伊賀へいらっしゃい
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澤村甚三郎保武屋敷屋敷周囲は土塁が残る見事な中世城館です。ペリーの黒船を探索した忍者沢村甚三郎保祐の屋敷です。澤村氏館は川東城館群の中でも残存状態がよく、周囲を巡る土塁がほとんどそのまま残されている。沢村保祐(やすすけ。通称、甚三郎)当時の老中首座、阿部正弘は脅威を感じた黒船の情報を欲っしそんな時に白羽の矢を立てられたのが甚三郎です。代々狼煙(のろし)役の家柄だった甚三郎に、11代藩主、藤堂高猷(たかゆき)から、潜入調査を行うよう命がくだります。甚三郎はペリーの艦隊に潜入、乗組員からパン2個、煙草2葉、蝋燭2本、紙片2枚を入手し、高猷に報告しました。右が大深氏館左が田中氏館右に大深氏館東側の土塁(右側)が現存している。左が田中氏館跡 ほとんど、土塁などは遺っていない。川東地区は掻揚型式氏館の宅(館)群です。 五百田(いおだ)氏館 道路から少し離れた屋敷を土塁が囲んでいる。 北側半分の土塁がよく残っている(いおだ、推定では多くの田から) 五百田の姓の由来は三重県伊賀市川東が本拠となっているのでこの家が始まりでしょう。壬生野城壬生野城 川東には数多くの城館跡が所在するが、そのなかでも最大規模の東西90m×南北90mを測る城館跡です。川東公園の南側の比高20mほどの台地に土塁や堀切を周囲にめぐらしていて要害性を感じさせる。 土塁には等間隔の窪みが確認でき、防御用の石落としの施設と考えられる。さらに、北西隅の土塁上には櫓台跡と思われる小さな土塁も残されている壬生野城跡壬生野城跡 堀の一部には現在でも水が溜まっており、水堀であったと考えられる。 壬生野城の周囲の土塁はまるで砲台のようにあちこちが削られている。これは天正伊賀の乱時の破城によるものではないかと考えられている。 壬生野城のことを地元では「清水の城」と呼んでおり、地誌にも「清水宅跡」と描かれていることから、城主は清水氏だったのでしょう。壬生野城には、天正9年の伊賀の乱に際して、壬生野郷・愛田村・御代村の郷士たちが立て籠った。しかし多勢に無勢で、織田勢の猛攻を支え切ることはできなかった。壬生野城は落城し、多くの伊賀衆が殺害されたという。現在、城の北西麓にたくさん配置されている古い墓石群は、この時に死亡した伊賀衆のものであると伝えられている。春日神社「春日」を社名に持ち春日神を祭神とする神社。奈良県奈良市の春日大社を総本社とする。伊賀市川東地区の氏神として古くから鎮座していたと伝わる。主祭神は武甕槌命ほか四柱。第二次天正伊賀の乱において、織田軍に攻められ宝庫などが焼失したが、川東の里は大和国や春日大社の供物を調達する御厨であったため、春日大社の社人らが織田軍の将、滝川一益に訴えて焼失を逃れたと伝わる。春日山城春日山城は春日神社の背後に聳える春日山全体を「第二次天正伊賀の乱」にそなえ城塞化した山城。壬生野城では不十分として造ったと思われるが未完成に終わった。道路側に伊賀牛発祥之地石碑川東 阿弥陀寺伊賀一番の大きな五輪塔は2,4m 三重県下、白眉いわれる。阿弥陀寺の五輪塔は、花崗岩製で、高さ242cmの大型の五輪塔です。本堂前に建つ宝篋印塔には応長元年(1311)の銘が残っている。 塔身は失われていて六角柱が入れられているが 笠の幅が基礎の幅より狭く 隅飾も直立していて古様の宝篋印塔です。
2022年09月08日
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