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9月3日、4日、9日、11日、19日付けのモンゴルの情報サイトSHUUD.mnに私の寄稿が掲載されました。http://www.shuud.mn/a/512099http://www.shuud.mn/a/512139http://www.shuud.mn/a/512266http://www.shuud.mn/a/512364http://www.shuud.mn/a/512648モンゴルの若者に、モンゴルの近現代史をもっと知ってほしいと書いたものです。本年7月のハルハ河戦争跡地訪問をベースに書いてます。モンゴル語版は連載で、今回が最終稿です。その日本語原稿を以下に載せます。(日本語版は全部で7回で、これが最終稿です)以下、掲載します。ここまでは、モンゴル人にとっての、モンゴル人的視点でのハルハ河戦争をについて書いてきました。最後の章として、日本人にとってのハルハ河戦争について触れたいと思います。日本人と接触する機会があるモンゴル人、例えば観光で訪れた日本人を迎えるモンゴル人ガイドさんらは、日本人があまりにハルハ河戦争のことを知らないことにショックを受けます。ザイサンの丘を案内したときにも「この丘の戦士の絵は、ハルハ河戦争のことを描いています・・・」と言っても「え?ハルハ河?戦争?なんですかそれ?」「日本とモンゴルが戦争したんですか?元寇のこと?」など、あまりに関心のなさそうな答えが返ってくるので、がっかりしてしまいます。元寇とは、13世紀モンゴル帝国時代の中国における国名が元であり、そのころに元が2回に渡って日本を襲撃したという古い話です。日本人の多くが「ハルハ河戦争」をよく知らない理由は二つあります。一つは戦争の名称です。日本では「ノモンハン事件」という名前で教科書などに載っているのです。もう一つは、日本人にとって外国との戦争というのは、ほとんどの人にとって「第二次世界大戦」あるいは「太平洋戦争」と呼ばれた戦争のことを指すのです。まずは名称についてです。ノモンハンというのは、モンゴル・ソ連連合軍が国境と見なした「ノモンハーニー・ブルド・オボー」のノモンハンを戦争の名前に使ったということがあります。そして何よりも、この戦争を「事件」という軽い名前にしてしまったということがありあす。戦争と事件ではまるで重みが違います。「羊を10頭盗んで犯人を警察が探している」ようなことを事件と言います。何万人も殺し合うようなことはもちろん、「戦争」と呼ぶべきなのです。なぜか?これからの話は、ソ連やモンゴル人研究者と大きく異なる見解が異なりますが、残念ながらソ連やモンゴル人研究者は大きな誤解をしていたと言えます。ソ連やモンゴルにとって、ハルハ河戦争は、日本が大きな戦略として満洲、モンゴル、中央アジアを攻め、最終的にはヨーロッパを攻めるための最初の戦争だと考えてきました。なので、日本にとっては「重要で」「戦略的な」戦争だと認識していたのです。しかしながら事実は全く異なります。ノモンハン事件は、満洲に滞在する関東軍(日本の在満洲軍)が、日本政府や日本軍の中央司令官の許可を得ずに勝手にやってしまった争いなのです。つまり日本政府や日本軍の正式な命令ではなかった、その地域だけの国境紛争としか捉えられてなかったのです。これは日本の統帥権(誰が正式に戦争を始めるか)の問題にもかかわってきますが、日本としては誰も戦争を正式には指示していないのです。なので、日本では今も「事件」呼んでいるのです。なぜそうなったか?それは関東軍の一部の指導者が「どうせ戦えば勝てる」「勝ってから報告すれば、それは仕方なかったと言われる」「むしろ、良くやったと誉めてもらえる」という自己中心で考えた戦争だったのです。結果は、日本の惨敗でした。なので、この自己中心の指導者は、「戦争で負けた」というと自分の責任問題になるので、敢えて「事件」と報告し、「国境付近でちょっとしたいざこざがあった」程度の報告を日本にあげていたのです。これを読んだら「そんなひどい日本人がいたのか?何万人も死んだんだぞ!」と怒ってしまうモンゴル人もいると思いますが、残念ながらその通りなのです。なので、日本では「ノモンハン事件」に関する書物はかなり出版されています。が、その多くは「無責任な司令官のせいで、たくさんの人が無駄死にした」という内容をメインに伝えるものが多く、更には「組織の幹部が、責任と権限を明確にしないと失敗する例としてのノモンハン事件」が有名になってしまったのです。なので、こうした書物は歴史の本というよりは、組織やリーダーの正しい姿(の反対の例)を伝えることを目的としていることが多いのです。こうした内容は、中学生や高校生にはほとんど伝わっていませんから、一般の人にとっては「ノモンハン事件」は第二次世界大戦前の小さな事件くらいとしかわからないのです。私は経営コンサルタントをしていますので、あるべきリーダーや組織を考えることが多いです。なので、我々の仲間の中ではノモンハンは有名ですが、それはあくまでもダメな組織、ダメなリーダーの典型的な例としての話です。結果としてノモンハン事件は戦争というよりは、日本軍のダメなところ、リーダーがだめな例などの事例として一部の人には有名だということなのです。二つ目の、日本人にとっての外国との戦争という意味では、圧倒的に第二次世界大戦の戦場名が有名です。「ガダルカナル島(という南太平洋の島)の戦い」、「インパール作戦(イギリス軍とビルマ(現ミヤンマー)で戦った)」「レイテ沖(フィリピン)海戦」など多くの外国での戦争が、戦争の経緯なども含め記憶や記録に残されています。ノモンハン事件は明らかにこれらの戦争とは日本人の中での受け止め方が違うのです。モンゴル人にとっての近代における最大の戦争なのに、日本人にとっては名前も知らない戦争になってしまっているのは、こうした経緯があるのです。最後に一つ加えるなら、モンゴル人の中にも誤解をしたままの方がいます。「私たちはモンゴル国としては外国とは一度しか戦争をしたことがない。」「私たちにとっての最初で最後の戦争が、ハルハ河戦争なのです。」という人がいますが、これは間違いです。1回目はハルハ河戦争であることは間違いありませんが、2回目はモンゴルが日本に宣戦布告をしたのです。第二次世界大戦中は、ソ連と日本は「日ソ中立条約」を結んでいたので、ソ連は日本に攻めることはしませんでした。