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◇ 2月13日(水曜日); 旧正月七日 癸未; 旧七草絶滅危惧種というと、どっかの田圃の用水に棲んでいる小さな魚とか、里山の隅に咲く花とか、要するに生き物の事を云うのが普通だけれど、生き物でなくても我々の生活に恐らくはこれから甚大な影響を及ぼすであろうものやしきたりの中にも絶滅危惧種が増えていることを忘れてはならない。銭湯もその一つだ。僕の子供の頃は借家住まいだった。父親が小学校の教員で、「転勤が多いから」というのが表向きの理由だったが、恐らくはそうじゃなかった。東京から岐阜に移り住んで、そこで小学校教員の職を得た父にとっては、当時一戸建ての家を持つほどの経済的な余裕は無かったのだというのが本当のところだと思う。第一転勤による引越しなど、僕自身は一度しか経験していない。養うべき家族や母親弟妹を抱え、裕福でもない地方公務員が借りられる家には風呂などはない。というより、家に風呂があるという所帯自体が当時は少なかったと思う。だから、風呂と言えば銭湯だった。その代り、銭湯はそこいら中にあった。子供の足で歩いても10分以内の距離に、二三軒は有ったと思う。近所の家並みから抜きん出て大きな煙突があり、何故か植物系の名前が付いた、松の湯、桐の湯、竹の湯、梅の湯などという屋号が普通だった。大抵の男の子がそうだったと思うが、はじめて性に目覚めるきっかけは概ね銭湯であった。(或いは学校にあった「竹登り」という遊具であった。)男の子は小さい内は大抵母親に連れられて銭湯にデビューする。入るのは無論女湯だ。そして小学校の低学年から中学年になる頃に、男湯に行くようになる。僕自身、小学校の3年頃に「未だお母さんと一緒にお風呂に入っているの!?」と誰かに言われて、それまで何の抵抗も無く女湯に入っていたのが急に恥ずかしくなり、それ以降断固女湯に入るのを拒否したことを覚えている。男湯に「出世」すると、途端に周りの「先輩」たちが気になる。女湯でお湯をはね散らかしても何でもなかったのに、男湯では途端に怒鳴られる。乱れ籠に脱衣する時は、下着は一番下に置いて上着を重ね、下着が人目につかぬようにしろ。湯殿に入ったら、先ず掛け湯をして体を清めよ。湯舟の中で暴れるな、騒ぐな。周りに聞かずに冷水で湯を埋めるな。石鹸の泡をはね散らかすな。体の石鹸をしっかり落としてから湯舟に入れ。湯舟の中で手拭を使うな。などなど、大勢の人が共用する銭湯には、暗黙のうちにこういう決まりが有って、それを守らないと叱られた。親にだけではない、見知らぬオジサンにも容赦なく叱られたのだ。これは規則ではない。しきたりであり作法なのだ。僕自身は銭湯が大好きで、こういった作法には極めて従順であった。何より広い洗い場に据えられた大きな湯舟にゆったりと浸かるのが大好きだった。緑色や茶色の湯で匂いのある薬湯や、電気風呂のビリビリくるのも好きだった。それに、高い天井に人の話し声や桶の音が響くのも好きだった。知らない人やご近所の顔見知りが入り混じって全裸で適当に交流しているのも好きだった。その銭湯が今や絶滅危惧種なのだ。そうなると銭湯での作法も自ずと滅びる。銭湯の滅びは「町内」の滅びとも連動している。地価の高騰によってそれまでの宅地が高層住宅化し、風呂付の所帯が折り重なって出現した。同様に地場の商店が大規模店舗によって取って代わられ、ご近所の魚屋さんや豆腐屋さん、床屋さんが銭湯に来る事も無くなった。町内の滅びは、町内の作法の亡びでもある。作法と云うのはルールとか規則とか云うものとは違う。作法は、要するに何人かの人間が集まって、共通する空間でそれぞれが何かをする際に、お互いを不快にすること無く、折り合いを付けるための「型」であり「所作」である。そしてそれはお上から与えられたものではなく、自ずと守るべきものとして親や先輩から継承されるものである。作法を守らぬことは、罪ではなく恥である。与えられる罰は、罰金でも服役でも無く、周りからの侮蔑とその結果の孤立である。人間にとって(少なくとも日本人にとって)蔑みを受けることこそ、最も辛い罰であった筈なのだ。