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ラストに「ハプスブルグ家」関連のBack numberをいれました。けっこうあります。遅れてすみません。甲冑の写真がありすぎて厳選するのに大変で・・。ある程度は系統だてして仕分けしたかったし・・。以前、「西洋の甲冑」を紹介したシリーズがあります。西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)リンク 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)そもそも甲冑(かっちゅう)シリーズを始めたのは、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)、略して(V&A)の甲冑のテキスタイルと手先のグローブを紹介しようと思っただけだったのです。(当時は一週間サイクルだったから中身も薄い。)ところが、アクセスも少なかったので続きを保留にしていたのです。今回は、(V&A)の後に行ったウイーン新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)からたくさん紹介します。当初予定のグローブも少し載せます。※ 「西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)」ではウイーン王宮のトーナメント用の武具のみ紹介してました。ウイーン王宮の品は完全な王室コレクションです。中世の騎士道、華やかなりし頃の名品の甲冑が量、質とも見ごたえバツグン。ハプスブルグ家のコレクションは、実際に誰が着用していたか解っている武具も残っているし、誰が造った鎧かわかっている物もあるのがすごい。また、その展示方法が素晴らしく、武具好きの方には特にお勧めの美術館です。※ 中世には王侯貴族の甲冑を請け負っていた有名な甲冑師一族もいたようです。西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑ウィーン王宮の甲冑コレクション皇帝のパレード双頭の鷲の紋章ローマ帝国以降の欧州と戦争西ローマ帝国解体後から始まるローマ帝国の危機ロリカ・スクマタ(lorica squamata)中世、暗黒時代を経ての復活十字軍の遠征と聖地奪還後に設立された騎士修道会西洋の鎧のルーツと名称ホーバーク(Hauberk)メイル・アーマー(Mail Armour)兜 バルビュート(Barbute)とイタリアン サレット(Sallet)バルビュート(Barbute)コリント式ヘルメット(Corinthian helmet)イタリアン サレット(Sallet)アベンテイル(Aventail)アーメット(Armet)クローズヘルメット(Close helmet)マクシミリアン・タイプ奇妙なヘルメットイタリア ルネッサンス期の甲冑スペイン王フェリペ 2 世(Philip II)の騎馬戦闘用の鎧15世紀後半のヨーロッパの有名鎧鍛冶家イギリス サセックス伯の甲冑グローブ(glove)戦闘用の防具が甲冑(かっちゅう)です。日本にも鎧(よろい)、兜(かぶと)がありますが、使用の目的は同じです。見た目は違いますが、頭と体、また腕や足などを守る造りなのもほぼ一緒です。ただ、西洋の甲冑は時代による変遷もさることながら、用途で構造が全く違うのです。地上戦用殴り合い用?馬上用、トーナメント用騎馬の馬用欧州では甲冑造りの有名工房がイタリアとドイツにあったので、国による好みや造りの違いはあったのかもしれません。そもそも甲冑は高価故に着用できる人間は限られていました。多くは王の臣下達です。鋼鉄で造られているのですから、体にフィットさせる為にフル・オーダーです。それは構造上、日本の甲冑以上に体に忠実にフィットさせなければならなかったからです。ところで、西洋の甲冑(かっちゅう)は、古代ギリシャ、ローマ時代と、それ以降で分けて考えた方が良いようです。西ローマ帝国が解体され、ローマ兵がいなくなった欧州の西側は、過去の優れた文化が引き継げない自体にまで荒廃。東ローマ帝国側も病気の蔓延や地震などで弱体化。以降の欧州はイスラム勢に攻められ、暗黒時代を迎え、文明も一度リセットされているからです。古代の武具は青銅製。中世の欧州で使用されたのは鉄製と素材も変わっている。希少だった鉄が手に入りやすくなったこともある。何より機動力が上がる精巧な造りに加えて、軽量化は見てとれます。ウィーン王宮の甲冑コレクション皇帝のパレードウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から以下の写真は照明が暗かったのと、武具、細部の見やすさの為に色調調整してコントラストを下げつつ明るくしています。馬の甲冑もあるのですね。確かに馬がやられては大変ですが・・。腰に付いているのは神聖ローマ帝国の紋章、双頭の鷲(Doppeladler)のようです。つまり、これは皇帝の乗る馬の鎧らしい。考えたら、馬も自分の甲冑と主の甲冑で総重量が人間2人分くらいになっているはず。重いよね。双頭の鷲の紋章もともとローマ帝国の国章は単頭の鷲の紋章だったらしい。それに対して「双頭」は「西ローマ」と「東ローマ」の帝国の支配権を表しているとも・・。つまり双頭の鷲は二つの帝国の支配を示し、13世紀末から東ローマで使われるようになった紋章らしい。13世紀と言えばヴェネツィアが十字軍と共に東ローマ(ビザンツ)帝国に侵攻してコンスタンティノポリスを陥落。ラテン帝国を樹立したのが1204年である。以前書いたが、東ローマ(ビザンツ)帝国は完全にギリシャの帝国と化していた時代だが、実質西の支配に落ちた。だがそのラテン帝国も1261年に陥落。つまり双頭の鷲の紋章が使われ始めた時期は、西側のラテン帝国が滅んだ後の混沌とした時代に、帝国の支配権を主張する者たちが、こぞって付けたがった紋章らしい。神聖ローマ皇帝の紋章であり、ハプスブルグ家の紋章にもなった。騎士の防具、前と後をセットにしてみました。上の甲冑と一見似ているけど、比べてみると、前より後ろで違いが解りやすいですね。鎖帷子と鋼鉄のプレートの混合(Mail and plate armour)です。それにしても防具はパーツ毎に革ベルトで止められている。ベルトが切れたら外れてしまうわけで、戦場で切られたらかなり慌てますね。高級だから捨て置く事もできない。防具を抱えて撤収も在りだったかも・・。そう考えると、防具も毎日のメンテナンスが重要になる。オイルは絶対塗っていただろう・・と思われる。錆(さび)ちゃうし動きを良くする意味でも。やはり戦場には鍛冶屋も同行していたのかもしれない。補修もあるれけど場合によっては変形して脱げなくなる事もあるからね。後で歴史を振り返りますが、要所で言うと、暗黒の中世を経て、復活した欧州人の逆襲が始まる中世後半、騎士が増えたのです。特に十次軍の遠征では、農民も兵士となって聖地エルサレムに向かったから、何万と言う兵士が従軍している。欧州では中世期に十次軍遠征と言う一大イベントがあった。そこでの甲冑の需要は必須。First Crusade (1096年~1099年)Second Crusade (1145年〜1149年)3rd Crusade (1189年~1192年)4th Crusade (1202年~1204年)西欧側(ローマ教皇が中心に)は聖戦の参加者を大量に募集。もともと領主になれない次男以下の貴族の子弟が、こぞって騎士を目指した事もあり、騎士ブームが到来する。最も、その頃は騎士のトップとなる諸侯はフルで武具を着用してましたが、お金の無い騎士見習いなどは装備を整えるのに何年もかかった。それ故、使いまわしも多く、戦場で敵方から奪った甲冑や、古い時代の甲冑もリメイクしたりと割と長く汎用されていたと思われる。造形的にすごくきれいです。鍛冶屋の作と言うよりは、やはり甲冑造りには造形デザイナーがいたのでしょうね。欧州史のおさらいからです。何事も歴史的背景は考慮すべき重要点ですが、武具は特にそうです。ローマ帝国以降の欧州と戦争西ローマ帝国解体後から始まるローマ帝国の危機西ローマの皇帝制が解体され西ローマ帝国が消滅したのは476年。以降、帝都コンスタンティノポリスのあった東ローマ帝国の管理下にはあったが、かつての西ローマ帝国領は縮小の一途をたどって行く。※ 西ローマ帝国解体でローマ兵も居なくなったからだ。一方、東ローマ帝国側も大変な事態に追い込まれて行く。北アフリカやシリア・パレスティナの穀倉地をイスラムに奪われ、その奪還に奔走していたから西側の防衛どころではなかった。