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秋山真之は何故海軍に行ったのか?という疑問について考えるため、考えうる限りのピースを集めてきましたので、 そろそろ、これらのピースを組み立ててみることにします。 真之は中学生の頃、成績はトップクラスなのに、悪戯やケンカばかりしていたようで、自らの将来について考えたりはしなかったことでしょう。 上京して、大学予備門に入り、同郷の正岡子規とか周りの秀才たちの影響も受けたでしょうし、なにより19歳になったのですから、そろそろ自らの将来について真面目に考える時期がやってきたのだと思います。 当時は、博士になるか、大臣になるか、大将になるか、が出世したことの証明であり、人並よりはるかに優れた才能を持った真之は、当然出世することを望んだことと思います。 しかし、博士になるためには、私費で数年間海外に留学できる財力が必要であり、相当な資産家に養子にでも行くしか方法は無かったでしょうから、この道は早々にあきらめたと考えてよいでしょう。 大臣になるためには、大学予備門から東京大学に入って官僚になるのが近道ですが、当時は薩長閥が幅を利かせていて、賊軍である松山藩出身の真之など課長止まりが良いところであったでしょう。 大臣への道は遥かに遠かったのです。 それでは大将になろうかといっても、陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥が押さえていて、やはり真之の居場所はなさそうです。 ところで、子供は、親のスネをかじってもそれほど負担には思わないようですが、たとえ金持ちの伯父であったとしても、親以外の者から学費を出してもらうのは居心地が悪いようです。 貧乏な兄から学費を出してもらうのであれば、なおのこと居心地が悪かったのかもしれません。 どちらの道を選んでも出世が難しいのであれば、学費の要らない軍人になろうかと考えるのは武士の子であるなら自然な成り行きであったように思われます。 当時は、賊軍藩の出身者は、いくら成績が良くても、士官学校には入学できないと言う風聞がまことしやかに流れていたのですが、 陸軍の尉官を兄に持つ真之は、そのような風聞に惑わされることは無かったはずです。 真之が海軍へ行ったのは、完成形に近い陸軍よりも、創設されたばかりの海軍の方が活躍できる場が得られる確率が高いと考えたからかもしれません。 そのようなアドバイスが、兄好古からあった可能性は十分にあります。 ただ、真之としては何が何でも軍人になろうと思っていた訳ではありませんので、軍人になるために受験勉強するなど大学予備門学生としてのプライドが許さなかったのかもしれません。 真之は大学予備門の予備校ともいえる共立学校で、英語を学んでいましたから、英語は当然得意だったはずですが、ドイツ語はそれほどでもなかったのではないでしょうか。 そうすると、陸軍兵学校の受験科目にはドイツ語があって、海軍兵学校には英語がありましたから、受験科目で海軍を選んだということも、そんなに的を外していないかもしれません。 明治19年4月に同郷の友人が亡くなって、その時の会葬者名簿には 「東京大学予備門秋山真之」 と記されていていますが、この年の10月、真之は海軍兵学校の生徒となります。にほんブログ村
2011年07月31日
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秋山好古は、薩摩あたりで風雲急を告げる動きを知り、 『松山藩の維新以来の恥辱を晴らす』 ために、陸軍士官学校に入学したのではないのか、 ということを昨日書きました。 そして、好古が何故「騎兵科」を選んだかについては、昨年の11月22日のブログに以下のように書いたのですが、これも一部修正が必要のようです。 『好古が何故騎兵科を選んだのかは良く判っていません。 士官学校入校時に「兵科は、なにを選ぶかね」と聞かれて「あしは騎兵にしますらい」と言ったという話は、明治の創業期のこととはいえ、少し安直すぎる気がします。 士官学校は1年目は数学と科学しか教えず、専門科目は2年目から教えたので、兵科選択には半年ぐらいの猶予があったのではないかという気がします。 また、好古が騎兵を選んだのは、「年限が3年で早く少尉になれて給料を早くとれる」からだという話もありますが、これは多分間違っていると思います。 修学期間は、確かに歩兵と騎兵が3年、砲兵と工兵が4年でした。 しかし、全ての兵科の少尉任官日は同じであり、歩兵と騎兵は任地に赴任し、砲兵と工兵は士官学校に残って後1年修学するだけのことであったからです。 いずれにせよ、出世の可能性のほとんど無い騎兵を選んだ好古は、ちょっと普通では無かったと言えるかもしれません。』 今考えてみると、好古が出世の可能性の少ない騎兵科を選んだのは、ちょっと普通では無かったのではなくて、よくよく考えての決断であったろうと思うのです。 当時、軍隊も官僚機構も藩閥で固められていて、陸軍は山縣有朋も頂点とした長州閥で固められていました。 好古としては、『松山藩の維新以来の恥辱を晴らす』ために活躍する場が必要であり、そのためには、誰も見向きもしない「騎兵」を選択することが、その確率を高めると考えたのだと思います。 秋山真之は、好古とは世代が違いますから、好古のように『松山藩の維新以来の恥辱を晴らす』ことを第一義とは考えていなかったでしょうが、 優秀な頭脳を持って生まれたがために、それに見合った活躍の場は欲しかったはずです。 しかし、どこもかしこも藩閥が幅を利かせていることは好古の時と同じであり、賊軍藩出身というハンデも同じであったことでしょう。 そこに、青年真之の苦悩があったのだと思います。にほんブログ村
2011年07月30日
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秋山好古は、何故軍人になったのかということについて 昨年の11月20日のブログに、次のように書きました。 「松山藩は徳川の親藩であり、ご維新の時は「賊軍」となりました。 同じ賊軍でも、会津藩のように徹底的に抗戦したわけではなく、戦わずして白旗を上げたのですから、藩士達のプライドは傷ついていたでしょう。 次の歌は、町民が武士をさげすんで謡ったのかもしれません。 『長州征伐マの字にケの字 猫に紙袋で、後に這う』 ご維新の時、好古は10歳で、松山を占領した土佐藩や汽船を奪っていった長州藩に対して強い憤りを感じていました。 そして、この憤りは成長してからもなかなか忘れることは出来なかったのです。」 好古は10歳の時、土佐藩が松山を占領し、長州藩が虎の子の汽船を奪っていったのを目撃し、その当時のことを後年手紙に、 『好古も当時幼少ながらその実況を目撃して 今日なお切歯(セッシ、きわめて無念に思うこと)に 堪えざることに候』 と、書いています。 このことを改めて考え直してみると、 好古は、土佐藩や長州藩に対して強い憤りを感じていたのではなく、松山藩士が戦わずして白旗を上げたことが極めて無念であったのではないかという気がしてきました。 この当時の藩主、松平定昭(サダアキ)もさぞかし無念であったことでしょう。 定昭は、外様大名の藤堂家(津藩)の五男として生まれ、養子として伊予松山藩に来たのですが、家督を継ぐと直ぐに老中になります。