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一カ月すっ飛ばしてしまいました m(_ _;)mストレス溜まる事件が発生。今年の私も忙しい。実は2月初旬に高齢の伯母が転んで骨をつぶしてしまい急遽手術。伯母が搬送された病院までは遠いし。入院手続き、手術同意書、手術立ち合いなどその度に行かなくてはならない。さらに施設に必要な物を取りに行かなくてはならない。手術を控えている私には、ちょっと辛い通いをしている最中です。(退院のメドも立っていない。)高齢の伯母に子供はいない。夫も昨年なくなり身内は結婚前の兄弟姉妹のみなのだ。兄弟も半分は死別し、残る姉妹も高齢になりつつあり「誰かいない?」で一番暇そうな私に声がかかったのだ。(病院関係は親族でなければ代行できないのです。)コロナやインフルの再発から面会はできないが、個室で携帯が使える伯母からはメールや一方的な電話が毎日複数回。毎日何かしら買っては送っている。行かない日でも翻弄されてる毎日なのです。そもそも伯母は女王様タイプの人だったらしい事が判明。昔チヤホヤされていたのかもしれない。わがままで、注文も多い。感謝の言葉よりもまず文句を言う人。自分の置かれた立ち位置も考えず、常に上の目線から人を非難する人。こんな人だとは思わなかった・・。子供の時に見ていた伯母は背の高い素敵な大人の女性だったから・・。今は気落ちしているだろうから、優しく接しなければ・・と思っていたが、病院から「食事も薬も拒否して逆上している。」と電話も・・。「姪御さんから何か言って。」「私には無理です。そもそも耳が遠いから声は届きません。」仕方ないからご機嫌伺いのメールを送っておく。メールの返事は翌日の夕方。一転してしおらしいメールが返送されてきていた。そんな訳で夜がメインの作業時間なのに、精神と体力の消耗による疲労で一瞬にして座ったまま寝ているこの頃なのです気を付けないと、うっかり私の方が先に逝きそうです。さて、アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí)の続きです。今回はまだ未紹介であったガウディ作品、コロニア・グエル(Colonia Güell)教会から・・。エウセビ・グエルの繊維工場の為に造られたコロニー内の教会です。観光ではあまり行かないかもしれませんが、世界文化遺産に登録されています。前回、ガウデイの芸術性を考察・・なんて言ってましたが、突き詰めたら建築家ガウディのすごさが見えてきました。見るのは一瞬。でも、内容は凄いのです。建築家志望の人は「一見の価値あり教会」です。ガウディは芸術家と言う以前に建築家。建築家としての究極を突き詰めた人であったかもしれない。と言うのがテーマです。この教会を建設するにあたり、ガウディが求め導いたのは数学的考察と実践による証明。ガウディは数学の公式から導いた構造の上にガウディしか想像できない世界感を魅せた造形物で飾った。つまり、ガウディは非常に想像力のある芸術家タイプではありますが、ただの創造物を造り出すだけの人ではなく、実際に建築家としての理論的な構造がベースに据えられている事が最大の特徴なのです。要するにガウディ作品は、夢のような根拠の無い理想の産物では無いという事です。彼の作品は、未完にしても、すべて現実に完成できる作品なのです。その上で、ガウディはおよそ普通の人では考えもしなかったような非常に斬新奇抜(ざんしんきばつ)な発想の建物を多数世に出した。建築家が芸術家に転身したのか? それとも建築を芸術に高めた人なのか?と、言う点で迷う人です。アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 コロニア・グエル教会とカテナリー曲線エウセビ・グエルの工業コロニー(industrial colony)コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の建設未完の訳グエル公園住宅の販売不振問題のグエル公園の家コロニア・グエル(Colonia Güell)教会カテナリー曲線の幻の尖塔カテナリー曲線(catenary)カテナリー曲線の発見者教会内部聖具と調度品デスマスクからコロニア・グエルの末路アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)ガウディの手掛けた教会はサグラダ・ファミリアだけではないのです。残念ながら、こちらも未完ではありますが・・。ガウディのパトロン、エウセビ・グエル(Eusebi Güell)の依頼で1898年教会建設の依頼が舞い込む。それはエウセビ・グエルの所有する繊維工場とその労働者の為の居留区(コロニー)内の教会建築である。コロニア・グエル(Colonia Güell)教会 計画案2つ。左が1910年頃の最終案?まるでサグラダ・ファミリアのような教会になるはずであったコロニア・グエル(Colonia Güell)教会。実はこのコロニア・グエル(Colonia Güell)教会の試作があったからこそのサグラダ・ファミリアの誕生につながるのです。エウセビ・グエルの工業コロニー(industrial colony)エウセビ・グエル(Eusebi Güell)(1846年~1918年)は実業家であり政治家。1890年、バルセロナ南部サンタ・クローマ・ダ・サルバリョー(Santa Coloma de Cervelló)に自身が所有する繊維工場を丸ごと移転する事にした。※ 土地はすでに所有していたらしい。カタルーニャはグエル家の本拠。移転理由は、エウセビ・グエルがカタルーニャ復興の為に尽力していた事。また、当時バルセロナで勃発し始めた市民による社会闘争からの工場隔離だったらしい。サンタ・クローマ・ダ・サルバリョーにはもともとグエルが所有していたカン・ソレル・デ・ラ・トーレ(Can Soler de la Torre)邸(1692年築)があり、そこを中心に工業コロニーの建設は開始された。※ カン・ソレル・デ・ラ・トーレ(Can Soler de la Torre)邸はもともとファーム・ハウスです。工場自体も当時最先端の技術を装備したもの。エウセビ・グエルは、そこに工場だけでなく、工員ら家族の住環境も兼ね備えるべく開発を進めた。例えるなら村を丸ごと造るような壮大な事業であった。そこで働くすべての労働者や家族らの住宅の建設。しかも部屋は一般よりも広く住環境の快適さを追求している。また、そこには労働者の為の組合、商店、カフェ、劇場、公園、農作地、図書館、病院などの建設に加え、家族の為の学校(男子のみ)も建設されているし、そこで働く商人や先生らの住居もある。ガウディが依頼されたのは彼らの祈りの為の教会だ。※ 後に(1955年)教区の教会に昇格する。※ 現在は工場地に隣接して鉄道がある。鉄道がいつできたかは不明。エウセビ・グエルの工業コロニー(industrial colony)配置図 1910年スペイン、カタルーニャ州バルセロナ県 ムニシピ(基礎自治体)クマルカ(郡)サンタ・クローマ・ダ・サルバリョー(Santa Coloma de Cervelló)耕作地170ヘクタールの内、工場と住宅地が36ヘクタールを占めた。1910年、工場従業員のほぼ半数の500人がコロニー内の150個の戸建て住宅に居していた。生活にかかわる全てが、その中で完結できる設備を整えた工業コロニー(industrial colony)の建設は、スペイン初。また、エウセビ・グエルは農村の貧困層を受け入れコロニー内の農地で働かせたるなど彼らの生活環境を改善。また有能だった者には家を与えたと言う。(家自体の所有権は会社の物)エウセビ・グエルはコロニー内の建築物にも手を抜かなかったからそれぞれ著名な建築家が起用され、カタルーニャのモダニズム建築として今に残されている。ガウディが頼まれた教会もその一つ。コロニー建設は、エウセビ・グエルが非常に高い社会主義の理想を持っていた事が伺える大事業でもあった。残念ながら、途中、政治情勢、社会情勢からの事業計画の失敗。資金難による計画の縮小となった。莫大な資金を投じていた計画であったので工業コロニー自体は完成したが、お金のかかる所は大きく変更される事になる。コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の建設1898年、居住者が増え、グエル家の祭室では手狭になったのだ。それ故、居住区(コロニー)内にエウセビ・グエル(Eusebi Güell)(1846年~1918年)の繊維工場労働者の為の教会の新設が決まった。教会は、意識の高いカトリック国であるスペインにおいて、労働者の生活向上に欠かせない重要な施設。その教会建築設計に白羽の矢がたったのも、グエルと仲の良かったガウディであった。すでにガウディはグエルよりいろいろ仕事を任されていた。コロニア・グエル(Colonia Güell)教会は確かにガウディ設計し建設した物件の一つなのである。が、これが? の理由は後で説明。現在のコロニア・グエル(Colonia Güell)教会団地が眺望できる小さな丘の松林に教会を建設する事を決めたのはガウディ自身である。松林を一部伐採し、1908年10月4日、教会の第1礎石が置かれた。コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の教会建築に対するガウディの意気込みもすごかったようだ。サグラダ・ファミリアで、すでにガウディのこだわりをたくさん見せられているが、彼はこちらでも究極の教会建築に着手している。何しろ、コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の計画案作成だけで10年も要しているのである。計画案10年。しかし、1908年、満を持して建築が開始された教会であるが、実は工事の大方は未完のまま終わっている。6年後の1914年、ガウディはこの教会建築から完全に手を引いてしまったからだ。それが上の写真に見られる現状なのである。とは言え、コロニア・グエル(Colonia Güell)教会は未完ながら2005年、「アントニ・ガウディの作品群」の一つとして、「ユネスコの世界文化遺産」に登録された。建設された部分は設計のはわずかではあるが、それだけでも他者には無い奇想な物件であると評価されたのだろう。 さすが!!完成していたらこの規模になっていたはずの模型下の手前の部分が上の写真に見られる姿。教会は地下の一部分しか完成できなかった。そもそも地下は講堂になるはずだった場所らしい。要するに肝心な教会堂の聖堂部分は全く建築すら間に合わなかったのである。冒頭の絵図のように、予定では、40m級の尖塔の立つ、5身廊のバシリカになるはずであった。未完の訳ガウディが建築を途中放棄した理由は、一部には、サグラダ・ファミリア聖堂に専念する為、と書かれているものもあるが、本家のパンフレットに書かれているのは、グエル家により、1914年に工事資金の出資中止が勧告されたからだった。※ エウセビ・グエルは1910年に引退しているので、中止勧告はグエル家の会社からかも。ガウディの計画はあまりにも壮大で、時間もかかりすぎた事。お金ももっとかかる事。はっきり言えば、グエル家は教会と言うより、コロニーの為にこれ以上のお金をつぎ込む事は出来なかったのだろう。グエル家が壮大な建築を打ち切りにした理由は、ズバリ資金難だったのである。ちょうど、この時期ガウデイはカサ・ミラ(Casa Milà)にもかかわっていた。(1906年~1910年。)カサ・ミラ中断の理由は前回紹介しているが、やはり社会情勢の一変が関係していた。※ カサ・ミラの理由は、「アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅」の中、「ガウディら建築家の悲劇」で書いています。リンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅グエルの繊維工場はビロードなどの生産で売り上げをあげており、決して悪くはなかった。また、諸々の建設の為にグエルはアメリカより資材を輸入してカタルーニャ初のセメント工場も創設している。問題は、社会情勢の悪化に加えて、事業の一つが多額の負債を抱えた事だった。グエル公園住宅の販売不振資金難の理由は、同時に着工していたグエル公園(Park Guell)住宅の販売不振であった。それこそが社会情勢の一変が影響している。住宅が売れなかったのは鉄道も車もない不便な立地の問題だ・・とするものもあるが、ブルジョアには馬車もある。問題はそんな単純なものじゃない。何より当時は市民のブルジョアに向けられた目が怖かった?貧富の差は、市民の反ブルジョア感情を掻き立て、バルセロナでも暴徒による破壊も起きていたからだろう。だからブルジョアは目立つ行為はせず、息をひそめていた?当時最後の植民地、キューバ(1902年独立)やフィリピン(1899年独立)を失い、国益を失ったスペイン経済は失速。欧州の他の地域が産業革命で向上する中、国が主導できないスペインでの産業革命は遅々として進まない。反対に、こんな状況でも成功するブルジョア層もいた。。仕事さえ見つけられない市民との貧富の差は開いて行く。そんな両者の背景は右派と左派と言う対立で現れてくる。右派と左派の対立は第一次大戦(1914年~1918年)後に激化し、市民同士の殺し合いに発展していく。スペイン内戦(Spanish Civil War)(1936年~1939年)勃発。(左派)政府側 共和国人民戦線 VS (右派)フランコ率いる反乱軍(ファシズム陣営)この内戦でコロニア・グエルの工場は没収されている。ファシズムの政権下で強制的に資本、土地、財産などが国に集められたのだろう。内戦の終結で返還されたらしいが・・。おそらく、他のブルジョアらも同様にスペイン内戦下では会社や資産が取り上げられていたのだろう。スペイン内戦は右派(ファシズム陣営)が勝利するも結局はうまくいかなかった。スペインが近大化を迎え落ち着くのは、ほぼ近代に入ってからだ。話が脱線したので、戻します。問題のグエル公園の家グエルとガウディが計画していたグエル公園を中心にしたパーク内のデザイン住宅60戸が計画されブルジョア向けに販売されたが全く売れなかった。グエル公園の建設期間は1900年~1914年。販売は建設前から始まっていたと想像できる。1904年、公園内に2棟のモデルハウスが建設されている。(ガウディの作品ではない)その一つを1905年にグエルの友人弁護士マルティ・トリアス・ドメネク (Martí Trias i Domènech)(1862年~1914年)が購入してくれた。それが現在のトリアス邸(Casa Trias)である。※ 中央広場から少し離れた少し高台にある。残りの一棟は、なかなか買い手が付かず、グエルの提案で1906年にガウディが購入。父と姪と3人で移り住んだ。※ 二人とも先に亡くなり、ガウディが最後1人残った。公園内中央広場の左にはエウセビ・グエルも移り住んだが、こちらの物件はもともと地主のLarrard家の屋敷を改築したものだったらしい。現在小学校になっている所がグエル邸だった。結局売れたのは2棟のみ。その為1909年にすでに資金難で公園建設も中止になっている。※ 実際、グエル公園(Park Guell)の工期は1900年~1914年までかかっているが・・。因みに、グエル公園は破砕タイル打ち込みのプレキャスト・コンクリート工法(Precast Concrete)が特徴の造りとなっている。破砕タイル打ち込みは資金難後に廃材が利用されてかろうじて仕上げに利用された工法かもしれない。ところで、建設の中断が決まった翌年(1910年)、エウセビ・グエル(Eusebi Güell)は伯爵に叙されたが、同時に現役引退し公園内で隠遁生活に入っている。エウセビ・グエルが1918年に亡くなると、1922年に公園はバルセロナ市に寄贈されグエル公園となったのだ。※ 寄贈したのは遺族、エウセビ・グエルの息子と思われる。息子らはグエル伯爵家とコミーリャス伯爵家の爵位を持ち政治家にもなっている。アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)の没年から考えると、ガウディが生きている時にすでに公共の公園になっていたようだ。コロニア グエル(Colonia Güell)教会時系列で見ると、そもそも教会の着工時点(1908年)でグエルに資金難は見えていたはずだ。その時点で教会建設を続行させたのがある意味不思議。 言えなかったのかな?構想段階でガウディの作品は工期も、お金も無限にかかりそうな予感がするのにね。それでも中止勧告まで、グエルは一切の注文をつけなかった事から、制作の全過程を通してガウディが理想とする建築ヴィジョンが貫かれた作品となっているらしい。まさしくガウディの作品として評価されている訳です。おそらく、ガウディはお金の事は一切考えなかったと思われる。制約なしに彼の理想を詰め込んだ傑作であったかもしれない。当初予定の40mの中央塔を備えた上部身廊と下部身廊の2身廊からなる壮大な教会の建築の完成を見る事はできなかったが・・。下部身廊だけでも、比類ない奇抜な教会にはなっている。※ 幻の教会尖塔については後で触れます。玄関ポーチポーチの横には半地下の待合所1898年 教会建設の依頼~構想10年1908年 着工1914年 工事資金の出資中止が勧告。ガウディはこの時点で手を引き弟子にまかせた。1915年 上部身廊は未完。唯一工事の終わっていた身廊下部を礼拝堂に転用。11月にバルセロナ司祭による竣工式が行われた。 それ故、下部の身廊は「地下礼拝堂」と呼ばれるようになった。1915年~1917年 別の建築家によって、セメントの屋根とレンガ造りの上部身廊の壁が加えられる。玄関前の柱(上の写真右)のみ玄武岩が使用され、この支柱でポーチ全体を支えている。玄関前のちょっとじゃまな場所にあるのはその為なのだ。中央玄武岩の柱以外はレンガ造りの柱。それらには破石被覆(はせきひふく)が施され、周りの松の木の幹に似せている。もともここが松林を伐採して造られている事からか? 柱も 教会壁の石積みも周りの松に同化させる為?松林が意識されているのは明らかだ。ガウディ作品は奇抜ではあるが、環境に対する配慮もされてのデザインらしい。モザイクのみで表現されているティンパヌム(tympanum)あたるドア上の装飾。ガウディ作品ではよく使われる語であるトレンカディス(Trencadis)。トレンカディス(Trencadis)とはカタルーニャ語です。要するに破砕タイルによるモザイク画の事です。スペインではイスラム支配の時代の影響から西洋とイスラム文化が融合したチャンポン文化が生まれている。それがある意味スペインらしさですが、スペインではイスラムの完璧なタイル貼りが主流? だったのかもしれない。モザイク画はそもそもローマ時代から存在する。ヴィザンチン時代のモザイク画の芸術性は高い。それはイスラム文化にも継承されたが、イスラムから逆輸入? されたモザイクはスペインでは割と目新しかったのかもしれない。たまたま予算不足のカバー? も含めて、売れない割れタイルを引き取り、さらに砕いてモザイク貼りをしたガウディの作品は、トレンカディス(Trencadis)が、ずいぶんクローズアップされているが、要所要所のカラーリングや使い方はともかく、モザイク自体はそれほどの物じゃない。ガウディのすごいところはそこじゃない!!外壁と鐘楼ステンドグラスで閉じられた窓も全てに工夫が・・。窓の金網にも文様が・・。いちいちオシャレです。どうも織り機のスクラップを編んで利用されているとか。もともとここは繊維工場だったから・・。下部のステンドグラスがまるでプロペラのように角度を変えて・・。中から見たらこんな秘密が・・。ステンドグラスにこんな発想をもたせるなんて・・。主階段、玄関ポーチ立面図鉄鋼スラグや焼成しすぎの黒いレンガが利用されている。未完の上部身廊(聖堂)ができるはずだった所は1916年~1917年に閉鎖する事になりレンガと石綿セメントのフラットな屋根が左官屋によって造られた。1902年にガウデイが考案した鍛鉄製の十字架の1970年製のレプリカ。もともとはバルセロナのミラージェス別荘の塀の上に飾る為に考案されたデザインだったらしい。修復の度に移転しているもよう。下左 ここにできるはずであった聖堂の計画案。下右 現在の地下の聖堂。カテナリー曲線の幻の尖塔先に「完成していたらこの規模になっていたはずの模型」を紹介した。実はこれは「カテナリー曲線(catenary)」にのっとって造作された模型なのである。ガウディは今までの教会建築に造形的な不満を持っていたのだろう。高くそびえるゴシックの尖塔(せんとう)は素晴らしい代わりに、構造的にどうしても保護の支えが必要になる。それはフライングパットレスなどの支え壁である。それを「美しく無い」「余計な物」と感じたのかもしれない。※ ノートルダム大聖堂パリ(Cathédrale Notre-Dame de Paris)はフライングパットレスだらけです。とは言え、ロマネスクのドームでは高さに限界もあるし、尖塔には向かない。そこで目をつけたのが懸垂曲線(けんすいきょくせん)とも呼ばれるカテナリー曲線(catenary)による公式で導いた構造物である。普通の人は考えも及ばない発想ですカテナリー曲線(catenary)カテナリー曲線は、鎖やロープなどを水平に張った時に自重でたわんだ時にできるU字曲線がそうである。我々の身近では送電線を吊った時に起こるたわみがその現象であり、送電線のたわみを一定に維持する方法としてカテナリー吊架(ちょうか)が利用される。※ 「鎖」を意味するラテン語「catena」から由来している。ところで、このカテナリー曲線は重力下で起きる現象である。それ故、重力と両サイドからの圧縮力が力学的にバランスをとっている状態であり、これは逆さにしても同じなのだそう。アーチ構造はまさにそれであるが、ガウディはこれを利用してアーチを最大限、突(とつ)ったのである。下は参考にウィキペディアからお借りしたカテリーナ曲線による放物線の例ですが、ガウディが利用しようとしたのがグリーンのラインのような突出した形のアーチです。下は、カサ・ミラ(Casa Milà)で撮影。ガウディの「逆さづり構造模型」を示す為に造られた簡易モデルの吊るされたクサリ。右は天地を逆にしたものです。ガウディはコロニア・グエル(Colonia Güell)教会の建築の為、実際に天井から吊るしながら逆さにデザインを考案していた事がわかっている。※ ガウディはそれをサグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)建設の為の事務所で実験していた。要するにガウディはこの構造研究の為、コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の構想に10年を要したのである。結果、その間に時世はどんどん悪化。建築は地下だけで終わってしまった。幻(まぼろし~) の計画となったのだ。最も、この構造研究は、サグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)建設やカサ・ミラ(Casa Milà)で役立たされている。以下はカサ・ミラ(Casa Milà)の屋上部を支える屋根裏。カテナリー曲線の発見者ヨハン・ベルヌーイ(Johann Bernoulli)(1667年~1748年)スイスの数学者。※ カテナリー曲線の方程式を発見(1690)。また指数関数の微積分法を確立(1691年)し、ロピタルの定理を発見(1696年)。ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)(1646年7月1日~1716年)ドイツの数学者、哲学者。※ 微積分法発見。現在使われている微分や積分の記号は彼によるところが多い。今から300年以上前の17世紀にはこんな難しい事を考えて、理論を構築していた人がいた。ガウディはこの理論に着目して、しかも逆さに応用しようとした発想がすごい。芸術家はデザインを考えるが、建築家はデザインをどう構築するかまで考えなければならない。それには物理と数学が必須なのだと改めて思う。ガウディはカテナリー曲線から導かれる数値に着目しながらデザインをさらに深めてコロニア・グエル(Colonia Güell)教会をデザインした。先に紹介した1910年頃の最終案ガウディの事だから、建築中にまた改築して、デザインが変わったかもしれない事は想像できる。もともと金銭的に不可能であったかもしれないが、本当に建築されていたら評価は世界遺産だけではなかったはず。ロマネスクでも、ゴシックでもない教会建築。カテナリー(catenary)・スタイルとか、ガウディ・スタイルとジャンルされたかもしれない。教会内部下部身廊は上の写真に見られる4本の玄武岩の柱でほぼ支えられている。この教会には、今までの教会に必ずあった控え壁やフライングパットレスなどの支え壁が存在しない。先に紹介したカテナリー曲線(catenary)と傾斜柱によって空間をシンプルに保つ事を可能にしている。アーチの曲率は外壁への側面荷重を縮小。柱の傾きも同じように最大鉛直荷重を軽減する。※「鉛直」・・重力が働いている方向の事。要するに、敢えて柱はまっすぐ立たせていないのだ。聖具と調度品ガウディはコロニア・グエル(Colonia Güell)教会から手を引く前に聖堂内の装飾品を制作して設置している。聖水盤(2つ)、ベンチ(20数脚)、聖器室の扉。聖水盤上からの写真しかなくて・・。柱に鉄で取付けられているので下にも支えの鉄が装飾されている。本当にオオシャコ貝を使っているようですね。これはフィリピンのルソン島から運ばれた。これを運ん船はグエルの義理の父(コミーリャス侯爵)が経営していた開運会社のトランス・アトランティカ社。入口近くの柱、左右に取り付けられている。ガウディ考案のベンチ現在のものは複製品。1913年~14年に20脚造られ、13脚が保存されている。上の写真からは見えないが、ベンチの後方には、後部座席の人がヒザをつく懺悔台が付属している。オリジナル・デザインには無かったものらしい。ガウディが手を引いた後に教会は聖具の購入をしているがどれもこの聖堂に合ったものとは言えない不揃い品。エウセビ・グエルの寄贈品 無原罪の御宿 18世紀の木彫モンセラートの黒マリアを模した聖母子像1965年制作。制作者はカタルーニャ人建築家イシドラ・プーチ・ボアダ(Isidre Puig Boada)(1890年~1987年)。彼はガウデイと共にサグラダ・ファミリアの建築に携わっていた建築家。また、黒マリア像の置かれているモンセラート自体がガウディがかつて携わっていた教会。ガウディに対するリスペクトが込められているのかも。※ モンセラートは前回少しふれています。リンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅そもそもガウディが望んだ聖堂は建てられず、無念のリタイアとなったが、それでも完成している部分をうまく活用してコロニア・グエル教会は1915年に竣工式を迎え、1915年~1917年に天井屋根が取り付けられて完了となった。完成している部分だけでも、比類無い空間に世界文化遺産に登録されているのだ。カテナリー曲線(catenary)を利用したガウディの考察力。もはや「凄い」とだけしか言えない。デスマスクからアントニ・ガウディのデスマスクから造られた頭部像グエル公園内、ガウディ博物館からこれだけの偉業を残してくれたガウディの最後はちょっと悲しい。父も姪も亡くなり、1人残されたガウディ。グエル公園の家をすて、サグラダ・ファミリア内で寝泊まりをするようになっていた。1926年6月7日、自由の利かなくなった体をむち打ち、サグラダ・ファミリアからいつもの聖フェリプ・ネリ(Sant Felip Neri)教会に祈りに出かける途中、双方から来る路面電車をよけきれずにぶつかり、肋骨骨折、右足に打撲、重度の内出血を負ってしまった。その時の彼はあまりにみすぼらしいカッコだったので、身元はすぐにわからなかったそうだ。病院(L'Antic Hospital de la Santa Creu i Sant Pau)に運ばれたが、3日後の1926年6月10日に亡くなった。享年73歳。今なら早すぎる死である。最後ま信仰心を持って教会(神の家)を建設していたガウディ。これだけの偉業も後世に残してくれた人なのに、神の対応は冷たいよ。因みに、彼の墓はもちろんサグラダ・ファミリアの聖堂地下にある。コロニア・グエルの末路コロニア・グエルの繊維工場は1943年に売却されグエル家から離れた。1973年繊維工業全体の不振から、コロニアの工場も閉鎖され、所有権は住宅、企業、公共団体などに分売されている。もはやコロニア・グエルは無くなったが、ガウデイの教会は未来永劫ここに残る。Back numberリンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅 アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 コロニア・グエル教会とカテナリー曲線
2024年03月03日
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今回は、アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí)の作品を扱ってみようかと・・。実は、12年前にガウディの作品を取り扱ってはいるのです。前回落ちたカサ・バトリョやコロニア・グエル教会の写真をふんだに使い、ガウディの芸術性を考察する方向ですすもうかと・・。本当は全般にまとめてやり直した方が良いのですが、それはちょっと大変だからね・・ところで12年前は3日くらいで更新していたから今と比べれば、中身はかなり薄めです。でも、自分で言うのは何ですが、良く調べてる。すでに自分は忘れてるけど・・。「ガウディ博物館 1~4」ではガウディの家族、ガウディの病気を含めて人生をさらっと紹介しています。作品としては、「グエル公園(Parc Guell) 1~7」、「アントニ・ガウディ カサ・ミラ 1~5」、他3件。「サグラダ・ファミリア1~10」も紹介していました。ガウディのスポンサーであったエウゼビ・グエル家の詳細については「コミーリャス(Comillas)エル・カプリーチョ(El Capricho)」の中で書いています。以下一部です。リンク グエル公園(Parc Guell) 1 (2つのパビリオン)リンク ガウディ博物館 1 (グエル公園)リンク アントニ・ガウディ カサ・ミラ 1 (外観)リンク コミーリャス(Comillas)エル・カプリーチョ(El Capricho)リンク サグラダ・ファミリア 1 (未完の世界遺産)※ 今回見直していて、バグ? 「モンセラート(Montserrat)」のリンク先が何度入れ直しても、「カサ・ミラ 1」に飛ぶのです。「カサ・ミラ 1」と「カサ・ミラ 2」の間に「モンセラート(Montserrat)」が日付続きで入っているからでしょうか?実は「モンセラート(Montserrat)」はガウディの作品を考える時にキーになる場所として紹介していたのですが、今回も入れました。アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅ガウデイ作品に未完が多い理由スペイン帝国のかげりモデルニスモ(Modernismo)の建築物件カサ・バトリョ(Casa Batlló)サン・ジョルディ(Sant Jordi)の話カサ・バトリョ(Casa Batlló)とカサ・ミラ(Casa Milà)ガウディら建築家の悲劇ガウデイ作品の源流ガウデイ作品に未完が多い理由アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)それにしてもガウディ作品は未完が多いように思います。未完と言えばサグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)は有名ですが、グラシア通りの高級住宅カサ・ミラ(Casa Milà)もガウディが手をひき、ガウディ作品としては未完なのです。実はスペインの政情が大きく関係しています。そういう意味では、ガウディは運が悪かった芸術家です。もし、彼が20年早く生まれて活動していたら、カサ・ミラ(Casa Milà)やコロニアル・グエル教会は完璧に完成していただろうし、ひょっとしたらサグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)だって今頃は?政情不安は建築業界を停滞させ、ガウディの仕事を中断させたのだ。また、ガウディ亡き後におきたスペイン内戦でサグラダ・ファミリア建設に関するガウディ自身の造った建設に伴う設計の青写真や資料も散逸しているらしい。それがよりサグラダ・ファミリア建設の停滞を招いた?サグラダ・ファミリア建設に限って言えば「未だメド立たずの理由は資金不足だけでは無かったと言う事です。ところで、ガウディがサグラダ・ファミリアの建設主任になったのは1883年、まだ31歳の時。※ ガウディは1926年に亡くなるので43年間サグラダ・ファミリアの建設の重荷を負って居たと言う事になる。むろんガウデイは他の仕事も同時進行でこなして行っている。主任をまかされた当時は今のようなサグラダ・ファミリアになる構想も無かったようです。ガウディは絶えずアイディアを足して変化し続けて建設が続けられたサグラダ・ファミリア。43年間彼の頭にはサグラダ・ファミリアがあり続け、意識のどこかで常に彼を支配していたと思われる。なのにガウディは多く語る人ではなかったから、ガウディが目指したサグラダ・ファミリアの本当の完成形は解らなくなってしまった。彼の頭にはどんな壮大な彼の完璧なサグラダ・ファミリアのビジョンがあったのか? ちょっとでものぞき見したかった。最も西洋の大聖堂建築は完成まで数百年はあたりまえ。何人もの建築主任を経ての大聖堂建築であるから、最後の姿(落成)は最後にならないと誰もわからないかもしれない。ガウディが偉大な建築家であったが故に、誰もがガウディの大聖堂を見たいと、その完成を望んでいるが、大聖堂建築のセオリーから言えば、後世の建築主任によってそれらがまた取り壊され、他の形になる場合もあり得る。という事だ。実際、受難のファサードのように担当者によりガウディの構想から独断変更されているケースもあるし・・。リンク サグラダ・ファミリア 8 (受難のファサード)スペイン帝国のかげり かつて、太陽の沈まない国と形容され、大航海時代の覇者だったスペイン帝国も、実は19世紀後半には、ほとんどの植民地を失っていた。各地の植民地の独立運動に加えて、南米での銀の算出の減少。また、1898年に勃発した米西戦争(アメリカ合衆国vsスペイン)でスペインが敗退すると帝国が長らく独占していたカリブ海域の利権や植民地はアメリカに奪われたのだ。スペイン帝国は残った北アフリカの支配拡大を画策するも1908年、スペイン・モロッコ戦争を勃発させ結果失敗。これら事象はスペイン国内に紛争をもたらす事にもなった。翌年(1909年) 軍に抗議した労働者デモが暴徒となり、バルセロナの街を破壊して回った「悲劇の一週間事件」が起きる。※ この暴動ではサグラダファミリアも攻撃され多大な被害を受けているそうだ。軍は暴動を鎮圧したが、軍vs民衆(労働者)の構図は、支配階級vs民衆(労働者)の構図にシフトしていく。要するに、国勢の衰えで、まず最下層の市民の生活が脅かされた。そんな市民の不満は資本家(ブルジョア)らに向けられたのだ。民衆(労働者)は、見境なく、金持ちの物? 建物? 教会(権力者)までも襲った。ちょうどガウディがカサ・ミラ(Casa Milà)建設に携わっていた時だ。資本家(ブルジョア)たちはたじろぎ、目立つ行為は控えるようになった事でブルジョアを顧客にしていたガウディの仕事は激減して行ったそうだ。因みに、それ以前の建築では、奇抜な建設物こそがブルジョアらのステータスだったそうだ。バルセロナを中心にカタルーニャ地方で19世紀末〜20世紀初めに流行したモデルニスモ建築(Modernismo)はそうしたブルジョアらがいたからこそ存在足りえた建設であった。※ モデルニスモ建築・・イスラムの要素の入ったカタルーニャ版アールヌーボー。この後、スペインは国勢の悪化から王政が否定され、共和制が2転。二人の独裁政治の台頭も許して落ちて行く。今スペインを支える観光資源は、まさに経済が豊だった時代の名残りでもあります。モデルニスモ(Modernismo)の建築物件バルセロナ、アシャンプラのグラシア通り43番地。並ぶモデルニスモ(Modernismo)の建築物件。左からカサ・アマトリェール(Casa Amatller)、カサ・バトリョ(Casa Batlló)カサ・アマトリェール(Casa Amatller)は裕福なショコラティエで考古学愛好家のアントニ・アマトリル (Antoni Amatller)の邸宅としてカタルーニャの建築家ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルク(Josep Puig i Cadafalch )(1867年~1956年)によって1898 年~1900 年に再設計された。カサ・アマトリェール(Casa Amatller)改築設計 ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルク(Josep Puig i Cadafalch )(1867年~1956年)こちらもモデルニスモ(Modernismo)の建築として代表される物件の一つ。ガウディ作品と比べると同じジャンルとは思えないけど・・。ガウディの作品がぶっ飛びなだけで、他のモデルニスモで共通しているのは窓周りのスタッコ? の装飾かもしれない。加えて言えば、他のモデルニスモはもっとイスラム建築の要素が強い。こちらはルネッサンスかもしれない。モデルニスモ(Modernismo)はカタルーニャ版のアールヌーボー? と言うが、ガウディ作品は確かにそれにあたるが、他のモデルニスモ建築はアールヌーボと言うよりはかなりあくの強い個性派だ。依頼物件の隣にあるだけに、アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)は先に完成していたカサ・アマトリェールをかなり意識して、カサ・バトリョ(Casa Batlló)を1904年~1906年再設計したと言う。隣接しているのが不自然なくらいに両者は異なる。しかし、ファサードの段状の窓の並びなどはアマトリエールに敢えて合わせるなど、少なくとも、並びを意識して造形しているようだ。カサ・バトリョ(Casa Batlló)改築設計 アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)1階は店舗。2階がバトリョ家の居住区。3階以上が賃貸物件。ファサード(建物正面)は海面を見立ていると言う。大繊維業者ジュゼップ・バッリョ・イ・カザノバス(Josep Ballho y Casanovas)の依頼1877年に建設された物件を当初は全壊して新築する予定だった。ガウデイはそれを増改築にとどめて設計。1904年~1906年に建設。海がテーマだと言う。外壁のモザイクと同じ仕様。円盤タイルと地元の会社から譲り受けた廃棄物のガラスや陶器の破砕タイルでモザイクされている。スペインは床にしても壁にしてもタイル装飾が多い。それこそが、イスラム統治時代の影響なのだ。イスラム教徒らに侵略されたイベリア半島をカトリック教徒が取り戻したレコンキスタ(Reconquista)後も、イスラム教徒の職人達はイスラム教からキリスト教に改宗してイベリア半島に残った。キリスト教に改宗するなら誰でも残れたのだ。イスラムとの折衷(せっちゅう)的な独特の建築様式は、そんな歴史から生まれている。それだけにスペインやポルトガルは国全体からキリスト教色が強いのもうなずける。しかし、見た目は欧州のカトリック国とは大きく違いがある。ナポレオンが言っている「ピレネーを越えてアフリカへ」。ピレネー山脈を越えてイベリア半島に入ったら、もはやそこはアフリカなのだと・・。※ レコンキスタ(Reconquista)については「アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル」の中「イベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルカサ・バトリョ(Casa Batlló)の2階バトリョ家のサロン。建物内部は海底がモチーフらしい。円形のガラスは丸く吹いたガラス球を平たくしたもの。ステンドグラスの観点から言うと、最もお高いガラスである。改築と言えど、5階と地下室を加え玄関を広げ間取りも変えている。1階にはエレベーターホールもある。2階が施主の居住区で3階から6階が賃貸住宅。吹き抜け下方は淡く、上階に行くほどに濃いブルーに貼られたタイル。下は上からの写真。こだわりがすごいですね。表からは解らないが、スペインの建築物は奥に長く、必ず中庭(パテオ)がある。ここは2階にパテオがある。食堂からのパテオへパテオ出入り口とカサ・バトリョ裏側の外壁。カサ・バトリョ(Casa Batlló)の屋上屋上にはガウデイらしい造形の煙突などがキノコのように生えていますが、カサ・ミラとは異なり、土台が普通のビルだったと言うのが明白です。でも、色彩装飾が、ほとんどできなかったカサ・ミラより造形物は華やかです。屋上の出口の形は工夫されている。日常の風景を「非日常」にするガウディの発想に感服です。煙突の造形がオシャレ。ただよう煙(けむり)造形化したデザインらしい。部屋の数だけ暖炉があり、暖炉の数だけ煙突がある。サン・ジョルディ(Sant Jordi)の話山か? 竜(ドラゴン)か?モザイク側からみると、モンセラート(Montserrat)の山か? とも思えるが、裏側(正面ファサード)はまるでウロコのような瓦でデザインされている。ファサードが海面を表しているなら、それは海を泳ぐドラゴンの背中とも思える。でも、ガウディは正解を示してくれなかった。ガウディ作品には「カタルーニャの守護聖人サン・ジョルディ(Sant Jordi)の竜退治」伝説がよく利用されている。グエル公園もファサードの大階段にドラゴンの頭が置かれて居るし・・。リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー)だからドラゴン説はあながち間違いではない。まあ、どう捉えてもかまわないよ。好きにして。というのがガウディの本音かもね。ところで、グエル公園のところで解説していますが、カタルーニャの守護聖人サン・ジョルディ(Sant Jordi)はローカル名です。カトリックの聖人はラテン語表記が一般で、ラテン語では聖ゲオルギウス(Saint Georgius)と呼ばれています。聖ゲオルギウスと言われれば、「ああ」となる有名人です。竜退治の話は黄金伝説で語られている話ですから聖ゲオルギウスを守護聖人にしている街や都市は世界にたくさんあるでしょう。因みに、英国の王様の名前にジョージ(George)が多いのですが、英語では、ゲオルギウス(Georgius)はジョージ(George)。つまりこの聖人をリスペクトして名がつけられているのです。そう言えば、英国のシティの紋章もセント・ジョージ(Saint George)でした。※ 英国ではケルト伝承のドラゴンの逸話とからめていると思われる。リンク ロンドン(London) 8 (シティの紋章)なぜ多いのか? 聖人を扱う黄金伝説は、殉教者列伝とも言えます。たいていは迫害などで亡くなった功績のある話が伝えられている中、おそらくドラゴンと言う怪物とたたかったの唯一が聖ゲオルギウス(Saint Georgius)でしょう。怪物と戦ったヒーロー的扱いだから人気なのかもしれません。カタルーニャではサン・ジョルディの聖名祝日4月23日が「サン・ジョルディの日(Diada de Sant Jordi)」。親しい人に本を贈る記念日にもなっているそうです。伝説が、地方で独自に発展した例ですね。※ 聖名祝日は、聖人が人として亡くなった日であり、聖人として生まれた日でもあるのです。が、生没年不明な聖人の場合は、別の理由が付されていると思われます。何しろ伝説だけが伝えられている場合もあるので。黄金伝説については、「聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂」の中、「聖人のハウツー(how-to)本?「黄金伝説」」で解説しています。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂カサ・バトリョ(Casa Batlló)とカサ・ミラ(Casa Milà)カサ・ミラ(Casa Milà)はカサ・バトリョ(1904年~1906年)の建設後にガウディが手掛けた物件で、同じグラシア通り面する高級住宅として建設されました。設計 アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)岩肌むき出しの外壁に石切り場(ラ・ペドレラ La Pedrera)と呼称されている。本来はガウディらしい外壁装飾が施されるはずだった?下はカサ・ミラ(Casa Milà)の模型メインの入口(Entrance)がちょうど交差点のある角になる。外装はすでに普通のビルではない。曲線のみの外観。下はメイン・エントランスのある壁面。当初予定では、ここにマリア像がとりつけられるはずであったが、1909年の「悲劇の一週間事件」後、オーナーはそれを拒否。当時はサグラダ・ファミリアまで暴徒に襲われていたからだ。それ故、代わりに小さなバラの花が付けられた。表面は石灰岩切石積み、あるいは同材の石貼り。裏正面はレンガ造モルタル塗り。屋根裏階はレンガ造白大理石貼り。階段塔、煙突はレンガ造モルタル塗り。構造は柱・梁構造(はしらはりこうぞう)。柱は鉄柱、硬質石灰岩円柱、レンガ造の3つ。ガウディによれば、素材の強度を合理的に生かした安普請(やすぶしん)な物件らしい。とは言え、カサ・バトリョの10倍。(あちらは改築だけど・・。)耐震が怖いですねバルセロナは地震ないのかな?カサ・バトリョが改築物件であったのに対し、カサ・ミラはガウディがが初めから手掛けた新築物件です。当初予定通りに建築されていたら、すべてにおいてガウディの創作のままに建設される最高の物件となるはずでしたが・・。カサ・ミラ(Casa Milà)の模型地下1階(駐車場)、地上6階に、7階屋根裏が1954年になってアパートに改造されている。※ 2階がオーナーの居住区。今ならオーナーは最上階に住みたがるのにねやはり地上に近い方が利便が良いと考えられたのでしょうか?34m×56mの長方形の敷地。1階は1.6m上げて造られていて、中1階となっているので外見上は7階に見える。エレベーターもあるし、一見、現在のマンションと思える物件の造り。しかし、時代である。地下駐車場は、正確には馬車用の車庫。馬20頭の厩(うまや)も有し馬具置場、まぐさ置場も設置されている。またマンション用のワイン・セラーも完備。超セレブ物件建物はセントラル・ヒーディングの為、ボイラー室も設置されている。※ 全館暖房か? は不明。全館セントラル・ヒーディングなら建物中に縦横無尽に配管が通される事になるから。厩とオーナーの居室だけかも? 屋上に煙突もあるし・・。ガウディら建築家の悲劇1909年の「悲劇の一週間事件」以後、スペインのブルジョアたちは目立つと攻撃されるようになったので、以降、豪奢なモデルニスモ(Modernismo)建築は消えて行くのです。オーナーの実業家、ペレ・ミラ (Pere Milà)と妻ローザ・セギモン(Roser Segimon)も同じく消極的となり、建設途中であったカサ・ミラ(Casa Milà)も目立たないように設計変更され予算もけずられて行く。1910年、思うような装飾もほどこせなくなり施主ともめたったガウディはカサ・ミラの建設から完全に手を引いてしまう。つまり、ガウディが係ったのは1906年~1910年。館の公式完成は1912年。後は弟子のジュゼップ・マリア・ジュジョール(Josep Maria Jujol)(1879年~1949年)が引き継ぐので、内装や家具類はガウディでは無いのです。当然ながら、ガウディが去った事はカサ・ミラの出来も、評価も大きく下げる結果となっている。テラスのアイアンワークもガウディのデザインでは無い。バルコニーのアイアン・ワーク ジュゼップ・マリア・ジュジョール(Josep Maria Jujol)(1879年~1949年)とは言え、弟子、ジュゼップ・マリア・ジュジョールの色彩感覚はガウディ以上で、ガウディは信頼して任せている。そもそもカサ・バトリョ(Casa Batlló)のファサード、破砕タイルのモザイク(トランカディス)や 仮面? のバルコニーもジュゼップ・マリア・ジュジョールが手掛けていた。カサ・ミラはバルコニーを除き、ファサードや外壁面の装飾は一切無い。本来はテラスも、もっと豪華だったはずだ。 おそらく、カサ・バトリョのように多少なりとも破砕タイルのモザイク(トランカディス)で化粧されるはずであったと思われる外壁。結果は外壁も石肌のまま。とは言え、途中コンクリートに切り替えたサグラダファミリアよりマシ。破砕タイルのモザイク(トランカディス)自体は、廃品回収されたエコ素材であったので原材料にお金は掛からなかったろうが、家主は何より目立たない方向に方針転換したからだと思われる。ここも海の底をイメージしているみたいですね。海の泡に見立てられた? アイアン・ワークのドア。上の中庭はAからの撮影。下は3階からの賃貸住宅の図面かと思います。4家族の仕切りとなっている。ユニークな波打つ外観ではあるが、先に紹介したようにここの構造は柱・梁構造(はしらはりこうぞう)。居室フロアは間仕切りの位置を変えて各部屋を広げたり小さくしたりも可能な造り。普通なら、壁も強度を保つ役割を担うので、それはできないが、カサ・ミラでは構造の強度を柱・梁(はしらはり)でとっているので可能となっている。ワンフロアに幾つ世帯が入るのかわからないが、表道路側がオーナー家族で、後ろ側がメイドらの部屋に割り当てられていたのだろう。ここに居住できる人はセレブ。例え賃貸でもメイドやバトラーが居ただろう。とは言え、どの部屋にも窓がある造り。屋上からのA山歩きのように登ったり下ったりと、カサ・バトリョの時とは異なり、全てガウディの作品だからこそのトリッキー(tricky)さがある。カサ・バトリョではただよう煙(けむり)を造形化したデザインの煙突もここではさらに進化。まさに兜(カブト)・クローズヘルメット(Close helmet)を付けてマントをまとった戦士のように見える。下は階段塔兜(カブト)の煙突にモザイクを施してみたが・・。失敗だった?外観や屋上はやはり山。モンセラート(Montserrat)の岩山をイメージしているのだろうな。と思う。ガウデイ作品の源流カサ・ミラの職人は総勢100人ほど。ガウディは、1909年に彼ら全員を連れて慰安旅行としてモンセラート(Montserrat)詣でをしている。ガウデイが彼ら全員の汽車代とミサ代を支払い。ミラ氏が弁当(ワイン付)代を負担しての大掛かりなもの。いつもグチばかりの職人らがこの日は誰も何も言わず神妙な面持ちだったと言う。ガウディは静かで誰もグチをこぼさなかった事について感謝の言葉を残している。モントセラートは、バルセロナから列車で北西に1 時間ほどの位置にあるカタルーニャの聖山ですモンセラート(Montserrat)とは、「ギザギザな山」の意らしい。職人らも、自然のダイナミックさにきっと驚いたに違いない。この山の形、特殊ですよね。ガウディの作品に少なかながらず影響を与えているのは間違いない。カサ・ミラのイメージはまさにここかもね。4000~3400万年前に砂、砂利、泥が流れ込み堆積。厚さ1300mにも達した頃、圧縮され堆積岩(砂岩、礫岩)となってできたもの。それが2500万年前にアルプス・ヒマラヤ造山運動により地殻が隆起して山となって表れたが、元々堆積岩(砂岩、礫岩)の素材であるから、長年の浸食により現在のような非常に特殊な岩山が出来上がった。奇岩になったのは成分に石灰岩が多く、石灰が決着材となり固まった部分が浸食されず残ったから。ある意味、神のなせる業ともいえる。カタルーニャの聖山とされるのも理解できる。聖山、モンセラート(Montserrat)には昔からベネデイクト会の修道院があった。モンセラート修道院(Montserrat monastery)現在も80人程の修道士が修行している。奇岩にかこまれた山の中腹に修道院の見学ポイントは、大聖堂に置かれて居る「黒マリア像」。教会上の岩は近年も落ちてきているのであちこちにセンサーが取り付けられているらしい。ガウディは助手の時代(1873年~1883年)にモンセラート修道院の増改築で携わっている縁(ゆかり)の場所でもある。教会会頭部増築教会堂主祭壇裏祭室教会堂祭壇 現存せず。空撮写真が無いのでモンセラート(Montserrat)の看板を撮影したものの部分画像も悪いけどモンセラート(Montserrat)の山の特殊性がわかるかと載せました。長さ10km、幅5km、周囲25kmの楕円をしている。つづくBack number アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅リンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 コロニア・グエル教会とカテナリー曲線
2024年01月22日
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ラストに「ハプスブルグ家」関連Back number 追加しました。さて、紹介していなかった案件を掘り起こしました。写真はウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper)が中心です。内部の見学ツアーにまで乗っていたのに紹介する機会がなくて・・オペラに詳しい訳ではないので、その辺の話はできないですが、行かなくてもいいくらいに写真をたくさん載せました。また、こちらの歌劇場、元はオーストリア帝国時代の宮廷歌劇場として建築されたものです。オープニングには実質最後のオーストリア皇帝となったフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)も妃と共に出席しています。オペラに直接関係ないけど、劇場ができた当時の帝国は近代を迎え複雑な時代。神聖ローマ帝国の解体からオーストリア帝国の樹立。民族問題からの第一次世界大戦開戦。そんな事情を踏まえ、書いていたら結果的にハプスブルグ家帝国の終焉となる話になりました。劇場のこけら落としが1869年5月。この頃オーストリア・ハンガリー帝国の中で民族運動が激化。オーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割するも汎スラブ主義の先頭にたつセルビア王国との関係がより悪化。フランツ・ヨーゼフ1世の治世後半は民族問題で帝国の危機が訪れる。※ 本人は帝位についた時から大変だったと言ってます。さらに1889年には、皇位継承者の息子ルドルフ(Rudolf)がマイヤーリンクで謎の死を遂げる。1914年、次の皇位継承者であったフランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand)大公も暗殺された(サラエボ事件)。この報復でオーストリアはセルビアに宣戦布告。当初3ヶ月程度で終わるはずの戦いが、ロシアの参戦により自体はややこしくなる。欧州各国が巻き込まれて第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)となった。戦争中の1916年、フランツ・ヨーゼフ1世自身が肺炎で崩御。(86歳)フランツ・ヨーゼフ1世の後を甥の子供がついだが、第一次世界大戦の敗戦により帝位も剥奪され、ここにハプスブルグ家の帝国は終焉する???前半が劇場の写真と説明で後半がハプスブルグ家の落日となる話です。※ 落日(らくじつ)とは、「沈み行く太陽」の意。帝国の終焉(しゅうえん)を当てています。ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日建築にまつわる悲劇Schwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)宴席とTPOGustav Mahler Hall(グスタフ マーラー ホール)Marbele hall(マルベル・ホール)Tea Salon(ティー・サロン)Concert hall(コンサートホール)Wiener Opernball(ヴィーナー・オーパンバル)ルネッサンスの中で掘り起こされた古代の舞台劇ジョヴァンニ・デ・バルディ(Giovanni de' Bardi)ステージのバックヤード(backyard)暗黒の中世で失った文化 & ルネッサンス西欧の再興ドイツ語によるオペラの誕生ヨーゼフ2世(Joseph II)ハプスブルグ家の落日神聖ローマ帝国の解体からオーストリア帝国へ最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世ハプスブルグ家落日から世界大戦へ敗戦と帝国の解体ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper)の創建は1869年。それはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世。ベランダ上のアーチに、ドイツの彫刻家エルンスト ユリウス ヘーネル(Ernst Julius Hähnel)(1811年~1891年)作の 5 つのブロンズ像。左からheroism(英雄主義)、tragedy(悲劇)、fantasy(ファンタジー)、comedy(喜劇)、 love(愛)が表現されている。上の女性像はfantasy(ファンタジー)らしい。さらにロッジアの正面ファサードの上に設置されたペガサス(天馬)に乗った 2 人の騎手(Erato and Harmony)の像(1876年)もエルンスト ユリウス ヘーネルErnst Julius Hähnel(1811年~1891年)作。自分の写真が無ったので参考にウィキメディアから借り、部分カットで2者を並べました。どちらがどちらの女神か不明。二人は共に天馬であるペガサスに乗っている。「Erato and Harmony」は直訳すると「愛と調和」になるが、「Erato」は抒情詩・恋愛詩をつかさどる学芸の女神Erato(エラト)の事。(ギリシャ神話)Harmony(調和)の女神は聞いた事が無いが、Harmonyを具現化した女神像かもしれない。建築にまつわる悲劇建築はアウグスト・シカード・フォン・シカードブルク(August Sicard von Sicardsburg)(1813年~1868年)。内装はエドゥアルド・ファン・デ・ヌル(Eduard van der Nüll)(1812年~1868年)二人は親友で、共同プロジェクトをすでに幾つも行っている関係。1860年、ウィーン宮廷歌劇場のコンペが行われ、二人のプロジエクトが採用された。それは間違いなく二人の最も大きな重要な仕事。※ 開業時はハプスブルグ家の持つ宮廷歌劇場(The Vienna Court Opera)であった。※ ハプスブルグ家は神聖ローマ皇帝を世襲のように輩出した王家。※ 神聖ローマ皇帝については以下の章、「ローマ教皇とカール大帝」で扱っています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊ところがネオ・ルネッサンス(Neo-Renaissance)様式の建物は豪華さに欠けた? 皇帝や報道陣から多くの批判を受けたらしい。さらに、リング(環状道路)と同時に建築が始まった事で道路は当初予定より1mも高くなった。※ 道路は元々あった城壁を撤去した跡地を埋めて造られた。歌劇場は本来階段を上がって建物に入る造りの予定だったのだと想われるが、フラットになってしまった。それは埋没してるチェスト(たんす)に例えられて皇帝からもガッカリされたらしい。建築家エドゥアルド・ファン・デ・ヌルはそれを深く気にやみ自殺してしまったそうだ。さらにその10週間後? アウグスト・シカード・フォン・シカードブルクも亡くなった。彼の場合はたまたま? 結核と診断され亡くなったらしいが・・。二人の建築家が創建の前年(同年)に亡くなっているので調べてみたら、そんな事情があったようです。だから二人は落成を見る事はできなかった。無念だったでしょうね。エドゥアルド・ファン・デ・ヌルはウィーン中央墓地の名誉墓に埋葬されたそうです。1898年頃の歌劇場と劇場正面の道路がリング写真はウィキメディアから借りました。何も無いからか? 今よりも道が広い気がします。この頃、1897年5月、36歳のグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年~1911年)がウィーン宮廷歌劇場(the Vienna Court Opera)の第一楽長に任命され10月、37歳で芸術監督に就任。マーラー指揮の下で、ウィーンのオペラは、最高潮に達する。オペラハウスの左右翼側にはJosef Gasser(ヨーゼフ ガッサー)(1816年~1900年)作の 2 つの噴水がある。左側はmusic(音楽)、dance(ダンス)、joy(喜び)、 levity(軽やかさ)、右側はseduction(誘惑)、sorrow(悲しみ)、love(愛)、revenge(復讐)が表現されているそうだ。こちらは、もともとは馬車用のスペースだったらしい。1869年5月、こけら落とし(落成式)には皇帝夫妻(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリーザベト)が出席し、モーツァルトの「ドン ジョヴァンニ(Don Giovanni)」で開幕。フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)(在位:1848年~1916年)は18歳で皇帝となり、その治世は68年。旧態の帝国が近代に突入する激動の時代に皇帝となった。彼は実質最後のオーストリア皇帝である。※ マリア・テレジアの玄孫(やしゃご)。妻は美貌で有名なヴィッテルスバッハ家のエリーザベト(Elisabet)(1837年~1898年)。※ 以下でハプスブルグ家ルーツに触れています。リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降フランツ・ヨーゼフ1世の時代、無用となった城壁を取り壊してその跡にリング(環状道路)(1865年完成)を造ると、リングに沿って次々建物が建造され今のウイーンの街ができあがった。景観を考慮され建築技法はまちまちながらもネオ・クラシック、ネオ・ゴシックなど美しい建物が並ぶ。歌劇場(オペラハウス)もその一つである。前の道路がリングメトロの路線地図を利用したので見づらいですが、リング(環状道路)はイエローで印ました。歌劇場がピンクの円王宮がグリーンの円シュテファン寺院がブルーの円他のカラーは地下鉄のラインです。最寄り地下鉄駅はカールスプラッツ(Karlsplatz)です。歌劇場(オペラハウス)は非常に立地の良い所にあります。王宮にもシュテファン寺院にも歩いて行ける。リング沿線には美術史美術館、国会議事堂など大方の主要機関が並んでいます。リングの完成に合わせて移転するべく建設された所もあります。※ 以前紹介しているウィーン造形美術アカデミーは、建物は道路より奥まっていますが歌劇場(オペラハウス)の斜め向かいです。リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)オペラ座エントランスこちらは外からの左入口、左右対称に右もある。実は歌劇場は第二次世界大戦のおり、1945年3月、爆撃を受けている。メインファサード(エントランスとその上階のシュヴィント・ホワイエ、1階のティーサロン)、また大階段は奇跡的に破壊されずに残った。つまり、上のエントランス写真とこれから紹介する立派な大階段が1869年当時からの部分。エントランスからの中央階段エントランス入って階段はすぐにあるから待ちの場所が無い。これはガイドツアーに乗る人達のたまりです。ガイドツアーは予約制。自分の時は当日予約で入れましたが、今はインターネットで早くから時間取りをしないといけないそうです。当然、音楽祭や舞台のある日はありません。ガイドツアーの定員は30名。所要40分くらい。「Feststiege(フェスティバルステージ)」とも呼ばれるメイン階段の壁と天井。階段天井上の写真、左右下方のメダリオンは二人の建築家の肖像。彫刻家ヨーゼフ・セザール(Josef Cesar)(1814年~1876年)の作品。天井画はフランツ・ヨーゼフ・ドビアショフスキー(Franz Josef Dobiaschofsky)(1818年~1867年)タイトルは「Fortuna, ihre Gaben streuend」何と訳せば適切かわからないが、Fortuna(フォーテュナ)は運命の女神。幸運をもたらす女神とキューピッドが贈り物をばらまいている図となっている。1945 年3月、ウィーン国立歌劇場が爆撃される。1945年5月、ウィーン国立歌劇場の再建が発表。1946 年、諮問オペラ建設委員会が設立。1947 年、復興基金が設立された。第二次世界大戦の終戦後、資材も乏しい中でウィーン国立歌劇場の再建が開始。 完成まで10年。1955年11月、ウィーン国立歌劇場は新しい講堂と最新の技術を備えて再開。上の写真は再建中のウィーン国立歌劇場。ウィーン国立歌劇場のチケット予約のサイトの写真をお借りし、主要部のみ拡大させてもらしました。ウィーン国立歌劇場の苦悩は爆撃だけではない。第二次大戦下ではナチス政権下に入った1938年~1945年。多くのメンバーが追放され、また追われ、殺され、多くの作品が演奏を許可されなかった暗い時代があったと言う。Schwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)敢えてSchwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)と名がついサロン。帝国時代にはウィーン王族やそのゲストの為サロン。 ちょうどロビーの真上になる。Schwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)の名はオーストリアの画家Moritz von Schwind(モーリッツ フォン シュヴィント)(1804年~1871年)にちなんで名付けられている。※ ホワイエ(Foyer)とは、劇場やホテルのロビー、待合室、玄関ホールなどをさす。また入口から観客席までの広い通路の事も指す場合がある。マーラー、シュトラウス、カラヤンなど、偉大な指揮者の胸像が並ぶ部屋。ここは偉大なる音楽家らを讃(たた)えて構成されている。舞台の時は軽食が販売されたりするし、各種レセプション(reception)やバンケット(banquet)などに仕様変更されたりする。下、2枚はウィーン国立歌劇場のチケット予約のサイトの写真をお借りしました。ちゃんとクロスを架けると違いますね宴席とTPO集まりの違いについて少し・・。Reception(レセプション)は(会社などの)受付、(ホテルの)フロンのイメージがありますが、応接、接見、接待から歓迎の意味もあり、会議や歓迎会、また結婚披露宴のような集まりもさす。banquet(バンケット・祝宴)は、大勢の人が出席する特定の何か宴席の食事や祝宴そのもの。Gala(ガラ・祝祭)が付くとまた違う。gala banquet(ガラ・バンケット)は確実に何か大きな祝賀会や祝宴会の集まり。gala concert(ガラ・コンサート)記念(祝賀)の音楽会。gala dinner(ガラ・ディナー)は祝賀会(ディナー)の事であるが、内容はより具体的。regalでclassyでfancyと普通の集まりとは一線を画して断然格が上がる。※ regal 帝王にふさわしい、王者らしい、堂々とした、荘麗な※ classy 高級な、上等な、いきな、シックな、身分の高い※ fancy 創造的発想つまり、より上品で豪華な催し。服はイヴニングドレスである。さて、これら集まりには、TPO(ティーピーオー)が重要になる。TPOとは、Time(時間)、Place(場所)、Occasion(目的・場所・機会)の略。つまり、時と場合により服装や身だしなみに注意が必要だと言う事。学生のみなさんは経験が少ないから難しいかもしれないが、何かに出席したりする時は必ず事前に誰かに持ち物や服装を聞いて、恥をかかないよう対策をした方が良いと言う事です。※ あらかじめ招待状にドレスコード(dress code)と言う服装規定が示されている時はそれに従う。確実に言いたいのは、聞く人を間違ってはいけないよ。と言う事ですが・・。経験ある目上の人、複数人に聞くのがおすすめ。今はインターネットでも良いか・・。グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年~1911年)の胸像。マーラーは1897年5月、ウィーン宮廷歌劇場の第一楽長に任命され、10月に芸術監督になっている。1898年にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者になっている。ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督としては、1907年まで在任。全くの余談であるが、以前ヴェニス紹介の冒頭で、トーマス・マン(Thomas Mann)(1875年~1955年)の小説「ヴェニスに死す(Death in Venice) 」(1912年発表)に関する思い出の話を書いた事がある。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)小説を原作に映画化(1971年公開)したのがルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)(1906年~1976年)監督で、映画化(1971年公開)で主人公のモデルとして起用したのがトーマスマンの友人であったグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年~1911年)であった。映画音楽で採用されたのもマーラーの交響曲第5番の第4楽章「アダージェット」である。※ この曲は、実際マーラーが妻にあてた、音楽のラブレターでもあったらしい。マーラーと聞くと「ヴェニスに死す」の主人公、アッシェンバッハが浮かぶのだ。爆撃で破壊されなかったからこそ、当時の豪華さが忍べる部屋である。職人ワザで造られたハイクオリティーな部屋。修復があったとして、同じ物を作り直す事はできないだろう。ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(1908年~1989年)の胸像1956年~1964年 ウィーン国立歌劇場の芸術監督になっている。カラヤンについては、以前扱っています。リンク ザルツブルグ祝祭劇場とカラヤンの生家Moritz von Schwind(モーリッツ フォン シュヴィント)による16枚の絵画がこのホールに飾られている事からSchwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)と呼ばれている。Moritz von Schwind(モーリッツ フォン シュヴィント)(1804年~1871年)の専門はロマン主義の絵画である。ゲーテなど叙事詩の挿絵の素晴らしさから「詩人画家」という肩書きを持っている。また、音楽の楽しさを絵画で表現した人との評価もある。オペラ「Der Freischütz (魔弾の射手)」から「Le nozze di Figaro(フィガロの結婚)」など有名作品が描かれている。Gustav Mahler Hall(グスタフ マーラー ホール)正面ファサードの上にSchwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)。その右翼側の通路(階段の右側)がGustav Mahler Hall(グスタフ マーラー ホール)である。中心の赤く囲った部分。かつては皇帝の席。今はVIP seat(貴賓席)。手前の赤い囲みは本来は皇帝らのサロンだった場所。今はTea Salon(ティー・サロン)として何もない時に限り部屋の貸し出しもしている。Gustav Mahler Hall(グスタフ マーラー ホール)上の写真左が劇場への入口そもそもは、飾られていたモーツァルトの「Magic Flute(魔笛)」をモチーフにしたタペストリーからTapestry Hall(タペストリー ホール)と呼ばれていた場所。1997年5月、「グスタフ マーラーがオペラ ハウスで指揮者デビューして100 周年」その記念で名称変更された。タペストリーは触れられないようアクリル版が付いているので反射で撮影が難しいし、色味が実際と少し違うかと思います。ゴブラン織りらしい。奥にはマーラーの肖像画がかけられている。Marbele hall(マルベル・ホール)その名が示す通り、1950 年代に再建された大理石のホールである。床だけでなく壁にはめ込まれた絵画も大理石の象眼(ぞうがん)なのである。ヨーロッパの統一への願いから欧州各地から大理石が取り寄せられて使われている。※ 床、ドア枠、大きなビュッフェテーブルはオーストリア(ザルツブルグ)産。大理石の象嵌のデザインはハインツ ラインフェルナー(Heinz Leinfellner)(1911年~1974 年) こちらも劇場につながる扉は一カ所。戸口も大理石。こちらの写真では少し色が黄味ががってます。かつては、豪華なネオ・ルネサンス様式のホールで、上流階級のレセプション・サロンとして機能していたらしい。当初のSchwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)を見てしまっているから、修復後の今は何とも味気なく感じる。見学する必要ある部屋か? と思っちゃったもんね。どこかの社食みたいで。資金がなかったのだろうな? と思ったが、調べて見ると建築家の独断があったらしい。1949 年、再建の依頼を受け、全体的な芸術的方向性をになったのはエーリッヒ・ボルテンシュテルン(Erich Boltenstern)(1896年~1991年)。以前のモデルに従った講堂の設計の依頼を受けたにも関わらず? そうしなかった?建築家がモダンデザインに走った? 装飾のより強力な抽象化をねらったらしい。デザインが簡素化され、部屋の柱も抜かれ、装飾や彫刻装飾が削減および簡略化され、絵画的なデザインも完全に放棄され、つまらない箱部屋になった?これと対象に、1946 年再開のミラノのスカラ座は、新しい設計(モダン仕様)に反対し、従来の姿に戻す再建がされた。椅子、ベンチ、机、ビュッフェ、コートラック、ランプなどの調度品がすべて再現されている。再建においては、ミラノのスカラ座のような「元に戻す再建計画」の方が指示されるにいたったらしい。早い話が、やっぱり失敗で、悪い先例になったみたいですね。Tea Salon(ティー・サロン)VIP seat(貴賓席)への入口であると同時に、かつては皇帝の休憩ルームだった場所。天井と壁は金箔が使用されている。今はTea Salon(ティー・サロン)として部屋の貸し出しもされている。見学ツアーでは立ち入りできない。遠くから撮影。期待していたのはこう言うハイソな仕様。日本ではお目にかかれないからね。でも、オリジナルらしいが時代的が複雑だったから、いろいろチャンポンな仕様ですね。Concert hall(コンサートホール)ここが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体である。講堂の収容人数は以前の 2881人から 2284 人に削減された。※ 減少は、建築基準法と消防法規制の強化によるもの。席数は1709席。スタンディングスペース567席。車椅子スペース4席。(車椅子同伴席4席)。ステージ方面。ちょうどジャズフェスのセッティング中。VIP seat(貴賓席)かつての皇帝のbox席、それ自体がカーテンで閉まる。中央の大きなシャンデリアは安全のためクリスタルガラス製の内蔵天井照明のリングに置き換えられている。ガラスリングの重さは約3000kg。1100 個の電球が仕様されている。お値段は、中央前席が高いのは言うまでもなく、近くても真横だと安い。下は予約サイトの座席表である。ドイツ語だったのでオーケストラ・ピット(Orchestra Pit)と舞台・ステージ(Stage)をわかりやすく示しました。右のカラーがそのまま値段順のカテゴリーかと思います。つまり1のピンクが特等席で一番お値段が高い座席ですね。下の写真は本来のオーケストラ・ピット(Orchestra Pit)の場所ですが、ジャズ仕様だったのでステージと変わらない位置に底上げされているようです。オーケストラピットの広さは123㎡。約110名の演奏者が収容可能。Wiener Opernball(ヴィーナー・オーパンバル)※The Vienna Opera Ballarena seats(アリーナ・シート)の椅子をとっぱらって、そこは巨大なballroom(ボールルーム・舞踏場)となる。ウイーンのオーパンバルはここで開かれる。下の写真はウィーン国立歌劇場のチケット予約のサイトの写真をお借りしました。毎年2月灰の水曜日の前の木曜日にウィーン国立歌劇場で行われる舞踏会はヨーロッパで最も格式高いデビュタントボール(debutante ball)の一つ。※ キリストが磔刑にされ3日後に生き返った(復活)。それを記念する日が復活祭(Easter)。その復活祭(日曜日)の46日前の水曜日が灰の水曜日(Ash Wednesday)。四旬節の初日。キリスト教徒にとっては重要な祭り。デビュタントボールは、そもそも社交界にデビューする良家の子女らの君主へのお披露目の儀だったらしい。※ お見合い相手探しも要素に・・。初舞台となる舞踏会には純白のドレスに白く長いオペラグローブの着用が決められている。本来は上流階級や貴族の家柄の令嬢である事がまず第一条件。当然、礼儀作法も備えていなければならない。さらに20歳前後の才色兼備で洗練された容姿も端麗な女性と条件は高い。だからここに出られる事は名誉な事。それにしても基本女性のお披露目。パートナーは男性であるが、男性のデビューは言われないみたいです。※ 現在は貴族の子女のみならず、資産家令嬢や世界的に有名な芸術家の子女が参加できるデビュタントもある。ルネッサンスの中で掘り起こされた古代の舞台劇ルネッサンスはすでに失われていた古代ギリシャや古代ローマ時代の文化、文明の礼賛(らいさん)、そしてその再興(さいこう)である。オペラの素が考案されるに至ったのはまさにルネッサンス期のイタリア・フィレンツェである。その頃、偶然も含めて多数の過去遺跡の発見や書物の発見があった事もある。当時の知識人や人文学者、また芸術家らがこぞってそれら過去の遺物を掘り起こし、研究を行い、礼賛し、古代にあった文明を復興させようと活動した。当然、分野外でも、知識人らのサロンで取り上げられ、新たに発信される。「ルネッサンス(Renaissance)」は時代の一大ムーブメントとなって社会をも変えた。※ メディチ家のフィレンツェでの隆盛はまさにその助けとなった。前回「レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)」でプラトン・アカデミー(Platonic Academy)について書いているが、まさにその流れ(ルネッサンス)の中でイタリア音楽の再考も行われるに至ったらしい。※ プラトン・アカデミーは学校ではなく、いわゆるサロンである。集い、語らい学ぶ。メディチ家には人文学者を中心に人が集ったのだ。ジョヴァンニ・デ・バルディ(Giovanni de' Bardi)ではオペラは? どんなサロンから始まった?それは、コンドッティエーレ(condottiere)(傭兵隊長)であった? 軍人のジョヴァンニ・デ・バルディ(Giovanni de' Bardi)(1534年~1612年)のサロンで始まったようだ。※ カメラータ(Camerata)によって造られた。みたいな事がどこも書かれているが、カメラータ(Camerata)は固有名詞ではない。カメラータ(Camerata)の意は仲間・同士である。つまり、それらは趣味を同じくするサロンの集い人である。オペラもまた、サロンの中で生み出されたと言って良いだろう。※ サロンからアカデミーに発展した例もある。※ サロン文化はイタリアから発祥している。当時、イタリアの文化はどこよりも進んでいたらしい。※ 以前、サロン文化をフランスに持ち込んだランブイエ(Rambouillet)公爵夫人やサロンについて書いています。リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)ジョヴァンニ・デ・バルディは軍人として活動していない時、フィレンツェで過ごして居たようで、そこで趣味の音楽(彼は作曲もする)で仲間と集っていた。自身が主催者としてサロンを開き、また音楽や芸術家の後援者にもなっていたと思われる。※ コンドッティエーレ(condottiere)(傭兵隊長)については、前回「レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)」の中、チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)(1475年~1507年)の所で触れています。軍人の肩書きですが、そもそも良家の子息達です。リンク レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)※ ジョヴァンニ・デ・バルディは過酷であったマルタ包囲戦(1565年)にも参戦している軍人。マルタ包囲戦に関しては「海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦」の中、「聖エルモ城塞(Fort St.Elmo)」で書いています。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦これも前回触れたが、イタリアの傭兵トップは洗練され教養ある事を尊いとされていたから、大卒もあたりまえにいた。彼もまた深い古典教育を受け、ラテン語とギリシャ語に堪能であった人物とされる。また、作曲の技術も学んでいたと言うから、全方位に優れた人だったのだろう。バルディは現状のイタリア音楽をなんとかしようと古代ギリシャ音楽を復元する事を思いついた?※ 1573 年初会合。活動は1577年~1582年頃?そのサロンに集った仲間・同士(Camerata)の中には天文学者ガリレオの父ヴィンチェンツォ・ガリレイ(Vincenzo Galilei)(1520年~1591年)もいたと言う。 彼らが見つけた音楽は、歌うような台詞を用いる劇。フィレンツェやヴェネツィアなど裕福な都市で富裕層らの娯楽から発展して行く事になる。これがオペラのルーツとなる。イタリア・オペラが正統派オペラの形式だと言われる所以だ。故にオペラはイタリア語が基本とされた。それは国が変ったとしても作曲者が英語やドイツ語を母国語にしていたとしてもイタリア語の脚本で書れ、歌もイタリア語でうたわれていた。※ イタリア語ではなく本来はラテン語だったのかもしれない。古代ローマ帝国がラテン語を公用語にしていたから学識ある富裕層はラテン語を学ぶ。立派な本もラテン語で書かれている。ドイツ語のオペラが登場するのは割と近世の事。それは、かのハプスブルグ家に因縁があった。現在はイタリア・オペラとドイツ・オペラが存在する。そしてここ、ウィーンではのどちらも演目される。ドイツ・オペラの最大の功労者がヨーゼフ2世(Joseph II)(1741年~1790年)(在位:1765年~1790年)。マリア・テレジアの息子である。詳しくはヨーゼフ2世のところで紹介。ステージのバックヤード(backyard)黒い幕が舞台カーテン。防火の為、ステージと客席を隔てるメインカーテンと、サイドステージとバックステージの防火用にさらに2枚の鉄のシャッターが3枚付けられている。消防法の問題であろう、以前の木製の天井も鉄筋コンクリートに変えられている。暗黒の中世で失った文化 & ルネッサンスなぜ古代の文化は失われたのか? 