※ 穀倉地(属州)が無ければ市民に食料の供給もできないし、兵士に給料も支払えない。※ ローマ帝国の安泰は、高い給料を払う事で得られていた強いローマ軍兵士の存在だった。東ローマの皇帝ユスティニアヌス1世(在位527年~565年)もローマ帝国の再起をかけて奮闘はしたが、疫病のバンデミックと災害に阻まれ、実質のローマ帝国はユスティニアヌス1世の代でほぼ終わっている。ローマ帝国の公用語はラテン後。それは王政期以来、ローマのアイデンティティー(identity)であった。これが消えた時点でローマ帝国は終了したとみて良い。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)には、他国の、また他の時代の武具の展示もありました。ロリカ・スクマタ(lorica squamata)下はローマ帝国時代の武将と馬のモデルです。マネキンが着衣しているものは本物ではないと思われます。彼が着ているのはローマの共和制から帝政時代にローマの武将が身につけていたロリカ・スクマタ(lorica squamata)lを模していると思われます。※ 英語だと「スケールアーマー(Scale armour)」壁画などに見られるだけで、存在は知られているが、完品は現存していないらしい。ロリカ・スクマタ(lorica squamata)は鱗(うろこ)状の鎧(よろい)です。防御の為に、カバーしたい部分を青銅、鉄、鋼、革などの小片のパーツをシャツなどに重ねて、つなぎとめて仕立てられていた。構造がまさに魚のウロコや爬虫類のウロコ。制作には時間や技術がいるものの、皇帝だけでなく、百人隊長などの武将も身につけていた当時の武具です。それは革一枚のロリカより、当然、防御力はあった。いつから取り入れられたかは不明。主に1~2世紀の帝政期初期の主流? 8世紀間に渡って利用されていた武具のようです。下は、ウィキメディアから借りました。小さな金属片をつなげた品の一部です。上は、青銅を薄くして小さくしたプレートを縫い付けてあるようです。マネキンが身に付けて居るのは腰と肩に、おそらく上よりは大きめの厚手の革を縫い付けていたのでは? と想像できます。防御だけでなく、オシャレさもあったのかもしれない。ところが、現存も無い事を考えると、この技術はすたれてしまった。と考えられる。もともと細工が細かいし、時間もかかるし技術もいる。これよりはメイルの方が造りやすかった? 長い暗黒時代に、技術者もいなくなり、もっと楽で丈夫なMail Armour(メイル・アーマー)にとって代わられたのかもしれない。中世、暗黒時代を経ての復活つまり、西も東もイスラム勢を押さえるストッパーがほぼ居なくなり、荒らされ放題だったのが暗黒時代です。5世紀から9世紀頃。特に地中海域はひどかった。海賊による襲撃や拉致が横行。拉致されれば、奴隷として売り飛ばされ生涯が終わった。シチリア島も陥落し、ローマではヴァチカンさえ襲撃された。暗黒時代とは、「キリスト教徒にとっての悪夢の時代」を指しているワードです。フランク族のカール王(742年~814年)がローマ教皇に指名されて大帝(神聖ローマ皇帝在位:800年~814年)となると、彼はキリスト教国である西欧の国を守ると同時にかつての西ローマ領を奪還するべく戦いを開始。すぐに結果が出たわけではなかったが、強いフランク族の存在が、西欧を暗黒の中世から救ったのである。カール大帝以降に、領主に付随する騎士階級が誕生する。システムも装備も、かつてのローマ兵とは全くの別物です。王の兵士と言うよりは、騎士は王の臣下(しんか)と言う位置です。武具はまたそこから進化を始める。そこらへんを書いたリンク先以下です。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊また、9世紀、襲われてばかりいた沿岸国の中で海運に特化して海賊との戦闘に力を入れ自主防衛をしながら地中海交易を再開する国がイタリア半島とアドリア海岸から出現する。Marine Republics(海洋共和国)の台頭はローマ帝国以来の地中海交易を活発化させた。ヴェネツィア商人とか、ジェノバの商人はここから生まれている。少なくとも、地中海交易の復活はキリスト教社会の復活の足がかりになったのは間違いない。※ この当時はまだガレー船が主流の時代です。そこらへんを書いたリンク先以下です。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦十字軍の遠征と聖地奪還後に設立された騎士修道会先に少し触れた騎士階級の誕生が、結果的に十字軍の遠征に繋がる。ローマ教皇の命で聖地エルサレムをイスラムから奪還するべく、各国の王は臣下(騎士)を連れて隊を組み出動。第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年。※ First Crusadeではおよそ騎士4200人~4500人。歩兵3万人が参加と伝えられるが、実際の戦力は1/6程度? さらに実際聖地にたどり付けたのは数%。ところで、十字軍の出動をどうカウントしているか?First Crusade (1096年~1099年)Second Crusade (1145年〜1149年)3rd Crusade (1189年~1192年)4th Crusade (1202年~1204年)※ Crusadeは聖戦の意。十字軍はローマ教皇庁が公式にその出動を認めた時にカウントされている。だから勝手に自分たちで行ったのは十字軍とは言えない。また、ローマ教皇庁が認めていたのは大国の君主がそれなりの騎士を連れて出かけた隊を指すから個人レベルのは当然入らない。1~4回が数えられているが4回目は「暴挙」。そもそも聖地へも本当に行く気があったのか? 正当性を考えるなら、十字軍としてカウントできないと思う。※ 4回目が落としたのは同胞のキリスト教国。かつてのローマ帝国の首都である。それはCrusadeではない。内紛に乗じた、ただの略奪行為だった。話を最初に戻すと、最初の十字軍部隊が聖地エルサレムを奪還した後に主要部隊は帰国してしまった。つまり聖地を管理する者が一気に減ってしまったのだ。聖地はイスラム圏の中の孤島のような場所。いつ取り返されるかもわからない危険地帯。巡礼者が、せっかく近郊の港までたどり付いても、そこから神殿まで危険がいっぱい。これがきっかけで、テンプル騎士団やヨハネ騎士団などの騎士修道会(Knights of Christ)が誕生する事になる。聖地への巡礼者を守る為に自主的にできたボランティアの騎士らが昇格してテンプル騎士団となった。※ テンプルは聖地のソロモン神殿(エル・アクサ・モスク Mosque of El Aksa)内に本拠を置く事を許された事からネーミングされた。※ ヨハネ騎士団は後から軍事化。もとは巡礼者の病院だった。つまり、騎士修道会はどこかの王族に属している騎士では無かった。キリストの騎士を名乗のる慈善団体のような立場。彼らはローマ教皇庁には従った。※ 各国に窓口となる事務局など支部も持っていた。十字軍の騎士が着用していたのがMail (Armour)である。いわゆる鎖帷子(くさりかたびら)。特にテンプル騎士団は、Mail Armour(メイル・アーマー)の上にシトー会の白装束をつけて戦っていた。これら騎士修道会は中世あこがれの存在となる。信心深い者らは十字軍に参加する事を夢見ていた。一方、彼らの事務局のまわりには武具や武器の商人らが集まってきていた。十字軍時代は、武器も兵士も大量に必要であったからだ。要するに、十字軍が聖地を奪還してしばらくは、兵士の補充、バレスチナへの食糧、武器など物資の輸送。また大量に押し寄せる巡礼者の旅費など経済はものすごく回っていたわけです。騎士修道会を書いたリンク先以下です。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)リンク 新 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)一時は聖地エルサレムを奪還し、周り(パレスチナ)に十字軍国家も複数建設していたキリスト教軍であったが、100年後には一変。エルサレムを奪われ、追われ、さらにアッコを奪われキプロス島、最後はロードス島に逃れて縮小されて行くのである。結局、エルサレムを奪ったのは最初だけで終わった。Second Crusadeに至っては、エルサレムにもたどり付けなかった。因みに、十字軍の活躍と共に海洋共和国(Marine Republics)は多大な恩恵を受けていた。先に触れたが、巡礼者や兵士、また武器や食料を運ぶ為の船や荷に特需があったから当時の海洋共和国は11世紀頃にどこも全盛期を迎えている。