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Back numberは最後にまとめました。前3作は半跏思惟像でまとめたので番外にしようかと思ったのですが、蘇我氏の渡来人説も中途。秦氏の功績や神社も紹介したくて4作でも終わらなくなりました (;^_^A今回は秦氏の嵐山の功績を紹介して次回番外で秦氏が祀った不思議な神社の紹介をする事にしました。倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)秦氏の功績嵐山渡月橋 葛野大堰(かどのおおい)蘇我氏と渡来人秦氏の功績魏志倭人伝によれば、日本には牛や馬どころか鶏もいなかったらしい。※ 其地無牛馬虎豹羊鵲 (牛、馬、虎、豹、羊、鵲(セキ)はいない)※ 鵲(セキ)はニワトリをさしていたのでは? 渡来時期が弥生頃とされているし・・。それらは全て渡来人より大陸からもたらされたのである。秦氏は渡来して大陸の進んだ文化をたくさんもたらしてくれた。米をたくさん収穫する為に治水や潅漑技術をもたらした。そして米により酒も造られた。墳墓を造る為に山から巨大な岩を切り出して運ぶ技術もあったと思われるし、白村江(はくすきのえ)の戦いにおいては、造船の責任者として秦氏の者(朴市秦造田来津)が共に半島に渡っている。大型の船を造る技術も持っていた? と推測できる。また秦氏は蚕(かいこ)を養蚕して絹織物を造る技術も伝えている。(かつて上質の絹織は中国宮廷の秘技)調べて見ると秦氏の功績はまだいろんな所に見られる。特に金銭的には白村江の後の百済皇族の亡命者を支援したのも秦氏のようだし、長岡京、平安京、共に造営には秦氏の資金が提供されていたようだ。※ 平安京の大内裏にいたっては、秦河勝(はたのかわかつ)の邸宅が利用されたと伝えられている。内裏の庭(紫宸殿正面)にある「右近の橘(たちばな)」はもともと秦氏の邸宅の庭にあったもの。常緑の橘は長寿瑞祥の樹なのだそうだ。それなのに歴史の表に出てくる人物は極めて少ない。まして階位もそんなに高くは無い。それはなぜだろう。階位が上がれば人から妬まれる。だからそんな物もいらなかったのかもしれない。望めばいくらでも高位に上がれたはずなのに・・。出過すぎず、決して目立つ事はなく、静かに朝廷に寄り添い、必要とされれば、己の役目を果たしてきた。そんな気がする。(そんな一族の掟でもあったのか?)かつて祖先が秦(しん)の国を追われた。渡来した秦氏一族は争いを好まない人達だったのかもしれない。朝鮮半島は地続きだ。いつ隣国が手の平返して襲撃してくるかしれない。静かに、安らかに暮らしたくて海の向こう、日本への集団移住をヤマト王権に申し入れたのかもしれない。岩田山モンキーパーク山頂からの京都盆地中心赤い矢印。遠くの山系は比叡山。その下黄色の矢印が双ケ丘(ならびがおか)でその手前が太秦(うずまさ)。その右下、双ケ丘(ならびがおか)より奧であるが、ピンクが京都御所のあたり。その奧の右、赤い矢印は大文字山。左手前、この山の足下が渡月橋。この写真では見切れているが、右手には京都タワーも見える。まさに京都盆地が一望できる山。岩田山モンキーパークはなぜか外国人に人気。客の8割は外国人であった。それにしても岩田山の麓から桂川(かつらがわ)は開けた盆地に向かって流れている。大雨が降れば洪水になり、弥生時代、このあたり一帯は水浸しとなった事だろう。桂川の向こう、嵯峨野がありその向こうが太秦(うずまさ)。前回紹介した広隆寺は双ケ丘(ならびがおか)の右手前の森。次回紹介する蚕の社(かいこのやしろ)は広隆寺のさらに後方の小さな森。5世紀以降は、ここから見える景色のほとんどが森か水田になったのであろう。平安京時代の京都盆地学研の鳥瞰イラストの本、「風水から見た平安京の図」に少し手を加えてしまいました。平安京の位置を中心に黒い円内くらいを当時の京都の範囲と見ました。オリジナルはかなり広域になっていたので・・。山陰道(白虎)のイラストのあるところがちょうど太秦(うずまさ)で、薄いピンクで円をしたあたりが秦氏が治水して水田を造っていたと想像できる範囲です。秦氏は京都盆地に根付き、左の桂川の治水工事をすると共に潅漑用水路を造り、京都盆地左に大規模な水田開発をしていたと推測。渡月橋 葛野大堰(かどのおおい)嵐山の渡月橋(とげつきょう)は、嵐山を代表する景色の一つであるが、夏に大雨で時々増水しているニュースを見かける。実は桂川(かつらがわ)は葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる堰(せき)ができる前はもっと酷い洪水を起こしては嵐山から下流域をメチャクチャにしていたらしい。下流からの渡月橋と嵐山渡月橋(とげつきょう)古くは葛野川(かどのがわ)と呼ばれていた川は「桂川」、「保津川(ほづがわ)」、渡月橋付近で「大堰川(おおいがわ)」、橋から再び「桂川」と何度も名前を変える。※ 大堰川(おおいがわ)の名は、大きな堰(せき)から来ているのは明白だ。因みにこの桂川は伏見区で鴨川と合流。大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となり大阪湾に繋がる河川だ。上流側からの渡月橋改めて見るとここからも比叡山が見えるし、太秦(うずまさ)もこの先に見えているところで、下流に向かって左岸が右京区嵯峨。手前の右岸が西京区で嵐山。つまり渡月橋の向こうが西京区の嵯峨であり、JR嵯峨野線や嵐電の駅がある。一方、右岸の西京区の方には阪急嵐山の駅がある。いずれも駅名は「嵐山」である。それ故、観光案内では渡月橋をひっくるめてこのあたり一帯を嵐山としたり、嵯峨嵐山としているようです。渡月橋からの上流、大堰川(おおいがわ)と小倉山(おぐらやま)写真、中心、椀をひっくり返したような小さな小山が百人一首の歌枕でお馴染み小倉山(おぐらやま)である。因みに山の手前、川の右(左岸)に小倉百人一首文化財団の時雨殿(しぐれでん)がある。橋から上流はちょうど西に当たるので逆光になってしまった。※ 今回の嵐山の写真は複数日に撮影したものです。季節も様々中には大雨の日もありました。一ノ井堰(いちのいぜき)と小倉山今は洛西用水(らくさいようすい)「一ノ井堰(いちのいぜき)」となっているが、ここがかつての葛野大堰(かどのおおい)である。※ 当時の堰(せき)は今は無いが、川底に当時の一部が残っているらしい。現在の堰(せき)はサイドに魚道がもうけられている。手前の白い器具はタービンのよう。ちょっとした発電をしているようだ。さらに手前の水路は洛西左岸幹線用水路らしい。弥生時代より川の周辺では稲作が行われていた。川が定期的に氾濫しているのだから土地が肥沃なのは確かだ。しかし年中氾濫していたのではたまらない。5世紀中頃、秦氏が葛野地方に住み着くと葛野川(かどのがわ)に堰(せき)を造ったそうだ。