失われた古代の素晴らしい文化文明。それを蘇らせたのがイタリアで発祥したルネッサンスだった。以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の所で「ローマ帝国の歴史はユスティニアヌス1世(在位 : 527年~565年)あたりでだいたい終わっている。」と、紹介した。再征服を目指していたユスティニアヌス1世であるが、不幸な事に彼の治世に542年~543年頃、歴史的パンデミック(pandemic)が置きる。エジプトで発生し、パレスティナ、そしてコンスタンチノープルへ疫病が運ばれ、人口の約半数を失ったと言う。疫病はさらに欧州、中近東、アジアに拡大。最初の発生から約60年にわたって流行したらしい。さらに557年にはアナトリア半島一帯で巨大地震が起き、主要都市は壊滅状態。その復興もできない中、イスラム勢にどんどん領地を奪われ国庫は財政破綻。ローマ帝国領は縮小の一途をたどって行く。人材も、お金も無く軍隊を組織できなくなったローマ帝国は滅亡して行ったのである。ローマ帝国無き後の中世は暗黒時代に突入する。警備を担当していたローマ兵が消えたのだ。もはや蛮族の侵入やイスラムの海賊の侵入を阻止できなくなった地中海含めて欧州は荒れに荒らされて壊滅し、古代の英知も失われて行ったと言う訳だリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊西欧の再興 & 神聖ローマ帝国の誕生帝都の置かれた(東ローマ帝国)コンスタンティノポリスはともかく、西ローマ帝国が解体されてからの(元)西ローマ帝国内の惨状は特にひどい。何しろトップが実質、ローマ教皇であるから、軍隊が無い。自主防衛もできない。だからローマ教皇はフランク王国のカール王を神聖ローマ皇帝に任命し、西ローマ領の防衛の丸投げをしたのだ。訂正部分カール(Karl)大帝=シャルルマーニュ(Charlemagne)大帝 神聖ローマ皇帝(在位:800年~814年)カール王率いるフランク王国の快進撃は続いていた。おかげで西ローマ帝国内の治安もようやく回復に向かう事になる。当初はフランク王国が、そして後にドイツ諸侯らの会議と(選定公による)選挙により神聖ローマ皇帝が選出されるにいたったのはそんな歴史から始まっている。※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の中、「ローマ教皇とカール大帝」で詳しく書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊因みに、ハプスブルグ家は、そうした諸侯の中で成功? 長きに渡り「神聖ローマ皇帝」を輩出し、もはや世襲化させた一族なのである。※ ハプスブルグ家はマリー・アントワネットの実家です。母(マリア・テレジア)は女であったので「神聖ローマ皇帝」にはなれなかった。だから、ほぼ婿養子(むこようし)の夫フランツが「神聖ローマ皇帝」として即位したのである。ドイツ語によるオペラの誕生ドイツ語によるオペラの創出に貢献したのがマリア・テレジアの息子であるヨーゼフ2世(Joseph Ⅱ)(1741年~1790年)(在位:1765年~1790年)である。これは、彼のドイツ主義な政策からうまれたらしい。ヨーゼフ2世(Joseph II)父王亡き後、神聖ローマ皇帝となり、母と共に共同統治者となるも母とは対立。なぜなら、母(ハプスブルグ家)と敵対して領地まで強奪されたプロイセンのフリードリヒ2世に傾倒していたからだ。※ フリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)は当時、啓蒙専制君主として本を出版し人気を博していた。実際、オーストリア領の強奪などやっている事は違ったが・・。※ マリア・テレジアとフリードリヒ2世の戦争は以下に書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)プロイセンのフリードリヒ2世のような啓蒙専制君主になりたくて、思いつきも含めていろんな改革を断行した皇帝だ。市民の為に良き君主として振る舞ったつもりだったらしいが、改革の多くが挫折に終わっている。実際、死者の埋葬など葬送の簡素化(薄葬令)は非常に評判が悪かった。※ 墓碑の名前も一時期禁止された。モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart)(1756年~1791年)のお墓不明事件はそこから派生している。※ ハプスブルグ家の棺も、以降、当主以外はほぼ鉛棺(なまりかん)に変っている。高評価には学校の創設や病院の建設などがあげられているが、それは母がやってきた事と混同され過大評価されている部分があると思う。マリア・テレジアの出産数は多い。自身が経験した出産の不安などドイツ女性の事を考えてすぐれた医師を国内に呼び病院を建設したのは彼女だ。過大評価されているらしい節はあるが、彼のドイツ主義は評価できるのかもしれない。1776年、ヨーゼフ2世はドイツ文化推進政策をかかげた。大学の授業をラテン語からドイツ語にするなどドイツ主義が顕著(けんちょ)に見られる。またドイツ語による歌芝居や大衆演劇の一形であったオペレッタなどのジングシュピール(Singspiel)。ドイツ語使用度の向上も兼ね備えていたのかもしれないが改革はドイツ演劇自体を高め、ドイツ語によるドイツ・オペラの誕生につながる事になる。今までオペラと言えばイタリア語。それは一部貴族階級のものでしかなかった。ドイツ語にする事で大衆に向けたのかもしれない。※ モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart)(1756年~1791年)はジングシュピールの名作を遺している。1782年には皇帝の委嘱で「後宮からの誘拐(K.384)」を作曲。最晩年にはジングシュピールの傑作「魔笛(K.620)」を発表。その「魔笛(K.620)」はモーツァルトが生涯の最後に完成させたオペラと言われる。ところで、ヨーゼフ2世は少し? 変わり者だったのかもしれない。それはカプツィーナ・グルフトの彼の棺を見れば解る。ヨーゼフ2世(Joseph II)(1741年~1790年) (在位:1765年~1790年)の棺(手前)自ら墓碑には「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」と入れている。自分でも「満足のいく仕事は何もできなかった」と思っていたのだろうか?遺言で自身の棺について「質素に」と言ったらしい。※ 以下でハプスブルグ家の墓を書いてます。リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降ハプスブルグ家の落日ハプスブルグ家最後の家系図神聖ローマ帝国の解体からオーストリア帝国へ1806年、神聖ローマ帝国はナポレオンの進軍により解体され844年の歴史を閉じた。つまり最後の神聖ローマ帝国皇帝がフランツ2世(Franz II)(1768年~1835年)なのである。同時にフランツ2世(Franz II)は初代オーストリア帝国皇帝として即位する。(在位:1835年~1848年)フランツ2世(Franz II)(1768年~1835年) 神聖ローマ皇帝(在位:1792年~1806年)オーストリア皇帝としてはフランツ1世(Franz I) 初代オーストリア皇帝(在位:1804年~1835年)カプツィーナ・グルフトにあるフランツ2世(Franz II)の棺Kaiser Franz IIと書かれていた。最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世下のポートレートはウィキメディアから借りました。フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)(在位:1848年~1916年) ハプスブルグ家帝国の終焉となる実質最後の皇帝。彼はオーストリア国民には慕われていたらしい。妻の美貌の方が有名であるが・・。下のポートレートはウィキメディアから借りました。結婚の時の写真らしい。エリーザベト・フォン・エスターライヒ(Elisabeth von Österreich)(1837年~1898年)生涯、美貌とスタイルの維持には務めていらしい。ウィーン王宮の部屋には美容器具が置かれていた。以前扱っています。リンク シシィとゲルストナーのスミレ菓子日本での人気も高いですが、エリーザベト(Elisabet)(1837年~1898年)は結構不幸な女性です。予期せず、見染められて若くして結婚。結婚してからは義理の母にいびられ、生んだ世継ぎの息子は謎の死をとげ早世する。以降彼女は喪服で過ごしたと言う。宮廷にいる事をさけ、旅を続けたが、1898年ジュネーブでイタリア人無政府主義者に心臓を一突きされ暗殺されている。もともと、彼女に一目ぼれで母の反対を押し切り強引に結婚した夫フランツ・ヨーゼフ1世は泣き崩れたと伝えられる。カプツィーナ・グルフトに収められている二人の棺左がエリーザベト(Elisabet)(1837年~1898年)の棺。中央がフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)の棺。ハプスブルグ家落日から世界大戦へ19世紀、街は近代化を迎え美しいウィーンの街が誕生する一方、ナポレオンにより解体されたハプスブルグ帝国はどんどん縮小されていく。もはや神聖ローマ帝国と名乗れ無くなった(1806年解体)ハプスブルグ家はかろうじてハンガリーを併合、1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国を樹立。しかし、帝国内で民族問題が勃発。もともとイスラムとカトリックが入り混じった複雑な土地を領土に組み入れたのが最大の問題であったろう。1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合する頃はセルビア民族問題が拡大。ロシアとの関係も悪化して行く。そんな中で1914年、軍事視察に出かけた皇位継承者であったフランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand )(1863年~1914年)大公夫妻がサラエヴォ(Sarajevo)(ボスニアの州都)でセルビア民族主義者により暗殺された。(サラエボ事件)オーストリア・ハンガリー帝国は報復としてセルビア王国に宣戦布告する事になる。これが世界を巻き込んだ第一次世界大戦の始まりなのである。この時点でフランツ・ヨーゼフ1世(在位:1848年~1916年)はまだ皇帝であった。バルカン半島に軍事基地を持たない帝国には不利な戦いと解っていたが、立場上開戦しなければならない。フランツ・ヨーゼフは「もし帝国が滅亡しなければならないなら、少なくとも品位をもって滅亡すべきである」と言ったそうだ。実際、この大戦の後にオーストリア帝国は解体され、滅亡した。当初はドイツがロシアに圧力をかけて、簡単に終わると思われた戦いであったのに、ロシアがセルビア側について参戦してきた。そうなると同盟国が参戦しなければならないと言うルールからドイツと三国同盟関係にあるオーストリアもロシアに宣戦しなければならなくなった。また、ロシアと三国協商関係にあったイギリスとフランスも参戦。ややこしい展開となりヨーロッパ全土が巻きこまれて行く。それで一部地域の紛争のはずが、「第一次世界大戦」となったのだ。この戦争では、他民族帝国のオーストリアの軍事力の無さも露呈する。そもそも軍隊の言語も統一されていなかったそうだ。また、戦争が長引けば食糧問題や経済問題でストライキも出てくる。フランツ・ヨーゼフ1世は、国民の飢えを嘆き早くに戦争を終わらせたいと願ってはいたが、衰弱し始め1916年11月、肺炎で亡くなった。享年86歳。心労が死期を早めたのかもしれない。敗戦と帝国の解体次代はフランツ・ヨーゼフ1世の縁戚にあたるカール1世 (Karl I)(1887年~1922年) (在位:1916年11月~1918年11月)が戦下の中、1916年即位するも1918年、敗戦が決まる。敗戦と共にオーストリアは帝国から共和制に移行する。もはや皇帝はいらない。ここにハプスブルグ帝国は消滅した。が、以前「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」を書いた事を思いだした。そこでハプスブルグ方式で行われた分割の埋葬は2011年のオットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)(1912年~2011年)が最後と紹介しているのだ。※ 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)※ ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓オットー・フォン・ハプスブルグは最後の皇帝となったカール1世 (Karl I)の長男であり、期間2年とは言え皇帝の皇子であった人。身分こそ無くなったが、彼には金羊毛騎士団の主催者としての任が与えられていたらしい。スペイン版とは異なり、オーストリアの金羊毛騎士団はドイツ諸侯らに限られていた。でも、現在も存在しているようだ。騎士団そのものはまだ残っているらしい。そしてそれを守るのはやはりハプスブルグ家の人々なのだろう。※ 金羊毛騎士団と勲章はマクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年~1519年)の時に妻の実家(ブルゴーニュ公領)からハプスブルグ家に継承された。そんなわけで、帝位こそなくなったが、ハプスブルグ家の存在事態はまだ消えるわけにはいかないのかもしれない。(おわり)「ハプスブルグ家」関連Back number ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ハプスブルグ家の三種の神器リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
2023年10月08日
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関連Back number追加しました。Break Time(一休み)次回の構想で必要になる本を数冊取り寄せ、まだ読み切ってもいません。まだ完成には遠く、そこで内容変更。序章の部分を写真増やして独立させて今回をしのぐ事しました。大変 m(_ _;)m 申しわけありません。この夏はどうも所集中力に欠けて・・。作業をやる気になれなくてすぐにYouTubeに逃避。構想はできたけど日中用事で出かけると夜はグッタリ思考が働らかず・・。視力も落ちてきて、写真の選択をしていると眼精疲労で? 眠くなる。写真を選ぶだけで数日。特に今回の写真は古いのでカメラの解像度も低い。加えて高度が高い為に写りも悪いし見えにくい。余計大変でした。そんな訳で今回はBreak Time でショートネタです。新大陸アメリカのミステリーから・・。新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)パラカスの地上絵(Paracas geoglyphs)パジェスタ島のアシカイカ県(Departamento de Ica)ナスカの地上絵(Nasca Geoglyphs)パンアメリカン・ハイウェイ(Pan-American Highway)西欧の人間が新大陸であるアメリカ大陸を見付けたのは15世紀の事だが、アメリカ大陸にも実際紀元前から脈々と文化が育まれていた。でも、それは未だ全容解明できていない。西欧の文化と交わっていないので、全く独自路線で育まれた文化を検証するのは難しいのかもしれない。特に文字と言う文化が無かった所もある。また、文字はあっても解読ができない。そうなると歴史をたどる事さえできないからだ。何よりコロンブスがたどり付いた新大陸は広大だった。彼が発見したのは南北大陸のつなぎ目、メゾアメリカのほんの一部。氷山の一角にもなにらない新地の発見だった。新大陸への植民はコロンブスの後に続く一攫千金を狙う猛者(もさ)達によって開発・・と言うよりは侵略と言う形で広げられて行く。その過程で、部族間の均衡は崩れる。既存の文明は強制的に破壊され消滅して行った。現地の人から見れば彼らの犠牲は大きく、彼ら西欧人は非情な侵略者以外の何者でもなかったろう。逆にコンキスタドール当事者側から見たら? 彼らも恐怖の中、命をかけて征服を敢行し、野蛮な宗教を排除してキリスト教を布教。称えられるべき活躍をした? と言う解釈になろう。が、これは当事国内でも評価が分かれたようだ。当事国は莫大な経済の恩恵を受けたのだから、否定はしにくいからね・・。哲学者にして経済学者でもあるイギリスのアダム・スミス(Adam Smith)(1723年~1790年)は「国富論」の中で人類の歴史を二分する画期的事象としてコロンブスのアメリカ大陸発見とヴァスコ・ダ・ガマのインド到達を上げた。が、歴史的意義としては否定しているそうだ。果たして彼らの征服と言う蛮行は「世界史上の偉業」なのか? 黒歴史なのか?※ コンキスタドールについて・・。が、書く予定だった所です。それは次回の欧州編に・・。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)今現在、破壊された文明を取り戻す事はできないが、研究は進んでいる。そんな中で未だ新発見の出る大陸です。今回紹介するのも、実は割と近年に発見されたもの。なぜなら、それは上空から見ないと発見できなかったからだ。飛行機の登場、そして近年はドローンによってもっと細やかに探索できる。これからアンデス山中や、ジャングルの密林の中からも古代遺跡が発見できるかもしれない。やっぱり科学は日々進歩しているのだな・・と思う。パラカスの地上絵(Paracas geoglyphs)ペルーと言えばナスカ(Nasca)の地上絵を想像する人は多いと思うが、その巨大な地上絵こそ、「謎の文化」の賜だ。実は、そのナスカ文化の前章とも言える地上絵がペルーのイカ地方に存在していた。割と知られていないその絵はパラカスの地上絵(Paracas geoglyphs)と呼ばれている。パラカス半島沿岸の地上絵ペルーのパラカス半島(Paracas Peninsula)北部のペヘレイ岬謎の絵が刻まれている。この絵自体の製作年は実の所定かになっていないようだが、出土する土器から紀元前と推定されている。BC1200年~BC100年頃にこのパラカス半島に存在していたパラカス文化(Paracas culture)はナスカ文化よりもさらに1000年程古い。彼らの陶磁器や 精巧な織物、そして何よりその図像からパラカスで生まれた文化は、実はナスカ文化の源流と考えられている。特にパラカスで生まれた? 織物と刺繍はその芸術性が高く評価されている。下はウィキメディアの写真です。図像がはっきり見えている。上の地上絵、縦190m、幅70mメ。溝の深さ1m。スペイン語で「パラカスのカンデラブロ(El Candelabro de Paracas)」カンデラブロ(Candelabro)とは「枝付き燭台」の意。確かに私も最初に見た時にユダヤ教で使われる燭台(キャンドルホルダー)であるメノーラー(menorah)を想像した。枝付き燭台か? あるいはメソアメリカの世界樹か? ※ ナスカにも世界樹とされる絵がある。全然似ていないが・・。実際の所は何なのか? 謎らしい。謎の絵ではあるが、海からしか見え無い事から寄港の目印だったかもしれない。因みに、2018年のドローン調査で他にもパルパ郡から多くの地上絵が見つかっているらしい。下もウィキメディアから借りたパラカス自然保護区の海側からの写真です。ペルーのクスコ(Cusco)と、ナスカ(Nasca)、パラカス(Paracas)の位置を示した地図ですグーグルマップを利用しました。ナスカ(Nasca)の所のマークは主要な地上絵の位置です。ところで先にも触れたが、パラカス文明はナスカ文明の源流となる文化である。実際ナスカはここから近い。パラカスはペルー南西イカ県にある。(ナスカもイカ県です)その県都イカからはナスカの地上絵を観る為のセスナが出ている。つまりナスカの地上絵を見るなら、イカからなのである。※ クスコから小型機でイカに入り、イカで遊覧セスナに乗り換えて地上絵を見学するのがお勧め。地上から行ってもパンアメリカン・ハイウェイ(Pan-American Highway)沿いにある展望台・ミラドール(Mirador)から、その前にある手と木という2つの図像しか見られません。地上絵は広大な平原に点在してあるし、当然ハイウェイから平原内には入れないからです。展望台・ミラドール(Mirador)は、今や中に侵入する輩の監視目的が主となっているようです。また非常に大きな絵ですから、空から小型のセスナで旋回しながらでないと写真撮影もままなりません。部分では何なんで南米の写真も追加ピンクで囲ったのがペルーです。見えにくいけどもANDESのDの上の紫の★がクスコです。パジェスタ島のアシカところで、パラカス(Paracas)にはこれを見にきたわけではなく、アシカ見学の為、パジェスタ島(Ballestas Islands)に向かう為に船に乗っている。実はこの海域は野生動物が多数生息している事からリトル・ガラパゴス(Little Galapagos)とも呼ばれるらしい。フンボルトペンギン、オタリア(アシカ科)、ペルーペリカン、インカアジサシ、グアナイ鵜、ペルーカツオドリなど生息。現在島には立ち入りはできない。エサが豊富な海域なのでしょう。前に「ペンギン・コロニー(Boulders Beach&Antarctica)」の中、「南極環流と海洋深層水」で紹介しましたが、南極環流(Antarctic Circumpolar Current)から南太平洋亜熱帯循環(South Pacific Subtropical Gyre)へとミネラル豊富な海洋深層水が巡っている。ペルーの海域は南極環流の純度の高いミネラルが真っ先に集まるから栄養価満点の海なのでしょう。プランクトン ← 小魚 ← 大きな魚、ペンギンやアシカが集まる。海洋生物の天国ですね。リンク ペンギン・コロニー(Boulders Beach&Antarctica)意外にも、ペルーで最も観光客が訪れた国立自然保護区ランキングで2018年に全国1位を記録していると言う。実際、ナスカの地上絵より子供受けはするしね・・。下はウィキメディアから仮りました。パジェスタ島(Ballestas Islands)の全景ですイカ県(Departamento de Ica)南米大陸の大西洋の海は栄養豊富なのに・・。南米大陸の西岸部は砂漠地帯。不思議な国アンデス山脈と海岸の間は山地によって湿った空気が遮断される為に乾燥する。南米西岸は世界でも最も乾燥した砂漠地。アタカマ砂漠(Atacama Desert)は現在チリ領になっているが、ペルーの沿岸部もまたアタカマ砂漠に接続する砂漠地帯なのである。イカは砂漠地でありながら1563年、スペインの植民となると農産地に変わる。綿花、ブドウ、アスパラガス、オリーブなどが栽培された。イカの港は欧米への輸出で栄えたそうだ。特にブドウ畑は南米で最古とされるらしい。セスナで空港を飛び立つと眼下には砂丘と共にブドウ畑が連なっている。太陽光が強いからイカで作られるワインは糖度が高くフルーティーになるそうだ。近年ペルーのワインは有名であるが、食用ブドウの生産はイカだけらしい。上空に行く程、カメラの解像度の悪さが出ますが、参考までに・・。砂漠地帯を開拓して土地を拡大しているのが解ります。砂埃のせいか? 街が全体に茶色い。砂丘の中にあるイカ近郊のワカチナ(Huacachina)のオアシス周辺は国立保護区に制定。本当に絵に描いたようなオアシスですが・・。このオアシス自体は池のようなものです。砂漠の中にある事に意義がありますが・・。最も一度枯渇した過去があり、現在は定期的に水の入れ替えが行われているらしい。つまり湧いているわけではないのかな?セスナの順番を待つ間に観光したりする。ナスカの地上絵(Nasca Geoglyphs)地上絵を空から見たい人はセスナに乗る必要があります。イカ(Ica)の空港からセスナに搭乗。セスナは操縦士入れて定員6人程度。飛行機は5~6機がほぼ同時に出発するが、当然、観光客をさばききれない。近年はもう少し人数の乗れるセスナを入れたらしいが、大型化すると地上絵を見るのには大きく揺れて傾くので酔うのである。下はかなり前の写真です。写真の解像度だけでなく、現在この航空会社は無いかもしれませんが、セスナのサイズとしてはこんなものです。タクシーサイズです。奧の飛行機はリマからの飛行機かも。セスナは数人を乗せてのローテーションで運航されている。この搭乗の順番待ちの為にイカの空港近郊での滞在時間が長くなる。団体グループの場合、仲閒が全員乗り終わるまで時間をもてあます状態です。因みに、今年(2022年2月)、地上絵観光のセスナ機墜落のニュースがありました。「乗客の外国人観光客5人と乗員2人の7人全員が死亡」上の機より少し大型のようですが、そんな事もあります。そう言う事も覚悟して行く事です。安全の100%保証は無いのです。下はクスコからイカ(Ica)に向かう機中からの撮影かも多分下はラクラ(Lacra)の街下の線はパンアメリカン・ハイウェイ(Pan-American Highway)ナスカは年間降水量の極めて少ない乾燥地です。白いのはかつて水が走った跡。滑走路のように見える図形も実は謎の一つ。ナスカラインと呼ばれる幾何学模様の一つです。ナスカは地上絵で有名ですが、図像よりもむしろ巨大な数学的幾何学模様や線の方が多いのです。図像の位置を示した地図です。位置的に図で見ると左上中央から入るのかな?No21 フクロウ男 or 宇宙飛行士 長さ32mNo7 コンドル 長さ136mNo1 ハチドリ 長さ96m写真が古いので解像度も悪いカメラですが・・。図像をはっきりさせる為にみなさん少なからず色調調整しているようです。実際の肉眼では線や絵は薄くて見えにくいのです。線を際立たせるには、全体に暗くしないといけないし・・。天気もあるけど・・。パイロットが左右撮影しやすいように機体を傾けてくれますが、いずれにせよ飛行機の窓からです。尚、上空では数機の飛行機が同時に遊覧しています。No11 クモ 長さ46mNo3 サル 長さ110mパラカス文化を継承したナスカ文化もまた彩色土器と織物の染色に特色があると言う。そしてそれらナスカ式土器の文様と地上絵の類似点から地上絵の図像もナスカ時代と推定された。また地上絵の中から発見される土器片の年代からも同一時代の産物である事は解ったらしい。それらから、地上絵が描かれた年代は、パラカス文化の終わるBC200年頃からAD800年頃のナスカ文化の時代に描かれたものだとほぼ確定されている。ただ、動物の意匠はともかく、700本以上の線や幾何学図形が何を示しているのか?当初は天体との関係も考えられたが、今は天体との関係はほぼ無い事が解明された。では宗教儀式によるものなのか?隣国、ボリビアでは雨乞いの為に線上を祈り行列して歩く風習があるらしい。ナスカの地上絵は一筆書きとなっている事から、そうした宗教行事の為に作成された? と言う説が今は有力らしい。No18 オウム 長さ200m不等四辺形Lines and Geoglyphs of Nasca and Palpa(ナスカとパルパの線と地上絵)世界文化遺産に登録されている。(2016年に名称変更)No16 木 長さ97m (下写真右)No17 手 (下写真左)No17 手 長さ45パンアメリカン・ハイウェイ(Pan-American Highway)と展望台・ミラドール(Mirador)地上絵のある平原を横断しているのが不思議でしたが、地上絵の発見は1939年。ペルー内の道路はすでにあったのだろうと思われる。何よりパンアメリカン・ハイウェイの脇に置かれた展望台・ミラドール(Mirador)がそれを示しているのかも。ミラドールは今は地上絵にむやみに入り込み荒らす者らの監視として置かれている。車で入り荒らす者が増えているそうだ。地上絵はそもそも地表とその下の土壌の色の違いでできているからドリフトなんかされたら最悪。人の侵入でさえも特別な履き物があるらしいのに・・。本題には関係ありませんが加えました。パンアメリカン・ハイウェイ(Pan-American Highway)各国の主要幹線道路をネットワークとしてアメリカ北米から南米までを一本で(北米は2本? )繋いだ道路です。米国内、分かれた2本。どちらがメインか決められないのかも)北はアラスカ州フェアバンクス(Fairbanks)orプルドーベイ(Prudhoe Bay)を起点に南はアルゼンチンのウシュアイア(Ushuaia)に至る全長約48,000kmコース。道は段階的に造られ、繋がって行ったらしい。アメリカ大陸は一つと言う感じがして何だが壮大な気がしますが、ラテンアメリカ諸国の政情不安や治安悪化によりドライブが危険なヶ所もあるらしい。本線の他に支線も多数あるらしいので迂回ルートもある。アメリカが中心にまとめて出資も多くしているから? 標識などはアメリカ標準になっているらしい。イカに戻るセスナから帰りの方が地形がよく見える。太陽の方角のせいか・・。本来はイントロ部分になる予定でしたが・・。次回は予定どおり「アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)」の予定です。m(_ _)m関連Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world) 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2022年07月22日
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ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂のジオラマの写真追加しました。尚、誤字の他に若干の書き換え修正もしています。今回は「福者」の説明を書き足すだけの予定でしたが、いっそ過程から・・と「迫害」、「殉教」、「異端狩り」、「聖遺物収集」、「聖人」など書いている間にどんどん盛り込まれ、本来、キリスト教史に関する補足的な説明回の予定でしたが、気付けば非常にマニアックなネタの集合となりました。本来5本くらいにバラして載せてもよい内容の物をまとめて掲載しています。それぞれに時間かかってます。いつもよりさらに長いかも・・。写真は「殉教者記念堂(martyrium)」となるヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)の写真を軸に構成しています。個人的なサンピエトロ大聖堂の謎も見つけて入れ込んだりしていたので聖堂の方も盛り沢山さんです。また、「聖遺物収集」や「聖人」については他からも写真を引っ張っています。中世の聖遺物収集や聖遺物容器などカトリック教徒の方でも知らない人のがほとんどでしょう。興味を持って追わないと集められないレアな聖遺物写真載せています。それにしても、例によって書いているうちにどんどん違う方向に進み内容も増え、着地もタイトルも二転三転。当初はラベンナのサン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale)も載せる予定でしたが、サンピエトロ大聖堂の内容が増え過ぎてカットしました。2回目のワクチン前に出せず、辛さ2倍でワクチン後2日完全休息。今回もお待たせしましたm(_ _)m聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂副題 使徒ペテロの殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)キリスト教の発展と殉教と異端 神学的異端? 帝国が動乱するとキリスト教徒との関係悪化 二人の皇帝による迫害 皇帝の都合による迫害中止 キリスト教公認後の異端者狩り ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano) 迫害と殉教聖人のハウツー(how-to)本?「黄金伝説」殉教者信仰が生んだ殉教者記念堂マルティリウム(martyrium) 殉教者記念堂マルティリウム(martyrium) 殉教者信仰から聖遺物収集に 聖遺物からの免罪符問題 聖人の仕分け遺物のロッジア(Loggias of the Relics)聖人と認定されるまで(神の僕 → 尊者 → 福者 → 聖人) 殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr) 証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor) 列聖の審査 プレゼンテーション・チャペル(Presentation Chapel)聖なる扉(Porta Santa)キリスト教の発展と殉教と異端以前少し触れたが、キリスト教徒の迫害は当初はユダヤ人の憎悪による抗争から始まった。※ ペンテコステからパウロの布教のあたりについて「ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)」の中「異教徒に広がるキリスト教 ペンテコステの日の奇跡」で書いています。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)信徒らの布教によりキリスト教が拡大する中で当然、摩擦は起きるし殉教者も出たであろうが、地域的に単発に起きていた程度で、最初はそれほど多かったわけではないそうだ。何しろ当時のローマ帝国は多神教。帝国は広域だったのであらゆる民族の宗教を認めてきていたから当初ローマ帝国からの迫害は無く、ほぼ単発の民衆迫害がある程度だったらしい。2世紀になると異教から改宗した支持者も出だし教養あるギリシャ人の信者が増え始めていた。徐々に完成されつつあった教会組織は、3世紀初頭、数はまだ少ないもののパレスチナ、シリア、小アジア、イタリア、北アフリカにまで広がり、さらにその世紀にエジプト、ヒスパニア、ガリアで教会や司教の存在が確認されるまで拡大していた。※ この時点ではまだキリスト教徒はローマ帝国から放任されていたから組織は安定? 教会の建築など文化も生まれつつある。迫害による殉教が増えるのは、3世紀後半のローマ帝国による直接的な迫害であったが、他にもキリスト教徒の増加に比例して増えた部分もあった。西はローマ、カルタゴ、東はアレクサンドリア、アンティオキア、エフェソスにある教会がそれぞれの地域を統括するべく司教座が台頭。それらは独自の考えを持ち、司教座間の教義上の主張点にズレも出てきていたが、少しずつ着実に地中海地域での改宗がすすめられていた。※ 布教がカルタゴまで広がると信仰や典礼に使う言葉はギリシャ語、アラム語に加え、ラテン語が加わる。その中でもパレスチナのアンティオキア(Antiochia)や北アフリカのアレクサンドリア(Alexandria)は初期のキリスト教の拠点となって行った。アンティオキア(Antiochia)は使徒パウロ(Paulos) (BC10年頃〜65年頃)がギリシャやアナトリア方面への伝道の拠点にしていた古くからの国際都市。初期キリスト教の基盤造りから貢献している。アレクサンドリア(Alexandria)はギリシア教父のオリゲネス(Origenes)(185年頃~254年頃)が私塾のキリスト教学校を開設しアレクサンドリア学派の拠点を造った都市。こちらは思想の観点からキリスト教を理解しようとした神学者の拠点となった。オリゲネス(Origenes)は初期のキリスト教神学、弁証学、禁欲主義において最も影響力のある人物(神学者)で神学他複数の分野で約2000の論文を著したと言われる。キリスト教の発展に特筆すべき人物であると思うが、死後に異端の疑惑をかけられ多くの著作が処分されている為か? 評価どころか、知名度も低い? 彼は聖書を「神の霊的真理」とプラトン派の哲学者の立場からアプローチして解釈してみせた。キリスト教は哲学的な宗教であると彼はキリスト教をただの宗教から神学に高めた人物と言える。※ これにより多くの教養あるギリシャ人がキリスト教を高く評価するようになったのは確か。神学的異端?「父・子・聖霊(せいれい)」の三位(さんみ)をどう解釈するのか? それこそキリストを人として捉えるのか? 神として捉えるのか? 最初の一歩で後の理論は大きく変わる。論争は永遠に続くのか? 解釈しだい? 正統派とされない考えは即「異端」とされた。それは時の皇帝の考え方にも影響し「正統」は変化した。だから、紙一重の所に常に異端はある・・とも言える。帝国が動乱するとキリスト教徒との関係悪化帝国の四方からのゲルマン民族など異民族の侵略が始まる「3世紀の危機」。帝国側も動乱状態で半世紀で70人の皇帝も現れた。そしてまたも疫病の発生による戦力の低下に加え、無能な皇帝による経済政策の失敗。そして財政難。※ コンスタンティヌス1世(Constantinus I) (ローマ皇帝在位:324年~337年)の経済及び金融改革まで経済危機は続く。このローマ帝国の低迷の危機に比例して帝国とキリスト教、両者の関係は悪くなって行く。なぜなら逆にキリスト教は信者を増やし、財源も確保。ローマ教会では財産も資金も豊富にあった。また先に紹介してたよう知識人層から浸透していたキリスト教は、この頃農民層にまで及んでいた。※ 農民の人口は帝国の9割。特に北アフリカでは禁欲的な修道院が支持を集めていたそうだ。だが、地方と都市でその信仰の解釈には開きもあったらしい。二人の皇帝による迫害251年~256年にカルタゴで開かれた司教キュプリアヌス(Cyprianus)(200~210年~258年)による教会会議は、この組織がもはやローマ帝国の中で他の追随を許さない教団になっていた事を知らしめた。デキウス帝(Decius) (201年~251年)による迫害はこれに起因する。つまりローマ帝国の中で拡大し始めたキリスト教徒と力を持ち始めていた教皇を牽制(けんせい)する為に全世界規模でのキリスト教抑圧に着手したのだ。実際、257年には教会の財産と統率力を狙いアレクサンドリアの司教ディオニシオス(Dionysius)とカルタゴの司教キュプリアヌス(Cyprianus)が逮捕、追放され逆らったカルタゴ司教キュプリアヌスは258年殉教した。因みに 司教ディオニシオス(Dionysius)(200年~268年)の方は迫害が収まった翌年(259年)、すでに殉教していた前教皇に代わり第25代ローマ教皇に即位(在位:259年~268年)している。303年まで続く信仰寛容令もあり、ローマ教会の再建を背負ったものの秩序と平和が保たれた治世で彼は殉教せずに亡くなった最初のラッキーな教皇となった。同じような事をしながら極端に明暗が・・・ディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(244年~311年)の迫害は痛かった。彼はテトラルキア(tetrarchia)を考案し、軍人皇帝時代を収拾し3世紀の危機を乗り切った策士とも言える皇帝だ。以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の所「農業形態の変化と停滞したローマの再建」でも触れているが彼の時代、辺境出身者が増え、軍の将校にも異民族がいる時代となっていた。もはやローマらしさもラテン語さえも薄れてきていた。だから彼は帝国を結束させると言う理由で古来ローマの神々への礼拝を義務として再興させている。キリスト教徒限定ではなかったが、やはりキリスト教徒の反発が目立ちキリスト教徒迫害の時代になった。彼の直属の部下から聖セバスティアヌスが誕生している。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック※ 聖セバスティアヌスについては次項 「聖人のハウツー(how-to)本? 「黄金伝説」」で書いています。皇帝の都合による迫害中止テトラルキア時代の東方ではガレリウス(Galerius)(在位305年~311年)東方正帝が死の直前キリスト教の神に救いを求めたと言う。そして彼は迫害の終結のサインをしたそうだ。一方西方ではマクシミアヌス(Maximianus)(在位286年~311年)西方正帝とコンスタンティウス(Constantius)(在位305年~306年)西方正帝で主導権争いが起きていたので迫害は中止された。ライバル、マクセンティウス(Maxentius)(278年頃~ 312年)をローマ近郊ミルヴィオ橋でやぶり勝利するとコンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)は帝位に就いた。※ この事は「クリスマス(Christmas)のルーツ」の中「ラバルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略」で詳しく書いているが、彼はキリスト軍として勝利したことになっている。リンク クリスマス(Christmas)のルーツ実際、本当に夢のお告げがあったかは定かでないが、神の好意があったとしてコンスタンティヌス帝はローマの教会に莫大な寄進をしている。そして、ローマのペテロ(Petros)ら殉教者の墓地に壮大なバシリカ聖堂の建設が始まった。キリスト教公認後の異端者狩りキリスト教をローマ帝国が公認した時に、時の皇帝コンスタンティヌス1世(Constantinus I)(270年代前半~337年)は教義の統一を図る為に325年5月第1ニカイア公会議を開催して全ての教会を集めている。同じキリスト教徒であっても、教義の解釈は様々だったからキリストの誕生日、命日など典礼、聖職組織、信者の倫理、入信者の為の問答集など作られ、全認識の教義の統一及び調整に向けられた。つまり、共通のマニュアル造りをしたのである。それはローマ、カルタゴ、アンティオキアなど地方毎の大都市の拠点となる教会で進められ、特に教義の元となる聖書50冊とその解説書はアレクサンドリア教校が担ったらしい。ローマ帝国主導でキリスト教の教義が一本化されたわけだが、「はい解りました。」と皆簡単に決まったとは思えない。どうしても譲れないカ所は、どこの教派も相当数あったのではないか? と思われる。ほとんどが、しぶしぶ新しいテキストを承諾したのだろうと想像する。実際、キリスト教からかなり離れた怪しい派(異教とのミックス)も存在していたと思われるが、そうした所は改変を拒否すれば当然異端として厳しく取り扱われる事になる。異端では無いと信じていたのに異端として扱われたキリスト教派も相当数いたと思われる。※ 以前、秦氏の所で触れた景教(ネストル教)は教義の統一を受け入れ無かった為に異端として排斥されローマ帝国を出ている。 それにしても、この早い段階でのコンスタンティヌス1世による教義の統一があったからこそ基盤と組織がしっかりした宗教となり、キリスト教は世界宗教になれたのだ。それには多少ローマ帝国主導の創作もあるにはあったが、今となっては、コンスタンティヌス1世の先を見据えた政治戦略の成功例だったのでは? と思う。ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)ここは聖ペテロのお墓の上に建立された殉教者記念堂(martyrium)が始まりで大聖堂に発展した。旧聖堂は326年頃建立。典礼を行うための教会堂ではなく、あくまでペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設されたものであるが、これをローマ皇帝が協力して造ったのである。まだキリスト教が公認されたとは言え帝国の国教にはなっていないのにだ・・。※ キリスト教が正式にローマ帝国の国教になるのはテオドシウス1世(Theodosius)(347年~395年)の治世392年。キューポラ(Cupola)手前、聖堂のファサード(facade)を飾る聖人像 右、イエス・キリスト 左、洗礼者ヨハネ たぶんファサード上部には13体の聖人像。ファサード下の手前右にパウロ像、左に聖ペテロ像が置かれていてる。サン・ピエトロ大聖堂の高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m、総面積は49,737㎡。大聖堂隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などが連なり「バチカン市国」と言う国としてユネスコの世界遺産文化遺産に登録されている。因みに洗礼者ヨハネも聖パウロも12使徒(しと)ではない。が、聖パウロは12使徒の活動以上に、キリストの教えを理解し、まとめ記し、後世残る宗教としてのキリスト教の基板を整え、キリスト教をユダヤ人以外の民族にも広げた重要な人物なのです。彼の存在なくしてローマの国教に抜擢される事もなかったろうし、まして世界展開など考えられなかった。・・と言う意味で聖パウロは重要な使徒なのです。※ 「ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)」の中、使徒(apostolos)パウロの伝道で詳しく書いています。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)※ 洗礼者ヨハネについては「クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)」の中「荒野の修道士バプテスマのヨハネとキリスト」で少し触れています。リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)広場中心にオベリスク。それをはさみシンメトリーに噴水が配置されている。下の写真はウィキメディアから借りたサンピエトロ広場ですが、広場メインに紹介したかったのでサイドを少しカットしています。正面通路がテヴェレ川にぶつかった左にサンタンジェロ城があります。ヴァチカンからサンタンジェロ城まで秘密の通路があり教皇の緊急避難用に使われていた。テヴェレ川(Tevere)とヴァチカンの丘にはさまれた平原アゲル・ヴァテイカヌスは元々非衛生な湿地だった所。しばしばテヴェレ川も氾濫しては犠牲も出すので人が住む所ではなく墓地が延々と連なる他はその墓地に沿って皇帝らの競技場があったていど。コンスタンティヌス帝による大聖堂の建築はこの地域の振興に役立ったと言う。民家が寄り、1世紀後には修道院が集まって来た。8世紀にはアルプスの北から聖ペテロと殉教者の墓への巡礼者が押し寄せ宿泊施設もできた。カロリング家の協力で、この地区は新たに廟(びょう)や礼拝堂が建立される。カール(Karl)大帝(742年~814年)は2度目のローマ滞在を記念して宮殿を建て献上したらしい。しかし、ここはもともとアウレリアヌス城壁の外である。846年サラセン人による大聖堂とこの地区の襲撃と略奪を受け、教皇レオ4世(Leo IV)(790年?~855年)はサンタンジエロ城から大聖堂一帯に壁を構築。大聖堂中心に囲まれたこの街は中世を通じて「レオの都市」と呼ばれるのだが、これがヴァチカン市国(Vatican City)の原型である。ヴァチカン公式の本から。下はサンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)とサン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)聖堂前のサン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)の設計で1656年~1667年に建設された。4列のドーリア式円柱による列柱廊と140体の聖人像に囲まれた広場の中央にオベリスクが立つ円形の広場となっている。下はヴァチカン内のジオラマより下は聖堂前からの広場広場は典礼前、準備がすすめられている。今日、世界のキリスト教徒の最大の巡礼地の一つとなっているが、現在の聖堂はルネッサンス時代、バロック時代を通して改築され17世紀に完成したもの。ルネッサンス時代はブラマンテやラファエロ、ついでミケランジェロも建築主任となっている。※ ラファエロはアテネの学童の壁画の中に自身とミケランジェロも描き込んでいる。※ ミケランジェロは聖堂のドームだけでなく、システィナ礼拝堂の天井画含め壁画にも参加しているが、最後の審判の図の中に自身の抜け殻となった皮だけ描き混んでいる。今回はシスティナ礼拝堂まで載せていませんが、何かしら爪痕が残されているのを探すのも面白い。リンク ヴァチカンとシスティナ礼拝堂迫害と殉教ところで、キリスト教がローマ帝国の国教になると迫害は形を変える。迫害される側から迫害する側にポジションが移動したからだ。※ キリスト教が認知されたミラノ勅令以降、他信徒の異教の神殿が攻撃され、キリスト教の教会に変わって行く。問題なのは、キリスト教徒による反キリスト者(異教徒)狩りのみならず、キリスト教徒同士なのに因縁を付けて迫害の対象とした中世の魔女狩りは、もはや他信徒からの迫害よりも酷く残虐になっていく。つまり他信徒からよりむしろ同教徒からの攻撃が増えるのだ。以前「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)」の冒頭で紹介しているが、記号論哲学者で、中世研究者でもあるウンベルト・エーコ(Umberto Eco)の小説「薔薇の名前(Il Nome della Rosa)」はミステリー小説に位置づけられるのだろうが、明らかにこれは中世の異端狩りの恐ろしさを伝えている。紙一重? 真の聖者であったとしても、誰でも簡単に異端者にされる時代もあったのだ。٩(๑º﹏º๑)۶怖ぃ~※ 小説は難しいが、映画にもなっています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)それにしても、迫害の時の信者の態度はその場と後において2度明暗が分かれたらしい。あくまでキリスト教徒として抵抗をした者は獄中にいても、またたとえ殺されたとしても英雄視され殉教者となったが。迫害怖さに信仰(キリスト教)を一時的にも棄てた者は、その後に教会に戻る事を簡単には許されなかったし、終生裏切り者の烙印が押される事になった。因みに、ローマ帝国に対して「単に逆らった」だけなのに英雄視され聖人のように扱われる事象も増えたらしい。誰が尊者か? 教会管理上の大きな問題に発展。そもそも地方発の聖人は正式な記録もなく、伝承のみで実在かも不明? 出自があいまい。地方の小さな教会では教皇庁の許可もなくかってに聖人として祀っていた、御当地聖人も多かったと思われる。殉教者が必ずしも聖人になれるわけではないが、中世はすでによく解らない聖人がたくさんあふれていた? のかもしれない。だから13世紀に発行された「黄金伝説」はその時点での聖人を明確に世に示した書だったのかもしれない。聖人のハウツー(how-to)本? 「黄金伝説」ハウツー(how-to)本と言うほど簡略な本ではないが、キリスト教で崇敬されている諸聖人の伝記がまとめられ、聖人を知るならこれしかないと言う本が「Legenda sanctorum」or「Legenda aurea)」である。日本訳で「黄金伝説」と訳されているが、「伝説の聖人」の方が意味はわかりやすいかも・・。1267年頃、中世イタリアの年代記作者でジェノヴァの第8代大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine)(1230年? ~1298年)はキリスト教の殉教者や聖者を記た「黄金伝説」を執筆した。ラテン語散文で記され第1章 主の降臨と再臨から始まり第176章の献堂式まで聖人たちの伝説の他キリスト教の祝祭日など織り交ぜて書かれている。日本語訳され一部聖人が抜粋されたヤコブスの「黄金伝説」を私も持っているが、聖人と呼ばれる人物の行動や生活。いかに殉教に至るのか。また殉教後の奇跡の話しなど1人1人かなり詳細に語られている。原本は見ていないが、ざっと数えて聖人だけでも170人くらい載った伝記物となっている。13世紀に執筆された同書は中世以降最も流布した本の一つとされるが、ここに記されている一言一句を全て真実として受け止め、カトリック教徒は祀ってきたのだろう。おそらく、唯一の聖人の解説書であり「黄金伝説」登場の聖人はこの本により確実に定説化されたと思われる。作者の創作はなかったのか? この本の取材のネタ元はどこなのか? と、いつものクセで疑問を持った。が、それは聖セバスティアヌスの件で理解した。おそらく、ミラノと同様に、それら諸聖人の地元の教会から上げられた聖人伝説を集めて編纂(へんさん)したのがジェノバの司教ヤコブス・デ・ウォラギネだったのだろうと思われる。そこには確かに良い意味でヤコブスの創作もあったかもしれない・・と思う。物語性もあるのでこれを愛読書にしたカトリック教徒は星の数ほどいただろう。ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)で撮影した聖セバスティアヌス以前ポルディ・ペッツォーリ美術館でも紹介している絵です。写りの関係で再び使用しましたが作者不明です。彼はディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(244年~311年)の迫害の時の被害者の1人。聖セバスティアヌスはディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(在位:284年~305年)とマクシミヌス(Maximinus)帝(在位:308年~313年)の両皇帝に気に入られ、ローマ軍の第1歩兵隊の指揮官をしていたミラノ出身の実在の人物。当時のローマ帝国はキリスト教徒の拡大を恐れ迫害に転じていたので彼は敬虔なるキリスト教徒ではあったが、隠れキリスト教徒であったのかもしれない。また2人の皇帝のお気に入りである。美形だったのかもしれない。だから? 聖セバスティアヌスの図像は必ず若い美形で描かれている。それ故、人気の聖人なのだろう。ディオクレティアヌス帝は彼がキリスト教徒であること知ると矢で射る刑を与えた。沢山の矢を受け、ハリネズミのようになったがそれでも死ななかった。再びディオクレティアヌス帝の前に現れると帝に説教したので今度は棍棒で打たれて殉教したとされる。※ この伝説のベースに関しては、ミラノ司教の聖アンブロシウスが大いに係わっているらしい。ところで、近代文学の作家、芥川竜之介(氏)がこの「黄金伝説」について座右(ざゆう)に備えておくべき本として紹介しているそうだ。そう言ってから氏はすぐに自殺した。殉教と自殺は天と地ほど違うのに・・。ついでに同じく作家の三島幸夫(氏)が恋がれたグイド・レーニ(Guido Reni)の聖セバスティアヌスも紹介。下の絵はウィキメディアからですが・・。グイド・レーニ(Guido Reni)(1575年から1642年)はラファエロ風の古典主義的な画風のボローニャ派の画家。彼の作品はキリストにしても美しい。聖人像のどの作品も色っぽい。兵士であった事から兵士の守護聖人ではあるが、イタリアで黒死病が流行した際、パヴィア地方にある聖ペテロ教会で聖セバスティアヌスの祭壇を建立すると流行が止ったと言う事から黒死病から信者を守る守護聖人にもなった。殉教者信仰が生んだ殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)殉教(Martyrdom)とは、己の信仰を全うするが故に、迫害などで命を落す事をさす。殉教者はその当事者だ。そもそも当初の殉教者は初期キリスト教で布教と言う重要な役割を果たした使徒(しと)に向けられたものだった。※ キリストの12使徒の他、使徒パウロあたりまでをカバー?だが、時代が進み、キリスト教の迫害時代を経てローマ帝国の国教になるまでの間、キリスト教徒として命を落とす者が増え続けた。要するに殉教者としてカテゴライズされる者が増大したのだ。※ 新大陸やアジアへの宣教師による布教が始まると殉教者はまた増加。キリスト教の信徒として、義を貫いて命を落とした者は礼讃(らいさん)され、殉教者として祀られるようになると言う殉教者信仰なるものがあるのだが、それは当初から存在した。キリスト教の最初の殉教者となったステファノ(Stefano)(生年不明~35年または36年頃没)から始まる。エルサレムの北部、郊外にあった彼の墓地には多くの巡礼者が集まったらしい。最も公式にステファノの墓が定められたのはキリスト教がローマ帝国の国教に制定(392年)された後の415年である。殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)2世紀頃のキリスト教会ではすでに尊い活動、あるいは迫害により命を落とした者を殉教者(じゅんきょうしゃ)とし、またその者の遺骸や遺物の上に墓を立て、崇敬すると言う事が行われていた。※ この時点で聖人の定義はまだ定まっていない。殉教者を葬った場所には小さな礼拝所が設けられた。それは後にまわりに堂ができ教会で覆われたりするのだが、当初はシンプルなモニュメントのような廟(びょう)であったようだ。ラテン語でマルティリウム(martyrium)と呼ばれた。(日本語訳では殉教者記念堂)※ 英語にするとマルティリウム(martyrium)はマーティダム(martyrdom)。それはなぜか「殉教」とか「苦難」そのものの訳語となりラテン語の意味とは異なるのである。(・_ ・。)? ※ 現在マルティリウム(martyrium)自体が建築用語となっている。最古の物がヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)、中央祭壇の下から発見されたと言う。その殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)が下のようなもの。現物写真は無い。もともとサン・ピエトロ大聖堂の場所(アゲル・ヴァテイカヌス)は120年~160年頃には墓地が広がっていた場所。殉教した12使徒のペテロが葬られた場所に殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)が造られたのが最初? なのかも。コンスタンティヌス1世は敢えてその上に旧サンピエトロ聖堂を築いたのだろう。※ 聖堂中心の地下が聖ペテロの墓とされている。そしてキリスト教がローマ帝国で公認される313年以降、そうした殉教者の墓の拝所は少し大がかりになり堂で覆われた礼拝堂となっていく。これら殉教者を祀る為に造られた記念礼拝堂そのものが、ラテン語でマルティリウム(martyrium)となったようだ。ところで、これを殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)と解釈して良いのか解らないが・・。サンピエトロ大聖堂左翼 中央にあるのが聖ヨセフの祭壇(Altar of St. Joseph)である。マリアの夫、聖ヨセフ(St. Joseph)に捧げられた祭壇とされ、キリストの父とはされていない。実は祭壇に置かれている古代の石棺には、使徒シモン(Simon)とユダ・タダイ(Jude Thaddeus)の遺物が入っていると言う。使徒シモンもユダ・タダイについても、実は伝承のみで詳しい記録は残っていないらしいが、ペルシャで殉教したのではないかと考えられている。さらに伝承では彼らの遺骸はペルシャからローマに運ばれ、現在のサン・ピエトロ大聖堂の場所に埋葬されたらしく、後年その遺物が納められた? と聞く。そう、公式にヴァチカンが公言しているのだからこの祭壇も殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)に入るのかな? と思ったのです幼児キリストを抱く聖ヨセフ。左に大天使ガブリエル?絵はAchille Funiにより1961年に書かれ1963年にモザイクで製作されている。実はこの記念堂は割と新しい? ヴァチカン内の絵画類は順次モザイク画に置き換えられています。殉教者信仰から聖遺物収集に2世紀半ばのおそらく最古とされる記録であるが「ポリュカルポスの殉教録」では、殉教者を「宝石よりも貴重で黄金よりも価値がある。とし、その遺灰を拾い集め、埋葬し、命日には集会を開いて故人を祈念した。」と、あるらしい。この理念は以降、欧州各地に広がり、教会はこぞって誰かしら聖人の遺物を欲しがり、持つに至るのである。これが聖遺物収集の発端か・・。聖遺物収集については、すでにあちこちで書いています。リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)リンク 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)聖遺物信仰も少しカルト的です。聖人の遺骸を持った聖堂は勝ち組です。遠方から聖人を拝みに巡礼者が殺到するので教会は潤うからです。10世紀以降、聖人の遺体自体が容器に入り聖堂や廟に移される。また聖人の遺骸は分割され頭部や腕など細かくなった遺物は装飾性の高い聖遺物容器に移される。例え指1本でも聖遺物と言うお宝になったのです。因みに中世「聖遺物コレクション展」なる催しも開催され地方から巡礼者を集めています。需要があるので聖遺物を集めるブローカーも存在しています。全部、怪しいけどねミュンヘン・レジデンツ宝物館 聖遺物部屋(Reliquary Room)からヴィッテルスバッハ家のコレクションは初期キリスト教の神聖な遺物として認定されたお宝です。普通、こう言うものは撮影できないのですが、レジデンツは太っ腹です。しかもこれらは巨大金庫の中に納められている展示品です。(金庫の中で撮影してます。)私が見た中でもこれだけ大量に有したコレクションは始めてです。※ 以下に他にも紹介しています。リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)当時はまだ高価なガラスと宝石が散りばめられた聖遺物箱(Reliquary)に入れられて飾られたのです。そうなると何が変わるのか? 聖遺物は持ち運びがたやすい動産となり欧州中の各教会に普及するのですが、同時に盗難にも遭いやすくなったそうです。盗んだお宝をしれっと飾る教会もあるわけで、聖なる宝を盗むなど何事か? と思うかもしれませんが、「聖人がうちの教会に来る事を望んだ結果だ。」と言われれば「そうなのかな?」と言う解釈もあるそうで笑える最も当事者の教会にとっては死活問題ですから奪い合いです。聖遺物からの免罪符問題かくして、教会は聖遺物を集め、巡礼者を集めたがった。巡礼者もそんな聖遺物を拝みに出かけた。それは中世後期には異常な高まりをみせるのです。なぜか?聖遺物を拝みに行く事でポイントがたまったのです。何のポイントが?死後、天国に行く為の免罪行為として利用されたからです。※ 実際のスタンプではなく、自分の中にある自分の善行としてのポイントです。聖遺物を拝む事で過去にしでかした自分の罪がチャラになる。そんな風に言われて多くの聖遺物を見れば善行するより楽勝。だからたくさん聖遺物が集まるコレクション展への人々の巡礼はハンパなかったようです。コレクション展は大行列だったらしい。当然、そこには入場料? あるいはお布施が存在していたわけで、免罪ポイントを結局お金で買った事になった訳ですが・・。私も俗人、行ったでしょうね※ 免罪符についてまだ完全なのを書いていませんが、興味のある方は参考として以下見てください。リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家リンク 2013年ハロウィーン(Halloween) 1 (煉獄思想とジャック)煉獄思想が免罪符問題を造り、そこに教会のお金集めが乗っかり、結果宗教改革の革命が起きるのです。キリがないのでこの辺で・・。それにしてもよーく考えて見るとイエス・キリスト以外にその関係者なる複数の聖人を祀って礼拝してしまったらそれは多神教です。殉教者信仰もまたカルト(cult)的な要素を持ち合わせている。だから? 教皇庁は多神教にならないよう、一つの教会に守護聖人は1人のみ・・と言う苦肉の解釈? 制限を加えたようだ。聖人の仕分けこのあふれかえるように増えた聖人を17世紀になって教皇庁は整理している。それが第235代ローマ教皇であるウルバヌス8世(Urbanus VIII)( 1568年~1644年)(在位:1623年~1644年)である。※ フィレンツェのバルベリーニ家出身のウルバヌス8世は聖職者というよりは政治家? 親族を多く登庸してバルベリーニ家にさらなる富をもたらしている。※ 以前「ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠」の所で家門にミツバチを入れている見本としてローマ教皇ウルバヌス8世の紋章を紹介している。リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠ウルバヌス8世は教会改革を進め、その中で聖人の仕分けをして怪しいのは削り、また多くの聖人を認定したとも言われている。地方で呼び名が違う為に同一人が複数に数えられていたのも多々あったらしい。また聖人はランク付けし、ランクにより典礼の種別も行っている。以降? 時代で? 聖人は時々見直されるようになった。何と、聖人からはずされる場合もあるのですウルバヌス8世は、新大陸やアジアへの布教活動に熱心で聖職者を要請する教育施設としてウルバヌス学院(Colegium Urbanum)を創設したりと布教に前向きな活動をしています。※ 現在、聖人を決める秘蹟の判定や典礼については、典礼秘跡省(ラテン語: Congregatio de Cultu Divino et Disciplina Sacramentorum)が行っているらしい。ヴァチカン公式の本からの聖堂の図。確かにギリシャ十字の聖堂が下に足された感じです。No35 教皇の祭壇 聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi) 地下(ペテロの墓)右上から時計回りに59 聖ヘレナ(St Helen)64 聖ロンギヌス(St Longinus)32 聖アンデレ(St Andrew) (洞窟入口)36 聖ヴェロニカ(St Veronica)29 ペテロの司教座 ベルニーニによる玉座の祭壇57 ミケランジェロのピエタ(Pietà)8 聖なる扉(Porta Santa)ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)内部下は典礼の時の仕様です。身廊先に見えるのがクロッシングのキューポラ下にあるベルニーニの大天蓋(だいてんがい)アートな聖水盤ロココ時代のイタリアの彫刻家であり画家であるアゴスティーノ・コルナッキーニ (Agostino Cornaccini)(1686 年~1754年)によって設計デザインされジュゼッペ・ローニ(Giuseppe Roni )がシエナの黄大理石の水盤と黒大理石のバルディリオドレープの彫刻を担当している。教皇庁のアヴィニョン捕囚時代(1309年~1377年)が過ぎ、教皇庁が再びヴァチカンに戻ると都市の整備と拡張も行われる。特に聖堂の老朽化は甚だしく、崩壊寸前だったそうだ。教皇ユリウス2世(Julius II)(1443年~1513年)はブラマンテに大聖堂再建計画を依頼。工事は1506年から1世紀半に及ぶ。当然造営の建築主任は何人も交代した。当初のブラマンテの計画では、元のコンスタンティヌス時代のバシリカにドームを載せるだけのギリシャ十字のシンプルなものだった。それが計画から着工、また完成までギリシャ十字か? 縦長長堂式のラテン十字か? 二転三転した。1546年、ミケランジェロが主任になるとギリシャ十字型に決まり建築が進むが、ミケランジェロが亡くなるとまたプランは変更。彼の図面を利用しながらも収容可能人数を引き上げるよう身廊部が引き延ばされ縦長長堂式のラテン十字となった。身廊の奥行き187m。上の写真で言えば、クロッシングまでのアプローチ(身廊の長さ)がかなり長いのが解る。おかげで正面前からのドームは見え無いほど後退している。とは言え、現在の聖堂は、ほぼミケランジェロのプランなのだと言う所が個人的にちょっと感慨深いミケランジェロのピエタ(Pietà)1489年、フランスのジャン・ピレールド・ラグローラ枢機卿は「最も美しい大理石の作品」と依頼した。他にも候者がいた中、ミケランジェロ(Michelangelo)(1475年~1564年)が渾身の聖母子を彫り上げた。ライバルがいたからこそ、彼が署名を刻んだ唯一の作品となった。ピエタは十字架の降下直後のキリストの死を悼む母マリアの姿であるが、ここではマリアは若々しい乙女の姿で描かれている。それは「マリアはキリストの母にして花嫁」と言うキリスト教の神学的解釈に基づいているらしい。下、「ペテロの座像」は以前「ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)」で載せているので今回のせません。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)堂内の装飾はバロックを代表する建築家で画家で彫刻家のジャン・ロレンツォ・ベル二ーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)が担っている。「ベル二ーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛される程のバロック芸術の巨匠である。彼の作品は華やかで気品がある。クロッシンクの中央祭壇の上にベルニーニ製作のバルダッーキノと呼ばれる天蓋(てんがい)のついた聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)が置かれる。実はその地下は聖ペトロの墓だそうだ。もともと墓地だった場所であるが、今は地下グロッタもあり、歴代教皇らの眠りの場所となっている。祭壇建築の時に地下からもろもろ出土したらしいが、ほとんどそのままさわらずに残したらしい。ミケランジェロが設計したキューポラ聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世はブロンズ製の巨大な天蓋バルダッキーノ(Baldacchino)に覆われた中央祭壇を希望した。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)はその依頼を受け、1624年~1633年、4本の支柱を持つ天蓋のついたブロンズ製の巨大な聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)を製作する。その天蓋(Baldacchino)にはバルベリーニ家の紋章である蜂が散りばめられている。本来の天蓋(てんがい)は布製である。ここは敢えて全てブロンズで製作しているわけだが、ベルニーニは、割とリアルに布の雰囲気を出して製作している。流石である。 (*゚▽゚ノノ゙☆パチパチねじれた支柱は太い幹に蔦(つた)が巻き付いたイメージらしい。その地下が墓(Tomb)下の箱に聖ペテロの聖遺物が? と思ったが違うらしい。後方内陣、ペテロの司教座にはベルニーニ製作の「玉座の祭壇」が置かれている。実は後陣にペテロの司教座を造るのは当初予定ではなかった。信徒でなければ入れ無い領域なので遠方から撮影です。堂は薄暗いので拡大するとボケます。アレクサンデル7世(Alexander VII)(1599年~1667年)(教皇在位:1655年 - 1667年)の意向で9世紀の木製の「ペテロの司教座」椅子を納める為に製作されたらしい。一種の聖遺物容器となっているそうだ。下、まれに予告なく法王自らミサをとりおこなう事がある。遺物のロッジア(Loggias of the Relics)ところで、ベルニーニは中央の教皇の祭壇がある聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)を四方からまるで結界を貼るように四隅に聖人の聖遺物を納めた10m級の彫像を設置している。※ 4つの巨像は、1639年から1640年の間にドームを支える4つ橋梁のニッチに設置された。※ 像は全て制作者が異なる。これは 1624年、ウルバヌス8世の依頼によるものであるが、ドームを支える4つの橋梁のニッチに彫像の上に、関連する聖遺物が備えられたらしい。天蓋左奧 聖ヴェロニカ(St Veronica) 天蓋右奧 聖ヘレナ(St Helen)天蓋手前左 聖アンデレ(St Andrew) 天蓋手前右 聖ロンギヌス(St Longinus)彫像の製作に関しては、ベルニーニはともかく、他の制作者は実物大のスタッコ・モデルを製作して審議にかけられているらしい。問題なのは 確かに最初ウルバヌス8世は、これらのロッジアに4つのニッチに貴重な聖遺物を納めたらしいが、遺物は現在元の場所に無いらしい。現在聖ヴェロニカの像の上の礼拝堂に3つの聖遺物が保管されている?。しかし、聖アンデレの聖遺物は過去の教皇によりギリシャ正教会のパトラス(Patras)の聖アンドリュー教会に寄贈されてしまったらしいのだ。※ 聖アンドリュー教会(聖アンドレアス教会)またはアギオス・アンドレアス教会(Church of Aghios Andreas)と呼ばれるギリシャ最大の教会らしい。※ 時の教皇は、第262代ローマ教皇パウロ6世(Paulus VI)(1897年~1978年)と思われる。他についても最新情報が解らないので詳しくは不明です。本来ならベルニーニの彫刻作品、聖ロンギヌス(St Longinus)だけ紹介して終わる所ですが、聖遺物が祭壇を中心に4隅の柱に配置されていたと言うのが気になりました。たまたまでしょうが、大聖堂の方位から見ると、聖ロンギヌスの位置はまさに鬼門(きもん)上です。※ 裏鬼門に聖ヴェロニカ(St Veronica)何か結界のような意味がウルバヌス8世にあったのか? もはや誰にもわからないでしょうね。聖ヘレナ(St Helen)こちらはウィキメディアからですアンドレア・ボルジ(Andrea Bolgi )(1605年~1656年)製作。コンスタンティヌス1世(Constantinus I) の御母。早くからキリスト教を信仰していた彼女は早くから聖地に聖遺物を探しに旅に出て色々なキリストにかかわる遺物を発見して持ち帰っている。持っている品は磔刑の時の十字架と言う事らしい。発見時はすでに木片。それが納められていた。聖ヘレナ(St Helen)の向いに、聖ロンギヌス(St Longinus)ベルニーニ自身による製作。キリストの脇腹を指したとされるロンギヌスの聖槍(せいそう)を持つロンギヌス。実際は、死の確認の為に突っついた。と言う事らしい。その槍の穂先が収まっていると言う。※ 聖槍はウィーンの宝物館やメルク修道院にもあった。天蓋手前左 聖アンデレ(St Andrew)フランソワ・デュケノア(François Duquesnoy)(1597年~1643年)製作。しかし、教皇が聖アンデレのために選んだモデルは実際にはベルニーニのデザインらしい。ペテロの弟でギリシアで宣教し殉教した。X十字の磔刑に書された事からX十字は彼のアトリビュート(象徴)となっている。聖アンデレの聖遺物は何と彼の「頭蓋骨」だったらしい。先に紹介しているよう1964年、ギリシャ正教会のパトラスの聖アンドリュー教会に寄贈? あるいは返還されたとも・・。実際今は無いのです。聖ヴェロニカ(St Veronica)フランチェスコ・モーキ(Francesco Mochi)(1580年~1654年)製作。聖ヴェロニカの像は、ヴェロニカの聖顔布を称えるために作成ヴェロニカのヴェールは、キリスト教の布の遺物イエスが十字架をゴルゴタに運んでいる時、額の汗をぬぐう為にと渡したベール。キリストの顔が浮かび上がっていたと言う聖顔布が聖遺物らしい。もし聖遺物をペテロの墓地の四隅に結界的な意味を込めて張りめぐらしていたのだとしたら?聖域の浄化に役立っていたのかもしれない?それは1点が欠けた段階で崩壊しているし、今はどれも撤去されている。これはカトリックの思想ではないが、あった方が良かったのに・・と私は思う。聖人と認定されるまで(神の僕 → 尊者 → 福者 → 聖人)そもそも聖人とはどんな人が選ばれるのか?信仰以前に、まず人としても、生き方においても高潔である事。人徳があり、信仰においては過去の事象において崇敬されるべき行動があり、それは後世においても不変であり模範とされる人?これはどんな宗教でも絶対条件ではないか? と思われるが、さらにカトリックの場合、選定の入口に2つの条件ルートが存在する。それが聖人候補となる者がまずどちらなのか? これにより審査条件は大きく変わるのである。殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr)か?証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor)か? 殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr)・・・信仰のために命を捧げた者。殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられた者。 証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor)・・死ぬことはなくともイエス・キリストに対する絶対的な信仰を持ち、且つその生き方でゆるぎない信仰を示した人。また生前からカリスマ性のあった聖職者など生前の功績や人格が重要。さらに絶対条件として奇跡の証明が必要。またそれは時代の科学で証明できない奇跡でなければならない。※ 奇跡の証明でよくあるのは、墓から掘りおこした時、生前の時のままに綺麗である事(痛んでいない)。また誰かしらの病気などの奇跡的治癒に貢献した。等・・。その上で現在の聖人認定には至るステップ(段階)がある。列聖省による長く厳しい審査があり、一気に聖人になる事はない。神の僕(Servi Dei) → 尊者(Venerable) → 福者(Beatus) → 聖人(Sanctus)例えば、近年、死後すぐに列聖の為の審査に入り、わずか数年で聖人となったケース(教皇ヨハネ・パウロ2世やマザー・テレサ)もまれにあるが、ジャンヌ・ダルクのように当初(1431年)異端として火刑に処されながら1456年に復権。1869年列聖の申請から1909年列福。1920年列聖。と、481年と言う長い年月で評価が一変したケースもある。が、通常は早くても列福まで本人の死後数10年から場合により100年はかかるらしい。※ 当人が生前いかに崇敬されているか? の判断故か? 近年は関係者の存命中に判断されるようになったので列福、列聖が急がれているのではないか? と思う。※ 守護聖人や証聖者(Confessor)については「ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)」で書いています。ミラノでは実際に列聖準備に入った福者が祀られていたのでその写真もあります。リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)列聖の審査1.候補者となり、列聖の為の調査が宣言されると → 神の僕(かみのしもべ)(Servi Dei)とカテゴライズ。2.列聖省が様々な調査を行い、その人物が英雄的、福音的な生き方(生涯)であったことを認定した時 → 尊者(そんしゃ)(Venerable) の敬称が付く。3.尊者の徳ある行為あるいは殉教により天に在住し「その生涯が聖性に特徴づけられたもの」であると証明された時。 → 福者(ふくしゃ)(Beatus) の敬称が付き列福する。※ 列福には、最初、地域司教の管轄下の司教による調査が行われ、そこで徳と聖性が認められると教皇庁に資料が送られ列聖省にて調査・審議が行われる。※ 1831年の教会法改正以降、その人物の取次ぎによる最低1つの奇跡(超自然的現象)が必要とされる。殉教者はその対象外。教皇が列福の教令に署名。サン・ピエトロ大聖堂での列福式を以て「福者」と宣言され列に加えられる。 → 列福(れっぷく)(Beatification)4.徳と聖性が認められた福者(Beatus)が聖人(Sanctus)の地位にあげられること。 → 聖人(せいじん)(Sanctus)の敬称が付き列聖する。再び福者と同様な調査と手続きが行われ、徳と聖性が認められると教皇により列聖の宣言が出され、聖人の列に加えられる。サン・ピエトロ大聖堂で列聖式が行われる。 → 列聖(れっせい)(Canonizatio)プレゼンテーション・チャペル(Presentation Chapel)絵 Giovanni Francesco Romanelli(1610年~1662年) 製作(1638年~1642年)モザイク Cristofari 製作(1726年~1728年)絵画は神殿での聖母マリアのプレゼンテーションの祭壇として描かれている。マリアの宮詣での図なのである。現在この祭壇は聖ピオ10世に捧げられている?プレゼンテーションチャペル祭壇の下にある教皇ピウス10世(Pope Pius X)の墓?ポンティフィカルローブ(pontifical robes)で包まれ顔は銀の仮面で覆われクリスタルの棺に納められた聖ピウス(St. Pius X )(1904~1914年)。いつの時点の説明かわからないのですが、どれもここは教皇ピウス10世(Pope Pius X)の墓と紹介されています。今は聖人となった聖ピウス10世(St. Pius X )は今もこの場所におられるのか?※ 1954年5月29日、ピウス12世によって列聖されている。通常は、列聖までの間一般公開される祭壇「最後の埋葬までの間に保管される場所」ではないか? と思うのです。大聖堂では、時々特別典礼として列福者など一時的にこのように公開されています。パウロ2世も確か聖セバスティアヌスの礼拝堂で公開されてから地下に行ったような・・。ただ、聖ピウス10世(St. Pius X )は20世紀の偉大な教皇として評価されているので一つの礼拝堂が墓所としてあてられたのか?聖なる扉(Porta Santa)ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)の聖堂に入る戸口の話しです。入口正面に戸口は5つ。そのうちの右端の門だけは開かずの扉となって、通常は完全封鎖されています。西暦1300年に始まったと言われるカトリックの特別年(聖年)。その年だけに開かれる特別の戸口です。この年にローマに巡礼すると特別な赦しを与えられるのだそうです。※ 聖年にはバチカン四大バシリカの聖年の扉がすべて開く。ヨハネによる福音書第10章9節イエスは「私は門です。私を通して入る者はだれでも救われる」と言われているようで、門は聖域に至る象徴となっているのでしょう。聖なる扉(Porta Santa)の外側フィレンツェのフェルディナンドマリネッリ芸術鋳造所によって鋳造されたヴィココンソーティ(Vico Consorti,)による聖なる扉(Holy Door)。実は1950年のクリスマスに聖年を終えた後にブロンズに置き換えられた。それ以前は木製。ラテン語で(Porta Santa)もともと、この門はコンスタンティヌス1世の指示? 最初から定められていたようです。ただ、恩赦が与えられる特別な扉であったので、中世これを悪用して商用化? お金をとっていたのでしょう。その為に時の教皇が扉を封印する事にしたようです。聖なる扉(Porta Santa)の内側聖年にしか開かれない扉なのでレンガとモルタルで固められて絶対に開ける事はできないようになっています。小さな礼拝所の写真? と最初思いましたが実はかなり巨大で十字の下まで2mくらいあるのでは?扉の内部にはサンピエトロ大聖堂聖省(Fabbrica di San Pietro)の刻印が入った煉瓦が詰まっていて、それらの奧に聖年の扉の鍵が入った箱が保管されている。十字の下の四角から表面に覆われたモルタルをを崩すのです。実は私はこの塞がれた扉を見ていないのです。なぜなら、私はラッキーな事にたまたま訪問した時が聖年で門が開いていたのですめったに無い聖年です。かつては100年に一度、それが50年に一度となり現在は特別聖年を除く25年に一度。最近は教皇の考えにより特別聖年が定められると開かれるようです。※ 近年は度々開かれている。それでも今や訪問者が増えて大渋滞だそうです。聖年にこの門をくぐる為に入場券の予約が必要らしい。私の時はほとんど人もいなくて、普通に通り抜けました。今は情報が早いからかも? 昔はそんな情報も無かったので・・。門を見て知ったくらいです。御利益は「恩赦(おんしゃ)?」があるそうです。先に紹介した免罪のポイントのような事です。カトリック信者ならあこがれかも? 結果は死んでからでないとわかりませんが・・。聖ペトロの教会ですから、聖ペトロのモザイク画です。彼は天国の門の番人ですから天国の門の鍵を持っています。それが彼のアトリビュートです。※ 聖ペトロの話しは「アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ」の中「ガリラヤ湖、ゲネサレト湖畔と使徒ペトロ」で触れています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ疲労困憊。おわります。 (^o⌒*)/ 一度このまま載せますが、チェックを後からします。後で修正が多々出ると思います。(>人<) Back numberリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
