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バヤンウルギーから戻ってUBのホテルで休み、翌日にはもうやらなければならないことがあります。それはPCR検査です。私は声を大にして日本政府に文句を言いたいです。世界中で日本のような鎖国政策をしているのは、日本しかありません!しかも相当大きな負担です。モンゴルに入るときは何の問題もなくすんなり入れました。新空港のスタッフはとてもフレンドリーでした。ですが、問題は日本への帰国です。72時間前までのPCR検査結果を提出せよ!しかもなんと「日本政府が指定した様式で」という馬鹿丸出しの政策を全世界の国々に強要しているのです。そこにはいろんな問題が含まれています。そもそも外国へ渡航するにあたって「PCR陰性証明書」なるものは、欧米はもちろん、モンゴルだって他の東南アジア諸国だってもう必要はありません。ですが、わが鎖国ニッポンはそれを強要するのです。例えば私はバヤンウルギー県から帰ってきて、中1日あったからいいようなものの、もし帰ってきた翌日に日本へ帰るとなったらどうなるのか?夕方到着したウランバートルでは間に合いません。ではウルギーで?そもそもどこでそんな検査結果を英語で書いてくれるところがあるかもわからない上に、UBに帰る日の検査では間に合いません。しかもウランバートル市であっても、どこでPCR検査ができるのかはわかりません。わかっても、そこはスマホによる事前予約が必要です。予約時にお金を払わなければなりませんが、インターナショナルなクレジットカードは使えません。私はモンゴルに銀行口座を持っていますが、それでも支払いできません。ローカルの支払いソフト(なんとかPay)がないとできないのです。しかも検査は午前9時で、証明書発行は「午後のいつか」というあいまいな時間です。帰国便は翌日早朝ですから、絶対に当日中に受け取らないといけません。要するに、その日1日は特別な予定入れずにほぼPCRのために時間とお金を使えってことです。私はまだローカルに友人がいるので、なんとか大丈夫でしたが、個人で旅行に来ている人は相当難しいでしょうね。というのは、そもそも欧米はこんな面倒なことをさせませんから、モンゴル側も受け入れ態勢が十分ではないのです。前日中に、Uさん及びUさんの弟さんの協力を得て、なんとか午前9時に予約しました。最初は自分で直接行こうと思いましたが、「ちょっとわかりにくいんですよ」と言われ、Uさんに朝、迎えに来てもらいました。私はUB市内ならほとんどの場所はわかりますが、、、空港へ向かう幹線道路沿いのはずなのですが、その検査場の手前が工事現場となっているので、全く見えないのです。確かにこの後ろにあると言われても、ちょっとわかりにくいかもこの工事現場の裏手がその検査場のようです。9時前に行くと、数人の外国人らが並んでいました。私もその後ろに並びました。ほんの数人なので、結構早くできそうです。ですが、例によって9時になっても誰も来ないし、何も動きません。そうこうしているうちに、並ぶ人数もかなり増えてきました。私はその列の長さを見て「早めに来てよかった」と思ったのですが、、、15分ほどして、看護士さん(?)っぽい人が厳重な防護服を着こんでやってきました。そして検査を始めました。いよいよ私の順番です。ところがその検査員、私の予約画面を見るなり、「あっちへいけ」という仕草をします。要するに、こことは別の場所に受付窓口があるというわけです。後からUさんにも確認しましたが「受付はこちら」という案内はどこにも出ていませんでした。仕方なく、その受付とやらへ行って、再び行列の後ろへ。かなり後ろになってしまいました。検査は建物内にいる検査員が建物外にいる対象者の鼻に綿棒を突っ込んでやっています。こんな感じです。ドライブスルーみたいですね。私の前には家族連れの外国人やら、個人旅行っぽい外国人がたくさんいます。相当な時間がかかると覚悟していたのですが、その行列はみるみるなくなり、あっという間に私の順番になりました。なぜか?それは外国人の皆さんは私と同じで、単純に行列並んでいたのです。ところが、私と同じく「あっちへいけ」と言われ、ほぼ全員移動させられる羽目になったのです。おそらくこんなことは毎日起こっていることでしょう。であれば、どこかに「受付を先にやってください」と矢印でも出して通知しておけばいいと思うのですが、モンゴル人はそういう微妙な改善には一切興味がないので、毎日毎日同じ問題が起こっても気にしないのでしょう。で、なんとか検査を終えました。午後何時になるかはわからない。恐らく私の携帯(モンゴルの携帯、古いノキア)に連絡が来るらしいのですが、よくわかりません。結局、時間を気にしながら、知人に会ったり、荷造りの準備をしたりしていました。せっかくのモンゴルでの最終日でしたが、日本政府の強引な要請により、時間は中途半端にしか使えないのです。夕方4時過ぎて連絡が来たので、再び行きました。今度は書類を受け取るだけです。ところが、受け取った書類は一般的な英語による証明書なので、日本向けが必要な人はその紙を持って別のフロアーに行って、書類を作成せよとのことです。「はあ、日本政府、やっぱり馬鹿なんだなー。」と実感しました。受け取った証明書は分かりやすく立派な様式です。これは日本政府にとっては「無効」だというのでしょうか?受け取った紙を、同病院の4階まで持っていき、再び待ちます。そして何をするのかと思えば!日本語が少し書いてある書類(おそらく日本政府指定の書類)にオリジナルの英文の書類の一部を転記して、そこにハンコを押すというのです。しかも転記するのは病院側ではなく、こちら側が転記しないといけないのです。恐らく転記ミスの責任は病院にはないと言いたいのでしょう。それがこれです。わざわざ書き換えさせる必要があるのでしょうか?病院が用意した様式ではだめだという理由がわかりません。あるとすれば、・いい加減な病院のものは採用せず!→これであれば、転記しても意味ないですから、これではないですね。・患者(つまり私)のためにわかりやすくした。→私にとっては、陰性であって、成田空港を無事に通過できればそれでいい。様式はどうでもいい!なので、これでもないです。・成田の検査員は英語が読めない。NegativeとかPositiveの意味が分からない。→可能性としてはこれしか考えられませんが、あまりにも馬鹿馬鹿しい理由です。この日本語の様式は当然、日本政府が作ったものでしょう。これを世界中の各病院に配って(あるいは印刷してもらって)使用させる。何千枚どころか何万、何十万枚もこお様式を強要しているのです。理由は「すいません、成田の検査員はみんな英語がわからないんです。NegativeとかPositiveの意味さえ分からないんです。」と言っているようなもんです。いかに厚労省の官僚が馬鹿であるか、証明しているようなものです。翌日、成田へ到着しました。私は当たり前のように「英語版だけ」を提出し、日本語版は提出しませんでした。果たして、入国は許されるのでしょうか?誰が考えてもわかる答えですが、「何の問題もなく、一瞬の躊躇もなく、一片の質問もなく」通過しました。つまりこの日本向け様式は不要なのです。いつもは官僚組織内で巨大な無駄を楽しんでいる官僚たちですが、これは世界中の国々に「巨大な無題」を強要している証左なのです。その前に、そもそも日本独自で実施しているPCR検査は必要なのでしょうか?日本国内で感染者数は急増しています。逆に言えば、もう海外からの感染者によって国内の感染者が増えるという原因ではなくなっているのです。国内だけで十分に感染し合っているのです。こんな状況で、多くの日本訪問者、帰国者の時間を奪い、結果として「嫌なら来るな」的な鎖国を続けていては、どんどん日本だけ取り残されていきます。私の友人はこの秋に欧州旅行を考えていますが「え?イタリアのどこでPCR検査やるの?日本仕様でやれる病院はどうやって探すの??」と不安がっています。1日でも検査が遅れれば、帰国便には乗れないのですから。とはいえ、久しぶりのモンゴル旅行は楽しかったです。これからはまた、ちょくちょく行けるようになればいいと願っています。
2022.07.20
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いろいろありましたが、昨日はシャワーも浴びてよく眠れました。昨晩は10階のレストランからの眺めを楽しみながらワインも飲めたし。ですが、不思議なことにワイン以外は何も出してくれませんでした。遅い時間でキッチンを閉じたのは分かりますが、いわゆる乾きものとかピーナッツとか。なんでもいいから下さいとお願いしましたが、かたくなに「ワインだけです。他はありません!」だって。でも「レストラン・バー」と名乗っているんですけどね。さて今日の午後にウランバートルに戻りますが、その前に例の世界遺産が気になっていました。で、調べてみると。。。なんと、初日に行ったタバンボグドの麓の村から結構近い場所にあったようなのです!うーむ、悔しいです。こんな絵が見られたはずだったんですね。岩絵の数はなんと数千点も!書かれたのは古いもので紀元前1万Ⅰ千年から紀元前6千年!!気が遠くなるほど昔の絵です。その頃の日本は、縄文時代?もっと前かな?残念ですが、仕方ありません。やはり本当に行きたいところは、他人任せにせずに自分で調べて自分で明確に位置まで確認しないと、モンゴルでは難しいということがよくわかりました。日本のように「群馬県にある世界遺産は?」と聞かれれば、誰もが答えられる国とは違うってことなんです。まだまだ甘いです、私のモンゴル経験は。ということで、今日は遠出は諦め、ウルギーの街を歩くことにしました。そうなればやはり行きたいのはザハ(市場)ですね。田舎のザハ巡りは楽しいですから。ということで、ドライバーのJさんファミリーが店を持っているウルギー中心部にあるザハに行きました。こちらのザハは、大きな屋根付き建物の中にたくさんの店があるタイプではなく、ごちゃごちゃした通路の周囲に小さな店がたくさんあるタイプでした。通路の幅は、とても車が通れる大きさではありません。中で売っているものは、多くはウランバートルで見られるのと概ね同じです。ウランバートルでは、かなり日本製品が買えるようになりましたが、この1200km離れた西の端の県ではどうでしょうか?やはりあまり日本製品はありません。最初に見つけたのは、日用品。花王もライオンもない中、唯一あったのがユニ・チャームです。ユニ・チャームはウランバートルのタバンボクドという財閥が流通を担っています。地方のザハにまで配架しているとは立派です。他にはヤマサの醬油なども。これは?読める通りの商品ですね、パン粉です。キリル文字で説明が書かれていましたが、パンコは世界共通語になってのでしょうか?これ↓を見たら、Uさんが「あ、カルピスの真似だ!」と。これは韓国ロッテの製品です。私も韓国でいろいろ見ましたが、確かに韓国では日本製品のコピー商品が多いです。モンゴル人にも「日本品のコピー」であることが知られているとは凄いです。これは、え?日本のお米??はっきりと「日本の米」と書かれています。が、私がウランバートルで知っている価格帯とは随分違います。で、よく読むと、これはベトナム産米で商品名が「日本米」なんです。こんなのあり??ザハを少し離れたスーパーにも立ち寄りました。さすがにスーパーはほとんどウランバートルと同じような品揃えです。で、日本酒を発見!3種類の日本酒がありました。製造元はというと、、、日本酒裏なんと3本とも新潟県ではないですか!!しかもそのうちの2種類は、村上市です。凄いです!ウルギーの高級スーパーでの日本酒は新潟県産シェア100%!!値段を見ると、そんなに高くないのです。1800円くらい。え?日本でも多分1000円くらいですから、まあまあの値段です。Uさんは「買って帰ろうかな?」と言います。私はラベルをよく見ました。2016年製造です。6年前?ワインじゃあるまいし、ちょっと古いかな?そもそもこのお酒はどういうルートでここへやってきたのでしょうか?私の多少の経験と勝手な想像を入れて、ストーリーを考えました。この酒は2016年に新潟県の北端、村上市で生まれたのです。通常はそれは県内はもとより、東京や大阪にも出荷されるでしょう。小売価格を900円とすると、どうでしょう、卸価格は675円、蔵出し価格は585円くらいでしょうか。そもそもこうした適正価格で流通していたら、どうなっているでしょうか?村上の蔵から585円で出たお酒は酒卸店に行きますが、モンゴルへの輸出などの場合は輸出専門の卸経由で輸出されます。村上から、横浜または神戸の港、そこから中国天津港へ。そこで列車に乗り、北へ行き、ザミンウッド経由でウランバートルへ。ウランバートルの輸入元はそれに2-30%程度のマージンを乗せ、小売店へ。小売店はさらに25-30%のマージンを乗せ販売。しかも日本の流通コストと違って、段違いに高い輸送費が必要となります。酒税の差などを考慮しても、ウランバートルで2000円なら御の字でしょう。ですが、ここは西の端のバヤンウルギー。ここまでトラックで運ぶしかありません。とまあ、いろいろ考えると、そもそも村上を空瓶で出発したとしても、相当なコストがかかります。恐らくこういうことではないかと推測します。村上の酒蔵で、残念ながら売れ残ってしまった酒があった。2―3年もたつと、なかなか国内では捌けない。だったら一層のこと海外へ。輸出専門卸と交渉し、例えば「卸価格585円だけど、300円でどうだ?」「いや、200円なら」などの交渉があったに違いない。それでウランバートルに来たけど、それでも売れ残ってしまった。最後は、バヤンウルギーへ安く卸しちゃえ、と。ちょっと悲しいけど、そんな背景を感じてしまいました。村上、頑張れ!結局、Uさんは買うのを止めました。でも、村上とバヤンウルギーがつながったことは事実ですし、このルートが通常品のルートになればいいなと思いました。こんな妄想をしながら、楽しいバヤンウルギーの旅を終えたのでした。今回は単なる旅の記録ですが、実はこのバヤンウルギーは歴史的にかなり重要な場所なのです。そもそも「なぜモンゴルにカザフ人が90%以上もいる県があるのか?」など、興味は尽きません。それについては、またいつか本ブログでお話ししたいと思います。(完)
2022.07.19
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今日はこれから県庁所在地のウルギーに向かいます。この辺の景色は、川や山が多く、とても綺麗です。こちらへ来た時から、ちょっと気になっていたことがありました。確か、ウルギーを出発する前にスーパーで買ったお菓子の袋を見た時でした。この辺で売られているものの多くはロシア語、カザフ語、ウズベキ語など4-5種類の言語で説明などが書かれていることが多いです。モンゴル語は人口が少ないためか、書かれていないものもあります。もちろん、そのほとんどがキリル文字なので、私にも意味は分からなくとも音では読めます。その時に不思議な文字に出会いました。ウズベキ語だったと思いますが、文字の途中にfが出てきたのです。通常キリル文字でfを表すときは、фを使います。ところが、ウズベキ語のパッケージにはfが書かれていたのです。Uさんはロシア語、英語、日本語に堪能ですから、聞きました。「このfって何?キリルに、こんな文字あるの?」と。Uさんは「よくそんな文字見つけましたねー?」「インターネットアドレスかなんかですかねぇ?」と言ったものの「確かに、キリル文字の中にありますね?何だろう?」とわかりません。少なくともロシア語ではfは使わないということでした。そんなもやもやした気分で、帰路、とあるカフェに入りました。すると、、、またしても出てきたのです。しかも大文字のFが。「バフィーム?」って読むのでしょうか?どうやら、ウズベキ語だけでなく、カザフ語でも使われている文字のようです。ここバヤンウルギーはカザフ語が公用語ですから。Uさんに再び聞きました。「ほら、あのF、何?」と。ここは聞くしかありません。お店の人に聞いたら、その答えはなんと!Гでした!!これは鍵かっこの「ではありません!アルファベットで言えばG, g。日本語で発音するときはゲーです。それにしてもGがFですか!いくら何でも似てないですよね。なので、この店の名前はバギームなんだそうです。意味は忘れちゃいましたけど。ではカザフではГは使わないのかと言えば、そうではなく使うんだそうです。じゃあ、どう違うのか?Гは軽めのゲーで、Fはもっと強いゲーだそうです。モンゴル人でも知らない、モンゴル国内でのキリル文字の使われ方があったとは不思議です。そのカフェの近くのスーパーを覗いてみました。水はまだあるし、単に興味本位で入りました。すると、再びキリル文字が私の目に飛び込んできました。いわし缶詰です。これは何の缶詰でしょうか?答えは、いわしです。ивасиと書かれているのはロシア語です。иはイ、ваはワに近いヴァ、сиはシですね。つまり、イワシです。これは日本語がロシアに伝わった言葉だそうです。逆にイクラИкраは、ロシア語から日本語になった言葉です。意外と言葉の交流があるんですね。実はウルギーに来る前に、私はまたしてもいけないことを口にしてしまっていました。例のパンク事件みたいな話です。初日も2日目も予約していたのに「予約していない」と言われたことから、私はUさんに「さすがに今日のホテルは大丈夫だよね?」と聞くと「はい、さっき電話して確認しました。予約は大丈夫です。」と。ところが私がまた余計なことを言ったのです。「とにかく丸2日シャワーもなかったから、早く浴びたいね。どうする、お湯が出なくて水シャワーしかなかったら?」とUさんに言うと「だめですよ、そんなこと言っちゃ」とたしなめられたのです。そしていよいよホテルへチェックインです。この辺りでは一番の10階建てのご立派ホテルです。確かにこの辺にしては値段も高いです。が、なんと満室だというのです。「へー、景気いいんじゃないの?」と思いました。とにかくチェックインです。驚いたのは「靴はそこで脱いでください」と言われたことです。「は?旅館じゃないよね?イスラム式??」と聞きましたが、どうやらこのホテルのこの7階だけのようです。この木の板の部分は靴は可ですが、カーペットの部分(ここを通って部屋へ行く)は靴厳禁だそうです。でも従うしかないので、靴を脱いで部屋に入りました。そして即シャワー!ところが10分経っても水しか出ません。いくらなんでも冷たすぎます。フロントへ電話すると、すぐに人を送るとのこと。で、係の人がやってきてちょこちょこっと操作し「もう大丈夫です」と。再び水を出し続けますが、お湯になりません。電話じゃ無理だと、直接フロントに行きました。が、フロントは「問題ない」と言います。最初は低姿勢にお願いベースでしたが、問題ないと言われれば「冗談じゃない!」となります。私が怒ると、近くにいた他のスタッフがやってきます。私が事情を説明すると「問題ありません。お湯は出ます。」だって。は?現場を見ないでなんでそんな自信満々に「お湯は出ます!」って言いきれるの?これはカザフ人の特徴??さすがに頭に着て「私の部屋を見てみろ!」というと、スタッフ3人が見に行きました。で、帰ってきたら「申し訳ありません。故障です。」とのこと。結局、7階から6階の部屋へ引っ越しです。お湯は出ます。このホテルは、湯沸かし器(?)が個別についていました。65という数字は65度のお湯が出るということです。まあ、これでいいやと思いましたが、私がUさんに「お湯が出るからもういいけど、部屋は小っちゃくなるんだね」というと、今度はUさんが「は?それはだめでしょう。」と言います。Uさんはちょっといい部屋を予約していたのです。で、結局また7階へ移動。だったら、最初からこの部屋に移動させればよかったのに、わざと小さい部屋にしたってことですね。カザフ人、油断なりませんね。でも最大の原因は、私が「シャワー、お湯が出ないかも」と将来の悪いことを口にしたからです。これはモンゴルでは絶対言ってはいけない旅のルールなのです。このホテルの話で、もう一つ面白いことが。このホテルは地元の金持ち(政治家?)3人でウルギーで一番のホテルを作ったんだそうです。ところが、その3人が喧嘩をして共同経営を止めたのです。どうなったか?なんと3分の1ずつに分割したんだそうです。しかも同じビルでそれぞれがホテルを別々に経営しているのです。ホテル名も別なのです!このホテルの1階エントランスに受付はありますが、そこは私たちが宿泊したホテルではないホテルの名前があるのです。私たちはその受付前を通って、エレベーターで7階へ行き受付しました。夜は10階の眺めのいいレストランに行きましたが、どうやらそのレストランは私たちが宿泊したホテルとは別の経営者のレストランのようなのです。なんとまあ、複雑怪奇なことやるのか!これがモンゴル人の特徴なのかカザフ人の特徴なのかはわかりませんけど。(この県の90%以上はカザフ人なので)とにかく今日はシャワーも浴びて、暖かいベッドで眠ることができました。(続く)
2022.07.18