それが葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる堰(せき)である。また秦氏がおこなったのは堰(せき)造りだけではない。当時の堰(せき)はダムのようなもの。同時に堰(せき)から放水路が造られ、遠方の田畑に水をひく用水路となる潅漑(かんがい)工事もしている。1419年(応永26年)に描かれた桂川用水路図には法輪寺橋下流の右岸に「一ノ井」と云う名称で用水取入口が記されているそうだ。今とほぼ同一の場所に堰(せき)があり、室町時代には松尾、桂、革島等の農業灌漑用水として利用されていたのが解っているそうだ。京都市の看板より 多少色を付けました。もともと洪水対策用であり、さらにその水を川から遠い農地の潅漑に利用しようと言う一隻二丁の策である。堰(せき)はダムであり取水口になった。これにより嵐山界隈は大いに実りある稲作の土地に変わった。何より1500年以上も前にそんな大規模治水工事が行われていたと言う事が驚きである。今も農業用水として稲作や京野菜の為に利用されている洛西の幹線用水路の図。秦氏がもし葛野大堰(かどのおおい)を造らなければ、平安京への遷都もなかったかもしれない。少し前に琵琶湖疏水の事を特集したが、技術的な意味も含めて、桂川に堰(せき)が造られるのは、秀吉以降の時代までなかったかもしれない。それだけ秦氏が当時用いた葛野大堰(かどのおおい)構築の技術はすごかったらしいのだ。現在の一ノ井堰(いちのいせき)からの導水路右が嵐山公園。その向こうが桂川この導水路は再び桂川につながるのだが、途中から洛西右岸東幹線用水路と洛西右岸西幹線用水路に取水され、それは南下して桂川以西の西京区の方に流れている。保津川渓谷を下った船も堰(せき)があるのでここまでしか来れない。先ほども川の名称の所でふれたが、亀岡から嵯峨嵐山までを保津川(ほづがわ)と呼ぶ。ここが有名な保津川下りの終点なのである。JR嵯峨嵐山線や嵯峨野トロッコ列車で亀岡駅まで向かい、そこから船着き場に移動して川下りのスリルを楽しむと言うのが保津川の川下りである。嵯峨嵐山の楽しみの一つとなっている。(16km 2時間弱)因みに嵐山に下った後の舟は乗船場の亀岡市保津までトラックで運ばれて戻るらしい。蘇我氏と渡来人法隆寺にある聖徳太子をモデルとした長身の救世観世音菩薩像から発した疑問。もしや聖徳太子には渡来人のDNAが混じっていたのではないか?あるいは蘇我氏自体が渡来人だった可能性は?※ 実際蘇我氏の渡来人説と言うのは存在する。(多くの学者が否定しているが・・)蘇我氏が歴史の表に出てくるのは蘇我稲目(そがいなめ)(506年頃~570年)からだが、出身は大和の葛城(かつらぎ)とされている。そこは飛鳥地方の西の外れであるが交通の要所でもある。葛城川は大和川にそそぎ、それは大阪湾に繋がっている。そこは前回紹介した奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむくいせき)にほど近い。ひょっとすると纒向(まきむく)の都市国家時代(3世紀?)にはすでに豪族だったのかもしれない。一族の者を朝廷の后に組み込み、蘇我蝦夷(そがのえみし)や蘇我 入鹿(そがのいるか)の時代(6~7世紀)に蘇我氏は全盛を迎える。だが蘇我氏が台頭したのは渡来人を配下においていち早く大陸の技術を導入し、地方支配に成功したからのようだ。明日香村南西部、古代、檜隈(ひのくま)と呼ばれた土地は朝鮮半島からの渡来者が多く集まって居住していた地だそうだ。※ 彼ら渡来系集団は後に東漢(やまとのあや)氏と呼ばれる。檜隈(ひのくま)もまた葛城(かつらぎ)に近い。蘇我氏は彼らから文字を習い、鉄器や須恵器(すえき)など大陸のあらゆる技術や文化を学んで取り入れ、生産して中央に近づいて行ったと思われる。もしかしたら彼らの技術を学びそれらを国内生産して普及させると言う使命のもと、渡来系氏族の担当になっていた可能性もある。※ 須恵器・・古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器。蘇我氏と渡来系氏族の関係は支配と従属関係か? あるいは相互関係にあったのか?自分たちより文化の高い彼らを支配下に置くのは疑問である。蘇我氏と彼らの関係はほどよい友好関係と見るのが妥当だろう。当然蘇我氏と彼らの間に姻戚関係ができても不思議ではなかったと思われる。つまり、蘇我氏自体が渡来系でなかったとしても、蘇我氏の血脈に渡来系の遺伝子が取り入れられた可能性は限りなく大きいと思うのだ。※ 可能性として考えられるのは欽明天皇の妃となった聖徳太子の祖母、蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)や蘇我堅塩媛 (そがのきたしひめ)がそれぞれ渡来人の母をもっていたかもしれない事だ。双方の祖父母からのダブル遺伝子で長身になったのかな?なんて・・考えてみた ☆⌒(*^-°)v次回「倭人と渡来人」番外編で秦氏の祀った「蚕の社」を紹介。リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎少し間が開いて醸造祖神松尾大社を紹介しています。リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)Back numberリンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)
2017年08月15日
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想定していなかったが、太秦(うずまさ)の写真が日の目を見る事になった そして奇しくも全3部で3体の有名な半跏思惟像を紹介できてしまった。いつも書いているうちに方向性が変わり、当初予定の所に着地できないのが問題だけど・・ 今回の写真は秦一族が住み着いた京都太秦(うずまさ)から秦氏の創建した広隆寺、秦氏のお墓の一つ、蛇塚古墳から。蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)については次回番外で。今回もものすごく長くなってしまいました 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像気になる邪馬台国(やまたいこく)ヤマト王権以前の渡来人(帰化系氏族集団)秦氏の氏寺 広隆寺(こうりゅうじ)秘仏と黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)秦氏(はたうじ)はいつ頃渡来したか? 辰韓(しんかん) 秦(しん)と始皇帝太秦 蛇塚古墳(へびづかこふん)古墳はどうして消えたか?弥勒菩薩半跏思惟像、広隆寺バージョン 高さ124cm。国宝撮影が禁止されていたので広隆寺の冊子からの撮影です。