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センターポジションに置かれなくても、ダイアモンドのような輝きを放ち、観る者の目を釘付けにしてしまうジュード・ロウ。その魅力がもっとも冴え渡った作品はやはり、アンソニー・ミンゲラ脚本・監督の『リプリー』ではないかと思う。『リプリー』はルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』のリメイクだと紹介されているが、違うと思う。もっと言えば、『太陽がいっぱい』も『リプリー』も、原作の『The Talented Mr. Ripley(才能あるリプリー氏)』を下敷きにしてはいても、それぞれ相当の脚色がなされている。まずは基本的な人物設定からして違う。『太陽がいっぱい』も『リプリー』も、主人公のトム・リプリーとディッキー・グリーンリーフの容姿は似ても似つかない。だが小説での2人の容貌は、「よく似ている」ことになっている。『The Talented Mr. Ripley』でトムがディッキーを殺して彼になりすまそうと考えるのは、2人の背格好が同じだったということも大きく影響しているのだ。『太陽がいっぱい』では、アラン・ドロンが主人公のトムを演じた。まさに水もしたたるいい男。『リプリー』のトムはマット・デイモン。初めてジュード・ロウ演じるディッキーとビーチで顔を合わすシーンなど、生っ白い肌に黄色いデカパンがア然とするほどダサい。『太陽がいっぱい』では主人公のトムが美貌の青年だったが、『リプリー』では美形はディッキーのほう。『リプリー』のトムは、そのディッキーに屈折した激しい恋情を抱く。『太陽がいっぱい』でもっとも魅力的なシーンの1つは、トムがマージを誘惑する場面だろう。アラン・ドロンの悪魔的な美貌を際立たせるカメラアングルといい、哀愁をおびた音楽の盛り上がりといい、監督のルネ・クレマンはここを最高の見せ場の1つとして描いているが、実はこれも『太陽がいっぱい』のオリジナル。小説はそんな筋書きにはなっていないのだ。一方、『リプリー』で青春の残酷さと美しさを担うのは、ロウ演じるディッキー。たとえば、コレ↓南イタリアの海が見える部屋で、サックスを吹くディッキー。窓の下の青い海を小船がゆっくり通り過ぎて行くのが見える。この絵画的な哀愁をおびたシーンは、ちょっかいを出した女の子が妊娠したうえに自殺をしてしまったあとに来る。このエピソードも小説にはない、『リプリー』のオリジナルなのだ。そして、マージとディッキーの関係。『リプリー』ではマージとディッキーはステディな関係であり、そこにトムが割り込んでくるカタチになっている。ところが小説は必ずしもそうではない。『The Talented Mr. Ripley』はトムの視線で語られるストーリーになっているのだが、トムの目を通して見たマージとディッキーは最初、それほど近しいものではない。トムとディッキーが急速に親しくなり、一緒に旅などして「やや特殊な関係」になってきたとたん、ディッキーがトムによそよそしい態度を取り始め、それまで大して関心のなかった(とトムには見えた)マージに接近していく。小説では、それをディッキーの裏切りと感じたトムが殺意を募らせるという筋書きになっている。『リプリー』では、トムがディッキーに抱く憧れと欲望がないまぜになった激しい感情は、これでもかというくらい露わに描かれているが、ディッキーには一見、そのケはないようにも見える。ところが小説ではそうではない。ディッキーは明らかに、「ボーダーラインをうろうろしている」セクシャリティの持ち主なのだ。彼はトムとの距離が縮まってくると急に警戒し始め、「自分はゲイじゃない」とトムにわざわざ宣言し(←まるで『ブロークバックマウンテン』のイニス)、ビーチでアクロバット芸を見せている「明らかにゲイの」軽業師に露骨な嫌悪感を示す。そして、マージという女性の性格づけ。小説でトムの目を通して描かれるマージは、相当嫌な女だ。トムのことも嫌っていて、ディッキーへの手紙に「彼は何の取り柄もない人」「ゲイではないかもしれないけど、ゲイ以下」「なんらかの性生活が送れるほどノーマルな人ではない」「彼と一緒にいるとき、あなたはなんだか恥ずかしそう」(河出文庫『リプリー』パトリシア・ハイスミス、佐宗鈴夫訳より)とクソミソに書いている。事実、小説のトムは、マージが手紙に書いたとおりの人間なのだが。だが、ミンゲラの作り上げたマージ像は、小説とは違って、非常に魅力的だ。神秘的ですらある。『リプリー』のマージは女性的な優しさと寛容さを併せ持ち、トムに対しても穏やかに、好意的に接する。ミンゲラ+ロウの最後のコラボレーションになった『こわれゆく世界の中で』のリヴにも共通したムードがある。北欧的な美貌といい、ミンゲラの理想の女性像なのかもしれない。『コールドマウンテン』のヒロインも同じ線上にいる女性だろう。『リプリー』のマージは、ディッキーがトムに「飽きて」、邪険にし始めると、「彼っていつもそうなの」とトムをなぐさめたりする。マージはこれまでディッキーにトムと同じように扱われた男友達の名前を挙げる。ディッキーが積極的に友達になろうとするのは、いつも…マージは女性特有の勘で、ディッキー自身ですら気づかずにいる、彼のある種の嗜好に気づいている。このとき、マージが挙げたディッキーの男友達の中に、『リプリー』の後半でトムと重要なかかわりをもってくるピーターの名があるのだ。『リプリー』ではディッキー亡き後、トムとピーターが「ほとんど一線を越えそうな」関係にまで発展するが、小説ではそんなエピソードはない。わずかに、トムがピーターに対して、ディッキーとの間に流れたような微妙な空気を感じて羞恥心を覚えるだけだ。ピーターとのかなり突っ込んだエピソードは、映画『リプリー』のオリジナルなのだ。『リプリー』の中で重要な意味をもつのは、浴室のシーン。そして、もちろん、ジュード・ロウの十八番のキラー目線。余談だが、トムがディッキーから、「別れよう」と言われるのは、ナポリにあるガレリアを出たところだ。ガレリアの階段を降りて、「サン・レモでさよならだ。それがぼくらの最後の旅」とディッキーがトムに告げる。Mizumizuは同じ場所で、道行く人に愛想を振りまいている捨て犬を見た(詳しくは、2007年10月28日のエピソードを参照)。『リプリー』を観たのはその後なので、捨てられつつあるトムの姿が、捨てられた犬のイメージに重なって、胸が痛んだ。小説でのディッキー殺しが、ある程度計画的に行われるのに対して、『リプリー』の殺人は突発的なアクシデントだ。サン・レモでボートを借り、海上に出たところで、トムとディッキーが言い合いになる。「マージと結婚する」と言うディッキーに対して、トムが並べ立てる台詞は、「一見」あまりに一方的で、思い込みの激しいストーカーのよう。「マージのことなんか、愛してないくせに」「きのうは別の女の子を口説いていただろ」「浴室でチェスをしたあの夜、君も特別なものを感じたはずだ」「ぼくは自分に正直なのに、君はそうじゃない」… あげくに、こんなことまで言い出す。そして、「君は一体何がやりたいんだ」とトムに言われると、ディッキーが激昂し、2人は取っ組み合いになる。このときにディッキーが見せた常軌を逸した暴力性が、結局はディッキーの命を奪う結果になるのだ。映画はこのあと、完全犯罪にすべく奔走するトムの姿を描き、サスペンス映画としての面白さを十分に堪能させてくれる。フレディ殺しにまつわるエピソードに関しては、『太陽がいっぱい』のリメイクと言ってもいいかもしれない。だが、結末は『太陽がいっぱい』とはまったく違っている。『リプリー』では、物語の終盤になって、意外なディッキーの過去がトムに明かされる。アメリカにいた大学時代、ディッキーは「女のことで」男友達とケンカになり、相手が障害者になるほどの大怪我を負わせていたのだ。それゆえに、ディッキーの父親は、息子が「また」同じような経緯から、友人のフレディを殺してしまい、自殺したと簡単に信じ込む。だが、マージだけは、ディッキーはトムに殺されたのだと確信していく。周囲はディッキーの過去をマージには伏せている。ゆえに、こう思う。「マージは本当のディッキーを知らない。だからトムが犯人だと誤解しているんだ」と。一方で観客は、真実を見抜いたのはマージだけだということを知っている。ここに、不思議なパラドックスが生まれる。ディッキーは一点の曇りもない、太陽のような男だった。少なくとも、この過去が明かされるまでは、そう見えた。過去に友人を半死の目に遭わせたなど、そぶりにも見せなかった。トムはディッキーに「自分は大学時代の知り合い」だと偽って接近する。そのトムに対しても、自分の引き起こした不祥事について知っているのか、どう思っているのかなど、探りを入れることさえしなかった。トムがディッキーの筆跡占いをして、「誰にも言えない秘密を抱えている」と言ったときも、まるでピンときていない様子で、「本人にもわからないなんて、たいそうな秘密だな」などとごくごく自然に答えている。だが、ディッキーには、大きな秘密があったのだ。アメリカにどうしても帰りたくないわけも。ヨーロッパにとどまることで、ディッキーは自分の過去から逃げていた。そして、トムとディッキーがボートの上で殺し合いになってしまうケンカを始めたのは? やはり、マージという女性をめぐってのことだった。トムのような男友達を、ディッキーは作っては捨てていた。妊娠して自殺したイタリア人の女性はファウストというディッキーの男友達の婚約者だった。だとしたら、アメリカで起こった事件も、同じような経緯で生じたのではなかったのか? 「本当の自分から逃げ、やりたいことをやらないまま、たいしてやりたくもないことには次々に手を出す」――こういう自分の本質に触れられると、ディッキーは理性を失うほど怒り狂うのではないか?だからもしかしたら、サン・レモの海の上でトムがディッキーに言った台詞は、すべてがトムの一方的な思い込みではなく、ディッキーの真実、あるいは真実の一部だったのかもしれない。ディッキーの心の奥深くに隠されたセクシャリティをうかがわせるのが、ディッキーの死後、トムに積極的に近づいてくるピーターの存在だ。もともとピーターはディッキーの男友達。映画ではつまびらかにされないが、マージの台詞から、トムと同じような立場だったことが暗示されている。トムとピーターは、ディッキーを通してつながるのだ。ディッキーという太陽が隠れたあと、2人は隠花植物のようにひっそりと愛を育もうとする。だが、ピーターは薄々、トムの心に「消せない誰か」がいることに気づいている。サスペンス映画としてのテンポの良さや、ハラハラする展開の面白さで観客を惹きつける一方で、ジュード・ロウというたぐいまれなダイアモンドをディッキー役に配することで、原作者のハイスミスが追究した「隠されたセクシャリティ」というテーマを別の手法で織り込んだ、なかなかに深い作品。のちにハリウッド映画界を代表することになる名優が、こぞって参加しているのも頷ける。
2009.05.05
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<きのうから続く>黒髪君(アシルト)を失ったブロンド君(エンコルピオ)は、元詩人で今は大富豪の出す船に乗せてもらおうと海へやってくる。ところが彼はすでに死に、「遺産が欲しくば、私の死肉を食え」と遺言を残していた。「カネが入れば、あとからうまいものがたらくふ食えるから…」と、遺産を目当てに人肉を食らう人々。そんな中、初対面のブロンド君に「一緒に船に乗るかい?」と誘う青年。知的で物静かな雰囲気の、ギリシア彫刻風に整った顔立ち。彼に見つめられてなぜか…ブロンド君、微妙に恥らってる?(キミ、つくづく守備範囲広すぎ)顔のアップも、ワンカットワンカット工夫しているのにご注目。背景にまったく何もないショットの次には、カメラの絞りを開け、後ろに船の一部をぼかして入れて周囲との距離感を出したショットが来る。どの角度から撮った顔を、横長の画面のどの位置にどう入れるか、1つ1つ工夫している。「Si(=Yes)」と答えるブロンド君に、ギリシア彫刻君が言う台詞、それは奇しくも黒髪君の最後の台詞と同じ、「Andiamo(=Let's go)」だった。(なぜか、このAndiamoという台詞には字幕がついていない)。いいカンジに見つめ合って、並んで船へ向かう2人。ここから先は、海上に浮かんだ島が映り、ブロンド君のナレーションになる。「その夜、私は彼らと船出した……初めて聞くケリシャやレクティス。香草の香る島でギリシアの若者が昔話を…」ここでいきなりナレーションが途切れる。そしてブロンド君のアップが映り、それが壁画の絵に変わっていく。音楽はニーノ・ロータ。だが、音楽といえるほどの音楽はほとんどない。盲目の吟遊詩人がつまびくような、シンプルな――聞きようによってはたどたどしい――竪琴の弦の音が風の中から聞えてくる。風の音はどんどん強くなる。弦の音をかき消すほどに。カメラが引いていき、観客が目にするのは…壁画の中の人物となった登場人物たち。ブロンド君、黒髪君、2人が争った少年、暴将リーカ、自殺した善き貴族もいる――こうしてギリシアの若者から昔話を聞いたブロンド君自身が、昔話で語られる存在となったところで、フェリーニの『サテリコン』は終わる。物語の冒頭で、壁画の残る壁に向かって、「大地も嵐の海も俺をのみこめなかった」と叫んでいた若者の強烈な自意識。それから、怒りがあり、諍いがあり、失恋があり、享楽があり、快楽があり、危険があり、戦いがあり、悪巧みがあり、どんでん返しがあり、挫折があり、奇跡があり、永遠の別れがあり、新しい出会いがあり、そして遠い未知なる世界への出立があった。これはある意味、あらゆる少年が憧れ、夢みる壮大な冒険の旅そのものだ。誰かを愛し――キリスト教の狭い道徳観に縛られない愛は自由で奔放だ――誰かに愛されたとしても、ある日、心を痛めてその人と別れることになる。だがそのあと、また別の誰の人と出会って、さらに遠い、もっと広い海へと船出するのだ。そして、すべてをのみこんで時が流れる。最後には誰も彼も、切れ切れの弦の旋律の混ざる、強い風の音の向こうに消えてしまった。<終わり。明日からフィギュア・スケート、中国大会についてです>
2008.11.06
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2008.4.22 日暮里のびぶらアート劇場でバリトン歌手青戸知(あおと・さとる)の独演コンサートに行った。わずか100席の小さなコンサートだが、質的には世界最高峰だったと言っていいかもしれない。青戸知の美声に驚いたのは、先日もエントリーにのせた2002年の新国立劇場での『サロメ』だった。ちょうどチューリッヒ歌劇場で『トスカ』聴いたあとで、オケの実力差はまざまざと感じざるをえなかったのだが、歌手に関して言えば、チューリッヒではルッジェーロ・ライモンディだけが突出していて、他はどうということはなく、新国立劇場の歌手の実力は決してチューリッヒにひけをとるものではなかった。中でも青戸演じるヨハナーンは、「ヨハナーンがこんなにリリカルで若々しく、健康的でいいのかい?」と戸惑うくらい、つまりちょっと違和感あるくらい、暗さのない伸びやかな美声を響かせていた。役に合っているいないかは評価が分かれるところだろうが、個人的にはたいそう気に入ってしまった。ヨハナーンの定番イメージをくつがえすに足る声、それもとびきりに美しい声だった。それからしばらくたって、偶然NHKの『名曲アルバム』で、信じられないくらい甘美で若々しく、希望にさえ満ちているような"Gute Nacht"が流れてくるのが耳に入った。Gute Nachtは言わずと知れたシューベルトの『冬の旅』の一曲。女性に振られた男性が彼女の住む家のドアの前でひそかに別れを告げて去っていく歌だ。こんな声の持ち主は、あのヨハナーンしかないのではないか。そう思ってみたら、案の定だった。NHKの人材を見る眼には感服する。誰が選んでるんだろう。マーラーで知られる青戸に、シューベルトのこの"Gute Nacht"を歌わせるなんて、あまりにツボでびっくりしてしまった。おそらく『冬の旅』の中でもっとも青戸に合っているのが"Gute Nacht"だろう。しかもそのおかげで、青戸版『冬の旅』全曲も聴いてみたくなってしまった!シューベルトの『冬の旅』は、日本では『菩提樹』の格調高く重々しい名訳のイメージがあまりに強く、ジジイが自分の人生を振り返ってる歌だと誤解されている。まったく違うのだ。『冬の旅』はマイスターを目指す若者のさすらいの旅の歌であり、精神的には挫折感と絶望感に悩みながらも、肉体的には死に拒否されている生命力が裏にある。日本ではジジイの曲になってしまった『菩提樹』も、早いところ木々のささやく「安らぎ(つまりはラクな人生)」に背を向けて、風に向かって進もうとする若者の意思的な歌に戻して欲しい。"Gute Nacht"も沈鬱な歌唱、もしくは繊細な歌唱が多いが、青戸の歌唱はまったく異色だった。彼の声には希望と意思の力がある。声の張りと伸びやかさが、従来の失恋の歌のイメージをくつがえす。バリトン歌手としては珍しい明るさ、それが青戸の天性の魅力なのだ。この天性の明るさをもった声で、屈折したキャラクターを演じると、そこに不思議な齟齬が生まれる。評価しない人もいるとは思う。だが、陰りのある性格を極限まで陰に演じることだけが、オペラの役づくりではない気がする。青戸の声のもつ純粋さが、屈折した、あるいは倒錯した役に、他の歌手では出せない奇妙な味を与えているように思うのだ。今回のコンサートで歌ったフィリップ・グラスのアリアもそんな系譜に位置づけられる歌唱だと思った。つまり、普通の人が屈折だとか倒錯だとか思う性格も、本人にとっては生来であり、その意味では純粋なのかもしれない。常軌を逸した理屈を切々と訴えるPlease listen to me。これを聴くと、悪魔も善い行いができないという意味で、純粋な性格なのかもしれない、そんな解釈があってもいいのではないかと思った。狂気の世界、倒錯した世界を青戸のひたすら明るく伸びやかな声で押しすすめたら、ぞっとするような新境地が拓かれるかもしれない。今回のコンサートにはプレトークがあり、それがとても興味深かった。当初、青戸はグラスのこのアリアがなかなか歌えなかったという。まるで氷の上をすべっていくように、リズムが自分から離れていってしまう。そんな試行錯誤のなかで、青戸はグラスの旋律がどこかで自分が体験してきた音楽に似ているということに気づく。それは得意のマーラーの「大地の歌」だった。そこで「大地の歌」を先に練習し、それからグラスの歌曲に入ったところ、自然に歌えるようになったという。さらに、グラスについてのドキュメンタリーを見て、グラスが独学で作曲を学んでいたとき、マーラーのシンフォニーをひたすら写譜していたことを知ったという。「大地の歌」は中国の漢詩をもとにしているが、グラスも東洋に興味があり、インド音楽、特にシタールの音色を自らの音楽に取り入れている。グラスとマーラーはそんなふうにつながっていたのだ。ちょうどヴィスコンティとコクトーのつながりについてブログで書いているところので、奇妙な符合にちょっと慄然となった。今回のコンサートでは、そんなグラスのアリアを歌ったあと、青戸の真骨頂であるグスタフ・マーラーの『さすらう若人の歌』が来た。「他に比肩するものがない」と絶賛されているというだけあって圧倒的に素晴らしい。今回のコンサートで一番感動したのは、「燃えるような短剣を持って」のひたすら男性的な歌唱。う~、もう一度聴きたい!! いや、何度でも聴きたい!!!しかし、こんなに凄い歌手のCDが一枚もないとは…… ホームページもないのでコンサート情報や出演オペラを調べるのにえらく苦労する。一般人はなぜかテノールばかりに夢中になる。CDにしろ、コンサートにしろ、オペラの「歌手」として人気があるのはテノールばかり。本当のオペラの屋台骨はバリトン歌手なのに。青戸の現在の魅力は、バリトンの大御所のような重々しさではなく、若さと明るさにあると思う。ライモンディのような悪魔的な魅力でもなく、クルト・モルのような深遠なる重厚さでもないが、デビュー10年の今の青戸知にしかないエネルギッシュな魅力。こうした個性は年齢とともに変わっていく。他の魅力が加わるにせよ、今の青戸の「常に希望と若々しい意思を感じさせる」歌唱は失われるかもしれない。だがら、ぜひとも今の青戸の歌唱をCDで残してほしいと思う。青戸は今回、マーラーの音楽についても解説してくれた。あまりにおもしろいので、勝手に(苦笑)簡単にご紹介。マーラーの音楽の特徴の1つに、「やわらかいリズム」があると青戸はいう。なぜマーラーを聴いて「やわらかい」印象を受けるのか? それはマーラーの音楽には、大きく分けて3つの「仕掛け」があるからだ。(1)アルペジオ(2)フェルマータ(特に小節と小節の間の)(3)トリルアルペジオは、擬音であらわすと「バーン」という音を、「ジャララララーン」と変化させる。フェルマータは音楽の流れに一瞬の「間」を生じさせる。トリルはすっきりした旋律を、いわば「ぐじゃぐじゃ」に変形させる。この3つの「仕掛け」がマーラーの音楽には綺羅星のごとく使われており、それらの効果でマーラーのリズムは「やわらかく」聴こえるのだという。そしておそらく(ここからはMizumizu理論)、青戸知という東洋に生まれたバリトン歌手の声のもつ伸びやかさとマーラーのリズムのもつやわらかさが、時を超えてピッタリと寄り添い、さすらう若人の歌=青戸知という幸福なコラボレーションになったのだろう。今回歌った『亡き子をしのぶ歌』については、青戸はずっと歌うのを避けていたという。これはマーラーが娘をなくしたときに作った曲で、2人の子供をもつ父親である自分にとっては、ある意味「縁起が悪い」からだ。だが、そんなジンクスめいたことにこだわるのは芸術家の姿勢とはしては好ましくないのではないかと思うようになり、いわば封印をといたのだという。個人的にはこの歌唱は、将来の青戸知にとっておいてもいいかな、という気がした。もちろん、悪い意味ではない。青戸の今の一番の魅力は、悲劇があってもそれを寄せ付けないような、みずみずしい生命力にあると思うからだ。こうした個性をもったバリトン歌手は、世界広しといえども、ほとんどお目にかかったことはない。東京が世界有数のオペラ消費都市であることは間違いないにしても、青戸知のような歌手が日本にだけ留まっているのは、世界のオペラファンのためにももったいないことのように思えてならない。マーラー研究の話はとてもおもしろかったが、やはり歌手は、青戸自身も舞台で言っていたように、「歌ってナンボ」なのだ。美しい声質は天からの贈り物だが、テクニックはもっと向上させることができるはず。それは地上での作業だ。ぜひ、ザルツブルクでも、バイロイトでも歌ってほしい。その日が来たら…… もちろん追っかけますとも! もちろん、パリ、ウィーン、チューリッヒ、ミラノ、パレルモ、どこでもOKだけれど。XXXXXコンサートの楽曲は以下のとおりXXXXグスタフ・マーラー 《亡き子をしのぶ歌》 1 今太陽は輝き昇る 2 今にして良くわかる、なぜそんなに暗いまなざしか 3 おまえのお母さんが 4 よく思う、あの子たちは、ちょっと出かけているのだと 5 こんな嵐の日にはフィリップ・グラスオペラ「流刑地にて」からアリア Please listen to meグスタフ・マーラー《さすらう若人の歌》1 恋人の婚礼の日に2 朝の野辺を歩けば3 燃えるような短剣を持って4 二つの青いひとみ アンコールシューベルト An die Musik
2008.04.23
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ニースにはいくつか美術館があるが、なかでも行く価値大なのが、マチス美術館とシャガール美術館。行き方はマセナ広場の北から東にのびるGioffredo通りから15番あるいは22番のバスで(さらに詳しい情報は、こちらのエントリーの真ん中あたりを参照)。こちらがマチス美術館。海外旅行をする日本人はめっきり減ったようで、街で日本人を見ることが少なくなったが、やはりこの手の文化施設には必ず日本人が来ている。マチス美術館の前庭は、オリーブ林になっている。もちろん、オリーブ林それ自体なら、カーニュのルノワールの家のほうがずっと見事だが。内部の展示は、大規模なマチス企画展などを見慣れた感覚で入ると、やや期待を裏切られるかもしれない。それでも下にくりぬいたような中央展示ホールの吹き抜けのある大きな空間や、切り絵が効果的に鑑賞できるよう配列された展示室などは見ごたえがある。実は仕事場のロールカーテンをマチス風のブルーにしたぐらい、マチスの色彩がかなり好きなMizumizu。さっそく「いかにもマチス」なマグネットをお買い上げ。絵葉書も・・・切り絵のカードもお買い上げ。シャガール美術館は、モダンで近代的な建物。油絵のほかに、タベストリー、ステンドグラス(ただ残念なことに、ステンドグラス展示ホールは入ることができず、遠くから眺めるだけ)、モザイク(これは外にあるのだが、室内から細長いガラス越しに眺めるだけだった。うっかりすると見逃すので、どこにあるのかわからない場合は、係員に聞こう)もあった。しかも、日本語解説のあるトランシーバーを無料で貸し出している。しかし、その内容を聞いて、裏事情がハッキリわかった。ナレーションはもっぱらユダヤ教の聖書物語と、ユダヤ人受難の歴史解説に終始している。つまり、ユダヤ資本による旧約聖書とユダヤ人迫害のプロパガンダなのだ。こうした解説のスクリプトを書き、さらにそれを日本語にまで翻訳して、日本人に吹き込みをさせるなど、かなりの資金が必要だ。誰がわざわざそこまでの資金を提供したのか。火を見るより明らかだろう。シャガールの絵に、民族的・政治的なニュアンスを感じる日本人はむしろ少数派だと思うのだが、ナレーションはひたすらそうした側面を強調して解説していた。シャガールの芸術世界は普遍的な魅力を備えおり、単なる宗教画、政治画には留まらない夢幻のロマンチシズムが多くの日本人を魅了しているが、それらはユダヤ人という特異な民族性抜きでは成立しえなかったということがよくわかった。そして、芸術は、常にプロパガンダ的側面をもつという現実も。絵画であれ、文学であれ、音楽であれ、なぜ多くのユダヤ人芸術家が世界的名声を獲得するのか? 彼らに才能があり、彼らの作品に人々の心を捉えるパワーがあるのはもちろんだが、それだけでは必ずしも、世に出る理由にはならない。ユダヤ人ネットワークによる宣伝力(つまりそれは資本力だが)が、ユダヤ人芸術家の価値を作り出し、高めているのだ。ダイヤモンドが高値で取引される理由と、根本的には大差ない。人は芸術をほとんど自分の眼で見る能力はない。評判は宣伝で作られる。評判が人々の感動を誘う。それが商業主義に利用され、マチス、シャガールといった確立されたブランドネームをもつ作品は、バカげた高値で市場取引されるようになるというわけだ。いったい優れた芸術作品は、1億円が適正価格なのか? 10億が適正価格なのか? 誰にも証明できない。誰も正しい値段がわからないものを、かつて日本人はバブル時代に主にヨーロッパの画商から破格の高値で買いあさり、バブルが崩壊すると、今度は足元を見られて高値で買ったものをこれまた主にヨーロッパの画商に安く買い叩かれた。つまり彼らは、信じられないような高い値段で、絵画作品を数年間日本に「リース」したというわけだ。すぐれたものに対する価値を自分たちで創造できず、見極めもできず、ユダヤ人や白人の作った「価値という虚構」に振り回されて、石ころをダイヤだと思い込み、ダイヤでも石ころだと信じ込んでしまう日本人は、もうあまり、こうした芸術の商業主義的世界には足を踏み入れないほうが無難かもしれない。
2010.06.03
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2008年4月11日付朝日新聞の天声人語の記事は、これを書いた記者がいかにパバロッティに興味がなく、オペラに無知かということをさらけ出している。オペラファンなら一笑に付して終わりだろうが、一般の人は間に受けてしまうかもしれない。だから、そこそこオペラを見ている人間の「ふつー」の感想を、書いておくのも意味のないことではないと思う。XXXX以下、天声人語XXXX「私は勝つ。勝利(しょうり)する」と歌い上げる(うたいあげる)くだり(件)は、突き抜ける(つきぬける)ような驚異(きょうい)的な往年の声の張りを思わせるものがあった――。06年2月10日、トリノ冬季五輪の開会式。ルチアーノ・パバロッティの熱唱(ねっしょう)を伝える小欄である。ただし〈テレビで見る限り〉として▼寒空(さむぞら)の下に流れたアリア「誰も寝てはならぬ」は、13日後、荒川静香さんに金メダルの滑りをさせた曲でもある。あの夜の名テノールが「口パク」だったと聞いて、しばらく本当に寝られないファンもいよう▼当時のオーケストラの指揮者が、近著で「歌も演奏も録音だった」と打ち明け(うちあけ)た。映像を確かめてみた。歌い手は左手に白いハンカチを握りしめ(にぎりしめ)、太い眉(まゆ)を八の字にし、口を大きく丸く開けている。ただならぬ存在感だ。弦楽(げんがく)の奏者たちもしっかり弓(ゆみ)を動かしていた▼「高音の王様」は4カ月後に膵臓(すいぞう)がんと診断され、07年9月に71歳で逝った()。トリノの頃はすでに痛みを覚えていたらしい。当日は体調を考え、数日前に別々に吹き込んだ歌と演奏を会場に流したという▼これが最後の大舞台となった。拍手と歓声に向かって右手で投げたキスは、母国での大役を「無事」に務めた喜びか。いや、歌の神様への感謝、謝罪、そして別れだろうか▼かつて、一度の野外(やがい)公演で何十万人もを酔わせた(よわせた)声楽家にすれば、歌うふりは恥ずべきことかもしれぬ。だが、これで彼の「勝利」が消えるはずもない。大声で弁護はしないが、現にあの夜も、世界中の何億人かが酔った。「それも芸じゃないか」と、口だけ動かしてみる。XXXXXXXX文章はうまいし、よくまとまっている。だが、その内容たるや、情けないぐらい勝手な思い込みに終始している。1)突き抜けるような驚異的な往年の声の張り→パバロッティがとっくに驚異的な高音を失っていたのは、オペラに興味がある人間なら誰でも知っている。トリノでのvincero'もかつてのパバの突き抜けるような艶やさはなかった。そんなことぐらい「テレビをとおして」だってわかるだろう。「往年」の彼の歌唱をおそらくは一度も聞いたことのない人間が、堂々と「往年」などと言う。なんたる欺瞞だろう。もし、この記者がパバの高音の比類なさを知っているなら、ただのイベントにすぎない「野外コンサート」の例など出さないはず。パバが全身全霊をかけ、「その声を出す前は、体中の筋肉が緊張する(パバの弁)」というハイCを響かせて聴衆を驚愕させた伝説のオペラの演目を例に挙げるはず。2)名テノールが「口パク」だったと聞いて、しばらく本当に寝られないファンもいよう→アリアのタイトルに引っ掛けたと思われる変なオヤジギャグだが、「本当の」オペラもしくはパバロッティのファンなら別段驚くことではない。パバロッティが口パクをやったのは、トリノが初めてではない。超高額のコンサートで口パクをやってしまい、叩かれたこともある。これはNEWS WEEKの日本語版でも「どうしちゃったの? ルチアーノ?」という記事で紹介された。これにからめて、「なぜ口パクをしたのですか?」とインタビューを受けているパバの姿も日本のテレビで放映された。パバは微笑みながら、「私が悪いんです。うまくやれると思っていたのですが」と答えていた。あのときは相当な騒ぎになったのだが、朝日新聞の天声人語担当者はまったく知らないようだ。いかにオペラに興味がないかわかるというもの。Mizumizuの個人的な話でいえば、トリノでパバが登場したとき、「また口パク?」と思い、そう口に出した。それがむしろ普通のファンの反応だろう。パバが歌えるとは思えなかったからだ。すでに、パバは何度も「引退コンサート」をやっていて(笑)、ついには「引退という宣言を本当に守れますか?」などと突っ込まれていたからだ。ところが、口パクだろうと思って見たら、口パクには見えなかった(苦笑)。しかも、相当いい感じだ。これには実は驚いたのだ。そして、「ああ、最後までちゃんと歌えてよかった!」などと胸をなでおろしていたのだ(もちろん、内心ちょっとだけ、「やっぱり口パクだったんでは?」という疑惑は残った)。パバにやられたってことだ(笑)。天国のパバヘ:見事に騙されましたよ、お見事!3)数日前に別々に吹き込んだ歌と演奏を会場に流したという実は、この「数日前」というのは相当ひっかかる。演奏はともかく、当時のパバが「数日前」にあそこまできちんと歌えたのだろうか。本当は歌唱の録音はもっと前のものだったのではないか…… と密かに思っている。4)拍手と歓声に向かって右手で投げたキスは、母国での大役を「無事」に務めた喜びか。いや、歌の神様への感謝、謝罪、そして別れだろうか投げキスはいつものパパのしぐさ。コンサートではたいていああやるし、オペラでのカーテンコールでもそう。特別なポーズではない。もちろん、あれが最後の雄姿となったわけだから、見る側が主観でそう信じるのは勝手だが。感傷的に入れ込んだ文章を書く前に、パバのオペラの1つぐらいは見てはどうだろう。5)かつて、一度の野外公演で何十万人もを酔わせた声楽家にすれば、歌うふりは恥ずべきことかもしれぬ。だから初めてじゃないんだってば。本当にパバが恥だと思っていたら、何度も口パクはやらないって。パバにとっては体調不良のままライブで歌って、途中で声が出なくなることのほうが恥だし、聴衆をガッカリさせると思っていた。そうならないという自信はすでに晩年のパバにはなかった。だから口パクをやったのだ。単純な話だ。それに、雑音だらけの環境でマイクを通して大勢に聴かせる野外公演なんて、お祭りみたいなもの。本当の声楽家の勝負は劇場でのオペラなのだ。パバはスカラ座でブーイングをあびて以来、かのオペラの殿堂の舞台には立たなかった。晩年のパバの声の衰えは、それと反比例するようなパバロッティがらみの高額チケットビジネスとあいまって批判の対象にされたのだ。6)「それも芸じゃないか」と、口だけ動かしてみる。 ……いまどき天声人語を真に受けて読む読者もいないかもしれない。だが、影響力のある新聞なのだから、こんな「知ったか」を書く前に、多少オペラに詳しい人間に話を聞くなり、パバのオペラのビデオを1本でもいいから見るなり、パバについて少し知る努力をするべきではないかと思う。イタリアでのオリンピックという歴史的なイベントにおいて、イタリアが生んだ歴史的歌手を登場させること――それがイタリア人にとって、そして世界の人々にとっても、もっとも重要なことだった。その後まもなくパバが亡くなってしまったということを考えると、あの舞台にパバが立ったこと、それが何よりの意義だろう。すでに引退状態のパバに「往年の美声」を期待した人がいたら、それはまったくパバに関心がなく、パバの現状を知らない人だ。東京は相当ハイレベルなオペラ消費都市なのだ。これほど一流の歌手が頻繁にコンサートを行い、一流のオペラハウスが引っ越し公演をやっている街は世界広しといえども、そんなにはない。首都東京の一般聴衆のレベルがこんなに高いのに、国のオピニオンリーダーになるべき新聞記者が、ここまであからさまに無知では情けなくなる。
