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明治38年5月25日、戦艦「三笠」艦上に、 第2艦隊司令長官以下各司令官が集められていました。 この説明会で、連合艦隊の方針が示されたのです。 その方針とは、 「26日正午までに新たな情報が得られない場合、同日夕刻津軽へ向けて出発する」 というものであった筈です。 (連合艦隊司令部の方針は、25日中に津軽に向けて出発、というのが通説になっているようですが、 26日としたのは、僅かながら理由があって、それは明日にでも書くことにします。) この方針に対し、それでは遅すぎるので、 今日(25日)の午後にでも出発すべきであるという発言が出たはずです。 というか、このような発言が大勢を占めたのかもしれません。 それに対し、第2艦隊参謀長藤井較一(コウイチ)大佐は、 より長く対馬に留まることを主張し、 第2戦隊司令官島村速雄少将も、藤井と同じ考えだったようです。 しかし、これは説明会であって会議では無いのです。 連合艦隊司令部の方針が覆るはずもなく、 藤井を除く参加者がこれを了承して散会となりました。 そして、密封命令が発せられたのです。 『1.今に至るまで、当方面に敵影を見ざるより、敵艦隊は北海方面に迂回したるものと推断す。 2.連合艦隊は会敵の目的をもって、今より北海方面に移動せんとす。 3.から9.(省略) 10.本令は、開披(カイヒ、開封)の日をもって、その発令日付とし、出発時刻は更に信号命令。』 (密封命令とは、 作戦機密の保持目的から一定時間経過後の指定時間、 あるいは指定場所で開封することを義務づけられた封筒入りの命令書のことで、 各艦船は基地港をとりあえず出た後、 それをみて初めて命令・任務を知ることになる。 もともと英国海軍でおこなわれてきた手法という。) (木村勲著、日本海海戦とメディア 秋山真之神話批判、株式会社講談社、2006年より引用) これと相前後して、 連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、 軍令部長伊東祐亨(スケユキ)大将宛て、次のように打電しました。 『明日正午まで、当方面に敵影を見ざれば、 当隊は明夕刻より北海方面に移動す』と。(以下は、かなり想像が入っています。) この決定に、憤まんやるかたなかったのは、藤井であったはずです。 海軍兵学校同期の気楽さからか、 いつものように連合艦隊参謀長加藤友三郎少将に直談判しようと、 参謀長室に向おうとした時、 これを止めたのは同期のヘッドクラス(首席卒業)の島村でした。 加藤がこれから山ほどの煩雑な業務を処理しなければならないことを、 前参謀長の島村は痛いほど判っていたからです。 といって、このまま「三笠」を去ることは、藤井が承知しないことも判っています。 島村は、藤井を伴って、司令長官室を訪ねたのです。 『閣下はバルチック艦隊はどの海峡にくるとお思いになって居るか』 島村が尋ねると、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は 島村と藤井の顔を交互に見てから、 『それは対馬海峡よ』 と答えたのです。 追い打ちをかけるように藤井が何か言おうとするのを、島村が押し止めて、 『ああ、そういうお考えならば何も申し上げることはありません』 そう言ってから、藤井を促して去っていったのです。
2011年11月30日
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明治38年5月25日、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、 戦艦「三笠」艦上に第2艦隊司令長官以下各司令官を集めました。 出席者は、 連合艦隊司令部からは、東郷、参謀長加藤友三郎少将、先任参謀秋山真之中佐、副官永田泰次郎(ヤスジロウ)中佐、 第2艦隊からは、司令長官上村彦之丞中将、参謀長藤井較一(コウイチ)大佐、 その他に、第1戦隊司令官三須(ミス)宗太郎少将、第2戦隊司令官島村速雄少将、第3戦隊司令官出羽重遠(デワ、シゲトオ)中将、第4戦隊司令官瓜生外吉(ウリュウ、ソトキチ)中将、 であったと思います。 この10人の役割は、 議長が東郷で事務局は加藤以下2名、議員は上村以下将官4名、 佐官の藤井は陪席といったところでしょうか。 しかし、この集まりが「会議」では無かったのだと強く主張したのは、 当時の連合艦隊参謀飯田久恒(ヒサツネ)少佐でした。 『会議というと今日の意味でいいますと相談をやるというのでありますが、 そういう意味の会議を開くということは日露戦争を通じて一回もやっておりません。 首席参謀の秋山中佐も会議を開かぬということを主張しました。 当時の新聞雑誌には直ぐに「三笠艦上の会議」ということが載って居りました。 これはざっと集まっただけでありまして、 今日から見ますと会議の決を取ったようになりますが、 長官は会議をやるために人をお集めになたっということは、決してありません、 ということを申上げておきます。』 日本には、何時の時代からか「稟議制度」なるものがあって、 責任の所在がいつも曖昧で、そこがまた日本社会の良さなどとも言われているようですが、 会議もみんなで決めれば怖くない的なところがあって、 そのような曖昧さを、真之は嫌って、会議を開かぬと言ったのかもしれません。 しかし、それは、独りで全ての責任を負うということですから、 極限の精神状態で、日々作戦を考えていたのでしょう。 飯田は別の機会に、次のようにも語っています。 『時々用事があって秋山参謀の室へ往くと寝室の上に横臥してはいるが、 眼を大きく開いて天井を眺め居るのには驚いた。 何時眠るのか何時起きているのか分らない人だった』と。
2011年11月29日
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秋山真之の伝記に 『日本海海戦において、 東郷司令長官をはじめ艦隊作戦の要衝に当たれる秋山参謀をして、 戦略上もっとも頭を悩ました問題は何であったかというと、 これは今更こと新しく説明するまでもなく まさに来たらんとする波羅的(バルチック)艦隊の通路が 対馬海峡であるか津軽海峡であるかの この判断であった。』 と、あるように、 津軽か対馬かというのが、 日本海海戦前夜の最大の問題であったでしょう。 世間一般には、連合艦隊旗艦「三笠」艦内で、会議が催され、 かんかんがくがくの議論が繰り広げられ、 津軽へ移動することが決定されかけたのですが、 第2艦隊参謀長藤井較一(コウイチ)大佐と第2戦隊司令官島村速雄少将が、 対馬通過説を強く主張し、津軽への北上が延期されたので、 連合艦隊はバルチック艦隊を攻撃、撃滅することができたということになっています。 真之は、早期に津軽へ移動することを主張し、 東郷平八郎長官の了承も得ないで、軍令部へ津軽に移動すると打電するなど、 まさに勇み足であったという説もあったりして、 真之ファンとしては面白いわけがありません。 そこで、この津軽海峡転移問題について、真之サイドから考えてみたいと思います。 まず「飯田久恒(ヒサツネ)」のことです。 飯田は、日露海戦の前半戦は、第2艦隊第2戦隊の参謀でしたから、 第2艦隊が「露探艦隊」と言われ、民衆から受けた非難攻撃の辛さを痛感したでしょうし、 後半戦では、連合艦隊参謀として、東郷の幕僚という重圧も経験しました。 戦後30年を経過すると、東郷の幕僚で生存していたのは、 飯田一人になってしまっていて、戦後30年記念座談会で次のように語っています。 『幕僚の意見としては、下で仕事をする者としては、 万全の策を取っておかねばならぬ。 幕僚の仕事としては何時移動と長官がお考えになっても 差し支えないようにして置かねばならぬ。』 つまり、東郷の司令部は、別に津軽への転移を前提に準備をしていたのではなくて、 どちらに転んでも良いように準備を進めていたわけです。 『ただ、吾々の頭に感じて居りますことは、 長官からはしっかりはお話がありませぬでしたが、 「現在の所では対馬海峡におろう。 我慢の出来る限りおろう」 というお話でありました。』 東郷の話となると、その威光に曇りを生じさせることは、海軍の御法度ですから どうも奥歯に物が挟まったような言い方になっているようですが、 要するに、対馬で待つと提案したのは、東郷の司令部で、 東郷はそれに同意したに過ぎないのではないかという気がします。 (この話は、明日に続きます。)