2021年08月08日
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夜景の写真追加しました。どうしても今回で終わらせたくて写真を50枚ほど入れ込みました(;^_^Aこれで行かなくとも、行った気になれると思います。修道士とは、英語でmonk 、ラテン語でmonachus。語源は「独身」に由来し、「独身で暮らすとか、 生きる。」と言う意味から発したそうだ。つまり当初は、人々から離れて生きる世捨て人的な隠遁者(いんとんしゃ)的イメージだったのだろう。修道制の起源は欧州に先立ち、3世紀のエジプトで共同生活を始めた聖パコミウス(Pachomius)(292年?~346年?)に始まるらしい。彼はルール(規則)を作り当初は主の祈りから、共同体が発展するにつれ、規則は聖書から取られた教訓で作り上げられ、個人の能力に合わせて調整されていたので極端な禁欲主義ではなく、祈りと仕事、共同生活と孤独のバランスをとることを目指した修道制を敷いている。欧州修道制の父、聖ベネディクトゥスの制度に似ている? のではない。聖パコミウスのルールはラテン語に翻訳され、それを後にモンテ・カッシーノ(Monte Cassino)で開いた修道会(529年)の規則にベネディクトゥス(Benedictus) (480年頃~547年)が組み込んでいるのだ。パコミオスが死ぬまでに、8つの修道院と数百人の僧侶が彼の指導に従いエジプトからパレスチナ、ユダヤ、シリア、北アフリカ、最終的には西ヨーロッパに伝わるのである。つまり、聖ベネディクトゥスの戒律(Rule of Saint Benedict)には、お手本があったと言う事だ。ところで、キリスト教の公認された当時でさえ、キリストの福音に従い真剣に神を探求して親兄弟と別れ、結婚もせず世俗を棄て、自己の信仰のみに生きた人達は文化に逆らう極端な個人主義者として、意外にも変人扱いされ嫌われていたらしい。しかし、聖ベネディクトゥスの戒律の元に彼らが集団で規則正しい共同生活を始める頃、世俗を棄て神の元に近づこうとする彼らは隠修士から修道士になった。※ 当初はベネディクト会の戒律にのっとって修道生活をする者(ベネディクト会、クリュニー会、シトー会、カルトゥジオ会)に対して用いられるものであり、司教座聖堂参事会員など司祭らは別であったし、後に現れる托鉢修道会士(ドミニコ会、フランシスコ会、聖アウグスチノ修道会、カルメル会)は修道士とは認められていなかったらしい。だが、聖ベネディクトゥスが戒律を造って整備した修道院での修道士の育成により、修道士の社会的地位は上ったと言える。なぜなら、戒律には地域への奉仕も職務として入っているので必然的に地域の人々と接触し、時に師となり助けとなる彼らは隠遁者ではなくなったからだ。実際、彼らの活動で中世の人々はかなり救われたはず。また、そんな彼らを援助する事で徳が得られると考えられ、王族始め諸侯らはこぞって領地を寄進したから富める所は富めた。領地が寄進されれば、領地からの収益が確保できる。教会や修道院にも貧富の差が生まれたのである。ところで、中世においては全ての者が好んで修道士になったわけでもなかった。前に騎士の所で紹介しているが、家督相続の問題により僧になるしかなかった者もたくさんいたからだ。南フランスでは財産は子に均等に相続されたが、北フランス、イングランド、ドイツでは長子のみが総取りの「長子相続」と言う制度がとられていた。だから家督を継げなかった次男坊以下が多くが騎士や聖職の道に進んでいる。リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部修道士城塞化聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)難攻不落の修道院石工mason(メイスン)屋根修道院建築(monastic architecture)交差ヴォールト(Groin vault)聖堂、食堂、貴賓室、騎士の間礼拝堂、地下クリプト城塞化前回、ノルマンディー公、リシャール1世(Richard I)(933年~996年)(在位:942年~996年)の肝入リで966年、ベネディクト会派の修道院をモンサンミッシェルに招聘(しょうへい)した事を紹介。それ故、モンサンミッシェルにはノルマンディー公や他の諸侯から寄進された広大な領地を持っていた。※ この修道院は本土側に広大な領地を持ていて、その富強ぶりは世俗の領主と変わらなかったと言う。修道院は領主所領であり、大修道院長は領主でもあったのだ。モンサンミッシェルは、どちらかと言えば裕福な修道院であったので、修道院の警備の為に防備が強化され、警護の兵隊(騎士)も置かれていた。時代は北欧からのゲルマン人の襲来で乱れていた時代で、海賊となったノルマン人は金品目的で村々の修道院を襲っていたから防衛設備が整えられたのは不思議ではない。しかし、海と絶壁に加え、驚異の干満差を誇るこの小山の修道院は当初から攻めにくかったのは確か。海上の岩島に位置していると言う地の利を生かして修道院を中心に島全体を城壁で囲んでいる。もともと海と絶壁に囲まれ、道は干潮時にだけ現れる砂州だけと言う天然の要塞でもあったが、本格的に城塞化したのは13世紀らしい。13世紀と言う時代は十字軍の時代であり、修道騎士が活躍していた時代である。※ 彼らは修道院付きの職業を騎士とする身分。故に正確には彼らは僧では無い。聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)ここモンサンミッシェルでも1469年、ルイ11世(Louis XI)(1423年~1483年)により聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)が創設されている。王政の権威を打ち出す為に創設されたと言われているが、プランタジネット家エドワード3世が創設したガーター騎士団(Knights of the Garter)(1348年)と以前紹介した事があるブルゴーニュ公国で創設された金羊毛騎士団(Toison d'or)(1430年)が意識され対抗して造られた騎士団だと言われている。※ ガーター騎士団が百年戦争(1339年~1453年)中に設立されているのに対して、聖ミッシェル騎士団は、百年戦争終結後に設立されている。因みに1450年にはデンマークのクリスチャン1世によりエレファント勲章勲騎士団( Knights of the Order of the Elephant)の前身が設立されているのでフランスでの騎士団の設立はかなり遅い。また、現在もガーター騎士団と金羊毛騎士団とエレファント勲章勲騎士団は勲章と共に存在している。聖ミッシェル騎士団は、騎士の王への忠誠を確認する事が目的でもありフランスで最高の騎士団であったが「王朝騎士団」の要素が強かった為にフランス革命後に一度廃止。王政復古で復活したが再び王政が倒れると1830年に公式に政府により廃止された。各国王族に残った中世からの騎士団であるが、王政廃止と共にフランスからは消えたのである。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク エレファント勲章 とデンマーク王室の王冠最初の防護壁はベネディクト会修道院を置いた時10世紀末にはすでに存在していたらしいが、本格的に城壁が築かれたのは13世紀末。14世紀末のピエール・ル・ロワ大修道院長の時に強化され城塞化を始めた。1417年には当初の城壁の大規模拡張が行われ、王の門(Porte du Roi)が置かれ村の通りは閉ざされた。王の門(Porte du Roi)王の騎士が守ったので王の門と呼ばれる。つり上げ式の架橋で門は閉じられる。百年戦争の時にイギリスが10年に渡って水陸からこの修道院を攻めたが難攻不落。陥落する事は無かったという。※ 百年戦争(Hundred Years' War)(1339年~1453年)は1337年、イギリス国王エドワード3世が、フランス王位の継承権を主張して争いが始まる。英プランタジネット家vs仏ヴァロワ家によるフランス王位争奪の戦いが本筋であったがフランス国内を戦場に、諸侯の領地争いもからみ長い戦いが始まった。この戦争では女戦士ジャンヌ=ダルク(Jehanne Darc)(1412年頃~1431年)も登場してフランス王シャルル7世の戴冠に貢献。百年戦争後にモンサンミッシェルはさらにパワーアップ。砲撃できるよう砲撃の際の死角を無くした稜堡(りょうほ)が組み込まれた建築は、伝統的な要塞建築の原型となる。稜堡(りょうほ)稜堡(りょうほ)は大砲による攻撃の死角をなくすために考案されたもの。位置的に本土と繋ぐ砂州が現れる位置にある。下は入口のコーナーにおかれていた物。石の玉?どうやって飛ばすのでしょうね?モン・サン・ミッシェルの裾のを取り囲む城壁には、中世期の要塞建築の全てが集約されていると言う。難攻不落の修道院何しろ先の百年戦争(Hundred Years' War)(1339年~1453年)の時は、この辺り一帯をイギリス軍が占領していた。イギリス海峡(English Channel)をはさみ目と鼻の先の対岸がイギリスだ。その中で10年に渡りモンサンミッシェルは包囲されたが修道院長であり、ノルマンデイーの知事でもあったルイ・デストゥートヴィル(Louis d’Estouteville)(1400年頃~1464年)が断固として抗戦し死守した。食糧は船で運べたので籠城(ろうじょう)が可能だった?イギリス側も船で海から攻めたが、大天使ミカエルの加護(かご) ?「嵐が起きて多数の船が岩礁にたたきつけられ沈没した」と伝えられている。でも、岩礁はまわりに無い。干満の早さで船を持って行かれ沈没したか?船の精度も良くはなかったのだろうが、いずれにせよ、特殊な引き潮や満ち潮について(干満時間など)知識が無ければ近づいたとしても上陸前に溺れたのかもしれない。また、16世紀の宗教戦争の時もモンサンミッシェルはびくともしなかったと言う。だから「難攻不落」と言う称号はフランスにおいて象徴的な意義を持っていた。上が城壁の内側下が外側からの城壁銃眼(じゅうがん)が無数に備えられている。縦に長いのはボウガン用かも。船を持っていたとの記述は見ないが、ノルマン公国によるイングランド征服戦争の時は軍船6艘(そう)を兵隊付きで修道院が提供している。諸侯以上に裕福だったのかも。モンサンミッシェルの教会自体はこの小さな山の島に集約されているが、寄進された広大な領地は本土に持っていた。その領地では農民から年貢を取り立てていたのであるが、その取り立てはキツく世俗の領主以上に苛酷(かこく)であったと、非常に評判が悪かったそうだ。そもそも領地を持つ大聖堂や修道院はフランス革命の時に民衆の襲撃の対象になっていた。どこも酷かったのだろう。革命のどさくさに襲われ、フランスの修道院はほぼ解体された。だからフランス革命の時、ここモンサンミッシェルも農民が大挙して押し寄せ、事もあろうに、難攻不落を誇った要塞はあっさりと陥落したのである。そしてモンサンミッシェルの修道院はすぐに解体。革命政府の元で監獄として利用された。まず先に牢屋に入れられたのが、ここにいた修道士ら約300人だったと言うのだから、聖職者としては情けない最後である。2014年以前の陸橋の頃のモンサンミッシェルゴールデンブックシリーズの案内本から(地図は上層階から載せています。)※ 着色加工しています。上の写真と聖堂の向きが一致しています。紫・・僧坊ベージュ・・テラスピンク・・礼拝堂ブルー・・貯水槽上階テラスからの聖堂入り口 聖堂前の西側オープンテラスから1144年にノルマンディー・ロマネスク様式のラテン十字をした聖堂が建立。その後2世紀、ベネディクト会派の宗規により権勢を得、ロマネスクの聖堂は絶頂期を迎えた。その後13世紀に火災があったとされる。それが原因なのか?あるいはクリプト(いわゆる地下室)の強度に問題があったのか? 亀裂が生じたらしい。15世紀に前部(身廊一部)、と内陣を取り壊し1446年~1521年にフランボワイヤン・ゴシック様式で内陣を造営し再建している。それ故、既存のノルマンディー・ロマネスク様式と混在している。主要部だけ聖堂の名称を入れました。参考にしてね。聖堂内部側廊このあたりはロマスク様式。身廊内陣クワイヤ、アプス以降はゴシック様式アプス石工mason(メイスン)下は前回紹介したラ・メルヴェイユ(La Merveille)の屋上にある回廊の柱の彫刻。これこそが石工mason(メイスン)の技術です。石工達は聖堂が完成すれば、次の聖堂建設の為に土地を移動。唯一土地に縛りの無いギルドでした。彼らは土地に関してfree lance(フリーランス)の職業集団だったのです。中世は、ドラクエみたいに一般人が生まれた土地を出て冒険するなんて事は簡単にできなかったのです。国を出るには、王なり、街の上層部の許可が必要であった。それなりの理由が必要。唯一出られたのが巡礼であったり、十字軍などの公式の遠征だったのではないでしょうか?ここ、モンサンミッシェルも聖ミカエルの巡礼コースに入っています。ラ・メルヴェイユ(La Merveille)の屋上にある食堂屋根中世、早い時期の聖堂の屋根はたいてい木造であったそうです。本来、石の屋根の方が、火災の心配もないので理想。しかし石は高価だし、重いし、工事期間もかかる上に、重さで壁が外側に湾曲するからバットレス(控え壁)の必要も生じる。さらに材料費と専門職人の費用が発生するので経費が非常にかかったらしい。(大修道院教会の聖堂の内陣の壁はバットレス(控え壁)で支えられている。身廊の天井は木造。)中世、落雷による火災も多かったので、屋根に火が付けば大きな惨事となる。素早く屋根に上って消火活動ができるような隠し階段が壁の間に造られる事もあったと言う。木枠で組んだ屋根の骨に雨漏りしないように、鉛をシート状に薄くしたものを溶接して雨水がしみこまないようにしたなど工夫が。しかし、この屋根も高価なので、瓦や天然スレートが代用されたようです。(鉛は案外重いので、屋根の傾斜角度によってはくるくる巻いて落ちて来る事もあったとか。)修道院建築(monastic architecture)通常の教会であれば、聖堂と教父らの執務室や寝所くらいのところ、修道会では共同生活を営む修道士の為に大人数分の寝所、集会室、大食堂、大厨房など必要となる。また、修道院長室やVIPの為の応接室、客室も必要。規模が大きくなれば客室も多数用意されていた事だろう。時に身分の高い客人も来るのだから・・。また、勉強の為の大きな図書室、また写本の為の作業場など複数の施設が必要であったはずだ。そしてそれらは回廊で繋がれた構造になっている。修道院建築(monastic architecture)と言う修道会独特の建築スタイルがあるが、回廊は修道院の代名詞とも言える存在だ。スクエア型の中庭を回りが寝殿造りの回廊が繋ぐ、それら外側はたいてい建物で部屋が付随している。そこは完全なる修道僧だけが立ち入れる俗界とは隔てられた領域。つまり回廊自体が建築的な障壁として存在しているそうだ。そう言えば、最後の晩餐が描かれているミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)も複数のスクエア型した中庭で構成されていた。教会に付随する中庭の回廊は自由に見てまわれたが、最後の晩餐が描かれている食堂は僧院の中庭なのでガラスで仕切られ庭には出られないようになっていた。そこは俗人が立ち入れない領域だからなのか?入れたのは唯一、絵が描かれた元食堂の一室のみ。リンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)でも、モンサンミッシェルは土地が無いから縦に積み重ねられた。食堂こそ回廊の脇にあるが、僧坊などは違う階層にある。ここは全てが例外的です。次は騎士の間と客間である。メルヴェイユ東棟、地階、修道士の食堂の下の階にある貴賓室(きひんしつ)天井はゴシックの交差ヴォールト食堂の階下にある客間は高貴な来客者用なので煖炉などの設備が整っている。この部屋は「修道院の友」と呼ばれる。いわゆる巨額な寄進をした王族や諸侯などの寄進者を迎え入れる為の部屋だったそうです。つまり聖王ルイしかり、歴代のフランスの王が滞在した部屋でもあると言う事です。※ ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)下の写真は2つの煖炉。上の写真にも煖炉の跡が見えます。部屋を暖める目的以外に、暖炉で客人が自由に調理できる設備として造られた物らしい。非常にめずらしいもので、この修道院に暖炉があるのは他には次に紹介する騎士の間くらい。一般の修道僧達は寒い中生活していた。ノルマンデイーだし、石組みの堂だから夏は良いけど冬は恐ろしく冷えたであろう。だから彼らの寿命も短かったと聞く。交差ヴォールト(Groin vault)ヴォールトはアーチ状の石造り天井。建築技術が進んで来ると、バレル・ヴォールト(半円筒形のアーチ状の石造り天井)が用いられるようになる。これは、かまぼこ型のトンネルのようなもので、アーチが延長されたロマネスクの様式。このトンネル型のヴォールトに直角に交わってくると、継ぎ目が交差。それが交差ヴォールト。下図の1しかし、ロマネスク式の円頭アーチには問題点があった。柱の間隔で天井の高さが決まる。だから柱を等間隔にすれば高さは揃うが中世の聖堂建築は継ぎ足しの増築となるのでそうは行かない。特にこのモン・サン・ミッシェルは立地が限られているので柱の等間隔は保てない。加えて広く高い建築空間を造るのには限界があった。そこで考案されたのがゴシック式の尖塔アーチと言う技法。尖塔アーチでは柱の位置に関係なく、高さをいかようにも調整できた。1.ロマネスクの交差ヴォールト2.ゴシックの交差ヴォールトゴシックの交差ヴォールトの天井の作り方(上図)木枠を組み、そこに石を骨組みから積み上げて行く。骨以外の場所は軽いレンガや漆喰で埋められ完成したら、木枠は外される。モン・サン・ミッシェルはロマネスクの様式とゴシック様式が入り交じっている。天井に注意して見れば何んとなく解ります。騎士の間ここは、13世紀以降修道士が写本と細密画の制作に従事した部屋でもあった。ギリシャ、ローマの古典、哲学や芸術、薬学や神学書の保存と研究も彼ら修道会の仕事だった。後年大学付属の写本工房が増えてくると、修道院では主に外部工房への写本貸し付けや、逆に写本購入したりする管理の立場として事務作業の方が増えたと言う。が、1469年フランス王ルイ11世が聖ミッシェル騎士団を創設してから騎士の大広間と呼ばれるようになった。この部屋にも大きな暖炉が2つ据えられている。修道士が唯一暖をとれた部屋であったろうが、騎士が常駐して騎士の間になってからはどうだったのだろう?聖堂の南の翼廊地下・・聖マルティネス礼拝堂この礼拝堂は、非常に分厚い壁でできています。(くぼんだ窓)その意味が私も今わかりました。壁で上部階の翼廊を支えていたからのようです。太い柱の地下礼拝堂「縁の下の力持ち」と言う言葉がありますが、本当に縁の下の力持ちがこの太柱の礼拝堂です。ここは、本丸の教会聖堂内陣を地下でささえる土台として、15世紀半ばに建設。※ 身廊の部分には元の岩盤があるので必要無いが、内陣部分にあたる所は基板が無く低くなっている。大人が3人で手をつないだくらいの太さと言うので、直径1.5~1.6mくらい? 聖堂内陣の重量をここで支えているので、無数に、場所によっては密集して柱が立ち並ぶ。聖ステパノ礼拝堂(11世紀頃造られ、13世紀には改修)医務室と修道士の納骨堂の脇にもうけられたこの礼拝堂は、かつて修道僧の遺体安置所だったらしい。写真中央の十字架の台座には「A.Ω」刻まれ、生まれてから死ぬまでを示しているそうだ。そしてその壁の向こう、物資輸送用の大滑車部屋です。かつては納骨堂だった所に大きな滑車が据え付けられた。納骨堂はフランス革命の時に山のようにあった亡骸を窓から放り出して捨てられてから牢獄となっている。その後、反革命派の修道士達がそこに閉じ込められ、革命後は政治犯等も収容され、牢獄としてしばらく使われていた。(1793年~1863年まで)滑車は囚人の為の食事を運ぶ荷物昇降機として19世紀に牢獄になってから設置されたもの。直径6mの滑車は、中に人が入って人夫の重量で回して動力にしていたとか6人で2トンの重さを運びあげられたそうです。この人動力(ひとどうりょく)方式は古代ローマ時代からあり、建築現場で使用されていたらしい。すごく危険そうですが・・。荷台?下は外から見た位置と昇降の石のレール小さな礼拝堂の窓のステンドグラス。ホタテ貝が目にとまった。ホタテは聖ヤコブのアトリビュートである。つまりこれはサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼を示唆するマークなのだろうか?実際、1998年に、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」は途上の主要な建築物と共に世界文化遺産に登録された。うちフランスではパリ、ヴェズレー、ル・ピュイ、アルルの4つの都市を起点としたルートである。パリとボルドーを結ぶ巡礼路の枝にモンサンミッシェルも入っているようだが、これがサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼に入っていると言う証明を見つける事ができなかった。むしろ、本来モンサンミッシェルは聖ミッシェルの巡礼路の起点の一つである。イタリアのモンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)を今はめざさないのだろうか?そもそも公式にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼に含まれる場所にはホタテの標識があるはず。モンサンミッシェルでは見ていない。解ったら書き加えますね。因みにサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼は過去に扱っています。1~14まであります。リンク先は一部のみリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)さて、これでモンサンミッシェルの書き換えは終了です。古いのは削除しました。今回のback numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユモンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部次回こそ? 「アジアと欧州を結ぶ交易路12」の予定。
2021年05月21日
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back numberのリンク先追加しました。修道院とか、建築とか、要塞とか載せたいものが出てきて時間かかってしまいました。 f^^*) ポリポリ モンサンミッシェルは見所も多いから写真もたくさん載せたかったので結局分割しました。次回も「モンサンミッシェル」です。ついでにフランス王国の成り立ちも加えました。フランク王国カロリング朝(Carolingiens)の末、神聖ローマ皇帝(在位:800年~814年)となったカール(Karl)大帝(742年~814年)の孫の代でフランク王国は東西フランク王国と中部フランク王国(後のイタリア王国)に分烈する。843年ヴェルダン条約によりルートヴィヒ1世の遺児が王国を3分割して相続するが、870年メルセン条約で中部フランク王国は割譲。それらは後のドイツ・フランス・イタリアの三国の原型となる。しかし、割譲された王国も東フランク王国は、ルートヴィヒ4世( 893年~911年)。西フランク王国では、ルイ5世(967年~987年)987年を最後にカロリング朝の血統は途絶え断絶した。ところで、話しは西フランク王国に戻る。西フランク王国では5代目あたりから必ずしも王位はカロリング家の世襲ではなくなっている。有力諸侯や聖職者の推薦で決められたらしいのだ。それ故、西フランクでは諸侯の力が時に王より勝る事になったらしい。前回、ノルマン人(ヴァイキング)の話しに触れたが。「885年、ノルマンに定住した彼らはセーヌ川を遡り、直接パリに多勢で侵略に向かった。この時は3万人のノルマン人(ヴァイキング)が700艘の船でパリに襲来。」と紹介。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人当時のフランク王国はノルマン人がセーヌ川やロワール川の川口から侵略する事が増えて困っていた。この時フランク側の防衛で活躍したのがロベール家(Robertiens)のアンジュー伯、ロベール豪胆公(Robert le Fort)(830年頃~866年)だった。そして次いでパリ伯となっていたロベール家、長子のウード(Eudes)(852年以降~898年)(在位: 888年~898年)は885年のノルマン人のパリ襲撃でノルマン人を阻止し大活躍する。そのパリ防衛の功績で、ウード(Eudes)は諸侯に推挙(すいきょ)されロベール家初の西フランク王国の王となった。※ 因みに、ウードの次代王は、カロリンク朝のシャルル3世 (Charles III)(879年~929年)(在位:893年~922年)に戻っているが、シャルル3世がノルマン公国を公認(911年)した王である。そして、後にカロリンク朝が断絶した時、ロベール家出身のユーグ・カペー(Hugues Capet)(940年頃~996年)が諸侯の推挙で次代のフランク王国の王位に付いた。987年、これよりカペー朝(Capetian)(987年~1328年)の時代が始まるのである。また、これを持って西フランク王国は終わりフランス王国が誕生したと見なされている。ノルマン人(ヴァイキング)を撃退して活躍したロベール家はフランス王国の始祖となったのだ。欧州史は、あちこちで歴史が絡んで来るので大変です。でも、知っているのと知らないのとでは格段に面白さが違いますさて、写真は複数年、季節も混ざっていますので了解お願いします。モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユフランク王国からフランス王国へベネディクト会修道会の招聘(しょうへい)モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院中世の修道院の役割ラ・メルヴェイユ(La Merveille)バットレス (Buttress)前に紹介していますが、トーンブの岩を崩す事なく教会堂は岩を覆うように増築され建設されたので、断面を見ると岩山の原型がわかります。下は南西正面角度の異なる教会を紹介ベネディクト会修道会の招聘(しょうへい)ベネディクト会修道会(Benedictine Order)(ラテン語: Ordo Sancti Benedicti)アヴランシュの司教オベール(Avranches Bishop Ober)(生年不明~720年)によって709年10月に開祖されたモン・トーンブ(墓の山)のモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)はノルマンデイーとブルゴーニュのほぼ境界にあった。933年統合されモン・サン・ミッシェルもノルマンディー領に入る。しかし、ヴァイキング(ノルマン人)の襲来が酷くなってきた頃、避難? アブランシュに置かれていた司教座がドル=ド=ブルターニュ (Dol-de-Bretagne)に移転している。それが原因?モン・サン・ミッシェルの管理者(司教座)がブルターニュに移転したと言う事は、モン・サン・ミッシェルの管轄もブルターニュに移動してしまう? 危惧した? ノルマンディー公、リシャール1世(Richard I)(933年~996年)(在位:942年~996年)は966年、ノルマンディーのサン・ワンドリル修道院とイタリアのモンテカッシーナからベネディクト会派の修道士を招いてモンサンミッシェルに修道院を設立させた。もともとノルマンディー建国当初より、歴代公はベネディクト会を擁護していた事もあったらしい。ノルマン公国時代の首都があったファレーズ(Falaise)にあるリシャール1世(Richard I)像ウィキメディアからですが、下をカットしました。※ 3代目(在位:942年~996年)ノルマンディー公リシャール1世(933年~996年)はノルマンディー公国の統治に集中。内政の安定化とノルマン人同士のつながりを強化し西フランクで最も結束力のある国に成長させた。ベネディクト会を擁護していた方には見えませんね。まだヴァイキング感が抜けていないのですが・・。これは像に問題ありなのか?もしかしたらキリスト教に改宗するにあたり、指導してもらっていたのかもしれませんね。修道士の役割はそもそもそう言うものだから・・。狭い岩山の上に建てると言う制約条件が、他と違う独自性を持った教会となっている。つまり、通常なら横に増築される部屋が縦に積み重なる構造になっている。聖堂の内陣は東に向いて立っている。モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院529年、モンテ・カッシーノ(Monte Cassino)の異教の神殿跡にヌルシア(Nursia)の名門出身のベネディクトゥス(Benedictus) (480年頃~547年)は洗礼者ヨハネに捧げた修道院を建立。530年頃、ベネディクトゥスは修道会則を定め共同で修道生活に入ったとされる。※ 聖人に認定されてから聖ベネディクトゥス(St Benedictus)と呼ばれます。聖ベネディクトゥスの戒律(Rule of Saint Benedict)は、全部で73章からなる修道院生活の規律が示されたもので540年頃に書かれた物と推測されている。中身は修道僧の規律となる生活に関する規範とクリストセントリックな生活(Christocentric life)を送る為の精神論だったとされる。多くは修道院と言うコミュニティーの中で謙虚に従順に在る方法や、修道院の管理に関する項目もあったが、食事の質や分量にまで言及されている。ざっと73規約を見たが、道徳に加え、かなり細かい行動内容にまで言及されている。学校の校則に近いものがあるそれは後に西ヨーロッパ中の修道会へ広がり中世ヨーロッパの修道制度の基本とされ導入されている。聖ベネディクトゥスが欧州修道会の父と呼ばれるのはそれ故である。※ 聖ベネディクトゥスは正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会でも聖人とされている。しかし、実際の全容は解っていない。実は、聖ベネデイクトゥスの死後、581年頃、モンテ・カッシーノはロンゴバルト人(Longobardi)により破壊されその原本が失われているのだ。僧院が再建されるのは718年。※ 表に出たのは難を逃れたベネィクト会の修道士から聞いた話しを 後に教皇(Gregorius I)となる聖アンドレアスの修道士グレゴリウス(Gregorius)(540年? ~604年)が著した事から広まったとされる。当時の聖ベネディクトゥスとベネディクト会が実際にどのような活動をしていたのかは定かで無いが、僧侶たちは毎日8時間祈り、8時間眠り、8時間肉体労働、神聖な読書、慈善活動に費やしていたとされる。聖ベネデイクトゥスが修道院を開いた頃は、西ローマ帝国が無くなり、イタリア半島がロンゴバルト人に浸食され始めた頃である。東ローマ帝国の力はまだ多少あったが、 欧州は絶えず異民族の侵略にさらされよりいっそう暗黒の時代を迎える事になる。そんな中で修道士の活躍はより必要とされた。ベネディクト会では指導できる修道士の育成を積極的に行い各地に派遣もした。教師養成所のような所でもあったわけです。※ ベネディクト会(Ordo Sancti Benedicti)の修道院については以前ヴァッハウ渓谷 (Wachau) のメルク修道院でも紹介しています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架) 「聖ベネディクトゥスがめざしたもの」について書いています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)下の写真、右の塔付きの建物がメルヴェイユ(La Merveille)の一部。塔はコルバンの塔。位置は北東のコーナーモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)地図下は現地で購入したゴールデンブックシリーズの案内本の絵図から。メルヴェイユ(La Merveille)の建物は北側。ブルーは参道のメイン・ルートを示した。(土産物やレストランの中店通り)※ 参道の途中あちこち山頂の教会堂を目指す階段も存在する。中世の修道院の役割初期の修道院はキリストの禁欲思想に由来するものだったらしい。それは己自身を高める精神の修行が目的であった?しかし、中世中葉、ベネデイクトゥス以降の修道院は時勢により目的が違ってきた。彼らは己の精神修行よりもまずやらなければならない仕事ががたくさんあったからだ。荒廃した世の中の立て直しである。特に彼らは辺境地におもむき宣教よりも先に衣食住の復興や文化の復興もしなければならなかったからだ。輝かしいローマ帝国の文化はいつしか蛮族により荒らされていた。ローマ水道も破壊され、修復もままならず使用できなくなっていた。衛生的な水さえも手にいれられなくなり、文化度は所により原始生活にまで落ちていた所もあったらしい。辺境地に向かった修道士は大地を耕し、失われた文明を取り戻すべく活動を始めた。彼らの仕事には失われた書物の写本もあったが、とにかくギリシャ、ローマの古典、哲学や芸術、薬学や神学書の保存と研究と共に修道士はそれらを伝えるべく、学校や図書館を作り文化の向上に力を入れた。彼ら修道士は村落の立て直しなどにも貢献し、農作物を育てる事なども指導していたと思われる。農作物も修道院では必要で在るし、聖祭の為のワイン造りは必要不可欠。彼らはその技術も当然持っていたからだ。彼らはそうした人々に寄り添いながら福音を述べ伝え、宣教活動もした。命を落とす事も多々あったであろう。殉教(じゅんきょう)と言うワードはまさにこの頃から再び増えて行ったと思われる。一つ気になるのは、庶民の識字率の低さである。彼らは読み書きは教えなかったのだろうか?もっとも、貴族の婦人でも中世半ばまで文字を読めない人はあたりまえにいたらしい。※ 識字率について以前書いています。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠リンク ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)メルクやザルツブルグの修道院で、彼らが写本していたのはラテン語の書物。大学など高学歴の人材育成に力が入れられていた?しかし ベネディクトゥスは高い学問を学びながら敢えてそれらを放棄させている。「学在る無知の教え」だそうだ。高い学問を一度は体験し、それらを軽んじる事は無いが、神の王国の前にそれらは必要無い。敢えてそれらを棄て、超越した世界に身を置く事を修行とした?それは高い学問を身に付ける事で悪徳の道に迷い、かえって身を滅ぼす者をたくさん見て来たベネディクトゥスの経験から来ているらしい。手前の建物がメルヴェイユ(La Merveille)呼ばれた建築。ネオクラシックのファサード? 一見ロマネスク風建築なのですが・・。聖堂の入口でもある。下は現地で購入したゴールデンブックシリーズの案内本の絵図ですが、をさらに解説を寄せて編集しています。左手前(北面)ゴシック3層構造のゴシック建築の部分であるが、全てひっくるめてラ・メルヴェイユ(La Merveille)と呼ばれる。ラ・メルヴェイユ(La Merveille)意味は必ず「驚異」とされているが、何? と思われるだう。ラ・メルヴェイユ(La Merveille)は不思議とも訳される。本意は オッドロキー と言うところかな?それはゴシックを越えた? 建築技術に加え、まるで空中庭園のような屋上の回廊のある美しい中庭の存在だ。メルヴェイユ(La Merveille)は北側に位置するのでモンサンミッシェル全景の写真撮影ができない。下は世界遺産の本から持ってきました。トーンブの岩を崩す事なく教会堂は岩を覆うように増築され建設された。何しろ、そこは古来より神聖な岩山であったからだ。モンサンミッシェルの勢力の拡大と共に岩山の教会は拡大していく。最初の大きな聖堂の着工は1017年。1144年完成。重々しいノルマンディー・ロマネスク様式だったそうだが、クリプト(crypt)の強度の問題か? 15世紀には ひび割れが生じ危険な状態に。しかた無く聖堂の前部を取り壊しテラスにした。下は3層の一番下段。半分は岩山だ。聖堂の内陣も一部壊し、クリプトをしっかり造ってから造り変えるに至った。1446年から1521年。新しくできた聖堂の内陣はフランボワイヤン・ゴシック様式(flamboyant Gothic style)。フランボワイヤンは「燃えるような」と訳されるが、「火炎のような」華麗にして華美な装飾スタイルである。いろんな時代がミックスされています。聖堂は次回に後陣と聖堂の向こうには、3層構造の建物が絶壁に垂直にそそり立つように建てられた。これがラ・メルヴェイユ(La Merveille)と呼ばれる建物だ。上の図のラ・メルヴェイユの1階には礼拝堂付き司祭の間と貯蔵庫が置かれた。※ 司祭の間は巡礼者への施しも行われていた。2階、客間(貴賓室)と騎士の間。3階、広い食堂と回廊付きの中庭。※ 中庭からの眺めが驚嘆に値する絶景となっている。再び上層階に上がる大階段のある東面から3層構造の建物なのに一見、控えめなバットレス (Buttress)だけで支えられている。下は補強となるバットレス (Buttress)の部分を色を付けて見た。一見垂直に見えて、実は非常に巧みに組み合わされた控え壁の構造となっている。それは北面サイドを見れば尚さら驚ろく。バットレス (Buttress)15世紀と言う時代である。ゴシック様式でこれだけ高い建物で垂直性を物つ壁はなかなか見ない。石積みだけの壁は高くなればなるほど下方に重荷が来るので壁は外に湾曲にたわむのだ。それは天井にヴォールト構造が取り入れられるようになるとなおさら壁への負荷は増した。※ ヴォールトは次回説明します。だから壁が外に破れるように崩壊するのを防ぐ為に柱なり壁なりで押さえ込む構造で補強される。それがいわゆるバットレス (Buttress)と言う建築構造だ。因みにモンサンミッシェルでも聖堂部を支えるバットレスはまた異なる。フライング・バットレス(flying buttress)と言う飛梁(とびばり)構造になっている。フランボワイヤン・ゴシック様式(flamboyant Gothic style)の部分それはノートルダム教会の聖堂だと確認しやすい。あそこは側廊の壁面もフライング・バットレスだらけなので。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓因みにフランス語で「支え棒」の事を「アルク・ブータン(Arc-boutant)」と呼ぶらしくフランスの教会案内ではアルク・ブータンと説明されるかもしれない。それにしてもモンサンミッシェルのバットレス (Buttress)は奧が深い。計算され尽くし、かつ機能美さえも備わっている。最もモンサンミッシェルの場合、平地の建物とは異なり、裏側が岩盤により補強されている。1階の半分が岩盤なので可能だったのか?下は2階から3階の部。随所に見られる補強の構造に興味が湧く。3階のアーチは今はガラス? がはめ込まれている。危険だからでしょうね。227本の石柱で支えられた回廊式の美しい方形の庭園になっている。完成は1228年。聖堂より古い。回廊式中庭からの修道士の食堂 食堂は次回にアーチの向こうに広がる海原(うなばら)。見下ろすと目がまわりそうな高所で、空中庭園を想像?皆が感嘆したからラ・メルヴェイユ(La Merveille)驚異なのか? 不思議なのか?「驚異中の驚異」とも伝えられる。聖堂の翼廊の窓ですね。写真と解説を以前より増やした為に次回もモンサンミッシェル」です。なかなか写真のセレクトにも時間がかかり、また図解資料の着色などつまらない所で時間食っています。1週間程度で出せる予定です。緊急事態宣言5月31日まで延長されるようで、なかなか世の中が落ち着かないですね。とは言え、昨年に比べれば通常生活に近いかも・・。旅行は行けないけど・・。昨年から延期されていた姪の式が近づいています。ドレスを買いにデパートに行きたいが、デパートもドレス類は売れないので昨今はそう言う系は縮小されているそうです。でも来週こそ買い物に出かけなければ・・。ネットで失敗したので・・。飲食系だけでなく、そう言うイベント産業の人達も大変ですね。コロナ騒ぎに終息宣言が出されたとしても、完全にコロナ以前の世の中に戻る事は無い気がします。産業も形態も確実に変わって来る事でしょう。また、ネットが増えた昨今ですが、ネットではダメな分野は存在する。とは言え、今までと同じ事をしている企業はダメかも。コロナ後の新しい世界に生きる為に、誰もが進化しなければ。back numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人 モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年05月09日
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カンナビ(神奈備)について書いたリンク先追加しました。2009年に書いたモンサンミッシェル・シリーズを新たに編集しなおしたものです。「大天使ミッシェル(ミカエル)」も合体させました。ほぼ別物です。ところで先ほど「キンバリーダイヤモンド鉱山のビッグ・ホール」の写真も総入れ替えしました。リンク キンバリーダイヤモンド鉱山のビッグ・ホール以前の陸橋が壊され、パセレル橋(Pont Passerelle)が2014年に完成。全体の見える景色は2014年を境に若干変わっているようです。写真の最新は2010年11月なのでオリジナルの新しい橋の写真はありませんが、モンサンミッシェル内部の写真はかなり増えているので沢山載せられます。むしろ多すぎて選ぶのに時間かかっています。「欧州の交易路」もあるので少しずつ変更していく予定です。橋の完成に伴い、島への一般車輌の乗り入れは禁止されました。それに伴いモンサンミッシェルの街には以前なかった大きな駐車場が何カ所か増設。そこから無料のシャトルバスで島まで向かうようになったのです。※ 鉄道駅は街に無い。でも、島内への宿泊者の場合、団体専用バスでの乗り入れができるそうです。またシャトルバスは夜0時まであり、モンサンミッシェルの夜景を島の外から眺め撮影する事も可能。モンサンミッシェルの観光のポイントは「潮の干満のタイミング」と、「映(ば)える天気」。何より干満の差を楽しむなら日帰りよりは泊りが望ましい。干満時間を考えて日帰りは難しいので・・。※ パリからだと往復時間がかかるので時間的余裕はほぼ無い。モンサンミッシェル城壁内に宿もあります。街はずれにはモンサンミッシェルが望めるホテルもあります。それにしてもいつの季節に訪問するのがベストなのか?そしてこだわるならばやはり一番は潮の時間。大潮の時が本当はベストでしょうねモンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)霊場の歴史大天使ミカエル崇敬の聖地岩山の聖堂大天使ミカエル(Archangel Michael)天使のヒエラルキー(Hierarchy)モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)霊場の歴史BC5000~BC3000年の新石器の時代、その太古からモン・サン・ミッシェルの岩山は神聖な場所とされていたらしい。※ この時代の巨石記念物の墓碑(ドンメル)が頂上付近にあったとされている。また、4世紀から6世紀にかけて、ブルターニュ地方はグレートブリテン島南西部から移住してきたブリトン人の地となり、次いでこの地に定住したケルト系民族にとっても、ここモン・サン・ミッシェルの岩山は霊場とされていた。※ ケルト人の事は以前「古代ローマ水道 9 (イギリス バース編 2)」で少し紹介。リンク 古代ローマ水道 9 (イングランド・バース編 2)※ 次章でケルト民族の移動の事など詳しく書きました。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人トーンブ(墓)という名の岩山が突き出ていて、人々はこの岩山を霊場と仰ぎ始めた。ガリア人(ケルト人)の時代には光の神ベレンの神殿があり、ローマ時代には旅と使者と商業の神であるメルクリウス(ヘルメス)の神殿があったとも伝えられている。キリスト教の時代に入ると昔の異教の霊場の多くはキリスト教の聖地に変わっているが、トーンブの岩山もまた5世紀にはキリスト教の隠者がすでに庵を構えるキリスト教の霊場になっていたらしい。聖オベールの夢(Dream of St. Ober)突然現れた大天使ミカエル(Michael)or大天使ミッシェル(Michel)からお告げを受ける司教オベール教会のゲート上のティンパヌム(tympanum)だったものでしょうか?アヴランシュの司教オベール(Avranches Bishop Ober)(生年不明~720年)メロヴィング朝の第10代国王キルデベルト3世(Childebert III )(695年~711年)(在位:695年~711年)の治世の話し。大天使ミカエル崇敬の聖地モンサンミッシェルからほど近い(2時の方角)にあるアヴランシュ(Avranches)の旧市街は海を見渡せる高台で、かつて司教座聖堂が置かれていた。※ 司教座聖堂は近隣の教会を統括する大きな聖堂を持つ教会で司教が常駐していた。司教オベールは毎日霧の中から現れるこのトーンブを見ていたらしい。8世紀の当時頃、トーンブの回りはまだ陸で、シッシーと言う森に覆われていたと言う。島ではなかった? らしいのだ。ある日、司教オベールは夢を見た。モン・トーンブ(墓の山)に「我が名を称える聖堂を建てよ。」と大天使ミカエルからの夢のお告げであったと言う。そこで司教オベールは、大天使ミカエルを勧請(かんじょう)するべく、2人の役僧をイタリアに使わし大天使の残した衣の一片をもらい受けたと伝えられている。そこは5世紀に3度にわたって大天使ミカエルが姿を見せたという南イタリア、プーリア州山脈、モンテ・カルガーノ洞窟。モンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)。大天使ミカエル崇敬のブームが西欧教会に起きるきっかけとなったミカエル信仰の因縁の場所らしい。かくしてトーンブ(墓の山)の上に709年10月16日最初の堂が建立されるのだが、その頃、地盤沈下? モン・トーンブは海の中に在る島となり、聖ミカエルの山、モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)と呼ばれるようになったと伝えられる。因みに、モンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)の「大天使の洞窟」は幾世紀にもわたって大天使ミカエルの巡礼地となっていて、その出発点がフランスのモン・サン・ミシェルとなっているらしい。※ 大天使(Archangel)は天使九位階の八位に当たる位階(ランク)。ところで、モンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)のブームから、聖ミカエルを奉る聖堂を建てる事は当時欧州で流行していた事らしいのだ。※ サンタンジエロ(Sant'Angelo)もサン・ミッシェル(Saint Michel)も聖ミカエル(St. Michael)も同意。それ故、夢と言うのは方便で、本当の所は政治的背景があっての事? と推察される。フランク王国の宰相ピピン2世(Pippin II)( 635/40年~714年)への忠誠と、隣のドル司教区で、モン・ドル(ドル山)の岩山を聖ミカエルに献じていたからアヴランシュ(Avranches)は負けじと競い合った? と言う話しがある。岩山の聖堂最初の聖堂は、岩山頂上の西斜面に切り出し花崗岩の石を大雑派に円形に並べた造りで、100人収容できるサイズであった。聖堂に置かれた模型から。上が10世紀。下が11~12世紀の聖堂と推定。モン・サン・ミッシェルは岩山の上に増築されて大きくなっていった。13世紀に火災によりロマネスクの聖堂は焼失。ゴシックで建造される事になる。下が20世紀の教会通常、写真の撮影できない側からのショットです。ウィキメディアからの空撮。橋の建設途中のようなので2014年以前の写真のようです。司教は礼拝を行う為に12人の修道士からなる修道会を設立するが、当初はケルト人の古い修道会と同様のしきたりで厳格な規律の下に生活していた。堂は966年にベネディクト会派修道会に引き継がれる。13世紀にはほぼ現在の形になったらしい。下は、図解ですが、教会の聖堂を除くと下からトーンブ(墓)という名の岩山が現れます。新たに比較的大きな教会堂が頂上に築かれ、(現在は基礎部が発見)900~930年頃に大ききな礼拝堂が建立された。(現在のノートルダム地下聖堂・・上の写真の上部、Dの部分)トーンブの岩を崩す事なく教会堂は岩を覆うように増築され建設されたようです。以前、秦氏の創建した「蚕の社(かいこのやしろ)」の所でカンナビ(神奈備)の事を紹介していますが、そこも同じように古来より「神の座所」だったのではないか? と考えられる。つまり、その土地に根付いた神様(神霊)が宿る依り代(よりしろ)としての神聖な場所。「霊験のある場所」と解釈できる。実際、昔から神秘性を帯びていた景観を持つこの岩山が宗教が変わっても霊場とされてきたのは「神聖な力とされる物があったから」と伝えられている。この山頂では奇妙な電光現象が度重なって起こった。伝説によれば山の下は計り知れず深く、天と地上と地下で結ばれていると考えられ「神々と人間とを結ぶ伝達経路としてこの岩山が存在していた」などとも信じられていたらしいのだ。※ 「倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎」の中、「木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)」の中でカンナビ(神奈備)について書いています。リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎岩山を切り崩す事なく? の跡が教会の構造上も見られる。不自然な構造突き出たトーンブの岩が見られる。パセレル橋(Pont Passerelle)ができる前のモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)教会の尖塔には、モンサンミッシェルの名の縁となるミッシェル(Michael)の像が据えられている。※ ミカエル(Michael)に同じ。下は城門をくぐってからの撮影ミカエルは、神の御使いとして天と地の間を往来するとされ、地上から高くそびえ立っている岩峰や塔の上などに好んで降臨すると信じられ、ここモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)でも尖塔のてっぺんに飾られています。(肉眼では尖塔は見えませんが・・)16世紀には、鐘塔の上にすでに金の大天使の像があったとされるが1594年の火災で消失。海抜157mの今日見られる彫像は、1897年に作られた作品。彫刻家エマニュエル・フレミエの原型(1879年制作)で、建築家ヴイクトル・プチグランが拡大レプリカを作り、自由の女神を手がけたアトリエ・モンデュイが制作。高さ4mの大天使像は打ち出し銅版製で鉄の骨組みにボルトで留められていて、総重量450kg。剣と羽根の先端が避雷針になっている為、100年の間に変形したらしい。1897年ヘリコプターにより取り外し、修理金箔の張り直しをし、再びヘリで戻して取り付けると言う技術のいる、大がかりな修理にマスコミを賑わしたそうです。ヘリの無かった時代はどうやったのでしょうね?大天使ミカエル(Archangel Michael)ところで、モン・サンミッシェルなので大天使ミッシェル(Michel)とした方が解り易いかもしれませんが、ラテン語のミカエル (Michael)がカトリックでの一般的呼び名なのでこちらで統一します。以下参考にフランス語のミシェル (Michel) ドイツ語のミヒャエル (Michael) イタリア語のミケーレ (Michele) スペイン語・ポルトガル語のミゲル (Miguel) 英語のマイケル (Michael) キリスト教のみならず、ユダヤ教やイスラム教において偉大な天使の一人として大天使ミカエルは存在。大天使ミカエル(Michael)はキリスト教ではラファエル(Raphael)、ガブリエル(Gabriel)、ウリエル(Uriel)と共に四大天使の一人です。 尖塔の像のひな型が堂内に置かれている。甲冑を身につけ剣を突き上げ、足下では悪竜を踏みつけている。守護者というイメージからも、像は山頂や建物の頂上に置かれ、ルネサンス期に入ると、ミカエルはしばしば竜(悪魔の象徴)と戦うミカエルというイメージから軍神として、甲冑を付け、剣や槍を持って表現されている。それ故? 中世においてミカエルは兵士の守護者、キリスト教軍の守護者となったようです。現代のカトリックでも、警官や救急隊員の守護聖人であり、ドイツやウクライナでは街の守護聖人になっている所も。モンサンミッシェルのように甲冑を身につけ剣を抜き放って、足下に悪魔あるいは悪竜を踏みつけている姿で現される事が多い。サタン軍との戦いから? 中世は疫病もまた悪魔の仕業と考えられていた為、その悪魔を退治する意味で疫病を抑える仕事もミカエルの役割だと信じられていた? からかも。またヨハネの黙示録では「天の軍勢の長」として天使の軍を率いて悪魔と戦うのがミカエルとされ、同じく「最後の審判」では、キリストの足下で亡者の魂を秤にかけ天国に進む者と地獄行くべき者を振り分ける者として絵画や彫刻で表現されたりしている。大天使ミカエルは「神に等しき者」、「天使の王子」の異名を持つ。それは神に次ぐ者、時に神の名代。同時に神に近い実力を持つ者として存在?そんな訳でミカエルを守護聖人として多く祀る所が増えた? のかもしれない。特に疫病や戦争の増えた中世の暗黒期、アヴランシュ(Avranches)の司教オベールのように、大天使ミカエルを勧請(かんじょう)し、山頂や教会の尖塔に像が置く街が増えたと考えられる。※ 少し前に紹介した「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中で「ハドリアヌスの霊廟」が「サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)」と名を改めたのも城の上の大天使ミカエルに由来していたっけ。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックサンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)の尖塔にある大天使ミカエルこちらはローマ時代に創建されているので軍服もローマ時代である。モンサンミッシェルのは甲冑から言えば13~14世紀の衣装です。サンタンジエロではミカエルの剣が納められている所からペストの終息が祈願されている。因みに日本の守護聖人として大天使ミカエルが祀られていた事もあると言う。なんと日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier )( 1506年頃~552年)がそう定めたらしい。天使のヒエラルキー(Hierarchy)ところで、天使にもヒエラルキーがあった。参考に載せました。天使の九位階と呼ばれるもので、神を中心として天球の層として現されている。これはダンテの「神曲」による所の宇宙絵概念図らしいのだが、9つの天球の層が9つの天使位階に対応しているのだとか。※ 神曲の天国編の解釈と思われる。当然、中心にいる神に近い順で地位が高いのだが、ミカエル達大天使は以外と地位が低い。熾天使(してんし・seraphim)(セラフィム/単数形はセラフ) 三対六枚の翼を持つ智天使(ちてんし・cherubim)(ケルビム/単数形はケルブ)座天使(ざてんし・Thrones)(スローンズ/単数形はスローネ)主天使(しゅてんし・Dominions)(ドミニオンズまたはキュリオテテス)力天使(りきてんし・Virtues )(ヴァーチュズまたはデュナメイス)能天使(のうてんし・Exousiai)(エクスシアイ/単数形はエクスシア)権天使(けんてんし・Arkhai)(アルヒャイ/単数形はアルケー)大天使(だいてんし・Archangelus)(アルヒアンゲラス/単数形はアルヒアンゲロス) 天使(てんし・angelus )(アンゲラス/単数形はアンゲロス)砂州だまりが牧草地化していた緑の向こうのモン・サン・ミッシェル。これもまた一興でした。ふと思った。前回、塩味の効いた牧草をはんだ羊のお肉は美味しいと紹介しましたが、ミネラルはともかく塩分は多いのだから羊だって高血圧になるのではないか?高血圧の羊、本当に美味しいのか? 若いうちに頂いてしまうなら問題ないのか?フランス革命の後、1793年最後の修道士が去るとフランス革命後に樹立された総裁政府により修道院全体が牢獄となったそうです。1863年まで国の監獄として使用され内部は改悪され荒廃、1865年に再び修道院として復元。島のサイドから後ろは海に沈む下はかつての陸橋 2010年の撮影写真にある陸橋は撤去され海流が流れるように橋がかけられた。2014年7月22日、新しく橋が開通。対岸から2km、砂州をまたぎパセレル橋(Pont Passerelle)が完成すると一般車両の島への乗り入れは禁止された。陸橋が砂州をため込み、陸と続いたら島ではなくなってしまう。との措置で橋脚の橋は2014年にかけられたが、歴史を振り返れば最初の聖域となるトーンブは陸続きの森の中にあった。その後、地盤沈下? 海に囲まれる島となった。たまに陸続きになると言う不幸から霊場に徒歩で向かう者の命を奪う危険な海域となった。最初から海なら船が使えたがここは船を出すにも中途半端。故に1877年に陸の橋がかけられ、安全が担保され、かつ美しい景色に世界遺産にも認定され繁盛。それにしても、本当に橋脚の橋は必要だったのだろうか?見た目は失敗だったのではないか? と思ってしまう。すでに150年の景色も存在し、定着していたのだから・・。おそらく、優先されたのはいろんな意味で経済的効果なのだろう。つづくまだ写真入れ替え途中ですが、次回は「アジアと欧州を結ぶ交易路 11」です。back numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年03月22日
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2009年に書いたモンサンミッシェル・シリーズを新たに編集して載せなおす事にしました。1~5になりました。ただ、モン・サン・ミッシェルは2014年に新たな橋がかけられかつてとはアクセスに関してはかなり以前と違ってきているようです。モン・サン・ミッシェル自体に変化はありませんが、見える景観も微妙に異なっているようです。比較するべく編集しました。尚、新規に更新した時点で古いのは削除します。モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞陸橋からパセレル橋(Pont Passerelle)の開通までモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel) 自然に囲まれた要塞陸橋からパセレル橋(Pont Passerelle)の開通までノルマンディー地方南部、ブルターニュとの境に近いサン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られた場所です。モン・サン・ミッシェルの修道院は、サン・マロ湾の南東部に位置する岩でできた孤島にあり、かつては満ち潮の時に海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた場所です。それ故、行き来は潮の引いた時のみ。しかし干満の差は水位のみならず時間にもある。恐ろしく早く潮がたまり溺れる者が多数出る難所としても有名であった。1877年に本土との間に陸橋が架けられ、以降は潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。それは観光客の増大にもつながった。しかし150年の間に陸橋の存在による砂の堆積で砂洲の陸地化が進んだようです。環境保全の観点から? 陸の橋は壊され、新たに橋脚のついた橋の建設が始まり2014年7月パセレル橋(Pont Passerelle)がオープンしている。2014年以前の陸橋の頃のモンサンミッシェル2014年以降、パセレル橋(Pont Passerelle)ごしのモンサンミッシェル写真はウィキメディアから借りてきました以前は海だった所が島の駐車場になっているようです。むしろ景観が不自然に変わっている気が陸橋の頃の方がナチュラルで風情があった気がします。ところで、1979年「モン・サン・ミシェルとその湾」としてユネスコの世界文化遺産に登録。1994年10月にはラムサール条約の登録地とされている。陸橋の撤去は従来の砂洲とモンサンミッシェルが島でなればならないと言う環境保全のためであるが、ひょっとしたら、それはラムサール条約の問題もあったのかも。それまでは砂洲が消え牧草地化するのは悪い事ではなかった? 開拓の歴史もある。塩分の効いた牧草を食べた羊のお肉は美味しいと、それ自体が名産化していたはずなのだ。だが、自然の作用で干満の度に砂が残り、河川も運河化されて水流も代わり砂の除去機能が失われた事に加え、特殊な草の群生も影響したらしい。歴史的かつ、精神的意味合いのある島と言うモン・サン・ミッシェルの特異性が失われるのは何より困る。事態を危ぐした結果なのだろう。下の写真は引き潮の時のモン・サン・ミッシェルの空撮です。ただし2014年以前の写真のようです。ウィキメディアから借りてきました。引き潮の時は孤島ではなくなりモンサンミッシェルの周囲はかなり広範囲に陸地化します。こんな状態なので船が使えないのです。確かに写真では砂洲の緑地化が見えますがこれは夏の写真では?下は2008年の引き潮の時の写真です。バスの停車している所は海に沈む部分です。干満は一日に一度はありますが、みなさん観光のタイミングでそれを見る事は泊まりでなければ難しいのです。下の写真は2010年3月の満ち潮の時です。モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel) 自然に囲まれた要塞モン・サン・ミッシェルの岩山は、3km北にあるトンブーヌ島と、23km西にある(ドル山)と共に、6億年前のヘルシニア造山運動で地層が曲がりくねるように変形する褶曲(しゅうきょく)山地の跡なのだそうです。引き潮の時に干潟に入る人もいるようですが、ガイド付きが望ましいようです。中には深い所もあり、足を取られて抜け出せなくなる場所もあるからです。何より満ち潮が始まるとあっという間に海になるからあまり沖に行くと死にます。周囲の湾は45000haにおよび、世界でも最大級の潮差が観測されている場所。太陽と月の引力が合わさる春分、秋分の大潮では、潮差は15mに達するらしい。この時、海は一度18km沖に引いた後に、今度は1分間に62m(毎秒1m)ものスピードを持って潮が満ち、砂州はまたたくまに海の中に沈む。馬が駆け上がるくらい潮の勢いが早いので地元では、「馬の早駆け(Gallop)」と呼ぶらしい。1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになったが、それ以前は船で渡るか、干潮時にだけ現れる砂州を伝って島まで歩いていたので、よそから来た巡礼者はしばしば底なしの砂州に足を取られて動けなくなったり、満ちてくる潮にのまれて溺れ死ぬ者も多かった。確かに干潟には潮流の流れで作られた河も見られる。ラムサール条約は干潟を守る事なのか? 砂洲の牧草地化を防ぐものなのか?ちょっと真意が解かりかねるが、敢えてフランスでは干潟の開拓による土地の拡大をしてきた経緯がある。11世紀より、砂泥の浜の上に肥沃な農地を開拓しようと、堤防が建設され、オランダの技術も導入されて、開拓面積はどんどん増えているようです。リンク キンデルダイクの風車群 3 (ポンプと風車)修道院の城壁内ヘのゲート前2014年以前であるが、潮が引き始めると清掃が始まる。まず駐車場の土砂の除去。そして水洗い?今もやっているかは知りませんが・・。以前は門の中まで波が押し寄せ水浸しでした。これは大潮の時かな? 2010年3月つづくBack number モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年03月15日
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関連 Back numberをラストに追加しました。女帝の名案で出された倹約の話がある。マリアテレジアン・イエローについては後で書いているが、ウインナーシュニッツェル (Wiener Schnitzel)(ウイーン風・カツレツ)も女帝の発案と聞いた事がある。食糧事情が悪かった時に女帝は肉を叩いて薄く伸ばし、サイズを大きくすれば満足感が得られると薦めたらしい。※ミラノ風・カツレツと同じ。どちらが先かと言えば本当はこちらが先だったかもしれない。当時のミラノはスペイン系ハプスブルグ家の所領。実は仔牛(こうし)の肉を使ったのにも理由はある。チーズの製造に用いられる凝乳酵素レンネット(Rennet)は仔牛、ヤギなどの第4胃袋の消化液から造られる。その為に昔はチーズ作るを為に大量の仔牛が屠殺(とさつ)されていたから肉は大量にあったのだろう。ついでに言えば乳牛になる牝牛(めうし)は残されるから牡牛(おうし)の仔牛肉と言う事になる。さて、前回の「マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)」に引き続きリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)今回はハプスブルク家、マリア・テレジア以降の君主家族が夏の離宮として使用していた宮殿。シェーンブルン宮殿( Schloss Schönbrunn)の紹介です。ここはマリーアントワネットが嫁ぐまでに主に過ごしたお気に入りの宮殿でした。冬が来てウイーン王宮に戻る時、シェーンブルンを去るのを皆、名残惜しんだと言われている。幼いモーツアルトにプロポーズされた宮殿でもあります。最も現在の庭園の噴水やグロリエッテはマリーアントワネットが嫁いだ後に造られたものですが・・。今回は女帝マリア・テレジア(Maria Teresia)(1717年~1780年)の11女マリア・アントーニア(1755年 ~1793年)がオーストリアを旅立ち、マリー・アントワネットになるまでをまとめました。途中の宿泊地の宮殿もわかる範囲でのせています。盛り沢山です。マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿シェーンブルン宮殿(Schönbrunn Palace)世界最古の動物園マリーアントワネットが嫁ぐまでに主に過ごしたシェーンブルン宮殿マリー・アントワネット(Marie-Antoinette)の縁談と母の不安結婚までの宮中式典帝国内の馬車旅(4月22日~5月6日) メルク・・メルク修道院 ミュンヘン・・ニンフェンブルグ宮殿 アウグスブルグ・・シェッツラー宮殿皇太子妃マリー・アントワネット誕生(1770年5月7日)シェーンブルン宮殿(Schönbrunn Palace)1996年、敷地内にある世界最古の動物園までを含めた施設一帯「シェーンブルン宮殿とその庭園群」が、ユネスコの世界文化遺産に登録。実は以前シェーンブルン宮殿自体は特集しています。(グロリエッタは今回初出しです。)リンク シェーンブルン宮殿・庭園 1 (宮殿中庭)レンク シェーンブルン宮殿・庭園 2 (シェーンブルンの庭園)リンク シェーンブルン宮殿・庭園 3 (ネブチューンの泉とフランス式庭園)正面ゲート地下鉄、シェーンブルン(Schoenbrunn)駅から降りてすぐにシェーンブル宮殿の正面に出る。ウイーン市内からほど近い場所だ。まさにこの撮影場所の後方にウイーン川が流れているのだが、水回りの良いこの土地は1569年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世(Maximilian II)(1527年~1576年)が狩猟地として買い取った場所。狩猟の途中見つけた泉から「美しい泉」を意味するシェーンブルン(Schoenbrunn)と名が付いた。最初にできた宮殿は2度もオスマントルコ軍に襲われている。1683年に行われたオスマン帝国による大規模なヨーロッパ進撃で再びこの宮殿は襲われた。ヴェネツィア、オーストリア、ポーランドからなる神聖同盟連合と敵対国オスマン帝国は16年間にわたる長い戦争に突入する(1699年)この闘いでは、連合軍であるハプスブルク家(オーストリア)側がオスマン軍に勝利する。が、しかし、連合軍内では神聖ローマ帝国の屋台骨を揺るがす宗教戦争である三十年戦争(1618年~1648年)を終えたばかり。戦争に継ぐ戦争で疲弊。ハプスブルグ家の国力は低下していく。シェーンブルン・イエロー or ハプスブルグ・イエロー or マリアテレジアン・イエローとも呼ばれるパステル・カラーの外壁のイエローは、1780年代に皇帝ヨーゼフ2世により、オーストリア・ハンガリー領内の全ての国家建造物とハプスブルク家の建築物をこのオーカーで塗ることが定められたそうだ。が、そもそもこのイエローは実はゴールドに近い色の変わりとしてマリア・テレジアにより宮廷の外壁に採用されたと言われている。つまりヴェルサイユのようにゴールドで装飾するには予算が無くて代用されたカラーらしいのだ。シェーンブルン宮殿はヴェルサイユ宮殿に対抗するべく1688年改装案が出されるが、予算が足り無く縮小される。戦争や継承戦争で疲弊(ひへい)していたオーストリアには予算はなかったのだ。庭側からの宮殿デザインはヴェルサイユ宮殿が意識されたフランス式庭園である。動物園もしかり、神聖ローマ皇帝フランツ1世は庭園の造園に力をそそいだと言われている。ネプチューンの泉の後ろ側から宮殿側からの庭園。イタリアで生まれた幾何学式庭園。樹木の列植や花壇の幾何学的な構成。それを平坦で広大な敷地のヴェルサイユ宮殿で応用した者がいたアンドレ・ル・ノートル(Andre Le Notre)(1613年~1700年)はイタリアで学んだ平面幾何の庭造りを壮大な宮殿の造園に取り入れた。(従来のイタリアの庭園は規模が小さい。)宮殿と一体化した見事なランドスケープ。それは従来の幾何学模様をベースに並木道さえもその中に折り込み、噴水、階段、刺繍花壇、彫刻を厳密な秩序のもとに配置。史上最も大がかりな宮殿建設をやってのけ、フランスの宮殿建築造園に革命を起こしたのである。17世紀から18世紀、フランス式庭園と呼ばれるこの広域な平面幾何学式庭園は各国、王侯貴族の宮殿建設において流行をみる。美しい庭園を持つ事は貴族のステータスとなった。下はネプチューンの泉(Neptune)とグロリエッテ(Gloriette)宮殿の庭園の目玉となる噴水が下のネプチューンの泉(Neptune)以前噴水は別にのせています。リンク シェーンブルン宮殿・庭園 3 (ネブチューンの泉とフランス式庭園)下はシェーンブルン宮殿と庭園の地図ピンクの円が正面門側に位置する宮殿薄いブルーがネプチューンの泉濃いブルーがグロリエッテ(Gloriette)オレンジの領域がZOO 1752年に造られた世界最古のバロック式動物園世界最古の動物園宮殿の南側の広大な敷地には庭園の他、植物園や動物園もある。今回は前を通っただけで入る時間的余裕もなかったが、1752年に帝国メナジェリー(小動物園)として創設された世界最古の動物園である。これはマリーアントワネットの父であるフランツ・シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世(Franz I)(1708年~1765年)が命じて造らせたものでもともとは宮廷内で飼っていた小動物が始まりのようだ。最もきっかけはインドから入手したサイだったらしい。当時上流階級では外国の珍しい動物を飼うのがステータスだったらしいから・・。むろんマリーアントワネットも観ていたはずだ。市民に公開されたのは1779年になるが、息子の神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世はアフリカやアメリカに遠征隊を派遣して積極的に動物を集めたと言う。中でもキリンの到着はウイーンでキリン・ブームが起き、ファッションのみならず、「ウィーンのキリン」とい言う戯曲まで作られたと言う。温室(パルメンハウス)1882年に完成。ヨーロッパ大陸最大規模の「温室」らしい。総面積は2,500m²。45000枚以上のガラスがはめられた温室は19世紀当時はなかなかのステータスである。左右に翼を持つシンメトリー。ガラスの宮殿である。ネプチューンの泉から丘を登ると池の奥にグロリエッテ(Gloriette)が見えてくる。グロリエッテ(Gloriette)宮廷付建築家のヨハン・フェルディナント・ヘッツェンドルフ・フォン・ホーエンベルクにより1775年建造。マリーアントワネットは1770年4月にオーストリアを出ているのでこれは見ていない。プロイセン戦の勝利と戦没者の慰霊のために立てたモニュメント。庭園内は非常に広い。ここまで登りで歩いて来たので疲れ果て、下るのにPanorama Bahn Schonbrunnerとか言う連結自動車に乗ってしまった。あまりの快適さに園内を一周半回ってしまった。これお勧めです。7歳のマリア・アントーニア1762年頃7歳なのにすでに凜(りん)とした気品を感じる風貌(ふうぼう)です。上下ともにウィキメディアから借りてきた写真です。いずれもパブリックドメインの写真です。実はシェーンブルン宮殿内部は昔からすべて撮影禁止となっていて、自前の写真がありません。下の鏡の間は、6歳のモーツァルトが7歳のマリア・アントーニアにプロポーズしたと言われるホールです。Great Gallery, Schönbrunn Palace, Vienna鏡もガラスでできているので貴重品です。当時はまだ吹きがラスが主流なので板ガラスにするのはなかなか大変な事。まして鏡はガラス面が平でなければ歪み(ゆがみ)が生じるので非情に製造が難しい。つまり鏡貼りのホールはそこらへんの貴族ではマネのできない高級ホールなのである。こちらもヴェルサイユ宮殿の鏡の間が意識されたものでしょう。設計はヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハ(Johann Bernhard Fischer von Erlach )(1656年~1723年)。カールス教会も彼の設計である。リンク カールス教会 2 (失われた帝都の遺産)リンク カールス教会 3 (ウイーン・バロックの巨匠)宮殿自体は2期の工事を経て1765年に完成を見る。宮廷に仕える重臣らの部屋の確保。また何よりここを訪れた国賓らに誇れる宮殿建設が必要であった。ここは神聖ローマ帝国の皇帝の宮殿なのだから・・。1765年、兄・ヨーゼフ2世の婚礼を祝賀して踊る、当時10歳のマリー・アントワネットこの婚礼パーティーは、実はヨーゼフ2世の再婚の式。相手はバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトの娘マリア・ヨーゼファ。1765年、父フランツ1世の死に伴い皇帝になったのもこの年であるが、いろんな意味でヨーゼフ2世は残念な皇帝だ。母の天敵フリードリッヒ2世に傾倒し、再婚相手の皇后マリア・ヨーゼファを顧みず、しかも彼女は結婚の2年後に天然痘で亡くなっている。※ カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)では彼の質素な棺を紹介している。リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降芸術全般に造形の深かったハプスブルグ家。宮廷には歌や踊りが常にあふれていたと言う。特にマリア・テレジアは自分ができなくなった分、子供達には進んで音楽や舞踏を進め、それらを見ては楽しんでいたと言う。音楽や芝居の為に宮廷劇場も建設。モーツァルトとサリエリに作品共演もさせている。美術史美術館にはハプスブルグ家のコレクションが展示されているが、今まで見てきたどこよりもハプスブルグ家の収拾品はセンスが良い。名品と言うより、どれも造形的に一級品のコレクションなのだ。まさに感嘆(かんたん)である。また、陶磁器のコレクションも凄い。ただ並べるだけでなく、それらを壁にはめ込んだりして陶磁器の間などを造ったりしている。こだわりも一級であるが、そのセンスにハズレが無い。芸術を奨励してきたハプスブルグ家の真髄かもしれない。マリー・アントワネット(Marie-Antoinette)の縁談と母の不安マリア・アントーニアは4女マリア・クリスティーナの次にマリア・テレジアに可愛がられた子供だと言う。マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)の誕生(1755年11月2日) は他の子供達に比べて難産だったと言うから余計に?実はマリア・テレジアは子供達を公平に扱ったわけではなかった。やはり性格もあるのか? 好き嫌い? 期待のかけ方も違ったらしい。※ ほとんどの子供が政略結婚で嫁いで行く中で4女マリア・クリスティーナには恋愛結婚を認めた。マリア・テレジアは「備えあれば憂い無し」? 政略結婚に利用できる子供をとにかく沢山造った中で例外もあったと言う事だ。自身もそうであったが・・。前述したプロイセンに対向するべく、マリア・テレジアはフランスのブルボン王家との政略結婚を画策していた。これは取り急ぎの案件であった。相手はルイ15世の孫。ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)。いや、実は当初女帝はルイ15世と孫の二人に同時に自分の娘を嫁がせる計画をたてていたと言うから驚く。女帝は返事を待っていたが、なかなか決まらなかった中でルイ・オーギュストとの結婚が繰り上がり式にマリア・アントーニアに決まった。(1769年、正式に結婚契約書が結ばれた。)女帝はホットとしたのも塚の間今度は幼い娘がフランスでちゃんとやっていけるのか心配になったのだ。まだ幼い娘に対する母の心配。女帝はマリア・アントーニアの性格を的確に見抜いていた。しかも突然のように決まった結婚で準備もままならなかったし、宮廷の風習も違い過ぎる事を知っていたからだ。女帝は毎晩のようにマリア・アントーニアを自分のベッドに呼んで自ら立ち居振る舞いについて語り聞かせたと言う。特に心配したのは彼女の好奇心の旺盛さ。そして強情な意志。軽はずみで不熱心で、何でも思い通りにしようとして聞かず人の戒めを聞かず、うまくすり抜けてしまう所がある事を承知していた?本来であれば元の国籍を忘れ、完全にフランスの妃に成らなければならないが、女帝は娘に「良きドイツ婦人のままでいなさい。」と諭したらしい。そして恥ずかしがらずにいろんな人に助言を求めるよう言い聞かせたらしい。女帝はこれから彼女がするであろう失敗を予見してできうる限りの注意を娘に与えていたのである。結局女帝の危惧した事が現実に起きる事になるが・・。下の写真もウィキペディアから借りてきました1769年、実年齢13~14歳のマリー・アントワネットの肖像画である。かなり老けて見えるが・・。画家のジョゼフ・デュクルー(Joseph Ducreux),(1735年~1802年)はフランス王太子の婚約者マリア・アントーニアの肖像画を描くためにウィーンに派遣され、完成後に王太子に送られた。マリア・アントーニアの方も王太子の肖像画をもらっている。政略結婚であるが、せめて結婚前にどんな相手かを知るのは気分を高める為にも必要な慣習だったようだ。結婚までの宮中式典結婚契約書がフランスと結ばれたのは1769年の事。1770年4月15日、復活祭の朝、結婚の使者が到着する。 とは言え、あたかもフランスからやってきたと言う体で特別大使に任命された大使が儀礼的に郊外に出てから王宮前に48台の四輪馬車で来訪。 半分以上がウイーン市民に向けたパフォーマンスととれない事もないが、さすがフランスと言わしめる壮大なパレードでウイーンの姫をもらいに来たのである。※ 大使が大金で用意した馬車や馬は後にすぐ売り払われているが・・。 48台の馬車はそれぞれ6頭だての馬車である。このうち2台の特別馬車はルイ15世から未来の孫の為に用意したベルリン式の旅行馬車である。4月16日、特別大使からオーストリアに公式の求婚式が行なわれる。4月17日、マリア・アントーニアはオーストリア・皇位継承権の放棄を宣言。署名。 その夜は兄の招待で来賓1500人の大晩餐会があり、その後に舞踏会が催された。4月18日、この日はフランス側の特別大使がオーストリア宮廷の王侯をもてなす晩餐会がおこなわれた。4月19日、午後6時アウグスティーナ教会でローマ教皇の特派使節により代理結婚式が催される。 王太子の代役をしたのはすぐ上の兄フェルディナントだ。本人はいないがセレモニーは本物の結婚式と同じように行われている。 互いに交換する指輪もある。挙式証明書が作成され、法的に確認され認証されると祝砲がなり式の終了である。後は晩餐会である。 マリア・テレジアが最初の酒を一口飲み干すと祝砲が鳴らされたと言う。そして9人の王侯が金の食器で食事するのを150人の招待客が見守ったらしい。2日後、マリア・アントーニアはオーストリアから旅立つ。マリア・テレジアはルイ15世に3通の手紙をしたためる。それには前述したように、可愛い娘が今後するかもしれない軽率な行いを寛大な心で受け止めて欲しい言う母の切なる願いである。 母と娘の最後の晩について語られてはいないが、危なっかしいが、最も愛しい娘を二度と戻る事のできない遠くの大国に旅立だたせる事への悲しさと隠しきれない不安。二人は泣いて夜を明かしたに違いない。1770年4月21日、376頭の馬に馬車57台を連ねマリア・アントーニアは王宮を出発する。 ウイーンを出てほどなくシェーンブルン宮殿にさしかかる。楽しい思出の詰まった宮殿にお別れを告げる。マリア・アントーニアの部屋は右翼の端側5年前(1765年8月)に父フランツ1世と最後のお別れをしたのもこの宮殿前。長兄の結婚式の為にインスブルグに向かう時マリア・アントーニアを抱きしめて父は出かけた。が、フランツ1世は旅先で突然客死した。普通の者と違い、衣食住には恵まれても皇女して生まれた以上自由意志は無い。両親の愛もほとんど受けないで嫁いで行くのが一般だ。そんな中でマリア・アントーニアは両親から愛されたのは確かだ。もし、国が強くありさえいれば、母はフランスとの縁組みを決める事もなかったろう。きっと長く側に置いて好きな人との結婚を許されたかもしれない。マリア・アントーニアの運命は皮肉の連続だ。ハプスブルグ家を追い詰めた情勢とこれこから嫁ぐブルボン王家に迫る波乱の運命。不安ではあろうが、幸せになれると信じて嫁ぐ幼い女の子にもちゃんと覚悟はあったはずだ。嫁げば2度と戻る事はできない事を知っていたのだから。帝国内の馬車旅(4月22日~5月6日)マリア・アントーニアの旅行用馬車はルイ15世からのプレゼント。どんな馬車かは定かでないが、天蓋に金の花束があしらわれていたらしい事は書かれていた。フランスは革命期にほとんどの物が破壊されているのでハプスブルグ家のようにフランス王室はコレクションが残っていない。下はイメージとして、ヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ2世(Ludwig II)の馬車コレクションから近そうなのをセレクトしました。この馬車は8頭建てですが、確かルートヴィヒ2世の結婚の為に仕立てられた馬車だったかと・・。実際結婚はキャンセルしたので使用しなかったが・・。マリア・アントーニアの旅行用馬車は2台あり、一つは赤いビロードが敷かれ、もう一つは青いビロードが敷かれていて、出発の時、屋根には花束? 花が載せられていた? 飾られていた? と言う。長旅になるので、もう少し快適度と丈夫さがあったかもしれないが・・。馬車の馬は一日に4~5回変更する。宿駅毎に376頭の馬を用意為なければならない。ウイーンからストラスブールまでの街道に2万頭以上の馬が必要だったと言う。まだ馬車が王侯貴族だけの持ち物だった時代、馬を集めるのもかなりの苦労であったろう。メルク・・メルク修道院4月22日、最初の投宿はヴァッハウ渓谷 (Wachau) にあるベネディクト会のメルク修道院(Stift Melk)。 ここで兄のヨーゼフ2世に迎えられて夜は生徒によるオペラが上演された。非情に歴史ある修道院です。もともと要塞がルーツな上に修道院であるが、以前メルクに行った時に修道院に似つかわしくない素敵なパビリオンと庭を見つけた。もしかしたらマリア・アントーニアの為に改装したものかも・・。メルク修道院の敷地内パビリオンマリア・テレジアのお気に入りの絵師が描いた壁絵。リンク メルク修道院(Stift Melk)のバロック庭園とパビリオン※ メルク修道院はヴッハウ渓谷1~9の番外として扱っています。メルク修道院1~4。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)4月23日、ランバッハに投宿。4月24日、アルトハイム投宿。4月25日、アルトエッティング投宿。ミュンヘン・・ニンフェンブルグ宮殿4月26日~27日、ミュンヘンのニンフェンブルグ宮殿投宿。 後のバイエルン国王に歓待される。ここでは作法無しにのんびりすごしたようだ。下はミュンヘンのニンフェンブルグ宮殿ここはヴィッテルスバッハ家の宮殿。ミュンヘンはヴィッテルスバッハ家の城下町。ルードビッヒ2世(Ludwig II)が生まれた宮殿であり、彼のコレクションが置かれている。上に紹介した馬車はここからの出典。リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)※ 広大な敷地に狩猟館もある。ニンフェンブルク宮殿1~5アウグスブルク・・シェッツラー宮殿4月28日、アウグスブルク、シェッツラー宮殿 (Schaezlerpalais )投宿アウグスブルクの富豪で銀行家だったベネデイクト・アダム・リーベルト男爵(Benedikt Adam Freiherr von Liebert)(1731年~1810年)の屋敷がシェッツラー宮 (Schaezlerpalais )です。投宿する事になったマリア・アントーニアの為に急遽改築。豪華なホールも建設している。クラウディア・アウグスタ街道沿いには商館が連なっている。外観はともかく縦に長く建物は続いている。アウグスブルクは田舎ではあるが商売で成功してリッチな街だったのだ。建物前のヘラクレスの噴水は1600年頃の物なのでマリア・アントーニアも見ている。下のホールでは見事なダンスをひろうしているそうだ。この建物は奥に長いし部屋数もかなりある。リンク アウグスブルク 7 (シェッツラー宮殿 ・Schaezlerpalais)※ アウグスブルク1~94月29日~30日、ギュンスブルク ギュンスブルクではどこに投宿したか記載はなかったが、伯母にあたるが同年のアンヌ・シャルロット・ド・ロレーヌ(1755年~1786年)と2日過ごしている。フランス貴族であるがハプスブルグと縁戚のある彼女はこれにより王太子夫妻の成婚記念の舞踏会で特別待遇の権利をもらいこれが後々事件に発展している。5月1日、リートリンゲン投宿。5月2日、ハプスブルク家の所領であるシュトッカッハ投宿。5月3日、ドナウ・エシンゲン投宿5月4日~5日、フライブルク・イム・ブライスガウ投宿 フライブルク・イム・ブライスガウ(Freiburg im Breisgau)は、黒い森と呼ばれるシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)山地の南の麓に位置する。ドナウ川の水源でもあるが、これがフランス、アルザス地方(アルザス=ロレーヌ)との国境となっている。かつては、フライブルク自体がフランスと度々取り合いになっている場所であった。※ フライブルクは1457年に大学が置かれ古来大学の街。シュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)山地を抜ければまもなくフランスへの引き渡し場所。5月6日、シュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)山地を抜けシュッテルンの修道院投宿。 ドイツ側での最後の夜。 ここではフランス側の特別大使がストラスブールからすでに出向いて迎え、引き渡しがスムーズに行くよう大使同士の打ち合わせ。引き渡し書類の文面に付いても国王と、両陛下が同等の立場で同意を得たとする内容のものでなければならない。大使には気になるカ所の訂正がほしかったし、誰の名前が最初に登場するかは大きな問題。また、各国典礼には作法があるが、受け渡しの場所にオーストリア側としては天蓋(てんがい)を用意してほしいなど、細かい事もある。結局妥協策として書類はフランス用とオーストリア用の2通の文面が造られる事になったそうだ。5月7日、引き渡し場所はライン川の中洲。特別に玄関が2つある式用の屋敷が建てられた。 昔ならここで全て脱ぎ捨て、全ての持ち物も置いて嫁ぐ慣習だった? 幸いマリア・アントーニアは別室で式服に着替えただけらしい。女官と侍女らと入室。 広間には真紅のビロードを掛けた大テーブルがありそれが国境。その向う側のドアがフランス。公式文書の読み上げが終わるとマリア・アントーニアからマリー・アントワネットとなる。皇太子妃マリー・アントワネット誕生(1770年5月7日)ここでオーストリア側の女官や侍女とお別れ。彼女らが部屋を出、ドイツ側の扉が閉まると同時にフランス側の扉が開く。ド・ノワイユ婦人と侍従のド・ソー・タヴァンヌ伯爵が登場。儀礼的抱擁の挨拶すると彼らはこれからマリー・アントワネットの世話をする侍女や補佐官ら6人を紹介する。年齢までは書いていないが、実はマリー・アントワネットの世話係り担当はルイ15世の今は亡き王妃の世話係りだった者だそうだ。妻である妃を顧みなかった王はその侍従らにまた新しい仕事を与えた。これはある意味トラブル回避である。が、祖母に当たる人の侍従である。皆、かなり高齢なのは間違いない。マリー・アントワネットは途方にくれたに違いない。※ ルイ15世は、実は妃を顧みなかったわけではない。確かに妃の妊娠続きから愛人制度を造ったが、むしろ妃(マリー・レクザンスカ)の方が王を避けていた。1727年から1738年の間に妃は2男8女を出産していて体はボロボロ。また妊娠させられては嫌だったからだ。その辺の事書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)中洲を出てシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)からストラスブールヘ向け馬車はまた走る。城壁からは祝砲がなり、全ての教会のカリヨンが鳴らされる。ストラスブールでは行政市長がドイツ語で挨拶しようとするのをマリー・アントワネットは遮(さえぎ)った。「ドイツ語で話さないでくださいませ。皆様、今日から私はフランス語しかわからないのですから。」つづく。※ 今回の資料は私が小学生の時にお小遣いで買ったアンドレ・カストロ(Andre Castelot)(1911年~2004年)の「マリー・アントワネット」から出典しています。今頃役に立つなんて・・。それにしても非常に詳しく書かれています。Back numberリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮) マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃関連 Back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 1