2008.04.14
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現在、You TUBEの「手塚プロダクション公式チャンネル」で限定公開中の『千夜一夜物語』。大人向けアニメラマと銘打った(旧)虫プロダクションの野心作だが、このキャラクターデザインと美術担当にいきなり抜擢されたのが、アンパンマンの作者やなせたかしだ。レア本『ある日の手塚治虫』(1999年)にやなせたかしの寄稿文とイラストが載っていて、それによれば、1960年代の終わり、手塚治虫からやなせに突然電話がかかってきたという。虫プロで長編アニメを作ることになったので、やなせに手伝ってほしいという依頼だった。わけがわからないまま、やなせは「いいですよ」と返事をする。当時を振り返って、やなせは「同じ漫画家という職業でも、手塚治虫は神様に近い巨星、ぼくは拭けば飛ぶような塵埃ぐらいの存在」と、書いている。いくらやなせ氏が謙虚な人だといっても、それはチョット卑下しすぎだろう…と読んだ時には思ったのだが、1969年は、まだアンパンマンが大ヒットする前だった。多才なやなせは詩人として有名だったし、すでに『手のひらを太陽に』の作詞者として知られていたが、漫画では確かに大きなヒットはまだなかったようだ。やなせはアニメの経験などゼロだったから、手塚の申し出は冗談だと思ったらしい。だが、『千夜一夜物語』が始まると、本当に虫プロ通勤が始まる。手塚治虫と机を並べて描いてみて、やなせが「たまげてしまった」のは、そのスピードと速さ。あっという間に数十枚の絵コンテをしあげていくのだが、決してなぐりがきではない、そのまま原稿として使えるような絵なのでびっくりした。(『ある日の手塚治虫』より)完成したアニメ『千夜一夜物語』では、やなせたかしは「美術」とクレジットされているが、キャラクターデザインもやなせの手によるものだ。上はやなせ直筆のイラストとエッセイ。わけわからないまま始めた仕事だが、やってみると案外これは自分に向いているのではないかと思ったという。特に「マーディア」という女性キャラクターは人気で、後年になっても「マーディアを描いて」と頼むファンがいて、やなせを驚かせた。「キャラクター」の波及力に、やなせが気づいた瞬間だろう。『千夜一夜物語』がヒットすると、手塚治虫はやなせに「ぼくがお金を出すから、虫プロで短編映画をつくりませんか」と申し出てくれたという。会社としてお金を出すというのではなく(社内で反対があったようだ)、手塚がポケットマネーから資金を提供したのだ。そうして完成したのが、やなせたかし初演出アニメ作品『やさしいライオン』(1970年)。毎日映画コンクールで大藤賞その他を受賞し、その後もたびたび上映される息の長い作品になったという。こうしたアニメ畑でのキャラクターデザインの仕事がアンパンマンにつながっていったのだと、やなせは書く。『千夜一夜物語』から『やさしいライオン』を経て、やなせのキャラクターデザイン技術は、「シナリオを読めば30分ぐらいでラフスケッチができる」までに向上した。「基本は虫プロで学んだのである」。キャラクターデザインの達人、やなせたかしの飛躍のきっかけを作った手塚治虫。だが、「少しも恩着せがましいところはなく、『ばくがお金を出して作らせてあげたんだ』などとは一言も言わなかった」(前掲書より)やなせと手塚は気が合ったようだ。その後、「漫画家の絵本の会」で一緒に展覧会をしたり、旅行をしたこともあったという。「いつも楽しそうだった」「あんなに笑顔のいい人を他に知らない」「そばにいるだけでうれしかった」と、やなせ。そういえば、やなせの価値観と手塚のそれは非常に似通っている。時に残酷だという批判を受けるアンパンマンの自己犠牲精神は、戦争を通じて経験した飢餓からきたものだというし、「ミミズだって…生きているんだ。ともだちなんだ」という『手のひらを太陽に』の歌詞は、手塚の精神世界とも共通する。戦争は大きすぎる悲劇だが、あの戦争が手塚治虫ややなせたかしの世界を作ったとも言える。『第三の男』ではないが、平和とは程遠い15世紀のイタリアの絶えざる闘争の中でレオナルドやミケランジェロ、つまりはルネッサンスが生まれたように、日本という国を存亡の危機にまで追い詰めた第二次世界大戦があったから、今私たちが見るような手塚マンガが生まれ、次々と新しい人材がその地平線を広げていくことになったのだ。「ぼくは人生の晩年に近づいたが、最近になって自分の受けた恩義の深さに気づいて愕然としている。 漫画の神様であるだけではなく手塚治虫氏自身も神に近い人だったのだ。 どうやってその大恩に報いればいいのか、ぼくは罪深い忘恩の徒であった自分を責めるしかない」(前掲書より)手塚治虫を「神」と呼ぶとき、それは漫画の力量がまるで神様というだけでなく、次に続く人材を「創生」し続けたという意味も含むだろう。藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、里中満智子はよく知られているが、さいとう・たかおだって、楳図かずおだって、手塚治虫がいなければ漫画家にはなっていなかったかもしれない。つげ義春さえ、漫画家になるにあたって「ホワイト」だとか「原稿料」だとかの実際を聞かせてくれたのは手塚治虫なのだ。そして、やなせたかし。今や、やなせのアンパンマンキャラクターは、世界でもっとも稼ぐキャラクターのトップ10に入っている。https://honichi.com/news/2023/11/16/media-mix-ranking/そのキャラクターデザインの出発点が大人向けアニメ+ドラマと銘打った(旧)虫プロの『千夜一夜物語』だったというのは、今ではほとんど忘れられているようだが、まぎれもない事実だ。やさしい ライオン (やなせたかしの名作えほん 2) [ やなせたかし ]
2024.05.07
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先日のエントリーをアップしたあと、ちょくちょくお邪魔していてコメントの常連になっている俳優のジュード・ロウのファンブログに行くと、なんと・・・!この冬に行かれたアルルでの性悪タクシードライバーの話が載っていた。こちらから。読んでビックリ! このBMW野郎の態度はもはや、立派なレイシスト。ヴィルフランシュのベンツ野郎を超えている! 下には下がいるものだ。これが「自由・平等・博愛」の国フランスなのだ。ローマのタクシー会社や当局ですら反省した(こちらの記事参照)というのに、フランス人が反省する日は来るのだろうか? 日本人ほど世界中でありがたがられる観光客はいない。大人しいし、金払いもいい。なのに、なぜフランスという国の人間は、そういうお客様をいつまでたっても敬意をもって「まとも」に扱えないのだろう?日本人にも、もちろん悪い部分はある。郷に入っては郷にしたがえ。フランスでは、「ボンジュー(ル)」という挨拶がなにより重要なのに、店に入っても、全然自分から挨拶しないし、挨拶されても言葉できちんと返さない。無言。これはとても感じが悪い。「私はシャイな日本人だから、自分からハキハキと笑顔で挨拶なんてできない」という方は、個人旅行ではなくツアー旅行にしたほうがいい。マトモに挨拶もせずに勝手に店に入ってきてジロジロ物色したり、挨拶もなしにいきなり質問するようなぶしつけな人間の相手をさせられるフランス人が気の毒だ。ニースでの「観光のための移動」は、鉄道駅よりMasse’na広場の近くのバスターミナル(Gare Routie're)が中心になるので、ホテルは鉄道駅より広場の近くに取ったほうがいい。Mizumizuのお奨めは、先日書いたようにPromenade des Anglais沿いのホテルの海側の部屋(海側の部屋のほうが値段は高いが、その価値はあると思う)。Nice Villeの鉄道駅に着く人は、駅を出てすぐ左にあるインフォメーションで、市内地図と行きたい町のバスの時刻表、それにニースで行きたい場所へのバスでの行き方を聞こう。長距離列車が着いた直後はインフォメーションは行列になってしまうので、それがイヤでホテルでとにかく一休みしたい人は、たとえばプロムナードザングレにホテルがあるなら、とりあえず以下のように行ける。(ただし、時間はかかる)。Nice Villa駅→Promenade des Anglais沿いのホテルまず駅を背にして、左側へ歩く。2分ほど(荷物を引きずりながらゆっくり。荷物はひきずりやすい道)でトラムの駅に着く。トラムの乗り方は以下のサイトをご参考に。http://africanbazaar.jp/newpage69.htmlちなみに、水を買いたいアナタ。ニース駅の売店で1.7ユーロの水が、トラム停車場へ向かう途中の小さな食料品店(店先に果物を並べている)で、0.7ユーロで買えますので。駅からは徒歩で1分。4つ目のトラム駅Cathe'drale-Vielle Villeで降り(大きなMasse'na広場を過ぎて左折したあと2つ目)、トラム駅のすぐ北にあるバスターミナル、Gare Routie'reに入る(屋根のある大きなバスターミナル)。http://www.lignedazur.com/ftp/plans_FR/Nice%20Centre%202010prot.pdfを見てもわかるとおり、プロムナードを通るバスはたくさんある。ありすぎてわからないぐらいだが、とりあえず100番のVence行きなら確実だし、本数も多い。長距離バスは、日本のリムジンバス同様、座席の下が荷物入れになっている。個人個人で荷物入れのボタンを押して自力入れる。海岸沿いのまっすぐな道、プロムナードに出たら、2つ目のバス停(バス停で乗り降りする人がいないとバスは通過になるので、とりあえず、プロムナードに出て少ししたらボタンを押そう)Congre'sで降りよう。ここならインフォメーションも近くにある。バスの中からバス停の名前はなんとか読める。ここで降りれば、ウエストミンスター、ウエストエンド、ネグレスコなどのホテルはすぐ。万が一乗り過ごしてしまっても、次で降りれば「ネグレスコを通り過ぎたぐらい」で降りられるので、たいして問題はない。ちなみにネグレスコは現在改装中でクローズ。Mizumizuの泊まったウエストミンスターは、シーズンオフのせいか、ニースではホテルの競争が激しいせいか、値段(朝食含めて海側のツインで1泊150ユーロ前後)のわりには、満足度が高かった。プロムナード沿いのホテルがネグレスコホテルより東にある場合、荷物がさほどでないなら、トラム駅から2つ目の駅、Masse’na広場で降りて、あとは歩いてもたいしたことはないはず。Niceのマチス美術館、シャガール美術館へ行くには・・・詳しくは市内地図をもらうついでにインフォメーションで聞くとよいと思うが、簡単に説明すると、Masse'na広場から東にのびているGioffredo通りから15番もしくは22番のバスで。マチス美術館のほうが遠いので、まずはそちらを目指そう。市内地図をもっていれば、バスの走る道がよくわかるし、バスの中からバス停の名前も見えるので、降り方はさほどむずかしくない。ただ、帰るときにマチス美術館から出て、うっかり別の停留所に行かないように注意(1つ別方面のバス停がある)。帰りも15番もしくは22番のバスで帰る。だから、15番もしくは22番のバス停かどうか、きちんと確かめよう。 ニース市内に戻る途中にシャガール美術館がある。15番と22番のバスは頻繁にあるので、さほど時間を気にする必要はないと思う。ただ、ここでMizumizuは20分ほど待った。バスの時間が気になる人は、降りたときに、反対車線のバス停で時間を確認しておこう。ただし、けっこうバスは遅れてくるので、あまりアテにならない。帰りのバスは行きのバスと違い、Gioffredo通りの1つ北のPoste'通りに入る(もしかしたら、ルートの違うバスもあるかもしれないが、Mizumizuの乗ったバスはそうだった)。どちらにせよMasse'na広場のほうへ突き当たる道なので、Masse'na広場で降りる人はそんなに気にしなくてもいいと思うが、Gare Routie'reで別のバスに乗りたい場合は、Poste'通りに右折したら(フランスの道は、通りの角に通りの名前が貼ってあるので、バスの窓から見ていれば、通りの名前はなんとか見える)、郵便局のあたりで降りるとよい(右手)。どちらにしろ市内地図を片手に乗っていれば、だいたい降りるべき場所もわかるので、ボタンを押せると思う。とにかく、インフォメーションでもらう市内地図は必携! Masse'na広場からプロムナード並びのホテルへなら、荷物がなければよい散歩道になるので、バスに乗る必要はなし。Niceから近郊の町はすでに書いたように、Gare Routie'reから各方面に出ている。インフォメーションで、あらかじめバスの時刻表を入手しておこう。Masse'na広場からトラムのMasse'na停留所を見たところ。アーチ型の回廊の続く道。広場の少し手前に停留所がある。Masse'na広場。広々とした空間、中央奥の噴水、赤茶の湾曲した建物の風情は、明らかにイタリア風。高いポールのうえの黄金の人物坐像は、なんぞや?シャガール美術館のバス停で撮った15番と22番のバスの時刻表(市内へ戻るバス)。頻繁にあるが、時間はあまりアテにならない。
2010.05.01
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<きのうから続く>ジャンプの難易度はやさしいほうからトゥループ→サルコウ→ループ→フリップ→ルッツ→アクセル(難)となる。このうちセカンドにつけられるのがトゥループとループ。難しさでいえばループのほうだ。ループをセカンドに跳ぶということは、動きを一瞬止めなければならない。スピードをいったん殺した状態から、踏み切って回るので、非常に難しい。難しいから、ほとんどできる選手はいない。なかでも安藤選手の3ルッツ+3ループは、3アクセルからの3回転を跳ぶ選手がいない(浅田選手は2トゥループ)現状では、女子では最高難度。この連続ジャンプが安藤選手を世界女王にした。ところが、昨シーズンから回転不足判定の厳密化が打ち出され、「認定」が厳しくなった。モロゾフはこれに敏感に反応し、安藤選手には3ルッツ+2ループの回避策を取らせることが多くなった。一方の浅田選手はこれまでどおり、3フリップ+3ループを入れてきたが、パンクして自滅することが多くなった。3ループが入った場合も、確かに認定は以前より「厳しくなったな」という感じがあった。一方で昨シーズンは、セカンドに跳ぶ3トゥループは案外、「ちょっと足りなくても認定してくれている」感が否めなかった。何度も言うが、これはジャッジが「4分の3回転以上はしていると認定した」結果であって、不正ではない。セカンドに3トゥループをもってくるトップ選手は、キム選手、コストナー選手、浅田選手だ。だから、3トゥループに関しては、お互いさまだったともいえる。今だからいってしまうが、世界選手権での浅田選手の3F+3Tの3Tはちょっと足りていなかったかもしれない。だが、認定してもらったので大きく点が下げられることはなく、助かった。一方で、あくまでMizumizuの個人的感覚だが、トップ選手では安藤・浅田しかもっていない3ループに対する認定は、非常に厳しく、まったく容赦がない。3ループはもともと難しいジャンプなので、「ちょっとだけ回転が足りないまま降りてきてしまう」のはありがちなことだ。昨シーズンの浅田選手の3ループは、スローである角度から見て、「あ、ちょっと足りないかな」と思ったものはすべてダウングレードされた。着氷はきれいに回りきったものでも、離氷の瞬間、ちょっとタメが長く、エッジが氷から離れるのが遅れたジャンプもやはりダウングレードされた。オーサーが「なによッ! ヨナの3回転は文句ないわよ! ミキ・アンドーのループはごまかしよ!」とヒステリックに糾弾してるビデオを紹介したが、実のところ、オーサーの安藤選手に対するイチャモンはある程度正しい。着氷が回転不足気味になってしまうとなると、選手はループを跳ぶとき、タメを長くして上体だけ先に回り始めようとする。タメてる間も、エッジは氷で回ってしまうから、その分を考えると、着氷がいくらきれいに決まったように見えても、回転は不足してるということになる。セカンドの3ループはこのように、まったくイチャモンをつけられることなく完璧に回りきって降りてくるのが、非常に難しいジャンプなのだ。長野で金メダルを獲ったリピンスキー選手のセカンドの3ループなんて、安藤・浅田選手の比じゃなく、モロ回転不足だ。あれは肉眼でもはっきりわかる。ただ、スーパースローで見たら、安藤選手にしろ浅田選手にしろ、どこかに「ごまかし」や「不足」を見つけられるのではないかと思う。以前はここまで言わなかった。セカンドに3ループをつけられるというだけで、すごいことなのだ。その部分を評価していて、多少の回転不足は「よし」としていたのだ。それが昨シーズンから変わってしまった。回転不足でダウングレードされれば、2回転の失敗扱いになる。安藤選手や浅田選手にとってみれば、これまで強い武器だったものが、いきなり「多くの場合、足を引っ張る技」になってしまったのだ。難しいループをセカンドに跳ぶことができるなら、やさしいトゥループに変えればいいじゃないか、と思うかもしれない。ところが、これが安藤選手と浅田選手にとっては難しい。確かに一般的にはトゥループのが易しいジャンプなのだが、彼女たちは、もっぱらセカンドのループを武器として磨いてきたので、セカンドにトゥループを入れる練習はあまりしてきていないのだ。2季前まではそれでよかった。基礎点の高いループを跳べるのだから、わざわざトゥループに変える必要はなかった。ところが、ここまでループに対しての判定が厳しくなると、これまでトゥループの練習をしてこなかったことが大変に痛い。安藤選手は2A+3Tを試みたことがあるが、うまくいかず、結局途中でやめている。安藤選手も浅田選手も卓越したジャンパーだが、実は彼女たちには苦手なジャンプというのがある。浅田選手のサルコウはその典型だが、基礎点の導入によって、点の低いジャンプをあえて練習する必要がなかったというのもある。「一般的には難易度は低いが、苦手なジャンプがある」というのが、安藤選手と浅田選手の特徴で、これが彼女たちが伊藤みどりにどうしても劣る点だ。伊藤選手は、どのジャンプも跳ぶことができた。ループの認定が厳しいなら、トゥループに変えるなどお茶の子さいさいだろう。だが、この「逃げ」が安藤選手と浅田選手にはない。浅田選手は3トゥループを跳べるが、ループに注力してきたせいか、トゥループをセカンドにつけると、なぜか一瞬動きが止まってしまうように見えることがある。徐々によくなってきたと思うが、完成度の低さは否めなかった。今シーズンはセカンドにトゥループを入れていない。安藤選手はさらに苦手で、彼女のジャンプ構成は、セカンドがほぼすべてループになっている。今シーズンのフリーは、3ループが1回、2ループが3回も入っている。さらに安藤選手は3Fもしばしばダウングレードされてしまうようになった。安藤選手はフリップがwrong edgeであり、昨シーズンはこれを矯正して、得意のルッツも乱れ、さんざんな成績だった。今年はwrong edge判定はないのだが、フリップに回転不足があるということは、正しいエッジではなかなか力が入らないということだと思う。安藤選手のwrong edgeは、フリップの軌道で滑ってきて、最後にグッとエッジがアウトに入ってしまうものだった。安藤選手はルッツのが得意だから、アウトエッジで踏み切ったほうがうまく力が入るのだ。それを矯正した影響が、ジャンプの瞬発力に出ているのだろう。得点源であるフリップとループでやたらダウングレードされるから、安藤選手の点はのびない。Mizumizuが「え? これでダウングレード?」と驚いたのは、中国大会のフリーの3フリップ。着氷がガタッとなったが、まさか足りていないとは思わなかった。スローが出なかったので、どの程度足りていなかったのかはわからないのだが・・・・・・ モロゾフにとっても、ここまで厳しい判定は予想外だっただろう。だから、モロゾフ&安藤のリンク裏での表情はとても暗い。こういうことがあるから、やはりアメリカ大会でのキム選手の3Tに対する認定の甘さは非常に気になるのだ。You TUBEでお祭りになるのも頷ける。一方、浅田選手はやや不完全ながら、セカンドに3トゥループを入れることができる。今シーズン試さないと、来シーズンまた入れるのは難しくなり、常に一か八かのループで勝負しなければならなくなる。だから、3ループに比べてやや認定が甘い(ように見える)3トゥループを試してみたら、と思うのだ。個人的にはループのほうが跳びやすくても、一般的にはやはりトゥループを完成させるほうが、やさしいはずなのだから。
2008.12.09
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圧巻、神の領域、史上最高…あらゆる賛辞のはるか上をいくパフォーマンスだった。羽生結弦選手の2021全日本、ショートプログラム。度重なるケガ、コロナ禍という特殊な状況、台頭する若手、スターゆえのアンチによる誹謗中傷…なにより、すでに五輪二連覇という、栄光をきわめた選手がどうやってモチベーションを維持するのかという問題。羽生選手がここまで現役を続けてきた、それだけで「圧巻」なのに。それは誰も行ったことのない砂漠に一人で足を踏み出したようなもの。どこにオアシスがあるか分からない、どこに誰がいて、どんな危険が潜んでいるかも分からない。そんなところへ「行く」など、常識的な大人なら止めるはずだし、「蛮勇」ではないかとネガティブに捉える向きも多いだろう。それでも彼は行き、そして、結果を出した。それが今回のショートプログラムだったと思う。Mizumizuはかつて羽生選手を「凄いジャンパー」だと評した。むろん、今もそうだ、だが、ジャンプだけだったらすでに羽生選手以上の難度のジャンプを跳ぶ選手がいる。しかし、このショートプログラムは…誰も到達できない域、もはやこの世のものではない出来だった。とりわけ凄味を帯び、壮絶な美を見せつけたのは、後半のステップ。ステップだから足さばきで魅せるのが王道…そんな常識をぶち壊す、羽生結弦にしかできないムーブメントの連鎖。目が釘付けになる、鳥肌が立つ…あらゆる形容がいっそ陳腐になる世界観だった。選曲はロンド・カプリチオーソ。曲自体はフィギュアスケートではありふれている。名選手なら一度は演じたことがあるのでは、というくらいよく使われる曲だ。ところが羽生選手の場合は、バイオリンではなくピアノ。「あれ? あれ?」と思っているうちに、演技が進む。耳慣れた曲のはずなのに、どこか違う。しかも、羽生選手の動きにぴったり。音がついてくるかのように一体となっている。それがオリジナル編曲(清塚信也氏による)の羽生バージョンだと知ったのは演技後だったのだが。この作品の「初演」が五輪を控えた全日本だったというのも運命的だ。初披露のインパクトが、ミスのないパフォーマンスとあいまって、感動の嵐をさらにすさまじいものにした。Mizumizuの好きなオペラ作品にモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」があるが、これの初演はプラハのエステート劇場だ。今後フィギュアスケートのプログラムが1つの芸術作品として認知されるようになってくれば――そして、それを町田樹氏のような逸材が実現しようとしている――原曲・編曲・振付・演技者の名とともに、初演の場の名称も歴史に刻まれるかもしれない。それほどに、語り継ぎたい「初演」だった。これほどのものを見せてしまって、羽生結弦にこの先があるのだろうか? 凄すぎてそんな懸念が生まれるほど。そもそも27歳という、シングルのフィギュアスケーターとしてはもう若いとは言えない年齢で、どうしてあれほどしなやかで細い、アンドロギュノス的なプロポーションを維持しているられるのか。男性の場合は筋肉が「つきすぎても」跳べなくなるという。本人が並外れた節制をしているのかもしれないが、それにしたってプロポーションというのは天賦のもの。それだけで神に選ばれた存在としか言いようがない。すべてが奇跡――あのパフォーマンスをあの場で生で観た方々は、一生の誇りにしていい。地域猫にご飯を贈る地域猫にたっぷりご飯を贈るネットショッピングをして地域猫活動(TNR活動)を応援する
2021.12.25
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<きのうから続く>どういうワケか、山から突き落とされたブロンド君は、迷路のような決闘場に強引に導かれ、仮面の怪人と戦うことになる。しかし、じーさんのリーカにも負けたブロンド君は、案外弱い。あっという間に地面に叩きつけられ、勝敗は明らかに。物語冒頭では、黒髪君のことを、なんつって蔑んでいたクセに、決闘に負けて命が危なくなったとたん、ブロンド君たら、怪人に向かって、ぬぁんて、色仕掛けで命乞い。リーカで味をしめたか?字幕ではスッパリ抜けてしまっているが、この命乞いの場面、ブロンド君は、怪人に「Caro, Minotauro(親愛なるミノタウロスよ)」と呼びかけている。これは重要なポイントなのだ。つまり、ブロンド君が闘ってる相手はギリシア神話で、クレタ島はミノス王の迷宮に住んでいた、人身牛頭の怪物ミノタウロスのイメージなのだ。これがそのミノタウロス。しかし、なんだろうね? イボイボのついた見るからにいかがわしい棍棒といい、紙粘土かなんかで作ったようなテキトーな仮面といい、遊んでるでしょ、制作者。マジメに解説すると、怪物ミノタウロスはギリシア神話では、アテナイの王テセウスによって倒される。そして、テセウスはミノス王の娘アリアドネと恋に落ちる。さて、ブロンド君を倒したミノタウロスは仮面をとると、けっこう善人そうな精悍な顔立ちの青年で、リーカと違ってソッチ系の趣味はないらしく、と見物人に向かってさわやかに宣言。はあ? それじゃあ何だったの、今までの決闘は??何が何だかわらかにうちに、見物人のお偉いさんからも、「詩人とも呼ぶべき教養ある若者よ!」といきなり持ち上げられるブロンド君。なんで、そーなるの?(もちろん、「まじめ」に解釈すれば、たいしたことしてないのに、突然周囲に祭り上げられてしまう、現代の「にわかスター」を皮肉ったスクリプトだ)。さらに、「アリアドネが待っておるぞよ」と、ミノタウロスを退治してもいないのに、なぜかアリアドネを与えられるブロンド君。もはや問答無用のハチャメチャな展開。さらにさらに、衆人看視の露天ベッドで、ヤル気満々でブロンド君を待っていた「アリアドネ」姫は、ギリシア神話のイメージからは程遠い、厚化粧のオバサン領域の女性。それでも、喜んで(?)身を投げるブロンド君。ところが肝心のものが役に立たなくなったようで、アリアドネは大激怒。「太陽のせい」「もう一度……」と必死にトライ(というのか、そーゆーの?)しようとするブロンド君なのだが、アリアドネは、聞く耳を持たず、「schifo! (汚らわしいわよ!)」と、ブロンド君を罵倒しまくる。どっちかというと、キミの金銀緞子みたいな奇抜なメークのほうが、schifa(胸がむかつく)だと思うのだが、快楽主義のこの時代、そういう男性は一番面目が立たないらしく、金銀緞子化粧のアリアドネに思いっきり蹴り倒され、「わ~!」と派手に溝に落ちてしまうブロンド君。もうギャクでしょ、この展開。テセウスによるミノタウロス退治をパロッたコメディーだとしか思えない。テセウスになれなかったブロンド君は、半ベソかきながら、なぜか黒髪君に……当然、黒髪君には、笑われる。「剣」を失ってドヨヨ~ン状態のブロンド君。「快楽の園」で治療ができるとかで、黒髪君と連れ立って旅立つ(なんで黒髪君までくっついていくんだ?)。<明日に続く>
2008.11.03
