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1930年(昭和5年)4月、秋山好古は北予中学校長を退任しましたが、その後も学校理事として郷里の松山に留まっていました。 同年7月、例年通り北海道帯広の牧畜事業を視察するため松山を出たのですが、東京で左足の痛みがひどくなり動けなくなります。 医師は「糖尿病と壊疽の初期段階」と診断しました。 たぶん、酒とタバコと日露戦争の心労と北予中学校長の心労と加齢が、好古の体を蝕み、 糖尿病や脂質異常から動脈硬化症を併発し、血液が好古の左足の毛細血管まで届かなくなって、壊死(細胞死)状態になり、そこに腐敗菌が感染したのでしょう。 同年11月1日、左足を切断する手術を受けますが、腐敗菌はすでに好古の左足以外の細胞まで浸食していて、手遅れでした。 好古の最後を看取ったのは、士官学校同期の本郷房太郎大将でした。 『秋山、本郷が判るか、馬から落ちるな』 好古は、目を開き微笑して、 『本郷か、少し起こしてくれ』 これが、好古の最後の言葉だったのかもしれません。 同年11月4日午後7時10分、一代の名将秋山好古は、その72年の無休の闘いをついに終えたのです。 同年11月10日、好古の葬儀は青山斎場で行われました。 徳川宗家16代当主徳川家達(イエサト)は好古に次の弔辞を寄せています。 『本社は日本赤十字社東京支部特別社員 陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君の薨去(コウキョ)を聞き 哀悼の情に堪えず ここに社員253万7千余人に代わり弔詞を贈る』 にほんブログ村
2011年03月16日
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秋山好古の北予中学校長としての在職が4年も続いた頃、好古を故郷に連れ戻した井上要(カナメ)との間で、次のような問答が繰り返されたそうです。 『当分の間だけ校長の名を出すという約束だったじゃないか。 もう辞めてもよかろう、早く後任を定めてくれ』 『何時お辞め下されてもいいのですが、後任だけはぜひご選定願います』 1929年(昭和4年、好古71歳)の新年、好古はある機会に、 『俺ももう70になったから、校長を辞めたい』 と言って、これが地元の新聞に掲載されることになります。 『秋山北中校長いよいよ辞任す』 これには生徒、父兄が大いに心配して騒ぎだし、世間でも話題になりました。 この年3月の卒業式の時、井上は突然演壇に立って次のように演説したそうです。 『諸君は秋山校長先生が辞められると言うて、大いに心配しているそうであるが、 校長先生は非常に責任を重んじる人である。 先生に代わるべき立派な後任のない以上、 断じて諸君を見捨てることはない。 諸君安心せよ』 これでは、辞めたくても辞めることはできません。 このような事態を一番心配したのは、当時陸軍大臣であった白川義則であったかもしれません。 白川は、 『郷里というものはなかなか五月蠅いものであるから、うまく行けばいいが、将軍の晩年を誤らせてはならぬから、拒絶できるものならば拒絶した方がいい』 と言って、もともと好古の北予中学校長就任に反対でした。 井上に対して、これ以上好古に留任を望む事は一種の老人虐待であって、郷里の大先輩である好古に対する道では無いと忠告し、次のような手紙も書き送っています。 『秋山将軍は御承知の通り退隠の希望切なる次第に候間(アイダ、でありますから)可然(シカルベク)御配慮の程小生よりも御依頼申上候』 このような事もあって、北予中学理事会も好古の辞職を認めざるをえなくなりました。 1930年4月9日、ついに好古は北予中学校長の椅子を去ったのです。 にほんブログ村
2011年03月15日