23歳でした。 定昭はよほど江戸幕府から期待されていたのでしょうが、老中になったのが慶応3年、つまり明治維新の1年前なのです。 松山藩の重役たちは、この時期、殿様が老中になるのはまずいということで、お役御免を願い出るよう進言したそうです。 定昭は養子の哀しさで、それに従わざるを得なかったようです。 老中をお役御免になって、慶応4年の1月に「鳥羽・伏見の戦い」が始まりますが、定昭の実父(津藩藩主)が幕府軍から官軍に寝返り、これが幕府軍の敗因となったのです。 あんなこんなで、15代将軍徳川慶喜に見放されて、定昭は傷心のまま松山に逃げ戻りました。 もう、武士としてのプライド、本分を貫くためには、方法は一つしかありません。 定昭は、松山城の天守にのぼり、この城を枕に討死することを決意するのです。 しかし、やはり重臣たちの反対にあって、土佐藩のなすがまま、城を明け渡したのです。 時代は明治となり、もう戦(イクサ)など無いのかと思っていたら、あの西郷隆盛が反乱を企てているという風聞が、名古屋で教師をしている好古にも聞こえてきました。 好古は、この戦に参戦して、定昭の無念を晴らし、松山藩士のプライドを取り戻そうとしたのかもしれません。 好古は、北予中学の校長時代に生徒への訓話で、次のように語っています。 『独学にて大阪師範学校に入り、一時愛知県に奉職せり。 その後西南の役あり。 戦乱長びきしをもって軍人になりて早く国内を鎮定せんとの志を抱き、 士官学校に入り、その後軍人として今日にいたる。』にほんブログ村
2011年07月29日
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秋山真之は、何故剣を吊ったのかということを書き始めて、ジグソーパズルのピースを集めるようにいろいろと書いてみたのですが、最後は「秋山好古」のことです。 真之が東京大学予備門に通ったのは1年程度でしたが、中学から数えると7年近く好古に学資を出してもらっていたことになります。 ですから、もし、真之に対して「海軍へ行け」と命令できたのは好古だけですし、 もし、真之が予備門を辞めて海軍へ行こうと考えたとしても、好古の了承なしには実行できなかった筈です。 真之の伝記は、この兄弟の関係について次のように書いています。 『晩年真之将軍は、自分の家に訪ねて来るような人々は、 親戚の誰人であり年長者であろうと、 自分が床の間を背にして座り、決してその座を与えなかったが、 惟好古将軍が訪ねて行った時だけは、 自分で立って座布団を裏返し、 好古将軍を床の間の方に座らせ礼儀を正した。』 この話は、伝記作家が他人から聞いた話として書いているのですから、機械的であり、実務的な文章であることは仕方がありません。 実際に、これを見ていた真之の三男である中(アタル)氏は、次のように書いていて、その情景がありありと浮かんでくるようです。 『私が7歳のころ、父はすでに少将になっていたが、 伯父が訪ねてくると自分の座布団を裏返して伯父にすすめ、 自分は下座にかしこまっていた。 「父さんが小さくなっていらっしゃる」 と我々子供たちは面白がったものである。』 このように、真之の人生に最も影響を与えたのは兄好古であって、もし好古が陸軍に行っていなければ、 真之は上京することも無かったでしょうし、海軍に行くことも無かったと思うのです。 そうすると、好古の陸軍へ行った理由もまた、真之の海軍行きに影響しているのかもしれません。にほんブログ村
2011年07月27日
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桃太郎のことを「けしからん」と言ったのは福沢諭吉で、 だいたい次の内容のことを語って、我が子に言い聞かせています。 「もしも、鬼が悪者なら、これを退治するのは、良いことである。 しかし、宝物は元々鬼のものであるから、宝物を持ち帰って、お爺さんやお婆さんに分け与えたのは、 卑劣な行為であり、桃太郎は盗人であって悪者である。」 はたして鬼がどのようにしてその宝物を手に入れたのかは判りませんが、 もしも盗品であったとしても、桃太郎がそれを持ち帰って肉親に渡して、めでたし、めでたしというのは確かにおかしい気もします。 ただ、童話に対して、上げ足を取るようなことを言うのは大人気ない気もしますが、 福沢諭吉は子供達に「自分の独立のために、他人の独立を侵してはならない」と教えたのだと言う人もいます。 秋山久敬(ヒサタカ)は、桃太郎の童話をつかって、幼少の我が子「秋山真之」に 「大きくなったら、外国に行って、文明を学び、帰国したら日本の為に尽くせ。」 と教えたのですが、だいたい次のような論法であったようです。 「桃太郎」とは「百太郎」のことで、百太郎とは百人の太郎という意味で、つまり「多数の日本男児」のことである。 「日本一の吉備団子」の「日本一」とは日本で一番という意味では無くて、「日本に一つだけ」という意味である。 「吉備」は、「十全」(完全)のことで、「団子」は「円満団結」を意味している。 すなわち、「日本一の吉備団子」とは、日本国中が一つになって完全に団結するという、心の鍵を暗示しているのである。 だからこそ、仲の悪い「犬」と「猿」と「キジ」が、仲良く鬼退治に出かけることができたのである。 犬は「勇」 猿は「智」 キジは「仁」 の天性を持っていて、人がこの三つの能力を備えることができたなら、 どのような難事であっても失敗することはありえ無い。 「鬼が島」とは、外国のことで、赤ひげの外人が住んでいる。 「鬼の宝物」とは、金銀宝石のことでは無くて、外国人の長所、利点のことである。 このように、古人は意味深長な物語を残してくれたのであるが、 鎖国太平の世が長く続き、この物語の本当の意味を知る人も少なくなった。 しかし、明治の時代となり、欧米列国と対峙することになったからには、 全国の日本男児は、桃太郎の物語の意義をよく理解して、日本帝国に尽力しなければならない。 『汝よろしく桃太郎の孝道を踏んで、又一家を省慮するなかれ』 ということで、真之は父の教えを守って「アメリカに留学した」ということになるのですが、どうも幼子に言い聞かせる話としては難解すぎるようで、 真之が、亡き父へのオマージュとして創った話のような気がしないでもありません。にほんブログ村
2011年07月26日
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鈴木貫太郎は、幼少の頃、父親から「短気は損気」と諭され、この一語が自身の将来の修養の上にどんなに役立ったかもしれないと回想しています。 それでは、秋山真之は幼少の頃、父親からどのような教育を受けたのでしょうか。 真之の父秋山久敬(ヒサタカ)は、ドラマ「坂の上の雲」の伊東四郎さんのような好々爺であったようです。 『親があまり偉くなると子供が偉くならないからなあ』 というのが、口ぐせでした。 何か言い訳のようにも聞こえますが、よほど学識もあったようで、 中国の詩人が書いた「何道真之?粋兮」(ナンゾ道真ノ純粋タル、なんと道徳の神髄は純粋なものであろう)から、 1字の「?」をとって幼名を「淳」五郎とし、2字をとって「真之」をサネユキと読ませ五男の名前にしたと言われています。 他人からこれほどの智者が伊予松山藩の徒行(オカチ)目付とは、あまりにももったいないなどと言われると、 久敬は笑いながら、「親があまり偉くなると・・・」と答えたのかもしれません。 真之の伝記には、久敬の教育方針は、何やら韜晦(トウカイ、自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと)的であって、無干渉主義であったと書いてあります。 真之は30代の前半はアメリカに留学していて、帰国してから「黒船始めて江戸湾に来るの図に題す」という一文を水交社に寄稿しています。 この一文には、真之が幼少の頃、久敬から度々聞かされた「桃太郎の童話の解説」が記述されていて、 この桃太郎の童話の解説こそ、 真之の一生を支配した信条であり、 真之が海軍軍人となった原因の一つであったろうと、真之の伝記作家は考えています。にほんブログ村
