PR
Keyword Search
Category
Freepage List
ラストに関連Back numberを追加しました。
さて教会の中に入る前にブルゴスの英雄の話しを少し・・。
ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シド
レコンキスタ(Reconquista)
ブルゴスの英雄エル・シド(El Cid)
映画などでも紹介されているので、その名は世界に聞こえていますが 、 レコンキスタの英雄エル・シド(El Cid)は
11世紀にブルゴス近郊で生まれたカスティーリャ 王国の貴族であり騎士
です。
レコンキスタ(Reconquista)
イベリア半島がイスラムに征服されていた6世紀から13世紀。イスラムの宗教下からキリスト教の元に土地を取り戻す・・キリスト教徒による奪還、再征服の戦い
を言います。
時は、西ゴート王国が滅亡した8世紀初頭から1492年のイスラムのナスル朝(グラナダ王国)が陥落するまでを指しています。
以下今までに書いたレコンキスタ関連です。良かったら見てね
2010年2月スペイン・ロンダ 3 (要塞の街・西ゴート王国・レコンキスタ)
リンク スペイン・ロンダ 3 (要塞の街・西ゴート王国・レコンキスタ)
2010年3月スペイン・セビーリャ 2 (街の歴史・イスラム編)
リンク スペイン・セビーリャ 2 (街の歴史・イスラム編)
2010年3月スペイン・セビーリャ 4 (守護聖人とフェルナンド3世)
リンク スペイン・セビーリャ 4 (守護聖人とフェルナンド3世)
ブルゴスの街のオペラ座前にあるエル・シドを称える像
エル・シド(El Cid)
本名はロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar)、通称エル・シド(El Cid)
生年は1045年? 不明、没年は1099年。
その 遺骸は現在妻ヒメーナと共にこのブルゴス大聖堂に眠っています
。
シッドとはアラビア語で「主人」を意味する語が由来で、身分の高い人物への敬称に使われていたようです。
レコンキスタの英雄としての彼の功績は
写真にあるブルゴスのオペラ座前の銅像の碑文にきざまれているように バレンシアをイスラム教徒の手から奪還した騎士
としてです
。
スペイン最古の文学「わがシドの歌」と言うで英雄叙事詩に実話を元にしたエル・シドの功績が描かれているそうで、マドリードの国立図書館に物語の写本が残っていると言う事
です。
(物語なので後世脚色された部分は多いようですが・・。)
その人気は当時よりも後世より高まり、 最初はブルゴス郊外の修道院にあった墓所から1921年になってこのブルゴス大聖堂に移された
のです。
墓所の場所はブルゴス大聖堂の一等地?
クロッシングと言われる交差部の真下です。
交差部の丸屋根にある美しい透かし彫りの星
スペインならでは? のムデハル風の天窓です。
1568年に再建されたこの丸屋根はファン・デ・バリュホを中心として著名な石切職人や彫刻家が携わって完成しています。
レコンキスタ後もスペインでは長らくイスラム建築を主軸にしたムデハルの様式が影響を持ち続けています。
その影響かと思います。
何にしても この天窓はフェリペ2世をして「人の造った物と言うよりは天使の仕様に見える」と言わしめた美しさで、エル・シドの墓のあるこのクロッシングを霊廟のように見せています。
エル・シドと妻ヒメーナの墓所
縞大理石にブロンズ文字
エル・シド(El Cid)は実は王家の内紛に巻き込まれて運命が翻弄された人
なのです。
カスティーリャ=レオン王であったフェルナンド1世の小性として王家に関わり、次代 カスティーリャの国王となったサンチョ2世(在位1065年~1072年)付きとなりその下で活躍
していました。(前半)
王家の内紛は領地問題からです。
1065年、カスティーリャ=レオン王であったフェルナンド1世が死去すると王は王国をそれぞれ子供達に分割
したのです。
カスティーリャを長子であるサンチョ2世が、
レオンを弟アルフォンソ6世(勇敢王)が、
ガリシアをガルシア2世が、
トロとサモラを王女のエルビラとウラカにそれぞれ相続させています。
しかし サンチョ2世は分割した王国を自分の元に集める戦いを始め、兄弟とも険悪になり結果、1072年に暗殺
されています。
(弟のアルフォンソ6世が犯人?・・の説があります。)
しかしサンチョ2世を次いで王となったのがそのアルフォンソ6世。
サンチョ2世の部下であったエル・シドはこの後カスティーリャから追放
されています。
エル・シドは生涯2回~3回追放の目にあっていますが、全てアルフォンソ6世によってです。
簡単に言うと アルフォンソ6世に嫌われていた・・と言う事のようです。