我々が気にかけるべきは、生き物の絶滅危惧種だけではない。暫く前までは、当たり前であったはずの作法や美風も絶滅危惧種として、大いに心を遣るべきだと思う。生き物の絶滅を防ぐのは非常に難しいことだし場合によっては自然と云うものに逆らうこともあり得る。しかし、作法は心がけと伝承、教育によって絶滅を防ぐことが出来るのだ。ところで銭湯が絶滅すると、蕎麦屋も滅びるのかもしれない。昔は銭湯の隣には蕎麦屋があった。江戸っ子は銭湯の帰りに蕎麦屋に行って一杯ひっかけ、蕎麦切りを一枚すすって帰るのが常だった。だから銭湯の入湯料とざる蕎麦一枚の値段はほぼ同じだった。そういう風だったから、蕎麦屋には本来座敷など無く、片上がりの席だけが有って、其処に片足と尻を乗せて蕎麦を食い終わるとさっさと帰るのが作法だった。「蕎麦屋の長っ尻」というのは、粋じゃないといって嫌われたものだ。青年時代までは東京に居た亡父から昔教わった話だ。尤も、父は蕎麦は嫌いでうどんの方が好きだったから、余り信用できる話ではないのかもしれない。
2008.02.12
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◇ 2月12日(火曜日); 旧正月六日 壬午; 初午昨日建国記念日についてブログを書いたら、「ルルさん」と云う方からコメントを戴いた。と、いってもこの楽天のブログではない。「50歳未満お断り」という年齢制限の付いたブログがあり、僕は殆ど毎回このブログを書く都度、そちらの方にもほぼ同じ内容を載せている。「楽天・・・」の方はアクセス年齢がかなり低いようで、僕のブログには釈迦楽先生とおっしゃる大学教授以外コメントを下さる方は殆どいない。それ以外のコメントは、有ったとしてもはっきり云ってどこかのチンピラによるもので、内容に関係ない卑猥なコメントばかりだ。おまけにBBSに書き込まれているのも同じようなもので、うっかりサボっているとこういうコメントやトラックバック、書き込みがわんさと増えてしまい、削除するのに手間がかかる。全くヒマ人というか何と云うか、こういう傍迷惑を平気で、且つ熱心にやっている連中の親の顔が見てみたいと思う。(親の顔を見たら見たで、「なるほど・・・!」と云うことになるのかもしれない。だから、実はこういう連中の親の顔なんか見たくはありません。)尤も、こういう「ジャンク」は、一々キーボードを叩いて打っているのではないのかもしれない。プログラムを書いて、新しいブログを察知すると自動的に書き込むような仕組みを作っているのかもしれない。ブログのみならず、メールにもやたらと届く「ジャンク」を見ていると、文章やタイトルなどが類型的なので、プログラムから自動的に送られてくるのかもしれないと思うのだ。それにしても、わざわざそんなプログラムを作っている連中を想像すれば、あほらしさと空しさには変わりはない。釈迦楽先生の最近のブログでは、卒業生からの謝恩会への招待状が届いたが、先ずのっけから「先生各位」という書き出しでがっかりしたとか、文面も「出席か欠席か」などと云う調子で、「こういう連中が明日から社会に出て行くのかと思うと・・・・」と、憮然とされていた。まことにその通り。しかし、これは若者だけのことではなく、我周辺にも結構年齢は行っているのに、読んでいて「無礼千万!」と怒鳴りたくなるような文章を書く連中が沢山いる。猥褻なだけで意味不明な文章を、平気で公に曝す輩は、ありゃぁ人間じゃない、エイリァンだとでも思えば、鬱陶しさは消えないけれど無視はできる。しかし、一応意思伝達の意向はありながら、とんでもない用語や、「先生各位」などと書いてくるヤツバラには、腹立たしさを通り越して哀しくなってしまう。要するに、「語感の欠如」なのだ。単語や言い回しにはそれぞれ由来と云うものがある。それが時代を経るに連れて、徐々にその意味を変えていくのだが、それでもその使い場所、使い方に係るところでは、本来の由緒由来が隠然と潜んでいるものだ。それが「語感」というものの本質だ。語感は読書によって継承されていく。逆に云えば、読書によってしか継承されない、そう云ってもいい。