2011年07月25日
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先週、(愛媛県の)松山市内に用事があったので、30分ほど道後公園(湯築城跡)に立ち寄りました。 タムロンのレンズを買ったのに、使う機会が無いので、久しぶりにカメラを持ち出したわけです。 公園を歩きながら思ったことは、レンズが軽くて快適だということと、 一眼レフカメラを買ってから1年たつのに、相変わらず同じような写真を撮っていて、何も進歩していないということです。 私の好きなテレビ番組に、 「キャノンプレミアムアーアイブス 写真家たちの日本紀行」 というのがあって、 この番組では、「情景を写真家の感性で切りとる」というような内容のナレーションが良く入ります。 写真の場合、シャッターを押すと撮れてしまうので、やはり撮る者の「感性」というのは重要だと思いますが、感性を磨くにはどうすれば良いのか、難しいところです。 この「感性」以外にも、撮影のテクニックも時に必要であると思うのですが、学ぼうという気が無かったのか、全く身についていません。 8月からEテレで「デジタル一眼レフで今森光彦と美しいにっぽんを撮る」という番組が始まりますので、 これを機会に、せめて初歩的なテクニック位は見につけたいと思っています。
2011年07月25日
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秋山真之と同時代に生まれて、海軍に入った人の自伝の一つに、 「岡田啓介回顧録」があります。【送料無料】岡田啓介回顧録改版価格:1,100円(税込、送料別) 岡田啓介は、秋山真之より約2ケ月早く福井藩士岡田家の長男として生まれました(明治元年1月21日)。 福井藩は徳川親藩ですが、藩主は幕末四賢侯の一人松平春嶽(シュンガク)ですから、勤皇藩でした。 賊軍とされ、財政難でありながら15万両の罰金を取られた伊予松山藩の藩士である秋山家と違い、岡田家は明治維新の時にも『わりに恵まれた境遇』であったようです。 中学を卒業した後、給費生になろうとしたところ、伯父の青山貞(タダス)から学費ぐらい出してやると言われ、明治18年(1885年)1月に上京しました。 青山貞は、当時、司法省の法務局長で、自前の馬車を持っていたそうですから、親族の一人や二人の面倒をみるなど容易いことであったのでしょう。 啓介は、太政大臣になるという大志を抱いて上京し共立学校に入っていますから、とりあえず東京大学予備門入学を目指したのだと思います。 しかし、 『おじとはいいながら、他人に学資をもらうのは心苦しい。 自分でしまつをしようと考えて、官立の学校を探した』 そうです。 最初は陸軍兵学校に行こうと考え、「陸軍有斐学校」に入ってドイツ語や漢学の勉強をしますが、親戚から海軍を勧められて、海軍兵学校入学を志すことになります。 海軍はドイツ語では無く英語ですから、英語の特訓を行い、 明治18年12月に第15期生として海軍兵学校に入学しました。 たった1年の間に、大学予備門、陸軍兵学校、海軍兵学校と目まぐるしく目標が変わりながらも、 上京してから1年も経過すること無く、海軍兵学校の入学試験に合格してしまうのですから、岡田啓介のポテンシャルは相当高かったのだろうと思います。にほんブログ村
2011年07月23日
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鈴木貫太郎の自伝によると、 父親は貫太郎を医者にするつもりだったようです。 しかし、貫太郎は医者にだけはなりたくなかったのです。 そこで、貫太郎は中学に入った13歳のころから、自分の将来について考えを巡らせるようになりました。 父親に、自身の将来の方針について提示しないと、なりゆきで医者にされてしまうことを恐れたのだと思います。 16歳の時(1882年、明治15年)、 貫太郎は「海軍の艦がオーストラリアで大変歓迎を受けた」という新聞記事を読んで、 『フト海軍に入ろうかなと思った』 ようです。 早速、父親に相談しましたが、「お前は医者にするつもりだ」とお許しは出ませんでした。 翌年になっても、海軍へ行きたいという方針は変わりませんでしたので、結局父親もそれを許し、貫太郎は中学を退学して、上京しました。 海軍兵学校の予備校といわれた「近藤塾」に入って受験の準備を行い、18歳の時(1884年)、貫太郎は、海軍兵学校に合格し、第14期生として入学したのです。 秋山真之も鈴木貫太郎と同じ年に中学を退学して上京しています。 しかし、特に将来の職業を決めていた訳では無いようで、東京大学予備門の予備校といわれた「共立学校」に入りました。18歳の時(1885年、明治18年)、大学予備門に入学しますが、 翌年、自身の将来について悩み始め、結局海軍行きを決意し、第17期生として海軍兵学校に入学しました。 当時は、鎖国が解かれてまだ30年しか経過していないこともあり、洋行するなど夢のまた夢の時代であったことと思われます。 したがって、洋行できるということは、16歳の貫太郎少年にとって、海軍軍人になるという十分な理由になったのでしょうが、 19歳の青年真之にとっては、そのような単純な理由で自分の将来を決めることはできなかったのではないかと思います。にほんブログ村
2011年07月22日
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2年前に放送された「坂の上の雲」第1部第4回「日清開戦」では、 日清戦争が終了して、連合艦隊は佐世保に凱旋します。 秋山真之は、自身の命令(決断)により部下を失ってしまい、沈鬱な表情をしています。 築地の水交社での凱旋パーティーも気が乗らず、一人士官室に入ると、何故か東郷平八郎と遭遇するのです。 「良き指揮官とはなんでしょうか。あしにはそれがようわからんのです。」 「良か指揮官とは何か。おはんには、考えに考えぬくたっぷいの時間があるはずでごわす。」 「急がば回れ、短気は損気」 「なんな?」 「亡き父の言葉です。閣下のお話を聞いているうちに、この言葉が浮かびました。」 「なかなかよか」 この放送を見た時、かなりげんなりしてしまいました。 薩摩弁を使ったからといって東郷になる訳でもなく、伊予弁を使ったからといって真之になるはずもないのですから。 東郷はもっと寡黙であるべきで、だいたい「短気は損気」なんて真之に最も似合わない言葉です。 いったい、どの辺からこのエピソードを拾って来たんだろうと思っていたのですが、最近「鈴木貫太郎」の自伝を読んで、今さらながら「短気は損気」のネタ元が判りました。 鈴木貫太郎は、真之のことを 『性格はまったく反対だがよく知りあっていた。』 と、回想していています。 性格の全く異なる人のエピソードを追加するのは、やっぱり無理があるわけで、ドラマの中でどうも「真之のキャラがたっていない」と思ってしまうのも、仕方のない事なのかも知れません。 平成23年8月9日追記 ここに書いた、ネタ元が「鈴木貫太郎の自伝」であるというのは、間違いであることが、MV STRIAさんのご指摘により判りました。 ネタ元は、秋山真之の自伝である「秋山真之」(発行所秋山真之会、昭和8年2月10日発行)であると考えられます。 この著作の359ページに、秋山真之が「短気は損気、急がば廻れ」を座右の銘としていた事が記載されております。 私の勝手な思い込みで、断言するような書き込みをしてしましたことを、深くお詫びいたします。にほんブログ村