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2日目の夜は、前日寒くて眠れなかった反省から「靴下2枚重ね」「下半身はジーンズを履いた上にジャージのズボンを2枚重ね」「上半身は、下着、長袖シャツ、フード付き厚手トレーナー2枚重ね」で十分な寒さ対策をしたうえで、寝袋に潜り込んで寝ました。この対策を見ると、とても真夏の旅行とは思えませんが、これがモンゴルです。結果は、よく眠れました。この辺は標高2000m程度なので、さすがに前日ほど寒冷でなかったのも良かったのでしょう。朝、早めに起きて散歩しました。山の中の朝は気持ちが良いです。私が泊まったゲルの向かい側のゲルです。ゲルの前に馬がつながれており、ロシアンジープも止まっていました。ゲルの中から人がこちらに向かってきました。私が声をかけると、人懐こい顔で「サエンバエノー」と言いながら来ました。聞けばウランバートルから2つの家族で来たそうです。「え?あのロシアンジープで来たのか?」と聞くと「UBからはそれぞれの乗用車で来たが、その車はウルギー(県庁所在地)に置いて、ロシアンジープとドライバーをレンタルして、2家族合同で旅行している」と言いました。モンゴル人は都会に住んでいても、遊牧民の血が騒ぐのか、皆休みになると郊外や草原に出たがります。私が日本人だと知ると「シンゾー、残念でしたね」と言いました。安倍さんは、恐らくモンゴルで最も人気のある外国人政治家だと思いますが、どんな田舎に行っても、今回の事件のことは知っており、みな悲しんでいます。日本人の政治家で、こんなに外国人の「庶民」に人気があった人はまずいないでしょうね。さて出発です。今日は県庁所在地のウルギーまで戻ります。うまくいけば、世界遺産を検索して今日か明日に行くことができるかもしれません。途中、観光地っぽいところに寄りました。滝を見るんだそうです。タバンボグドの高地とは違い、ここでは圧倒的にロシアンジープが多いのです。やはり観光地なのでしょう。ロシアンジープのほとんどは個人所有ではなく、旅行ツアー用と思われます。滝のある所まで歩きます。が、思った以上に遠いのです。後でわかりましたが、万歩計で2万歩を超えるほどでした。しかもかなりの登り道で、私にはちょっときつかったです。その時、前を歩いているおばあちゃんを見て「おー、これは完全なグローバル化の象徴だ!」と思いました。スタバこのおばあちゃんが持っている水筒はなんとスタバの水筒です。しかもモンゴルにはスタバはないのです!つまり、このおばあちゃんかその子供か孫が、外国でこの水筒を買って、それを首都から1200km以上も離れたインターネットもつながらないこの地で、水筒として持って歩いているのです!グローバルで平和な世界でないと、こんなことは起こりえませんから、素晴らしいことだと思いました。数キロほど歩いて、ようやく近づいてきました。が、岩場でとても危険な状態です。日本であれば「立ち入り禁止」区域になっているでしょうね。四つん這いになりながら、岩の間を歩くのですが、狭く、険しい。しかも、この写真からほんの少し左側へ行っただけで、崖から落ちるような場所です。更に通れる場所はかなり細いのに、行きも帰りも同じところを通ります。ウランバートル市内の渋滞を思い出しました。モンゴル人は「譲り合う」ということをほとんどしませんから、そりゃあ大変な渋滞になります。もちろん、ここも同じでした。滝は日本の感覚で言えば大きなものではありませんが、モンゴルではそもそも滝は少ないので、みんな近寄ろうと人気です。それらの観光も終え、帰路に就こうとしましたが、その前にランチです。当然、食堂やドライブインなどはありません。ですが、いくつかの観光用ゲルで食事を提供するところがあります。外見だけでは普通のゲルと同じでわかりにくいですが、ドライバーのJさんにはもちろん見分けられます。私は羊の串焼き(このメニューでは一番上)を希望しましたが、その担当シェフが不在とのことで、結局みんなモンゴルうどんにしました。これだけ見ると、素うどんに見えますが、この中に羊の肉がたっぷり入っていました。そして出発。ここで私がいけないことを言ってしまいました。モンゴルでは、先のことを言う、悪いことを口にするのは良くないとされています。特に旅の時には。禁句はいろいろあります。「今日は何時ごろ着くのだろうか?」(先のことは口にしてはならない)。「雨が降らないといいけどね」(良くないことを口にしてはいけない)など、日本人の感覚では「え?なんでそこまで?」というのがあるのです。もちろん、私は十分承知していましたが、久しぶりのモンゴルで、その辺をすっかり油断していました。私が口にしたのは「いやー、今回のドライバーさんいいねー。だって、あんな石ころばかりの道を走っていて、未だパンクもないんだから!」と。言った途端にUさんに「あ、そんなこと言っちゃだめですよ」と言われ、私もその失言にすぐに気づきました。「あ、ヤバいね、ごめんなさい。」その2時間後です。パンクご覧の通りです。これは完全に私の責任です。ごめんなさい、ドライバーのTさん!パンク修理も終えて、なんとか出発しました。(続く)
2022.07.16
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タバンボグドを後にして、今度は南に向かいます。その前に昨日泊ったゲルに戻ってきてランチです。これはチャンスンハッハという、塩ゆでの羊の肉です。塩ゆでだけなのですが、新鮮な肉だからでしょう、肉の臭みは全くなく美味しくいただきました。いつも思いますが、日本で食べる羊はかなり美味しいお店でも若干のくせがあります。でも、モンゴルの田舎で食べるのは全くそういうのがありません。但し、ウランバートルで食べる場合はお店によりますけど。やっぱり羊肉は鮮度が重要なのでしょう。食後に出発ですが、もちろん行先自体、私は分かりません。私がお願いしていたのは、8つほどの行きたい場所でしたが、その中でも優先順位が高いのは「タバンボグド」と「世界遺産」の2つだとお願いしました。というわけで、次に向かうは世界遺産になるだろうと期待しているわけです。今日2泊目をする場所は、前日泊った標高3000mの極寒の地から200kmほど中国寄りへ行くとのことです。ここでいう中国とは、新疆ウィグル地区です。いろいろな問題抱えている場所ですが、歴史的にも興味深い土地なので少し楽しみです。「中国の山が見えるんですかね?」と聞いたら「まさか、見えませんよ。山の向こう側が中国なんですから。」と。一旦は、国境警備隊管理地域から出ましたが、再び国境付近に入っていき、警備隊のチェックを受けました。途中、白い川がありました。これはミルキー・リバーと呼ばれていて、結構インスタにアップされているんだとか。ぱっと見はただの濁流のようですが、よく見ると石灰岩が川底に溜まっています。石灰岩の山が近くにあるのでしょう。昨日は真夜中に宿泊するゲル探しをしましたから、今日はさすがに夕方までに辿り着きたいです。途中、こんな光景も。これはロシアンジープと呼ばれる、旧式のロシア製4WDミニバンです。モンゴルでは昔はかなりポピュラーでしたが、最近は首都近郊ではほとんど見かけなくなりました。ですが、こうした地方の田舎ではまだまだ健在です。一番のメリットは「修理しやすい」ことだそうです。作りがシンプルで、部品も入手しやすいのでしょう。1台が川にハマって、もう1台が助けています。同じ旅行グループのようです。こうした場合、モンゴル人はお互いを助け合うのが一般的ですが、今回我々は先を急いでいたので、残念ですが失礼して先に行きました。無事、脱出できるといいのですが。何もないところを走っていると、突然止まりました。「トイレ休憩かな?」と思っていると「世界遺産だそうです」とUさんが言います。はあ?これが世界遺産??ただ石が並べてあるだけじゃないの??そんなはずないに決まっています。古代の壁画がバヤングルギーのどこかの洞窟にあり、それがとても貴重なので世界遺産になったのですが、もちろん、似ても似つかぬ場所です。ドライバーのJさんはどうやら、そもそも世界遺産を知らないようなのです。じゃあ、ネットで検索しよう!となりましたが、そもそもこんなところにネットなんて来ません。うーん、これがモンゴルです。事前に私の行きたいところの希望を伝えていましたが、その後かなり時間あったにもかかわらず、ほとんどスケジュールの確認はありませんでした。Uさんの理解もいまいちながら、ドライバーのJさんにとっては「なんか昔誰かが見に来た碑があるから、それだな」と思ったのでしょう。でも、モンゴル人はこういう場合「はい、わかりました」というだけで「ここですか?」との確認はしません。そもそもネットが通じないので、ほとんどが電話連絡のみのようなのです。こんな時、日本でなら怒りますが、モンゴルでは「あるある」過ぎて怒る気にもなりません。こういうのがモンゴルでの旅行だと覚悟しなければいけないことは、重々承知していますので。というわけで、明日ネットがつながるところへ行ってから、再調査しようということになり、今夜のゲルを目指しました。川があって、山が近くにあり、風光明媚なところにあるゲルに到着しました。「うん、これはなかなかいいな」と思いました。ゲルの向こうの山の麓はなぜか大量の石が積まれています。もちろん、自然現象なのでしょうけど。まだ明るいので、これからゲルに入ってこの辺を散歩しようかと思っていたら、、、また、何かおかしな雰囲気です。「どうも予約入っていないらしいです。」とのこと。「え?昨日もそう言ってたけど、今日も??」いくらモンゴルでもそれはないだろう!でも、残念ながらそれがモンゴルなのです。しかも例によって、予約してくれたはずのTさん(ウランバートルにいるカザフ人)とは連絡がとれません。さすがに、ドライバーのJさんもこの辺には親戚はいないようです。仕方なく、私はその辺の川辺を散歩するのみ。「昨日よりもましだけど、やっぱりまた寒いだろうな、夜は。」と心配になりました。当然、この辺りの風光明媚なところにあるゲルは全部満室だそうです。が、しばらくして、Tさんが地元の老人と思われる方を車に乗せてきました。Uさん曰く「この人が空いているゲルを知っているらしいんです」と。私は当たり前のように「電話で確認したの?」と聞くと「そんなことしませんよ。とにかく行くだけです。」とのこと。そしてやってきました。なかなかいいじゃないですか!しかもゲルは2軒借りられるとのこと。それは素晴らしい。「このハイシーズンのピークなのに、なんでここは2つも空いているんでしょうか?」と聞くと「どうもあのさっきの川の近くのゲルが有名らしく、みんなあそこを予約するんだそうです」とのこと。全然問題ありません。なかも綺麗です。これらはカザフっぽい装飾ですね。カザフのゲルは内部をこうした手織物で装飾すると聞いたことがあります。ゲルの中にいたお母さんも頭におしゃれなスカーフ?を巻いてます。これはイスラム教ってことなのか、こちらの方々の習慣なのかはわかりません。ゲルの中にはお米もありました。聞けば、これは中国のコメではなく、隣国カザフスタン産のコメだそうです。それにしても、これがモンゴル旅行!という感じです。どういうことか?・ちゃんと事前に宿を予約した。但し、遠い遠い行ったこともない田舎。・行ってみたら、予約はされてなかった。・1日目はドライバーの遠い親戚の助け、2日目は知らない地元のおじいさんの助けでなんとかなった。予約していても実際どうなるかわからないのがモンゴルであるとともに、それでも結局何とかなるというのもモンゴルだということです。今夜はよく眠れそうです。(続く)
2022.07.15
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寒さに震えて一睡もできないまま朝を迎えましたが、意外とひどい疲れはありませんでした。朝になってようやく今日の行動予定がわかりました。前のブログの地図で示したように、今日はモンゴルの聖地タバンボグドが見えるところまで行きます。山に向かっていくと、何やら検問所があります。実は地図で見てわかるように、この辺は国境付近であり、国境警備隊の許可がないと立ち入ることができないのです。Uさんが事前にウランバートルで許可をもらっていたから大丈夫でしたが、持っていない車は入ることができないとのことです。これが国境警備隊許可証です。島国の出身者には「国境付近」という感覚はピンとこないような気もします。離島はみんな「国境付近」ですから。ここからいよいよ登っていきます。ここはまだ緩やかですが、一気に700mくらいの山道を登っていきます。もちろん、日本の快適な登山道路とは違って、全く整備されていません。近くには家畜ものんびりしています。この辺りまでは良かったのですが、この先は岩凹だらけの急峻な道です。日本はもちろん、荒れた道が多いモンゴルでもここまで急峻で厳しい道は経験ありませんでした。大草原は時速80-100kmくらいで走ります。昨日、こちらへ来る道は岩と石が多く、その半分程度の時速40-50kmくらいでした。ですが、この山道は全く違います。時速5-10kmくらい??日本にあるSUV用の特別コース?みたいなのがずっと続くのです。昔のジープやパジェロのコマーシャルに出てきそうな、とんでもない道なのです。しかも、人工のSUV用コースと違って、人間や車に対する忖度ゼロ。一つ間違えば、ひっくり返るのか、腹をこするのかわかりませんが、かなり厳しい道です。東京の高尾山が600mです。今回はもっと急峻な山700mを一気に車で登るのです。ロープーウェーで行くよりも急な坂にもかかわらず。あまりの揺れで、カメラで撮ることもできませんでした。ちょっと面白いデータがあります。スマホについている万歩計です。普段はなかなか1万歩に届かず、ゴルフ場ですら1万5千―7千歩程度です。それなのになんと、この日は2万8千歩以上!確かに山の上の方ではたくさん歩きましたけど、ちょっと異常な数値です。歩いた距離が17.8km!これも異常です。もちろん、こんな数値見たことありませんし、間違った数字でしょう。ですが、Uさんが言うには「あの険しい山道をランクルで走っていた時の上下の揺れはすごかったです。多分、あの揺れが万歩計に伝わったのでしょう。」と。なるほど、そうであれば納得です。とにかく、そのくらいの凄い登り道だったということです。とはいえ、なんとかタバンボグドの山々が展望できるところまでやってきました。途中、車はめったに見ることはありませんでしたが、ここまで来ると、ランクル、ランクル、そしてまたランクル。ランクルの展示場みたいな場所でした。タバンボグドの山々が見えます。実際に本格的登山をする人は、ここからあの雪山を登っていくのでしょう。山に近づこうと歩きました。ですが、この辺りも、岩と石ばかりで非常に歩きにくかったです。写真で見えない、小さな石ころが歩くのを遮ります。でも景色は雄大です。ここであの麓のイーグルが観光用(写真撮影)で活躍していました。私も一緒に撮りましたが、それはせっかくの風景を害するので、ここでは載せません。ウラル・アルタイ山脈などと聞いたっことは何度もありますが、これがアルタイなんですね。アルタイとはアルタンがある、つまり金の山ということです。いい山でした。(続く)
2022.07.14
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何軒ものゲルを回っても、宿泊用ゲルはもう満杯のようです。一体どうなるのか?と思ったら、そのゲルが立ち並ぶところから少し離れて動き出しました。もちろん、実際には私には何が起こっているのかはさっぱりわかりません。で、深夜にとあるゲルに到着。ここで泊まれるのかと思って中に入ると。なんだか生活感溢れるゲルです。子供も寝そべっています。私たちが中に入ると、真夜中にもかかわらずお茶の支度をしてくれました。お茶モンゴルではこうしたお茶(スーテーツァイやチーズなど)は、客(宿泊客ではなく、普通の客人)がゲルに入ると何も言わなくとも出されます。客人を大切にする、遊牧民の文化ですね。聞けば、ここはドライバーJさんの親戚にあたる人のゲルだそうです。宿泊用のゲルはありませんが、隣に空いているゲルがあるとのことで、そこでよければ泊ってもいいということになったのです。「おー、それはありがたい!こんなところで野宿することになったら、私は凍死するだろうから。」と喜びました。その時は、、、で、深夜に隣へ行ったのですが。恐らくそちらは普段は使っていないゲルなんでしょう。最初は喜んだものの、段々ヤバさを感じてきました。まず電気がありません。もちろん、このようなゲルに電気が配電されていることはありませんが、隣の母屋(人が住んでいる方)は自家発電により明るくテレビもあります。ストーブだって温かく、心地よく眠れそうですが、こちらはほぼ火が消えかけた状態です。ゲルのベッドは木で組んであり、その上に布団かマットレスがあり、その上に掛布団があるのが「普通」です。でも、ここはただの空き家なんです。だから、木の上に薄い布がかけてあるだけで敷布団はありませんし掛布団もありませんし、枕ももちろんありません。しかも真っ暗。私とUさん、Nさんの3人がこちらで寝ることになったのですが、寝具はないのです。幸いというか、Uさんのおかげというか、こちらへ来る当日の朝、Uさんから「どんなところかわからないので、とりあえず薄手の寝袋でも買っておきましょうか?」と連絡があり、私は「夏に寝袋を使うなんてあり得ないだろう。屋外キャンプじゃあるまいし。」と思っていましたが、せっかく言ってくれたUさんに「はい、お願いします」と買ってもらっていたのです。まさかそれが本当に役に立つとは!ですが、私のは本当に薄手の寝袋で、UさんとNさんのはもっと厚いです。確かにモンゴルでは秋にゲルやキャンプに泊まるには必須ですけど。しかもデールスタイルのダウンコートまで持ってきており、それを着て寝ます。私はというと、寝間着代わりの薄手のジャージの上下。寒いのでその上からフード付きのトレーナーを着て、靴下は履いたまま寝ました。当然ですが、そんな恰好で「東京の冬での屋外キャンプと同じ状態」、いや、東京ではなく新潟と言ってもいいくらいの寒さです、雪はありませんが。そんな環境で眠れるのか?私は結局朝まで一睡もできませんでした。寒いのなんのって、特に足の方が寒くて寒くて。もう少し何かを着ようかと思ったのですが、なんせ真っ暗です。枕代わりにしていた、もう一つのフード付きトレーナーを夜中に着ましたが、大した効果はありません。とにかく足の先、足首、膝くらいまで寒いのなんの。凍傷になるのって、こうやってなるのかな?と思ったほどでした。薄手の寝袋の中で膝を曲げて丸まって寝ようとしましたが、結局眠れなかったのです。UさんとNさんは、寒かったけど、私よりずっと重装備だったので、ちゃんと寝たようでした。こういう最果てっぽい場所では、観光気分の日本人は全く情けない存在です。朝起きて周囲を確認しました。素晴らしい風景です。雪もあります。昨日、真夜中に到着したので全く周囲はわかりませんが。左手に見えるゲルは母屋です。右の木造の物置の裏にあるゲルで寝ました。眠れなかったけど。そしてゲルの近くにはイーグルが。このイーグルは観光用で、後で再会します。そもそもここは一体どこなのでしょうか?聞いても地名らしきものはなく、「タバンボグドのふもとの村」と説明されるだけです。というわけで今日の目的地はタバンボクドの山の近くまで行くことなのです。この地図のGerとあるのが、寒くて眠れなかったほどのゲルがある場所。左にある国境付近のMt. Khuiten Peakというのがモンゴルで一番高い山、フイテン山です。フイテンというのは「寒い」という意味です。名前の通りですね。地図中央左にあるウルギーというのが空港のある県庁所在地です。ウルギーからこのゲルまで地図上で直線距離は60km程度ですが、くねくね道での走行距離は200kmということです。タバンボグドというのはモンゴル西部にあるアルタイ山脈にそびえる大きな5つの山を意味し、今回の旅行で私が指定した目的地の一つです。モンゴルの神聖な山として誰もが知っています。日本の富士山のような存在です。ちなみに、タバンボグドという財閥グループがあって、トヨタやユニ・チャームなどの日本製品を販売しています。フイテン山は4,374m、今回泊ったゲルの標高は3,000mちょっとだそうです。そりゃあ、寒いに決まっているわ!!そんなことも知らされずに気楽な格好で来て眠れないのも全く馬鹿な話です。来る直前まで「Tシャツ、半ズボンでいいかな?」なんて思っていた己の馬鹿さ加減に呆れました。(続く)
2022.07.13
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車は県庁所在地のウルギーの街を出ると、ほんの5分くらいで舗装道路なしの道が続きます。国土が日本の4倍もあるモンゴルは、私が住んでいた10年ちょっと前にはまだまだ舗装道路は少なかったですが、その後ウランバートルから県庁所在地21都市には舗装道路でつながるようになったと聞きました。ですが、それはあくまで県庁所在地までです。そこから各県内への道路は未だほとんどが未舗装道路となっています。とはいえ、大草原をランクルで走る限りはかなり快適に走れますし、モンゴル人ドライバーであれば時速80kmから100kmで走ります。日本人ドライバーは?普通の人では難しいでしょう。一番の違いは「目」です。大草原は一見、何もない穏やかな道に見えますが、そこかしこに「穴」「小川」や「角ばった石」などが散在しています。100km近いスピードで走るには、かなり先の障害物まで見えないといけません。日本人の1.5とか2.0などではとても先は見通せないです。あっという間にパンクするか、最悪転倒もあり得ます。そう思って乗っていると、スピードはかなり遅いです。理由は大草原らしきものが全くなく、ほとんどが「土の中や上」に石がゴロゴロしていることです。ヨーロッパの石畳のような人工物ではなく、自然の石が車の往来で土の中に埋め込まれている感じです。石が全部埋め込まれていればいいのですが、半分だけとか、角ばった部分だけ地上に出ているという感じで、さすがに高速走行は難しそうです。誰もいない、邪魔する物体は何もない道ですが、せいぜい40-50kmでの走行です。これで200kmくらい走るのです。200kmを時速40kmから50kmで走るとなると、単純計算で4-5時間かかります。目的地へ出発前に、食事しました。私はウランバートル出発前に食べていたので、全然お腹は空いてはいませんでしたが、「この先食べるところはないでしょう」と言われ、ホーショールを食べました。ナーダム・ホーショールというわけです。(ナーダムの時期にはみんなホーショールを食べます。ホーショールはハンバーグのようなミンチ状の肉を餃子のように包んで油で揚げた、国民食です。大きさは普通の餃子の4-6倍くらい?)車にも補給が必要です。ガソリンスタンドに給油中、地元の女の子らが私に駆け寄ってきました。私は大体どこへ行っても、お年寄りの女性と小さな女の子にはなぜか人気があるのです。雰囲気や風貌で私が地元のカザフ人でないことはすぐにわかるでしょう。カザフ語ではなく、モンゴル語で「サエンバエノー」と声をかけてきました。私のモンゴル語レベルは5-6歳の子と話すのにちょうど良いレベルなのです。「おいくつですか?」と聞くと恥ずかしそうに「ゾルガー」(6歳)と答えました。バヤンウルギー県は首都と時差は1時間。日本との差は2時間です。デジタル腕時計の時刻はウランバートル時間のままですし、携帯電話も首都時間です。ちなみに、携帯はウルギー市街を出るとほどなくつながらなくなりました。私は日本から持って行った、日常使っているiPhoneとモンゴル国内電話である旧式Nokiaを持参していました。このNokia、もうかれこれ14年近く使っているでしょうか?さすがにモンゴル国内でもこんな古い携帯電話を持っている人は見なくなりました。日本だと、携帯がつながる場所はインターネットもつながります。ウランバートルも同じです。ですが、田舎に来ると、携帯の電波が届かない地域、通話用の電波は届くがインターネットはつながらない地域、両方ともつながる地域に分かれます。県庁所在地以外では、前者の2地域がほとんどでした。スマホも、電波がつながるマークはあるのに、ネットはだめということです。ウルギーを出たのは5時をかなりすぎていたので、順調に言っても真夜中前かなと思いました。時差調整しても、こちらの夜は明るいです。これでも現地時間の夜9時くらいです。それにしてもというか、道は石でゴロゴロしています。ずっとゴロゴロしています。ここまで石が多い道はさすがのモンゴルでも初めてです。というか、いわゆる草原が全くないもの初めての体験です。車はこんな感じで走ります。モンゴルの中央部およびその東部の草原で、1時間走っても「ゲルが1つもない」「家畜がほとんどいない」「石がない道がない」というのは恐らくあり得ないのではないかと思います。草原の代わりにあるのは、山々とブッシュ、石の道です。4時間を過ぎたころからいよいよ今日の宿泊ゲルの本格的な位置調査です。当然ですが、グーグルなんてものは使えません、ネットがないのですから。しかも電話も使えない、電波ないですから。宿泊の予約はUさんのカザフ人の友人(この人には私も会ったことがある)の友人のTさん経由で予約しています。が、なかなか見つかりません。もちろん、もう深夜です。外へ出ると、あまりの寒さに驚きます。「夏にしては寒い」というレベルではないのです。絶対的に寒いのです。なんとかゲルがいくつかある地域に辿り着きました。が、UさんとドライバーのJさんの様子が変です。要するに「予約済みのはずのゲル」で聞くと「あなたたちの予約は入っていません」というのです。ウランバートルのTさんに確認しようにも電話が通じません。外は寒いです。東京で言えば秋ではなく冬です。仕方なく、近所にあるゲルを一つ一つ回りましたが、どこも満室です。日本で言えば、お盆か正月のトップシーズンですから、空いているとことはまずありません。もっと先まで行ってみようと思った矢先、その先の方から戻ってくるランクル軍団に会いました。彼らも「この先のゲルは全部埋まっている」と。は?この寒い中?私の服装からすれば「極寒の中」で、泊まるところがないの?どうなるんでしょうか?(続く)