本を読まなければ、日本語を特徴付ける語感はどんどん失われていく。日本語だけではない。英語だってフランス語だって、およそ国語というのはそういうものだ。語感が継承されない言語は滅びるのだ。我国においては、学校で文語教育を疎かにしだした頃に、国語の滅びの発端がある。そう思う。言葉が滅びれば、国は滅びる。これも真理である。戦時中ドイツ占領下のフランスでは、初等教育へのドイツ語の採用を強要する占領政府に反抗して、密かにフランス語を教え続けたと云う。帝国日本陸軍はそれを知っていて、韓国や中国などの占領地で日本語教育に固執した。それによって八紘一宇という理念の名の下に、現地の人々に皇民思想を植えつけようとした。そして、戦争に負けたら、今度は自ら日本語を捨てて、占領国の言語に迎合しようとした。例の「ゆとり教育」だか何だかの一環として、「国際人の育成」を眼目に、小学校で英語を教えるなどと云う愚行は今だって健在だ。日本の歴史も知らず、日本語もロクにできないガキ共が、英語をペラペラやって、お母さんたちが「ウチの子の発音はいつも先生に褒められますのよ。」などと自慢するのは、これこそ非国民である。亡国の輩である。第一、自分の国の歴史も成り立ちも知らない人間が「国際人」などとは噴飯ものであること夥しい。ところでふと気付いたのだが、携帯電話メールの絵文字には本のシンボルマークがない!絵文字といっても括弧や何かの記号を組み合わせたものではなく、最初から小さな絵として用意されているものだ。雪だるまや傘のマーク、それに泣き顔や冷や汗顔など色々なマークがあって、自分の気分をメールに織り込むのには重宝で、僕自身もよくお世話になる。其処には電話や携帯電話のマーク、カップやナイフなどの食器のマークなどはある。しかし、本のマークだけは無いのだ。この間、友人に「この本は読んだか?」というメールを送る際に捜してみて気が付いた。まぁ、この辺が万事国語の衰退を物語っているもののようですな。さて、「ルルさん」のブログである。このブログ(http://www.stage007.com/)は、50歳以上の年齢制限があるだけ、流石に迷惑なコメントは皆無だ。その代わり僕の文章にコメントを下さる方も、皆無に近い。これは寂しい。「ルルさん」ご自身は、随分歴史に造詣が深い方のようで、僕の書いた「今日日本が出来た!」と云う掲載記事にコメントを下さったのだが、ご本人のブログを読んでみて驚いた。その中身が実に包括的であるのもさることながら、表題「紀元節・・・」へのコメントが無慮30数通も届いていたのには羨ましくもあり、驚きもした。嫉妬を抑えてざっと眺めてみると、「紀元節賛成」という方が相当多い。但し大半の方が、「本当にこの日に日本という国が出来たのだ」と信じての賛成ではなく、昔からの伝統だから続けた方が良いという主旨で賛成されているようだ。これは何もこのブログが「中高年向け」であるせいだけでは有るまい。要するに、多くの方が日本の伝統や風習に対する喪失感をお持ちなのだろう。今日は初午の日だが、初午なんて子供時代にはちゃんと一つのイベントとして身近に存在していた。今の人はもう殆どが記憶の彼方だろう。ついこの間の節分だってそうだが、こう云った伝統や風習は、我日本の民が八百万の神様たちと共に在った頃に遡るものなのだ。一神教は砂漠のような貧しい土地柄に発し、復讐の教として、後には統治の便法として発展した。それに対し多神教は豊かで人心の穏やかな土地に発し、周辺の万物へのおそれと謙譲な心を以て生きよという心の現われとして信じられてきた。そういう神様が、八百万もいらっしゃる国は世界広しといえ我国くらいのものであろう。そういう神様たちや、それに纏わる物語は、大切に継承されていかなければならない。そうでないとバチが当たるぞ!最後に、ご興味のある方のために、「ルルさん」のブログのアドレスをご紹介しておきましょう。http://salon.stage007.com/header1000011/
2008.02.12