2011年07月21日
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もしも、秋山真之が海軍を定年になるまで生きていたとしたなら、 「将軍は何故海軍に入ったのですか?」と改めて聞く者がいたことでしょう。 しかし、真之は現役のまま逝ってしまって、その答えは今に残っていません。 そこで、真之と同時代に生まれて、海軍に入った人の自伝があるのであれば参考になると思うのです。 今、一般に入手できる事例は少なく、私は2つしか知りません。 その内の一つが、海軍3長官のポストの内、軍令部長と連合艦隊司令長官を歴任し、退役した後、太平洋戦争が泥沼化してから総理大臣となり、これを終結させ日本を救った「鈴木貫太郎」の事例です。 鈴木貫太郎は何故海軍に入ったのでしょうか?【送料無料】鈴...価格:1,890円(税込、送料別) 鈴木貫太郎は、真之より3ヶ月ほど早い、慶応3年12月24日(1868年1月18日)に関宿(セキヤド)藩(千葉県野田市)の飛び地である久世村(大阪府堺市)に生まれています。 鈴木家も秋山家と同じく下級武士であったにも関わらず、父親は学問に通じていて就職には困らなかったので、ご維新を迎えても生活が困窮するというようなことは無かったようです。 父親が群馬県庁に勤めることになり、貫太郎は前橋の小学校に入学します。 しかし、他所者ですから地元の子供達にいじめられるわけです。 それを予期した貫太郎の父親は次のように言い聞かせたそうです。 『人間は怒るものではないよ、 怒るのは自分の根性がたりないからだ、 短気は損気ということがある、 怒ってすることは成功しない、 皆自分の損になるんだよ。』 貫太郎は後に、この一語が自身の将来の修養の上にどんなに役立ったかもしれないと回想しています。にほんブログ村
2011年07月20日
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秋山真之は何故海軍へ行ったかということについて、 真之の三男の中(アタル)氏は、『「秋山真之の「女大学」』という小文の中に、次のように書いています。 『父は年少の頃上京して、伯父(真之の兄、好古)に養われながら大学予備門に通っていた。 その頃の父は文筆家を志していたらしいが、薄給(当時中尉)で家計のやり繰りに苦しんでいた伯父の命令で、 築地の兵学校に転校させられた。 予備門は月謝を払わなければならないが、 兵学校なら月謝不要の上、小遣い銭まで支給されるからである。 「あれで家計はずいぶん助かった」と祖母が後年、母に語ったという。』 真之の父親はその手帳に「真之は文学修業のため上京した」と書き残していたらしく、真之の伝記にも上京の理由として、これがそのまま使われています。 後年、これを読んだ人が、真之は文学者とか作家を目指していたらしい、という内容のことをどこかに書いていたような気がしますが、 当時、作家は社会的な地位が相当低かったそうですから、そんなことのために上京するとは考え辛く、文学は学問と同義に使われていたと思われ、「学問修行のため上京した」ということだと思います。 また、好古は三男ながら秋山家の家督を継いで戸主になっていましたが、父親はまだ健在であり、両親は松山に住んでいました。 真之が海軍兵学校へ行って、不要になった学費を、好古はそのまま故郷に仕送りしたのかもしれません。 薄給で家計のやり繰りに苦しんだ好古が、弟に海軍に行きを命じたという件に関して、 好古の伝記でも「真之の海軍行き」についてはページを割いていて、 『結局学資の問題ではなかったかと察せられる』 と結論付けてはいるのですが、どうも納得がいきません。 真之が海軍兵学校へ行ったのは、1886年(明治19年)10月で、 その年の6月に好古は、陸軍騎兵大尉に昇格しています。 つまり、好古は「貧乏少尉にやりくり中尉」からは脱却していましたので、 経済的な問題も既に緩和されていたと想像されますし、 なにより、あの大秋山がそんなことを命じるわけが無いと思うのです。にほんブログ村
2011年07月19日
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秋山真之が大学予備門を「続けるべきか、止めるべきか、それが問題だ」と悩んでいた時、 同じ下宿に同宿していた菊池謙二郎は、当時のことを次のように回想しています。 『別段記憶に残っている話もなく、暮らしているうちに、秋山君の態度が段々変ってきた。 ボール投げも不熱心になり、学校の方も欠席しがちになり、 快活な君には似合わず、おりおり考に沈むようなこともあった。』 そして、菊池と真之は次のような会話をかわしたのです。 『近頃君はどうかしているね』 『実は学校をやめて兵学校に入ろうと考えているのだ』 『それは大いに考慮すべき事じゃないか、兵学校なら去年でも入れたはずだ、なにも今さら転学するには及ばんだろう』 『僕も先頃からその点について迷ったのだが、 僕の性格はどうも学者向きでは無い、軍人向きだとおもうからいよいよ決心したのだ』 この会話を交わした時、真之は既に海軍兵学校の入学試験を受験していて、発表待ちであったのかもしれません。 そのような決心をしたにも関わらず、真之が憂鬱になってしまうのは、大学予備門への未練が残っていたからでしょう。 真之の性格は組織的というより個人的のような気がして、どちらかというと学者向きであったような気がします。 ただ、当時の学者の知識は、個人の蔵書の数と同義であり、ということは財力と同義ということになりますので、 乱暴な言い方ですが、財力が無ければ学者などにはなれなかったのです。 学者になるためには、洋行して、欧米の大学に入学し、 そこで認められて博士の学位をもらえるほどの、世界に通用する学力と創造性と根気が必要であり、 なによりそれを実現するための相当規模の財力が必要であったのです。 ただ、博士をもらって帰国すれば、年齢に関係なく直ぐに大学教授になれたそうですから、明治という時代はやはり面白い時代であったわけです。 いずれにせよ、海軍に入ると決めてからも、真之の心は晴れていなかったようで、 秋山好古の伝記に、 『当時真之氏は海軍に入ることを余り好んでいなかったという話もある。』 という記載があるのですが、菊池の回想と符合していると言えるようです。にほんブログ村
