マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2020.10.09
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カテゴリ: 歴史全般
~「激動の日本と世界」~



 シリーズで掲載して来た「海のシルクロード」だが今日は一旦休んで、NHKの特別番組「大戦国史」~激動の日本と世界~を紹介することにする。ちょうどフランシスコ・ザビエルが来日した時期の話であり、当時の日本を知る良い手掛かりになるとの判断だ。この番組が過去の作品の再放送かは知らないが、偶然にしても良く出来た話。私にとってはお誂え向きの内容で、奇跡のように付合したのだった。



 天文12年(1543年)12月8日、種子島に一艘の難破船が漂着した。乗っていたのは100人余りだが、誰とも言葉が通じない。そこで薩摩の武将が明の儒者と思しき者と筆談した。乗組員の中に2人の異人がおり、2丁の銃を持参していた。これが日本へ鉄砲が伝来した初めての記録。種子島の島主は異人が撃って見せた銃を購入する。島主は刀鍛冶に命じて20丁の銃を複製させた。「種子島式火縄銃」の誕生だった。残りの1丁は噂を聞きつけてやって来た紀伊藩に譲った。この「種子島銃」が以後の日本の戦いを大きく変えることになる。



 その6年後に日本へやって来たフランシスコ・ザビエルもその後の日本史に大きな影響を与えることとなる。藩主島津公に願い出て、薩摩での布教を皮切りに、豊後(大分)、京、周防(山口)でキリスト教(カトリック)の教えを説き、後に多くのキリシタン大名が誕生することになる。相反する銃とキリストの教えは、戦国時代の日本を大きく変える。ヨーロッパ人によってもたらされたこの2つによって、日本は大激動の世へと変わって行くのであった。



 天下統一を果たしたこの3人の武将の対応も様々だった。古い体制を打破し、新しいもの好きな信長は日本人がキリシタンとなることを許し、安土城下にセミナリオ(上右)を造らせた。英語のゼミナールだが、ここでは神学校の意。自らも赤いマントを羽織り、ワインを飲み、黒人の奴隷をもらい受けて自分の家来にした。そして何よりも鉄砲の武器としての価値を真っ先に認識して整備を進めた。

 「桶狭間の戦い」では奇襲攻撃で今川義元を破り、「長篠の戦い」では200丁もの銃で武田勝頼を破った。武田軍の銃弾は銅製で加熱して暴発するのに対して、信長軍では外国から取り寄せた鉛の銃弾を使用した。銃の精度と併せて殺傷力が高く、以後天下統一に向けての動きが一気に加速する。



 秀吉はキリシタンへの改宗と銃による日本の支配をねらうポルトガル(後にスペイン)の野望の恐れを信長に進言するが受け入れられなかった。信長の後継者となった秀吉は天下統一を果たした後、武将へ功労の代わりに与える土地が国内になかったため明への侵攻を企図。その前哨戦として朝鮮へ2度出兵させたが秀吉の死でその夢は潰え、全軍引き上げた。



 日本の銃の精度と強い武士の力を借りて明を占拠しようとしたポルトガルとスペインの野望は秀吉の死で潰えた。関ヶ原の戦いで勝利した家康は近江国友の鉄砲鍛冶に命じて、鉄砲製造の秘密を漏らさず、徳川氏以外からの製造依頼を断らせた。そして国友鉄砲鍛冶に、大筒(おおづつ=種子島よりも大きめの火縄銃)200丁の製造を命じ、オランダ商人にはカノン砲(大砲)20門の調達を命じた。

  カノン砲(復元品)

 家康はそれらの最新式の兵器を大坂の陣で使用した。カノン砲は550mも飛び、大坂城の城壁を撃ち抜いた。また大筒は2km以上飛び、大坂城に立て籠った大勢の浪人を殺傷した。こうして天下は家康のものとなり、江戸に開府した幕府は明治を迎えるまで260年も続いた。



 オランダ人は家康に訴えた。私たちはキリスト教の布教はしません。貿易だけが目的です。家康は彼らを信じて日本との貿易を許した。オランダ人の真の狙いは「銀」。当時世界の銀の大部分はスペインが握っていた。それはメキシコや南アメリカ大陸の鉱山開発で得られたもの。そこでオランダは日本の銀に目を付けた。佐渡や石見など有力な銀山があることを知っていたのだ。

 またオランダ人はこうも言った。日本の侍を貸してくださいと。東南アジアでスペインに勝つためには、強い日本の武士を利用するしかないと考えたのだ。関が原や大坂の陣以降、国内には主を失った浪人がたくさんいた。彼らを野放しにしておくのは危険。それに異国と貿易すれば富も得られる。



             朱印船(左)と当時の貿易相手(右)

 そこで家康は外国との貿易を許可する朱印状を希望する藩に発行した。もちろんオランダ人と一緒なのだが、やがてそれを禁止する。そして取った政策が「鎖国」。外国との貿易で得られるものも多いが、失うものが多いことに気づいたのだ。それは国内の銀の消費が早いこと。国際情勢を知らない日本は、銀の価値に気づいてなかったのだ。それで世界との窓口を2つに絞った。

  出島風景

 その一つが長崎の出島。埋立地にオランダ商館を建て、オランダ人を住まわせた。もう一つの窓口は同じ長崎の平戸。こちらは専ら中国(明)との貿易に限り、後に長崎に移動した。

          シーボルトと日本地図    

 出島で有名なのは何と言ってもこのシーボルトだろう。彼はドイツ出身の医者で、博物学者でもあった。東洋のしかも日本に来たくてオランダ政府の要望に応えて来日。極めて優秀な医者であったため特別に許され、長崎市内の「鳴滝塾」で日本人に西洋医学を伝授した。その評判を聞きつけて全国から若者が医学やオランダ語を学びに来た。

 解剖学の専門書である「ターフェル・アナトミア」を訳したのもそんな彼らの影響。杉田玄白らが苦労して翻訳し「解体新書」として世に出、ヨーロッパの最新情報も入手したのだ。だがあることでシーボルトは国外追放となる。間宮林蔵が探検して発見した「間宮海峡」などが載った精緻な日本地図を国外に持ち出そうとして発覚。だがそれまでの功績により罪を軽減された。世に言う「シーボルト事件」だ。

  黒船

 鎖国の夢は4隻の黒船によって破られた。列強による開国と通商の要求が一気に高まった。維新期の激動は既に知る通りだ。だがその苦難を日本人は乗り切った。あの種子島銃をわずかな期間で再現したように、製鉄のための反射炉を製造したり、なんと蒸気機関まで再現した藩や、近代的な軍隊を整備した藩もあった。アジアでいち早く近代化に成功し、欧米に伍して戦えたのも、日本人の誠実で研究熱心な気質が生んだ「奇跡」だったのだと思う。さて明日からは再び「海のシルクロード」に戻る。<続く>





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Last updated  2020.10.09 06:08:20
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