2020年09月24日
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関連 Back numberをラストに追加しました。初期に、ヴェルサイユ宮殿( Palais de Versailles)シリーズを載せた事があります。マリーアントワネットの人気で未だアクセスが多いようですが、自分としては初期の物は画像も良く無いし、変質しているのでいつか修正したいと思っていました。しかし、年々内容が濃くなりすぎて長編になっているので、余分な時間はとれません。そんなわけで今回は特別編でマリーアントワネットが生まれた宮殿、幼少期をすごした宮殿、嫁いだ宮殿と絞って紹介する事にしました。1~3回予定ですが、初回はマリア・テレジア中心になってしまいました。チャチャッと紹介予定が体調不良で大幅に遅れたのです。※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 」はまた一端休止です。m(_ _)mマリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)ハプスブルグ家ルーツマリーアントワネットが生まれた宮殿 ウイーン王宮(Hofburg) 母マリア・テレジアと実家ハプスブルグ家の事情ハプスブルグ家の宮廷画家が描いたマリア・テレジアの家族ハプスブルグ家ルーツ13世紀、ハプスプルグ家のルーツは現在のチューリッヒに近いライン川の上流の地から始まる。選帝侯の1人、ルドルフ1世(Rudolf I)(1218年~1291年)(在位:1273年~1291年)が1273年神聖ローマ帝国(当時のドイツ域)の王に推挙された事からこの家系は発展する。7人の選帝侯の中でもルドルフ1世(Rudolf I)は、田舎の弱小貴族にすぎなかった。それがなぜ?頭も切れて政治手腕もあったようだが、御しやすく無難な人物だと白羽の矢が立ったのかもしれない。しかし、自分が本命と思っていた7人の選帝侯の1人ボヘミア王オタカル2世(Otakar II)は憤慨し皇帝令よる召還勧告を無視してルドルフ1世を敵視。これに対して皇帝ルドルフ1世は帝国内での法的権利や財産剥奪にあたる実質の帝国追放皇帝令ライヒスアハト (Reichsacht)をボヘミア王に勧告。1276年、帝国側ルドルフ1世vsボヘミア王オタカル2世の戦闘が開始された。1278年ボヘミア王オタカル2世(Otakar II)は戦死。皇帝ルドルフ1世側の勝利で終決。この戦いで敗戦国ボヘミア王に帰属(きぞく)していたバーベンベルク家の所領、上オーストリア、下オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン等はハプスブルグ家が接収(せっしゅう)。※ この領地が後のオーストリア・ハプスブルグ家の誕生に繋がる。また、この戦闘で優位を得たルドルフ1世はボヘミア王家との政略結婚を画策。ボヘミア王夫人の許可を得、自分の娘を嫁がせる条件にオタカル2世の遺児ヴァーツラフ2世(Václav II)を即位させボヘミア王国とモラヴィアの継承を許した。(後々自分の孫が王国を継ぐ事になる。)ハプスプルグ家はこうした政略結婚により欧州中と縁戚関係になり領地を拡大して行ったのである。ハプスプルグ家のマリーアントワネットとフランス、ブルボン王家、ルイ16世との結婚もまさに母、マリアテレジアとルイ15世との画策であった。この結婚により? ブルボン王家が崩壊するとは母マリア・テレジアは思いもしなかったろうが・・。ウイーン王宮(Hofburg)こちらHeldenplatz(ヘルデンプラッツ)からの新王宮前です。騎馬像はオイゲン皇太子(Prinz Eugen)。1865年設置されたのでマリーアントワネットがいた当時はいずれも無く、ただの庭園だった場所。※ 2017年1月「ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)」で新王宮は内部も若干紹介しています。現在はハプスブルク家の武具のコレクションやエフェソスの遺跡がなどが展示された博物館です。リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)1438年~1583年。1612年~1806年までハプスブルク王と神聖ローマ帝国の皇帝の座す場所。その後1918年までオーストリアの皇帝の座す場所と、宮殿は国家元首の座として機能していた事から現在でもオーストリア連邦大統領によって宮殿は使用されている。Heldenplatz (former Outer Castle Square)都合上写真2枚をパノラマ風に重ねました。右の写真部分はすべて19世紀にできた新王宮の部分です。マリーアントワネットの時代にあったのが左の写真部分Leopoldine Wingとその後方です。オーストリア・ハプスブルグ家の公女マリア・アントーニア(1755年 ~1793年)はオーストリアの女帝と言われたマリア・テレジア (Maria Teresia)(1717年~1780年)の11女としてウイーンのホーフブルク宮殿(旧宮殿)で誕生する。彼女の誕生日は 1755年11月2日の冬。だから冬の王宮、ウイーンの宮殿であったのだ。下は19世紀に建築された新王宮の建物部分。現在、王宮と言うとここが紹介されるが・・。フランスのブルボン王家のヴェルサイユ宮殿(Palais de Versailles)に張り合うべく計画されたが予算の関係で縮小され完成された新王宮。しかし、新王宮と呼ぶが、実際はハプスブルク家の終焉により正式に王宮として使用されることはなく終わった建物である。つまりマリーアントワネットどころか、誰も王族は住んでいない。宮殿ができた時、すでに時代は一変していたのである。マリーアントワネットがいた頃の建物は地図上部の赤い部分くらいです。※ 当時の王宮は城壁で囲まれていた。地図を横断する現在のリンクの道は、かつての城壁跡となっている。地図の下方、新王宮と下の美術史美術館と博物館も19世紀の建立です。ついでにモーツァルト像の位置とマリアテレジアの座像の場所も書き込みました。美術史美術館前のマリア・テレジア像が王宮方面を見て座っている。(美術史美術館は手前撮影側)国民には慕われた女王であった。実際、かなり賢く、強く、気配りのできる女性だったようだ。何よりパワフルな女性であったのは間違いない。最も古い部分で現在残っているのは13世紀に建立された下の地図ベージュの部分。建築年代別王宮地図※ ウィキメディアから借りてきた図に若干書き足しました。ピンクで古い宮殿部分を囲みました。旧宮殿の部分へブルーの→から5.Leopoldine Wing(レオポルディン翼)1660年代、皇帝レオポルド1世(Leopold I)(1640年~1705年)によって建てられた。LeopoldinischerFlügel(レオポルディン翼)1946年以降は連邦大統領公邸。11. Imperial Chancellory Wing(帝国首相府)と A. Inner Castle Square左方面A. Inner Castle SquareReichskanzleitrakt(ライヒ首相府) 下の写真はウィキメディアから借りた写真です1717年から1719年に建設。当初は神聖ローマ帝国の副首相と帝国法廷評議員のオフィスがあったらしいが、帝国解体後にアパートとなっている。そこにはライヒシュタット公爵のアパート。その後はフランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベート、こと愛称シシィ(Sissi)のアパートでもあった。※ ライヒシュタット公爵とはナポレオン・ボナパルトの息子であるナポレオン2世(1811年~1832年)の事。シシィ・ミュージアムがあったのはここだったか・・。かなり昔見学した時はエリザベートの部屋や美容器具を見た記憶が・・。現在のオーストリア王宮は皇后エリザベートの人気が観光に寄与している。以前、シシイが好きだったスミレのお菓子を紹介しています。確かにここからならゲルストナーは近い。リンク シシィとゲルストナーのスミレ菓子像が修復中であった事、また広場(Inner Castle Square)の紹介の為に下の写真もウィキメディアから借りたものです。像はローマ皇帝に扮したオーストリア皇帝フランツ1世(1708年~1765年)の記念碑※ フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(Franz Stephan von Lothringen)神聖ローマ帝国皇帝(在位:1745年~1765年)。マリア・テレジアの夫君でありハプスブルク・ロートリンゲン朝の最初の皇帝。左 LeopoldinischerFlügel(レオポルディン翼)奥 Amalienburg(アマリエンブルク) さまざまな大公や公爵がくらしたアパートである。右 Imperial Chancellory Wing(帝国首相府)※ レオポルディン翼とアマリエンブルクの地下はワインセラーになっているとか・・。フランツ1世の像が見て居る先にスイス宮(スイスの翼)があります。下はSwiss Gate (Schweizertor)スイス門からSchweizertrakt(スイス翼)フェルディナンド1世の称号が記載されている赤と黒のスイス門。ホーフブルク礼拝堂を含むホーフブルクのこの部分は、「スイスの翼」と呼ばれている。その名は、皇帝夫妻(フランツI世とマリアテレジア)の時代に宮廷を警護をしたスイス兵がいた事に由来する。※ スイスが兵隊を輸出し、各国王族の傭兵(ようへい)として働らいていた事は以前紹介しています。現在も唯一残るスイスからの兵隊がヴァチカンのスイスガードです。リンク バチカンのスイスガード(衛兵)リンク ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防16世紀の Schweizerhof(シュバイツァーホフ)絵図 (ウィキメデイアからこれ16世紀頃の城はもともと4つのタレットを備えた正方形の外形で入り口に跳ね橋が付いた堀で囲まれていたと言う。スイス宮の原点がここだったのかもしれない。当時の皇帝フェルディナンド1世によって、ルネッサンス様式で再建スイス宮にはハプスブルク家の宝物館があります。以前紹介。リンク ハプスブルグ家の三種の神器スイス宮は13~17世紀の建立と言われてはいるが実は外観だけ。宝物館は全体で金庫になっている。つまり中身は最先端。Reichskanzleitrakt(ライヒ首相府)を抜け出た外。旧宮殿正面下はウィキメディアからの借り物写真です。狭いので全景写真は撮りにくいのです最近はこの前の広場からローマ遺跡が出土しているから整備もできないのだ。下はその向い側。ミハエル広場とルースハウス、ミヒャエル教会Michaelerkirche(ミヒャエル教会)はウイーンの最古の教会の一つ。1792年以降は現在の姿になっている。地下にはグルフト(墓地)があり、こちらは主に貴族階級の墓所だったようだ。宮廷教会であったAugustinerkirche(アウグステイーナ教会)には行ってなかったので写真も無し。そこはマリーアントワネットがベルサイユに行く前にウイーンで単独の式をあげた教会です。Augustinerkirche(アウグステイーナ教会) 下はウィキメディアからの借り物写真です。ここは旧宮殿内部の教会です。とりたたて外観は目立つ事なくスルーしてしまいましたが実はハプスブルグ家の心臓の墓(Herzgruft)だった事が後から解り書いています。リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓因みにハプスブルグ家納骨堂カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)は少し離れた所にあります。リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降母マリア・テレジアと実家ハプスブルグ家の事情下は、11歳のマリア・テレジアの肖像画 1727年 この写真もウィキメディアからです。マリア・テレジア (Maria Teresia)(1717年5~1780年)ウイーン美術史美術館所蔵となっていますが、インスブルック郊外の城にあるらしい。おそらく見合い用に作成された肖像画でしょう。マリア・テレジア (1717年~1780年)はハプスブルグ家を継承する公女。男子であったなら、神聖ローマ皇帝になっていたはず。彼女は養子を迎え、その夫を神聖ローマ皇帝の地位に就けている。※ 女性では神聖ローマ皇帝にはなれなかったからだ。日本の皇室と同じように、ハプスブルク家でも当初男系相続が定められていたと言う。ところがマリア・テレジアの兄が夭折し、神聖ローマ皇帝カール6世の子供で成人したのはマリア・テレジアと妹のマリア・アンナのみ。神聖ローマ皇帝を世襲するハプスブルグ家にとって、長女マリア・テレジアの結婚相手は最大の課題となった。侍従や大使など各方面から縁談が持ちかけられた中にはマリア・テレジアの宿敵となるプロイセン王太子フリードリヒ(フリードリヒ2世)も候補に入っていたそうだ。※ フリードリヒ(フリードリヒ2世)もこの肖像画を手にしていたかもしれない。美しい彼女と広大な帝国を手に入れられなかった腹いせに生涯彼女に嫌がらせしたのか? とさえ思う。結局彼は振られたのだから・・。最終的に候補になったのは、ロレーヌ(ロートリンゲン)家。英雄カール5世(シャルル5世)の末裔でハプスブルク家と縁のある一族。カール5世の孫にあたるらしい。※ ロートリンゲンの兄弟はマリア・テレジアとはそもそも6親等の傍系親族にあたる又従兄妹らしい。当初はロレーヌ(ロートリンゲン)公の、長男クレメンスが婚約者候補となったが病没し、次男坊フランツ・シュテファン(フランツ)が繰り上がり候補になる。実はマリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い好意を寄せていたらしい。またフランツは良い人だったのだろう。マリア・テレジアの父カール6世にも気にいられ、彼らは政略結婚ではなく、恋愛結婚により結ばれた。それはこの当時非常に稀有(けう)な事であった。ハプスブルグ家宮廷画家 Martin van Meytensによるフランツ1世肖像 37歳 ウィキメディアからフランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(Franz Stephan von Lothringen)(1708年~1765年)絵は1745年製作。結婚して9年目。絵は神聖ローマ帝国皇帝の帝位についた記念に描かれたのかもしれない。まだマリーアントワネットは誕生していない。1736年2月12日、2人はアウグスティーナ教会で挙式する。※ 夫となったフランツもこの結婚に際してフランスのロレーヌ(ロートリンゲン)領を手ばさなければならなかった。結婚までの二人は順調であったが、その後の二人はかなり苦労している。※ 「カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩」でもハプスブルグ家成り立ちとマリア・テレジフについて書いています。リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩最終的に父カール6世は、広大な所領を娘に相続させる手はずを整えたが最後まで彼女に帝王学は学ばせなかったそうだ。カール6世は彼女に男児が生まれる事を最後まで望んでいたかららしい。しかし、マリア・テレジアの父、カール6世(Karl VI)が亡くなると父の結んだ条約は反故(ほご)にされた。マリア・テレジアが皇位継承すると近隣国が途端に攻めてきた。女と思って侮り、この期に領地をかっさらおうとするのだ。中でもプロイセンのフリードリッヒ2世 (1712年~1786年)は性質(たち)が悪かった。領土も神聖ローマ皇帝の地位もあくどく奪われてしまう。※ 後に神聖ローマ皇帝の地位は取り返している。人の良い夫では帝国はまかせられないと、彼女自身が戦い女帝となりプロイセンやバイエルン、またフランスと戦い国を守った。帝王学を学んでいなかったのに・・だ。ハプスブルグ家宮廷画家 Martin van Meytensによるマリア・テレジアの肖像画 1759年製作 42歳こちらの絵はウイーンの造形美術アカデミー (Gemäldegalerie der Akademie der bildenden Künste)で見つけて撮影していた絵画です。これにより、当時のハプスブルグ家の宮廷画家にたどり付きましたハプスブルグ家の宮廷画家が描いたマリアテレジアの家族マルティン・ファン・マイテンス(Martin van Meytens)(1695年~1770年)ハプスブルグ家の宮廷画家彼は皇帝カール6世に迎えられ、マリアテレジアと家族に最も気に入られた画家だったようです。1759年、彼はこの絵画を所有する造形美術アカデミーの校長となりアカデミーの生徒と共に多くの宮廷の絵を描いたそうだ。非常に細密な絵で、少し拡大で撮影していました。せっかくなので載せます。因みに1759年は、宿敵プロイセンのフリードリッヒとの7年戦争の中、クネルスドルフ(Schlacht bei Kunersdorf)の闘いにおいてオーストリア同盟軍がプロイセンに勝利した年である。※ これはフリードリヒ大王にとって最大の敗北となったらしい。ウイーンの造形美術アカデミーはボス(Bosch)による「最後の審判」の時に紹介しています。因みにアドルフ・ヒトラーが受験して落ちた学校です。リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き)国を守る為に彼女は子供をたくさん産んだ。特に継承者となる男児に期待がかけられた。戦いと忙しい政務の間に彼女は16人の子供をもうけている。実際初恋の夫とはラブラブであった。※ 内6人が成人前に死亡している。ウイーンのカプツィーナ・グルフトにはベビーの棺もある。ハプスブルグ家宮廷画家 Martin van Meytensによるマリア・テレジア一家 1764~65年製作こちらはウィキメディアから借りてきた絵です。下の部分拡大にピンクで矢印したのがマリーアントワネット推定9歳夫は統治には向いていなかったが、財務関係では秀でていた。投資など国の財産を増やしている。マリア・テレジアは夫無き後ずっと喪服を着て過ごしている。また、棺も最終的に2人で入るサルコファガスを特注している。カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)にある二人の棺が入っているサルコファガス同時に亡くなったわけではない。二人は死んでも一緒にいたいと願ったのである。非常に大きいので全景の撮影が大変なのです。周囲にはどの位置にもすばらしい彫刻が施されている。カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)で最も大きい。最もゴージャスなサルコファガス(sarcophagus)なのである。手前の鉛棺がヨーゼフ2世の棺。カプツィーナグルフトでヨーゼフ2世の棺だけが浮いている。非常に質素なのである。リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降※ 確認していないが、墓碑銘は「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」という自身への皮肉を自ら選んだらしい。先にも触れたがプロイセンのフリードリッヒ2世は一時は婚約者候補の一人であったが、マリア・テレジアの最大の天敵となった。プロイセンとの長い戦争もある。が、にもかかわらず、長男ヨーゼフ2世はフリードリッヒ2世を崇拝し、母をがっかりさせている。市民のための改革をたくさん行おうとしたが、結局どれも成功までには至らず終わった? 気持ちだけは立派な啓蒙思想家(けいもうしそうか)だったのだろう。ウイーン美術史美術館で撮影 喪服を着たマリア・テレジアがシェーンブルン宮殿の図面を見ている所。最愛の夫フランツ・シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)が亡くなってからはずっと喪服で過ごしたと言われている。今回は、ほぼマリア・テレジアで終わってしまいました。次回マリーアントワネットが幼少期に過ごしたシェーンブルン宮殿から入ります。Back number マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃関連 Back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 1
2020年08月23日
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Break Time(一休み)ブログを毎日書いていた時代にサンシュルピス教会(Église Saint Sulpice)をちょこっと紹介した事があった。その時、実は教会は映画ダヴィンチ・コードのおかげで収入があったのか、全面改装工事中だったので、外観の写真もなく、また堂内は非常に暗く、おそろしく寒く居心地の良い場所ではありませんでした。またパリに行った時に写真を撮りたいと思っていながら、前回行った時は忘れていました。残念普通なら取り立てて行く教会ではなかったのですが、当然目的はダヴィンチ・コードの影響でした。それにしてもパリでは2番目に大きな教会であったそうです。(実感は無かったけど・・)実は、このサンシュルピス教会は、2019年4月15日に起きたノートルダム・ド・パリの火災により臨時?にパリの司教座聖堂に認定されていたようです。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠司教座聖堂(しきょうざせいどう)については、以前アウグスブルクやミラノの所でも紹介していますが、その司教区の全ての教会の上にある本部になる教会の事をさします。その為にそこには司教の椅子が置かれます。司教が座る司教専用の椅子(司教座椅子)こそがラテン語でカテドラル(Cathédrale)と呼ばれるものなのです。因みにDom(ドーム)も同じ司教座聖堂の意味を持つのですが、そちらはDomus Dei (神の家)の意です。そんなわけでノートルダム・ド・パリに置かれて居た司教の椅子は今サンシュルピス教会(Église Saint Sulpice)に置かれて居ると言う事です。とは言え現物の椅子自体が火災からまぬがれていたかは不明。当然、サンシュルピス教会にとっては名誉な事です。もっとも大司教区の所在地は一応ノートルダムに置かれているそうですが・・。リンク アウグスブルク 8 (司教座聖堂 1 ゴシック様式の聖堂)リンク アウグスブルク 9 (司教座聖堂 2 ロマネスクのクリプト)2014年08月「ミラノ(Milano) 6 (ミラノ大聖堂 4 聖堂身廊から)」司教座席でも椅子自体を紹介。リンク ミラノ(Milano) 6 (ミラノ大聖堂 4 聖堂身廊から)今回は交易の話しをいったん置いて、サンシュルピス教会を再編します。ただ、新しい写真が無いので外観など他から借りて足しています。パリ司教座聖堂(臨時)サンシュルピス教会サンジェルマンデプレ教会とサンシュルピス教会サンシュルピス教会(Église Saint Sulpice)と聖シュルピス(Saint Sulpice)サンシュルピス教会の拡張問題サンシュルピス教会の日時計グノモン(gnomon)サンジェルマンデプレ教会とサンシュルピス教会実はパリの中でも高級住宅区であるサンジェルマンデプレ(Saint Germain des Prés)に所在。地区教会にサンジェルマンデプレ教会(Saint Germain des Prés)があり、その南側にサンシュルピス教会(Église Saint Sulpice)が位置する。サンシュルピス教会の正確な建築年は解明されていないが、もともとサンジェルマンデプレ教会の前身であったサンジェルマンデプレ大修道院が教区の農民の為の教会として同敷地内に建てたのがサンシュルピス教会の始まりだったらしい。つまり当初はサンシュルピス教会の母体がサンジェルマンデプレ修道院だったと言う事だ。17世紀初頭のサンシュルピス教会(写真はウィキメディアから)ダ・ヴィンチ・コードでは、ここには異教徒の神殿が立って居たと書かれていたが、教会は全面否定。実際、教会の歴史を以下にたどってみたが、メロビング朝の初期、サンジェルマンデプレ界隈は野原だったようだ。ではサンジェルマンデプレ修道院は? と言えば創設はパリ王であり、メロビング朝の霊廟となった教会である。献堂者はパリ王のキルデベルト1世(Childebert I)(496年頃~558年)。メロビング朝フランク王国の初代国王クロヴィス1世(Clovis 1er)(在位481年 - 511年)の4男である。※ 彼は511年に父の死に伴い遺産分割でパリ王国を受け取っている。そしてキルデベルト王の死後サンジェルマンデプレ修道院に埋葬された事から修道院はメロビング朝の霊廟となる。※ メロヴィング王朝は兄弟が平等に相続すると言うゲルマン法により初代クロヴィス王の死後、領土が分割された。が、その為に兄弟を殺して領土を広げようとする抗争が続いたらしい。因みに父王クロヴィス1世(Clovis 1er)は、496年異教からカトリックに改宗。508年パリに都を定めると、妻クロティルダと共にセーヌ川左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院を建立。後のサントジュヌヴィエーヴ修道院(Abbaye Sainte Geneviève)であるがフランス革命で破壊され今は無い。※ クロヴィス1世はフランス王国の基礎を築いた最初のフランス王である。悪名高い王だったらしいが・・。尚、修道院がサンジェルマンデプレ修道院の名称になるのは576年司教、聖ジェルマンがここに埋葬され「野原の聖ジェルマン」と呼ばれるようになってかららしい。いずれにせよ、同修道院は8世紀にはすでに17000の修道院を束ねるベネディクト会の一翼をになう主力の修道院だったと言う。ベネディクト会と言えば529年モンテ・カッシーノ(イタリア)に創建されたに非常に戒律を重んじる修道会である。わずか200年足らずで教皇、枢機卿、大司教、ローマ教皇認定の聖人、福者を多く排出する権力ある宗教集団に成長。その一翼を担う修道院となればローマ教皇以外のいかなる権力にも屈服しなかったと言う。それ故、後々司教らとの争いは絶えない。サンシュルピス教会(Église Saint Sulpice)と聖シュルピス(Saint Sulpice)サンシュルピス教会は6or7世紀頃ブールジュ(Bourges)大司教であった聖シュルピス(Saint Sulpice)に献堂された教会とされているが、先にことわったよう、いつ建立されたか特定できていないらしい。推定で9~10世紀頃。教会前広場にあるルイ・ヴィスコンティ作「4人の枢機卿の噴水」噴水越しのサンシュルピス教会(ウィキメディアから)右の塔は未完。見て解るギリシャ、コリント・スタイルの柱が特徴。塔が無ければ教会とは思えない不思議な造り。(下の写真もウィキメディアから)サンシュルピス教会の拡張問題ところで、教会や修道院は自分の領地の上がりに大きく依存している。当初サンジェルマンデプレ修道院の敷地内に建立していたサンシュルピス教会であったが、サンシュルピスの領地をめぐって1210年パリの司教とサンジェルマンデプレの大修道院長の間に大きな対立が生まれている。司教は壁内の教区の領地を主張し、大修道院長は当然それに反論。その後の争いについては定かでないが、サンシュルピス教会は司教直属の管理下に置かれて教会の立て直しや増改築が行われていったようだ。1615年から1631年の間にサイドチャペルを追加して身廊を広げる工事がされている。それは当初は野原であったサンジェルマンデプレであるが、時代と共に自治区が拡大し人口が増加。何しろサンジェルマンは高級住宅区に発展していくのだからそれにふさわしい、より大きな教会を建設する必要が生じたらしい。1636年、ノートルダム大聖堂と競合しうる10000人規模の収容力を持つ新しい教会堂の建設をサンシュルピスの教区司祭であったジャン・ジャック・オリエ(Jean Jacques Olier)が提案。しかし、やはりサンジェルマンデプレの修道院長と司教側との対立によりプロジェクトは凍結。結局新築にはならず、拡張工事にとどまったらしい。もし、この時点でノートルダムを超える教会堂を建てていたらこちらが司教座聖堂になっていたことだろう。が、どう考えても地区の人々を受け入れるには小さく、1655年、建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612 年~1670年)により新しい提案がされる。その後教会は134年の間に6名の建築家が関わり工事を引き継いでいる。1732年の段階では今度はファサードの問題が生じる。ギリシャ・ローマ風を捨てて、この時新たにコンぺが開かれイタリアのフロランタン・セルヴァンドーニの設計が採用された。フロランタン・セルヴァンドーニのコンペ作品(ウィキメディアから)三角形のペディメントが上にある柱で装飾された柱廊で接続された2つの塔。古代風の美しいファサードを成すはずであったが、続く2人の建築家により手直しされる。1770年に壮大なペディメント(pediment)は一応完成をみるが、1770年の落雷で破損。その後は修復される事なく削られ全く別物になってしまった。※ ペディメント(pediment)・・切妻屋根の三角形の部分1838年には、塔の完成に関する問題が生じる。建設はほぼ130年続き最終的に南側の塔は、北側の塔より5mも低く、未完。鐘は1782年に北側の塔に設置。19世紀中頃の教会(ウィキメディアから)1870年に完成? したが1871年にプロイセンの砲弾で北の塔は損傷。後に修復されるが北塔(左)のが南塔よりも高く装飾も多い。増改築の場合、一貫した図面通りになぜやらないのだろう?教会の建設と言えば数十年単位、あるいは100年を超える場合も多々ある。建築家が変わるたびに予定が変更されて外観に関して言えば、何だかよくわからない物になっている気がする。もっともノートルダム大聖堂も建築家が独断で予定に無い物を造ったりしている。昔はそんなものだったのだろうか?外観はともかくサンシュルピスは内部も他とちょっと違う。内部はウィキメディアから借りてきた写真と自分の写真です。自分のは修復中だったから? 内部が暗いです。※ 写真は全てパブリックドメインになっているものです。(ウィキメディアから)奥行113m、間口58m、ボールトの高さ34m天井が変わっているな・・。と思ったら身廊と翼廊、側廊、さらに側廊の外側に連なる小祭壇の部とでは屋根の高さがそれぞれ違う事がわかった。屋根の高さを敢えて変える事でそれぞれの廊に光を入れる窓を造る事ができる。窓はそれぞれボールト(vault)で支えられている。その窓のボールトは向かい合っているので、複数ならんだ身廊の天井が普通の教会とは違っているのだ。ある意味非常に凝った造りになっている。建築も普通以上に大変だったであろう。以下、教会の図面の中に屋根の高さを色分けしてみた。矢印のGは日時計グノモン(gnomon)の位置。下は後陣とそこに並ぶ小礼拝堂(ウィキメディアから)クワイヤ後からの天井(ウィキメディアから)再び祭壇方面下の写真は修復工事中に行った時のものです。中がすごく暗くてこれでもかなり明るくしてあります。写真がボケボケでした。南の翼から北の翼方面を撮影。北の翼にオベリスク型した日時計グノモン(gnomon)が見える。サンシュルピス教会の日時計グノモン(gnomon)実は観光客の目的は、映画ダヴィンチ・コードで出てきたこの日時計にあるのだが、教会の方は重視していないようだ。私が行った時はライン上に椅子が並んでいた。北翼に置かれた日時計グノモン(gnomon)(ウィキメディアから)グノモン(gnomon)の前に敷かれている線が子午線(しごせん)とされる。1744年に敷かれている。映画ダヴィンチ・コードではこの南北に走る子午線を「ローズ・ライン」と呼んでいるが、実際その名で呼ばれた史実は無いそうだ。それに正確に言うならパリの子午線のライン上にこの教会は無い。この教会のグノモン(gnomon)のラインはただの日時計の指針と言う事になる。よくよく見ればオベリスクと言うより時計の針の形かもしれない。参考に下はパリ天文台を基準にしているパリの子午線である。青いのがサンシュルピス教会である。フランスのパリを起点とする子午線は1667年に決められ、パリ天文台ができたが1911年にはグリニッジを0度とする国際経線の採用に踏み切っている。子午線上にそって幾つかの測量網が点在し、時を計る日時計が置かれていたのだろう。サンシュルピス内の日時計はその一つであり、教会の鐘がご近所に時を知らせていたのだろうと思われる。Chapelle de la Sainte Vierge(聖処女の礼拝堂)クワイヤの後方、シュヴェ(chevet)にある美しい聖母の堂。下の写真は(ウィキメディアから)彫刻家ピガール(Pigalle)の聖母子クロッシングからの入口方面(ウィキメディアから)パイプオルガンのケースは1776年シャルグランによって設計されたもの。オルガン自体は1862年オルガン作者カヴァィエ・コルによって造り尚されたフランスで最大規模のもの。(ウィキメディアから)最初にに戻って司教座聖堂の話しですが、もしかしたらサンシュルピス教会は母体のサンジェルマンデプレ修道院(現在は教会)の権力故に司教座聖堂になり損ねたのかもしれませんね。由緒で言っても造りで言ってもノートルダム大聖堂よりもはるかにこちらの方があったのに・・。それが、思わぬ事件で一次的にでも司教座聖堂に認定されて良かったですね。と言う感想でした。それにしてもあれだけ権力のあったサンジェルマンデプレ修道院(現、教会)ですが、衰退はもちろんフランス革命による大修道院の解体だったそうです。もちろん財産も没収。蔵書も没収。教会の調度は売られ、内部は荒廃。王墓も壊され捨てられ壊滅的な被害を受けて今は教会になってしまったようです。とは言え解説書はサンシュルピスよりもはるかに内容が多いが・・。サンシュルピス教会終わります。前の分2つは削除すべきか・・。敢えて放置か・・。次回は「アジアと欧州を結ぶ交易路 7」に戻る予定です。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
2019年12月25日
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Break Time(一休み)とは言えない長さです今回は交易の話しから離れるので単独にしました。「アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ」でご近所まで来たのでキリスト教発祥の地となった死海周辺を紹介しておく事にしました。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ死海の北西岸にあるクムラン(Qumran)はキリスト教の発祥に起源する場所でもあります。世界人口の33%にも及ぶと言われるキリスト教徒。まだ全容は解明されていませんが、クムラン(Qumran)で発見された貴重な文書は紀元前の激動するパレスチナ情勢の中でそこにいたユダヤ人によって残された聖典や典礼、規律や記録などからなった文献です。時代もちょうどキリスト教が登場する前の時期。つまりその時代の背景があってのキリスト教の誕生につながる貴重な資料として解釈されています。しかし、1947年に文書が発見されてから、パレスチナでは1967年に第三次中東戦争が勃発。貴重なそれらお宝は周辺国の思惑で動き解明の為の研究は実質ストップ状態。写本の全容が公開されたのは1991年。公開、出版、現代語訳による解釈などおよその完結がみられたのは2011年。死海文書の内容次第では、キリスト教の今後、バチカンをも震撼させる自体になるのでは? と言う不安材料もあっての研究だったようです。因みに「死海文書」と言うと日本ではアニメの「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年~1996年テレビ放映)を想像する人が多いかもしれません。「エヴァンゲリオン(Evangelion)」自体が、ラテン語で「福音の伝道」を意味する言葉。他にも使徒や、マギやエヴァなどキリスト教関連の用語が多く使われているので惑わされてしまいますが、本来の「死海文書」の意味するものとは全く別物です。でも、「新世紀エヴァンゲリオン」人気でマニアが「死海文書」関連の本を買って読んだので放映当時「死海文書」関連本は結構売れたようです。クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)地の裂け目、地溝帯クムラン洞窟(Qumran Caves)死海文書(Dead Sea Scrolls)の発見一般公開まで時間がかかった理由誰がこれらの文書を残したのか?何でこんな荒野に彼らはいたのか?荒野の修道士バプテスマのヨハネとキリストクムラン宗団はエッセネ派(Essenes)?マサダ(Masada)の悲劇地の裂け目、地溝帯そのクムランに入る前に、前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ」の中、「海抜の低いガリラヤ湖、ヨルダン川、死海」ですでに紹介しましたが、ガリラヤ湖の北、フラ渓谷(Hula Valley)から、ガリラヤ湖(海抜 -213m)、ヨルダン川、死海(海抜 -422m)を経て、アカバ湾までに達するラインはアフリカ大地溝帯の北端に当たるヨルダン地溝帯(Jordan valley)のラインです。すでに海となっているアカバ湾と異なり、ヨルダン地溝帯は陥没地となっていて実際パレスチナを分断しています。※ そのラインは現在イスラエル・ヨルダン川西岸とヨルダンの国境になっている。この偶然にしても不思議な地形的問題はユダヤ教、キリスト教に少なからぬ影響を及ぼしたのではないか? と考が及ぶ・・。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ死海西岸(イスラエル東)のマサダ(要塞)からの死海南側方面見える線はロープウェイのケーブル大地溝帯、グレート・リフト・バレー(Great Rift Valley)とは、地がマグマ上昇により左右に避けて谷状になっていく場所(現象)の事です。これは地球の球体の上で起きているマントルの対流によるプレート・テクトニクス(plate tectonics)と言う現象によるものの一つです。それは正断層で地面が割れ避けて離れて行くので大陸の割れ目と言えます。グレート・リフト・バレー(Great Rift Valley)は、アフリカとアラビア半島を分ける紅海からエチオピアの高原地帯を南北に走り、タンザニアへ至る。巨大な谷の総延長は7000 kmにのぼる。(幅35 ~100 km)同じマントル上昇でも、海の中に山を造り山脈を形成するように避けて行く(海の割れ目)が海嶺(かいれい・ridge)です。因みに、それらと反対に古いプレートを飲み込みマグマの中に引き込む地の口が海溝(かいこう・trench)です。同じくマサダ要塞からの死海北側方面死海を挟むように山脈が通っている。とは言え、海抜がもともとマイナスの422mの死海であるから周囲の山も海抜で言えば足し引き数十メートル。マサダ(要塞)は400mの高さの岩山の上にあるが(マサダの麓で海抜マイナス300m)海抜で考えれば20~30mの山と言う事になる。※ 死海の海抜は湖面の高さ(湖の水量)により異なる?すでに渓谷から巨大な谷間となり、さらに地割れ続けて広がっている様がみえる。パレスチナはキリストが洗礼を受けたまさにヨルダン川のラインで亀裂しているのである。やがてアカバ湾も北に延伸してつながると想像できます。(前回紹介したペトラもライン上)つまり、シナイ半島とイスラエル、そしてレバノンに及ぶパレスチナは将来完全に海に包囲され、一つの大陸になるかもしれないと考えられるのです。それは人の生死では計れないほどの年月を経た先だと思いますが・・。※ 5000万年単位で大陸の位置は大きく変わっている。下はシナイ半島を挟んだ地溝帯をピンクで表示いつか海となるだろう場所。※ 地球の大陸移動と生成について細かく紹介した事があります。「地球生成の地質年表 」もオリジナルで造っています。興味のある方は見てね。2018年05月「ナミビア・コーリシャス石化の森と地球の大陸移動」リンク ナミビア・コーリシャス石化の森と地球の大陸移動死海とクムラン(Qumran)とマサダ(Masada)の位置死海の左上の青の円で印たのががおよそのクムラン洞窟の位置。クムランの西、黄の円で記したのがキリスト時代ベタニヤの街があった所さらに西隣、ピンクの円がエルサレムの街が広がる。死海左下の赤の円で印たのがおよそのマサダ要塞の位置。ウィキメディアの死海の写真に書き込みました。ベタニヤとエルサレムを書き込んだ理由は、辺境地に思えるクムランが、実は神殿のあるエルサレムから割と近い位置にある事を紹介する為です。クムラン(Qumran)からの死海マサダと異なりこのあたりはすでに風化を始めた石灰岩の丘です。青銅器時代に人工的にくりぬいて造られたと言う岩山に洞穴が多数。それらの中で旧約時代のユダヤ教の巻物が次々発見された。実はBC31年には巨大地震が起きて住居は損壊。人は住めなくなったらしい。AD4年頃ヘロデ王の死後に住居の遺構は再建。クムラン洞窟(Qumran Caves)洞窟番号は不明死海文書の発見1947年に死海の北西(ヨルダン川西岸地区)の荒野、クムランにある洞窟で獣皮紙に書かれた古文書が発見された。偶然の発見であったが、1956年までに11の洞窟から断片的な文書など800点が見つかる。また近くから廃墟の遺構も見つかっている。それは「二十世紀最大の考古学的発見」とされるセンセーショナルな発見とされた。発見場所からそれら文書は「死海文書(しかいもんじょ)」とか「クムラン写本(しゃほん)」と呼ばれる。※ 死海文書の発見場所については実は真実は解っていない。ベドゥィンが偶然発見したとか、もともと密売やトレジャーハンティングしていたベドウィンがどこかで発見してから持ち歩いていたとか、洞窟に隠していた等諸説ある。文書はクムランに点在するあちこちの洞穴から発見されているのは確かであるが、実際複数の洞穴の文書がシャッフルされたものもある。また、2000年前から本当にその場所にあったのかはもはや定かでないだろう。いずれにせよこれら文書の価値が見いだされ世に出るまでには少し時間がかかっている。写本はヘブル語とアラム語で記された旧約聖書の写本(最も古い写本)や外典の他「安息日の犠牲の唄」などの断片。※ エステル記とネヘミア書を除くすべての旧約聖書の全文が見つかった。これは単純に言えば、ユダヤ教研究やキリスト教研究における重要なファクター(factor)となる文献で、今までの研究が180℃変わるかもしれない衝撃をも持っていた。 今にも崩れそうで危ない。2000年前はまだ人が住めたのか? それとも巻物を隠しただけ?一般公開まで時間がかかった理由ところがこれらの研究は全く進まなかった。発見当時のパレスチナはイギリスの委任統治下。さらに1967年に起きたの第三次中東戦争の影響で、そのあたりの支配が一変したからだ。電撃的なイスラエル軍の攻撃で東エルサレム、死海北西岸一帯を含むヨルダンカワ西岸地区全域(ゴラン高原、シナイ半島)が制圧されイスラエル領となり、写本も、最初に出土した7つは、フランス・アメリカ・イギリスの各国政府が共同で運営した博物館に保管されていたが1967年、第三次中東戦争以降は、イスラエル博物館内の聖書館 (Shrine of the Book) に移された。※ 1961年からヨルダンが自分の国の財産だと主張。イスラエルの占領に国際研究チームの抗議もあったようだが、イスラエルは早い全文の解読と公開を希望し研究に対する援助は惜しまなかったらしい。出版の再開は1973年。しかし、遅々として進まない研究の中で1991年2人のアメリカ人によりコンピューターで復元された写本の原文が非公式に公開された。これに続き南カリフォルニアの図書館でもマイクロフィルムに起こしていた写本の原本を公開。別ルートからは写本のフアクシミリ版も漏洩。もはやイスラエル政府も写本写真の自由な閲覧を許可するしかなく、1993年にはイスラエル古物管理省による正規のマイクロフィッシュが公刊。冒頭触れた通り1991年以降、公開、出版が相次ぎ、現代語訳による解釈本なども刊行。国際チームDJDも2011年に全44巻を刊行して完結にいたっている。下の写真はウィキメディアから借りてきました。クムランの第4洞窟クムランの第4洞窟からは15000の断片が発見され500の写本が再構成されたそうだ。誰がこれらの文書を残したのか?クムランでは共同体の遺構も発掘されている。遺構の最初はBC8世紀~BC7世紀頃らしいが、文書を残したクムランの人々が住んだのはBC130年頃からのおよそ200年。途中BC31年には地震で損壊。AD4年頃ヘロデ王の死後に再建。※ AD68年そこに住んでいたユダヤ人が反乱を起こしローマ兵が鎮圧すると以降はローマ兵の駐屯地となっている。下はクムラン地区で写本が発見された洞窟写本はこれら洞窟に隠されていた。隠した理由はローマ軍から守る為だったと考えられている。クムランで写本を残した人々は何者か? 間違いないのは彼らがユダヤ人であり、共同体ので規律を守って暮らしていた人々であったと言う事。敢えて彼ら(Qumran Community)を「クムラン宗団」とか「クムラン教団」と和訳している。発見された文書には共同体の規則があり、彼らは厳しい戒律の中で修道士のような生活をしていた事が解っている。「宗団」と呼ばれるのはそれ故だ。まだ正式な解明はされていないが、彼らはユダヤ教の一派であるエッセネ派 (Essenes)に俗する集団だった可能性が高い。マサダ要塞からクムラン方面の景色地面に亀裂が・・。山は風化してくずれやがて砂地に変わり広がっているのがよくわかる。何でこんな荒野に彼らはいたのか?結論から言えば、おそらくエルサレムからの都落ちの可能性が高い。それはユダヤ教の共同体の中での意見の対立が考えられる。文書の中「悪しき祭司」と「義の教師」と名詞が出てくる。「悪しき祭司」がユダヤ人を間違った方に導いている・・と言う事に反旗したグループを率いたのが「義の教師」と考えられ、両者による対立が考えられる。※ 反旗した者達がそれぞれグループを作ったとも考えられる。ユダヤ教と言うのは意外にも血統が重視される。司祭は代々、正当な血筋を持つ家から出なければならず、ほぼ例外は無い。ところがこの時期、ちょっと例外があった。温和なユダヤ人の中に戦う司祭の一家が現れたのだ。それはアレクサンドロス以降の近隣諸国の動きに関係している。パレスチナは常にどこかの大国が支配し、ユダヤ人はその中で自由な信仰を認められて生活していたのだが、それが侵略される事態が起きた。増税や神殿の侮辱。いつもなら仕方無く従がっていたユダヤ人の中に安息日に戦う司祭が現れたのだ。BC167年に起きたマカベア戦争(Maccabean revolt)の英雄、ユダ・マカベアが新しい司祭となりハスモン家が誕生する。ユダヤ教徒は強いハスモン家に率いられる形となった。しかし安定後も必要の無い侵略を繰り返しユダヤ内部の反発が起きる。(ユダヤ教徒の考方の違いによる分裂)パリサイ派やエッセネ派が生まれたのはこうした背景があったと考えられる。BC152年ハスモン家のヨナタンが大祭司になると、さらに調子よくローマやエジプトとも同盟を組みユダヤの領土は拡大したが、ユダヤ社会の分裂はいっそう進んだらしい。荒野の修道士バプテスマのヨハネとキリスト以前「世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)」の所、「サロメと首の主」の所で紹介したヨカナーンこと、バプテスマのヨハネ(John the Baptist)(BC2年頃 ~36年頃)もその一団であったと考えられる。厳しい環境の中で終末思想を抱え、己と戦い、修行僧のように暮らしていた彼はヨルダン川でキリストに洗礼をほどこした先輩修道士である。それ故、キリストもまたクムラン共同体の一員であった可能性が高いのだ。キリストに水の洗礼を施す洗礼者ヨハネノートルダム大聖堂のシュベ(Chevet)にある木彫として一度紹介した写真です。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠ところでハスモン家の没落の後にローマ元老院によって選ばれユダヤ王国を統治したのがヘロデ(Herod)王なのである。バプテスマのヨハネは、その娘サロメによって首を落とされ殉教する。その話については「世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)」の中で紹介しています。リンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)※ ヘロデ王(Herod)(BC73年頃 ~BC4年)(在位BC37年~BC4年)は、共和政ローマから帝政ローマ時代にユダヤの王として統治を任された部将ユダヤをまとめるのは代々司祭であったのに、部将出身のヘロデ王が(在位BC37年~BC4年)王位に就いた。しかもユダヤ人によって選ばれた王ではない。ヘロデはローマを伺いながら統治。気性にも問題のある王であったが彼の治世に始められた公共設備やエルサレム神殿の大改築により評価もある。クムラン宗団はエッセネ派(Essenes)?写本はヘブル語やアラム語で書かれた旧約聖書の写し。それも最古とされるもの。他に旧約聖書外典、儀典の一部や集団独自の共同体の規律や規則を記した巻物もある。共同体の信仰や慣習などから彼らはユダヤ教徒で、宗教的意味で硬派の宗団、エッセネ派(Essenes)だったのではないか? と当初から考えられていた。とは言え、後々発見される巻物から一派と考えるより複数のユダヤ教徒のグループ? との説も今は出ている。因みにヘロデ(Herod)王はエッセネ派を高く評価し、尊重していたらししい。実際後々考えれば、彼の統治時代はユダヤ民族にとっては良かった方である。マサダ(Masada)の悲劇マサダ(Masada)はヘブライ語で「要塞(ようさい)」を示す語。見て解るよう難攻不落(なんこうふらく)の要塞としてローマ兵を悩ませた。こちらの写真はウィキメディアから借りてきました。マサダ(Masada)は集団自決もあったユダヤ戦争の悲劇の砦となった場所。マサダ要塞の麓先にも紹介したが、岩山の高さは400m。しかしマサダの麓の海抜はそもそもマイナス300mなのである。岩山へはヘビの道と呼ばれるルートがあるそうだが、今はロープウェイで一気に上れる。今は崩れかけたキャニオンであるが、ヘロデ王の時代にこの見晴らしのいい岩山の砦は整備され、砂漠に降る雨を引き込み飲料を確保。4トンもの水を蓄えられる巨大な貯水槽にローマ風呂まであるヘロデの豪華な宮殿まで建設。まさに天空の街があったそうだ。下はマサダ要塞の想像模型山の西の崖はこの模型の右側。ヘロデ王らによる統治時代が終わり、ユダヤが帝政ローマの直轄の属州になるとユダヤ人の状況は変わる。ユダヤ教徒に対する思いやりがなくなったのだろう。しかも宗教的にローマは多神教文化である。AD66年~AD73年、ついにユダヤ人が決起し対ローマとユダヤ戦争が勃発する。クムランの居住地はあっと言うまに破壊される。しかし、同じく死海の淵に有りながら、マサダは立地も高い岩山の上。マサダ攻略には流石のローマ軍も苦戦した。ユダヤ人およそ1000人が2年立てこもって籠城(ろうじょう)。苦肉の策? ローマ軍は捕虜と奴隷を動員して攻略しやすいよう山の西の崖を埋めてから攻め上ったらしい。しかし、上られたら最後、抵抗する事なく彼らは先に死を選んで集団自決。(残ったのは女性と子供7人)このユダヤ戦争はユダヤ教とユダヤ民族の大きな転換点となる戦闘であった。この戦いに負けたマサダの住人は集団自決したが、残された他のユダヤ人らはエルサレムの神殿をローマ神に明け渡す変わりにユダヤ教信仰の自由を残してもらったらしい。が、1948年にイスラエル建国するまで彼らユダヤ人は国を無くし世界に離散。その教訓から? イスラエル軍の入隊宣誓式ではマサダに登り「マサダは二度と陥落しない」という宣言をする習わしがあるそうだ。1948年のイスラエル建国についてはまた別の問題があるけどね。マサダ要塞からの山々。これらが風化して砂になり地が広がる。そして海抜の低いこの地はいつか海の底に沈む。最後に・・。神がアブラハムの子孫に与えると約束したカナン(Canaan)の地、それにこだわったイスラエルの民(ユダヤ人)。歴史を顧みてもそれがいつの時代もトラブルの元になっている。パレスチナ紛争は起こるべくして起きているのである。関係リンク先 Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
2019年10月01日
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免罪符の説明先リンクを追記しました。以前からあちこちで識字率の話しに触れているが・・。「ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)」の冒頭では、日本の江戸時代の識字率について触れている。字が認識できるか? 本が読めるか? コミュニティー単位でその違いは他の文化にも大きく影響するのだなと改めて思う。欧州では絵画やステンドグラス、あるいは木彫などのオブジェを使用して聖書の理解が促された。ラテン語、そしてドイツ語の聖書が発行されても、読める者は一部の限られた者だけだったからだ。※ ドイツ圏では、識字率の低かった当時、司教達はイエスや使徒、また諸聖人達の功績や教えを像を見ながら人々に語ってきた。しかし、だからこそ素晴らしい絵画やステンドグラス、あるいは木彫が芸術文化として後世に残されると言う結果になったと言える。日本では、江戸時代に仮名草子や浮世草子がベストセラーになる。それらを読みたくて庶民の識字率も少なからず上がったと考えられる。もちろん日本にも、般若心経の絵文字も存在するが、日本では文字が読めない人の為の文化と言うのは特別聞いた事が無い気がする。寺小屋は、江戸や京都の都市部に急速に普及。17世紀には農、漁村ににも普及を始め幕末期には16000以上の寺小屋が存在していたらしい。日本においては読める努力の方に力が入れられたようだ。文字を美しく書くと言う文化もあるが・・。寺小屋では「読み書きそろばん」。勘定においては、そろばんのような道具の文化がうまれている。ところで、聖書の話に戻ると、欧州では、グーテンベルク(Gutenberg)が活版印刷(1439年頃)を発明し、聖書を印刷するも、信仰心は強くてもラテン語(古典)の聖書は一般には売れなかったそうだ。グーテンベルクの発行では、免罪符(めんざいふ)なる贖宥状(しょくゆうじょう)の印刷の方が多く売れたらしい。(こちらは読めなくても、持っているだけで良いし、教会が信者に乱発して売っていたからだ。)※ 免罪符については、その成り立ちについて以下の章2016年5月で書いています。リンク アウグスブルク 6 (フッゲライ ・Fuggerei) 2 フッガー家と免罪符一般の人の読める口語の聖書の発行は、1522年9月。ルターが翻訳し、クラナッハが販売してベストセラーとなっている。読める一般人もまだ少ないが・・。※ ルターがラテン語からドイツ語に翻訳した「新約聖書」を発刊。画家のクラナッハが印刷の独占権を持ってお金持ちになっている事実。割とみんな知らない。この話は2017年3月詳しく書いています。リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ今回はノートルダム大聖堂終章です。今回の火災で、キリストの聖遺物「茨(いばら)の冠」が無事であった事が伝えられていて驚きました。あれは、サント・シャペルの所蔵品であったはず。いつのまにノートルダム大聖堂の所蔵になったのか? その辺も調べてみました。ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠ノートルダム大聖堂(Notre-Dame de Paris)南のバラ窓肩車されている聖人北のバラ窓と南のバラ窓の枠(トレサリー)キリストの聖遺物「茨(いばら)の冠」古いカメラなのと天気の関係で綺麗な画像とは言えませんがセーヌ川からシテ島の写真です。見える黒い尖塔と屋根が全部焼け落ちたようですね。火災後に聖堂内部で発見された「奇跡の風見鶏」。尖塔のトップに付いていたそうです。シュベ(Chevet)にある木彫はキリストの生誕にまつわる話や最後の晩餐など描かれている。冒頭ふれたよう、これこそがまさに司教達の聖書の解説書であり教材である。上 弟子たちの足を洗うキリスト下 「過越(すぎこし)の食事」をとるキリストと弟子。いわゆる「最後の晩餐(ばんさん)」の図ヨハネによるキリストが水の洗礼を受けている図南側バラ窓と左にサンクチユアリ 中央下にノートルダム・ド・パリノートルダム・ド・パリ(Notre Dame de Paris) パリの聖母 14世紀南のバラ窓こちらはちょっとピンボケ。拡大失敗です一応中央にキリストと回りに4人の福音書記者のシンボル(象徴)が描かれている。南のバラ窓下のランセット窓 (Lancet window)肩車されている聖人諸聖人の図と思われるが、不思議な構図を。発見どうも偉大なる予言者が、4人の福音書記者を肩車している図らしい。この構図は非常に珍しいが、シャルトル大聖堂の南のバラ窓下のにランセットにもが同じ構図があるそうだ。構図ばかりか絵もそっくり。シャルトルのステンドグラスがノートルダムの工房で作られたものだと読んだ気がする。もしそうなら納得。下絵のデザイナーがシャルトルのステンドと同一かもしれない。あるいはどちらかがそのまま再利用したか?エレミヤ(yirmya)、イザヤ(yeshaya)、エゼキエル(yekhezke、ダニエル(Daniyyel)がルカ (Lukas)、マタイ(Matthew)、ヨハネ(John)、マルコ (Marco)を肩車。※ 象徴も見えないし、名前がちょっとで読めないので、今回誰が誰だか特定するのはやめておきます。シャルトルの方は、エレミヤがルカ、イザヤがマタイ、エゼキエルがヨハネ、ダニエルがマルコとなっているらしい。意味は、福音書記者の功績の下には偉大なる預言者がいたと言う事らしい。いずれにしても、解釈もちょっと特殊である。キリスト教の方で、旧約の予言者をあえて持ち出して、福音書記者を上にあげるなんて、他で見た事ない。ユダヤ教との関係性を強調しているかのような不思議な図である。それも肩車して足が巻き付いていたりするから絵のデザインもちょっと奇妙すぎ。北のバラ窓と南のバラ窓の枠(トレサリー)下は北のバラ窓のトレサリーです。上部の小窓の方は火災で壊れていました。下は南のバラ窓のトレサリーです。上のバラ窓は確かにゴシックですが、下はやはりレース網柄のデザインみたいです。キリストの聖遺物「茨(いばら)の冠」今回の火災においては、幸いに消失を免れた大切な文化財が多数ある。その中でも特筆するのはカトリック教会の中でも最上位にランクする聖遺物。キリストの茨の冠(いばらのかんむり)(Crown of thorns)がノートルダム・ド・パリ(Notre-Dame de Paris)にある事だ。なぜノートルダム大聖堂に? いつから? と思った人はいると思う。本来、このお宝はサント・シャペル(Sainte chapelle)のお宝であったからだ。かつてシテ島に王宮があった時代、王宮内にこの聖遺物を収蔵する為の堂を建てた。(1248年献堂)それがサント・シャペル(Sainte chapelle)である。※ サント・シャペルについては2017年2月紹介しています。リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)サント・シャペルを建立したのは聖王ルイ(Saint-Louis)と呼ばれたルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)である。聖王ルイは聖遺物のコレンター? 彼はブライベートで手に入れた茨の冠を収蔵し、近くで眺める為に自分の寝室に隣接して堂を建てたと言われている。※ 茨の冠はキリストが貼り付けにされる直前に、ローマ兵から苦痛を与える為に与えられたトゲトゲの茨で編んだ冠状の輪です。そもそも、元はコンスタンチノープルのラテン皇帝ボードワン2世の所有物であったとされている。債務肩代わりの担保にキリストの荊(いばら)の冠を聖王ルイがもらい受けたらしい。聖遺物については、あちこちで書いているが、聖遺物産業が成立するくらい聖遺物は宝石以上のお宝であり、当然、偽物も多数。むしろ本物はあるのか? と言うほど中世どの教会にもそういったお宝が必ず存在していた。この茨の冠もまた本物とは到底思えないが、聖遺物のランクで見ると、イエス・キリスト、聖母マリア、12使徒、キリストに関係した人々、他にバチカンで公認された聖人列伝に叙せられた諸々の聖人に関する骨遺骨を含めて何でも遺物は聖遺物として認識される中、最上級の聖遺物である。下は装飾のほどこされたガラス容器に収められたキリストの茨の冠とされている。ウィキメディアから借りてきました聖遺物は大概、装飾の付いた豪華なガラスケースに収蔵される。そしてさらにそれを収納する豪華な箱が存在していた。でも革命期に箱は溶解されて無くなり、同時に残った聖遺物はf破壊されたり、ノートルダム大聖堂に納めれらるにいたったのである。王家の堂であったサント・シャペルは革命期には目の敵にされたのでしょう。お宝は略奪されたりと散逸。堂はその後、裁判書類の文書置き場として1802年~1833年まで利用されたいた経緯がある。同時に火災から保護された聖王のチュニックも元はサント・シャペルのものです。解説は入れる時間が無いので写真だけ・・。白ガラスのグリザイユは、教会堂が暗いと言う理由で一時期とり入れられていたガラスです。気持ち的にはまだ書き足りない部分もありますが、父が危篤状態に陥り数日。「ノートルダム大聖堂の悲劇 」は1~4で終了します。以前書いていて途中の「アジアと欧州を結ぶ交易路 」もいずれ続ける予定ですが、しばらくブログの方お休みさせていただきます。m(_ _)mBack numberリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓 ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠
2019年06月01日
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パリのノトールダム大聖堂は、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の重要な起点の一つ。かつては隣接して巡礼者の宿泊所もあったらしい。※ スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)はエルサレム、バチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地の一つであり、そこに至る巡礼路は決まっているのである。それは四国巡礼のお遍路さんの旅に近いかも。2011年5月から「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 」を書いています。ショートで1~14回です。事情があり、中断して中、別の物をはさみながら書いていますので6か月かかってしまいました。リンク先は3つだけのせます。リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1(巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)」リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)最初、南と北のバラ窓の写真の区別が付かなくて苦労しましたが、ちょっとした法則が解ってからはサクサク分類、一見同じに見えていたステンドグラスですが、新旧の差か? 技法の違いか? 作家の違いか? かなり異なります。写真の枚数を増やして細部を紹介したので今回も入りきりませんでした尚、写真は昔のを拾い集めているので季節も一緒くたです。一番近々に行った時はノートルダムに寄らなかったので残念な事をしました。良いカメラで撮影できていないのです。だから細部の拡大に限界があります。最もブログ用は解像度をかなり低くしているのでなおさらですが・・。ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓ノートルダム大聖堂(Notre-Dame de Paris)南の翼 側聖堂裏 側 後陣北の翼 側北翼のゲート(クロワートルのポルタイユ)ル・シュヴァリエのステンドグラス北のバラ窓前回、西の聖堂正面の紹介をしたので今回は南側面、聖堂裏、北側面とまずは外側の紹介から入ります。写真を選定する為に細部を見ていて気づいた事が幾つかありました。それはノートルダム大聖堂の一番の見所が北側とその翼にあったと言う事です。ノートルダム大聖堂ができた当初からのデザインがほぼそのまま残っている箇所が北の翼なのです。特に北のバラ窓は貴重です。(南は1841年以降の改修でできたようです。)そして今回の火災写真と照合して、南のバラ窓の上の小窓は枠ごと破壊されていて、下は恐らく無事。また北のバラ窓も恐らく無事。ただしこちらも上の小窓は枠(トレサリー)は残っているけど火災の衝撃でガラスは破損。そんな風に見受けられました。南の翼 側南の方は、前回1841年の修復問題で、ヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)の勝手なデザイン変更の事に触れましたが、まさに南のバラ窓は北とは大きくデザインが異なっているのです。誰かがヴィオレ・ル・デュクのデザインは偽ゴシックだと言ってますが、確かに南のバラ窓の枠はゴシックの意匠ではありません。内部のステンドグラスからだけだと解りかねますが・・。こちらはゴシック(Gothic)ではなく、例えるならレース編み(Lace knitting)のデザインのバラ窓の枠(トレサリー)です。残念ながらこちら南の翼のポルタイユは至近撮影できませんでしたが、聖ステパノに捧げられたポルタイユ(Portail du St. Etienne)がある。大聖堂建設前からここが聖ステファノ(St Stephen)に捧げられた聖域だったそうだ。聖ステファノはキリスト教、最初の殉教者である。確認していないが、ポルタイユのティンパヌム(tympanum)だけは13世紀の物らしいが、その周りやトリュモーの像などは19世紀の作品。尖塔の拡大写真がなくて残念でした。尖塔は意外にも鉛でてきていたそうです。火災で焼け落ちたのも道理。そしてその為に鉛害が発生しているらしい。(ステンドグラスも鉛で留められているけどね。)また、屋根の上、尖塔基部を囲むように1841年以降の修復で12使徒らの像が付加されていた。問題は、その聖人のモデルに自分を含む仲間達がモデルとなっていた事だ。屋根の上にいる12使徒の1人、聖トマス(Thomas the Apostle)のモデルはヴィオレ・ル・デュク自身らしい。聖トマスは建築の守護聖人だから自らを重ねたのかもしれないが、同時に聖トマスは変わり者でもあった。聖画では、イエスが刺された脇腹に本当か? と手を突っ込んで確かめたと言うエピソードがあり、疑い深い人でもあったようだ南側のバラ窓も前回紹介した1841年以降の修復でヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)により新たに造られた火災後の写真で確認できる限りだが、上の小窓のステンドグラスは枠も破壊されていた。後で比較を載せるがヴィオレ・ル・デュクはなぜ北と違うデザインのバラ窓にしたのだろう。13世紀当初に復元するのが元の計画だったのに・・。聖堂裏側 後陣聖堂裏にあるジャン(ヨハネス)Jean-XXIII(23世)公園から撮影手前にあるのは1844年に建てられた聖母の噴水(Fontaine de la Vierge)かつては、この位置に大司教館が建ち並んでいたが、1789年の革命時に教会の全財産は没収。1831年、反王党派の者らにより破壊された。ノートルダム大聖堂はフランス革命のあおりで、一度滅亡していたのである。それにしても、昔からパリ市民はかなり気が荒く、暴力的だったらしい。かつて王の居城は同じくシテ島にあったが、暴動で王の寝室まで乗り込んだパリ市民により目の前で侍従が惨殺。王はショックのあまりシテ島の王宮を捨てている。北の翼 側ノートルダム創建の初期の姿が最も残っている部分。ポルタイユのゴシック装飾の切妻型のデザインなど正面ファサードの簡素さとは違って見事である。直径13mのバラ窓は正面ファサードのバラ窓よりも大きい。その下の長い窓と合わせると採光部は18mに達する。それは1248年、先にできた王宮に付随するサント・シャベルの経験が生かされ、より袖廊より採光が取り入れられるよう研究された結果らしい。※ サント・シャベルは、2017年2月「フランス王の宮殿 1~2 (Palais du Justice)」で書いています。リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)北翼のゲート(クロワートルのポルタイユ)昔、教会北側(入口からは左手側)に高位聖職者の宿舎(舘)が建っていた事から北翼の入り口はクロワートルのポルタイユ( Portal du ]Cloître)と名前が残っている。クロワートルのポルタイユ( Portail du Cloître)とは直訳すれば回廊の門である。察するに、高位聖職者の舘は隣接していて、回廊でノートルダム寺院の北翼のゲートまで続いていたと思われる。※ 古い大きな教会ではよくある造り。※ ノートルダム回廊通り(rue du Cloitre Notre Dame)と前の通りに名前も残っている。このクロワートルのポルタイユは古く1250年、ジャン・ド・シェル(Jean de Chelles)の製作。ジャン・ド・シェル(working 1258年~1265年)は、ノートルダム寺院の建設に携わった複数のマスターメイソン(master mason)の1人で彫刻家。彼はいろんな大聖堂建設で指揮をとっている。※ マスターメイソン(master mason)は石工、フリーメイソンを束ねる親方。フリーメイソンの階位は上から、グランド・マスター、マスター(親方)、フェロー・クラフト(職人)、エンタード・アプレンティス(徒弟)となっている。※ 中世の本物のフリーメイソンと現在のフリーメイソンは全くの別団体。何カ所かで説明しています。リンク 神眼・・・プロビデンスの眼リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソントリュモーにあるマリア像は元は聖母子像だったそうだ。革命で幼子イエスの部分が失われたらしい。マリアの繊細な微笑みと気品。13世紀の最高傑作らしい。ル・シュヴァリエのステンドグラスステンドグラスは、やはり定期的に大きく換えられているようだ。資料でわかる範囲では、18世紀に、中世の物に変わって百合の花をあしらった白ガラス方式。(百合はブルボン王家の紋章)19世紀にグリザイユ方式。1965年、現在のステンドグラスは、ル・シュバリエ(Le chevalier)の手により中世の製作法と色彩が復活されている。※ ジャック・ル・シュヴァリエ(Jacques Le Chevallier)(1896年~1987年)は美術学校で学んだアーティスト。彫刻家であり、国立美術学校のステンドグラス・コースの教鞭もとっていたステンドグラスの第一人者。Union of Modern Artists設立メンバーでもあり、本来はモダン・アート専門だったのかもしれないが、ステンドグラスアーティストとして、また、デコレーターとして彼は多くの国内外の聖堂のステンドグラスを手がけている。しかし、修復は壊れたところが優先される。実際ル・シュヴァリエがどの部分を修復したか解らない。聖堂バックヤード、上方のステンドグラスステンドグラスに関しては解像度を少し上げました。ちょうど中心にキリストと聖母マリアのようです。素敵な絵です。火事後の写真で見るからに、これらは生き残ったようです。このあたりはル・シュヴァリエ作品かもしれない。北側袖廊北側のバラ窓13世紀のスタイルがほぼ残っているようです。それゆえ、採光は弱い北側ですが、見どころは本来こちらのバラ窓です。南のステンドグラスと異なり、トレサリーなどもちゃんとしたゴシックのバラ窓です。中心には聖母子、その周りには16人の聖人が描かれている。16人? 12人じゃないので誰が選ばれているのか不明。こちらはかなり古いステンドグラスかもしれません。マリア様がちょっと険しい顔してます。バラ窓の下に並ぶ縦長のステンドグラス。合わせて窓の開口部が非常に広く、建築的にも難しい部分。それなのにずっと破壊から守られてきた北側翼です。北のバラ窓下のランセット窓 (Lancet window) 並ぶのは18人。でも聖人ではないようです王冠を被り、ユリの王笏(おうじゃく)を持っているので、おそらくフランス王です。カロリング朝、カペー朝と続く歴代の王が描かれているのかも・・。前に書きましたが、パリ・ノートルダムの建設費は王室もかなり出している。それ故、王室につながっている部分も大きく、フランス革命の時には市民に目の敵にされたのかもしれません。行った事が無い方も行った気になるよう写真を多く載せる事にしました。その為にまた押し出されました。次回、南のバラ窓とキリストの冠について触れて終わる予定です。結局、全4回ですね。f^^*) ポリポリ Back numberリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題 ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠
2019年05月18日