2011年11月28日
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バルチック艦隊が、何時、どこに現れるのか、 これが連合艦隊にとって最も重要な関心事でした。 バルチック艦隊は、5月14日頃(明治38年)、 対馬海峡に現れるだろうという見込みを立てていたのに、 その日を過ぎても、バルチック艦隊の情報は途絶えたままです。 ひょっとしたら、バルチック艦隊は太平洋を迂回して、 津軽海峡を通過してウラジオストックを目指しているのではないか、 そのような疑念の中、 5月23日、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、軍令部長伊東祐亨(スケユキ)大将宛て、 『相当の時機まで敵を見ないときは、北海方面に迂回したものと判断し、 連合艦隊も津軽方面に移動』する旨、 打電したのです。 この日、連合艦隊先任参謀秋山真之中佐は、同じ趣旨を伝えて移動の準備を行わせるために、 対馬方面に待機していた第3艦隊に出張しています。 この時、第4駆逐隊司令「鈴木貫太郎」中佐 (軍令部長と連合艦隊司令長官を歴任し、退役した後、太平洋戦争が泥沼化してから総理大臣となり、これを終結させました) も対馬に滞在していて、後に次のように回想しています。 『今夜は秋山君が泊まるから一緒に食事をしろというから会って話した。 その時の秋山君の話では、 「もうどうしてもバルチック艦隊はここに見えなければならんはずだのに まだ見えないのは太平洋を回って宗谷海峡または津軽海峡を通るのではないかという議論が大分多い、 艦長や司令官のなかには早く鎮海を出て函館の方へ回った方が有利であるという者がある。」 これは艦隊司令部の意見であるとはいわなかったが、 すこぶる迷ったような心配そうな顔をしていた』 鈴木の回想の通り、当時の真之は、すこぶる迷っていたのだと思います。 バルチック艦隊が対馬を通過することは、九分九厘間違いありません。 しかし、100%では無いのです。 自らの判断が日本帝国の浮沈を左右しかねないわけですから、 真之へのプレッシャーは察するに余りあるものがあります。 その点、他の参謀連中は気楽なもので、 第1戦隊参謀「松井健吉」中佐と第4戦隊参謀「森山慶三郎」中佐は、 対馬だ、津軽だと議論になり、 松井が「議論をしても果てがないから、それじゃ賭けをしよう」 と言って、森山が「津軽海峡を通ったらお前がご馳走しろ、対馬海峡を通ったら俺のほうがご馳走する」 と、やったそうです。 森山は、その30年後に次のように回想しています。 『日本海の海戦が一通り済んだ時に俺の方が負けたからね。 松井にご馳走することになった。 それで、松井の艦(装甲巡洋艦「日進」、第1戦隊旗艦)に信号した。 「松井参謀健在なりや」と、 すると「戦死せり」と返信があった。 まあこんなわけで、一番偉い参謀が戦死して、 私ら「わからずや」が生き残った訳だ。』
2011年11月27日
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日露海戦の前半戦で真之の上司であった「島村速雄」によると、 連合艦隊先任参謀秋山真之中佐の頭脳は、 『明鏡止水(澄みきった静かな心境)の如くに 一所にじっと静まり返って物の来るのを待ってこれを照らす』 ようなものではなくて、 『活動も活動、あたかも煽風器の如く回転しながら活動を続け、 常にこちらより仕掛けていきて、物を捜し、何でも当たるを幸いにこれを照らし、 これを研究して良きものと見れば直ちにこれを実用に供せんとする』 ような能動的なものであったようです。 明治38年4月、バルチック艦隊との決戦まで1カ月余りとなり、 真之の頭脳は、煽風器の如くフル回転していたはずです。 連合艦隊は、バルチック艦隊を撃滅するという戦略的目標を達成するために、 4月12日に連合艦隊戦策「連隊機密第259号」を出した後も、 4月21日に「連隊機密第259号の2」、 5月17日に「連隊機密第259号の3」、 5月21日(日本海海戦の6日前)に「連隊機密第259号の4」 と、つぎつぎに戦策の改定を行ったのです。 困ったことに、これらの戦策を撤回要求したのは、第2艦隊でした。 第2艦隊は、日露海戦の前半戦で何回もウラジオ艦隊を取り逃がし、国民から「露探艦隊」と蔑まれたことが、 第1艦隊への妬み、嫉妬へつながったのか、 第1艦隊の発する戦策に対して少なからず疑心暗鬼になっていたような気がします。 ここで板挟みになったのは、 連合艦隊参謀長の加藤友三郎少将でした。 加藤は、日露海戦の前半戦で第2艦隊参謀長でしたから、第2艦隊の受けた苦痛は痛いほど判りますし、 連合艦隊参謀長の責任の重さは、 第2艦隊参謀長に比べ計り知れないほど重いという事も実感していたことでしょう。 このような状況から、加藤は、バルチック艦隊撃滅に向けた最終的な戦策を、 連合艦隊司令長官東郷平八郎大将と戦策の考案者である真之以外には秘匿して、 日本海海戦に臨もうと考えたのではないかという気がします。
2011年11月26日
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日本海海戦の開始が明治38年5月27日ですから、 その1ヶ月半前の4月12日、 バルチック艦隊に対する「連合艦隊戦策」が発令されました。 この戦策は、7項目に別れていて、 第4項目「戦法」では、 『単隊の戦闘は丁字戦法、2隊の共同戦闘は乙字戦法に準拠するものとす』 とあり、開戦前の戦策の 『敵に対し丁字形を保持するにつとめんとす』 から、明らかな変更が見られます。 この変更は、つまり、 見た目の陣形(具体的には丁字形)にはこだわらず、 丁字戦法に準拠して(丁字戦法の規格の要請を満たす陣形により)戦う と、理解されます。 具体的には、 第7項目「戦闘開始時における各部隊の運動」に記載されていて、 『第1戦隊は、 敵の第2順にある部隊の先頭を斜めに圧迫する如く敵の向首する方向に折れ、 勉めて併航戦を開始し、爾後戦闘を持続』 する戦法です。 この戦法を図に示すと次のようになり、図のB艦隊は、A艦隊よりも圧倒的に有利となります。 その理由は、11月13日と14日に書いたので、重複は避けます。 丁字戦法の規格とは、おそらく 「我が全力を以って敵の分力を撃つ」 「敵の先頭を圧迫し、やにわにその二、三隻を撃破する」 であって、この規格に準拠した新たな戦策こそ、 秋山真之による丁字戦法の完成形、 または丁字戦法の改変形であったのではないでしょうか。 この戦法は、「イ」字形であり、「丁」字形ではないから、 丁字戦法では無いという考え方があったとしたなら、 それはちょっと非論理的という気がします。
2011年11月25日
