全6件 (6件中 1-6件目)
1
NHK杯に続いて行われたグランプリシリーズカナダ大会。やはりというべきか、演技構成点における「ワールドに向けての金メダル候補仕分け」があからさまになった試合だった。グランプリシリーズの2つの大会を通して、フリープログラムで83点、84点という高得点を得たのが高橋選手とパトリック・チャン選手。何度も言うが、この点が妥当か妥当でないかなどという議論は、主観とスケートに対する好みが入るから不毛でしかない。問題は、2位以下の選手との演技構成点における「点差」をどうするかなのだ。今回のカナダ大会の男子フリーの点を見ると1位 チャン 技術点:83.18点、演技構成点:84.14点2位 リッポン 技術点:80.35点、演技構成点:75.16点3位 織田 技術点:81.87点、演技構成点:74.28点 ちなみにNHK杯の男子フリーの点を見ると1位 高橋 技術点:74.17点、演技構成点:83.58点 2位 アモーディオ 技術点:73.74点、演技構成点:70.02 点3位 アボット 技術点:67.15 演技構成点:76.42点技術点がカナダとNHKでバラバラなのに対して、演技構成点は不思議と両試合で似通っている。ワールドに向けて金メダル仕分けされているのが高橋とチャンで、83~84点台。リッポンとアボットは今のところ互角で75点~76点台。その他の選手はメダル圏外。メダル仕分けの選手がよほど大崩れし、しかも自分がベスト以上のパフォーマンスをしなければ、負けは最初から決まっている。カナダ大会、ショートで1位だった織田選手とチャン選手のフリーでの演技構成点の点差はなんと9.86点。後半にもってくるトリプルアクセルが10%増しの基礎点で9.35点だから、男子でもなかなか決められない、4回転に次ぐ高難度ジャンプをハイリスク構成で跳んだときに出る点まるまるの差をつけられたことになる。こうした点のつけ方に真っ向から異議を唱えたのはカナダ人のエルビス・ストイコだ。「演技構成点でジャンプ1つ分の差をつけてしまう」と、どうなるか? 勝負ははじめっから決まっていることになる。そのカナダで相変わらず、堂々とこういう採点がなされる。日本のファンはおおむねこの採点に憤慨しているが、こうした演技構成点で大差をつけるやり方を、日本のスケート連盟幹部も後押ししたのだ。平松純子氏は、「いいものはどんどん評価するように」「技術点と演技構成点を切り離して出すように」ジャッジを指導したと言っている。だから言われたとおりにジャッジはやっている。だが、あらゆるジャッジが自由裁量でジャッジングを行い、その結果として高橋選手とチャン選手を金メダル仕分けされていると考えるのはおめでたいだろう。これについても、ストイコが本当のことを言っている。「ISUは勝者をコントロールしたがっている」と。ビアンケッティ氏は「今のジャッジの仕事は、スーパーのレジ係程度の興奮度」と言っている。ジャッジはかつてのような権威を失っているのだ。日本で高橋選手が、カナダでチャン選手が最高の評価をしてもらえるなら、ファンは喜ぶかもしれない。だが、それは試合ではなく、出来レースだ。ショートで3回、フリーで1回、計4回も転倒しても、フリー後半のジャンプの着氷がやたら汚くても、「圧倒的なスケート技術(あるいは表現力?)」で勝つのだろうか? それならば、試合などやる必要はないではないか。あるときは「表現力」で勝ったことになり、あるときは「完成度」で勝ったことになる。点を見て、やれ「XX選手の演技は素晴らしいからこの高得点は納得」だの「いくらなんでも高すぎる。不当だ」だのとファン同士が噛みあわない議論をする。まったく不毛だ。評価している選手の高得点なら納得できる。評価できない選手の高得点は不当に見える。そこには多かれ少なかれ主観が入るから、どちらが正しいなどと軍配を上げることはできないのだ。日本は高橋大輔だけ評価されれば、織田選手や小塚選手の評価が変に低くても満足しなければいけないのだろうか? まったく人をバカにした話だ。有利な採点をされるほうはいい。高橋選手もチャン選手もモチベーションが上がり、精神的に余裕ができるだろう。点が高ければ、メディアも持ち上げてくれるから、ますます自信がつくかもしれない。だが、他の選手は? 技術点でほぼ同等の出しても、演技構成点で10点も差をつけられては、落胆しないほうがどうかしている。こういうことをされた選手は自信を失い、精神的に追い詰められる。すると本番でも緊張で萎縮し、いい演技ができなくなる。ストイコはカナダ人であるにもかかわらず、オリンピックでのチャンの順位は、ジョニー・ウィアーより下であるべきだったと採点を批判した。ストイコはジャンパーだから、ジャンプの弱い選手には批判的になる傾向があるかもしれない。実際、パトリック・チャンのジャンプのまとめ方はまったくいただけない。今回のフリー、前半に決めた4回転は確かに見事だったが、トリプルアクセルの確率が悪すぎるし、後半になるとジャンプの着氷が汚くなる。これは恐らく、スケーティングにおけるチャン選手の強みである「スピード」と関係ある。スピードに負けずに跳ぶ体力があるうちは決まればきれいに流れるが、後半体力が落ち、スピードに負けてしまうとジャンプが不安定になり、着氷が悪くなる。大きく跳ぼうとするから軸も安定しない。この傾向はずっと続いており、いつも「チャン選手はジャンプがヨロヨロする」という印象が強い。「完成度」という意味では、いつも疑問符の残るフリーの演技だ。ところがチャン選手のジャンプのGOEは見た目ほどには悪くない。3A+2Tなど、相当悪いジャンプだったがGOEで減点したジャッジが1人もいない。どころか加点されている! ファーストジャンプで体勢が崩れ、回転もギリギリで着氷が悪くなり、なんとかセカンドを付けたが、とても加点のつくジャンプには見えなかった。だが、結果は加点ジャンプ。これもルール上、間違いではない。マイナスの要素とプラスの要素を引き算、足し算して、プラスの要素がなお勝ると考えれば、加点してもいいのだ。だが、こういう不自然は加点は、チャン選手とキム・ヨナ選手のジャンプ以外では見た記憶がない。ショートのときだったか、実況のアナウンサーが、チャンは去年もトリプルアクセルをなかなか決められなかったという主旨の話をしたが、それでワールド2年連続銀メダリストなのだから、恐れ入る。3回も転倒したにもかかわらず、40点近いトップの演技構成点を得たショートのあとのインタビューでチャン選手はこんなことを言っている(記事はこちら)。「それ(転倒があったにもかかわらずメダル圏内に入る演技構成点が与えられたこと)は、練習の重要性を示している。ジャッジは僕がこのプログラムを演じきれることを知っているからね。それ(点数)は、ジャッジが僕にうまくやって欲しがっていることを示しているんだ。安心したよ。もちろん少し元気付けられた」3回しかないジャンプの要素で2回転倒しても、40点近い、全選手トップの演技構成点がもらえるなら、それは元気になるだろう。それは置いておいて最初の部分、ジャッジの「想い」まで選手が代弁するというのに驚く。練習がどうのこうのと、ジャッジはチャンがよい練習ができていて、プログラムを演技切れる力があることを知っているのだそうだ。それを、ジャッジではなく選手が堂々と言っている。さらに優勝が決まったあとのインタビュー(動画はこちら)。0:58秒当たりで、チャンは、「僕たちはジャッジと連携して仕事をしている」とにこやかに答えている。インタビュアーもまったく自然に流している。これが今のフィギュアの実態なのだ。特定の選手が堂々と「ジャッジとコネクションをもちながら仕事している」と発言し、誰も問題視しない。