とは言え、直接エルサレム近郊の港に着岸できる権利を持った海洋共和国は3つくらい。逆に言えば、パレスチナの港に着岸許可を持つヴェネチアやジェノバしか、巡礼者を船でエルサレムまで(地中海を横断して)運べなかったのである。だから聖地行きの船はヴェネチアやジェノバから出航していた。西洋の鎧のルーツと名称話をタイトルの甲冑に戻します。西欧の中世の鎧は、およそ3つのタイプに分類できます。Mail (Armour)・・・・・連状の鎖で造られた俗に「鎖帷子(くさりかたびら)」の衣。Mail and plate armour・・鎖帷子と鋼鉄のプレートの混合。Plate armour・・・鋼鉄の鎧(よろい)ですが、これもまた呼び方が複数。Hauberk(ホーバーク)・・そもそもはMail で造られたシャツがHauberk (ホーバーク)です。 (Part2の時に説明)※ しかし、Mail hauberk(メイル・ホーバーク)、Chain hauberk(チェーン・ホーバーク)と素材を入れて表現する人もいる。この場合、鉄のプレートで造られたPlate armour(プレート・アーマー)の事をsteel hauberk(スチール・ホーバーク)と呼ぶ場合もある。つまり、Mail Armour、Armour Clothing Mail、Hauberkと呼び方もそれぞれ。だからややこしかったのです。ホーバーク(Hauberk)ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)からこちらは西洋の甲冑 2」で一度紹介していますが・・。メイル(Mail)でできたシャツがホーバーク(Hauberk)「Mail (armour)の歴史」などはPart2で扱っています。リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)ゲント(Gent) フランドル伯居城からメイル(Mail)の編み方に厚みがあります。チェーンのつなげ方も特徴があるようですね。ベルギーのゲント(Gent)にあるフランドル伯の居城は、十字軍時代に建造された古い城です。マクシミリアン1世の代にハプスブルク家に受け継がれたフランドル。※ もともとブルゴーニュ公領だったフランドル。妻はそのブルゴーニュ公の1人娘。ゲントは孫のカール5世(Karl V)の生まれた街でもあります。武具の他に拷問器具の博物館でした。※ 城は写真だけ少し公開してました。リンク ゲント(Gent) 3 (フランドル伯居城)メイル・アーマー(Mail Armour)ホーバーク(Hauberk)の説明を見て解るのは、やはり中世期の西洋の鎧(よろい)は、ギリシャやローマ時代の胸当(ロリカ・Lorica)ではなく、鎖帷子(くさりかたびら) Mail Armour から始まっているようです。その鎖帷子がいつ頃出たのかは定かでない。でも原型は古代青銅時代にあったらしい。当時、鉄はまだ希少品。古代ギリシャには青銅製の品があったらしいが、先に紹介した鱗(うろこ)の鎧(よろい)、ロリカ・スクマタ(lorica squamata)の方が人気があったのかもね。メイル(Mail)の素材は、中世の欧州で鉄(iron) or 鋼鉄(steel)となった。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)左のカブトは7世紀頃から? 十字軍の兵士もこのタイプを被っていたかも・・。※ 9世紀から13世紀にかけて最も一般的に着用されたメイル(Mail)防護服である。もしかしたら、古代の物とは、ルーツが違うかもしれない。なぜなら、中世のものは郵便輸送用の袋がルーツらしいから・・。中世の鎖帷子(くさりかたびら)が「メイル(Mail)」と呼ばれるのは、そうした理由かららしい。余談ですが、一般の郵便システムができるのは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世 (Maximilian I)(1459年~1519年)の時代、1516年である。マクシミリアン1世の時代には、すでにPlate armour(プレート・アーマー)が出現している。※ マクシミリアン1世は中世最後の騎士と呼ばれている。※ 郵便事業のルーツについては以下に書いています。リンク 欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来リンク 欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポスト※ 神聖ローマ帝国圏の郵便輸送事業は一社独占で行われていた。馬車も制服も目立つ為に黄色であった。冒頭に触れたが、欧州では、古代に素晴らしい文明があり、それをローマ帝国が引き継いではいたが、ローマ帝国が衰退の道をたどった時に西ローマ側(現EU諸国)は一度文明がリセットされている。だから? 中世期の西洋の鎧(よろい)は、メイル アーマー(Mail Armour)から再度始まっている。とする説はあながち間違いではないと思う。そのメイル(Mail)は十字軍時代に活躍し、欧州ではプレートの鎧が出現する14世紀まで長く利用されていた。防護性も使い勝手も良かったのだろう。しかし、武器の変化に伴いメイル(Mail)だけでは使われなくなった。※ イスラムではオスマン帝国時代を通してずっと使用されていたが・・。兜 バルビュート(Barbute)とイタリアン サレット(Sallet)バルビュート(Barbute)ミラノ ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)から古そうに見えるけど、実は15世紀のイタリアで人気だったヘルメット。左 1460年 T字型 メトロポリタン美術館右 1470年~1480 年 Y 字型 メトロポリタン美術館※ 上の写真はいずれもウィキメディアからかりました。バルビュート(Barbute)は古代ギリシャのコリント式に似ている事から古代礼賛のルネッサンスの中で生まれたヘルメットと考えられている。知識人が多くいたイタリアならではの古代へのリスペクトと考えられる。実際、イタリア以外での人気は無かったらしいから・・。参考に以下に古代ギリシャのコリント式ヘルメット(Corinthian helmet)を紹介。左 BC500年 青銅製のコリント式ヘルメット(Corinthian helmet) ミュンヘン古遺物博物館右 BC430年頃 コリント式ヘルメットを付けたペリクレスの胸像 バチカン美術館Vatican Museumsこれ自体は後年のコピーらしい。※ 着用した時に首筋が守られる造りだった。※ 上の写真はいずれもウィキメディアからかりました。比べると解るイタリアン バルビュート(Barbute)より遙かに芸術性が高いコリント式。防御能力も高そうです。でも、重かったでしょうね。なぜペリクレスを載せたか? そもそもギリシャの重装歩兵は戦闘時以外ではペリクレスのようにヘルメットを上向きに着用していたらしい。ローマ帝国でも1世紀まではイタリア式コリント ヘルメットが使用されていたらしいが、ローマ兵も上向きに着用の慣行からスッポリかぶると言うより帽子のように着用していたらしいのだ。それが粋(いき)な着用の仕方だったのかもね。 ローマ帝国ではギリシャ文化を礼賛していたようだから・・。イタリアン サレット(Sallet)それ故? 無駄な部分ははずされ? 安全性は落ちるけど、最初から被るだけのサレット(Sallet)誕生につながったのかもしれない。ミラノ ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)から頭頂部が尖っているのは、そうする事で強度が得られたから。サレット(Sallet)とバルビュート(Barbute)は、ほぼ同時期にイタリアに現れた関連したヘルメットだったらしい。アベンテイル(Aventail)ヘルメットと Mail が合体したもの。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)突起にメイル(Mail)をカーテンのようにつなげて利用していた? と思われる。1320年頃から着脱式が出てきたらしい。こうした表面がみががれていない鉄色の黒い甲冑も存在する。エドワード黒太子(Edward, the Black Prince)(1330年~1376年)と呼ばれるイングランドの王太子がそう呼ばれたのは、甲冑の色が黒だったから、という説もある。??ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)被るだけのタイプ?