2022.07.12
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今日11日月曜日からバヤンウルギー県へ出発です。モンゴルに住んでいた時を含めると、西はドルノドやヘンティ、南はドルノゴビ、ウムヌゴビ、マンダルゴビ、北はセレンゲ、ボルガン、フブスグルなどは行ったことはありましたが、西の方は行ったことありませんでした。というわけで、2年半ぶりのモンゴルは西の端っこ、バヤンウルギーに行くことにしました。一緒に行くのは友人のUさんとその友人のNさん。そして現地でのドライバーをしてくれたウルギー(県庁所在地)在住のJさんです。ウルギーとウランバートル間は週2便、月曜日と木曜日に飛行機が飛んでいます。なので今回は、ウランバートルから月曜日出発木曜日戻りとしました。先日日本から到着したのが新空港の初体験でしたが、今回は国内線です。ですが、電光掲示板は国際国内兼用となっていました。もちろん、チェックインの場所は明確に分かれていますが。これを見て、おやっと思いました。オユ・トルゴイ(OT)への便は夜のこの時間帯で1時間に1本もあります。同じ県のダランザガルドと合わせると、かなりの頻度になります。当然ですが、これは世界有数の銅・金山があるOTとの連絡便でしょう。更にその上を見ると、ソウル便が2時間程度の間に3便もあります!それに対して日本便はゼロ!というか、恐らく早朝に1本だけだということです。韓国便が毎日数便も出ているのに、日本便はこのトップシーズンでもMIATは毎日運航していません。日本が巨額の資金を出して作った新空港ですが、大いに利用するのは鉱山関係者と韓国人であり、日本人はほとんど来ません。しかも今はCovidで中国・北京便がお休みですから、いずれここに多くの中国便が加わることでしょう。いつも思いますが、日本はモンゴルのインフラを整備しますが、それをビジネスで利用するのは中国、韓国そして欧米であって、日本人はほとんどモンゴルに関心を持ちません。とても残念です。空港内で休んでいたら、ショーケースになんとカルピスが!もともとカルピスができたきっかけは、カルピスの創業者がモンゴル(内モンゴルだったかな?)での馬乳酒やヨーグルトなどがヒントになったと言われていますから、味の相性としてはモンゴル人には合うと思います。飛行機は細めの機体でした。中では横3列に座ります。3-40人乗り程度でしょうか?この時期は満席です。横3列ですが、二人がけと一人がけの間に通路があるのですが、一人がけの方の頭上には荷物棚がありません。機内もかなりスリムなのです。離陸して西へ向かいます。機上から見える景色は、モンゴル東部(大草原)、南部(雄大なゴビ)とも違う景色が続きます。モンゴルではあまり多くはない湖がかなり見られました。山はかなり急峻でほとんど木々はありません。これも厳しそうな山で、大草原は一切見られませんでした。1200kmの距離を快適に飛びました。モンゴルにある他の地方空港と同じような規模の空港です。ドライバーのJさんが迎えに来てくれていました。車はランドクルーザー・プラドです。私もウランバートルでプラドに乗っていましたが、モンゴルで田舎をドライブするにはランクル以外には考えられません。生死にかかわる問題ですから。ガソリンスタンドに入りました。意外にも、ウランバートルよりも少し安いくらいでした。モンゴルではなんでもウランバートルの価格に輸送価格を乗せて売るので、ほとんどの商品の価格は田舎の方が高いのです。多分、この地域はロシアからガソリンが直接輸送されてくるから高くないのではないかと聞きました。高くないとはいえ、もちろん私が使っていたころよりは2倍以上の値段ですけど。モスクが見えます。バヤンウルギーはカザフ人が9割以上と言われており、宗教はイスラム教です。なので、あちこちにモスクが見られます。走り出したら大草原、というのがモンゴルの定番ですが、ウルギー郊外はプッシュだらけでした。こういう景色はちょっとモンゴルの他ではないですね。もちろん、ウルギーを出ればほんの数分で舗装道路なしの道なき道であるのは言うまでもありません。今回の旅程は、私の行きたい場所の希望だけを伝えて、後はコースはお任せです。どういう旅になるのか楽しみです。(続く)
2022.07.11
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2008年5月付け「モンゴル徒然日記(最終章)」という題名の記事です。1週間余りのモンゴルゴビ砂漠の旅もいよいよ終わりに近づいてきました。モルツォク砂丘に行った日に泊まったのもやはりゲルです。その夜に見た星空は忘れられないものになりました。今まで星空で一番きれいだと思ったのは、沖縄の離島の小浜島で見た星空でした。何もない小島で、夜にはお店もやってませんから周囲は真っ暗で、ものすごい数の星でした。プールサイドにあるようなパイプベッドみたいなのに寝そべって見てるだけで、全然飽きないし、それは美しい光景でした。ですが、ゴビで見た夜空はそれとは全然違うレベルでした。星星星・・・星だらけ。人工的なプラネタリウムよりももっと多い!天の河みたいなのがいくつもあって、感動を覚えるような光景でした。でも、私の写真技術はそれを撮影できるレベルではなく、ちょっと挑戦してみましたが、単に真黒な写真を撮っただけでした。私たちが止まったゲルです。隣には2-3のゲルに、ドイツ人?北欧人?と思われる中年くらいの女性陣が多かったです。これは食事をするレストラン。おいしかったです。さあ、帰るぞと支度をすると、運転手さんがローバーの点検をしていました。力強いランドローバーディフェンダー110のエンジンです。粘りのあるディーゼルエンジンです。帰ろうとしたら、ゲルの向こうで何やら車が集まっています。午前中からなんだろうと思っていたら、狩りから帰ってくる人たちでした。ここでいう狩りとは、狼狩りです。狼を狙うときは、早朝に出かけるのだそうです。車は何とレクサスLX!(ランドクルーザーの高級版)アメリカからの中古輸入でしょうが、当地では5-600万円はしそうな超高級車です。どうもお金持ちの狩りのようです。車をよく見ると、屋根に獲物が乗っていました。獲物の狼は、屋根に乗せて運んでます。カメラを向けると、こちら側に顔を見せてくれました。帰り道、遠くから大きな黒い影が草原の上に見えました。近づいて見ると、なんと鳥が立ってました。あまりの大きさに驚きました。幼稚園児くらいの子供が立っているかのような大きさでした。遠くに見えた影が、小さな子供くらいはあろうかという大きな鳥でした。さすがに、もっと近づこうとすると飛んで行ってしまいました。が、しばらくは付近を飛び回っており、幅3メートルもあろうかという羽を広げていました。野生の大型の猛禽類は、見ていて絵になります。いよいよウランバートルへ旅立つダランザドガド空港です。デジタルとは無縁の体重計みたいなのでスーツケースを図ってます。モンゴルは知れば知るほど奥が深く、また訪れたいなと思いました。
2015.01.19
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。今回は2008年4月付け「モンゴル徒然日記(モルツォク砂丘)」という題名の記事です。ゴビ砂漠は、今までご覧いただいたとおり日本人が思い描くサハラ砂漠のような「一面見渡す限りどこまでも砂の丘が続く」という光景はほとんどなく、草原に近いイメージです。背の高い木々はほとんどないですが、植物が全くないという場所もあまりありません。その中でもこのムルツォク砂丘はいかにも砂漠といった数少ない場所です。草原の中に砂丘が出現した、というイメージの方が近いです。砂丘を草原から見ると、手前が草原、次に砂丘、そしてその向こうが山々です。遠くから見ると近そうに見えるのですが、結構距離はありました。砂丘側から見ると、草原の様子がよくわかります。草原には馬が放牧され、向こうに見えるゲルはこの付近でラクダを観光客に乗せている一家のものです。ローバーは、砂丘のふもとまで進みました。そこで車を降りて、登ってみることにしました。登ってみると、これが結構気持ちいいです。近づくと、砂の皺(?)というのでしょうか、風でできた模様が奇麗でした。砂丘の皺(?)です。足跡一つない砂丘を歩くのは楽しいです。私の友人は、どんどん砂の山を登って行きました。遠くに見える「点」が友人のBさんです。登るのが速いので驚きました。遠くから見ると何もない砂丘ですが、現地に行ってみると花は咲いてるし、動物の骨は落ちてるし、野性味を感じました。砂丘に咲く、一輪の花です。鮮やかなオレンジ色でした。砂丘を歩いていると、自分の姿が大きな影になって見えました。自分の影です。砂丘の表面はいろんな表情を見せてくれました。
2015.01.13
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2008年4月付け「モンゴル徒然日記(トゥンゲネー渓谷)」という題名の記事です。今日は朝早めに出発し、野生動物を見に行こうとなりました。当初のイメージは、そこら中に野生の動物がいるのではないかと期待していましたが、もうそんな光景はここ20-30年は見られなくなったそうです。やはり人間による乱獲で、極端に数が少なくなったそうです。また、多くの大型野生動物は人間を恐れるようになり、滅多なことではその辺の草原には表れないそうです。今回は、朝には比較的野生動物がみられると言われるトゥンゲネー渓谷を訪れました。でも、車で走っていては野生動物は出てきませんので、車は後からくることにしてもらって、歩いて行きました。渓谷に入ったところで、ローバーとはお別れです。写真のドライバーは、ゴビの地を知り尽くしているウランバートルから来ているベテランドライバーです。しばらく歩いて行くと、何やら原始時代か恐竜映画にでも出そうな景色が続きましたが、険しく高い渓谷の間は車も通れるようないい散歩道でした。カメラ片手に、渓谷を歩く友人Bさんです。彼が言うには、この辺には野生のガゼルが見られるとのこと。ですが、谷間に降りてくることはなく、人間が来ると山の上から興味深そうに「人間が来たのかな?」と見下ろしに来るのだそうです。「歩くときは、渓谷の上を見て探してください」と言われずっと見てました。が、全然わかりません。すると彼が「あ、いました。右の山の上です。見えますか?」と言いました。ですが、全然見えません。彼とは視力が全く違うので、彼が指さす方向には何も見えません。ですが、こちらは文明の利器、カメラがあります。カメラのファインダー越しに望遠を目いっぱい大きくすると、なんかいるようないないような。とにかくシャッターを押してしまえ、と撮ってみて、後で見ると数頭がこちらを見ていました。山の上からこちらを見ているガゼルたち。肉眼では全く見えませんでした。言われて凝視してもよくわかりませんでしたが、こうして写真にははっきりと写っていました。しばらく歩くと、今度は左に見えるといいます。これまたわかりにくかったですが、明らかに我々人間を見に来ていました。動物園と反対で、人間が見られる立場です。頭をずっと上に向けながら、約1時間ほどこの渓谷を歩きました。残念ながら「大量に」見ることはできませんでしたが、それが最近の現実だそうです。動物は、人間に乱獲されたことをどうやって子孫に伝えているのでしょうか?わずか550年ほど前は、人間のことはあまり気にせず、その辺を走り回っていたそうです。今日はこれからモルツォク砂丘近くのゲルに向かいます。ゴビ砂漠は、砂漠といってもサハラ砂漠とは違い、多くは草原です。ですが、このモルツォク砂丘は、いかにも砂漠というイメージのところだそうです。途中休憩しました。当たり前ですが、周りには何もないです。今日の宿にやってきました。ここはモルツォク砂丘から20kmほどだそうで、ここを拠点に砂丘に行きます。行ったのは10月上旬ですが、実はこれがゴビ観光のぎりぎりだそうです。10月中旬で閉まるキャンプ地が多いそうです。我々が訪れたところも、半分くらいゲルが畳まれてました。ゲルをしまうと、こんなにシンプルになってしまうのですね。移動用ですから当然ですが、ベッド、ストーブ、骨格とフェルトくらいでできてるんですね。キャンプ地は、宿泊用のゲルとレストランのある建物がありました。半分畳んであり、半分は宿泊用に残してありました。我々はあちらに見えるゲルに泊まることになりました。一休みして、いよいよモルツォク砂丘です。
2015.01.07
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。今回は2008年2月付け「モンゴル徒然日記(バヤンザク、炎の絶壁)」という題名の記事です。バヤンザクで、私たちのランドローバーを停めた空き地に旧いラーダがありました。一時日本でも人気があった、ラーダのニーヴァよりももっと旧そうです。旧いラーダ。多分、元々はジープ同様に軍事用だったのでしょうね。バヤンザクは、1923年に米国自然史博物館の送ったロイ・チャップマン・アンドリュースらモンゴル探検隊が多くの恐竜の骨を見つけたところだそうです。更に調査したところ世界で初めて卵の入っている恐竜の巣を発見したのだそうです。恐竜たちは、何か大きな自然災害で生き埋めになったのだろうと考えられてるそうです。なので、今でも時折、豪雨などで地表面の地層が表れて骨が出てくることもあるそうです。ちょっと歩いてみましたが、残念ながら恐竜の骨には出会いませんでした。そのにしても驚くのは、今から80年も前にモンゴルへ探検隊を送ったアメリカの先見の目と底力です。1923年なんて、日本では大正時代です。この時期に、大変な金額をかけて中国ではなくほとんど誰も行ったことがないモンゴルへ探検隊を送ったのです。モンゴルで当時の貴重なビデオ(フィルム)を見ました。当然、同行したアメリカ人が撮ったのでしょう。3ヶ月もかけて、アメリカから何十台ものトラックを船で送り、中国(当時は清)経由でモンゴルへ入ったのだそうです。そして、大量の現地人(モンゴル人)を雇い、発掘作業を行って、恐竜の骨はほとんどニューヨークに持ち帰ったそうです。もちろん今は、骨や化石は国外持ち出しは禁止です。富国強兵で精一杯だった日本には、鉄鉱石や石炭を取ってくる動機はあったかもしれませんが、こういう文化的、歴史的なことを考える余裕なんて全くなかったのでしょう。このビデオを見てわかったのは、景色はほとんど変わってないのですが、当時の草原や砂漠にはおびただしい数の野生動物がいました。残念ながら、今はまず見かけることはできない光景です。わずか100年にも満たない近代で、多くの野生動物が人間の手によって滅ぼされていった証拠を見せ付けられたような気がしました。この辺の絶壁は「炎の絶壁」と呼ばれるんだそうです。景色を見ると確かに赤い土というか石が多いとは思いました。ですが、その本当の意味を知ったのは、夕方になってからです。日が沈みかけると辺り一面が赤々としてきました。なるほど、これが「炎の絶壁」なんですね。別の方向を見ると、より炎が迫ってくる感じでした。まさに「炎の絶壁」です。元々赤い絶壁を、夕日が一層赤くしているのです。しばし見とれていました。ですが、日が落ちるのも早いです。反対側を見ると、地平線に日が沈んでいくのが見えました。日本では、水平線は見れるのですが、なかなか遠くまで地平を望むことができないので、貴重な体験でした。沈み行く太陽です。まだ、明るいうちにと帰路を急ぎました。途中、ヤクの群れに出会いました。チベットでは何度も見ましたが、モンゴルでは少ないような気がしました。のんびりと草をはぐくんでいたのですが、私が車を降りて近づいていくと「なんだこいつは?」という感じで、私を観察していました。私を見るヤクです。おとなしそうなので、怖くはないんですが・・・ただ、実際に近づくと巨体に圧倒されました。北海道で見る乳牛よりは明らかにふた回りほど大きいです。私も、ある程度は近づけるのですが、急に反撃されたらどうしようなんてビビっていたら、ヤクの群れも「こんな奴に付き合ってやれない」と思ったのか、群れで移動してしまいました。移動するヤクの群れです。左に1頭だけこっちを見ているのは、よっぽど私が気になったのでしょうか?このまままっすぐ、ゲルへ向かって帰りました。やっぱり100kmくらいの行程です。明日は、野生の鹿がいるらしい渓谷を行きます。
2015.01.05
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2008年1月付け「モンゴル徒然日記(恐竜の故郷、バヤンザクへ)」という題名の記事です。ヨリーン・アムを後にして、バヤンザクへ向かいました。このバヤンザクというのは、世界最初に恐竜の卵が見つかったところとして知られているのだそうです。途中、例によって何もない砂漠(草原?)を走り続けました。草原でのんびりしている羊も、気のせいかウランバートル近郊(といっても、100kmとか200km圏)の羊よりも、青空の下でよりのんびりしているように見えました。もちろん見渡す限り、羊の管理人も含め人の気配は全くありません。青空の下、のんびりしている羊の集団です。草原には、羊だけではありません。ラクダの集団もいます。羊は慣れっこになってましたが、さすがに大型のラクダが悠然と集団で歩いていると迫力があります。写真を撮ろうとする私が気になって仕方がないラクダたちです。私も結構近づきましたが、友人のBさんも近づいて写真を撮りました。おとなしいのですが、やはり身体が大きいので興奮でもされると怖いだろうなって思いました。さすがに、触れる距離までは行きませんでした。ラクダに近づいて、写真を撮ってるBさんです。(モンゴル人です。カメラの腕は私と違ってセミプロ級です。)更に走り続け、ようやくバヤンザクへ到着しました。車は巨大な丘の上のようなところに停められ、あとは歩きとなりました。バヤンザクの丘陵地帯です。化石はこの丘の下へ降りて行った平原にあります。車を停めるところのすぐ近くにお土産物屋のような店がありました。店といっても露天で、置いてあるものはその辺の石ころとか、わけわからないガラクタみたいなものでした。店には大人の姿はなく、少年二人とそのお姉さんのような少女一人でした。こんな誰もいないところに(周囲数キロ?数十キロ?誰もいないように見えました)よくこんな小さな子供に店番させてるなって思いました。モンゴルの子供たちは、すぐに相撲を取りたがります。ここでも私たちの前で幼い少年二人が相撲を取り始めました。相撲を取る少年二人です。かなり長いこと、何度も何度もやってました。しまいには、私の友人Bさんにも挑んでいました。その様子を一歩引いて、陰から心配そうに見ていたのがお姉さんです。まるで星飛雄馬の姉「明子」のしぐさにそっくりでした。とても優しそうな眼差しで弟たちを見てました。ここから少し恐竜の化石でも探しに歩いてみることにします。
2015.01.04
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どんどん先を進むと、岩が割れてるところが多くなってきます。まさに渓谷の谷間を歩いてる感じです。>人間を寄せ付けない岩の谷間が続きます。空には、この地名を表す鷲が飛んでました。優雅に飛んでいる鷲です。更に進むと、突然何かわからないようなものが。見ると牛の亡骸です。ここまで迷い込んでしまったのでしょうか?これもまた自然の現象なのでしょう。牛の亡骸です。乾燥しているせいか、全然臭くないし、虫などもほとんどいませんでした。かなり深くまで来たところで、友人のBさんが「ああ、やっぱりなー。ないなー。」と言い出しました。彼が子供の頃はこの辺は氷河の残りがまだあり、夏でもひんやりして雪渓が残っていたそうです。つまり、1年中雪が消えることがなかったそうです。わずか10年前にもまだ残っていたそうです。それが今は消えてしまったのです。でも、ここには綺麗な小川が流れていました。とても綺麗な山の源泉のような水です。この辺は、ほんの数年前まで真夏でも雪渓が残っていたそうです。さらに進むと、小川というよりもっと勢いのある水流が流れ出ていました。冷たくて美味しい水が流れ出ていました。これが地球温暖化ということなんでしょうか?ただ、私たちは昔話ではなく「氷河や雪渓が消える同じ時代を生きている」なんだなと肌で感じました。こういう小さな現象が世界中で起こっているのでしょう。原因はもちろん私なんかにはわかりませんが、違う時代への転換点にいるような気がしました。東京にいると、自然の変化も動物の変化もほとんどわかりませんが、こういう地球上のある意味「端っこ」にいると変化を感じます。わずか50年前に、野生動物が縦横無尽に草原を駆け巡っていたビデオを見てショックを受けました。あまりにも今のモンゴルの草原と違いすぎます。もう野生動物が人間の前を走り回ることは無くなったのです。そして、この目の前で見た温暖化の最前線。何かが変わっていくのを考えないわけにはいきませんでした。
2014.12.26
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2007年12月付け「モンゴル徒然日記(ヨリーン・アムへ)」という題名の記事です。今日はいよいよ雪渓のある谷、ヨリーン・アムへ出発です。標高は2,200mと結構高く、ランドローバーもどんどん登っていく感じでした。もちろん、行く途中は人や車は全く見ることなく、岩山と蒼い空だけの道が80km近くも続きました。見上げるとこんな岩山ばかりでした。1時間ほど走って、ようやく渓谷の入り口に到着しました。ここからは車は禁止で徒歩です。渓谷入り口はまだなだらかで、途中までは車も入れる道がありました。ちょっと歩いてるだけで、鳥や小動物の動きが感じられました。顔を出している野ネズミです。いよいよ本当の入り口です。ここの中をこれから入って行きます。先を行くのは私の友人のBさんです。段々渓谷が深くなってきました。日差しは強いので、警告の隙間から差す光がちょっと神秘的な雰囲気をかもし出しています。このヨリーン・アムはモンゴル語で「鷲の谷」というのだそうです。確かに上空にはそれらしき鷲が飛んでいました。まさに数万年前から変わらぬ姿を保っているような空気が漂っていました。この先に、万年雪というか、氷河が本当に残っているのでしょうか?
