マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2020.04.23
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カテゴリ: 歴史全般
<日露戦争の実態>



 アイグン条約と北京条約によってロシア帝国が南満州(上の地図の赤い部分)に権益を得る(ピンクの部分もロシア領として確保)と、困るのは日本政府。ロシアは南満州だけでなくその隣の朝鮮(当時は李氏朝鮮)にまで触手を動かし、朝鮮の山林を買収し、鉱山採掘の権利を手に入れる。朝鮮半島にロシアが勢力を伸ばされると朝鮮海峡を隔てて日本列島は目の前だからだ。

李氏朝鮮最後の王妃閔妃   

 それでなくともロシアは、江戸時代末期に対馬を軍艦で占拠するなどの実力行使をしている。そして朝鮮の内情が混乱に拍車をかけていた。李氏朝鮮最後の王である高宗の妃である閔妃が舅である大院君と壮絶な権力闘争を繰り返し、賄賂と内乱が横行していた。ロシアの南進を止めるためにも、近代国家日本は富国強兵策を推進して、列強に立ち向かう必要があったのだ。



 これは「満鉄」の路線図。日露戦争に勝った日本は、その権益を引き継ぐが、最初はロシアが自国の権益のために敷設したもの。この鉄道網を通じて、ロシアは大連や旅順近辺に着々と物資や兵員を送った。もちろんその目的は、来るべき日本との戦争に備えるためだ。



これが天然の良港旅順近辺の地図。旅順は清国の軍港だが、後にロシアが租借して、旅順艦隊を置いた。ロシア海軍の本隊であるバルチック艦隊はヨーロッパのバルト海沿岸にあり、アジアには旅順の他にウラジオストック艦隊があった。ロシアは旅順を死守するため、港周辺の山々に強固な要塞を築いた。これがいわゆる203高地や東鶏冠山で、当時としては画期的なコンクリート造りだった。


               <乃木大将>           <東郷元帥>

 旅順を攻撃した指揮官がこの2人。左が陸軍の大将乃木希典。2年がかりで203高地などでロシアの要塞を総攻撃し、最後は陥落させた。その戦いで、長男と次男が戦死している。右は元帥の東郷平八郎。旅順港の封鎖に失敗した海軍は、バルチック艦隊が極東に向かったことを知り、対馬沖で待ち構える。この時バルチック艦隊は二手に別れ、先発隊は喜望峰を回り、後発隊はスエズ運河経由で遅れて来たことで、余裕をもって迎え撃つ作戦を立てることが出来た。

 日本海海戦 

 日本の聯合艦隊は機敏に航路を変え、バルチック艦隊をほとんど撃破し。辛うじてウラジオストック港に逃げ込んだ軍艦4隻にも大きな損害を与えた。この結果に世界は驚いた。極東の小国である日本が、有数の軍艦を有するロシア海軍を破ったことが信じられなかったのだろう。

 203高地の激戦

 一方陸軍の損害は大きく、歩兵の大部分を失う結果となった。この戦争による戦死者は日本軍は11万5千余。一方ロシア軍の戦死者は陸海合わせて4万2千余に留まった。この責任を取って、乃木大将は明治天皇が崩御した際、その墓前において夫人と共に自決した。

    奉天会戦  

 旅順での戦いに敗れたロシア軍は1905年(明治38年)、再び奉天(後の瀋陽)において日本軍と対峙する、ロシア軍36万人の指揮官はエカテリーナ女帝の事実上の夫とされたクロポトキン将軍。一方日本軍24万人の指揮官は陸軍総参謀長の大山巌だった。数では劣る日本軍は隊を4つに分けて攻める戦法を取ったため、挟み撃ちにされることを恐れたクロポトキンが退却を命じたことで、日本軍が優勢となった。だがこれでは決着がつかず、最後は「日本海海戦」での日本軍勝利が決まった。

   ポーツマス条約の締結  

 辛うじて勝利した日本は、アメリカの仲介でロシアとポーツマスにおいて講和条約を結んだ。この時ロシアは負けたのはごく小範囲だと主張して賠償金の支払いを拒んだ。だが、日本は南満州の権益と満鉄の経営権、朝鮮からのロシアの撤退、南樺太の分割を果たした。こうして「満州国」経営と朝鮮併合の下地が出来た。<続く>





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Last updated  2020.04.23 00:00:09
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