日本の有名な半跏思惟像の一つである中宮寺バージョン(「倭人と渡来人 1」で紹介)よりもむしろ前回紹介した韓国の国立博物館に所蔵されている三国時代の半跏思惟像に近い形態です。素材は赤松。(韓国の像は金堂製) 日本の方に表記はありませんが、韓国の方の説明に新羅からの仏師が寺の創建にかかわっていると書かれていました。金属の型抜きされた仏像よりも、やはり細工が細かくできるので木彫の方が複雑な表情の表現ができるのだと思います。半跏思惟像は菩薩の、あるいは釈迦の瞑想する姿を示した像。それ故に仏像を彫った仏師も「仏師としての悟り?」 瞑想の中で一心に彫ったのでしょう。心打たれる格別な感慨を与えてくれる逸品で、いつまでもじっと見ていたい仏像です。広隆寺の仏像はほとんど製作年代がアバウトでこれも「飛鳥時代」とだけ・・。せめて西暦を入れてくれれば良いのですが・・。英語案内もないです。聖徳太子が秦氏に贈った像と言われ、広隆寺本尊となり、寺は創建されました。しかし、現在の本尊は弥勒様ではないようです。※ 寺は後から・・。秦氏に入る前に・・。気になる邪馬台国(やまたいこく)邪馬台国(やまたいこく)がどこにあったか? 論争は続いている。前回触れたが、三国志(儀、呉、蜀)時代の史書に書かれた魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)には末廬国、伊都国、邪馬台国から覇権された代官が筑紫に駐屯していた事は記されているが、肝心な邪馬台国の場所の記述については、なぜか特定できていない。記述のミスとも考えられ、九州説が有力であったようだが・・。まだ全容は見えていないが、奈良で近年発見され発掘が続いている纒向遺跡(まきむくいせき)がちょうどその時代にあてはまり、ひょっとしたら邪馬台国? との可能性が高いとされている。纒向遺跡(まきむくいせき)は奈良県桜井市の三輪山西麓にある。その地帯はもともと初期の古墳(前方後円墳)がたくさん発掘されている所。※ 古墳は3世紀中頃から登場。※ 纏向遺跡からは運河のような遺跡が発見されている。それは最終的には大和川につながる支流に繋がっていたのだろう。大和川は大阪湾に繋がっているので瀬戸内海から船でたどり着ける地と言う事。そこに見つかった集落の遺跡は、発掘するにつれ想像以上の規模の都市型集落跡だと解り、3世紀と言う推定年代から、邪馬台国の可能性が限りなく強くなったらしい。・・と、同時に奈良に3世紀には大きな都市があった事が証明されたのだ。倭(わ)の女王、卑弥呼(ひみこ)が存在したのは3世紀。弥生時代の終わりである。魏(ぎ)は今後の交易の印となるべく金印を贈った。そしてシャーマンである彼女の為に刀2口と貴重な銅鏡を100枚を贈っている。ところが、歴史資料はその邪馬台国からほぼ一世紀抜けている。中国で動乱があり、史書が無いのだ。次に日本の歴史が語られるのが5世紀。宋書による倭の五王の話。つまり前回冒頭で触れた「謎の4世紀」と言われる弥生時代から古墳時代に入るあたりの日本史の空白が問題なのである。邪馬台国からどうヤマト王権に進んだのか?卑弥呼は倭国動乱を治める為に女王となった。そして卑弥呼はそこそこ長命であったようだが、卑弥呼が亡くなるとまた動乱が起きたと言う。この動乱後にまた巫女が立って収まるが、動乱を起こした国の中にヤマト王権が入っていたのだろうか?あるいは邪馬台国と時を同じにして(大陸には知られていない)別の王朝があったと言う事か?ヤマト王権以前の渡来人(帰化系氏族集団)百済(くだら)滅亡と共に渡来人もまた増えたが、飛鳥時代以前にすでに帰化している渡来人もかなりいたようだ。その中には百済と同じように大陸での政変から国を逃れて日本に渡ってきたと思われる者もいた。亡命組の中でも秦氏(はたうじ)と東漢(やまとのあやし)は多くの民衆を従えて団体で渡来してきたとされている。双方とも日本書紀によれば第15代応神天皇(おうじんてんのう)の治世あたりに渡来?※ 東漢(やまとのあやし)は小氏族で構成されたor 渡来人集団の総称とも考えられる。いずれにせよ、彼らは進んだ大陸の文化を日本にもたらしヤマト王権の礎を造ったと想像される。秦氏の氏寺 広隆寺(こうりゅうじ)太秦(うずまさ) 広隆寺(こうりゅうじ) 仁王門撮影所でお馴染み京都の太秦(うずまさ)は、実は秦氏が渡来して土地を賜った場所なのだ。太秦古墳群と言うほど古墳が点在し、その墓の副葬品から渡来氏族のものと思われる遺物が出土していると言う。秦公寺(はたのきみでら)と別称もある広隆寺は秦氏と蘇我氏や聖徳太子との深い関係を示す寺でもある。寺の説明書(日本書紀による)では創建は推古天皇11年(603年)で山城最古の寺だそうだ。上宮王院太子殿(本堂) 1730年に再建推古天皇の治世に秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子より仏像を賜ったのが建立のきっかけだったそうだ。その仏像こそが、先に紹介した弥勒菩薩半跏思惟像、広隆寺バージョンである。秦氏は、すでに渡来してから事業に成功。一族はそれぞれ豪商になっていたらしいし、その財力により寺社建立だけてなく、朝廷の財源や平安京への遷都にも関わっていたらしい。秦河勝(はたのかわかつ)は、渡来して何代目かは定かでないが、当時聖徳太子の側近までしていたようだ。聖徳太子の仏教普及の為に彼は広隆寺を建設して協力したのである。広隆寺は、聖徳太子の建立した日本七大寺の一つだ。なぜ本堂を上宮王院と呼ぶのか不思議であったが・・。実はここの本尊は聖徳太子なのである。とは言え秘仏として公開されるのは一年に1度、11月22日の火焚き祭りの時だけ。秘仏と黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)秘仏の本尊(聖徳太子像) 冊子から撮影しました。聖徳太子の像が造られたのが1120年、平安時代後期。聖徳太子立像により、広隆寺は聖徳太子信仰の寺に変わったらしい。実は聖徳太子像が身に付けている黄色の装束に意味がある。古来より、歴代天皇が即位する時に身につけられた黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)が贈進されて着用。一天皇の御代に一着のみの装束と言う事になるらしい。※ 広隆寺で買った冊子にまさか写真が載っているとは思いませんでした。広隆寺は何度か火災に遭っている。その度に再興されているのだが、火災の度に、そこそこ巨大な仏像が運び出されたのか? 霊宝館(宝物館)には国宝や重用文化財に指定された仏像が多数展示されている。なかなか見応えのある仏像がそろっていた。霊宝館は有料。写真撮影は禁止ですが、行ったなら絶対入らないと損です。秦河勝(はたのかわかつ)夫妻の像 重用文化財 こちらも冊子から檜造り。藤原時代のものらしい。藤原時代? 広隆寺の書き方は万事こんな感じ。解りにくい。894 年の遣唐使廃止以後の3世紀(平安中期・後期)を藤原時代と呼ぶらしい。秦氏(はたうじ)はいつ頃渡来したか?