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バルチック艦隊を迎え撃つ連合艦隊の組織は、おおむね次のようになっていて、 第1艦隊(連合艦隊司令長官兼務東郷平八郎大将、参謀長加藤友三郎少将、参謀秋山真之中佐他2名)第1戦隊、第3戦隊他 第2艦隊(司令長官上村彦之丞中将、参謀長藤井較一大佐、参謀佐藤鉄太郎中佐他2名)第2戦隊、第4戦隊他 第3艦隊 第5戦隊、第6戦隊、第7戦隊他 その主力は、第1戦隊(戦艦4隻、装甲巡洋艦2隻)と第2戦隊(装甲巡洋艦6隻)でした。 日露海戦の前半戦では、第1艦隊が旅順のロシア太平洋艦隊の封鎖を担当し、 第2艦隊は、ウラジオ艦隊(ウラジオストック巡洋艦隊、装甲巡洋艦ん3隻他)の探索を担当しました。 しかし、第2艦隊はウラジオ艦隊を補足することができず、 その通商破壊によって、日本軍は大きな損失を受けました。 第2艦隊の失態は、帝国議会でも取り上げられ、マスコミの報道もあって、 上村司令長官の自宅は投石され、第2艦隊は「露探(ロシアのスパイ)艦隊」と呼ばれたりして、 このようなマスコミや民衆の辛辣な攻撃は、 明治37年8月14日の蔚山沖(ルサンオキ)海戦で第2艦隊が勝利するまで続くことになります。 当時、第2艦隊参謀であった佐藤鉄太郎中佐は、戦後30年経過して次のように回想しています。 『民衆の非難攻撃がひどいでしょう。 皆様も御承知でしょうが露探艦隊とまで言われたのであります。 (中略) しかし幸いにも全艦隊だれも、 上村さんはじめ幕僚たちに対して大なる不平をもつものがなかったようで、 却って国民に対して非常な反感を持ちました。 日本人はどうしてこんなに頼み甲斐がないのか。 こんなにやっているのにひどいという風に憤慨しましたが、 艦隊の中では別段大なる不平の声も聞かずに終わったのであります。』 佐藤は、第2艦隊の反感が国民に向かったと言っていますが、 第1艦隊は、触雷により2隻の戦艦を失うというとんでもないミスをおかしたのに、マスコミに叩かれることも、投石されることもなく、第2艦隊だけがひどい目にあっていることへの不満、 (第1艦隊の司令部が連合艦隊の司令部を兼ねているため)第2艦隊の司令部より第1艦隊の司令部が権威を持つことへの不満、 などにより、第1艦隊の司令部にも反感が向けられたのではないかという気がします。 このような不満というか怨みによるものなのか、 秋山真之の手から成るバルチック艦隊との決戦に向けた連合艦隊の戦策を、 第2艦隊の司令部は一つ一つ潰していくことになるのです。
2011年11月24日
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203高地が陥落(明治37年12月5日)し、ロシア太平洋艦隊が壊滅したので、 東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊は一息ついたことになります。 明けて明治38年1月12日、日本海軍は、 連合艦隊の大幅な人事異動を断行しました。 東郷の参謀は、参謀長以下4名であり、 開戦時から参謀は、秋山真之だけになってしまいました。 参謀長の島村速雄少将は、第2戦隊の司令官に転出し、 代わって、連合艦隊の参謀長に補されたのは、第2艦隊参謀長であった加藤友三郎少将でした。 真之の伝記には次のようなエピソードが記載されています。 『夜中将軍(真之のこと)は幕僚室の寝台に横たわっていても、 じっと天井を睨んだまま深夜に至るも眼を閉じなかった。 そして一にも作戦二にも作戦、そればかり考えて、一睡だにしなかった晩も少なくは無い。 殊に日本海海戦の迫った数日間というものは全く不眠不休であった。 当時の参謀長加藤友三郎少将が心配して 「君、それじゃ身体が持つまい。 少し睡眠をとったらどうだ」 と注意したことがあった。 将軍は感謝しながら、ただ笑っていたそうだが、それほど余事の時間を惜しんで、 全勢力を作戦へ傾けていたのである。』 当時の真之のルール無視は相変わらずであったようで、 参謀長を通さずに、直接、司令長官に意見具申することがたびたびあって、 当然、加藤はそれを好ましくは思っていなかったそうです。 日露戦争後、加藤が「海軍大臣」、真之が「軍務局長」(海軍省の大臣と次官の次に重要なポスト)であった時期に、 加藤が、 『秋山もいいけれど、もう少し俺をたててくれないと困るよ』 と愚痴ったという話が残っています。
2011年11月23日
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旅順攻略について、海軍は少なくとも二つのミスを犯したといえます。 一つ目は日露開戦時に、海軍は単独で旅順攻略を計画してこれを実行し、 ことごとく失敗(開戦時の奇襲攻撃、三回の旅順閉塞作戦)してしまったことです。 海軍は旅順攻略の手段を失い陸軍に対し、ロシア太平洋艦隊の無力化、 または旅順港からの追い出しを正式に要請したのです(明治37年7月)。 乃木希典司令官率いる第3軍は、旅順前進陣地への攻撃を開始し、 これも一因となってロシア艦隊はウラジオストックへの回航を目的として、8月10日に旅順港を出港しました。 これにより、陸軍は海軍の要請を達成したといえます。 海軍の二つめのミスは、出港したロシア艦隊を撃滅することができず、 取り逃がしてしまったたことです(黄海海戦)。 ロシア艦隊は旅順に逃げ戻り、二度と出港することはありませんでした。 陸軍は、最初旅順を攻略するつもりは全くありませんでした。 ただし、陸軍が遼陽でロシア満州軍と戦っている時に、 旅順要塞のロシア守備隊が北上し、挟み撃ちになると困りますので、 旅順要塞の北方に2個師団程度を見張りとして配置して置く予定でした。 しかし、海軍からロシア艦隊の無力化を要請されたことから、 陸軍(参謀本部または満州軍司令部)は、ついでに旅順要塞そのものも攻略してしまおうと考えたのです。 旅順要塞を攻略できれば、南方に脅威は無くなりますので、 陸軍の全戦力を遼陽に仕向けることができるからです。 この場当たり的な戦略目的のすり替えが陸軍のミスであって、 海軍ののたび重なる作戦の失敗なども含め、これらを全てを第3軍が引き受けたとも考えられます。 旅順攻囲戦では、 その攻略を担当した第3軍の司令官乃木希典大将と参謀長伊地知幸介少将の無為無策により、 膨大な死傷者が出たとされていますが、 陸軍中枢部のミスを現場に押し付けたという側面もあり、 何もかも第3軍の司令部が悪いというのは当たっていないように思います。 以下は、秋山真之の岩村団次郎(第3軍に派遣されていた海軍参謀)宛ての手紙の抜粋です。 明治37年11月27日発 『203高地はぜひ成功せしめられしことを祈る。 我が軍の苦痛と均しく敵軍にもまた苦痛多かるべく、 惨は惨なりと言えども我が苦痛に打ち勝つものが最後の勝者たるべく、 根気を継続せば不日(フジツ、そのうちに)意外の落着を見ることあらんかと予想致し候。』 11月30日発 『旅順の攻略に四、五万の勇士を損するもさほど大なる犠牲にあらず、 彼我共に国家存亡の関する所なればなり。』 12月3日発 『いかなる大局より打算すればとて、 二万有余の大損害、しかも作戦の目的は十分に達せられず。 惨絶悲絶、 いかなる小生も第3軍の将卒に対し同情悲痛の熱涙を禁ずるあたわざる次第にござ候。 しかしながら、既にたびたび申上げ候ごとく、 敵も多大の損害たること必然なれば、その防御兵力大いに減少したること疑いなく、 この悪戦の結果は必定後日旅順陥落の大原因と相成るべく、 全局より打算して決して不利にはこれ有るまじきと愚信候。』 12月5日、ついに203高地は陥落し、 この地から旅順港に潜んでいたロシア太平洋艦隊の全滅が確認されたのです。
2011年11月22日
