マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2017.12.07
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カテゴリ: ランニング全般
<川にまつわる話>


 11月下旬のある日、ランニング仲間と阿武隈川のほとりを8kmほど歩いた。阿武隈川は福島県の甲子旭岳に源を発する東北第二の大河で、距離は239km。かつては大隈川と言ったようだ。阿武も昔は「あふ」と書いて「おお」と呼んだ。最下流の宮城県亘理町には逢隈(おおくま)の地名が残る。河口付近の鳥の海はかつての河口だった由。



 私達が当日歩いたのは福島県と宮城県の県境。阿武隈川の中流から下流にかけてで、流れはさほど急ではない。それもそのはず、江戸時代には川の流れを改修し、舟で米などの物産を江戸まで運んだ。もちろん河口の鳥の海で、三十五反の帆船に積み替えたのだが。今はただ流れるだけの川が、かつては一大動脈だった時代があるのだ。



 かつての豪農の雰囲気を残す住宅。重厚な門の屋根瓦は鯱(しゃちほこ)だ。往時は養蚕もさかんだった由。現在福島県伊達市は果物の産地で桃が有名。私達が歩いた時は柿やリンゴが鈴生り状態だった。だが福島原発汚染問題の風評被害で苦戦しているみたいで、出荷してもなかなか売れないそうだ。



 さて、皇太子殿下の長年の研究テーマは交通史で、中でも江戸時代の水運史が専門。それで修士の学位を取っている。また英国留学中はテムズ川の水運を研究され、名誉博士号を授与されている。天皇陛下や弟の秋篠宮殿下は昭和天皇の影響か生物学が研究テーマだが、皇太子殿下のみが文科系とは珍しい。



 経済流通の要所だった最大の河川は淀川だろう、京都と大坂の間には定期船が通っていた。今で言えば高速バスのようなもの。その乗客を目当てに食べ物や飲み物を売る舟さえ存在した。これが「食らわんか船」。京都の伏見には港も整備されていたし、河口の大坂には、古来水運を司る「渡辺党」と言う水軍も存在した。写真は「兜(かぶと)の渡し」跡。義経がここで兜の血を洗ったとの伝説が残る。



 五月雨を集めて早し最上川  松尾芭蕉が「奥の細道」で詠んだ句として有名だ。この最上川も江戸時代に改修され、河口の酒田まで紅花などの物産を上流から運んだ。中流部には、珍しい川の関所まであった。通行税を徴収するためだ。酒田の豪商本間氏は、庄内藩の殿様よりも金持ちだった。西廻り船の寄港地である酒田は、京の文化が入るため東北の中では進歩的な町。今でも立派な山居倉庫が残っている。



 北上川は岩手県と宮城県を流れる東北随一の大河で、全長は249m。古代はこの川を舟で遡って、大和朝廷の兵士が蝦夷(えみし)を征伐した。その総大将が坂上田村麻呂だ。縄文時代には津軽海峡を丸木舟で渡り、現在の北海道から黒曜石が、新潟県からヒスイが、秋田県からアスファルトが三内丸山遺跡(青森)にもたらされた。関東地方の黒曜石は伊豆七島から、そして長崎県福江島の黒曜石は福岡の英彦山(ひこさん)から。舟による移動や通商は意外と古くから存在したのだ。



 川とランニングに関する思い出も多い。四国の清流四万十川(高知)は100kmマラソンで2回走った。ここはダムが無いため川魚の宝庫。武庫川(兵庫:70km)は「ユリカモメ」で河川敷を7往復し、「飛翔千葉」(60km)では花見川に沿って12往復した。「北上マラソン」(岩手)ではフルを、「阿武隈リバーサイドマラソン」(宮城)ではハーフマラソンを何度か走った。



 転勤族だった私は、転勤先でも走った。松山(愛媛県)勤務当時は石手川や大川の畔が練習コースだったし、大阪勤務時代は淀川べりを20kmから30km走った。山形では最上川の支流の馬見ヶ崎川が昼休みの練習コース。出張先の鳥取では千代川を、市内から河口の賀露港まで往復した。仙台に帰ってからは、広瀬川や名取川流域も練習コースの一つになった。奥入瀬川(青森)は16km歩いた。



 今ではもう歩くのさえままならなくなった私だが、気持ちだけはまだランナーのままだ。鳴門(徳島)では海沿いの磯の香りの強い道を走った。また何とかして走りたいものだが。<続く>





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Last updated  2017.12.07 00:00:43
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