We've been workingと現在完了の進行形で言ってるから、それは一過性のアドバイスやご意見伺いではなく、持続的・継続的にやっているということだ。もしこんなことを選手が言ったら、日本だったら大問題ではないだろうか? ジャッジは公正、中立が立場のはずだ。選手とは一定の距離を保つべきというのが暗黙の了解ではないかと思う。だが、実際には(日本でも)スペシャリストに選手が意見を求め、スペシャリストが手助けすることはよくあること。それどころか、スペシャリストがコーチをやっているのがフィギュアという競技だ。日本の場合は分業体制がかなり確立している。佐藤コーチや長久保コーチ、山田コーチがスペシャリストとして採点する側に回るなど考えられない。彼らはコーチ業だけでプロとして認められているからだ。だが、たとえばカナダ在住の日本人スペシャリスト天野氏はコーチもやっており、振付師でもあるという。常識的に考えて、これはおかしい。ジャッジというのは「裁判官」だ。裁判官が被告の顧問弁護士を兼ねるなどということが、司法の場であるわけがない。ところがフィギュアスケート界では「あり」なのだ。人材が少ないフィギュア界でそれぞれの立場が完全に独立していない(できない)というのは、現実問題として仕方がないのかもしれない。問題はそのかかわり方とかかわっている人間の立場の強弱だろう。ルール策定に絡むISUの重鎮、つまりは「力のある人物」と密接に連携して仕事のできる選手、そうしたツテのない選手で、採点が大きく変わってくるとしたら? もとより公平性など求めるべくもない。あるいは、ある選手のコーチをしていた人物がスペシャリストを務めたとして、その試合に元教え子のライバルがいたとしたらどうだろう? 本当に「公平に」ジャッジするだろうか? あるいはそうと信じられるだろうか? 世の中は、性善説を信じるジャッジ贔屓のおめでたい人間ばかりではない。プルシェンコの「つなぎ」について工作メールをまいたとされるジャッジが、振付師ローリー・ニコルの親友だということは、スポーツジャーナリスト田村明子氏が明らかにしたが、それについて当のジャッジは、「確かに親友だが、それは問題ではない」と言い放ったという。常識で考えれば、大いに問題だと思うが、そうした常識はお偉いジャッジには通用しないらしい。演技構成点はほとんど「固定点」になっている。だが、実際には固定されている選手と極端に上下する選手がいる。たとえばジャパンオープンのフリー。1位 リッポン 技術点:84.27点、演技構成点:82.36点(カナダ リッポン 技術点:80.35点、演技構成点:75.16点)2位 高橋 技術点:73.47点、演技構成点:85.72点(NHK 高橋 技術点:74.17点、演技構成点:83.58点)これを見ると高橋選手の演技構成点は、固定といっていいだろうが、リッポンは7.2点も下がっており、評価が定まっていないことを示してる、ように見える。まだヨーロッパの男子選手が出揃っていないので、高橋・チャンのほかに誰がメダル仕分けされるのかはハッキリしない。だが、出来レースができつつあるのは確かだろう。メディアは金メダル仕分けされた選手だけを過剰に持ち上げて人気を保とうとする。ところがファンのほうは、こうした出来レースにはウンザリしているのだ。そして、フィギュア人気はますます下がる。今年のNHK杯のチケット争奪戦はすさまじかったようだが、日本でのこの人気も、恐らく今年限りだろう。皮肉なことだが、そのほうがフィギュア競技のためかもしれない。どんな採点をしようと客が押し掛けている限り、ISUが反省などする必要はないのだから。
2010.10.31
かねてからISUのチンクワンタ会長が強力にプッシュしてきた、オリンピックへのフィギュア「団体」種目導入。このくだらない思いつきに賛同する形で、日本で開催されたのが「国別対抗戦」。日本以外ではよほどスポンサーがつかないらしく、2回目も2011年4月に日本で開催されることが決まっている。これについて、オリンピックで新種目としての採用が本決まりになりそうだという記事が出た(こちら)。バンクーバーで銀色の涙を流した真央が、4年後に金メダルを両手にうれし泣きする可能性が出てきた。「すごくいいですね。やってみたら楽しそうだと思います」。五輪団体戦について聞かれた真央は瞳を輝かせた。 4年後のソチ五輪の正式種目に提案されている「団体戦」は、各国が男女シングルとペア、アイスダンス各1組のチームを組み、それぞれの順位によるポイントの合計でメダルを争う方式と見られる。出場選手は個人代表に加えて、団体戦だけに出場できる枠も設けられる見通しだ。新種目については来年4月にもロゲ会長が最終判断する予定だが、冬季五輪は夏季五輪に比べ選手枠に余裕があることから「世界選手権で競技レベルの高さや参加国数が十分だと証明されれば、ほぼ自動的に採用されるだろう」(ハイベルク理事)と障害はなさそう。特にフィギュアスケートはその注目度から放映権料が高く"ドル箱競技"の側面があるため、採用は最有力だ。団体戦の五輪種目化については、国際スケート連盟(ISU)のチンクワンタ会長自らが強力に推し進めてきた。採用をアピールするため開催したのが昨年4月の第1回世界国別対抗戦(東京)。シングルには男女各2選手がエントリーする形で行われ、日本女子は真央と安藤美姫(トヨタ自動車)が出場。真央はショートプログラム(SP)で75・84点と自己ベストを出し、日本の銅メダル獲得に貢献した。採用が決まれば"フィギュア王国"日本のメダル獲得に期待がかかる。シングルでは真央に加え、ベテランの高橋大輔、織田信成(ともに関大大学院)、安藤美姫(トヨタ自動車)が健在。若手も世界ジュニア選手権でアベック優勝した羽生結弦(はにゅう・ゆづる、東北高)、村上佳菜子(中京大中京高)が台頭。ソチ五輪では過去に例のないハイレベルな戦いが予想される。いきなり「真央が、4年後に金メダルを両手にうれし泣き」などという意味不明の煽りで始まるこのお祭りワッショイ記事は、読んでいるだけで頭痛がしてきそうなのだが、別の記事では、以下のように、もう少し冷静に伝えている。フィギュア団体 メダル有望種目かは疑問国際スケート連盟(ISU)が五輪でのフィギュア団体採用をアピールするために開催したのが昨年4月の第1回世界国別対抗戦だった。男女各2選手とペア、アイスダンス各1組でチームを組んで争い、浅田真央(中京大)らを擁した日本は銅メダルを獲得した。五輪は男女が各1選手になる以外はほぼ同じ方式が提案されており、浅田は「すごくいいですね。やってみても楽しそうだなと思う」と歓迎した。ただ高橋大輔(関大大学院)と浅田の男女世界チャンピオンを抱える日本が、五輪でメダルが有望かは疑問だ。ことし3月の世界選手権でアイスダンスのキャシー・リード、クリス・リード組(木下工務店ク東京)は15位、ペアには代表すら送れなかった。ペアで将来が期待される高橋成美(木下工務店ク東京)のパートナー、マービン・トランはカナダ人で五輪では日本代表になれない。国内の強化は男女が中心で、ペアが育つ土壌は乏しく、日本スケート連盟の吉岡伸彦強化部長は「五輪を考えるとペアがいない。ペアをやる子も指導する人もいないし、どこで練習するかも問題。簡単にはメダルは取れない」と手放しで喜べない現状を説明した。 日本はシングルは強いが、ペアやアイスダンスの選手層はお寒い限りだ。「ペアをやる子も指導する人もいない」――こんな状況で、マトモに考えてメダルが獲れるわけがない。選手を「輸入」しなければ無理だ。昨年4月の「国別対抗」開催には、Mizumizuは個人的に反対だったので、反対運動にも参加させていただいた。1つは、ただでさえ、ショーやイベント試合で忙しい日本選手をオリンピックシーズン直前にかり出す意味がないこと。