アーメット(Armet) 15世紀から17世紀半ばまで使用されたArmetはバイザーが横開き。Close helmetは縦開き。サンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)から (ベルギー ブリュッセル)写真がなくて、少しぼけてますが、横開きはこれくらいしかなくて・・。これがArmetかな?アーメット(Armet)はイタリア、フランス、イギリス、低地諸国、スペインで広く使用されたらしい。ベルギーは低地だしね。クローズヘルメット(Close helmet)ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から中世後期からルネッサンス時代1390年~1410年バイサーはとがっていたらしいが、1410年頃からバイザーは丸みを帯びてくる。サンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)から (ベルギー ブリュッセル)国により? それぞれ。タイプがいろいろあります。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から右のはどこから開くのかもわからない。マクシミリアン・タイプウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)からヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)マクシミリアン・タイプ? のドイツ式クローズヘルメット。ベローズバイザー付き。1520年。アーメット(Armet)と似ているが、バイザーが縦に開らく。またクローズ式でもニュールンベルク型とアウグスブルク型があったらしい。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から本家のマクシミリアン・タイプ?神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世 (Maximilian I)(1459年~1519年)はブルゴーニュ公女(一人娘)と結婚した事で金羊毛勲章(Toison d'or)をハプスブルグ家に継承した。マクシミリアンが中世最後の騎士と呼ばれるのは、彼がブルゴーニュ公の領土をフランスから守ったからなのである。フランスvsオーストリアの因縁はそこから始まったらしいが・・。因みに彼の孫がカール5世(Karl V)(1500年~1558年)である。※ 金羊毛勲章(Toison d'or)と公女との結婚の事など書いています。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)ゲントのフランドル伯居城にもマクシミリアン・タイプがありました。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)からトーナメント用の騎士の所に展示されていました。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から皇帝もしくはそれらに準じる人たちの甲冑かも金の象嵌細工がほどこされ、帽子も盾も非常におしゃれ。いずれにしてもキズもなさそうなので、実戦使用は無かったと思われる。1500 年頃から、甲冑やヘルメットにもファッション性が現れてくる。クローズヘルメットは多種多様なものが現れてくる。実践やトーナメントはもちろん、パレードやお祭りに特化したような物もあらわれる。状況でパーツの取り換えなどするタイプも出ていたらしい。トーナメント武具は前回紹介していますが、馬上から長い棒で付き合う試合なので防具は特殊な形に進化しています。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から戦場で目立つ為なのか? ゴージャスすぎる甲冑後ろの肖像画の方の甲冑ですが、誰か調べている時間も無いので・・。奇妙なヘルメット「グロテスクな」バイザーを備えたヘルメットも数多く残っているらしい。これらは、パレードやお祭りの際に着用される「衣装鎧」の一部として使用されたと考えられています。下のは肖像の人物に似ているかも。イタリア ルネッサンス期の甲冑メイルとプレートの混合写真を探していて、変な物を見つけた。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から右の騎馬のおじさんは細かいメイルとプレートの混合であるが、正面の甲冑は何か変。ヘルメットが螺髪(らほつ)柄だ甲冑もちょっと異色。甲冑の主はウルビーノ公フランチェスコ マリア 1 世(Francesco Maria I) (1490年~1538年)。ローマ風の鎧 。これはイタリアン、 ルネサンスの典型的なスタイルらしい。布地にたくさんのプレートを縫い付けてできているらしい。1532年頃にミラノの有名な甲冑師フィリッポ・ネグローリ(Filippo Negroli)によって制作。ウィーンに説明はなく、ネットで画像検索して見つけました。ところで、前回「ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日」の中、「ルネッサンスの中で掘り起こされた古代の舞台劇」でも書きましたが、この時代、15世紀、イタリアでは偶然も含めて多数の過去遺跡の発見や書物の発見(ローマ時代やギリシャ時代の)があったのです。知識人や人文学者、また芸術家らがこぞってそれら過去の遺物を掘り起こし、研究を行い、礼賛し、古代にあった文明を復興させようと活動。それがルネッサンス(Renaissance)です。※ Renaissanceはフランス語で「再生」の意。それにしてもエンボス加工で螺髪(らほつ)の造形って、笑うこれはリクエストなのか? 甲冑師の趣味なのか? 説明ではムーア人の・・となっていましたが、これはまさにヘレニズム期のペルシャの人々の頭です。ヘレニズム期にペルシャ帝国で、ギリシャ彫刻のスタイルを借りて初めて仏像が制作された。それら像は東洋に伝来。ブッダの頭髪はペルセポリスの壁画にいる人々と全く同じ螺髪(らほつ)のヘアスタイルです。下は象嵌細工がほどこされた鎧。黒く磨かれた鎧に金線を埋め込み模様を描く象嵌細工(ぞうがんざいく)の手法と、エンボス加工の技術で造られた鎧だそうです。金の絵付けかと思ってましたが象嵌細工だったのですね。金工象嵌は、元々シリアで生まれ、シルクロード経て飛鳥時代に日本にも伝来した技術です。シリアのダマスカスで生まれたからダマシン(Damascene)と呼ばれる。トレドの工芸品の土産として今も有名。トレドではダマスキナード(Damasquinado)と呼ばれている。6世紀~13世紀、イベリア半島はイスラムに支配されていた。キリスト教と反転するレコンキスタ後は、改宗して残留した元イスラムの職人らが、キリスト教文化と融合したムデハル(mudejar)様式なる建築などを残している。スペインが他の欧州と少し違うのはその為だ。また、シチリア島もイスラムに占領された時代があり、シチリアでもムデハルが見られる。金工象嵌は、イスラムの職人らが欧州人に伝えた技術だったのかもしれない。因みに、イベリア半島は1492年のイスラムのナスル朝(グラナダ王国)陥落で完全に一掃された。中世後期ヨーロッパで有名な甲冑師一族であるアウクスブルクのヘルムシュミート(Helmschmied)家の作品。スペイン王フェリペ 2 世(Philip II)の騎馬戦闘用の鎧甲冑師デジデリウス・コルマン・ヘルムシュミート(Desiderius Kolman Helmschmied)(1513年~1579年)制作。1544 年頃。画像が暗すぎてかなり色調を明るくしてます。カラーが少し違うかもしれません。この鎧は神聖ローマ帝国皇帝カール5世(Karl V)(1500年~1558年)(神聖ローマ帝国皇帝在位:1519年 ~1556年)が息子フェリペ 2 世(Felipe II)(1527年~1598年)の為に発注した鎧。ウイーンにはボディ。スペインにヘルメットがあるらしい。若かりし頃のオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)の肖像上の写真はウィキメディアからかりましたが、デルフトのプリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)にあった肖像画で、若かりし頃のオラニエ公です。