2014.12.24
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2007年12月付け「モンゴル徒然日記(キャンプ地到着)」という題名の記事です。ダランザドガド空港から西へ80kmほど休みなくひたすら走りました。見える風景は、ひたすら草原と動物たちです。対向車も結局1台だけ。人の住むゲルもほとんど見えませんでした。大草原には多くの野生動物がいそうな気がしますが、実は我々が見ることができるほとんどの動物は遊牧されているのだそうです。50年程前には、この草原にも多くのゼール(ガゼル)などの野生動物が草原を群がって走り回っていたそうですが、そのほとんどが人間の手によって殺されてしまい、今では滅多に見ることはできないようです。野生の馬すら、今ではモンゴルに100頭もおらず一部の保護区で生息するのみだそうです。弓などで狩をするレベルでは、人間と野生動物は共存できるのでしょうが、ひとたび銃が持ち込まれると、あっという間に消えてしまうというわけです。人間が生態系を崩す力を持ちすぎている事実を改めて知りました。とはいえ、日本で想像する北海道などの遊牧とは全く違い、近くには管理する人もいなければ、もちろん囲いもありません。数十キロも数百キロも気楽に行動しているように見えてしまいます。キャンプ地が近づいてきました。遠くに夕陽が綺麗です。翌朝、キャンプ地の周りを散歩してみました。丘の上から、20戸近いゲルとレンガ作りのレストランからなる全容が見えました。ここの支配人は中年の女性で、なんでもウランバートルでは大学の教授をしているんだそうです。夏の間だけ、こっちで支配人をしているということでした。ここは厳寒の砂漠ですので、秋から冬にかけては当然閉鎖になるのです。散歩を続けると、鷲(多分?)が小動物を捕らえているのが見えました。早速近づいて見ると、なにやら朝食の最中の様子でした。。盛んにこちらを気にはしていましたが、かといって飛んで逃げる様子もなく、時々獲物を食してました。さすがに、鳥や小動物は野生ですから、こんな近くで普通に見れることに、ちょっと感動を覚えました。我々の朝食は、至って普通の洋風の朝食でした。パンにミルクに卵料理にコーヒーなど。草原の朝は、他には何もありません。遠くに馬が見える程度で、動物も少ないですし、森や林があるわけでもありません。ただ、空気が澄んでいて、自然に深呼吸したくなる気持ちになったという程度です。いよいよ、今日は永久凍土、年中雪渓が残っていると言われているヨリーン・アムに向かいます。車のところまで送ってくれたスタッフは、草原の少女のごとく可憐でしたが、聞けばこの時期だけウランバートルからアルバイトに来ているのだそうです。こちらの人々は、日本人に似ていると言われますが、この少女も信州か沖縄で民宿のアルバイトをしている女子大生とそっくりだなと思いました。ヨリーン・アムへも1時間以上はランドローバーに揺られることになりそうです。
2014.12.19
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そのトラックの行く方向にみんなが走っているのですが、走る方向にはなんの設備もありません。フェンスがあるだけです。我々もあわてて走り出しました。そこで見た光景は・・・なんとトラックからフェンス越しに荷物を出しているのです。モンゴル語で大きな声で荷物についてる番号を呼んでいるのだそうですが、もちろん私にはわかりません。仕方がないので、自分の荷物がトラックから出てくるのをじっと見ていて、出てきたら大声出して「こっちこっち」と叫ぶしかありません。でも、フェンスには群がるように人がいてなかなか見えないのです。友人の助けを借りて、なんとか自分の荷物は引き取ることができました。なんとも原始的な受け渡しです。雨の日なんか、どうしてるんだろうと考えてしまいました。無事荷物を引き取って、車に乗り込みます。車はランドローバー110というモデルで、日本では私は見たことはありません。アフリカの映画に出てきそうな、タフで逞しそうな車です。今時の都会のSUVとは雰囲気も乗り心地も全く違いました。首都のウランバートルでさえも、ランクルを始めとした乗り心地重視型が多く、本格的なオフロード・タイプはほとんど見ることはありませんでした。この車でこれから80km離れたキャンプ地に向かいます。まだ夕暮れ前でなので、ずっと先まで見えますが、道らしい道は空港から出た最初の5分くらいで、後はいわゆる整備された道ではなく、正確に言えば草原や砂漠にできた轍(わだち)だけしかない状況です。しかも走るスピードがすごい。未舗装(当然)の草原を時速70ー80kmで走ります。舗装道路を走るのとはわけが違います。なぜなら、自然の道ですから、陥没あり、小川あり、凸凹ありですから、そんなスピードで穴に突っ込んだら転倒しそうな勢いなのです。それなのになぜ運転できるか?それは一番は「目」のようです。 かなり遠くの道の状況を正確に掴んで、即座に反応する運転技術と、この辺の細かい地図を頭に叩き込んだ経験がなせる技でしょう。この運転手さんとは、この滞在中ずっと一緒できたがまるでラリードライバーを見ているがごとく、とても上手な運転でした。聞けば、ウランバートルの人で、こっちに出稼ぎに来ているとのことでした。人はほとんどいません。というか、80km走って、見えた人間はゼロでした。民家(移動式のゲル)さえも途中、ほんの数軒のみ。見かけた車は、80kmでなんとたったの1台でした。いかに人や車が少ないところとはいえ、やっぱりここは砂漠なんだなーと思いました。目標とするキャンプ地のゲルには夕方前には着けそうです。(完)
2014.12.15
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2007年10月付け「モンゴル徒然日記(いよいよゴビ砂漠の玄関へ)」という題名の記事です。ウランバートルで国内線に乗るための日程調整し、いよいよゴビ砂漠へ出発です。ゴビ砂漠といっても非常に広大ですので、今回は南ゴビといわれる地域の玄関であるダランザドガドの空港を目指しました。モンゴルの国内線に乗るのは初めてです。いい天気の中、ロシア製(ソ連製?)のプロペラ機に乗り込みました。私も結構いろんなところへ行ったことがある方だとは思いますが、今回の飛行機は初めて見るものばかりでした。まず、乗ってびっくり。スーツケースなどの荷物置き場が、客室とつながった廊下の脇にあるのです。ですから、空港のカウンターで手荷物預かりとして預けた自分の荷物が、飛行機の入り口から自分のシートへ行く途中にむき出しで見えるのです。飛行に入る前に、ロープで荷物全体を縛ってずれないようにはしていましたが、客荷一体というのがなんとも不思議でした。中へ入って、シートを見てまたびっくり。シートが車のソファーのように簡単に前に折りたためるのです。車の場合は、座席脇にあるフックのようなものをちょっと動かすことによって、ロックを解除しシートを前に倒すわけですが、この飛行機のシートは何もしなくてもちょこんと指先で前に傾ければ、バッタリとなんの抵抗もなく前に倒れます。しかも、乗る前にはほとんどのシートが前に倒れています。一見、全部のシートがこちらに向かってお辞儀をしているように見えてしまいました。なんか、こんなんでいいのかなー?とは思いましたが、特に困ることはなかったです。飛行中は、ちょっとエンジン音がうるさい位で特に問題もなく、気持ちよく乗れました。乗ってる人は・・・モンゴル人、欧米人、中央アジアの人々が多く、日本人らしき姿はなかったように見えましたが、こればかりはわかりませんね。中国人はいなかったように思います。さて、いよいよ到着です。空から空港を見たら、なんか田舎の学校の校舎とグラウンドみたいに見えました。空港は、だだっ広い草原にポツンと簡易な建物があるという感じでした。飛行機への搭乗のために通るゲートと、チェックインしたり待ち合わせをしたりする建物が別れていて、ゲートはまさに簡易建物という感じでした。チベット仏教のお坊さんも乗ってました。飛行機を降りて、そのゲートのある小屋に向かい通過すのですが、あまりにあっけなく「え、もうこれで出ちゃったの?」というくらいのものでした。今時、世界でも最も簡易なゲートの一つだろうなと思ったほどです。外部は飛行場とフェンスで仕切られているだけで、なんとものどかな光景です。外へ出ると、多くの人々が待っているようでした。迎えの人や到着した人がたくさんいるのは、どこでも見る風景ですがいつまでたっても人は減りません。そもそも荷物が出てこないからなのです。ですが、もう外に出てしまっており荷物を受け取る場所はないし、どこの空港行っても必ずあるターンテーブルのような荷物が出てくる場所もありません。モンゴル人の友人に「荷物はどこに出るの?」と聞いたら「さー、どこかその辺に置かれるんじゃないでしょうか?」なんて暢気なこといってました。かなりの時間(20分以上?)たって、突然人々が走り出しました。フェンスの向こう側に荷物を積んだトラックが走っているのです。そのトラックの行く方向にみんなが走っているのですが、走る方向にはなんの設備もありません。(続く)
2014.12.14
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なるほど、広すぎて逃げられないというのも、狭い日本しか知らない私には新鮮な感覚で、確かにそうかもしれないなって思いました。どこまで逃げても、隠れるところがない草原、ということです。モノはない分、家畜は重要な財産です。お金が必要なときは、家畜を市場に出すのだそうです。例えば、羊は1頭5千円くらいで売れます。ですから、2万円のテレビが欲しいときは、羊を4頭売りに出して、その金でテレビを買ってくるのだそうです。なるほど、まるで銀行でお金を下ろすような感覚なんだなって思いました。つまり、家畜はとても重要な現金に近い財産なのです。その管理のノウハウは、聞けば聞くほどすごくて、気が遠くなりそうなものでした。例えば、Aさんの持つ300頭の羊の群れが遊牧の途中でBさんの300頭の羊の群れと交差してしまったとします。その時、Aさんの羊1頭が間違ってBさんの群れに合流し、ついていったとします。そうなっても、Aさんの群れの管理人は例え5-6歳の子供であってもその1頭がいなくなったことはわかるそうです。もちろん、Bさん側もAさん所有の1頭が紛れて入ってきたことはわかるそうです。ちなみに焼印とかはしていません。外見だけでわかるのだそうです。では、Aさんの持つ羊が何者かによって連れ去られ、遠く離れたCさんの群れの中に入れてしまおうとする場合はどうでしょうか?半径数十キロ程度であれば、周りの遊牧民はみんなAさんの羊が連れ去られているということがわかるのだそうです。この大草原は、確かに人も少ないですが、隠れるところもないので、100キロ以上も誰の目にも触れずに移動させることはほとんど不可能で、結局通報されてばれるそうです。盗んですぐに市場にもって行っても、その市場には必ず知ってる人がいるので、やっぱりわかるのだそうです。聞いてて何度も「ホントかよ?」って思いましたが、私の友人だけでなく、遊牧民らに聞いても皆「そりゃあわかるさ」と言いました。ただ一つの例外は、盗んですぐに殺して食べてしまう場合は、さすがにわからにそうです。食べるだけなら・・・実際にあった話だそうですが、ある泥棒が羊を盗んで、すぐに食べてしまったそうです。で、その毛皮を市場に出したのだそうです。すると、その市場にいたその羊の「所有者の友人」が、その毛皮を見て「あ、これはAさんの羊のだ!」とわかって、結局その泥棒は逮捕されたそうです。いや全くの驚きです。ノウハウなんて軽々に言いますが、さすがにチンギスハーンの時代から(実際はそれよりずっと前でしょうが)遊牧民をやってるだけのことはあります。我々農耕民族は田んぼとか畑でのノウハウの蓄積はあるだろうな、と誰もが思うでしょうが、それに匹敵するようなノウハウが遊牧民にもあるんですね。驚きついでに、もう一つ。モンゴルの遊牧民は、とても眼がいいです。私の友人は「都会っ子」なので、全然ダメで日本式の視力検査では「2.0」くらいだそうです。その彼に「じゃあ、本物の遊牧民はどのくらい?」って聞いたら、「以前、日本のテレビ番組で測ったことがあったけど、そのときは日本式で7.0とか8.0だったそうです」だって!!で、その都会っ子の友人(もちろん、モンゴル人)が遊牧民をしている田舎のおじさんんの家(というかゲル)に遊びに行ったときの話です。遠くに見える山にいる馬について、おじさんが「あの馬が見えるか?あの左にいるのは牝馬でAさんの所有、右にいるのが牡馬でBさんの所有のだ」と言ったそうです。ちなみに、距離にして5-6kmはあったとのことです。彼は、そもそもその山に馬がいるかどうかさえも見えなかったそうで、「そんなわけない!」とおじさんと賭けをしたそうです。じゃあ、ということで20分ほどかけて馬に乗ってその山の方に近づいて見たらびっくり!そのおじさんの言うとおりだったそうです。もうこのくらいの年齢になれば、立派な遊牧民です。生まれて、2、3歳くらいからモンゴルの遊牧民の子供は馬に乗り、家畜と一緒に暮らしてます。羊1頭1頭の顔もわかるそうです。我々がいくら「どうやってわかるんですか?」なんて聞いても我々にはわかるはずもないし、またその桁違いの視力も手伝って、少人数で大量の家畜を管理し、しかも財産として守りきる伝統があるのだなあと思いました。(完)
2014.11.28
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モンゴルから日本へ帰国した後の本ブログはモンゴルの情勢の分析などが中心で、モンゴルそのものを伝える機会が少なかったように思います。ですので、本ブログの開始前に書いた内容を時々アップしようと思います。ちょっと古い内容ですが、まだモンゴルのことをあまり知らなかった頃です。お楽しみいただければと思います。 今回は2007年10月付け「モンゴル徒然日記(遊牧民の管理能力)」という題名の記事です。またまたモンゴルにやってきました。今までの私のモンゴル旅行はウランバートルとその周辺でしたので、今回はゴビ砂漠を訪れようと出かけました。ゴビ砂漠は、ウランバートルから南に600-700kmにあり、東西2500km、南北1500kmに渡る広大な砂漠です。これは地球上では、サハラ砂漠の次に大きい砂漠のだそうです。当然、今回はその中のほんの一部地域だけの訪問ですが、とても楽しみです。ですが、ウランバートルとゴビ砂漠にあるダランザドガド空港との間には飛行機の運航が週に2-3回で、しかも東京とウランバートルとの間も週3便なのでダイレクトには行けず、少しウランバートルで滞在しました。今までの見慣れた光景も含め、ウランバートル周辺も少しご紹介します。首都のウランバートル市内にはさすがに羊がうろうろする光景はないですが、ちょっと車で20-30分郊外へ行けば多くの放牧された家畜に会えます。モンゴルの遊牧民が飼うのは、羊、山羊、馬、牛、駱駝の五種類で、合わせてこれらを五畜といいます。一番多いのはもちろん羊です。毛を刈ったり、乳を採り、肉を食べるという遊牧民にとってはまさに生活の基盤となる財産でもあります。普通、食用の家畜といいますと牛に加え、豚や鶏が定番のような気がしますが、モンゴルの遊牧民はほとんど飼わないそうです。なぜか?それは、豚と鶏は管理不能だからだそうです。遊牧民は、囲いを作ったりする牧畜とは違い、完全に自然の中に放し飼いで放牧しています。非常に多くの家畜(少なくとも普通の家では、300頭以上、多いところは千頭を超えるのだそうです)を家族や犬で管理しているわけです。これら五畜は、集団行動を好み、勝手にいきなり走って消えることはありません。牛でも馬でもその集団の「ボス」を押さえておけば大丈夫なんだそうです。ですが、豚と鶏は集団行動はしないし、走り出したらどこへ行くかわからないので、家畜の対象にしないのだそうです。水辺でのんびりしている馬は、どこかへ逃げる雰囲気は全くないです。なるほど、動物の特徴はいろんな捉え方があるんだなと感心しました。ですから、伝統的なモンゴル料理は、基本的にはほとんどが羊で一部牛、馬もありますが、豚はありません。もちろん、最近の市内のレストランでは何でもありますが、豚肉や鶏肉は中国からの輸入が多いそうです。ただ、最近は市内に囲いを作って、豚や鶏を飼育している人も出てきているそうです。つまり、豚や鶏は定住者用の家畜ということなのでしょう。大草原に群れを成す駱駝も家畜です。人間の姿はどこにも見えません。モンゴル人からこれら五畜について話を聞いてると、なるほどなーと思うことがたくさんあります。モンゴルの遊牧民にとって、唯一にして最大の財産はこの家畜です。ですから、泥棒も住居であるゲルに侵入して何かモノを盗むということはほとんどないのだそうです。私が「ゲルをこんなに開けっ放しにして、誰かに盗まれることはないの?」と聞いたら「何を盗むんだい?お金は基本的には持ってないし、そもそも盗んだとしても、こんなに広い草原をどうやって逃げるんだ?」と言われました。(続く)
2014.11.27
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今年最後になるだろう乗馬に行ってきました。もう今年はお仕舞いかなと思っていましたが、友人のOさんが寒くなければまだ行けるでしょうとと言ってくれたので、Oさんの知り合いの遊牧民に連絡を取ってもらい、行ってきました。場所は、西の方へ90kmほど行ったところにあります。昨年行った、フスタイという馬の産地で有名な地域の近くのようです。舗装道路を80kmほど走ってから、現地の遊牧民に連絡を取り、その道路沿いまで迎えに来てもらいました。その遊牧民のゲルは、舗装道路から6kmほど離れており、当然ですが草原を走るので、案内なしでは行けるはずもありません。というか、モンゴルは郊外に出てしまうと場所の説明も難しいのです。「今、どこにいる?」と聞かれても、そもそも周囲に何もないので、説明のしようもないのです。建物も人も車もほとんどない道がずっと続くのですから。それでも、どうにかして2時間弱で到着しました。周囲は何もない草原が続き、ぽつんとこお宅のゲルがあるだけです。日本では、田舎の散村と言っても、何キロか走れば人家くらいはありますが、モンゴルは本当にゲルがポツンとあるだけです。ゲルの中は、急な訪問にも拘わらず、きちんと片付いています。いつも感心しますが、どう見てもウランバートル市内に住んでいるモンゴル人のお宅よりは、草原に住むゲルの中の方が、きれいに片付いているように見えます。限られたスペースを常に整理整頓して、スペースを快適に使おうとしている様子が良くわかります。ここのお父さんは、競馬で優勝するような優良馬をたくさん育ててきたそうです。この写真の上部に見えるたくさんの勲章は、全て馬に関するものです。もちろん、私はこのお宅は今回が初めてですが、どこのうちの遊牧民と同じように、到着するとまずミルクティー(スーテーツァイ)が出てきて、次に揚げパンや菓子が出てきます。ここのお宅のお母さんは、なんだかとても明るい人です。スーテーツァイを作るお母さんです。私が、お父さんの若い頃の写真を見て「ハンサムですね」というと、とても喜んでました。しばらくすると、そのハンサムのお父さんがやってきました。お父さんは、私たちと会うなり「今日は泊まって行くんだろう?」と言います。モンゴル人というか、遊牧民はすぐに「泊まっていくでしょ?」と聞きます。もてなすのが好きなようです。残念ながら、今日は日帰りです。外は、雲が多く「いい天気」とは言えませんが、11月にしては寒さが緩いので、乗馬には最後のチャンスの日と言えそうです。この辺りは、羊や山羊よりは馬の放牧が多かったです。有名なお隣のフスタイと並んで馬の産地なのでしょう。で、馬に乗ることになりました。暖かいと言っても、ウランバートル市内が3度でしたから、多分摂氏0-2度でしょう。零下じゃないだけ、有難いということです。ですが、さすがに軍手をしてても手は寒いです。馬は良く調教されているのでしょう、結構私の言うことを聞いてくれます。モンゴルに来ると、きっと勘違いすると思います。まるで、自分が乗馬が上手になったような気がするのです。ですが、本当はそうではなく、遊牧民の馬の調教が、非常に上手だということなのです。なので、素人の私がいきなり乗っても、安全に楽しく乗れるというわけです。草原あり、小麦畑あり、ブッシュあり、砂丘ありの変化に飛んだコースを7kmほど進みました。私には経験ありませんが、日本では7kmも乗馬できるコースってあるのでしょうか?同じところをグルグル回るとか、予め決められたコースとかではない、全くの自然のコースは、まずないでしょう。そして、あるゲルに辿りつきました。聞けば、私たちが訪れたゲルの遠い親戚らしいです。そのゲルに入ってみると、6-7人の人たちが集まってワイワイやってました。ワイワイというのは、要するにウォッカを飲んでいるということです。ゲルの前では、子供が中国製の農機具に乗って遊んでました。今は、学校は秋休みなので、ゲルの両親の下に帰省中だそうです。ですが、のんびりもしてられません。日が傾き、どんどん寒くなっていきます。結局、往復14kmほどに加えて、親戚のゲルでのんびりしたこともあり、およそ3時間ほどの乗馬小旅行となりました。ゲルに戻ったら、すっかり日は暮れて、かなり寒くなってきました。ゲルで食事を頂いたりして、帰る頃には真っ暗になってました。帰りの道もわからないほどになってましたが、方向だけはまだなんとか見えたので、無事に舗装道路に出ることができました。やはり乗馬は楽しいです。去年覚えた乗馬ですが、今年は去年よりは乗ることができました。来年も、馬に乗りにモンゴルにやって来たいと思います。翌日の「雪」を見て、やっぱりこの日の乗馬が今年最後だったんだなと、改めて思いました。
2010.11.09
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フランス人を乗せた車は、どうしたのでしょうか?結局、消えたままです。ゴビ砂漠の中で、お金のことで言い争いしても無意味と言うことです。ただ、ゲルキャンプ地から10ー20km程度でしょうから、多分なんとかなるでしょう。私たちはと言えば、朝7時40分に出発して、午後1時半には、最初に来たゲルキャンプに戻ってきました。そして今日はお楽しみの乗馬です。当初は、昨日までいたジョールチン2キャンプで乗る予定でしたが、あっちにはおとなしい馬がいないということで、こっちで乗ることにしました。ですが、私には少し不安がありました。旅行の相談をしていた時、旅行会社のGさんは「ジョールチン1キャンプ(今、私たちがいるところ)にはあんまり馬がいないんですよ。なので、乗馬はジョールチン2でやります。」と話していたからです。地元出身の運転手さんが、馬を取りに行きました。が、いつまでたっても馬は来ません。モンゴルに来て馬に乗れないなんて、そんなひどい話はありません。Iさん家族も楽しみにしていましたから。私はガイドのNさんに相談しました。Nさんももちろん事情は良くわかっていません。当然です。私たちの出発する前日に急きょ呼び出されてガイドを頼まれただけなので、どういう経緯かもわかっていないでしょう。仕方ないので、もし今日乗れない場合は、明日ウランバートルへ戻ってから乗馬できる場所へ連れて行くプランまで相談しました。どうも今日はこの地方のナーダム(乗馬などのお祭り)らしく、馬が本当にいないようなのです。ですが、Nさんはなんとかすると、運転手さんと共に再びキャンプを飛び出して行きました。そして夕方5時半過ぎにとうとう2頭の馬を連れてきました。2頭しかいないので、2人ずつ順番に乗りました。広いゴビの地を馬で散歩するのは楽しいです。私は引き馬ではなく、自分で乗って、ちょっと離れた民家のゲルまで行きました。私が行くと、ゲルから家族が出てきました。下手なモンゴル語で「日本人です」と言うと、子供らも出てきて挨拶したりしました。外国人が一人で馬に乗ってゲルにやって来るなんて普通はありえないですから、ちょっと珍しいのでしょう。会話らしい会話とは行きませんが、楽しい時間を過ごすことができました。夕食はボーズでした。羊のボーズの他に野菜のボーズもありました。モンゴルでは珍しい、スパイスの入ったボーズです。外国人向けを意識しているのでしょう。とても美味しかったです。そしていよいよ明日はウランバートルに帰ります。ゴビでは毎日、朝日を見、夕陽を見、満天の星を見る、という自然三昧の生活でした。この日の夜も、当然のことのようにたくさんの星が出ていました。そして翌8月20日、朝6時過ぎにキャンプ地を出発しました。楽しい南ゴビの旅でした。Iさん家族もとても楽しかったと言ってくれました。ちなみに、あのフランス人たちは・・・運転手さんが聞いた情報では、やはりガス欠だったらしく、どこかのゲルキャンプでガソリンを10リットル(?)ほど分けてもらったそうです。ガス欠が起きた時の、フランス人のパニックや怒りの様子が目に浮かびました。きっと言葉が通じないケンカをしたことでしょう。ゴビはいいところです。また星を見に訪れたいものです。「完」
2010.08.30