もう1つは、「団体」をオリンピック種目にする意義も必要性も感じられなかったためだ。フィギュアスケートはどこまでも個人競技だ。それを五輪という場で、国別の団体戦で競う意義はどこにあるのだろう。国別対抗で日本はアメリカ、カナダに次いで3位だったが、ソチに向けてロシアはジュニアを強化している。ペアおよびアイスダンスを含めたフィギュア競技全般でのロシアの選手層の厚さは日本の比ではない。アメリカやカナダも同様に幅広くいい選手がいる。となれば、五輪でのメダル争いはまたまたロシア(および次点としてフランス)vs北米という嫌な図式になる。ソチでどういう採点がされるのか。ロシア人はとっくにフィギュアの採点など信用していないし、日本人にも採点の胡乱さは知れわたってきている。ましてや団体戦となれば、どの競技にどれくらい比重を置くかというルール策定を含めて、政治色の強すぎるイベントになりそうだ。「ペアがいない」日本がメダルに絡もうとすれば、こちらも政治的な判断の必要な「選手輸入」をしなければならなくなる。そんな種目導入のための模擬試合に、なぜ日本がわざわざ協力しなければいけないのだろう? まさに愚の骨頂。昨年の国別対抗、今だから言ってしまうが、ショートの浅田選手の採点には、やや甘いのではと思える部分がかなりあった。たとえばショートのステップが突然レベル4になったこと(振付はカナダのローリー・ニコル。レベル認定を行う3人の技術審判のうち、スペシャリストはカナダ在住の天野氏が担当)。途中で若干のエッジの詰まりがあったにもかかわらず。あれがレベル4なら、なぜシーズン中のもっと大事な国際試合でレベル4が出なかったのだろう?また、トリプルアクセル+ダブルトゥーループのコンビネーション。録画している方は見ていただきたいのだが、3Aを降りたあとにブレードが「グルッ」と回っている。4分の1以上か以下かという問題はともかく、回転がやや足りていなかったのは事実だ。これは「なぜか」4分の1以下と見なされたらしく、ちゃんと認定され、加点も0から2まで付いた。オリンピックシーズン序盤は、浅田選手自身が3A不調だったが、オリンピック直前の全日本では決めたと思った3Aの回転不足が、信じられないくらい厳しく見られた。ということは、オリンピックもさぞや厳しくなるのかと思いきや、オリンピック本番では全般的に回転不足判定は突如甘くなり、解説の八木沼純子も、「今回、判定が読めず・・・」と思わず口にするほど。浅田選手の3Aは3度とも認定された。だが、そのあとの世界選手権では再び厳しくなった。今回のNHK杯の女子の回転不足判定は、非常に厳しく、ちょっとでもグリ降り(降りてからブレードが少し回っている状態)になれば、即「<」判定になっていた感がある。今シーズンから4分の1ラインの回転不足は基礎点70%、2分の1ラインでダウングレード(マークは「<<」。基礎点がその下のジャンプの点になる)とルールが変わったのだが、つまり4分の1から2分の1までの回転不足に対する減点がやや緩和されたというだけで、「4分の1」という判定基準自体は変わっていないのだ。NHK杯の女子に対する回転不足判定は、毎年総じて厳しい。今年もそうだった。その意味では、この試合だけは判定はわりあい公平だったといえるかもしれない。だが、これだけ取りまくったということは、わずかな回転不足が「4分の1以上か以下か」という判断は事実上放棄されたと言ってもいい。これはある意味、無理もないかもしれない。4分の1を超えたか超えないかという物理的な判断は非常に難しく、正しいかどうかの客観的な証明もできない。だったら、グリ降りジャンプはすべからく取ってしまったほうが簡単だし、クレームのもとにもらなないだろう。だが、問題は、どの試合のどの選手に対しても同じように厳しく取っているかというとそうでもない――ように見えることだ。人間のやることだから間違いや見逃しがあるかもしれない。だが、そこに恣意性がないとも言い切れないのが採点競技のまずいところなのだ。昨年の「国別対抗」開催に反対運動があったことは、主催者側も承知だろう。すると、なぜか一番人気の浅田選手の点が高くなる。喜んだファンは次の試合に期待する。だが、シーズンが始まれば、お祭りイベントのような採点はしてもらえなくなる。恣意的な操作をしているかどうかは立証できない。だが、少なくとも、恣意的な操作が可能であることはハッキリしている。それが今のフィギュアの採点だ。 今回のNHK杯の採点を見て一番強く感じたのは、ルールを改正し、技術点で細かい規定を定めたにもかかわらず、演技構成点がひどく大雑把だということだ。誰の点が妥当か妥当でないかという問題ではなく(そんな妥当性は証明できない)、選手間の「差」をどれくらいにするのかというのが問題で、男子では特に点差が大きかった印象がある。これでは、技術点で同じような点を出しても、演技構成点を高くもらえる選手にはまったく歯が立たないことになる。現状を見ると、演技構成点を高くもらえる選手は予め「仕分け」されている。八木沼氏が浅田選手の演技構成点に絡めて、思わず、「これまでの実績がありますから・・・」と言ってしまったが、元来、新採点は実績点などないというタテマエだったのだ。エルビス・ストイコではないが、これでは競技会ではなく、リサイタルだ。「団体」という新たなリサイタルの場を五輪に作るために、「ペアがいない」という、団体戦でメダルを獲るには致命的な欠点のある日本が、その模擬試合開催のためにISUにせっせと貢いでいる。そしてソチでメダルを獲るのはアメリカ、ロシア、カナダの3国ということか(苦笑)。ISUおよびIOCの思惑は、記事がいみじくも指摘している。「フィギュアスケートはその注目度から放映権料が高く"ドル箱競技"の側面がある」。フィギュアはマイナースポーツと言われるが、そもそも商業的な価値がほとんどないウィンタースポーツの中では「ドル箱」なのだ。アメリカでの人気もすっかりかげってしまい、ヨーロッパでもどん底。チンクワンタ会長は、「韓国や日本では人気が出ている」と言っているが、それもスター選手の人気に支えられているだけで、フィギュアスケート競技全般への興味は、アイスダンスやペアの放送時間が少なくなってきているところを見ても、日本では逆に下がってきているのではないだろうか。そんななかでも、まだフィギュアを金づるにしようと考えている。もうこうした商業主義に付き合うのはウンザリだ。日本をキャッシュディスペンサーのように扱うのもやめてほしい。ISUもIOCも、今後はせいぜいロシアの機嫌を取って、スルツカヤを五輪で勝たせないようにもっていった過去の罪滅ぼしでもしてください。
2010.10.28