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秋山好古が北予中学校の校長をやっていた頃(1924年(大正13年、66歳)-1930年(昭和5年、72歳)、 全国中学校長会議というのが開催されていて、これが東京で開かれる時には、好古はいつも上京して会議に参加しました。 会議では、謙虚な態度で、少しも陸軍大将だなどというそぶりも見せず、他の校長たちに対しても終始同僚として接していたので、 校長たちも、好古の人格に非常な尊敬を感じていたそうです。 会議は日比谷の第一中学校で行われ、休憩の時には好古は他の校長たちと一緒に運動場に出て生徒たちが運動する様子を見学しました。 たまに生徒たちの投げ合うボールが校長たちの集まっている方に転がってくると、 好古はわざわざ走って行ってそれを拾い、生徒たちの方へ投げ返してやりました。 『あれは誰だい?』 『あれは秋山大将だよ』 あっちこっちの生徒たちの間でささやかれて、たちまち親しみを持たれてそうです。 都内の新聞は、これを報じて、 『錦を捨てて故郷の中学校長となった秋山大将、三日にして第一中学生を化す』 と、見出しに書いたようです。 「故郷へ錦を飾る(出世して故郷へ帰る)」という言葉はよく耳にしますが、この場合の「錦」とは陸軍大将の軍服のことを指しているのだろうと思います。 第一中学校(現在の都立日比谷高校)は、全国で筆頭の中学校であって、東京大学への一番の進学ルート校でした。 その学校の生徒たちを「化(ケ)す」とは、教え導くという意味があるようですが、ボールを投げ返してやったぐらいで教え導くことはできないでしょうから、単に有名になったというような意味なのかもしれません。 「陸軍大将の軍服を脱いで故郷の中学校長となった秋山大将は、たった3日で第一中学生達の間で人気者になった」というような感じでしょうか。にほんブログ村
2011年03月14日
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官立(現在の国立)松山高等学校は、1919年(大正8年)に全国で12番目、四国では初めて設立された高等教育機関でした。 設立当初の校長は、生徒の自由と自治を認め、それが校風となっていたようですが、1925年に着任した2代目の校長は管理主義で初代校長の教育方針をことごとく撤回したので、生徒達はこれに反発しました。 生徒達は全員授業に欠席して対抗しましたが、校長は折れずになおも生徒達を圧迫したため、生徒達は「松山高等学校ストライキ批判演説会」を開いたりして市民までを巻き込み、収拾のつかない状況になってしまいました。 これに困った愛媛県知事は、秋山好古にその調停を依頼したのです。 しかし、陸軍大将に調停を頼むのは圧迫的であるとして、強硬派の生徒達は逆に態度を硬化させました。 生徒たちのストライキの応援のために東京や京都から卒業生が応援に帰郷していたので、好古はこのOB達数名と会見しました。 『君らは遠方から何しに来たのじゃ。 この騒動を収めに来ているのならよいが、騒がせに来ているのなら帰ってもらいたのじゃ。 生徒で学校の校則に背いたものは退校させるだけじゃ。 いったい君らはどうしようというのか』 『学内の自由を得たいのです。 学校当局の威圧的強制的態度を好まないのです。 なお、この際生徒の犠牲を出すことにも反対です。』 『なるほど、そうじゃといって騒ぎをやるのはいかんじゃないか』 『自由と正義のために戦うのです』 『そういう尊い理想をもって戦う者が、犠牲を厭うとは卑怯じゃないか』 このやり取りは、好古の言うことが理屈に合っていて、OB達はぐうの音も出ません。 『学校の方針は曲げられまいのう。 どうしてもその方針がいけんというなら、男らしく皆退校したらどうじゃ』 『そういうことを言われますと、全校五百の学生が何をするか、判りませんが、よろしゅうございますか』 OB達は追い詰められてついに好古にケンカを売ってしまいますが、売った相手が悪かったわけで、当然好古の逆襲にあっています。 『騒ぐなら、なんぼでも騒げ、俺の学校だけでも千五百人からの生徒がいる。 それで足らにゃ警察もある、松山連隊の兵(歩兵第22連隊、約3千人)もいる。 なお足らにゃ在郷軍人1万はいる。 それだけいるから何とでもせい』 好古が指揮すれば北予中学の生徒たちは松山高校の生徒達と一戦交えると言うのですから、好古はよほど中学生徒達の信頼を勝ち得ていたのでしょう。 小説「坊っちゃん」では松山中学と師範学校生徒達の喧嘩騒動が描かれていますが、残念ながらこのような大立ち回りは起こることもなく、この騒動は平穏無事に解決されたそうです。にほんブログ村