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秋山真之は、俗にいう凝り性とでもいうのでしょうか、 作戦に関する実務作業などをやるときは、異状ともいうべき熱心さで、 これに取り組んだそうです。 『前項で記した水雷関係の兵器(連繋水雷のこと)を考案した時などは、 双眼鏡をもって水雷艇に乗り、毎晩11時、12時頃まで傍目もふらずに作業をつづけて、 作業が終わるまでは、3日も4日もその作業服を着っぱなしでいたものだった。』 真之が心血を注ぎ完成させた、「奇想天外の兵器」連繋水雷が、 どのようなものであったのかというと、 水雷を敵艦の垂直方向に100m間隔で敷設し、 水雷同士をロープで繋いでおくのです。 当時の戦艦や巡洋艦の艦首には、衝角(ラム)が装備されていましたので、 敵艦が水雷を避ける事ができたとしても、 水雷同士を繋いだロープを引っかけることになり、 水雷は自然に手繰り寄せられ、敵艦の横腹に接触して爆発するというものでした。 明治38年5月27日に行われた日本海海戦では、 連合艦隊はこの連繋水雷を用いてバルチック艦隊を迎え撃つ計画でした。 しかし、これを敷設する水雷艇は、100トン程度の小船であり、 その日は大波に翻弄され、行動が制限されたため、やむなく中止となったようです。
2011年11月20日
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伝記というものは、本人を顕彰するために出版されるのですから、 都合の悪い話は書かなければ良いようなものですが、 秋山真之の伝記には、本人の行儀の悪さがいろいろと記載されています。 例えば、 『ポケットに煎り豆を忍ばせ、それを?み?み甲板を歩きながら頻りに考えている。 そうしていて不意に足を留める。 足を留めると食いかけの煎り豆も何も吐き出して参謀室に急いで帰ってくる。 それが何か名案のヒントが浮かんだ時だ。』 果たしてどのような名案のヒントが浮かんだのかは判りませんが、 これでは、甲板の清掃係がたまったものでは無かったでしょう。 真之の名案の中で、特筆すべきはやはり「連繋水雷」でしょう。 これは、軍機兵器とされ、長い間、海軍の最高機密であったのですが、 真之の伝記は、ある程度のネタばらしまでしているのですから、 よく発禁処分にならなかったものだと思います。 発禁処分になる書籍の多くは、思想上のことであったでしょうから、 軍人を顕彰する伝記については、大目に見てもらえたのかもしれません。 『一度などは、素晴らしい水雷関係の兵器を考案して、 それが或る大海戦での勝利の重要原因とさえなった。 その兵器が如何なるものであるかは、 今なお軍機の秘密に属しているから明記は出来ぬが、 しかもその考案を得た動機がはなはだ面白いものであった。』 黄海海戦の時(明治37年8月10日)、13時30分頃、 ロシア太平洋艦隊の先頭艦「ツェザレヴィチ」は、 針路方向に「機雷の浮遊するを発見」し、急きょ左に回頭して、これを避けています。 日本海軍が機雷を敷設していませんので、 戦艦ツェザレヴィチは、マボロシを見たことになります。 ただ、これより前、連合艦隊の駆逐艦は、 ロシア艦隊の16km手前で、これを横切る時、上甲板の石炭袋を海上に投棄していて、 これを機雷と事実誤認したことが、マボロシの機雷浮遊となったようです。 黄海海戦から何日か経過して、外国の新聞に、 連合艦隊の駆逐艦が機械水雷をどんどん海に投じて逃げたので、 ロシア艦隊は危険とみて回頭したと書いてあったので、 これを見た三笠ガンルームの士官たちは、 石炭袋を投棄したのを、枯れ尾花の幽霊で、機雷と見誤ったのだろうと大笑いしたそうです。 真之は、この笑い話から何らかのヒントを得て、 「連繋水雷」を考案したのです。
2011年11月19日
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明治37年8月10日の黄海海戦において、 ロシア太平洋艦隊は、右や左に回頭し、 日本海軍の第1戦隊は、その航跡に翻弄されているようでした。 13時50分頃、ロシア艦隊は再び左に回頭したのですが、 第1戦隊は、何の反応もしないで、 その航跡は迷走しているように方向が定まらなかったのです。 戦後、秋山真之は、海軍大学校の教え子に次のように語ったそうです。 『島村(速雄)参謀長と反転の議論をしておったため、舵を取るのが3分遅れた。』 戦いの前に、参謀間で、戦術に関する議論を行うことは当然あるでしょうが、 戦いの最中は、一瞬の判断の遅れが命取りになる可能性があるでしょうから、 悠長に議論する暇などあるはずもなく、真之は直ぐに島村参謀長の方針に従うべきでした。 真之と島村との反転の議論がどのようなものであったかは、なんとなく想像できます。 以下は、ほとんどが根拠のない架空のはなしです。 ロシア艦隊の戦略目的は、ウラジオストックへの回航であると見抜いていたのは真之の方で、 左への反転を主張したのです。 左へ反転すれば、ウラジオストックに向かうロシア艦隊の頭を押さえることができます。 連合艦隊の旗艦「三笠」は、無線設備が被弾して破壊されたため、 「一斉回頭」は考慮されなかったのでしょう。 一斉回頭を行うと、三笠は殿艦となってしまい、 艦隊運動をコントロールできなくなってしまうからです。 ロシア艦隊は、とりあえず日本海軍と戦闘し、 都合が悪くなれば旅順に帰港すると考えたのは島村でした。 せっかく日本陸軍が旅順の艦隊を追い出してくれたのに、 旅順に逃げ帰られたら元も子もありません。 したがって、旅順への退路を塞ぐために、右へ反転すべきであると考えたのです。 二人の議論のため、第1戦隊の反転が遅れ、日本軍は絶望的なピンチに陥るのですが、 三笠が放った砲弾が、ロシア艦隊の司令長官を直撃して、 このラッキーパンチにより何とか勝利を得ることが出来たのです。 来たるべきバルチック艦隊との最終決戦において、 島村と真之の確執が表面化することは絶対に避けねばなりません。 ロシア旅順要塞が堕ちたのち、東郷の幕僚から更迭されたのは、真之では無く島村でした。 誰よりも正確な状況判断、連繋水雷のように常人には考えの及ばない考案、 小が大を制すような奇策の数々、 このような真之の天才を、東郷平八郎連合艦隊司令長官は必要としたからでした。 しかし、日本海軍の至宝ともいえる島村速雄の輝かしい経歴に、 東郷が自ら汚点を付けることになるのですから、 まさしく泣いて馬謖を斬るの心境であったのでしょう。 大正12年1月、島村は66歳で元帥となって鬼籍に入りました。 この訃報が伝わると東郷元帥(77歳)も弔問に訪れ、 もう動く事のない島村の枕元に座り、島村の死顔を数分の間見続けたのです。 そして、誰にも聞き取れないほどの小さな声で、何かを語りかけ 深々と一礼して、島村宅を後にしたのです。 東郷はやっと18年前の更迭人事を島村に詫びることが出来たのだと思います。
2011年11月18日
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日露戦争の前半戦では、 連合艦隊先任参謀秋山真之少佐の上官は、島村速雄参謀長(大佐)でした。 海軍の場合、要塞が高速で移動しているようなものですから、 瞬時の判断が必要で、参謀が迷っていたなら、その間に沈没してしまうかもしれません。 したがって、戦闘中は、司令長官への助言も瞬時に行う必要があり、 もしも幕僚間で意見の相違がある場合は、参謀長に従わなくてはなりません。 しかし、真之は自説を曲げないというのか、どうもそのようなことは気にもとめなかったようです。 明治37年3月10日早朝、連合艦隊旗艦「三笠」は、 旅順口内に潜んでいるロシア太平洋艦隊を間接射撃(敵が直接見えない状態で攻撃する射撃法)するために、出動しました。 その時、駆逐艦「暁(アカツキ)」が三笠に接近してきました。 暁は、前日から出動していて、敵駆逐艦隊と交戦し、死傷者を出したのですが、 駆逐艦には軍医は乗艦していませんので、三笠に助けを求めたのです。 この時、戦艦「三笠」の前艦橋には伊地知艦長と真之が、 後艦橋には東郷司令長官と島村が位置していました。 島村は、暁の負傷者を収容するよう、飯田久恒(ヒサツネ)参謀に命じ、 飯田は、それを伝えに前艦橋に駆けつけたのですが、 真之は、今が間接射撃を行う好機であるといって、艦を停止させようとしません。 使いっ走りにされた飯田はたまったものでは無かったでしょうが、 前艦橋と後艦橋の間を30回以上往復したそうです。 この間、東郷は黙して語らなかったと言いますから、 よほどがまん強い性格であったのでしょう。 この場合の島村と真之の確執は、戦闘前に起こったことですから、 大勢に影響は無かったのでしょうが、もしも戦闘中に生じたとしたら、 大変な事になってしまいます。 その大変な事が、明治37年8月10日の黄海海戦に発生していて、 真之の言う「3分間の遅れ」も、実は2人の確執が原因だったのです。