秦氏の先祖とされる渡来人「弓月君(ゆづきのきみ)」は秦(しん)の帝室の後裔と伝えられている。※ 生没年不詳。実在かも不明。日本書紀には応神天皇14年に弓月君が百済? から来朝して窮状を天皇に上奏。弓月君は百二十県の民と共に日本へ帰化を希望していたとあるそうだ。応神天皇14年は西暦で283年。新羅の妨害があり半島を出られず、渡来したのは応神天皇16年(285年)とされる。疑問応神天皇の生誕を調べて見たら14代 仲哀天皇9年(200年)に生まれて応神天皇41年(310年)に亡くなった事になる。110年も生きたのか? 仮に神功皇后9年(209年)だとしても101歳になってしまう。(古事記の誕生年に誤りか?)また、次の16代仁徳天皇の年齢も問題だ。仁徳天皇の治世は87年に及んでいる。それが生まれたのが神功皇后摂政57年(257年)で亡くなったのが仁徳天皇87年(399年)だから142歳になってしまう。古事記の記述そのものが怪しくなるのであてにできない資料かもしれない。さらに、応神天皇の時代に百済はまだ無い。百済(くだら)(346年頃~660年)もしこの時代に半島から来たとするなら間違いなく辰韓(しんかん)(BC2世紀~356年)からだろうし、新羅になってからの渡来の可能性もある。辰韓(しんかん)朝鮮半島南部には秦からの亡命者が古くから移り住んでいたと言われている。特に1世紀~4世紀にかけての朝鮮半島南部は言語や風俗がそれぞれ異なる辰韓(しんかん)・馬韓(ばかん)・弁韓(べんかん)の3つに分かれていた。その辰韓(しんかん)(BC2世紀~356年)は中国の王室から来た娘が祖? 秦から前漢時代に渡来した者達が集まった国だったらしい。(それが後に12に分離。)辰韓人(しんかんじん)は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。これはまさに秦氏が日本にもたらした技術なのである。※ 新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」には秦始皇帝三世孫(孝武王)の後裔と記されているらしいが、「新撰姓氏録」自体が平安時代初期(815年)に編纂されたもの。秦(しん)と始皇帝最初に中国を統一した王朝として知られるが、それは長い秦時代(BC778年~BC206年)の最後である。BC221年、初めて統一に成功すると自ら始皇帝(しこうてい)(BC259年~BC210年)と名乗る。我々も良く知る万里の長城の建設や、等身の兵馬俑(へいばよう)を造った皇帝だ。が、始皇帝が亡くなり彼の息子が二人? 即位するも彼の死から3年ほどしてBC206年に秦は滅亡した。その秦の始皇帝には当然たくさんの子女がいたはずである。前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された「史記」の李斯列伝(りしれつでん)には始皇帝の公子は20人以上いたが、二世皇帝が公子12人と公主10人を殺したことが記されているそうで、代が変われば命が危ぶまれて逃げた子弟も多かったのかもしれない。あくまで私の推論であるが、秦氏が半島から来た年代は、辰韓(しんかん)が滅する356年あたりの可能性が高いと思う。少なくとも統一新羅(668年~900年)が始まるずっと前。振り幅が広いが、秦氏の渡来は新羅の勢力に関係していると思われるからだ。もし辰韓(しんかん)滅亡の時であるなら、日本は16代 仁徳天皇(にんとくてんのう)の治世(仁徳天皇44年が356年)にあたる。そう言えば日本は3世紀中頃から古墳が作られ始めるが、大阪にある仁徳天皇陵は最大規模の前方後円墳である。秦一族は治水などの工事もしているし、古墳ももたらしている可能性もある。今回紹介する太秦(うずまさ)にある蛇塚古墳がその一つで、今は見る影も無いが秦氏の墓も前方後円墳なのだ。ひょっとすると仁徳天皇陵の造作には秦氏の技術があったかもしれない。帰化のお礼に極めて大きな立派な墓を造ったのかな? 太秦 蛇塚古墳(へびづかこふん)太秦の面影町にある古墳の残骸が蛇塚古墳である。蛇が住み着いていた事から蛇塚と名前が付いたらしい。今後被葬者が解れば、名前は変わるかも・・。実は密集した住宅街のど真ん中にある。しかも今は破壊されて玄室部分の一部しか残っていない。もとは立派な前方後円墳であったそうだ。しかも時代は古墳時代最後の7世紀始め頃と推定。1920年(大正9年)頃はまだ畑に埋もれながらも前方後円の墳形は残されていたらしい。ところが地主が土地を切り売りしてしまったようだ。1936年(昭和11年)、さらに地主により封土が取り払われ、玄室までもが除去されようとしていた。突き当たりが蛇塚古墳。古墳手前の道までが前方後円墳の前方部分の山があった所のようだ。今は蛇塚古墳では前方のしかも玄室部分しか残っていない。が、上空からの写真を見れば、連なった家をひっくるめて確かに前方後円墳型になっているのである。誰かドローンで最新の映像を撮影してほしいものだ。道も狭くて入り切らない。撮影も大変なのだ。ところで、学者達は現れた石室を見て驚いたようだ。明日香村にある蘇我馬子? の石舞台古墳に匹敵する規模だった事が判明したからだ。玄室のサイズは全長17.8m、長さ6.8m、幅3.9m、床面積25.8平方m。蛇塚古墳の全長は約75m、前方部幅約30m、後円部径約45mと推定。これだけの石室の墳墓を作れる同時代の者は、よほどの財力を持っていた。蘇我馬子に匹敵する大物は? 太秦に本拠を持っている秦河勝(はたのかわかつ)しか考えられない。と。言う訳だ。墳墓のところには京都市の看板が立っているが、それにしてもこの墳墓の扱いはヒドイ。確かに巨大な石が今にも転げそうな危険な状態ではあるが、もう少し手を入れて金網ももう少し中が見えるような配慮とかできないものだろうか?金網に掛けられていた町会の看板もいかがなものか・・。周りの住宅も京都府が買い上げてもう少し元の形を復元すれば良いのに・・と思ったりして・・。もしここが本当に秦河勝(はたのかわかつ)の墳墓であったなら、それはものすごい発見である。古墳はどうして消えたか?646年(大化2年)に出された詔による。従来の墓の規模を縮小し、簡素化すると言う薄葬令が出されたからのようだ。これにより巨大な古墳は消える。故に古墳時代は3世紀半ばから646年までと言う事になる。今回も長くなったので切りました。次回番外編として出すか考え中。秦氏の創建したやはり太秦にある蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)を紹介します。「倭人と渡来人」シリーズは間があきながら1~7までとなります。リンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)
2017年08月07日
