まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2005.04.13
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カテゴリ: ドラマレビュー!
20世紀のブラジル音楽は「ボサノバ」を抜きにしては考えられません。そして、ジョビンを抜きにしても考えられない。
だけど、それは「ボサノバ」が何よりも重要だからという意味じゃありません。むしろ、ボサノバを中心にすえることによって、逆に「ボサノバ以外」の音楽が見えてくるし、時代的にも「ボサノバ以前」や「ボサノバ以後」の世界が見渡せるようになってくる。つまり、ブラジル音楽の多様性が見えてくる。すくなくとも、わたしにとっては、そっちのほうが重要です。

20世紀のブラジル音楽には、アントニオ・カルロス・ジョビンという巨大な作曲家がいます。彼は「ボサノバ」の創始者のひとりといわれてます。南米の国々では、スポーツや文学など、いろんな分野に「英雄」というのが存在しますけど、ブラジルにおける「音楽の英雄」といえば、まぎれもなくジョビンだってことになる。
ただ、ジョビンがもっぱら「ボサノバの作曲家」だったのかというと、そうでもありません。ボサノバにとってはジョビンは重要な存在だったかもしれないけど、ジョビンにとってボサノバがもっとも重要な音楽だったかというと、かならずしもそうとはいえないと思います。

ブラジルにおいて「ボサノバの時代」というのは、じつはそんなに長くありません。欧米では1960年代後半にボサノバブームに火がつき、現在にいたるまで日本をふくめて世界中で聴かれるようになってますけど、本国ブラジルでは、60年代後半にはボサノバはもう時代遅れになってしまって、聴衆からは飽きられていたようです。なので、ブラジルでボサノバがもっとも流行したのは、1950年代後半から60年代前半までということになります。

ブラジルにとって、あるいはアントニオ・カルロス・ジョビンにとって、「ボサノバ」を中心にすえて考えることは、話をわかりやすくするうえでは重要ですが、それは「ボサノバ」がいちばん重要な音楽だという意味じゃなくて、むしろ、それ以外のブラジル音楽の多様性への視界を取り戻しやすくするために重要だってことです。むしろ、ブラジルにおける「ボサノバ以外の音楽」や、ジョビンにおける「ボサノバ以外の音楽」を考えることこそ、ブラジル音楽の面白さを広く理解することにつながると思う。




「MPB」(エミ・ペー・ベー)というのは、「Musica Popular Brasileira」の略です。言葉の意味としては、「ブラジルのポップミュージック」というだけのことですが、実際には、この言葉には、もうすこし具体的なニュアンスが含まれています。簡単にいえば、「MPB」という言葉は、「ボサノバ以後の」ブラジルポップというような時代的な意味あいをはらんでいます。つまり、それは、おもに1960年代後半以降のブラジルポップスを指して使われてる言葉のようです。音楽的にみると、その時代のMPBというのは、ブラジルの土着的な部分を強く意識した内容のものが多いように思います。

ブラジルで「MPB」が最盛期を迎えた1960年代後半から70年代前半というのは、世界に目を向けると、英米のロックンロールが市場を席巻していった時代に当たります。そして、それは日本でいえば昭和40年代であって、すなわち「演歌」が隆盛した時代にも当たります。
この時代に、ブラジルで「MPB」が登場したのは、ひとつはボサノバ・ブームに対する反動があったからだと思います。ボサノバは、ある意味、「都会の優雅なお坊ちゃんたちの音楽」だったし、べつの面からみれば、「欧米に迎合した音楽」だったと思う。そういうよそよそしい音楽に嫌気がさしてきた頃、もういちど、“どっこいブラジル人”みたいな気質があらわれて来るのは理解できないことじゃありません。もちろん、その当時、世界市場を席巻しつつあった英米の音楽に対する反発というのも、ドメスティックな音楽が生まれてくる原因になっていたかもしれません。
(こうした背景を考えてみても、ブラジルのMPBと、日本の演歌とのあいだには、共通点があるような気がする。)

とはいえ、ブラジルのMPBが、たんに英米のロックに反発した音楽だったかというと、むしろじっさいは逆で、カエターノ・ヴェローゾやミルトン・ナシメントを聴いてみればすぐわかるように、彼らはむしろ、貪欲にロックンロールの刺激を取り入れています。
MPBというのは、世界市場を巻き込んだ巨大な変化の中で、ブラジル国内のドメスティックな衝動をはらみながらも、同時に時代の刺激を貪欲に吸収してつくられていった音楽だった、といえます。

ジョビンもまた、この時代になると、みずからが生み出したともいえる「ボサノバ」から距離を置くようになります。わたしがそのことをいちばん感じるのは、73年の『Matita Pere』というアルバムですが、それがボサノバとの訣別だったとまでは言えないまでも、すくなくともそこに、ブラジルの土着性へ回帰するような精神があったことは疑いありません。
もともとジョビンは、幅広い音楽的な背景をもっているミュージシャンなので、時代の変化によって、どんどん表現が変わっていくのは不思議なことではありません。彼の音楽的な素養は、ジャズ、クラシックから、20世紀初期のブラジル歌謡に至るまで多岐にわたってます。
ボサノバを生み出した当時、彼のいちばん近くにあった音楽は、たぶんジャズだったんだと思う。ボサノバは、作曲にジョビンがかかわったとはいえ、実質的にはジョアン・ジルベルトやスタン・ゲッツがジャズの形式をアレンジすることによって生まれた音楽だったといってもいいくらいです。
それに対して、ジョビンが「ボサノバ以後」の音楽において発揮したのは、むしろクラシックやブラジル歌謡に近い部分だったんだと思う。そして、それを体現したのが、クラウス・オガーマンやバンダ・ノヴァだったんだろうと思います。
「ボサノバ」はジョビンの一部ではあっても、すべてじゃない。彼の音楽世界には、ボサノバをはるかに超えていくような部分があって当然です。そして、60年代後半以降のさまざまな時代の変化が、彼や、ほかのブラジルのミュージシャンの表現を変えさせるきっかけになったんだと思います。

60年代後半のブラジル音楽に変化をもたらした原因のもうひとつに、ブラジルにおけるエコロジー思想の潮流があります。すでにこの時期、ブラジルでは、大規模な開発によるアマゾンの森林伐採が深刻な状況を見せはじめていました。そのため、ブラジルでは世界に先がけてエコロジー思想が人々の中に芽生えてました。MPBが土着的・内陸的な要素を強めていった背景には、たんに「ボサノバという都会の音楽、海岸の音楽からの脱却」というだけでなく、あるいは「英米の音楽への反動」という意味だけでなく、もっと積極的な意味で、「ブラジルの大地」を見つめなおそうという動機があったんだろうと思います。・・・//手抜きですみません。こっちからの転載です。→http://maikamaika.hp.infoseek.co.jp





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最終更新日  2005.04.13 23:15:02


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