そして1945年8月には日本はほぼ壊滅状態となり、いつ敗北宣言するかという日程を探っていました。8月の日本敗北までの経緯は以下の通りです。8月6日アメリカ軍による広島への原子爆弾投下で14万人が死亡8月9日アメリカ軍による長崎への原子爆弾投下で8万人が死亡8月9日ソ連軍、日ソ中立条約を破棄して、対日参戦のため宣戦布告した8月10日モンゴル軍対日参戦のため宣戦布告した8月15日日本がポツダム宣言を受け入れ、敗戦8月15日にアメリカなど全ての対戦国は対日戦争を中止しまたが、ソ連だけはその後も奪略や捕虜獲得の続け、北方4島を強奪したのです。モンゴルはソ連の指示通りに参戦したので、その褒賞として日本人捕虜を与えられ、スフバートル広場にあるオペラ劇場などを作らせたわけです。なので、日本とモンゴルの最後の戦争は、ハルハ河戦争ではなく第二次世界大戦なのです。但し、このこと(モンゴルの対日宣戦布告)については、ほとんどの日本人は知りません。(完)
2019.09.19
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9月3日、4日、9日、11日付けのモンゴルの情報サイトSHUUD.mnに私の寄稿が掲載されました。http://www.shuud.mn/a/512099http://www.shuud.mn/a/512139http://www.shuud.mn/a/512266http://www.shuud.mn/a/512364モンゴルの若者に、モンゴルの近現代史をもっと知ってほしいと書いたものです。本年7月のハルハ河戦争跡地訪問をベースに書いてます。モンゴル語版は連載で、あと数回続く予定です。その日本語原稿を以下に載せます。(日本語版は全部で7回で、これは6回目です)以下、掲載します。ハルハ河戦争前後の頃、ソ連が粛清の対象にしたのは満洲側のバルガ族と接触したハルハ人が多かったのです。容疑は「日本のスパイ」でした。第二次世界大戦後に、中国共産党を嫌ってモンゴル国に入ってきたバルガ人の多くも、「日本のスパイ」ということで殺されました。これらの「日本のスパイ容疑」とは異なるモンゴル人もたくさん粛清されましたが、その代表がブリヤード人です。正確には、モンゴルへ移住したブリヤード人です。ブリヤード人とは、モンゴル、満洲に接してその北に分布して住むモンゴル人の一つの部族で、17世紀以降の帝政ロシアの征服によってロシア領となった結果、ロシアの臣民となった人たちです。彼らはモンゴル諸族の中で最も早くロシア文化の影響を受けて、近代的な解放思想としての民族主義に目覚めた人たちです。なので、ロシアでの教育を受け、有名な医師になった人、歴史研究者になった人など、多くの知識人が出ました。キャフタ会議などでの通訳もほとんどの場合ブリヤード人が担っていました。1920年のモンゴル人民党(まだ人民革命党ではなかった)の党綱領を書いたのも、モンゴル科学アカデミーの基礎を作ったのも、ブリヤード人でした。モンゴル人による最初の地図はドイツに留学し、印刷技術を学んだブリヤード人によって作られました。そうしたブリヤード人の知識人たちは、次第に自分たちの故郷がロシア人、特にボリシェヴィキに支配されるのを拒み、その活動場所をモンゴル人民共和国に移す傾向があったのです。ソビエト政権は、革命を逃れてハルハ・モンゴルに移り住んだブリヤード人をロシアに帰還させようとモンゴル政府に要求しました。1924年の時点でハルハに住むブリヤード人は4,000家族、15,800人にも達していました。それは当時のモンゴルの人口の2~3%を占めるほどになっていました。当時のブリヤード人らは、まだボルシェヴィキ支配の及んでいなかったハルハ・モンゴルをモンゴル民族の文化的、政治的拠点、共通の祖国として建設しようという願望を持っていたのです。しかしながらこの言語、文化、宗教による、国境を越えたモンゴルの一体性の回復は、パン・モンゴリアリズムとして捉えられ、ロシアのボリシェヴィキにとっては、恐怖の対象となったのです。ロシア革命を逃れたブリヤード人の脱出先はハルハ・モンゴルの中の主に東部のドルノド県とヘンティ県でした。1934年の統計では、両県のブリヤード人は14,000人、うち成人男子はおよそ5,000人でした。1937~8年の間に5,368人が逮捕されたと言いますから、ブリヤード人への迫害は尋常ではなかったと言えます。成人男子のほとんどが逮捕されたと言ってもいいでしょう。今もモンゴル国内でなんとなく「ブリヤード人なんて・・・」と陰口を言う傾向があるのは、この時の名残なのかと思ってしまいます。実際には、モンゴル諸族の中で最も政治的、文化的に進んだ部族であったのです。しかしソ連にとっては、ハルハ・モンゴル内のブリヤード人を一掃すれば済むというわけではありませんでした。反革命の真の根は、ソ連の手の届かない満洲国に逃げ込んだブリヤード人であったからです。彼らはホロン・ボイル高原に住み、住んだ場所の地名から「シネヘイ・ブリヤード」と呼ばれました。シネヘイ・ブリヤードは、ボリシェヴィキ勢力に対抗する最も強力な敵の一つであったのです。ソ連当局にとってはモスクワから遠く離れた満洲北部のシネヘイ・ブリヤード地区は満洲に巣食い、時には日本協力する極めて危険な反ソ分子の拠点と見なされていたのです。ホロン・ボイル高原を強く敵視した理由はこんなところにもあったのです。なので、バルガ人と共に満洲国に住むシネヘイ・ブリヤード人とハルハ人が接触することを極端に恐れ、接触したハルハ人を処刑したのです。パン・モンゴリアリズム運動は、中国とロシアに分断されたモンゴル民族が、その言語が一方では漢化され、他方ではロシア化され、遂には自らの言語が消失していく運命にあることを自覚した時、何よりも先に行く末に危機を感じるのは知識層でした。モンゴル諸族の中で最も進んだ知識層が多かったブリヤード人が大きな危機感を持ったのはそのためだったのです。ソ連当局にとっては、「パン・モンゴリアリズム」とレッテルを貼られ、指弾された人物は「反ソ、日本の手先、反革命分子」と同義であり、反社会的な性格破綻者という意味さえ咥えられました。これは現在の中国が「チベット文化を守りたいチベット人」「宗教の自由が求めるウィグル人」そして「遊牧文化の消滅を恐れる内モンゴル人」を「分離主義者、反革命分子」と言って殺人を続ける中国共産党と全く同じ手法です。共産主義の本質は、80年たっても全く変わっていないことがわかります。(続く)