とは言え彼の妻ヒメーナはアルフォンソ6世の従姉妹だったようですが・・。
クロッシングのエル・シドの墓から見るブルゴス大聖堂の内陣の大祭壇
大祭壇は次回に・・・。
エル・シドはキリスト教徒の英雄ですが・・・
1081年に追放された時はサラゴサのモーロ人の君主(タイファ)に仕え、
一時はキリスト教徒とも戦闘していると言います。
そう言う意味では叙事詩にあるようなキリスト教徒の英雄・・とは言えない部分もあります
。
その後 アルフォンソ6世と和解したとも言われていますが、再び追放されると彼を慕う多くの兵士達と共にまだ手のついていなかったバレンシアに向かい
1094年にバレンシアをイスラム教徒から奪回して領地? にしているようです
。
銅像の碑文のようにバレンシアを奪還した事が彼をより英雄視して伝えられているのです。
そこに妻を呼び寄せて暮らし1099年に亡くなっています。
エル・シドの棺と呼ばれる中世の大棺
写真が少しポケています。
これはコルプス・クリスティ礼拝堂に飾られているエル・シドの棺と呼ばれる中世の大棺
で、書類箱として使われていた。・・と説明書には書かれていました。
エル・シドと何か関係はあったのかも・・。
彼の生きているうちから彼の武勇を称える叙事詩が描かれ、歌が歌われていたと言います。
アルフォンソ6世はそんな英雄視されるエル・シドを妬んで遠ざけたのかもしれません。
それにしても史実と伝説はかなり違うようですね
番外ついでにちよっと中世の騎士を紹介。ブルゴスのどこかの礼拝室の壁の絵だったと思います。
エル・シドのように見えて実はエル・シドではないのです。
なぜなら白馬と白い衣装の騎士は聖ヤコブらしいのです。
クラビーホの戦いで突然現れキリスト教軍に勝利をもたらした騎士がいたそうです。
イスラムとの戦いのおり、度々現れ、救世主となったその英雄的騎士は、聖ヤコブの出現と考えられたようなのです。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブの遺骸発見後のブームの中か?
レコンキスタの戦いの中、その白い騎士はレコンキスタの守護聖人として祀られるようになったと言います。
実際にそのような騎士がいたのかもしれませんし、何か他の話と混同されているようでもあります。何より漁師の聖ヤコブが馬に乗れたとは思えませんし、武器を振り回す事もありえない話です。
まして生き返るなんて事もありませんし
何者かが戦う戦士に心の支えを作ったのかもしれませんね。
それにしても中世の騎士はカッコイー。
ブルゴスは、13世紀にはカスティーリャ王国の首都です。レコンキスタを成功させた当時の王国の首都なのです。以下で
ブルゴス大聖堂(サンタ・マリア大聖堂)紹介しています。
関連Back number
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 2 (中世の街)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 3 (ブルゴス 1)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 4 (ブルゴス 2)
ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シド
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 6 (ブルゴス 4)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 7 (レオン)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 8 (オスピタル・デ・オルビゴ橋)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 9 (オ・セブレイロ峠)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 11 (栄光の門)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 12 (聖域、ヤコブ像)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)
アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 … 2024年03月03日
アントニ・ガウディ(Antoni Gaudí) 1 高… 2024年01月22日
ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日 2023年10月08日