2011年11月17日
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黄海海戦(明治37年8月10日)において、 日本海軍の連合艦隊には、1隻の沈没艦もありませんでした。 ロシア太平洋艦隊は、 戦艦1隻、巡洋艦2隻が旅順にもウラジオストックにもたどり着くことができず、 上海、サイゴンなどで武装解除され、戦争が終了するまで抑留されました。 防護巡洋艦「ノヴィーク」は、ウラジオストックへ向う途中で連合艦隊の巡洋艦2隻と交戦し、座礁してしまいます。 残りの戦艦5隻と巡洋艦1隻は、何とか旅順に帰還できたようです。 ロシア海軍の目的は、 1隻でも多くの軍艦をウラジオストックに回航することでしたから、 この作戦は全くの失敗に終わったことになります。 日本海軍の目的は、 旅順口の封鎖を終了させることでした。 封鎖を早く終了させて、バルチック艦隊の回航に備えなければならなかったからです。 陸軍に対して、ロシア太平洋艦隊を砲撃により撃沈するか、 または、旅順から追い出してもらいたいと頭を下げてお願いしたのは、 ロシア艦隊が旅順口から出てくれば、これらを全て撃破できるという自信があったのでしょう。 しかし、いざロシア艦隊が出てくると、決め手に欠く攻撃しかできず、 時間切れで判定負けをする直前、一発の「怪弾」が敵の心臓部を直撃し、 なんとか逆転勝利をおさめることができたのです。 ただし、最後の詰めの甘さが露呈(駆逐隊の夜襲攻撃)し、 ロシア艦隊のほとんどを取り逃がしてしまいました。 したがって、黄海の制海権を維持するために、 これまで通り、旅順口の海上封鎖を継続しなければならず、 日本海軍もその戦略的目的を達成することができなかったのです。 これ以後、ロシア太平洋艦隊は、二度と大規模な出撃を行うことはありませんでしたので、 日本海軍は手段を失ってしまい、陸軍による旅順要塞の早期占領を願うしか無くなったのです。 秋山真之は、黄海海戦を次のように総括しています。 『黄海の大海戦は、かくのごとくにして、その終わりを告げた。 好し当日の戦場におけるその直接の戦績は少なかりしとはいえ、 全局に対するその間接の効果は実に偉大なるものである。 これがため、バルチック艦隊の東来まで、 その東洋艦隊(太平洋艦隊のこと)大部を保全し、 もって最後の勝算を立てたる敵国の大戦略を根底より覆滅し、 戦局の大勢を確定し得たので、兵学上の見地からいえば、 花々しく俗眼に映ずる日本海の海戦よりも、 むしろその価値も趣味も多大なるかと思われる。 彼(日本海海戦のこと)は一時に咲き揃った爛漫たる桜花(オウカ)で、 これ(黄海海戦のこと)は春を破って匂い出でたる梅花(バイカ)である。』
2011年11月16日
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明治37年8月10日の黄海海戦において、 連合艦隊の第1戦隊は、ロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)と距離を取りながら並走し、 できれば艦隊の頭を抑えたかったのですが、 なかなか抜き去ることができません。 連合艦隊は、連日の旅順口封鎖任務で疲れ果てていて、ろくな整備が出来ていませんし、 一方ロシア艦隊の方は、本格的なドックが旅順港内になかったとはいえ、 艦底の牡蠣がらを落とすなどある程度の整備が可能であったからです。 といって、このまま並走すれば、闇にまぎれて逃げられるだけですから、 不利な態勢は承知の上で、砲戦を挑んだのです。 ここから「第二合戦」が始まります。 以下、秋山真之の回想です。 『戦闘を開始するには、いまだ我が先頭を撃圧せらるる気味ありて、有利とは見えなかった。 されど、かくては、もはや日没までに時間が無いから第二合戦は不利なる対勢の下に、 17時30分より開始せられ、それより約1時間は梯行相殺の激戦が続いて、 彼我共に多大の損害と死傷があった。 しかるに天なる哉、命なる哉、18時30分の頃、 我が一巨弾が敵の旗艦「ツェザレーヴィチ」の司令塔付近に爆中して、 その主将と幕僚を倒し、かつ、舵機を破壊したため、 同艦はたちまち左方に旋回して、味方の隊列に突出し、 敵陣たちどころに乱れ始めた。 東郷大将は、この好機を逸せず、直ちに敵の前方に廻り込み、 狙撃急射を浴びせかけたから、 敵の隊列は全く崩れて、ついに支離滅裂となり、艦々互いに意思の結合を失いて、 南方に逃げ出さんとするもあれば、 また北に避くるもあり、西に還らんとするものもあった。』 第二合戦の初めは、連合艦隊が圧倒的に不利であったにも拘らず、真之の言ういわゆる一発の「怪弾」により、 戦局は一気に好転したのです。 ロシア艦隊の司令長官「ヴィトゲフト」少将は、幕僚たちが司令塔に入るのを勧めたのに、 「司令塔は狭隘(キョウアイ、狭くてゆとりが無い)なれば、予は司令塔に入るを欲せず、 どこで戦没するも死は一のみ」 といって、司令塔に入るのを拒否し、終始前艦橋に突っ立っていたところを、 いわゆる「怪弾」が襲い、それがさく裂すると、ヴィトゲフトは粉砕飛散し、 残ったのは足一本だけだったそうです。 連合艦隊の東郷大将も似たようなもので、日露戦争中はいつも艦橋に立ち、 戦局を注視していたにもかかわらず、ロシアの砲弾はいつも東郷を避けていたのですから、 よほど運が良かったのでしょう。 久しぶりに小説「坂の上の雲」からの引用です。 『「東郷は若いころから運のついた男ですから」 というのは、山本権兵衛(海軍大臣)が明治帝に対し、 東郷を総帥にえらんだ理由としてのべた言葉だが、 名将ということの絶対の理由は、 才能や統率能力以上に彼が敵よりも幸運にめぐまれるということであった。 悲運の名将というのは論理的にありえない表現であり、 名将はかならず幸運であらねばならなかった。』
2011年11月15日
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単縦陣の同航戦において、 先行艦隊(B艦隊)は、後行艦隊(A艦隊)よりも、圧倒的に有利であることを、 昨日書きました。 連合艦隊先任参謀秋山真之は、黄海海戦の実体験に基づき、 いずれ極東に回航されてくるはずのバルチック艦隊を後行艦隊(A艦隊)、 自らの連合艦隊を先行艦隊(B艦隊)、 と位置づけ戦うことを考えたことでしょう。 しかし、どうすれば上図のような陣形に持ち込むことができるのでしょうか。 バルチック艦隊は、半年以上の航海のため疲れ果てていて、雌雄を決する海戦は望むはずもなく、 ウラジオストックへの回航を最優先することでしょう。 だとしたら、連合艦隊が先行したとしても、上図のように、 バルチック艦隊が追撃してくれる可能性はほぼ無いと考えなければなりません。 こうなると、やはり真之の腕の見せ所であって、 日本海海戦では「奇策」を使って、この陣形に持ち込んでしまうことになるのですから、 奇策士の面目躍如といったところでしょうか。 もしも、奇策により上図のような陣形に持ち込むことが出来たとしても、 A艦隊(バルチック艦隊)は、右に逐次回頭して離脱を図ることでしょう。 しかし、もしもB艦隊がA艦隊よりも相当に速ければ、 A艦隊の頭を押さえながら、この陣形を維持することが可能なのです。 B艦隊となる連合艦隊は、佐世保や呉で十分な整備を行って、海戦に臨むはずですから、 艦艇の最大限の速度をだせるはずです。 しかし、A艦隊となるバルチック艦隊は、半年以上の航海を続けていて、 艦艇の整備を行うこともできず、艦底には牡蠣がらがこびりついているでしょうから、 艦隊の速度など知れたものでしょう。 したがって、上図の「イの字」の陣形を維持することは、 あながち無理な事でもないのです。 このようにして、真之は、黄海海戦の苦い体験から、 バルチック艦隊に向けた新たな「丁字戦法」を開発したのではないでしょうか。 「創出の航海 日露海戦の研究(すずさわ書店、2000年)」の著者吉田恵吾は、 自らの著書に次のように書いています。 『結局、丁字戦法とは、常に敵よりも前に出て運動の主導権を握ること、 できるだけ敵艦列の前方にある安全領域に我が身を置くこと、 敵の針路を圧迫するようにイの字の形を取り我が砲の全力を発揮できる角度にすること、 速力の優位を保ち有利な態勢を保ちつづけること、 これらを実行することにより、 「我が全力を以って敵の分力を撃つ」 「敵の先頭を圧迫し、やにわにその二、三隻を撃破する」 との思想を実現する事であるとしてよいであろう。』