2019.09.11
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9月3日、4日、9日付けのモンゴルの情報サイトSHUUD.mnに私の寄稿が掲載されました。http://www.shuud.mn/a/512099http://www.shuud.mn/a/512139http://www.shuud.mn/a/512266モンゴルの若者に、モンゴルの近現代史をもっと知ってほしいと書いたものです。本年7月のハルハ河戦争跡地訪問をベースに書いてます。モンゴル語版は連載で、あと数回続く予定です。その日本語原稿を以下に載せます。(日本語版は全部で7回で、これは5回目です)以下、掲載します。ホロンボイル高原に住むバルガ族のことは前項で書きました。バルガ族と言うのはモンゴル族の一つの部族です。今のモンゴル国の多くはハルハで、南モンゴル(内モンゴル)にはチャハルが多いですが、この2つの集団以外にもモンゴル人には多くの部族があります。バルガ族はロシア革命などで難を逃れてホロンボイル高原に南下してきたブリヤード人らがその先祖とされています。モンゴル民族のアイデンティティは、モンゴル語(もちろん、方言は多い)を話すことと、遊牧・狩猟などを生業とする人たちと言われています。ハルハ河戦争当時は、モンゴル国のハルハ人はソ連による家畜の国有化や協同化により、徐々に伝統的な遊牧民の姿が変わりつつありました。また南モンゴル(内モンゴル)の人たちは、漢人による遊牧地への進出、農地化などで徐々に伝統的な遊牧生活を続けることができなくなっていました。なので、この頃のモンゴル民族の中ではバルガ人が最も伝統的な遊牧生活をしていたと言われています。今の中国の内モンゴルですが、当時はホロン・ボイル高原は満洲国の一部になっていたからです。満洲国は建国精神が五族協和(満州人、モンゴル人、漢人、朝鮮人、日本人)であり、実質的には日本人が支配していたとはいえ、モンゴル人に対しては特別な自治を認めていました。政治的、軍事的独立はもちろんありませんが、生活様式としての遊牧生活はかなり保証されていたのです。ハルハ河戦争、第二次世界大戦を経たホロン・ボイル高原に対する統治はすっかり変わってしまいました。それは中国共産党の出現です。共産党の支配下となった内モンゴルは苦難の道を歩みます。当初はモンゴル人との融合を重視し、自治の約束を口にしていた中国共産党も、一旦権力を握ってしまうと、様変わりしました。内モンゴルで何十万人ものモンゴル人が殺されました。もちろん理由は何でもいいのです。が、最も使われた罪は「日本人のスパイ」だったのです。日本留学組の優秀なモンゴル人はほとんど捕らえられ、処刑されました。日本人のモンゴルに関する小説や書物の第一人者であった司馬遼太郎さんのモンゴルでの通訳を務めたツェベクマさん(司馬遼太郎の「草原の記」の主人公)をビデオで見ましたが、ロシア、満洲、中国そしてモンゴルと国籍を変えながら生き延びてきた姿に、この頃のハルハ以外のモンゴル人の厳しい状況がよくわかりました。中国共産党にとっては、日本語を話せるだけでスパイ容疑で捕まえるような時代でした。今回のハルハ訪問には、チョイバルサンから大変重要な人が合流してくれました。それはバルガ族のトゥメンウルジーさんです。ご両親は第二次大戦後、中国化する満洲を逃れて「モンゴル人の国」モンゴル人民共和国へ逃亡してきました。ですがご両親は、モンゴルに入った後、「日本のスパイ容疑」で殺されました。ハルハ人の手で。もちろん、ハルハ人がバルガ人を憎んで殺すことはあり得ません。当時のモンゴルにはほとんど主権がなく、すべてはソ連の言いなりでした。モンゴルの首相さえも簡単にソ連により殺されていた時代です。トゥメンウルジーのお兄さんは、ハルハ河戦争で満洲国側の戦士として活躍したそうです。その後、モンゴル人民共和国に渡りましたが、結果はご両親と同じで、殺されました。なので、幼かったトゥメンウルジーさんだけが生き残ったのです。まさに「中国内に残って、漢人によるモンゴル人粛清」にあうか「モンゴル国に逃亡してスパイ容疑で処刑されるか」、行くも地獄、残るも地獄しか待っていなかったのが、当時のバルガ族だったのです。実は、ノモンハン戦争の戦場で亡くなったモンゴル人(ハルハとバルガ)よりも、その前後でソ連人や満洲国(つまり日本人)の手で粛清された人数の方が多いという事実があります。これは前項でも書きましたが、戦争で亡くなった方の「ハルハ河戦争前」だけでも100倍近くのハルハ人が殺されたのですから、ハルハ河戦争及び第二次世界大戦後に殺されたハルハ人やバルガ人は、とんでもない数にのぼるのだと思います。この流れは、社会主義時代のモンゴル国の粛清、南モンゴル(内モンゴル)におけるモンゴル人の大量殺戮にもつながる思想がベースにあるのです。「パン・モンゴリアリズムの阻止」「三蒙統一の阻止」というロシア人、中国人に共通の思想です。今回このハルハ河訪問で、互いに戦争をしたモンゴル人と日本人が仲良くなれて平和になったことを喜ぶだけでなく、厳しい運命を背負わされたバルガ族の彼が同じ場にいてくれたことに、私は本当に感謝しました。トゥメンウルジーさんは、日本人にもハルハ人にも言いたいことは山ほどあるでしょうけど、終始穏やかでニコニコしておられたのが印象的でした。ちなみに彼は苦労して勉学し、その後モンゴルのドルノド県選出の国会議員にまでなったのだそうです。平和の大切さを強く感じました。(続く)
2019.09.09