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宝塚に行ってきた。お目当てはもちろん手塚治虫記念館。特別展として火の鳥の原画が展示されているし、絵本作家の鈴木まもる先生の『火の鳥』も発売になって、同氏のトークイベントとサイン会がある。これは行かないと!ということで、プランニング。宝塚なので日帰りもできるのだが、体力面を考えて前泊することにした。宝塚は週末はホテルが高いので、新幹線の着く新大阪に泊まり体力温存したうえで、翌朝、満を持して出かけることに(←おおげさ)。事前に新大阪から宝塚の行き方を調べたのだが、複数あって便利のようで、案外面倒だった。というのは、直通だと時間がかかり、乗換ルートのほうが速いのだが、その乗換も複数ある。ネットで検索して調べた結果、一番簡単なのが尼崎で乗り換える方法だという結論に達する。このところ、スマホが外で具合が悪くなることが増えてきた。現地でそんなことになると慌てるので、一番効率よく、時間帯もよく宝塚に行けるルートを紙に手書きするMizumizu。で、当日予定どおりの時間に新大阪駅のホームで網干行き快速を待っていると、真後ろで駅員に宝塚に行く方法を聞いてる女性がいた。駅員が「宝塚行きはこっちのホームだけど、こっちで乗換るほうが…」というような説明をしている。そうそう、直通はそっちなんだけど、こっちの快速のが速いし、乗換も多分向かいのホームなので楽なのだ。駅員の説明に、ちょっと戸惑ったような表情を浮かべる女性。この時間に新大阪駅から宝塚と言ってるということは、宝塚劇場か手塚治虫記念館目的なのは明らか。なので、メモを指し示しながら、女性に、「私も宝塚に行くのでご一緒しましょう」と話しかけた。女性は、いきなり話しかけられて、一瞬びっくりしたよう。でも、メモ書きを見ると納得したようだった。駅員も「ありがとうございます」と行ってしまった。二人で快速に乗り込んで座る。彼女もやはり乗換が面倒だと困ると思っていたらしい。尼崎なら乗換も簡単みたいですと説明する。宝塚に行く目的を聞くと、劇場のほうだという。こちらは手塚治虫記念館だと言うと、「手塚治虫、好きです」と! 『リボンの騎士』『アトム』、それになんと『W3』まで名前が出てくる。え~、『W3』まで見てた? それ、ガチ手塚(筋金入り手塚ファン)じゃないですか。宝塚劇場に行くということは…と思い、『ベルばら』の話をすると、なんと初演に行ったというではありませんか。マジですか? 榛名由梨の時代? Mizumizu「『ベルばら』見にいきたいんですよね~」彼女「やってますよ!」Mizumizu「『フェルゼン編』でしょ~(←なぜかちゃんと調べてる)」彼女「『オスカル編』がイイですか~?」など、初対面なのに話が盛り上がる。彼女は少女漫画にも詳しく、里中満智子、萩尾望都…全部知ってる。少女漫画にとどまらず、手塚直系、石森章太郎『サイボーグ009』まで知っていた。で――「高校ぐらいのときに、いったん離れなきゃと思って」そうそう、当時の少女たちはたいていそうだった。大人になる準備をする時期に、アニメや漫画からは離れなくてはと思うものなのだ。今、『ポーの一族』で国際的な名声を得た萩尾望都も、当時は、「あれ(『ポーの一族』)を描いたのは24歳(←この年齢は記憶ベース)の時だから、そのくらいまでなら読めるのかな」と言っていた。つまり、20歳半ばには読者も卒業するのだろうと。だが、『ポーの一族』は平成に入って少女漫画歴代ナンバーワンの名作に選ばれた。最近になってフランスで出版され、衝撃を持って受け入れられた。そうした流れの中で、日本でいったん卒業した読者も戻ってきて、豪華版など買っている(←Mizumizuね)。あのころが少女漫画ルネサンスの時代だったのだろう。そして、ルネサンス期の少女漫画家を創生したのも、手塚治虫なのだ。池田理代子も里中満智子の対談で、「私たちのころは、みんな手塚先生よね」と話していた。Mizumizuは『リボンの騎士』がなければオスカル様もない…ような気がしているのだが、それについて池田理代子自身が話しているのは聞いたことがない。ただ、オスカルのビジュアル面でのモデルがヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』のアンドレセンだという話は知っている。さて、話が盛り上がって、宝塚に着くと、今後は彼女が道案内をしてくれた。その時に、クラシカルな外観のティールームのそばを通ったのだが、「ここは紅茶がおいしい」「シナモントーストがおすすめ。お好きなら」と教えてくれる。実はホテルでトースト食べてしまったのだ。それも、売れ残りのパンの半切れみたいな情けないトースト。しかも冷めかけ。パンはほかにもあったが、全部「コストコ」の安い冷凍パンを大量に仕入れました…みたいなクオリティで、がっかりだった。で――手塚治虫記念館は予想以上に見ごたえがあり、なかなか上階に行けない。生前の手塚治虫を知る有名人たちの話をビデオで流しているのも、それぞれの「手塚先生」像が面白くて、全部見終わるまで立てない。手塚治虫の実験アニメーションは定評があるが、一番好きな『Jumping』を大きな画面で見ることができて、満足満足。『おんぼろフィルム』は、「ここ笑うところですよ〜」と思ってるところで笑っている人がかなりいて、「うんうん、ここツボだよねー」と、自分の演出でもないのに、勝手にニンマリ(Mizumizuは何度も見てるので笑いませんでした)。肝心の企画展を見る前に、鈴木まもるx手塚るみ子トークイベントが始まってしまうという始末だった。ランチを食べる間もなく参加するMizumizu。トークイベントに続いてサイン会もあり、ひとりひとりに丁寧にサインする鈴木先生。トークイベントも面白かったが、サイン会でも、みな先生と一緒に写真を撮ったりしながら盛り上がっていた。やっと企画展の『火の鳥』原画を見る。六本木であった『ブラック・ジャック』原画展ほど数は出ていなかったが、えりすぐりが出展されていて、「見たかったページ」はほぼ見せてもらった感じ。かの有名な「乱世編 村祭り」(←もうこれ、国宝級ね)の見開きもありました。カラーもあって、『火の鳥』の時代の彩色はアシスタントによるものがほとんどだと思うのだが、夕焼けの空の描写など、なかなかの力量ぶりだった。こんだけの素晴らしい作品群を「マンガは残らない。作者と一緒に時代とともに、風のように吹きすぎていく。それでいいんです」と(石ノ森章太郎に)言った手塚先生…数々の未来を「予言」した大天才だが、ここだけは大ハズシした。ただ…その言葉が「本当の本音」だったかというと…違うかもしれない。図書コーナーで未読の手塚作品を読みたかったが、さすがに夕方になって帰る時間が近づく。入場者はかなり年配の方々(おそらく『鉄腕アトム』直球世代)から親と一緒の小さな子供まで年齢層は幅広い。シニア層の男性は漫画を読み、男の子たちは熱心にアニメの画面に向かっている。大阪の夜、御堂筋線に乗ったのだが、なんと文庫本の『ブラック・ジャック』を読んでいる青年を見た。そーそー、ブラック・ジャックは面白いよね。山口の図書館でも、貸し出しが多くて、なかなか連続で借りられないのですよ。しかし…ストーリーを追うだけなら文庫本でも構わないが、やはり漫画のタッチを味わうには文庫本は小さすぎる。漫画を文庫本にするのは、Mizumizuは基本的に反対。個人的には『MW』を文庫本で買って後悔した。とりあえず、安く読みたかったから買ったのだが、一度文庫本で読むと、もっと大判の同じ作品を買う気になれない。それ以来、漫画の文庫本は買わないことに決めている。帰りの時間が近づいて、ランチ抜きだったので、目の前に「美味しい」シナモントーストのイメージが浮かぶ。もう朝トースト食べたからとか、どうでもいい。もう少し原画を見たり(何度見るのよ)、図書コーナーで本を読みたかったが、空腹に勝てず、ついに記念館をあとにした。こんだけ長く粘る入館者も多分、珍しいだろうな。グッズも買いましたよ、ほぼ1万円。紹介してもらった駅前のティーハウスサラは、満席に近くてびっくりした。オススメされたシナモントーストとアイスティーを頼む。一口食べて…うわっ、美味しいわ、これ。厚切りのパンは外はカリッと、中はもちっと。じゃりついたシュガーの歯ざわりにシナモンの香りがしっかり。朝の切れっぱしトーストとの違いは、なんなんだ。まったく。紅茶は、のどが渇いていたのでアイスにしたけれど、次はやはりポットでいただきたい。もう次に来る気になってるMizumizu。平日の宝塚ホテルが安い時にしよう。で、また次回も1日中手塚治虫記念館で粘りそう。シナモントーストも外せないから、いったん出て再入場パターンかな、いや早めの夕食か。
2024.05.12
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去年あたりから、フィギュア・スケートファンは思ったはずだ。「なぜキム・ヨナ選手の点って、こんなに高いの?」今シーズンの初戦、グランプリシリーズのアメリカ大会。女子シングルはキム・ヨナ選手の圧勝。2位を20点以上ぶっちぎるトータル193.45の高得点。キム・ヨナ選手の優勝という結果に疑問の余地はないものの、なんだってこんなに差がつくのかわからない、という一般ファンも多いだろう。昨シーズンから顕在化した、意味不明にも見える極端な点差。拙ブログでは昨年さんざん書いて、常連さんなら承知しているだろうが、新しく読む読者の方のためにもう一度書いておこうと思う。昨シーズンから「ジャンプの回転不足」と「フリップあるいはルッツにおける踏切エッジの間違い」の判定が厳密化された。これに苦しめられたのが、日本勢とアメリカ勢。不正エッジ問題は日本とアメリカの有力選手のほとんどが抱える問題だった。ただ1人、この不正エッジ問題を気にしなくていいトップ選手がいた――それがキム・ヨナなのだ。フリップなのにルッツの側のエッジで踏み切る(安藤選手、中野選手、マイズナー選手)、あるいはルッツなのにフリップの側のエッジで踏み切る(浅田選手)、これらのクセは従来から女子選手には多かったのだが、最後の最後にエッジがかわったとしても、肉眼ではほとんど見えない。ただそういうクセをもっている選手のことは審判はわかっていた。この不正エッジでの減点を厳密にすると昨シーズンが始まる前に通達されたのだ。安藤選手は昨シーズン前に、不正エッジを徹底的に矯正した。その結果フリップがルッツ気味になることはなくなったが、他のジャンプ(特にルッツ)の調子を崩した。中野選手はもともと「いつも」不正エッジになるわけではなかったのだが、シーズンインしてみると、減点されたりされなかったりで、気になったのか、ときおり3回転のフリップやルッツが2回転になる失敗が増えた。一番深刻だったのは、浅田選手。無理に矯正しなかったことで、安藤選手のように他のジャンプまで不調に陥ることはなかったが、そのかわりルッツは毎回必ず厳しく減点され、点数が稼げなくなった(詳しくは3/22のエントリーその他を参照)。キム・ヨナ選手はルッツをきっちり外側のエッジにのって踏み切りることができるため、決めればほとんど加点がつき、基礎点を大きく上回る点を稼ぐことができた。キム選手の場合、フリップは若干アヤシイ。きっちり内側のエッジにのって踏み切っていないことは明らかで、エッジが外側に入りかけたところで踏み切るようなジャンプだ。つまり、はっきり外側(不正側)にのっているともいえないが、といってフリップの条件である、内側のエッジで踏み切っているともいえないのだ。今回のアメリカ大会でスロー再生で連続ジャンプがでたが、この傾向は変わっていない。同じことは安藤選手にもいえる。矯正して外側にのることはなくなったが、キム選手と同じくフラットな踏み切りなのだ。だが、とりあえず、間違った側にのって踏み切っていなければ減点の対象にはならない。去年キム選手が他の選手より心理的に優位だったのは、不正エッジ問題を抱えていなかったからだ。今回のアメリカ大会では去年まで問題のあった選手は矯正してきたので、この部分の差はなくなったといえる。だが、そのためにさいた時間は多かったはずで、もともと不正エッジのなかったキム選手は、他の選手よりずっと余裕をもってジャンプの練習ができただろう。問題は浅田選手で、本当に矯正ができたかどうかは試合を――それもスロー再生で――見てみないと今の段階ではわからない。もう1つ、去年から厳密化され、ほとんど「見つけるのに血道をあげている」と言ってもいいのが、ジャンプの回転不足。大変に奇妙なことに、3回転ジャンプを45度以上回転不足で降りてきた場合、それは2回点ジャンプの失敗と見なすというのが今のルールなのだ。そして、その回転不足判定が去年から厳密化された。これが、極端な点差がでるようになった諸悪の根源だ。なぜ、こんなルールにしたかといえば、「大技を抑制する」という意味合いがあった。難しいジャンプに挑戦する選手が増えると、怪我の危険性も増え、選手生命を縮める。難しいジャンプを跳ばなくても勝てる――つまり、ジャンプ大会にしない――ようにすることが目的だった。ところが、トリプルアクセルや4回転のような、非常に難しいジャンプの基礎点があまり高くなかったため、GOEで加点されたルッツのほうがアクセルより点が高くなるなどという本末転倒なことが起こってしまった。この矛盾を見過ごせなくなったため、今シーズンからトリプルアクセルと4回転の基礎点が引きあげられた。これで男子は4回転を跳ばなければ世界一になる確率が低くなってしまい、事実上ジャンプ大会に逆戻りすることは間違いなくなってしまった。女子の場合は4回転をもつ選手はいない(安藤選手は試合でもう何年も決めていない)し、トリプルアクセルをもつ選手もほんの数人なので、基礎点があがったことでジャンプ大会になるということはない。ただ、女子選手に多い、「若干回転不足のジャンプ」に対する減点が苛烈なため、見た目の印象以上に極端な点差が出る試合が増えたのだ。回転不足かどうかは、着氷時のエッジの位置で見る。肉眼でも「あ、回転足りてないかな」とわかる場合もある。降りてから「グルッと回ってしまっている」ようなジャンプが回転不足なのだ。きちっと回って降りてくるとエッジが氷についてから回転するようなことはない。肉眼でほとんどわからない回転不足気味のジャンプは、昔から女子選手には非常に多い。だが、従来はとりあえず、転倒せずに降りてきて、お手つきしたりオーバーターンが入ったりツーフットになったりしなければ、「成功ジャンプ」と見なしてきた。それは非常に合理的な判断だ。多少回転が足りないとはいっても、3回転ジャンプは2回転以上回っている。ところが、回転が足りない3回転ジャンプは2回転ジャンプの失敗と見なしましょう(これがダウングレートとGOEでの減点でのダブルパンチだ)というのが、新採点システムであり、しかもスロー再生で、肉眼ではきれいに降りたように見えたジャンプの着氷まで何度もチェックして、厳密減点するようになったのが去年から。難しいジャンプはそれだけ、回転不足になりやすい。セカンドに跳ぶトリプルループは特にそうだ。やはり悲惨だったのが去年の浅田選手。セカンドにトリプルループをもつ彼女は、決めたように見えてもしばしば回転不足(ダウングレード)判定される。そうしたことが気になったのか、セカンドジャンプの精度そのものが落ち、ショートプログラムでしばしば失敗することになった。この回転不足判定の影響をほとんど受けなかったのが、またキム・ヨナ選手なのだ。彼女にはもともとセカンドに跳ぶトリプルループも、トリプルアクセルもない。トリプルトゥループは得意なので、セカンドに跳んでもほとんど回転不足にならずに降りてくることができる。だから、ダウングレード+GOE減点の餌食になることはなく、しかもなぜか、いつの間にやら飛距離にすぐれた彼女のジャンプが加点のお手本のようにされ、大盤振る舞いともいえる加点を得て、点数をのばした。問題はこの回転不足判定が、試合によって厳しい審判と厳しくない審判がいることだ。よく解説の元選手が、「もしかしたら、回転が足りてないかもしれない。ダウングレード判定にされるかも。ジャッジがどう判断するかわからない」と言っているのは、そのこと。実際に点が出ないとわからないのだ、たとえプロの目からでも。Mizumizuの見るところ、セカンドジャンプの回転不足判定は、トリプルループジャンプには厳しいが、トリプルトゥループには厳しくない。今回のアメリカ大会のフリーでキム選手の最初の連続ジャンプのトゥループは若干回転が足りていないように見えた。ところが減点されるどころか加点されていた。同じことは去年の浅田選手にも起きた。スローで見たら、若干セカンドのトゥループの回転が足りていないように見えたのに、減点されずに逆に加点されたのだ。今回のアメリカ大会、安藤選手のジャンプについては、解説の荒川静香も本人も「ジャンプはよかった」と言っていた。ところがプロトコルを見ると、かなり回転不足を取られている。ループは確かに回転が足りていない。さらに、ショートの単独トリプルフリップに関して――スローを見ても荒川静香は、「いいジャンプ」と言っていたし、Mizumizuも着氷のあとに流れもあっていいジャンプのように見えたのだが――プロトコルをみるとダウングレードこそないものの、GOEで減点されていた(加点したジャッジ、加点も減点もしなかったジャッジもいた)。「どうして?」とスローを何度も見たが、若干降りてから回っている――つまりほんの少し回転が足りないかな、と思わないでもなかった程度。それでマイナス2をつけたジャッジもいるのだ。これはいくらなんでも減点しすぎだろう。GOEはこのようにジャッジが勝手に加点・減点できるのだ。ショートで安藤選手とキム選手には10点近く差がついた。見たところ安藤選手はステップではコケたが、ジャンプはすべてきれいに決めた(ように見えた)。一方キム選手は明らかにわかるお手つきで演技の流れが止まってしまった。ところが、この2人のジャンプの点をみると、3つのジャンプの合計がキム選手20.36点、安藤選手15.5点と、ジャンプだけで5点もの差がついている。あとの要素の積み重ねもあるが、基本的にあの点差はジャンプの評価の差によるものが大半なのだ。解説ではそのあたりのことに全然気づかすに、「(安藤の)ジャンプの調子がよすぎて、返って…」などと的外れな話にななっていた。的はずれ、というのが実は的外れなのかもしれない。つまり、プロトコルを見なければ、安藤選手のショートのジャンプの点がそんなに低いなど、思いもよらないからだ。なぜそんなことになるのか? その答えが回転不足判定なのだ。お手つきは、回転不足で降りていなければダウングレード(基礎点がさがること)にはならないから、案外痛手にならないのだ。見た目は転倒と同じぐらいプログラムの流れを止めてしまう「お手つき」だが、実際は回転不足よりずっと減点が少ない。ジャンプの点をみるとキム選手3F+3T 10.73Lz 7.62A(お手つき) 2.062Aのお手つきはGOEのみの減点だが、なんと厚顔にも「減点していない」ジャッジが1人いる。お手つきをして流れが完全にとまったのに減点なしとは! 加点・減点は上下は1つずつ切るから、1人だけ不正な審判をした人間がいてもたいした影響はないといえばいえるが、問題なのは、GOEの加点・減点はマイナス3からプラス3までジャッジが主観でつけていいことだ。スピンやステップ、2回転ジャンプはジャッジのつけた加点・減点がそのまま反映されるわけではない(詳しくはウィキペディアの「フィギュアの採点方法」を参照)のだが、3A以外の3回転ジャンプについては上下を切り、コンピュータがランダムに選んだジャッジの点の平均値がそのまま反映される(わかりにくいでしょう?)ので、主観による加点あるいは減点がかなりの比重を占めることになる。基礎点が決まってるから、新採点システムは採点が客観的になった、なんてのは嘘なのだ。実際には主観による自由度がかなり高いし、ランダムに選ばれたGOEの加点・減点のどれが拾われるかで点もかわってくる、ルーレットのようなところもあるのだ。安藤選手のショートのジャンプの点は3Lz+3Lo (Loがダウングレードで2回転の基礎点になり、そこから減点されて)6.53F(GOEでマイナス2、マイナス1、ゼロ、プラス1と評価が分かれたものの、マイナスのジャッジが多くて基礎点の5.5から下がって)4.52A 4.5<続きは明日>
2008.10.29
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素晴らしい結果に終わったフィギュアスケート世界選手権大会。ペア、男女シングルで3つの金メダルなんて、「マジ、信じられない」。まずはペアの「りくりゅう」。木原選手が高橋成美選手と組んだのを見たときは、こんな輝かしい彼の未来は予想だにしなかった。いや、ペアで世界金が獲れる日が来るなんて、長らく想像さえできなかった。日本人のペアの場合、どうしても男性の非力さが目立っており、そのこと自体が越えられない壁になっていた。今の木原龍一選手の堂々たる体躯、力強いリフトを見たら、むしろそうした過去の逸話のほうが信じられないかもしれない。そして、三浦璃来選手という理想的なパートナー。身長差も程よく、技術力も高く、何より運命的に木原選手との相性がいい。試合の出来自体は…サルコウとスローループがね…どうしてもチャンピオンにはクリーンな演技を期待してしまう。次はすべてのジャンプをビシッと決めた、「りくりゅう完成形」が見たい。女子シングル。ワールド二連覇という、日本スケート史上初の快挙を成し遂げたのが、トリプルアクセルもクワドもない坂本花織選手だったということに、喜びと同時に不思議さも感じる。これを成しうる才能があるとすれば、それはむしろ紀平選手だと思っていた。しかし、大技と隣り合わせの怪我によって、彼女の姿はこの舞台にはなかった。坂本選手をこの快挙に導いたのは、彼女のもつダイナミックなジャンプとスピード感あふれるスケーティング。特に連続ジャンプのセカンドにつける3トゥループの質の高さと確実性が大きくモノをいった。課題だったルッツのエッジも年々きちんとアウトサイドにのれるようになってきていて、ショートは文句なし。フリーは…? 正直、最後にインサイドに流れ気味だったようにも見えたが、カメラの角度のせいかもしれない。女子シングルは、ジャンプに関しては停滞気味。トリプルアクセルをクリーンに決めてみせる選手がいない。ドーピングの疑惑なしに、この大技を含めたすべてのジャンプを決める逸材が現れるのは、もう少しあとになるかもしれない。改めて、トリプルアクセルの難しさを思い知らされる――そして、この大技を何十年も前に文句を言わせない完成度で成功させていた「レジェンド 伊藤みどり」の異星人ぶりを再確認する試合になった。そして、男子シングル。宇野選手は、もともとMizumizuの好みの選手。スケーティングの美しさ、表現の幅広さ、そして4トゥループ、4サルコウに加えて、その上のレベルである4ループと4フリップを跳べる技術力。宇野選手はクラシックでも、シャンソンでも、映画音楽でも、見事に音楽と溶け合う稀有な才能をもっている。「踊れる」という一言では言い切れない、見るものを幻視へと誘う魔法のような仕草・動き。他の舞踏芸術にはない、フィギュアでしか堪能できない世界観を構築することができる。加えて、演技全体から醸し出される、品の良さ。この上品さは、いったいどこからくるのか。どうして身につけることができたのか。誰か教えてほしいくらいだ。ランビエールというコーチを得たことで、「シルバーコレクター」で終わるかもしれないギリギリに立たされた選手が、日本人初のワールド二連覇という快挙を成し遂げるところまできた。つくづく、人生は出会いなのだと思う。スイスうそっぱち委員会は、この快挙を受けて、ランビエール侯を公爵に格上げし、「ランビエール公のいとも豪華なる時祷書with宇野昌磨」の製作を決めたという。と、(ほとんど誰にも受けないであろう)冗談はさておき、アイスダンスにも触れないわけにはいかない。村元・高橋組の演技は、アイスダンスという枠にとどまらない魅力がある。日本人のアイスダンスの演技で観衆がいっせいに立ち上がる。こんな光景は見たことがない。大ちゃんは人気があるから…という人もいるかもしれない。だが、「人気」などというものは、それ自体移り気なものなのだ。シングル選手として頂点を極めた高橋大輔が、まったく畑の違うアイスダンスの世界に飛び込んで、ストイックに自分を鍛えなおす。アイスダンスの日本と欧米のレベル差は大きい。年齢のこともある。こんな世界に飛び込むなんて、銃を構えて待っている人々の前に飛び出すようなものだ。彼は、その危険な賭けに勝ったのだ。、埼玉ワールドでのスタンティングオベーション、万雷の拍手がそれを証明している。彼らの演技は順位以上に観衆の胸に迫った。同時にアイスダンスという競技の可能性が広がった。この奇跡を天才・高橋大輔のエピソードだけで終わらせたくない。あとに続く日本人のアイスダンサーが、いつかこの二人を超える拍手を観衆から受ける日を、Mizumizuは夢見ている。
2023.03.26
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水沢うどん→伊香保露天風呂→榛名神社→榛名ロープウェイと回って、いよいよ伊香保温泉といえばココ、の石段街にやってきたMizumizu+Mizumizu連れ合い。おお~、賑わっている。「THE温泉町」と言いたくなる、これぞ名湯・伊香保の風情。こちらが伊香保で入ったもう1つの温泉。「石段の湯」。立地の良さで知られる共同浴場。伊香保には「黄金の湯」と「白銀の湯」という2種類の泉質があるのだが、この「白銀の湯」というのがクセモノ。1996年に開発されたもので、成分こそ温泉だが、ほとんど効能はないと言われている。観光客が増え、温泉の供給量が間に合わなくなったことが「白銀の湯」の開発のきっかけ。名湯・伊香保の湯はあくまで古くからある「黄金の湯」なのだ。伊香保に来たのなら、設備はよくても泉質の悪い「白銀の湯」よりも、規模は小さく、清潔度は落ちても「黄金の湯」に入りたい。というわけで、立地もよく、黄金の湯かけ流しだという「石段の湯」を2番目(そして日帰り旅の最後の)温泉に選んだ。石畳の温泉街をそぞろ歩き、饅頭や食事をすませたあとに入浴したのだが、この「石段の湯」、入ってみて意外なことを知った。かけ流しはかけ流しなのだが、なんと「塩素消毒」をしているという。えっ?その表示にかなりテンションの落ちるMizumizu。源泉から遠く、温度が高くないたいめに、雑菌が繁殖する恐れがあるということだろうか? 詳しい人に聞いたわけではないから、はっきりわからないが、かけ流しの温泉が、塩素消毒するとは予想外だった。別に塩素臭がするということはない。言われなければ、単純に源泉かけ流しの100%温泉だと思っただろうから、きちんと表示があるのは良心的(というか、消毒の有無表示は義務だが、全国の温泉施設すべてが、忠実に義務を順守していると思えないのだ)だが、ネットの観光案内では、そこまで書いていないのがほとんど。共同浴場だから混んでいて、温泉地に来たゆったり気分も味わえずに終わった。露天がないのは承知の上だった。最初に野趣あふれる露天風呂に入るから、2番目は体が洗えて、かけ流しならいいだろうと思ったのが、あまりに共同浴場・共同浴場しすぎていて、伊香保まで来た甲斐がない気がしてしまった。こんなことなら、「黄金の湯」を引いている温泉旅館あるいはホテルの日帰り入浴を利用すればよかったかな? しかし、伊香保は水道水を温泉と偽って営業していた温泉旅館が大問題になったことがあり、それがたとえごく一部だったとしても、いまだに印象がよくない。あまり下調べをする時間もなく決めてしまったのだが、立地の良さのほかは、東京からわざわざ来て入るほどの浴場でもなかった。泉質だったら、源泉に一番近い「伊香保露天風呂」が最高だろう(ただし、体を洗ったりはできないが)。伊香保で塩素消毒かあ… 効能豊かなお湯というイメージだったのに… そう考えると、山口に散在している「俵山温泉」「柚木慈生温泉」「(川棚)小天狗温泉」など、素晴らしいじゃないですか。俵山温泉は、旅館のほとんどが内湯をもたずに少ない効能豊かなお湯を守っている。そのすぐれた泉質を、「西の横綱」と言う人もいる俵山温泉の共同湯には、消毒なしのかけ流し浴槽がちゃんとある。柚木慈生温泉は、体を洗うのもやっとの小さな温泉で、お世辞にもきれいとは言えないが、炭酸ガスその他の有効成分を大量に含む、全国でも珍しい泉質。小天狗温泉は、厳冬期に加温するのみの、源泉100%かけ流しの含弱放射能泉。ここも小さな旅館の温泉で、一度入ってどうということもなかったが、「本当の温泉」を守る姿勢が素晴らしい。とはいえ、伊香保の温泉街の風情と賑わいは、見て、歩いて、楽しめた。一晩泊まってもいいかな…という気持ちにもなった。車の通らない道が、温泉街のメインストリートになっているというのもいい。石畳の道を横に折れて入っていくと、旅館がある。こういう立地は最高だろう。古い伊香保町の絵図もあった。それを見ると、昔はこの石段がもっとずっと横に広かった様子。夕方になってくると、宿泊客が浴衣でそぞろ歩き始める。日帰りの身とすると、なんとなくうらやましい。急な高低差のある道の眺めは、変化に富んでいておもしろい。歩いている人にも風情がのり移るようだ。階段を登りつめると、神社があり、その先をさらに歩くと、「伊香保露天風呂」に行ける。やはり東京に住んでいたら、一度は来ないと、伊香保。楽しい温泉街散歩だった。PS:伊香保の「黄金の湯」を引いている旅館は以下:http://www.ikaho-koganenoyu.net/
2014.06.01
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日本のみならず海外にも大きなショックが広がった、漫画家鳥山明の突然の死去。鳥山明を育てたとして知られる鳥嶋和彦氏は、かつてインタビューでこのように語っていた。https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/torishima/4鳥嶋氏: ええ、漫画の歴史において手塚治虫さんとちばてつやさんは「別格」。それは僕の中ではかなり確信を持って言えることですね。鳥山明さんだって、あくまでもそうした作家たちの積み重ねの上に成立した、“偉大なるアレンジャー”でしかない。実際、『Dr.スランプ』は『ドラえもん』と『鉄腕アトム』、『ドラゴンボール』は『里見八犬伝』と『未来少年コナン』の変形でしょ。(引用終わり)鳥嶋氏は、鉄腕アトムの影響下にある作品として『Dr.スランプ』を挙げているが、鳥山氏自身は、ドラゴンボールの悟空の髪型にはアトムの影響があるのかもしれないと述べている。鳥山氏は幼い頃、『鉄腕アトム』が好きで、登場するロボットの模写に熱中していたという。こういう体験が無意識の影響になることは多い。個人的には、鳥山氏自身が言うほどには似ていない気がする。アトムの髪型よりずっとオーバーな「角」になっているし、形も「オリジナリティ」がある。その意味で、まさに鳥山氏は偉大な「アレンジャー」だ。元祖アトムだって、5本のまつ毛の、あのかわいいぱっちりお目目は、キューピーちゃんからだと手塚治虫自身が言っているが、「そういわれればそうかな?」ぐらいだ。革新的な功績を成し遂げた天才は、「オリジナリティ」にあふれた人だと思われがちだが、実はそれは正しくない。天才と呼ばれる人間は、その多くが模倣から出発しているし、どのくらい先達の作品を自分の血や肉として採り入れたかが後々、その人の「オリジナリティ」としてモノを言ってくるのだ。これはピカソが若い頃「古典派の巨匠のような絵を描く」と感嘆されたことからも分かる。若くしてそれほどのテクニックを身につけていたからこそ、ピカソは古典的なスタイルを破壊し、新しい様式を創造し、されにそれを破壊しつづけてピカソ・オリジナルの世界を確立できたのだ。鳥嶋氏は言及していないが、鳥山明の『ドラゴンボール』にも、『鉄腕アトム』の影響があることに気づいた人がいる。いまさら鉄腕アトムを読破して驚くドラゴンボールに与えた影響:ムゲンホンダナ(本棚持ち歩き隊!!):SSブログ (ss-blog.jp)実際にアトムを読んでみたら、これはスゲエ漫画だと思い知らされたのである。驚いたのは、今ある少年漫画のヒット作のあれこれを、すでに鉄腕アトムでやっているということだ。浦沢直樹「PLUTO」の元ネタ、「地上最大のロボット」を読みながら思った。空を縦横無尽に飛び回って戦う、これってドラゴンボールじゃん!主題歌の歌詞にも出てくる10万馬力。アトムの前に立ち塞がる敵ロボットは、30万馬力、50万馬力、100万馬力とインフレしていく。戦闘力じゃん!100万馬力の強敵、プルートウのデザインはフリーザの第二形態に似てる!ちなみにドラゴンボールは戦闘力5から始まってジワジワ上がっていき、戦闘力100万越えするのはフリーザ第二形態!これは狙ってやってたのだろうか。(引用終わり)それはともかく――Mizumizuが個人的に面白いと思ったのは、シッポをめぐる手塚治虫と鳥山明の態度の違いだ。鳥山明の場合は、上の画像にあるように、「シッポがないと特徴がない」と編集に言われて、シッポを足したものの、描くときに邪魔でしょうがなく、すぐに尻尾を切るエピソードを考えたのだという。手塚治虫は?Mizumizuが偏愛する『0マン』の主人公リッキーは、シッポのあるリス族の進化した生物なのだが、「この主人公にシッポをつけたのは、かいているうちに急にインスピレーションがわいたのです。漫画評論家のある人によれば、手塚はよくシッポのある人間の物語をかくということですが、たしかにそういえば、なぜかそういうキャラクターにへんな性的魅力を感じて、つい登場させてしまうのです。なにか、性的な異常心理と関係でもあるのでしょうか?」(『0マン』 あとがきより)せ、せいてきないじょうしんりって・・・、テヅカセンセ、ご自分で・・・『0マン』のリッキーも一度、このように↓シッポを失ってしまうのだが、すぐ人工物のシッポを作ってもらって、元の姿になっている。シッポを失ったときのリッキーの嘆き方も、尋常ではなく、愛おしそうに切れてしまったシッポを抱きしめ、「やわらかいフワフワしたぼくのシッポ。さようなら。もう会えないね」と涙をひとつぶながし、「シッポのおはか」まで作っている。シッポが切れてしまって熱にうなされるリッキーの描写は、とても愛おしい。高熱で衰弱している少年の姿が、うるんだような瞳が、漫画的な表現なのにリアルにこちらに伝わってくる。そして、そのあとにくるエピソード――リッキーを助けて自らは重傷を負ったまま立ち去るギャング(じつは元医者)の姿、快復したあとに亡くなった見知らぬ人やシッポのお墓をつくって弔うリッキー、たったひとりで荒野を歩みだすリッキー…この一連の場面、『0マン』の中でも、とりわけ好きだ。鳥山明作品については、読んでないので個人的な感想はなし。手塚治虫の後継者の呼び声が高いのは知っている。明治節にちなんでつけられた「治」。これに「明」を合わせると明治となる。なるほど、これは明治大帝の思し召しでしたか(サヨクはっきょう)。<次のエントリーに続く>【中古】 0マン 2 / 手塚 治虫 / 中央公論新社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2024.03.15
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最初の長崎ではあまり積極的に見て歩かなかった鼈甲。鼈甲というとなんとなく、高価だが古臭いイメージがあったからだ。だが長崎も二度目となると、記念に何か買ってもいいかなという気持ちになってきた。めがね橋のすぐそばの店、トータス・ジュエリー「甲」、前回来たときに、ここのおじさん(経営者なのか従業員なのかは不明)にお世話になったのだ。店の前でなんとなくうろうろしていたら、なんとなく声をかけられ、めがね橋の由来など聞いたついでに、「おいしいちゃんぽんの店はありますか?」「おいしいカステラの店は?」と聞いてみたら、江山楼と匠寛堂を教えてくれた。それでいて、別に自分の店に連れ込む(笑)でもなかった。興味を示したら案内したのかもしれないが、前回はまるで買う気がなかったので、それが態度にありありと出ていたのかもしれない。今回は自分から店に入ってみた。おじさんの姿はなく、売り込み上手な女性店員さんたちに囲まれて、逃げにくい雰囲気に・・・(笑)。いろいろ見せてもらったが、それがことのほか楽しい時間になった。期待していた以上にモダンなデザインのものも多く、「鼈甲って時代遅れ」などという偏見が吹き飛んだ。Mizumizu母が買ったチョーカー。身に着けると軽いのだが、見た目は重厚感がある。フォーマルなドレスなどにも合いそうな雰囲気。ふだん使い用に、中の円いチャームだけを下げる黒いカジュアルなチェーンもつけてくれた。他にも鼈甲店は見たが、「甲」は全般的に値段は高いがデザイン性に優れたものが多く、商品のクオリティは非常に高かった。いわゆる観光客向けの手ごろなお土産・・・ではなく、文字通り本格的なジュエリーとして使えるものをおいている。店を出たところで、バッタリおじさんに遭遇。店にもう1度入って観光用の地図などもってきてくれた。その態度は明らかにこの店の人間。しかし・・・「買ってくれたの。ありがと。何を買った?」と言われたので、「チョーカー」と答えたら、「チョーカーって何?」 えっ??本当にトータス・ジュエリーの店の人だったのだろうか?