この背景にあるのは実際には、アメリカ社会のアジア系というマイノリティ集団の中で、中華系がイニシアティブを取って大きな勢力として動きたいという、中国人ならではの一種の覇権主義なのだが、反日政治工作に関しても、たとえば第二次世界大戦中に南京であったとされる大虐殺を「ホロコースト」にしようとしたり、慰安婦問題を20世紀最悪の奴隷制度と呼んでみたりというプロパガンダを中国系と韓国系が個別に、あるいは時には陰で共闘してやってくることも多いから日本にとってはやっかいだ。彼らのプロパガンダ活動は、基本的にはユダヤ系アメリカ人のやり方に倣ったものだ。さらにこうした日中韓の反目を、したたかなアメリカ人政治家がうまく利用している。たとえば、安倍政権下での、実際には何の効力もない慰安婦がらみのアメリカ議会による対日非難決議案。これを推し進めたい韓国系・中国系から、さらに非難決議を阻止しようとする日本サイドから、アメリカ人政治家がいくら絞り取ったのか、つまびらかにしてほしいくらいだ。ロスでのキム・ヨナ事務所主催のアイスショーも、中・韓系資本のアメリカ進出という色彩が濃い。アメリカでのアイスショーそのものの人気がなくなり、アイスショー元締め最大手のIMGもショーにさほど注力しなくなってきたタイミングを見て、切り込みを図ったのかもしれない。過去の因縁もあるとはいえ、ATスポーツのIMGへの態度は極めて好戦的だ。今回のショーが不入りだったのは、プロモーション期間が短かったこともあるかもしれない。だが、ぶっちぎりの点をオリンピックの晴れ舞台で叩き出したはずの五輪女王の演技をショーで見たいという人間が少ないこと、クワンに興味をもつファンももう減っていること、男子の花形選手も、ショーのゲスト出演ではさほどの集客力がないという現実をまざまざと見せ付けているように思う。IMG系の事務所とキム・ヨナが袂を分かったのは、「マネージメントを真面目にやらない」とキム・ヨナサイドが憤ったのが原因と伝えられている。日本人のトップフィギュア選手でIMGと契約している選手は多いが、実際のところ、IMG TOKYOは何をしているのだろう? たとえば、浅田真央に対して。なるほど、あちこちのショーにかりだされてはいる。浅田真央が出演すれば、客席はいっぱいだ。オリンピックシーズン後ということもあり、ショーの数が増えるのは当然といえば当然だが、ソチに向けて現役続行を宣言し、ジャンプのリフォームに取り組むという大きな課題を抱えた浅田真央に対するマネージメントとして、それが適切だろうか?一度完全否定したにもかかわらず、また一部の週刊誌に、「非公式にオーサーにコーチを打診した」などと書かれても、正式なステートメント1つすら出さない。案の定、中国で氷上結婚式ショーに出演した浅田選手に対して、記者団から「オーサーにコーチを依頼したのか」などという質問がぶつけられた。海外では、これが既成事実化しているのだ。こうした誤解を解く努力をしないことを、「大人の対応」などと一部の日本人は思っているが、それは間違っている。事実無根のでっち上げに対して何も反論しないということは、それが事実だから。そう思われるのが「国際標準」なのだ。オリンピックシーズン、ジャパンオープンからグランプリシリーズ2戦まで、まったくスケジュールに余裕がなかったことを、タラソワは次のように批判していた。「真央は所属事務所の関係でジャパンオープンへの出演を断ることはできなかった。だが、この難しいプログラムをこうしたわずかな期間のうちに演じきるのは無理」。もちろん浅田選手は、「体力面でも全然大丈夫」と明るく言っていたが、結果はあのとおりだった。こうした問題でコーチが問題意識をもち、それが(たいての場合)正しくても、日本のフィギュア商業主義はコーチに絶対の裁量権をもたせてくれない。中野選手にとってもオリンピックのジャパンオープンは悪夢のようなものだった。不要な試合で肩を負傷。これが彼女にとって一番大切な集大成のシーズンでの調整を遅らせた。それをすべて選手の自己責任にしているのが日本だ。日本ではフィギュアの人気選手を取り巻く環境はいいようで、悪い。アイドル歌手並みの消耗品扱いなのだ。何の本だったか忘れたが、とにかくフィギュア関連の書籍で、かつてアメリカでフィギュアが人気があったころ、女子選手を取り巻く商業主義の危うさを指摘した一文があった。「フィギュアの女子選手はオルゴールのお人形と同じ。ぱっと飛び出しクルクル回る」。当時アメリカでもてはやされていたのはクワン選手だったが、「クワンが跳べなくなれば彼女はもう用済み。次のスターがぱっと飛び出す」。だが、クワン以降、アメリカ女子から圧倒的に強いスター選手が出なくなる。「まぐれ勝ち」させてもらった五輪女王もいたが、かつての五輪女王がもっていた重みは明らかになくなった。日本の現状はかつてのアメリカを髣髴させる。NHK杯に向けて、ジャパンオープンで不調の浅田選手に期待できないと見たのか、ニューヒロイン村上佳菜子をやたらと宣伝するメディアの論調が目立った。確かに村上選手は素晴らしい。荒削りだが、安藤選手とも浅田選手とも違うスケール感がある。だが、才能から言えば浅田真央には比肩できない。見ているものの想像力を刺激する演技、氷上に降り立っただけでうっとりさせるお人形のようなプロポーション(20歳であのほっそりした体形を保っているということだけでも奇跡に近い)。かつて伊藤みどりが日本女子フィギュア成功の代名詞だったころ、「伊藤みどり2世」とメディアが呼ぶ選手が相次いだことがあった。だが結局、伊藤みどり2世が出なかったのは、今となっては周知の事実だ。伊藤みどりのジャンプは伊藤みどりとともに終わった。今では伝説となったあの芸術的なジャンプの持ち主を、日本人は、「表現力がない」などと言って、「伊藤みどりを勝たせたくない」勢力の尻馬にのって叩いたのだ。同じように浅田真央2世も出ない。浅田真央の奇跡は浅田真央だけの奇跡だ。メディアのほうで、「次のスター」を売り出そうとしても、ファンのほうはわかっている。浅田真央は別格だと。拙ブログでは「一部の好事家のものだったバレエ鑑賞を大衆のものにした」と言われたヌレエフについても取り上げたが、日本での浅田真央も、マイナースポーツだったフィギュアを国民的な人気競技に引きあげたという意味で共通するものがある。こうした何十年に一度出るか出ないかの圧倒的なスターを認め、育て、大輪の花を咲かせるのが、日本人はあまりに下手だ。浅田真央の才能をもっとも認めているのが、ロシア人だったりフランス人だったりするのは一体どうしたことか。またフィギュアシーズンが始まり、自国に世界女王がいるのに、わざわざ「世界女王のキム・ヨナ」などと言ったりするテレビ局がフィギュア放送をするのかと思うとウンザリだ。さきほど女子ショートプログラムのNHKの放送を見たが、アナウンサーはかなり浅田選手の現状に配慮した発言をしてあげていた。ルールについても勉強している。ああしたアナウンサーは民放にはほとんどいない。ただ、「宿命のライバル」だのと言って煽り、自国の素晴らしい選手たちを差し置いてキム・ヨナを「フィギュア史に残る名選手」などと持ち上げ、演技途中にくだらないおしゃべりをして音楽の妨害をしている。浅田選手がジャンプに失敗すれば、新聞は「真央、跳べない」「ジャンプ不調」とことさら書き立てる。今ジャンプがうまく行っていないのには理由がある。今シーズン初めからしばしばフリップが抜けてしまうのは、流れを止めずに跳ぶというプレパレーションの修正のほかに、恐らくルッツの矯正とも関連がある(それを最初にインタビューで言ってくれたのはフリップの矯正をしていた安藤選手だ)。安藤選手ほどのジャンパーでも矯正後のフリップは回転不足を狙われるせいか、今もフリーからはずしたりしている。矯正というのは、それほど難しいのだ。ショートにトリプルアクセルを入れるリスクについては、過去のエントリーですでに書いた。困難な挑戦だが、本人が「やる」と決めた以上、周囲は冷静に見守るべきだろう。素人の目を侮ってはいけない。高いチケット代を払い、ショーや競技会に足を運んでくれるファンの多くは素人なのだ。点だけ吊り上げれば、スペシャルなスタースケーターを作れると思ったら大間違い。それをロスのショーが図らずも証明した。日本のフィギュア人気もいつまで続くかわからない。クワン時代のアメリカの状況を記した古い書籍の一文が、今の日本のフィギュアとそれを取り巻く現状を言い当てているような気がしてならないのだ。
2010.10.22