2011年11月14日
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明治37年8月10日の黄海海戦において、 15時頃、連合艦隊第1戦隊は、ロシア太平洋艦隊との距離を約8,000mとし、 追撃戦を仕掛けました。 この時の状況を、秋山真之は次のように書いています。 『我が第1戦隊は敵の後方より随進追撃するの不利なる対勢となり、 先頭の「三笠」のみ、絶えず敵の集弾を蒙り、 このままにては到底戦機の発展を見るあたわざるに至った。』 第1戦隊は、このような不利な状況を回避するしかなく、 一時、ロシア艦隊から遠のくことになります。 真之は「追撃する側は不利である」と、実に重大な事をさらりと書いているのですが、 果たして、連合艦隊の先任参謀である真之は、 「追撃する側は不利である」と知っていて、追撃戦を行ったのでしょうか、 それとも、追撃戦を行ってみて、始めて「追撃する側は不利である」と判ったのでしょうか。 いずれにしても、真之は「先行艦隊は後行艦隊より有利である」ということを、 実体験したわけで、 この実体験が、日本海海戦で用いられた「丁字戦法」に活かされることになるのです。 (日本海海戦では、丁字戦法は無かったと書いてある書籍や記事がいろいろ出ていて、 私も二、三斜め読みしてみたのですが、何が書いてあるのかよく理解できませんでしたし、 秋山真之本人が日本海海戦は丁字戦法で戦ったといっているのですから、 私はいまのところ「丁字戦法はあった」派です。) このへんで、これまでのことを整理すると、 単縦陣とは、先頭艦に司令官を乗艦させ、 先頭艦の航跡に沿って二番艦以降が金魚の糞のようについていくという陣形です。 単縦陣が、他の陣形よりも有利であることは、 日清戦争における黄海海戦において、 伊東祐亨(スケユキ)司令長官率いる連合艦隊が自らこれを証明しています。 しかし、単縦陣にも唯一ともいえる欠点があって、 それは、最も攻撃されやすい先頭艦に司令官が乗艦していることであり、 他の陣形に比べて、司令官を失う確率が高いということでした。 もしも、司令官を失うと、艦隊は船頭を失い、圧倒的不利な状況に陥ってしまいます。 以上のことを踏まえて、 何故「先行艦隊は後行艦隊より有利である」のか、ということを書いておきます。 この図は、単縦陣どうしの一般的な同航戦です。 この場合、太陽の位置や風向きなどの自然条件を考慮しなければ、 A艦隊とB艦隊は、陣形的にどちらが有利ということはありません。 しかし、B艦隊が先行し、これをA艦隊が追撃する態勢になった場合、 B艦隊の全ての艦艇は、A艦隊の先頭艦(旗艦)を砲撃可能ですが、 A艦隊の場合、後続の艦艇ほど、B艦隊の先頭艦(旗艦)を砲撃することは困難になることを 図から感覚的に理解できると思います。 したがって、単縦陣同士の砲撃戦では、 先行艦隊は、後行艦隊よりも有利に戦いを進めることができることになります。
2011年11月13日
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明治37年8月10日の黄海海戦において、 14時17分、連合艦隊第1戦隊は、やっと右に16点(180度)の逐次回頭を行っています。 秋山真之は、これを「3分の遅れ」といっていますが、 普通に考えれば14時には反転の判断ができたはずで、 少なくとも15分は遅れているわけです。 14時25分、彼我艦隊の距離は約12kmになっていました。 第1戦隊が、ロシア艦隊に対し、 1時間当たり2kmの距離を詰めることができたとしても、 並走できるまでに6時間を要することになり、 日没までに間に合わないことが決定的でした。 つまり、ロシア艦隊は第1戦隊との離脱に成功したのです。 しかし、ロシア艦隊に不測の事態が起きてしまいます。 戦艦「ポルタワ」の機関が故障し、速度が約1.5ノット(約3km/時)程低下してしまったのです。 ここで、ロシア艦隊の司令長官「ヴィトゲフト」少将は、 致命的なミスを犯してしまいます。 自ら、『僚艦中、触雷または戦闘により落伍艦発生するも、 艦隊はこれを擁護すること無し』と、 宣言したにも関わらず、艦隊のスピードをポルタワに合わせてしまったのです。 もしも、ヴィトゲフトが最初の宣言通り行動していたなら、 ポルタワは第1戦隊に袋叩きにあって、沈んだでしょうが、 残りの艦船の多くをウラジオストックに回航できた筈です。 まあ、真之が言うように、『事後の結果を詮索して後日に批判するは容易きこと』ではあるのですが。 ロシア艦隊の速度が低下したことから、 15時00分、彼我艦隊の距離は約8,000mにまで縮まり、再び砲戦が開始されました。 この時の状況を真之は、 『我が第1戦隊は敵の後方より随進追撃するの不利なる対勢となり、 先頭の「三笠」のみ、絶えず敵の集弾を蒙り、 このままにては到底戦機の発展を見るあたわざるに至った。』 と書いていて、第1戦隊は砲戦を中止し、ロシア艦隊から離脱してしまうのです。 ここで、黄海海戦の「第1合戦」が終了し、 以後、第1戦隊は、ロシア艦隊と距離をとりながら、ひたすら追跡することになります。
2011年11月12日
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「黄海海戦」の9年後、当時の連合艦隊主任参謀秋山真之少佐が、 自ら筆をとってこれを回想しています。 『第1合戦は、我が全軍の集合を遂げざる前、 13時15分より、遇岩の東北において、第1戦隊のみをもって開始せられたが、 東郷大将の戦法は、日本海海戦の時と少しも異なることなく、例の丁字戦法で、 その当初の対勢は、第2図(これまで示した図を集約した図)に示した如く、 理想的絶好ともいうべきであった。 ために短時間の砲戦に早くも敵陣を撹乱し、著しく打撃の効果を呈し、 もしこれを持続し得たならば、ほとんどここに敵を撃破することが出来たのであった。 しかるに、14時ごろ敵の艦々相乱れて重なり合えるに乗じ、 我が全線の掩撃(エンゲキ、不意打ち)急射、最も激甚なりし時、第1戦隊は知らず識らず、 敵の西方(すなわち旅順の方向)に回り込んだ。 ところが、敵はいち早くもこの機をはずさず、山東角の方に向針した。 さてこそと東郷大将はその隊首を転ぜられたが、 残念、その時機がわずか3分間遅れたため、 爾後、第2図の終りの如く、我が第1戦隊は敵の後方より随進追撃するの不利なる対勢となり、 先頭の「三笠」のみ、絶えず敵の集弾を蒙り、 このままにては到底戦機の発展を見るあたわざるに至った。』 東郷平八郎司令長官の司令部の判断の遅れから、 連合艦隊はこの「黄海海戦」において負け戦の様相を呈してしまいます。 それでは、何故3分の遅れが生じてしまったのか、真之は次のように書いています。 『後日における黄海海戦の評論が、 主としてこの3分間の遅れをとった点に集中されたが、 しかし事後の結果を詮索して後日に批判するは容易きことで、 事前に即断して、未然に適応せしむるはなかなか困難である。 浦塩(ウラジオストック)に逃してはならぬということは、誰しも銘心していながら、 また6月23日の轍(テツ)で、旅順に引き返しはせぬかと疑うてみると、 これもまたやむを得なかったと考える。』