2011.06.02
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文句のつけようもない圧巻の勝利だった。グランプリ・シリーズ第一戦アメリカ大会、女子シングル。韓国のキム・ヨナ選手が、193.45点で2位の中野選手に20点以上点差をつけての勝利。誰も彼女には歯が立たなかった。キム・ヨナ選手の強さは、実は大技がないことにもその一因がある。彼女にはトリプルアクセルはない。ちょうどシニアにあがるころだったか、いくぶん力を入れて練習した時期もあり、韓国のマスコミは「来シーズンはトリプルアクセルに挑戦」などと囃し立てたが(いずこの国も同じだ)、キム選手自身、「なぜトリプルアクセルを入れないのか」としつこく聞く韓国メディアに、「私には跳べないから。そんなに簡単に跳べるならやっている」と答えている。なおもしつこく、「練習では成功したこともあると聞くが」と質問した記者に対しては、「練習でも一度も成功したことはない」と明言した。トリプルアクセルはそれほど難しい技なのだ。キム選手にはセカンドに跳ぶトリプルループもない。それどころか、単独のトリプルループさえ大の苦手で、今回も練習中派手にコケていたし、フリーでもシングルループになっていた。だが、キム選手にはダイナミックなトリプルフリップ+トリプルトゥループの連続技があり、ダブルアクセル+トリプルトゥループもある。しかもセカンドジャンプのトリプルトゥループの成功率が抜群。セカンドジャンプにトリプルループという難度の高い技を持ちながら、さかんに回転不足でダウングレード+GOE減点をくらう安藤選手、浅田選手とは対照的だ。キム選手は、トリプルルッツの大きさにも定評がある。個人的には、飛距離に比べて高さは若干欠けるように思う――理想的なジャンプは大きな放物線を描くジャンプなのだが、キム選手の場合はその放物線が幅広がりになって山が低い――が、飛距離と着氷の確かさで加点を稼ぐことができる。去年のあまりの大盤振る舞いの加点には若干疑問もあったのだが(そういう声が多かったのか、去年よりルッツへの加点は控えめだ)、現行のルールにのっとった結果であることは間違いない。昨シーズン、ルッツ踏み切りのときのエッジの間違いを克服できずに減点されまくった浅田選手とは、これまた対照的なのだ。大技はできない、しかも怪我がち――だったら、余計な「挑戦」はせずに、今持っている技術を磨こう。キム選手の場合は、目標がそれだけなのだ。ジュニア時代の最後のあたりで入れてきたジャンプ構成と今のジャンプ構成はほとんど変わりがない。何年もかけて繰り返してきたことで、確実性は増すばかり。なまじっか天才的なジャンパーであったために、4回転に固執したり、連続ジャンプの構成をいじっている安藤選手や、ジュニア時代の4回転ループ、ショートでのトリプルアクセルをつかった連続技、シニアに入ってからのステップからのトリプルアクセル(これが最高にバカバカしい試みだった)などと、無謀ともいえる挑戦に時間を使い、ルール改正によってもともとの欠点だった、不正エッジ、回転不足、着氷の乱れなどの細かいミスでじゃんじゃん減点されるようになってしまった浅田選手とは違い、着実に自分の世界を完成させていっている。恐らく、今がキム選手の絶頂期だ。これが来年、再来年になるとどうなるかわからない。17歳から20歳までと若干個人差はあるものの、ピークが早く、衰えも早いのが女子フィギュア選手の運命。残酷なほど選手生命が短い競技なのだ。今回のキム選手のショート、フリーは、ともに振付も非常にいい。ショートの「死の舞踏」のやや陰鬱な世界、フリーのシェヘラザードのアラビックな妖艶な世界。キム選手の個性を生かしつつ、得点を稼ぐポイントをおさえたうまい構成になっている。振付のデヴィッド・ウィルソンはニコライ・モロゾフ、ローリー・ニコルなどに比べるとやや落ちるという印象のある振付師だったが、キム・ヨナという類いまれなミューズを得たことで、また評価がぐっと高まるだろう。コスチュームも去年に比べてずっとよくなった。シンプルな色使いにスパンコールを散らし、ほっそりとしながら大人びてきたキム選手の美しさを引き立てるデザインになっている。シェヘラザードは選曲としてはありふれている。安藤選手、クワン選手、皆忘れたようだが伊藤みどり選手がアルベールビルで銀メダルを獲ったときのフリーの曲もこれだった。過去の一流スケーターが多く使ってきた名曲だが、キム・ヨナ選手のシェヘラザードが恐らく一番、それもダントツで美しい。ポーズや動作にはクワン選手や太田由希奈選手の影響がはっきりと読み取れる。だが、ジャンプに向かう助走の間に、しなやかな腕の動きを生かしたポーズを一瞬入れるだけで、キム選手は人の目をひきつけることのできる魅力がある。浅田選手のような動的で華麗な細かいステップこそないが、メリハリのきいたターン動作、まるで蛇がうねっていくような、氷にはりついたままの独特なエッジ遣い、深いカーブを描きながらの上下運動を入れたステップ、すべて去年以上に磨きがかかっている。挑発的な視線は先々シーズンのショートと同じといえば同じだが、これだけ自分の世界に入って表情を作ることのできる選手はそうはいない。キム選手に対抗するには、もともと中野選手は役不足だ。3+3の連続ジャンプがないし、トレードマークのように言われるトリプルアクセルも実は常に回転不足気味。回転不足の減点が大きい現行のルールでは、あまり大きな武器にはならないのだ。期待された安藤選手だったが、武器のはずの3+3の連続ジャンプが回転不足判定で点をもらえなかった。セカンドに跳ぶトリプルループ――肉眼ではショート、フリーともきれいに降りたように見えたのに、両方ともダウングレード判定。完璧に降りれば、女子では最高難度の連続技であり、12点以上の得点が期待できるトリプルルッツ+トリプルループも6.5点にしかならなかった。フリーのトリプルトゥループ+トルプルループ(これは今年から入れてきた)もたったの4.3点。フリーのキム選手のトリプルフリップ+トリプルトゥループは、実はスロー再生ではトゥループが若干回転不足に見えたのだが、ダウングレードなしで加点までついて10.5点、ショートでは10.7点。去年より若干加点は抑えられている気もするが、これだけ連続ジャンプで差がついては勝負にならない。安藤選手の場合はプログラムコンポーネンツの点も予想外に低かった。フリーではキム選手の60点に対して52.16点。ジャンプ以外のところでのトゥが氷にひっかかってつまずく場面などがあったとはいえ、52点というのはあまりに低すぎる。これは、ちょっと可哀想だ。だが、当代一の振付師であるはずのニコライ・モロゾフの振付が、今年はもうひとつ冴えないというのも事実としてある。モロゾフは今年、彼の最大のミューズを失った。高橋選手との師弟関係解消は、実のところ「振付師」モロゾフにとって一番の損失だったと思う。どういうことか説明しよう。フィギュアスケートの場合、通常は振付師がコーチを兼ねることはない。ところがモロゾフはこの2役をこなす。もともとチャンピオンメーカー、タチアナ・タラソワのチームで振付師としての名声を得たモロゾフは、高齢で氷に立てないタラソワにかわって選手のコーチングをすることで、コーチとしての力量を磨いてきた。コーチとしてのモロゾフの名声を決定付けたのは、荒川選手のトリノでの金メダル。さらに、安藤選手をどん底から復活させ世界女王に導いたことでさらに評価が高まった。当然、コーチングを希望する選手が殺到し、多忙になった。コーチはもっぱらビジネスだが、振付師はアーチストだ。革新的で優れた作品を作るためには、あまりに多忙では集中できない。また、振付師を触発してくれるミューズの存在が絶対に必要になる。振付師は自分だけで仕事をするわけではない。優れた素材と出会ってこそ優れた振付ができるのだ。バレエの世界でローラン・プティにジジやヌレエフがいたように、タラソワのもとにはヤグディンのような一級のスケーターがおり、そうした表現者に触発されてモロゾフはフィギュア史に残る名プログラムを発表してきた。高橋大輔というスケーターは恐らく、ヤグディン以後、モロゾフが得たもっとも優れた才能だった。小塚選手はエルドリッジに、織田選手はハミルトンにたとえることができるが、高橋大輔のようなスケーターは過去をひもといてもほとんどいない。ディープエッジを遣った伸びのあるスケーティング、キレのあるステップ、やや「バロックな」ダークな個性。王子様タイプが多いフィギュアの世界で、高橋選手のように「この世ならざる者」のドラマを表現して、独自の世界を構築できるスケーターはほとんどいないのだ。高橋選手というミューズを得てモロゾフが作ったのが、『オペラ座の怪人』を頂点とする一連の名プログラムだ。去年はヒップホップの動きを大胆に取り入れたショートプログラムで高い評価を得た。安藤選手への振付も音楽の使い方が非常にうまかった。そうしたモロゾフのアーチストとしての側面が、コーチというビジネスの中に埋没してしまっている。もともとコーチと振付師を兼ねるのは大変なうえに、昨今の多忙。今年は高橋選手というミューズもいない。今シーズンのモロゾフの振付は、去年までのような革新性や斬新さが、ほとんどどの選手のプログラムにもない。すべて過去の作品の焼き直し、大量生産のコピーなのだ。安藤選手のプログラムも、一部腕の動きを工夫して、セクシーな大人の魅力を出そうとしているが、キム・ヨナ+デヴィッド・ウィルソンのようにハッと目を惹くものではない。ジャンプで負けているうえに、振付でも負けている。おまけに安藤選手は肩を痛めてからビールマンスピンを失った。あのダイナミックなビールマンがなくなってしまったのは、ファンとしては本当に淋しいし、悲しい。安藤選手のショートでのレイバックスピンのレベルは1、得点はたったの1.5点。キム選手はレイバックスピンで3点取る。安藤選手はステップではつまずくことが多い。この状態でキム選手に対抗するのは、やはり無理だ。安藤選手の課題は、4回転よりむしろ、セカンドに跳ぶトリプルループをきっちり回って降りてくることだ。だが、これが非常に難しい。トリプルループを2度目に跳ぶということは、一度動きを止めなければならない。一瞬スピードがなくなった状態でもう一度跳ぶのだから、高さが出ずに3回転しないまま降りてきてしまうことになる。高さを出そうとタメを長くとると離氷が遅れ、今度は初めから回転不足気味になる。以前はそれほど厳しくとらなかったのが、去年からスロー再生できっちり見ている。ループはセカンドジャンプではもともと回転不足気味になりやすいのだ。安藤選手は肩に爆弾を抱えているし、試合直前の怪我も多くなった。これは、キャリアが終わりかけているということだ――残酷なことを言うようだが、女子フィギュアの、しかもジャンパーの選手生命が短いことは、ファンも知らなければならないし、覚悟しなければならない。彼女の目標はオリンピックで最高の演技をすることなので、今シーズンは無理をせずに、調整だと思って試合に臨んだほうがいいだろう。あまり「4回転、4回転」と囃し立てないことだ。今年跳ぶのが目標ではなく、オリンピックの晴れ舞台で決めることが安藤選手の悲願なのだから。日本のメディアの浅はかさには、本当に閉口する。小塚選手と安藤選手を見れば「4回転は?」、中野選手を見れば「トリプルアクセルは?」――大技は、一見決めたように見えても、回転不足判定があれば大々的に減点される、博打の要素が高いのだ。この3選手の場合は、諸刃の剣であるこうした大技を、しかも完成させているとは言えないのだ。練習で150%できて初めて試合で決められるといわれるのがジャンプだ。確実に決められない大技ばかり「やれやれ」とばかりに囃し立てるのは、選手のためにもならないし、大技さえ決まれば勝てるというような、ファンの誤解も招く結果になる。
2008.10.28
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「rules」――西荻窪、北口。骨董品や個性的な雑貨を扱う店の多い道を抜け、善福寺方面に向かってしばらく歩いた半住宅街にその店はあった。ブリティッシュテイストのデスクに、さりげなくアクセサリーやポーチを並べた、貴族的な日常を感じさせるディスプレイに惹かれて入ってみる。すると、そこにはファブリックとレザーを上品に組み合わせた、ハンドメイドのバッグの数々。デザインは一見クラシカルだが、斬新さもさりげなく取り入れている。手作りのぬくもりを残しつつ、細部まで丁寧につくりこんだ職人技の光る逸品が並んでいる。壁に掛けられた、リズミカルな柄物のバッグ。花と鳥のハーモニーが楽しい。見ているだけで気持ちが明るくなる。ゴブラン織りの横長の小ぶりのバッグに目が留まる。裏地もしゃれていて、レザーのハンドル部分にはスエード調の人工皮革の裏張りがしてある。柄はフランスの古風な貴婦人のイメージだが、紫の1つボタンで留めたシンプルなデザインは今風だ。Mizumizuはスクエアなカタチのバッグが大好き。同じデザインでファブリックを替えて作れるということで、いろいろ見せていただく。こちらはハウンドトゥース・チェックのツイード。かなりブリティッシュな優等生的なイメージ。フローラル刺繍が上品なフェミニンなバージョンも。布の切り方、つまり花の位置を工夫してあるのが、よく分かる。生地を見せてもらうと、Mizumizuがよく着るブルーの服に合いそうなフローラルパターンを見つけた。花柄のバッグは案外持っていないので、その生地を使って作って、同じデザインで作ってもらうことにした。職人でもあるオーナーと、裏地やボタン、ボタンにかける紐なのど色を打ち合わせる。いったん全部決めたのだが、後日さらに「裏地に使う布は、こちらのほうがベター」という提案を受けた。裏見返しの部分をより厚くて強い生地にして、裏地は無地のシャグリーンカラーで爽やかさを出したいとのこと。Mizumizuが書類に書いた電話番号が間違っていて(汗)、連絡がつかなかったということで、rulesのほうで布地の見本を郵送してくれた(住所は間違って書かなくて、よかった・笑)。ちなみに、裏見返し部分の色は写真では黒に見えるが、実際はネイビー。もちろんご提案どおり。お任せする。こちらが出来上がったMizumizu注文のブルーローズ柄。写真は片面しか映っていないが、両面で柄の取り方が違い、ひっくり返すと、視覚的に楽しい。鏡に映っているので分かると思うが、サイドはネイビーでマチがしっかり取ってあるので、大きさのわりには案外入る。ハンドルはネイビーのレザーで、裏はレッドの人工スエード。持ってみるとしっとりと手になじむ。ボタンは紫で、紐が赤。円いボタンの裏は、四角の小さな半透明の貝ボタン。細部まで手がこんでいる。お出かけ用バッグのバリエーションが広がり、とても嬉しく、満足した。価格も俗に言う「西荻価格」で、特注ハンドメイドのわりに高くない。ついでにシルク製イヤリングもお買い上げ。シルクなのでとても軽い。耳につけてみると、華やいだボリューム感があり、リゾートチックな雰囲気だ。色はいくつかあったが、Mizumizuが選んだのはレモンイエローにライムグリーンのコンビ。ちょうど合う夏用の服があるので、夏に活躍してくれそうだ。さりげなく上質の、心地よいハンドメイド。西荻は全体としては、アジアンチックな、ゆる~い雰囲気の街なのだが、つぶさに歩くと、ふっとこういう旧き良きヨーロッパの伝統を受け継ぐ店にも出会える。懐の深い街だ。
2017.06.09
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Mizumizuが手塚漫画にハマるきっかけになったのは、『海のトリトン』を読んでからなのだ。そして、この漫画に行きついたのは、アニメ『海のトリトン』のオープニングを飾った『Go! Go!トリトン』からだ。https://www.youtube.com/watch?v=LIetONBzm9kいきさつは、こうだ。このアニメは子供時代、テレビで放映されていた時に、数回見た記憶がある。少年向けアニメにありがちな、「次々現れる敵と戦う(そして、倒す)」というストーリーにすぐ飽きて見なくなったのだが、オープニングの曲とトリトンと白イルカの躍動感あふれる海洋でのアクションシーンは大、大、大好きだった。『Go! Go!トリトン』は不思議で、いったんはまったく聞かれなくなったのが、ずいぶん経ってから復活して、なぜか甲子園でよく演奏されるようになった印象があった。You Tubeで検索したら、『Go! Go!トリトン』はやはり人気で、アップされた動画にはたくさんのファンのコメントがついていた。歌詞も大人へのステップを踏み出す少年と神秘的な海のイメージを融合させた素晴らしいものだし(作詞は林春生)、曲もいい。調べてみたら作曲はジャズ畑の鈴木宏昌。子供向けのアニメソングに、なんともオトナな異色の才能をもってきたものだ。メロディラインはもちろんのこと、楽器の使い方もカッコイイ。成熟した男性歌手の歌もうまいし、そこに児童合唱がかぶさってくることにもテーマ性を感じる。このアニメソングを聞いて、デーモン小暮閣下は歌手を目指したとかいう噂も聞いた。『海のトリトン』の原作は手塚治虫。ところが、一部アニメファンの(元)少年たちの原作に対する評価が、えらく低い。「アニメと全然違って、つまんなかった」「面白くなくて、メルカリで売った」等。演出…といいながら、最終回の脚本は完全に自分のオリジナルだと話す富野由悠季に至っては、「原作漫画はつまらなかった」「手塚先生も失敗作だと思って、自分の自由にさせてくれたのだと思う」などと勝手なことを言っている。手塚漫画はたいていストーリー展開が複雑で、ドンパチアニメが好きな少年たちにあまり受けないのは、分かるのだ。しかし、手塚治虫自身が自作の『海のトリトン』を失敗作だと言った――という話は聞いたことがない。いろいろ調べてみると、「アニメのトリトンはぼくのトリトンではない」「ぼくは原作者という立場でしかない」という発言は見つかった。「ぼくのトリトンをあんなに改変しやがって」的な発言はまったくない。ちなみに実写映画『火の鳥』と『(宍戸錠版)ブラック・ジャック』については、「火の鳥をあんなにしちゃって。あの映画は失敗です」「(宍戸錠のメイクに対して)あんな人間いません!」と酷評したという話は残っている。だが、アニメ『海のトリトン』の出来に関しては、公けには否定も肯定もしていない感じだ。あえて触れないようにしているようでもある。それは、もしかしたら『海のトリトン』プロデューサーで、天下の悪人、西崎義展とのトラブル…というか、手塚の信頼につけこんで西崎が起こした著作権かすめ取り事件…のせいかもしれない。Mizumizuは手塚版トリトンを読んだことがなかったのだが、それほどおもしろくないと言うなら、どんなつまらない作品なんだろう…と思って図書館で借りてみた、というわけなのだ。で、読んでみたら…面白いじゃん! これ!なんとまあ、アニメとはまったく別作品と言っていい。これって、原作って言えるのか? というレベルのかけ離れ方だった。原作は実によく構成されている。先が気になって、どんどん読んでしまう。以下のように漫画版『海のトリトン』を奨めている人もいる。アニメと原作の違いを短い文章でうまく説明している。https://konomanga.jp/guide/66230-26月8日は、国際的な記念日である「世界海洋デー」。もとは1992年の本日に開かれた地球サミットにて提唱されたもので、2009年より正式に国連の記念日として制定された。その趣旨を要約すると「海の環境と安全を守ることは、人類の責任である」といったところだが、そんな記念日に読んでいただきたいマンガといえば……海を舞台にした作品は数あれど、やはり手塚治虫の代表作のひとつである『海のトリトン』をまずはオススメしておきたい。本作はテレビアニメ化された映像作品のほうで知っている人も多いとは思うが、原作とアニメでは登場人物や設定がかなり異なっていることはご存じだろうか?もちろん、手塚治虫のどメジャー作品だし「読んでて当然!」……と言いたいところではあるが、アニメの直撃世代の人に「原作にはオリハルコンってまったく出てこないんですよ」とか言うとたいがい驚かれたりするのもまた実情だったりする(※少なくとも観測範囲では)。そもそも当初は主人公がトリトンですらなく、アニメに登場しない矢崎和也という人間の少年を軸に物語が展開するのだが、ほかにもトリトンに海中での戦い方を指南する丹下全膳や、トリトンに心惹かれ、大きな役割を果たす少女・沖洋子、さらにトリトンをつけ狙うポセイドン族の刺客でありながら、その洋子に情愛の念を抱く怪人・ターリンなど、原作のみに登場する重要キャラクターは多数。そして何よりも重要なのは、トリトンと人間との出会いはアニメ以上にセンシティブな問題をはらみ、人間の身勝手さが強調されていることかもしれない。『海のトリトン』の原作においては、人間が海洋汚染などにもう少し敏感でいれば回避できたであろう悲劇もたびたび描かれている。そして海に生きる者からの視点もしばしば登場する本作は、「世界海洋デー」に読むにはピッタリだろう。<文・大黒秀一>大黒氏は、明らかに手塚のトリトンを面白いと思って書いている。Mizumizuも同感だ。Mizumizuなりに追記するとすれば、『海のトリトン』は『ジャングル大帝』と双璧をなす親子3代にわたる大河ロマンだ、ということだ。『ジャングル大帝』アフリカのジャングルを舞台にしたライオン、『海のトリトン』は海を舞台にした海洋族が主人公。そして、初代、つまり主人公の親は、人間界とはかかわりを持たない存在として、さっそうと登場するが、すぐ亡くなる。2代目、すなわち物語の主人公は人間と深いかかわりを持ち、成長していく。その中で様々な闘争に巻き込まれる。そしてちらっと出てくる3代目は、2代目が持ったような幸せで親密な関係を人間との間にもつことはなく、どちちらかと言うと人間の醜い面を目の当たりにして、おそらくは物語の終了後、人間社会とは離れた存在になっていく(であろう)――というような展開も共通している。アニメ版主人公のトリトンの顔は、髪の毛の色以外は…まぁ確かにギリシア風の衣装とか、手塚アイデアだろう(ただし、手塚作品では、トリトンは少年から成長し、大人になって子どもを作るのだ)。イルカのルカーも色と目つき以外は、原作に近い役割のキャラクターだ。アニメのオープニングで海洋爆発があるが、これは原作にあると言えば、ある。だが、アニメ版の最初、上から爆発の場面をとらえ、次にカメラを引いて、それが海洋上であることを示し、さらに、古代チックな石が吹き上がってきてタイトルの文字になる…というのは完全にアニメチームのアイデア。秀逸ではありませんか! それに続くルカーとトリトンそのアクロバティックな海のシーンも、アニメでしかできないダイナミズムと美しい色彩にあふれている。素晴らしいじゃありませんか!<長くなってきたので続きは次回>
2024.02.06
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<前回、2024年2月6日のエントリーから続く>アニメ版『海のトリトン』は、番組の最初と最終話がYou TUBEにアップされている。アトランティスやオリハルコンといったワードから連想されるのは、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』。宿敵への復讐を遂げて、ピピとイルカたちを伴って海の彼方に去っていくラストシーンは『モンテ・クリスト伯』を思わせる。ただ、最終回は、富野由悠季が「こういう終わりにすると話したら絶対に反対されるので内緒にしていた」というように、意表をつくどんでん返しが用意されていたのだ。それは主人公トリトンの属するトリトン族は、過去にポセイドン族を人身御供として扱っていた、という歴史的事実だ。被害者と思われていたトリトンが実は加害者の子孫であり、わずかに生き残っていたポセイドン族も、トリトンが、そうとは知らずに根絶やしにしてしまっていたという大いなる罪の告発だ。富野氏の見解は、「少年は大人になる時、なにかしら罪を背負うもの」。それをこのアニメのラストで描きたかったのだという。善と思われていた側は実は悪でもあったという二重性を、子供向けアニメにぶっこんだというのは、実に挑戦的かつ革新的だ。ただ、番組上でのその説明…かなり長く一方的なので、多分当時の子どもには分からなかっただろう。もちろん、そんなことは承知のうえでのシナリオだろう。手塚漫画が子供時代によく理解できなくても、大人になってその重層的な意味に気づくように、富野由悠季も加害者と被害者、善と悪は逆転しうるという哲学を、子供たちの未来へのメッセージとして残したのだ。このラストシーンでのどんでん返しがなければ、たとえ『ガンダム』があろうとも、アニメ版『海のトリトン』の再評価はなかったはずだ。一方の、手塚版のトリトンも、一族の血を守るため、ポセイドンの子供たちをすべて葬る。そして最後は、不死身のポセイドンとともに「ともだおれ」となることを選ぶ。手塚版で感じるのは、戦争体験の根深さだ。満身創痍になりながら、倒せない敵にどこまでも向かっていく姿は、まるで特攻隊員。そして、死にゆくトリトンの目に映るのは…「地球は海でいっぱいだ。青いうつくしい海。あのどこかにピピ子と子どもたちがすんでいる」そして、帰ってこないトリトンを待つピピ子は、まるで美しくも哀しい戦争未亡人。彼女は残された子供たちの「自ら成長しようとするたくましさ」を見て、(おそらくは)悲劇を乗り越えていく。戦乱の不条理の中で生まれた子供は、はやく大人になるのだ。父親トリトンの遺志を継ぐべく、自ら立ち上がるブルートリトンの幼くも凛々しい姿は、ある意味、親の描く理想の子供像でもある。戦争による飢餓を体験したからこそ思い付いたのだろうと思える怪物も出てくる。いくら食べても食べても満足できず、食べた分だけ毒の排泄物をまき散らして歩くゴーブだ。奇怪で滑稽なこの怪物は、その破壊的な行為とはうらはらに、どこか哀れですらある。アニメ版『海のトリトン』は、のちの評価はともかく、放映当時はさほど視聴率が取れなかったが、実は南米でも放映されていたようで、You TUBEで面白い投稿を見つけた。https://www.youtube.com/watch?v=QPcCNfepLRQ投稿によると、なんと最終回は「(子供向け番組としては)暴力的すぎる」という理由で放映されなかったというのだ。You TUBEで字幕付きで最終話をアップしている動画を見て、感激している海外ファンが昔を懐かしんでいる。ワールドワイドな人気を博した日本のアニメの一つと言っていいのだろう。トリトン役の塩谷翼の声が、また傑出している。ホンモノのボーイソプラノで、日本の少女たちを虜にしたようだ。少年役は女性が当てることが多いなか、この塩谷少年の声と迫力は、アニメを一層感動的なものにした。と、同時にこの魅力的な声が「大人になるトリトン」を描いた手塚版との違いを決定づけた。手塚版のトリトンでは、あの名曲『GO! GO! トリトン』も生まれなかっただろう。イメージが違いすぎる。このように、『海のトリトン』は、天才漫画家の作品も素晴らしいが、アニメ版を作るために集ったメンバーも才能あふれる面々で、まったく違う魅力をもった別々の作品になったという、珍しい好例だろうと思う。ただ、富野由悠季氏の、手塚治虫自身も漫画のほうは失敗作だと思っていたのでは――などというのは、とんでもない言いがかりだ。それは手塚治虫漫画全集『海のトリトン』4巻(講談社)の手塚治虫自身のあとがきを見ても明らかだ。サンケイ新聞に、長い間「鉄腕アトム」を掲載したあと(編注:「アトム今昔物語」のこと)、編集部との話し合いで、"海を舞台にした熱血もの"をかくことにきめたときは、まだ、こんなSFふうのロマンにするつもりはありませんでした。(中略)かいていくうちに、物語は、はじめの構想からどんどんはなれて、SF伝奇ものの形にかわっていきました。よく、主人公が作者のおもわくどおりに動かず、かってに活躍をはじめることがあるといわれますが、トリトンの場合もそのとおりで、あれよあれよと思っているうちに、ポセイドン一族やルカーやゴーブができていってしまったのです。↑このように、キャラクターが勝手に動き出す…というのは、作者自身がノって描いている証拠だ。手塚治虫の代表作の一つだという人もいる。トリトンやピピ子が、変態によって一挙に4~5歳成長するという設定も、それこそ「格の違う変態」手塚先生ならではのエロチシズム。変態を終えて成熟したピピ子の美しさにトリトンがドギマギするシーンなどは、Mizumizuが好きな場面の一つ。超自然的な存在であるガノモスが、最後に浮き島となってトリトンの家族を守るというのも、絵画的に美しく幻想的なラストだ。複雑に絡み合う多彩なキャラクター、予想もつかない展開、重層的なテーマと詩的なラスト――やはりMizumizu個人としては、手塚版トリトンに軍配を上げたい。
2024.02.06