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今回は「倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)」の続きから。本を何冊が読んだのですが、研究はまだ続いているようで近年の発掘により古代史はもっと変わるのだと実感しました。学者の方の意見もそれぞれ、みなさん自分の信じている方に寄せて行く傾向があり、矛盾を感じた内容も・・。読んだ事により、より迷走してしまった今回でした f^^*)当初はシンプルに蘇我氏のルーツとかかわる秦氏のルーツで終わらせる予定が、思いの外、古来日本には多くの渡来人が渡ってきていて、朝鮮半島との交流がかなりあった事が解りました。(逆もしかり)さらに、秦氏のルーツはヤマト王権初期にかかり、ではヤマト王権はいつからか? と言うと実は「謎の4世紀」と言う日本史の抜けた歴史に当たりました。「謎の4世紀」は邪馬台国からヤマト王権に移行する時期なのですが、実は邪馬台国とヤマト王権は全く別物で、繋がっていなさそうなのです。謎の4世紀に何があったのか? それはどこにも文献が無いので解らないようなのです。※ 古事記や日本書紀は8世紀頃の編纂なので必ずしも実際の真実を伝えていないからです。※ 中国の方も動乱期で書かれた書物が無い。そんな訳で歴史を遡っていたら、どこからまとめて良いか解らなくなってしまいました とりあえず今回は古来日本の海外との交易の実態と百済滅亡後の渡来人をまとめて見ました。歴史が後先になりますが、秦氏については次回に・・。今回写真は韓国の国立中央博物館から古代史にかかわる遺物を紹介します。韓国の国立中央博物館は、大方の所で写真撮影が許可されているのです。弥生時代以降の朝鮮半島とのかかわり方が少し見えるかもしれません。倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)写真 韓国 国立中央博物館(National Museum of Korea)からいろんな渡来人朝鮮半島の倭人外交の窓口から防衛施設としての太宰府へ大宰府の大要塞化と百済からの難民 百済の最後、白村江の戦い 百済からの亡命者三国時代の半跏思惟像 金銅製(高さ 93.5cm)日本の半跏思惟像は弥勒菩薩とされているが、こちらの半跏思惟像は出家前のシッタータ太子そのものらしい。※ シャカ族のシッタータ太子は出家して、悟り、「目覚めたる者」、仏覚者となった。仏陀(ブッダ)です。こちらは四苦(生老病死)について悩み、瞑想にふける出家前のシッタータ太子の姿と解釈されている。中国では5~6世紀、朝鮮半島では三国時代の6~7世紀に流行したスタイルだとか。次回紹介する渡来系氏族である秦河勝(はたのかわかつ)が京都太秦(うまさ)に建立した広隆寺に所蔵される弥勒菩薩半跏思惟像(木彫)に姿形(頭上に三山冠or蓮花冠と呼ばれる低い冠など)が非常に似通った仏像である。但し、日本の像は木彫。こちらは金銅製。いろんな渡来人古来日本には、大陸より多くの渡来人がやって来ていたようです。正式な渡来人には当てはまりませんが、弥生人の存在と彼らの水稲作農法は大陸からの伝来(でんらい)です。弥生人そのものが大陸の者と倭の(縄文人?)のミックスとも位置づけされているようです。では俗に言う渡来人(とらいじん)とは何か? ヤマト王権に入る4世紀以降に大陸や朝鮮半島から日本に移住した人々をさすようです。彼らの来日理由はそれぞれ。大陸での派閥争いの末に国にいられなくなり逃げて来た者。正式に亡命と言う形でやってきた者もいただろう。侵略や、海賊の一派としてやって来て住み付いた者もいただろうし、技術者として派遣されて来た者達もかなりいたようだ。当時の倭や朝鮮半島、あるいは中国の政治的事情があったのが解る。逆に日本海の海賊として倭国の者が大陸の人に認識されていた事実がある。※ 3世紀にはすでに朝鮮半島南端に倭人の済む土地があったと言うし、倭が半島で軍事的支配権を持っていた時代もあったとか・・。原三国時代 鴨型土器(高さ 32.5cm) 原三国はBC1~4世紀中頃。百済や新羅が国家としての体裁を整える頃を指すらしい。まさしく倭に邪馬台国があり、交易が始まった頃の物かもしれない。鳥は穀物豊穣など天と地の媒介者。また死者の魂を天に導く者として製作? 副装品の水挿しか? 酒器か?下の土器の来歴はわからない。馬やイノシシ? のような動物が絵が描かれた珍しい土器。博物館のホームページの収容作品リストにも解説が無かった。新羅 騎馬人物形土器人間、動物、物の形をかたどった象形土器は、祭祀のような儀礼用。死者の安らかな眠りと死後の世界に対する願いが込められたものだそうだ。墓からの副装品らしい。※ もしかしたら、これはソグド人の商人の姿かもしれない。漢代(前漢 (BC202年~AD8年) にはすでにソグド人との交易の話しは記されている。当時新羅でもすでにペルシャとの交易があったのだろう。ソグド人については以下に書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)朝鮮半島の倭人朝鮮半島にはない異質の倭人の物と思われる弥生式土器が出土している痕跡からすでに倭人が紀元前に朝鮮半島に渡って集落を形成していたと考えられている。※ 実際BC4~BC3には双方の交易の関係から朝鮮半島南部への移住及び入植者が増えたようだ。284年頃書かれたと推定される三国志の魏書東夷伝倭人条には、倭人の北限が朝鮮半島に達していた事が記されているそうなので倭人が弥生時代に大陸に進出していたのは間違いない。倭人に関係の深い任那加羅(みまなから)が歴史の表に出てくるのは3世紀以降の事。※ 世界史年表図の4世紀には加羅(から)が表記されている。任那と加羅はしばしば分けられて表記されているが、もとは小さな部族が点在した小国家郡だったようで、5世紀に政治勢力が2分されて南の金宮伽耶が任那(みまな)、北の高霊(こうりょう)が加羅(から)になったと言う説と、伽耶諸国の総称が任那(みまな)である。との説がある。日本書紀(720年編纂)には4世紀頃朝鮮半島南部の任那(みまな)に日本の統治機関「任那日本府」があったとされている。4~5世紀前半の朝鮮半島南部思う以上に古来より大陸や半島との交流のあった事が解る。何しろ朝鮮半島は非常に近接しているからね。※ 学者の中には「往来には小舟が利用されていたはず。」と言う人がいたが、手こぎ船に帆の付いた大人数が乗れるガレー船の歴史はBC3500年に遡る。シルクロードを通じて中国は西方の諸国とつながっていた。西方の人もまた中国や半島に渡来していたと言う史実もあり、思う以上に造船技術も進んで大型化していたのでは? と思う。青銅印章 ?邪馬台国の卑弥呼が金印を賜った。それは今後の外交時、その印を持って正式な通商とする為のハンコらしいが・・。金印の方は摩耗が少なく使った形跡がほとんとどないらしい。上の印についての説明も中央博物館の関連には無ったが、何らかの公的文書の印だったのだろうか?