彼が身に着けている甲冑が、先に紹介したフェリペ2世の甲冑と同じ甲冑師、デジデリウス・コルマン・ヘルムシュミート(Desiderius Kolman Helmschmied)の作品です。ヘルムシュミート家では、神聖ローマ帝国含む複数の王侯貴族を顧客としていた。ヘルムシュミート(Helmschmied)家の代表するメンバーローレンツ・ヘルムシュミート(Lorenz Helmschmied) (floruit 1467年~1515年)コルマン・ヘルムシュミート(Kolman Helmschmied)(1471年~1532年)デジデリウス・コルマン・ヘルムシュミート(Desiderius Kolman Helmschmied)(1513年~1579年)15世紀後半のヨーロッパの有名 鎧鍛冶家アウグスブルク(Augsburg)のヘルムシュミート(Helmschmied)家インスブルック(Innsbruck)(Austria) のゾウゼンホーファー(Seusenhofers)家ミラノ(Milan)のミサリア(Missaglias)家イギリス サセックス伯の甲冑ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)第5代サセックス伯ロバート・ラドクリフ(Robert Radclyffe, 5th Earl of Sussex)(1573年~1629年)の甲冑。先に黒大使の話を書きましたが、時代は違えど、イギリスでは黒が好まれたのかな?あるいは、霧の多い国だから、目立つ為かもしれない。ナポレオンはそこに彼が居るのが判る為に帽子をわざと横向きに被ったと言われている。戦いにおいて、大将がどこにいるか臣下らから判る。と言うのも必要だったのかな?グローブ(glove)グローブの試着見本がありました。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)手の平側はなめし皮革。グローブもそれぞれなのか? 時代による変遷か? 使用目的別なのか? 役割別なのか?手のひら側はなめしの革です。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から細かいメイル(Mail)で繋がれている。これは蒸れ防止なのか? より細やかに動かせる為なのか? 武器と一体化したグローブもありました。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)からガラスケースの中なので反射と写り混みで見ずらいのが難ですが・・。おまけ股間用の鎧メイル(Mail)だけでなく、こんなカバーもあったようですが、写真はコレのみでした。行方不明になりがちなのかな?武具に詳しいわけではないので、こんな程度の紹介しかできませんが、とにかく写真が大量にあったので写真公開をしておこうと思ったのです。これらは見本でなく、後世のレプリカでもなく、全て実戦用に当時造られた武具だからです。しかも、今まで、いろんな美術館、博物館などで、使い古しの汚いのや、兜だけとかいうのは見てきましたが、大量に、ここまで保存が良い武具を見たのは初めてです。例えば、フランス革命で解体されたフランスには、王家の物は何一つ残っていない。革命期に略奪されたり、革命政府に売り飛ばされ(競売がおこなわれたりしている)たりと紛失しているからです。でも、オーストリ帝国の場合、同じく王政は解体されはしたが、第一次大戦後にゆるやかに解体されたし、解体以前からハプスブルグ家のコレクションは美術史美術館で一般公開されていた。フランスのように散逸する事はなく、王家のものはそのまま残ったのだと思われます。※ 美術史美術館は1891年に開館。武具もその中の一つであろうが、武具は美術史美術館ではなく、新王宮の方の美術館で公開されています。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien) 武器と鎧のコレクション)(Collection of Arms and Armour)にて展示。※ 新王宮美術館の方は以前紹介しています。リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)新王宮は、外から外観の写真を撮る人はいるかと思いますが、中に入れると知らない人は多いはず。宮殿は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世( Franz Joseph I)(1830年~1916年)(在位1848年~1916年)の為に1869年に計画され、1881年に建設開始、1913年に完成。つまり、ほぼオーストリア帝国解体後に完成したから結局ハプスブルグ家の人々は誰も住まなかったという曰くのある宮殿になっています。なかなか時間が無いと行けないと思うので、これだけでも誰かの参考になれば幸いです。「ハプスブルグ家」関連はいろいろ書いています。関連のBack numberリンク 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント) 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ハプスブルグ家の三種の神器リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃ポンパドール夫人らとタッグを組んだオーストリア継承戦争の事を書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)昔のなのでショートです。リンク ベルヴェデーレ宮殿 1 (プリンツ・オイゲン)リンク ベルヴェデーレ宮殿 2 (美しい眺め)リンク ベルヴェデーレ宮殿 3 (オーストリア・ギャラリーと分離派とクリムト)リンク カールス教会 1 (リンクシュトラーセ)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)他にもあるけどあまり昔のは見てほしくないのでのせません
2023年11月10日
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続編 「西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑」のリンク先をラストに追加しました。織田信長の政策の一つに「兵農分離」と言うのがある。それ以前の戦いでは畑仕事の暇な農閑期(のうかんき)にしか人を徴集できなかった。つまり大きな戦は農閑期に限られたと言う事だ。そこで織田信長は農民にお金を払って兵として正式に雇い入れる・・と言うスタイルを思いついた。これならいつでも戦に出る事が可能。武芸に励む事も可能。農家の方も家督を継げない次男三男に就職の道が開けたのだから喜んだであろう。そしてそこに兵隊のプロが誕生したのである。※ 織田家には給料を支払うだけの収入があった。一方欧州の方は、ローマ帝国が滅んでからはカール大帝(742年~814年)が立て直しを図るまではあらゆるものが零(ゼロ)になってしまっていた。つまり欧州の歴史はローマ帝国の崩壊で一度リセットされ、カール大帝以降に全く新しい方法で体制作りが始まったのである。そんなわけで、欧州でもカール大帝の頃まではかつてのような兵隊のプロは存在しておらず、農民が主に領地を守る自主防衛の為に戦いに参加していたにすぎなかったようだ。(侵略者、蛮族との戦い)西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)騎士の誕生騎士道の高まりが騎士を増やした疑似戦争 トーナメナントお金のかかる馬と武具ウィーンの新王宮の美術館から時代はたぶんハプスブルク家出身神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年~1519年)の頃。彼は中世最後の騎士と呼ばれている。※ マクシミリアン1世は「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」の中、「金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳」にて説明しています。彼は金羊毛騎士団を設立したルゴーニュ公の1人娘マリー・ド・ブルゴーニュと結婚し、妻の相続する領土を守った騎士なのである。そして彼は金羊毛騎士団と金羊毛勲章を継承し、ハブスブルグ家にもたらした。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)騎士の誕生日本においても、西洋においても、戦争と農業は密接に関係している。