2011年07月18日
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秋山真之の足跡をたどっていいる時に、最初に立ち止まって、ちょっと考えてみたくなることは、 「真之は何故海軍へ行ったのか?」 と、いうことです。 正岡子規と同郷で、同じ年に生まれた「柳原極堂(キョクドウ)」という俳人がいます。 この人は辞世に、 「我生は糸瓜のつるのゆきところ」 と詠んだぐらいに、その一生を子規顕彰につくした人です。 その極堂は、真之の海軍行きについて、その著作「友人子規」に次のように書いています。 『その後、予は子規を訪ねしに、その時秋山はすでに去っていなかった。 毎年大学予備門に入る者がこう多数では ついに学士の氾濫を見るに至るであろうと言って 秋山は海軍兵学校に転じたのだと子規は言っていたが、 ある者はこれを否定し、 秋山は学資がつづかずして官費の兵学校に転じたのだと言っていた。』 真之が学資が続かないので海軍へ行ったというのは、うわさ好きの松山人の誰かが言ったことであって、それが最大の理由ではなかったでしょう。 真之の学費は、兄「好古」の薄給から出ていたし、好古は秋山家の当主として秋山家の面倒も見なければならない立場ではあったのですが、 それでも、最後の古武士と言われたあの「好古」が生活が苦しいからと言って、 弟の予備門退学を認めるとは考えにくいからです。 その頃の真之は、自らの将来のこと、帝国大学学士の価値、秋山家の家計のことなど、悩みは尽きなかったのではないかという気がします。にほんブログ村
2011年07月17日
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日露戦争の時に、海軍の公報が新聞に掲載されると、国民は熱狂してこれを読んだそうです。 誰が言い出したのか、 この美文、名文は、東郷平八郎大将の有力な幕僚である秋山真之参謀の筆によるものだということになり、 真之の名声は「舷舷相摩す(ゲンゲンアイマス、船と船とが接近して激しく戦う様子)」という造語と共に天下に知れ渡ったそうです。 しかし、大学予備門時代の真之(18歳、1885年、明治18年)は、作文が得意という訳ではなくて、 同郷の正岡子規や、同宿の菊池謙二郎よりも成績が悪かったそうです。 真之はそれがよほど悔しかったのか、必死に文章の修練を行ったと、後に菊池が回想しています。 真之は菊池に、 『俺は英語の解釈法で漢文を解釈するのだ』 と、負け惜しみのようなことを言ったそうで、 菊池はその負け惜しみに対して、「応用の才が現れていると同時に漢学の素養の乏しかったことを意味する」と分析しています。 この分析は、 「基本をおろそかにして、あふれる応用の才で物事を押し通した」 と解釈できなくも無く、 何か日露戦争後の真之を暗示しているような気がしてきます。 正岡子規から「冷やかなること氷のごとし」と評された河東碧梧桐は、 日露戦争後の真之の名声に対して、 『この人相応に築かれた楼閣でなくて、他から無理強いに押し付けられた装飾であったことを否むことはできない』 と書いています。 菊池謙二郎も河東碧梧桐も、砂上の楼閣のような脆さを真之から感じ取っていたのかもしれません。にほんブログ村
2011年07月16日
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上京して2年後(1885年、明治18年)、 秋山真之(18歳)は東京大学予備門の入学試験に合格し、晴れて大学予備門の学生になりました。 同郷の正岡子規(19歳)は、その前年に大学予備門に入学していたのですが、 見事落第してしまったので、真之と同級生になったのです。 翌年(1886年)真之は、大学予備門を退学して、剣を吊る(軍人になる)ことになりますので、たった1年足らずの学生生活であったようです。 当時の真之の様子は、 子規の「筆まかせ」という随筆や、子規の俳句仲間である柳原極堂の「友人子規」などで知ることができます。 学生時代の真之は、子規と同宿していたこともあったのですが、 「菊池謙二郎」(水戸藩出身、帝国大学を卒業後、学校の校長を歴任、衆議院議員)という人と同宿していた期間が最も長かったようです。 菊池は後年(1932年)、学生時代の真之を次のように回想しています。 『才気もあったが、いわゆる軽薄才子とは全然おもむきを異にし、率直で、無遠慮で、よく人を罵倒した』 罵倒とは、「激しい言葉でののしること」ですから、このあたりが真之の短所であったのでしょう。 菊池も気が引けたのか、 『しかし、毒気も嫌味も無いので、罵倒された方でも、あまり感情を害するようなことはなかった』 とフォローしています。 ただ、真之に罵倒された全ての人が、真之に毒気も嫌味も無いと理解できたわけではないでしょうから、腹を立てた人も少なからずいたことでしょう。 真之は、先輩にも、同輩にも、後輩にも、かなりの敵を持っていたのは、まあ有名な話であって、 このような性格が、かなりの敵を持つ一つの原因であったのかもしれません。にほんブログ村
2011年07月15日
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明治の時代、出世するとは、 「末は博士か大臣か」とか「末は博士か大将か」 と言われたように、学者か役人か軍人になって、最終的に博士か大臣か大将の地位を得ることでした。 そこで、当時の知識階級である士族達は、家計が火の車であったとしても、一族の存亡をその子弟に託してそれらの養成学校に入れたようです。 ちなみに、実業家になって金を稼いだからといっても、それでは出世したとは言えず、故郷に錦を飾ることはできなかったそうです。 秋山真之が16歳で上京した時(1883年、明治16年)、秋山家当主で9歳年上の兄「好古」は陸軍騎兵中尉になっていました。 好古は、真之を軍人にするつもりは全く無かったのでしょう。 なぜなら、真之を(東京)大学予備門の予備校である「共立(キョウリュウ)学校」へ入れたからです。 もしも真之を海軍へ入れるつもりがあれば、海軍兵学校の予備校と言われた「近藤塾」に入れたでしょうし、 陸軍へ入れるつもりであれば、陸軍兵学校の予備校と言われた「陸軍有斐学校」に入れたでしょうから、 好古は真之を学者か役人にでもするつもりだったのでしょう。 正岡子規は、上京した時、東京での保護者である叔父から「何しに来たのか」と聞かれ 「学問しに来た」と答えいて、どうも将来の展望があった訳ではないようです。 真之と同じ年に福井に生まれた岡田啓介(海軍大将、海軍大臣やなど歴任)は、1885年に上京しており、 東京での保護者である叔父からやはり「何しに来たのか」と聞かれいて、「太政大臣になる」と答えています。 岡田は後年、本当に太政大臣(内閣総理大臣)になってしまったのですから、たいしたものではあるのですが、 その時は、「ポリティシャン(政治家)になろうとしてポリス(警官)になる」という西洋のことわざの類いだと冷やかされたとそうです。 真之も上京した時、好古から「何しに来たのか」と聞かれたのかもしれませんが、残念ながらそのような話は残っていないようです。にほんブログ村
2011年07月14日