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1991年、ユネスコ世界文化遺産として「パリのセーヌ河岸(Paris, rives de la Seine)」が登録された。その中でシテ島にあるノートルダム大聖堂など、エッフェル塔の間をつなぐセーヌ川沿いのに点在する文化遺産がまとめて登録されている。ノートルダム大聖堂は単体で、登録されている訳ではない。ところで「Notre-Dame de Paris」と表記されるのは他にもノートルダム寺院がたくさんあるからなのである。実はノートルダムと名の付く教会堂は驚く程多いのだ。フランスの司教座聖堂だけでもパリ以外にランス、シャルトル、アミアン、ルーアン、ストラスブール、アヴィニョンとあるし、バシリカ聖堂や小さな教会まで入れるともっとある。また、元フランス領であったベルギーにも司教座聖堂が3件。聖母マリアに捧げられたノートルダム(Notre-Dame)は世界各地のフランス語圏の都市に建設され続けてきたからだ。前回、ノートルダム(Notre Dame)とはフランス語で「我らが貴婦人」と紹介したが、同じ「聖母」の意味でサンタマリア(Santa Maria)やマドンナ(Madonna)と言う言葉がある。サンタマリア(Santa Maria)は聖マリアそのもの。そしてマドンナ(Madonna)は、古イタリア語「ma donna」から「我が淑女」と言う意味でノートルダムと同じ意味を持つ。マドンナ(Madonna)の語源のルーツは、中世の騎士道精神から生まれた尊敬する淑女や貴婦人への呼称から来ていると言われている。ノートルダムのネーミングも同じ所から派生しているのだと思われる。カトリックにおける聖母の位置づけは、キリスト教が公認され、統一の教義が造られた中にすでに確立されていたが、聖母信仰は特にゴシック期からルネッサンス期にかけて高まり、まさに騎士道が華やかなりし頃、比例するように各地に聖母の為の堂が献堂されて行くのである。それはまさに母への思慕に重なるのかもしれない。ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題聖母崇敬ノートルダム大聖堂(Notre-Dame de Paris)1841年の大聖堂修復ヴィオレ・ル・デュクのファサードヴィオレ・ル・デュクの改築問題薔薇・バラ窓(Rosace)ファサードのバラ窓フランスが国家として基盤が整うのはカペー家に入ってから。ノートルダム大聖堂は国を挙げての式典を執り行う聖堂として存在してきた。しかし、それはパリのノートルダムではなく、ランス・ノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Reims) なのである。ランスのノートルダムはフランク王国、初代国王のクロヴィスが洗礼を受けて以来、歴代フランス国王の戴冠式が執り行われてきた。王家に因縁の大聖堂は本来パリではなくランスだった。前回ナポレオンの戴冠式はパリのノートルダムで行われたと紹介したが、フランス王家ではルイ16世まではでランスで戴冠式が行われていたのである。今はフランス王家は無くなり、むしろランスよりもフランスの政治の中心地であるパリのノートルダムの方が有名になったのかもしれない。1841年の大聖堂修復市民の強い信仰心の元で建設された大聖堂であったのに、フランス革命の時には聖堂は散々な目にあっている。ジャコバン派により彫像は引きずり落とされステンドグラスは割られ・・。その修理に一役買ったのがヴィクトル・ユゴー (Victor-Marie Hugo)(1802年~1885年)の小説。ノートルダム大聖堂を舞台にした悲劇の物語「ノートルダム・ド・パリ(Notre-Dame de Paris)」である。1831年出版。市民の気持ちの高まりもあり7月王政は1841年大聖堂のに修理に着手。修理は1864年まで続いた。しかし、この改修工事でいろんな部分が元と変わっているのである。この改修では本来13世紀当時の姿に復元すべく案が決まり、建築家はコンペでヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)に決まっていた。ところが、当時のカトリック教会の希望? 「元より立派なものにしたい」と言う要求が追加されたようだ。例えば今回崩れ落ちた尖塔はこの時に元のデザインよりも10m高くして約90mとなりデザインし直して取り付けられているらしい。さらに尖塔基部の彫像もこの時に新たに付加されたもので、全体にかなりの現状変更となったと言う。そしてそれらは一任されていた建築家のヴィオレ・ル・デュクの独断的な造作であり、そこに当然批判が集中する事になった。火災による今後の修復であるが、尖塔はヴィオレ・ル・デュクのデザインに戻すのか? 13世紀初期のデザインで造り直すのか? どうするのだろう? 間違いなく今後の修復計画の問題点の一つになるだろう。ヴィオレ・ル・デュクのファサード西のゴシックの彫刻はランス、シャルトル、アミアンの各聖堂にあった彫刻を参考にして1841年以降の修復で造られたそうだ。ノートルダム大聖堂パリの仕様全長128m (420 ft) 幅48m(157 ft) 聖堂への収容人数6500人ファサードの2つの塔の高さ69m(226 ft)尖塔の高さ91.44m(300 ft)正面ファサードには3つのポルタイユ(正面門)があり、ポルタイユにはそれぞれデザインの異なるティンパヌム(tympanum)が付いている。※ ティンパヌム(tympanum)は扉の上の半円の装飾。フランス読みではタンパン(tympan)。右 聖アンナのポルタイユ(聖アンナは聖母マリアの母)中央 最後の審判のポルタイユ左 聖母マリアのポルタイユ 実はこちらのファサードも中世の物とはほぼ別物。ヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)がかなりイメチェンしている。全体にランスの大聖堂に近い。ランスの方が凝っているが・・右の扉 聖アンナのポルタイユのティンパヌム(tympanum)上2段は1170年頃の作でノートルダム・パリでは最も古い彫刻に当たる部分。最も1841年の改修前のポルタイユはもっと小さかったらしい。中央の扉「最後の審判」がデザインされたポルタイユのティンパヌム(tympanum)中央のトリュモー(扉口の中央基柱)のキリスト像は19世紀に取り付けられたもの。また、両サイドの12使徒もヴィオレ・ル・デュク作。 足下に悪徳。上方に美徳の彫刻キリストの下段、2たつもヴィオレ・ル・デュク作左の扉 聖母マリアのポルタイユのティンパヌム(tympanum)こちらは中世からのものらしい。最も美しいとされるレリーフ。上からのマリアの戴冠。中 聖母の眠り下 マリアの先祖にあたる諸王トリュモー(扉口の中央基柱)の聖母子は近代の作品聖母マリアのポルタイユの脇を飾る聖人と天使もヴィオレ・ル・デュク作首を持つのはフランスの守護聖人である聖ドニ。サン・ドニ(聖ドニ)(Saint Denis)は、3世紀のガリア布教の為に派遣された司教で、250年頃に剣で首を切られて殉教した聖人。彼はシテ島からほど近い丘で斬首される。丘は古フランス語で「殉教者の山」という意味でモンマルトル(Montmartre)と呼ばれるようになった。伝説では自分の首を拾って説教しながら歩き続け、果てた場所にバシリカ(教会堂)が建てられた。現在のサン・ドニ大聖堂である。※ サン・ドニ教会堂(Basilique de Saint Denis)は王家の墓所として有名な教会だが、司教座聖堂に認定されたのは1966年。つまり大聖堂と名称が付くのは近年の事。窓の3体の像は天使かと思いきやサイド2人は羽根があるのにアダムとイブらしい。こちらの像も追加されたものです。ヴィオレ・ル・デュクの改築問題直径10m近くあり、長らく史上最大の大きさを誇ってきていたと言うこちら正面のバラ窓であるが、枠は1220年にできた当時のまま700年寸分たがわず維持されてきたらしい。ステンググラスは1841年の改築にてヴィオレ・ル・デュクにより新たに入れられている。下に並ぶ28体の諸王が並ぶギャラリーの像は革命後に全て落とされ破壊されたり埋められていたので、こちらも全て1841年の改築にて造りなおされた。後に一部発掘され美術館にある。つまり、こちら正面ファサードも1841年以降の工事で、修復というよりは改築に近く変わっているようなのだ。1841年の本来は修復であったが、責任者ヴィオレ・ル・デュクの独断で予定にはない改築があちこちされているらしい。ステンドグラスの絵も昔の作品を再現したものではない。尖塔の高さの問題もある。大聖堂は13世紀の時代と全く違うようだ。それ故、今までは批判だけであったが、今回の火災事故により再建するのであれば、ヴィオレ・ル・デュクが加えた部分が変更され戻される可能性が十分ある。それだけに専門家は検討する時間を多くとりたいわけで、フランス大統領が5年以内に再建したいと言うのは無理な話しなのだ。これはただの建設工事ではないので・・。今の時代の流れでは、当初に戻すのがベスト。しかし、正面ファサードのようにヴィオレ・ル・デュクの作品でも被害が及んでいない部分はそのまま残すのか? 下は中央の最後の審判のポルタイユの内部側と正面ファサードのバラ窓バラ窓の下にはパイプオルガンのパイプが並ぶ。110の音管列を持つフランスでも有数のオルガンらしく、今回の火事でかろうじて無事だったのは不幸中の幸いである薔薇・バラ窓(Rosace)ロマネスク及びゴシック様式の教会にみられる丸形の大きな窓をバラ窓(Rosace)と呼ぶ。ハッキリした起源は不明なのである。バラ窓はゴシック建築の発展の中で技巧を増し大きくなって行く。その形は車輪とか、星とか光、また薔薇を象徴するそうだ。そしてステンドグラスで彩られた美しいバラ窓はしばしば聖母マリアを暗示すると言う。ファサードのバラ窓は西に位置し、まさに中心には幼児イエスを抱く聖母の姿である。ファサードのバラ窓聖母を囲むように12使徒が描かれているが、残念ながら、誰が誰だかまでは推察できるような絵ではない。基本的にバラ窓は地上からでは肉眼で細部は見えないからねこちらのステンドグラスはやはり1841年以降の修復でヴィオレ・ル・デュクが作らせたもの。これに関して言えばエナメル色絵付けのガラスのようだ。ガラスはすでに何度か差し替えられている。何しろガラスは永遠ではない。特に昔のガラスは材質もよくないし、降雨にさらされる屋外のガラスの耐久性はかなり低い。800年前のステンドグラスがそのまま使用されているなんてありえないだろう。もし1220年当初のステンドグラスが残っていたなら、それらはすでに博物館入りです。ノートルダムをしのんで今回紹介しているが・・。以前紹介しているパレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)にある王家のプライベート礼拝堂であったサント・シャペル(Sainte chapelle)のステンドグラスの方が質は高い。お金のかけ方も違ったのだろうが、修復もあちらは完璧である。リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)まだ載せたいステンドグラスなどもあるのでここで切ります。ノートルダム大聖堂の悲劇 は3に続く。Back numberリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタ ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠
2019年05月06日
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現地2019年4月15日の18時50分、パリのシテ島にある大聖堂、ノートルダム寺院で火災が発生した。ノートルダム大聖堂の火災は私にとっても非常にショッキングな出来事であった。特にパリの象徴の一つである大聖堂の尖塔のくずれ落ちる様を信じられ無い思いで見て居たのは私ばかりではないだろう。教会の歴史、そのものがくずれ落ちるような思いさえしたその映像は、世界中に衝撃を与えるものであったし、当然パリ市の皆さんの心情は計り知れない。泣きながら見ていた人もたくさんいたようだ。すぐさま再建の為の基金も設立されて、世界がノートルダム大聖堂の復活に協力を惜しまないだろう事は喜ばしい事だ。しかし・・。多くの職人の手がかかり、かつ熱烈な信仰心の元に建設された大聖堂は普通の教会ではない。フランス史に残る数々の祭典や葬儀、政治的イベントがこの聖堂で行われて来た。聖堂内部に入るとのしかかる歴史の重みは決して修復で蘇がえれるものではないのだ。元のロマネスク様式の聖堂の跡に大聖堂の建設が始まるのは1163年。教区の資金や王家の寄進の他に職人組合に属する市中の人々の労働力あっての着工である。※ 在位計算すると、建設支持を出したのは修道院で育ち、敬虔なクリスチャンであったカペー朝第6代国王であったルイ7世(Louis VII)(1120年~1180年)(在位:1137年~1180年)。と推測。石工、大工。鍛冶屋、彫刻師、ガラス工らが集まり、熱烈な信仰心の元で建設された。1159年、教区司教に任じられたモーリス・ド・シュリーは翌年から36年間、建設の祭式を執り行った。※ 当初計画された設計の完了は1345年。完成まで182年である。もちろんその後も改修や改築も多々行われている。それにしても、設計者が不明。当時、同時期に聖王ルイの指示で向かいにある王宮内のサント・シャペル(Sainte chapelle)を手掛けたフランスの建築家であるピエール・デ・モントルイユ(Pierre de Montreuil )(生年不明~1267年)が一時期建設指揮をとっていたのはわかっているが・・。※ サントシャペルは1248年に完成。何にせよ。たとえ形を取り戻しても、教会に染みこんだ中世からの人々の熱い信仰の思いや教会が見て来たドラマおよそ850年と言う歳月までは決して取り戻す事はできないだろう。火災による損失は建物だけではないと言う意味で残念なのだ。それでも、まだ日本の神社仏閣のように全部木造ではないから全焼はまぬがれた。石造りの教会は、何十年と言う歳月を費やして建設されるだけあって、そのぶんしっかりしている。不幸中の幸いにもノートルダム大聖堂は辛うじて原型はとどめているので大聖堂としてきっと蘇えってくれる事だろうと信じている。何年かかるかが問題であるが・・。10年ほど前にノートルダム寺院の特集をしたことがあり、今回アクセスが増えたのですが、みなさんのお目当ての奇跡のピエタ像の写真を見つけたので火災後と以前の写真を見比べる形で特集にしました。(前回はピエタの拡大を載せていませんでした。)そんなわけで「アジアと欧州を結ぶ交易路 3」の予定を取りやめて指し込ませていただきました。尚、火災の写真はAFPBB Newsの配信から借りてきています。世界に配信されたフランスの通信社のものです。ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)奇跡のピエタ(Pieta)焼け残った聖堂まるで爆撃のようだったと言うノートルダム大聖堂の尖塔の崩落。しかし、聖堂の中から金色の十字架とマリア像が見えた時、奇跡? と思った。下は火災前のピエタ像実は、このピエタは内陣の奥にあるので、一般人は近くから見る事ができない。トランセプトからの写真撮影である。聖堂内は暗いし、望遠がついているカメラでないととらえられないのだ。天気にもよるが堂はかなり暗いし・・。だから少しボケている。「ピエタ(Pieta)」は十字架から降ろされた息子キリストの亡骸を腕に抱く母マリアをモチーフとした聖母子を表現するものです。ピエタと言うとバチカンのピエタが有名です。2009年7月「ミケランジェロ(Michelangelo) 2 (ローマ時代) 」で紹介。リンク ミケランジェロ(Michelangelo) 2 (ローマ時代) ノートルダム大聖堂のピエタ(Pieta)はニコラス・クストー(Nicolas Coustou)(1658年~1733年)作。俗に「ピエタ(Pieta)」と呼ばれるが「十字架からの降下(Descent from the Cross)」がタイトルかも。ルイ13世の為にルイ14世が発注したものらしい。写真下に矢印したが、ピエタの後方にルイ13世とルイ14世の像もある。ノートルダム寺院はもともと聖母マリアに献堂した教会である。そもそも名称のノートルダム(Notre Dame)とはフランス語で「我らが貴婦人」と意味する。ルイ13世は結婚してなかなか子宝に恵まれず、ルイ14世となる子を得るのに23年かかったと言われている。待ちわびた王位継承者の誕生。王は我が子を「神の賜物(Louis-Dieudonné)」と呼んだと言う。出産を祈願して聖母マリアに祈ったとも伝えられている事などからこのピエタを捧げたと言う事らしい。祭壇のあるサンクチュアリ、そしてクワイヤのさらに後方のアプスにある。だから皆さん写真が無いのかもしれない。撮影している場所が翼廊とのクロッシングの下。クロッシングの真上に尖塔(せんとう)があったものと思われる。祭壇前の燃え山は崩れ落ちた尖塔か? クワイヤの屋根か? 入り口からの望遠なのでちょっと距離感がつかめないが・・。アプスにあるので柱でちょうど助かったのかと思うとやはり奇跡である。下は大聖堂の構造図を元にザックリですが、ノートルダム大聖堂の配置図を載せました。黄色の翼廊(よくろう)の円の部分がクロッシングの位置で、その上に尖塔があったと思われる。実際ノートルダムは側廊にも二重に柱が並ぶ。そして外壁の外はフライングパットレスで補強され、外壁内も突出した壁で小さな祭壇のコンパートが並ぶ。外壁の造りは頑丈なのである。上は、沈静化した後に尖塔がなくなっているのが見える。下は在りし日のノートルダム大聖堂下の写真でもセーヌの川向うからの撮影である。上は正面、最後の審判のポルタイユのある入り口からの火災後の写真下は身廊から内陣方面の火災後の撮影。ノートルダムの屋根は木造だから燃え落ちたわけです。でも部分で天井を支えるヴォールト(vault)は生き残っている。下は尖塔が落ちて穴の開いたクロッシング部分の天井のヴォールト(vault)。※ ヴォールトは、アーチに組んだ特徴的な天井。下、青い矢印はクロッシングの天井。落ちた部分。黄色の矢印は翼廊部。上下共にかなり明るく修正しています。身廊はともかく側廊の方はせり出しの壁もありミニ礼拝堂がついているのでかなり薄暗い堂です。以前、iPodでEnigmaを聞きながらトリップしそうになった聖堂です。雰囲気ありすぎな教会の一つですからそれだけに惜しい。今後数年は観光は不可能だし、元に戻れるのか?絵画に描かれて印象に残るナポレオンの戴冠式もここで行われたのです。ナポレオンもきっと悲しんだに違いありません。それにしても、これから、数年は観光どこころか、信者でさえ中には入れなくなるでしょう。外壁もシートで覆われるかもしれません。在りし日のノートルダム大聖堂の写真をもう少し紹介しておく事にしました。次回もノートルダム大聖堂です。Back number ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠
2019年04月28日
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大阪関連のBack numberも加えました。昨年6月に大阪の堺市にある古墳を見に出かけた。そこには世界最大級の墳墓がある。私が学生の頃は仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)と紹介されていた前方後円墳である。※ 今は大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)と呼ばれている。実は堺市には古墳がたくさんある。それらを総称して百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)と呼ばれているのだが、とりわけ大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)は規模が大きい。大きすぎて近くだとただの小山にしか見えない。しかもそこは天皇陵である為に宮内庁が直轄しているので中に入るどころか、遠くから小山の一部を眺める事しかできないのであった。ガッカリε~(;@_@)堺市は百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)を世界遺産にと望んでいるようだが、肝心の墳墓の発掘調査が宮内庁の壁に阻まれて、実は全然できていないから、今を持ってもほとんど解明されていないのが実情。特に最大の目玉である大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)には近づく事もできない。 御陵(天皇、皇后、皇太后の墓地)と御墓(皇族の墓地)を合わせた陵墓は宮内庁により管理。全国には896の陵墓が存在するそうだ。発掘許可がなかなか下りない事が考古学研究が遅れる要因の一つらしい。堺市は何とか観光の目玉にしたくて、上から一望できるように展望タワーの建設まで計画した事もあるそうだ。ところが実際建設のコスト計算したら観光客が入場でペイする金額と織りあわないどころか、建設費の返済に100年以上かかると算出されたらしく断念したらしい。実は昨年10月に宮内庁と堺市が共同で大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)の発掘調査を進める事が発表された。宮内庁がなぜ重い腰をあげて堺市に声をかけ、外部の者を受け入れる事にしたのかも謎ではあるが・・。そんなわけで今回は堺市博物館の資料と共に旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎を考えてみました。旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)古墳のサイズと古墳ランキングから都の変遷JR阪和線 百舌鳥駅(もずえき)天王寺駅から11駅目。堺から2駅目。※ JR阪和線は大阪と紀州を結ぶ線である。下は駅近の公用地図ピンクの円で囲ったところが堺市博物館。百舌鳥駅が一番最寄り駅となる。初めての人はどこに向かったらいいかわからないと思う。何しろ近くに行っても対象物が見えないのだから・・。大仙陵古墳の陪塚(ばいづか)の一つ収塚(おさめづか)古墳大型の古墳の周りに造られた小型の古墳は、大型古墳の被葬者の親族、臣下の埋葬や、副葬品を埋納する為の塚であり、大型古墳をメインとする古墳群を形成している。墳丘長53m。帆立貝型前方後円墳。埴輪や高杯や器台など須恵器が出土しているらしい。大仙陵古墳の周囲にはこうした小さな古墳が今は13基数えられるが、本来はもっとあったはず。あるべき所に無い空があるので・・。旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は周囲を三重の壕で囲われている。下は一番外側の一つ目の濠(ほり)。墳墓が見えるの正面のみ。駅の前の道をひたすら歩くと右手に少し開けた拝所が見えてくる。最も堀の手前から墳墓が見られる程度の狭い拝所である。下が二つ目の濠の橋。一般人は入れ無い。鳥居の向こうに三つ目の濠があるはず。ウィキペディアから借りてきた2005年空撮写真(国土交通省国土画像情報より)下図は堺市文化観光局が出している「百舌鳥古墳群」の中の墳丘測量図から白黒なので解り易いように多少色つけました。ピンクの矢印が鳥居のある拝所の位置。墳丘長486m(実際は500mを超える)壕を含む全長840m三重濠の範囲464123.98㎡ (大正15年測量図による)周囲には大小の陪塚(ばいづか)※ 陪塚(ばいづか)・・大型の古墳の埋葬者のための関係者や副葬品を埋納する小さな古墳。古墳の周囲は2.85kmの周遊路があり散策できるようになっているそうだ。※ 先ほど紹介した収塚(おさめづか)古墳は右下の小円です。大山の名は、山に見えるほど大きいと言う江戸時代に読まれた句に由来。内堀の水面から後円部の高さは35.8m。※ レーザー測量による現標高は51.5m拝所の手前に250分の1スケールの石の模型がある。看板には大仙陵古墳が造られた5世紀の技術で一日あたりピーク時で延べ2000人。15年8ヶ月で述べ680万7000人が動員されたと試算。古墳の原型は意外にも幾何学的構成で積み上がるように形成されているのだな・・と言うことがわかる。現実には木が生い茂ってわからなくなっているからね。下は古墳時代の堺市全図今でこそ埋め立てがすすみ市街地が広がっているが、古墳時代、古墳のすぐ脇は海であった。江戸時代の文献では御廟は北峰にあり。石の唐櫃あり。石の蓋の長さ一丈五寸(318cm)幅五尺五寸(167cm)厚凡八寸(24cm)1872年(明治5年)前方部中段正面に竪穴式石室が発見され、中には石棺と副葬品が納められていた事が記録の絵図からわかったらしい。そしてそれら出土の絵図から、古墳の建造年代は5世紀中頃と考えられているらしい。先にも触れたが、宮内庁の管轄御陵の中でも調査許可の出ている所もある。にも関わらず、日本最大の大仙陵古墳が全く調査させてもらえなかったと言うのがそもそも不思議。もしかしたら天皇陵ではないのでは? と言う仮説もある。だから調査をされては困るのでは? との憶測も飛ぶ。何より今まで仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)と記憶させられていた物が、いつのまにかシレッと大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)に名称変更されてるし・・。実際、仁徳天皇陵と伝えられてきた根拠は「日本書紀」や「古事記」の記述のみによる。日本に文字がもたらされ、編纂された最古の正史が日本書紀である。制作は720年(養老4年)。つまり古墳ができた時代にまだ日本には文字がなかったので、日本書紀に書かれた時点で、その存在は伝承意外の何物でもなかったと言うことだ。今後の発掘調査で別人の名が出るかもしれない。ところで、確証は何もないが、以前秦氏のところでチラッと触れたが、もしかしたら前方後円墳は秦氏ら渡来系の氏族により伝えられ、彼らの長の墳墓として最初造られたのではないか? と推察。理由は、前方後円墳など山系の古墳の造作はともかく、大仙陵古墳に見られる周囲を取り巻く濠(ほり)を造る灌漑(かんがい)技術は日本には無かったからだ。以前紹介しているが、灌漑(かんがい)技術を日本にもたらしたのは秦氏一族なのである。※ 2017年8月「倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)」「秦氏の功績」で紹介。リンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい玄室を支える巨石の切り出し。そして搬出も特別な技術が必要であったはず。巨大墳墓が天皇の墓であったにせよ、それは誰が造ったか? と言う謎の方に意義を感じるのは私だけだろうか?古墳のサイズと古墳ランキングから大阪府堺市の百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)と大阪府羽曳野市・藤井寺市にある古市古墳群(ふるいちこふんぐん)は、近い上に緯度も同じ。大きな古墳が点在している場所です。堺市博物館の資料にちょい足ししました。古墳の大きさランキングの上位がそろい踏みしています。※ 資料は2018年5月「古墳大きさランキング(日本全国版)」文化観光局博物館学芸課堺市博物館1位 仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)墳丘長486m2位 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)墳丘長425m3位 履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)墳丘長365m7位 ニサンザイ古墳 墳丘長300m以上以前古墳時代の終わりについて紹介したがある。2017年8月「倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ」の中「古墳はどうして消えたか?」リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ646年(大化2年)に出された「薄葬令」と言う詔(みことのり)により巨大墳墓は少なくとも関西では消えた。そこそこの墳墓は地方ではまだ造られていたようだが・・。文化庁が4年に一度出していると思われる埋蔵文化財関係統計資料と言うのがある。平成28年版の「古墳と横穴墳墓の数」の統計を読み取ると1位 兵庫県 18851基 (H24年18841基)2位 鳥取県 13486基 (H24年13459基)3位 京都府 13016基 (H24年13089基)4位 千葉県 12765基 (H24年12750基)※ 最もこの統計だけではも古墳と横穴墳墓の比率がわからないし、建設年代も不明だ。意外にも関東の千葉県が上位にきていたのには驚いたが、大阪は3427基と案外少ないのにも驚いた。H24とH28の数字を比べて見るとどこも数に変動がある。増えているのは新たな発見かもしれない。減っているのは? 自然倒壊というのもあるようだ。そう言う変動を見て気づいたのは、大阪の場合、後生、古墳が取り壊されて消えている確率が非常に高いようだ。史実として平安以降、かなりつぶされているらしいし、近年もしかり・・。近年こそ遺跡を残す事に意義が見いだされているが、昭和の初期までは地主が勝手に解体して土地の切り売りが行われていたのだ。昭和30年代でも調査の後に大概がつぶされて宅地開発されている事もわかっている。百舌鳥古墳群に今あるのは104基。かつては1000以上存在していたらしいので、大阪はもしかしたら日本一古墳が建造された土地だった可能生も見える。実際、古墳数では少なくても、墳丘長が200mを超える巨大古墳が大阪には多い。巨大古墳は全国に40基近くあり、そのうち11基が百舌鳥・古市古墳群にあると言う。おそらく大阪では小さい古墳は古墳時代以降に潰されてしまったに違いない。残念下は堺市博物館から仁徳天皇陵から出土した馬型埴輪(はにわ) 5世紀中頃 複製品仁徳天皇陵から出土した鹿型埴輪(はにわ) 5世紀中頃 複製品仁徳天皇陵から出土した甲冑小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと) 5世紀中頃 複製品横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう) 5世紀中頃 複製品浅香山遺跡から出土した左1つ目、3つ目と4つ目(手前)は須恵器(すえき) 5世紀中期から後期左2つ目 土師器(はじき) 5世紀後半百舌鳥陵南遺跡出土左手前一つのみ須恵器(すえき) 無蓋高杯(むがいたかつき) 5世紀後半 他、土師器(はじき) 5世紀前半※ 土師器(はじき)弥生土器の流れを汲む素焼きの土器※ 須恵器(すえき)は陶質土器(炻器)。同時期の土師器(はじき)とは色と質で区別。須恵器(すえき)は青灰色で硬く土師器より上質。南瓦町遺跡出土 5世紀中頃の須恵器まるて陶芸作品のよう。お茶の器みたい 都の変遷巨大古墳を造れるのは当然富と力のある豪族。大阪に宮殿があった事は近年の発掘でわかっているが、古墳時代の大阪に、力のある豪族がいたと言う歴史的な裏付けはまだ出ていない。ただ、大阪は奈良の都から瀬戸内海につながる出口であった。逆を返せば朝鮮半島から福岡を通り、瀬戸内海を通過して奈良に向かう入り口でもあった。大切なイベント(遣隋使派遣など)では、奈良から天皇が自ら出立の見送りに難波の宮殿に来ていたと思われる。そこで盛大な見送りをしたり出迎えをしていた。そう言う事を踏まえると大阪は日本と言う国の門であったと思われる。飛鳥時代の畿内の地図に藤原京以降の都を重ねた地図(大阪市歴史博物館から)。さらに古墳群(百舌鳥,古市,長原)の位置を重ねてみました。飛鳥以前の都は藤原京より下の方ですが、全体に都は時代と共に北上しています。この図の中では、百舌鳥古墳群と古市古墳群と長原古墳群はこの中のどの都よりも古い。しかし、肝心のこれら古墳時代の都の場所の特定ができていない。地図を見ていると、河の位置や地形、古墳の建造年から見て、ひょっとしたら大和川沿いの古市古墳群(ふるいちこふんぐん)のあたりに都があったとしてもてもおかしくない気がした。河内湖に注ぐ旧大和川が近くに流れる長原古墳群と古市古墳群。都の条件に水運交通は絶対条件である。長原と古市を比べれば、河口に近い長原。安全なのは古市の方。長原古墳群は河内湖からの侵略者よけ、そして百舌鳥古墳群の方は、瀬戸内海から畿内に入ろうとする侵略者からの防衛場所に適している。古墳時代の土地を戦略的に見るなら、古市のあたりにメインの都。古市を守る防衛に長原、百舌鳥。これはベストな案だと思う。古墳はそこを守る豪族の長の墓とも考えられるからね。.河内湖は巨大な湖だった。堆積物により縮小され、後に埋め立てされて消えてしまうが、太古は大阪湾に出るには、この河内湖を経由しなければならなかった。いつしか川の方も砂が堆積して航行不能になり、都は移動せざる終えない状況になる。あるいは流行病の蔓延や、水害、干ばつなどの理由もあったかもしれない。代替わりのタイミングで、利便を兼ね備えた良い土地に遷都。都はそんな理由もあり遷都を繰り返して行ったと思われる。空白の4世紀。古墳時代初期の都はどこにあったのだろう? .昨年、難波宮の遺構も見てきた。大阪歴史博物館の地下にあるのだ。仁徳天皇が難波に皇室を持っていたとウィキペディアには出ているが、これはどうだろう。前期難波宮は第36代孝徳天皇(こうとくてんのう)(596年(推古天皇4年)~654年)が造営とされている。第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)では時代が合わない。そもそも仁徳天皇の年齢も定かでない。以前紹介しているが、仁徳天皇の治世は87年に及んでいる。生まれたのが神功皇后摂政57年(257年)で亡くなったのが仁徳天皇87年(399年)。142歳まで生きた事になる。これでは実在したのかも怪しいかもしれない。大阪歴史博物館 難波宮を模した宮中フィギュアいったい誰の墳墓なのか? 宮内庁と堺市の発掘調査が楽しみですね。Back numberリンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)大阪については以下も書いています。リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 四天王寺庚申堂
2019年01月23日
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大人の社会科見学(国会議事堂)衆参の参観時間と見学について自由民権運動の父 板垣退助(いたがきたいすけ)国会議事堂の建設の歴史建設後に事情の変わった議会室参議院議会室の貴族席ハーグの議事堂見学歯のメンテナンスで都会に出たついでに、水産庁の食堂でランチして、国会議事堂の当日見学に申し込み、衆議院と参議院の両方の見学コースに乗って来ました。振り返れば、小学生の時に社会科見学で来て以来の国会議事堂。同じく国会見学に来ている子供らを見ながらの参加でした。※ 今回の撮影はスマホのみです。衆議院側からの国会議事堂今回参観に当たり、最初のアクセスは丸ノ内線の国会議事堂前駅から降車。見学者の為の参観口は議事堂の裏手にあたる。参議院の参観口は永田町駅の方が近い。衆議院コース月~金曜(祝日を除く) 8:00~17:00の原則として毎時30分((6:00まで受付)土・日曜、祝日 9:30、10:30、11:30、13:00、14:00、15:00の6回参議院コース月~金曜(土・日曜、祝日、年末年始を除く) 9:00~16:00の毎正時※ どちらも本会議の会期時間は見学できない。見学の所要時間は衆参ともに約60分弱。どちらも国会の警備にあたる衛視さんの案内で、定められたコースを回る。東京の観光にすすめているのでちょっと驚きました。ほぼ誰でもウェルカムで、外国人の通訳もいました。代表者が記名。入る時に荷物検査あり。解散は議事堂正面門。左側が衆議院なので、まわりには衆議院の議員貝会館が建ち並ぶ。逆に右側は参議院なので、参議院側には参議院の議員会館が立ち並ぶ。それら議事堂と地下で繋がっているらしい。参議院側からの国会議事堂参議院側(右翼)参議院玄関と噴水下は衆議院側の玄関と噴水衆議院側の方は噴水が可動していた。衆参同時に参観したので、比較すると解った事は、参議院参観の方は、待合ロビーに展示品が並んでいて、そこは撮影可能。国会の歴史なども紹介されていた。下、参議院の待合ロビー参観は30分単位で行われているので、この部屋に長くいても30分以下である。国会内のトイレの使用ができないので、こちらですませる。衆議院の方は、待合はなく、地下は巨大なホール状態。そこで、荷物検査も売ける事になるが、参議院の方は建物に入るゲートで荷物検査があった。※ 残念ながら、今回衆議院のコースと参議院のコース共にギリギリの滑り込みで入った為に、参観ロビーでゆっくりする事かできなかった。先にも触れたが、国会の警備にあたる衛視さんの案内で、定められたコースを回るので、指示通りにまわる事になる。(基本、館内の写真撮影は禁止。許可のある所のみ。)館内の説明などは、衆参共に随分違った。おそらく、衛視さん個人の趣味や知識などにも裏付けされているからなのだろう。見所も微妙に違った。衆参共に左右対称なので両院の違いはそんなに無い。唯一違うのは、参議院の議会室の方に貴族院時代の名残がある事だ。回る人数はそれぞれのようだが、人数が少ない時はエレベーターを利用。多い時は階段を上まで登る事になる。自由民権運動の父 板垣退助(いたがきたいすけ)ウィキメディアコモンズから借りて来ました民衆の意見が容れられる議会制政治を目指した板垣退助(1837年~1919年)。彼は国民による議会の開設をもとめて1874年(明治7年)自由民権運動をお越こす。彼の活動により1881年(明治14年)10年後に国会開設を約束する詔が発布されるにいたる。つまり、今の二院生の議会設立に大きく貢献した人なのである。※ 現在の国会議事堂の中央ホールには4つの台座があり、その一つに板垣退助の銅像が建っている。因みに後の2つの台座には、伊藤博文(1841年~1909年)、大隈重信(1838年~1922年)が建っている。しかし、一つの台座は何も乗っていない。諸説ある中で、これからの政治家の励みと言う説と、議会政治はまだ未完。と言う説が有力。上と下の写真は参議院のホームページから借りてきたものです。自分で撮影したかったです。本来中央広間が一番の見所だと思うのですが、残念ながら毎日の参観では下に降りれません。見えるバルコニーから下を眺めるだけなのです。残念国会議事堂の建設の歴史参議院のホームページ 「キッズのコーナー」から借りてきました。国会議事堂の建設は1881年(明治14年)詔が発せられてから機運が高まり1886年(明治19年)内閣に臨時建設局が設置される。最初の議事堂案は、ドイツ政府に委嘱して技師を日本に招いたり、逆にドイツに職人を留学させるなど始まったが、これは財政難で見送られてしまった。代わりに建設された第1次仮議事堂は1890年(明治23年)に行われた第1回衆議院議員選挙。そして開かれた「第1回帝国議会」に間に合わせて建設された。次に本格的議事堂建設が決まるのは、日露戦争後の1906年(明治39年)らしいが、これもまた政変で延期に。1918年(大正7年)になり、9月、新議事堂の意匠設計が一般公募される形でスタートする。※ 本議事堂ができるまでの仮り議事堂は第3次まである。参議院の見学ガイドのパンフレットより内幸町の現在の経済産業省敷地に第1次仮議事堂が建設。しかし火災で焼失し、同じ場所に第2次仮議事堂を建設。これも火災で焼失。第3次仮議事堂が、現在の国会議事堂が竣工する1936年(昭和11年)11月7日まで繋いだようだ。現在の国会議事堂は1920年(大正9年)1月30日に地鎮祭が行われ工事が開始。中央棟の鉄骨組み立てが完成した1927年4月に上棟式。通算17年の歳月をかけて1936年(昭和11年)11月7日に竣工された。※ 第70回帝国議会から使用。構造 地上3階(中央部4階・中央棟9階)、地下1階。鉄骨鉄筋コンクリート造り敷地面積 10万3001㎡建物面積 1万3356㎡(延面積5万3464㎡)所要経費 約2573万5977円。延べ254万人の工事従事者。デザインは一般からの懸賞応募作品118点の中から選考。アメリカやイギリスに習って、コンペ形式にしたようだ。そして選ばれたのが、宮内省技手であった渡辺福三氏の作品。(一等懸賞1万円)が、それを参考に設計のし直しがされている。結果、技術的問題もあるのだろうが、全く別ものとも思えるデザイン変更である。それが不思議。耐震耐火の鉄筋コンクリート造りで、外部を花崗岩で化粧されている。(内部は大理石の化粧。)室内装飾、設備材料については、できうる限り国産品が利用されているそうだ。終戦後は食糧難から議事堂前のこのあたりは農地になっていたと言うから驚く。建設後に事情の変わった議会室ところで、建築中の1923年(大正12年)に関東大震災が起きている。1936年(昭和11年)2月26日には二・二六事件が勃発し、永田町が荒れた。さらに1936年(昭和11年)11月7日に竣工を向かえた後も第二次世界大戦(1939年~1945年)が勃発し、日本自体が戦争で被災する。特に東京は焦土と化した。1945年戦争は終結するも、敗戦国日本の事情は大きく変わる事になる。戦後はGHQの管理下に入り大日本帝国は解体されたからだ。1946年(昭和21年)4月10日、帝国議会最後の衆議院総選挙が実施され、その年の12月27日、最後の帝国議会(第92議会)が召集。翌年1947年3月31日に解散閉会して、1889年(明治22年)2月11日以来続いた大日本帝国は消滅した。※ 帝国議会時代は民選議員により組織される衆議院と華族・勅任議員などにより組織された貴族院の両院で構成されていた。代わって、1946年(昭和21年)11月3日 、日本国憲法が公布され、立法機関として民選議員により組織される衆議院・参議院の両院で構成する国会が規定されたのである。大きく変わったのは、同じ2院制でありながらも、貴族枠が排除され、両院共に民主主義の元、一般の選挙で国民に選ばれると言うシステムで議員が選ばれるようになった事。今の国会の形態が造られたのがまさにこの時なのである。参議院議会室の貴族席国会議事堂は、大日本帝国時代に構想され完成された建物です。その名残が今も議会室に残っているのが見てとれるのです。衆議院議会室の構造(参議院のホームページから借りてきました。)参議院議会室の構造(参議院のホームページから借りてきました。)参議院の議会室が、旧、貴族院の議会室だったようです。衆参共に議長席の後方に天皇陛下の御座所があります。参議院の議会室の方には、議長席の正面上方に御傍聴席が配置。さらに貴族席も存在する。御傍聴席は、天皇陛下が議会を傍聴する時の御座所であるが、実は今まで一度も使用された事が無い部屋なのだそうだ。(それでも毎日掃除しているらしい。)貴族院が廃止され、もはや天皇陛下は国会には開会式の挨拶にしか来訪されなくなったからだ。同じく衆参共にある皇族席にも、今まで皇族の方は一度も来た事が無いそうです。参議院見学の待合ロビーには天皇陛下の御椅子が展示されていた。御休所と中央階段と御休所前の廊下(写真は参議院のホームページから)御休所は、開会式前に天皇陛下が待機するお部屋。総檜造りに漆塗り、壁は織物が貼られたりと、日本の伝統の技が結集されてできているそうだ。下は衆議院の議会室の写真です。そちらの方は撮影許可がありました。天井のステンドグラス。灯りは自然光と時にライトも付けるらしい。衆議院議会室の皇族席の方向です。上の座席は傍聴席ですが、その縁は記者席になっています。下は貴賓席の方です。貴賓席は、国賓などの方が利用される場所。扉の上の枠ですが、空調だそうです。議会が無い時は、空調を入れていないそうで、議会室はとても蒸し蒸しと暑く、空気も悪かったので質問してみました。国会議事堂にクーラーはあるのか?今はもちろんクーラーですが、国会議事堂建設当初から空調タグトは存在したそうです。昔は、クーラーなど無いので、氷で冷やした空気を送っていたと言う事です。とても原始的な方法ですが、よく考えて造られていたと言う事がわかります。議長席の前に速記者のブース。今も伝統的に速記が行われているそうです。左右大臣席ですが、総理大臣は向かって左の所に座席があります。議員さんの椅子の見本が参議院の待合ロビーにありました。ところで、議員さん達は、議会室に私物を持ち込めないらしい。議会室に入る前にロッカーに入れる事になっている。投げたり・・とか、厄介な事が起きない為かな?ハーグの議事堂見学以前、オランダのハーグで国会議事堂見学をしたことがあります。2016年8月「デン・ハーグ(Den Haag) 2 ビネンホフ(Binnenhof)」リンク デン・ハーグ(Den Haag) 2 ビネンホフ(Binnenhof)ビネンホフ(Binnenhof)はオランダ議会の国会議事堂だけでなく総理府や外務省など中央官庁の入った政治の中枢にあたります。昔の議会室と現在の国会議会室を見学してきたものを紹介しています。日本と異なるのは、オランダでは、今でも国会開催の日に、オランダ国王が黄金の馬車でリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の中庭には乗り付け、開会宣言をパレード付きで華やかに行うのが慣例になっている事です。見物客も多く集まり、国会開催は華やかにスタートするようです。所変われば、議会も変わる・・ですね。最後に写真は中央広間の天井です。写真はやはり参議院のホームページから借りてきました。中央広間の真下からの天井のようです。国会議事堂では、議会室の天井や。廊下の窓にもステンドグラスがはめられていたりします。衆議院の方の説明では、イギリス製との話しがありましたが、参議院の方の説明ではイギリス、アメリカ、ドイツの名がありました。場所で違ったのかも・・。当初は材料と、技術の方も外国に頼ったのは間違いありませんが、ステンドグラスはメンテナンスが必要です。特に天井の場合、重力でたわむので・・。現在の中央広間のステンドグラスは、日本の建設会社が修復したようです。おそらく、デザインそのままで、ガラスなどは竣工当時の物はほとんど使用されていないと思われます。なぜなら、年数たてば、ガラスも油分が抜けてポロボロに砕けるからです。特に外気に接していたガラスはもろいです。当時も、今もガラスはおそらく海外からの輸入品。議会室の天井のはめ込みなど大変だったろうなと想像できます。個人的にステンドグラスを製作していたのでなんとなく、気に留まったのです。国会議事堂おわります。
2018年09月24日
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ラストに「ハプスブルグ家」関連のBack numberをいれました。溶けた心臓で描いた絵が何かわかりました。それは「マミーブラウン(英Mummy brown)(仏Brun momie)」と言う絵の具として販売もされていたようです。「溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brown」で別に載せました。リンク 溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brown小学生の時にベルサイユのバラを読んでからフランスについていろいろ調べてみた事があった。思い返せば、知らない事、知りたい事を徹底的に調べる行為はこの頃に始まったと言える。.その時に読んだ書物の中に、フランス革命の時に貴族の墓が暴かれ、心臓の入った容器は持ち去られ、中のその溶けた内臓を絵の具に混ぜて絵画を描いた人がいる・・と言う記述があった。もちろん興味津々。その絵はどんなものか? と言う疑問が残っていた。が、それ以上調べる事はできなかった。(ネットもない時代だからね)。それから10年。初めてルーブル美術館に行った時、テオドール・ジェリコー(Théodore Géricault)(1791年~1824年)の描いたメデュース号の筏(いかだ)(Le Radeau de la Méduse)を観て、もしかしてこれがそうなんじゃないか? と思ったものだ。※ 話がそれるのでメデュース号の筏については最後に回しますが、今回の話は、そこから派生している。.溶けた内臓の話はさておき、心臓の入った容器の事は今まで欧州を旅行中に幾つかみかけた記憶がある。それはハート(heart)型の小さな容器なのだが、通常は表に出るものではないのでなかなか写真にとる事ができないでいた。それが数年前にブリュッセルを訪問した時にサンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)でハートの容器が集められた部屋を見つけた時は少し心が躍ったのである。が、残念ながらこちらは装飾? それに心臓だけ取り出して容器に保存する理由が、ずっと解らなかったので保留になっていた話です。.古代エジプトでは、死後再生の為のミイラを造る時に、カノプスと言う容器に内臓を収める風習があった。つまり、分骨ではなく、遺骸を分割して埋葬する風習があったと言う事だ。.それは以前から知っていたが、臓器は肝臓、肺、胃、腸の4種である。古代エジプトでは心臓には魂が宿ると考えられていたので、心臓はそのまま残されていたのである。それ故、欧州の心臓を特別に取り出して分割埋葬する行為はエジプトのそれと似てはいるが意味が異なる気がする。.実は今回はフランス編とハプスブルグ家編の二つの事情がある事が解ったので紹介する事にしました。簡単に言うと、今回は心臓を入れる容器の話と臓器を分離して埋葬すると言う欧州貴族の中にあった変わった風習についての話になります。.ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓フランスの貴族編サンカントネール美術館のハートの部屋ハプスブルグ家の分割埋葬ハート・グルフト(Herzgruft) アウグスティーナー教会(Augustinerkirche)フェルディナンド4世の遺言その他の国の分割埋葬メデュース号の筏(いかだ)(Le Radeau de la Méduse)マミーブラウン(英Mummy brown)(仏Brun momie).フランスの(一般)貴族編National Geographicのネットニュース2017.02.17からこんな記事を見つけた。「17世紀貴族女性の棺から夫の心臓見つかる」リンク National Geographic「17世紀貴族女性の棺から夫の心臓見つかる」2013年、フランス西部の都市レンヌにあるジャコバン派の修道院の跡地から17世紀に埋葬されたフランス貴族の女性の棺(ひつぎ)が発掘された。驚くのは、女性の棺の中にハート型の鉛の容器に入れられた夫の心臓が入っていた事、そして逆に女性の心臓が無かったと言うニュースである。※ ハート型の鉛の容器の中身はもちろんDNA鑑定がされた結果である。.先述したようにフランスでは昔、心臓を取り出す風習が一部にあった事は解っていたが、フランス革命の動乱で鉛の棺も容器も武器に転用されていたので資料が無かったらしい。今回の発見はフランス国立予防考古学研究所(INRAP)のチームによるもので、考古学的にも初の大発見になったらしい。.今までは王侯の間で宗教的、あるいは儀式によって行われたと思われていた心臓の抜き取りが、実は死後も共にいたいと言う夫婦の愛の行為の場合もあったと言う事実である。つまり、今回の場合、亡くなってからも「私の心(臓)はあなたの所にある」と言う愛の証明だった事になる。そう言う意味で言うと、ハート(heart)は確かにLoveハートなのであった。.が、もちろん一部王侯貴族の場合は別の理由もある。亡くなった後に遺骸を長らく一般公開しなければならない国王などの場合、腐りやすい臓器は問題である。特に心臓は魂が宿る場所と考えられていたので特別に扱われた。特に高貴な人の心臓には「聖なる力が宿る」と考えられたようだし・・。。14世紀以降も宗教的、政治的儀式として位の高い人物には行われていたらしい。.冒頭紹介した話は、それら臓器がフランス革命の時に流出。容器は武器(ピストルの弾丸など)に転用されたが中身は捨てられたり、画家に売られて絵の具に混ぜられた・・と言う事のようだ。.しかし、これとは別に遺骸を分割して埋葬する行為が代々継承された一族があった。それが神聖ローマ帝国の君主を多く輩出したハプスブルグ家(Haus Habsburg)である。.サンカントネール美術館のハートの部屋ブリュッセルのサンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)については以前紹介した事がありますが、そこにハートの容器が集められた部屋がありました。大きなものから小さいものまで、よくよく見ていたらこちらは聖母信仰に寄る所が大きいのかもしれないが・・。これらはオブジェではないかと推察しますが・・。Doux Coeur de Marie, soyez mon salutマリアの慈悲の心が私の救いになる?こちらのハート(heart)のオブジェは聖母マリアの信仰から来ているもののようです。では下のハートは? 心が痛んでいると言う意味か?ポシェットにも見えるが・・。聖母教会で使用されていた香炉かな?聖母マリアへの崇敬は12世紀から13世紀にかけて高まりをみせる。実用サイズのハートの容器。装飾性が高いので実用かどうかは不明ですが・・。下は想像するに左のバラが聖母マリアであり、右の荊(いばら)の輪がイエス・キリストを示しているようだ。アダムとエヴァに例えてペアの容器とも思えるが・・。反射が入っていたのと暗くてボケ気味だったので画像処理しています。下はもしかしたら涙を入れるボトルかもしれない。.サンカントネール美術館については以前紹介しています。2014年01月リンク サンカントネール美術館 1 (ローマン・グラス 他)リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他).ハプスブルグ家の分割埋葬以前、ハプスブルグ家(Haus Habsburg)の墓地であるカプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)を紹介した事がありますが、そこは普通に歴代の王族達の棺が置かれた教会地下の墓地でした。2014年11月リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降.実はハプスブルク家の人々の埋葬には奇妙なしきたりがあり継承されていた事が解りました。遺体は ハプスブルグ家納骨堂カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)へ、内臓は 銅製容器に入れ シュテファン大聖堂(Stephansdom)の地下へ、心臓は 銀器に入れ アウグスティーナー教会(Augustinerkirche)へ埋葬(保管?)実に奇妙な分割埋葬です。.前回ウイーンに行った時にカプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)とシュテファン大聖堂(Stephansdom)には行っていたのですが、残念ながら心臓の収められたアウグスティーナー教会(Augustinerkirche)には行っていませんでした従って今回心臓の墓(Herzgruft)の写真はありません。残念。.この3分割方式はフェルディナンド4世(Ferdinand IV)(1633年~1654年)から始まり、最後に行われたのは1878年。オーストリア大公 フランツ・カール・ヨーゼフ (Franz Karl Joseph)(1802年~1878年)の時だそうです。しかし、心臓と体と言う2分割方式では2011年が最後。オーストリア=ハンガリー帝国の最後の皇太子であった、オットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)(1912年~2011年)の時である。(つい最近ですね).オットーはハプスブルグ王家の最後の一人として伝統に従い、遺体はウイーンのカプツィーナーグルフトに安置。心臓はハンガリー、パンノンハルマのベネディクト会大修道院にに納められたそうです。.ハプスプルグ方式であればアウグスティーナー教会ですが、もはやアウグスティーナー教会は宮廷教会では無くなっているので仕方なかったのかも・・。.ハート・グルフト(Herzgruft) アウグスティーナー教会(Augustinerkirche)アウグスティーナー教会は1634年宮廷教会となり、ハブスブルグ家の最後の砦、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊する1918年まで宮廷教会であった。それ故、宮廷教会時代にはハプスブルグ家の人々の結婚式も執り行われた教会なのである。女帝マリア・テレジアの結婚式、マリーアントワネットのオーストリアでの結婚式、シシイことエリザベートの結婚式もこの教会で行われている。.しかし、一般にはあまり知られていなかったが、アウグスティーナー教会(Augustinerkirche)はハプスブルグ家の心臓の墓、ハート・グルフト(Herzgruft)でもあったのだ。.教会のロレート礼拝堂(Loreto Chapel)後ろに、フェルディナンド4世(Ferdinand IV)(1633年~1654年)以降1878年までに54の心臓の入った壺が保管されたそうだ。.写真が無いので他のサイトを見てください ハート・グルフト(Herzgruft)内部の貴重な写真です。The World of Habsburg The Herzgruft in the Augustinerkircheリンク The Herzgruft in the Augustinerkircheハートの容器ではなくて大きなゴブレット型でしたね。.フェルディナンド4世の遺言下の写真はウィキメディアよりパブリックドメインになっていた写真です。奇妙な風習は、フェルディナンド4世(Ferdinand IV)(1633年~1654年)の遺言から始まったそうだ。スペインのフィリップ3世の娘、マリア・アンナと神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の長男として生まれ将来の皇帝になるはずであったが、彼はわずか20歳で早世してしまった。※ 1646年にボヘミア王、1647年にハンガリーとクロアチアの王、1653年にローマ王となっている。死因は天然痘による病死だそうだ。.1654年7月9日、フェルディナンド4世が亡くなると遺体は解剖され臓器が取り出された。心臓は銀のゴブレットに入れられ、体と共に公開される。心臓の方は翌日、アウグスティーナー教会(Augustinerkirche)のロレート礼拝堂(Loreto Chapel)に祀られているロレートの聖母」(La Madonna di Loreto)の足下に埋められた。.埋葬まで時間がかかる事もあり腐りやすい臓器は先に埋葬してしまうと言う理由が考えられる。生前、聖母を崇敬していたフェルディナンド4世のたっての希望の行為であり、全てが彼の遺言の通り行われたらしい。.彼が望んだわけではないのだろうが、彼の聖母の元にありたいと言う敬虔なる行為に感銘した? 後の王族達は彼にならって心臓を宮廷教会であるアウグスティーナー教会(Augustinerkirche)のロレート礼拝堂(Loreto Chapel)の後ろの部屋に埋葬するに至ったのであろう。合理性もあるが・・。.尚、体の入った棺は ハプスブルグ家納骨堂カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)にて一般公開されている。内臓はシュテファン大聖堂(Stephansdom)の地下墓地と言う事だが、あちらの公開はされていなかったと記憶している。遺骸を分離しての埋葬理由は解ったが、何故同じ場所ではなかったのか? に疑問は残りますね。.シュテファン大聖堂については過去に紹介していますが、建物のみの紹介に終わっています。リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔).その他の国の分割埋葬ハプスブルグ家、傍系のヴィッテルスバッハ家でも、かのバイエルン王ルードヴィッヒ2世(Ludwig II)の心臓が分離埋葬されている。ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)1886年6月19日ミュンヘンで葬列後に聖ミヒャエル教会の地下墓所に埋葬。心臓は1886年8月16日アルトエッティング(Altötting)のホーリーチャペル(Heilige Kapelle)(Gnadenkapelle)に埋葬。.ルードヴィッヒ2世についてはたくさん書いていますが、今回墓所だけリンク先を入れました。リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会).獅子心王と呼ばれたイングランドのリチャード1世(Richard I) の場合、遺体は父ヘンリー2世の眠るフォントヴロー修道院に、心臓はルーアン大聖堂に埋葬。さらに脳と臓器が分割されポワトゥーのシャルー修道院に収められたそうだ。リチャード1世(Richard I) (1189年~1199年)かなり分割して埋葬しているようですが、イングランドには何も無いそうです。確か彼が王位についてイングランドにはほとんどいなかったから王位にさえ思い入れもなかったのでしょうね。.墓の事まで書いてませんでしたが、リチャード1世について2015年1月に紹介しています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世).さて、今回写真も少ないので、エジプトのファラオの臓器を入れたカノプス壺(canopic jar)の写真も公開。ウイーンの美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)のエジプト、コーナーからそもそもカノプスとは、古代エジプトで、ミイラを作る際、魂が宿るとされていた心臓を除き、特に重要と考えられていた臓器を取り出し、保存する容器です。人頭のカノプス・・・・・肝臓ヒヒ頭のカノプス・・・・肺ジャッカルのカノポス・・胃ハヤブサのカノポス・・・腸もしかしたら欧州の王族達の臓器の抜き取りは、ここから派生しているかもしれませんね。.2009年5月 「死者の書」とカノプスてでカノプスについて書いています。リンク 「死者の書」とカノプス.上下の写真はパリのルーブル美術館のエジプト、コーナーからアラバスター(Alabaster)のカノプス容器です。.メデュース号の筏(いかだ)(Le Radeau de la Méduse)冒頭紹介したルーブル美術館に所蔵されているテオドール・ジェリコー(Théodore Géricault)(1791年~1824年)の描いたメデュース号の筏(いかだ)(Le Radeau de la Méduse)です。ルーブル美術館の中でも大きな絵の一つになっていて、距離の関係から正面から撮影かできなかった。1816年7月5日、今日のモーリタニア沖で座礁して遭難したフランス海軍のフリゲート艦。メデューズ号の漂流の悲劇を描いた作品です。船員は147名で、実際の生き残ったのは15人だけだったとか・・。リアリティーの極致? 生々しさと、おどろおどろしさ? 禍々しさ満載のとてつもなく印象に残る絵です。画家が上手すぎるからなのでしょうか? なんか普通の絵画とは違う異様さを感じる絵なのです。実際、ジェリコーはリアリズムを追求して描く為に狂気の生活を始めている。病院のモルグ(死体置き場)で死体をスケッチ。瀕死の入院患者の顔を観察。切断された手足をアトリエに持ち込んで腐敗していく様子を観察して描いたり、あげくに精神病院から生首を借り受けてデッサンするなど常人ではない感性で描いた作品のようです。.そんな迫力のせいもあるからでしょうか?私が臓器を溶かした絵の具で描いた絵ではないか? と言う疑問を持ったのは。とは言え、前述の死体を家に置いての創作活動を考えると、やっているかもしれない・・と言う感はぬぐえませんね。.実際のハートの容器の写真が見つかったら載せようか? と思っていたネタでした。写真は足り無いけど、何となく整理が付いた感じです。マミーブラウン(英Mummy brown)についてリンク 溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brown「ハプスブルグ家」関連はいろいろ書いています。関連のBack number ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ハプスブルグ家の三種の神器リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃ポンパドール夫人らとタッグを組んだオーストリア継承戦争の事を書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)昔のなのでショートです。リンク ベルヴェデーレ宮殿 1 (プリンツ・オイゲン)リンク ベルヴェデーレ宮殿 2 (美しい眺め)リンク ベルヴェデーレ宮殿 3 (オーストリア・ギャラリーと分離派とクリムト)リンク カールス教会 1 (リンクシュトラーセ)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)他にもあるけどあまり昔のは見てほしくないのでのせません
2018年06月11日
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前回の「ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)」で紹介したようにノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツ、オーバーバイエルンの美術品や図書などの集積所としてナチス支配下で使われていた時代があった。確かに城塞型で近辺が一望できるこの城の存在はナチスにとっても好都合な場所だったのだろう。リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)ルードビッヒ2世の理想の城はニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)のような平城(ひらじろ)の居城ではなくどちらかと言えば中世の防衛型城塞が意識された山岳の城なので・・。そこに父の影響もあったのかもしれない。ルードビッヒ2世が青年時代に過ごした彼の父(マクシミリアン2世)が建てたホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城も城塞型であった※ どちらも古い城跡の上に再建されている。しかし、城の内部は城塞とは遠く、どちらも当事流行のロマン主義が色濃く出た装飾がされている。マクシミリアン2世のホーエンシュヴァンガウ城は中世の騎士や英雄伝説の絵画や壁画で飾られている。共に中世を意識する所は同じであるが、ルードビッヒ2世のノイシュヴァンシュタイン城は同じ中世でも、ほぼワーグナーのオペラの内容に特化している。つまり創作性が高いのだ。当然その装飾の仕様も今までの一般的な城のインテリアとは全く違う。どこにも無いタイプなのだ。各部屋にテーマもあるが、それら装飾は例えるなら舞台装置の様相である。実際、ノイシュヴァンシュタイン城内のデザインをしたのは城郭の専門家ではなく、舞台装置画家(クリスティアーン・ヤンク)だったというのだから納得だ。※ ホーエンシュヴァンガウ城とワーグナーについては、2018年2月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」で少し紹介。リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー城の建築で受けた地元の恩恵未完の城歌人の広間とタンホイザーとパルジファルルードビッヒ2世の寝室、トリスタンとイゾルデルードビッヒ2世の執務室 タンホイザールードビッヒ2世の個人礼拝堂 聖王ルイ9世城の建築費城部門でも、観光全般でも上位に入るのがノイシュヴァンシュタイン城である。毎年約140万人が訪れると言う。(夏期は、1日平均6000人以上の訪問者があるらしい。)それ故、見学も一応予約制になっている。だいたい40~50人くらいのグループでまとめられて移動。城内をかってに見学する事はできない。初夏のノイシュバンシュタイン城城には常時30人が勤務して管理。王が城に滞在している時はその倍の職員が居て王に対応したらしい。写真中心部分のテラスがルードビッヒ2世の寝室のテラス1869年9月5日城の礎石が置かれる。※ 岩山を8m程 爆破して低くし、給水と道路を確保した上で礎石は置かれた。※ 設計は王室建築局の監督、エドゥアルド・リーデル(Eduard Riedel)(1812年~1885年)。1869年~1873年に城門館が建築。1873年~本丸の王館に着手1883年には1,2,4,5階が仕上る。1884年春には4階の王の住居部は完成。1884年5月27日~6月8日 ルートヴィヒ2世(Ludwig II))(1845年~1886年)城に初滞在。1886年6月13日に亡くなるまでのおよそ2年間に城に滞在したのは172日間であった。※ ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)城の正面、見えるのは城門館城の建築で受けた地元の恩恵ノイシュバンシュタイン城の建設には19世紀と言う時代の割にしっかりした建設計画や労働組合が存在していたと言うのだから驚く。前回、膨大な資材が投入された事に触れたが、例えば資材を運び上げる滑車は蒸気機関のクレーンを使用。資材はさらにトロッコで各所に運ばれていた。そんな建築機器の安全性と機能の検査を行う検査協会が当事すでにあり安全の確保が計られていたと言うのだ。前に紹介した琵琶湖疏水工事の環境を考えると日本とは比べものにならない文化レベルの高さである。※ 琵琶湖疎水は1885年(明治18年)~1890年(明治23年)(第1期)ほぼ同時期に建設されている。※ 2017年6月「琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)」で書いています。リンク 琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)また、この時代としては革新的だったのが1870年4月「ノイシュバンシュタイン城建設に従事する職人協会」と言う社会制度ができていた事だ。1ヶ月0.70マルクの会費に国王が多額の補助金を援助し、建設従事者が病気や傷害で休んでも最長15週間の資金支払いを保証すると言うもの。工事には何百人と言う職人を必要とし、多数の商人との取引が行われている。1880年には209人の石工、左官、大工、臨時工が直接建築に従事し、運送人、農民、商人、納入業者、さらに飲食業も建築に間接的に関わって来る。この地方全体の人が城建設に関わったと言って過言ではない。つまりこの地方全体が王が亡くなって工事が中断される1886年6月まで城から受けた恩恵は非常に大きかったと言う事だ。城門門に入ってすぐに見えるのは、後方の王の居室がある本丸。本当ならこの手前に礼拝室と巨大な塔ができるはずであった。入り口正面の突出したテラス部分は、塔ができる予定だった基礎の部分。本来は下のような90mの天守閣と下には宮殿礼拝堂が建築されるはずであった。建築はルードビッヒ2世の死と共に中断され未完となってしまったが、もしこれが完成されていたなら、もう少し城はカッコ良かったかもしれない。ちょっと中途半端なのはその為なのだ。城門館の内側城の見取り図上の二つがメインの王館となる部分ルードビッヒ2世の居室は中、ブルー系の所。メインの王館となる建物が正面テラスより上が「歌人の広間」と呼ばれるホール部分。その下の階がルードビッヒ2世の居室のある階。たぶん見える窓は左がクローゼット。壁画はニーベリングの指輪四部作の3つ目、ジークフリート(Siegfried)からジークフリートの大蛇退治。部屋の装飾はワーグナーのオペラからテーマが選ばれている。城内の撮影は禁止されているので直接の写真は無いが、参考までに城で買ったテキストから写真を拝借。そもそも印刷が悪いので写りも悪いですが・・。歌人の広間普通の城であるなら、ここは舞踏会場となる広間であるが、ノイシュバンシュタイン城では歌人の広間と呼ばれている。歌人の広間とは、文字通りここが歌合戦の会場を意味している。歌人の広間とタンホイザーとパルジファル欧州では10世紀頃より吟遊詩人らによる散文詩の歌が歌われ流行している。ドイツではヴァルトブルク城の歌合戦が有名で、ワーグナーはそれに着想してオペラ、タンホイザー(Tannhäuser)を書き上げている。※ タンホイザーの正式名称はタンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)である王はどうしても歌人の間が欲しくて、この広間を中心にノイシュバンシュタイン城を建てたと言われているほどこだわった場所だ。広間はヴァルトブルグ(Wartburg)城の祝祭会場と歌人の広間を参考にしていると言うが・・。とは言え、このアラブの意匠の入った不思議な装飾はワーグナーがルードビッヒ2世に捧げたとされるオペラ「パルジファル(Parsifal)」に由来している?※ 舞台装置画家クリスティアーン・ヤンクはエドゥアルド・リーデルの設計を書き換えて王の好むスタイルに変えていた。絵画はアンフォルタス王とパルジファル白いドレスの女性が持って要るのが聖杯。女性はもしかしたら妖女クンドリーか?パルジファル(Parsifal)聖杯と聖槍とそれらを守護する騎士団が登場。アラビアの異教徒クリングゾルは魔法と妖女クンドリーを使ってアルフォンタス王を誘惑。王は聖槍を奪われたばかりか重傷を負う。王を救えるのは清らかな愚者。そこに現れた青年パルジファル(Parsifal)。でも彼は事情が飲み込めていない。二幕ではクリングゾルはパルジファルを誘惑するが失敗して聖槍をパルジファルにとられてしまう。三幕ではパルジファルが聖槍を持ってアルフォンタス王の前に進み傷を治すと聖杯の騎士に列するる事を誓う。パルジファル(Parsifal)はルードビッヒ2世に求められて書かれたらしい。第一草稿は1865年に完成して国王に贈呈するが全草稿が完成するのは1877年。それから作曲が始まり初演は1882年、バイロイト祝祭歌劇場である。聖杯伝説も乗っかったいかにもルードビッヒ2世が好みそうなストーリーである。苦悩する新王はルードビッヒ2世の事なのか?あるいは聖杯の騎士こそが王なのか?残念ながら王の存命中にこの広間が使用される事はなかったと言う。1933年~1939年までワーグナー没後50年で祝祭コンサートが開かれたのが最初らしい。ルードビッヒ2世の寝室、トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)後期ゴシック、樫の木がふんだんに使われた木彫のゴージャスベッドの天蓋、洗面台、読書椅子など、製作はミュンヘンのペッセンバッハー・エーレングート社製。既製品ではないだろうが、家具会社に発注したもののようですね王の身長は191cm。思ったより大きいベッドである。眠りと死は同一? キリストの復活が描かれていると言うが、このベット、祭壇とか廟(びょう)にしか見えませんね トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)を読む婦人寝室のテーマはトリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)。それはケルト伝承の散文が後に欧州に広まった物語。簡単に言えば悲恋の物語である。いかにも女性が食いつきそうなお話である。それを寝室のテーマに使った王は乙女か? ※ トリスタンはアーサー王伝説の円卓の騎士に連なる騎士。でも「トリスタンとイゾルデ」は別の話。ルードビッヒ2世の執務室 タンホイザーテーマは先ほど広間で触れたタンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)である。壁絵はJ・アイグナー(J Aigner)ヴェーヌス山のタンホイザータンホイザー(Tannhäuser)舞台は13世紀吟遊詩人タンホイザーは恋人がいるにもかかわらず、ヴェーヌス山で愛欲に溺れる。やがてその生活に飽きると、その世界は消え現実に帰還。地上ではヴァルトブルク城で歌合戦が行われる。お題は「愛の本質」。そこで恋人エリザーベトとも再開。しかしここでタンホイザーは過ちをおかす。非現実の世界で愛欲に溺れていたタンホイザーの「愛の本質」は(精神的な)純潔な愛ではなく、(肉欲的な)快楽の向こうにある愛。皆の非難を受け、法王に許しを請う為にローマに巡礼する事になった。が、結局許してもらえず自暴自棄になったタンホイザーは再びヴェーヌス山に逃げようとしていた。一方、タンホイザーを想う恋人エリザーベトは自分の命を差し出して彼の贖罪を願っていた。エリザーベトの葬列を見て全てを理解したタンホイザーは狂気から覚めるが彼が真に贖罪されたと同時に彼も息絶える。あらすじはこんな所であるが、これをどう演出するかでオペラの内容も面白さも大きく変わる。ダンス音楽を奏でるタンホイザールードビッヒ2世の個人礼拝堂 聖王ルイ9世ルイ9世で飾ったこの祭壇はミュンヘンのJ・ホフマン設計。ルイ(Louis)は、ドイツ語でルードビッヒ(Ludwig)。ルードビッヒ2世の名は聖人となったフランス王、ルイ9世からもらっている。※ ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)※ 聖王ルイ9世については2017年2月に以下書いています。「フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)」「フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)」リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)公開されている部屋はまだあるが、実際写真は撮影できないので紹介はこんなところで・・。春のノイシュバンシュタイン城ワーグナー(Wagner)に捧げげたとも思える城ではあるが、この城が寝泊まりできるようになる1年前(1883年)にワーグナーは亡くなっている。※ ヴイルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)(1813年~1883年)城の建築費ところで城の建築費であるが、王は国税を直接使ったわけではない。王の私財と王室費(国家君主の給料)から城の建設費を支出している。とは言え、その資金だけでは十分ではなく、ルードビッヒ2世は多額の借金をしてまかなっていた。※ 官僚が度々王に支出削減を進言していたのはこの借金の事らしい。ヴィッテルスバッハ家の古文書による王室会計の帳簿によれば、1886年の建築終了までに建築に要した費用は6,180,047金マルクだとか。(現在のお金で200億くらいらしい。)しかし、王の借金は、王の死後に家族から返済されているそうだ。だから王の贅沢で国を破綻させたと言うのは誤りらしい。若き王は政治に絶望し、人に裏切られ、個人攻撃され、すっかり人間嫌悪に陥って行ったようだ。なぜ城を造ったのか? と言う答えは明確になされていないが、王侯なら、城の一つや二つ造るのは自然な事だったらしい。そもそもドイツやオーストリア圏では冬の住まい(宮殿)と夏の住まい(宮殿)は別である。それぞれに立派な宮殿を持っているのが常識。ただ、ルードビッヒ2世が王位について、1866年、内戦が起き、バイエルンはボロ負け。バイエルンの被害はとても大きいものだった。その上、プロイセンに主権放棄と3000万グルデン(5400万金マルク)と言う賠償金を払わなければならなかった事なども国庫を苦しいものにしていたのだろう。王の造った城の中でもこのノイシュバンシュタイン城はまさしく彼が夢の中に逃避するのにピッタリの城であったのは間違いない。が、せっかく造った城なのに172日間しかいられなかったなんて気の毒過ぎもっと居て、城を完成したかったろうに・・。そう考えると、何だか今も王の魂はこの城にありそうな気がしてきたゾ さて、これでノイシュバンシュタイン城おわりますが、ルードビッヒ2世に関するバックナンバーがこれで一応完成しました。2018年02月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」2018年03月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬」2018年03月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー」2015年07月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)」リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザーリンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)ルードビッヒ2世が生まれた離宮と彼の乗り物2015年08月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)」2015年08月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)」2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)」リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2018年03月29日