金よりも実用的な気はするが・・。それにしても印鑑の文化ってけっこう古いんですね。百済 青銅鐎斗(せいどうしょうと)青銅で3本の足と把手をつくってつけた北斗七星形の容器、容量は1斗。こうした鐎斗(しょうと)は4~5世紀代に百済と中国南朝との交流によって中国青磁と一緒に中国南朝から伝わり、百済の地方統治過程で地方の有力な勢力に伝えられた威信財(いしんざい)だそうだ。※ 威信財(いしんざい)・・所持している事が名誉となる物。あるいは冨の優越を示すアイテム。資料検索の過程で見つけた。東京国立博物館にも同じ物が存在しているようだ。こちらのものは摩耗が激しいが、東京の物は龍の頭部もはっきりしていて美品。尾? のような装飾も付いていた。三国時代 百済金銅大香炉 レプリカ? 高さ61.8cm香を焚く為の穴は蓋の鳳凰の胸辺りに2つ、山の峰の周りに10。計12。蓋の最上部には鳳凰が、その下には五人の楽士が楽器を演奏している姿が彫刻。74の峰の彫刻には木、岩、川、滝、さらに虎、鹿、象、猿など42匹の動物や6種類の植物、12人の人物が表現。胴には蓮のつぼみと二人の人物、羽の付いた魚、鳥などの27の動物が彫刻。脚部はダイナミックな姿勢の龍の装飾。外交の窓口から防衛施設としての太宰府へ学校で学んだ歴史の中に鎌倉時代の元寇(げんこう)の襲来があるが、それ以前から北九州や日本海沿岸は地理的に侵略者の入りやすい場所であった。太宰府(北九州筑紫)と言うと、大宰府の長官として派遣された菅原道真公を思い浮かべるが、そのルーツは、古来(邪馬台国の時代よりも前)倭国の王が侵略者防御の要塞を組んだ土地であり、逆に大陸との外交や交易の窓口として朝廷の出先機関が置かれていた重要な要所であった。284年頃書かれたと推定されるの三国志の魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)には末廬国、伊都国、邪馬台国から覇権された代官が駐屯していた場所と記されているそうだ。つまり外交の公式窓口がヤマト王朝以前からそこに存在していたと言う事実がある場所だ。その大宰府の大要塞化が進んだのは飛鳥時代、白村江の戦い(663年)以降だと言う。※ 白村江の戦い(663年)は日本も参戦した朝鮮半島の勢力争いである。※ 百済帰化人の協力の下、対馬や九州北部の水城や瀬戸内海沿いに朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、特に北九州沿岸は開放的な造りで外敵が侵入しやすく防人(さきもり)を配備して慎重を重ねている。つまり北九州(特に博多湾)は良くも悪くも渡来人の入り口でもあったと言う事だ。※ 7~10世紀に朝鮮半島北におきた渤海(ぼっかい・Balhae)(698年~926年)との交易でも朝廷は北九州を示唆したそうだが、北九州は遠く、海難事故も頻発するので新潟の糸魚川あたりに航路を取って日本に来ていたようだ。(韓国でルート地図発見)。余談であるが、韓国では好んで糸魚川でとれる翡翠を調達していた。三国時代 新羅の金冠 高(冠)27.3cm新羅(BC57年~AD676年)は華やかな黄金の文化を開花させた国だったらしい。「輝かしい金銀彩色の国」と歴史書に書かれているそうで、実際、古代新羅の墓からは様々な黄金製の装身具が出土しているそうだ。半島では翡翠はとれないらしいから、もしかしたら日本の翡翠で造られた勾玉(まがたま)かもしれない。耳飾り 6世紀新羅もしかしたら、この細工はペルシャの物かもしれない。先に触れたソグド人がペルシャから運んで来た金細工かも・・。首飾り 6世紀新羅大宰府の大要塞化と百済からの難民百済の最後、白村江の戦い歴史的に案外重要なのが、朝鮮半島で起きていた百済の攻防である。先にふれた白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)に日本は参戦しているのだ。朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の三国の均衡がやぶれ、中国の唐と新羅の連合軍に百済は攻め滅ぼされる事になる(660年)。300年にも及ぶ百済との関係、しかも、百済の皇子は人質の体で日本の宮廷にいた。※ 百済最後の王(第31代)義慈王(ぎじおう)(599年~660年)(在位:641年~660年)の皇子の二人。扶余 豊璋(ふよほうしょう)と百済王 善光(くだらのこにきし ぜんこう)中大兄皇子(天智天皇)は百済再興を支援して661年から3年続けて百済援軍を日本から送ったのである。※ 第1派、1万余人。船舶170余隻。(これに皇子(豊璋)も乗っていた。) 第2派、2万7千人。軍主力。第3派、1万余人因みに倭国の方も、661年、斉明天皇が崩御し、即日中大兄皇子が称制。※ 即位は668年。翌662年が実質天智天皇元年となっている。結果的には白村江の戦い(663年)で日本もろとも敗戦。朝鮮半島の領地や権益を失っての帰国となったようだ。百済滅亡は政治や統率不足など王の采配不足。自滅に近かったらしい。百済からの亡命者白村江で大敗した倭国軍は、亡命を望む百済遺民を船に乗せ帰国。先に述べたように報復を恐れてか? 天智天皇は北九州の防備を固めると共に、摂津国難波にあった宮を667年に内陸の近江国滋賀郡大津(近江大津宮)へ遷都している。またこの時、百済最後の王(第31代)義慈王(ぎじおう)の息子で日本に来ていた善光はそのまま日本に残り敗戦が決まると帰化し、百済王族として豪族の待遇を受けている。天智天皇の御代に起きた朝鮮半島の攻防は多くの日本への渡来人をうむことになった。しかし、百済への支援はヤマト王権初期にもある。先ほどの任那加羅(みまなから)の話につながる。日本の朝鮮半島進出のきっかけ? 4~5世紀頃、中国が宋の時代の話だ。日本がいかに百済を大切にしていたか良く解るし、貿易以上の関係もあったのかもしれない。龍山(よんさん)にある韓国の国立中央博物館国立中央博物館に行ったのは4年くらい前だが、入場は無料。きれいで見やすく展示品の時代が一目でわかるような配慮がされている。収蔵品も多く2日通って見てきました。年表では上段が西欧。次に韓国、年史が入り、その下に中国、日本と、各国ポピュラーな出土品などが合わせて写真付きで載せられている。これはとても良いアイデアだ。惜しいのは、ハングル表記がほとんど。せめて英語の説明書きがもっとあったらよかったのに・・。博物館は頼めば日本語のできる学芸員の方が案内してくれるので時間があるならそうした方が良い。「倭人と渡来人」 次回につづくリンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ「倭人と渡来人」シリーズは間があきながら1~7までとなります。Back numberリンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)
2017年07月31日