2011年03月13日
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秋山好古が校長を務めた「北予中学校」を設立した人達は、私立にしかできない教育をしようという理想があったのではないかと思うのですが、 現実は、公立の「松山中学校」に入学できなかった生徒達を受け入れる救済機関となっていました。 そのためか、地元の人達は北予中学のことを「不良少年養成所」などと嘲笑することもあったようです。 夏目漱石の坊っちゃんに登場する松山中学校の生徒達も一筋縄ではいかない手ごわい相手でしたが、 北予中学校の生徒達はそれに輪を掛けていたことでしょう。 好古は校長になってからは、いつくしみのこもった眼差しで、いつもニコニコと笑みを浮かべながら、校内を見回り、生徒達には時々温かい訓話をしたそうです。 しかし、好古は恐ろしい顔をしていましたし、何と言っても陸軍大将ですから怖いというイメージは付きまといます。 好古は休講を非常に嫌がり、教師たちが欠勤すると代わりに好古が代講するので、これを申し訳なく思った教師たちは、欠勤しなくなったようです。 生徒達も休んだり、休学する者が少なくなり、父兄からの授業料の滞納も減ったそうです。 好古は、学校の方針も陸軍時代の経験に基づいて決めたようで、贅沢を避け質素を奨励し、父兄からの会費をできるだけ減少させ、その負担を軽くしようとしました。 当時、愛媛県下の中学校ではブラスバンドを編成することが流行って、ほとんどの学校がこれを持つことになったので、北予中学校でもぜひこれを作ろうという意見が起こりました。 しかし、好古は次のように言ってこれに反対し、北予中学校だけはついにブラスバンドを作らなかったそうです。 『そんなものは要らない。 海軍などでは、何ヶ月も遠洋航海を続け、海また海で非常に淋しい生活をする場合が多いから、楽隊の必要もあろうが、 陸軍などにはそんな必要がないというので、今は楽隊を廃している程じゃ。 学校でもそんなものを作る必要はあるまい。』にほんブログ村
2011年03月12日
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軍人の伝記本は非売品が多いようで、物が少ないし、あっても価格が高いのですが、数日前に入手した「大将白川」は非売品でないためか結構安く入手できました(送料込みで2千円位)。 白川義則(ヨシノリ)は、秋山真之と同い年(1869年生まれ)で旧松山藩出身です。 陸軍大臣、軍事参議官などを歴任しましたが、上海で凶弾に倒れ、その傷により亡くなっています。 著者の桜井忠温(タダヨシ、1879年生まれ)は、同じく松山出身で、日露戦争では乃木希典司令官による旅順攻囲戦に従軍し、 その経験に基づき「肉弾」という小説を書いて、大ベストセラーになり、この本は15ヶ国に翻訳紹介されたそうです。 「大将白川」から、秋山好古に関する記述を抜き書きします。 『秋山好古-その黙々として、淵のような中に、巌(イワオ)のごとき重さがあった。 (この)大きなるつぼの中にあった白川こそ、第二の秋山を捏ね上げたものといってよかった。 「(白川は)既に才あり、識あり、(ただし)人間としての白川を立派に完成したものは秋山だ」 と、いった人がある。正にその通りであったろう。』 『「男というものは滅多にものをいうものじゃない」などといっていた。 もの言わずの白川さんにこの訓戒をするくらいの沈黙将軍であった。 晩年、郷里松山の一私立中学の校長であったが、睨んでいるというだけで、校長の貫録100パーセントであった。』 『白川さんは「秋山校長」であることを止めたい気持ちでいた。 校長としての雑務を執ることを気の毒に思っていた。 「秋山さんは元帥にもなるべき人である。日露戦争に露軍の770隊11万何千のコザックを破ったというだけでも元帥の値打ちはあろうに」 などといった人があったが、白川さんは、 「そういうことをいうべきものではない。秋山さんは人間としての元帥だ」 といった。 秋山将軍も、いつまでも(白川のことを)自分の子のように思っていた。 白川さんが大将になっても、 「白川勉強せい」 というと、 「勉強いたします」 といっていた。 秋山さんの言うことは、いつでも、ハイハイと聴いていた。』にほんブログ村