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ジャン・ジャック・アノー 監督作品の中では、『薔薇の名前』よりも、『愛人/ラマン』よりも、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』よりも、『スターリングラード(Enemy at the Gate)』が好きだ。この作品、舞台は第二次世界大戦下、史上もっとも悲惨な市街戦となったスターリングラード攻防戦なので、典型的な戦争映画と思いきや、大河なる歴史の流れよりもむしろ、個人の感情の動きにスポットを当てたヒューマンドラマで、愛国バンザイでも反戦マンセーでもない。いかにもフランスの知識層による演出らしい、アナーキーな思想が滲み出た物語になっている。とはいえ、戦争映画の大作らしく、大規模な空爆や、狂気の銃撃戦を含めた死者累々の地上戦など、カネかけた迫力ある戦闘シーンも当然大きな見どころになっている。スターリングラードの「赤の広場」の噴水の情景は、ぞっとするほどリアルだ。だが、『スターリングラード』で一番興味深かったのは、ヴァシリ・ザイツェフ(ジュード・ロウ)と宿敵ケーニッヒ少佐(エド・ハリス)、それにヴァシリの同志ダニロフ(ジョセフ・ファインズ)の3人の男たちの人間模様。ヴァシリとダニロフの友情を破綻させることになる、才色兼備のターニャ(レイチェル・ワイズ)の存在感も光った。ヴァシリは、ウラルの山育ちの羊飼い。幼いころから羊の番をする都合上、必要に迫られて狼を撃つことで銃の腕を磨いてきた。戦場でヴァシリに出会った文才のある青年将校ダニロフは、ヴァシリの卓越した射撃の腕に驚き、戦場のヒーローに仕立て上げて、国威発揚に利用しようと画策する。ヴァシリに将校を次々と射殺され、さらにはそれをネタにしたソ連の宣伝工作にも煮え湯を飲まされたドイツは、ヴァシリを暗殺すべく、超一流のスナイパーをスターリングラードに送り込んでくる。それがバイエルン貴族のケーニッヒ少佐。生まれも育ちも対照的なヴァシリとケーニッヒ少佐。映画での初登場シーンが、そのすべてを語っている。ヴァシリは、他の多くの兵士と一緒に、鉄道の狭い貨物車両に、モノのように積まれて戦場に運ばれてくる。外から鍵をかけられた、ぎゅうぎゅう詰めの列車内では、兵士たちは立ったまま、ほとんど身動きさえできない。そんな中で、青年ヴァシリは、まるでロマンチックな出来事を待ちでもするかのように、遠くを見つめている。列車が青年兵士たちを運ぶのは、地獄のような激戦地なのだが、その運命を誰もまだ知らない。車両に日が差してきて、青年ヴァシリの瞳を美しく輝かす。ケーニッヒ少佐の初登場シーンは、太陽がとっくに沈んだ夜。シャンパンをテーブルに置いた豪華な専用車両に1人で乗り、戦地へ向かう。貴族然とした物腰も、ヴァシリとはあまりに対照的だ。このとき、向こう側の線路に、負傷兵を詰め込んだ車両が入ってくる。傷を負った兵士たちは、隣りの豪奢な車両に1人でゆったりと腰掛けている、いかにも階級の高い将校の姿に、当然のように注目する。すると、ケーニッヒ少佐は、無造作に窓のカーテンを降ろして、彼らの視界を遮ってしまう。そこには、何の同情も共感もない。下々の人間には一切の関心がない、いかにも心冷たい貴族的な態度だ。ヴァシリは自分を暗殺すべくやってきたドイツ人将校の射撃の腕前が、自分をはるかに凌ぐものであることに、すぐに気がつく。「5歳ですでに狼を射殺した」などという、誇張されたエピソードで世紀のスナイパーに仕立てあげられたヴァシリだが、所詮は羊飼い。もともとは「工場で働きたいなぁ」というささやかな夢をもった、田舎の労働者階級の息子に過ぎなかったのだ。ヴァシリは、ちょうど羊を狙う狼のように向かってくる敵や静止している敵を撃つのには長けていたが、ケーニッヒ少佐の腕はそんなレベルをはるかに超えていた。建物から建物へ飛び移ったわずか一瞬を狙って、同志を一発で射殺されたヴァシリは、「あんな腕前は見たことがない」と全身を震わせて恐怖する。まともにやりあって勝てる相手ではない。ヴァシリは、自分を無敵のヒーローに祭り上げた同志ダニロフに、その苦悩をぶつける。最初のうちは、有名になったことを単純に喜び、有名にしてくれたダニロフに感謝していたヴァシリだったのだが…ダニロフに、無敵のスナイパーとしてではなく、ただの一兵卒として戦いたいと訴えるヴァシリ。だが、ヴァシリにはもはや、その道は許されない。この作品、大作なのだが、微妙な小技も効いている。ケーニッヒ少佐が捨てていったタバコを拾って、吸ってみるヴァシリ。少佐愛飲のタバコは、フィルター部が金の巻紙になっている、めったに見ないようなお高そうなモノ。ゆっくりと吸い止しを唇ではさむヴァシリ。このときのジュード・ロウのアップは、なぜか場違いに淫靡な雰囲気(カントク、狙ってますね)。自分とは縁のない上流階級の味は気に入らなかったようで、吸ったとたんに、「なんだ、こりゃ」と言わんばかりに、すばやく口からタバコをはずすヴァシリだった。やがて、ヴァシリとケーニッヒ少佐は、戦況などそっちのけで、互いを仕留めることしか眼中になくなっていく。国対国の壮絶なはずの争いが、いつしか男と男の決闘の陰に押しやられ、ウラルの羊飼いとバイエルンの貴族にとって重要なのは、自分の国がスターリングラードでの戦闘に勝つことではなく、自分自身が相手を倒すことになっている。銃を構えたジュード・ロウのアップは、もちろん麗しいのだが…そんな彼も、ケーニッヒ少佐演じるエド・ハリスの圧倒的な存在感の前では、しょせん青二才か? 自分の息子に対しては深い愛着を垣間見せる一方、敵国の貧しい少年は利用するだけ利用し、ためらいもなく冷酷に惨殺する偏った人間性も、ケーニッヒ少佐の特殊な育ちを強く意識させる。だが、ケーニッヒ少佐は、本来なら負けるはずのない相手に敗北し、時代とともに没落する貴族階級さながらの運命を辿ることになる。普通ではかなわない相手との闘いに命を懸けているヴァシリだが、戦場に咲く一輪の花のようなターニャとの間に、熱いロマンスが芽生える。ところが、ターニャには同志ダニロフも横恋慕。ヴァシリとは親友といっていいほど仲がよかったダニロフなのだが、ターニャがヴァシリに思いを寄せていると知ると、あっけなく友情は放り出して、ガクのないヴァシリを蔑み始める。ターニャに、「ヴァシリなんてさ~、射撃の腕がいいだけのバカな羊飼いじゃん。あんなヤツはさ、いずれはお役ごめんで死ぬことになっているの。ボクとキミはさ、インテリゲンチャよ。戦争終わっても役立つ人材だろ。ボクらは教育受けてるしさ、無学なヴァシリなんかとは、違った使命をもった人間なんだよ。だからボクらがくっつくほうが正しいの!」とまあ、そこまではさすがに言ってないが、それに近い選民思想をチラつかせ、ターニャを口説く。もちろん、こんなこと言うオトコは振られることになっている。ターニャは、ダニロフ無視のヴァシリ一筋。他の兵士たちと雑魚寝のヴァシリに、大胆にも夜這いをかけるのもターニャのほう。純朴なヴァシリも燃えます。衛生状態(ついでに周囲の眼も…)モノともしないラブシーンは、さすがフランス人監督。おフランス映画のかほりの漂うシーン。向こうで口あけて寝てる兵隊さんが、なんか妙にゆるくてグッド。ほんっとこの映画、小技効いてるなぁ…ターニャに振られたダニロフは、ヤキモチを炸裂させる。ヴァシリと自分を切り離すように、2人仲良く写った写真にハサミを入れるダニロフ(案外ロマンチックなことするお方ですこと。それじゃヴァシリに振られたみたいじゃん)。ダニロフは復讐を開始。ヴァシリに反共産主義的な言動が見られると、軍本部へ密告するのだ(インテリゲンチャは、案外やることがセコい)。ダニロフの告げ口にびっくりして眼をむいている、タイピスト役のオバさんの表情がイイ。だが、最後にはダニロフはそんな醜い自分の心根を嫌悪し、命を投げ出して、ヴァシリとの友情を償おうとする。「隣人をうらやむことのない平等な社会を築こうとしても、結局のところ、羨望は人間の性。人は自分にないものを欲しがる。そして、愛に恵まれるか否かという1点だけとっても、貧富の差はどうしようもなくある」――ダニロフがヴァシリにつぶやく今際の言葉は、共産主義批判に留まらず、人間の普遍的な真実を突いている。社会体制がどう変わろうと、人が平等たりえることは決してない。だが、ダニロフが望んでも得られなかった愛に恵まれたヴァシリは、ダニロフがこれを最後と思い決めて話す「真理」をほとんど聞き流しているようでもある。ヴァシリは難解な話は理解しない。ヴァシリが激しい反応を見せるのは、人の生き死にかかわるときだけだ。自殺に等しいダニロフの死は、図らずも、知識階級のもろさと労働者階級のたくましさをあらわにする。この映画、最後は、死んだと思っていたターニャを病院でヴァシリが見つけ出して寄り添う、優しくもロマンチックなカットで幕切れとなる。ダニロフは死んだが、愛し合う2人は生きている。ヴァシリとターニャの純な愛の美しさと同時に、愛そのもののもつエゴイズムも、そこはかとなく感じさせる大人の演出。大掛かりな戦場のシーンはハリウッド的だが、筋書きに漂う哲学はいかにもフランス的。主役のジュード・ロウも準主役のジョセフ・ファインズも全然ロシア人に見えない。『スターリングラード』の無国籍的な味わいは、Mizumizuにとっては欠点ではないが、伝説の狙撃手ヴァシリ・ザイツェフに思い入れのあるロシア人から見たら、違和感アリアリの映画かもしれない。
2009.05.14
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フィギュアスケートのグランプリ・シリーズ第1戦、スケートアメリカのショートプログラムで、小塚崇彦選手が「ようやく」その才能に見合った成果を出した。パーソナルベストを一挙に10点近く更新する会心の出来で、ライザチェック、ウィアーに続く3位。実は技術点だけを見ると、ラ44.10、ウィ42.50、小44.70と小塚選手がトップ。これは、彼がいかに「スケートがうまいか」を示している。ジャンプに欠点がある小塚選手だが、今回はすべてきれいに決め、特に最初の3+3の連続ジャンプなど、セカンドジャンプのほうが高いぐらいで、際立って質が高かった。フィギュア・スケートはなんといっても、「滑りの技」を競う競技。持ち前のクリーンでシャープな滑りに加え、今シーズンの小塚選手は高橋選手顔負けのディープエッジを披露した。これまでどちらかというと直線的なエッジさばきでスピード感を出す選手だったが、こういう幅のある表現もできるテクニックの持ち主であるということを証明してみせた。「ようやく」と書いたのは、小塚選手はもう少し早くこの段階に来る、来てほしかった、という思いがあるからだ。ジュニア世界選手権を制した後、シニアに参戦してからの小塚選手は怪我もあってジャンプが思うように決まらず、なかなか結果が出なかった。転機になったのは昨シーズンの世界選手権。シーズンをとおして最も安定した出来で、ジャンプもまずまず決め、有力選手のミスに助けられた面があったとはいえ、8位という結果は立派だった。その勢いをかって今シーズンは飛躍の年になるのではと思ってはいたが、スケートアメリカでのショートプログラムは、期待以上の出来だった。さて、プログラムの振付を見ての感想は、「笑っちゃうほど佐藤有香(=振付師)だった」ということだ。まるで佐藤有香自身が滑っているかのようですらあった。以前からやってはいるが、ステップの途中での駆け出すような動作、腕をくの字に上げて首をひねるポーズ、スピンから出るときの慎重でいながら限りなくスムーズな、正確無比な脚のポジショニング、プログラム後半にストレートラインステップとサーキュラーステップを連続させる構成――佐藤有香も1994年に、当時世界最高と謳われたフットワークをプログラム後半にもってきて観客の拍手を浴び、ジャンプではかなわなかったライバルのボナリー選手を抑えて世界女王に輝いたが、あのときのプログラムを彷彿とさせるものだった。ストレートラインステップとサーキュラーステップを連続させるというのは、よほどステップに自信がなくてはできない冒険だ(去年はランビエールがショートでやっていた)。今回の小塚選手はちょっと体力負けしている部分があるように見受けられた。あの氷の上を音もなく跳ねるような、誰にも真似のできない見事なステップで世界チャンピオンになった佐藤有香がそうであったように、小塚選手も多彩な長いステップで観客を圧倒できれば、点数はもっと上がってくる。だが、そうは言っても、小塚選手ならではの素晴らしさにも目を奪われた。フライングシットスピンに入るときに振り上げる脚の高さとポジションの美しさは恐らく世界一だろう。今回ことに目を惹いたのは、イーグルへの入り方と出方の流麗さ。あれほどスムーズに身体を使える選手はそうはいない。イーグルのポジションで滑る時間自体は短いのだが、その瞬間、小塚選手が大きく見え、はっと胸をつかれるような「華」がある。身体の動きがスムーズだというのはつまり、エッジ遣いが秀逸だということ。エッジ遣いにはもともと定評のある小塚選手だが、たとえば、小さく跳び上がり、素早い回転動作とともにエッジを返す、そのキレのよさは、まるで「スケート靴の刃が一瞬きらめいて見える」ほど。清潔で正確、品行方正な滑りは和製トッド・エルドリッジと呼ぶにふさわしい。スピンの軸がブレず、きちっと回れるところもエルドリッジのテクニックを思い起こさせる。クラシック系よりも現代音楽が似合うところも同じだ。今回はジャズを使ったが、小塚選手の個性にピタリとはまっていた。ただ、エルドリッジもそうだったが、こうした優等生的なスケーターは、曲選びがだんだん難しくなる。まだ先の話だが、キャリアを重ねるにつれ、見た目の新鮮さをどうやって保っていくかが課題になるだろう。この勢いでフリーに……と言いたいところだが、そうはうまく行かないのがフィギュア・スケートの難しいところ。小塚選手の欠点は、依然として「ジャンプ」だと思う。時間の長いフリーでジャンプを決めるには、体力と精神力が必要になる。日本男子シングルで、現段階で世界トップを争えるのが高橋選手しかいないのは、彼しか4回転を跳べる選手がいないからだ。もちろん、ステップやスピン、表現力といった要素も大切だが、やはり今のフィギュアではジャンプの比重が高い。しかも、今年からはルールが変わり、4回転の基礎点が高くなった。失敗すれば減点も大きいから、4回転がない選手でも優勝できるチャンスがないわけではないが、それはあくまで他の選手の失敗待ちになる。織田選手は4回転を本格的に練習し始めてから、他のジャンプの調子を崩した。小塚選手が和製エルドリッジなら、織田選手は日本のスコット・ハミルトン。クルクルッと回り、ピタリと決める。着氷のスムーズさで見れば、アクセルジャンプ以外(織田選手はトリプルアクセルが苦手だ)なら高橋選手よりきれいに降りる。ジャンプの失敗がないことで、グランプリシリーズを制したこともある織田選手だが、先々シーズン(先シーズンは出場停止と自粛で試合に出なかった)はそのジャンプにミスが出て結果がついてこなかった。小塚選手も4回転をやるとかやらないとか取りざたされているが、彼の場合は、4回転を跳ぶより、その他のジャンプをすべてきれいに決めることのほうが優先的な重要課題だ。高橋選手なら4回転を入れて、かつその他のジャンプをミスなく降りる実力がある。小塚選手はまだその段階には達していない。4回転を入れれば失敗するか、成功しても他のジャンプのミスを誘発する可能性が高い。滑りのうまい小塚選手なら、たとえ4回転がなくても、他のジャンプに失敗がなければ世界で5指に入るぐらいの実力はあるはず。ただ、世界トップを狙うためには4回転は必要になる。フリーでどうするのかは、佐藤コーチの判断によるところが大きいが、佐藤コーチという人は基本的に、「できないことをやるより、できることをすべてきちっとこなす」ことのほうを優先させる人だ。そのコーチが小塚選手のジャンプ構成をどうもってくるか、フリーの注目点だろう。小塚選手は「まだ19歳」だと思うかもしれない。確かにエルドリッジの時代だったらそう言えただろう。エルドリッジが世界チャンピオンになったのは、24歳のときだ。だが、今は? 先日ランビエールが引退を表明したが、彼はまだ23歳。男子シングルのスケーターの選手生命は以前より確実に短くなってしまった。これは明らかに4回転時代に入ってからだ。4回転を跳ぶ選手は、それだけ選手生命が短い。25歳ぐらいで――いや、むしろ25歳を待たずして――ほとんど皆、深刻な怪我に見舞われ、引退を余儀なくされている。それが今の男子選手の残酷な現実なのだ。4回転を(ほとんど)跳ばなかったエルドリッジはプロ転向後も、現役時代とさほど変わらぬスケートを披露することができた。ところが、ヤグディンもプルシェンコも怪我以降は、全盛時代とは別人のようになってしまった。本田武史もティモシー・ゲーブルもほとんど同じ運命。しかも、終わりは突然来る。こんなことは4回転時代以前の選手にはなかった悲劇だ。19歳の小塚選手だが、世界のトップを争うのにまだ早すぎるということはないのだ。今年は彼にとって飛翔すべき年であり、つまりは勝負の年。注目して見守りたい。やはりなんといっても、「ジャンプの出来」がすべてを決める。最後のライバルの印象を。ライザチェック選手は4回転を入れるのをやめ、その変わり去年以上にプログラムの密度を濃くしてきた。これは去年の高橋選手の作戦と同じ。身体はよく動いていたので、フリーでも期待できる。ウィアー選手のほうは逆に、もうひとつの仕上がり。ジャンプで着氷がツーフットになったほかにも、ときどき浮き足のエッジが氷をこするミスがあった。長いフリーをうまくまとめてこれるのか、4回転――もともとウィアー選手はライザチェック選手に比べると4回転の安定度は落ちる――は入るのか、ショートの出来を見ると、若干不安が残る。
2008.10.26
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萩尾望都に漫画家になることを決心させた手塚治虫の『新選組』。作家の藤本義一も好きな手塚作品にこれを挙げていた。萩尾望都は分かるとして、藤本義一が『新選組』を選んだのは意外。ただ、藤本氏は『雨月物語』の現代語訳をやった作家…と考えれば、少しつながるかもしれない。で、今日はちょっとしたトリビアを。現在、手塚治虫『新選組』を原案とする『君とゆきて咲く』が放映中だが、主人公の名前、深草丘十郎。この丘十郎というネーミング、おそらくはあるSF作家から来ている。それは海野十三。日本のSFの始祖の一人と言われている作家だ。手塚治虫は『のらくろ』の田河水泡と海野十三を「ボクの一生に大きな方針を与えたくれた人」だと書いている(『手塚治虫のエッセイ集成 わが思い出の記』立東社より)。海野十三には別のペンネームもあり、そのうちの1つが丘丘十郎なのだ。少年手塚治虫は海野十三の小説を寝食を忘れて読みふけった経験があるという。海野も大阪で頭角を現してきた青年漫画家、手塚治虫のことは知っていて、妻に、「自分が健康だったら、この青年に東京に来てもらい、自分が持っているすべてを与えたい」と語っていたという(中川右介『手塚治虫とトキワ荘』より)。海野は1946年ごろから結核にかかり、1949年5月に51歳で死没する。手塚治虫+酒井七馬の『新宝島』発売が1947年1月。1947年に『火星博士』、1948年に『地底国の怪人』と『ロストワールド』。『メトロポリス』が1949年9月だから、海野が読んでいたのはおそらく『ロストワールド』まで。手塚治虫と海野十三には個人的なやりとりは何もない。それでも海野は、手塚治虫という青年漫画家が自分の影響を受けていることを作品から読み取ったのだろう。手塚治虫が医師国家試験に合格し、東京のトキワ荘を借りるのが1952年。海野が亡くなって3年後だ。もう少し海野が生きていたら、二人の対面もなっていただろう。1950年前後の日本に、SFという言葉はない。SF作家と呼べる人もほとんどいなかった。星新一や小松左京が出てくるのはもう少し先の話だ。手塚作品と海野作品の共通点については、Mizumizuは海野作品を読んだことがないので語ることはできないが、タイトルが、明らかに海野十三オマージュだと気づく作品が多い。『日本発狂』(手塚)『地球発狂事件』(海野)のように。もっとも、猫が重要な役割を果たす手塚作品『ネコと庄造と』のタイトルは、『吾輩は猫である』なんて目じゃないほど猫の生態に精通した作品『猫と庄造と二人のをんな』からだから、手塚治虫という人の博覧強記ぶりには驚かされる。いや、『猫と庄造と二人のをんな』と『ネコと庄造と』は、全然似ているところはない作品なんですがね、話の内容は。ただ、谷崎潤一郎という人の猫に対する愛情と理解の深さは、夏目漱石なんて足元にも及ばない。というか、夏目漱石は明らかに人間に興味はあっても、猫については無知だ。話を手塚版『新選組』に戻すと、この作品、テレビドラマが始まってから初めて読んだのだが、なかなか面白かった。萩尾望都と『新選組』については、このYou TUBE番組が面白い。https://www.youtube.com/watch?v=Z1q21iHz-Y4Mizumizuが惹かれたのは、その様式美。花火を背景にした一騎打ちはそのクライマックス。そのほかにも、下からアングルで描いた橋の下での魚釣りとか、上からアングルで見た階段での襲撃とか面白い構図があちこちに出てくる。物語として惹かれたのは、あまりに「語られないエピソード」が多すぎて、逆にこちらが二次創作してしまう点。例えば、大作は、人並みはずれた剣の技を持ちながら、なぜああも虚無的なのか。彼はおそらく死に場所を求めてスパイとなった(と、頭の中で妄想)。そして、ワザと丘ちゃんに負ける(と想像)。親友の手にかかって死ぬことを選ぶまでに、彼の前半生に何があったのか。長州のスパイだというから、吉田松陰の薫陶を受けたのかもしれない。だが、志を抱いた倒幕の志士と考えるには、彼はあまりに傍観的だ。過去が何も語られないからこそ、自分でそのストーリーを補いたくなる。ここは是非、萩尾望都先生に鎌切大作を主人公に、その生い立ちから丘十郎との出会い。出会ってからの彼の心の揺らぎを描いてほしい。丘十郎の純粋さが鎌切大作の内面をどう動かしたのか。ある意味、大作は丘十郎の純粋さに命を奪われるのだから。丘十郎に海外留学の手筈を整える坂本龍馬のエピソードは、あまりに飛躍しすぎだが、もしかしたら坂本がフリーメーソンと関わりがあったというのがこの突拍子もない展開の背後にあるのかもしれない。そのあたりも語れそうだ。手塚治虫はあとがきで、「時代考証メチャクチャ」「異次元の新選組」と言っているが、時代考証完全無視の異次元時代劇は今大流行りなので、手塚治虫がその元祖だったということか(笑)。あまり人気が出なくて途中で打ち切ったという手塚『新選組』だが、全集を見ると、それなりに版を重ねていて、不人気作品とも思えない。なにより1963年の作品が、2020年代になって歌舞伎になったりドラマになったりしている。ドラマ『君とゆきて咲く』もイケメンがダンスする、異次元・新選組になってる。将来的には、こうした「特別な友情」にキュンキュンする層をターゲットにした、ミュージカルにもなるかもしれない。新選組 (手塚治虫文庫全集) [ 手塚 治虫 ]
2024.05.04
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<きのうから続く>スロー再生をみながらでも、荒川静香――つまりプロ――が「いいジャンプ」と言っていた安藤選手のショートのトリプルフリップだが、プロトコルを見ると、結局は(加点された)ダブルアクセルと同じ点にしかなっていないのだ。1本の木を見てその木の評価ばかり「厳密」にしたから、こんな矛盾めいた点になる。若干質がよくなかった(と判断したジャッジがいた)からといって、一応ちゃんと決まったトリプルフリップがダブルアクセルと同じ点になるなんて、理解できない。これもトリプルジャンプに対するGOEを他の要素と同じく、何割掛けかにすれば防げることなのだが、なぜかそうしたルール改正をしようという動きはない。 安藤選手のトリプルフリップのGOEに、プラスをつけた審判がいたりマイナスをつけたりする審判がいることからもわかるように、GOEの加点・減点は実にテキトーなのだ。それはそうだ。「ジャンプの質」と言っても、どこを見るかで評価はわかれる。軸が細くまっすぐなジャンプは垂直跳びに近くなって飛距離がでないし、飛距離のあるジャンプは大きさがあってダイナミックだが、軸が傾くことが多い。前者のタイプが浅田選手で後者がキム選手およびコストナー選手なのだが、なぜかGOEの傾向をみるとキム選手やコストナー選手のような飛距離の出るジャンプばかりが加点をもらう傾向にある。キム選手が跳ぶと、軸が傾こうが、着氷後に上半身が「グラッ」としようが、なぜか加点されている。おそらく飛距離と着氷時のエッジ処理(回転不足なく降りてこれているかどうか)で見ているのだろうと思う。どうしてそうなったのかはわからないが、一応の指針が示されてジャッジがその基準に従っているのだろう。だが、浅田選手やコーエン選手のような軸の細い、山が高く回転の速いジャンプもそれはそれで個性であり、それなりの美しさがある。いったいいつの間に、まるで飛び箱でも飛ぶように、やたら勢いをつけて跳ぶキム・ヨナタイプの3+3の連続ジャンプがお手本ジャンプになってしまったのだろう。この傾向は明らかに、強すぎる日本女子への牽制なのだと思う。だが、フィギュアというのはそういうもの。しょせん主観で採点するスポーツだから、基準をどこにおくかでどんな選手に有利か決まってくる。ルール改正で日本選手が上位を独占するのを阻止しようとする勢力の政治力に、なすすべもないのが日本という国なのだ。伊藤みどり選手という大天才が出たときは、「フィギュアは芸術性が大事」だと言って伊藤選手の芸術点をことさら低く採点することで、彼女が世界チャンピオンになるのを阻もうとした。それが世界のフィギュア界というところだ。今になって「伊藤みどりがフィギュアをスポーツに変えた」「伊藤みどりのジャンプは芸術」などと賞賛しているが、伊藤選手が現役時代、スタイルやルックスに対するバッシングはひどいものだった。さて、安藤選手に話を戻すと、ショート最初の3Lz+3Loは、回転不足がなくきれいに決まれば、安藤選手の場合12点ぐらい稼ぎ出せる技。それが、回転不足と判定されてしまうとグッと点がなくなってしまう。ショートでの点ののび悩みの原因は、転倒以外のここにもある。フリーでの3T+3Loのセカンドのトリプルループも回転不足判定でダウングレードされた。あれでは点がのびないのは当たり前。肉眼ではきれいに決まっていたように見えても、ループは回転不足になりやすい難しいジャンプ。それがアダになっているのだ。誰でもハッキリわかる失敗である「お手つき」が、プロでさえほとんどわからないことの多い「回転不足」より減点が少ないというのも、ファンの誤解を招く大きな要因だ。普通の人にはお手つきは、ほとんど「転倒」に見えるかもしれない。ところがそれよりも、きれいに決めたように見えて、実はちょっと回転が足りていないジャンプのほうが大々的に減点されているのだ。キム選手は回転不足判定されたことがほとんどない。実際に、きっちり回って降りてくることができる選手だ(今回のフリーの最初の連続ジャンプのセカンドのトゥループは回転不足気味に見えたが、これは珍しいことだ)。キム選手の強さはそこにある。フリーではセカンドジャンプに3回転トゥループを2度入れて成功させている。安藤選手はセカンドジャンプは3回転が一度だけで、しかもダウングレード、中野選手にはゼロ。だから、点差が開くのだ。今のルールでは、減点――特に3回転ジャンプの――が苛烈だということ。だから減点要素の少ないキム選手が強い。キム選手はジャンプ以外の要素でも減点になる部分が少ない。チャレンジした部分を積極的に評価していた旧ルールと違い、どちらかというと今は消去法競争なのだ。難しい技をなんとか決めた選手ではなく、「引かれる部分」をなるたけつぶした選手が勝つ。昨シーズンの男子シングルで4回転を跳ばないバトル選手が優勝し、4回転に挑戦して決めたジュベール選手がクレームしていたが、ジュベール選手は実は、フリップのエッジの間違いで、フリーで入れた2回のフリップを減点されていた。あれで点がのびなかったのも響いた。一方バトル選手はほとんどすべてのエレメンツで加点をもらう超優等生演技で163.07という高得点をたたき出した。バトル選手の基礎力の確かさに加え、大技を回避したからこそ出せた結果なのだ。安藤選手の場合は、プログラムコンポーネンツで嫌がらせのような低い点をつけてくるジャッジがいた。表現力をみるプログラムコンポーネンツだが、これがまた主観だから、ジャッジのよってバラバラ。去年は中野選手がバラつきの多い点でひどい目にあっていたが、今年は安藤選手。安藤選手のフリーでの「つなぎのステップ」の評価を見てみよう。5.50、7.00、4.00、6.75、5.75、6.00、6.25、7.00、6.00、5.00「4点」などというのは嫌がらせだ。ショートで3.75点などという点をつけたジャッジがいた(最高は7.25)。1人だけこういう嫌がらせをする人がいても、切られるからそれほど影響はないのだが、極端に低い点を1つつけておけば、「次に低い点」がランダム抽出で選ばれ、点数を下げてしまう傾向は確かにある(だから嫌がらせのような低い点をつけるジャッジが出てくるといういうわけ)。何といっても一番問題なのは、プログラムコンポーネンツの点がこれほどまでにテキトーな、主観にもとづくいい加減な点だということ。そうやってつけていい点なのだ。安藤選手の場合は、去年の試合結果がよくなかったので、プログラムコンポーネンツが抑えられているというのもあるだろう。それにしてもフリーで52.16点とは低すぎる。こうした採点の傾向を見ても、「今年はキム・ヨナの年」であることは間違いない。フリーでセカンドジャンプに2度3回転を入れる力のある選手はほとんどいないし、採点基準に助けられ、自信をもっている。しなやかな肩と腕をぞんぶんに使った表現力も独特で抜群。最後にスピードが落ち、脚があまり動かなくなるのがキム選手の欠点だが、それを上半身の表現でカバーできる強さもある。現時点でただ1人だけキム選手に対抗しうる力をもつのが浅田選手だが、浅田選手がまた、セカンドに跳ぶトリプルループがしばしば回転不足気味になるのだ。去年のショートでは、この2つ目のトリプルループを失敗し続けた。トリプルアクセルも着氷に乱れが出る(ツーフットになる)ことが多いし、そもそも昨シーズンはそれほど確率自体がよくなかった。ルッツは昨シーズンはことごとく不正エッジで減点。「今年はトリプルアクセルを2度入れるのが目標」だというが、これだけ減点の可能性をかかえているなかで、博打の要素が高いトリプルアクセル2度という新しい挑戦をするのは、あまりに危険だ。ジャンプは確率なのだ。キム選手が何年も同じジャンプ構成で確実性を増しているのに対し、あれこれ手を出してはやめている日本選手。浅田選手にしても、去年1度ですらうまくいかなかったトリプルアクセル2度というのは、確率から言ったら成功度は低い。ただでさえ、彼女のようにスラリと脚が長く、背の高い、スタイル抜群の選手は、年齢とともにジャンプは跳べなくなる傾向が強い。問題は浅田選手がトリプルアクセルを2度入れるかどうかではなく、上記のさまざまな減点の要素をどれだけつぶせるかだ。キム選手に勝つためには、エッジ不正、セカンド3回転の回転不足を克服し、トリプルアクセルを乱れなく(1度でいいから)決めることが肝要。またメディアは例によって、「トリプルアクセル2度に挑戦!」などと煽るだろうが、なんでも「果敢に挑戦」すればいいわけではない。旧ルールなら、大技をなんとか決めればそれで勝てた。新ルールでは難しいジャンプでも、ちょっとでも回転不足なら、むしろやらないほうがいいような点になる。採点システムの基準が歪んでいるのは間違いないが、この部分が改正されていない以上、ルールにのっとって点数を稼ぐようにするのが一番肝心なことだ。まったく新しい技に挑戦しないキム・ヨナ選手の圧倒的な強さが、それを物語っている。<フィギュアネタは本日で終了です>
2008.10.30
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(きのうのエントリーから続く) だからとりあえず、南フランスの交通の要所マルセイユまで本数減らしたノロノロ電車で来させて、そこで客をため、十分にためたうえで間引かなかった数少ない別の路線(あるいは近距離ならバス)で、北あるいは西へ運ぶというわけ。これもあとから分かったのだが、主要路線の間引き方にはパターンがあって、とにかく南仏では「北・東・西の列車が交差するマルセイユまで来させて、客をためる」のがパターン。カルカッソンヌからエクスに行くときは、遠回りになるマルセイユで降ろされ、待たされた。そして、マルセイユからは結局電車は出ず(間引かれた)、フランス国鉄が用意したチンケなマイクロバスでエクスに運ばれたのだ。それなのに、払った料金は、最初に乗る予定だったTGVより1人6ユーロも高く、勝手にまったく不必要な補償の手厚い割高切符にされたので、その分さらに1.7ユーロ高くなった。1人合計7.7ユーロ、2人だから合計15.4ユーロ(2000円)も、当初予定より余計に払ったことになる。ちなみに、エクスTGV駅からバスに乗って街近くのターミナルに行ったとしたら2人で7ユーロかかるから、それを合計15.4ユーロから引けば2人で8.4ユーロ、つまり合計で1000円高だったということになる。2時間半で移動できる予定が、延長された待ち時間も入れて5時間以上かかったのに、ですよ。マルセイユ-エクス間では電車に乗れず、待たされたあげく、豪華1ユーロ路線バスとは似ても似つかない、チンケでボロいマイクロバスに満杯に乗せられたのに、ですよ。これが、あーた、ストの名を借りた、「自分たちは怠けながら利益率をアップする作戦(ただし、総売上はど~~でもいいもんね)」でなくて、なんでしょう?どうして、総売上はどうでもいいのか? 結局のところ鉄道事業というのは、黒字にならないビジネスなのだ。日本のJRだって、民営化されたといいながら、政府からの補助金と税制上の優遇措置を受けている。もし本当に鉄道運行という事業で利益を上げようと思うなら、料金をもっとずっと上げなければムリだが、「公共」交通機関であるかぎり、それにも限度がある。料金を上げれば客はクルマやバス、飛行機に流れ、ますますガラガラの列車を走らせることになりかねない。鉄道はどのみち時刻表どおり走らせても(実際には遅延も多いようだが)利益は出ない。総売上げを伸ばしたって、しょせんは赤字がかさむだけ。労働者の賃金を上げるには、結局は突っ込む税金を増やすしかない。どうもフランス国鉄のストは、経営側にもそういう投げやりな考え――あるいは達観と呼ぶべきかもしれないが――があるから、こうものんべんだらりと続くのではないかと思うのだ。ちなみに、フランス国鉄(および国際列車)の遅延について。フランス国居住者なら払い戻しを受けられるよう(100キロ以上、1時間以上で半額)。ツーリストはダメ。こちらのサイトに情報あり。通常運行でこうとは、まったくどこまでも投げやりな経営だ・・・本来、こんな状態の組織でストをやったら会社がもたない。そして、それを許しているのが、フランス国民全体に行き渡った「労働者はデモとストで自らの権利を勝ち取ってきた」という共通認識(あるいは思い込み)だ。だが、労働者は納税者でもある。そしてフランスは公務員が多い(こちらを参照)。そういう国の行き着く先は? 納税者の負担を軽くして労働者に我慢を強いるのか? 労働者を優遇して納税者に無理を強いるのか? どちらにも行きにくい。前にも後ろにも行けないから、国鉄ストはますますのんべんだらりと続くようになる。まさに社会の悪循環だ。かつて日本の国鉄で労使が真っ向から対立し、労働組合がスト権ストを決行した結果、一般人を巻き込むストという行為そのものを世間から厳しく非難され、労働者側の勤務姿勢にも批判が集中し(これには当時の権力者の意向を受けたメディアの世論誘導があったのは明らかだ)、労組が壊滅状態に追い込まれた状況とフランス(そしてヨーロッパ)はあまりに対照的だ。フランスで遭遇した国鉄ストは、労働者の純粋な権利要求にしては、あまりに経営論的思考で間引き運転が決定されていた。ストと言いながら労使はどこかで結託、もしくは妥協している。南フランス方面に関して言えば、移動客は予定より数時間から半日遅れてしまうにせよ、ちゃんとその日のうちに目的地に着くようになっている。しかも、「客を一箇所にためて、めいっぱい詰め込んで運ぶ」というのは、コストカットの手法そのものだ。「マルセイユで客をためる」パターンは、たとえば北から来る客には以下のように応用される。エクス(北)からニース(南東)方面のカーニュに行く日、Mizumizu+Mizumizu母の乗った直行でニース方面に行くはずのTGVは、急きょ(本当は計画的に)途中のマルセイユ止まりになった。そして、マルセイユで待たせて客を思いっきりためたあとに、間引かれなかったTGVが来て、目いっぱい客を詰め込んでニース方面に運んだのだ。まあ、当然といえば当然なのだが、切符はそのまま振り替えで使える。この切符も、勝手に不必要に補償が手厚い切符を売られたので、Mizumizuは2人で3ユーロ余計に払った。ストの最中に、客の意向を聞きもせず、ちゃっかり1人1.5ユーロとか1.7ユーロとかコツコツ上乗せした切符を売るってどういう了見?フランスで国鉄の切符を直に買う皆様。「前日の夜までなら払い戻し可(当日の変更・キャンセルは10ユーロの手数料がかかる。出発後は補償ゼロ)」という条件で十分だと思う方は、窓口であらかじめ意思を伝えましょう。そして、電車の間引き方は、実に経営側にとって都合がいいようになっている。輸送手段をなるたけ間引き、荷物をできるだけためて、目いっぱい積んで運ぼうという運送屋の発想だ。荷物が着くのが遅くなれば客から文句を言われるから、こういうコストカットは運送屋にはしにくい。しにくいが、文句さえ言われないなら、そうやってどこか交通の要所で荷物をためて、一挙に運んだほうが「儲かる」のだ。フランスのストで行われているのは、まさにこれなのだ。しかも荷物扱いされているのは人間。そして、ストに関しては、フランス人の客は信じられないほど寛容で忍耐強い。毎回毎回ストに巻き込まれたが、一度も声を荒げて怒ってる客を見なかった。いろいろ聞いてる人はいるが、感情的になって文句をつけてる(らしき)人も全然見なかった。信じられません。「ストの状況は刻々と変化するので、その日になってみないと、どの電車が動くのかわからない」と、フランス人は口を揃えるのだが、これも到底そのまま鵜呑みにできない。確かに乗客に知らされるのは当日だが、どの路線を間引くのかは、事前にほとんど決まっているはずだ。カルカッソンヌに行く途中のモンペリエで足止めされたとき、それを実感した。 南仏の地図。南西のカルカッソンヌ。南の交通の要所マルセイユ(海沿い)。その北にエクスアンプロバンス。マルセイユの東にニース。(続く)