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フランス人から概要を聞きました。彼らは隣の県で、この車と運転手を雇ったのだそうです。場所はあるザハ(市場)で、英語ができる運転手を見つけた時にゴビに行きたい旨を言うと、その英語のできる運転手が紹介したのが、今ここにいるドライバー2人です。若いです。30歳前でしょうか?契約は、ヨーリンアム(鷲の谷)経由でダランザドガド(南ゴビの県庁所在地で、空港がある場所)まで連れて行くことで30万トゥグルグです。30万トゥグルグが高いか安いか?この辺りでは、普通に働いても30万トゥグルグの月給はなかなかもらえないというレベルでしょう。なら高いかと言うと、ガソリン代を考えると微妙です。ガソリンは日本よりちょっと安い程度ですから、長距離を走るとかなり無くなってしまいます。隣の県はどのくらい離れているのかわかりませんし、車の燃費もわかりませんが、10万トゥグルグくらいかかるとしても仕方ないでしょう。下手すればもっとかかるかもしれません。問題は2つあります。1つは、ゴビのことをよく知らずにやってきたので、このドライバーはヨーリンアムへの道がわからないということです。こんな砂漠で、道がわからないなんてとんでもないです。標識もないですし、道も轍だけです。こんな道で、右も左もありません。もう1つが問題です。「私たちは30万トゥグルグで契約したのに、このドライバーはガソリンがないからお金をくれと言います。それは契約違反です。私たちは絶対に払いません!」と私に怒ってます。ですが、運転手は「お金がないから、ガソリンを買えない。ガソリン代をくれないとガス欠になる」と主張します。ガソリン代は別途だと言います。お互いが主張して譲りません。その間、フランス人→私→Nさん→ドライバー→Nさん→私→フランス人という交渉が続きます。ドライバーは金がないし、フランス人は絶対に妥協する雰囲気はありません。要はこういうことです。冒険気分かどうかは知りませんが、モンゴルのことを何も知らずに舐めてかかっているフランス人旅行者4人と、ゴビの道すら知らないのに、30万トゥグルグ丸々もらえると勘違いした若いドライバーが、揉めているということです。しかもお互いのコミュニケーション能力ゼロです。一体、ここへ来るまで、この車の中はどんな雰囲気だったのでしょうか?道をよく知らないドライバーへのイライラ、ガソリン代を払わないという乗客への不信感、実際にこんなゴビの真ん中でガス欠したらどうしようという不安感、などなどあります。しかも相手はフランス人です。私は「相手がフランス人じゃあ、そりゃあ大変だな」と思いました。日本人なら「そっか、仕方ないな。ま、円に換算してみればガソリン代と言っても数千円の話だから、妥協するか」と言いそうな所でも、フランス人は絶対に妥協しません。他方、フランス人の主張は主張で構わないけど、そもそもこの若いドライバーはガソリン代を買うお金も持っていないのです。30万トゥグルグは後払いなので、現実問題金はないようです。ですが、本当に一番の問題は、お金ではなくガソリンです。多分、ここから50-60km近くはガソリンスタンドなんてないでしょうから。そんな状況の中で、ものすごい剣幕で言い争っているのです。当初は、私がモンゴル人かと思っていたフランス人も段々態度を軟化させてきました。要は、モンゴル人の通訳なら、モンゴル人に味方すると思ったのでしょう。だから、いきなり私と会うなり、攻撃的な態度を見せたのでしょう。ですが、そうでないことを知り、理解を示しました。結局、ガソリン代は別途請求しないが、ガソリン代相当分だけは現金で今払うこと、ヨーリンアムへは私たちの車で途中まで一緒に行き、分かれるところで私たちの運転手さんに道を教えてもらう、などで合意させました。それにしてもこのフランス人らは、本当にリスク対応も何もないです。世界中、どこでも自分たちの論理でまかり通ると思っているようです。彼女は私に「もう、このドライバーには飽き飽きした。早くクビにしたい。ダランザドガドまでなんて必要ない。ヨーリンアムまで行ったら、そこでクビにします。」と言います。私は「ヨーリンアムからどうするの?」と聞くと「他の車を探す」と言います。他の車?何を勘違いしているのでしょう。車なんてあるはずないです。馬しかいません。私は「それじゃあ、あなたたちはそこで死ぬよ。何があっても、ダランザドガドまではあの車を捨ててはいけません。」と忠告しました。ゴビはそんな甘いところではありません。そして出発。彼らの車はおとなしく私たちの車の後ろをついてきます。これでやっと解決したと思ったら・・・運転手さんが後ろを振り返りながら、何か言ってます。どうも車はついてきてないようです。どうなったんでしょうか?一つ考えられるのは「ガス欠」です。どこで私たちとはぐれたのかもわかりません。一体、どうなるんでしょうか?「続く」
2010.08.29
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東への移動は続いてます。途中、運転手さんが何かを指さしました。子供のガゼルです。我々の車を見て、一生懸命に逃げるのですが、山の方ではなく草原に逃げてしまったので、なかなか隠れることができません。子供のガゼルだけで遊んでいたのでしょうか?大変珍しいです。空は今日もモンゴリアンブルーです。地平線は遥か彼方まで続いています。そろそろランチタイムです。車はちょっと高台に向かって、眺めのいいところで止まりました。ランチはまたホーショール(羊肉の大型揚げ餃子)かなと思ったら・・・なんとパスタでした。サラダとペンネです。これは美味しかったです。ゴビ砂漠の真ん中で、こんなランチを頂けるとは思いませんでした。遠くに「蜃気楼」が見えました。写真ではわかりにくいかもしれませんが、まるで湖があるかのように見えます。この乾いた砂漠でこんな景色を見たら、あっちの方に行きたくなるのはわかります。もちろん、近づいても何もないのですけど。ランチを終えてそんな風景を眺めていたら、遠くに私たちと同じ「ロシアンジープ」が走っているのが見えました。私たちは朝から4時間ほど走っていますが「あれ?今日初めて見る車かな?」と思いながらぼんやり見てました。ゴビでは半日走っても、すれ違う車はせいぜい1台か2台ですから。ですが、その車はこっちへ向かってきます。しかも、なんだかものすごいスピードで走っています。「我々がいるこの丘は、ランチの定番スポットなのかな?」と思いながら見てました。そしてついに、私たちの車の隣に止めました。運転手さん同士が知り合いなのでしょうか?何か話しているようです。私たちはランチも終えたし、もう車に乗って出発の準備も完了していました。するとガイドのNさんが私を呼びます。私に通訳を頼みたい、とのことでした。一体何があるのか、事情は全然わかりませんが、車を降りました。Nさんの説明では、その車の運転手はモンゴル人で英語は話せなく、乗っている客はフランス人4人でモンゴル語は全く話せないそうです。道にでも迷っているのでしょうか?まずは話を聞いてみることにしました。ちょっときれいなお姉さんが私に声かけました。私は「ボンジュール、サヴァ?」などと気楽に挨拶すると「フランス語ができるのか?」と言います。こっちは気楽な挨拶をしているのに、彼女は顔は真剣です。というか、まるで私に喧嘩を売っているような剣幕です。「いいえ、英語だけです」というと「あなたはモンゴル人か?」とこれまた厳しい顔で言います。私は「いいえ、違います。でもアジア人です。」と面白がって言ったのですが、全然相手にしません。なんだか出だしから喧嘩モードです。とにかく話を聞くことにしました。「続く」
2010.08.27
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最初に泊まったゲルに戻るべく、東へ250kmの砂漠ドライブをしています。途中、羊たちが集まっている場所に来ました。先日、石を買った店のすぐ裏です。集まっているのは、ここに井戸があるからなのです。やはりここも羊よりも山羊の方が圧倒的に多いです。カシミヤ人気の現れです。井戸を覗くと、確かに深い井戸から水を汲んでいます。日本の田舎でも似たような光景を見ましたが、違うのはバケツではなく動物の革でできた容器だということです。これを汲んで、山羊たちに水をあげます。革の容器なので、水を出すとべしゃんとします。少年も山羊を見に来ていたようです。最初は「お手伝いかな?」と思いましたが、そんな素振りはありませんでした。私が山羊などの写真を撮っていると、何か下の方で引っ張られるのを感じました。なんと子山羊が、私のフリースのジッパーについている紐のようなものをかじっているのです。好きにさせてあげましたが、残念ながら食べられません。なんだか随分立派な山羊がいます。これはタネ馬ならぬ、タネ山羊だそうです。うーむ、確かに他の山羊よりもひげといい、角といい、風格があります。前掛けのようなものをしていますが、これは今の時期はまだ種付けしないようにしているのだそうです。(要するに、これがあるとできないんだそうです)これは誰?タリバン?もちろん、タリバンではありません。水汲みの女性です。ゴビ砂漠での作業ですから、日焼けが嫌なんだそうです。ゴビの女性も、焼けるのはゴメンだそうです。女性たちが乗って来た馬でしょうか。おとなしく、近くで待ってます。仲良さそうにくっついていましたが・・・実際は、足かせをつけられていました。一方の馬の両前足が紐で結ばれており、もう一方の馬はその馬につながれているのです。確かにこれでは逃げようもありません。ここの山羊は人懐こいです。特に私はなぜか山羊にもてるようで、子山羊らが何頭も順番に集まってきました。こんな瞳で見つめられると、なかなか立ち去りがたいです。ですが、この先はまだ長いので、山羊たちにお別れを言って、また出発です。「続く」
2010.08.26
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夕方、ゲルキャンプに帰ってきました。キャンプ地を夕陽が照らします。ゲルの屋根が。遠くの山々のように見えます。ゲルの中は電灯はないので、ロウソクだけです。さすがに本を読むこともできず、星を見て寝るだけです。ゴビでは、夜明けとともに起き、日が沈めば寝るだけです。そして翌朝を迎えました。今日は8月19日で、最初のキャンプ地へ移動します。朝6時前に起きると、カメラを持った人が何人か既に起きていました。全員ヨーロッパ人で、全員のカメラがキャノンかニコンの一眼レフでした。車やテレビはじわじわ弱くなっていますが、カメラはまだまだ日本製が中心です。太陽はまだ姿を現しませんが、東の方が赤くなってきました。なんだか、昨日の夕陽に似てると思うかもしれませんが、こっちは朝の様子です。太陽は姿を見せなくても、十分に辺りを明るくしています。Iさん家族も、朝日を見にゲルから出てきました。後ろの山も、陽の光を浴びています。いよいよ太陽も姿を現しました。写真でも、その光の眩しさがわかろうというものです。さすがに辺りの山も赤くなってきました。こちらは太陽と反対側にある山です。太陽は更に昇り、ゲルを照らし出します。昨晩の、夕陽が照らすゲルとはまた違った光の当たり方です。今日の目的地である最初に泊まったゲルまで250kmあります。出発は7時40分と早めに出ました。再び、ゴビのステップを走り続けます。今日も晴れ渡りそうです。日はどんどん明るくなり、空はモンゴリアンブルーがきれいです。雲一つない、青い空を鷲が気持ちよさそうに飛んでいます。空には全く青色の強弱がありません。何もないステップでも、小動物たちは生きています。野ネズミが、巣の上で大きな目を輝かせていました。途中休み休み行くので、5-6時間はかかりそうな移動日です。着いたら、馬に乗るのも楽しみです。「続く」
2010.08.25
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大したことないと甘く見ていた砂丘登山ですが、かなりへばってしまいました。数メートル進むごとに休まないと、足が動きません。山頂に近付くに従って、斜度も急になってきました。30度くらいはありますでしょうか。スキーで降りるなら、楽しそうな斜度です。で、また意を決して登ります。当初は2時間程度で登り終えて戻ってくる予定でしたが、とんでもない!2時間なんてとうに過ぎています。一体、登りきれるのでしょうか?登り始めて、2時間半余り、遂に登頂に成功しました!あまりにしんどかったため、喜びも倍増です。頂上部分は意外と狭いですが、眼下には砂漠が広がっています。私たちが登った裏側は、こういう「砂漠」が広がっていました。登った側は、こんな感じです。ラクダの行列です。望遠レンズ使っても、ラクダが小さく見えます。この砂丘は、遥か彼方まで続いています。こういう砂丘が100km続いてるそうです。これも昔は、対中国としては天然の要塞だったのでしょう。しばし頂上にて、眺望を楽しみました。まさに、砂と青空だけの世界です。これにプラスして、強風が吹いていました。さて、いよいよ下山です。登るのは大変ですが、下りはやっぱり楽でした。ですが、調子に乗ると、砂に足を取られてしまいます。ただ立ってるだけで、こんなに足が埋まってしまうのです。下山完了。結局全部で3時間ほどかかってしまいました。下山後、キャンプで休んでいた息子さんのYさんを迎えに行きました。幸い、体調も回復しており、一緒にラクダ乗りに行きました。砂漠の中をラクダで歩くのもいいものです。フタコブラクダは、まるで人間に乗ってもらうためにこぶが二つあるような感じで、乗りやすいのです。Iさん家族も「意外に大きい」と喜んでいました。馬の背とは、高さもだいぶ違います。Iさん家族は、ラクダのガイドさん(遊牧民)に引かれて、歩いて行きます。私は、一人でラクダに乗り、乗馬の気分でちょっぴり「自由行動」でした。こんな大型動物が、いつも自分の意のままに操れたら楽しいだろうなと思いました。ラクダに乗って出勤なんていいでしょうねー。今日は、砂ばかりの「砂漠」を満喫できました。日も暮れたので、ゲルキャンプに戻りました。「続く」
2010.08.24
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夜にはなりましたが、このまま寝るというほどの時間ではありません。ちょっと暇をもてあましてたら、ガイドのNさんが、「夜の砂丘を見に行きませんか?」と誘ってくれました。砂丘というのは、ホンゴル砂丘という砂だけの大きな山のことで、明日訪れる予定なのです。夜だから、登ることはできないが、ちょっと行くくらいは大丈夫ということでした。キャンプ地から車で20分ほどでした。砂丘は、一般的な砂漠のイメージ通りの、砂だけの山でした。そして、運転手さんが「耳を澄まして」と言います。「砂漠の音が聞こえるでしょ?」と言うのです。砂漠の音??ですが、耳を澄ますと聞こえるのです。運転手さんは「飛行機の音みたい」と言います。が、私には「羽田空港の音」ではなく、テレビで見た「東京大空襲の時のB29の音」に聞こえました。低いゴーという音が、本当に空爆の音のように聞こえるのです。Iさんも確かに戦争記念日などでテレビでやる空襲の音のようだと言ってました。砂が動くことによって出来るそうですが、夜の静けさの中で聞くと、本当に不思議な音に聞こえます。暗闇の砂漠で「ゴーン」という低音を聞くと、なんだか神秘的な感じがします。ゲルに戻って寝る準備です。が、電灯がないので、ロウソクをつけないと真っ暗になります。ウランバートルでもレストランなどで停電時にロウソクをつけることはありますので、ロウソクの火は慣れていましたが、自分でつけようとするとなかなか安定しません。よく考えたら、自分でロウソクをつけたのは一体いつが最後なのか覚えていません。10年以上はやってないでしょう。ロウソクの?を熱で台に垂らして、それを土台にしてその上に乗せるのですが、なかなかうまくいきませんでした。やってみればどうってことないのですが、しばらくやってないとちょっと手こずります。その晩の夜空はまさに絶品、満天の星でした。昨日までのキャンプ地ももちろん素晴らしかったのですが、さすがに250kmも移動しただけあって、もっとすごいです。星は空高くだけにあるのではなく、低いところ、要するに地上以外の所はどこにでもあるのです。日本でいえば、「遠くに民家が点在しているかな?」という地平線ギリギリのところにまで、たくさんの星が見えるのです。天の川もまたすごいです。天の川も一方の地平線のすぐ上から始まり、天を180度回って、反対側の地平線までずっと続くのです。天の一部に見えるのではなく、地上以外に全部見えるのです。今日も流れ星を一つ見ました。そして8月18日の朝です。ゲルから外を見ると、今日も好天です。外へ出てみると、まさにモンゴリアンブルーの青空が広がっています。遠くに山が見えます。今日はその前に広がっている砂山に登るのです。それにしてもゴビの青空は見事です。東の方にはもう朝日が上がっています。私たちのゲル以外、何も見えない砂漠が続きます。朝食後、早速出発しました。Iさんの息子さんのYさんがちょっと体調が思わしくないので、午前の部はお休みです。午後のラクダ乗りまでには、回復しますように。途中、ラクダの大群に会いました。昨日も群れに会いましたが、今日の群れは優に100頭以上はいます。大型動物の大群はなかなか壮観です。管理する人間はおらず、ラクダだけで移動です。途中に、ラクダが集まっている場所がありました。何をしているのかと見てみると・・・何やら順番待ちをしています。順番がきたラクダを見ると、なんと人間の作った看板で、首や背中を「掻いている」のです。争ったりせず、順番にやるところがラクダらしくきちんとしてます。その大群も去って行きました。ゴビでは多分天敵はいないのでしょう。人間を見ても慌てることもなく、常にゆったりと行動しています。そしていよいよ今日登る砂漠の山です。ここはホンゴル砂丘と呼ばれています。もう既に何人もの人たちが登っています。ほとんどが西洋人(そのほとんどがヨーロッパ人)のようです。運転手さんが、2時間後に迎えに来ると言ってます。が、2時間もかからないでしょう。登るのに30分くらいかなと思いました。高さはそんなにないですから。私は「人が登った跡は嫌だから、違うルートで登る」と多くの人々が登る位置より右側から登り始めました。が、1分後には後悔しました。全く足が動かないのです。ほんの数メートルで、息が上がってしまいます。私の足です。が、何もかも埋まって、靴も見えません。一歩ごとに、全部埋まってしまうのです。一歩踏み出しては、足が埋まって、またもう片方も埋まって、今度は足を砂の中から引き揚げて、ですが足が潜るだけでなく、下に流されるのです・・・こんなことやってたら、いつになっても進みません。しかもあっと言う間に体力が消耗しました。これではダメだと、ルート変更し、他の人と同じルートに合流しましたが、まるで5kmほど皇居の周りを走った後のように疲れきってます。ですが、実際には平地からはわずか4-5mしか登っていない高さなんです。靴を脱ぎ捨て裸足で登ります。それでもどんどん体力を消耗します。なんてことない低い山だと思ってましたが、結構な角度もあります。遠くの地平線ではなく、手前の坂の角度を見てください。この角度で登るのです。かなり急です。ほんの数メートル、ほんの数歩進んでは休みます。本当にこんなペースで登れるのでしょうか?いくら登っても、全然進みません。1時間近く登ったのに、そこから降りれば2分?いや30秒で降りられる程度の高さです。前を行くガイドのNさんやIさんのお嬢さんのMさんらも段々両手を使いだしました。先は全く見えません。でも、若い二人は頑張って登ります。Iさんと私は、段々怪しくなってきました。「ま、この辺でいいんじゃないの?」という気持ちも芽生えてきました。「続く」
2010.08.22
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バヤンザクを後にして、更に西へ進みました。Iさん家族も、羊や山羊の群れ(300-1000頭程度)には段々見慣れてきましたが、より大型の動物の集団が遠くに見えてきました。運転手さんは、大きく舵を取り砂漠の中を突き進みます。ラクダです。モンゴルの五畜(羊、山羊、馬、牛、ラクダ)に入ってはいますが、ウランバートル近郊やモンゴル北部ではたくさんのラクダの集団を見ることは滅多にありません。アフリカや中東に多いのはひとこぶラクダで、ふたこぶラクダは世界的に見てもモンゴルや中国の領土となってしまった内モンゴルに多くいます。その中でも、ゴビ砂漠で一番多く見られるのです。ラクダは集団で行動することが多く、移動の時も整然と一列に並んで歩きます。私たちが近づくと、きちんと横に並んで私たちと向かいあいました。こうしてお尻もきちんと並んでます。更に進むと、運転手さんが遠くを見て何か言ってます。よく見ると・・・野生のガゼルです。砂漠やステップに住む鹿のような牛のような動物で、軽快に走ります。1920年代のゴビの古い記録映画を見た時に、とても驚いた覚えがあります。ゴビ砂漠に無数のガゼルが元気よく走りまわっていたのです。ですが、その後人間による乱獲ですっかりいなくなってしまい、今ではこうして野生のガゼルを見るなんて、滅多にないことになってしまいました。私たちとの距離はかなりあるのに、こちらがちょっと動いただけで、逃げて行ってしまいました。弓で狩猟していた時代は「乱獲」とは言わないでしょう。やはり銃を手にしたことで、あっと言う間に絶滅寸前になったようです。道中、石屋さんがありました。ゴビに行くと言ったら、ウランバートルの友人が「じゃあ、石を採って来て」と言ったのを思い出しました。確かに、水晶や翡翠の原石が売られてました。聞けば、ゴビの山に入り掘っているんだそうです。まあ記念にと、買ってみました。さて、ランチタイムです。どうせならと、馬を見ながらランチしました。近くに小川があるせいか、多くの馬がやってきました。なんとなく、馬は見ていて気持ちも和んできます。ランチは、今朝出発したキャンプで用意してもらったホーショール(羊肉入りモンゴル風大型揚げ餃子)を頂きました。途中、ボルガンという村に立ち寄って、水を買いました。到着した日には、空港で1本1200トゥグルグのところを街はずれの店では500トゥグルグでした。さて、今回はどうでしょうか?小売店が何軒も並んでいるような長屋がありました。入って聞いてみると、650トゥグルグだそうです。このブランドはウランバートルでは300トゥグルグですから、2倍ちょっとです。前に買った場所より田舎なので仕方ないかなと思ったのですが・・・外から見ると、入口が左右2か所あるように見えたこのお店でしたが、実際は別々でした。で、そっちの店で聞いてみるとなんと400トゥグルグです。もちろん、同じブランドです。2つの店の入り口は、距離にして3mほどです。そんなに近いのに、なんで50%以上も高い値段で売ってるのか全くわかりません。他にもいくつかお店がありましたが、多分どこも何も考えずに値付けしているんじゃないかと思いました。結局、400トゥグルグのを20本買いました。今朝7時半に最初のキャンプ地を発って、西へ250km。15時半にようやく今日のゲルキャンプに到着しました。まさに砂漠のゲルです。中は、電気はなく、全てロウソクの光だけです。写真を見ると、随分いいお天気に見えます。ですが、実際はものすごい強風でした。雨はないですが、台風並みです。晴れてて、雨もないのに、こんな台風以上(?)とも思えるような強風は日本では経験したことありません。カメラを撮ろうにも、シャッター押す時も風で揺れるのです。車はどれもロシア製のミニバンです。モンゴル人はロシアンジープと呼んでます。ご覧のように6台中6台が、ロシア製ミニバンでした。この車確かに4輪駆動なのですが、ちょっと信じられないような手間がかかります。今日走っている時に、ちょっとした谷間がありました。その谷間の底にはかなりの砂が溜まっていたのです。とはいえ、私のプラドならなんてことないような窪みです。ところが、この車、ウンウン唸って進まないのです。で、なぜか運転手さんは窓を空けて後輪ばかりを見ています。「あれ?4輪駆動じゃないの?」と思ったら・・・運転手さんは、ドアを空けて車を降り、助手席側に回りました。助手席側のドアを空け、乗っているIさんの息子さんのYさんに降りるように言います。一体何が起こったのかよくわかりません。車が動かないから、私たち全員に降りろと言っているのでしょうか?車を押すのかな?すると、助手席の椅子をグッと持ち上げて、椅子の下の空間で何かを探してます。そして、何か工具らしいものを見つけると、運転席側に戻りました。そして、前輪の運転席側で、その工具を使って何かやってます。要するに、この車は通常は後輪駆動なのですが、緊急時には前輪も動かせるのです。ですが、そのためには工具を使って前輪をパワートレインと直結させる必要があるのです。それをこうして、車外に出てやってるのです。こんな4輪駆動車見たことありません!再びエンジンをかけて動かすと、簡単に脱出できました。ですが、ほんの3-4m動いたところで、再び工具を持って外に出て、前輪のロックをはずすのです。日本の4輪駆動車のほとんどはフルタイム4駆です。パートタイプのものでも、スイッチ一つで2輪から4輪駆動に切り替わります。それが大変ありがたいことなんだと、ロシア製ジープを見て思いました。こんなのマイナス40度の極寒の地ではやってられませんね。先月行ったフブスグルは、ほとんどランドクルーザーばかりでしたが、ここゴビはご覧のようにロシアンジープが中心です。理由は、私の推測ですが大きく二つあると思います。一つは、地形です。フブスグルは、とんでもない凸凹コースで、こんなマニュアル式のロシアンジープではとても走れません。が、ゴビは平坦な道が多いので、これで大丈夫なのでしょう。もちろん、こっちの方がずっと安いですから。もう一つは、フブスグルの観光客はモンゴル人が多く、ウランバートルから自分たちの車で(プロのドライバー付きで)行くことが多いのです。そういう人はほとんどがランドクルーザーです。他方、ゴビは外国人観光客比率がかなり高く、ミニバスのような車を現地でチャーターする場合が多いのです。これらに加えて、大切な要因が修理性です。ロシアンジープはローテクなので、かなり容易に直せるそうですが、ランドクルーザーは専門家が必要です。砂漠で故障すると、2-300kmはそんな修理工場はありませんから、こっちが好まれるのでしょう。もう、すっかり日が暮れました。昨日の夕陽よりも、また一段ときれいです。夜、駐車場でハリネズミを見つけました。もちろん、逃げるのですが、ちょっと動きがとろいので、私でも追いつけます。私の靴の間に挟むと、丸くなって動かなくなりました。でも、触るとやっぱり針ですから、気をつけないといけません。逃がすと、今度は車の下に隠れました。顔はかわいいです。近代的な建物も光も何もないキャンプ地です。そんなものから、300km以上は離れてしまっています。今晩の星空が楽しみです。「続く」
2010.08.21
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今日は8月17日です。250kmほど西にあるキャンプ地へ移動するので、今日は早めの出発です。私も6時過ぎに起きました。朝日がとてもきれいです。ここに見えるゲルが、昨日私が山羊たちを見に行ったゲルです。よーーく見ると、ステップに山羊たちがまだ寝ているのですが・・・見えますでしょうか?私たちのゲルも朝日に照らされています。今日は、ホンゴル砂丘を目指して長距離移動です。西へ向かう景色は、だだっ広い水平線です。先月行った北部のフブスグルとは違って、平坦な道が続きます。そして、途中にあるバヤンザクというところに停まりました。ここは今朝出発したキャンプ地から西へ70kmほどの場所です。ここは、土というか、土が細かくなった砂が多い、ちょっと変わった形の造形をした場所です。世界で最初に恐竜の卵が発見された場所として有名です。一見岩山に見えますが、岩ではなく触ると崩れてしまうような「砂」「土」の塊です。バヤンザクというのは、散在する背の低い植物「ザク」が豊富な場所という意味です。とにかく広大で、生き物なんていそうにない乾燥地帯です。確かに、恐竜が出てきてもおかしくなさそうな雰囲気はあります。ここは卵だけでなく、世界的にも恐竜の化石がたくさん発掘された場所です。上から見てるだけでなく、下に降りてみました。もちろん、周りには何もありません。しかもものすごい強風が吹き荒れています。前を行くのは、ガイドのNさんです。こんな不毛の砂漠にも、ちゃんと生き物はいます。これはモンゴルの砂漠で見かけるトカゲです。脇の下が赤いのが特徴です。なんと天然のドライフラワーもありました。これは砂漠に咲く黄色い花です。花弁が落ちているにもかかわらず、きれいな黄色のままです。触ってみると、乾燥していてまさにドライフラワーです。これは自然にドライフラワーになっているのだそうです。遠くからもう一度このバヤンザクを見ると、表面は一見凸凹のようですが・・・地表は確かに凸凹していますが、地層の部分は完全に水平線になっているのがわかります。確かに、地層なんだから水平でもおかしくはないですが、それにしては計ったようにきれいな水平線になっています。自然の不思議さがわかります。目指すキャンプ地は、まだまだ遠いです。「続く」
