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◇ 1月21日(月曜日); 旧師走十四日 庚申; 大寒、初大師週末から予報では、「日本全土は寒気団に覆われ・・・」とか、「中部・関東地方にも降雪の可能性」などとしきりと言っていたのに、一向に雪のかけらも見えない。最近の天気予報は竜頭蛇尾に終わるか、天気の雨や雪への変化が予報より遅いか、どちらかのように思える。気象庁も大方の批判を恐れて楽観予報を避けるようになったのかもしれない。さて、還暦も本厄も中国由来の陰陽道にその起源を持っている。わが国の現在は、古はユーラシア大陸由来の、明治以降は欧州や米国由来の思想・信仰や慣習がどんどん流れ込み、それが昔からのわが国固有の思想や信仰に習合されて、ごた混ぜ状態になっている。しかし、日本人の底流には古来の八百万の神様の時代からの心持が連綿と流れているように思う。このところ、その神様たちがそろそろ多方面で再び動き出しているような気がしてしょうがない。だからという訳でもないが、この12日初亥の日に穴八幡宮にお参りに行ってきた。知り合いが、「余り知られてはいないようだけど、お金回りが良くなるという霊験あらたかな神様だから」と教えてくれたのだ。長期間にわたり散々な苦労を重ねてきたので、人間の理屈や科学的論理を超えた力というものを、かつて理論物理で洗濯された頭でも、ごく素直に受け入れる気持ちに最近はなっている。とにかく、役に立つことならばやってみるに如くはない。そう思い定めて土曜日を利用して出かけてみた。地下鉄東西線の早稲田駅を出ると、穴八幡宮のお社は早稲田通り沿いの、もう目と鼻の先だ。白地に黒で穴八幡と書かれた幟が立っているから、間違えようも無い。馬場下交差点の先の小高い丘の上に向けて続く石段を、折柄の冷たい雨の中を上りきると、八幡様の拝殿だ。なかなか重厚な作りの建物で、中に入ると広い空間はほの暗く、如何にもご利益がありそうな雰囲気だ。ここは、特に冬至の日に一陽来復のお札を求めて、参拝者が長蛇の列を為すそうだが、この日はその意味ではオフ・シーズンだ。おまけに天候のせいもあって、他に参拝者の姿はちらほらとしか見えない。八幡宮だから神社のはずだが拍手の音も聞こえてこない。森閑とした中で何だか他の人も拍手をためらう様子だ。にわか信者の僕も少し自信が無くなる。誤った作法で参拝すれば、願いが聞き届けられるより罰が当たってしまうかもしれない。何しろ日本の神様は本質的に「荒ぶる神々」だ。神々は仏様とは違い、お祭りするより先ず「鎮める」方々である。注意しなければいけない。この穴八幡宮の本来の祭神は応神、仲哀両天皇と、神功皇后のお三方であるそうだ。いずれも2~3世紀、古墳時代の伝説上の皇族の方々である。さてそうなると、本来大本の所在地が出雲大社であるのか、伊勢神宮或いは熱田神宮であるのか?この二系統で参拝の方法は異なる。伊勢神宮系ならば、大多数の神社と同じく、「二礼二拍一礼」の作法でよろしい。しかし出雲大社系の場合は、「二礼四拍一礼」としなければならない。どうしたものかと拝殿内を見回したら、ここで頒布されているお札のリストが貼ってあり、その中に伊勢神宮のお札の名前を見つけた。これで安心して、普通どおりの作法で大きく拍手を打ってお参りができた。穴八幡は1062年(康平五年)、奥州制圧から凱旋した源義家がこの地に武具を納めて祀った事をその始まりとするそうだ。その後1641年(寛永十八年)、徳川三代将軍家光の治世下で、隣接する真言宗の別当寺として放生寺を建設する際に横穴が見つかり、そこから光り輝く金銅仏が出てきた。これはめでたい!という事で、以来「穴八幡宮」と呼ばれ、特に金運の神様として崇められるようになったのだそうだ。この界隈の寺社は早稲田大学が建設される際に、それまでの場所から移築されてしまったのが殆どだそうだが、穴八幡宮と隣の放生寺は移動することなく元々の場所に鎮座しているのだという。神様は土地に執着をお持ちになるもののようで、人間の都合で移動させられてはご機嫌をそこね、ご利益も半分と云うことになってしまいそうだが、その意味では古来からの地に鎮座まします穴八幡宮には、確かに神力の衰えもなく、こちらの願いを叶えてくれそうであった。金運を願って戴くのは、「一陽来復」のお札だ。一陽来復は冬至の別名。この日を境に日脚が伸び始めることから、上昇運を願ったのが冬至祭りの由来である。この一陽来復のお札を来るべき年の恵方に向けて、なるべく高いところに貼るのが作法だそうだ。