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伊賀市上野赤坂町の道標 「左 東海道せき道」 料理旅館、三田清を東に進んだ突きあたりにこの道標が建っています。 松尾芭蕉生家のすぐ北にあり「永保記事略」に赤坂の上り口、食い違大手門 が置かれ警備の番兵が見張る「見付」があったとあります。 赤坂は伊賀七口五坂、の坂の一つで重要防衛拠点ですぐ東に城代家老、 藤堂采女下屋敷が広がっていました。 「右 なら者(は)せ山上道」 大和街道を一部の地方ではまたは一部分を長谷道と呼んでいたようです。 「文政六年季 癸未夏五初吉 施主 當町中」 1823年 季は雨季を表し梅雨のことだと思われます。みずのとひつじ 夏5月初旬吉日とあります。
2017年01月21日
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追分、道標 伊賀市農人町に現在も建っています。伊賀街道と大和街道の追分でつまり別れ道今でいうとジャンクションですか。伊賀街道は津から長野峠を越えて上野城下に至る約48Kmの地方道で藤堂高虎が1608年に伊予から国替えとなり津城と上野城を結ぶ街道として整備されました。それ以前は長野峠から津へ行く道はなく第一次天正伊賀の乱の時は松坂方面から攻め込みましたが第二次天正伊賀の乱の時には六方向から攻め入ったのに長野峠からだけは攻め込まなかった一因だと思われます。中央にГ春(す)ぐ」と彫られ右下に「京大坂」左下にГなら者(は)せ」道と彫られています。春ぐという文字が読み取りにくかったのですが古文書の先生に見てもらったら春の崩し字で(す)と読ますそうです。右側面に「(矢印)☞奈(な)ら者世(はせ)」と彫られています。大和街道の長谷寺の長谷に行くには一旦南に名張方面に向かうのですがこれで分かりやすかったのでしょうか。左側面にГ是ヨリ 北江(へ) 東海道 関」と彫られています。東海道の関に行く道ということなのでしょうが東海道がすぐそばに通っているように読んでしまいそうです。裏面には写せませんが春(す)ぐ いせ 左り 江戸 みちと刻まれています。
2017年01月07日
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