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◇ 2月11日(月曜日); 旧正月五日 辛巳; 建国記念日、橿原神宮例祭今日は建国記念日、昔で云えば紀元節だ。2千数百年前に天皇家の始祖である神武天皇が即位した日だと云う。科学的根拠や、歴史書の信憑性などを色々あげつらって、この日に根拠などないと、殊更に言い立てるというのも、最近になるとあまり大人気ないなぁなどと思う。当時の我国の暦のシステムはどうだったのかとか、第一神武天皇なんて本当にいらしたのかとか。ま、いいじゃないか。何にでも始まりはあるのだから、この国の始まりと云うものをこの日にしたって別にいい。一応それに纏わるお話も、伝説であれ何であれ存在していることだし。先日の節分の日には関東地方は雪になった。雪が降ると鬼はやって来ないのだそうだ。どうしてかというと、足跡が雪の上に残って所在がばれてしまうから。なるほど。鬼というのは「隠」(おん)に通じ、あちこちに潜む物の怪の総称だと聞いた。その足跡が雪の上に刻印されてしまっては、いささか具合が悪かろう。鬼が来ないのだから、本来戸口に飾って鬼除けにする目刺は要らない。だからこれを焼いて肴にして、酒でも呑むことにするという人がいた。こういう心持は中々よろしい。鬼の存在根拠など議論しない。しかし、積極的に肯定しているのでもない。そういう議論など超越して、「雪が降ったから、今日は来ないよ。」と酒を呑んでしまうところがいい。こういうのが伝統であり、昔からの風習の真髄とでもいうのだろう。こういういい加減さは、鬼もそうだが、気まぐれで人間の都合などに頓着しない我国の八百万の神様の風合いには良く似合っている。こういう伝統や風習はこれからも残っていって欲しいものだと思う。これが制度や儀式になってしまうと鬱陶しくなるが、「ハレ」や「ケ」の行事として伝承されていくのは、祖国というものを継承していく事にもなるだろう。僕が子供の頃までは、何かにつけて家々の玄関先に国旗を掲げたり、提灯をぶら下げたりしたものだ。国旗が軍国主義の象徴だとか言う前に、何となく掲げてしまっている家が多かったと思う。それが「ハレ」の気分をかもし出したものだ。最近は元旦でも殆ど玄関先に国旗を見ない。町内のお祭の日にも提灯を吊るす家は無くなった。我国から町内というものがどんどん無くなったせいも有る。こういう風習が無くなると「ハレ」も「ケ」も無くなってしまう。これは、ある意味では国の滅びだ。僕の家にも最早国旗も提灯もないのを棚に上げて、そう思うのである。
2008.02.11
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◇ 2月3日(日曜日); 旧師走二十七日 癸酉; 節分、春日大社万灯籠春の節分の日は、こちらでは雪になった。今日の雪は朝の内は随分と活発に降っていたが、夕方にはほぼ止んでしまった。東京23区内では2~3センチ、テレビ局によっては「数センチ」の積雪などと云っている。僕の住む所沢では5センチ程度の積雪と云うところか。いずれにしても、雪国とくらべても申し訳ないほどの積雪なのに、テレビでは大ニュースになって、電車は止まり、或いは遅れ、高速道路は閉鎖され、飛行機は運航を見合わせ、人は転ぶ。こうして雪が降ると、所謂首都圏は一瞬遍く緊張するから、中々面白い。先日電車の中で前に座った女性が口を動かしながら本を読んでいた。一体何の本なのだろうと思ったら、漫画本であると知れた。音読みといっても、無論声は出ていない。口が動いているだけだ。それにしても漫画本を音読みするというのは、どうやってやるのだろう?二次元的に広がった画面の中の台詞をどういう順で読むのか、効果音なども読んでいるのか?そう思うと気になって仕方が無かった。僕の小学校時代には、音読しないと本が読めないという人が何人かいたものだ。しかし、今僕くらいの年齢の人間で本を音読みしている人は見かけない。あぁいう人たちは、今はどうしているんだろう?その女性は年齢も若く、清楚な感じのいささか美形といっても良い人だった。だから、余計に気になって目的の駅を乗り過ごしそうになった。
2008.02.03
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