2011年03月06日
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秋山好古が福沢諭吉を尊敬していて、自分の子供はみんな慶応義塾に入れて軍人にはさせなかったというのは(好古のことを少し知っている人の間ではたぶん)有名な話です。 好古は、みずから校長を務めた「北予中学校」を慶応義塾のような学校にしたかったのかもしれませんし、 明治の時代、賊藩とされた旧松山藩に私立中学校があるということが少し自慢であったのかもしれません。 好古が校長になる4、5年前(大正8、9年頃)、北予中学校の県立移管問題があって、 県知事や県当局は、北予中学が希望するなら県が学校を引き受けても良いという意向であり、これによって県立へ移行しようとする派が優勢になりました。 秋山真之と海軍兵学校が同期で松山出身の山路一善中将などは、わざわざ帰郷して次のように説いたそうです。 「私立学校は到底官立学校にかなわない。 官立は設備も充実して信用も高いが、私立は経営が困難で信用は官立に及ばない。 生徒や父兄も官立を希望するのは当然のことで、県当局が移管を承諾してくれているのだから、速やかに北予中学を県立に移管すべきである。」 このような意見は、誠にもっともな理由がありますから、どうすればよいか判断に迷った学校理事者は加藤恒忠(ツネタダ、当時貴族院議員、正岡子規の叔父、好古とは同い年で幼なじみ)に相談しました。 加藤はもともと私立維持派でしたが、県立移管論をむげに退けるわけにもいかないので、秋山大将の意見によってこれを決定しようということになったのだそうです。(この当時から好古は北予中学校の理事者の一人であったのかもしれませんし、文民が軍人の意見を退けると申し訳ないような気がして好古を引っ張り出したのかもしれません。) 好古の答えはすこぶる簡単であり、 『私立でやっていけるものならば、私立でやろうじゃないか』 この一言で県立への移管は取りやめになったそうです。 好古が北予中学校の校長になる時(1924年(大正13年))に履歴書が必要になり、軍人時代の副官であった中村中佐からこれを取り寄せていて、その後中村宛てに礼状を書いています。 「私が校長になった北予中学は、久松伯らの援助により自分ら同郷の知り合いが計画して設立したもので、 後任者が決まるまでの当分の間、就任した次第である。 私立の中学なので、(私のような軍人が)校長になっても法規上も差し支えが無いのである。」 この手紙を読んでいると、「私立とは公立ではできない教育をする学校なんだ」という好古の想いがひしひし伝わってくるような気がします。 好古が校長を辞任して、その8年後、北予中学は県立に移管しています。 にほんブログ村
2011年03月05日
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松山の北予中学校長の後継に悩んだ学校理事会は、秋山好古に校長の就任を求め、好古は比較的簡単にこれを受託して、1924年(大正13年)に校長に就任しました。 中学の理事会を代表して好古説得のため上京した井上要(カナメ)は、 『どうか当分でも校長の名をお貸し下さい。 そうして時々学校へ来て生徒と遊んで下さい』 と口説いたそうですが、 好古は6年間の長きにわたり校長を務め、その間無遅刻無欠席であったそうです。 好古は余生を馬匹(バヒツ)の改良に捧げようとしていたのに、どうしてこんなに簡単に気が変わってしまったのでしょう。 井上の「北予中学松山高商楽屋ばなし」の一節を読むと、困窮した故郷のために好古が一肌脱いだというように書いてありますが、どうも説得力がありません。 好古の伝記は井上に遠慮してか、 『将軍が北予中学校長となった交渉の経路については、新田長次郎氏の談は、いささか本文(「北予中学松山高商楽屋ばなし」のこと)と相違の点あるも、結果において同じきにより、井上氏の談に従う』 と書いて、これ以上言及していません。 好古は北予中学校長時代に、松山清掃会(戦争未亡人の会)で講演を行っており、その要旨が残っていて次のように語っています。 