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9月3日、4日付けのモンゴルの情報サイトSHUUD.mnに私の寄稿が掲載されました。http://www.shuud.mn/a/512099http://www.shuud.mn/a/512139モンゴルの若者に、モンゴルの近現代史をもっと知ってほしいと書いたものです。本年7月のハルハ河戦争跡地訪問をベースに書いてます。モンゴル語版は連載で、あと数回続く予定です。その日本語原稿を以下に載せます。(日本語版は全部で7回で、これは4回目です)以下、掲載します。ハルハ河へ出発する前日に、ウランバートルのシャングリラホテルでパーティがありました。その時はモンゴル初代大統領のオルチバトさんや田中克彦先生にゆかりのあるモンゴル人の方々が出席されました。そこでのオルチバト元大統領ツェベルマー夫人発言には強い印象が残りました。それは「私の父はハルハ河戦争に参戦しました。けれどもモンゴル人は戦いたくなかった。日本人と戦うのを好まなかった」と言うのでした。その後、田中先生の本などで調べた夫人の発言の要旨やその背景は以下の通りです。現代史のモンゴル歴史家であるS.バートル氏は次のように述べています。「20世紀のモンゴル国の歴史上、最大のハルハ河の戦闘でさえも、モンゴル人民革命軍は237人が殺され、32人が行方不明となっただけだった。ところがこの戦争に先立つ1年半の間に、「国家反逆罪」で有罪とされた者はその117倍に、処刑された者は88倍の多数にのぼった。特別査問委員会の50回にのぼる会議だけとって見ても、19,895人を処刑したということは、毎日398人を処刑したことになる。」つまり4か月にわたるハルハ河の戦場で失った全兵隊をはるかに上回る数のモンゴル人が、平和な日に殺されていたという現実があったということです。なぜそれほどまでにモンゴル人が戦争以外で殺されなければならなかったのか?ここに先の項で述べた「三蒙統一の阻止」や「パン・モンゴリズムの阻止」につながることなのです。満洲国建国当時、満洲の北西部のホロンボイル高原にはバルガ族やダグール族が遊牧民として住んでいました。ホロンボイルというのは、ホロン湖(フルン湖)とボイル湖(ブイル湖)のある一帯の高原地帯で、この当時の満洲国、現在の南モンゴル(内モンゴル)にあります。バルガ族というのは、もともとはロシア内のブリヤード族に起源を持っており、ロシアがシベリアに支配を広げる中、それを嫌って南下し、ハルハ族の領地内に入り込んできた人たちです。その後清朝の配慮により、現在のホロンボイル高原に住むようになったのです。歴史的に見れば、現在のモンゴル国、内モンゴルであるホロンボイル高原(バルガ族居住区)、そしてシベリアのブリヤードはすべてモンゴル人居住区で、自由に行き来していたのです。そこにロシア帝国の進出により、清朝との国境ができ、人為的に分割されてしまったのです。ただ、1689年のネルチンスク条約や1727年のキャフタ条約の頃は、土着のモンゴル人遊牧民らの移動を決定的に妨げるものではなかったのです。せいぜい「ハルハ族」と「バルガ族」のモンゴル人同士の「部族的境界」のようなものでしかありませんでした。なので親戚を訪ねていくとか、時々国境付近で会って挨拶するということも珍しくはなかったのです。しかしながら、20世紀になるとモンゴル人民共和国の樹立(1921年)、満洲国の建国(1932年)などにより、それまでの「族境」が近代国家としての「国境」に変わったのです。近代国家になるとともに、ハルハ族、バルガ族は容易に会うことが許されない関係になっていきました。そして、ノモンハン戦争の時はハルハ河より西のモンゴル国側にはハルハ族、東の満洲国側にはバルガ族が住んでいました。その背後の支配勢力がソ連と日本だったのです。ソ連と日本はお互いを敵視していましたから、戦おうが何しようが問題ないのですが、ハルハとバルガはともにモンゴル人です。要するに、お互いモンゴル人同士ですし、憎み合う理由もなければ、殺したいなんて思うはずもありません。むしろ当時の「モンゴル人全体」としていれば、できれば仲良くなりたい、ロシアや中国にバラバラにされた民族をもう一度一緒に一つになりたい、という願望があったのです。同時にこの「パン・モンゴリアリズム」の思想に対しては、中国もソ連も、日本までもが「危険な考え方。絶対に阻止しないといけないこと」との共通の危機感を持っていたことが、更なる悲劇につながったのです。ハルハ族がバルガ族と会って、少しでもニコニコして和やかな雰囲気を持ったら、ソ連は「危険人物、スパイ」と見なしました。ソ連だけではありません。日本も同じ考え方を持っていました。当時は「スパイかもしれない」は即「粛清」を意味しました。恐らく遊牧民らしい穏やかな挨拶をしたことでしょう。「サエンバエノー」と言いながら、匂いたばこを交換したかもしれません。それら遊牧民としての当たり前の行為は、ソ連と日本から見たら「危険な行為」となったのです。ハルハ河戦争は1939年に何もなかったところに突然戦争が起きたわけではありません。その5年前くらいから、モンゴルと満洲との国境付近では小規模の小競り合いがありました。これを機に、モンゴルと満洲の国境を画定すべくモンゴル・ソ連・満洲・日本による「マンチューリ会議」が何度も行われたのです。そして1935年の第1回目会議の時から国境の認識が両陣営で異なることもお互い認識していました。なので、この会議がうまくいっていれば、もしかしてハルハ河戦争はなかったのかもしれません。第1回のマンチューリ会議に出席したのは、モンゴル側はG.サンボ-全軍総司令官副官など7名の代表が出席し、満洲側も日本人以外にもバルガ族の代表も出席しました。ソ連と日本の目的は明確でした。国境を画定して、無駄な争いを防ぎたいということと、できるだけ国境は自軍に有利な場所に確定させたいということです。しかしながら、ハルハ族とバルガ族のモンゴル人にとってはどうでしょうか?ソ連や日本に支配されてしまい、喧嘩をしたいわけでもないのに同じモンゴル人同士で敵対的な関係になっています。本来はこのあたりの土地は、ソ連とも日本とも関係ない、モンゴル人の土地なのです。彼らの一番の願いは、国境画定なんかじゃありません。分断されたモンゴル人同士が一体化することです。近代国家になってからは、お互いに会うことすらできない関係でした。それが会議とはいえ、お互いの指導者と会うことができるのです。お互いの統合を探り合う大きなチャンスでした。結果は?第1回のマンチューリ会議に出た7名はその後全員「日本のスパイ」だという容疑で全員処刑されました。更にG.サンボーの後任の代表もモンゴル軍の最高統率者も殺されました。結局、ハルハ河戦争勃発の1939年5月までに、反ソ、反革命、日本の手先との罪状で、20,474人が銃殺されました。当時のモンゴルの人口を70万人とすると、恐るべき大量殺人であったのです。これが冒頭のツェベルマー夫人の怒りの発言の中身です。(続く)
2019.09.08