<続き> さてオリンピックシーズン。国際大会(とくにカナダがらみの選手と競う大会)になると、アメリカの女子に対しては目を覆いたくなるようなひどい採点が露骨になされた。特に一時的に不調になったロシェット選手をなんとかファイナルに出すために(としか思えない)、カナダ大会でロシェット選手とアメリカ女子選手に対して行われた採点には、ハッキリ言って気分が悪くなった。ここにMizumizuはISUとアメリカのスケ連の金銭を巡るゴタゴタの影を見る気がするのだ。アメリカで行われるグランプリシリーズでさえ、アメリカ女子はキム・ヨナにまったく歯が立たない。それも「素人には理解できない点(本当は、専門家にだって理解できないのだ。プロトコルが出てきて、後からあれこれ推測で後付の理屈を並べているだけ)」が出てきて負けることになる。これではアメリカ人ファンも白けるし、人気が盛り上がるわけもない。つまり、強化したい選手と本当に強い選手を冷静に客観的に見極めようとしないアメリカのスケート連盟の姿勢、および勝者をコントロールしようとするISUという2つの問題が絡み合い、それが競技会での不明瞭な採点という結果になってファン離れを加速させているのではないかと思うのだ。ジョニー・ウィアー選手が語ったところによれば、オリンピックのフリーの点が出てメダルを逃したあと、カーテンの裏で彼が泣いているとある人物(アメリカのスケ連関係者)がウィアーのコーチのところにやってきて、「ジョニーがこれほどの演技をするとわかっていたらよかったんだけど。だってほかの2人を推していたから」と話したという。http://nymag.com/fashion/10/fall/67510/index3.html "It's very hard," he says, "but you know, someone literally came to my coach while I was crying behind a curtain and said, ‘We wish we had known Johnny was going to skate that well, because we were pushing the two other Americans.' And that takes balls to say that." ウィアーは、フィギュア競技の採点で行われている、一種の「談合」についても言及している。It was political. In figure skating, there's this thing, there's a way that you can say, ‘Okay, if you help this skater, our skater, and promote him and push him to the top of the podium and help him get there, we will help yours.' There's a lot of that that goes on, and America likes to try and stay away from that issue, but everyone does it. I skated great, Evan skated great, we probably both should have been on the podium somewhere, but you know, the team official came to me and said, ‘We didn't know you were going to skate like that.' " この話は奇しくも、ソルトレイクでの「フランスとロシアの裏取引」が北米メディアで派手に取り沙汰されていたとき、フランスのキャンデロロが、「そんな程度の話なら、フィギュアではよくあること」と発言して物議をかもしたことを想起させる。こうした裏話をアメリカのスケートファン全員が知っているとも思えないのだが、にもかかわらず、ウィアー選手は五輪金メダリストのライザチェックをおさえて、2010年米SKATING誌の読者の選ぶ最高選手に選ばれた。http://web.icenetwork.com/news/article.jsp?ymd=20100721&content_id=12468362&vkey=ice_pressreleaseつまりアメリカのフィギュアファンは、自国のオリンピックチャンピオンではなく、メダルを逃した選手に2010年のトップスケーターの称号を与えたのだ。恣意性が(ジャッジと人間関係をもっている人間以外には)明らかな現行の採点に対する、ファンからの痛烈なメッセージだろう。ウィアー選手の「五輪談話」はMizumizuの――そして恐らく多くの熱心なフィギュアファンの――印象とも合致する話だ。オリンピックでのウィアー選手に対する、ぎょっとするような低得点。「完成度がモノを言う」と言いながら、いくら完成度を高めても点がもらえないウィアー選手。その理不尽に関しては、Mizumizuもエントリーにした(こちら)。個人的にはウィアー選手のプログラムは好みではない。ショートは特にアマチュア競技会にもってくる演技としては、セクシャルなアピールがどぎついからだ。それはキム選手に対しても同様の批判をした。フィギュア競技は伝統的に「品のよさ」を大切にしてきた。タラソワの作った浅田真央のショート「仮面舞踏会」は実に品がよかった。初舞踏会にデビューする若く美しい貴族の娘。そのイメージは浅田真央にも五輪という舞台にもまったくふさわしい。さらに去年の悲劇の仮面舞踏会とは同じ曲なのにガラリと雰囲気を変え、浅田真央の卓越した表現力を観客に「わからせようとした」。最初のうち前シーズンの「黒い貴婦人」のイメージを引きずって見ていたファンも、五輪シーズン後半には、咲きたてのバラのように瑞々しく可憐な浅田真央に、去年の黒の貴婦人の悲劇を忘れていたはずだ。こうした「品位ある表現」こそ、アマチュア競技に必要な価値観ではないだろうか。若い選手に娼婦や男娼の真似事をさせるのは好ましくない。しかし、そうした好みとプログラムの完成度は別の話だ。「完成度がモノを言う」などというのがお題目でしかなかったのは、ジョニー・ウィアー選手に対する五輪の採点を見れば明らかだ。強豪選手を多くかかえる国は、点をもらえる選手を絞らなくてはならないのだ。点が出る選手ははじめから決まっている。どうやって点を出し、どうやって点を抑えるのか? そのメソッドはもう確立しているのだ。ただ、最終的に出てくる点をあらかじめ操作することはできないから、個々のエレメンツやコンポーネンツでの点のつけ方が露骨になり、わけのわからない点差になってファンを驚かせる。エレメンツのGoEでは、出来が良くても加点をしなかったり、逆にたいして良くなくても気前よく加点をしたりする。あるいはミスがあっても他のプラス要素と相殺したことにして減点しなかったり、逆にちょっとしたミスでも「厳密」に減点したりするといったように。演技構成点の5つのコンポーネンツスコアでは、たいした差はなくても大きな差にしたり、逆にかなり差があるのにないことにしたりといったように。ビアンケッティ氏は、「10人のジャッジがいたら、10通りの説明があるだろう」と演技構成点の不明瞭さを批判した(こちら)。Luckily, the judges are humans, not machines. So some judges use a midpoint and range approach for giving PC marks, instead of a true absolute assessment. They have more good sense than the ISU; they use their brain and their heart. But this makes the judging system look foolish. If you asked ten judges what decision process they use to mark any PC, you would get ten different answers! 