農業の大切な時期には当然誰も行きたがらない。かの十字軍の遠征でさえ、農閑期(のうかんき)に出発し、とっとと聖地奪還して次の農繁期(のうはんき)までには帰国すると言うのが当初の予定だったのだ。つまり初期の戦(いくさ)と人材の関係には農繁期(のうはんき)と農閑期(のうかんき)の問題があったと言う事だ。。そこで欧州の領主は農民に一定期間の徴兵を納税代わりの義務として課せるようになる。戦争に特化した傭兵が現れるのはこの頃(11世紀頃)だ。最初は農民が自分達の代わりに雇ったらしいから・・。しかし傭兵の裏切りにあう事もしばしば。彼らはお金の高い方に動く。やがて王は彼らと長期契約で土地を与える代わりにきちんと武装して兵力となりえる臣下を持つに至った。(当時は財源が乏しく与えられるのは土地くらいしかなかったらしい。)これが即、騎士と言う訳ではないが、これがルーツになるのだろう。土地をもらい受け、領主となった彼らは代々武芸に励み、土地とその職を相続していく事になる。騎士階級となる臣下の誕生である。※ ところで英語のKnightには「騎士」だけでなく「従者」の意味もあるそうだ。戦士と言うだけでなく臣下と言う意味か?マントの下の防具もはや甲冑を超えてますね。騎士道の高まりが騎士を増やした以前紹介した「ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)」 騎士をめざした貴族の子弟(2013年9月)リンクロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)でも既に紹介しているが、南フランスでは財産は子に均等に相続されるものの、北フランス、イングランド、ドイツでは長子相続と言う制度がとられていた。つまり騎士道の華やかなりし頃のイギリス、ドイツ圏ではほとんどの財産が長子のみに引き継がれ、長男が亡くなれば別であるが、通常は次男以下の息子には何も与えられないので自力で自活の道を探すしかなかったようだ。そこで家督を継げなかった者達の中で騎士をめざした者達が増えたようだ。もちろん聖職に進む者も多かったろうが・・。一方領主の側にも理由があった。素晴らしい領主の周りには立派な騎士が集まる・・と考えられ、競って優秀な騎士を求めたからだ。自ら騎士道の手本を示して騎士と騎士道のブームを造った一人がイングランドのヘンリー王子だ。※ イングランド(プランタジネット朝)のヘンリー若王(Henry the Young King)(1155年~1183年) ヘンリー2世の次男。彼については騎士ウィリアム・マーシャル(William Marshall)のところで触れているが、当初彼は次男であった為に有能な騎士のウィリアム・マーシャルと共に自ら騎士として道を求めたようだ。粘り強さと賢さ。王となっては立派な騎士が彼に集まるのを見て当時優勢だったフランドル伯フィリップでさえ一目置いたらしい。残念ながら熱病で亡くなり、彼の意志を継いで騎士ウィリアム・マーシャルが十字軍として聖地に向かっている。疑似戦争 トーナメナント最初の騎士がいつくらいから出たのか定かでないが、騎馬による槍試合が騎士のスタイルとなり、その戦法を最も得意としていたのがフランドル伯だったようだ。蛮族がせめてくる以外は余計な戦いは禁止され、あっても小競り合い程度が続いた時代、トーナメントと言う疑似戦争ゲームで戦っていたのがフランドル伯とイングランドのヘンリー王子だ。(他にももちろんいただろう。)彼らのトーナメントは一騎打ちかと思いきや、数百人規模の本格的な戦いだったようだ。当然怪我人や死者も出るし、負ければ鎧(よろい)を取り上げられたり馬を持って行かれたりと損害も大きい。(捕虜はお金を払って鎧や馬をひきとったらしい。)つまり勝てばゲームと言えど大きな利益が得られ、戦功によっては騎士に昇格できるチャンスだったわけである。そんな中前出の騎士ウィリアム・マーシャルは負け知らず。強さと信頼の置ける彼はヘンリー2世、ヘンリー若王、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世と歴代5人の王の側近として貴族にまで昇進している。(爵位や領地をもらい。王の親族と結婚。一国一城の主になる。みんなの目指した英雄騎士である。)お金のかかる馬と武具出世を目論む者達がトーナメナントに参加し、賞金を稼いだり名を挙げる事で領主に取り立てられる? しかし、それは簡単な事ではない。武具を身につけるには相当なお金が必要。最高の騎馬はパレード用の馬と比べると10~30倍の値がついていたらしいし、騎士の正式な装備にはそうした馬3頭分くらいかかったらしい。騎士になるには、血統も必要だったらしい。騎士見習いにとなるべく推薦をもらい、他の騎士の元に武芸の奉公に行く事がいつしか慣例となっていた。そこで教えを請い、武芸を磨き、騎士道を学ぶ。馬に乗り武器を使えるようになるまで幾星霜(いくせいそう)。最初は誰か騎士のサポートからスタートだろう。何年も従者を続けて20年と言う場合もあったらしい。貧しい農家の子がいきなりトーナメントに参加できる事はほぼなかったであろう。ウィリアム・マーシャルのような例外はあったであろうが、彼でさえ最初の従者時代と騎士なりたての頃は貧困だったらしい。賞金を稼げなければ結婚もできない。だから騎士は案外晩婚だったようなのだ。トーナメント用の甲冑棒で突くだけと言っても走った馬からなので相当の衝撃らしい。たから防具も盾もどんどん大きく強くなって行ったのだろう。防具の背中。フィット感が、技巧の極致。実用工芸品ですね。しかし、これもトーナメントで使用すればボコボコになったらしい。脱ぐのに鍛冶屋のお世話になる事も・・。もっと凄いのが下の武具。スカートの様な回しがついている。こちらは金槌での殴り合い用の武具らしい。これもマクシミリアン1世の時代。この武具は使用されなかたものなのか? あるいは後から修復補正したものか?危険が無いようにどんどん改良されているのだろうけど・・。そもそもどこから脱ぐのかな?この武具には脇の開きもない。そうそう姫を守る騎士・・は後世ロマン派の時代の小説から生まれた話で実際には従者と言う立場故、そんな色っぽい事はほぼ無かったのではないか?次回 これら甲冑の展示されていたウィーンの新王宮の美術館を紹介します。リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)「西洋の甲冑 」back numberリンク 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail) 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)続編でましたリンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑
2017年01月14日
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続編「西洋の甲冑 4」を出すにあたり、Mail (armour)のルーツの部分を修正しました。6年経過して、後から解った事実もあったので。完結編として完成した暁にはBack numberを後から書き込みます。前回載せた「西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)」はヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)からの出典でした。実は甲冑に関してあちこちで撮影だめしてきているのですが、どこも解説が付いていないのが現状です。(おそらく美術館自体で甲冑の年代も特定していないのだと思われる。)当然展示は一緒くたで、いつ、どこで、どのような戦闘で仕様されていたのか全く見当がつかない状況です。(V&Aでさえ、近世の一部が展示されているだけで系統が示されているわけではない。)そんな中で唯一まとまった多量の武具を展示している美術館がウィーンの新王宮にある「Kunst Historisches Museum Wien」です。そこは武具の他にエフェソスの遺跡、古楽器も合わせての展示ですが、武具に関しては、当然ハプスブルグ家、直の品が多いので他と比べものにならない量と品質(美品)と種類を誇っていました。(私の知る限りでは中世の騎士達の武具に関してのコレクションは今の所一番です。)そこの武具は高貴な立場の人や、本物の騎士の武具が中心。お金のかかった美術工芸品のような品々がならび素晴らしいのですが残念ながらそこも解説書がドイツ語表記のみ。