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9月3日、4日付けのモンゴルの情報サイトSHUUD.mnに私の寄稿が掲載されました。http://www.shuud.mn/a/512099http://www.shuud.mn/a/512139モンゴルの若者に、モンゴルの近現代史をもっと知ってほしいと書いたものです。本年7月のハルハ河戦争跡地訪問をベースに書いてます。モンゴル語版は連載で、あと数回続く予定です。その日本語原稿を以下に載せます。(日本語版は全部で7回で、これは3回目です)以下、掲載します。ハルハ河戦争の直接のきっかけは、モンゴル人の遊牧民による満洲国側への国境侵犯とそれを攻撃した満洲軍ということになっています。それはそうかもしれませんが、そうなるのはある意味当然だったのです。なぜならモンゴル人民共和国と満洲国には国境線が二つあったからです。モンゴル人が日本人観光客などに聞いて不満なのは、この歴史上重大な戦争のことを日本人がよく知らないことです。モンゴル人は他の東アジアの国とは違い、寛容で昔のことでごちゃごちゃと文句を言う人たちではありません。なので、現代の日本人に対して「謝れ」とか「補償しろ」なども言いません。ですが、さすがに「え?ハルハ河戦争?何それ?」と日本人に言われれば、寛大なモンゴル人も不満が出ます。これには二つの理由があります。一つは日本側の教育の問題でもありますが、ハルハ河戦争は正式な戦争と見なされておらず、「事件」という非常に軽い表現となってしまっているということがあります。これについては、いずれ別稿でお話しします。もう一つは、名称です。日本では「ノモンハン事件」という名前なのです。なので、ノモンハンと言えばある年齢より上の人は間違いなく知っていますが、「ハルハ河戦争」となると、ほぼ誰も知らないのです。この名称の違いと二つの国境線には深い関係があるのです。まずはソ連・モンゴル連合の認識です。ソ・モ連合は、ハルハ河より東に20kmほどのところにあるノモンハーニー・ブルド・オボーを通る線を国境と見なしていました。ノモンハニーというのは、「ノモンハーンの」という意味です。ノモンハーンというのは、この地にいたチベット仏教の高位の僧侶を表す言葉で、ノモンハーニー・ブルド・オボーは「法王の泉のオボー」とでもいうべきオボーです。モンゴルではここは「ブルド・オボー」と通常は呼ばれていましたが、日本人がこの最初の部分だけを略称し、ノモンハンと呼ぶようになったのです。ソ・モ連合軍はこのブルド・オボーを通って他のオボーを結ぶ線を国境と見なしていたのです。他方、満洲・日本側は一般的に国境とは山や河が目印になるものと考え、ハルハ河を国境と考えていたのです。なので、満洲とモンゴルには二つの国境線があったのです。しかも、ハルハ河と考えたのが日本だけならまだしも、ソ連も同じように考えており、ハルハ河を国境としたソ連の地図が残っているのです。ですが、ソ連はモンゴルの主張を受け入れ、1934年ごろから国境をブルド・オボーに引き直した経緯があります。1932年に建国された満洲国と1934年に国境線の認識を変更したソ連。この20km離れた二つの国境線が、ハルハ河戦争の引き金となったとも言えます。私はこの戦争の名称は少しおかしいなと思っています。「ハルハ河が国境である」と主張した日本が「ノモンハン事件」と言い、「ノモンハーニー・ブルド・オボーが国境である」と主張したモンゴルが「ハルハ河戦争」と呼ぶのは、反対なんじゃないかと思うわけです。結果は誰もが知っている通り、ソ連・モンゴル連合軍が勝利し、満洲・日本軍は負けました。私はこの事実を「今の日本とモンゴルの視点」で見ると、良かったと思っています。今から80年も前の時代ですが、今の中国との国境はその時の結果が反映されているのです。つまり当時の日本軍は「遠い将来、中国の土地になるであろう領土を広げるために頑張って戦争をしていた」、即ち「モンゴルの領土を減らして、中国の領土を広げるため」ということになるのです。あの時日本軍が勝っていたら、今のモンゴルの領土はもう少し狭かったでしょう。それは今の日本人にとっては、全く望む姿ではないからです。今回のように、ウランバートルからハルハ河までモンゴル人の仲間と戦争跡地を見に行くことはできなかったということです。(続く)
2019.09.07
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9月3日、4日付けのモンゴルの情報サイトSHUUD.mnに私の寄稿が掲載されました。http://www.shuud.mn/a/512099http://www.shuud.mn/a/512139モンゴルの若者に、モンゴルの近現代史をもっと知ってほしいと書いたものです。本年7月のハルハ河戦争跡地訪問をベースに書いてます。モンゴル語版は連載で、あと数回続く予定です。その日本語原稿を以下に載せます。(日本語版は全部で7回で、これは2回目です)以下、掲載します。私は経営コンサルタントであり、歴史家でも民族学者でもありません。が、モンゴルに関連する本は、南モンゴル(内モンゴル)、チベット、ユーラシア(テュルク系)を含めると数十冊(40~50冊)は読んできました。もちろん、日本人以外が書いた本も含まれます。これらを通して私が知ったことと、田中先生の本や教えで学んだことをベースにハルハ河戦争に関わるモンゴルの歴史の一部分を書いていきたいと思います。それは特に、今の若いモンゴル人に知ってもらいたいという願いを込めています。1939年に起こったハルハ河戦争の詳細な経緯などについては、モンゴル人の皆さんは既にご存知でしょうから、そうした時間的経過は省きます。まず申し上げたいのは、当時のモンゴル人の立場です。当時のモンゴル(モンゴル人の住んでいた主な地域)は大きく4つに分けられます。一つは、モンゴル人民共和国、つまり今のモンゴル国です。二つ目は、ブリヤード・モンゴルなど、ソ連邦の領土となったモンゴル人の住居地域です。三つ目は、中華民国(まだ共産党の国ではありませんでした)領土の南モンゴル(内モンゴル)、四つ目は、満洲国内のホロンボイル高原に住むモンゴル人住居地域です。歴史的に見れば、モンゴル人はアフガニスタンにもカスピ海や黒海周辺にもいましたが、大きな塊として遊牧をしながら存在していたのはこの4つの地域と言えます。それぞれの地域のモンゴル人たちは、残念ながら「全く自由で自主独立していた」とは言えない状況でした。モンゴル人民共和国はソ連の傀儡(かいらい、あやつり人形)政権であり、ほぼソ連の言いなりでした。