2010.05.12
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ウルワツ寺院で起こったとんでもないこと・・・それは、Mizumizuがサルに怪我をさせられたのだ。現場はこちら。この階段を少しのぼったところで、海側の壁の上にいたサルがMizumizuの帽子を取ろうと、肩に飛び乗ってきた。「あっ」と帽子を押さえたら、手の甲にサルの鋭い爪が当たった感触があった。帽子は取られなかったが、サルはあっという間に逃げ去った。脇にいたMizumizu連れ合いも気づかないほどの一瞬の出来事。ちょっとエグい写真なのですが・・・これがそのときの傷。かなり深い。多少出血はあったが、痛みはさほどでもなかった。怪我をしつつも夕陽にはまだ未練があったのだが、ケチャを見ないかと声をかけてきたお兄さんが近寄ってきて、日本語で、「どのホテルですか」と聞いてきた。ウェスティンだと答えると、「ホテルに帰りましょう。ホテルにはドクターがいます」と親切にも教えてくれた。ホテルにドクターが常駐しているとは思えなかったが、リゾートホテルがまとまって建っているエリアなので、英語のできるドクターを呼んでくれるということかもしれない。「こういうこと(サルに襲われて怪我をする)は、ここではよくあるのですか?」と聞いたら、首を横に振っていた。確かにMizumizuもバリ島でサルに襲われたという話は、聞いたこともないし、本などで読んだ覚えもない。しかし、たしかHIVってのは、サルから人間に移ったという説があったんだっけ? ということは、サルに引っかかれて、哀れMizumizu、HIVに感染か・・・?今から考えればバカバカしいような妄想で、ホテルへ戻るタクシーの車中で落ち込むMizumizu。ホテルに着くとドライバーがホテルマンにさっそく説明してくれた。するとフロントの脇にある小部屋に通され、「大丈夫ですか?」と、ホテルのマネージャーが話し相手になってくれる。「バリ島のサルはよく人を襲うのですか?」ケチャのお兄さんにも聞いたことをここでも聞いてみた。やはり、首を振るマネージャー。「いや、聞いたことがありません。ウルワツのサルは帽子を取っても後から返してくれますから」え? 後から返してくれるの?「食べ物が入ってるものは返しません。しかし、役に立たないものは木の上から下に投げてきます。食べ物を与えれば、すぐに返してくれるでしょう」た、食べ物と交換ですか?サルの談話「そうだよ。覚とけ!」 「バリ島のサルは悪い病気を持っていますか?」「いや、そのような話は聞いたことがありません」のんびりした言い方なので、恐らくサルから感染した病気の話というのは、本当に聞いたことがないのだろう。マネージャーが話し相手をしてたおかげで不安感をもつこともなく、待つこと10分ほどでドクターと看護婦がやってきた。おお、早い・・・! と思ったのだが、ドアを開けて入ってきたドクターを見て、ややビビる。「もしかして、さっきまで食堂で働いていませんでしたか?」と聞きたくなるような雰囲気の、20代にしか見えない小柄な女性。白衣も着ていないからなおさらだ。ほ、本当に彼女がドクター?しかし、専門用語を交えて英語はきれいに話すし、キビキビしている。「抗破傷風薬を注射したいが、まずアレルギーテストをします」と言われ、テストしたところ、反応がでたので、注射はできないということになった。それから、「縫ったほうがいいです」え? 今ここで? 病院でもなく、ホテルのフロントの脇の応接室ですが・・・「今夜日本に帰るのだが、帰ったあとではなく、今縫ったほうがいいですか?」小学生のころ自転車でコケて、てのひらを3針縫ったことがあったが、そのときの治療が痛かった記憶があって、できれば縫いたくないと思ったのだが・・・「今縫ったほうがいいです。時間をおくと皮膚の癒着が悪くなるから」というキッパリしたドクターの言葉に従うことにした。看護婦が局所麻酔の注射をし、若い女医さんは別に緊張したふうでもなく、笑顔でこちらに、「深呼吸して、リラックスしてください」と言って縫い始めた。ホテルの従業員もいて、終わったときは笑顔を向けてくれ、全員で怪我をしたゲストの気持ちを慰めようとしている雰囲気が伝わってきた。このときのスタッフの対応で、ホテルの印象はずいぶんとよくなった。孤立したリゾートホテル群で、ぶらっと街歩きもできない場所に隔離されているようで若干不満だったのだが、万が一のこうした事態が起こったときの態勢は素晴らしかった。ドクターにも、たとえばHIVなど、サルからの感染症を心配する必要があるかどうか聞いてみたのだが、「バリ島では、そうした例はない」という答えだった。縫い終わると、抗生物質と万が一痛みが出た場合に備えて鎮痛剤も置いていった。治療費はホテルに払ったのだが(後日保険金を受け取ってチャラになったのだが)、治療費に薬代を含めても、7000円ほどだった。飛行中に痛みが出ないか心配だったのだが、別に大丈夫だった。日本に帰ってきて、近所の外科に数回消毒のために通院し、抜糸してもらった。結局鎮痛剤のお世話には一度もならなかった。一応、日本のドクターにも感染症について聞いてみたが、「現地の医者が一番よく知ってるから、現地で大丈夫と言われたんなら大丈夫でしょう」という、実に適当な答えが返って来た(苦笑)。結果として別に破傷風にもならず、もちろんHIVにも感染せず、順調に治った。日本で診てくれた外科医も、「ホテル専属のドクターというと、だいたい内科系で、縫ったりできない人も多いんだけど、きれいに縫えてますね」と褒める。見た目はホテルの食堂にいそうなお姉さんだったのだが・・・(笑)今では縫ったあともほとんど消えた。あのとき適切な治療をしてよかった。すぐにホテルに帰るよう促してくれたケチャの客引きのお兄さん、温かな思いやりを示してくれたホテルのスタッフ、適切な判断と治療をしてくれたドクター・・・・・・ バリ島の皆さんに感謝せねば。しかし、1人だけチョイ問題児が。それは、ガイド氏。彼は空港にMizumizu+Mizumizu連れ合いを空港に送るためにホテルにやってきて、Mizumizuの怪我を知った。そして、部屋に入ってくるなり、金切り声で、「ど~して、僕を呼ばなかったんですか!」と感情的な声でオーバーに叫び、「僕ならサルに襲われないように、しっかり見張っていたし、帽子ならあとから返してもらえるんですよ。食べ物を出せば。タクシーのドライバーは何も言わなかったの?」とちゃっかり自分をアピールする文言を、まるで彼を通さずに行動したMizumizuを責めるかのような口ぶりでまくし立てたのだ。Mizumizu連れ合いが、「あなたのせいじゃないから」と逆になだめる始末。「サルに怪我させられた人って知ってる?」と聞いたら、彼も、「いや、初めて」。よほど珍しい例になってしまったようだ。さぞや、今頃あのガイド氏、ウルワツ寺院に自分抜きで行ってサルに引っかかれた日本人観光客の話を同じ日本人観光客に持ち出して怖がらせ、ウルワツ寺院に行くなら自分をガイドとして連れて行くようアピールしていることだろう。
2011.07.27
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<きのうから続く>モンマルトル美術館で開催中のジャン・マレー展には、当然ながら映画のポスターも多く展示されていた。個人的に一番好きなのは、コレ。ジャン・コクトー監督『双頭の鷲』から、エリザベート女王役のエドヴィージュ・フィエールと。エドヴィージュ・フィエールのファッションがまたいいのだ。革の手袋は手首の細さが際立つよう、手首の内側でぴっちりとボタンで留めている。折り返した袖と襟のギザギザの縁飾り。胸元のリボンのつやつやした布の質感。ドレス自体がシンプルなので、リボンや縁飾り、ボタンなどのディテールが引き立つ。とても上品で、ヨーロッパの古き良き時代の香りが漂ってくる。おまけに蜂のような細腰。イマドキの女優でここまで細いウエストが作れる人は、もうほとんどいないだろう。カタログに収録されていないのは残念なのだが、展覧会ではジャン・マレーとエドヴィージュ・フィエールの晩年のプライベート写真も展示されていた。Mizumizuが中でも気に入ったのは、フィエールが油絵を描いていて、イーゼルの前で、「どう?」という感じで胸をそらしている。それを、マレーが「どれどれ?」とのぞきこんでいる写真。2人とも70歳は超えているように見えたが、非常に自然で、親密な雰囲気が漂っていた。フィエールはマレーを相手役にした『双頭の鷲』の再演を熱望していたが、マレーは自分の年齢を理由にこの申し出を拒み続けた。だが、1980年の『嘘つきさん』(バーナード・ショー原作、ジャン・コクトー脚色)ではフィエールとともに舞台に立っている。そして、フィエールは、ジャン・マレーが亡くなった5日後に、まるで後を追うように亡くなってしまった。もう1人、ジャン・マレーにとって大きな存在の女優がミシェル・モルガン。もともと『悲恋(永劫回帰)』で、監督のジャン・ドラノワはマレーの相手役にモルガンを使いたかった。マレー+モルガンでどうしても映画が撮りたかったドラノワは、その後何度もモンパンシエ通りのコクトーとマレーのアパルトマンを訪れては、マレー+モルガンを想定した映画の脚本を書いてくれるようコクトーに懇願している。だが、ちょうど長編の詩作に取り掛かっていたコクトーは、脚本を書く気になれず、別の脚本家を紹介する。そしてモルガンとマレーの初共演となったのが『思い出の瞳』。ジャン・マレーはモルガンについて、「私が本当に恋することのできた唯一の女性」と自伝で書いている。マレーは晩年になって、モルガンに舞台での共演を申し込んでいる。もともと映画出身のモルガンは舞台に乗り気ではなく、なかなかOKしなかったが、1993年になって、とうとうマレーとの共演で、コクトーの『聖なる怪物』の舞台に立った。このときの2人のポスターも展示されていたが、顔を寄せ合った白髪の2人は、若いころのポスター以上に素敵に写っていた。80歳近いマレーが、モルガンの後ろにいて、肩口に手を添えている。いくつになっても女優を引き立てることに心を配っている、騎士的なジャン・マレーの性格がよく表われている。モルガンのブルーの瞳の色とまったく同じ色の素材が衣装のアクセントとして使われ、それが一番印象的で、オシャレだと思った。マレー+モルガンの舞台『聖なる怪物』が、大きな成功を収めたことは言うまでもない。これは↓ジャン・マレーの死を受けての特別追悼番組。http://www.dailymotion.com/video/x6fox7_hommage-a-jean-marais_shortfilmsマレーがコクトーの言葉をつなぎ合わせて執筆した1人芝居『コクトー/マレー』の台詞から、マレー自身のナレーションが入る。「大変悲しいニュースを伝えなければならない。ぼくが死んだ」「生者と死者は近くて遠い。ちょうど硬貨の裏と表のように」「生と死は向き合っている」そして、マレーの愛したミシェル・モルガンが壇上で挨拶するというニクイ演出。さらにもう1人、日本語版ウィキペディアではマレーと結婚したことにされてしまったミラ・パレリイ。もちろん、この情報は嘘だ。どうしてこんな間違ったことがウィキペディアに書かれてしまったかというと、もともとはcinema databaseのJean Maraisのプロフィールに誤情報がのったためだと思う。マレーは1945年、『美女と野獣』の撮影の話が進むなか、フランス解放戦線に参加し、戦場にいた。コクトーは打ち合わせのために、マレーに戻ってきてくれるよう何度も促すのだが、なかなか休暇がもらえない。そんなとき、「結婚すれば休暇がもらえるらしい」という話を聞いたマレーは、以前ちょっとだけ付き合っていた女優のミラ・パレリイにプロポーズしてみた。するとパレリイのほうがマジになってしまい、マレーは困惑する。結局、結婚の話はナシになり、パレリイは1947年にレーサーと結婚した。だが、若いころ抱いた真剣な想いは、パレリイの中でずっと消えなかったようで、こんな熱い写真を晩年のマレーに送っている。「愛しています。私のジャノ。ミラ」そしてテーブルには犬と写っているマレーの写真。マレーのほうも、晩年に書いた自作の児童小説で、美しい王女の名前を「ミラ」にしている。しかし…この場合、ミラの旦那さんの立場は?ともあれ、ミラがよき妻だったことは間違いない。彼女の結婚は一度だけだし、レーサーの夫が事故で重傷を負うと、その看病のために、すっぱり女優を引退している。追記:マレーとフィエールの関係については、2008年5月20日のエントリー参照。マレーとモルガンの関係については、2008年6月3日のエントリー参照。マレーとパレリイの関係については、2008年5月5日のエントリー参照。
2009.03.03
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ファントマにからめて「ぼったくり」番組呼ばわりしてしまった天知茂の『江戸川乱歩の美女シリーズ』。実際、あちこちの洋画をぼったくった作品であることは間違いないし、特に初期のころのお下劣さ、エグさ、人命軽視は呆れるばかりなのだが、明智小五郎を演じる天知茂という俳優のニヒルなキャラクター(と眉間のシワ)がすべてを救った長寿人気番組。なかでも最高傑作の呼び声が高いのは、江戸川乱歩の『黒蜥蜴』を脚色した『悪魔のような美女』。こちらが黒蜥蜴のアジト。もういきなり、『美女と野獣』のぼったくり。野獣の城にあって黒蜥蜴のアジトにないものは、気品。黒蜥蜴のアジトは、怪しげなキャバレーのよう。黒蜥蜴の趣味は、人間の剥製作り。↑は剥製にされた「美青年」。なんてたって役名も「美青年」。しかも演じているのは宅間伸らしい。その黒蜥蜴からリッチな宝石商に脅迫状が届く。狙いは20億のダイヤか!?「ダイハツ」で現場に急行する明智小五郎。『ファントマ』のファンドールがBMWのロードスターをカッコよく乗りこなしていたことを思うと、その落差にはただただ涙。宝石商の滞在先:電話は4126=よいふろ(海底温泉もある)http://www.sunhatoya.co.jp/20億のダイヤを所有しているというのに、信じられないぐらいの庶民派だ。さて、黒蜥蜴の正体を見抜いた明智だが……催眠スプレーを発射され、あっけなく逃げられてしまう。明智小五郎はいつも、コレで悪人を取り逃がしている。そして、ホテルからは、張り込んだ刑事の誰も気づかない見事な変装で逃走。黒蜥蜴はまた、見事な変装メイク、いや変装パックも披露。これで宝石商の娘になりすましている…… あまりに見事なためか、またもや誰も気づかない。事件を報道するテレビ。なんと! 「やじうまプラス」、いや「やじうまワイド」かな? とにかく吉沢アナはベテランだということを再確認。ファントマのごとく、海上へ逃亡する黒蜥蜴。しかし、乗ってる船には眼を疑う。ただの作業船では? おまけに相当くたびれて汚い。なのに、あたまに冠をのっけて、ひとりゴージャスに着飾る黒蜥蜴。数々のワンパタな展開を経て、いよいよ明智に追い詰められ……指輪に仕込んだ毒をあおる黒蜥蜴。実はこの場面はすべて、ジャン・マレー主演の『ルイ・ブラス』のぼったくり。あんまり堂々と同じなんて、初めて見たときは心から驚いた。明智小五郎はいまだかつて、悪人を生け捕りにしたことがない。毒を飲んだ黒蜥蜴に、愛の告白をされる明智小五郎。寅さんなみのワンパターンなエンディング。黒蜥蜴は接吻を要求。毒を飲んだ唇を避ける、案外小心者の明智。黒蜥蜴の死に顔はグレタ・ガルボ(『椿姫』)+ジャン・マレー÷2といったところか?出ずっぱりの特別出演小川真由美。-完-【◎メ在庫30台以上 】悪魔のような美女 江戸川乱歩黒蜥蜴 【日本映画】 KINGRECORD KIBF-3161
2008.05.15
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『釣りキチ三平』で有名な矢口高雄が初めて読んで衝撃を受けた手塚治虫作品は、『流線型事件』だったという。その一部始終を『ボクの手塚治虫』で詳しく描いているが、それは藤子不二雄、石ノ森章太郎といった後の巨匠たちが手塚漫画から受けた衝撃と驚くほど似通っている。ボクの手塚治虫【電子書籍】[ 矢口高雄 ]矢口少年は、利発で向学心に溢れた少年で、『流線型事件』にある車のデザイン理論に惹きつけられ、暗記するほど読んだという。内容は凄いのにオサムシなんて、変な名前だと思ったらしい。その矢口少年が、恋をしたかもしれないというのが『メトロポリス』のミッチィ。男にも女にもなるミッチィは、手塚漫画のヒーローの原型となったキャラクターというだけでなく、のちの少女漫画家にも大きな影響を与えたのではないかと思う。というのは、『メトロポリス』を実際に読んで気づいたのだが、昔々Mizumizuが読んでいた少女漫画のそこここに、そのイメージがあるからだ。『ボクの手塚治虫』で、矢口少年が『メトロポリス』を「解説」する場面がある。漫画家・矢口高雄が模写した『メトロポリス』の場面を引き合いに出しながら、少年・矢口高雄が、どこが面白いのかを生き生きと語るのだ。「へ~~、当時の男の子たちは、こんなふうに夢中になったんだ」ということがよく分かる。で、最近になって『メトロポリス』を初めて読んでみた。・・・特に面白くありませんでした。「デッサンをやってない」というのは、初期の手塚に浴びせられた悪評の代表例だが、なるほど、そう言われても仕方がない部分が目に付く。レッド公のプロポーションのデタラメぶりとか、脳が入っているとは思えない頭の形とか、骨格がないとしか思えない(いわゆるゴム人間)ヒゲオヤジとか。ただ、マンガだから、と言えば許容範囲の話で、ちゃんとそれなりに魅力のあるカタチになっているのは、さすが。だから、漫画家に対して、「絵が下手」というのは、あまり意味のない悪口だ。それを言ったら、絵画の世界だって、「下手くそ」な世界的画家はいくらでもいる。漫画のキャラクターの魅力は、デッサンが正確かどうかにあるのではない。しかし、Mizumizuにとって『メトロポリス』は、当時の少年たち、なかんずく漫画エリート少年に与えた影響を紐解く教材としての意味以上のものは見出しにくかった。子どものころに読めばまた別の感想を持ったかもしれないが、残念ながら、Mizumizuは手塚治虫には遅かった子供で、リアルタイムで読んでいたのは、手塚治虫および女手塚こと水野英子に影響を受けて漫画家になった世代の少女漫画家の作品。ただ、『メトロポリス』の後半、ミッチィが「覚醒」して、暴れまわるところには惹きつけられた。特に、人間に虐げられたロボットたちを従えて「メトロポリスへ!」と海の中を行進していくシーンは美しい。この発想は今読んでも衝撃的だ。手塚治虫の少年向けマンガに女の子のファンが多かったというのも頷ける。手塚作品に出てくる少女の多くは、「暴れまわりたい」という欲求を明確に持っていて、時にそれを実践するからだ。こういう少女像を描く男性の少年漫画家は少ない。で、その虐げられたロボット。「壊れるまで働かされる奴隷」のロボットが…これ↑なのだが、これを見て、そっこ~頭に浮かんだのが、鳥山明の自画像。似てませんか? これ。鳥山明は子供のころ、手塚治虫のロボットの模写をやっていたというから、『メトロポリス』のロボットも真似していたのかもしれない。しかし、「壊れるまで働かされる」ロボットって… 売れっ子漫画家のメタファーですか?
2024.04.28
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<先日のエントリーから続く>ローラン・プティは、ヌレエフがプライベートでも天性の誘惑者だったと言っている。ヌレエフの視線は、「あなたを好きになりそうなんだけど、いい?」と言っているかのよう。そうして、狙った獲物を手に入れると、いとも簡単に新しい獲物のほうへ行ってしまう。ヌレエフが最も愛したのは、若い男の子で、やはりというべきか、筋肉質な肉体と尽きせぬ活力をもった年下のダンサーをとりわけ好んだ。ヌレエフはソレント半島の沖にある島に邸宅を構えるが、ロココ調の家具のおかれた部屋の豪華な装飾を施した壁には、そうした全裸の男性たちの絵画が飾られていたという。アメリカ人ダンサーでヌレエフの愛人の1人だったロバート・トレーシーは、『Nureyev and me』の中で、39歳のヌレエフが愛したのは、23歳の自分の「若さ」だったと語っている。2人はバレエ公演のリハーサルで出会い、すぐに関係を持った。ホテルの部屋に誘ったのは、もちろんヌレエフのほう。「ヌレエフは私の脚とそれにジャンプが好きだった。私たちはほとんど一目で肉体的に惹かれあった」(トレーシー)。もっともトレーシーは、ヌレエフを独占しようと思ったことはなかった。できるとも思っていなかった。ヌレエフには「300万人」(←いくらなんでも、そりゃないだろうが)の若い男の子がいた。もちろんトレーシーより若く、もっとナイスなバディ~を持った取り巻きも。トレーシーもヌレエフに束縛されたくなかった。トレーシーは最初のうち、世紀の大スターとたいしたことないダンサーの自分が、「長続きするはずがない」と思っていた。だが、2人の関係はやがて友情に落ち着き、ヌレエフの死の直前まで続いた。プティの言う、「ジュピターのように移り気で、ユノのように貞淑」なヌレエフらしいエピソードだ。女性との関わりで言えば、トレーシーはヌレエフから、「3人の女性と関係をもった」と聞いたという。40歳を超えたヌレエフは息子を欲しがっていた。ヌレエフによれば、彼の子供を妊娠した女性が2人いたが、どちらも中絶してしまったという(←なんか、ジャン・コクトーみたいなことを言ってる)。ヌレエフは、プティにはこんなことを言ったという。「僕はマーゴと結婚すべきだったかもしれない。彼女こそ僕の運命の女性だった」ヌレエフはエイズを発症したあとも、それを一切公表しないまま舞台に立ち続けた。晩年は、胸にコイン大の金属片を埋め、2~3日ごとに金属片についたネジを抜き、そこから注射器で心臓を拡張する液体を注入していた。そうやって彼は舞台に立ち、偉大なダンサーの役を演じ続けた。病状は悪化する一方で、彼を栄光の高みに引き上げた筋肉は破壊されていたが、それでもヌレエフは偽りの健康を装った。何も知らない観客からブーイングを浴びせられると、蔑視のポーズで答えることを忘れなかった。ヌレエフがこの世を去ったのは、1993年1月6日。「彼の死に顔は、彼が愛していた若者の顔立ちのようにほっそりとして美しかった。それは井戸の中に映し出された自分の裸体にうっとりと見とれ、悦楽とともに自らに恋焦がれたナルシスが乗り移ったかのようだった」(『ヌレエフとの密なる時』)ジャン・コクトーの作品は未来を予見するとジャン・マレーは言った。事実『双頭の鷲』では、ジャン・マレーとエドヴィージュ・フィエールの死期を予言するような台詞がある。そして、1967年の『若者と死』で健康なヌレエフが演じた、「カクッ」とうなだれて死んでいく若者の顔は、プティのこの描写の予言のよう。白々とした空間で一瞬アップになるヌレエフの死に顔は、まさにナルシスのように美しい。このときの撮影では、ヌレエフはパウダーをはたきながら、「僕のスクリーン映りはどう?」とプティに、いたずらっ子のように微笑みかけた。「マリリン・モンローよりステキだよ」とプティが答えると、ヌレエフは大ウケして笑い転げた。そして喜々として準備にいそしんだという。14歳も若く、強靭で、無限のエネルギーに満ちていたこの若者の死を、プティが看取ることになろうとは。比類なき若者、ヌレエフとの日々は、彼が永遠にいなくなったあとも、プティの心を去らなかった。ヌレエフは誰のものにもならない人だった。私のヌレエフ、君のヌレエフ、彼のヌレエフ、私たちの、あなたたちの、彼らのヌレエフ。1人1人にとって、それぞれのヌレエフが存在する。『ヌレエフとの密なる時』は、プティの見た夢とも妄想ともつかない、2人の「共演」で終わっている。それはヌレエフの死から4年たった1997年のある日。ヌレエフが歌いながらプティに近づいてきた。2人は数歩の距離で向かい合って立ち、それから一緒に踊り出した。その場でゆっくりと回転を始め、どんどん回転を速めていくと、大勢の群集がやって来て、観客となった。ヌレエフとプティはひたすら踊り続けた。そのときプティは、彼が愛してやまなかった不世出のダンサーが踊った作品の中でも、とりわけ素晴らしかったシーンを見る。『白鳥の湖』で黒のビロードに金と銀の装飾をあしらった衣装を着た王子役のヌレエフが、オデットを探しながら白鳥から白鳥へと走り抜けていくのだ。回り続けたプティとヌレエフのダンスがフィナーレを迎えようとしたとき、ヌレエフはまるで魔法にかかったように、プティの、そして集まった群集の目の前から消えてしまった。プティとヌレエフは現実では、ほとんど常に振付師とダンサーだった。2人の世界は時に交錯したが、仕事の面では軋轢も多かった。プティという惑星の近くを、忘れがたい強烈な輝きを放ちながら、時折通過していく流れ星、それがヌレエフ。だが、コクトーの小説『恐るべき子供たち』のラストシーンを彷彿とさせるようなこのエピローグは、世界的振付師としてではない、1人のダンサーとしてのプティの魂の告白だ。プティはただ踊りたかったのだ。1人のダンサーとして、1人のダンサーであるヌレエフと。ローランとルドルフと観客と、他には何もない世界で。<終わり>
2009.06.02
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吉祥寺にあまたあるタイ料理店の中でも、1、2を争う味の良さで人気のクルン・サイアム。中でも最高なのが、チューチークン(海老のレッドカレー炒め)海老のぷりぷりした食感もいいが、濃厚なココナッツ風味のレッドカレーが最高。日本で食べられるタイ料理の中では、間違いなく最高峰に挙げていい。パラパラのカオパットも本場に近い味。チェンマイのカオパットの名店、「ギャラリー」を思い出した。グリーンカレーはもうひとつといったところか。日本のタイ料理店のグリーンカレーは、やたらと辛いか、あっさりしすぎているかのどちらかに偏りすぎるのだが、ここは少し「塩」っぽすぎる。日本の中では高いレベルだと思うのだが。ソムタム(青パパイヤのサラダ)も辛くて、複雑な味の本格派。生春巻きも甘辛いソースが素晴らしい。カオソイは赤カレースープが美味しい。麺がもうひとつなのが惜しい。だが、カオソイがメニューにあるだけでも嬉しくなる。それぞれの嗜好にあわせて麺類のメニューも豊富。Mizumizuのお気に入りデザート。カノム・トゥアイ。二層になった温かなココナッツプリン。
2011.06.29
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信憑性の薄い神話がまことしやかに語られるのは、歴史上の人物になった有名人にはありがちだが、「カルティエのトリニティリングはジャン・コクトーがレイモン・ラディゲに贈るためにデザインした(あるいは、デザインさせた)」という逸話は、その最たるものだろう。このエピソードがあたかも既成事実のように書かれているサイトがもっとも多いのは実は日本語サイト。フランス語や英語のサイトでは、あまり見ない。主にカルティエのトリニティリングを扱うショップサイトで、表現に多少の違いはあれど、「トリニティリングは、ジャン・コクトーがレーモン・ラディゲ(「愛する人」とぼやかしているサイトも多い)に贈るために、『この世に存在しないリングを』と注文を出してカルティエに制作させた」というように書かれている。ちょっと前までは「コクトーがデザインした」という話が多く流布されていたのだが、それはさすがにありえないとわかってきたらしく、最近では「ラディゲのために、コクトーがカルティエに制作させた」説が幅を利かせている。さらにそれを見た(のだろう)、素人のブログでも、この逸話は爆発的に広まっている。カルティエのトリニティリングといえば、「コクトーが恋人のラディゲに贈るために作らせたんですって! 知ってました?」「コクトーがラディゲに贈ったもので、若くして亡くなったらラディゲの分も合わせて2つ、晩年まで肌身離さずつけていたのは有名な話ですよね!」などと書いてあるブログもある。「有名な話ですよね」なんて言われると、よく知らなくてもついつい、「そうそう、知ってる知ってる」などと相槌を打ちたくなってしまうようなものだが、このエピソード自体、Mizumizuはそもそも「ほとんどありえない話」だと思っている。ブランドにまつわる話は、もちろんそのブランドの公式サイトを読むのがいい。カルティエ社はトリニティリングの誕生についてどう説明しているのだろう?www.cartier.com/en/Creation,B4038800,,Trinity%20de%20Cartier-Rings ↑ここの英語の説明を読んでみると、プラチナ+レッドゴールド+イエローゴールドからなる3連のリングに関する最初の資料があるのが1924年。3色ゴールド(「3色」としか書いていないが、つまりプラチナのかわりにホワイトゴールドを使ったということだろう)の3連リングについての記録が残っているのが1925年。ジャン・コクトーがはめていたことは書かれている(もちろん、それは事実だからだ)。コクトーという人が1920年代の時代の寵児であったこと、彼がトリニティリングのフォルムを非常に気に入ったこと、そしてコクトーといえばトリニティリングというイメージが広まったこと、それによってこの指輪のカルト的な人気が高まったことなども紹介されている。だが、「コクトーが制作を依頼した」なんてことは一言も書かれていない。そもそもラディゲが亡くなったのが1923年。トリニティリングの発表が1924年。もし、日本のネット上にはびこる神話が事実だとしたら、1923年以前にコクトーがカルティエに制作を依頼し、できあがったのがラディゲの死の翌年だったということになる。ナルホド、まあそれはあるかもしれない。だが、それならば、コクトーは1924年からこのトリニティリングを、贈れなかったラディゲの分も含めて2人分はめていなくてはおかしい。だが、若いころのコクトーの写真を見ると、トリニティリングと組み合わせて小指にはめているのは、別のリングなのだ。ネットでは見にくいかもしれないが、これが若いころのコクトーのはめていた指輪で、ボリュームのある平べったいリング、その上にトリニティリングを1つ組み合わせてはめている。若いころはほとんどこのコンビネーションだ。これはジャン・マレーと暮らし始めて間もないころの写真だが、上の写真と同じく、平べったいリングの上にトリニティリングを1つ計2つはめている。しかも、この写真では右手の小指。では、コクトーがいつもいつも指輪をはめていたのかというと、そうではない。これは同じくジャン・マレーととったスナップだが、この写真では指輪はなし。コクトーがいつも指輪をしていたわけではないことは、この写真からも明らかだが、他の動画をみてもコクトーはわりあい「作業をするとき」は指輪をはめていない。指輪をするのは、外出するとき、ある程度構えた写真を撮るときなのだ。上のマレーとの2つの写真の違いは、指輪をはめたほうは写真の構図の緊張感、くっきりしたライティングから判断して、プロの写真家による撮影、指輪のないほうは、日常のスナップに近いということだろう。ラゲィゲの分と合わせて2つのトリニティリングを小指にはめていた、という伝説が真実なら、亡くなってからそれほど時間のたっていない若い時期になぜ「別の指輪」をはめているのか説明がつかない。コクトーはトリニティリングを取ったりはずしたりしていたし、つけるのも必ずしも左手ではなく、右手のこともあったのだ。こうしたことから考えると、小指の指輪はあくまでオシャレ用だった、というのが普通の結論だろう。コクトーが2つのトリニティリングを小指にはめていたのは、髪の毛が白くなってから、つまり晩年なのだ。これが晩年のコクトーが小指にダブルではめていたトリニティリング。www.youtube.com/watch?v=tlEcnuvMHiI↑この動画のしょっぱなにも最晩年のコクトーがトリニティリングをダブルではめている様子が映っている。コクトーの素描には、トリニティリングをはめた自身の指を描いたものも確かにあるが、たとえば1924年のドローイングでは…このように指には何もない。この絵は「鳥刺しジャックの神秘」という一連の自画像のうちの1枚だが、これをコクトーが描いたのは、1924年の秋、11月ぐらいだ。もし、トリニティリングがラディゲのためにコクトーがわざわざ注文して制作されたものだったのなら、できたてホヤホヤのリングをこの自画像に描き入れたってよさそうなものだ。こちらは1955年にベルナール・ビュッフェが描いたコクトー像の部分。これをみると左手の小指に1つだけトリニティリングが描かれているのがわかる。つまり、コクトーがトリニティリングをはめたのは、1924年のこのリングの発表直後ということは考えにくく、かつはめ始めてからも、相当長い時期「1つだけ」しかつけていなかったということなのだ。「最晩年のコクトー」がしばしば2つのトリニティリングをはめていたのは事実だが、やはり指輪をしていない写真もある。この写真や、その他の(YOU TUBEにある)動画からも、2つのトリニティリングをはめ始めた晩年も、作業中ははずしていることが多く、必ずしも「肌身離さず」つけていたわけではないことがわかる。もう1つ、Mizumizuが「ラディゲのためのリングなわけないでしょ」と思うのは、リングのサイズだ。コクトーは常に小指にトリニティリングをはめており、2つともコクトーの小指にぴったりだ。きついぐらいぴっちりとはまっている。めったにないぐらいヤセヤセのあのコクトーの、しかも小指ですよ。ラディゲの写真を見ると、コクトーほどには際立った痩身ではない。コクトーの小指にピッタリのリングがラディゲにはまるとは思えないし、そもそも、コクトー自身は小指にはめるのが好きだったにしても、愛する人に贈るのになんで自分の小指用にしかならない、相手にとっては明らかに小さすぎるリングを贈るのだ?あの極細コクトーの小指にピッタリのリングをはめることのできる男性なんて…… それこそ『ロバと王女』のお姫様探しのごとし、だろう。指輪を贈ろうとした相手がラディゲではなく、1932年にコクトーと交際し、妊娠した(と少なくともコクトーが信じた)ナタリー・パレのような女性だったとしても、サイズが果たしてあれで合うのか、なぜ上に挙げたマレーと出会って以降(1937年~)の写真で1つしかはめていないのか、といった疑問はやはり解けない。さらに言えば、もしコクトーがラディゲに指輪のような通俗的なプレゼントをしていたのだとしたら、コクトーは後の最愛の人マレーにも同様のモノを何か贈っていてもおかしくない。ところが、コクトーがマレーに贈ったのは、マレーのために書いた自身のオリジナルの戯曲、自身の詩(これは第三者が読むことを前提としない、マレーのためだけに書いたラブレター的なものもあるし、『火災』のようにマレーに献上するつもりで書いたものもある)、晩年は「君の誕生日に何かプレゼントしたい。『存在困難』の原稿を贈らせてもらえますか」――つまり、コクトーは大量生産が可能な「モノ」ではなく、常に世界中で自分にしか贈れないたった1つのものを愛する人に捧げようとした人だったのだ。マレーのほうは、初期のころの手袋屋の看板に始まり(このエピソードについてはの3月26日のエントリー参照)、スイス製の時計だとか、あるいは花だとか、とても「男の子らしい」プレゼントをコクトーにしている。現存している写真から考えても、コクトーの性格から推測しても、トリニティリングはコクトーがラディゲのために作らせた、なんていうのは、とっても眉唾な話なのだ。それがあたかも事実のように日本語のサイトに大量に書かれている。コクトーが、ルイ・カルティエに「愛する人のために、この世に存在しないリングを」(このフレーズは、Bunkamuraでのコクトー展での晩年の写真に添えられたものだったらしい)と言ったなんて、「講釈師、見てきたような嘘を言い」の典型だろう。では、なぜ最晩年のコクトーがトリニティリングをダブルでつけていたのだろう?むろん立証は不可能だが、取ったりはめたりを繰り返していたことを考えると…ある日のコクトー「あれっ? トリニティリングが見当たらない?」しばらく捜して「やっぱないな~。失くしたかな。仕方ない、もう1つ買おうっと」買った後に「あ、見つかった」それじゃってことで「2つ一緒にはめちゃおうっと」と、案外この程度の話だったのかもしれない。ちなみに、コクトーは1955年にアカデミー・フランセーズ会員に選出された際、会員の正装の一部である剣を、自らデザインし、カルティエに制作させている。これは神話や伝説ではない事実。(追記)コクトー作品は、Bunkamuraザ・ミュージアム発行のカタログLe Monde de JEAN COCTEAUから拝借しました。