平成十二年戊子の恵方は暦によれば「巳午(みうま)」、分かり易く云うと「南南東の方角の更にやや南寄り」になる。一陽来復のお札は前面が恵方を向くように(つまり北北西のやや北寄りの柱か壁の高所)貼るのだが、いつ貼っても良いわけでなく、冬至、大晦日、春の節分の晩、時計が12時を回る頃に限られている。これは、立春正月といって、昔の一年は立春に始まり春の節分を以って終わるものであった所為だろう。お札を戴いたついでに、隣の放生寺にも行って見た。境内の大部分は工事中で、流鏑馬をやるほどの広さは、今は感じられない。ところがこのお寺にもお札がある。形は穴八幡宮のお札にそっくりだが、書いてあるのは「一陽来福」と一文字だけ違う。放生寺は先に述べたように、穴八幡宮の別当寺として建立されたお寺である。どちらがご本家であるかはよく分からないが、歴史から云えば穴八幡宮のそれの方が本来であろうと思える。そのせいか、穴八幡宮のお札は800円、放生寺は700円と、微妙な差が付けられているのはご愛嬌であった。
2008.01.21
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◇ 1月20日(日曜日); 旧師走十三日 己未; 二十日正月新暦で年が改まってからもう二十日経った。今日は昔流に言えば「二十日正月」。元旦から二旬日も経てば、もうお正月気分もそろそろ御仕舞にしなければというので、この日には正月の祝いに買い込んだ食材などを一斉に食べ尽くしたのだそうだ。上方では正月に鰤を戴く習慣が広く行われているが、その鰤の頭や骨を粕煮などにして食べ尽くすので、「頭正月」とか「骨正月」とも言ったりするそうだ。他にも「乞食正月」、「棚探し」、「伏せ正月」などという地方もあるようだ。去年は僕にとっては還暦の年であったが、男の還暦が本厄であるとは迂闊にして秋頃になるまで知らなかった。去年は春頃から仕事の方で本当に大変な目に会ってしまい、以降ずぅーっと不如意な状態が続いたままになっている。何でこんな目に会ってばかりなのだろうと、会社の地元の神田明神に参詣に行ったら、境内の立て看板に歳周り表が有って、それを見たら「本厄」と書いてあってがっくりきた。男の厄年は数えで42歳でおしまいだと思っていたら、まだ後に数えの61歳というのが控えていたのだ。何だか騙されたみたいな気持ちだった。女性の方は立て看板に書いてあるのでは満年齢38歳が本厄で、それ以上の年齢の記載は無い。これじゃ不公平だ。その後、お付き合いのある会計士とこの件を話していたら、厄年というのは未だまだ有るのだそうで、古希、喜寿、傘寿、米寿、・・・・と、要するに何がしかの節目に当たる歳は厄年になるのだそうだ。知らなかった。彼女に(この会計士さんは女性である)、「女性だけ厄年が少ないのは不公平だ」と云ったら、その辺は彼女もご存じなかった。「女性もある程度の歳になったら、要するに男と同じに扱われるんじゃないの?」と、割と剣呑な事を思わず口にしてしまって、後で少しヒヤッとした事ではある。還暦の厄年というのは、それが体調にのみならず、仕事の方にまで適用されるのであれば、いささかしんどい事になる。普通のサラリーマンとして会社勤めを続け、大過なくこの歳を迎えれば(昔とは違い最近ではこれに、「会社も大過無ければ」という条件を加えなければならない)、無事定年を迎え、幾許かの退職金を手にして自足し、後は孫のご機嫌を取るか、山里に猫の額ほどのやせ地を借り受け、有機農法による蕎麦作りなどにいそしんで生きていくような年齢だ。ところが僕のように北条早雲の年齢で自立し、他に寄る辺も無い会社を立ち上げた者にとっては、様々な災禍に自ら修羅のごとく対応し続けないと埒が明かない。齢60にして相変わらず疾風怒濤の人生を強いられることになるのだ。そう考えると気が滅入ってしまうので、昨年末頃から自分の実年齢に0.7を乗じて、その歳になりきるよう暗示をかけている。これは別に根拠が無いわけではなく、何人かの方々も同じようなことをおっしゃっている。曰く、江戸~明治時代の男と現代の男性を同列に比較するには、現代男性の年齢に0.7を掛ける位が丁度良いのだそうだ。最近の成人式の光景などを思い起こせば、何となく納得できる気がする。そうすると、今の還暦というのは42歳だということになる。42歳といえば、我が尊敬あたわざる夏目漱石先生の享年(49歳)までには、未だ7年も有るではないか!そう思うと俄然勇気がわいてくるのである。
2008.01.20
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