演技構成点について客観的な判定プロセスというのはなきに等しいのだ。要は個人の主観。それを何とか「客観的に」正当化しようと頭の悪い理屈を後からくっつけるから、一般のファンから呆れられるのだ。内部のご都合主義に従って、長いものに巻かれて自分のポジション確保に腐心し、身内だけで擁護し合う組織がどうなるか、日本の相撲協会もそうだが、ISUもその典型例になっている。アメリカだけではない。ヨーロッパでもフィギュアはさっぱり盛り上がらない。ビアンケッティ氏に言わせれば、「新採点システムになってから、フィギュアの人気はダウンヒル」。そんな状況のなかで、古参のジャッジはカタリナ・ヴィット時代を懐かしんでいる。バカな話だ。現行の意味不明採点の最大の被害者は間違いなく日本女子だ。重箱の隅をつつくように、小さな欠点を大きな減点にされ、ファンともども何度となくガッカリさせられている。だが、それでもフィギュア人気は落ちない。スター選手が頑張るからだ。ジャパンオープンに関して言えば、非常に低調な試合で、開催意義があるのかと疑問に思ったほどだった。採点には相変わらず胸が悪くなるし、これならばカーニバルオンアイスだけにしたほうが選手にとっても負担が少なく、ファンも2つ見て1日つぶすことなく、よいのではないか。メリットがあるとすれば、一度作ったアイスリンクを午後と夜の2度使えるという実務的かつ経済的なメリットだけではないだろうか。その日本でのフィギュア人気だが、いつまで続くのか、Mizumizuは懐疑的だ。採点に文句を言いながらも日本のファンは世界で一番熱心にフィギュアを見ている(だからますます採点の矛盾点が見えてくる)。だが、それも浅田真央が引退するまでだろう。もちろん、他にもスター選手はいるが、浅田真央の人気には比べられない。彼女ほどのスター性のあるカリスマがそうそう現れるとは思えない。それはMizumizuのような個人ブログのアクセス数でもハッキリ出ている。バンクーバー五輪のあと、高橋選手について書いたときもアクセス数はハネ上がったが、浅田選手について書くと、さらにさらにアクセス数は伸びた。理解不能の点数について追及しようとしない日本メディアや専門ライターの姿勢に不信感をもった一般人がネットに手がかりを求めているという部分もあるだろうが、なによりそれが浅田真央絡みだから、というのが大きい。実際には変な採点というのはフィギュアに限らず、どの競技でもあるだろう。だが、ことが浅田真央となると日本の多くのファンにとっては看過できない大問題になる。浅田真央はそれほどの逸材なのだ。一方のキム・ヨナ。ロスで史上最高得点を出そうが、ロスの名誉市民になろうが、はたまたクワンその他のスター選手を呼ぼうが、ショーは不入りでテレビの視聴率も取れない。いくら大本営が、「スペシャルな五輪女王」「何十年に一度の名選手(さすがにこれには笑ったが)」と持ち上げても、あの程度の実力しかない韓国人の彼女がアメリカで大スターになれるわけがないのだ。キム・ヨナのアイスショーは浅田真央の出演するショーに日にちを後からわざわざぶつけてくる傾向がある。今回のロスのショーも日本でのショーと会場の規模ではほとんど互角。ここで人を集めて、「キム・ヨナの人気は世界的(実際にはアメリカ=世界ではないが、アメリカで成功すれば「世界的」だと思いこむ人が多いのは日韓共通だ)」ということにしたかったのだろう。だから、大本営はショーの席があそこまでガラガラでも、テレビの視聴率が0.5パーセントと、同日のスポーツ番組の中で最低に近くても、「ロスのキム・ヨナのショーは成功」だと発表し続ける。ハクをつけるつもりで、どんどんメッキが剥げている状態であるにもかかわらず。今回のATスポーツ(キム・ヨナ事務所)主催のショーはもう1つ、「アジア系が中心」という特徴があったと思う。カナダからは中国系のチャン、中国からは申雪&趙宏博組が来た。アメリカでは韓国系と中国系は「アジア系アメリカ人」という1つのグループで共闘することも多い。<続く>
2010.10.17
キム・ヨナの個人事務所ATスポーツ主催のロスのアイスショー。日本でのジャパンオープンフィギュアとカーニバルオンアイスにぶつけるようなカタチで行われたショーだが、「ショーは成功」という韓国お得意の大本営発表とは裏腹な実情が明らかになってきている。これはネットで出回っている写真を拾ったものなのだが、2階席から上が見事なほどガラ空き。つまり、2階席以上(というか以下というか)の安いチケットを買って入った人も、下のリンクに近い席に移動させたということだろう。個人の意思でコッソリ移動したにしては、あまりに席がきれいに空きすぎている。このアイスショーは10月10日にNBCで放映されたが、Nielsen Ratingsによれば、視聴率は0.5パーセント。5パーセントではない。0.5パーセントだ。ちなみに本国韓国ではそれより前にテレビで放映されており、視聴率は3.8パーセントとこちらも振るわない(情報ソースはこちら)。ショーの会場となったロスのステイプルズセンター。最大収容人数は2万人。「あの」ロス世界選手権の開催地、つまりキム・ヨナの演技構成点が突然「発狂」し、さらにはその翌シーズンに続く「非常識銀河加点積み増し」採点の端緒を開いた場所だ。あのときMizumizuは、フィギュアの採点に「客観的な公平性を妨げる何らかの力」がいやおうなく巣食った現実をまざまざと見た気がした。それまでもトップの特に女子選手の点に関しては、資金提供元への配慮というのはあったと思う。つい先日、柔道の谷亮子に対する「代表選抜に絡む特別扱い」について言及する記事が出たが(こちら)、 「谷以外の選手では世間の注目やスポンサーの獲得数が段違いなので、(特別扱いも)やむを得なかった部分がありますが、今は違います。後進の飛躍に比べて、谷の技術的な衰えは明らか。これまでのような特別待遇は一切認められないはずです」(女子実業団チームコーチ)柔道のような勝敗がかなりの確率ではっきりするスポーツ競技ですら、代表選考にはこうした金銭的な思惑が入ってくる。人が採点する競技、しかもその結果がカネを生むとなれば、政治的・金銭的な思惑による人為操作はむしろ付き物だとも言えるだろう。たとえば、トリノオリンピックの日本女子代表選手の選考が、採点も含めて完全に公平で妥当だっだとは、今もMizumizuは思っていない。だが、同じことをやってるだけなのに、点だけが吊り上る。あれほど呆れ果てた露骨な「爆上げ」の悪印象は、おそらく一生忘れることはない。フィギュア競技大会の中でも「指折りの汚点」だ。世界中から非難を浴びたのはトリノの世界選手権だったが、あの常識はずれの点の出し方もその直接の始まりはロスにある(間接的にはもっと前から、女子への採点は歪んできていたのだが)。キム・ヨナの所属事務所主催アイスショーでは1万3000席を用意したという。にもかかわらず、現実の客の入りは写真が示すとおり。テレビに映りやすいアリーナ席だけぎゅうぎゅうにして、人気を「演出」しているところなど、ハタから見ていて虚しくなる。埼玉のスーパーアリーナでのJOとCOI、Mizumizuは両方見たのだが、天井に近い席まで、かなり万遍なく埋まっていた。むしろ気になったのは、リンクを間近に正面から眺められる、非常にいい席が数例固まって空いていたことだ。おそらく、スポンサーがらみの招待などのVIP席で、券をもらったものの来なかった人たちだろう。といっても数列だから、誰かを「移動」させるわけにもいかないだろうけれど、ちょっともったいない気もした。埼玉スーパーアリーナは、ロスのステイプルズセンターよりも収容人数が多いはずだ。