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国庫の無駄使いだと国民にもとがめられたルートヴィヒ2世(Ludwig II)であるが、中世の世界感あふれるおとぎ話のような王の造った夢の城は、世界一美しい城と形容され、今やドイツ観光の目玉となっている。確かに女の子が夢見る典型的な城の形をしているのがノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)なのである。そんな誰もが認めるメルヘンな城は、カリフォルニア・ディズニー(Disney)の「眠れる森の美女」の城のモデルにもなっている。※ シンデレラ城の方は、フランスの城(フォンテーヌブロー宮殿、ヴェルサイユ宮殿、シュノンソー城、シャンボールなど)の建築様式がモデルとされているらしい。なんだかんだ王が城などの建設にかけた金額はとっくに回収して余りあるのではないか?何しろノイシュバンシュタイン城が一般に公開されたのはルードビッヒ2世(1845年~1886年)(在位:1864年~1886年)の死後わすが数週間後からだと言うのだから・・。※ 当事の入場料は平日2マルク。当事はかなりの高額だったらしい。※ 現在の入場料は12ユーロ 現在のレートで約1576円)。ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬冬のノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)城と言えばタレット(Turret)マリーエン橋(Marienbrücke)城と言えばタレット(Turret)ふと思ったのであるが、子供の頃読んだおとぎ話の中の城はどれもこれも三角錐の屋根の付いたタレット(Turret)がついていた。「城の絵を書きなさい」と言われれば、これを書けば必ず城と認められたと言っても過言ではない。それだけこの三角錐の屋根の付いたタレット(Turret)は特徴的な意味を持つのである。ではタレット(Turret)は何か? と言えばこれは防衛の為の櫓(やぐら)の付いた塔の事なのである。普通の塔との違いは、より見渡せ、攻撃しやすいように、外に張り出している事だ。雪のノイシュバンシュタイン城こちら城の裏側は西面。見えるパルコニーは玉座の間。そこからシュバンガウ城が良く見える。一際目立つ大きなタレット(Turret)たぶんこちらが北面以前(2016年01月)、「ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館)」の中、「宝冠と紋章」のところでタレット(Turret)について触れているのだが、城壁にタレットがたくさん付いている城ほど規模は大きくなる。そしてそのタレットの形が勲章(くんしょう)の元となる宝冠(ほうかん)の形のルーツなのである。リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館)タレットは中世から現れた防衛施設であるが、屋根が付くのはさらに後だ。※ ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城は、あくまでイメージで城を造ったので、実際の防衛施設としての城が建てられた訳ではないし、タレットも実用ではない。タレットは確かに中世の防衛の最前線である要塞に見られる特徴。ライン川や、ドナウ川沿いに残る古城には必ず付いている。つまり、日本の物語に出て来る西洋の城はフランスやイギリス系よりはむしろ、ドイツ系の城のイメージだったのか・・と言う事だ。まさか全てノイシュヴァンシュタイン城がモデルだったりして? 南面? 城の裏口かな?ノイシュバンシュタイン城と言えば、冬の方がイメージがある。なぜなら、ルートヴィヒ2世(Ludwig II)が雪ぞりで夜な夜なソリ遊びをしていたからだ。夜中に活動を始める王はもはや奇人と思われていた。下は2015年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)」で1度紹介した事がありますが・・。リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)まさしくこのノイシュバンシュタイン城の山道を下っている絵である。しかもソリは下の天使のソリ。夜用にライトが搭載されている。ルードビッヒ2世のこだわりは、乗り物にも及んでいる。ニンフェンブルク宮殿(ミュンヘン)には彼の豪奢な馬車やこんな豪華なソリがコレクションとして残されている。あれは一見の価値ありです城と麓(ふもと)のシュバンガウの街の往復に冬は馬車か徒歩しか無い。かつてルートヴィヒ2世が雪ぞりで滑っていた道である。秋ではこんな感じ玉座の間のバルコニーからの眺め(秋)左にアルプ湖。右にシュヴァーン湖(白鳥湖)。その間にホーエンシュバンガウ城。湖の後方の山はオーストリアとドイツの国境となっている。ホーエンシュバンガウ城は前回紹介したが、ルードビッヒ2世の父(マクシミリアン2世)が建てた中世風の城であり、王は青春時代のほとんどをここですごしている。ここが玉座の間のバルコニーと言う事もあるかもしれないが、王がここから城を眺める姿が絵画に残されている。同じバルコニーからの白銀の景色。こちらのバルコニーは立ち入り禁止。中から窓越しの撮影である。チビの雪だるまは職員のご愛嬌?ちょっと邪魔ザックリしたデフォルメ地図ではあるが街から城へのルート図である。下の黄色いのが前回紹介したホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城上の地図がデフォルメしすぎて方位が入れられなかったが、実際はノイシュバンシュタイン城の西方に存在。薄いパープルが通年城に向かう道。冬場はバスは登れないので歩きか馬車のみ。ルードビッヒ2世がソリですべったルートである。ピンクがペラート峡谷(Parat-Schlucht) マリーエン橋(Marienbrücke)に至るルートです。(冬場は閉鎖)※ マリーエン橋から城へは徒歩で15分~20分。マリーエン橋(Marienbrücke)12月初旬、年によってち違うのだろうが、この時は橋は閉鎖されていたので城の全景は撮影できていない。つまりマリーエン橋(Marienbrücke)からの城の全景は春から秋でないと撮影できないのである。12月下旬にはこんな感じ9月最初にペラート峡谷(Parat-Schlucht)橋をかけたのは1845年、ルードビッヒ2世の父(マクシミリアン2世)である。それは木の橋であり1866年ルードビッヒ2世により鉄橋に掛け替えられた。橋の名、マリーエン橋(Marienbrücke)は、ルードビッヒ2世の母、プロイセン王女であったマリー・フォン・プロイセン(Marie von Preußen)(1825年~1889年)に因んでいる。マリーエン橋からの城の全景10月ある意味秋はスッキリしているので城をしっかり見たい人には良いかも。東面は城の正面玄関にあたる城門館。12月、テラスからは撮影ができないので落葉した後の方が撮影しやすい。しかし、これで城の事情が解っちゃう事がある。実はこの城は大半がコンクリートでできているのだ。つまり成りは中世でも中身は近代的な城なのである。詳しい建築事情は次回にまわすが、1879年~1880年に使用された資材の統計が残っている。セメント600トン。砂3600㎣。石灰50トン。木炭40トン。ザルツブルグの大理石465トン。ニュルティンゲンの砂岩1550トン。レンガ(帝国サイズ)40万枚。足場用木材2050㎣。これはあくまでその時期に使用された資材である。何しろ城の礎石は1869年におかれているし、それ以前に山を削って基板も整えている。1869年~1873年までに上の写真の城門館が建てられているのだが、1872年の一年間でセメント450トンが納品されている。かなたに見えるのは巨大なフォルクゲン湖 (Forggensee)フュッセン(Fussen)北東部に位置するフォルクゲン湖 (Forggensee)は、アルプスの雪解け水で起こる洪水を防ぐ為にできた人造湖だそうだ。ノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)次回につづくリンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザーバックナンバーリンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)
2018年03月12日
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リンダーホフ城とノインシュバンシュタイン城はルートヴィヒ2世の城でまとめる事にしました。しかし、双方、城内の撮影ができない為に外観と庭の写真しかありません。ニンフェンブルク宮殿は撮影できたのに・・。悲劇のフランス王妃マリーアントワネット(Marie-Antoinette)や非業の死を遂げたオーストリア皇妃エリザベート(Elisabeth)の話は私のブログの中でも不思議と読者人気が高いのですが、今回紹介する、ルートヴィヒ2世(Ludwig II)はその男性版。彼は昔ドイツ、バイエルンにあった王国の美貌の王様です。ルートヴィヒ2世もまたマリーアントワネットのように個人の贅沢にお金を使いすぎて国民の支持を失ったと言う点で似ているし、皇妃エリザベートも同様。つまり、今回は美貌の王様に、悲劇をもたらしたお城の紹介となります。因みに ルートヴィヒ2世については、以前墓所も紹介しているし、生まれた宮殿も紹介していますが(最後にバックナンバーを載せます)、ルートヴィヒ2世と皇妃エリザベートとは曽祖父母が共通の先祖で、エリザベート母方の従甥(じゅうせい)にあたる関係です。ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)バイエルン王ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の家系と生い立ちホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城ルードヴィヒ2世とワーグナーワーグナーの為の劇場建設リンダーホフ城(Schloss Linderhof)バイエルン王ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の家系と生い立ちバイエルン王、ルートヴィヒ2世(Ludwig II) (Ludwig II)(1845年~1886年)(在位:1864年~1886年)はバイエルン王国4代目の国王です。写真はバイエルン王城協会発行の冊子(王ルートヴィヒ2世)から1864年即位したばかりの頃?そのバイエルン王国は、現在のドイツ・バイエルン州を含むもう少し広い地域に1806年~1918年まであった王国ですが、実はその歴史は12世紀にまで遡る家系です。ルートヴィヒ2世の家系、ヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に仕えていたオットー1世(Otto I)(1117年~1183年)に始まり、以来ずっとバイエルン公としてバイエルンを治めてきた君主一族です。※ 17世紀には神聖ローマ皇帝の選挙権を持った7人の選帝侯の一人に入る家系。そんな家系でルートヴィヒ2世は、まだ皇太子であった父マクシミリアン2世(Maximilian II)(1811年~1864年)とプロイセン王女であった母マリー・フォン・プロイセン( Marie von Preußen)(1825年~1889年)との間に跡継ぎとして誕生。街には祝砲が鳴り、ミュンヘン中の市民に知らせられたと言うくらい喜ばしく、祝福された待望の誕生であったそうです。皇太子であった父マクシミリアン2世は、前王ルードヴィヒ1世(ルードヴィヒ2世の祖父)の退位を受けて1848年に3代目バイエルン国王に就任。※ 以前「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」の所で紹介しているが、ルードヴィヒ1世の退位は王の逝去によるものではなく、ローラ・モンテス(Lola Montez)と言う女性とのスキャンダルによる残念なものでした。この2代目の王ルードヴィヒ1世(ルードヴィヒ2世の祖父)は北欧神話のヴァルハラ(Walhalla)に着想した魂の館。ヴァルハラ神殿(霊廟)を建設している。芸術を奨励、ミュンヘンに大学を造り近代化に励み、ドイツ初の鉄道も施設している。非常に女性好きな王だったと言う所は正反対であるが、ルードヴィヒ2世に通じるものを感じる。実は総じてヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家は芸術の造詣(ぞうけい)が深い家系のようだ。一方、3代目の王となったマクシミリアン2世(ルードヴィヒ2世の父)は息子ルードヴィヒ2世が多大な影響を受けた中世の城をイメージしたホーエンシュヴァンガウ城を再建している。それは廃墟に近いシュヴァンシュタイン城を購入しての改築(1853年)であったが、ベルリンで学び、ドイツ、イタリア、ギリシャを旅行して見聞した事に加え、徹底的に中世を研究しての再建らしい。勉強熱心なマクシミリアン2世は、その城に芸術家や学習者。科学者を集め、歴史研究に没頭したらしい。ホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城ノイシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)城からの撮影冬のホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城マクシミリアン2世は、前王の父(ルードヴィヒ1世)とは違い真面目な堅物? 政務については、彼の治世に王国の安定を回復し、ドイツ統一の戦いではバイエルンの独立を維持しつつミュンヘンを文化的で教育的な都市に変えようと努力もあり国民には人気があったらしいが、国王は決定を下す前に長官と学識経験者の助言を繰り返し求めたらしく審議が中断する事ばかりだったらしい。 ある意味マクシミリアン2世は学問オタクだったのかもしれない。その為に2人の息子の教育には非常に厳しかったと言うが、どうも肝心な帝王学が抜けていたようだ。王子達の使命や将来待ち受ける問題や心構え、人生を生き抜くすべを教えていなかった。しかも、早すぎる突然のマクシミリアン2世の死。ルードヴィヒ2世は無防備に、わずか18歳と言う若さで王になってしまった。 1865年頃ミュンヘンの画家、フェルデイナント・フォン・ピロティー(Ferdinand von Piloty) (1828年 ~1895年)作ルードヴィヒ2世とワーグナーマクシミリアン2世は、学術的に中世の城を再現してみせた。時はちょうど中世ブームだったと言うのもあったかもしれない。しかし、ルードヴィヒ2世の造った城は、王、個人の趣味の世界だ。時代は中世であっても、それは現実世界と言うよりは想像を駆使した夢物語の世界。ルードヴィヒ2世が幼少期に過ごしたのは、父の趣味で至る所に中世騎士伝説が描かれた城だ。森や渓谷に出て素朴な村人と触れあう事はあっても、同年代の友を持つ事もなく、城に閉じ込められるようにすごした。自分の感情を外に表現したりぶつける相手もなく、ただひたすら目の前の中世の伝説の世界へ自らを誘い自分中心の世界を造りだし、その中で一人で遊ぶ事が日常? だったのかもしれない。当然だが、王は理想主義、ロマン主義に傾倒していく。詩人フリードリヒ・フォン・シラー(Friedrich von Schiller)がお気に入りだったらしいが、王は神話や伝説の本を好んで読んでいたそうだ。そして、騎士伝説に観る気高く、美しい者が王の好みとなったのだろう。そんな時に新しい型の音楽に出会った。1861年、ルードヴィヒ2世16歳の時にリヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)自作のオペラ「ローエングリーン(Lohengrin)」に出会う。※ どこで観たか場所が特定できないが、もしかしたらウィーン宮廷歌劇場であったかもしれない。※ ワーグナー自身ザクセン宮廷音楽家という地位にありながら先頭に立って革命に関与。結果、国外逃亡を余儀なくされ、その初演は1850年、友人リスト委ねられた。ワーグナー自身が、それを聴くのは、1861年のウィーン宮廷歌劇場だったと言う。このワーグナーが造りだした世界感にルードヴィヒ2世は同じ感覚の理想を観た? のだろう。この日を境に彼はワーグナーの大ファンとなり、全ての作品と、手に入れられるあらゆる出版物を収集。ワーグナーは、ただの音楽家ではなく、ルードビッヒ2世の「神」となったのだ。そんな経緯でワーグナーの世界の虜になった王は、3つの城の建設を計画した。リンダーホフ城(1874年着工~1878年完成)ヘレンキームゼー城(1878年~1886年ルートヴィヒ2世が亡くなり建設中止 未完)ノイシュヴァンシュタイン城(1869年~居住1886年ルートヴィヒ2世が亡くなり建設中止 未完)リンダーホフ(Linderhof)城完成したのは南バイエルンにあるこのリンダーホフ城だけ。父(マクシミリアン2世)が亡くなり、ルートヴィヒ2世(在位:1864年~1886年)、が即位すると、真っ先に彼が行ったのがワーグナーとの謁見である。父の城で中世の騎士にあこがれた少年は、ワーグナー(Wagner)の、オペラ、ローエングリン(Lohengrin)を観て虜となったのは至極(しごく)当然の事。彼は即位後(在位:1864年~1886年)、借金に苦しむワーグナーをミュンヘンに呼び寄せ、借金を肩代わりしてかつ莫大な支援をする事になる。※ その中にはバイロイト祝祭劇場(Bayreuther Festspielhaus)も含まれる。つまりバイエルン王ルートヴィヒ2世(Ludwig II)は、ワーグナーに心酔し、熱狂的なファンとなり、パトロンとなりお金を使った。しかもワーグナーのお金の使い方も尋常ではなかったらしい。王の無駄な城建設もあるが、ワーグナーに莫大なお金を投じた事も国民の反感を買った要因の一つなのである。※ ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)※ ヴイルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)(1813年~1883年)ドイツのロマン派を代表する歌劇作家で、作曲家。もともと父マクシミリアン2世が「王家の小屋」と言う狩猟小屋を持っていた所。1869年頃より土地を手に入れ始め1874年に建築が開始され、1878年に完成。ヴェルサイユにあるトリアノン宮殿を手本にして建てられたと言われる新古典様式? の建造物です。実は彼がパリ旅行でヴェルサイユに行き、トリアノン宮殿(le Trianon)を気に入ったからのようです。本物のトリアノンより装飾は凝って素晴らしい。それこそがルードビッヒ2世(Ludwig II)のこだわりのたまもの。新古典様式ではない部分です。※ サイズ的にはプチ・トリアノンなのですが、グランド・トリアノン説もあます。宮殿のホールには太陽王と呼ばれたブルボン家のルイ14世(Louis XIV)に敬意を表して騎馬像のブロンズが飾られ、天井には「誰よりも偉大なるべき」と刻まれている。ワーグナーの世界感にひたる為に建設されただけかと思いきや、偉大なる王の継承者になるのは自分だと言う信念も込められていたようだ。庭園正面の扉装飾は実にこだわりが・・。お金かけてますねワーグナーの為の劇場建設今風に言えば、ルートヴィヒ2世がした事はオタクの極致。根っからのロマン主義者である彼は、ワーグナー(Wagner)の造り出した世界に、まさに理想を観たのだろう。おそらく何もかもが好きだった。先ほども触れたが、王は年金だけでなく、ワーグナーの夢の実現の為にバイロイトに劇場を建設する。それはオペラ「ニーベルングの指環」を上演する目的での建設だ。つまり現在も毎年開かれているバイロイト音楽祭のルーツは、この祝祭劇場が元なのである。このオペラ「ニーベルングの指環」を上演するにあたり、ワーグナー自身がものすごいこだわりを持って構想。特別の劇場で、祭典としての上演を念願。場所も自分で決めた。それは自分のオペラをわざわざ見に来てくれる人達の為の劇場でもある。※ 1876年初演は不評の上、大赤字。第2回は1882年まで開かれていない。このバイロイト音楽祭は、ワーグナーの為の劇場だったのでワーグナーのオペラしか上演されない。にもかかわらず現在は人気でチケットがなかなかとれないらしい。、※ 今年(2018年)のバイロイト音楽祭は7月25日~8月29日まで全てが王の出資ではないが、建設から上演までは莫大な費用がかかり、結局王に泣きついたようだ。宮殿側から南側庭段丘テラスと円形の堂、城はもともと狩猟小屋の場所と言うだけあって、山はほどよい借景となっている。渓谷に造られた宮殿はなかなか便の悪い場所であり、ツアーバスでないと大変。おそらく元はホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城を拠点にした狩猟場だったと思われる。城内の撮影はできないので、下の写真はウィキペディアから借りてきました。リンダーホフ・ヴィーナス・グロッテ(Linderhof Venus Grotto)人工の鍾乳洞であるヴィーナス・グロッテはタンホイザーのヴィーナス山の場面が再現されている。バックの絵はアウグスト・ヘッケルの作品でヴィーナスの元にタンホイザーが描かれている。それよりも画期的なのは、1867年に実用化されたばかりの新発明、発電機・ダイナモ(dynamo)を使用していた事だ。この発電システムにより、王を幻想世界に誘う為の水中照明や波動装置、回転ガラス板による交番式変更装置が採用された事はかなり驚くべき事だ。この洞穴ははワーグナーの世界感にひたる為に建設された。ここでルードビッヒ2世は楽士にオペラのさわりを演奏させ、自身はローエングリンの扮装をして船遊びを楽しんでいたらしい。城の後方北側の山の斜面海神ポセイドンの噴水ワーグナーの為に、そして自分の為に、王自身もワーグナーの音楽世界を体現する城や乗り物を造り夢の実現を図っている。王は理想の城で夢の世界にひたった。しかしそれは王の職務にどんどん反比例。ドイツも激動の時代ではあったが、政治的陰謀や個人攻撃、またワーグナーに対する国民の不満。王は、王としての職務を半ば放棄してどんどん現実逃避に走る。それらはやがてバイエルンの国庫を揺るがす重大事に発展。結果、莫大な費用が王を追い詰め、地位のみならず、命まで奪われる事になる。彼が王でなかったなら究極の趣味人としていられたが、国庫を湯水のように使ってオタク道を走った彼は精神異常者として扱われたのだ。※ 王の最後については2015年07月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所」で書いています。リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)ルートヴィヒ2世の存在自体が、もはやオペラになりそうなストーリーを持っている。西の庭園像はローマ神話のファーマ(Fama)ラテン語でファーマ(Fama)は噂 (うわさ)や名声を現す。ファーマ(Fama)を人格化した女神だそうだ。彼女はよい噂を好み、悪い噂には憤ると言う。ルードビッヒ2世は、嫌な噂を聞いたらここに来ていたのだろうか?次回リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザールードビッヒ2世に関するバックナンバーリンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)ルードビッヒ2世が生まれた離宮と彼の乗り物リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2018年02月20日
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「お勧めブログの紹介シリーズ」で「ルードヴッヒ2世(Ludwig 2)」に関わるブログの紹介をしようと過去ログをあたっていたら、ノイシュバンシュタイン城やリンダーホフ城を正式な形で紹介していなかった事に気がつきましたノイシュバンシュタイン城については、「ここはどこ?シリーズ」の形体で2009年の暮れから正月にかけて簡単に紹介しただけ。リンダーホフ城については、ヘルベルト・フォン・カラヤンの生家を紹介(2009年12月)したついでにおまけに載せただけ。見返すと中身も薄いけど写真の色も悪くなっていた※ 昔の楽天ブログは容量に制限があり、写真も解像度を落とさないと枚数載せられなかったし、文字数の制約があったのです。これをどうにかしないといけないな・・と言うわけで、2009年12月「ヘルベルト・フォン・カラヤン + リンダーホフ城」をそれぞれカテゴリー別に分離。内容を充実させ、過去のログを消去して新たに掲載し直すことにしました。リンダーホフ城が残れば良かったのですが、カラヤンも大幅に中身変更して残しました。カラヤン、リンダーホフ城、ノイシュバンシュタイン城と順次更新予定。とは言え、カラヤンについて語れる事はありませんので経歴の紹介程度です。2018年2月「ザルツブルグ祝祭劇場とカラヤンの生家」2018年2月「リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」ザルツブルグ祝祭劇場とカラヤンの生家ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)ザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)ザルツブルク・イースター音楽祭(Salzburger Osterfestspiele)ザルツブルグ旧市街・・・メンヒスベルグ(Monchsberg)の丘からホーエンザルツブルグ城(Festung Hohensalzburg)とピンクの矢印がザルツブルグ祝祭劇場ザルツブルグ新市街(川の向こう)ザルツァッハ川の新市街側、モーツァルトのタンツ・マイスター・ハウス近所、ホテル・ザッハー・ザルツブルグ隣(川下側)にカラヤンの生まれ育った家が残っています。ピンクの矢印がカラヤンの生家水色の矢印がホテル・ザッハー・ザルツブルグ黄色の矢印がモーツァルトの住んでいた家の一つ。今は記念館。ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)ザルツブルクの生み出した音楽家はモーツアルトだけではありません。20世紀クラッシック界のマエストロ(巨匠)と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)もザルツブルクで生まれ学んだ人です。音楽を知らない人でもカラヤンの名前くらいは聞いた事があると思います。1954年の初来日以降、11回も来日しているし・・。ベルリン・フィルやウィーン交響楽団の指揮者を勤めた世界的指揮者でありオペラの芸術監督でもありました。経歴を見れば帝王と呼ばれたのも納得です。※ ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker) ・・・(1955年~1989年 終身指揮者・芸術監督)※ ウィーン交響楽団(Wiener Symphoniker) ・・・(1948年~1960年 主席指揮者・ウィーン演奏協会音楽監督)※ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(Wiener Philharmoniker) ・・・1983年 名誉指揮者※ ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper) ・・・(1956年~1964年 芸術監督)※ ウィーン楽友協会(Wiener Musikverein 1929年~? 音楽監督)彼の功績は、田舎町ザルツブルグを今も世界に名を馳せさせる音楽の都としての地位をさらにあけだ事にあると思います。その一つが今もザルツブルグで毎年行われているザルツブルク・イースター音楽祭(Salzburger Osterfestspiele)。これは彼が1967年に創設した音楽祭です。なかなか男前・・・だったのね。 写真はウィキメディアからヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(1908年4月5日~1989年7月16日)オーストリア・ハンガリー帝国だった時代にザルツブルクで貴族の子として誕生。ザルツブルク・モーツァルテウム大学(Universitat Mozarteum Salzburg) ではピアノを学んでいます。(家の近所だし・・・。)ザルツブルク・モーツァルテウム大学と現在名称が代わっていますが、前回紹介した国際モーツァルテウム財団が1914年に築いたモーツァルト会館「モーツァルテウム」内に入った音楽学校が、それです。1914年に音楽院となり、ベルンハルト・パウムガルトナー(Bernhard Paumgartner)(1887年~1971年)が1917年~1938年と1945年~1959年まで長きに学長を努めている。彼はベルンハルト・パウムガルトナーの最も有名な弟子の一人としてあげられています。新市街と旧市街を結ぶ新しい橋。旧市街側からザルツァハ(Salzach)川、越しの左がカラヤンの生家で右がホテル・ザッハー・ザルツブルグ。家は、ホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)の道路隔てたお隣です。現在はオーストリアの銀行が所有。貴族の称号を持つカラヤンの家には室内楽愛好家が集まっていたらしい。下がホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)正面カラヤンの家は写真右の見切れている所。川は建物の裏。川の向こうが旧市街。ちょっとホテルの説明を入れるとホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)になったのは割と近年の事。ホテル自体は1866年創業しているが、最初はホテル「オーストリア(d’Autriche」)。そしてホテル「エスターライヒッシャー・ホフ(Österreichischer Hof)」 となって1988年、現オーナーのギュルトラー・ファミリー(Gürtler family)がホテルを買い取りホテル・ザッハー・ザルツブルグが誕生している。当事のホテルは貴族のサロン的なホテルとして存在していた。当然、夏の音楽祭には世界中からザルツブルグにセレブが集まる為に今も高級ホテル。しかもザルツブルグ祝祭劇場(Festspielhaus in Salzburg)まで橋を渡ってすぐと近いからね ザルツブルグはとても小さな街ですが、モーツァルトの住んだアパートの一つもこの目と鼻の先。裏はミラベル庭園と、とても立地の良いところです。カラヤンは、ザルツブルク・モーツァルテウム大学の後ウィーン国立音楽院にて指揮法を習得。さらにウィーン大学で音楽学を学び、そして、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。いったんデビューすると、1927年、ウルム市歌劇場の指揮者に就任。1929年には「フィガロの結婚」でオペラ指揮者として、1935年にはアーヘン歌劇場音楽総監督に就任。1938年、ベルリン国立歌劇にて「トリスタンとイゾルデ」の指揮で国際的評価。その後は、ベルリン国立歌劇場、ベルリン国立管弦楽団、ミラノ・スカラ座でのオペラ指揮と、とんとん拍子に・・・。ヒトラーから「君は神の道具だ」と絶賛されたそうで、実力が伴っていたのは間違いない。世界大戦を越えてからは、1948年にウィーン交響楽団(Wiener Symphoniker)の首席指揮者、翌1949年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任。1955年~1989年、ベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任。34年間という長きに君臨。※ ベルリン・フィル前任はヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)(1886年~1954年)。20世紀のクラシック界を二分する名指揮者がベルリン・フィルに二人も在籍していた。しかし、疎遠になった音楽際も・・。1951年、戦後再開したバイロイト音楽祭で、主催のリヒャルト・ワーグナーの一人息子と衝突して疎遠になったバイロイトがあり。1956年から1964年まで努めたウィーン国立歌劇場の芸術監督時代の衝突で疎遠になったウィーン国立歌劇場があります。「全てにおいての支配を望むカラヤン」と悪意的に表現する人もいるが、自分の描いた完璧な音楽を何一つ妥協せず人にこびずに実効する事は芸術家なら誰もが望む事だろう・・・と思う。そのカラヤンのこだわりを「カラヤン美学」と称すのだろう。逆に帝王カラヤンにとっての不満を解消し、思い通りに計画立案して実行できたザルツブルク・イースター音楽祭の創設はカラヤンの理想の完璧な音楽になっていたはずだ。像の写真はかなり前のもの。近年のは汚れているのかカメラの解像度がよくなったからなのか? 汚いのです。汚れると銅像はおじいさんに見えますね。ザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)祝祭大劇場はザルツブルグの旧市内に建設。完成は1960年。土地の少ないザルツブルグで苦肉の策でメンヒスベルク(Monchsberg)の岩盤をくり抜いて(55,000m3 )建築したと言う。ステージの大きさは最大横32m、高さ9m。座席総数は2179席、立ち見席はなし。しかし、実はここには3つの音楽堂がある。ザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)1960年~フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)1926年~モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)1925年~メンヒスベルグ(Monchsberg)の近代美術館テラスから岩肌に建物がめり込んでいるのが解る。写真、建物手前がカラヤン広場。ホーエンザルツブルグ城(Festung Hohensalzburg)から実はこの山は崩れやすい。祝祭劇場の向こうの荒れた岩肌は崩れてできたもの。17世紀、突然崩れた岩により教会が2つ、民家13軒、230人の人が亡くなっているそうです。それでも土地の狭いザルツブルグの旧市街は一等地。岩山の中には丘に上がる為のエレベーターや地下道が通っている。下から見ると薄っぺらくて、まさかこれがコンサート会場だと気付かない。手前がモーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)で隣接した奧がザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)春の復活祭に開催されるザルツブルク復活祭(イースター)音楽祭と夏に開催されるザルツブルク音楽祭では共に主会場となる。広報の言葉を借りると、一年の内の5週間(2018年7月20日~8月30)だけ、ザルツブルクは世界の中心となる。らしい。劇場前からのメンヒスベルグ近代美術館方面ひさしのある所がフェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)とモーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)入口。エントランスのオブジェはギリシャ由来の3つの戯曲(悲劇、喜劇、サテュロス劇)の仮面がモチーフになっているようです。フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)の中を見ていないが、ここが歌劇場たと言うことは上のオブジェが示唆している。フェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)一番古くからあったフェルゼンライトシューレの前身は1693年大司教がメンヒスベルグの岩肌を利用して狩猟の為の厩舎(きゅうしゃ)を建てた事に始まる場所。1841年には乗馬学校となり、第一次世界大戦後は最初の連邦軍がここに駐留。ザルツブルグ祭の一環として演劇の野外公演に利用される事になったのは1926年から。当初は自然の岩肌をを利用したもので音響は微妙なものの舞台には向いていたらしい。1948年にはカラヤンが初めてオペラの舞台に変えた。1968年から1970年にかけて、再設計され幅40mのステージは深さ4mのサブステージを受けステージを保護の為、可動式の遮光性の伸縮式雨カバーが設置。2010年と2011年にはさらにモバイル屋根がリニューアル。新しいペントルーフは6分以内に5本の伸縮アームで引っ張って伸ばすことが可能に。これは2012年にザルツブルク州の建築賞を受賞しているそうだ。ウィキメディアコモンズから借りてきたフェルゼンライトシューレ(Felsenreitschule)内部これを見ておきたかった残念ここで「サロメ」を見たらゾクゾクしそう。(2018年のプログラムに入っている。)モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)前からのホーエンザルツブルグ城方面モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)元はザルツブルク宮廷の旧厩舎が1924年改築されたもの。屋外でのオペラ上演が雨天で出来ない時の代替えなど考慮されてさらに改築されている。1960年祝祭大劇場の完成とともに、モーツァルトやリヒャルト・シュトラウスなどの比較的小規模のオペラの舞台となり「祝祭小劇場」と改称。モーツァルト生誕250年を記念して、「モーツァルトのための劇場(Haus für Mozart)」とさらに改称。客席は拡張され、現在の座席数は1,495席、立ち見席85。ザルツブルク・イースター音楽祭(Salzburger Osterfestspiele)1967年には、自らの理想に沿うワーグナーのオペラの上演をめざして、ザルツブルク復活祭音楽祭を始めた。カラヤンにとって思い入れのあるワーグナーを。彼自身の解釈によるワーグナーを。彼の思うように指揮のできるワーグナーの演奏を目指しての創設だった?カラヤン自身、私的な音楽祭としてイースター音楽祭を位置づけしていたらしい。財務的、芸術的に可能な限り自立したなか(約88%が音楽祭の後援者とメンバーシップなど民間による支援で運営)で、自身の夢を可能にしたと広報には書かれている。夏の音楽祭に比べれば小規模だそうですが、かつては4つの公演全てを、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とベルリン・フィルの首席指揮者が指揮するという点。特にベルリン・フィルがオーケストラ・ピットに入って演奏する機会はこの音楽祭以外にはほとんどない貴重な体験として人気を博したらしい。これはカラヤンがベルリン・フィルの主席指揮者をしていたからこそなしえた事だったのだろう。彼の死後存続が危ぶまれたらしいが45年間の長きにわたりベルリン・フィルとザルツブルグ・イースターの関係は続いた。しかし2013年から一新された。演奏はドイツ、ドレスデンの歌劇場の専属オーケストラザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン(Sachsen Staatskapelle Dresden)と指揮はその首席指揮者クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann)(1959年~ )に変わっている。今年の開催は2018年3月17日~4月2日音楽祭の中心となるのはジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)のオペラ「トスカ(Tosca)」だそうだ。内部見学ツアー(古い写真ですが見つけたので・・。)たぶんザルツブルグ祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)の内部ところで、カラヤンの墓所はザルツブルグ郊外のアニフの教会に故人の遺志通りに埋葬されたらしい。(ザルツブルクとしては、豪華な墓所を提供したかったようですが・・・。)おわりザルツブルグについての過去ログは以下です。2015年2月 ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)2015年2月 ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)2015年3月 ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベ)2015年4月 ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1) 2015年5月 ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)2015年5月 カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)2009年のものは画像も悪いですが・・。2009年12月 ザルツブルク 1 (聖ペーター教会と街)2009年12月 ザルツブルク 2 (ホーエンザルツブルク城) 2009年12月 ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教) 2009年12月 ザルツブルク 4 (マルクト広場) 2009年12月 ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市)2009年12月 ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)2009年12月 クリスマス市の名物グリューワイン 2009年12月 ザルツブルクのモーツァルトの家 2009年12月 ザルツブルクのモーツァルトクーゲル次回、「リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」予定。
2018年02月09日
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ここの所の寒暖の差と疲労からちょっと体調を崩していました。頭が働かなかったです先週、実家に行ったらちょうど甥や姪も来ていたので父を取り巻きしばし談笑。すると母がこの中に私のコレクションの土鈴(どれい)が入っているとサイドボードを指さした。土鈴(どれい)とは、焼きもののベルの事である。小学生の頃に旅するたびに買い集めていた物なのだが、いらないから実家に残していたものだ。どれい? (・_・?) ハテ?甥や姪はどうも違う奴隷(どれい)を想像したらしい。頭の中をグルグル思考をめぐらせながら、いったいどんな奴隷が出てくるのかとドキドキ。見たらなーんだ。と言うオチなのであるが、日本語は難しい。甥や姪と言っても彼らも大学生や社会人。最初から漢字で見ていたら即、理解できただろうに・・。それにしたって奴隷コレクションて・・。 私が?? Σ(T▽T;)ヒドイ…さて、琵琶湖疎水、通常なら前回のインクラインで終わりなのですが、たまたま季節運行していた十石舟で南禅寺溜りから鴨東運河(おうとううんが)をクルーズして来たので追加となりました。琵琶湖疏水 3 (南禅寺船溜まりと鴨東運河)南禅寺船溜り鴨東運河(おうとううんが)岡崎わかば回廊 十石舟めぐり疏水感謝金岡崎わかば回廊 十石舟めぐり 鴨東運河クルーズ赤い橋は平安神宮大鳥居前の橋。この水路の突き当たりが琵琶湖疎水記念館で、さらにその直線上に南禅寺の三門と方丈が連なっている。つまり見える山は京都東山に連なる山。(その向こうは滋賀県)手前の琵琶湖疎水のパイプが通る山は瑞龍山(ずいりゅうさん)らしい。そして奧の山は如意ヶ嶽(にょいがたけ)(標高472m)と思われる。※ 視界に入っていないが、如意ヶ嶽その西峰が京都五山の一つ。大文字山(だいもんじやま)(標高465.4m)である。南禅寺の正式名称は瑞龍山太平興国南禅禅寺(ずいりゅうさん たいへいこうこく なんぜん ぜんじ)。南禅寺の山号(さんごう)は瑞龍山(ずいりゅうさん)。だから南禅寺山ではなく瑞龍山(ずいりゅうさん)が元の山の名前だ。南禅寺橋から 先が蹴上方面さて、インクラインは蹴上から南禅寺前までの落差36mの勾配をへて、いよいよ南禅寺船溜まりに到着。南禅寺橋から 昔の着水地と南禅寺船溜まり南禅寺橋(南禅寺は左方面)南禅寺船溜まりから運河へ赤い矢印が琵琶湖疎水記念館琵琶湖疎水記念館写真左のレンガ色の所が扇ダムからの運河への放水路である。琵琶湖疎水記念館京都市上下水道局が管理している琵琶湖疎水記念館は、琵琶湖疎水100周年を記念して1989年(平成元年)建てられた施設。琵琶湖疎水に関する資料館である。入場は無料なので是非立ち寄ると良いです 琵琶湖疎水記念館前からの鴨東運河インクラインに昇降する舟(写真は琵琶湖疎水記念館のもの) 写真の時代は大正期らしい。鴨東運河(おうとううんが)図・・・南禅寺船溜まり(右の黄色の星)~夷川発電所(左の円)まで赤く囲った所は平安神宮です。豆知識として・・平安神宮の創建は1895年(明治28年)。内国勧業博覧会の目玉として復元された大内裏は平安遷都1100年を記念して建てられた神社だったのです。つまりできたのは第1琵琶湖疎水(1885年(明治18年)~1890年(明治23年))完成より後なので平安神宮より鴨東運河(おうとううんが)のが先にあったと言う事です。鴨東運河(おうとううんが)は全長1.5km。カクカク曲がりながら西方面に。写真右側は京都市動物園。鴨東運河クルーズ船の乗り場岡崎わかば回廊 十石舟めぐり は3月25日~5月7日までの季節限定のクルーズ船。2003年(平成15年)第三回世界水フォーラムで運行された船2隻を利用して2004年(平成16年)より季節限定の運行が始まったそうです。南禅寺船溜まり(右の黄色の星)~夷川発電所(左の円)までの往復30分くらい。たまたま南禅寺橋の所で勧誘されて乗船。南禅寺船溜まりを後に・・謎のトンネルは白川合流点鴨東運河(おうとううんが)クルーズでは6箇所の橋をくぐり抜ける。船の屋根を支える支柱に注目。実は油圧式で上下可動するような仕組み。鴨東運河(おうとううんが)にかかる橋の高さはまちまち。特に古い橋は低いので、船の屋根の高さは本来低い物に設定される。しかし、それでは辛いからだろう。低い橋をくぐり抜ける時だけ、船の屋根を下げているのだ。だから乗船客もガイドの案内に従って頭を下げる事になる。このあたり右手は動物園から京都市美術館になっているので土地が少し高目。桜並木にはなっているのだが、前日の雨でほぼ散ってしまい残念。ぶっちゃけ桜がなければそれほど・・の運河なのだだから季節運行なのだろう。理由はもう一つある。先ほど紹介したように油圧式で屋根を可動させる十石船は2隻あるが、運行の採算があわないようなのだ。平安神宮の大鳥居と慶流橋(けいりゅうばし)行きは西に向かっているので写真の写りが悪いです夷川(えびすがわ)発電所の手前、夷川船溜り(えびすがわふなだまり)この景色は船からでないと撮影できない。乗船の価値はここにある?琵琶湖疎水の船溜りは全部で10箇所。その中で最大の広さを持つ。夷川発電所(えびすがわはつでんしょ)1914年(大正3年)夷川発電所(えびすがわはつでんしょ)完成。中之島の上下水道疎水事務所。手前には京都府知事の北垣 国道(きたがき くにみち)(1836年~1916年)の銅像が建っている。十石舟はここでUターン。帰りの方が東なので写真が綺麗かもしれません。それに絵になる写真は行きよりも帰りかも・・。正面とその左方面が平安神宮の敷地。立派な運河ですね。琵琶湖疏水の歴史散策琵琶湖疎水は琵琶湖の大津から取水している。今回の紹介は蹴上から南禅寺界隈になりましたが、大津運河周辺、小関から藤尾、山科疏水(四の宮~安祥寺~日ノ岡)、蹴上、鴨東運河まで琵琶湖疏水の歴史を辿る各散策コースが紹介されています。そのコースに関しては、琵琶湖疎水記念館で300円で販売されている「琵琶湖疏水の歴史散策」と言う冊子で紹介されているので是非行く前に購入されると良いでしょう。疏水感謝金因みに、琵琶湖から取水しているので、かつて京都市は滋賀県に発電用水利使用料を払っていた。今は国からの通達もあり使用料を払う必要はなくなったのだが、京都市としては発電など諸々の恩恵を受けているので1947年からは疏水感謝金と名目が変わり(年間2億3000万円)滋賀県に支払いが続けられている。その金額は10年ごとに査定を行い物価も考慮されて金額が決められている。2015年3月に年間2億3000万円に決まったので、2025年まではこの金額なのだろう。何にしても電気の恩恵のおかげで京都市は復活できたのだから・・。下はその恩恵の一つ京都市営電気軌道(京都市電)である。写真は琵琶湖疎水記念館から写真は1912年(明治45年)5月10日第一疎水の電気で1895年(明治28年)、日本発の営業鉄道「京都電気鉄道(伏見線)」開通。第二疎水事業では京都三大事業と銘打って電気の生産を増やすと共に市電網の拡張を計り京都市の市電が開業されている。市電の開業は1912年(明治45年)6月なので、乗車しているのは訓練を受けてきた車掌さん達だろう。明治の近代化はすさまじいものでしたね。当初思った以上に壮大な話でした。やって良かったです琵琶湖疏水おわります。バックナンバーリンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)リンク 琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)
2017年06月15日
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以前、ベルギーの地図は解りにくい・・と言う事を書きましたが・・。実は京都の地図看板も非常に解りづらい所の1つです。それは、大抵の地図が北を上に表示するのが常識のなのに京都の場合はメチャクチャ。上が南や右が北などなんでもあり。同じ看板にもかかわらず、南北が違うパターンが存在したり・・。その理由は看板の設置された位置に対して南北東西の設定が違うからのようです。つまり看板が南を背に置かれていたら南が上になる・・と言う論法のようです。この方法は一見わかりやすいようで実は非常に解りにくい。通常北の位置を念頭に頭の中で「現在地に対して〇時の方向」と、位置確認して経路を組み立てているのに地図看板を見るたびに方位が異なるから訳がわからなくなるのです。地図の読みこなしに慣れた私でも京都だけはニガテです <(;_ _)>今回使用する地図も北が上の地図から選んでいます。琵琶湖疎水断面図に至っては、左右反転させて造り変えました。(東と西を正常位置に)琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)琵琶湖疎水(びわこそすい)(Lake Biwa Canal)田辺 朔郎(たなべ さくろう)蹴上インクライン(keage Incline)三十石船(さんじっこくぶね)蹴上インクラインから前回紹介したように琵琶湖疎水は1885年(明治18年)~1890年(明治23年)(第1期)にかけて建設された琵琶湖から京都をつなぐ運河です。1881年(明治14年)第3代京都府知事、北垣国道(きたがき くにみち)(1836年~1916年)氏は京都復興の為に琵琶湖疎水(Lake Biwa Canal)を計画。(用途は前回紹介)その1つが琵琶湖、京都、大阪への物資輸送ルートの開拓。琵琶湖から大阪への水路大津市三保ケ岬の取水点から長等山(ながらやま)をトンネルで抜け、山科北部を通り九条山の蹴上(けあげ)のトンネルに出る。蹴上げからは鴨東運河で岡崎地域を抜けて鴨川の手前まで行き、鴨川に沿って下り深草、伏見を経て濠川(ごうがわ)に入る。濠川は、伏見の市街地を何度か曲がりながらは三栖閘門(みすのこうもん)を経て宇治川へ合流。宇治川は山崎を過ぎて大阪に入ると淀川と名前を変えて大阪湾に注ぐ。滋賀、京都、大阪への疎水を利用した運輸ルートの完成であった。※ 濠川は、豊臣秀吉が伏見城の外堀として開削した元は堀。琵琶湖疎水で接続された。琵琶第1疎水断面図、琵琶湖から南禅寺前まで(左、西に京都 右、東に琵琶湖)掘削方向を赤い矢印で書き込みました。左黄色の坂がインクライン(Incline)。第一疎水の流量は毎秒8.35立方m。難工事の理由疎水は地形の高低差を利用した水路なので、地上部を通る所もあるが、琵琶湖から京都へは幾つかトンネルが掘削されている。とりわけこのトンネル掘削工事が琵琶湖疎水工事の最大の難工事であったそうだ。また、水運事業としては、蹴上から南禅寺前までの最後の急勾配(落差36m)が最大の難関であった。第1トンネル 2436m。(傾斜1/3000) 諸羽トンネル 520m。第2トンネル 124m。第3トンネル 850m。(傾斜1/3000)蹴上インクライン 582m。(傾斜1/15)小関越えの長い第1トンネルは当時日本最大の長さ。工事には竪坑工法を併用して掘削は4箇所から始まった。第1シャフト(深さ47m)。第2シャフト(深さ20m)2~3人がやっとの狭いシャフトの中で固い岩盤をほぼ手彫りで深さ47m。水がどんどんたまるシャフトの水を汲み出しながら掘り進む事196日。完成まで多数の殉職者を出したそうだ。蹴上、南禅寺、鴨東運河 界隈A・・蹴上の第3トンネル出口と蹴上船だまり。(久城山)B・・蹴上インクライン(keage Incline)C・・南禅寺船だまりD・・鴨東運河(おうとううんが)A・・蹴上の第3トンネル出口と蹴上船だまり 九条山右に見切れているのが明治45年に宮内庁が建設した御所水道ポンプ室。蹴上船だまり蹴上疎水広場にはこの建築の責任者であった田辺 朔郎(たなべ さくろう)氏の像琵琶湖疎水もとりわけ発電事業は、田辺 朔郎(たなべ さくろう)氏なしにはできなかったかもしれない。田辺 朔郎(たなべ さくろう)(1861年~1944)工部大学校土木工学の学生であった時に卒業論文で「琵琶湖疏水工事の計画」を発表。京都府知事の北垣 国道(きたがき くにみち)(1836年~1916年)の目に留まる。1883年(明治16年)に卒業と同時に京都府御用掛に採用され琵琶湖疎水の実現に向けて奔走。疎水事業が決定すると弱冠21歳で施工の総責任者に抜擢。(だから銅像も若い)工事途中の1888年(明治21年)に渡米し、ダムや運河の水力利用について視察。帰国後、当初予定の水車動力を減らして水力発電計画を盛り込む。それによりできた蹴上発電所より送られた電気により京都は近代化できたのだ。蹴上インクライン(keage Incline)インクライン(Incline)とは? 単純に言えばケーブル・カーの事。しかしケーブル・カーの定義では、旅客を乗せる鋼索鉄道(こうさくてつどう)(cable railway)がケーブル・カー(Cable car)。貨物用の鋼索鉄道は傾斜鉄道(けいしゃてつどう)(Incline railway)と呼称されるようだ。琵琶湖疏水事業では2ヶ所、傾斜鉄道がもうけられた。(蹴上インクライン・伏見インクライン)両者は1891年~1948年まで運用されたらしい。現在蹴上インクラインは保存用に昔の姿が復元されている。それを今回紹介。蹴上船だまりから船はケーブルカーに乗る鉄製の船用ケーブル台車。「船受枠」という名前がついている。船も琵琶湖疎水のトンネルを流れてくるのでサイズが小ぶりの三十石船(さんじっこくぶね)が採用。三十石船(さんじっこくぶね)長さ 15m,幅 2m,深さ 0.55m。和船の中でも最も小型の米30石分の積載能力を持つ川船。淀川水系の川船の代表的存在として昔から活躍。ひょっとするとこの船が通れる大きさのトンネルと言う事で琵琶湖疎水のサイズは決められたのかもしれない。※ 明治時代、米1俵が4斗(60kg)に規定。2.5俵で1石(150kg)。 30石だと 30×150kg=4500kg=4.5t そんなに? 下方にあった積載見本かくして三十石船(さんじっこくぶね)は台車に乗って水から上がり山を下るのである。反対からは同時に登ってくる船が・・。そのケーブル跡の廃線具合が桜の頃はとても美しいのです しかし、前日に防風のような豪雨があり桜は全部散ってしまいました 下が薄らピンクなのは桜の花びらですインクラインの下方では三条通りが途中まで並行。下っているのが解ります。地下鉄蹴上駅は写真左の見切れているところが出口若干の残った桜を撮影している皆さん通り側は三条通りと仁王門通りの分岐点先ほどの積載見本。台車に乗った三十石船(さんじっこくぶね)2010年、復元されて寄贈されたものだそうです。京都から滋賀への物資は主に米、薪炭、醤油、酒。先ほども書いたが、このシステムは1891年~1948年まで運用された。それ以降中止されたのは車や鉄道の普及が要因であった。南禅寺には地下鉄蹴上駅が最も近い。しかしインクラインを知らないのか? 三条通りを下って水路閣だけ目指す人が案外多い。どうせなら合わせて見るといいのにね 琵琶湖疎水 つづくリンク 琵琶湖疏水 3 (南禅寺船溜まりと鴨東運河)バックナンバーリンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)
2017年06月08日
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南禅寺の水路閣は、推理サスペンスドラマでは常連の場所である。何しろレンガのアーチはとても絵になるからだ。でも、それが何なのか京都の人はさておき、知っている人は少ないだろう。以前「ローマ水道」(1~10)を特集した事があるが、南禅寺に見られる水路閣(すいろかく)は、まさに京都の水道橋(すいどうきょう)なのである。※ 水道橋(すいどうきょう)とは、高低差を利用して、山や河や谷を超えて水を運ぶ水路の事。(今なら水道管がそれにあたる。)江戸では、上水(じょうすい)と言う人口的な水路が早くから確立されていて、遠くの河や池から水をひいて江戸市民の飲料をまかなっていた。人口が増えた都市の大量の水の需用。大火の時の水の必要性。江戸の井戸水は塩分濃度が高かった。などの問題があったからだ。 (水道橋(すいどうばし)は神田上水の通る橋から由来。)京都ではそれが遅れる事、明治維新。やはりきっかけは京都大火。そして東京奠都(てんと)であった。※ 東京奠都(てんと)については後から説明。琵琶湖の大津より取水して京都まで水をひくと言う疎水(そすい)事業は1885年になってやっと行われた。豊臣秀吉以来の待望であったと言われる疎水(そすい)事業は、山を越えると言う技術的な問題で、なかなか難しかったのだ。だが琵琶湖疎水が優れていたのは、その水路が飲料や潅漑(かんがい)だけでなく、物流や、発電にまで利用された事だ。そしてその発電により京都では日本初の民間による路面電車(京都電気鉄道)まで走ったのである。※ 後に京都市により買収されて公営に。今回は、その琵琶湖疎水(びわこそすい)にかかわる所を紹介するのですが、どこから入るのかで右往左往。まずは解りやすく南禅寺の水路閣(すいろかく)から入る事にしました。琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)琵琶湖疏水(びわこそすい)とは?琵琶湖疎水(びわこそすい)(Lake Biwa Canal)の果たした役割京都三大事業(第2 琵琶湖疎)南禅寺水路閣(なんぜんじすいろかく)奠都(てんと)と遷都(せんと)南禅寺の中にある水路閣(すいろかく)名前は水路閣(すいろかく)となっているが、これは水の水路。水道橋(すいどうきょう)です。言われてみれば気が付く、京都には小さな堀や河がたくさん見られます。それはほぼほぼ人口の堀だったのです。例えば垂直に南北に延びた堀川は、琵琶湖疏水第二疏水分線でできた川。確かに垂直は不自然。また銀閣寺西の「哲学の道」と言われる遊歩道もまた琵琶湖疏水に沿ってできた管理用道路として設置された道。(疎水は一級河川である白川と合流もしている。)参考に哲学の道の横の疎水(そすい)です。銀閣寺西橋から撮影。琵琶湖疎水(びわこそすい)とは?琵琶湖を水源にした潅漑(かんがい)用の運河の事である。京都市では琵琶湖疎水(びわこそすい)をLake Biwa Canal と訳している。琵琶湖疎水(びわこそすい)(Lake Biwa Canal)の果たした役割第1 琵琶湖疎水 1885年(明治18年)~1890年(明治23年)完成1. 農地の為の潅漑(かんがい)用水。2. 水運 琵琶湖から京都を通り大阪に至る運搬ルートの確立。 ※ 1893年(明治26年)鴨川運河竣工。 ※ 大津―(疎水)―蹴上―(鴨東運河・鴨川運河)―伏見―(宇治川・淀川)―大阪水運ルート開通3. 飲料としての上水道。4. 精米や、粉物など水車の動力としての利用 ※ 当初の第一目的であったが縮小。水力発電にシフト。5. 水力発電 ※ 1891年(明治24年) 第一期 蹴上発電所(けあげはつでんしょ)送電開始。 営業用としては日本最初の水力発電所となる。 ※ 1895年(明治28年)これもまた日本発の営業鉄道。京都電気鉄道(伏見線)開通。上に紹介したのは第1期の 琵琶湖疎水事業によるもの。この後、京都市は、もっと多くの電力を得る為、また都市の基盤を整備する為の事業計画として京都三大事業を立ち上げる。それは第2 琵琶湖疎を中心に展開される都市機能の拡充である。京都三大事業(第2 琵琶湖疎)第2 琵琶湖疎水 1908年(明治41年)~1912年(明治45年)完成1. 第2 琵琶湖疎水 ※ 蹴上発電所の限界。より多くの電力により産業の発展。2. 上下水道整備 ※ 都市人口の増加。井戸水の汚染。飲料になるので全線トンネルになっている。 ※ 1912年(明治45年)第2疎水を利用して日本初の急速ろ過方式の浄水場完成。3. 道路拡張と市電の施設。 ※ 都市の発展の為の道路計画と市電網の拡張。琵琶湖疎水略図から 一部黄色の円が蹴上(けあげ)。南禅寺の水路閣もそこに含まれる。蹴上(けあげ)蹴上(けあげ)は山科疎水(やましなそすい)からトンネルを経由して京都側に出た場所。高低差を利用した疎水路により大文字(如意岳)の山に沿って南禅寺、若王子、吉田山の北東を通り、高野、下鴨、堀川と南から北へ。その後西に向かって市内へ水が配水される。蹴上 第2疎水合流水路とナイアガラフォール この右手に山からのトンネルがある。蹴上発電所への取水設備と発電所への送水鉄管 斜面を利用した水力発電だそうだ。蹴上はまさに京都の心臓部にあたる場所。(浄水場や発電所も集合している。)南禅寺は蹴上の少し北に位置し、疎水の合流点に割と近い。第1疎水の分線の他に南禅寺の裏の山には南禅寺トンネルと言う導水トンネルが通っていて、それは先ほどの哲学の道の疎水までつながっている。南禅寺 三門近いうちに南禅寺を紹介する時に詳しくはとっておきますが、石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな」は南禅寺三門から、満開の桜の景色を愛でたセリフだそうです。実は前日の防風雨で桜がほぼ散ってしまい本当に残念。三門の上から 後方の山にパイプラインが通り、疎水分水が走っている。ピンクの矢印の所に疎水分線の水路閣がある。南禅寺水路閣((なんぜんじすいろかく)位置的に水路閣は東西にかかっている。裏の山が南1888(明治21)年に疎水事業の一環として建設された水道橋はローマ水道の橋を想い起こすと評判に。・・と言う事から「水路閣(すいろかく)」と呼ばれるようになったらしい。全長93.17m、幅4.06m。高い所で9m。水路幅2.42m。レンガ造りのアーチ工法。建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあったらしいが、当初山を掘る予定が予定地に皇室の稜があり断念。かくして突出した水道橋はお洒落な西欧風のレンガの橋となった。※ 設計デザイナーが不明。琵琶湖疎水の責任者である土木技師 田辺 朔郎(たなべ さくろう)(1861年~1944)と書いている人もいるが、確証がとれていない。彼が全ての設計をおこなったとも思えないし・・。水路閣の看板にも設計者の名前は書かれていなかった。奧に見えるのが南禅院1983年(昭和58年) 「南禅寺水路閣・蹴上インクライン」京都市の史跡に指定。1996年(平成8年) 第1疏水関連施設12箇所が「日本を代表する近大遺産」として国の史跡に指定。※ 南禅寺水路閣・蹴上インクラインの他、疎水のトンネル出口や竪坑などが入っている。今や京都を代表する観光名所の1つです 山側から山側から、東の高徳庵方面奧の方が水路閣この後方は南禅寺方丈の庭園裏山を回り込み山のトンネルに。山側、南禅院前から南禅寺法堂方面疎水工事については次回触れるが、日本初の技術がたくさん盛り込まれた画期的な工事。しかし完成できるか危ぶまれた難工事だったそうだ。何しろ琵琶湖からここまで山の中を最長のところで2436m(第1トンネル)もあったそうだ。そこで竪坑工法により掘削が始まったそうだが、当時は重機もなく、ほぼ人海戦術。無理な悪条件で死者も多数でたそうだ。もちろん木材も、レンガさえも時前で調達。水路閣に使用されているのは国産レンガらしい。通常西側の上から水路が見えるのだが、今回工事中? 塀で閉ざされてのぞけませんでした。残念 橋脚の下のアーチを覗く。西から東方面(南 右の山側)みんなが撮影したがるのでこんな写真を取るのは結構至難。東から西方面(山は左側)反対東側から撮影して気付いた事がある。橋脚のアーチの大きさは、東に行くほどに小さかった。奠都(てんと)と遷都(せんと)ところで、なぜ京都市は琵琶湖から疎水する事に踏み切ったのか?冒頭に書きましたが、大きく言えば明治維新がきっかけです。1867年、第15代将軍徳川慶喜は政権を天皇に奏上(そうじょう)。大政奉還1868年、江戸城の無傷開城を1つに明治天皇は東の京都に都を定めた。東京奠都(とうきょうてんと)1869年、明治政府も京都から東京に移動。京都から人口の減少や産業の流出がおこり京都がこのまま衰退してしまうのを恐れた第三代京都府知事であった北垣国道(きたがき くにみち)(1836年~1916年)が構想した京都の勧業政策であった。それにしても不思議なのは、都は京都から東京に遷都(せんと)されたのではないそうだ。天皇陛下の住まいも、政治中枢も確かに移ったのだから遷都で良いはずなのだが、京都に気を使ったのか?奠都(てんと)と言う言葉が使用されている。奠都(てんと)では、都は京都のままであるが、新たに東にも都を造った。と言う事になるらしい。つまり京都も東京も並立して帝都と言う解釈のようだ。次回 引き続き琵琶湖疏水でインクライン紹介です。リンク 琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)リンク 琵琶湖疏水 3 (南禅寺船溜まりと鴨東運河)
2017年06月01日
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マリーアントワネット関連back numberのリンク先をラストに追加しました。ひょっとすると、日本人はフランス人以上にフランス革命について詳しく知っているかもしれない。その理由はマンガ家、池田理代子(1947年~ )さんの描いた「ベルサイユのばら」のおかげだ。実際私も小学生の頃にこれを読んでフランスに興味を持ち、マリー・アントワネット(Marie Antoinette )についていろいろ調べた経験がある。過去には宝塚でも長く公演された事もあり、かつ「ベルサイユのばら」はずっと増刷され続け今も人気のようだ。マンガは、多少少女好みのフィクションが入っているものの、ほぼ歴史的事実に添った展開になっている。「可愛い」姫がオーストリアから嫁いで来たところから始まりフランス革命前期までが時代テーマとなっている。マリー・アントワネットはマンガの中では脇役のはずが、確実に主役を食っていた。主役はフィクション。でも彼女は現実にその歴史を生きた人だからだ。「事実は小説よりも奇なり」と言う言葉があるが、劇的な彼女の人生には驚きだ。蝶よ花よと育てられ、王妃となって贅沢三昧。それが何を間違ったか? フランス革命において断頭台の露と消える事になろうとは・・。さて、コンシェルジュリー(Conciergerie)はフランス革命の時に革命裁判所が置かれ、革命の反革者を次々に裁判にかけては有罪にした恨みの場所である。フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)革命前の牢獄の事情コンシェルジュリー(Conciergerie)革命裁判の時の囚人のカテゴリーピストール(Pistole)とリーブル(livre)革命後のマリーアントワネットの足跡マリーアントワネットの独房ハスティーユ襲撃(La Prise de la Bastille)の図(ウィキメディアから)王政に対する諸々の市民の怒りが爆発し、暴徒となってバスティーユ監獄は襲撃された。1789年7月14日の事だ。これが契機となり、暴動はフランス全土に広がり、絶対王政が崩壊するフランス革命(Révolution française)の序章となった。※ 政治犯の開放などと言われているが、実際たいした犯罪者もなく、今となっては単に武器奪取が目的だったのでは? と考えられているらしい。このバスティーユ(要塞)監獄は革命の直後に解体されたそうで、今はバスティーユ広場(Place de la Bastille)となっている。※ フランス革命(Révolution française)の期間一般には1789年とされている。が、革命は突然始まったのではなく、1787年から予兆はあり1789年のバスティーユ襲撃で幕を切った感がある。革命中は市民の代表の左翼が実権を握るも残忍な独裁政権となり恐怖政治の時代が訪れる。1799年、パリ民衆の後押しもあったナポレオンがエジプトより帰還して総裁政府にクーデターを起こし(ブリュナールのクーデター)勝利すると自身で新たな総領政府を樹立。ナポレオンが独裁権を握るまでが革命期と分類されるようです。革命前の牢獄の事情ところで、バスティーユ監獄に居た政治犯は私達が想像できないほど自由に生活していたらしい。最初、バスティーユ(Bastille・要塞)は1370年にパリの東の要塞として建設された。それがルイ13世(1601年~1643年)の時代に国事犯の収容施設となっている。建物がもともと要塞だったので暗く陰気な印象はあるが、実際収容されていた者達は自分の家具を持ち込み、使用人や料理人を雇う事も可能で、食事もレストランなみ。施設内には遊戯所なども完備され、むしろ好んで住み着いていた者もいたらしい。察するに国事犯と言う事は、結構身分のある者達しか犯罪者になり得なかったのでは? 同じようにコンシェルジュリー(Conciergerie)のあるシテ宮では、アンリ4世の暗殺者など、多くの国事犯が収容されていた時期があり、裁判が終わり罪が確定するまでの間、バスティーユ同様に、そこそこ優雅な生活をしていたのではないかと想像できる。(もともと王宮だったし・・。)また牢屋は革命裁判の時でさえ、お金次第で差があった。どうも牢屋に入居するのにお金が必要だったらしいのだ。我々が思いつかない変な因習(いんしゅう)ではあるがそれで牢獄での快適度も買えたのだから驚く。留置受付革命裁判の時の囚人のカテゴリーパイユー(Pailleux)、ピストリエ(a la pistole)、高貴の者、と囚人は払える金額に応じてカテゴライズされていたらしい。革命政府の時でさえ、牢屋が有料であった? 囚人の冨と看守の気まぐれにより牢獄での生活は非常に差があったと言う。パイユー(Pailleux)・・・最も最下層のランクは牢屋の料金を支払えない者の雑居坊。床に藁(わら)を引き詰めただけの非衛生な場所。ホールの一画を改造して裁判の時に造られた通称「パリ通り(rue de Paris)」には窓一つなかった。ピストリエ(a la pistole)・・・中流層。簡単なベッドがあり2~4人くらいのコンパート。牢屋の使用料は1ヶ月1ピストル(金貨一枚)したらしいがおそらくピストリエの中にもいろいろランクがあったのだろう。高貴の者・・・富裕層や著名人。家具のある独房に入り家具を持ち込むことも可能。読書や仕事をすることも可能。金貨をかなり要したのではないか?前回紹介した衛兵の間から 金網の向こうが革命期の通称「パリ通り(rue de Paris)」現在は売店になっているようだが、革命裁判の時に、そこは最も低いランクの牢獄があった所。そこは死刑執行人ムッシュー・ド・パリの管轄だったらしい。パイユー(Pailleux)床にワラ(Paille)が敷かれ雑魚寝の状態から「わら族・パイユー(Pailleux)」と呼ばれた。牢獄は半地下なので暗くジメジメ。ネズミが走り回る環境で誰もがそこで病気になったらしい。ピストリエ(a la pistole)自費で独房にはいる囚人をピストリエ(a la pistole)と呼んだ。上の写真か下の写真かどちらの部屋が一か月の賃料が1ヶ月1ピストール(Pistole)した部屋か不明。ピストール(Pistole)とリーブル(livre)ピストール(Pistole)は当初は1537年に使用されたスペインの金貨に与えられた名前。ルイ13世(1601年~1643年)の頃に1ルイ(金貨)・・10リーヴルと同額、1ピストール(金貨)・・10リーヴルと相場されている。このフランス語のピストール(pistole)が ピストル(pistol)の語源である。一説には1ピストールでピストルが一丁買えたとか・・。リーブル(livre)は781年から1794年までフランスで使用されていた通貨。リーブル(livre)は含有率がバラパラで何種か出ていたらしい。1726年、ルイ15世の大臣フルーリ枢機卿の元で金や銀の換算法がはっきり決められたようですが、1794年以降リーブルがもともと俗称であったフラン(franc)にチェンジされている。そのフランもEUの通貨統合で消えているが・・。この革命期にどれくらいの価値か想像付かないが、もしピストル一丁が買えるならかなりのお値段なのだろう。(やはり動乱の時は金が一番信用できるのかもしれない。)少しの家具が付いて本なども持ち込めた。こちらの牢屋はおいくらだろう当然食事にも大きく差が出たらしい。宇屋はしばしば看守達の小遣い稼ぎの為に入り人数も調整されていたらしい。が、ロベスピエールが実権をにぎるとその回転ペースは早まり、1日に処刑される人数も大幅に増えた。1・・女囚の中庭2・・マリーアントワネットの記念礼拝堂3・12人の場所4・・マリーアントワネットの牢屋再現5・・パリ通り(rue de Paris) パイユー(Pailleux)の牢獄6・・警備の間 1793年~1795年まで革命法廷が開かれた場所1・・女囚の中庭周囲の建物2階までが女性囚人の独房であったらしい。(大分改装されているが・・。)革命後のマリーアントワネットの足跡1789年、マリーアントワネットは革命でヴェルサイユ宮殿を出た後.ルーブル宮殿の一画にあるテュイルリー宮(Palais des Tuileries)に身柄を移される。(そこそこ自由だったようだ。)1791年、フェルセン(Fersen)の助けにより国外逃亡を図るが失敗(ヴァレンヌ逃亡事件)。これにより国民の信頼を失い最悪の状況に向かった。1792年8月10日、パリ市民と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃。ルイ16世一家は捕らえられてタンプル塔に幽閉される。タンプル塔(Tour du Temple)前回紹介した元、テンプル騎士団のパリ事務所である。後にヨハネ騎士団の修道院になった後、バスティーユができるまでの間牢獄としても利用される。ナポレオンが忌み嫌い1808年に解体され無くなった。1793年、1月ルイ16世と家族の別れ1793年1月にルイ16世はルイ15世広場(後のコンコルド広場)にて公開ギロチンで処刑。1793年8月2日、マリーアントワネットがコンシェルジュリーに移送。1793年10月15日、死刑判決。1793年10月16日、夫と同じルイ15世広場にて公開ギロチンで処刑。マリー・アントワネットの独房(再現)ほぼ同じ場所に復元されているらしい。窓の外は女囚の中庭。もちろん世話係はいたが、タンプル塔よりもいっそう酷い場所になっている。壁紙はユリの紋章が見えるので、元の王宮の部屋の一室だった可能性もある。二人の憲兵が常に監視していたそうだ。今まで散々素敵なベットを紹介してきたが、彼女が最後に寝たベットはこんな安ぶしんのベットだった早い人では裁判1日で素早く処刑されるが、酷い罪状をあれこれ付けられ、裁判の判決が出るまで彼女はここに2ヶ月半ほどいた事になる。(冬でないだけマシだったか?)刑場に向かうマリーアントワネット ダヴィットのスケッチだそうだ。実際の姿を映したものと考えられている。最後まで彼女は気丈に振る舞ったと言う。断頭台・ギロチン(guillotine)残忍なようだが、死の苦痛からはすみやかに解放される為に考案されたものらしい。刃先が斜めにカットされているのもスッパリ切れる為で、これを提言したのがルイ16世だったそうだ。これを革命裁判の時は広場で公開処刑に使われた。マリーアントワネット記念礼拝堂1815年にマリーアントワネットの部屋の後に整備されたもの。時はナポレオンがエルバ島に流され、第一帝政期が終わり王政復古していた時だ。フランス復古王政(1814年~1830年)ルイ16世の弟ルイ18世が即位。この期間があったからこそ、ルイ16世やマリーアントワネットの遺骸は見つけ出されて王家の墓であるサン・ドニ聖堂に運び葬られる事ができた。そしてこの堂も王妃らの魂を偲んで建立されたわけだ。絵画はいずれもマリーアントワネットであるが、部屋が狭く正面から撮れなかったのかも・・。右の絵は、神父と交わす最後のミサかも。1793年6月、ロベスピエールが公安委員会に加わって、1794年7月までの僅か1年の間に2700人以上がフーキエ・タンヴィル(Fouquier-Tinville)に起訴され有罪判決を受け処刑されている。著名人の裁判で付く証言者や弁護者らも次々に抹殺されると言う何が何でも処刑・・と言う革命政府の恐怖独裁はロベスピエールの失権を受けて終わりを告げる。そしてロベスピエール自身もギロチンで処刑。他のジロンド党員も次々逮捕されたそうだ。※ 恐怖政治(仏: La Terreur)、(英: Reign of Terror)は、テロリズムの語源となったそうでフランスの暗黒の一面かもしれない。それにしてもパリ市民は昔から過激ですね。マリーアントワネットの肖像絵はヴェルサイユ宮殿プチトリアノンに飾られていたもの。おそらく世界の王朝でも初まって以来の悲劇の死を迎えた妃である。その美貌と相まって、特にマンガ本の影響大で日本では絶大な人気を誇っているのは確かだ。とりあえず私もご冥福を祈りたい 〔†〕 m( ̄0  ̄〃)フランス王の宮殿 (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)終わります。back numberリンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式※ フォンテーヌブロー宮殿にもマリーアントワネットの為に造られたベッドがあります。マリーアントワネット関連back numberリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里
2017年03月08日
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コンシェルジュリー(Conciergerie)の資料を探していたら、今更であるが、フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)の美麗なカタログが出て来た。写真盛りだくさんの厚めのカタログ。もはや中を見る気にもなれなかった。捜し物は捜している時には見つからないのである。ところでコンシェルジュリーは革命裁判の後に改築(1858年頃?)されているので当時と現在では間取りが異なっている。また建物はひっくるめて裁判宮(Palais du Justice)と呼ばれ、現在フランスの司法(裁判所など)や関連施設が入居。それ故現役のコンシェルジュリーは下層階が一部復元されて公開されているにすぎない。さて、今回も長くなったので以下2回にわけさせてもらいました m(_ _)mフランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(アントワネットの最後の居室)なるべく早めに4回目載せます。フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)コンシェルジュリー(Conciergerie)暗黒の王フィリップ4世とコンシェルジュリーコンシェルジュリーの変遷王(フィリップ4世)のコンシェルジュラ・メジスリー河岸(Quaide la Megisserie)からのパレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)は赤いラインの範囲A・・・・Tour de l'Horloge(オルロージュ塔)・・・文字通り「時計塔」B・・・・Tour de Casar(シーザー塔)・・・ローマ人に因んだ名前らしい。※ 恐怖政治時代の1793年、革命裁判所の告発検事に任命されたフーキエ・タンヴィル(Fouquier-Tinville)が住居にしてい場所。彼は些細な罪でも死刑台に送るので市民から非常に恐れられていたらしいが、彼自身もその罪で処刑されている。C・・・・Tour de Argent(銀の塔)・・・・・国王の財宝の保管塔から由来。D・・・・Tour de Bonbec(ボンベック塔・おしゃべり塔) ※ コンシェルジュリー(Conciergerie)で最古の建物がTour de Bonbec(ボンベック塔)。この塔は古くから拷問塔で、囚人がみんな口を割る事からおしゃべり塔(Tour de Bonbec)と呼ばれたらしい。オルロージュ河岸(Quai de l'Horloge)建築された当初、建物は川の中につかる形で建っていたそうだ。現在のような河岸ができるのは16世紀。結果、地面自体が元より少し高くなったそうだ。手前がTour de Casar(シーザー塔)Tour de l'Horloge(オルロージュ塔・時計塔) 高さ47m。Tour de l'Horloge(オルロージュ塔・時計塔)はジャン2世(Jean II)(1319年~1364年)(ジャン善良王)によって建造されている。1350年~1353年の間に建造。 (塔はコンシェルジュリーより後に建てられた。)※ ジャン2世はこの時同時に時計塔裏の衛兵の間につながる宮殿の大厨房も建設。パリ初の公共時計(l'Horloge)は1370年に設置。1585年にフランスにおけるルネッサンス彫刻家であるジェルマン・ピロン(Germain Pilon) (1528年~1590年)の版に変えられている。暗黒の王フィリップ4世とコンシェルジュリー美男(le Beau)と形容される(カペー11代目)フィリップ4世(Philippe IV)(1268年~1314年)はローマ教皇庁を強引にフランスのアヴィニョン(Avignon)に移動させたたり(アヴィニョン捕囚)、フランス人枢機卿の比率を増やすなど教皇庁を意のままに動かした王として知られる。※ 教皇庁始まって以来の惨事?それ故、教皇庁の力を利用して強引にテンプル騎士団を解体。その財産を没収。騎士団の幹部を火あぶりにして宮殿の窓から眺めていたと言う。実際美貌と裏腹にかなりの非道の王であったようだ。以前騎士修道会の所で紹介している絵ですが、この処刑場所がパリで、しかも宮殿から見えた場所。つまりシテ宮前の広場? かも?また解体後のテンプル騎士団の私財はヨハネ騎士団に行く取り決めになっていたが、フランスだけは王が全ての財産を没収。フィリップ4世がテンプル騎士団にしていた多額の借金(フランドルとの戦費や宮殿建築費?)踏み倒しがテンプル解体理由の一つと考えられる。(テンプル騎士団解体は欧州の金融市場の大混乱を起こしたはず。)※ 現代のヴァチカンの公式見解ではテンプル騎士団を「異端」とした当時の裁判は完全な冤罪。フランス王の意図を含んだ不公正なものであったと認めている。※ テンプルのバリの本拠地としていた建物のみヨハネ騎士団に継承された。その建物が革命政府により牢獄として利用されたタンプル塔(Tour du Temple)で、皮肉にもルイ16世一家が幽閉された場所なのである。※ テンプル騎士団については2013年8月 「騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)」2013年8月 「騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会) テンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)の末路」 で紹介。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)さて、テンプル解体後に借金は無くなり、さらにフランス王家には潤沢(じゅんたく)な資金ができた。それと同時期に裁判宮北翼の敷地にコンシェルジュリー(Conciergerie)は完成した。実は建築を指示したのはフィリップ4世なのである。後に王宮が他に移動するとここには王室管理府が置かれ、その管理者であるコンシェルジュ(concierge)が居た場所として建物がコンシェルジュリー(Conciergerie)と呼ばれるようになったと言われている。(カペー11代目)フィリップ4世(Philippe IV)(1268年~1314年)美男(le Beau)王の肖像画※ パブリックドメインになっていたのでウィキメディアコモンズから借りてきました。フィリップ4世は前に紹介したフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)で生まれ、そこで落馬事故により1314年11月に突然亡くなった。巷では、1314年3月に火あぶりにされたテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーの呪いだとささやかれたとか・・。パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)見取り図 (右がオルロージュ河岸)コンシェルジュリー(Conciergerie)は5月の中庭から右側。時計塔から上はボンベック塔まで。革命裁判の時は赤く囲った部分に牢獄が造られていた。フランス革命後、1793年3月10日、革命裁判所が設置された頃のコンシェルジュリー(Conciergerie)えんじ色の部分がかつての仕切り壁。2・・・マリーアントワネットが一時は入っていた独房。現在は贖罪(しょくざい)の礼拝堂4・・・・マリーアントワネット居していた時の復元部屋。コンシェルジュリーの変遷牢獄と認識されているようだが、ちょっと違う。もともとはシテ宮(palais de la Cité)は王宮であると同時に王の諮問機関、及び司法、内政、軍の拠点や兵備を備えた場所でもあった。フィリップ4世は王宮全体の改築と同時にもともと要塞であった部分に加えコンシェルジュリーを建設。城壁を完備して軍事拠点も一つにまとめたのである。コンシェルジュリーも最初は一階ホールが 食堂ホール。当初はホールの上階が国王の宮殿大広間と居住区になっていて国務行事が行われていた。以前、「フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)」で紹介したように1361年にシャルル5世がこの宮殿を去った後も王の執務機関(王室管理府)は諸々残ったのである。司法と裁定の関係で一時収監される牢屋がシテ宮(現在のパレ・ド・ジュスティス)内のどこかには存在していたのは確かだが、当時の牢屋がどの建物にあったのかは不明。コンシェルジュリーが牢屋として表に出るのはフランス革命後の革命裁判の時である。コンシェルジュリー内、警備の間(当初は王の部屋に繋がる控えの間であり裁定場所)が1793年に革命裁判所として利用され、その周りに牢屋がしつらえられたのである。もっともその時でも裁判1日で翌日にはほぼ処刑されているからみんなここに長くは居ない。因みに、長期牢獄としては、テンプル騎士団から取り上げたタンプル塔が一時変わりを果たし、後にバスティーユ監獄がルイ13世(1601年~1643年)の時代に完成するとそちらに移動。コンシェルジュリー(Conciergerie)でも古くから存在する衛兵の間へ前述したよう16世紀に河岸ができた事により地面が上昇。ホールはもとより7mも低い位置になり、同時に薄暗くなったそうだ。上の矢印は1910年に洪水で水没したライン。つまりセーヌ川が氾濫したと言う事だろう。床面積1800m2。長さ64m。横幅27.5m。高さ8.5m。前述のフィリップ4世(Philippe IV)(1268年~1314年)によりこの建物を建設。1302年~1313年の間。衛兵の間は当初は王宮で働くスタッフ2000人の食堂として造られたようです。1350年に前述のジャン2世(Jean II)(1319年~1364年)(ジャン善良王)によりこのホールに付随して宮殿大厨房が造られている。1361年、シャルル5世の代に王宮は移転しているので居住区の方はわずか50年ほどしか利用されていない?赤い矢印の壁の向こうが通称「パリ通り」と呼ばれるホールをしきった窓の無い部屋。現在は売店になっているようだが、革命裁判の時に、そこは最も低いランクの牢獄(バイユー)として利用されていた部分。王(フィリップ4世)のコンシェルジュところで、調べて見るとコンシェルジュリー建設はフィリップ4世(1268年~1314年)が信頼していた腹心の部下、アンゲランド・マリーニ(Enguerrand de Marigny)の総指揮の元に建築されている。※ アンゲランド・マリーニ(Enguerrand de Marigny)(1260年~1315年)1302年コルトレイクの戦い(bataille de Courtrai)以降王の片腕として認められ1304年に侍従長と主任大臣に任命されている。洗練された彼は王の名代なども勤めているようで王の公務に無くてはならない存在だったらしい。彼こそがまさにフィリップ4世の管理人。コンシェルジュ(concierge)だったと考えられる。前述した管理者であるコンシェルジュ(concierge)が居た場所として建物がコンシェルジュリー(Conciergerie)であるなら、もしかしたらアンゲランド・マリーニ(Enguerrand de Marigny)が居た場所と言う考えにも及ぶ。残念ながらフィリップ4世の死によりそれまでの政策が反動となり窮地に。有罪となり絞首台にかけられて亡くなっている。次回は牢獄としてのコンシェルジュリーです。リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)