モンゴル人としてのプライドと自主性を持って発言した歴代首相がソ連に「粛清」されたのは、皆さんご承知の通りです。ロシア領土内に住むブリヤード・モンゴル人は1689年のネルチンスク条約によりロシア領となり、1923年にブリヤード・モンゴル・ソビエト社会主義共和国となったので、完全にソ連の統治下にありました。南モンゴルは中国内では内モンゴルと呼ばれ、漢人の弾圧にさらされていました。そして満洲国内のモンゴル人(バルガ系、ダグール系)は、満洲国すなわち日本人の統治下にありました。ここでモンゴル人として知っておかなくてはならないのは、1930年代のモンゴル人はこうした4つの地域に分断されていたということです。現在のモンゴル国の人の多くはハルハ族です。ハルハの人からすると、チンギスハーン時代を別にすれば「モンゴルは元々今のモンゴル国の領土にいた」と考える人もいますが、それは違います。それはハルハ人としての視点であり、モンゴル人として考えれば4つに分断されていたのです。しかも、その分断された地域を実質的に統治していたのはモンゴル人ではなく、ロシア人、中国人そして日本人という当時の東アジアの強国でした。多くの歴史書物は、ロシア人や中国人的視点で書かれていますから、「モンゴルという少数民族をどう支配するか」という視点で書かれていますが、我々モンゴル人の視点で考えれば当然の結論・疑問が出るはずです。それは「なぜモンゴル人は分断させられなければならないのか?しかも分断された上に、民族としての自由がないのはどうしてか?」という疑問、そしてその先には「モンゴルは一つになるべきだ。この4つの地域にまたがるモンゴル人の国を作りたい」ということです。1930年代は帝国主義の時代で、東アジアでもソ連は中国を敵視し、中国と日本も満洲国設立で対立していました。ソ連も満洲国を契機に、日本を敵視していました。つまり、モンゴル民族を支配する3つの国々は非常に仲が悪かったのです。ですが、たった1点だけ共通点がありました。それは「モンゴル人は分割したままがいい。モンゴル人を一つにまとめてはいけない」ということです。ここにモンゴルの悲劇がありました。中国では「三蒙統一」という言葉があり、これを危険な思想と見なしていました。三蒙とは、内モンゴル、モンゴル人民共和国そしてソ連内にあるブリヤード、トバ、アルタイ地域のことで、この3つの国にまたがるモンゴル民族のことを三蒙と言います。この3つが統一し、大モンゴル帝国が復活することを悪夢と見なし、絶対に阻止しなければならないこととされてきました。それは、孫文の中華民国も毛沢東の中国共産党も同じ考えです。ソ連は「パン・モンゴリズム」という考えを言い出し、それは大変危険なことだと主張しました。基本的には、三蒙統一に反対する漢人と同じです。日本は満洲国を1932年に作りましたが、その際に「五族協和(Five Races Under One Union)」という言葉を使い、日本人、朝鮮人、満洲人、モンゴル人、漢人の5つの民族が協調して暮らせる国を目指しました。が、モンゴル人を他の地域に住むモンゴル人と一緒にするという発想は当然ながらありませんでした。各地に散らばった当時のモンゴル人リーダーたちは、モンゴル人だけの手でモンゴル統一を実現できるとは思っていなかったので、当時は「強国をうまく利用して、最終的にはモンゴル人の独立した統一国家を創る」という目標を持っていました。ロシア人を利用して、中国や満洲のモンゴル人と一緒になると考えた人もいましたし、漢人を利用してそれを実現しようとする人もいました。もちろん、日本人の後ろだてを得て、モンゴル統一を夢見るモンゴル人もいました。そして、各強国はモンゴル人のそうした願望を分かったうえで、口では「モンゴル民族の独立と統一を応援する」と言いながら、モンゴル人を大いに利用して分断をさらに進めていったのです。1923年にブリヤード・モンゴル・ソビエト社会主義共和国が誕生しましたが、ソ連は1937年にはブリヤード自治ソビエト社会主義共和国と改名しました。それは「ブリヤード人がモンゴル人と同じ仲間だという意識を持たせないため」だったのです。今のハルハ人には「ブリヤード人は私たちとは違う。あまり関係ない。」と思っている人が多いですが、それはソ連の分断政策の影響なのです。1923年以前は、国境と言ってものんびりしたものでした。遊牧民にとっては人工的な国境なんて意味ありませんから、当たり前のように国境を越えて、向こう側に住む友達や親せきを訪ねて行っていました。しかし、近代国家となるに従い、国境が明確な意味を持つようになり、ちょっと超えただけで「国境侵犯」と騒がれるようになったのです。すべては、大国が決めたことで、モンゴル人にとっては国境なんてどうでも良かったのです。こうした変化があったのが、1930年代でした。(続く)
2019.09.06
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9月3日、4日付けのモンゴルの情報サイトSHUUD.mnに私の寄稿が掲載されました。http://www.shuud.mn/a/512099http://www.shuud.mn/a/512139モンゴルの若者に、モンゴルの近現代史をもっと知ってほしいと書いたものです。本年7月のハルハ河戦争跡地訪問をベースに書いてます。モンゴル語版は連載で、あと数回続く予定です。その日本語原稿を以下に載せます。(日本語版は全部で7回になります)以下、原稿です。親愛なるモンゴルの皆様私はモンゴル国を愛する日本人の経営コンサルタントです。初めてモンゴルに行ったのは2002年で、それから30回以上モンゴルに行っております。2008年から2010年の2年余りの間は、モンゴル国立大学経済学部教授としてウランバートルに住んでいました。日本に戻ってからも、モンゴルのクライアント(経営コンサルティングのお客様)ワークのために毎年モンゴルに行っております。私の仕事としての専門は「ビジネス」「経営戦略」ですが、それとは別にモンゴルの歴史、ひいてはユーラシアの歴史に大変関心を持っています。私はモンゴルの歴史については、日本人研究者が最も公平で進んだ研究をしていると思います。なぜか?モンゴルの歴史研究を積極的にやっている研究者は、5つのグループがあります。まずはロシアです。ソ連時代からモンゴルに関する調査研究を行ってきましたが、ご存知の通りロシア人にとっては「チンギスハーンは史上最悪の極悪人」となっており、ロシア人研究者たちの基本的な立場はそこから始まっています。