマとも戦う事になるわけで、三者三つ巴の戦いに突入。
ロンダは再びカルタゴが奪還してその後、3世紀にわたりギリシャ、ローマと戦うカルタゴへ物資の供給地
となりますが、結局カルタゴはイスパニア戦でローマに敗退。
BC197年、ロンダはローマ帝国の「組織的イスパノ支配下」におかれたようです。
ローマ配下のカルタゴ
ポエニ戦争でカルタゴのハンニバルが負けるとローマ軍は、街を破壊し港を焼き、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされ、5万人以上がローマの捕虜となったようです。
※ カルタゴの土地には雑草一本すら生えることを許さないという意味で塩がまかれたという説があるようですが、信憑性はないようです。
BC122年頃ローマ人の最初のカルタゴ植民がカエサル(シーザー)によって計画され、初代皇帝アウグストゥスによって街の再建が実行。
カエサルは
カルタゴ植民市として、以降北アフリカにおけるローマの最重要都市として位置付けられ、西方ローマ帝国では第2の都市にまで発展したそうです。
「古代ローマ水道 5 (チュニジア編)」より
チュニジアン・ブルーが美しい町のドアや窓
白い町はフェニキア起源かな?
次回こそロンダ行きます。
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