2011年11月11日
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明治37年8月10日13時30分、 ロシア太平洋艦隊と連合艦隊第1戦隊は、同航戦になっていました。 しかし、彼我艦隊の距離は約9,000mもありましたから、 たとえ戦艦の主砲といえども敵艦に当たる距離では無かったようです。 その後、ロシア艦隊は針路方向に再び(あるはずもない)機雷を発見して、 右8点(90度)の逐次回頭を行い触雷を避けたのです。 第1戦隊から見れば、蛇行するロシア艦隊の真意など判るはずもありません。 敵艦隊は南南西に針路を変えた時、旅順に戻るのではないかという不安が頭をもたげたはずです。 やっと穴から出てきてくれた獲物を易々と逃げ帰らせる訳にはいきません。 殿艦となっている連合艦隊旗艦「三笠」から、13時33分、 『一斉に右16点に回頭せよ、速力14浬(ノット、約26Km/時)』 の無線電信信号が発せられました。 第1戦隊は、16点の一斉回頭により、隊列を最初の状態に戻すことができ、 ロシア艦隊の一歩前に出て、これならロシア艦隊の頭を押さえることができそうです。 13時40分、彼我艦隊の距離は約8,000mまで近づいていました。 しかし、ロシア艦隊は、さらに左に大きく回頭を開始したのです。 今度は、魚雷を発見したからではなく、 ウラジオストックへ回航する予定の針路と大きく外れたために、 これを修正すると同時に、 第1艦隊の後方をすり抜けて、やり過ごすことを考えたのでしょう。 一方、第1戦隊は、これまでロシア艦隊の方向に鋭敏過ぎるほど素早く対応していたのに、 今回は何の反応もしなかったのです。 両艦隊は、反航戦となり、互いの距離は広がるばかりでした。 14時5分、彼我艦隊の距離は約11,000mまで広がっていました。
2011年11月10日
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明治37年8月10日13時15分の時点で、 連合艦隊の主力である第1戦隊は、左に90度の一斉回頭を2回行ったので、 隊列が逆になってしまいました。 東郷平八郎長官や秋山真之主任参謀が乗艦する連合艦隊旗艦「三笠」が殿艦に、 装甲巡洋艦「日進」が先頭艦になったのです。 日進には、第1戦隊司令官が乗艦していましたから、 このような艦列でも艦隊運動に支障はなかったはずです。 ただ、このような場合でも、艦隊運動に関する指示は、 無線電信信号を使って、戦艦「三笠」から発信されていました。 13時17分、 「左2点(22.5度)正面を変え」 という電信が発せら、艦隊が若干の針路を修正したのは13時25分になっていました。 一方、ロシア太平洋艦隊の先頭艦「ツェザレヴィチ」は、 針路方向に「機雷の浮遊するを発見」し、 急きょ左に回頭して、これを避けています。 もちろん、日本海軍が機雷を敷設していませんので、 戦艦ツェザレヴィチは、マボロシを見たことになります。 ただ、これより前、連合艦隊の駆逐艦は、 ロシア艦隊の16km手前で、これを横切る時、上甲板の石炭袋を海上に投棄していて、 これを機雷と事実誤認したことが、マボロシの機雷浮遊となったのかもしれません。 13時30分、彼我艦隊の距離は約9,000mになっていました。
2011年11月09日
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連合艦隊の第1戦隊は、戦闘開始から1時間もしないうちに4回もの一斉回頭を行ったことになります。 日清戦争における「黄海海戦(明治27年9月17日)」では、 逐次回頭ばかりで一度も一斉回頭を行っていないのですから、隔世の感があります。 逐次回頭は、金魚の糞のように先頭艦についていけば良いのですから、 比較的容易な艦隊運動のはずです。 どのような運動を行ったとしても、艦船の順番が入れ替わる事もありませんから、 先頭艦に司令官を乗艦させておけば、常に規律ある艦隊運動が行えるはずです。 しかし、回頭は1隻ずつ行うために、 回頭の開始から終了までの時間が長くなるという欠点も考えられます。 一斉回頭は、読んで字のごとく一斉に回頭を行うのですから、かなり難易度の高い艦隊運動のはずです。 一斉に回頭させるのですから、短時間で回頭を終了させることができるというのが、最大の長所でしょう。 しかし、16点(180度)の回頭を行うと、 先頭艦が殿(シンガリ)艦になってしまい、艦船の順番が逆になってしまうという問題もあります。 また、上手に回頭を行わないと、艦列が崩れたり、 僚艦同士が衝突して、最悪の場合ラムに当たって沈没するなどということもあり得るわけです。 ちなみにラムとは、敵船に衝突して穴をあけるために艦首の水線下に突出させた角状の物のことです。 第1戦隊の見事な艦隊運動(短時間内での4回の一斉回頭)を見て、 敵将ヴィトゲフト少将は、何を思ったのでしょうか。 この艦隊運動に、我が艦隊(ロシア太平洋艦隊)を全滅させうる戦術が秘められているのではなかろうかと、 恐怖したのかもしれません。 この恐怖のためか、この後ヴィトゲフトはマボロシを見て自らの艦隊を踊らせ、 第1戦隊もそれにつられて踊るという醜態を演じることになるのです。 後に、ある戦史家は、この黄海海戦における第1合戦を「複雑怪奇なる艦隊運動」と評したそうです。
2011年11月08日
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ロシアの太平洋艦隊と日本海軍連合艦隊の第1戦隊(連合艦隊の主力、戦艦4隻、装甲巡洋艦2隻)が、 お互いを視認しあったのは、明治37年8月10日の12時33分、彼我艦隊の距離は約23kmでした。 この時、いわゆる黄海海戦「第1合戦」の戦場にやってきたのは、連合艦隊からは第1戦隊のみで、 第3戦隊(装甲巡洋艦2隻、防護巡洋艦4隻)および駆逐艦隊は間に合わず、 連合艦隊は、のっけから戦力の集中に失敗してしまったのです。 連合艦隊がこのまま戦闘を開始すると、戦力的に圧倒的に不利ですから、できるだけ時間を稼ぐ必要があります。 そこで、左4点(45度)に一斉回頭して、単梯陣(タンテイジン)に、 10分後、右4点の一斉回頭を行い、単縦陣に戻したのです。 12時48分、彼我艦隊の距離は約14kmになっていました。 これより2ケ月前、太平洋艦隊は旅順港から出撃したのですが、 連合艦隊が一挙押し寄せてきたのを見て、さっさと旅順港内に逃げ帰ったことがありました。 また同じように戦闘もしないで逃げ帰られては困りますから、 『できるだけ敵を洋中に誘致せんと』したと、連合艦隊の戦闘詳報に記載されているようですが、 「戦力集中失敗の言い逃れ」という気がしないでもありません。 太平洋艦隊は、敵の戦力が薄いのですから、 これを幸いに敵艦隊を撃滅しようとしたかというと、もちろんそうはしませんでした。 なぜなら、太平洋艦隊に戦うための戦法が初めから無かったからです。 あるのは、ウラジオストックへの回航、ただそれだけでした。 敵の戦力が薄い事を幸いに、直進して、第1戦隊をやり過ごそうとしたのです。 第1戦隊は、13時頃、左8点(90度)に一斉回頭を行い、 単縦陣から一時的に横陣になって、南南東に向かいました。 しかし、第3戦隊も駆逐艦隊も戦場に姿を見せてくれません。 ついに、第1戦隊だけでの戦闘を覚悟したのか、 さらに左8点の一斉回頭により、針路は東北東、単縦陣に戻って、試射を開始しました。 13時15分、彼我艦隊の距離は約10,000mになっていました。 これにより、第1戦隊は例の「丁字戦法」を開始したと見てよいのかもしれません。 ちなみに、この黄海海戦の記事については、主に次の図書を参考にさせてもらっています。 吉田恵吾著、創出の航跡 日露海戦の研究、株式会社すずさわ書店、2000年 外山三郎著、日露海戦史の研究上 戦記的考察を中心として、株式会社教育出版センター、1985年