出演したスケーターは、埼玉もロスもどちらも豪華だが、客の入りでは間違いなく埼玉に軍配が上がる。これは多少大げさに言えば、沸騰する日本でのフィギュア人気と、凋落するアメリカでのフィギュア人気を象徴しているようにも思う。もちろん、キム・ヨナが韓国大本営発表ほどの世界的人気を獲得していないことの証左でもあるが、それはむしろ、韓国(および韓国メディアの出張所と化した一部の日本メディア)の持ち上げ方が「妄想的」なだけだ。ショーの開催地はアメリカ。誰だって、基本的には自国の選手が好きだから、キム・ヨナがメインのショーでは、韓国系以外にはアピールしにくい。それを見越して「フィギュアの生きるレジェント(これも大本営発表だが)」ミシェル・クワンを同等の扱いとして表に出し、アメリカ国民にもアピールしたつもりなのだろうが、客の入りとテレビの視聴率を見ると興行として成功したとは言い難い。フィギュアというのはもともとオリンピック前後の1年が稼ぎどきなのだ。オリンピックで知名度を上げてアイスショーで集客する。オリンピックしか見ない究極のニワカファンも多いし、そうした超ニワカも五輪の演技に感銘するとショーに足を運ぼうかという気分になる。だがそれも1年もたてば忘れてしまうから、オリンピック後のアイスショーがメダリストにとっては、最も「旬」だということになる。その旬のアイスショー、五輪女王キム・ヨナと世界選手権を5度も制したミシェル・クワンが出演し、しかもジョニー・ウィアーやステファン・ランビエールというアメリカとヨーロッパを代表する2大美男スケーター(??)も出ているというのに、この結果とは。もともとアメリカでのフィギュア人気凋落は、誰の目にも明らかだった。ショーに人が入らなくなっている、フィギュアの競技大会の視聴率は悪い。かつてフィギュアの最大「消費国」はアメリカだった。大小さまざまなショーが各地で開催され、その裾野は広く、日本で言えば地方の体育館レベルのアイスリンクでもショーがあって、世界的に有名なスケーターもツアーに参加していた。DVDが浸透する以前、日本ではフィギュア関係のビデオなど発売されることはなかったが、アメリカではオリンピックのフィギュアのドキュメンタリービデオは必ず店頭に並んだし、ショーのビデオも出回っていた。そのアメリカでバンクーバーオリンピックシーズンを前にして、グランプリシリーズの全放映権を買うテレビ局がないという事態が起こった。外国でやるフィギュアの国際大会など、アメリカ人は見ないということだろう。するとそれに立腹したISUがグランプリシリーズのアメリカ大会を財政的に支援しないなどと言い出し、アメリカスケート連盟を困惑させた。自国開催以外の大会も含む全グランプリシリーズの放映権をアメリカのテレビ局に売るなど、アメリカスケ連にとっては、「ISUが責任を負うべき問題」。それを口実に「我々を罰するというのは間違っている」――これがアメリカのスケート連盟の主張だった。アメリカでのフィギュア人気の低迷、その直接かつ最大の原因はスター選手の不在だろう。特に女子シングル。伝統的にフィギュアでは女子シングル選手の人気が最もインパクトが強く、集客力もある。その女子シングルで、アメリカは伝統的に非常に強く、しかも層が厚かった。たとえばクリスティ・ヤマグチは五輪女王であり世界選手権を2連覇したが、全米では1度しか勝っていない。アメリカからここ数年、世界女王を争える選手が出なくなった理由。その一因に、アメリカのスケート連盟が強化すべき選手を見誤っていることがあるように思う。アメリカは特に五輪シーズンになると台頭してくるアジア系女子をなるたけ抑え、白人を押そうという傾向を顕著にする。プレ五輪シーズンにアリッサ・シズニーが全米女王になったとき、「彼女ではキム・ヨナや浅田真央には対抗できないのでは」と疑問を呈したのは、むしろメディアのほうだった。今の採点は、技術審判の判定(一番大きいのはダウングレード判定だが、レベル認定やエッジ違反を選手によって甘くしたり辛くしたりすることはできるし、実際にやっているとしか思えない)と演技審判のGoE評価および演技構成点でいくらでも操作ができてしまうから、どういう選手を強くするかは意図的にコントロールできる。アメリカのスケ連は、平板なアジア顔の才能ある選手より、典型的な白人美人のシズニー選手を強くすることで、アメリカ国民に広くアピールするスター選手を作りたかったのかもしれない。そうして五輪に向けてアメリカはシズニー選手(とフラット選手)を最重要強化選手と位置づけた。だが、シズニー選手はもともとフリーに極端に弱く、後半派手に自滅する。その傾向はどれほど脇からサポートしても変わらなかった。そこが彼女の限界なのだ。そんなことはわかりそうな話だが、ジャンプミスを極力出さない構成にし、シズニー選手の持っている別の要素の素晴らしさを過大に評価すれば、全米女王にまで押し上げることが可能なのが今の採点システムだ。バンクーバー五輪の直前の全米では、会場で見ていたスコット・ハミルトン(および日本の解説者)も驚くような厳しいダウングレード判定が長洲未来選手に対して行われ、大方の印象とは違ってフラット選手が全米女王になった。やはりアメリカはフラット選手を「押したかった」のだろう。だが、本当のところ、才能があるのは長洲未来選手のほうだ。それについてはビアンケッティ氏も言っている。「世界女王になるための素質を全部備えた選手」だと。問題は怪我がちなこと。難度の高いジャンプを跳びながら、ほとんど大きな怪我に見舞われたことのない浅田選手とはその点で、「神様からの愛され方」が違うように思う。<続く>
2010.10.15
NHKの朝の連続テレビ小説というのは、これまで見たことがなかった。「ゲゲゲの女房」が初めて。このドラマは、Mizumizuのように従来の「NHK朝連」にまったく興味のなかった人々の関心を引いたと思う。Mizumizuがことに気に入ったのは、ヒロインが職業や特別な才能といった「強い色」をもたないがゆえに、周囲の「働く人々」(あまりまっとうに働く気のない人も含めて)の意思や生きざまがうまく描けていたことだ。水木しげるが実際にかかわった人たちをモデルにしていることもあり、みな実に個性的。昭和の日本人が没個性などと、誰が言ったのだろう。むしろ今の日本のほうが、画一的な「へのへのもへじ人間」しかいなくなったのではないか。「ゲゲゲの鬼太郎」と「♪から~んころ~ん、からんころんからん」というあの歌を知らない日本人は恐らくいないと思うのだが、Mizumizuはもっぱらアニメで見ていたほうで、水木漫画は読んだことはなかった。ドラマで印象的だったのは、貧乏時代の水木しげるの生活。ちょうどそこのころの作品である「墓場鬼太郎」が杉並区の図書館には収蔵されている。「ゲゲゲ」になる前の鬼太郎がどんななのか、興味を引かれて借りてみた。で・・・いやあ、かなり驚きました、ハイ。「ゲゲゲ」と「墓場」は相当違うというのはなんとなく聞いていたのだが、墓場鬼太郎は、本当に邪悪な顔をしている。 コレ↓およそ妖怪「ヒーロー」のイメージとは程遠い。読んで字の如し、「墓場から来ただろう」というムード満載の顔なのだ。この場面、何をしているかというと、鬼太郎が蝋燭を食べている。それを見た目玉親父が・・・この会話になんともいえないユーモア、おかしみがあるから、蝋燭にがっついていた鬼太郎が妙に可愛く見える。この「おかしみ」が墓場鬼太郎の特長で、それがまた実に日本的なのだ。たとえば、時の総理に呼ばれて、鬼太郎が首相官邸にクルマで向かう場面があるのだが、そこで総理の使者が、鬼太郎の髪から出ている目玉おやじに気づき、「おつむに変なものが・・・」と言う。それに対して、「これはぼくの父親です」と鬼太郎が答えると、使者は、「はあ?」