2010.08.20
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キャンプ地も段々日が暮れてきます。ところが、なんか昨日と違います。昨日到着した時は、見渡す限りステップ(ゴビ砂漠)でゲル一つありませんでした。ですが、今日はキャンプ地からほど近い(1km弱?)場所にゲルがあるのです。しかも、たくさんの羊や山羊がいます。これがまさにモンゴルの遊牧民です。たった1日で、1000頭近い家畜を連れてゲルがやって来るのです。私は早速一人で行ってみました。もちろん言葉も話せないし、カメラ片手なんていかにも観光客ですが、ま、そんなことは気にしません。日が沈みつつあるステップ(ゴビ砂漠)に、遊牧から帰ってきた家畜たちが休んでいます。気になったのは、明らかに山羊の比率が高いことです。以前もこのブログで書きましたが、モンゴルでは山羊比率がどんどん上がっているのです。元々は、圧倒的に羊の方が多かったのですが、今ではモンゴル全体でほぼ半々となりました。共に、それぞれ2000万頭ずつです。ちなみに人口は270万人ですから、都市生活者やを赤ちゃん入れても、人間一人当たり7頭の羊、7頭の山羊がいるということになります。馬、牛、ラクダを入れると一人当たり16頭です。日本にこれに匹敵する「何か」ってあるのかなって思いました。車やテレビはもっと少ないでしょう。あるとしたら・・・箸?茶椀?靴?なんか小物しか思いつきませんね。どちらにしろ、とんでもない数です。山羊が増えているのは、カシミヤ販売の増加が原因です。ウールの原料は羊の毛、カシミヤの原料は山羊の毛です。両者の価格差は、文字通り「桁違い」なので、最近は山羊を増やす人が急激に増えているのです。そしてそのカシミヤは、世界的に見てもこのモンゴルと中国になってしまった内モンゴルを合わせると、世界市場の9割ほどを占めるのです。カシミヤが売れるのは、モンゴルにとってはありがたい話なのですが、これが砂漠化につながるとなると、ちょっと難しいです。羊は、草の葉の部分しか食べませんが、山羊は根っこから食べてしまいます。それが、草原の砂漠化をもたらしてしまうということなのです。私としても、世界中の人にカシミヤを買っていただきたい気持ちは山々ですが、現実的に山羊比率がここまで高いのには驚きました。ここでは、90%近くが山羊でした。山羊問題のもう一つは、原料を中国が買い漁っていることです。世界の工場となった中国のカシミヤ製品の生産、販売力ははっきり言って、モンゴルよりずっと上です。しかも、中国側よりもモンゴル国側のカシミヤの方が原料として品質が良いとも聞いてます。するとどうなるか?中国企業がモンゴルの遊牧民に対して、モンゴルの国内相場よりも高い価格を提示して買って行ってしまうのです。ゴビは、中国に国境を接してますから、その傾向が特に高いのでしょう。明らかに、ウランバートル近郊よりも山羊比率が高いです。ま、そんな問題は別にして、山羊も羊もかわいいです。山羊のオス同士は、こうして角を合わせて力比べをしています。その傍らには、山羊の乳絞りをしているお母さんと子供がいます。山羊は牛と違って、1頭から一度に採れる乳は少ないようで、ちょっと絞ってはまた別の山羊の所へ行きます。なので、結構大変な作業に見えました。山羊なんだから、じゃれている程度と思いきや、角合わせは結構真剣です。一方が立ちあがり、自分の角を相手の角に思いっきりぶつけるのです。もちろん、ガチンコの音が聞こえます。日が陰って来ると、西日が強くなってきます。これは撮影している私の影です。随分と長くなってます。乳絞りに、少女も手伝いにゲルから出てきました。この子のTシャツは、日本語のひらがなが書かれてました。私が「ヤポンヘル?(日本語)」と言うと嬉しそうにシャツを指さしていたから、わかっているのでしょう。あっと言う間に時間が立ち、西の空は赤くなってきました。これが私たちのキャンプ地の方向です。砂漠なのに木が見えるのは、もちろんキャンプ会社が植林したものです。山羊たちとの楽しい時間を過ごし、キャンプ地に戻りました。すると、野うさぎも日の沈む方向を見ていました。確かさっきまでIさんらが眺めていた場所です。まさか、野うさぎが夕陽を楽しんでいるとは思えませんが・・・夕食は、ワインを頂きました。こんな砂漠の真ん中に、遠くフランスからワインが届くなんて感激です。しかも、どう見ても日本よりも安いのです。有難いことです。寝る時には、雲が多く星はそうでもなかったのですが、夜中の3時ごろ目が覚めて起きてみたら・・・やはりとんでもない、満天の星でした。「続く」
2010.08.19
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昨日8月15日にゴビに到着して、今日からゴビ観光開始です。目指すは、ヨーリン・アムという渓谷です。ここは入り口です。馬やラクダで行く人もいますが、私たちは歩きます。ヨーリン・アムというのは、「鷲の谷」という意味で、以前は真夏でも雪が残っているところとして有名でした。ですが、私が4年前にここを訪れた時はもう既に雪はありませんでした。友人のBさんが子供の頃は、真夏に1メートル以上も雪が積もっていたそうです。温暖化の影響でしょう。今日はここを1時間以上歩きます。まずは、オボーの周りを回ります。オボーはモンゴルの神様が祭ってある所で、道路沿いに多いです。このオボーに石を積んで(その辺の小石で構わない)、周囲を3周回って、安全を祈ります。チベットにも同じものがありますから、仏教とも関係あるようです。歩き出すと、脇に小さな小川が流れています。この小川は、渓谷の奥へ奥へと流れており、次第に大きな川になります。渓谷の周りは、険しい岩の山で垂直に近い崖のようなところも多いです。奥に進むとが道幅が狭くなっていきます。更に進むと、歩くスペースもなくなってきます。昔は、この辺りは雪がたくさんあって、もう行き止まりだったそうです。ですが、今は「エンドレス」状態でした。私だけどんどん奥に進みましたが、こんな狭い渓谷に一人だけだとなんとなく不安です。あの小川も、小さな滝ができるくらいになっています。もちろん、人も家畜もいませんが、土産物売りの遊牧民がいました。渓谷の入り口付近には、何人か土産物売りがいましたが、ここまで奥にはこの人だけです。ですが、売っているのは何か特別なものではなく、ウランバートルにもありそうなものでした。渓谷散策を終え、近くの博物館で動物のはく製を見学し、キャンプに戻りました。途中はもちろん、ステップと呼ばれる砂漠です。砂漠というと、アラビアのロレンスに出そうな砂だけの土地をイメージしますが、ゴビ砂漠はほとんどが小さな植物がまばらに生えた、乾いた草原のような感じです。ここから見える景色は圧巻でした。右の方に昨日着いたダランザガルドの街が見えます。そして左には私たちのキャンプ地も見えました。その間40kmです。つまり40kmという距離を目で見えることができるのです。しかも、その間に建物などの人工物は一切ありません。つまり東京駅から八王子辺りまでを練馬か町田辺りから眺めているって感じでしょうか?ちょっと考えられない「遠視感」です。ですが、まだまだ離れた距離でも見えそうです。60-70kmくらいは、ここから「両地点」が見えるのです。ゴビの凄さがわかろういうものです。キャンプ地に帰って、周辺をのんびり散歩です。キャンプ地からも地平線も見えるし、もうすぐ日が沈むのも見えてきます。辺りは、どんどん日が暮れて行きます。「続く」
2010.08.18
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ウランバートルの空港から1時間30分ほどで南ゴビに到着しました。時刻は17時半ですが、こちらではまだまだ明るいです。飛行機は、先月フブスグルから戻る時に乗ったのと同じサーブ製でした。30人乗り程度の小型機です。空港に到着して私はちょっと混乱してしまいました。ゴロワン・サイハン空港とあります。今回目指した空港は、南ゴビ県の県庁所在地にあるダランザドガドという街にある空港です。ですが、以前来た時に見た空港と全然違いますし、ロケーション(周りの風景)も違います。ガイドブックを見ると、ダランザドガドと別に、私たちが目指すキャンプ地のすぐ近くに、リゾート直行便的空港が書いてあります。夏だけやっている空港とありましたが、どうもそれとも名前も違います。・・・ということは、この田舎の街に3つも空港があるのでしょうか?それも考えられない・・・結局わかったのは、私が以前降りた空港は閉鎖され、ここに新しい空港ができたのだそうです。更に、夏の間だけのリゾート空港も廃止されたとのことでした。「地球の歩き方」(最新版)も、こういう変化にはなかなかついていけないのでしょう。Iさんは、水がちゃんと手に入るか心配しています。確かに、一旦ゴビ砂漠に入ってしまえば、小売店もないです。が、飛行機なのでウランバートルで買い置きするわけにもいきません。空港到着してすぐに、空港の売店に行きました。もちろん、水は売ってましたが高い!ウランバートルで350トゥグルグで売っているものが、売店では1200トゥグルグです。なんと4倍近い値段です。私は「高いねー」と言いましたが、もちろんそんなことには店員は気も留めていません。運転手さんにこの辺に小売店がないかと聞きましたが、キャンプ地までの道には全くないとのことでした。ですが、街の方に5-6km行けばあるというので、そこへ行きました。で、小売店で聞いてみると、なんと500トゥグルグ。やっぱり空港は高いなあと実感しました。で、そこで500mlを24本ゲットしました。空港からキャンプ地までは35km、時間にして40分程度です。もちろん、全部未舗装で擦れ違う車もゼロでした。きれいなキャンプ地です。辺りが暗くなってきた時間のゲルです。モンゴルでキャンプ地というのは、1つの大きな建物(レストラン)があって、その周囲にゲルが集まっているという形式が多いです。トイレやシャワーも、共同ですが、別建物にあります。ここが私の部屋です。8-10畳ほどの大きさの部屋にベッドが3つあります。このゲルには私一人が、隣のゲルにIさんファミリー三人が使いました。ゲルから見える夕陽です。地平線が真っ赤に染まってきれいです。そして、夜中です。一番楽しみにしていた星を見る時間となりました。夜11時や12時ではまだ少ないですが、夜中の1時過ぎになると・・・残念ながら写真を撮ることはできませんでした。多分、私のカメラでも撮影できるのでしょうけど、私の知識では出来ませんでした。ですが、星はすごいです。まさに満天の星とはこのことです。Yさんが「顔を上げなくても星が見えるんですね」と言いました。星は頭の真上にもありますが、地平線近くの低い場所まで星がたくさんあるのです。天の川も幅広く、しかも地平から地平まで夜空全てを覆っています。沖縄へは何度も行っているので、離島の星の素晴らしさは重々承知していますが、残念ながらゴビの比ではありません。流れ星も2つ見られました。翌朝8月16日です。5時半に起きて、今度は朝日を見ます。当たり前ですが、夕陽と正反対側の朝焼けです。太陽は見えませんが、辺りが赤く染まって行きます。そして、太陽が顔を出します。太陽が出ると、周囲も明るくなってきます。遠くに見える山々も、赤く変わっていきます。朝日を見た後、二度寝をして、8時半に起床しました。今日からいよいよゴビ散策です。「続く」
2010.08.17
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次に向かったのは、「モンゴル13世紀村」です。耳にはしたことはありますが、私はまだ行ったことはありません。チンギスハーン像の先をさらに進み、途中草原の道に右折します。右折すれば、すぐ見えるのかと思いきや、かなりの距離がありました。結局、ウランバートルから100kmほど離れた草原と山に囲まれた地域に到着しました。何か、テーマパークのようなものを想像していただけに、なんだかしょぼい建物に見えました。後でわかったのですが、この辺り一帯に旧いイメージのゲルなどが点在し、それらを一体として「13世紀村」と名乗っているようです。ちなみにチンギスハーンの活躍した時期が13世紀に当たります。ゲルは確かに、現代のゲルと違って、昔の作りのような気がします。そこにオオカミの毛皮があったので、着させてもらいました。写真は息子のYさんです。この毛皮、とにかく重いのです。5-6kgどころではない感じでした。実はこのYさんの後ろに猫が寝ているのです。この猫、私たちが交代で毛皮着たり、猫の前に座ったりを繰り返しているのに、全く動じないのです。慣れきっているのでしょうが、なんとも不思議な猫でした。最後までこの姿勢で、全然動きませんでした。毛皮だけでなく、鎧もありました。鎧もいろんな形がありましたが、そのどれもが様々な形の鉄が組み込まれていました。この鎧も重く、これをつけて馬に乗って戦うのは大変な体力がいると思いました。数キロ離れたところにまた別のゲルがありました。これはシャーマンの住むゲルです。この木で囲まれた場所はお祈りをする場所のようです。こんな感じで、お祈りをしました。チベットの五体頭地ほど激しくはありませんが、ちょっと似た仕草でした。このゲルにはシャーマンが実際に住んでいるのです。なので、子供も一緒に住んでいます。ここにも毛皮があったので、着させてもらいました。これは山羊の毛皮です。これもとても重かったですが、大変着心地は良かったです。山羊の毛は、カシミヤの原料ですから、これはなんとも贅沢な毛皮でしょう。もっと他にもゲルがあるらしいのですが、あまりゆっくりもできずにお昼にしました。ランチ用のゲルは、かなり大きく清潔な感じです。中で、民族音楽が始まりました。モンゴルの馬頭琴とモンゴル琴の共演です。ちなみに、食事は野菜サラダ、ホーショール(揚げ餃子の大型版)とモンゴルうどんでした。肉は外人用だからか、羊ではなく牛肉でした。おいしかったです。国会議員のおかげで、急な近郊観光となりましたが、あっと言う間に時間も過ぎました。というか、飛行機で出発なのに、こんな100kmも離れたところにまで来て大丈夫かと思いましたが、今日は日曜日なので市内の渋滞もなかったので、なんとか大丈夫でした。そして予定通り、7時前の飛行機に乗ることが出来ました。Iさん家族は皆、ウランバートル近郊を見て「わぁー、草原が広い」とか「羊がたくさんいる」と喜んでくれてます。私は「うーん、こりゃあ、ちょっと狭い草原っていう程度だね。ゴビに比べれば・・・」と言うと、どんどん期待は膨らみます。「続く」
2010.08.16
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ゴビへの旅が始まります。日本から友人家族は初めてモンゴルを訪れるということもあり、今回のコースは数年前に私が旅したコースとほとんど同じ一般的なコースになりそうです。一般にゴビ、あるいはゴビ砂漠というのは広大な地域を指します。ゴビ砂漠は、東西1600km、南北1000kmで、モンゴルだけでなく中国の内蒙古自治区にもまたがり面積はなんと100万平方キロもあり、日本3個分という大きさです。私たちが目指したのはその中央部にあるウムヌゴビ(南ゴビ)という県です。当初の予定では、ウランバートルを8月15日の朝早い便の飛行機で行く予定でしたが、今回の手配をお願いした旅行会社のGさんからの連絡で、数日前に変更になったことがわかりました。聞けば、私たちは1カ月以上も前から予約していたにもかかわらず、突然国会議員が南ゴビに行くと言いだし、一般観光客はその飛行機から追い出されたんだそうです。私はこれを聞いて、モンゴルのホスピタリティの悪さは、やはり根本(偉い人、つまり政治家と役人)から腐っているんだなと思いました。いろいろ話を総合すると、この国の多くの国会議員は、滅茶苦茶威張っているらしく、なんでも自由にできると思っているそうです。まさに、途上国政治家の典型です。そもそも観光を最重点産業と言っておきながら、急に決まった自分たちの行動のために、以前から予約していた外国人観光客の予約をキャンセルさせるとは、言語道断です。日本の政治家がこんなことしたら、ネットなどでばらされて袋叩きにあうでしょうね。というか、もっと上手にやるでしょうけど。というわけで、出発は夕方になったので、この日はウランバートル近郊観光となりました。今回日本から来たのは、女医さんで私の友人のIさん、そのお嬢さんのMさん(大学2年生)、そしてその上のお兄さんのYさん(大学3年生)の3人です。それに私と日本語のできるガイドのNさんの5人と、ウランバートル、南ゴビそれぞれの運転手さんです。Mさん、Yさんは、私には初対面でしたが、とても素直で親思いのいいお子さんたちです。そもそも大学生になっても、こうして長期の旅行に親と来るのですから、立派なものです。夕方5時半くらいまでにはウランバートル空港に戻ってこなくてはいけないスケジュールですが、観光場所はその空港と正反対の東の方にある、チンギスハーン像と13世紀村が選ばれました。8月15日の朝、私のアパート経由でホテルに寄ってIさん家族を拾って、9時半くらいには市内を出発しました。まずは、チンギスハーン像です。これは、笑っちゃうほど大きい像で、このブログでも何度か紹介しました。何もない草原に突然30m以上はあろうかという「世界最大のチンギスハーン像」であり「世界最大の騎馬像」(馬に乗っている人間の像としては世界一だそうです)である像が登場するとさすがにIさんらは驚きました。別に歴史的建造物でもなんでもない、2年ほど前ほどにモンゴル人実業家によって作られたものですが、人間はやはり巨大なものに惹かれるのでしょう。結構な人が訪れます。ただ、「でかい!」という刺激は、人間は慣れてしまうのか、私には最初に来た時ほどの「びっくり感」はなくなっていましたけど。今回は、この巨大チンギスハーンが履く「靴」が展示されていました。これまたギネスに申請したらしいのですが、「世界一背の高い靴」なんだそうです。ポーズを取っているのは、お嬢さんのMさんです。なんでも、背の高さのライバルはイタリアにあるらしいですが・・・「続く」
2010.08.15
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ここのところウランバートルは、かなり肌寒いです。今日は昼間でも気温は17度で、半袖ではさすがに寒いです。まだ8月なのですが、もうすっかり秋という感じです。この肌寒いモンゴルに、今日の夕方日本から友人の家族がやってきました。そして、明日から南ゴビへ旅行に出ます。私も一緒に行くことになりました。旅行会社の人に聞くと、どうもゴビもあまりお天気は安定しているようではありません。なんでもここのことろ雨が続いたとかで、砂漠の一部はぐちゃぐちゃで車も入れないとか。ですが、内陸のお天気はあっと言う間に変わります。前日10度でも翌日35度なんてこともありますから、期待はしているのですが。一番期待しているのは、私も日本からの友人家族も、満天の星です。1日でも夜に晴れるといいのですが。この寒さで服装も面倒です。昼間はTシャツで、夜はダウンジャケットなんてことも十分あり得るからです。先月は、モンゴル北部のフブスグル、今回は一番南のゴビです。モンゴルの大自然を大いに楽しもうと思っています。
2010.08.14
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7月28日です。Uさんの仕事関係のことは全部終了したとのことでした。さて、次は何をするのでしょうか?帰りは、私とUさんは飛行機で帰ることになっています。当初は7月30日で予約していましたが、私たちの予約した飛行機はなんとキャンセルになったのだそうです。時間変更ならわかりますが、キャンセルとはちょっと驚きです。当初Uさんは、7月31日に帰りたいと言っていました。もしそうだとすると、これからまだ3日あります。あるいは、明日29日の便で帰るという話も、途中のゲルで話していました。ここはUさんの田舎なので、まだまだやりたいこともあるに違いありません。車が向かったのは、モンゴル相撲の会場でした。私のための観光サービスでしょうか?ナーダムといえば、相撲も目玉の一つですから、ちょっと嬉しいです。早速会場に入りました。モンゴルの相撲は、1対1の一組だけが対戦するというわけではありません。同時に何組もの取り組みが展開されるのです。ですから、行司も何人もいます。会場は、ナーダムの時に使うスタジアムだそうです。専用のを持っているとはすごいです。観客も、田舎から見にきている人や外国人の姿も多かったです。朝青龍が時折見せた、鷲の舞いもやります。これは日本でいえば、土俵入りのようなものでしょう。この仕草は、子供たちも時々真似しています。そして真剣勝負が始まります。土俵はなく、仕切り線というのもありません。日本のように、突き押しというのはほとんどありません。基本的には組み手で始め、投げの打ち合いが多いです。 勝つと、前にある神様の旗?の周りを、鷲の舞いをしながら回ります。これは一種の勝ち名乗りのようなものでしょう。スタンドのお客さんも、声援を送ってます。こちらの方が本当はいい席なのでしょうが、多くの人が実際に相撲をしている間近に行っているので、ちょっと見えづらいみたいでした。さすがに、生で見るモンゴル相撲は迫力あります。私が夢中で楽しんでいると、運転手さんから声がかかりました。「そろそろ行くよ」ということです。会場を後にして、行った先は、先日首相らが泊まっていたホテルです。Uさんと一氏にった先は、ホテル内にある飛行機会社のオフィスです。Uさんがいきなり「今日帰るのでもいいですか?」と言いだしました。「ムルンは人が多過ぎて、田舎らしくないです。」と嘆いていました。確かに、この時期はナーダムもあり、昨日の褒章授与式もあり、1万人の街とは思えないような車や人出です。少年時代の良い思い出があるUさんには、見ていて切なくなるというか、違和感があったのでしょう。私が「今日ですか?いいですけど、Uさんはどうするのですか?」と聞くと「帰りたいけど、まだわかりません。その場合は、一人で帰っていただいてもいいですか?」とも言われました。スタッフは残って、たまにしか来れないフブスグルをもうちょっと回りたいようなことを言っているそうです。でも、なぜかその飛行機会社の事務所は営業時間中なのに閉まっていました。結局、Uさんが電話して、返事を待つことになりました。恐らく、私の分は大丈夫だろうけど、予約名簿に載っていないUさんの予約は後からわかるでしょう、とのことでした。その後、午後8時過ぎに飛行機会社から連絡があり、2人とも乗れるとのことでした。今回の旅行は、Uさんにとっては、特別なものであったと思います。ブログの中でも、Uさんが酔ってる場面が何度か出てきましたが、ウランバートルでは決して見せない「田舎に帰った顔」なのだと思いました。やはり田舎に戻って、昔馴染みの人たちと会うと、飲みたくなるでしょうし、ハメも外したくなるのでしょう。増してやその田舎に、モンゴルの大統領や前・現首相が集合したのですから。毎日飲んだり、友人らと会ったりしたくなるのは、無理もないことです。若干、二日酔いとか、寝坊なんかでスムースじゃない部分もありましたが、これもまた、普段はまじめ一辺倒のUさんのもう一つ顔なんだと思いました。長年ウランバートルに住んでいて、こちらの女性と結婚している日本人居酒屋オーナーのKさんは、「今までたくさんのモンゴル人に会ったけど、最も信用できるモンゴル人はUさんだ。」「彼は絶対に人を裏切らない。」と言い切っていました。その言葉を聞いた時、私も大きくうなずきました。モンゴル人の中で、最も日本人的心を持っている、あるいは理解している人だと思います。私も、この旅ではUさんという存在があったからこそ、常に安心感があったのだと思います。そして、日本人向けツアーでは絶対に経験できない8日間を送れたことに深く感謝しています。夕陽の見える時間の出発でした。なんか航空会社のカレンダーみたいなシーンです。飛行機は、サーブです。車の方は倒産しちゃいましたが、飛行機の方は分離されて、こうして頑張ってます。飛行機の窓からです。草原ではなく、山々が見えるのが、フブスグルの特徴です。長いようで、終わってみればあっと言う間の8日間でした。素晴らしい機会を私に与えて下さったUさん、どうもありがとうございました。「バイルッラー。」「完」
2010.08.12