とても公平な研究はできません。次は中国人研究者です。こちらは元朝秘史から多くの書物を残しており、それらを参考にする研究者は世界にたくさんいます。ですが、現在の中国人研究者は「共産党のための歴史研究成果」を挙げることを目的としています。「チンギスハーンは世界で最初に有名になった中国人」などと言っていること見ればわかる通り、まともな研究はできません。ドイツを中心とするヨーロッパの研究者も優れた研究をしています。中立性も問題ありません。ですが、文字のなかった遊牧民族の記録は、否が応でも中国の文献を頼らねばなりません。この時ヨーロッパの研究者は「ドイツ語や英語に翻訳された漢字文」を読まねばならないのです。つまり、直接原典に触れることはできないという重大な問題があります。現に、翻訳された書籍には多くの誤訳があるのは、定説です。モンゴル人研究者は今では大変努力され、多くの成果を挙げています。が、大きな問題が3つあります。一つ目は、1991年まで事実上、モンゴル国の歴史の研究はできなかったということです。社会主義時代には「チンギスハーン」の名前を口にすることもできなかったことからわかるように、ほとんど歴史研究はなかったですし、あったとしても「ソ連の決めた歴史」しかありません。これは全く無意味な内容です。1990年代の苦しい時代を超えて、2000年以降は研究が始まったと思いますが、それまでの積み重ねが全くないので、研究者たちは大変な思いをしたでしょうが、内容的には深みはありません。二つ目は、文字の問題です。モンゴルにも歴史を書いた書物は残っていますが、その多くはモンゴル縦文字です。また南モンゴル(中国・内モンゴル)にも文献はありますが、やはりモンゴル縦文字です。もちろん縦文字を読める人はいますが、「多くの研究者が」「誰でも読める」文字ではないのが現実です。そして三つ目は、ナショナリズムです。遊牧民族であるモンゴル人にとっては、漢民族は長年の敵対勢力です。モンゴルの歴史を考えるときに、常に漢人は悪い立場、侵略する立場でしか考えられなくなっているのが現実的です。もっと言えば、モンゴル人研究者にとっても、「漢人が優位であった事実」を、今のモンゴルではとても発表できない、という現実的な問題があります。残念ながら、これは事実です。これらの問題点を考えた時、一番中立的でモンゴルの歴史研究を長くやっているのが日本なのです。東京外国語大学のモンゴル語学科は1911年に設置されましたから、日本では100年以上の歴史があるのです。しかも、その後も国の政策でモンゴル研究は強く進められたのです。日本で有名な歴史小説家である司馬遼太郎氏は、大阪外語大学モンゴル語学科卒業でした。今も日本には多くの世界的レベルのモンゴル研究家がいます。その代表的存在が、一橋大学名誉教授の田中克彦先生です。上記に挙げた、各国研究者の良いところを全部飲み込めるような人です。田中先生はモンゴル語を専門としますが、ロシアの文献はロシア語で、ドイツの文献はドイツ語で読みます。多くの外国人研究者が直接読むことができない中国語の文献も田中先生は解読します。もちろん、研究文献の多い日本語は母国語です。田中先生が他の研究者と決定的に違うのは、「歴史の専門家」である前に「モンゴルの専門家」であることです。なので、田中先生は常に「モンゴル人の立場で」モンゴルの歴史を解明していきます。現代社会においては、歴史の研究はどうしても「大国中心」になりがちです。ロシアにとってのモンゴル史(ロシアのくびきに代表されるモンゴル敵視)、中国にとってのモンゴル史(農耕民族を襲う遊牧民族としてのモンゴル)、更にはヨーロッパにとってのモンゴル史(ヨーロッパを震撼させた野蛮人としてのモンゴル)は、それぞれ異なります。田中先生が素晴らしいのは「モンゴル人にとってのモンゴル史を世界に向けて発信できる能力と知名度を持っている」ことです。その田中先生と本年7月に一緒にハルハ河へ行く機会を得ました。今年はハルハ河戦争から80年目の年です。田中先生は「日本は仕方なかった」とか「日本は悪くなかった」など、日本を弁護するようなことは一切言いません。全てはモンゴル人の立場で考えることができる人です。私は田中先生の教えも含めて、今回の旅で感じたことをモンゴルの皆さんにお伝えできればと思っております。(続く)
2019.09.05
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予定通り、プーチンは今月2日にモンゴルに来て3日にはハルハ河戦争勝利80周年を祝うセレモニーに出席したようです。現代のモンゴルにとっては、友好国はアメリカ、日本、韓国などであり、「好きじゃないけど、お金のために」付き合う国は中国です。そんな中で、好きでもないし、ビジネスも関係ないロシアのモンゴルにおける立ち位置は当然のことながら、民主化以降低下の一途を辿っています。中国のようにお金があれば、お金を餌にいろいろやれますが、自国自体がお金がなくて困っているロシアでは、軍事以外はほとんど魅力のない国に成り下がっているのが現実です。ですがそこはプーチンです。使えるものは何でも使います。ソ連時代も含めると、粛清の名のもとにたくさんのモンゴル人、特に国の中心となるエリート層を何万人も殺してきたロシアですが、「そんなことは知りません」という顔で、80周年を祝うためにやってきました。「この勝利は、モンゴルの独立と主権を守り、二国の友情を確認した神聖な行為です。」と80年前のことを称賛しています。だったら、その前後でソ連に殺された2万人ものモンゴル人はどうなんですか?と聞きたいです。「モンゴルの独立のために戦ってきたモンゴルとソビエトの戦士の歴史的な利益を守らなければならない」とも。それを守ると、今のモンゴルにはどういう良いことがあるのでしょうか?守らないと電気を止められる?ガソリン供給で脅される?とはいえ、対中国を考えると、私はロシアとも接近しておいた方がいいとは思っています。こうした現代政治はともかく、モンゴルの若い世代にロシアからのプロパガンダではなく、ハルハ河戦争(日本名:ノモンハン事件)についてのモンゴル的視点から私の考察を提供したいと考えていました。9月2日にプーチンがモンゴルを訪問し、9月15日がハルハ河戦争停戦記念日ですので、この時期はモンゴル国内でもハルハ河戦争に対する関心が高まっています。なので、モンゴルへのメッセージはこの時期を選びました。今年の7月にハルハ河へ行ったことはこのブログにも旅行記的に書きましたが、より「モンゴルの若者たちに知ってほしい」という気持ちを持って、モンゴル向けに書いたものが、9月3日からモンゴル最大のWebサイトの一つに掲載されました。(連載となります)その連載に合わせて、日本語版を本ブログに載せようと思っています。日本語版は全部で7回の掲載となりますが、お付き合いください。明日以降の連載となります。