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秋山真之は中学時代、 学校が終わると、近所の悪童達を引き連れて、ワルサばかりしていたようです。 勝手に花火を打ち上げて、巡査に追いかけられ逃げ回ったという話が真之の伝記に記述されています。 町内対抗の戦争ゴッコも忙しくて、自宅で勉強したりはしなかったのでしょう。 しかし、不思議と成績は良かったようです。 当時、松山中学は愛媛県下の最高学府であったのですが、40数名の生徒の中で、成績はいつも10番以内で、たまに首席になることもあったのです。 ワルサや喧嘩に明け暮れた真之でしたが、両親の言いつけには素直に従ったようです。 真之は中学時代、歌人の井手正雄という爺さんに和歌を習ったのですが、これも自分から習いたいとせがんだのではなく、「武士のたしなみ」として習いに行けという両親の指示に従ったのではないでしょうか。 その頃、次のような歌を詠んでいます。 春の野に 若菜をつめる乙女子は なべて霞の ころもきるなり 当時、松山中学の成績優秀者は、押し並べて上京志向が強かったのですが、真之自身は秋山家の家計に余裕が無い事を知っていましたし、上京など夢にも思わなかったでしょう。 しかし、秋山家の家督を継いだ三男の好古が陸軍騎兵中尉になっていて、 『田舎に置いていたのでは立派な男にならない。 やはり東京へ呼んで、自分が監督し、みっちりと勉強させねばならない』 と、上京を命じたのですから、真之は逆らえるはずもありません。 1883年(明治16年)、真之は上京します。 まだ、東海道に汽車の無い時代ですし、今でいえば、南半球のブラジルかアルゼンチンに一人で行くようなものであったでしょう。 東京に向かう船中、真之少年はつい感傷的になって和歌を詠んで、この淋しさを誰かに伝えたかったのですが、 こんなものを両親に送ると心配するでしょうし、 兄達に送れば叱られるに決まっています。 そこで、養子にやられた次兄の夫人である「しん子」宛てに感傷的な和歌入りの手紙を送ったのです。にほんブログ村
2011年07月12日
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秋山真之は、小学校を卒業すると「愛媛県松山中学校」に、入学しました。 しかし、何時入学したのか真之の伝記には記載がありません。 私の持っている真之関連の図書を幾つかめくってみたのですが、やはりどこにも書いてないのです。 真之の生まれた松山市には「坂の上の雲ミュージアム」という施設があって、これが開館した2007年に最初の企画展「子規と真之」を開催しています。 その時に販売された小冊子「子規と真之」の年表を見てみたら、驚くことに、1,000円もしたのに、これにも書いてなかったのです。 もちろん、正岡子規の中学入学は1880年(明治13年)と記載されています。 小説「坂の上の雲」を読んで、子規と真之はてっきり中学の同級生だと思っていたのですが、ひょっとしたら同級生では無かったのかもしれません。 ちなみに、子規も真之も1883年に中学を中退し、大学進学を目指して上京しています。 子規と真之が学んだ中学校は、幕藩時代は松山藩の藩校で「明教館」と呼ばれていました。 明治維新後、制度が変わって、学校の名称もコロコロと変わって5回目にやっと「愛媛県松山中学校」に落ち着いたようです。 当時、愛媛県は現在の香川県も併合していて、県下には松山の外に高松と宇和島に中学校があったようです。 子規と真之が中学を中退した後の話なのですが、 1887年(明治20年)に、肥前藩出身の県知事と県議会が何かの原因で衝突して、県知事は何を思ったのかこの3つの中学校を廃校にしてしまったのです。 その時松山中学(校名が改称され正式な名称は愛媛県第一中学校)には約300人の生徒が在籍していたのですが、全員放り出されて路頭に迷ったいいますから、今では考えられないほどの乱暴な話です。 朝敵となった旧松山藩の住民は薩長土肥の県知事に逆らえなかったのか、それとも行政におもねることを良しとしなかったのか、 困り果てた父兄や松山の有力者たちが取った解決策は、放り出された生徒たちの受け皿として、私立中学を開設することでした。 翌年(1888年)、私立の「伊予尋常中学校」を開設しています。 中学の月謝は県立の時と比べて6倍にもなって、1円を超えたといいますから、父兄の負担は大変なものであったようです。 ただ、生徒達はいい気なもので、 授業料が無料の師範学校の生徒が通ると、中学生達は「地方税」と言って冷やかすし、 逆に師範学校の生徒達からは、「脛かじり」と応酬されて、最後には石の投げ合いになることもあったそうです。 夏目漱石が中学教師として松山に赴任してきたのは、1895年(明治28年)のことで、この頃にはまた県立に戻っています。にほんブログ村
2011年07月11日
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昨年、タムロンから高倍率ズームレンズ(タムロン18-270mm F3.5-6.3 Di2 VC PZD)が発売されて、これがものすごく評判が良くてよく売れているそうです。 小さい、軽い(450g)、高性能と三拍子揃っていて、まさしく、高倍率ズームのキラーレンズだと思います。【在庫あり!】【レビューでチャンス!】【今ならクリーニングクロス...価格:58,450円(税込、送料込) 高倍率ズームレンズは、「シグマ18-200mm F3.5-6.3 DC OS HSM」を持っていて、画質とか性能的な不満はないのですが、 レンズだけで630gとかなり重いので、撮影時の両腕の負担が大きいというのは、感じていました。 また、200mmよりもさらに望遠側で撮影したいと思うシーンも何回かありましたので、このレンズを下取りに出して、タムロンのレンズを購入することにしました。 当分、このレンズを常用しようと思いますので、5年保証も付けて、カメラ屋のオッチャンに「当分レンズは買いに来ないから」と言ったら、 「みんな、そう言ってまた買いに来るからね」と言われてしまいました。 それはともかく、今日は「秋山真之の銅像」の写真を撮ってきました。 下に貼り付けた写真は全てこのレンズの最大望遠側(270mm)で撮ったものです。 「好古大将」です。 シャッターを半押しすると、ファインダーの中であんなに揺れていた灯台がピタッと止まりました。 タムロンレンズの手振れ補正の効きの良さは評判通りです。 真之の銅像は、1931年(昭和6年)に故郷松山の道後公園内に建立されました。 しかし、太平洋戦争時の金属供出により撤去されてしまいます。 戦後、複製を作って、石手寺に再建され、現在は、梅津寺(バイシンジ)公園内に移されています。 戦艦「三笠」のレリーフで、真之の銅像の台座に埋め込まれています。 これは、多分オリジナルだと思います。 真之の銅像の周りには、日露戦争当時のものではありませんが、砲弾や錨などが据え付けられています。にほんブログ村
2011年07月10日