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お祝いのパーティは続いてます。そうこうしているうちに、もう夜の12時を過ぎました。でも、どこで寝るのかわかりません。で、再びUさんに訊ねると、ちょっと困ったように「僕にもわかんないんです」と言いました。ああ、こりゃあ、もうダメだなと思いました。結局、私に聞かれ困ってしまったUさんが、誰かを呼んでゲルを探し始めました。最終的に、私とカメラマンのBaさんが一つのゲルで寝ることになりました。それが12時半でした。11時頃到着した時に、ちょっと調べればわかることなのに、なぜここまで何もしないのか不思議です。今回の旅行で一番不思議だったのは、この点です。1分先のことも、今晩寝るところもなにもわからない。モンゴル人同士の会話がわからないので、途中の話が全く見えない。車が急に止まる、車がUターンする、またどこかに行く、誰かが車を降りる。その度に「なぜ?」と感じるのは自然なことです。でも、ペットの犬状態の私には、何をしているのかわからないし、彼らも説明しません。そりゃあそうです。ペットの犬にいちいち説明する人はいませんから。ペットの犬ができることは、おとなしくついて行って、与えられた食べ物を食べるだけです。ただ、今回は、こういう気持ちは一切話さないようにしました。私は、モンゴル人の旅行ってどんなものなのか、ついて行って見たかったのですから。だから、余計なことは言わずにいました。ゲルの中で面白いのを見つけました。こちらでは、コンセントといってもいろいろあります。電気関係の製品は全てが輸入品ですから、コンセントの形も様々必要です。ですが、それを全部そろえるのは大変なのでしょう。これを見た時、最初は壊れているのだと思いましたが・・・これは私の携帯電話を充電中の写真です。これはコンセントの先が丸いですが、日本式の平たいタイプもこれでOKでした。電線を露出させて、コンセントとつないでいるのです。もちろん、初めて見ました。そして7月28日の朝です。私は9時過ぎに起きましたが、誰も起きてきません。こんなに遅い起床でいいのでしょうか?今日はナーダム初日で、Uさんのテレビ局は競馬の取材があると言います。ウランバートルの友人から携帯にメッセージが届きました。「今、テレビでフブスグルのナーダム中継を見てます。会場の方は、いかがですか?」だって。そうです、ウランバートルへの中継はもう始まっているのです。なのに、このテレビ局チームは、全員寝たままです。中継をしているのは、先日会った女性社長の会社です。その時、彼女の会社の撮影スタッフも見ましたが、確かにてきぱきと動いていました。Uさん、大丈夫?結局、午後になってやっと競馬会場に辿りつきました。競馬会場はまだ人もまばらでした。Uさんは、助手席を倒して寝てます。やっぱり二日酔いなのでしょう。この旅行後半では、起きてる時間はずっと酔っていたような感じです。競馬場会場は、ムルンの街から車で10分ほどのところです。久々の青空で、競馬日和です。モンゴルの競馬は、子供が乗ります。そして、日本のように狭いトラックをくるくる回るのではなく、20kmにも及ぶ長大なコースを走るのです。子供といっても、皆3歳くらいから乗ってますから、馬の扱いには慣れたもんです。段々、人が増えてきました。皆、馬が走ってくる方向を眺めてます。ですが、テレビ局の撮影スタッフは誰も動きません。あれ?テレビ局って、「立ち入り禁止」の中にまで入って、特別な場所から撮影すんじゃないの?と思いましたが、そんな気配はありません。皆、ここで2時間以上もブラブラしてます。すると、大勢の観客からどよめきが聞こえました。私も慌てて、カメラを取りました。たくさんのランドクルーザーが、向こうから走ってきます。ナーダム関係者の車両でしょうか?とにかくたくさん走ってきます。そんな中に馬も走っています。子供たちが必死で馬を走らせてます。馬も子供も、かなり疲れきっているように見えました。後続もどんどん続いてきます。騎手は男も女もなく、一生懸命に走ってます。ですが、馬たちは目の前をあっと言う間に走り抜けて行きました。2時間以上待って、撮影は5分で終わったという感じです。結局、テレビ局のカメラマンも私と同じように一般観客席から離れて撮っただけのようです。そんなので、テレビで使えるのかどうかはわかりませんが、一応、メインの仕事は終わりました。さあて、今日はこの後何をするのでしょうか?「続く」
2010.08.11
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7月27日の夜です。今日でウランバートルを出発してからちょうど一週間になります。この間で、毎日共通したことがあります。それは「毎日、当日の夜9時になっても、どこでどんな風に寝ることになるのか、わかっていない」ということです。正確に言えば、Uさんの頭の中にはぼんやりしたものはあるかもしれませんが、私には全く知らされません。もちろん、この日も夜になって「今晩はどこで寝るのですか?」と聞きましたが「わかりませんね」としか返ってきません。私は別に毎日寝るところがどこだって構わないですけど、1分先の行動も2時間後の行動も全く知らされないまま、あっちへ行け、こっちへ行くぞ、について行くというのは結構しんどいものがあります。ですが、私はペットの犬と同じ状態ですから、文句は言えません。たまに運転手のBoさんやカメラマンのBaさんに「どこへ行くの?どこで寝るの?」(くらいのモンゴル語の質問はできます)と聞くと「知らない。」とやや呆れた顔で言います。さすがに、毎日夜になっても寝どころを決めないのは、モンゴル人にとっても当たり前ではないようです。この日の夜は、22日に泊まったUさん親戚のがやっているという、ムルン郊外のゲルキャンプに向かいました。内心「そうか、今日はあそこで寝るのか。」と久しぶりに寝袋以外で寝れると、ちょっと期待しました。時間はもう午後11時になります。ゲルキャンプに到着しました。私が荷物を持って行こうとすると、例によって「いや、荷物は置いて行って下さい。」と言います。私は気にせずに、どうせすぐに取りに来なくちゃいけないんだからと、荷物を出そうとしました。すると「今、パーティをやっているので、そんな中に荷物を持って行くのはおかしいですよ。それに、今日はここで泊まるかどうかだってわからないのです。」とUさんは言います。「え?ここで泊まるんじゃないの?」と聞くと「だって、予約もしてないし、ゲルが空いてるかどうかなんてわからないじゃないですか?」と言います。内心「だってここは、親戚がやってるんでしょ?一言聞けば、すぐわかることじゃない?そもそも来る途中でも電話すればいいだけのことでしょ?なんでそんな簡単なこともできないの?」と思いましたが、酔っぱらっているUさんに言ってもしょうがなさそうです。今日はゲルキャンプに夜11時にいるというのに、今日どこで泊まるかもわからないという不思議な状態のままでした。ですので、言われるままにパーティ会場に入りました。中には100人以上はいたでしょう。そのパーティ会場の中央には、今日昼間から何度も追いかけた、褒章をもらった老人の姿がありました。そのパーティの趣旨は、その方の褒章受章のお祝いだったのです。Uさんが、何か記念品を贈っていました。中央の方が、国から褒章を受章した人です。聞けば、教育関係での長年の貢献を認められたということでした。やっぱり推測は当たってました。元、校長先生だったUさんの親戚なんだそうです。Uさんが私を招き入れ「ここに座って下さい」と言ったので、隣に座りました。既にセットしてある目の前の前菜を早速食べました。そしてメインが運ばれてきました。ですが、なぜかUさんにだけ出して、私には出しません。Uさんはその状況を見ても、全然気にしてないようです。私は、そのうち来るのだろうと思っていましたが、ウェートレスはそんな素振りもありません。私はウェートレスよりもUさんにちょっと驚きました。私にないことを見ながら、全部食べ終えてしまいました。その間、全く気にせず、ウェートレスにも声はかけません。これが日本で逆の立場なら、私は声をかけて「こっちのも一皿持ってきて」と声をかけるでしょうね。多分、彼は相当酔っぱらっているんだなと思いました。そして、「あっちに知り合いがいるので・・・」と席を立って、移動しました。結局、私はウェートレスが運んでいるお盆の上から勝手に取って食べました。日本ではまず勝手に取るなんてしませんけど、ここモンゴルは待っていても誰も相手にしないのです。じゃあ、ちゃんとウェートレスに声をかければいいのか?「水ください」と言って、持ってきてもらうのも大変時間がかかります。「ミネラルウォター。APUの水ください」とブランド名まで言ってるのですが、もちろん、持ってきません。仕方がないので、もう一人にも言いましたが「はい」と言ったきり、持ってきません。日本人にとっては、とても不思議です。本当に忘れたのでしょうか?同じ人に何回か言ってるのに、です。忙しいから?そうではないのです、カウンター付近でおしゃべりしてるのです。ウランバートルのサービスの悪さは何度も書きましたが、こういう田舎のサービスはそんなレベルじゃないようです。じゃあ、私の言葉が通じない?そんなことはないと思いますが・・・すると急にウェートレスの一人が私の顔を見て、何かを思い出したように隣の子と話してます。そして、なんと熱湯を持ってきました。もちろん、もう10分以上は経過しています。私は驚いて、「冷たい水。ミネラルウォーター。APUの水。」と言うと、なぜか驚いて戻りました。そして、また別のウェートレスがやって来たのです。私は最初と同じように「水ください。APUください。」と言うと、当たり前のようにすぐに持ってきました。一体、なんだったのでしょうか?多分、何も特別なことではないのでしょう。モンゴルでは、こういうことも「日常」なのです。そんなことより、早く寝たいです・・・「続く」
2010.08.11
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どうも私の記憶がちょっと混乱しているようです。この広場横のオペラハウスでの授賞式や、学校でのお祝いの会などは、7月27日のことでした。前回のブログでは、7月26日のことのように書きましたが、そうではなかったのです。7月26日は、フブスグル湖からムルンに帰って来て、Uさんは「首相と合う」と言って、パーティをやっていると思われるホテルに行きましたが、残念ながら会えなかったようでした。その間、どうもかなりお酒を飲んだらしく、かなり酔っぱらっていました。その後、私たちと一緒に違うテレビ局の社長さんと一緒に食事をし、その場でも飲みました。テレビ局の社長さんは、30代と思われる女性社長でした。モンゴルはとにかく経営者が若いです。Uさんとその社長は、ともに30代です。日本で30代のテレビ局社長なんて、まず考えられませんね。で、そこでもまたウォッカです。しかも、私やその女性社長は、口を付ける程度なのに、Uさんは乾杯の度に一気に飲み干します。昼間。フブスグル湖にいた時から飲んでいるのですから、一体どのくらいのんでるのでしょうか?もう運転手さんも呆れてます。私と話しても、段々呂律が回らなくなってきました。ですが、その女性社長と別れた後、今度は幼馴染と一緒になって、また乾杯。幼馴染は有名な歌手だそうです。いくらなんでも、もう帰りましょうと言っても、一体今日はどこに寝るのかわかりません。Uさんに聞いても「今日は、まだまだ飲むぞー」と完全に酔っぱらいモードです。・・・・そして、夜も遅くなって、村長さんという人の家に4人で転がり込みました。聞けば、Uさんの遠い親戚らしいです。一部屋お借りして、そこに寝袋を持ちこんで寝ました。Uさんは、最後まで何か言ってましたが、あっと言う間に倒れ込んで、そのまま寝てしまいました。そして、7月27日の朝を迎えました。昨日飲み過ぎたせいでしょうか、Uさんは12時過ぎまで寝てました。そしてテレビをつけると、首相らの顔が映っています。他にも前首相や知事などのVIPがずらりといます。どうも今日は、このスフバートル県出身の英雄チングンジョーの生誕300年記念式典のようです。なので、前・現首相や大統領までが、今このムルンに集合しているのです。テレビでは、他の偉い人も映っています。すると、昨日会ったテレビ局の女性社長も映っているではありませんか!それを見ながら、Uさんがポツリと言いました。「本当は、僕もあそこにいるはずだったんだけどね・・・。でも、こんなに二日酔いじゃあ、行けないよね。」と。やっぱり昨日は相当飲んだのです。ですが、気を取り直して「よし、今日はホテルにチェックインしてシャワーを浴びるぞ!」と言って出かけることにしました。ですが、一年で一番混雑するこの日に、ホテルなんか空いてるはずありありません。シャワー屋さんも探しましたが、どこも混雑してました。結局、街はずれの川へ行って、そこで顔洗って、Uさんはワイシャツとスラックスに着替えました。そのまま、首相が滞在しているホテルへ行って、「じゃあ、私は首相と会ってくるから」と言い残して、行ってしまったのです。私はそのまま運転手のBoさんとBaさんと残され、その後はこの二人と行動することになったのです。そして、前回のブログにある通り、ホショール食べて、表彰式に出たというわけです。以下、その続きです。学校での受賞を祝う会を終えました。我々はこれからどうするのでしょうか?Uさんとは、別れたっきりです。まだあのホテルにいるのでしょうか?なんと言っても、全く言葉が通じない状態ですし、Uさんも私に何も言い残さず行ってしまいましたから、今日寝る場所どころか、1分先のこともわからない状態が続きます。まさにペットのポチ状態です。お祝いのあった学校を出たのですが、どうも先ほどの表彰された老人の車を追いかけるようです。まだ撮影で彼らを追うのでしょうか?ムルンの街からちょっと出た辺りまでやってきました。そこには、いかにも今回のナーダム用と思われる、臨時の(?)ゲルの集合体がありました。老人ご一行はそのゲルに入っていきます。 中を覗くと、よくまあこんなに小さいゲルにたくさんの人がいるもんだと思われるほど人がいました。10畳ほどの広さの中に、30-40人はいようかというほどです。ここでもまたお祝いの会のようです。お供えも、ツァガンサル(旧正月)と同じでした。私はそんな中にいては、息も詰まりますし、そもそもこの人が誰かもわからないままついてきているので、すぐに外へ出ました。ここは街の外ということもあり、景色がいいです。日の長いモンゴルの夏でも、さすがに日が陰ってきました。曇り空の間から、夕陽が見えます。ボーっと見てたら、見る見る、太陽の形が変わって行きます。太陽の下半分が、二つに割れようとしています。なんだか、テレビでこんなアフリカの夕陽を見たことがあるような気がしました。あっと言う間に、その割れ目が太陽の上半分に移りました。確かに、太陽は動いている・・・ではなく、地球は回っているのです。しかもかなりのスピードで。そして、ついに沈んでしまいました。不思議なことに、沈んでしまった後の方が、陽の光が空いっぱいに広がっています。太陽は、隠れた後の方が輝きを増すってことでしょうか?すっかり日も暮れてしまいました。そして、車はUさんと別れたホテルに向かいました。8時ごろにやっとUさんが乗り込んできました。ですが、かなり酔っぱらっているようです。「今日はどこに泊まるの?」と聞きましたが、やはり「わかりません」との答えです。さて、今晩はどうなるのでしょうか?「続く」
2010.08.10
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一体、この会場で何をやろうとしているのか、ペットのポチ状態の私にはさっぱりわかりません。ところが、壇上に何やら見覚えのある顔が並んでいます。なんと、昨日フブスグル湖で会った前首相がいるではないですか。民族衣装を着ている人が、前首相です。そしてその隣には、テレビでしか知りませんでしたが、現在の首相です。つまり、前現首相のツーショットです。その後、たくさんの人の名前が呼ばれ、壇上に上がって行き、現首相や前首相から表彰状のようなものを受け取っています。表彰される人たちは、ご老人に近い方が多いです。なるほど、これはこの地域で功労があった方々への褒章授与をする式典なんだなと、やっと理解できました。私はこの式典の最前列で写真を撮ってました。警備員からは、マスコミの人ととして見られていたようです。こんな感じのマスコミの人たちに紛れていました。会場にもデジカメを持っている人はたくさんいましたが、やはり一眼レフを持っている人は、マスコミ関係者に限られるようです。ですから、なんとなく私も他のマスコミ各社に交じって、それらしく振舞っていたので、警備員もまさか無関係どころか、式典の意味さえわからない日本人が最前列にいるとは思わなかったでしょうね。表彰される人には、子供らが花束贈呈もやっていました。この子は、壇上に上がる準備をしていました。かわいいですね。カメラマンのBaさんは、もちろん全体の様子をカメラに収めていますが、特にある老人を追いかけて撮影しているように見えました。でも、その人が誰なのか、ポチにはわかりません。式典は続いてましたが、途中で会場を出ました。そして、会場の外でも、またその老人を追いかけて、撮影しています。その後、今度は車で移動です。ちなみに、Uさんとは連絡も取っていません。一体いつ合流するのかもわかりません。Uさんがいないと、本当にポチ状態が続きます。車はある場所で止まりました。そして運転手のBoさんに「あっちを見ろ」と言われて見ると・・・なんだか結婚式の時の風船飾りみたいです。これらの車が次々と、ある建物に入って行きます。建物の文字を読むと、どうも学校らしいです。学校というのは、11年制の小中高学校です。その学校の入り口では、大勢の人たちが列を作って拍手で迎えてました。どうも、先ほどの老人の褒章受章のお祝いで集まっているようです。一体、なんでこの方は表彰されたのでしょうか?そして、集まっている人は圧倒的に女性が多いです。壇上に上がったその老人は、代表者らしき女性からお祝いしてもらってました。共に民族衣装を着ています。やはりこういう晴れの場では、デールを着るのでしょうね。そして、会場である学校内に入ります。もちろん、誰も私を招いているわけではありませんが、私もカメラマンのBaさんに続いて入って行きました。ちなみに、彼はいかにもテレビ局っぽい業務用のビデオカメラを持っていますし、NTVのシャツを着ているので、説明しなくても誰でもわかるでしょう。私は、その彼にちょこちょこついて行っているだけに過ぎませんが、なんとなく一眼レフカメラをもっているから、マスコミ系の人だと思われているのだと思います。会場は、ある教室でした。そこには50-60人くらいの参列者でびっしりでした。中央にあるテーブルの上の飾りつけは、ツァガンサル(旧正月)の時に見たものと似ていました。羊の丸焼きならぬ、丸蒸し?や、乾燥チーズなどが置かれていました。ご覧の通り、会場中心席にはほとんど女性が座っていました。つまりこういうことでしょう。このご老人は、この地域の教育界のドン的存在で、何かの理由で国から表彰されたのでしょう。そして、今回の褒章受章で、後輩の先生たちが集まってお祝いをしてくれたということです。日本もそうですが、小中学校の先生は、女性比率が高いですから、おのずと女性ばかりが集まる会になった、というところでしょう。なんせ、ペットのポチ状態の私としては、誰一人に聞くこともできず、ただただ推測するのみでした。人が集まれば、お酒が出るのはモンゴルでは当然のことです。こうしてお酒を回しています。これは馬乳酒です。器はこれ一つで、それを全員で回し飲みするのです。ちょっとすごいです。これだけの間接キスは、なかなかお目にかかれませんね。しかも、一周だけじゃなく、何周も続くのです。というか、このお祝いの席が続く限り、回し続けるのです。小どんぶりに近いサイズですから、とても全部飲み干すことはできません。かなりごくごく飲む人もいれば、口を付けるだけの人もいます。こうして、次々と飲んで行きます。しかも、馬乳酒だけじゃなく、ウォッカも回ってきます。つまり、馬乳酒とウォッカの盃一つずつが、この会場内を回り続けているのです。私はカメラマンもどきのようなことをやってましたが、席につくと馬乳酒もウォッカも当然のように回ってきました。確かに、これを毎回その気になって飲んでいたら、あっと言う間に酔っぱらいそうです。「続く」
2010.08.10
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夕方5時近くになって、ようやく県庁所在地のムルンへ出発することになりました。どうも明日7月27日にやってくるUさんのテレビ局のスタッフと合流するようなのです。なので、今日中にはムルンに行きたいということでした。帰り際に国会議員のAさんらに別れの挨拶をしました。すると「明日、ムルンで会いましょう」とAさんの奥さんに言われました。そっか、明日ムルンで再び一緒になるということのようです。モンゴル語ができないということは、単に会話ができないだけでなく、7人の人たちが毎日交わしている会話が全く耳に入らないということですから、私だけ極端に情報量が少ないということでもあります。普通は、ほとんどのことは、やり取りしている会話から察することができることが可能でしょうから。フブスグルは有名な観光地と言うだけでなく、モンゴルにあって比較的水に恵まれた地方ということもあるからでしょうか、少し全体に豊かな地域に見えました。緑も多いですし。帰りの途中に見えた川です。日本では珍しくもない風景ですが、こうした大きな川が蛇行して、流域に大きな緑の土地を作るのは、あまりモンゴルでは見かけない風景です。途中の道は、もちろん未舗装道路でしたが、昨日Uさんの田舎からフブスグルに来た道に比べればずっとましですし、乗用車でも大丈夫でしょう。但し、毎日こんな道を走っていたら、早く壊れるだろうなとは思いますが。2-3時間ほどかかったでしょうか、ようやくムルンに到着しました。ここでUさんの親戚の家に上がりました。木造の家です。トイレは家の中ではなく、外にありました。ここでお茶を飲んでちょっと休んでから、再び出かけました。とあるホテルの前でUさんは車を降りて「私はここで、首相に会いに行きます」と言って、行ってしまいました。私には何も言い残していません。これは困りました。なぜなら、残された運転手のBoさんとBaさんは、日本語はおろか、片言の英語もできないのです。Uさんは、自分のことばかりで私のことに気を回す余裕はないようです。ですから、ここからは一層、「1分先」のこともわからない状態が続くのです。人間は、今何をしており、次に何をするのかわからない状態が長く続くとかなり辛いものがあります。まさにペットの犬状態です。連れては行くけど、誰も説明はしないということです。車は、さっき来た道を引き返しました。「どこへ行くの?」という質問は出来ますが、答えはもちろん理解できません。なので、次第に会話もなくなります。ゲルがたくさん密集しているところにやってきました。確かにこの密集地はさっきも見ました。多分、明日からのナーダムに備えて、田舎からやってきた人たちが住むために作ったのだろうくらいにしか思っていませんでした。数十ものゲルが密集しています。で、聞いたら、なんと全部ホーショールの店だそうです!確かに、ウランバートルでもナーダム(7月11日です)の時期には、会場の周りに無数のホーショール屋さんが出てます。で、私たちもここで食べるというのです。私もホーショール3つと、モンゴル式ミルク茶(スーテーツァイ)を頼みました。ホーショールは、このブログでも何度か登場していますが、羊のひき肉を餃子の皮のようなもので包んで、油で揚げたものです。ま、羊肉大型揚げ餃子みたいなものです。腹ごなしを終えると、車はムルン中心部の中央広場にやってきました。広場にはたくさんの車が止まっていました。ご覧の通り、その9割以上がランドクルーザーです。その数、数十台。日本でこういう風景を見たら、「ランドクルーザー・オーナーズクラブ」の会合かな?と思うことでしょう。人口一万人程度の街に、よくもまあこんなにランクルがあるなあと思うほどです。もちろん、私は「ペットの犬状態」ですから、何のためにこの広場に来ているのかもわかりません。ですが、カメラマンのBaさんがテレビカメラを抱えてます。何か撮影するのでしょうか?すると、広場の脇にある「オペラハウス」のような劇場の中に入って行きます。中には、真っ赤なネクタイに白いスーツという派手な格好の人もいました。ですが席のある会場に入ろうとしても、中は満員らしく、警備の人がいて中に入れないようです。ですが、Baさんと運転手さんのBoさんはNTVのシャツを着ているので、テレビ関係者とわかり中に入れてくれました。私も必死に紛れ込んで入りました。確かに中はびっしりです。すると、先ほどの赤ネクタイの人が壇上に上がって、何か言ってます。どうもこれは「コンサート」などではなく、何かの式典のような雰囲気です。ですが、相変わらず私には、これが一体何なのかわかりません。「続く」
2010.08.09
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本当は作る過程を写真に撮りたかったのですが、私のカメラはBaさんが持って行ってしまって使えません。ホルホグを作るところは滅多に撮れませんから、残念でした。こういう時、どうすればいいんでしょうかね?私のカメラに皆興味深々です。すぐ触りたがるし、使いたがります。「ダメだよ」と言うのがいいのか。なんかケチ臭そうです。でも、「はい、どうぞ」と言うと、最初は遠慮しつつ使いますが、段々平気で断りもなく勝手に持って行くのがモンゴル人なんです。更には、あらゆるスイッチを触りだします。そして、分解でもしそうになります。さすがに「NO!」というと止めますが、「なんだよ、ケチだなあ、この日本人は」って顔します。でも、壊されてから怒るよりは、事前に止めさせた方がいいとは思ってますけど。日本人のように「他人のものを触るのには、ある程度遠慮というものが、誰もが自然に持っている」という人たちじゃないんです。多分、壊してしまったら「このカメラが勝手に壊れた」と言うのでしょう。実は、他にも、なかなかその場で口にしにくいけど、モンゴル人との感覚のずれがあるのです。インスタントコーヒーをカップに入れるスプーンを使って、お湯をかき混ぜます。その濡れたスプーンで砂糖を1杯、2杯と取って、再びかき混ぜます。そしてそのスプーンを濡れたまま、インスタントコーヒーが入っている入れ物の中に戻すのです。多分、モンゴル人がこの文章を読んでも「え?何がおかしいの?」って思うでしょうね。羊の肉を手で豪快に食べます。脂はきついし、匂いもあります。でも、肉食の彼らは手でつかんで食べます。そして、その手で「カメラ貸して」とカメラを手にして、べたべたと触りまくるのです、これも、モンゴル人からすると「何がいけないの?壊したわけじゃないでしょ?」となるのです。起きてる間は、ほとんどウォッカを飲みます。しかもいつも回し飲み。5人や10人どころじゃない時もあります。回し飲みのグラスは小さい場合が多いです。日本の大きめのおちょこ位でしょうか。何周もするのです。まさに間接キスの連続です。しかも、多くは飲みほしません。ちょっと口付けるだけ、とか、半分だけ飲みます。そして、そこに継ぎ足して次の人へ、となります。それを3周、4周、5週と続けるのです。キャンプの時は、それが小さな紙コップになるのです。紙は水分含んでふにゃふにゃになります。もう口を付けられる場所もないほどになりますが、続けます。「で、何がいけないんですか?」ってモンゴル人に聞かれそうです。なかなかこういう感覚のずれや違和感は「私は、こういうのは嫌です」とは口に出して言えないです。モンゴル人以外は、私一人ですから。さてホルホグ作りは進んでいます。例の洗面器鍋の中に、暑く熱した石、たくさんの肉と少々のじゃがいも、人参、そして湖の水、塩を入れて、蓋をし、上に重石を乗せて待ちます。待つことどのくらいだったでしょうか?やはり1時間近くは待ったような気がします。Tくんの叫び声が聞こえました。二人の運転手さんに遊ばれてました。このTくん、おじいちゃんは国会議員ですが、お父さんは外務省勤務だそうです。そして、この秋から在日モンゴル大使館勤務になるので、このTくんも東京へ行くのです。日本語はまだ挨拶程度ですが、きっと数年でペラペラになるでしょうね。親日家になってくれるといいです。例によって「子供とお年寄り(裏を返せば若い女性以外)に人気のある」私を気に入ってるようです。何かと私に付きまとって、スキンシップを求めます。大人になったTくんと会える日が楽しみです。そしていよいよ出来ました。一緒に熱した石が見えます。ゲルで休んでいたUさんらも呼んで、食べました。この旅行記をご覧の方の中には、前にも似たような場面を見た気がする人もいるでしょう。肉を鍋で煮たり、茹でたりして、肉ばっかりを食べるところを。その通りです。これが肉食というものです。日本人の焼き肉定食や生姜焼き定食とはわけが違うってことです。私の場合、なかなか肉だけで「満腹感」はありません。というか、赤坂の焼き肉屋の上カルビとは全然違って、ものすごく硬い肉なので、そもそもそんなに食べられないのです。肉を食べて、歯がこんなに痛くなったのは初めてでした。そして穀類がないと、お腹の満腹感も少ないです。さて、今日はこれからどうするのでしょうか?「続く」