2017年03月03日
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2月13日にクアラルンプールの空港で起きた金正男(キム・ジョンナム)氏? の暗殺事件(毒物はVXガスと特定された)。 世界に一気に不穏な空気が流れ始めた気がします。北朝鮮のなりふり構わない暴走ぶりは、国の意志なのか? 朝鮮民主主義人民共和国 第3代最高指導者 金 正恩(キム・ジョンウン)氏の個人的な意向なのか?ここの所のミサイル開発と発射実験。不適格な主導者が一人でハンドル握って暴走しているのなら、これほど世界がコワイ事はない政治に興味はなかったけれど国を憂いていた金正男(キム・ジョンナム)氏。その暗殺が本当であったなら、中国や韓国の思惑は大いに外れ、同時に世界も救いの手を失ったのかもしれない。さて、全2回の予定でしたが・・。サント・シャペル(Sainte chapelle)が見所満載なので紹介が増えました。コンシェルジュリー(Conciergerie)は独立させて次回(3回目)に載せます m(_ _)mフランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)サント・シャペル(Sainte chapelle)サント・シャペル(Sainte chapelle)のステンドグラス黙示録(もくじろく)のバラ窓フライング・パットレスの無いゴシックの教会前回紹介したように聖王ルイ(Saint-Louis)ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)のコレクションルームとして建設された王宮内にできたサント・シャペル(Sainte chapelle)は工期がたったの33ヶ月と言うハイスピードで1248年に完成し献堂されている。設計者は13世紀のフランスの建築家であるピエール・デ・モントルイユ(Pierre de Montreuil )(生年不明~1267年)とされているが、最近疑問も出てきたらしい。彼は当時、同じくシテ島内、向かいにあるノートルダム大聖堂の建築指揮をしている。※ ノートルダム大聖堂は1163年着工。1345年完成。ノートルダム大聖堂から人材をサント・シャペル(Sainte chapelle)に回して建設させていた可能生はあるかも・・。サント・シャペル(Sainte chapelle)のステンドグラスパリ最古のステンドグラスと言われる美しいステンドグラスが見所である。※ ノートルダム大聖堂の方が着工は先だがサント・シャペルの方が完成が早い。13世紀に造られたステンドグラスの中でも一級品と数えられているそうだ。実際確かにエナメル絵付けの絵画技術を駆使した彩色ガラスのステンドグラス。その質の高さ、また完成度には驚いた。黙示録(もくじろく)のバラ窓西の入口にの上のバラ窓の中心図です。このバラ窓のテーマは黙示録(もくじろく)となっていて、序章部が表現されています。※ この絵柄は肉眼では見えないです。望遠カメラでこそ撮影できたもの。剣をくわえているのはキリスト。右手には七つの星。七つの燭台。※ ヨハネによる黙示録。七つの星は七人の使徒。七つの燭台は七つの教会(エフェソス、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキア)を現しているらしい。バラ窓に用いる図柄としては非常にめずらしい。ちっと怖い感じのキリストです。この後戦いが始まるのでキリストが険しいのかも。ヨハネの黙示録(もくじろく)物語の内容的には、この後七つの封印が解かれ、七つの災いが起こり、バビロンが滅亡(バビロンは人間の欲望が渦巻く町を比喩しているらしい。)。そしてサタンの封印とキリストの千年王国へと続く。クライマックスはサタン復活最後の戦いと最後の審判。そして天国の門である。※ 2009年7月「ヨハネとヨハネの黙示録 in Patmos」ヨハネの黙示録を執筆した島 と言うのを紹介しているからよかったら見てね。リンク ヨハネとヨハネの黙示録 in Patmos15世紀にできたと言うフランボワイヤン(flamboyant)様式のバラ窓バラ窓のテーマが「黙示録」と言うのも不思議な気はするが、西だからこそのテーマらしい。バラ窓の細部は割と凝った彩色画のステンドグラスがはめ込まれている。その絵付けの技術が高い。下は翼を持つ牛がいる事から福音所記者ルカだろう。感心なのは、決して肉眼では見えないのに手抜かりの無い事である。ぶっちゃけ、他では色ガラスを適当にはめ込んでごまかしている教会が多いのだ。ステンドグスの修復教会にステンドグラスは当たり前にあるが、ステンドグラスは壊れ安いしガラス自体が経年劣化する。特に外気にさらされていると油分も抜けてボロボロになるから確実にどこかで入れ替え修復は必要になる。ガラスは高いし、エナメル彩色絵付けのステンドグラスはかなり手間とお値段がはる。サント・シャペル(Sainte chapelle)のステンドグラスは13世紀の作品としては最高の品とされているだけにその修復もまた大変だったようだ。ステンドグラス部分だけで618万m2ある中に1134パターンの聖書の場面が描かれている。19世紀半ばの修復では、画家シュタインハイルの下絵に基づいて修復作業が行われたらしいが痕跡はほとんどわからないと言う。※ ルイ・シャルル・オーギュスト・シュタインハイル(Louis Charles Auguste Steinheil)( 1814年~1885年)彼はノートルダム大聖堂の修復にも携わったフランスの画家。西のバラ窓 全景バラ窓の下、テーマはサルヴァトール・ムンディ(Salvator mundi )世界の救い主このスタイルは中世に起源するキリストを現す一つのイメージ画像だそうだ。(光の冠、右手の指で天を指し、左手に球体を持つ)※ 近年レオナルド・ダ・ヴィンチの真作として発見されたサルヴァトール・ムンディ(Salvator mundi )の絵画があります。2017年11月15日にクリスティーズのオークションにかけられ、手数料を含めて4億5031万2500ドル(当時のレートで約508億円)で落札。サウジアラビアのルーブル・アブダビのオープンの目玉で公開されていたが、現在行方がわからないらしい。絵画の内容を見ていると旧約聖書からの出典か?あるいは、もしかしたら上のバラ窓に続く黙示録の一部なのかもしれない。素晴らしい木工の作品である。その彩色も綺麗。サント・シャペルのステンドグラスの説明図上に紹介したバラ窓はNo16です。上階聖堂無地無しのガラ付き。全て彩色ガラスである。フライング・パットレスの無しのゴシックの教会前回書き落としましたが、サント・シャペル(Sainte chapelle)はゴシック建築であるにもかかわらず、他と違います。それは飛び梁(とびばり)、フライング・パットレス(flying buttress)が無い事です。※ フランス語ではアルク・ブータン(Arc Boutan)それは高くそびえる教会の壁のたわみを押さえる梁(はり)の事。高さ15mものステンドグラスを持つ外壁は、従来ならフライング・パットレス無しで教会が建っていられるなんて考えられなかった事です。なぜ無しで可能だったのか?ノートルダム大聖堂に比べれば、小ぶりな一身廊だと言う理由もありますが・・。たぶん教会内部の天井が連続した交差ヴォールト(Cross vault)のセル(cell)になっているからだと思います。またヴォールト(vault)を支える為の支柱が結果的にたくさん存在し、かつ細い事も美しさと強度の両方を保っていると考えられます。※ この教会は過去に3度火災にあっていて近年では1854年に復元作業が行われている。十字軍として聖地に向かう聖王ルイ(Saint-Louis)ルイ9世(Louis IX)と思われる。ほぼルイ9世(Louis IX)の趣味で築かれた礼拝堂であるが、彼は教皇内でのトラブルや諸王国のトラブルの調停をするなど調停者として尊敬されていた高潔な人物らしい。敬虔なるキリスト教徒であった彼は晩年に十字軍として自ら出立。聖地に到着する前にチュニスでペストにかかり病没。その功績から列聖されSaint-Louis(サン・ルイ)聖王ルイと呼ばれるようになったそうだ。件の「キリストが頭に乗せた」と信じられている聖遺物「荊の冠(いばらのかんむり)」であるが、現在はここに無い。ルイ9世の生誕800年記念式典の一環として2014年にノートルダム大聖堂が「いばらの冠」を公開したらしいから確かに今もあるのだろう。次回こそコンシェルジュリー(Conciergerie)です。リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)
2017年02月24日
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フランスには3つの大きな宮殿がある。前回紹介したフォンテーヌブロー宮殿。マリーアントワネットでお馴染みのヴェルサイユ宮殿。今は美術館として知られるルーブル宮殿である。他にもフランスには大小たくさんの宮殿と呼ばれる城が存在している。実際どこが一番古い王宮なのか? と調べて見たら、意外にもそこは現在のシテ島にあるフランスの高等法院(最高裁判所)、パレ・ド・ジュスティス・ド・パリ(Palais de justice de Paris)の場所であった。日本訳で裁判宮と呼ばれる宮殿は、革命後に司法組織が改革され、新たな法廷がそこに収まった事から正義の殿堂(Palais de justice)と呼ばれるようになったらしい。シテ島には歴代のローマ総督の館もあり、行政と軍事の拠点を置いたと言う。5世紀にフランドルを支配したメロヴィング朝もここに居をかまえ宮殿の基礎が築かれている。当時の王宮の呼び名は パレ・ド・ラ・シテ(palais de la Cité)。シテ島にある宮殿と言う意味でシテ宮と呼ばれていたようだ。(「la Cité」は英語の「the city」)ところで、宮殿が古くからあった事はともかく、裁判じたいもここで古くから行なわれていた。中世、王には国の防衛、教会の保護、裁判義務があったからだ。フィリップ2世(Philippe II)(1165年~1223年)(カペー7代)は、パリに城壁を造り、ルーブル要塞を造り、父王からのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame)を建設。そして王宮では裁判もこなしていた。以前 「ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)」の所で、イギリスのヘンリー2世(Henry II)(1133年~1189年)の事を書いたが、フィリップ2世と領地争いしていた彼もまた度重なる毎日の裁判に疲れて、仕事場に寝泊まりした方が楽・・と言う意味で宮殿にほとんど帰らず仕事場(City)のテンプル教会に寝泊まりしていたと言う。裁判が王権から切り離されるまで中世の王は毎日いろいろ忙しかったのである。因みにルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)(カペー9代)の時代にはセーヌ右岸(北側)のマレ地区に貴族の館が集まり始めたらしい。そんな訳で今回はパレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)・裁判宮とその一部であるコンシェルジュリー(Conciergerie)とサント・シャペル(Sainte chapelle)を紹介します。(全2回)(写真は2008年~2010年と少し古いですが・・)ちょうど現在ヒルズの森アーツセンターギャラリーでマリーアントワネット展が開催されているようですが革命後にアントワネットが捕らえられて幽閉された牢獄がコンシェルジュリー(Conciergerie)です。フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)フランス王国の始まりカペー家(Capétiens)フランス王 フィリップ・オーギュスト(Philippe Auguste)(フィリップ2世)パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)サント・シャペル(Sainte chapelle)聖王ルイ(Saint-Louis)のコレクションルームコンシェルジュリー(Conciergerie) セーヌ右岸シャンジュ橋(Pont au Change)越しのコンシェルジュリー(Conciergerie)昔は橋の上に家や店がみっちり建っていたらしい。ここは両替商や彫金師の店が建っていた事からChange(両替)なのだろう。コンシェルジュリー(Conciergerie)フランス王国の始まりローマ帝国の滅亡後に西ヨーロッパ最大となったフランク王国。しかしカール大帝亡き後、そのフランク王国も843年ヴェルダン条約により王国が3分割された。東フランク王国、西フランク王国、中部フランク王国(現ドイツ、フランス、イタリア)である。フランスと言う国の原型ができるのはそこからである。東フランク王国は後の神聖ローマへとつながるが、中部王国(ロタリンギア)北部は後に分割。西フランク王国(フランスの祖になる国)は当初から王権が弱体気味で直系も140年程で途絶えた。(西フランクのカロリング朝の終焉)カペー家(Capétiens)西フランク王国ではノルマン人の討伐で活躍したパリ伯のユーグ・カペー(Hugues Capet)(940年頃~996年)(在位:987年~996年)がフランス大司教の推しでカペー朝を開いて継承。カロリング朝の終焉をもってフランス王国が始まったとするのが史家の見方だ。但し、本人がフランス王と名乗り始めたのは(カペー7代目)のフィリップ2世かららしい。フランスの建国の歴史を西フランク王国の創始まで遡のぼるべきか? と言う問題はさておき、実際カペー家(在位:987年~996年)がブルボン王家の祖であり、スペインやルクセンブルクの祖となる家系に間違いない。カペー家は987年~1328年まで14代続いた。※ 続くヴァロワ朝やブルボン朝、オルレアン朝もカペー家の傍系(ぼうけい)である。カペー家の紋章紋章(フルール・ド・リス)で解るブルボン王家との関係。王冠を除くとサン・ドニ(Saint-Denis)市の紋章と一緒だった。古代ローマの時代にはすでに今のパリに首都がおかれていた(シテ島とカルチェラタン界隈)。フランク王国では当初、パリにあった首都は8世紀にはアーヘン(Aachen)に移動。再び首都がパリに戻るのは西フランク王国のカペー朝の時代である。パリの街の起源は紀元前3世紀に遡る。(下は現代の地図のデフォルメ)セーヌ川に浮かぶシテ島(Île de la Cité)は常に要所であり、ガリア征服以前から要塞が築かれていた。カルチェラタン(Quartier Latin)はラテンの街。ローマ軍はシテ島に政務拠点。左岸に都市を建設。マレ地区(Marais)はルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)以降貴族の人気の邸宅地になった。ルーブル(Le Louvre)はフィリップ2世が新たな防衛として建てた城塞が起源。カペー家と言うよりフランス王国は、(カペー6代目)ルイ7世(1120年~1180年)の時に危機に陥る。フランス北部から西部がイングランド王に持って行かれたのである。フランス(カペー家)VSイングランド(アンジューorプランタジネット家)の領土争いが激化。もともとイングランド王家を開いたのはフランスのノルマンディー公であったのだが、今度はフランス中西部のアンジュー伯ヘンリー2世がイングランド王に即位したからである。(プランタジネット家)(ここにフランスとイングランドとの因縁の対決が始まる。)1154年頃(ルイ7世時代)のフランスとイングランドの領地図ウィキメディアより借りてきました。緑がフランス領。下の薄紫以外全てイングランド(プランタジネット朝)領。※ (カペー6代目)ルイ7世(Louis VII)(1120年~1180年)はノートルダム寺院の建設を始めた王である。フランス王 フィリップ・オーギュスト(Philippe Auguste)(フィリップ2世)イングランドを制したのがシャンパーニュ伯で(カペー7代目)のフィリップ2世。フィリップ2世(Philippe II)(1165年~1223年)は、北部諸侯を押さえイングランド(プランタジネット朝)よりフランス側の土地の大部分を奪還。(現在のフランスの領土の基礎を築いた王である。)他にもフィリップ2世は冒頭紹介しているようにパリに城壁を築き、街の防衛に努め、父王からのノートルダム大聖堂を引き続き建設。内政固めと都市の整備を進め、神学の発展の為にパリ大学の創設にも尽力している。フランス建国の偉大な王として、その名はローマの皇帝アウグストゥスになぞられてフィリップ・オーギュスト(Philippe Auguste)と称されたそうだ。日本訳では、フィリップ尊厳王などと書かれているが、「Auguste」で偉大なる人と言う意味が込められているのだう。話をカペー家に戻すと、続く(カペー8代目)ルイ8世や(カペー11代目)フィリップ4世の時代に王権を拡大している。パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)元の王宮、パレ・ド・ラ・シテ(palais de la Cité)がここである。宮殿は度々火災にあっていて、近年の修復が1840年から1914年までの間にされている。フランスの司法と関係機関(パリ大審裁判所、検察局、弁護士会の他複数の主要司法機関)も入居。裁判所内の見学は可能。裁判宮・パレ・ド・ジャスティス(Palais du Justice)敷地内のサント・シャペル(Sainte chapelle)とコンシェルジュリー(Conciergerie)見学は有料である。裁判宮入口のアイアン・ワークの門はルイ16世様式。1785年完成。正面玄関前 5月の中庭 写真右手がコンシェルジュリー(Conciergerie)写真左手の建物裏にサント・シャペル(Sainte chapelle)がある。前述したよう歴代のローマ総督の館もあったが、5世紀にフランドルを支配したメロヴィング朝の時代に宮殿の基礎築かれたようだ。前述の(カペー7代目)フィリップ2世(Philippe II)(1165年~1223年)がこの宮殿で暮らしていた事は解っている。ノートルダム寺院を建設させた(カペー6代目)父王ルイ7世(1120年~1180年)も? と言うと定かでない。※ それ以前の王はどうもサン・ドニ(Saint-Denis)に関係が深い。(ヴァロワ3代目)のシャルル5世(Charles V)(1338年~1380年)の時に事件が起きた。1358年。宮殿がパリ市民の暴徒に襲われたのだ。その時寝室に流れ込んだ暴徒が目前で家臣を殺害し返り血をあびたとか・・。。その暗黒の恐怖でシャルル5世はこの宮殿を去り1361年マレ地区の邸宅オテル・サンポールに移っている。そして続くシャルル6世もオテル・サンポールに居し、パリ市民との対立に恐怖を感じたシャルル7世、ルイ11世、シャルル8世はパリを離れロワールに居を移している。以降この宮殿は王会(国王顧問会議)が使用する事になる。それが裁判宮・パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)のルーツである。15世紀のパレ・ド・ラ・シテ(palais de la Cité)図宮殿があるのはセーヌ川の川下の方。反対にノートルダム寺院がある。当時、王宮は城壁で囲われていたようだ。サント・シャペル(Sainte chapelle)聖王ルイ(Saint-Louis)のコレクションルーム1239年、聖王ルイ(Saint-Louis)こと、ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)はコンスタンチノープルのラテン皇帝ボードワン2世の債務を肩代わりし、その担保にキリストの荊(いばら)の冠をもらい受けたそうだ。そもそも王は聖遺物のコレクターであったようだ。それら聖遺物を収蔵する為に王宮内にサント・シャペル(Sainte chapelle)を建立。33ヶ月と言う異例のスピードでこのゴシックの教会堂は1248年に完成している。もちろん聖遺物を納める聖遺物箱には並々ならぬこだわりで、教会建築費用の2倍もかかったと言われている。残念ながら革命期に箱は溶解されて無くなった。残った聖遺物はノートルダム大聖堂に納めれたらしい。ところで、完成当時教会はルイ9世の居室と繋がっていたそうだ。王室礼拝堂かと思いきや、本当にプライベート・コレクション・ルームのつもりだったのだろう。(18世紀の修復工事で変更されている。)狭いので全景を入れての撮影は難しい。非常に珍しい形体で、内部は下部礼拝堂と上部礼拝堂の2層構造になっている。下部礼拝堂のボールトの下には聖王ルイ(Saint-Louis)の像が飾られている。王の好みで贅がつくされたせいか? 他に類をみない豪華なゴシックとなっている。他の所はまず色が無い。修復されているせいもあるのだろうが、それ以前に諸々、凝った造りなのが見てとれる。溶解された聖遺物箱、見たかったな※ 2009年10月に「ノートル・ダム寺院1~9」をシリーズしています。昔は毎日書いていたので1回が短くなっていますからよかったら見てね。木彫もさることながら、何よりもここはステンドグラスの美しさに定評がある。フランス王の宮殿(palais de la Cité)は次回コンシェルジュリー(Conciergerie) 内部とサント・シャペル(Sainte chapelle)残りを紹介します リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)
2017年02月18日
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一部書き加え写真も追加しました。次回予定の関係もあり、フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)をここでざっと紹介しておくことにしました。本来3回くらいの所を1回に押し込んだので主に見所のみ抜粋して納めた感じです フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)演出効果バツグンの馬蹄形の階段(ナポレオン別れの中庭)フランソワ1世の回廊(フレスコとスタッコによる装飾)フレスコ(fresco)画とスタッコ(stucco)フォンテーヌブロー派(École de Fontainebleau)白馬の中庭 or 別れの中庭前回紹介しているナポレオンの鉄柵門より中に入る。本来、ここは宮殿の裏庭で、結構広いのでパレードなど催されてきたらしいが主に使用人の中庭だったそうだ。ここを正面入口に利用したのはナポレオンで、その為に鉄柵の門がしつらえられた。白馬の中庭の由来は、シャルル9世(Charles IX)(1550年~1574年)がここにローマの皇帝マルクス・アウレリウスの騎馬像のレプリカを置いていたからと伝えられている。中央の階段より左の建物が三位一体礼拝堂。(その裏手がディアナの庭園)右が皇太后と教皇の住居塔。(その裏手が泉の中庭)中央の階段の裏手にフランソワ1世の回廊が続き、最初の本宮殿に続いている。馬蹄形の階段(Escalier du Fer a cheval)1632~1634年の間に建設。演出効果バツグンの馬蹄形の階段(ナポレオン別れの中庭)フォンテーヌブロー宮殿のシンボルとも言える馬蹄型の階段(Escalier du Fer a cheval)には、そもそも「見せる」と言う演出効果が計算されて造られたものだったようだ。建設はルイ13世(Louis XIII)(1601年~1643年)の時代。以降、ルイ14世の治世から結婚で輿入れして来る王女の出迎えがこの階段で演出され、かつその様子が絵画や焼きものの中に残され記録されている。またこの中庭ではパレードなど催されていたので、国王の観覧にも一役かっていたに違いない。広報活動にいろんな演出をしてきたナポレオンもこの階段で最後の弁明をしている。午後1時、階段の上に姿を現したナポレオンは石の手すりに手をかけながらゆっくり降りて来て一瞬足を止め、整列した親衛隊をしばらく見つめ軍旗に集まった士官達の方に歩み寄り演説したそうだ。「引き続きフランスの為に仕えてくれ給え。フランスの幸福こそ私の唯一の念願だった。(一部)」1814年4月20日ナポレオンが宮殿を去る時の哀愁漂う姿と演説に送別する近衛兵がすすり泣いたと言われている。それ故、この「白馬の中庭」は「別れの中庭」とも呼ばれるようになった。つまり非常にドラマチックな絵を造り上げる階段だと言う事だ。フォンテーヌブロー宮殿見取り図建設の年代が解る展開図となっている。左上カラーから右下に古い順。中世が小さいのは、礎石の上にフランソワ1世が乗せて改築しているからである。A→ 左がナポレオンの鉄柵。そして白馬の中庭三位一体礼拝堂ルイ15世の結婚式とナポレオン3世の洗礼式(1810年)が行われている。フランソワ1世の回廊(Galerie de François)宮殿間取り図でもわかるよう、フォンテーヌブローを宮殿として立派に改築したのがフランソワ1世(François I)(1494年~1547年)である。その時、フランソワ1世は装飾を古典様式にしたローマ風を希望してイタリアより芸術家や職人を集めて宮殿を造らせたのだ。※ 後に彼らの造ったそれは計らずもフォンテーヌブロー派(École de Fontainebleau)と呼ばれる。前回 当時ロワールの貴族に人気のあったイタリア・ルネッサンス様式が採用されていると書いたが、イタリア人気の理由の一つは16世紀、ハプスブルグ家とのイタリア争奪戦(イタリア戦争)に起源しているのかもしれない。またフランスのミラノ占領後にレオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招(1516年)いた事もあるかもしれない。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)(1452年~1519年)はフランソワ1世の居城の一つアンボワーズ城近くのクロ・リュセ城 (Château du Clos Lucé)(クルーの館)と年金を与えられて晩年を過ごし、そこで亡くなっている。二人の仲は非常に親密で、後世フランソワ1世はダ・ヴィンチに対する賛辞を残している事からダ・ヴィンチから受けた影響は大きかったろうと思われる。このギャラリーは1528年~1530年に最初に建築され、後に1766年にルイ16世が手をいれている。フランソワ1世の回廊(フレスコとスタッコによる装飾)最大の見物がこのギャラリーの装飾技法である。フレスコ(fresco)画とスタッコ(stucco)と呼ばれる化粧漆喰で装飾された立体壁面である。フレスコ(fresco)とスタッコ(stucco)による装飾がほどこされた回廊の壁初期の頃のものと思われるこのフレスコ(fresco)とみっちり貼り込まれたスタッコ(stucco)は全体に堅さが見られる。フレスコ(fresco)画とスタッコ(stucco)フレスコ(fresco)画はルネッサンス期にはまさにバチカンでも壁に装飾されていたように室内装飾の主流であった。生乾きの漆喰の壁に絵の具を浸透させて描く技法であるが、保存の難しさもあるので今やイタリア以外で見る事は少ないかもしれない。この漆喰の絵画がオリジナルか解らないが、フランソワ1世に招かれたイタリアのマニエリスムの画家であるロッソ・フィオレンティーノ(Rosso Fiorentino)(1495年~1540年)が監督総指揮をしている。スタッコ(stucco)と呼ばれる立体化粧漆喰による装飾は後にバロック(baroque)芸術の象徴的な装飾の一つに発展する。古代ギリシャと言うよりは古代ローマやローマ神話からのモチーフは建築と絵画と彫刻を巧みに融合させ違和感無い空間を演出している。フォンテーヌブロー派(École de Fontainebleau)フランソワ1世が宮殿改築の為にイタリアより招いたマニエリスムの芸術家や職人により完成されたフォンテーヌブローの宮殿装飾(フランス・ルネッサンス?)が第一期フォンテーヌブロー派である。代表されるのは、最初に芸術監督をしたミケランジェロの弟子ロッソ・フィオレンティーノ(Rosso Fiorentino))(1495年~1540年)で、その後を継いだジュリオ・ロマーノの弟子フランチェスコ・プリマティッチオ(Francesco Primaticcio)(1504年~1570年)である。ロッソ亡き後、イタリアの画家で室内装飾家ニコロ・デッラバーテ(Niccolò dell'Abbate)(1509年or1512年~1571年)が参加。フォンテーヌブロー宮殿の改築は着工1530年代から1559年完成とフランソワ1世亡き後も続いた。アンリ2世(Henri II)(1519年~1559年)フランソワ2世(François II)(1544年~1560年)フランチェスコ・プリマティッチオは完成まで宮廷画家としても活躍していた。加えて言うなら、アンリ2世の妃はカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis)(1519年~1589年)である。彼女がもたらしたイタリア文化はたくさんある。話を戻すと、このフランソワ1世の回廊(Galerie de François)こそが現存する第一期フォンテーヌブロー派の仕事に間違いない。下は月の女神で狩猟の女神でもあるディアナと思われる。こちらは結構後の作品ではないかと思う。絵はフレスコ(fresco)画ではないのかもしれない。スタッコ(stucco)だけでなくデコパージュ(Decoupage)のようなミックスが面白い。フランソワ1世の回廊の左右には庭園が広がっている。皇帝の住居棟の中庭にはディアナの庭(Jardin de Diane)ディアナの泉がある。カトリーヌ・ド・メディシス (Catherine de Médicis)(1519年~1589年)が造らせた王妃の庭園に1603年ディアナの泉が設置された。足下の犬は一時ルーブルで引き取られていたらしい。皇太后と教皇の住居棟の中庭は泉の中庭(Cour de la Fontaine)と呼ばれる。真後ろ2階がフランソワ1世の回廊である。鯉の池に向いて現在は1812年に造られたユリシーズ(Ulysses)の泉が建っている。(ミシュラン本)ホメロス叙事詩オデュッセイアのオデッセウス(Odysseus)像と言ってくれた方が解りやすいのに・・鯉の池の全景が無いので一部です。池の吾妻屋アンリ4世の時代に建てられ、ルイ14世が再建し、ナポレオンが修復したもの。ティールームとして使用されていたようだ。舞踏会の広間(Salle de Bal) 入口側長さ30m。幅10m。祝宴と祭典の広間。着工はフランソワ1世の時代。完成はアンリ2世(Henri II)(1519年~1559年)の時代。暖炉側立派な暖炉の男像は古代彫刻の鋳造レプリカだそうだ。本物でなく、レプリカを使う・・と言う装飾技法がこの頃からあった事にヘェーである フランソワ1世の命で、美術監督のフランチェスコ・プリマティッチオは1540年と1545年の2回、イタリアへの美術品買い付けに出かけているそうだ。その時ローマでは教皇のコレクションから古代ローマの彫刻の石膏型を取ってくるようにも言われていたらしい。城の全景フォンテーヌブロー宮殿見取り図の矢印Bからの撮影。左が宮殿。右の方のクリームの建物は使用人用の棟である。右の方が舞踏会の広間がある棟。林で見えないが、そこに鯉の池があるはず。使用人用の棟も立派フォンテーヌブロー(Fontainebleau)とはFontaineとbleauで、「ブローの泉」と言う意だそうだ。最初がいつなのか定かで無いが、おそらくカペー朝の時に狩り場として森が利用され、中程にあった泉を気に入ったいずれかの王により徐々に屋敷が拡大していったと思われる。この屋敷で生まれた王もいる。出産に適した静かな宮殿であったからかもしれない。下はディアナの庭(Jardin de Diane)で集団でうろついていたクジャクである。白はメス。オスもいた。自然なのだろうか?フォンテーヌブロウはナポレオンの所でも書いています。リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式フランスの王達の宮殿は次回やろうと思っている。リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)
2017年02月11日
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東京駅の東口が八重洲口(やえす ぐち)であるが、その八重洲と言う地名がヤン・ヨーステン(Jan Joosten)と言うオランダ人の名前に由来している。※ ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteyn )(1556年? ~1623年)ヤン・ヨーステン(Jan Joosten)はデルフトの名家出身の航海士で、1600年4月に現在の大分県佐賀関半島に漂着したオランダ船リーフデ(Liefde)号の乗り組員であった。(110人中24人のみ生存)同じく救助されたイギリス人のウィリアム・アダムス(William Adams)(1564年9~1620年)と共に家康に重用され、江戸に屋敷をもらい、嫁を取り、日本の貿易や貿易船の造船に貢献した人物なのである。ヤン・ヨーステンは後に日本の代表として朱印船貿易に臨み、ジャカルタでオランダ東インド会社と交易している。一方イギリス人のウィリアム・アダムスは、イギリスの東インド会社との通訳と共に朱印発行の手助けをしているし、彼は外洋に出る為の交易船の設計指南もしている。日本にとって彼らの存在の意義は非常に大きかったと推察する。デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)リーフデ(Liefde)号の航海士プリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)ウィレム1世(Willem I)の暗殺ヴァニタス(vanitas)番外、出島問題(中世日本の交易) ポルトガルとの縁、カトリック信者の問題、出島建設、ポルトガルからオランダへ後発の海洋国となったオランダの快進撃が始まるのはスペインから独立してからの話だ。そのスペインとの80年に渡る戦い(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)の先頭に立ってオランダを導いた中心人物がオラニエ公ウィレム1世(Willem I)で、オラニエ家の宮殿が現在のプリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)として公開されている。プリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)中庭から運河を隔てて旧教会のお隣にある。実は宮殿になる前、 ここは女子修道院(聖アガサ修道院)だったのである。※ 1403年に聖アガサ修道院(Sint-Agathaklooster)として改装され、1572年にオラニエ公ウィレム1世(Willem I)がここを住居に利用したのである。もと礼拝所? 現在も礼拝所?広間にはオラニエ家の肖像画が並ぶオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)と奥方の肖像1番目か2番目の妻かな?オラニエ公ウィレム1世と家族の肖像厨房下は塔の階段上の写真の右中頃に半分見切れているところが弾痕かもしれない。ウィレム1世(Willem I)の暗殺1584年7月10日にこの屋敷のメイン階段でオラニエ公ウィレム1世(Willem I)は暗殺された。刺客は熱心なカトリック教徒であったバルタザル・ジェラルド(Balthasar Gerards)である。理由はウィレム1世の重婚や改宗、カトリック教徒との戦いなど許せなかったからのようだ。※ ウィレム1世はプロテスタント擁護派で、元君主であったカトリックの国であるスペインとの戦いを始めた。これは結果的にスペインからの独立・・となり戦後、ウィレム1世はオランダ建国の英雄になった。残念ながら銃痕の残る壁の撮影をしていなかった。なぜ気がつかなかったのか? 残念銃痕はかなりの大きさ。悲劇的な最後である。下は若かりし頃のウィレム1世(Willem I)の肖像なかなかイケメンである。撮影写真がボケていたのでウィキペディア(パブリックドメイン)から借りてきました。ヴァニタス(vanitas)まとめであるが、最後にプリンセンホフ博物館にあった絵画を紹介する。ヴァニタス(vanitas)はラテン語で虚しさを現す。もとは旧約聖書のコヘレトの書(伝道者の書)に由来しているようで髑髏(されこうべ)は人の死ぬべき運命を。熟した果物は人生が円熟して死に近づく様?メダルは得た名誉笛は人生の快楽書物の一つはおそらくコヘレトの書が書かれた旧約聖書もう一冊はプロテスタントの聖書?人生の儚さ(はかなさ)、現世の虚しさ(むなしさ)を警告する寓意の静物画らしい。作品はオラニエ公ウィレム1世(Willem I)の人生そのもののように思える。番外、出島問題(中世日本の交易)・・・ポルトガルとの縁、カトリック信者の問題、出島建設、ポルトガルからオランダへ前から先送りしていた「なぜ日本はポルトガルからオランダに交易相手を変えたのか?」 だけ少々。下は出島交易の頃の東南アジアの海図赤矢印が日本 青矢印がマカオ(ポルトガル) 黄色矢印がジャワ(オランダ)がアジアの交易拠点ポルトガルとの縁冒頭に紹介したオランダ人のヤン・ヨーステン(Jan Joosten)が来日するより50年程前の1549年8月、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier) (1506年~1552年)が鹿児島に上陸。さらにその5年程前、ポルトガル人により種子島に火縄銃が伝来している。イエズス会師ザビエルがわざわざ日本に来たのは布教が目的であったが、イエズス会バックのポルトガルは日本との交易を求めていた。日本は欧州からの舶来品に興味はなかったが、当時交易の禁止されていた明の陶磁器や絹製品が欲しかった為にポルトガルに中継(なかつぎ)貿易を頼んだのである。それは日本の交易相手がオランダに変わっても一番欲しかった物は明の陶磁器や絹製品に変わりはなかった。因みにオランダは日本から純度の高い銀を持ち帰ってVOC用のコインを鋳造し、それがアジアでの交易用のコインとなり長く流通したらしい。ところでちょっと追記交易船は長い航海になる。カトリックの国の船にはその為にチャプレン(chaplain)と呼ばれる聖職者が必ず乗り込んでいたのである。最初から布教目的で日本に上陸したのか? 上陸した船のチャプレンがたまたま辿り付いた日本で宣教活動する事になったのか? これは新たな疑問である。カトリック信者の問題1569年、同じイエズス会のルイス・フロイス(Luís Fróis)(1532年~1597年)が信長に畿内の布教許可を得た話は有名だが、それから秀吉の時代になるとかなりのカトリックの信者が増え、特に大名クラスが信者になると長崎がイエズス会領となり要塞化されはじめたらしい。さらにポルトガルは奴隷貿易を行っていて、日本人も買われて行った?(キリストやマリアの像を信奉するが故、仏像や観音像などの破壊もあったと聞く。)秀吉は1587年、バテレン(伴天連)追放令を発布するにいたる。キリスト教の布教を禁止し、京都の南蛮寺もこの時に破却されたのはそうした理由による。※ しかし、宣教師の入国禁止でもポルトガルとの交易は許されていた。その後スペイン人やイギリス人も日本にやってくる事になり、日本の感心は欧州の情勢にまで及ぶ事になる。それは鎖国オランダ時代、200年間続いたと言うオランダ風説書(fusetsugaki)から解る。出島建設秀吉が亡くなり、江戸に幕府が移った後もイエズス会の布教の問題は続く。宣教師が日本に入国できなくなった時、彼らは海外で信者になった者達を帰国させて布教を始めさせた。(それが原因で日本人の出国は禁止。海外にいる日本人の帰国も禁止された。)1616年、平戸・長崎以外での欧州人の入国を禁止。(徳川秀忠の時代)1633年、第一次鎖国令(徳川家光の時代)1634年、出島建設 (長崎に人工島を建設し、賃貸料をとってポルトガルに貸し出した。)1635年、第三次通達※ 長年貿易で潤ってきた長崎の経済困窮の為に出島を無くす事ができなかった。ポルトガルからオランダへ出島建設では、完全にポルトガルを管理するのが目的であったが、1637年の暮れに島原の乱が勃発。本当は年貢の取り過ぎが原因のストライキであったらしいが、キリシタンの反乱と位置づけされ弾圧が始まった。(この時に幕府側に付いたのがオランダ。)明からの輸入品の為にポルトガルと縁が切れないでいたがオランダがその代わりを申しいれる。また、オランダはプロテスタント国だからカトリックのような偶像崇拝が無い。日本は貿易相手をポルトガルからオランダに乗り替えたのである。ポルトガルは出島から追い出され、代わりにオランダが平戸から出島に移動し、江戸幕府と200年に渡る交易を始めたと言うわけだ。因みにオランダはすでにアジアに植民地を開いていた。1602年、ジャワ島のバンテンにオランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie)を設立。1619年には、ジャカルタに新たな商館を設置するとそこをオランダ東方貿易の拠点にした。(アジアにおけるオランダの植民地バタヴィア (Batavia)の誕生)デルフト(Delft)はおわりですBack numberリンク デルフト(Delft) 1 (デルフトの眺望)リンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)リンク デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)リンク デルフト(Delft) 5 (新教会からのデルフト眺望)リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)リンク ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレンリンク デルフト焼き(Delfts blauwx)
2016年11月04日
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鎖国時代の日本でも長崎の出島でオランダとの交易が行われていた事は学校で習ったが・・。実は長崎の出島は最初ポルトガルの為に造られた場所だった。それがいつ? なぜ? オランダに取って代わったのか?簡単に言えばボルトガルはカトリック国で、オランダはプロテスタント国だったと言う理由だ。カトリックの浸透により国勢に影響が出始めた事を幕府が嫌いオランダの甘言にのって交易相手を乗り替えたと言う事だ。まとめてもけっこう長くなったので詳細は次回にまわします。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓旧教会(Oude Kerk)宗教改革(Protestant Reformation)における因習破壊主義者(iconoclast)ヨハネス・フェルメールの墓碑(Johannes Vermeer gravestone)創設は1246年頃、デルフト(Delft)最古の教会である。教会のアドレスがHeilige Geestkerkhof 25(精霊の墓地25)前回触れたゴシックの塔は高さは75m。それは1325年~1350年の間に建造されたようだ。実はこの塔は斜塔と呼ばれている。実際運河沿いの地盤の悪い所に建てられた塔は当初から傾きがあったようだ。それ故1843年には屋根を外して修復された経緯もあるようだが、この斜塔現在登る事が可能なのである。確かに写真見てわかるよう斜めっていますね 新教会の所で紹介したが、階段は煙突の中を上るように非常に狭く、圧迫感すら感じる狭さ。すれ違いも気持ち広めの所までどちらかが後退しないとすれちがえない。とにかく厳しい狭さです斜めっていたとは気付かなかったです。眺望はたいした事なかったような・・。(写真撮ってませんでした)前に紹介した写真であるが、新教会からのみ旧教会の全景が見える隣接してネーデルランド連邦共和国の初代君主となったオラニエ公ウィレム1世(Willem I)の宮殿がある。(写真では塔の後ろ)※ 宮殿は現在プリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)として公開されている。教会は何度か増改築されている。薄いブルーのラインは教会が最大に大きかった時のライン。下方グリーンの円・・・塔下方オレンジ・・・・・・・メイン・パイプオルガン下方ブルーの四角・・・トイレ左中ピンクの星・・・・フェルメールの墓碑右中六角紫・・・説教壇1949年~1961年と1997年~2000年、20世紀に入り2度復元。ステンドグラスの窓もその時に復元されているようだ。図面で見れば元は三廊式教会であり写真は身廊。ところがここには祭壇が無い。宗教改革(Protestant Reformation)における因習破壊主義者(iconoclast)1566年と1572年のプロテスタント改革派の因習破壊主義者ら(iconoclasts)によってステンドグラス含む美しい教会内部の装飾は破壊された。ブロテスタントの教義の中(十戒)に偶像崇拝禁止の項があり、宗教改革(Protestant Reformation)の時、強い因習破壊主義者(iconoclast)は欧州のいくつかの都市で過激な破壊運動を行っている。以前ゲントの時も修道院の貴重な蔵書が何万冊も川に投げ込まれたと書いたが、特にオランダ、ベルギー、北フランスは1566年夏に広範囲に渡り教会や修道院が襲撃され文化遺産ともなる貴重な名画や彫刻、聖書などが焼かれたりうち捨てられている。以前紹介した新教会の入り口のティンパヌム(tympanum)が削られたのもこの理由だろう。かろうじて生き残ったのは1548年製の説教壇だけ。身廊の先にあるのは(図A)Piet Hein tombPieter Pietersen Hein(1577年~1629年)オランダの海軍提督で西インド会社の司令官。写真がボケていたので拡大は無しです 左の聖堂(図B)にはElisabeth Morgan tomb → D 方面 奧がかつての右の側廊↓ P 方面パイプオルガンの裏側が塔であり入り口方面 ↑ 右の側廊・・先が減築されている。下はもちろん墓石の床である。←C 方面左の翼側 ピンクの ↓ がJohannes Vermeer gravestone(ヨハネス・フェルメールの墓石)位置ヨハネス・フェルメールの墓碑(Johannes Vermeer gravestone)※ ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)(1632年~1675年)実は現在ヨハネス・フェルメールの墓碑は2箇所にある。1975年300回目の命日で作られた簡素な墓碑(墓石1)と2007年1月26日に置かれた西の通用口の近くの新しい墓碑(墓石2)である。ヨハネス・フェルメールの墓石1 ・・・1975年製ヨハネス・フェルメールの墓石2 ・・・2007年製フェルメールは旧教会(Oude Kerk)内の床の下に埋葬されたのは間違いない。そこはフェルメールの義母が1661年に権利を購入していた場所だ。しかし彼が亡くなった時にフェルメール家はお金がなくて墓石は造られなかったのである。だから実は正確な墓の場所は特定できていない。墓石1も2も「およそそこら辺」と言う場所に据え置かれているにすぎない。※ フェルメールの生家にいては、「デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)」の中、「空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)とメッヘレン(Mechelen)」「義母と同居した家」で書いています。リンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)※ デルフト全般にフェルメールとなっています。プリンセンホフ博物館の絵画より旧教会内部を描いたもので、製作した画家はフェルメールと同じ年に亡くなっている。墓は石のプレートをはずして埋めるだけのシンプルそのもの。入場口の付近にトイレが増設されている。教会内にプレハブの小屋を置いてあるような感じだ。教会内、しかも聖堂内にトイレが設置された教会は知る限りここくらいだろう。墓石をはがして設置されたトイレにものすごく恐縮したものだ 旧教会(Oude Kerk)おわりリンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)
2016年10月28日
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追記しました宗教改革以降、ステンドグラスのガラスの質が落ちた?アメリカ、装飾デザイナーのルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)が自らガラスまで製作するにいたった理由だ。※ ティファニー商会のルイス・コンフォート・ティファニーはアメリカの上流社会の邸宅の装飾や劇場他、ホワイトハウスの装飾まで手がけたデザイナーである。前回紹介したステンドグラスがマンガチックで近年の? と書いたが、人物の顔を見ても解るように彩色焼き付けの上、色ガラスも、着色によるカラーに見えたからです。(着色ガラス故の濃淡のなさで作品は単調に・・。 感動が無かったのでほとんど撮影していなかった。)以前「ティファニーランプ ポピーのランプシェード」の中でルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)がガラスの開発もしていた事をすでに書いていますが、彼は当時アメリカに輸入されていたイギリスやバイエルンのガラスの質が悪かった事を嘆き 自ら昔の技法に回帰した金属酸化物を加えた丁寧なガラス造りからの創作を始めたようです。欧州の教会のステンドグラスのガラスはもともと吹きガラスを開いて板状にした手間もコストもかかる製法。宝石のように光輝くガラスは主にインテリアや建築方面で利用された事だろう。だがルイス・ティファニーはそれだけでなく、一歩進んで新たにランプ用の濃淡ある色ガラスの開発も成功させている。それはまるで油絵の具を塗り重ねたモネの絵にも似た質感のガラスだ。つまり、ティファニー商会のティファニーランプ(Tiffany Lamp)などのガラス製品は、そのデザインのみならず、ガラス自体から台座にいたるまでティファニーのこだわりがつまったティファニー商会のオリジナルとなっていると言う事だ。※ ティファニーのガラスについては「ティファニーランプ 蜻蛉シェード 」で少し触れています。リンク ティファニーランプ 蜻蛉シェード話がそれたので戻すと・・。プロテスタント化が進んだ所では、信仰以外のあらゆるものが簡略化されたのだろう。美麗な装飾や調度品の無いプロテスタントの教会が増える一方、今までカトリックの教会の為に、神にささげる為に金に糸目をつけず渾身の作品を造り出して技術革新していった職人は廃業に追い込まれた。(他に移った者もいただろうがか、 いずれにせよ職人は育たなかったと言う事だ。)その分野の質の劣化が始まったのは必然と言える。それはきっとガラスだけではなかったはず・・。※ 19世紀に入ってからの産業革命はそれに追い打ちをかけたと思われる。さて、前振り関係なく、今回は新教会からのデルフトの景色が中心です。それこそ「デルフトの眺望」と言える内容です デルフト(Delft) 5 (新教会からのデルフト眺望)新教会(Nieuwe Kerk)の展望テラスから追記1632年10月31日。ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)(1632年~1675年)はこの新教会(Nieuwe Kerk)で洗礼を受けました。※洗礼を受けたと言う事は、それ以前に誕生しているはずですが、記録に残っているのは洗礼日だけだったのでしょう。だから誕生日は不明です。以前「デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)」の所でフェルメールの結婚について紹介しましたが、彼は結婚を機にプロテスタントからカトリックに改宗しています。そもそも自らプロテスタントになった訳ではなかったので、彼がカトリックに改宗する事にそれ程抵抗はなかったのかもしれません。因みにカトリックに改宗した後から彼の作品に宗教画が加わっています。「マルタとマリアの家のキリスト」 1654-1655年頃勘違いして新教会でお墓を探している人達がいるようですが、彼は亡くなる時にはカトリックの信者であったので、彼が埋葬された教会はカトリックの旧教会の方です。下は塔に上るゲート口チケットを入れて、バーを押すと回転する仕組み教会の塔へ上がるのはどこもたいてい有料です。エレベーターが付属している所は希(まれ)で、ほぼ螺旋階段をテクテク上るのが一般的です。オランダ2番目に高いと言われる塔。新教会の塔の高さは108.75m。ここの螺旋は幅広い方。上がる人と降りる人とですれ違いができる余裕がある。が、後に登った旧教会の方は恐ろしく狭くてキツキツで、私でも閉所恐怖の怖さがあった。太めの人は無理。一人で上がるにも体をよじりながら。すれ違いはどちらかがバックしてどこかすれ違いできる箇所に張り付いて回避しなければならない状態。かつて一番狭かったかも・・。ガイドブックによれば展望テラスまで階段は376段だったらしい。数えていないけど・・。下がテラス階出口矢印のあたりがテラス階360度紹介しますが、まずは正面市役所から(西)見えるのが旧教会(西北西)ハーグから市電で来ると、停留所は旧教会の向こう側になる。写真下の黄色で囲った所がフェルメールの時代に火薬庫が爆発した爆心地。(北西)写真の水路は旧デルフトの街を囲んでいた運河。左が旧市街(北)たぶん遠くに見えるビル群がハーグの街かも・・。教会の聖堂側(北東)並木がある所はほぼ運河。昔は他の街までつながる交通路である。デルフトには今は小さくなっているが、かなりの運河が残っている。新教会の身廊の屋根マリア・ファン・イエッセ教会(Maria van Jesse Kerk)(南東)前に紹介しているよう、フェルメールが結婚してから割と長く住んだ義母の家が後にこの教会の一部に・・。デルフトの眺望を描いた場所(南) 赤い矢印Zuidkolk(南の池)と呼ばれる場所の住所はHooikadeと地名が付いている。橋の左がスヒーダム門スヒー川などかつては運河が交錯する交通ポイント。ところで、新教会にはカリヨン(carillon)が付いている。かつては18鐘のカリヨン(carillon)と書いてあったが、今は小さいのをいれたらもっと付いているのだろう。教会の入り口真下には動力巨大な歯車が置かれている※ カリヨン (carillon)については、「ブルージュ(Brugge) 3 (鐘楼とカリヨン)」で紹介しているのでよかったら見て下さい 次回、フェルメールの眠る旧教会です (*^-゚)vリンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓
2016年10月12日
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タイトル変更と免罪符に関するリンク先のせました。聖遺物崇敬(せいいぶつすうけい)のルーツは古代ギリシャ時代からあった英雄や偉人に対する崇敬に発したようです。まだキリスト教が公認される前の2世紀頃でも、その聖人の徳を墓前で後世語り継ぎ賛美すると言うシンプルな殉教者崇敬だったようです。それ故、初期の対象はあくまで聖人の遺骸であり、ローマ時代は遺骸をバラス事は禁じられていたので分骨されたり、一部と言うのもあり得なかったそうです。聖遺物の重要性が唱えられるのは6~7世紀頃。東と西、双方の教会会議で教会や祭壇に絶対聖遺物を置かなければならないと言うおふれが出された事。しかし教会の数は増えて行くのに聖人の遺骸(聖遺物)には限りがある。そこで聖遺物売買や盗掘、他の教会からの窃盗なども多発したと言う。面白いのは窃盗されても、聖人がそこに行きたかったからだ・・と言う理由で罪が許されていた? 感がある事。また、偽物? かなり怪しい物も出回ったようだ。聖遺物たる遺骸が分割され始めたのは10世紀あたり? 遺骸の解体と言う禁忌の意識が薄れたのか? 専用の容器に入れられ、移動できるサイズになり分割が一般化され始めたようです。例えそれが指先一かけらでも威力は聖人の一人分としての効力を放ったらしい。そんな聖遺物崇敬は11世紀にはかなり盛り上がり、同時に聖遺物の恩恵を受けたい巡礼者ブームも到来。十字軍への一般人の参加はそんな聖遺物をあわよくば持って帰ろう・・と言う動機も多分にあったと思われる。中世半ばになると1度に多数の聖遺物が集められ、出展のリーフレットもできたた大がかりな展覧会のようなイベントも開催されたと言う。聖遺物崇敬も時代の変遷?当時教皇庁より贖宥(しょくゆう)の軽減と言うサービスが聖遺物に加えられた事によりこうしたイベントへの巡礼者が増加して人気は加速。※ 贖宥(しょくゆう)とは罪の償いであり、煉獄での罪を償う日数を大幅に軽減させると言うもの。その日数をお金で買ったのが贖宥状(しょくゆうじょう)であり、免罪符(めんざいふ)と言われる御札。つまり聖遺物を1度に多数見られるイベントに行けば、わざわざ遠くに旅して回らなくても安易に贖罪の日数を減らせるのだから好都合。免罪符同様に楽に天国の門に近づける裏技となったのは言うまでもない。ルターが怒った問題の一つがこの教皇庁の造り出した贖宥の軽減。聖遺物を多く見たりお金で買って得た贖宥。罪深い市民が、本当の意味で神に償う・・と言う意識さえも失った事を嘆いたのだろう。当時ヨーロッパ最大の聖遺物を有していたヴィッテンベルク(Wittenberg)の教会。ヴィッテンベルク大学神学教授であったマルティン・ルター(Martin Luther)(1483年~1546年)はヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけ、宗教改革の口火を切ったのである。※ ルターに関しては、「ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)」と「クラナッハ(Cranach)の裸婦 1」で紹介しています。特にクラナッハとの関係性とルターの聖書発行の履歴ものせています。リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)リンク ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)※ 免罪符についてはあちこちで書いていますが、その誕生の真実について書いてます。リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家今回紹介するプロテスタントの教会はルター派でなくカルヴァン派の教会であるが、ルターの宗教改革運動が浸透した各所では聖遺物崇敬は停止され聖遺物は破壊されたり捨てられたり悲惨な運命をたどる事になった。そんなわけでプロテスタントの教会に美しい調度品は一切ないのであるデルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)聖遺物崇敬のルーツと贖宥問題新教会(Nieuwe Kerk)オラニエ公ウィレム1世の離婚問題オラニエ公ナッサウ家の地下墓所前回紹介したように元はカトリックの聖ウルスラ(St. Ursula)教会として建設された教会です。聖堂の構造からそこが元カトリックの聖堂であった事は一目で解ります。ルターの宗教改革の嵐がおきた頃、この教会が信者と共にプロテスタント化した為に聖ウルスラ(St. Ursula)教会は失われたのだと思います。しかし、そもそも聖ウルスラ伝説がどうも本当に伝説だけの話? 実在の記録がとれなかったようで1969年以降 カトリックの典礼暦(てんれいれき)から除外されたらしい。それにしても調度品が全くありません。まさにシンプル。マンガチックなステンドグラスです近年入れたものかも・・。゜教会の聖堂部の天井はシンプルに木造です。ハーグのビネンホフ(Binnenhof)のリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の舟形の天井を思いだしました。カトリックで言う内陣の聖堂の下はネーデルランド連邦共和国の初代君主となったオラニエ公ウィレム1世(Willem I)の霊廟が安置。当時教会内の工事をしていたので定かに解らないが、礼拝所らしきものは無かった気がする。オラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1544年~1584年)「デルフト(Delft) 2」で紹介したようにウィレム1世はオランダ独立のきっかけになる80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)の中心人物。スペインとの戦いの渦中デルフトの住まいである宮殿プリンセンホフで1584年7月に暗殺されている。1584年遺骸はこの教会に安置されたが霊廟ができるのはもう少し後だろう。霊廟の製作者は前に市長舎でも紹介した当時有名な建築家であるヘンドリック・デ・カイザー(Hendrick de Keyser)とピーテル・デ・カイザー(Pieter de Keyser)オラニエ公ウィレム1世の離婚問題ウィレム1世の経歴を見ていたら彼は4回結婚してたくさんの子供をもうけている。死別と言うより妻とはほぼ離婚である。カトリックでは離婚は認められていないが、プロテスタントでは離婚ができる。だからなのか? と思ったが・・。よくよく見て見ると結婚もダブっている時期があるし、子供の年齢も混ざり合っているではないかこれは複数愛人を抱えて後から適当に籍を入れていったのか? と思わざるおえない。これはカトリック教徒であれば大罪である。「離婚」と言えば、ルターだって聖職者なのに「結婚」している。いいのか?教義が緩(ゆる)くて細かい事を気にしない? 面倒くさくない? お金もかからない? そんな所が支持されてプロテスタントは増えたのだろうか?カトリックのように美麗な調度品を造る為のお金はかからないだろうがやはり運営費や修繕費は必要。墓以外に目に留まったこんな箱が・・。For Restoration of the church(教会の修復のために)由緒ありそうな浄罪箱である。教会の床には墓標がちらほら・・。摩滅して消えたものもあるのだろう。床そのものがお墓になっている所がほとんど。しかし、こちらの教会はさらに地下に王家の墓(Koninklijke Grafkelders)がある。写真奧で下をのぞいている人達の場所Koninklijke Grafkelders オラニエ公 ナッサウ家の地下墓所聖堂内陣部の床にはガラス床になっている部分が一箇所。ここにはウィレム1世以降のオラニエ公 ナッサウ家の棺が納められる墓所である。つまり現王室の墓所でもあると言う事。近年では2004年に 前オランテダ女王(ベアトリクス)の母であるユリアナ女王(Queen Juliana)と夫君Prince Bernhardが葬られたと言う。基本王家のプライベート墓地なので公開されていないが、このように床にガラスがはめられていて、地下の様子が少し見えるようなサービスがされている。確認してこなかったが、見えている部分が近年の新しい棺ではないか?だとすればオランダ国民が弔問に来た時用の窓なのかもしれない。一部墓所の図つづくリンク デルフト(Delft) 5 (新教会からのデルフト眺望)
2016年10月04日
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フェルメールを再発見したと言われるフランスの美術評論家 Théophile Thoré-Bürger(1807年~1869年)は、フェルメールが「謎の多い画家」と言う意味で「デルフトのスフィンクス(Le Sphinx de Delft)」と呼んだそうだ。確かに画家としての経歴には謎が多いが、フェルメールの生まれから結婚、親方組合への登録など公文書から彼の事がいろいろ解ってきている。何かにつけて文書を作成し、同意書や契約書として残すオランダは当時からしっかりした国だったのだな・・と別の意味で感心した デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)デルフトの市長舎(Stadhuis van Delft)フェルメールの結婚新教会(Nieuwe Kerk)フーゴー・グローティウス(Hugo de Groot)今回フェルメールが洗礼を受けたプロテスタントの教会と結婚告示した市長舎を紹介。墓のあるカトリックの教会は別の回に紹介予定。なぜ2つの異なる教会が出て来るのか? なぜ彼は改宗したのか? そこにはフェルメールの事情があったのです。市長舎 デルフト(Stadhuis Delft)最初に建物ができたのは1200年頃。その時建物は牢獄だったそうだ。建物は1400年頃に復元かあるいは再建されれているがいつ市役所に転じたのかは不明。1618年に火災で塔を残して全て焼失。当時オランダで有名な建築家ヘンドリック・カイザー(Hendrick de Keyser )により焼け残った中心の塔の周りにオランダ・ルネサンス様式でデザインされた建物として再建される。※ オランダ・ルネサンス? 北方ルネサンスと同じ事かも・・。後で紹介するが、新教会にあるオラニエ公ウィレム1世(Willem I)の霊廟をデザインしたのも彼だそうだ。焼け残った真ん中の塔はかつて拷問室だったそうだ。欧州の歴史の深さには本当に恐れ入る。歴史が複数重なっている所が多いのだ。それだけに面白い 市役所にするにあたり正面に戸口を造るなどいろいろリフォームされたようだ。市長舎1階エントランス・フロアこれもオランダ・ルネサンス様式の内装か?フェルメールの結婚ヨハネス・フェルメールは1653年4月20日にカタリナ・ボルネスと結婚。※ ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)(1632年~1675年)※ カタリナ・ボルネス(Catharina Bolenes)(1631年~1688年)結婚に関する同意書に署名をしたのは画家のレオナルド・ブラーメル(Leonard Braemer)(1596年~1674年)結婚告示をしたのはこの市長舎である。彼はこの結婚を機にプロテスタントからカトリックに改宗している。理由は結婚の条件にカトリック教徒になる事が入っていたからである。実は彼の結婚は障害だらけだったのだ。前年1652年10月に父レイニールが突然亡くなり、彼は居酒屋兼宿坊のメッヘレン(Mechelen)を20歳で引き継ぐが実状は借金だらけだった。彼自身が親方登録をするのは結婚した年(1652年)の10月であり、画家としても収入があったのか不明。莫大な借金をかかえ、かつプロテスタントとあっては富裕な家の娘である妻の母が大反対するのは最もな話だ。義母マリア・ティンス(Maria Thins)と交わした結婚の同意書の中の条件に「私は彼らの結婚の告知に同意はしないが我慢する。」と言った内容が含まれていたそうだ。さらに中には妻と共に彼の父が残した借金250ギルダーの保証人を肩がわりする事の同意など・・。フェルメールは可能な限り義母の意に添うよう努力した結果やっと認められ、前回紹介したように義母との同居にこぎ着け義母に300ギルダーの借金をしている。市議会室部屋は中心の塔を囲む形で張り付いているようです。「貧乏子沢山(びんぼうこだくさん)」と言う言葉があるが、フェルメールは15人の子供をもうけた。うち4人は出生時に亡くなっている。またフェルメールが多額の借金を残して亡くなった時(1675年)子供11人のうち10人は未成年だったそうだ。経済的困窮で借りたお金は1000ギルダー。借りた5ヶ月後に亡くなり結局妻は破産を申し立てして彼の描いた絵を競売にかけざるおえなくなったと言う。金持ちだった母の方も事情が悪くなり、それでも孫達の為には多少お金を渡したようだ。建物裏新教会(Nieuwe Kerk)塔が建てられたのが1396年~1496年当初はまだ新教がなかったので14世紀にはここは聖ウルスラ(St. Ursula)教会だったようだ。高さ108.75m。上は18鐘のカリヨンが釣り下げられていたようです。新教会になる年代がはっきりしていませんが、ルターの一連の宗教改革の後とすれば1520年以降と考えられる。もっともここはプロテスタントと言えどカルヴァン派の教会でルターの考え方とは多少違っていたようです。ルターの宗教改革は信仰の改革カルヴァンの改革は礼拝様式と教会制度の改革ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)(1509年~1564年)フランス出身の神学者カルヴァンの思想は「職業は神から与えられたもの。よって得られた富の蓄財を認めたと言う。これは当時の商人の支持を集め結果それは資本主義の正当性を認めた形になったのだろう。ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)は1632年10月31日にここで洗礼を受けている。何しろ彼の生まれた生家「空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)」は教会のほぼ隣なのだから。入り口はものすごくシンプルたぶん元の聖ウルスラ教会時代この戸口の上には聖人を形どったティンパヌム(tympanum)が付いていたはず。なんとなく取り払われた感が見える。マルクト広場新教会前のフーゴー・グローティウス(Hugo de Groot)の像フーゴー・グローティウス(Hugo de Groot)(1583年~1645年)オランダの法学者で国際法の基礎を造った人。「自由海論」では海は国際的な領域と定義したが以降海事法の整備が進む。何しろオランダは当時海運国で攻勢した国である。オランダ東インド会社は東回りルートでアジアから日本にまで及んでいる。スペインやポルトガル、イギリスなど同じく海運で世界に進出していた国と衝突が起き始めていたのだ。彼はオランダ東インド会社に雇われて解決策に頭をひねったようだ。教会内部には彼の墓碑新教会、次回につづくリンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)フェルメールに関してはいかにも書いています。リンク ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレン
2016年09月28日
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オリンピック、連日の快進撃で深夜にテレビが止められないです。最近の選手は幼少期からの英才教育で伸びてきた人達が多い事、またこれも「ゆとり世代」と言うのか? 物怖じしない頼もしい選手が出てきた事。とても嬉しく思います 自分の子供の頃とは教育内容だけてなく物質的な意味でも取り巻く環境世界が変わってきている事も心理に影響しているのでしょうか? スポーツの世界にしても、昔なかった医学的見地や科学的根拠を元に分析され、合理的な練習方法が取り入れられ、みんな納得した練習を積んできている事もあるのかも知れません。何にしても選手個人のガンバリあってこその優勝ですが、今回の選手に特に感じた事があります。彼らの言葉の端々に「責任を持って日本を背負って戦いました」・・と言う強い使命感です。デン・ハーグ(Den Haag) 2 ビネンホフ(Binnenhof)ビネンホフ(Binnenhof)リッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の誕生ビネンホフ(Binnenhof)が政治の中枢になった訳ビネンホフ(Binnenhof)はオランダ議会の国会議事堂だけでなく総理府や外務省など中央官庁の入った政治の中枢になっている場所です。ガイドツアーを申し込むと中の見学が許可されるので行ってきました。A・・・総督の門(通り側) A'・・ネーデルラント王国国王ウィレム2世(Willem II)(1792年~1849年)像 ※ 現王室のオラニエ公祖先B・・・リッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館) B'・・ホラント伯ウィレム2世(Willem II)(1227年~1256年)像 ※ Cゲートを出た所 紫色がマウリッツハイス美術館D・・・ヘット トレンチェ(Het Torentje)(小さな塔) オランダ首相執務室写真は表通り側Aの建物Aのゲート、総督の門A総督の門を入ったリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)前の中庭今でも国家的行事の行われる中庭である。B・・リッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)ビネンホフ(Binnenhof)(中庭)は、もとは中世ネーデルラント(8~13世紀)を支配したホラント伯(graaf van Holland)の領地だった場所。最初は狩猟場だったらしい。晴れの日のリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)ベンチが置かれて市民の憩いの場所にもなっている。リッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の誕生ホフフェィファ(Hof vijver)の池のそばに最初に屋敷を建てたのはホラント伯フロリス4世(Floris IV)(1210年~1234年)。リッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の建設を始めたのがフロリス4世の息子のウィレム2世(Willem II)(1227年~1256年)です。ビネンホフ(Binnenhof)と言えばがリッデルザール(Ridderzaal)を指していると行っても過言ではないこのゴシックの建物は1248年着工。1256年頃一部完成。その後息子のフロリス5世(Floris V)(1254年~1296年)に引き継がれて完成。B'・・ホラント伯ウィレム2世(Willem II)(1227年~1256年)像余談ですが、フロリス4世(1210年~1234年)もウィレム2世(1227年~1256年)も短命なのです。そしてホラント伯(graaf van Holland)家自体がフロリス5世の子供の代で家系は途切れ(1299年)、ウィレム2世の甥が受け継ぎ以降エノー伯爵(graaf van Hainaut)家に代替わりしています。つまり屋敷を造った当主一家は早々に消えたのです。前の中庭から後ろの中庭に繋がるゲート。この次のゲートをでるとマウリッツハイム美術館前に出る。まさに中世のお城と言った造り。実は中世初期の城は建築上窓など開口部もほとんどなく暗いのです。当然窓にガラスなど無い。あって板扉だが昼は開いたままで夜は閉じられタペストリーでカバーする・・と言った感じ。(タペストリーは装飾と寒さしのぎの実用品。ベルギーが発祥ですが、このあたりも必需品。)騎士の城、むしろ牢獄か? と言ったイメージのが強く、お姫様の住むようなファンタジー色は皆無です。中世の建物リッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の見学がここの目玉です。地下はちょっとした資料館で、映像案内などもありますが、日本語はありません。尚、非常に詳しい冊子ももらいましたが、日本語バージョンはありません。上階に上がるとそこはイベントホールとなっています。天井は木造でまるで船底のようです。もともとホラント伯爵家の邸宅であり、このホールは謁見の間であるとか、食堂とか、舞踏場であるとか、各種イベントに使われたであろう場所。この広さが、後々裁判所や予算を決める閣議などいろいろな議事に利用される事になる。現在もビネンホフ(Binnenhof)の中に国会議事堂がありここも国家的イベントで利用される。ビネンホフ(Binnenhof)自体のルーツがこのリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の広間にあるのです。ビネンホフ(Binnenhof)が政治の中枢になった訳そもそもは1428年、オランダとゼーラントがブルゴーニュ公国の支配下に入っていた時に遡る。初期、総督はビネンホフ(Binnenhof)に住居していたのに裁判はブリュッセルで開催されていたらしく裁判の為に毎回遠方まで移動するのが大変だったようです。1464年本来ブルージュで開催される金羊毛騎士団(Golden Fleece)の集会をブルゴーニュ公はこのビネンホフで行った。他にもいろんな招集をかけてここで大会議した。※ 金羊毛騎士団はブルゴーニュ公フィリップ3世(Philippe III)(1396年~1467年)が1430年に提案した騎士団。そして時のブルゴーニュ公はフィリップ3世(Philippe III)自身。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)以来、次期ブルゴーニュ公となった子息シャルル(Charles)(1433年~1477年)(在位:1467年~1477年)も度々ハーグを訪れビネンホフ(Binnenhof)に滞在するようになった事から週3回のペースで議会や裁判がここで行われ、次第に行政の中心がこのハーグに、そしてビネンホフに集まりだしたのだそうです。そして1511年。この大ホールはオランダとゼーラントの最高裁判所となった。因みに当時、このホールは「The Hall of Rolls」と呼ばれていたそうです。その理由は法律上の例と判決が記録された羊皮紙をロール状に巻いた事に由来する。玉座毎年9月の第3火曜日はオランダの国会が始まる日。この日は違う意味で国民が盛り上がるお祭りの日。なぜなら、昔からの伝統にのっとり、オランダ国王が黄金の馬車でリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)の中庭には乗り付け、国会の開会宣言を行うそうでその日はパレードと馬車を見る為に観光客も増えるのだそうです。※ ベアトリクス女王の退位により2013年オラニエ公ウィレム・アレクサンダー(Willem Alexander)が現オランダ国王です。オランダ議会には上院(第1院)と下院(第2院)があり上院が池側の建物。下院が新しい議会ホールを持ったモダンな建物になっています。同じ2院生でも日本とは全く別物。法案の審議や内閣の行動の監視を行っていて優位があるのは下院(第2院)の方だそうです。下院(第2院)にある新議会場中から見ると新旧の建物がガラスを巧みに使って融合されています。下は今回のガイドさんです。名前は忘れました。ガイド・ツアーはビネンホフ向かいにあるProDemos (プロデモス) と言う観光案内所でリクエストできます。新しい方の建物はセキュリティーが凄く全ての持ち物検査の後にロッカーに預けさせられました。カメラもここから先は一切無しです。その代わり現在の議会室なども見学させてもらえました ビネンホフ(Binnenhof)おわりBack numberリンク デン・ハーグ(Den Haag) 1リンク 日本の人口と世界の人口あれこれ (写真 ハーグの街)
2016年08月18日