とまったく理解できないのに、「おみそれしました」と目をそらしてしまう。よくわからないものは見て見ないフリをしよう・・・日本人の事なかれ主義的行動パターン――あるいはそれは、相手の気分を害さずにその場をやりすごすための、ある種のやさしさかもしれないが――がよく出ていて、思わず笑ってしまうのだ。墓場鬼太郎は人間の味方ではない。人間とはまったく違う世界に棲んでいる。だから、「人間って非情なんですね」と気づくと、その非情さに対しては迷うことなく復讐する。人間を助けることもあるが、それはほとんど鬼太郎自身の行動原理に沿った「結果」に過ぎない。アニメの鬼太郎は、どんどんカッコいいヒーローになっていってしまった感がある。それはちょうど、古今東西に残るおとぎ話が、オリジナルは非常に残酷なのに、「子どもには残酷すぎるから教育上よくない」という配慮で変えられていったさまを見るようでもある。だが、現実には残酷で不条理な物語を子どもの目から遠ざけようとすればするほど、境界線をあっけなく越えて、大人を驚かせるような残酷な行為をやってのけてしまう子どもが増えた。人間の想像力のもつ残酷さを、幼い感性から遠ざけることが果たしてよかったのか、これからもそうしたほうがよいのか。考えさせられる問題だ。ブリューゲルのエントリーで、このヨーロッパ中世末期の巨匠と日本の漫画家の類似点について指摘したが、やはりと思わせる場面が「墓場鬼太郎」にあった。これは、押し入れから不可思議な世界に迷い込んでしまった人間が見る建造物。ブリューゲルの「バベルの塔」↓に相当似ている。雲にも届く高さを獲得する一方で、このバベルの塔は土台のほうが崩れてきている。それでも上へ上へと工事を続ける人間。ブリューゲルはこのバベルの塔に、ローマのコロッセオの面影を反映させている。400年前にローマのコロッセオを見てバベルの塔を連想した画家がいる。そのバベルの塔を見て「何か」を受け取った漫画家が日本にいたとしても不思議ではない。もう1つ、「墓場鬼太郎」を読んで気づいたこと。それはこの漫画のもつ不条理な世界観には、水木しげるの戦争体験が色濃く反映されているということだ。これは砂地獄に落ちたねずみ男の台詞。ねずみ男の裸体(笑)は、飢餓そのものを象徴しているように思う。ガリガリの手足。浮き出たあばら骨。それでいて下腹は少し出ている。半分砂に埋もれた骸骨を見て、「間もなくあんなふうになるのだ・・・」という諦念にも似た台詞、奇妙な静けさ。Mizumizuにはこれは戦場の兵士の飢えと絶望の果ての独白に見える。鬼太郎もねずみ男も、とにかく飢えている。そして物価が上がった、先行きが見えないと言って、政治家を批判しているのだ。今と同じではないか!我が家には「悪魔くん」があるのだが、水木しげる自身のあとがきに興味深いことが書かれている。桜井昌一氏(「ゲゲゲの女房」では戌井慎二)にインスピレーションを得たという「メガネをかけた出っ歯のサラリーマン」について。僕は、このキャラクターにこそ、働いても働いても落伍していく善良な現代人という感じがよく現れている(原文ママ)と思う。働いても働いても落伍していく善良な現代人――これは、昨今言われているワーキングプアを別表現ではないだろうか? してみると、一億総中流と言われた日本の一時代のほうが、高度成長時代が見せたほんの刹那の幻で、日本人というのは結局、ずっとこの問題をかかえてきたのではないだろうか。「一億総中流」意識こそがユートピア的幻想であって、今の状況のほうが、実は普遍的なのかもしれない。実際、水木しげるは当時の困窮ぶりについてこんなふうに書いている。長年の貧乏は、あの半死半生の目にあった戦争より苦しいほどで、一山百円の腐ったバナナを買って食うのが無上の楽しみという、人には話せないような思いをさせる貧乏を、せめてマンガの中だけでも、魔法の力によって撃破できたらと、ペンを握る手にも思わず力が入るほどの意気込みだった。「一山百円の腐ったバナナを買って食うのが無上の楽しみ」という貧しさは、今の貧困層の生活よりさらに深刻にも思える。もちろん、もっと困窮している人もいるのかもしれないが。状況は深刻であるにもかかわらず、今の貧困層、とりわけワーキングプアと呼ばれている人たちの多くが抱える問題点が水木しげるには見えない。今のワーキングプアの最大の問題点は、自分に力で生き、道を切り拓いていこうとする意欲の低下のようにMizumizuには見えるのだ。何度か挫折を体験すると、打ちひしがれ、立ち上がる気力をなくしていく。それでも自分の器以上の無理を重ねると、今度は身体的あるいは精神的に病み、最悪の場合は自殺。そこまで行かなくても、生活できずに社会保障に頼ることになる。いったんそこに陥ると、なまじっか働くより生活保護を受けたほうが「豊か」でいられるために、ますます生活再建が難しくなる。若くても働けない理由は、いくらでも作り出せる。生活が厳しく、仕事も見つからないとなれば、不安になる。不安になればうつ状態になる。自分の責任でかなり改善できるものがあることに目をつぶり、社会の仕組みや世間の無理解を糾弾すれば、そこに自分の存在価値を見出すことができる。今はネットがあるから、ネットで遊んでいれば、時間はすぐすぎるし、匿名の世界で外の広い世界とつながったような錯覚を覚えるのは容易だろう。そうやって個人がリアルな世界で生き抜く力がどんどん失われ、それでもなんとなく何とかなるものだから、(長い貧乏時代を過ごしていた)水木しげるが持っていたような「意気込み」を持つ人が消えていく。不思議とこの状況は、「大きな夢を持つこと」が主にメディアを通じて奨励されるようになってから、ますますひどくなったように見える。いい年になって、それまで何の実績も上げられていないのに、そして日常的な努力もしないのに、それでも空しくも壮大な夢を「諦めず」にいる人が多い一方で、普通に自力で生活していくことさえままらない人間が増えている。自力で生きて生きていけないから、当然誰かを支えることもできない。いつまでも誰かからの理解と応援を求めている。「夢を諦めるな」というきれいな励ましが含む偽善に、Mizumizuは最近かなりウンザリしている。「意気込み」のほかに、現在のむなしき夢追い人にはなくて、貧乏時代の水木しげるにはあったものがある。それこそ、作品にも漂っているユーモア、おかしみ、どんなどん底でも自分を客観的に見て、笑うことのできる精神だ。桜井氏の勧めで「悪魔くん」を描き、桜井氏の会社から出版したもののさっぱり人気が出ずに、連載が途中で頓挫したときのこと。東考社(桜井氏の会社)も桜井氏も非常に良心的な出版社だったし、いうところのない人物だったのだが、貧乏神にとりつかれている点が最大の玉にキズだった。その貧乏神を追い出す悪魔くんのはずだったが、うまくいかなかった。貧乏神にとりつかれている点が最大の玉にキズ――この文章にも、なんとも言えない「おかしみ」がある。そうか、悪魔くんよりパワーのある神様のせいじゃ、仕方ないよね・・・そう2人の肩を叩きたくなる。先行きが不安だと萎縮してばかりいる、実はかなり豊かな日本人は、失うものが多くて恐れているのかもしれない。持っていないのがもともとなのだと考えれば気持ちもラクになる。自力でなんとかできなかったことを、すべて自己責任にして自分をどこまでも責めたり、あるいは世間や社会に責任転嫁して鬱憤をたぎらせたりするのではなく、多くを望まずに、「ま、これも神様の思し召しだから」と笑って流すのも、生きにくい時代を生き抜く知恵なのかもしれない。ストーリーを追う楽しさ以外に、こんなにも多くのことを考えさせてくれる漫画家。水木しげるの雑草のような逞しい精神こそ、今の日本人が取り戻そうとしているものなのかもしれない。
2010.10.06
全6件 (6件中 1-6件目)
1