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秋山真之が少年のころ、独楽を回したり、竹馬に乗ったり、凧をあげたりして、平和的に遊ぶこともありました。 絵心のある真之は、親戚の幼子にせがまれて、「牛若丸」や「武者」の凧絵を書いてやることもあったそうです。 しかし、真之のもっぱらやった遊びは、「相撲」とか「取っ組み合い」であって、これは戦争ゴッコのための訓練になりました。 戦争ゴッコとは、子供同士が町単位の集団に別れて、集団で喧嘩を行うことです。 真之は、真之を含めて下級武士の子弟が多く居住する中歩行(オカチ)町に所属していて、 その不倶戴天の敵はその隣町であって、町人の子弟が多い「東雲(シノノメ)町」でした。 子供同士の戦争ゴッコといっても、当時はまだ武家政治時代の殺伐とした精神が受け継がれていましたので、かなり本格的なものであったようです。 人通りの少ない広い道が戦場に選ばれ、まず遠距離からの石合戦から始まったといいます。 用意した石が無くなると、棒きれを刀にみたててチャンバラが行われ、最後には取っ組み合いとなったのですから、 擦り傷や打撲は日常茶飯事であったようです。 俳人の河東碧梧桐(カワヒガシ、ヘキゴトウ)は、真之より5つ年下でしたが、当時のことを次のように回想していて、これを読むと少年時代の真之が目に浮かぶような気がします。 『我々の団体の隊長とも崇められて、陰然首領株をもって目されていたのが「馬島」某であった。 温厚寡黙の人で、皆よく懐いていた。 その人はその後どうなったか、我輩の記憶はただ当時のひとこまのみが無限のごとく朦朧として残っているのみだ。 今一人の青年は隊中の闘将とも言うべきで、どんな相手にも背ろを見せない颯爽たる気魄と風采とを持っていた。 その闘将が先頭に立つ時、天下に何の怖ろしいものもないような勇気と安心とが、我々の胸一杯になる程だった。 名を秋山のじゅん(真之のこと)さんと言った。 馬島はやさしくて好きであり、じゅんさんは恐ろしくて好きであったのだ。』にほんブログ村
2011年07月09日
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正岡子規が小学校に入学したのが1874年(明治7年)ですから、1歳年下の秋山真之はたぶんその翌年に入学したのでしょう。 当時、旧松山藩では、旧来からの漢学を教える私塾があって、武家の子弟なら当然のようにこれに通わせていたといいます。 真之は、朝早く起きて、松山で最も厳しいとされた「近藤塾」で素読をやって、その後「勝山小学校」に通いました。 素読とは、漢文の意味も判らずに暗記して音読することであって、それが後の人間形成に役立つのかどうかは判りませんが、 とりあえず、意味の判らぬ漢字の読みを暗記するのですから、暗記力や忍耐力などが鍛えられるような気がします。 また、漢字の形状を見て、子供の柔らかい頭脳からはいろいろなイメージが創造されたのではないでしょうか。 後に真之の存在を世間に知らしめた 「舷舷相摩す(ゲンゲンアイマス、船と船とが接近して激しく戦う様子)」 の造語も、意外と素読のおかげなのかもしれません。 当時、小学校は義務教育ではありませんので、学費が必要であり、私塾は小学校よりもさらに学費が高かったそうです。 下級武士であった秋山家の家計は火の車であったようですが、それでも子弟を私塾に通わせるところが「松山藩流」であったのかもしれません。 ただ、明治も20年、30年となると、田舎である松山にも文明開化の波が押し寄せてきて漢学の私塾は衰退していきました。 特に、日清戦争での勝利は、漢学の権威を失墜させることになり、これが致命傷になったのか、これ以後松山に漢学の私塾は見られなくなったそうです。にほんブログ村
2011年07月08日
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江戸時代には、四国の伊予国には8つの藩があって、その内2藩は支藩なのでこれを差し引いたとしても、6つの藩が別々の政治、教育を行っていて、独自の文化を熟成させていたことになります。 明治になって、これらが一つの県に統合された時(1873年、明治6年)、例えば一国一藩であった高知県とか徳島県と比べると、大小さまざまなトラブルが生じただろうことは容易に想像されます。 秋山真之の海軍の後輩(7歳年下)で、同郷の「水野広徳」は自伝に、 『元来宇和島と松山とは同じ愛媛県でありながら、旧藩を異にしていた関係からか、 互いに競争意識というよりもむしろ敵がい心が強かった。 それは松山には15万石の大藩という誇りがあり、 宇和島には維新の勤皇藩という誇りがあるので、 とかく融和を欠くきらいがあった。』 と、書いています。 宇和島藩と言えば、幕末の四賢侯の一人「伊達宗城(ダテ、ムネナリ)」を輩出しており、朝敵となった松山藩など何するものぞと思っていたのかもしれません。 坂本龍馬に蒸気船を貸し出したことで知られている「大洲藩」もまた外様の勤皇藩ですから、松山藩とは仲が悪かったのかもしれません。 大洲藩出身の竹内重利(シゲトシ)が海軍兵学校に入学したのは、1889年(明治22年)のことです。 初めての休暇を得て、外出を許された朝、首席の最上級生である秋山真之から呼び出しを受けて、これはもう叱られるものだと戦々恐々としていたら、 『小用村に伊予出身者の下宿があるから、貴様も今から一緒に行け』 と言われ、同行したそうです。 竹内はこの時初めて、真之が同国人であることを知り、下宿では松山藩出身者2人、宇和島藩出身者1人の計4人で酒宴が催されたのです。 4人とも明治に生まれて、今さら旧藩の確執など気にも止めていなかったのかもしれませんし、 薩摩藩出身者が幅を利かせている海軍にあって、伊予出身者同士仲良くやっていこうと考えていたのかもしれません。にほんブログ村
2011年07月06日
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封建制度というのは、簡単に言うと、 将軍が大名に領地を与えて、その領地を大名がその臣下に分与して、各大名がその領地内の政治を行う制度 ということになります。 徳川300年の封建制度の下、各藩は独特の政治と教育を行い、特有の人材を生み出したと言ったのが、司馬遼太郎で、 薩摩藩は、軍隊の司令官を生み、 長州藩は、政治家を生み、 土佐藩は、民権運動家を生み、 肥前藩は、官僚を生んだ というような内容の事を、どこかに書いていたような気がします。 それでは、秋山真之の生まれた四国の「松山藩」は、どのような人材を生みだしてきたのかということになるのですが、 土井中照(ドイナカ、アキラ)さんはその著書「松山城の秘密」の中で、次のように述べています。【送料無料】松山城の...価格:945円(税込、送料別) 『松山人は、組織の中で生きるのに向く官僚的な性格を持っています。 これは、徳川家親藩という松山藩での生き方が永年培われ、松山人に反映されたのかもしれません。』 肥前藩は外様藩でしたから、肥前藩とはまた違ったタイプの官僚なのでしょう。 その他にも、 「仲間のことを気にかけているように見えるが、身の保身のためにやっている」 とか 「外面は良いが、裏では悪口やうわさをばら撒き、うわさは直ぐに拡がる」 という意味のことなどが書かれていて、 このような事は、人間社会に良くあることと思っていたのですが、松山人特有のことであるとしたなら、ちょっと怖い感じがしないでもありません。 土井中さんは、松山市のお隣の今治市出身で、就職して松山市で生活されていたようです。 松山市で生活されるようになって、いろいろと戸惑われることがあったのではないかと思うのですが、 それも伊予国には8つの藩があって、それぞれの藩が特有の文化を醸成していたことが原因であるとしたなら、 「封建制度」侮りがたしという気がします。 ちなみに、「松山城の秘密」は1時間ほどで目を通せるボリュームの本ですが、松山城のこと、歴代藩主のことなどが簡潔にまとめられていて、お勧めの本です。にほんブログ村