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話題の「ポケモンGO」が配信。さっそくダウンロード。説明も読んでいないけどとりあえずやってみよう・・と言うわけで手探りで始めました。初日はたいして歩かず家の中だけで数匹ゲット。(家の中だけで4種~6種。人により違った。)炎天下、外に探しに行く気力が出ないけど、たまたまホテルのロビーで大物ゲット。近隣のステーションをさがして立ち寄ればいろいろアイテムがもらえる事がわかり積極的に外出。夜も食後に近所を周遊。結構な運動量。これがダイエットに繋がるなら素晴らしいね 事故ばかりが報道されるけど、ひきこもりで家でゲームしていた人達も外に出始めたらしい。何しろGPSの動きに連動しているから外に出て歩かないと進まない。ゲームの楽しみ方はいろいろできる。たいていはポケモンを育てる事(進化、強化)。チャンピオンを目指して一流のトレーダーになる事を目指す。が、「ポケモンGO」の場合、ポイントの捜索や移動する事による卵のふ化など、歩く事がゲーム進行の必須条件になっていると言う観点から非常に健康的なゲームなのである。(10km歩いた時にメダルがもらえた)先に配信されたアメリカで、運動の嫌いな彼らさえ積極的に外を歩き周り始めたと言うからウォーキングがなかなか続けられない人達の為にお勧めのツールと言えるかも さて、シュテファン寺院は残っていた南塔をささっと終わらせます。リング内で最も高いシュテファン寺院の南塔。そこからはウイーンの街が展望できるのです。シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)南塔(Sudturm)旧市街 リングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)内の景色北側塔よりも高くそびえる南塔。その理由は前回も書いたが、先にできたのがこちらの塔であったからだ。南塔が完成して北塔の建築に取りかかったものの、時代が変わり北塔は最後までの完成を見る事ができなかった。北塔はエレベーターで上階のテラスまで上がる事ができた。しかし、なぜか高い方の南塔の方は徒歩で階段を上らなければならない造りとなっている。1359年。ルドルフ4世が銀製具を使用して礎石。1416年には塔の3階部分に鐘が吊されて鐘楼として使用されていたようだ。1433年に塔の先端に総大司教十字(二重クロス)をかかげで完成。南塔137m。343段の階段で一般に上れるのは67m地点までのようだ。82mの地点に小部屋があり完成より第二次世界大戦までは防衛(オススマントルコの進軍)や消防などの物見塔として活躍したらしい。塔の先端部分だけ遠方から撮影。高すぎて近くから撮影ができない。また遠くても建物が近接している為に塔の撮影が難しいのだ。先端部、小尖塔・ピナクル(pinnacle)のゴシック装飾は遠方からでは解りにくいがかなり凝っているようだ。石のレース彫りのよう。これ以上拡大できないが、先端はかなり細密で「蟹」と呼ばれる石の造花で飾られている。トップには双頭の鷲と大司教十字(二重のクロス)になっているようだ。1862年~64年には修復作業が行われているらしく1860年当時は時計が据えられていたらしい。この時の修復がどの程度だったのか解らないが、塔は安全を考慮して組み治されていると思われる。また外壁も石の細工物が破損して落ちてきたら大変な事故になるので安全対策はできているのだろう・・。たぶん・・赤色ラインが北塔のテラス位置。黄色の囲みが南塔の展望室部分オレンジが塔に上る螺旋(らせん)階段部分狭い螺旋の階段が続く。教会の塔はどこもこうであるが、ここは比較的すれ違いがしやすい方。たいてい登りと下りが一つしかなくてスリムな人、一人しか通れない、すれ違い不可の塔もある。展望室までの階段の終わり部分螺旋の壁には魔除けのゴブリンの顔が付いている。階段のある塔の屋根部分北塔と違って南塔の展望室は屋内である。しかし、それだけに外を眺める窓はとても小さい。でも見える景色の高さを考えるとこちらの方が価値はある。また下の地図を見てもらえばわかるがリングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)の中に位置したシュテファン寺院。もろもろ観光スポットは南塔の側に位置しているのだ 展望塔のど真ん中に売店光が強すぎて写真が綺麗に撮れません 階段に繋がる出入り口上に登る階段もあるが、一般はここまで。後は下に降りるだけ。旧市街 リングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)内の景色ウイーン市内、特にリング内の地図 (上が北)水色・・リングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)(ウイーン旧市内の環状道路)赤色・・シュテファン寺院A・・・北塔方面B・・・教会入り口ミナレットのある側。そちらにはグラーベン通り(Graben Straße)とペーター教会C・・・王宮方面と王宮の向こうに自然史博物館と美術史美術館の建物。D・・・ケルントナー通り(Kärntner Straße)の終わりにウイーン国立歌劇場。さらに左にカールス教会。※ 東の景色は載せませんでした。A・・・北塔方面正面に見えるキャップは北塔の屋根。この屋根の右下方に双頭の鷲がデザインされた屋根瓦があるはず。B・・・教会入り口 ミナレット。左にグラーベン通り。中ほどにペーター教会グラーベン通り(Graben Straße)は今やウイーンの中心のショッピング街。しかしグラーベンは堀を意味する言葉で、大昔はそこがお堀の跡だったらしいのだ。※ 以前紹介した「ウイーンの高級食材店 ユリウス・マインル(Julius Meinl)」が突き当たりにある。C・・・王宮方面と王宮の向こうに自然史博物館と美術史美術館の建物。王宮が割と近い。濃いピンク矢印右・・・王宮ピンク矢印右・・・自然史博物館ピンク矢印左・・・美術史美術館D・・ケルントナー通りの終わり、リングとのコーナーにウイーン国立歌劇場。さらに左にカールス教会。黄色のライン・・・ケルントナー通り(Kärntner Straße)赤色のライン・・・グラーベン通り(Graben Straße)青矢印・・・ウイーン国立歌劇場黄矢印・・・カールス教会(Karlskirche)リングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)内に高い建物は無い。高いのや近代化されたビルはリングの外側。昔の建物を利用して近代化されているからウイーンはほのぼの落ち着くのかもしれない。ところでシュテファン寺院には聖書の代わりになるステンドグラスは見あたらなかった。壊れてそれ以降修復されていないだけかもしれないが、それに代わるものが柱に多数据え付けられていた。それが聖人達の彫像である。識字率の低かった当時、司教達はイエスや使徒、また諸聖人達の功績や教えを像を見ながら人々に語ってきたそうだ。最もその像はほとんどが市民からの寄贈品。崇敬する聖人の名前を自分の子に付けるなど深い信仰心を持った人達に教会は支えられてきたのだ。プロテスタント運動が起きてカトリックは否定されたが、オーストリアはカトリック信仰が根強くこうして歴史的財産が多数残されたのだろう。シュテファン寺院(Stephansdom) おわりBack numberリンク シュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)
2016年07月24日
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EU離脱投票の直前に「ポンド買いに走るミセス渡辺」の動向が取りざたされていましたが・・。予想がはずれEU離脱となり結果「ミセス渡辺」は大損して追い証が発生していると聞きました。今や世界で注視されるようになった「ミセス渡辺」とはFXのトレーダーで、しかも個人でなく日本の主婦層のトレーダーに付けられたニックネームです。そもそもFXとは「Foreign Exchange(外国為替証拠金取引)」の事で外貨の日々のレートの差で儲ける投資法の一つです。株のトレードと異なり少額で、またそれほど経済の知識がなくても手が出せるお手軽さと、一般家庭へのインターネットの普及により急速に人気の出て来たジャンルです。それにうまくヒットしたのが育児の片手間にお小遣いかせぎ・・と言う日本の主婦層です。個の取引は少額ながら日本の主婦のトレーダーの数が今や世界に少なからぬ影響を与える動きをしていると言う意味で時々「ミセス渡辺」の活躍が取りざたされるようになりました。ただ、FXが怖いのは少ない資金で何倍ものお金を投資できるレバレッジと言うシステムです。自己資金の最大25倍までの取引が可能な美味しさ。反面、失敗すればそのお金をすみやかに返金しなければならないと言う失敗時の大きなリスク。(リーマンショック前は100~500倍の取引ができた。現在は金融庁の指示で2011年から25倍に下げられた。)そう言う意味も含めて、金融商品としてのFXはかなりギャンブル性が強い取引の一つだと思います。離脱直後にポンドが160円から130円に・・と私も書きましたが、お金をかき集めてポンドを買っていた「ミセス渡辺」は今とんでもない自体に陥っている・・と言う事です。しかし、今は鳴りを潜めても再び別の「ミセス渡辺」の一群が世界に出てくるのだろうな・・。「日本の主婦パワーを嘗めるなよ。」・・と、ちょっと楽しみです シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)ミセス渡辺北側塔のテラス今回はシュテファン寺院に建つ二つの塔の一つ、北側の塔の紹介です。「シュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)」でも少し紹介していますが、通常同じ高さになるべき尖塔が、諸事情によりシュテファン寺院の場合は高さが異なっているのが特徴です。とは言え、現在その性格がうまく生かされて見所となっています。シュテファン寺院を北側から撮影正面入り口は写真右方面。見える塔が北側の塔(68m)。奧のとがっているのが南塔(137m)。北側の塔正面から撮影。こちらからも入れるようです。最初に南塔が礎石され完成(南の尖塔は1433年完成)。その後に北塔の建設が始まる。1450年に礎石されたが最初から建築にトラブルが続いた。途中で建築が中断され1511年ほぼ現在の高さ(68m)で建築はストップ。その事情は度重なる戦争や資金不足などが大きな要因。わずかにフェンスが囲われているのが見える。飾りが加えられるべきスペースが今は展望テラスとして利用されているのだ。ある意味良かったのかもしれない。もし南塔のように完成していたら展望テラスは造れなかったからだ。プンマリン(Pummerin)1578年に現在のルネッサンス様式の天蓋が加えられ、鐘は近年その下に据えられた。プンマリン(Pummerin)・・・吊り下げの鐘。と呼ばれるシュテファン寺院最大の鐘。現在の鐘は1951年にリンツ近郊セイント・フロリアで鋳造されたもの。重さ21110kg。3.14m。最初の鐘は南塔の方に1711年から1945年まで下げられていたもので、材料は1683年2回目のオスマントルコ帝国の包囲網の時に残された大砲化から鋳造されたものらしい。(18.317kg)西ヨーロッパで2番目か3番目に大きいらしい。Pummerin(吊り下げの鐘)が下げられている尖塔部は、実はガラス貼りになっている。低い北側の塔はエレベーターでの昇降ができる。(南側の高い方は徒歩のみ)エレベター降り口からは鉄柵とステップが組まれている。高所恐怖症の人はどうかな?北塔の上部。もとは南塔と同じ高さになる設計だったようだ。北塔は1450年8月、前回紹介したフリードリッヒ3世(Friedrich III)(1415年~1493年)により礎石された。北塔の基礎は捨てるほどにまずかったと言うブドウ酒を石灰に混ぜて使用したらしく、その後基礎を強固にする為に17年間も放置したと言われている。実はフリードリッヒ3世はものすごい倹約家。戴冠式と結婚式をローマで同時に行い旅費も無心すると言うドケチ。「ストレートでワインを飲んだ妻を怒った」とウワサも流れたとか・・。あまりにも酸っぱくて捨てるべきワインを利用した・・と言う話もまんざらウソではなさそうだ。しかし、工期のスタートが遅延した理由はコンスタンチノープルの陥落、オスマントルコによりウイーン占領など現実的に工事ができなかった当時の社会情勢などが直接の要因かも・・。塔は何度が後世その高さへの継続が試みられたらしいが、お金もかかるし、人々の関心が薄れた事にもあるようだ。北側の塔なので東、北北西までしか見渡せないが、展望デッキとしては素晴らしい眺めである。何にしても旧市街には大きなビルが無いので絶景である。北塔からの見所は、景色だけではない。実は寺院を被う屋根が素晴らしい。そしてその高さは場所により北塔を越えている。勾配は64度。場所により80度。1945年の火災で旧木造から鋼鉄に移行。技術革新された屋根となっている。現在の屋根は605トンの鋼鉄と1個2.5kgの屋根瓦230000個でなっている。恐ろしい勢いで雨が落ちるので瓦の掃除が一気にできてしまうらしい その独特な幾何学模様の柄はサラセン人(中世のイスラム教徒の総称)の絨毯を模してデザインされたと言われている。確かにアルカサルにこんなデザインのタイルがあった気がする。北側の屋根にはカラー瓦で1950の年号入りのウイーン市と第二共和国の紋章が入っている。反対側には1831の年号入りで、フランツ1世を示す「F・I」の入ったオーストリア帝国紋章(双頭の鷲)があるが、写真は撮っていませんでした。南塔は開口部が少ないのでかなり意識して無理しないと撮影できない場所なのです。1950とは、大聖堂修復で新たな屋根瓦をふいた年号らしい。聖堂内陣裏側からの北塔。下はカタコンベ入り口「モーツァルトの墓地がうやむやになった諸事情」で触れたシュテファン寺院のカタコンベとクロスチャペル(Kreuzkapelle)の入り口。大聖堂真下の旧墓所。マリア・テレジアが1754年~55年にかけて拡張。カタコンベの中央にはルドルフ4世の石棺他15の棺が置かれているそうだ。日に1度ツアーがあるらしいが、今回入っていないのです因みにマリア・テレジアの墓所はここではありません。以前紹介している「カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)1~3」を見てね。カタコンベに隣接するカピストラーノ説教壇との間にバロック様式の彫像。1738年フランシスコ会修道士が造らせたもので、1456年にオスマン軍との戦いで殉教したフランシスコ会の聖人を神聖化した像だそうだ。オーストリアがプロテスタントに侵されていたらこの像は破壊されていた事だろう。聖堂側真裏から次回、南塔を紹介リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)
2016年07月09日
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参議院選挙が近いですが・・。池上先生の番組を見ながらやっぱり参議院は今の時代にいらないな・・と思いました。簡単に言えば衆議院の暴走を防ぐ為に一般の有識者が監視する・・と言うのがそもそもの参議院の役目。その為にいろんな職業の見地から考察してもらうのがベスト。でも今はインターネットのつぶやきなどからでもみんなの声を簡単に届ける事ができる。(もちろん英国のような国民投票(直接の声)は逆に情に流されて本質を見失う危険があるが・・。)昔と違って現在は、情報ツールの発達により皆の意見を国会に届ける所作に関して言えば参議院の力を借りる必要は無くなったと言える。そして発足当初と理念がかけはなれたのが比例選挙の導入だ。池上先生によれば参議院は政党に左右されない為に議員はどの政党にも属さない事が好ましかった。しかし比例選挙が導入されてから政党入りした方が無所属より議員になりやすくなった。何しろ比例の名簿の上位に自分の名前を入れてもらえれば、ぶっちゃけ自分は選挙運動などしなくても議員になれるシステムだからだ。例えば元首相であった民主党の菅直人氏は個人では衆議院選挙に落ちたのに比例で当選している。皆から「No」と言われたのにずーずーしくもまだ国会議員になっていると言う現実だ。比例選挙に関して言えば、「候補者個人を投票したい人」と「政党で選び投票したい人」のどちらか一つの選択にすれば良いのに・・と思う。話はそれたが、参議院は定数242議席。解散は無し、3年毎に半分の121人が入れ替えで任期6年。中身も無いのに知名度の高い事だけを理由に推される昨今の各政党の候補者。また衆議院に落選した人の鞍替え。よく解らないタレント議員も多すぎる。やっぱり給料分と3年毎の選挙にかかる諸経費(国家予算)がもったいないなーと思う 加えて言えば職業無職で議員を主の収入源にしている議員はどうかと思う。給料無しのボランティアにしたら議員になりたい人は半分以上いなくなるのではないか?さて、前々回途中になっていたシュテファン寺院の内陣を紹介。行った気になるように写真選んでいます シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)モーツァルトの墓地がうやむやになった諸事情フリードリッヒ3世(Friedrich III)の墓所今回は半分から上の部分です。寺院の中ほどからの内陣方面図の右の円の礼拝堂(カタリーナ礼拝堂)モーツァルトの墓地がうやむやになった諸事情礼拝所の入り口脇にはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)に関する石版があった。彼は1782年この教会でコンスタンツ・ウェーバー(Constanze Weber)と結婚。1791年クロスチャペル(Kreuzkapelle)で聖餐式(せいさんしき)が行われた・・と書かれていた。つまり彼は死後にこの教会の地下墓地のチャペルで正式に天に召される儀式(葬式)を終えていたのだ。18世紀半ば、教会に付属していたシュテファン墓地が満杯になり閉鎖された。シュテファン寺院内のカタコンベも満杯になり、近所の家々の地下に墓地が造られ始めたと言う。(30年の間にそこに11000人が葬られたと言う。)当局は衛生面でも問題を感じていたのだろう。生者と死者を分ける対策がとられる。1783年にヨーゼフ2世がウイーン市内での埋葬を禁止し、当然シュテファン寺院内での埋葬も禁止。よってこの教会に葬られる事は無くなり、おかげで彼の体はウイーン郊外まで運ばれた。ザンクト・マルクス墓地(Sankt Marxer Friedhof)が彼が運ばれた墓地である。墓地改革の当初。墓地にマークする事も禁じられたと言う。もしかしたらモーツァルトの死はそんな時代で、運が悪かったのかもしれない。彼の遺骸は墓堀り人夫により他と一緒くたに埋められて解らなくなってしまったからだ。(その条例は聖職者と市民の抵抗で後に解除された。)※ 2009年12月5日「ウィーン中央墓地 3 (B と S と M の 墓所) 」でモーツァルトの墓碑を紹介しています。カタリーナ礼拝堂(洗礼堂)ゴシックのカタリーナ礼拝堂は北塔のホールの下。現在は洗礼堂。1476年~1481年に造られた見事な洗礼用の水盤が置かれている。素材はザルツブルグの大理石。聖カタリーナを祭った祭壇。聖カタリーナは学者と大学の守護聖人だそうだ。司教座聖堂参事会員の為の内陣席使徒の廊(右翼)、突き当たりがフリードリッヒ3世の墓所フリードリッヒ3世(Friedrich III)の墓所中央にあるのが神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世(Friedrich III)(1415年~1493年)(皇帝在位:1452年~1493年)の棺。数多くの教会や修道院を建設。バーベンベルグ家のレオポルド3世の聖人認定など奔走し1469年にはシュテファン寺院をウイーン司教区に認定させた。また彼は教皇から戴冠された最後の皇帝だそうだ。3段仕立ての石棺型の墓石は8トンあるそうだ。墓石デザインをしたのは当時一流の彫刻家。オランダ人の彫刻家ニクラス・ゲルハルト・ヴァン・ライデン(Niclas Gerhaert van Leyden)(1473年没)彼はこの石棺上部の蓋(ふた)を自身で製作。その写真が壁にかかげられている下である。皇帝自身の彫像の形になっている。ウイーンがハンガリーに占領されていた時代、上のふたはヴィーナー・ノイシュタットに疎開していたらしい。蓋は皇帝存命中から製作され、亡くなる直前にウイーンに戻されたと言う。欄干の台座には12使徒の像やフリードリッヒ3世が行った宗教的関係のものが彫刻されモニュメントとなっている。彫り師はマックスファルメットとミヒャエル・ティヒター。今日の調査で確かにフリードリッヒ3世はここに埋葬されているそうだ。中央祭壇左翼 女性の廊にある ヴィーナー・ノイシュタットの祭壇もとはヴィーナー・ノイシュタットのシトー会のベルンハルト修道院の為に制作されたものだったらしい。制作年1447年。1883年に祭壇はシュテファン寺院にもたらされた。フリードリッヒ3世が寄進した祭壇と考えられ、聖遺物箱にもなっているそうだ。木彫りの彫像の立体レリーフ仕立てになっている。中央祭壇ウイーンで最初に造られた初期バロック様式の中央祭壇15mの高さを持つ祭壇画はキャンパスでなく、錫(すず)版に描かれているらしい。1647年に聖別された祭壇は領主司教であったフィリップ・フリードリッヒ・ブロイナー伯の依頼でコンスタンツ出身のヨハン・ヤコブとトビアスのポック兄弟によって製作。図像学的に天に向かう視線で造られている事も踏まえて「天空の門(Porta coeli)」タイプの祭壇に分類されるそうだ。次回北塔予定 リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)
2016年07月03日
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写真追加しました。Break Time(一休み)英国のEU離脱の失敗 ・ ウェストミンスター宮殿ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)エドワード懺悔王とウエストミンスター寺院とウェストミンスター宮殿英国の国民投票でまさかのEU離脱が決定した。世界は震撼。直後英国ポンドは160円から130円に下落。当然ユーロもドルも降下し1ドル100円を割れた。週明け月曜は少し反発したものの、英国離脱後のEUの事、英国の事を思うと先行きは確実に悪い方に進むだろう。金曜にドルとユーロを少し購入したが、これから半年先にはもっと落ちているのではないかと予想される。(個人的にはユーロは100円割れて発足最安値の88.87円を切るのでは? と思う。)EUの窓口として英国に会社を開いている邦人は約1000社。他の諸国の会社も含めれば数千社ではきかない会社が進出していると予測。それが英国EU離脱となれば彼らは英国にいる意味が無くなる。他に窓口となる国を探して英国を去る会社は続々出て来る事だろう。実際、一部銀行ではすでに英国から他のEU諸国への移動の可能性が示唆されている。(逆にEUで働いていたイギリス人はみんなクビになり本国に戻って来る事になる。)移民に自分達の職を奪われる・・どころかもそも働ける会社そのものが消える・・と言う結果だ。それ故本当の経済危機はこれからじわじわ始まって行く事になる。また、この泥船から降りるべく、スコットランドや北アイルランドが独立する可能性が再浮上。彼らは独立してから独自にEUに入りなおしたいと言っている。そうなれば「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」ば完全な崩壊となる。つまり英国のアイデンティティ(Identity)も失う結果となるのだ。今回EU離脱派の票はたった1700万。実際、高齢者に離脱派が多く若者は残留派が多かった。意味も判らなく投票した高齢者に対して、将来を真剣に考えた若者は当然残留である。なぜなら今までのようにEUに加盟していればEU内から職場を選ぶ事が可能だったのに離脱すれば若者は英国内だけにしばられる事になるからだ。(グローバル化の時代に働き口はドメスティックに退行)一票は一票であるが、高齢者の票はこれからの未来ある若者の職を奪った事になる。(これから若者のイギリス離脱も進むかもしれない。)政治は30年先を見据えて動くものだ。だから30年先に生きている人達の票がもう少し重視されなければ・・と思う。「私には私の将来を決める選挙権が無かった。」14歳のイギリスの女の子が言った言葉だ。一言コメントのつもりが長くなったの今回は予定変更してイギリスの国会議事堂であるウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)の写真を紹介する事にしました。(写真は2013年5月のものです)ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)ウエストミンスター橋とウェストミンスター宮殿ロンドン・アイからのテムズ(Thames)川とウェストミンスター宮殿生憎ゴンドラの順番を待っているうちに天気が激変。調度トップでドシャブリになる・・と言う悲劇 写真はかなり明るめに調整しています。(写真はテムズ川の上流方面です)赤い矢印・・ウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)そもそもなぜ国会議事堂と呼ばずにウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)なのか? それは、もとが王宮だったからです。写真では宮殿の後ろ(実際は宮殿の正面)に王室礼拝堂であるウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)がありますが、先にあったのは寺院です。エドワード懺悔王とウエストミンスター寺院とウェストミンスター宮殿ウエストミンスター寺院の設立は正確にはわかっていないが7世紀には教会が存在していたとされる。エドワード懺悔王(Edward the Confessor)(1004年頃 - 1066年)は1050年頃ノルマン様式でもとあった教会を再建。同時期に居城をウインチェスターからウエストミンスターに移し城を建設。(城は少しずつ拡張。)※ 参考に以前「ロンドン(London) 4 (タワー・ブリッジ 1)」で紹介しましたがイギリスの宮殿史です。1049年~1530年 ウェストミンスター宮殿 (要塞としてのロンドン塔も王の居城としては1625年まで使用されているが宮殿には含まれていない)1529年大火が発生し宮殿移設1530年~1698年 ホワイトホール宮殿1702年~1837年 セント・ジェームズ宮殿 1837年以降 バッキンガム宮殿エドワード懺悔王(Edward the Confessor)の「the Confessor」は告解者とか証聖者と訳した方が解りすい。幼少期から修道士と共に生活していた彼は純粋に信仰心を持っていた王だったようです。罪を悔い祈るだけでなく、国家の為、慈善事業に力を入れ、ウエストミンスター寺院を再建し、イングランド教会とローマ教皇との間の関係改善をも行っている。修道士のような志を持った王者? 崇敬されるべき王は聖人認定され「the Confessor」が付いた。(列聖は1139年?)歴史ではノルマン・コンクエストを果たしたウィリアム1世(William I)(1027年~1087年)の名がよく上がるが、彼はエドワード懺悔王の甥でもともとノルマンデイー公だった。ノルマン人がイングランドに迎え入れられたのはエドワード懺悔王の功績が最初にあったからと言える。※2013年「ロンドン(London) 8 (シティの紋章)」や「ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)」を合わせて読んでもらえるとロンドン経済の成り立ちが解ります。リンク ロンドン(London) 8 (シティの紋章)リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)何度も火災や爆撃で宮殿は崩壊している。最初の火災は1529年。この時の王はヘンリー8世(Henry VIII)(1491年~1547年)1530年、トマス・ウルジー枢機卿から取り上げた屋敷(ヨーク・パレス)を手にいれ宮殿を移設。(ホワイトホール宮殿と改名され1530年~1698年まで利用された。)ウェストミンスター宮殿図解青い矢印は川の流れの方向。最初の写真とは反対が宮殿正面。建物は右の川上が上院。川下が下院になっている。左オレンジ・・ビツグ・ベン手前黄色・・ウエストミンスター・ホールホール後ろ水色・・下院会議場右端緑・・・ヴイクトリア・タワーその左ピンク・・上院会議室ウエストミンスターから宮殿は移動したが、もともと王立裁判所としても利用されていた。1394年~1401年に改築されたウエストミンスター・ホールは初期の議会の会議場になっていた。また見て解るようにこの宮殿はシンメトリーではありません。実は正面から宮殿の全景を入れるのは不可能なので分割されています。宮殿正面右 ビクトリア・タワーからウエストミンスター・ホール横下院入口 上院側の翼ビクトリア・タワー 104m 中は議会の記録文書が保管。19世紀にイギリス政府はコンペ形式によって、新国会議事堂の設計。外観はテムズ川対岸からの眺めに重点をおきながら威厳のあるファサードが構築されている。上院側正面に立つ像はジョージ5世(George V)(1865年~1936年)彼はウエストミンスター憲章(1931年)においてイギリス連邦の君主の立場を象徴と正式に認めた王である。また貴族院独断の議会にも一石を投じている。現代の議会の父と言える存在。リチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)像彼については2015年「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)」を見てね。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)左がウエストミンスター・ホールで下が下院のゲートになっていた。実はこの時にイギリス議会の会期中で宮殿前の道路は完全封鎖され、マスコミや警官がたくさん出ていました。ウエストミンスター・ホール 宮殿の最古に近い部分。1097年~1099年に建築。できた時は当時のヨーロッパで最大のホール。この屋根であるが、オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)(1599年~1658年)の首が25年間もさらされたと言う曰く付き。時計塔ビッグ・ベンビッグ・ベン(Big Ben)については2009年に「ビッグ・ベンと国会議事堂」で書いています。さてさて、本当にEUを離脱したら長らく続いた大英帝国の偉功(いこう)も全て消え失せてしまう気がする。イギリス国民は何ておろかな決断を下したのだろう。最後に晴天の宮殿とビッグ・ベンの写真を載せました。ロンドンはネコの目のように天気が変わりました。おわり※ テムズ川についてはロンドン・シリーズで紹介しています。以下以外にもロンドンは幾つか書いています。リンク ロンドン(London) 1 (テムズ川)リンク ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)リンク ロンドン(London) 3 (テムズ川に架かる橋 2)リンク ロンドン(London) 4 (タワー・ブリッジ 1)リンク ロンドン(London) 5 (タワー・ブリッジ 2)リンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)合わせてテンプル教会の起源であるテンプル騎士団について、ロンドン、シティにあるテンプル教会が本部となっていたのです。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会) テンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)の末路についてこちらで解説しています。リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)そもそも「十字軍遠征」とは何だったのか? について書いた章も付け加えました。リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)
2016年06月29日
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アウグスブルクの司教座聖堂を終えて、思い出したのがウイーンの司教座聖堂です。まだ紹介していませんでした 前々回、大聖堂が必ずしも司教座聖堂ではないと書きましたが、今回のは間違いなくDomです。日本では昔からシュテファン寺院と訳されてきましたからタイトルもそうしましたが、「シュテファン大聖堂教会管理局」の日本訳によれば「司教座聖堂ウイーン聖シュテファン大聖堂」となっていました。また、ウィキペディアによれば、「ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は、1359年に65年がかりで南塔が完成。」と書かれていますが・・。実際、シュテファン聖堂の歴史はわかっている時点でもオーストリアがまだ辺境の地であった12世紀に遡ります。あるいは、もっと古く、ローマの砦があった時代に異教の教会と墓地がここにあったのではないか? とも考えられています。それは聖堂入り口のリーゼン門の下から集団墓地らしき遺構が見つかっているからだそうです。(シュテファン大聖堂教会管理局発行の本より)何にしても教会の歴史の層は深く、比例するように教会の中の雰囲気にも現れている気がします。それは第二次世界大戦での大きな被害とその後の再建にもかかわらず・・です。さて、写真は2年前の撮影です。枚数がかなりあり写真の仕分けに時間がかかって随分お待たせいたしました m(_ _;)mシュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)バーベンベルク(Babenberg)家の教会教会建設史(簡略)元、ピルグラム(Pilgram)の大説教壇司教座聖堂ウイーン聖シュテファン大聖堂(Stephansdom)地下鉄シュテファンプラッツ(Stephansplatz)駅から地上に出たあたり南西側から撮影。写真の塔は南塔にあたる。南の尖塔の高さは137m。バーベンベルク(Babenberg)家の教会そもそもウイーンはもとはケルト人達の入植地。それは後に古代ローマの軍事基地となり宿営地ウィンドボナ (Vindobona)となったのが起源である。そこに辺境伯バーベンベルク(Babenberg)家が1155年に首都を移した事により発展。それを遡る事1137年12月26日。パッサウ(Passau)司教区の司教レギンマールとバイエルン公であり、時のオーストリア辺境伯であるバーベンベルク(Babenberg)家のレオポルド4世(Leopold IV)(1108年頃~1141年)との間でマウテナー契約が交わされる。簡単に言えば土地の交換を行いバーベンベルク(Babenberg)家はウイーンに進出。同時に将来司教座の置かれる教会建設を約束された。記録に残る最初の教会が建つのは1137年12月26日となっているが実際は未完ながら1147年に部分的な聖別式がパッサウ司教により行われている。当初の教会は「公爵の教会」と言う体であったようだ。※ パッサウ(Passau)は739年に司教座が設置された由緒ある司教区。そこにも聖シュテファン(独)を祀ったStephansdomがある。それ故か? 「司教座聖堂ウイーン」と「司教座聖堂パッサウ」との名前の判別が必要なのは・・。教会正面は正確には北北西にあたる。カトリック的でない正面二つの塔(ミナレット)はハイデン塔(heidnisch)と言うらしい。意味は「異教の塔」だとかリーゼン門 1230年~1250年に建造1250年、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世(Friedrich II)(1194年~1250年)がウイーンを訪問する時に整えられた門らしい。とは言え、これが現在の教会の中でも最古の部分。聖堂内から入り口(リーゼン門)方面を見た所。入り口の上は2階桟敷席。写真から見えにくいかもしれないが、鉄柵が据えられている。ミサの時は観光客は中に入れないようです。手前 ↑ が正面リーゼン門ブルーのNが北の尖塔(聖堂内部からエレベーター) Sが南の尖塔(堂外から階段)グリーンのラインは使徒の廊中心グレーが内陣に続く身廊イエローのラインは女性の廊ピンクで囲ったアルファベットは全て祭壇教会建設史(簡略)1147年(第一期)ロマネスクの聖堂が建設。間口26m×長さは83m。1230年~1245年(第二期)当初の土台を全て取り払って後期ロマネスクのバシリカの聖堂で再建が始まる。「めざせ司教座聖堂」で皇帝の席や公爵の桟敷席なども設けられたと言う。1263年4月に聖別。※ バーベンベルク家はフリードリヒ2世(1211年~1246年)の代で男系が絶えて後に断絶。1304年~1340年(第三期)ハプスブルグ家のアルブレヒト2世(Albrecht II)(1298年~1358年)が3つの後陣を持つゴシックのホール式の聖堂を建設。(ハイリゲンクロイツのシトー修道会の聖堂がお手本)父アルブレヒト2世が没しオーストリア公になったルドルフ4世(Rudolf IV)(1339年~1365年)は西の礼拝堂を建設。1359年(第四期?)にはルドルフ4世自ら礎石を置いてゴシックでの教会の増築を開始。1361年には聖コロマンの石が司教の門に埋め込まれ、同じ年に側廊壁の建築が開始。ロマネスクの聖堂をすっぽり囲う形で外側にゴシックの外壁が完成すると1430年。ロマネスクの長堂側壁は撤去された。ルドルフ4世が銀製具を使用して礎石した南の尖塔は1433年に完成。(彼の死の68年後)北の尖塔の礎石は1450年。しかし建設が開始されたのは17年後の1467年。そして当初南の尖塔と同じ高さになるはずだった北の尖塔であるが1511年ほぼ現在の高さ(68m)で建築はストップ。(何度かトライはあったものの16世紀初頭に塔の建築は中止された。)1469年、ウイーン司教区に認定。1631年、ウイーン司教が侯爵司教(Fursterzbischof)の称号を得る。(神聖ローマ帝国の侯爵を兼ねた領主司教となる。)1647年、領主司教のもとでバロックの祭壇が完成。1677年、堂内のバロック化が進む。1723年ウイーンが大司教国に認定され、シュテファン寺院は管区の大司教座聖堂となる。内陣方面(柵の手前から撮影)元、ピルグラム(Pilgram)の大説教壇(15世紀後半)かつては「ピルグラムの説教壇」と呼ばれていたが、近年の研究でアントン・ピルグラム(Anton Pilgram)の作品ではない事がわかったらしい。よって今はただの大説教壇である。台座には飛び出すようにローマカトリックの4人の教父が彫り込まれている。写真左 聖アウグスティヌス 写真中 聖ヒエロニムス 写真右 聖アンブロジウス他 聖グレゴリウスまるで石をレース編みしたかのような細かい細工。台座には作者の自画彫像も彫られている。いったい誰だか解らないが素晴らしい作品であるのは間違いない。通常は触れる事も禁止であるが、待降節と四旬節。それに毎月第一金曜日には説教の為に使用されているらしい。とにかく広い。そして天井が非常に高い。他の教会とスケールが違う。身廊右側・・・使徒の廊柱と言う柱は祭壇になっているし、側廊はもちろん壁にも・・。F ヨセフの祭壇(聖堂中ほど右)1699年アントン・ショーニアンス作E 女性の祭壇(聖堂中ほど左)陽光のマリア 1470年~1480年頃の作品。なぜか聖母は三日月の上に立っている。聖母の頭上に天使が運んでいるのはハプスブルグ家の王冠だそうです。調度このあたりで教会の真ん中あたり。入り口方面を再び撮影。次回、内陣、そして北と南の尖塔に続きます。全3回くらいで行けるかな・・。終わったらデルフトを予定しています。リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)
2016年06月21日
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ゴシック時代(12世紀~16世紀初頭)になると司教座聖堂はその都市の成功を示す建物として競って壮麗に建てられたようだ。(他には負けられない。)それ故、教会建築に携わる石工ギルドや絵師のギルド、彫刻のギルドなど最高の職人による最高の技術が結集され自慢の一品に仕上げられたのである。つまり司教座聖堂はその都市のただの宗教的なシンボルではなく、その都市の力が具現化されたエンブレム(emblem)に他ならないのだ。アウグスブルク 9 (司教座聖堂 2 ロマネスクのクリプト)ロマネスクのクリプト(crypt)墓地プレートの回廊(Cloister)忌中紋章・ハッチメント(Hatchment)さて、今回紹介するのは司教座聖堂の西側部分である。今まで見た中でこんな変わった形の教会は見た事が無い普通の教会であれば入り口にあたる部分に、この教会の場合もう一つクワイヤが存在していたのだ。そしてさらにその下に古いクリプトが・・。残念なのは資料が十分になく年代が特定できない事。何度もこのあたりで教会が取り壊されては再建されたり増築され、発掘中に発見された基礎が利用されたりで調べて見て訳がわからなくなりました (教会自体の入場は無料。よって教会の資料は無し。売店も無し。)前回紹介した内陣側から身廊の後方を見た所。普通の教会であれば、そこには入り口とパイプオルガンがあっても良い場所だ。クワイヤがあり、一見こちらが正規の聖堂にさえ思える。ここは1325年~1343 年に再建されたらしい西のクワイヤ(聖歌隊席)。つまりロマネスク時代のこのチャペルの内陣は今と反対側にあったと言う事が図からも示されている。そして気付いて欲しいのがクワイヤの下部に地下クリプトの入り口が開いている事。前回の地図の一部 今回紹介するのは教会の下部(西側)黄色の★は前回紹介した現在の内陣。今回紹介するのは黄色の基礎の部分。カロリング・チャペル。A・・身廊B・・クリプト(crypt)(上は西のクワイヤ)C・・壁画のある側廊(かつては翼廊)D・・棺と歴代の司教の肖像がかけられた側廊E・・回廊の廊下は墓地?M・・聖アフラ アウグスブルク 教区博物館(Diozesanmuseum St Afra Augsburg)ロマネスクのクリプト(crypt)ロマネスク時代の半地下の礼拝堂で聖者や殉教者の遺骨を納めた場所と考えられる。つまり地下墓所なのだ。一番奥には古い聖母子の像が祀られていた。ロマネスク時代の作と思われる美しく慈悲深い聖母像。これは見るからにお宝品。見ているだけで癒やされるお顔ですC・・壁画のある側廊(かつての翼廊)1491年 フレスコの絵は幼児キリストを背負うクリストフォロス( Christophorus)クリストフォロス( Christophorus)本名はレブロス。「幼児キリストを背負った者」として改名。絵は伝承にのっとりレプロブスが持っていた杖を地面に突き刺すと杖から枝と葉が生え巨木となったと言う逸話よるもの。D・・棺と歴代の司教の肖像がかけられた側廊ウルリッヒ・チャペル(Ulrichskapelle)の発掘中に見つかったカロリングチャペルの北側翼廊。教会に隣接する回廊のある建物の一部。外観ではこのあたりに鐘楼が2つ建っているはず。しかしそれらしき入り口など発見できませんでした。墓地プレートの回廊(Cloister)回廊の床は墓地。そして壁も元は埋め込み式の墓地だった可能性が・・。現在は墓標を壁に貼り付けて展示している状態。壁の裏側が聖アフラ アウグスブルク 教区博物館(Diozesanmuseum St Afra Augsburg)になっている。北側の回廊奧に美術館に入れる裏口がもう一つある。教区博物館は有料。教区博物館は撮影禁止でしたが、目玉である神聖ローマ皇帝カール5世(Karls V)の遺物を紹介。(ポストカードですが・・)パンフによれば世界に一つと言うカール5世の立体の忌中紋章(きちゅうもんしょう)である。Funeral helmet Kaiser Karls V 1559カール5世の葬儀のヘルメット・・と博物館のパンフには書かれているが、実際これはカール5世が亡くなった時に喪中期間に掲げられていた立体の紋章である。※ 神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V)(1500年~1558年)忌中紋章・ハッチメント(Hatchment)フューネラル・アチーヴメント (funeral achievement) あるいはハッチメント(Hatchment)日本語に訳すと忌中紋章(きちゅうもんしょう)あまり知られていないと思うが、1600年代前半に、葬儀のセレモニーの時にその家の紋章を掲げる行動があったらしい。(地域差はあるらしい。)葬儀の葬列の時から使用し、喪の期間中、6ヵ月から12ヵ月あるいは20ヵ月それは家に掲げられ、後にそれは教区の教会へ納められたそうだ。(忌中間はそれぞれ・・。)その紋章は大抵の場合盾の形で家紋が入り、場合によっては誰が亡くなったかの見分ける事が出来る物だったらしい。が、今回のカール5世のヘルメットは立体で、またその豪華さでは例の無い物。当時、このような装飾ヘルメットや実戦用のヘルメットまた盾(たて)などが立体紋章として利用される事もあったらしい。神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V)絵画はウイーンの王宮(ホーフブルグ)内、王宮宝物館(Kaiserliche Schatzkammer Wien)で撮影したもの。カール5世は痛風(リュウマチ)に悩み、最後はマラリアで亡くなったそうだ。彼の在位期間はルターの宗教改革や多くの戦争が続いた。恵まれたお坊ちゃまの即位かと思いきや苦労の連続。皇帝選挙の時は選帝侯を買収する為にフッガー家から多額の資金を借りた。フッガーは皇帝相手に「私がお金を貸したからだ・・。」と平気で言ったそうだ。身も心も疲弊してやっと退位したものの、その2年後に亡くなった。結構気の毒な人かも知れない。話は戻って・・。さすが元神聖ローマ皇帝の葬儀である。さぞ盛大に執り行われたのであろうと推察するが、疑問なのはスペインで亡くなったのになぜその紋章がアウグスブルクにあるのか? と言う事。流れ流れてここに来たのか? あるいはカール5世の葬儀は彼の関わるあちらこちらの土地で行われたのか? そして紋章は各地で造られていたのか? それは解らない。アウグスブルク・・・一応終わります。back numberリンク アウグスブルク 1 (Intercity Express)リンク アウグスブルク 2 (クラウディア街道)リンク アウグスブルク 3 (市長舎 黄金ホール)リンク アウグスブルク 4 (ペルラッハ塔・Perlachturm)リンク アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家リンク アウグスブルク 7 (シェッツラー宮殿 ・Schaezlerpalais)リンク アウグスブルク 8 (司教座聖堂 1 ゴシック様式の聖堂)アウグスブルク 9 (司教座聖堂 2 ロマネスクのクリプト)
2016年06月07日
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怖い話・・・・DHLから国際宅配便で近日中に荷物が届くと連絡がきた。しかし、どこの国から? 誰から? 何が届く? 全く見当がつきません。..・ヾ(。>д<)シ こえぇぇぇ さてアウグスブルクDom(ドーム)の紹介です。一般に日本では「アウグスブルクの大聖堂」と訳していますが、本当のDomの解釈は「Domus Dei (神の家)」から来ているので厳密には「大聖堂」の訳はちょっと違うのだそうです。では神の家(Dom)とは? 正しくは「司教座聖堂」の意だそうです。司教座は簡単に言えばその司教区の全ての教会の上にある本部になる教会の事。教会のドームが大きくて立派・・と言うだけではなく、司教は支部教会を率いる事で権力を持ち。かつ大きな財力を持つ教会だという事でもあります。また、司教座は司教が座る司教専用の椅子が据えられている事からカセドラ(cathedra)とも呼ばれます。カセドラ(cathedra)はラテン語で司教座椅子その物をさした語です。つまりDom(ドーム)とカセドラ(cathedra)は同じ意味を持つ同意語なのです。※ 大聖堂と日本訳でついていても司教座聖堂でない場合もある。・・と言う事。※ 司教座聖堂については2009年12月「ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教) 」の所で触れています。また司教座聖堂で検索してもらえれば今までの他の司教座聖堂も検索できます。アウグスブルク 8 (司教座聖堂 1 ゴシック様式の聖堂)アウグスブルク司教座聖堂(Der Hohe Dom zu Augsburg)ゴシック様式の聖堂最初に紹介した通り、アウグスブルクは南北に走るクラウディア・アウグスタ街道(Via Claudia Augusta)上の二つの街が合体してできた街です。北は元はローマの砦があったは場所でローマ人の居住区となった所。そこにキリスト教が公認されてから大聖堂ができ周りに広がった街です。(古代ローマの解体後はマジャール人(Magyarok)が占領していた時代もあり神聖ローマの時代になってからもマジャール人の侵略は続いた)南は中世にベネディクト修道院(ウルリヒ&アフラ教会の前身)の周りに商人が多く集まった。それぞれがだんだんに拡張して合体。その場所が前に紹介した市庁舎(Rathaus)とぺルラッハ塔(Perlachturm)だっと思われる。(だから市長舎前広場も確保できたのかも・・。)今回は北側の大聖堂(司教座聖堂)ゴシックの部からの紹介ですが、資料もほとんどなく、しかも複雑に歴史が重なっているので難しい物件なのですペルラッハ塔(Perlachturm)からのDom(ドーム)の写真全体を確認できる唯一の写真です。(雨だったのでボヤケていますが・・。)ローマ時代にはすでに街の中心部だった場所だそうです。(近辺からローマ時代の遺跡があちこち出土。)ラートハウスからは近いが1度下ってから緩やかに登った高台にあります。司教座聖堂ですし、中世には最大規模になっているので周辺も関連施設で占めるめられていたようです。南側の入り口この扉はゴシック時代のもののようです。この司教座聖堂は生母マリアに奉献されている。教会の見取り図が無いので公園にあった史跡の地図から説明・ 薄紫が道路で、上の←がかつてのクラウディア・アウグスタ街道・ ← 写真の南側入り口(北門もあります。)・ 濃いピンクで囲ったところが現在の建物部分です。聖堂の左隣中庭のある回廊は現在 一部美術館。(Diozesanmuseum St Afra Augsburg ・聖アフラ アウグスブルク 教区博物館)・ 紫やオレンジ、水色、緑などはかつての教会の建物などの基礎が残っている場所。・ 聖堂の中の E(東側)の★ゴシック様式の聖堂 W(西側)の★ロマネスク様式のクリプトが残っている。つまり長い歴史の中で教会は位置を変えたり無くなったり、増築されたりしているのです。その中には古代ローマ時代の教会の基礎(遺跡)もあります。建築様式もロマネスクやゴシックが混ざりあって他に例の無い不思議な造りになっています。上の史跡の地図 聖堂の南側 紫の基礎部分Karolingischen Doms St Johann10世紀のカロリング・ロマネスク様式の聖ヨハネ教会の跡※ カロリング・ロマネスク様式・・・ロマネスク様式の定義は11世紀以降より13世紀のゴシック様式以前であるが・・。フランク王国カロリング朝の時に発展したロマネスクの初期段階のバシリカと単廊式教会堂(Saalkirche)を持つタイプ。プレ・ロマネスクと言える。現在の司教座正道の内部もいろいろと混ざりあっている。大まかに言えばこの教会は9世紀から12世紀にかけて造られたロマネスク式の部分と14世紀頃に改築されたゴシックがミックスされている。側廊から左奧がクワイヤ。奧がそれを取り囲む周歩廊身廊の座席身廊ゴシックの教会と比べると座席ある方の天井は低い。側廊と身廊の接合部はロマネスク様式で修復されている。身廊の柱には聖人の絵画が並ぶ内陣前にはハンス・ホルバイン(父)の作品4枚の板絵が1493年に祭壇画として描かれているそうだ。テーマはマリアの生涯。その一つが下 マリアの宮詣で・・と解釈する。内陣はもちろん立ち入り禁止区域(その規模が案外大きい。)反対の柱には同じくハンス・ホルバイン(父)の作幼児キリストの宮詣でか? 上左には聖母戴冠の図。内陣前に木彫のマリアと幼児イエスの像があり、小さな祭壇になっている。内陣、クワイヤクワイヤ奧に修道院タイプの聖歌隊席があり、その左手前に司教座椅子カセドラ(cathedra)がある。薄暗い上に遠いのでボケた写真ですが・・。何やら物々しげな石の椅子のようです。このタイプはミラノあたりで見たのに似ている。もはや象徴としての椅子でしょう。クワイヤを取り囲む周歩廊を囲むステンドグラスもちろん後年修復されて復元されていると思うが、ゴシックの聖堂ができてからこの形になったのだろう。何しろ最初のものは12世紀らしいから・・。モザイク式で描かれたステンドの雰囲気はゴシックと言うよりはロマネスク調。この種のタイプのステンドグラスとしては、ドイツ最古らしい。描かれた預言者は全部で5人。司教座聖堂 2 につづくリンク アウグスブルク 9 (司教座聖堂 2 ロマネスクのクリプト)
2016年06月01日
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ルターの聖書の発行に関してのリンク先を中に追加しました。免罪符に反対して教会に反旗し、ルターは宗教改革と言う革命を起こしたのです。そして密かに隠れたヴイッテンベルク(Wittenberg)のヴァルトブルク城(Wartburg Castle)でルターは聖書のドイツ語への翻訳をしていた。友人のクラナッハが独占契約して市民が読めるドイツ語の聖書を大量発行したのです。道徳的に反する行為や法律に違反する行為。そんな社会的な罪はもちろんアウトであるが、キリスト教では神に背く罪、神を信じない罪(不信仰)と言うのが存在する。アダムとイヴは神の言いつけをやぶってエデンの園にある木の実を食べた。神はそれを怒り彼らをエデンから追放した。神に反逆した行為が罪であり、人類の祖先である彼らはその時 神から追放以外にもいろいろ罰を受け取った。(それら罰は子々孫々継がれて行ったのである。)それがキリスト教で言う原罪である。原罪から数千年。イエスはそんな「人」が生まれつき背負った罪を一人で被って神に贖罪(しょくざい)したとされキリスト(メシア)になった。彼の贖罪を信じる者は原罪から開放される・・とされ、キリスト教が生まれたのだ。※「キリスト」とはヘブライ語のメシア(救世主)の意。(原語ではキリストと読まないが・・)原罪と贖罪。これがキリスト教の教義とされながらも論争は古代教会時代からずっと続いたそうだ。アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家原罪フッガー家と免罪符フッゲライ博物館フッゲライに入居する資格聖マルクス(St. Markus)教会フッガー家と免罪符とにかくキリスト教ではたとえ道徳的に素晴らしい人であっても、神を信じない者は全て罪人とされた。少なくとも、中世の欧州はキリスト教色に塗り固められていたので人々は神を信じている事を証明したり認めてもらう行為をいろいろ行ったのである。フッガー家の低所得者住宅「フッゲライ(Fuggerei)」の設立はその一つとも考えられる。貧しき者に施しを与える。そして神にその行為を認めてもらいやがては天国の門をくぐりたい・・と言う願いである。免罪符が大量発行されていた時代であるから、フッガー家の人々は正統な方法で天国に向かおうとした・・と言う意味においてはそれは確かに立派な行いであったのは間違いない。が、しかし、その免罪符がなぜできたのか? と言う理由を考えた時、フッガー家の罪は大きい。なぜなら、免罪符の発行は借金で首のまわらなくなったマインツの大司教アルブレヒトが、フッガー家に借金を返す為に始めた事だからだ。しかもそれはフッガー家の入れ知恵で決まり、フッガー家は独占販売権を得たと言われている。かくしてフッガー家の代理人が免罪符を売る僧侶にくっついて集金し、そのお金をローマに運んだのである。※ 免罪符(めんざいふ)・・贖宥状(しょくゆうじょう)(ラテン語: indulgentia)簡単に言えば罪を許される御札。罪のある者は死後(最後の審判の後に)天国に行く事はできない。もちろん善行と功徳を積む事。信心深くある事など天国へ行く条件は当然厳しい。しかし、教会に寄進する(免罪符を買う)事で罪をチャラにしましょう。と言う物。当時販売の建前はサンピエトロ寺院の建築費用の捻出であった。ローマ教会側もその献金を狙って大量発行したのであるが、販売ではやはりドイツが断トツ多かったようだ。(ドイツの司教の借金が多かったと言う事かも・・。)ルターはそれらに疑問を感じて宗教改革を断行したのである。(理由はそれだけではないが・・。)※ ルターの聖書の発行に関しては以下で書いています。リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)First Fugger privatbankマクシミリアン通りにあるフッガー家の銀行。今も続いていて個人銀行としては欧州で最も大きいらしい。とにもかくにも、フッガー家は王侯貴族のみならず司教や教皇らにもお金の貸し付けを行い、いろんな利権を得て急成長していったのである。フッゲライ(Fuggerei)に戻って中で見かけるのはお年寄りばかりである。時代なのかも・・。ミッテレン・ガッセ13番にあるフッゲライ博物館左のドア・・・1階の博物館の入り口中のドア・・・2階14番の部屋は作曲家モーツァルトの曾祖父フランツ・モーツァルト(Franz Mozart)一家が1681年から1694年(没)まで住んでいた部屋。フッゲライの家には通し番号が付けられていて当初は52軒。1973年に67軒に拡張。140のアパートがあり、現在の入居者は150人ほど。(パンフより)1階の博物館はフッゲライができた当初の部屋がそのまま展示されている。1521年にフッゲライはできているので16世紀の住居と言う事になる。ここが低所得者の住居であるなら、他の市民はもっと豪華な所に住んでいたのか? と思いきや・・。当時の都市人口は13000人~17000人。そのうちの無産階級は2000人ほどいたと言う。商工業が発展すると都市のプロレタリア(労働者階級)も増加。しかし家が足り無かった。収入のほとんどが家賃に消えて行く・・と言う状況の中でフッガーは低家賃住居の建設を思いついた。基金を創設して建築を勧めた。だからフッゲライが単純に社会福祉施設と紹介されると語弊があるのだ。ここは低賃金のブロレタリアのアパートと言うのが当初のコンセプトなのだから・・。フッゲライに入居する資格アウグスブルグの市民である事。カトリック教徒である事。(当時はプロテスタントに改宗する者が増えていた。)住人は貧しく、罪状は無い事。賃貸料は年に1ライン・グルデン(現在は(約0.88ユーロ)支払う事。フッガー創設者の為に日に3度冥福を祈る事。聖マルクス(St. Markus)教会聖マルクス(St. Markus)と言うと解りにくいが、聖マルコと言うと解るかもしれない。ヴェネチアとの交易で成功していたフッガー家である。教会はを立ち上げる時に御神体に選んだのはヴェネチアの守護聖人でもある、福音書記者の聖マルコであった。像にはマルコの象徴の獅子がいる。聖マルクス(St. Markus)教会は1582年に奉献されている。それまでフッゲライには教会は無く、住人は近くの聖ヤコブ教会まで行って祈っていた。ところがルターの宗教改革の影響で聖ヤコブ教会はプロテスタントに改宗。フッガー家は1580年頃から急きょこの教会を建設したと思われる。教会は1944年2月の空爆により完全に焼失。現在の建物は1950年にバロック式で再建される。中の調度品は元の教会からの救済されたものや聖アンナ教会から来た物もあるようです。(聖アンナ教会はフッガー家の教会だった。)フッゲライ終わりフッゲライback numberリンク アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設アウグスブルグは続くリンク アウグスブルク 7 (シェッツラー宮殿 ・Schaezlerpalais)
2016年05月17日
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中断していたアウグスブルク(Augsburg)の再開です大変お待たせしました。今回は現存し、なおかつ現在進行形で運営されている中世の社会福祉住宅の紹介です。フッゲライの創設は1521年です。現在も個人の持つ財団で管理されそのまま運営されている施設でアウグスブルグの目玉の一つになっています。「世界最古の福祉施設」と紹介されている所がありますが、これは間違いで現在も運営されている中で一番古い施設・・と言うのが正確です。なぜなら前にブルージュ「ベギン・ホフ(Begijnhof)」の所で紹介したペギン会の方が古さで言えば断然古いからです。ブルージュのベギン会の設立は1245年。これは時のフランドル伯マルグリット(Marguerite)女伯が戦争などで生活に苦の出た女性が安全に暮らせる為に建てた社会福祉施設です。このような施設は13世紀には北部欧州に幾つか建てられています。私達が知らないだけで、実は欧州には古くから社会福祉施設は結構あったのです。(残念ながらペギン会は役目を終え近年その施設はベネディクト会派の女子修道院に変わっています。)※ 2014年6月 「ブルージュ(Brugge) 13 (ベギンホフ・Begijnhof)」よかったら見てね リンク ブルージュ(Brugge) 13 (ベギンホフ・Begijnhof)アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設フッガー家とヤコブ・フッガー(Jakob Fugger)フッガー財団の社会福祉施設 フッゲライ(Fuggerei)フッゲライ・モデル・ルームフッガー家とヤコブ・フッガー(Jakob Fugger)アウグスブルク(Augsburg)と言えば15世紀にヴェネチアとの交易事業で巨額の財を成した商人フッガー(Fugger)家の人々を抜きには語れません。最初に綿花と毛織物業で事業の基礎を築いたのは初代ヤコブ・フッガー(Jakob Fugger)(1398年~1469年)です。事業を拡大してフッガー家を大きくしたのがフッガー三兄弟で兄ウルリッヒとゲオルグと共に父と同名の10番目の子供ヤコブ・フッガーです。特に皇帝マクシミリアン1世に気に入られた末弟ヤコブ・フッガーの力は大きかったと思います。彼らの時代にフッガー家の資産はメディチ家の5倍。国際金融の最初のシステムを構築したと言われている。フッガー家は鉱山の採掘権を得たり銀行業務で成功したりとアウグスブルグ一の豪商に成長。特にカール5世への選挙資金の貸し付けや免罪符の売り上げをローマに運んだり、また司教らの年金管理業務を委託されたりと中世ヨーロッパで特権階級とつながって成長。シェッツラー宮殿(Schaezlerpalais)美術館よりアルブレヒト・デューラー作 ヤコブ・フッガー デア・ライヒェ(Jakob Fugger der reiche)(1459年~1525年の肖像。der reiche・・・豊かなor富める者 ヤコブには通称がついていてそれが肖像画にも描き込まれていた。ところで彼は最初からフッガー家の経営に関わる予定ではありませんでした。何しろヤコブ・フッガーは10番目の子なので当初彼は末弟と共に聖職の道に進む事になります。ところが父よりも早く長兄達が亡くなり期せずしてヤコブは修道院より呼び戻されて他の兄と共に家業を手伝う事になります。(定かではありませんが、19歳くらいまで修道院にいて聖職に就いていたようです。)その聖職者故の慈悲の心なのでしょうか? おそらくこの社会福祉住宅を最初に考案して企画したのがヤコブ・フッガー(デア・ライヒェ)のようです。ヤコブは基金を募り財団を造ります。寄進者の銘板の中には、「街の福祉の為、慈悲深く寛容なる神の恵みに心から感謝して寄進したものです。」・・と創設時にはすでに亡くなっていた兄ウルリッヒとゲオルグの名も刻まれているそうだ。フッガー財団の社会福祉施設 フッゲライ(Fuggerei)フッゲライ見取り図赤い屋根・・・聖マルクス教会オレンジ・・学校と教会守の家ブルー・・・売店緑右・・・・見学用住居(モデルハウス)緑左・・・・博物館用住居とその上がモーツァルトの曾祖父の住居イエロー・・病棟(1520年当時はフッガー家で働く従業員の為の病棟)矢印の正面入り口ヤコバ通りの建物はフッガー家長老会の館フッゲライ(Fuggerei)はヤコブ・フッガー(Jakob Fugger)が1521年に資金を提供して、また資金を集めてアウグスブルグの市民で生活に困窮している者を保護する為に造営されたアパートです。公共の機関ではなく、あくまで個人の財団が所有している物件と言うのが特徴です。ただ、賃貸と言っても家賃は創設時にヤコブが決めた1ライン・グルデンの額面が現在も踏襲されている。つまり現在の入居者は(入居条件があるが・・)1年間で1ユーロもしない(約0.88ユーロ)と言う信じられない超格安で部屋が借りられるのだ。(光熱費は住人負担)実はフッゲライの見学には入場料が必要である。大人一人4ユーロ。賃貸者の4軒分の1年間の家賃ではないか現在でも寄進された資産で運営されているのですが、ヤコブの狙いは自活する為の支援であって、物もらいは御法度のようです。入り口入った所。長老の家の下が管理事務所正面入り口からの通りはヘレンガッセ(Herrengsse)通り管理棟からのヘレンガッセ建物の古さで外観はちよっと違うが、中の造りは今は統一されているようです。何より、第二次大戦の空爆で大分損壊し建て直されたようです。ドアはひっついているが、一つは2階の部屋用である。右がヘレンガッセ(Herrengsse)通り左がオクセンガッセ(Ochsengasse)通りオクセンガッセ(Ochsengasse)通りに見学用の住居や売店などがある。フッゲライ・モデル・ルーム見学用No51の部屋裏の戸口には中庭が開けている。見学用と言うより入居する人の為のモデル・ルームのようなものである。それにしても驚くほど中は広いベッドルームリビングルームダイニングルーム洗面室&シャワー(浴槽は無し)&トイレもちろん家具類は付いていないと思うが・・。下は入居者のイメージ写真間取りを見ると1階と2階で2種タイプあるようだ。ベッドルーム・・・・・・・・14.5m2リビングルーム・・・・・・・14.5m2ダイニングルーム・・・・・・12.8m2洗面室&シャワー&トイレ・・8.5m2 部屋部分だけで53m2。廊下が10m2くらいありそうだ。つまり63m2くらいで19坪くらいあるようですね。羨ましい限りの贅沢さです。しかも、この場所はアウグスブルグの城壁の中。旧市街なのです。次回につづくリンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家
2016年05月12日
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再び大阪に来ています 暖かくなって調度良い感じの気候になってきたようですが、季節の変わり目は高血圧になりやすいそうなので皆さん気を付けてください。実は父が血圧230をたたきだし驚愕したばかりです。(もともと薬は飲んでいなかた。)血圧計が狂ったのかと思う数値でそんなに高くなる事にも驚き。大慌てでかかりつけの先生に相談。降圧剤をもらってセーフ。こちらもドキドキする自体にストレス? 胃が痛くなりました アウグスブルク 4 (ペルラッハ塔・Perlachturm)ペルラッハ塔(Perlachturm)聖ペーター教会(St. Peter-Kirche)前にも紹介したように市長舎隣のベルラッハ塔は監視塔として989年には存在していたようです。(当初は30m)1614年~1616年(塔に表示された数字)に市長舎の建築家エリアス・ホル(Elias Holl)(1573年~1646年)によってルネッサンス様式の教会と鐘楼(70m)に作り変えられました。デザイン的には市長舎とセットになっているわけです。建物の表通りはショーウインドや店舗らしき物があるので何の建物か解りにくいが実は1階は教会となっている。当初監視塔であった塔は中世に鐘楼に造り変えられたようだが現在は鐘は無い? ほぼ全体が塔に上る階段でしめられていた。(エレベーターは無い。)午前中が雨でした 矢印は塔へ昇る階段の入り口。教会と独立している。(もし扉が閉まっていたらそれは管理のおばさんが不在と言う事。入り口に時間と値段が表示されている。)聖ペーター教会(St. Peter-Kirche)教会の設立は1067年頃。こぢんまりした清潔感ある教会である。前にオランダを旅行した時に思ったが、プロテスタントの教会は見るべき物が何も無いので本当につまらない。それに比べて小さくてもカトリックの教会は教会自体の歴史の重みが詰まっているのだ。同じキリスト教の教会でも付加価値がある感じです塔へは一端教会を出て別の入り口から昇ります。料金所が無いのでダタか? と思いきや、258段の階段を登った地上60m地点に料金所がありおばさんが座っていました。因みに上にトイレはありません。おばさんはトイレに行く度に下に降りるのでしょうね。料金一人€1.5観光客はアウグスブルクでの滞在時間が無いのでほとんどいない。かつての鐘が下がっていたであろう場所。今は現代的にコンクリートの階段になっている。フランドル地方など欧州では街のメイン教会にたいてい鐘楼が付属していて登る事ができるようになっていた。当時でこれだけの高さに上って見た景色は今よりも感動があった事だろう。何より立派な塔と立派な鐘は街のシンボルであったはずで、特にアウグスブルクと言う帝国自由都市において、まちがいなくランドマークであったろう。※ 帝国自由都市については、2009年12月「ローテンブルク 1 (城壁と帝国自由都市) 」城塞都市と帝国自由都市・・で、紹介。リンク ローテンブルク 1 (城壁と帝国自由都市)※ 自由都市については、2014年04月「ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)」自由都市ブルージュ(van het Brugse Vrije)・・で、紹介。リンク ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)矢印のあたりが展望料金所と展望所何百年前の塔でも安全対策が配慮された塔はここのように今も上る事が可能なのである。(中には日干しレンガで組み上げ階段は板張りの所もあり登るのは不可能の所も・・)前にもミラノ大聖堂の紹介などしているが、大抵は大聖堂の場合で、片側エレベーターが据え付けられ、片側は昔の螺旋階段・・と言うのが一般的である。※ まだ紹介していないが、ウイーンのシュテファン寺院も2本の塔、両方に登る事が可能。片側のみエレベーター付き。ここのように小さい塔はたいてい昔ながらの螺旋階段である。ここは穴場で塔を登るような人がいなかったので助かったけど大抵は塔の中ですれ違うのは大変な狭さである。※ まだ紹介していないが今まで一番狭かったのはデルフトの旧教会の塔である。(人がすれ違う為に余裕のある所まで戻らなければならない。)しかしこの塔も1944年2月の大戦の空爆の影響で上部が全焼。1950年に再建されたようです。展望所は塔の外通路だけでかなり狭い。落下防止の為にアクリル板がはりつけられ、かつそれに落書きするバカ者がいるのでとても汚いのが難。一応アウグスブルクの級市街を一望できるベストブレイスになっている。各のぞき窓の方面に見える景色の解説は写真付きで出ている。市長舎前広場左に隣接する市長舎市長舎の向こうに見える教会がウルリヒ&アフラ教会(調度あちら方面が南)東の方角には次回紹介予定のフッゲライがある。素朴な街である。旧市街の北側には大聖堂が見える。大聖堂は調度ローマ時代の何かの施設跡で、遺跡が庭や教会の地下などあちこちから発掘されている。ミュンヘンやウイーン、ザルツブルグなどもそうであったが、工事中に遺跡に当たる事は度々でそのたびによけたり工事を中断せざる終えない自体が多々あるようです。アウグスブルグの旧市街は中世と現代が混じった街なのです。リンク アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設次回フッゲライ予定
2016年04月11日
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ミュンヘンから日帰りで出かけたアウグスブルクですが、当日は80%が雨の天気 とは言え事前にチケット予約していたので変更するわけにも行かずついていない出発。もっともその旅行自体ほぼ全体の7割が雨だったような・・しかし厳しい旅行の時ほど記憶に残るのは確かです。今、1年半前の記憶をたぐり寄せながらの書き込みです f^^*) ポリポリアウグスブルク 3 (市長舎 黄金ホール)アウグスブルク(Augsburg)市庁舎(Rathaus)とぺルラッハ塔(Perlachturm)市長舎 黄金ホール(Rathaus Goldener Saal)アウグストゥスの目先に建っていた市長舎と塔は共にアウグスブルク出身の有名な建築家エリアス・ホル(Elias Holl)が手がけた作品です。※ エリアス・ホル(Elias Holl)(1573年~1646年) ルネッサンス様式のアウグスブルグの建築家。ドイツ・ネルッサンス様式の最高傑作として建てられた街の自慢の建築物ですが実は1944年2月、第二次大戦の戦火に巻き込まれ現在のものはほぼ再建されたものです。栄華を誇った当時に莫大なお金をかけて建造された建物だけに、その修復費用も莫大であり、特別予算を立てて市では修復を計ってきたようですが、まだ全ての部屋・・までは完了していないようです。外観も当時はもっとカラフルだった可能性があります。左がぺルラッハ塔(Perlachturm) 右が市庁舎(Rathaus)・・現役ですベルラッハ塔の方は監視塔として989年には存在していたようです。建築家エリアス・ホルはその土台の上に市長舎とマッチするように監視棟を鐘楼に造り変えたらしい。以前からこの場所にはゴシックの役場があたようです。それがアウグスブルグの繁栄の元で街にそぐわないものとなり、建て替えが検討。議会で承認され予算も付く。時は1615年8月25日。最初の礎石が置かれ着工。正面エントランスを入った1階部分入ってすぐ右が売店その隣の戸口を入るとトイレがありますが、市庁舎内にもかかわらず有料です。黄金の間に入った人のみその半券を入れると扉が開くしくみになっています。左のみ階段がオープンされていてそちらがルート。階段を上ると正面に巨大ホールの入り口があります。ホール入って右に職員のデスクがあり、そこで料金を支払うシステムです。来訪しているのはほぼツアーの人達なのでかち合うと混み合います。縦32.5m、横17.5m、高さ14m。ホールは広くて写真に入りきらないです。栄華を誇ったアウグスブルグの冨の象徴として建てられた建物ですが本当に見事です当時流行のドイツ・ルネッサンス様式の外観だけでも市民の自慢。加えてその内装はまるで王宮のような豪華さ。これが当時の市民の物だったそう改めて考えると当時のアウグスブルグ市民の経済力とレベルの高さに驚く広間ででもあります。(見学する時はその辺を踏まえて見なければ・・。)金銭の問題だけでなく、大変だったのはそれに携わる職人や建てる為の石を始めとする様々な資材の調達です。石工のギルドの調達。また200人を越える手工業職人、工芸職人、芸術家などの各種ギルドを統率しての工事はその指揮だけでも他とスケールが違ったと言う。黄金の間天井画は左右と中の楕円と3つに分割して意味が込められている。中心楕円の中には3つの単語がある。Per me(私が)、 Reges regnant(王の治世)、 Sapentia(知恵)女神はSapentia(知恵)の女神。彼女は賢者と法律学者がひく凱旋車に乗っている。知恵こそが統治する者(王)の重要な徳と言う事らしい。しかしせっかくの建物が300年後の夜空爆により損壊して1946年に再びラートハウスの着工式が行われ、現在の外装は1955年のもの。黄金の間に昇る二つの階段だけで900万ユーロ(1980年代)かかったそうだ。市では何期かにわけて予算を工面して修復にあたる。最も大変だったのはフレスコ画の復元。木彫を含めた黄金の間の天井。正面入り口にある大型の金箔貼りの彫像。選定侯爵の暖炉など。床板の修復には当時使用されたハレイン近郊アドネットからのものでゾーンホーフェンからの石。市長舎の再建に使われた石全てが当時と同じ場所からの採掘で、限りなくオリジナルに近い物とこだわっているらしい。これら像は木彫。扉の上の女神像には2.6kgの金箔がコーティングされているらしい。扉の柱の木彫入り口側である北側の壁のフレスコ画にはローマの八皇帝(異教徒)が描かれている。対して反対側南の壁にはキリスト教徒の八皇帝(おそらく神聖ローマの皇帝)が描かれているそうだ。それぞれにラテン語の標語があり、シーザーの言葉を借りれば「来た。見た。勝った。」に対して、カール5世が「来た。見た。神が勝った。」と相対してキリスト教側の神の勝利を示しているそうだ。黄金の間にメイン階段から入る入り口は北側と南側で2箇所ある。その両左右に少し小さめの戸口が4箇所。それは選定侯爵の間と呼ばれる控えの間だそうだ。各部屋はクルミ材とオーク材でシンブルに彫刻が施された造りになっている。床は松材の寄せ木造り。珍しいのは各部屋にある4基の暖炉。縦5m。重さ3トン。鋳物に見えて実は陶器製のようだ。なぜ鋳物に見せる必要があったのか解らないが、外装を黒鉛を被っているのだそうだ。次回、ぺルラッハ塔につづく。リンク アウグスブルク 4 (ペルラッハ塔・Perlachturm)
2016年03月19日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。パリのテロのニュースには驚きました せっかく平和になってきた世の中なのにばか者に平和が脅かされている事が非常に腹立たしいです。何より無差別に罪の無い人達を巻き込んで来る彼らの横暴さは断じて許せません。今回巻き添えを食った多くの罪なき人達のご冥福をお祈りします。それにしても自爆テロが正当化される宗教って何なんでしょうね。自爆してチリヂリになった者の魂は救われようが無いのに・・。天国に行ける・・と信じる者の魂は本当に天国に行けるものなのか?そう言えば細川ガラシャ夫人は、カトリック教徒なのに自決のあと爆死で亡くなったとされています。実はそれには疑問を持っています。跡形もなく消えたガラシャ夫人の遺骸。パフォーマンスだけで、本当はどこか異国にでも逃げたのではないか? と、最近思うのです。※ ガラシャ夫人については「信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓」で触れています。リンク 信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓さて、今回も大幅に遅れてしまいました。父の入院が長引いて日中病院にいるので夜中しか作業ができないのです 今回はミュンヘンに古くからあるフラウエン教会にある悪魔の足跡を紹介したいと思います。ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)フラウエン・キルヒェ・ミュンヘン(Frauen Kirche München)「悪魔の足跡」伝説なぜ窓が見えないのか?フラウエン・キルヒェ(Frauen Kirche)とは、実は聖母教会の事である。二つのタマネギ型の尖塔を持つ塔はシンボリックにミュンヘンの象徴となっている。建立は1468年~1488年。後期ゴシック建築だそうだが、二つの鐘楼のタマネギ型の屋根は遅れる事1525年に銅で作られて取り付けられた物でゴシックではない。撮影した昨年の7月時点では修復中で下からの外観の撮影ができていないのである建築はイエルク・フォン・ハルスバッハ(Jörg von Halsbach)建物は40m、幅37m、高さ109mもともとここには後期ロマネスク様式の三廊の教会が建っていたらしい。1240年、ミュンヘンがヴィッテルスバッハ家の支配になると、邸宅の敷地内に教会を建立。1271年には教区権を獲得。ミュンヘンの人口の増加と古い教会屋根の崩落で死者も出ていたそうで大人数を収容する教会建築が急がれたようです。参考までにパンフレットから・・。左右の塔の高さは異なり、北塔は98.57m、南塔は98.45m二つの鐘楼と両方に時計も設置されていて、双方の塔に上る事が可能。南塔のみエレベーター付き。(この時は修復中で登れなかった。何しろオリジナルはレンガだったらしいし・・。)ミュンヘンの象徴とも言える丸い円蓋であるが、実はこの教会はザルツブルグの司教座聖堂がモデルになっているらしい。実際ちょっと違うが・・。教会の中からの撮影であるが、入り口のドアである。ここは、教会の拝廊に当たる場所。赤い矢印下が「悪魔の足跡(Teufelstritt)」である。「悪魔の足跡」伝説伝説では、「この教会には窓がない」と、教会の完成をのぞきに忍び込んだ悪魔が喜んだ・・とか・・。しかし、これは教会の構造上ちょうど悪魔の足跡の地点(拝廊)からは窓が見えないだけにすぎず、中には大きな縦長の窓が25もある明るい教会です。礼拝所に踏み込んだ悪魔は「だまされた」と思い教会を壊そうとしたそうですが、堅牢な教会は壊れなかった・・とか・・。今は鉄の柵で仕切られた拝廊と礼拝堂かつては壁やアーチ、柱廊や仕切りで区切られていたと言います。足跡の位置には祭壇があったとも伝えられています。もはや足跡はわざとつけた印・・と言う所でしょう。今は信徒とそうでない人達の間に区分けはありませんが、かつて拝廊は正式な信徒で無い人達の祈りの場として提供されていた場所のようです。つまり部外者はそこより中には踏み込めなかった・・と言うわけです。そこで悪魔伝説を考えると、信徒でない悪魔はそこより先の聖域に立ち入る事ができず、窓を見る事ができなかった・・と言う事になります。(拝廊には窓は無い。)25の大きな縦長の窓にはステンドクラスがはめ込まれている。(当時一枚ガラスは存在しない。)ステンドグラスに使われる色ガラスの美しさは、この世のものとは思えない美しさを醸(かも)していたことだろう。つまり、礼拝所の荘厳さは天国を意味している。天国に入りたい者は信者にならなければならず、悪魔は決して立ち入れない場所なのである。悪魔の足跡の前の障壁柵のところから撮影確かに正面以外に窓は見えない。窓の無い拝廊はともかく、礼拝所内は横を見れば窓は存在する。が、身廊の中心線上。こうして写真の視野で正面を見ると、案外どの位置からも窓は容易に臨めていない事がわかった。なぜ窓が臨めないのか?その理由の一つは太い大きな八角形の柱のせいである。この聖堂の収容人数は4000人近く。それだけ広い空間なので、強度の為に柱も太くなるし、また数も増えている。身廊と側廊の柱の位置が視界をじゃまする位置に建っているからなのである。私が思うに、身廊の幅が狭すぎるのだ。(側廊、身廊、側廊の比率が1対1対1)また、側廊にある礼拝所の数が多い事も理由の一つ。それらを仕切る壁が堂内にせりだしている事が一因していると思う。問題は設計者が、意図的に窓が見えないようにしたのか? と言う事である。中央祭壇。内陣ここらへんは近年のもの。側廊側の壁にある小祭壇だいたいこういうのはかつての貴族などのプライベート礼拝所になっている。聖母被昇のこの絵は、かつては祭壇画として描かれたもの。1620年。ペーター・カンディット作。後年に作られた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の為の記念廟バイエルンのヴィッテルスバッハ家の出身の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世(1282年~1347年)(在位:1328年~1347年)の為に1619年~1622年にハンス・クルムパーにより建立。ブロンズと黒大理石。次回はやはりミュンヘンからの予定。リンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾) ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年11月27日
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