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ラストにリンク先追加しました。聖徳太子は何者だろう? そんな疑問から始まった探求は仏教の日本伝来の話まで行ってしまった。以前(2015年4月) 「法隆寺 (柿食えば・・の鐘の件)」で、すでにチラッとふれているのですが、聖徳太子が渡来系ぽいな・・。と言う所から発して、飛鳥の時代にすでに来日していた渡来人を追求した感じです。Break Timeネタの軽いつもりで始めたけど、ぜんぜんBreak Timeじゃなくなりました 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)法隆寺の救世観世音菩薩像アルカイック・スマイル(Archaic smile)とアルカイック期の影響仏像の誕生仏教の伝播日本へのルート日本への伝来倭(わ)の国から日出処(ひのいずるところの)国へ聖徳太子と蘇我氏の系譜法隆寺に行った時の事。宝物館で救世観世音菩薩(くぜかんぜおんぼさつ)を拝観。それは東院伽藍(とういんがらん)の中庭にある夢殿(八角円堂)の本尊である。もともと東院伽藍は聖徳太子の住まいのあった所。そこに聖徳太子供養の為の堂として夢殿は建立された。739年(天平11年)実は、その夢殿の本尊である菩薩は長い間秘仏しとて開帳さえされないままずっと白布にくるまれて閉ざされた厨子の中に眠っていた。どうやら災いが起こるとされて何百年も開かれて来なかったかららしい。それが世に再び出たのは明治の事。1884年(明治17年)その幻にも近い秘仏を開かせたのが明治政府のお墨付きをもらって調査に来たアメリカの東洋美術史家であったフェノロサと当時弟子であった岡倉覚三(後の岡倉天心)である。※ アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)(1853年~1908年)ハーバードで政治や哲学を学び東大で教鞭を執る為に来日。東洋美術史家になるのは日本に来てから。※ 岡倉 天心(おかくら てんしん)(1863年~1913年)日本美術院を創設。近代日本における美術史学研究の開拓者。※ 東院伽藍の夢殿は毎年春と秋の特別開帳となっている。国宝3体 救世観世音菩薩立像(飛鳥時代) 行信僧都坐像(750年) 道詮律師坐像(876年)※ 法隆寺の国宝は全体で17件ある。法隆寺の救世観世音菩薩像その救世観音(ぐぜかんのん)の制作年は7世紀前半の飛鳥時代と推測され、聖徳太子の念持仏であったとされる一方、その御影は太子 等身の像とも言われている。つまり、この救世観世音菩薩像のモデルは聖徳太子かもしれないと言う事だ。※ 聖徳太子(しょうとくたいし)(574年~622年)本来菩薩に性別は無いが、見た目が非常にスレンダーで、女神のようにも見える。が、何より気になったのはその長身ぶりである。身長178.8cm(本家からの引用)実際聖徳太子は、非常に背の高い人物だったらしい。今なら普通に背の高い人もいるね・・とスルーする所であるが、倭人(わじん)と呼ばれていた弥生人(やよいじん)の系譜からすると話が違う。倭人は非常に小柄な民族だとされていたからだ。聖徳太子の身長はどう考えても異国人。当時はすでに渡来系の氏族が宮廷に寄り添って活躍していた時代。ひょっとして? と思ったわけだ。まずはその救世観世音菩薩(くぜかんぜおんぼさつ)を紹介します。撮影が禁止されていたので、参考の為に雑誌等から持ってきました。救世観世音菩薩(くぜかんぜおんぼさつ) 国宝法隆寺 宝物 救世観世音菩薩(ぐぜかんぜおんぼさつ)素材は楠(くすのき)の1本造り。その上に白土の下地(胡粉?)を塗り、漆をかけて金箔を押している。クスノキは防虫効果もあり、飛鳥時代の仏像ではポピュラーな素材らしい。杏仁形の目(アーモンド・アイ)と口角の上がった独特な微笑みが特徴のアルカイック・スマイル。そしてシンメトリー(左右対称)な造作の立ち姿。この菩薩像が北魏様式のタイプだと位置づけされる由縁である。アルカイック・スマイル(Archaic smile)とアルカイック期アルカイック・スマイルとは、古代ギリシャのアルカイック期の石像がたたたえた特徴的な微笑みを指している。(ギリシャ彫刻ではお馴染み)。アルカイック期はBC8世紀から始まり、ギリシャがアケメネス朝ペルシアに侵略されたペルシア戦争中BC480年までを指しているのだが、その時代はギリシャの文明も大きく変格した時期なのである。エジプトやメソポタミアの巨大な彫像の影響を受け、彫刻ばかりか陶芸などにもオリエントの影響が現れた時期だ。蓮華座に乗っているのは宝珠? 非常に珍しいタイプのようだ。 中には香炉だと言う人もいるがクッションに乗せられた宝珠であろう。そして宝珠から霊気が登っている・・と言う所かな?東院伽藍入口 見える奧の屋根が夢殿斑鳩に聖徳太子の宮殿が建てられたのは601年(推古天皇9年)太子は仏教による平和国家の建設に邁進。太子は622年(推古天皇30年)2月22日に49歳で薨去(こうきょ)された。643年、この宮殿で太子の息子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)は蘇我入鹿(そがいるか)に襲撃される。辛くも一家は逃げるがその後一家全員が自害して上宮王家は断絶。斑鳩宮は廃墟となった。そもそも争いの原因は当時の後継者選びの悪しき問題らしい。739年(天平11年)、廃墟の跡を憂い(うれい)た行信(ぎょうしん)は東院の伽藍を建設。それが今の東院伽藍である。夢殿屋根は1230年の大修理で改造されている。巨大な厨子となっている八角円堂の中に先ほど紹介した太子の御影、救世観世音菩薩(くぜかんぜおんぼさつ)が安置された。夢殿の中には僧、行信の座像が置かれ堂を見守っている。仏像の誕生そのアルカイック(Archaic)期の影響はギリシャの販路拡大とアレキサンダー大王(BC356年~BC323年)の遠征によって再びメソポタミアを超えてさらに東方に伝わる事になる。奇しくもインドのガンダーラがギリシャの植民地となり、古代ローマの影響やエジプトの影響も受け、本来無かった仏像と言うものが誕生したのである。仏像が初めて誕生するのはBC1.5世紀頃。初期の仏像は、やはりギリシャ・ローマの風貌だったと言う。等身サイズの仏像が現れたのはエジプトの石像の影響らしい。仏教の伝播一方、仏教自体はBC6世紀 ~BC5世紀頃に北インドで始まり、まずガンダーラやセイロン島の方にまで伝播。その後ガンダーラからヒンドゥークシュ山脈を越え、パミール高原を越えて西域に(北伝ルート)。セイロン島からは海路、東南アジア諸国に伝播(南伝ルート)。中国へは北伝ルートと南伝ルートの両方で1世紀頃には伝わっていたそうだ。そして仏像もまた北伝ルートと南伝ルートでそれぞれ様式の違う仏像が誕生したのであるが、中国に残る古い仏像や仏蹟は北魏時代(386年~534年) の敦煌、雲岡、竜門などの北伝系の物だそうだ。