『定年に達して、北海道にて牧馬に従事したるが、久松伯に勧められ北予中学校長となり、5年になるが始終独身生活せり』 好古は29歳の時、陸軍での将来の栄達の道を捨ててまで、久松定謨(サダコト)の補導役としてフランスへ私費留学したぐらいであって、 余生も旧藩主の勧めにより帰郷することを選んだのでしょう。 秋山家は代々松山藩の下級武士であり、好古は11歳で明治維新を迎え、旧藩主の恩恵をこうむったことは一切無かったのですが、 好古の旧藩主家に対する尊敬と感謝の念は非常に強く、絶対的なものであったようです。 その一端を示しているのが、フランス留学時代に好古が郷里に寄せた手紙の一節です。 旧藩主家は廃藩置県により東京在住を命じられますが、20余年も経過すると旧領地への帰還も認められたようで、好古のフランス留学時代に久松家も松山市民より帰郷を懇願されたそうです。 好古の手紙には次のようなことが書いてあります。 「松山は(東京などと比べると)繁栄しているとは言えず、市民の生活も苦しい。 もし、今、久松伯が帰郷したならば、旧臣などの惨状を見て驚き、これを救おうとして伯爵家の財産を使い果たしてしまうだろう。 それにも関わらず久松家の松山移住の懇願者が大勢いて、これを止めようとする松山市民が一人もいないのはどういうことか」 好古の憤りは激烈を極めていて、 『松山市民も気が狂うたるか』 とまで書いています。にほんブログ村
2011年03月04日
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1923年(大正12年)3月31日、65歳で予備役となった秋山好古は、残りの人生を馬の改良に捧げようと考えたようです。 日露戦争において、イギリスの新聞の特派員が 『日本軍にしてロシア騎兵のごとき馬(質も量も含む)に跨(マタガ)らしめたらむには、満州のロシア軍は奉天において既に全滅せしならむ』 と、伝えたように、日本騎兵がまたがる馬は貧弱でしたので、これを何とかしようと考えたのでしょう。 ちょうど、同郷の親友で「新田長次郎」という人が、大阪で事業に成功し、北海道で牧場を経営しており、その牧畜事業の経営を好古に頼みにきたので、渡りに船の申し出だったのかもしれません。 しかし、翌年(1924年)4月、郷里の私立北予中学校の校長に就任することになったのです。 これにはちょっとした理由があります。 松山には、公立の松山中学校という名門校があって、子規も秋山真之もこの学校の出身者でなのです(卒業はしていませんが)。 私立中学がこれに対抗して生徒を集めるためには、よほどの著名人を校長に据える必要があったようです。 好古の前任者の加藤彰廉(アキカド)という人も、大阪高等商業学校(現在の大阪市立大学)の校長を最後に教育界を引退して衆議院議員にもなったのですが、 好古を含めた郷党たちのたっての願いをむげにもできず、校長を受託したという経緯があったのです。 好古が予備役になった年の4月、私立松山高等商業学校(現在の松山大学)が創立され、校長には加藤が推されました。 加藤を推した面々は、加藤が商業学校と中学の校長を兼ねてくれるものと思っていたようですが、 高齢を理由に断られ、早急に後任の中学校長を探す必要が生じたのです。 中学の理事会では、予備役になった好古になってもらうのが一番よいと言うことで一致したものの、 閣下と称せられる親任官(明治憲法下の官僚制度の最高位)の陸軍大将に田舎の中学の校長を頼むことじたいが非礼であり、受けてくれるはずが無いという意見もあったようです。 とにかく頼んでみようということで好古宅を訪ねるために上京したのが「井上要(カナメ)」という人で、その著書「北予中学松山高商楽屋ばなし」の中に次のように書いています。 『けれども私は信ずるところあり、理事会の使命を帯びて東京四谷の大将邸に至り、 赤裸々に事情を告白して校長の就任を求めたところ、大将は極めて簡単である。 「俺は中学の事は何も知らんが、 外に人がなければ校長の名前は出してもよい。 日本人は少しく地位を得て退職すれば遊んで恩給で食うことを考える。 それはいかん。 俺でも役に立てば何でも奉公するよ」 と言われた。』にほんブログ村
2011年03月03日
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