2011年07月05日
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「新人類」とは、1960年代に生まれた人達のことで、1980年代に生まれた造語のようです。 彼らは、文部省の定めた画一的な、マークシート方式の「共通一次試験」を始めて受験して選抜された世代でもあります。 各大学が各々作成したオリジナルの入学試験で選抜された旧世代の人達からみると、新人類世代の価値観や感性に違和感を感じたのかもしれません。 時代の変遷によって、人の価値観も変わっていくでしょうし、急激な社会構造の変革があれば、人の価値観もそれに対応して急激に変わっていくでしょうから、そこに一つの世代が生まれるのは必然と言って良いのかもしれません。 急激な社会構造の変革として、すぐに思い当たるのは、1945年の太平洋戦争の終結であり、この年を境に「戦前」と「戦後」という2つの時代が生まれました。 戦艦三笠なども「戦前」は日本の独立の象徴としての栄光の記念艦であった訳ですが、戦後は価値観が一変して、ダンスホールに身をやつすことになり、とにもかくも現在の姿に改装されるために16年の長い歳月を要したのです。 そういえば、戦後生まれの人達は「全共闘世代」と重なる訳ですが、あの強烈なエネルギーの怒りの矛先に何があったのか?、大学を卒業するとプラカードや火炎瓶を捨てて、何事も無かったようにスーツを着こなす、あの見代わりの早さは何だったのか?など、他の世代の人達からみると、なかなか理解できることではありませんので、これもまた世代ギャップの一例と言えるようです。 1945年よりもはるかに大きな変革があったのは、1868年の「明治維新」であったはずです。 この明治維新の前と後で2つの世代群が構成されていたという想像もあながち間違いではないでしょう。 「本日天気晴朗なれども浪高し」の名文を書いた「秋山真之」は慶応4年3月20日に生まれました。 この年の9月に明治維新があって、このためこの年は明治天皇の詔(ミコトノリ)によって1月1日に遡って「明治」とされました。 したがって、真之は明治生まれであり、彼自身が新世代の人間であるという強い自負があったはずです。 しかし、一時の間でも「武士」として存在することができなかったという、劣等感のようなものも持ち合わせていたような気もします。 にほんブログ村
2011年07月04日
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昨年の11月20日以来になりますが、レンズのことを書きます。 それから、カテゴリ「プラモデル「三笠」の製作」最後の記事になります。 私が持っているレンズは、購入順に書くと、次のようになります。 AF-S DX NIKKOR 18-105mm f/3.5-5.6G ED VR(デジタル一眼レフカメラニコンD90を買った時に付いていた標準ズームレンズです。) AF-S DX VR Zoom-NIKKOR 55-200mm f/4-5.6G IF-ED(望遠側で写真を撮りたくて買った望遠ズームレンズです。) AF-S DX NIKKOR 35mm f/1.8G(単焦点レンズは写りが良いというクチコミを見て、試しに買ってました。) シグマ18-200mm F3.5-6.3 DC OS HSM(旅行に行く時、レンズ交換を省くために買った高倍率ズームレンズです。) シグマ18-200レンズを買ってからは、焦点距離が被っているのでニコン18-105とニコン55-200レンズはほとんど使うことが無くなりました。 もっともこれらのレンズを使わなくなったのは、冬は寒いし、春は花粉症が辛いし、夏は暑いので写真を撮る機会が減ったという事が一番の理由のような気がします。 それで、今回「三笠」のプラモデルを製作するにあたり、その過程を撮影するというめい目でレンズを購入することにしました。 レンズ選択のポイントは、 室内撮影という悪条件下、シャッタースピードを稼ぐために、できるだけ明るい(F値の低い)レンズであり、ついでに手振れ補正が付いていること 模型を拡大して撮影したいので、「最大撮影倍率」ができるだけ大きいレンズであること の2つです。 もしも1センチメートルの長さの物体を撮影して、イメージセンサー(またはフィルム)に1センチメートルの大きさで記録されたとすると、撮影倍率は1となります。 普通、単焦点のマクロレンズは最大撮影倍率が1であり、一般的な標準ズームレンズの最大撮影倍率は0.2位です。 幾つか候補はあったのですが、最終的に選んだレンズが、 「シグマ17-70mm F2.8-4 DC MACRO OS HSM 」 で、このレンズを購入する時に、ニコン55-200レンズは下取りに出しました。◎ポイント最大3倍!シグマ 17-70mm F2.8-4DC MACRO OS HSM ニコン用 《Wエントリーでポイント...価格:38,800円(税込、送料込) このレンズは、一般的な標準ズームレンズに比べると、明るく、最大撮影倍率(0.4)も高いレンズです。 しかし、どの焦点距離でもF値の変わらないズームレンズに比べると明るさの点で見劣りしますし、 マクロレンズに比べると、最大撮影倍率はかなり低いレンズとなりますから、 中途半端なレンズであると言えます。 逆に、これ1本で、中途半端ながらも色々な場面で活躍できそうな便利なレンズでもあるわけです。 というわけで、これまで掲載した「三笠」の写真は全てこのレンズで撮影しています。 最後に気合を入れて撮影した写真の表題は 「夕陽を背に敵艦隊に向かう三笠」 です。 にほんブログ村
2011年07月02日
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完成したプラモデルは、そのまま保管しておくとホコリまみれになってしまいますので、ケースに保管することにしました。 100円ショップでアクリル板を買ってきて、ケースを自作することもできるようですが、もうそんな気力は残っていないので、購入することにしました。 「三笠」用のケースは、ハセガワから販売されていますが、直販のみです。 アクリル板は、運送中に破損しやすいので、直販しか対応しないのだそうです。 送られてきたケースは、過剰包装ではないかと思えるほど、厳重に梱包されていました。 どうも上手に写真が撮れなかったのですが、このアクリルケースに入れると、実際の模型よりもかなり立派に見えて、上品な感じがします。 できれば、リビングに飾りたいのですが、ケースごと壊される可能性を否定できないので、寝室にひっそりと碇泊させておくことにします。にほんブログ村
2011年07月01日
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