2008.09.15
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ショコラティエ、Pierre Marcolini――最初に名前のスペルを見たときは、イタリア系フランス人かと思った。ベルギー生まれだという。もちろん驚きはしない。ブリュッセルはプチパリとも称される美食の街だ。ショコラティエだけではなく、グラシエ(アイス職人)のディプロマももつマルコリーニ。銀座の彼の店は、晴海通りから西5番街通りに入ってすぐのところにある。ここで注目を集めているのは、ショコラよりもむしろパフェだろう。店はアイスクリーム店(写真右の白いオーニング)とチョコレート店(左の茶色のオーニング)の2つに分かれていて、キャラメルパフェと季節のフルーツパフェを食べるためにはアイス店のほうに、チョコレートパフェを食べるためにはチョコ店のほうに入らなければならない。日曜日の午後3時に行ってみたら、ちょうどおやつの時間とあって(笑)こんな行列だった。ラーメン屋みたいに回転はよくないから、30分以上待つハメに。狭い店内の1階が店舗、狭くて急な階段の先、2階と3階がカフェになっている。カフェのインテリアは、カーテンもウッドブラインド(そしてブラインドについてるラダーテープまで)もダークブラウン、テーブルも椅子もブラウン系、コート掛けまでチョコレート色に着色されていて、まさに母なるチョコレートの胎内に入ったようなイメージだ。チョコレートパフェはバニラアイスの上にチョコレートソースをかけ、そこにチョコレートアイスと生クリーム(生クリームはいただけない。コストコンシャスを感じさせる低レベル)、独特の口当たりの濃厚なチョコガトーを飾り、バナナを添えている。アイスの上に載っている四角いチョコはパレファン。これでしめて1680円也。味はといえば、確かにおいしい。だがこれほど長期間にわたって行列ができるほどのものだろうか? 安い板チョコを日本人のチョコレートのスタンダードにしてしまったのは、「お口の恋人」ロッテの功罪だが、この程度のチョコレートアイスを出す店はフランスやイタリアならありふれている。日本だって、有名なショコラティエは多く進出してるし、チョコレートアイスだってこのぐらいのはあるんじゃないか。とすると、ここの成功はショコラティエにパフェを出すカフェを併設したこと、その1点に集約されるかもしれない。集まってくるのは「ナンバーワン、ショコラティエによる究極のパフェ」の宣伝に夢をふくらませた若い女性だ。リピーターが多いとも思えない。その証拠に足を止める客止める客全員が、店員に「こちらがキャラメルパフェとピーチパフェ、こちらがチョコレートパフェ」と説明を受けていた。もちろん、チョコレートを買いに来るお金持ち風のマダムもいるにはいたが…ショコラティエ兼グラシエの提案するパフェというのは、確かにあまりお目にかかれない。チョコレートはフランスの名店のショコラに引けをとらない濃厚なカカオの香り、バニラアイスはイタリアのジェラートを思わせるあっさりとしながらコクのある仕上がり。それを日本で出して大評判を取ったのがベルギー人。してみると、このチョコレートパフェは非常にコスモポリタンな逸品だといえるかもしれない。マルコリーニは、カカオにしても、ベネズエラ産、メキシコ産と、さまざまな産地のものをチョイスして使っているという。だが、そのこだわりとて、日本でいかに誇大に宣伝しようとも、マルコリーニの独創ではない。ベネズエラ産のカカオに最初に注目したのはフランスのリヨンのショコラティエだと聞く。Mizumizuはリヨンの街角で、忘れがたいショコラに出会っている。街の中心のベルクール広場から、ボナパルト通りに少し入った目立たない場所にそのショコラティエはあった。小さな店で、英語がまったく話せない中年のマダムが売り子をしていた。プラリーヌやトリュフといった定番商品に混じって、信じられないほど薄い、円いショコラが並べられていた。パレファンよりもっとずっと薄いそのショコラは、10枚ごとに紙の小箱に入って売られており、小箱には「ベネズエラ産カカオ」という文字が目立つように印刷されていた。このシンプルきわまりないショコラからMizumizuは目が離せなくなった。「これは美味しいに違いない」と踏んで、売り子のマダムに話しかけてみた。しかし、英語・ドイツ語・イタリア語なら話せるMizumizuもフランス語はほとんどダメだ。リヨンのマダムも英語がまったくダメ。というわけで、ショコラの薀蓄はまったく聞きだせず、お互いにワケの分からないやり取りで時間をつぶしたあと、「えーい」と思って、小箱のセットを何個か買ってみた。確か10枚1箱で6~8ユーロぐらいだっただろうか。「アベック、カフェ~」などとマダムが言っていたのを反芻し、「ショコラがコーヒーと合うのは当たり前だよな」などと思いながら、旅の空の下のカフェでコーヒーと一緒に一枚食べてみた(フランスのカフェでは持ち込みOKなのだ)。そのときの感動をどう表現したらいいだろう? 「ベネズエラ産カカオの酸味を含んだ深い味わいは衝撃的ですらあった」とでも? チョコレートは甘いものだが、苦味も大切だ。そこまではありふれた話だが、実のところ、さらに味を高みに押し上げるのは特別なカカオのもつ独特な「酸味」なのだ。しかもナッツもヌガーも、何も使われていないショコラだからこそ、そうした素材の素晴しさが最大限味わえる。銀座を席捲するコスモポリタンなチョコレートパフェをたいらげて、西5番街の暗い路地から空を見上げながら、Mizumizuは思ったのだ。あのリヨンの街角で偶然出会った極薄のショコラこそ、究極の味だったと。それは大量生産では決してできない。あんなに薄いショコラを一枚一枚作るなんて、ほとんど職人の趣味みたいなものだ。その意味では、ショコラというのはローカルで、ごくごくパーソナルなものなのだ。たとえば、阿佐ヶ谷の小さな和菓子店、うさぎやがパリに進出するなんて考えられない。でも、たとえグローバルな名声は得なくても、うさぎやのどら焼きは絶品には違いない。ショコラも同じなのだ。日本のショコラの歴史は浅い。だからこそ、コスポリタンな若きショコラティエのパフェが拍手をもって迎えられるのだろう。その現象はだが、少しばかり寂しい。もっとローカルでパーソナルなショコラティエが街角に気の効いたショップを構え、地元のリピーターだけでなりたっていってこそ、ショコラ文化が日本に根付いたといえるのではないだろうか。
2007.07.10
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鞆の浦では対潮楼にぜひとも行きたいと思っていた。18世紀に朝鮮通信使が、「日東第一形勝」と称えた眺望の楽しめる座敷があるという。対潮楼のある福禅寺は駐車場からもすぐで分かりやすかった。対潮楼のお座敷に入ると、やや暗い畳の部屋の向こうに、明るい、素晴らしい眺望が開けている。ちょうど柱と桟が額縁のよう。切り取られたパノラマの中を船が行く。瀬戸内海の美はやはり、水面を行く船という動的な要素があってこそ。畳に座り、さあ、この海と島と明るい陽光の織り成すパノラマをゆっくり静かに堪能しよう、と思ったとたん!なぜか、ガイドと思しきオバサンがやって来て、こちらからの眺望を思いっきり遮る迷惑な位置に座り、話を始めてしまった!なんで1人でそこに座るかなあ、邪魔なんだけど。でも、10分ぐらいで終わるでしょ。が!10分経過、20分経過…まだしゃべっている! この素晴らしき風景のど真ん中に居座ったまま!しかも、地名の「鞆(とも)」が国字だという話から、「躾」も国字だと飛躍し、さらに「いいですねえ。身を美しくすると書いて『しつけ』。素晴らしいですね」と、自分たちの国で作ったヘンテコな漢字を自画自賛し、「かの国にはこの字がないからでしょう、(マナーが)ひどいでしょう」などと、聞いていて唖然とするような差別発言を、まったく悪気もなく声高にするではないか。具体的に「こういうことを中国人がしているのを見て(あるいは、されて)、マナーが悪いと思った」というような体験談なら、まあ、まだアリないかもしれない。観光ガイドがする話としては極めてふさわしくないとは思うが、それはそれで言論の自由の範囲だ。だが、具体的な例を挙げるわけでもなく、「躾」という字が日本にあって「かの国にはない」から「躾がなってない」なんて十把一絡げのトンデモ論は、ジョークのつもりなのかもしれないが、はっきり言って完全にアウトだ。田舎のオバサンはこれだから困る。内輪の井戸端会議じゃないんだから、まったく。もし、話を聞いてる観光客の中に、日本語の分かる中国人がいたらどう思うか、想像することさえできないんだろうか? 鞆の浦はマイナーな観光地で外国人は、まだあまり来ないかもしれないが、観光立国を目指すなら、当然外国からも観光客を誘致しなければいけない。鞆の浦の美しさ、朝鮮通信使ゆかりの土地という歴史。これらは海外の観光客にもアピールする要素だ。それなのに、どこの団体のガイドか知らないが、フリーで来てる客もいる場所で、素晴らしいパノラマを背にして一番良い席を1人で陣取り、中国人に対する差別意識丸出しの下世話なおしゃべり。おまけに、話が長すぎる!因島でもそうだったが、広島の人は話が長いのか? 旅行先で立て続けにこんな目に遭ったのは初めてだ。仙酔島へ行く「いろは丸」が出航すると、オバサンガイドが、「前に出て写真を撮ってもいいですよ」と、許可を出す(苦笑)ので、内心「あんたさえいなければ、あんたに許可もらって前で写真撮る必要もないんですけどね」と思いつつ、写真を撮らせてもらった。オバサンが座って動かないから、柱と桟の「額縁」を入れて撮ることができない。この場所の風景はもちろん素晴らしいが、それを柱と桟で独創的に「切り取った」からこそ、ここのパノラマは絵画めいた唯一無二の絶対美を備えたのだ。この場所に座敷の開口部を作り、明るい外界をこうやって切り取って、「ここにしかない絵画」に仕上げた先人の苦心。それを思ったら、「絵画」の中心位置に、自分がデンと座って、先人の作品を鑑賞する他人の権利を阻害するようなマネはできないと思うのだが。どうしてもそこで話をしたいなら、もっと短くするか、あるいはいろは丸が出航するシャッターチャンスには、自分が腰を上げてどくべきだろう。こちらからすれば、頼んでもないガイドに視界を邪魔され続け、長い話を延々、延々、延々と聞かされ、話が終わったころには、もう座り疲れてしまい、静かに景色を楽しむ気力は残っていなかった。落胆。次いつ来れるのか分からない、こちらにとっては、おそらくは一期一会の旅なのに。座敷に入ってきたときに、オバサンが座っていなかった(だから、一瞬、素晴らしい外界のパノラマがそのまま目の中に飛び込んできてくれた)ことだけを救いに思うことにして、対潮楼を去ったのだった。鞆の浦温泉 景勝館 漣亭
2017.07.03
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日本橋高島屋で珠玉と呼ぶにふさわしいストールを見つけた。カシミール製。マハラジャに献上するターバンを制作していた歴史ある手刺繍工房が、ヨーロッパや日本のデザインを採り入れてモダナイズし、「ターラ・ブランカ」というブランドで世界展開をはかっているとか。夏なので薄手のシルクウールにさまざまな刺繍を施したストールが並んでいたが、一番気に入ったのが、パイナップルをモチーフにしたという、こちら。ブルー系やレモンイエロー系というMizumizuの好きな色彩に赤~ピンクの華やかなカラーも散らしている。デザインは大胆で、南国的。アジアンな雰囲気でありながら、ヨーロッパのデザインの洗練も感じさせる。西洋と東洋が見事に融合している、まさに「作品」と言いたい逸品だった。はおらせてもらうと、シルクウールのしなやかで軽い布がしっかりと身体にまといつき、冷房の効いている館内で肩がほんのり暖かい。このごろは夏でも薄手のストールを巻くのがはやりだが、これだけどこでも冷房が効いていたら女性には、おしゃれというより必需品かもしれない。長くて豪奢なストールなので、普段使いにはtoo goodだが、観劇やディナーへのお出かけには活躍してくれそう。Mizumizuが気に入ったストールは「ターラ・ブランカ」の中でも最上級ラインだったらしく、「買います」と告げると、熱心にブランドの説明をしてくれた店員も大喜び。カード清算をしに奥へ行くときは、小躍りするような歩調だった(笑)。モノがいくらよくても、買ってもらうためには、やはりそれを売り込む店員の力というのも大きい。「ターラ・ブランカ」のサイト(こちら)は、確かに美しいストールが並んでいてlook book(製品カタログ)は見ていて溜息ものだが、それだけではやはり買おうというとこまではいかない。ネット販売が発達しても、最初にお客をつかむには、こういうふうに、触れて、試して、勧めてもらえる、対面販売でないと難しいだろう。Mizumizuの買ったストールは、アリー刺繍というものが施されているとか。アリー刺繍とは、細い鈎針を使い、下から糸をすくって刺繍する技法で、円を描くように色を変えながら一針一針さしていくということだ(いただいたブローシャより)。インド・カシミールの刺繍製品というのは、安いものが日本で多く出回っているが、ここまで技術が高い刺繍製品は、さすがにめったに見ない。問題は洗濯できるかどうかだな、と思い、店員に聞いたのだが、案の定、困ったような顔で、「ドライクリーニングも含めて、基本、洗濯はできないと考えたほうが」と言われた。正直な答えだ。ファブリックというものは、上質になればなるほど、洗えなくなってくる。風合いが変わってしまうし、どうしても傷んでしまうから。「汗などがついたら、霧吹きで水をかけて蒸発させるぐらいで…」とのアドバイス。つまり、汚れたらアウトということだ。気を遣うなあー(笑)。旅先に持っていくときなどのために、薄いポーチをつけてくれる。繊細な生地なので、こうしたものは必須。暑い国にバカンスに行くときに、ホテルのディナーなどで羽織るのにぴったり。このポーチも役立ちそうだ。
2017.08.01
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最近は、銀座のランチもかなりお得感がある。マロニエゲートのヴェトナム料理店ヴェトナム・アリスは、料理本まで出してる有名店だけあって、ランチもプレゼンテーション、味、値段ともにハナマルをあげられる。ヴェトナムアリスのアジアン・エスニックMizumizuがヴェトナム料理のウマさを知ったのは、北海道のザ・ウィンザーホテル洞爺のレストラン。ミシュランの星付きレストランばかり宣伝されるが、あの野菜中心のバカ高いフレンチより、値段も手ごろだし、味もいいし、ずっとオススメ。シェフが替わっていなければ、だが。ヴェトナム料理はよく言われることだが、フレンチの風を受けて洗練された。タイ料理ほど辛くなく、中華ほど油っぽくないが、この2つの伝統的な料理の影響もある。その意味では、フュージョン料理の先駆けとも言える。なかなか美味しいヴェトナム料理の店が日本になかったのだが、最近は様相が変わってきた。こちらは1500円のランチセットにつく春巻き。揚げ春巻き、生春巻きにさつま揚げ、別の皿には蒸春巻き。向こうに見えるヴェトナム醤油をかけていただく。好みによっては香草を一緒に食べてもいい。日本人には香草が嫌いな人も多い。こうやって水を入れたガラスに挿しておけば、好きな人は好きなだけ自分でアレンジできる。よく考えている。春巻きもサーブするときは、この2つの小皿を重ねて手に提げて持ってくる。テーブルの上で上下を広げて2つの小皿に展開するプレゼンテーションは、なかなか。アジアの汁麺が大好きなMizumizu連れ合いが頼んだのは、ブン・ボー・フエという辛口のビーフン、牛スジ入り。野菜ともやしを自分でトッピングして食べる。辛さの中にさわやかな酸味のあるスープは、この値段にしてはかなりのもの。連れ合い、大いに気に入る。カレー星人のMizumizuはヴェトナム風チキンカレー。ど~んとのっているのは、里芋とニンジンで、チキンは後ろに隠れている。タイのイエローカレーのようなものかな、と思ったら、それよりずっと美味しかった(タイカレーは好きなのだが、イエローだけはどうも・・・)。隠し味にレモングラスを使っているとか。マイルドだが、なかなかに深い風味を出している。ご飯が水っぽい日本米なのは・・・ 長米を嫌う人が多い日本では仕方ないのかな。こういうエスニックカレーには水気のない長米のが絶対に合うと思うのだけど。食後についてくるヴェトナムコーヒー。ナポリの直火エスプレッソみたいな淹れ方をするコーヒー。このプレゼンテーションも珍しくてgood。紙や布で濾さない分、湿った大地の香りそのものがするよう。悪く言えば雑味が出てる、ということになるのかも。こういうタイプのコーヒーも好きなのだが、下の練乳と混ぜたら、なんか缶コーヒーみたいになっちゃった(笑)。値段のわりに満足度が非常に高く、リピートは決定。次は「鶏肉のレモングラスごはん」にしてみようっと。ヴェトナム・アリスは新宿ルミネにもある。銀座のマロニエゲートは、2007年にオープンした比較的新しいビルなのだが、三菱地所がリキ入れて作った丸の内のビジネス&ショッピング・ビルディング群とは、あらゆる意味で雲泥の差。張りぼてパネルで内装をおしゃれっぽくしているが、基本的にあまりカネかけてないので、時間の経過とともに(←それもたった2年)かなり化けの皮が剥がれてきた。それでも、エレベータ表示はポップなデザインでカワイイと思っている。写真にしたらたいしたことないケド、黄色と紫の色遣いもなかなかキュートで好きなのだ。マロニエゲート1階、エントランスのデコレーション。11月に入ってクリスマス・モードに。このチャチさがいいよね。なんとか頑張ってオシャレにしようという、努力は大いに買います。全体的にどうしても垢抜けないが・・・こちらは、銀座の大通り。この道は旧東海道だったとか(←NHKの「ブラタモリ」という番組で聞きかじった話。この番組は、エラク面白い)。澄んだ秋空をいただいた夕暮れの銀座には、胸を締めつけられるような美しさがある。今は海外の有名ブランド店が多い銀座だが、羽振りのいいガイコク企業が進出しても、あるいはこののち撤退しても、銀座は銀座で揺ぎなくここにあり、地元民の誇りであり、おのぼりさんの憧れであり続けるだろうと思う。
2009.11.04
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ジュード・ロウがスターダムにのし上がっていった課程には、3つの段階があると思う。舞台『恐るべき親たち』のミシェルでホップして映画『オスカー・ワイルド』のボジー(アルフレッド・ダグラス卿)でステップして映画『リプリー』のディッキーでジャ~ンプディッキー役で英国アカデミー助演男優賞を受賞、米国アカデミー助演男優賞にノミネートされてからのロウの活躍については、言うまでもないだろう。『リプリー』で74万5000ドルだったロウの出演料は、ミンゲラとの次作『コールドマウンテン』で1000万ドルに跳ね上がっている。このギャラの上がり方は、『太陽がいっぱい』でのアラン・ドロンを彷彿させる。『恐るべき親たち』『オスカー・ワイルド』『リプリー』の3作で、ロウが演じたキャラクターは、不思議なほど共通している。彼らは皆エキセントリックで、感情のブレが激しい。そして、その性格によって悲劇的な結末をみずから手繰り寄せてしまう。ミシェルを演じたからこそボジーの役が来たのだろうし、ボジーを演じたからこそディッキーの役が来た。脚本家が前の作品でロウの演じたキャラクターに、何かしらの影響を受けている可能性も否定できない。たとえば、『オスカー・ワイルド』でのこのシーン。眠るボジー(ロウ)をオスカー・ワイルドが凝視している。『リプリー』『コールドマウンテン』『こわれゆく世界の中で』と、ロウを3度連続して起用したミンゲラ監督は、このイメージを全作に滑り込ませている。『恐るべき親たち』を書いたジャン・コクトーも眠る男のイメージを、繰り返しデッサンにしている。『恐るべき親たち』はもともとコクトーがジャン・マレーのために書いた戯曲。マレーが「泣いたり笑ったりして極端な役をやりたい」と言ったことで、ミシェルというキャラクターが生まれた。元祖ミシェル(ジャン・マレー)も、キレて怒鳴ったり…涙を浮かべて、子供のようにすがったり…身もだえながら泣きじゃくり、母親に慰められたりするが…『オスカー・ワイルド』のボジーもイラついて激昂したり、オスカーの胸の中で涙にくれたり…実も世もなく泣き伏して、オスカーに慰められたりする。ミシェルという極端な若者を演じたことが、ロウにとってはボジー役のレッスンになったのは間違いないだろう。『オスカー・ワイルド』の脚本は、『アナザー・カントリー』のジュリアン・ミッチェル。『アナザー・カントリー』のガイもそうだが、ミッチェルは少数派のセクシャリティの持ち主を、プライドが高く傲慢な、人格障害すれすれの破綻した性格と結びつけて書く傾向がある。ゴッホを主人公にした脚本も書いているから、あるいはミッチェル自身が、狂気をはらんだ異常な精神に惹きつけられるのかもしれない。『オスカー・ワイルド』のボジーは、身勝手な父親と息子を甘やかすだけの母親に育てられ、他人を思いやることのできないワガママな暴君になってしまった青年。求めても得られなかった父親からの無償・無限の愛を、ボジーはオスカーに求めようとする。初登場シーンでは…初めから挑発的なキラー目線、誘惑する気満々でオスカーを待ち受ける。イギリスの貴族文化が絢爛と花開いたビクトリア王朝時代の衣装や室内装飾も、この映画の見所。ボジーのイメージカラーはサーモンピンク。ウエストコートやガウンにこの色が使われ、それがボジーの明るい髪と瞳に呼応して映えている。初対面でいきなり、通っている大学の教授を引き合いにして、中産階級に対する蔑みの言葉を口にするボジー。貴族ゆえの傲慢さだけのように聞こえるのだが、その裏にある心理が物語が進むにつれあぶり出されてくる。実はボジーは…身分の卑しい若い男の子に致命的に弱いというのが、真実。ボジーがオスカーに最初にもちかける相談も、生まれは悪いが顔がキレイな男の子に宛てて書いた恋文をネタに、その彼からゆすられているというもの。ボジーは誘われるのを待っている、受動的な美青年ではない。オスカーにも積極的に近づき、いわば「能動的破壊神」として、オスカーの運命を狂わせていく。自身も詩を書くボジーは、流行作家のオスカーのたぐいまれな才能に憧れていた。オスカーを誘惑するために、惜しげもなくその美しいカラダを使うのだが…いったんオスカーを手に入れてしまうと、はるかに年上の中年男では自分のほうが肉体的に満足できなくなってしまう。ボジーはオスカーに、「ボクは本当に君を愛してる。でも人生には刺激が必要だろ」「見てていいから」などとささやき、オスカーの面前で男娼と交わる。道を歩いていても…水に飛び込んで泳ぐ、溌剌とした若い男の子に思わず目がいくボジー。獲物を見つけた肉食獣の眼差し。ボジーはオスカーの中に理想の父親像を見ている。そして、セクシャルではない、理想の愛の世界を一緒に構築したいと願う。だが、現実には2人は一緒にいると衝突するようになっていく。それでも、離れていると…と真剣に思うボジー。オスカーという「父」を得て、ボジーは実父に復讐を仕掛けるのだが、逆にオスカーとボジーの関係がスキャンダルとなり、オスカーが刑務所に。オスカーと鉄格子で隔てられて初めて、真剣に永遠の愛を誓うボジー。Mizumizuがこの作品で、もっとも胸を打たれたシーン。ボジーというキャラクターは、あまりに身勝手でエキセントリックで、言ってることとやってることが違うために、観客の共感は得られにくいのだが、彼は頭で思い描く観念的な理想の愛と、現実に自分の欲望が向かう先とのギャップに引き裂かれ、常にどこかで自分を恥じている人間。それが抑えがたい攻撃性となって、もっとも自分に寛容な相手に向かってしまうのだ。そうやって愛する人を傷つけ、自分も傷ついている。<明日へ続く>
2009.05.07
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<きのうから続く>さて、2人の私生活に話を戻すと、1946年1月に『美女と野獣』を撮りおえたコクトーは、翌月マレーと離れてスイスに近いモルジーヌで療養。このときに1944年にマレーと約束した本を書いている(このときのエピソードについては5月2日のエントリー参照)。それが内省的な批評エッセイ『ぼく自身あるいは困難な存在』。この朗読を聞いてマレーは「驚嘆した」と言っている。「ジャンを尊敬すればするほど、自分が恥ずかしくなった」(マレー自伝より)。マレーが驚嘆したこのエッセイ、のちにコクトーはその生原稿を、「ぼくたちの思い出に」といってマレーの誕生日に贈っている。モルジーヌでの皮膚病の治療はさしたる効果をあげずに終わった。1947年7月封切の『美女と野獣』が大成功をおさめると、モンパルシエ通りのコクトーとマレーのアパルトマンは、ますます訪問客が増えていった。電話や呼び鈴が鳴り続け、コクトーはほとんどまったく仕事ができなくなる。このころの2人の関係を暗示するような記述が、マレーの自伝にひっそりと書かれている。「そのころ、ジャンは修道僧のような生活を送っていた。彼ぐらいの年齢(注:このときコクトーは57歳)になると、ある種の交際(やりとり)は破廉恥でしかなく、滑稽なものになると、自ら考えていたようだ」。さて、パリのアパルトマンでの創作活動に限界を感じたコクトーは、「別荘が欲しい」と言い出す。1946年の夏、コクトーのマネージャーのポールがフォンテンブロー近郊のミリィ・ラ・フォレに司祭館のような上品なたたずまいの物件を見つけてくる。コクトーもマレーも一目で気に入った。2人にはこの別荘を現金で買うほどの持ち合わせはなかったので、借金をすることに。内装の改修をマネージャーのポールにまかせたところ、ほとんど物件購入と同等の金額を要求された。1946年8月にコクトーがマレーに送った手紙。「ポールはミリィにかかりきりですが、大変な出費です。なんとか必要なものをかき集めるべく頑張っていますが、後々どうやって暮らせばよいものやら。でもいいのです。パレ・ロワイヤル(注:モンパンシエ通りのアパルトマンのこと)で苦労しているくらいなら、ミリィを手に入れ、それで苦労するほうがずっといい」(『マレーへの手紙』より)内装工事の終わったミリィにコクトーとマレーが入居したのは1947年1月。別荘は3階建てで、3階がマレー、2階がコクトー、1階が共同スペース。家具や置物すべてを2人は「愛と友情をこめて」(マレー自伝より)一緒に選んだ。ところが、この別荘、モノを書くコクトーには天国だったが、映画のロケやパリでの舞台の仕事のある俳優のマレーには不便だった。結果、マレーはあまりミリィには来ることができなくなる。マレーは若いころから絵を描くことが好きで、時間があれば描いていた。そこでミリィをアトリエにしたのだが、『美女と野獣』以降は絵どころではなくなってしまった。さらに1947年の夏に、コクトーはパレ・ロワイヤルの画廊で22歳の画家志望の青年に出会う。レイモン・ラディゲに似た風貌のこのたくましい若者をコクトーは一目で気に入り、別荘の庭師助手にならないかともちかけ、まもなく息子として遇するようになる。それがエドゥアール・デルミット。1949年撮影の『恐るべき子供たち』で主役のポールを演じることになる青年だ。そしてデルミットが原因で、マレーはパリのアパルトマンを出ることになる。1948年のことだ。「モンパンシエ通りでは、ジャンが援助しようとする友人を手厚くもてなしていた。ジャンの部屋は狭く、それより広い私の部屋との交換を彼に申し出た。しかし彼は、私をわずらわすことを全然望まず、申し出を丁寧に断った。私は彼の生活をいっそう快適にする方法を考えた。もし私が引っ越せば、かえってジャンは苦痛だろう。そこで新鮮な空気と太陽が欲しいという口実を使った。モンパンシエ通りのアパートはパレ・ロワイヤルのアーケードの下にあったから、公園の反射光を受けるだけだった。伝馬船ならば、一時の出来心に見えると思った。小さなハウスボートを見つけ、セーヌ河の淀みに居を構えた。私の引越しは出発という雰囲気ではなかった」(『ジャン・マレー自伝 美しき野獣』石沢秀二訳 新潮社)この「援助しようと手厚くもてなしていた」友人というのが、エドゥアール・デルミットだ。こうしてマレーは、「出来心に見せて」コクトーとのアパルトマンを出て行ってしまう。コクトー自身はこのときは、マレーと自分にはミリィもあるし、またマレーと一緒に暮らせる日が戻ってくると単純に考えていた。マレーのほうもコクトーと別れるつもりはまったくなかった。だが、現実にはこれ以降コクトーとマレーはお互いのさまざま事情から、少なくとも表面上は、同じ屋根の下で暮らすことはなくなってしまう。つまりジャン・コクトーとジャン・マレーの共同生活は事実上10年で終わったのだ。マレーはセーヌに浮かんだハウスボートを「放浪者(ノマード)号」と呼んだ。放浪者号の内装は非常に豪奢で、床まですべてマホガニーと銅でできており、19世紀の船内家具がいくつもしつらえてあった。フランス中のすべての雑誌が、このジャン・マレーの新居を写真つきで掲載し、「放浪者号の装飾品のコピー」がパリのアンティークショップで売られる始末だった。マレーとコクトーは放浪者号とモンパンシエ通りのアパルトマンをお互いに行ったり来たりする生活になっていた。ちょうどそのころ、ハリウッドで華々しい成功を収めたジャン・ピエール・オーモンがフランスに帰国。コクトーに会いに来た。自分と妻のマリア・モンテスのための映画のシナリオをコクトーに書いてもらえないかというのだ。コクトーが気にしたのは、マレーだった。ジャン・マレーはもともとは、いわばジャン・ピエール・オーモンの代役としてコクトーが抜擢した俳優だった(オーモンとマレーについては、3月18日、3月19日、3月27日のエントリー参照)。いまさら自分がオーモンにかかわると、過去の話をおもしろおかしく蒸し返され、また要らぬスキャンダルの種になるかもしれない。マレーに事情を説明し、「君に迷惑がかからないかな?」と、気にするコクトー。「なぜ?」「昔のことで、また何かかや攻撃してくるぼくたちの敵がいるかもしれないからね」「気にするなって。ぼくは全然大丈夫だよ。それより、シナリオが出来たら読ませてもらえるかな」安心したコクトーは、オーモンの年齢に合わせた「詩人」のイメージで台本を執筆する。それが、『オルフェ』。今ではジャン・マレーの代表作の1つとしての評価が確定し、ほとんどマレーのために書かれたと思われている作品だが、意外にもこれは、もともとはオーモンのために作られた物語だったのだ。その主演がなぜマレーに行くのか。運命の歯車が動き出す。<明日へ続く>