載せるならある程度説明を入れたい所。(勉強が必要で長らく保留にしていたわけです。)まだまだちゃんと紹介できる程ではありませんのでザックリですが、今回はいろんな美術館から写真を引っ張って、初期のArmour ClothingであるMail (armour)。日本で呼ばれる鎖(Kusari)から紹介します。西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)Mail (armour)Mail coifBascinetAventailHauberkMail and Plate hauberk Mail (armour)の歴史ところで、武具の有名な産地が北イタリアとドイツにあったと言う事が調べているうちに解ってきました。当然仕様も違いますし、国(地方)により戦闘の違いか? 好みの違いか? スタイル自体に流行の違いがかなりあったようです。また、地方への伝播は今と違い欧州内でさえ、その時差は幅広かったようです。(武具の製作と使用年が特定できない原因でもあります。)こうした武具の伝播は、特に戦いにおいて戦勝国が戦利品として持ち帰った武具などからコピーされて広まったり、また行商の商人により他国にもたらされたりしたと思われます。ミラノ ポルテベッツォリ美術館((Museo Poldi Pezzoli))より写真右の方はイスラムのMail and plate armour※ 2014年 「ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)」で紹介ミラノ ポルテベッツォリ美術館((Museo Poldi Pezzoli))よりイスラム軍の武具Mail (armour)俗に日本では鎖帷子(くさりかたびら)と呼ばれるKusari(鎖)で編まれた防護服を中世では「Mail 」と呼んでいたようです。「Mail 」と言うと郵便や手紙の解釈にとられてしまいますが、全く同じ文字で別の意味です。その語源は古フランス語(Old French)とアングロノルマン語(Anglo-Norman)からで「郵便用の袋」の意味だったとされています。もしかしたら郵便を入れて運ぶ輸送用の袋が中世の騎士が着ていた鎖帷子に似ていた?いや、むしろ「鎖帷子の頭巾(Mail coif)」の前身が中世人々が頭に被っていた白いリネンの布頭巾だったと考えられている事から「Mail 」は白いリネンの布をさしていた可能生もあるかも? などと考察してましたが・・。はっきり書かれたものを一つ発見。以下。Plate armour(プレートアーマー)の説明ではっきり郵便輸送用の袋からの転用らしい事がかかれていました。リングをつなげた鎖編みの袋(メール)は体にフィットもしたそうです。リネンですが、直接、鎖(くさり)網を体に装着するわけにはいかないからその下は厚手のキルティングのようなリネンでカバーされていたようです。つまり、郵便(Mail)の袋がそもそものルーツだったと言う事らしい。※ 「Mail (armour)の歴史」はラストにも載せています。armour用のMailは、丸環の鎖あみを指す言葉にもなっている。Mail (armour) 部分拡大写真(「Kunst Historisches Museum WienのHauberkから)金属のリングを連続してつなげて頭巾やシャツを編ん刃物よけの軍用の防護服としたものがMailです。上の写真はほぼ原寸に近いかもしれません。技術も未熟な手作業の時代に、細かい鉄のリングを沢山造って繋いで服にする。これは非常に大変な作業です。職人が一着造るのにどれだけの日数を要するのか。つまりMail (armour)は非常に高額な商品であったと言う事です。(使い回しができるけど)Mail coifウィキペディアから借りてきました。上の写真 Mailだけで造られた頭巾は Mail coif と呼ばれている。ボディー用のMail より若干小さめのリングで編まれている。一般的な戦場機甲部隊のファッション。頭部を守る為に考えられたのは言うまでもなく、これが後にヘルメットの誕生に繋がるのである。Mail coif は地域により15世紀初頭まで使用され、15世紀半ばには次世代の合体型のAventailの出現で終焉している。Bascinet中世の欧州に現れた最初の軍用ヘルメットの総称が Bascinet である。14世紀。 Bascinet は最も一般的なヘルメットとされている。15世紀半ば以降はSallet と Armet の出現で無くなる?実はこの Bascinet の定義が今一つ解っていない。ただ、次に紹介するヘルメットとMailのコンビネーションはBascinetに分類されている。当初のBascinetf は敢えて頭頂部が三角錐のようにとがっていたらしいが、1410年頃よりバイザーは丸くなったそうだ。丸みを帯びたバイザーの典型が以前紹介したカール大帝の忌中紋章(きちゅうもんしょう)の形だ。美術館で買ったポストカードを撮影探したが、他の美術館でも Bascinet はほぼ見ない。たいていのヘルメットはSallet か Armet である。Aventail上の写真はイスラム軍のものヘルメットと Mail が合体したものを Aventail と呼んでいるが・・。Aventail あるいは Camail と呼ばれるこれらは、本来ヘルメット周りに取り付けられた Mail のカーテンをさしている。(このタイプは前出の Bascinet に分類されている。)※ 当初はヘルメットに直接Mailがとりつけられていたようだが、1320年頃より着脱可能なタイプが出現。技術的な進化か? こちらの方が手間いらずか? 欧州ではmail だけのmail coif は15世紀後半には完全に消滅。この Mail のカーテン(Aventail or Camail) 部分は後に鉄のプレート(Plate)に代わり Close helm (helmet)が生まれる。HauberkMail で造られたシャツがHauberk (ホーバーク)である。いわゆる鎖帷子(くさりかたびら)である。ウイーン新王宮美術館より 欧州のタイプHauberk の Cape 型である。欧州では14世紀にプレートの鎧が出現するまで主流であったが、イスラム圏ではオスマン帝国の時代を通して使用されていたようだ。下はイスラム圏のものであるが、仕様の年代は不明。ただ、下のタイプは胸に一枚の大きなプレートを取り付けている事から15世紀前半と推定。イスタンブールの軍事博物館のマネキンよりお腹のあたりに小さなプレートが複数取り付けられている。このタイプは Mail and Plate hauberk である。Mail and Plate hauberk Mail and Plateのコンビネーションのタイプである。このような Hauberk は欧州タイプにはなく、中東、オスマン帝国、インド、中央アジア、韓国、日本などに伝わっている。これがいわゆる日本の鎧の先祖となる?Mail (armour)の歴史ルーツは古代青銅時代に始まり、オリエント伝わり、ケルト人を経てローマに伝わり、中世から鉄製になった。・・と、「西洋甲冑武器事典」には書かれていますが・・。ウィキペディアの「Plate armour(プレートアーマー)」の解説では、郵便(Mail)袋からの新たな発想のarmour(アーマー)らしいです。要するに、当時郵便に使用されていた袋は鉄のリングをつなげて鎖編み状態にしたもの。それが人の体にフィットした事もあり開発されたようなのです。だからそれは「Mail 」と呼ばれたり、「Mail (armour)」と呼ばれたりしていた。素材は同一だったと言うことみたいです。確かに鉄を使用する文化が現れ、世界に広まったからと言うのは前提ですが、欧州ではローマ帝国が滅んだ後しばらく文化が消滅したり停滞している。カール大帝以降に復活?武器が変われば防具も変わる。新たな素材の出現で、武具も再構築されたのかもしれない。「Mail (armour)」は14世紀以降「Plate armor(鉄の甲冑)」の出現までは主流であった。とは言えオスマン帝国では近世まで使用されていた。以前紹介した十字軍騎士のフィギュアである。右の騎士の兜がAventailである。鎖帷子(くさりかたびら)の上にシトー会の白装束がテンプル騎士のトレードマークであった。武具の緻密さ、手間などから高価な Mail (armour) は当初は限られた兵士しか着られなかった。それ故、武具の略奪は当然あり、死亡した兵士のMailを脱がして持ち帰る姿が絵画にも残されている。ある意味戦場での最大の戦利品はそうした武具や武器にほかならなかったかもしれません。(持ち帰った武具は自分で使用する場合もあったでしょうが、売り飛ばしてお金に換える事もしばしば・・。)また、戦闘後は実戦経験から新たな服の改良や開発などもされたようです。それは武器の進化に起因しているのは言うまでもありません。イスラムの戦闘は剣が多かったので長らくMail (armour)が使用されたのかもしれませんが、欧州では中世初頭。十字軍時代から現れたcrossbow による攻撃が流れを変えたようです。大規模傭兵軍(crossbowmen)による部隊攻撃により重装備をした貴族の騎士(aristocratic knight)らもそれには太刀打ちできなかったようです。※ 矢の先に鋭い針がついていて、Mailを貫通してしまう。富裕層の騎士達はMail (armour)を捨て、身体のさらなる領域を鋼鉄で保護。気がつけば全身を被う鋼鉄のフル装備となる甲冑が誕生した? ウイーン新王宮美術館より crossbow 15世紀西洋の甲冑 つづくリンク 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル) 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑
2017年01月10日
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続編を出すに当たり、多少の書き換えをおこなっています。Break Time(一休み)ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)から珍しい素材を持ってきました。V&Aは以前「ビクトリア& アルバート博物館 のカフェテリア」で少し触れていますが、素材の宝庫です。何しろここは前にも紹介しましたが、1851年のロンドン万国博覧会をきっかけに誕生した美術デザイン博物館(工業製品博物館)だからです。※ 1899年にV&Aに名称変更。私的には非常に興味あるものがたくさんありましたが、今回は中から中世の甲冑(かっちゅう)を選びました。西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)戦闘の変化から武具も変化Armour Steel ClothingのテキスタイルArmour Steel Clothingとは、直訳すれば鋼鉄の鎧(よろい)服。古来より戦闘で使われてきた防具服で、俗に甲冑(かっちゅう)と呼ばれる戦闘用の装備あれこれを取り上げようと思います。戦闘の変化から武具も変化今に残る古い時代のものはギリシャ時代の物に遡り、それらは考古学的な遺産? 割と多くの美術館に置かれているし、教科書にも載っていたかもしれない。たぶんカブトなどは一度は目にされているかと思います。でも甲冑(かっちゅう)は時代と共に素材も形も変化して行きます。それは戦闘方法の変化に伴い、進化せざる終えなかったからです。戦闘方法の違い?剣や斧、弓が武器の頃は、胸当(ロリカ・Lorica)も皮を厚手にした武具でも対応できたかもしれませんが、鋳物(いもの)の素材や、技術の進化。また職人の技術の向上もあり10世紀頃には鎖帷子(くさりかたびら)なども登場。※ 次回「西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)」で鎖帷子(くさりかたびら)は説明。リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)金属が希少だった当時、しかもフル・オーダーですから非常に高価。武具は誰もが装備できるような品ではなかった。それ故、戦闘の戦利品と言えば、馬もそうであるが、敵方の武具である。遺体からはぎとって、自分に合えば自分で使用しただろうし、売ってお金に換えた。戦い毎に武器も少しずつ新しい物が登場。数百年続いた十字軍の戦闘ではより新しい武器や武具が開発された。※ 以前書いたが、ロンドンのテンプル教会事務局の周りにはそんな武具屋も集まって来ている。金槌などの武器から中世には弓からボウガンに移行。ボウガンの登場は武具を大幅に変える事になった。当然、Mail (armour)では貫通する。もっとしっかり体を守れる武具に進化したのだ。甲冑(かっちゅう)と言うと、誰もが想像するフルフェィスにフルボディーを包む金属の甲冑が登場するにいたる。結論からすると、ボウガンの登場が戦闘方法だけでなく、武具も変えたのだ。当然、拳銃が登場するとさらに変わる。(ナポレオンの戦闘では利用されていた)が、今回紹介するのボウガン登場の頃の中世の甲冑です。※ 当初の拳銃は玉が石の小さいのであったから、今程の衝撃もダメージもなく、鋼鉄でも対処できた模様。Armour Steel Clothingのテキスタイル今回の紹介は、「甲冑デザインのスタイルブック」と言う鎧と兜の見本帳みたいなもの。高級顧客への商品パンフと言ったところでしょうか?非常に珍しいものと思われます。それを一部撮影してきました。そのブックから見る甲冑のデザインのお洒落度は感心する所で、これらは現代の衣服に密接に繋がって行っているのだと言う事です。V&Aはデザイン史上の動きを表現する甲冑を有名な生産地であるドイツ南部やイタリア北部から集めている。デザインだけでなく、柄が入っている所が注目です。金属の鎧は動きやすいようにパーツに分けられて製作されている。下はそのパーツのデザイン展開図。見て解るように非常に凝っています。それに全て体に合わせた特注になるわけですから当然高価です。紹介しているデザインは、かなり高位の階級の人用のものだと思います。そもそも甲冑は高価なのでフルセット装着できる者は非常に限られていたからです。戦闘要員の比率からしたらトップとその周りの騎士階級の者達くらい数%?逆に、大将である王侯貴族の為にはこんなデザイン・ブックまで存在していた。と言う事に驚きではあります。ところで、甲冑にはBattle Armour(戦闘用武具)とTournamemt Armour(トーナメント用武具)があり、そもそも用途と言う意味で仕様も違うようです。※ トーナメントの武具は「西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)」にて紹介。リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)西洋では古代ギリシアやローマの時代は青銅や革の甲冑が使われていたと言います。が、今回紹介している騎士スタイルの甲冑の歴史は古代ローマではなく、カール大帝(742年~814年)以降に生まれてくる戦闘のセミプロ達の誕生と臣従制度によって誕生した騎士制度が大きく関係しているようです。※ それら騎士制度については、「ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)」の所で少し触れています。また、「騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)」も合わせて見てもらえると良いかもしれません。リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)花柄の甲冑なんてちょっとオシャレで驚きでしたが・・。展示室の資料に寄れば、ルネッサンス期の貴族が鎧に求めたものは、体の保護と言う物理的な事だけでなく、権威や威厳、威圧もあったようです。その為、動作に影響がでない事は当然ながら、そのデザインには相手に精神的なプレッシャーを与え、かつ印象づけるような巧みなものが理想とされたようです。また甲冑のデザイン装飾だけでなく、戦いで刻まれた装甲の傷などもオシャレの勲章のような物で、そんな甲冑を着けた若い男性は、ファッションリーダー的な存在でもあったようです。(今風に言えば、モテ・アイテムだったと言う事か・・)製作年代が解らないが、ウィーンの新王宮にあったフェルディナント2世(Ferdinand II)(1529年~1595年)の武具が比較的似ていたので下の甲冑は15~16世紀の君主用かもしれない。Breastplate(甲冑の胸当て部分) 1565年フランス製Breastplateの背中部分TassetPauldoron and Gauntlet こうした鉄板製の甲冑が現れるのは14世紀頃のようだ。それ以前は鎖帷子(Mail)で防御されていた。次回につづく 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑
2017年01月03日
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