2011年11月07日
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明治37年8月10日早朝、 ロシア太平洋艦隊は、敵味方が敷設した旅順港外の機雷を掃海して、 その後、戦艦6隻、防護巡洋艦4隻、駆逐艦14隻が相前後して出港しました。 日本海軍の連合艦隊哨戒艦艇は、ロシア艦隊の出港を知り、 その状況を刻々連合艦隊旗艦「三笠」に報告していました。 連合艦隊司令長官東郷平八郎中将は、午前8時50分、第1戦隊を率いて出立し、 ここに、2月の開戦以来初めての大規模な海戦である「黄海海戦」の幕が切って落とされたのです。 ロシア艦隊に対する連合艦隊の陣容は、 戦艦4隻、装甲巡洋艦4隻、防護巡洋艦10隻、駆逐艦18隻 ですから、戦力的には連合艦隊の方が優っていたかもしれません。 もし連合艦隊がロシア艦隊を撃滅し、 連合艦隊の損失が半数であれば、黄海海戦は連合艦隊の大勝利なのでしょうが、 戦略的には日本軍は敗北を認めざるを得ません。 なぜなら、戦力が半減してしまった連合艦隊は、 この後極東に回航されてくるであろうバルチック艦隊に対抗できるはずもないからです。 したがって、連合艦隊はできるだけ味方艦隊の損失を少なくしてロシア太平洋艦隊を撃滅し、 制海権を確保した後に、傷ついた艦艇を整備してバルチック艦隊を迎え撃つというシナリオしか無かったのです。 当時の連合艦隊先任参謀秋山真之少佐は、 後に黄海海戦を振り返り、次のように書いています。 『今日より、戦役当時の戦勢を回想してみると、 もし敵の第2、第3艦隊(すなわちいわゆるバルチック艦隊)が、37年中にいち早く東洋に到着するか、 あるいはその第1艦隊(すなわち在来の東洋艦隊(太平洋艦隊のこと))が、 その半分たりとも38年まで長く残存して、バルチック艦隊に合力するか、 あるいはまた、この第1艦隊が自ら全滅するも、我が連合艦隊の勢力を半減するまでに力戦したんらば、 いずれにしても我が海軍の勝算は立たなかったので、真に危ういことであった。』
2011年11月06日
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明治37年7月28日、旅順にあるロシア太平洋艦隊は、 司令官、艦長による軍事会議を催しています。 この会議の席上、各艦長から 『日本艦隊との遭遇にさいし、我が艦隊のとるべき戦策につき、あらかじめ攻究する必要あり』 との意見具申があったのですが、 臨時艦隊司令長官のヴィトゲフト少将は、 『我が艦隊のとるべき戦策は全く本職の方寸(胸の内)にあり』 といってはねのけ、代わりに次の指示を与えたのです。 『艦隊は、途中いかなることありとも、 断じて浦塩斯徳(ウラジオストック)に回航すべし。 僚艦中、触雷または戦闘により落伍艦発生するも、 艦隊はこれを擁護すること無し。 損傷艦艦長は、艦の現状にかんがみ、 自爆もしくは適宜の港湾に回航するなど機宜(時期に応じて)独断専行すべし。』 太平洋艦隊の各艦長は戦う気満々であったのに、 司令長官は逃げ回って艦隊をウラジオに回航することしか考えていませんでした。 官僚的弊害の極致とはこのような事をいうのかもしれません。 ヴィトゲフトは、艦隊をウラジオへ回航すべしという命令を受けていても、 日本の連合艦隊を撃滅せよという命令は受けていなかったのですから、 連合艦隊への戦策など不要であったのでしょう。 8月10日、ロシア太平洋艦隊は、ウラジオを目指して旅順港を出港しました。
2011年11月05日
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ロシア側の事情を見ると、 極東総督はアレクセーエフ海軍大将で、極東における陸海軍の指揮権を与えられていました。 アレクセーエフは、次のように考えていたようです。 旅順(旅順守備隊、ロシア太平洋艦隊)と遼陽(ロシア満州軍)の連絡線を日本陸軍に分断され、 満州軍の旅順支援は困難である。 このままでは、バルチック艦隊が来援するまで旅順はもたない。 この閉塞状況を打破するためには、太平洋艦隊が旅順脱出を試みるしかない。 一方、太平洋艦隊司令長官で、名提督とうたわれたマカロフ中将は、 明治37年3月31日に乗艦する戦艦「ペトロパヴロフスク」が触雷して爆沈して戦死したため、 臨時艦隊司令長官にヴィトゲフト少将が任命されていました。 ヴィトゲフトは、次のように考えていたようです。 太平洋艦隊が旅順港内に停泊することで、旅順要塞の防御を高めることができる。 太平洋艦隊が旅順を脱出したなら、すぐさま旅順要塞は陥落してしまう。 また、太平洋艦隊よりも日本海軍の連合艦隊の方が戦力的に優勢であり、 これをのがれて脱出することは困難である。 旅順要塞は厚いべトンで守られているとはいえ戦力の補充はできません。 しかし、日本陸軍は倒しても倒しても無尽蔵に戦力が補充されてくるのですから、 いずれ旅順が陥落することは目に見えています。 また、たとえ第3軍の司令部が目的を履き違えていたとしても、 真の目的は旅順要塞を陥落することではなく、ロシア太平洋艦隊を撃滅することでした。 だとしたら、やはりヴィトゲフトは全力で旅順脱出を試みるべきであったでしょう。 7月12日、ヴィトゲフトはアレクセーエフに出撃はしない旨の電報を送っています。 業を煮やしたアレクセーエフは皇帝の名のもとに出撃を命じる返電を発しています。 ヴィトゲフトは仕方なく出撃を決意し、自らの失敗を予期したのか、 皇帝に対してこの出撃には反対である旨の電文を送っています。 これでは、この旅順脱出計画が成功する筈もありません。 「露日海戦史」の編者は、この経緯について次のように結論ずけています。 『提督はかくのごとく出動前、既に艦隊の全滅を確信して、7月28日これを決行せしが、 果たせるかな提督が自ら本回航を目して「遁走」となせしがごとく、 艦隊の浦塩斯徳(ウラジオストック)回航はついに敗滅をもって終われり』
2011年11月04日
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旅順は、日本陸軍にとって辺境の一要塞であって、戦略的に要地でもなんでもありませんでした。 というのは、陸軍は、ロシア満州軍の司令部がある遼陽付近で一大会戦を行い、 そこで圧倒的に勝って戦争を終わらせる計画だったからです。 そのため、第1軍、第2軍、第4軍がそれぞれ遼陽を目指して進軍していました。 明治37年6月のことです。 もちろん、遼陽でロシア軍と戦っている時に、旅順の守備兵がのこのこやって来て、 背後を襲われたら堪りませんので、そうならないよう 旅順のある遼東半島に2個師団ほど守備兵を残しておく計画でした。 しかし、ロシア太平洋艦隊の撃滅という計画を何度も失敗し、 万策尽きた海軍から頭を下げて陸からの旅順攻撃を要請されたのです。 もしも、ロシア海軍に黄海や日本海の制海権を握られたとしたら、 日本陸軍は、満州で勝ち続けたとしても、兵站線を分断されて干上がってしまうことになります。 陸軍は、ロシア陸軍の10分の1とも言われる戦力を割いて、 旅順に3個師団から成る第3軍を差し向けるしかなかったのです。 司令官乃木希典大将、参謀長伊地知幸介少将からなる第3軍の計画は、 7月下旬に旅順攻囲陣地の構築、 8月中旬より砲撃開始、 8月下旬までに要塞占領というもので、 後から考えてみると、あまりにも楽観的に過ぎるものでした。
2011年11月03日
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