10世紀以前の仏教の東伝と諸宗教の弘布 (吉川弘文館 「世界史年表・地図」 からの引用)日本へのルート伝播の経路を考えると、北伝ルートで秦の時代(BC3)に中国大陸に伝播? 南伝ルートではおくれる事、前漢時代(BC2)に中国大陸に伝播? そして後漢時代(AD2)に中国全土に広がった?さらに4世紀後半頃、中国は前秦(ぜんしん)と東晋(とうしん)時代、前秦(ぜんしん)から朝鮮半島北ルートで高句麗に伝播。東晋(とうしん)からは海を越えて朝鮮半島南の百済(くだら)に伝播して行ったと考えられる。※ 日本に伝播する頃には前秦(ぜんしん)と東晋(とうしん)は北魏(ほくぎ)と宋(そう)に代替わりしていたかも・・。日本へは朝鮮半島の高句麗(こうくり)→新羅(しらぎ)を経たルートと、百済(くだら)からのルートがあったはずだ。なぜなら仏像は高句麗(こうくり)→新羅(しらぎ)経由の北魏様式と百済(くだら)からの南朝様式に分けられるからだ。476年頃 高句麗 最大の販図(ウィキペディアから借りてきた資料に矢印追加しました。)倭(わ)が日本です。地図の関係上北九州上陸になりましたが、どこから入ったかは不明。日本への伝来飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時(日本書紀) と言うのが一般的な説だ。※ 欽明天皇(きんめいてんのう)(509年? (継体天皇3年)~571年(欽明天皇32) 聖徳太子の祖父にあたる。仏教を日本に広めたいと言う活動の表の第一人者が聖徳太子(574年~622年)であった。その太子の伝記により仏教は538年にはすでに日本に伝わっていたとしている。書ではなかなか形に見えないが、仏像から見ると、初期の飛鳥時代に伝来した日本の仏像は、渡来人により製作されたものなので平安時代以降に日本人仏師らが造像した仏像とは歴然と違う。救世観世音菩薩像しかり、中宮寺や広隆寺の半跏思惟像もしかり、大陸の影響が色濃く出ていて、風貌もエキゾチックなのである。中宮寺金堂ちょっと変わった造りの金堂の正面に弥勒菩薩は鎮座している。当然撮影は禁止なのでパンフ等から写真を持ってきました。法隆寺に隣接する中宮寺は、もともと聖徳太子の母、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)生年不詳~622年(推古天皇30年)の為に596年(推古天皇4年)に建立。その宮殿を後に寺としたもの。太子が建立した7つの寺の1つ。中宮寺半跏思惟像 如意輪観音像材は全て楠(くすのき)高さ158cm。当初は白木に胡粉彩色(ごふんさいしょく)だったらしい。装飾物が失われているが、当初は宝冠をつけ、瓔珞(ようらく)など装身具も付いていたそうだ。倭(わ)の国から日出処(ひのいずるところの)国へ倭(わ)は、もともと中国側や朝鮮側の国から呼ばれていた呼称。蔑称(べっしょう)とも取られるが、とても小さい民族・・と言う意味での倭(わ)人と言う説もある。大和統一の政権ができると倭(わ)は和(わ)となり、尊称の大が加えられて大和(やまと)となったらしい。日本が随(ずい)(581年~618年)や唐(とう)(618年~907年)と交易を始める頃には倭は消えたようだ。その理由が第2回遣隋使として小野妹子(生没不明)を派遣した時に聖徳太子(574年~622年)が持たせた書状にもあったようだ。「日出処天子至書日没処天子へ・・・」日の出る国の天子から日の沈む国の天子に・・。対等の立場で交易しましょう。と言う意味あいが込められた書き出し。と、解釈されている。※ 余談だが、当然怒った隋の皇帝は怒りの書状を書いた模様。しかしその書は帰途に紛失。内容は不明のままとなった。太子の手紙のおかげ?「日の辺に在るを以て日本とする」と言う国号が生まれた。つまり日本の語源は「日出処天子」から転じたと言う事だ。(701年(大宝元年)の大宝律令で「日本」と正式決まった)その「日本」の国号は中国が唐(とう)の時代に入ってから定着されていく。ところで最初に戻って、聖徳太子の御影と言われる救世観世音菩薩像の長身ぶりであるが、教科書に出ていた「聖徳太子および二王子像」 図の謎は理解できた。唐本御影(とうほん みえい) 聖徳太子および二王子像右 殖栗王(えぐりおう) 左 山背大兄王(やましろのおおえのおう)1878年(明治11年)法隆寺より皇室に献納された。なんで他の2人より背が異様に高いのか? 敢えて主役を強調したのか? と思っていたが、実際ずば抜けて太子の背が高かっただけなのだろう。聖徳太子と蘇我氏の系譜ここで聖徳太子の系譜を見ましょう。蘇我氏の主要な血筋を紫で書き込みました。一目でわかる蘇我氏の血が濃い血統です。飛鳥時代に活躍した豪族である蘇我氏の蘇我稲目(そがいなめ)を筆頭にしています。※ 蘇我稲目 生年不明 506年(武烈天皇8年頃)?~570年(欽明天皇32年)実は豪族の中でも、仏教受容の先頭を切ったのが蘇我稲目(そがいなめ)です。仏教の本格的流入で論議が始まったのが欽明天皇の治世(在位:539年~571年(欽明天皇32年)。蘇我氏と物部氏の二極体制(大伴氏はすぐに失脚)の中、仏教の奨励派(蘇我氏)VS仏教排斥派(物部氏)の争いに。太子はその流れから仏教奨励にまわった可能性もありますが、何より、国民をまとめる精神的柱としての宗教の導入の必要性を感じ積極的な仏教文化の導入と新しい統一国家を目指したのだと思えます。なぜか仏教方面に話しが向かってしまいました。本当は渡来人の話にしたかったのに・・。聖徳太子と仏教は切っても切れない関係なんですかね。次回こそ渡来系の豪族についてふれます。そして写真はペルシャのガラス博物館から当時のローマングラスでものせようと予定しています。少し間があいている為にリンク先のせました。リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツリンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎倭人と渡来人 6と7は7かなり間が開いています。リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)法隆寺リンク 2011年夏 クイズここはどこ? シリーズ 1リンク 聖徳宗の総本山 法隆寺 1 法隆寺縁起リンク 聖徳宗の総本山 法隆寺 2 聖徳太子遣隋使と遣唐使については「京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化」の中、「公式の外交使節団(遣隋使と遣唐使)」で詳しく書いています。リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化
2017年06月23日
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