2008.05.29
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Mizumizuは現在、ペッパーミルはプジョー製、ソルトミルはコール&メイソン製を使っている。ソルトミルのほうはもうずいぶん長く――おそらく15年以上は――同じものを使っている。毎日使うほどではないが、といってほったらかしということもなく、常に食卓の上にあり、切れることなくピンクソルトが入っていて、しばしば使うという感じ。ペッパーミルのほうは、ソルトミルより少し早く、ウサギ形のものを買った(メーカー名は失念)が、数年で壊れてしまい、次におしゃれっぽい小物を売っている店で、1000円ちょっとの安いものを買ったが、それもすぐに胡椒の詰まりがひどくなり使えなくなってしまった。そこで、質に定評のあるプジョー製に替えたら、それ以来ずっとトラブルなく快適に使えている。コール&メイソン製のソルトミルはオーストリアのバートイシュルの岩塩専門店でピンクの岩塩を買ったときに、それ用ということで買ったもの。話が逸れるが、ここで買ったピンク岩塩は、日本でよく売っているヒマラヤのピンク岩塩なんて及びもしないほど美味だった。塩の味の中に不思議な甘みがあり、まろやかな味。記憶の中で美化されている部分もあるとはいえ、その後、あの味を越える塩にはお目にかかれていない。で、ミルに話を戻すと、壊れないのでずっと使い続けていたのだが、先日、ピンク岩塩が切れて、たまたま気まぐれでクリスマス島のクリスタル結晶の塩を買ってみた。何の気なしにソルトミルに入れると…あれ? 削れない。なんだか滑ってしまっているようだ。調べてみると、ソルトミルは厳密には岩塩用と海塩でギア(刃)の作りが違うようだ。それはそうかもしれない。だが、Mizumizu所有のは刃はセラミック。セラミックなら海塩でも大丈夫な気がする。ま、もし海塩が原因で削れないのなら、岩塩にすればいいだけだ。というわけで、いつものピンク岩塩を買って入れてみた。が、結果は同じだった。滑ってしまっているようで、削れない。「ソルトミル 削れない」で検索してみたが、たいした妙案はなかった。塩を全部出して、構造をじっくり見る。バラすことはできないが、中にバネが入っていて、頭部のツマミを閉めるとその圧力で、上下になっている下のほうのギアが移動し、噛み合わされて削るというシンプルなものだ。下のギアの部分を見ると、だいぶ塩がついている。単純に、これで削れなくなっているように見える。だったら、水洗いして、しっかり乾かせばよいだけの話ではないか?バラせないから乾燥させるのがちょい難しいかな、とは思ったが、もし水洗い→乾燥で直らなかったら、それは壊れたということだし、コール&メイソンはギアを交換してくれるという話もあるので、聞いてみてもいい。というワケでお湯を勢いよく流し、そのあと少しお湯につけてセラミックのギア部についた塩を除去してみた。これが洗浄後。こびりついていた塩はきれいに取れた。そして、内部の乾燥には、コレ↓ダイソンのヘアドライヤー! コイツがすんばらしい働きをしてくれた。このドライヤーは、元来のドライヤーとしても、心からおススメできる。あっという間に髪が乾いて、しかもふんわりとボリュームが出る。値段は飛び切りだが、実にGOODなドライヤー。コイツをコール&メイソンのソルトミルの開口部に近づけて、中の水滴を次々と飛ばしていった。ドライヤーだけでほぼ乾いたといえるぐらいになったが、それでも念のため、数日放置して自然乾燥。で、ピンク岩塩を再度入れたら…おー! ちゃんと削れる。新品に戻ったようだ(って、新品時代のことは実はもうよく憶えてないのだが)。これでまた使える。めでたし、めでたし。こんなことなら、もっと早く、というか、もっとマメに水洗いするべきだった。コール&メイソンのセラミック・ギアは、実に秀逸なのだなあ…と改めて感心した。クリスマス島の海塩が削れるかどうかは、実はまだ試していない。大丈夫な気がするが、万が一、せっかく直ったミルなのに、海塩が原因で削れなくなってもイヤなので、海塩用のソルトミルをもっとしっかり調べてから、ピンク岩塩が終わったあとにこのミルに海塩を入れて使うか、あるいは別に海塩用のミルを買って、同時に違う塩を楽しむのもいいかな、とも考えている。もちろん、次に買うのも、定評あるミルメーカーのものにするつもり。
2019.01.26
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行政に登録し、地域猫活動をはじめて2年目、2021年の春先。ある朝ふいに新顔の茶トラがやってきた。珍しいメスの茶トラ。しかも、お腹が横に張り出している。妊娠しているらしい。とても用心深く、警戒心丸出し。フードを用意してこちらが離れれば、食べるのだが、近づこうとするとパッと逃げてしまう。この子を連れてきたのは、コイツ↓ボス猫としてこの地域に君臨している「まるちゃん」、またの名を「ドン・ファン」。この子の子供を産むメス猫は、知ってるだけでこの新顔茶トラちゃんが3匹目だ。数年前は愛らしい目をした仔猫だった。それがいつの間にか、でっぷりと太り、いかにもふてぶてしい狡猾な野良となった。他のオス猫がこのあたりに入り込んでこようものなら、獰猛な表情で音もたてずに忍び寄り、バッと飛び掛かって、取っ組み合いのケンカに持ち込む。だから、このあたりからは野良のオス猫の姿がめっきり減った。しかも、その狡猾さをある種の人間の前ではうまく隠す術も身につけていて、近所の老夫婦は、「まるちゃんはおとなしい紳士」と思い込んで可愛がっている。彼らの前では遠慮がちで控えめなかわいい猫ちゃんらしい。私が他のオス猫に襲い掛かる話をしたら、心底驚いて、目をそれこそまんまるにして、「信じられない!」を連発していた。去年ドン・ファンの子供を産んだメス猫の「しまちゃん」は、とても懐っこい性格だったので、我が家で保護して完全家猫にした。しまちゃんがいなくなったら、まるちゃんのやつ、この茶トラちゃんに乗り換えて、ちゃっかりくだんの老夫婦のところにも連れていったらしい。ついでに言うと、ドン・ファンはしまちゃんとイチャイチャしていた時期に、しれっとしまちゃんの娘のミケちゃんにも種をつけていたのだ!「困ったことになったなあ」――中絶になる不妊手術を施すのが地域猫を管理する側としてはベストだが、慣れていない新入りの野良猫を強引につかまえて中絶させると、その子はもう二度とこの餌場に来ないかもしれない。術後の経過も見てやれないかもしれない。とりあえずは「チャー子」と名付けて見守ることにした。最初のうちはフードを食べに来たり、来なかったり。できるだけはやく信頼してもらいたいから、チャー子が姿を見せたときは気前よくおいしいフードを用意した。ウェットが好きらしく、それを食べているときはかなり警戒心というものを忘れるよう。これなら、手で捕まえられるかな? でも、お腹はあっという間に、どんどん大きくなっていく。「出産間近の野良のメス猫ちゃんを手術に連れていったら、亡くなってしまったことがあったの…めったにないことだけど、『心拍数が上がってこない』って獣医師の先生に言われて…こんなことになるなら産ませてあげればよかったなって…」かぎしっぽのベテランさんの悲しそうな声が蘇る。同時に、一緒のチームで活動している別の方の声も聞こえてくる。「野良猫は生まれても、なかなか育たないから。4~5匹生まれても、5匹が3匹になり、3匹が2匹になり、とうとう2匹が1匹になり…その子を守ろうとして親猫が交通事故に遭って亡くなったこともあるのよ」同じ経験をMizumizu自身も昨年している。「ミケちゃん」のケースだ。4匹いた子が気づいたら3匹に。そして、大雨のある日、ずぶ濡れの子猫を意を決して保護することにした。ところが2匹の黒白子猫に逃げられた。とてもすばしっこかった。逃げられなかったのは、一番発育が悪かった茶トラの子。目の状態もおかしくて、あきからに何らかの病気に感染していた。そして…今は母猫のミケちゃんと、その茶トラの息子だけが我が家で家猫になっている。チャー子はどうすべきなのか? 迷っているうちに出産は明らかに、もう間近に。今回は産んでもらって、野良のまま見守り、乳離れしたところでチャー子の手術、生まれた子も育ったところで手術、という路線でいくことにした。お腹が大きくなるにつれ食欲も右肩上がりに増していくチャー子。毎日来るようになった。そして、ある日、ふっと来ない日が。翌日も姿を見せない。ああ、多分、どこかで出産したのだな。この近所で猫好きは、むしろ少数派。「物置で野良が子供を産んだから、目がひらかないうちに用水路に子猫を捨ててやった」などと猫好きの老夫婦に平気で話したという猫嫌いの老女もいるのだ。もちろん普段は普通の市民だが、猫にとってはとんでもな存在だ。そんな人のところで産んでないといいのだけれど…数日後、チャー子は現れた。体はスリムになっている。子猫を連れてくるのはまだ先だろう。授乳期だから、たっぷり栄養を摂ってもらわねば。チャー子が来るたびにフードをせっせと出すMizumizu。しばらくすると、道端で授乳するチャー子の姿をたまに見るようになった。Mizumizuが見たときは子猫は4匹いた。だが…やはり日を追うにつれ、子猫の数は減っていく。最終的に茶トラ(茶太郎と命名)とサビ(サビーヌと命名)の2匹になり、我が家にご飯を求めに来るように。ただ、サビーヌはとても発育状態が悪い。しょっちゅう目を腫らしているし、細くてプロポーションも悪い。それでも、うちでご飯を食べる習慣が定着していからは、なんとか育っていった。逆に茶太郎のほうは健康優良児。猫にはよくあることなのだが…そして2ヶ月半が経過。そろそろチャー子の次の妊娠が怖い。というのは…ミケちゃんが昨年、出産後すぐまた妊娠してしまったのだ。もちろん、ドン・ファン(猫かぶってるときは、紳士のまるちゃん)の仕業。ミケちゃんはしまちゃんの娘で、ドン・ファンと仲良しでしょっちゅう一緒にいたのは母のしまちゃんのほう。しかも、しまちゃんも娘と同時期にドン・ファンそっくりの子猫を複数産んでいた。チャー子はドン・ファンとしょっちゅう一緒にいる。餌場にドン・ファンがやってくると、スリスリ~チュッチュとご挨拶。ただ、まだ子猫はお乳にふるいついてくる。この状態で母猫を手術していいものか? またも逡巡するMizumizu。獣医師の先生に相談すると、2ヶ月過ぎればほぼ授乳期は終わったとみてよいとのこと。もう一つのMizumizuの懸念は天気だった。今年の初夏は雨が多く、天候不順だった。心配だ…と獣医師の先生に言うと、大丈夫だと即答。野良猫はちゃんと雨に濡れない隠れ家を持っているし、この時期なら手術の傷の治りもはやいのだという。それより、次の妊娠のほうを心配すべきだとのアドバイス。それでも、なるたけ晴れている日を選ぼうとするMizumizu。気温も高すぎないほうがいい。天気予報とにらめっこの日々が続く。チャー子は、ウェットフードをあげているときは、触っても逃げなくなった。決して人間に背を向けてご飯を食べることのないドン・ファンと比べると、警戒度はダダ下がり。数日晴れそうだというある日、ついに捕獲する決心をした。チャー子がウェットフードにがっついているのを見計らって後ろから持ち上げ、すばやくキャリーケースに入れる作戦。去年は、このやり方で、しまちゃんとミケちゃんを手術に連れていった。チャー子も慣れたみたいだし、大丈夫だろう。と思ったのだが…甘かった! 動物の生態を甘く見てはいけない。そう思い知る顛末が待ち受けていた(以下、次のエントリーに)。Mizumizu主宰の地域猫の会は、広く寄付(お金ではなく、猫のフード)を募っております。完全匿名で贈ることができます。皆様のあたたかい善意をお待ちしております。地域猫にご飯を贈る地域猫にたっぷりご飯を贈る↓こちらはかぎしっぽの会のアフィリエイト。ここから買い物をすれば、売り上げ金の一部が寄付されるので、買い手に金銭的な負担は生じません。ネットショッピングをして地域猫活動(TNR活動)を応援する
2022.01.02
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「11日ひきのねこ」で有名な馬場のぼるは、朝日ジャーナル1989年臨時増刊4月20号『手塚治虫の世界』で、手塚さんは、どんなところでも原稿を描いた。列車の中でも、蒲団の中でも……。あれは人間わざではないです。と手塚治虫の超人技を追悼している。言わずもながだが、馬場のぼるだってめちゃくちゃ巧い人だ。ねこたちの描き分けなど、手塚治虫に勝るとも劣らない。だから、今でも馬場のぼるのねこキャラは人気だ。その馬場氏をして「人間わざではない」と言わしめる手塚治虫の作画の技量よ。しかも、蒲団の中でも描ける、つまり「寝そべって延々と描ける」というのは、後にも先にも手塚治虫だけではないだろうか。寝ながら描けたらラクだと思うかもしれない。でも、やってみたらすぐ分かる。寝ながらでは、逆にすぐ疲れてしまうし、そもそもうまく描けるものじゃない。「寝ながら手塚」のイラストは、それを目撃した漫画家によってあちこちで描かれている。こちらは馬場のぼる(前掲書より)。ふたりが親しく交流できた、おそらくは初期のころのイメージだろうと思う。ニコニコ顔で楽しそうに描いている手塚治虫。それを「へーーっ」という顔で見ている馬場氏本人。どこか牧歌的なほのぼのとした雰囲気が漂うのは、時代もあるだろうけれど、馬場のぼるのイラストならでは。これはコージィ城倉の『チェイサー』より。これは、福元一義著『手塚先生、締め切り過ぎてます!』中の著者本人によるカット。若き日の手塚治虫に編集者として出逢い、その後一時漫画家として売れるも、最終的には手塚プロに入社し、チーフアシスタントとして長く手塚漫画を支えた人物なので、締め切りに追われながらシャカリキになって描いている手塚治虫の姿は、さすがに臨場感がある。ちなみに右下で待っているのが、「手塚番」と呼ばれる編集者たち。福元一義氏は、基本的に「描く」側の人間なので、『手塚先生、締め切り過ぎてます!』も、描き手としてのアプローチで手塚治虫の実像に迫っており、非常に読んでいて面白い。中でも「スピードの秘密」として書かれたエピソードは、手塚治虫の作画手法がいかにユニークなものだったかを明かしている。手塚治虫が生涯でもっとも多忙をきわめた昭和49年~51年のある日、アシスタントの福元一義に先生が話しかけてくる。「福元氏はペンだこの痛いことがあるかね?」「あります。とくに、締め切りに遅れて徹夜した時など、疼くように痛みました」「僕も、ここのところ疼くように痛くてかなわないんだ。ホラ、こんなに堅くなっている。触ってごらん」と右手を差し出すので、人差し指と中指のグリップ(握り)のあたりを触ってみましたが、それらしい部分がありません。そうすると先生は不思議そうな顔で、「君、どこを触ってるの? ここだよ、ここ」と手裏剣をかざすような仕草をしました。唖然としながら見つめると、なるほど小指から手首にかけての部分が少し赤紫色になっており、触ると堅くごわごわして、デニムのような肌触りでした。ふつうペンだこといったら、少々の個人差はあっても人差し指か中指のどちらかにできるものですが、先生の場合は違っていたのです。(福元一義著前掲書より抜粋)ここで面白いのは、手塚治虫は普通の人は、「ペンだこ」と言ったら、人差し指か中指にできるものだと思う――ということを知らなかったことだ。そして、この多作の漫画家のペンだこは、「小指から手首にかけての部分」にあったということ。この独特のペン使いを見抜いた漫画家がもう一人いる。『鉄腕アトム』の人気エピソード「地上最大のロボット」をリメイクした、天才・浦沢直樹だ。ごくごく最近だが、『手塚治虫 創作の秘密(1986年初放送のNHK特集)』で原稿を描く手塚治虫の映像を見て、浦沢直樹は、「小指が浮いてるね」「手首を中心にして描いているみたい」と指摘していた。こんな描き方は普通できない、というような話になり、その場に同席していた堀田あきおが、「浦沢さんならできるかも。僕はできない」と言っていた。福元一義は、さすがに元漫画家のチーフアシスタントだけあって、(手塚)先生は、手首を支点に、手先全体を使って大胆にサッと描かれるのに引き換え、私たちの場合はグリップを中心に小さなペン運びで描くので、その違いがペンだこのできる場所の違いになったのだと思います。(前掲書)と端的に説明している。『手塚治虫 創作の秘密』では、残念ながらペン入れ時の手塚治虫の手元はあまり鮮明には映っていない。だが、手塚治虫の筆致の大胆さと繊細なディテールと比べ合わせると、Mizumizuは氏の描き方が中国の伝統的な墨絵(日本で言う水墨画の本家)に似ていると思うことがある。中国の伝統的な墨絵(Chinese ink painting)の描き方は、日本の今の水墨画の描き方とは似ているようで異なる。さまざまな技法があり、一概には言えないのだが、以下の描き方は、手塚作画に非常に似ている気がする。https://www.youtube.com/watch?v=UAmZ3Hb0aQM中国人のChinese ink paintingのプロが、壁に張った紙に墨絵を描いて見せる動画もYou TUBEにはたくさんあがっているが、手塚治虫もよく講演などで、観客に見えるように大きな模造紙を床に垂直におろして、そこに即興でキャラクターの絵を描いて見せていた。こうした手塚ショーは観客の驚きを誘い、いつも場は大いに盛り上がったそうだが、みなもと太郎氏によれば、こういうことができる漫画家は1960年以降は、ほとんどいなくなったようだ。そのエピソードが載っているのが、以下の『謎のマンガ家 酒井七馬伝』だ。酒井七馬は手塚治虫を一躍有名にした『新宝島』の共作者であり、手塚本人はそうとは思っていなかったようだが、ある意味、手塚治虫の師匠と言ってもいい存在だ。【中古】 謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影 / 中野 晴行 / 筑摩書房 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】酒井七馬(1905年~1969年)が活動していた時代には、漫画家なら似顔絵ぐらい描けて当たり前で、よく漫画家がイベントに登壇し、大きな模造紙に即興で似顔絵を描いたりするショーは人気。実は若き日の手塚治虫も酒井七馬とこういうイベントに参加していたのだという。ところが、酒井七馬の晩年、たまたまこうしたイベントに参加したみなもと太郎は、酒井氏の司会で、呼ばれた漫画家が大きな模造紙に即興で漫画を描くように言われても、まるで原稿のひとコマを描くように、チマチマとした絵しか描けない姿を見て、酒井氏が当惑する様子を目撃している。「似顔絵を描いて」と酒井氏に促されても「描けませ~ん」と言われたそうで、当然、場は盛り上がらない。『謎のマンガ家 酒井七馬伝』の著者である中野氏は、みなもと太郎から聞いた、この「盛り上がらなかったイベント」の終焉が、酒井七馬が「自分の時代が本当に終わった」ことを実感した瞬間であろうと、大いなる寂寥を込めて書いている。酒井氏は、若い漫画家に筆で描く練習をするようにとアドバイスをしていたという話だが、そんなことをする漫画家は彼の晩年にはいなかったのだろう。ちなみに、漫画を描き始めたころの手塚治虫は墨を自分ですっていた。使っているペンはガラスペンだったという。ガラスペンの形は筆の穂先に似ていて、滑りは軽く描き具合は良好だが、1回分の浸けるイングの量が少ないので、しょっちゅう浸けていなければならず、時間のロスが大きいので、手塚治虫が東京に出て連載を持ってからはお役御免となったという(福元一義、前掲書より要約)。手塚治虫の登場で、ストーリー漫画は隆盛を極めていき、さらに発表する雑誌も月刊誌から週刊誌へとスピードが速まっていく。その経過の中で、「漫画家」という者に求められる技量が変わっていったということだ。実際、石ノ森章太郎は、自分を「漫画家」ではなく「萬画家」と称している。伝統的な呼称との決別は、自分の描く世界は「漫」ではなく「萬」だという自負もある。手塚以前・手塚後で変わったものはあまりに多いが、マンガ家に求められるものが変わるにつれ、消えていった描き手の素質もあったということだ。消えていく技量を高いレベルで維持していたのが手塚治虫本人だった、革新者でありながら実は伝統の継承者であったというのも、あまり指摘されることはないが、まぎれもない事実だろう。手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書) [ 福元一義 ]
2024.02.02
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これをやれる日本人女子シングル選手がいるとしたら、それは紀平選手だと思っていた。2018年にそう書いた(こちら)。だが、日本人女子としては初、世界をみわたしても56年ぶりという快挙をなしとげたのは、2018年当時は予想もしていなかった坂本花織選手だった。これには、ロシアの問題も絡んでいる。ロシア女子に対抗すべく3A以上の高難度ジャンプに挑んできた日本人女子選手は、ケガに泣かされてしまった。そういった背景のあるなか、自分の強みをしっかり伸ばしてきた坂本選手が3連覇という偉業を達成したのは、まさに神の配慮と言えそうだ。勝負は時の運ともいうが、自分でコントロールできない世界のことに振り回されることなく、地道に自身の道を究めていくことの大切さを、坂本選手の奇跡的偉業が教えてくれているように思う。ロシア人が坂本選手を見てどうこき下ろすかは想像できる。「私たちの選手が4回転を跳ぶ時代にトリプルアクセルさえない選手が3連覇など悪夢」「女子フィギュアが伊藤みどり以前に戻ってしまった」などなど…だが、坂本選手が長い時間をかけて磨き上げてきた世界は、観る者を幸福にする。スピード感あふれる滑り、ダイナミックなジャンプ。大人の雰囲気。ロシア製女王生産装置の中からベルトコンベヤで流れてくる、選手生命が異様なほど短いロシア女子シングル選手には、求めるべくもない魅力だ。今回の優勝を決めた要素をあえて1つだけあげるとすれば、それは連続ジャンプのセカンドに跳ぶ3Tの強さだろうと思う。これを回転不足なく確実に決められるのは、長きにわたる世界女王の条件とも言える。もちろん、それは単独ジャンプのスピード、幅、高さがあってこそだ。欠点は、やはりルッツ。これまで見逃されることも多かったが、今回のフリーではEがついてしまい、減点になった。テレビでもばっちり後ろから映されて、見ていて思わず「ギャーー」と叫んでしまった。・・・完全にインサイドで跳んでる・・・ う~~・・・ エッジがインに変わってしまう前に跳ぶことができるのだろうか、彼女? それをやろうとすると跳び急ぎになって着氷が乱れてしまいそう。といって、しっかり踏み込めば、今回のようになる。その状態がずっと続いているように見える。同じく3連覇のかかった宇野昌磨は4位という結果に終わったが、これはある程度仕方がないように思う。宇野選手ももうシングル選手としては若くはない。長いフリーで最初の高難度ジャンプで失敗すると、それが尾を引いてしまう。ジャンプ以外にもあれだけ上半身を、そして全身を使って表現するのだから、一言でいえば体力がもたないのだ。だが、宇野選手のショートは「至宝」だった。肩に力の入ったポーズで魅せる選手が多いなが、上半身の無駄な力をいっさい抜いた、それでいてスピード感あふれる滑りには驚かされる。至高の芸術品をひとつひとつ作り上げていくようなアーティスティックな表現は、ただただ息をつめて見つめるしかなくなる。こうした、「スケートとの対話」の見事さは、浅田真央がもっている孤高の表現力に通じるものを感じる。今回のショートはジャンプもきれいに決まった。宇野昌磨、完成形といったところか。これ以上はもう望む必要もないし、これまで日本シングル男子の誰もが成し遂げられなかったワールド2連覇という勲章だけで十分だ。マリニンの優勝は、当然だろうと思う。4アクセルに4ルッツ、4ループまで装備し、3ルッツのあと3Aを跳んでしまう選手に、今、誰が勝てるだろう? 鍵山選手の成長は見ざましく、すんげー4サルコウに加えて、4フリップまで来た。それでも難度ではマリニンには及ばない。プログラムコンポーネンツでは勝っているが、やはり得点の高いジャンプの難度で勝負はついてしまう。マリニンにはフリップを跳んでほしい。4ルッツ2回に3ルッツ1回。それは素晴らしいが、やはりバランスが悪い。これは他の選手にも言えることだが、ルッツとフリップを両方入れる選手が減ってきている。ジャンプの技術を回転数だけではなく、入れる種類の多さで見るようルールを変えるべきだ。以前も書いたが、ボーナスポイントではなく、すべての種類のジャンプを入れなかった場合は「減点」とするのがよいと思う。それも1点とか2点とかではなく、大胆な減点とすべきだ。すべての種類のジャンプを成功させたときのボーナスポイントとなると、なにが「成功」なのかという判断が難しくなる。Wrong Edgeを取られたら、回転不足を取られたら、それは「不成功」なのか、あるいは軽微なら「成功」とみなすのか、試合ごとの判定によって判断も違ってきてしまう。それよりも、ジャンプの偏りに減点するほうが明解だ。
2024.03.25
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時計というのは、お手ごろな価格の日本製クオーツが一番よく働く。しかし、スイス製のデザイン性の高い時計も捨てがたい魅力がある。というワケで、気がつくといろいろ買っていたりするのだが、Mizumizuが所有した時計で一番の困り者がロンジンの超薄型文字盤のクオーツ時計だった。写真一番左がそれ。まん丸いゴールドの文字盤は厚みがわずか4ミリ。時間を示すインデックスはシンプルな細いライン。クロコの濃紺の革バンドとの組み合わせはとてもエレガント。余計なものをそぎ落としたようなデザインが非常に気に入って買ったのだが、「薄いから電池はわりと早く切れます」と言われたとおり、すぐに止まってしまうのが難点だった。そのうえ、使ってるうちにどんどん電池切れの間隔が短くなる。薄型の特殊な時計ゆえか、電池代も高い(高かった)。ロンジンを扱っているショップに持っていったり、デパートの修理コーナーに行ったりしていたのだが、時間もかかり、預けてから別の日にまた出直さなければならない。そのうちに、電池を交換してからしばらくしまっておくと、使う前にもう止まってるというような異常な状態に。デパートの修理コーナーにいた職人さんに話を聞くと、中の部品を新しくすれば、長持ちする新しい電池が使えるようになると言われた。どうもよくわからない話で、内心、それってつまり、ムーブメント自体に最初から不具合があったってことじゃないの?と思ったのだが、こんなに電池切れが早いんじゃやってられない。数万かけて部品を入れ替えてもらった。で、最近はあまり腕時計をして出かけない。そもそも出かける時間もなく仕事に追われまくっている。たまにでかけても、携帯電話に時計がついているので、腕時計はなくてもいい。気がつくと、家中の腕時計が止まっていた!(笑)写真はそのうちのいくつか。左からロンジン、4℃(アクセサリーブランド)、クルマ屋さんからもらったノベルティグッズ、一番右が連れ合い所有のセイコー。これだけバラバラだと、時計を売ってるショップに持っていっても、「これはできますが、これはお預かりになります」などとメンドウくさい。修理を専門にやってくれるプロの店が近くにないかな~と思っていたら…あるじゃないの!家から徒歩10分の西荻窪の街角に。いつできたんだろう? 最近まで気づかなかった。で、写真一番右の時計は、連れ合いのなのだが、ブレスレット部分のパーツを細いピンで留めてつなげているのが、ピンがはずれやすくなってきたと、これまた困っていた。Mizumizuのいろいろなブランドの時計と、セイコーのブレスレットのピンの修理を一挙に頼んでみたら…「ハイ、すぐできます」と心強い返事がソッコーで返ってきた。しかも…聞いてたまげるほど安い!http://padonavi.padotown.net/detail/pages/1109/00000905000.html↑ここのお店紹介に載ってる料金ほぼそのままで、薄型ロンジンのような特殊なものも、「預かり」ではなくすぐその場でやってくれた。ピンの交換もその場でチョイチョイ。あっという間に直してくれて、古くなってサビの入ったピンを見せてくれ、「こんな感じになっていたので抜けやすくなっていたんだと思います。ピンを1つ1つ押してみて、緩そうなのだけ新しいのと交換しました」と作業の説明もバッチリ。でもって、これまた「そんな値段でいいんですか?」というぐらい安い。工房には3人スタッフがいて、1人はお年のベテラン。あとは30代ぐらいの若手の職人が2人。ルーペを額にくっつけて(作業中は目に移動)、いかにもデキそうな感じ(笑)。ロンジンの薄型時計の電池交換には過去、毎回毎回そーとーなお金を払っていた。あれは何だったんだ。電池交換のあまりの安さと速さに驚いて、「大丈夫なんだろうか、そんなに安くやって」と返って心配してしまったのだが、ここはやっぱり、どちらかというともっと手の込んだマニアックな時計、つまり機械式時計のオーバーホールを請けていきたいんだと思う。店の紹介を見ても、地方発送の準備などしている。オーバーホール以外にないよね、これは。ちょうど連れ合いはブライトリングの機械式時計など持っている。そして、オーバーホール代にビビってあまり使っていない(笑)。オーバーホールの腕前はまだ拝見していないが、頼んでみて後悔することはなさそうだという気がしている。ブライトリングを頼む前に、調子の悪くなってきたレビュートーメンのクリケットのオーバーホールを頼んでみようか、と連れ合いが言っている。店に行ったとき、ちょうど彼が腕にはめていたのだが、「こういうのもできますか? 実はこのごろ…」と、調子の悪いところを説明したら、「あ、それは…」となぜ調子が悪くなっているのか、予想されるムーブメントの機能劣化について軽く説明してくれ、こちらが言う前から、「クリケットなら修理できますから」とモデル名をあっさり言い当てていた。小さな店の中はまさしく時計職人の工房そのもので、余計なものは何もおいていない。「お休みはいつですか?」と聞いたら、「え、あのぉ~」と口ごもって、「決めてないんです。今のところ適当」なんて、正直に言うところが、ゆる~い街・西荻の店らしくて笑ってしまった。西荻は、吉祥寺の一駅隣りだが、ディープでマニアックな店がある反面、とってもゆるい。お昼開店の店に正午に行ってもまだ開いてなかったりと、適当なところは、イタリアそこのけ。この時計修理工房も商売っ気があまりないのが心配だが、ガツガツしなくても、いいモノ・いいサービスを売ればやっていける(儲かってるかどうかは…どうかなぁ。あんまり儲けたがってる人もいない気がする)、つまり目の肥えた地元民が多いのがこのあたりのいいところ。こういう職人の店こそ長く生き残ってほしいもの。どんな時計でもすぐ電池交換してくれるだけでMizumizuとしてはかなりハッピー。心強いパートナーを見つけた気分だ。
2009.01.06
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