2010.08.08
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今日の予定はまだよくわからないのですが、どうも私たちは県庁所在地のムルンに移動し、国会議員のAさんらはもう1泊ここに滞在するらしいです。Uさんは、ムルンへ行ってらちょっと仕事モードになるようなことも言ってますが、全く出発する気配はありません。こうして何日も移動していると、困ることがあります。それは電源とシャワーです。日本なら、1カ月旅行しようとどこにだって電源はありますが、モンゴルの田舎、特にテント生活となると電源は困ります。電源というのは、基本的にはデジカメと携帯電話用です。デジカメは日本製ですから、コンセントのアダプターが必要です。モンゴルでは、先が二本ですが、丸いのが多いのです。日本は同じ二本でも平たいですね。ゲルの中にもコンセントがないので、前日の夜に食堂のある場所で電源を借りようと行きました。ですが、私が昼間携帯電話用に使ったコンセントは、従業員の女の子が携帯を差しっぱなしにして話しこんでいます。私は通話を終わるまで待っているつもりでしたが、一向に終わる気配がありません。そうこうするうちに、食堂の消灯時間になりました。私は待ってても構わなかったのですが、別の従業員が「こっちでしますから、それを下さい」と言います。バーカウンターの内側にも電源がるので、そこに差し込むというのです。一般客は入れない場所ですから、保安上も大丈夫でしょう。その子に預けると、早速差し込もうとします。ですが、どうももうたくさん差し込み過ぎていて、余地がないようです。ですが、何かねじ込むようにしています。ま、ここはお任せするしかないので、そのまま寝ました。ちなみに、ここがゲルキャンプだったから任せましたが、ウランバートルだったら絶対に自分の目の届かないところには置かないでしょうね。多分、翌日には無くなっているでしょうから。そして翌朝早速取りに行きました。彼女はニコニコして充電済み(のはず)の電池と充電器を手渡してくれました。・・・ですが、実はその日の夕方にわかったのですが、見事にコンセントのアダプターが壊れていました。二本あるべき差し込みの一本が消えているのです。折れた跡がありました。「あー、やられたー」と思わず唸ってしまいました。「モンゴル人に器械類を貸したり、任せたりしてはいけない。多くの場合壊されるから」と何度も忠告を受けていましたが、まさかこんなところでやられるとは。ニコニコかわいい顔してたので、プラグなんて全然見ませんでした。でも、確かに考えてみればおかしいです。私に渡す時は、なぜか袋に入れてくれてたからです。前夜渡した時は、そんなものなかったですから。私は袋ごと受け取り、そのまま電池だけ使ったので、気付かなかったということです。もう一つはシャワーです。今日でシャワーなし6日目です。乾燥しているので、日本の夏のように「かゆくなる」とか「べたべたする」ってことはないのですが、やはりいい気分はしません。シャワーを使えるということで、早速シャワー室に行きました。シャワーといっても、お湯がチョロチョロ出てくるだけですが、贅沢は言えません。シャンプーは持ってきてませんが、洗顔用フォームとどこかの日本のホテルにあった丸い小さな丸い石鹸がバッグに入ってました。まずは髪を洗います。石鹸で洗いました。石鹸で髪を洗うなんて何年ぶりでしょうか?子供の時以来かな?石鹸で髪をこするのですが、全然泡が立ちません。やっぱり石鹸じゃあだめなんでしょうか?頭から流れ落ちるのは、茶色くなったどろどろの状態の石鹸です。いや、これはひどい。洗い落として、再度石鹸で髪をごしごししました。ですが、やはりどろどろの茶色になります。やっぱり石鹸は役に立たないのでしょうか?更にもう一度やりました。ちょっと泡らしきものが出ました。そして4回目の挑戦で、なんと立派に泡立ちました。やはり石鹸の問題ではなかったのです。顔も同じです。洗顔フォームをつけて洗うのですが、全く反応がなく、泡もゼロ。顔は3回目で泡立ちました。こりゃあ、相当汚れているのでしょう。そして今度は身体を石鹸で洗います。もちろん、最初は茶色になるだけで、泡はありません。石鹸が、使っている間にどんどん減って行くのを初めて見ました。こんなに固形石鹸が減って行くのかと、感心してしまいました。それだけ、全てが汚れていたということです。お陰で、きれいさっぱりになりました。いやー、シャワーはありがたいです。さて、今日はどうするのか?全然わかりません。Uさんは「やることないので、ちょっと寝ます」とゲル内のベッドに横になっています。私は写真でも撮ろうと散歩に出ました。散歩に出たら、2人の運転手さん、カメラマンのBaさん、孫のTくんが、鍋を持って歩いてます。こっちへこいの仕草をしたので、私もついていきました。ゲルから離れた、湖岸近くに陣取ると、早速料理を始めました。料理といっても、もちろん食べるのは肉です。まずは石を焼きます。ということは、これは私の好きなホルホグでしょう。ちょっと楽しみです。出来上がるにはちょっと時間がかかります。「続く」
2010.08.08
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外はすっかり暗くなりました。ゲルキャンプに戻ると、8人全員が揃っています。ベッドは4つです。もう10時にもなるのに、私が「どうやって寝るんですか?」と聞いても「さあ?適当じゃないですか?」と言ってるのです。そして突然、Uさんから私に対して「外でテントでいいですか?」と言われました。私は「はい、いいですよ」と答えました。ですが、そのまままた飲み続けるだけです。何もしません。さすがに11時になったので「テントはどこに張るのですか?」と聞くと、初めて気づいたようにカメラマンのBaさんに何か指示しています。結局、彼は真っ暗になった道を車に戻り、明りがない中彼はテントを設営させられました。こんなわかりやすいこと、到着してすぐに決断すれば簡単です。それをせず、ダラダラお酒を飲んで、最後の最後に部下にテントを張らせるというのは、相当変わったやり方だと思いました。これが日本人なら、ほとんどのリーダーはこうするでしょうね。到着早々に「今日はゲル一つでベッドが4つだから、ここには誰と誰が寝て、誰だれは外でテントで寝てください。明るいうちに準備して、後は大いに飲みましょう!」と。実は、リーダーが意図的とも言えるほど意思決定をしないで、ギリギリになって指示をするというのは仕事上でもモンゴルで多いパターンなのです。これでは部下は大変でしょう。結局、ゲルから30mとほど離れたところにテントを張って寝ました。私一人では心配だと、カメラマンのBaさんも一緒でした。満月の夜でした。湖のほとりのテントで寝袋にくるまって寝ました。そして翌朝、7月26日です。湖岸からのエンジン音で目が覚めました。小雨が続いていたので、湖もなんとなく霧っぽいです。ちょっと幻想的な雰囲気が漂っていました。私が寝たのは、皆が寝たゲルから30mほど離れたところに設置したテントの中です。手前に見えるテントが、私とカメラマンのBaさんが寝たところです。その向こうに見えるゲルで、他の6人が寝ました。このフブスグル湖は、モンゴルのスイスとも言われる観光地で、ゴビが外国人に有名な観光地であるのに対し、こちらはモンゴル人にとっては一番有名な観光地とも言えます。もちろん、最近はヨーロッパ人を中心に外国人観光客も増えています。あいにくの曇り空でしたが、その分なんとなく静けさを感じました。この湖は、モンゴルで2番目に大きな湖で、水深は245mとモンゴルで一番深いです。また、透明度は20mを超え、世界で2番目に高いと言われています。モンゴルではダライ(大きな海)といえば、このフブスグル湖を指します。このダライは、あの有名なダライ・ラマのダライと同じ言葉です。この写真では、ちょっとわかりづらいかもしれませんが、海岸からでも透明な底が見えるほどでした。夏でも、涼しいを超えて寒いと思われる日もあります。今回も、半袖では肌寒いほどでした。ここに今日も滞在するのか、またどこかへ移動するのか?当然、そんなことはまだわかりません。「続く」
2010.08.05
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車は、超オフロードをフブスグル湖目指して進みます。途中、大きな鳥の群れを見つけました。私は「猛禽類」を見るのが好きなのですが、空高く飛んでおり、なかなか間近で見ることはできません。モンゴルはこうした鷲などを中東などに「輸出」してきた実績があるほど、猛禽類は多いところです。(最近ではさすがに輸出の規制は強くなっているようです)今回の旅行でも、たまに見てもせいぜい数羽が高く舞っているだけでした。ところが、遠くからでも「10羽どころではない数」の鷲が見えたのです。これでも望遠レンズを目いっぱい拡大して撮ったのですが、なかなかその大きさは伝わらないかもしれません。大きく羽を広げれば、人の背丈よりも大きいものもいます。車を止めてもらい、しばし見とれてしまいました。もちろん、近づけばみんな逃げてしまいますので、なかなか近づけません。どうも何か動物を食べているようです。Uさんがちょっと近づいて見たところ、子牛らしいです。もちろん、鷲が子牛を殺すということはないでしょう。多分、病気か何かで弱って死んでしまったのでしょう。それにしても、たくさんの鷲の光景は、何か壮観な気がしました。3時間ほどでフブスグル湖近くにやって来ました。ですが、この時点でもまだ今晩はどこでどんな風に寝るのは決まっていません。というより、決めていません、という感じでした。まずは、パンクの修理です。さすがに小さな村なので、付近の人々に聞きながら、やっとパンク修理屋を探して直してもらいました。 Uさんはいろいろ電話しているようです。何かゲルキャンプの場所名を聞いているようです。そして、運転手に場所の指示をしていました。私が「今日はゲルキャンプですか?」と聞くと「運が良ければ、そうかも知れませんが、まだわかりません。」と答えます。目的地の「Ashihai」というゲルキャンプに到着しました。ちょっと立派そうなキャンプです。ですが、車で入ろうとしましたが中へは入れてくれません。どうも満室らしいのです。当たり前といえば当たり前です。明日は、県庁所在地のムルンでナーダムがあるので、多くの観光客がこのフブスグル県にやってきているのです。多分、この1週間が、一年で一番混雑する時期でしょう。それを予約もなしで訪れれば、断られるのは目に見えてます。で、なんとか隣のゲルキャンプを紹介してもらったらしく、そこへ移動しました。国会議員のAさんの車は、その「Ashihai」キャンプに前首相が来ているとかで、そこに残ることになりました。そして、隣のキャンプに到着しました。ここで、私がいつも不思議に思っていたことが起こりました。私は車を降りると、自分の荷物を車から取り出そうとするのですが「それは後でいいです。今はそのまま来て下さい」と言われます。が、実に非合理的です。この手のキャンプは一般に駐車場から離れている場合が多いです。しかも、別にポーターがいて、後から運んでくれるというのではないのです。だったら、車を降りる時に一緒に荷物を持って行けばいいわけなのに、なぜかそうせず手ぶらで行きます。前のゲルキャンプに着いた時も、2回ともそうでした。そして、2回とも結局後で車に取りに行くのです。そして今回も同じで、後から100mほど離れた車に取りに戻ったのです。それでも、やっとゲルに到着しました。ですが「私たちが使えるのはこのゲル一つだけです。」と言います。ゲル内にベッドは4つで、泊まるのは8人です。当然ですが「どうやって寝るの?」とか「じゃあ、他のキャンプ地をあたってみよう」とかの発想が出ますが、聞いても「わかりません。適当に決まるでしょう」しか言いません。どうもこういうモンゴル人のやり方には、ちょっとイライラしてしまいます。Uさんは今回の旅行のリーダーであるにも拘わらず、先のことは何も決めません。まるで、敢えて何も決めないかのようです。私は「行き当たりばったり」の旅行が嫌だというのではありません。が、意図的とも思えるほど何も決めないことにやや不満を覚えました。テントにしでもゲルキャンプにでも、どこでも構わないのですが、当日の夕方になる前には決めて欲しいのです。で、もしゲルキャンプにするならいくらでも方法はあると思います。パンク修理している間でも、どこかに予約するとか、Uさんの地元なんだから友達に頼むとか。あるいは、途中にいくらでもゲルキャンプはあったのに、一切探そうともせず「このキャンプではここ1つだけです」とあっさり決めてしまうのです。まだまだ明るいし、車ならほんの20分もあれば4-5軒のゲルキャンプを訪ねあることはなんてことない話ですが、それもやろうとしません。とにかく、何も決めようとしない態度には本当に不思議な気がしました。食事を終え、すっかり暗くなりました。食事は例によって「こんな少量で、本当にあの大きなモンゴル人男性は満足するのか?」と疑問に思うほどの量です。これは日本全国、どこの民宿(旅館ではありません)と比べても少ない量でしょう。夜遅くなって、国会議員のAさんが戻ってきました。一緒に来たのは、昨年までの前首相であるBさんです。中央が前首相で、右がAさん、左がUさんです。私もご挨拶して、一緒に写真を撮ったりしました。夜にモンゴルの伝統芸を庭でやると聞いていたので、私もそちらへ見に行きました。伝統的な歌と踊りです。更に、モンゴルの有名な曲芸(?)で、名前はなんというのか忘れましたが、身体をくねくねさせる芸も登場しました。子供の芸は何度か見ましたが、大人のはあまり見たことはないです。ちなみにこの女性は、ウランバートルの大学生で、このゲルキャンプではウエイトレスのアルバイトに来ているとのことでした。もう遅くなりました。もう寝る時間です。「続く」
2010.08.03
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目指すは、ここから一番近いソムです。ソムというのは、モンゴルの行政単位で、一種の村のようなものです。但し、この広大なフブスグル県の県庁所在地の「最大の都市ムルン」が人口1万人ですから、ソムともなれば、数十世帯程度の場合もあります。普通はソムまで行けば、役場や銀行、車の修理工場くらいはあると言われています。ですので、タイヤの修理を考えてソムを目指したのです。やってきたソムは確かに人口は少なそうでしたが、こうして銀行はありました。一体、どうやって首都との現金のやり取りをするんでしょうかね?現金輸送車は、なんだか危険な気もするし。周りに1台も車がいない状態が数時間も続くのですから。幼稚園らしきものもあります。滑り台と思われる上から、こっちを見ている女の子がいました。ソムといっても、ほんの5分も歩けばそこは草原や山々に出ます。残念ながら、パンクの修理をできるところはないそうです。この辺は、修理するだけのために、県庁所在地のムルンにまで行かねばならないのでしょうか?それはそれで大変です。飲み水がなくなったので、ミネラルウォターを買いに行きました。500mlのボトルを指して「これいくら?」と聞くと「700」と答えます。私の学校の前の売店所では、300のものです。私が「高い!」というと「600」とすぐに下げました。私はそれを20本買って出ようとすると、「韓国人か?」と聞かれました。「日本人」と答えると、「えー!」という驚きの声のようでした。多分、ここまで日本人が来たことないのではないかと思います。このソムにいたほんの30分くらいだけ、電話が通じました。Uさんや国会議員のAさんらは、この時とばかりに電話をしています。そしてタイヤの問題を残したまま進みました。車は途中から、一昨日来た道に戻り走ります。段々、見覚えのある風景になってきました。そして突然、目の前にゲルが現れました。「あれ?ここは前に来た、Uさんの親戚のゲル?」そうです、一昨日来たゲルに立ち寄ることになったのです。あのUさんの姪っ子のZちゃんもいました。ゲルの外で、お洗濯です。2歳の頃から「自分のことは自分やる」ということなのでしょうか、ちゃんと自分の下着を洗ってました。今日もゲルにはUさんの親戚の人たちが訪ねてきていました。モンゴルの田舎では、しょっちゅうお互いが行き来しているようです。帰りに、再びお肉を頂きました。またこの肉を今日か明日、食べることになるのでしょう。確かに毎日「肉」を食べてる実感がします。この先はまだまだ長いです。道らしい道なら、ここから県庁所在地のムルンに戻って、そこからブスグル湖まで行くのがいいでしょう。が、Uさんはショートカットを選びました。時間は節約でき、3-4時間でいくでしょうが、半端じゃないラフロードが待ってます。「続く」
2010.08.02
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今日は五日目、7月25日です。今朝も夜明け前から強い雨が降り続きました。幸い、起床時には雨は上がっていました。ここには2-3日滞在するようなことをUさんは言ってましたが、いつまでいるのかは、知らされていませんでした。朝起きると、また例の遊牧民が来ています。一体、何で来るのかもちろんわかりません。遊牧民も、来てはみたものの、たまたま私しかいなかったので、声をかけることもできずに、周辺をうろうろしてました。国会議員のAさんの運転手さんが、何かやってます。 パンクしたタイヤに空気を入れているのです。なるほど、タイヤはパンクしているけど、万が一今使っているタイヤがパンクしたら、このタイヤを使おうというのでしょう。空気入れには「ブリジストンサイクル」と書いてあります。自転車用と言うことでしょう。このタイヤもパンクはしているけど、多分1時間くらいはなんとか持つということでしょうか?それにしても、こんな山の中で修理もできない場所では、車の危機管理も大変です。Uさんが起きてきて「今日、フブスグル湖の方に移動します。」と言いました。ですが、どこに泊まるのかはもちろん、何も決めてないとのことです。この旅では、いつ移動するか、どこに泊まるかも、当日や当日夜にならないと何もわからない状態が続いています。それは今後も続きますが・・・私たちの運転手さんも、動き始めました。車の点検です。電装系のプラグを一つ一つチェックして、接触部分を磨いていました。そして一斉に片づけを始めました。テントをしまって、キャンプ用品もしまって、ゴミをひとまとめにして。こういうことについては、皆が黙々と協力し合います。全員で記念写真撮ったりしてから、出発しました。ラッキーなことに、出発時には雨はすっかり上がっていました。一昨日から降り続いている雨の影響で、川が増水しているんじゃないかとちょっと心配になりました。そして、例の川を渡ります。川では、ちょうど遊牧民夫婦が馬で渡っているところでした。ちょっと心配しましたが、無事通過しました。この川がもっと増水したら、さすがのランクルも難しいなと思っていました。と思ってたら、私たちが渡ったところにほど近い場所に、渡しがありました。この写真で見えますでしょうか?画面右に船が浮かんでいるのです。その船の上には平板な板が敷いてあります。そして、右と左の渡しの間はロープで結ばれているのです。なんとこの渡しでは、車も運んでくれるのです。ローテクですが、確かに便利そうです。帰りの道は、来た道とは異なり、川が少ない道を走りました。が、ものすごい凸凹です。写真を撮ろうにも、乗りながらですと、とてもカメラのフォーカスが合いそうにありません。ジェットコースターとまでは言いませんが、身体が宙に浮くこともしばしばです。しかも、小川を渡ったりする時は、凹んだ部分に急角度で落ちるように進めなければなりませんし、逆に45度はあろうかと(感覚的にはまるで直角?)と思われるような道を勢いを付けて登ることもあります。こりゃあ、ラリードライバーでもなければ、日本人には無理でしょう。「続く」
2010.08.01
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今日は四日目、7月24日です。テントの中で朝を迎えました。昨晩から降り続いている雨が、朝になっても止みません。それでも朝10時頃にテントを出ました。目の前には川が流れ、その向こう側には大きな山があります。周りには人の気配もなく、確かに風光明美なところだと思いました。テントの中では、Uさんらはまだ眠っています。周りにはなんにもないです。雨の空です。このキャンプ地の周辺はこのような山々に囲まれています。国会議員のAさんの運転手さんが、肉をいぶしていました。これは料理をしているのではありません。燃やしている、ちょっと石ころのように丸く見えるのは牛糞です。これを燃やして、その煙を肉に当てているのです。こうすると、肉に虫がつきにくくなるようです。朝起きても、朝食はありません。というか、どこからか遊牧民2人がやってきていました。そして、なぜか私たちのための朝食を食べています。もちろん知人でも何でもありません。この地に誰かがやって来たのを知って、やってきたのです。良い言い方をすれば、友好的な訪問、ですが実態は朝食やお酒をもらいにきたって感じです。どう見ても、こちら側は歓迎している雰囲気はないのですが、彼らは勝手にやって来て食べてます。おかげで、私の朝食はありません。しばらく経ったら、カメラマンのBaさんがテントから出てきて、吐いてました。更には、Uさんまでも!これまでに運転手のBoさん、Aさんの孫のTくん、Aさんの奥さんと吐いてますから、これで5人になりました!4日目で過半数になりました。私たちの車では、4人中3人がダウンです。つまり私一人なんともないというわけです。原因は、食べ物、飲み過ぎ、車酔い等かと推測されますが、日本人の私が旅の間中元気でいられたのは、全く持って丈夫に産んでくれた両親に感謝です。こんな何もないキャンプ地(というか、別にここはキャンプのための場所ではありません)で、朝からずっと雨というのは辛いです。外に出れば雨、かといってテントの中でただ寝ているのというのもつまらないです。午後に一時晴れ間がのぞきました。待望の青空です。この旅行で初の青空じゃないでしょうか!さっきまで暗かったこっちの山も明るくなりました。昼過ぎにやっと皆が揃って、束の間の雨上がりを楽しみました。左手には、昨晩見た雪渓が残ってます。食事ができなかった私を見て、Aさんの奥さんが料理を作ってくれました。モンゴル風肉じゃがです。味は?日本のものとは全然違います。なんせ出汁とかはなく、味付けは塩だけですから。肉はもちろん、山羊です。こういうところに来ると特に感じるのですが、モンゴルにおける「運転手さん」という職業です。日本で求められる「運転手さん像」とはかなり違うように思えます。私は運転手さんを雇ったことはないので、詳細はわかりませんが、日本で「社長さんの運転手」というのは、丁寧な運転、礼儀正しい人というイメージです。が、運転以外に特別なスキルが求められるようには思えません。ですが、ここモンゴルは違います。友人のBさんの運転手さんもそうですが、運転手さんというのは社長の片腕とまでは言いませんが、雑用のプロという感じがします。車関係のことはなんでもこなします。車の修理はほとんど自分でやりこなします。特に、田舎に出れば修理工場もほとんどないですし、パンクやその他故障の頻度も高いです。そういう問題を全部こなせないといけません。運転スキルはもちろんです。ラリーコースのようなオフロードをものすごいスピードで走ります。走るだけならアクセルを踏めばいいだけですが、この国の草原には、穴あり、川あり、岩や石ありで様々な障害があります。道案内もありませんから、太陽や星を見ながら移動する能力も必要です。そしてサバイバル力です。専属運転手は、このように田舎を一緒に旅することが多いです。テントなどもしょっちゅうです。到着したら、すぐにテント設営。火をおこし、お茶の準備、料理の準備。羊や山羊ぐらい、一人で一頭捌けるくらいのスキルは必要です。出発前にも、食糧などの準備、調達。寝袋やテントなどの準備。テーブル、椅子などの調達もやるでしょう。雇い主は社会的に地位の高い人が多いので、草原などであっても酒席を作ってお客さんをもてなしたりします。そういう場でも運転手が仕切ったりします。ウォッカは、誰でも気軽に飲めばいいというわけではないのです。基本的には手酌はありません。運転手が常に全員の杯をチェックしては、注ぎ回るのです。或いは、回し飲みの場合も彼がセットします。これら以外にも、何か問題が起こればそれに対処するのは、基本的には運転手の仕事です。Bさんの運転手さんもそうでしたし、このBoさんもそうですが、軍隊経験があり、相当鍛えられた人って感じです。いざとなれば、ボディガードもしてくれるでしょう。それだけに、信頼できる運転手さんに出会うことが社長さん達にとっては大切なことのようです。家族との触れ合い、プライバシーも含めて相当入り込みますから、信頼できる運転手さんに出会った人は、その後続けて雇う場合が多いようです。実際、Bさんも会社を変わっても、運転手さんはそのまま一緒に移らせましたから。だからこそ、モンゴルで専属運転手になるような人は、誇りを持って仕事をしているように見えます。また、私のような部外者にも、なんとなく良い運転手とそうでもない運転手の区別ができるようにもなってくるのです。束の間の晴れ間も終わり、再び雨が降ったり止んだりになってしまいました。どんどん暗くなって、暮れて行こうとしています。今日は結局、ほとんど終日雨でした。本当に何もしない1日となりました。「続く」
2010.07.31
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