2019.09.04
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このブログで何度かお伝えしている通り、今年はノモンハン事件(ハルハ河戦争)があった1939年から80周年の年になります。これに合わせて、7月に日本とモンゴルの合同シンポジウムがあったりしたのですが、当然のことながら80周年を「祝う」行事は他にもいろいろあります。7月にハルハ河に行った時、日本人が建てた戦没者モニュメント前で皆で哀悼の心を捧げました。その時にそのモニュメントの一部が壊れていたので、ウランバートルからそれを修理するためのモンゴル人が来ていたことは、このブログでもお話ししました。その修理をする建設会社の社長さんが、偶然に今年の冬に新宿で一緒にお寿司を食べた人だったことも書きました。その時に何げなく聞いた言葉が頭に残っていました。「8月末にプーチン大統領が来るから、その時までには綺麗にしておかないといけない」ということでした。その日程のことかどうかは確認はしていませんが、プーチン大統領が9月3日にウランバートルにやってくると聞きました。当然のことながら、ハルハ河戦争祝勝80周年を祝うためでしょう。このこと自体は、日本人としては何か言える立場にはないのですが、残念ながら釈然としないところはあります。なぜか?ハルハ河戦争でソ連がモンゴルを助けて、満洲・日本軍を退けたのはその通りですが、それによってモンゴルは何を得、何を失ったのかも考えないといけないと思うからです。現代史のモンゴル歴史家であるS.バートル氏は次のように述べています。「20世紀のモンゴル国の歴史上、最大のハルハ河の戦闘でさえも、モンゴル人民革命軍は237人が殺され、32人が行方不明となっただけだった。ところがこの戦争に先立つ1年半の間に、「国家反逆罪」で有罪とされた者はその117倍に、処刑された者は88倍の多数にのぼった。特別査問委員会の50回にのぼる会議だけとって見ても、19,895人を処刑したということは、毎日398人を処刑したことになる。」この数字はモンゴル側だけの数字で、しかも一般的にモンゴル人の間で有名な第二次世界大戦後の「粛清」の数字は含まれていません。純粋なハルハ河戦争前の数字です。モンゴルの被害を助けてくれたのがソ連とすると、ソ連はモンゴル人のハルハ河戦争による死亡者・行方不明者を「わずか」269人に抑えてくれたという意味では大きな意味があったのだろうと推察します。ですが、その前にモンゴル人19,895人を処刑せよと指示したのもソ連だったのです。2万人近くを殺しておいて、モンゴルを助けたというロシアもロシアですが、それ以上におかしいのは「ロシアのお兄さんたちのおかげで、モンゴルはハルハ河戦争に勝利した」と喜んでいるモンゴル人は、一体何を考えているのでしょうか?もちろん、こうしたおかしな話に気づいているモンゴル人もいますが、「私たちは、何でも言いたいことは自由に言う」と威張っているモンゴル人の偉い人たちも、ロシアに対しては何も言えないのが現状なのです。それはガソリンという現代のエネルギーの重要戦略物質をほぼ100%ロシアに抑えられているからです。モンゴルが原油産出国なのに未だに原油は100%輸出するだけで、自国内では利用できないことも、もとはと言えばロシアがモンゴルに製油所を設立することを認めなかったことに遡ります。社会主義時代ソ連は「石油精製所建設、水力発電所建設、モンゴル鉄道の輸送力強化事業」など、数多くのプロジェクトに反対してきたのです。2010年まではモンゴルはロシアの国営会社からその会社が勝手に決めた値段でガソリンを輸入するという方法しかありませんでした。現在は中国からの輸入を始めたので、ロシア依存度は95%になりましたが、やはり極端に依存していることには変わりありません。新空港とロシアとは一見何の関係もなさそうですが、実は大きな関係があるのです。モンゴルの評論家、ジャルガルサイハンさんによれば「新国際空港にも燃料調達の選択ができるようになることが期待される。航空燃料に関しては2種類の規格がある。それはロシア規格のTC1と国際規格のJetA-1である。航空会社は両方の規格の燃料を使っているが、1機の航空機の主翼にある燃料タンクに混合して使うことはない。モンゴル政府は日本政府に何度も要望を出し続け、新国際空港にTC-1のみを入れる2,000トン容量の4つの燃料貯蔵タンクを建設した。」のだそうです。つまりモンゴル政府自ら、燃料調達の多様化をできないようにしてるのです。モンゴル国内の有力会社同士が、新空港会社への燃料調達会社になるべく争っていますが、ロシア規格の航空燃料にしたので、どう争ってもロシアの国営会社から買うしかないのです。こうした、一見表立ってはいない舞台でのロシアの政治力は全く衰えていないようです。ハルハ河戦争は日本側が悪い。この見方に私は全く疑いの余地は持っていませんが、それを助けてくれた「ソ連のお兄さん」が、その戦争の100倍近くのモンゴル人を殺し、その後長い間、今に至るまでモンゴルを支配し続けていることを、モンゴル人は一体どう考えているんだろうと、ちょっと不思議に思っています。9月3日に来るプーチンは、お得意の存在感ある言動で、より一層モンゴルの政界を縛り続けることでしょう。
2019.08.13
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ノモンハン戦争の戦場跡地訪問も終了しました。今も80年前と同じ姿の、のんびりした馬たちの姿です。来るときにチョイバルサン空港から11時間もかかったので、明日は早朝4時出発です。前日はハルハ河現地での宿泊で、ほとんど満足な食事とは行きませんでしたが、今晩は最後の晩餐ということでご馳走が出ました。ホルホグです。羊の肉を丸ごと熱した石で野菜と一緒に蒸し焼きにしたものです。ウランバートルではなかなかお目にかかれない豪勢な料理です。今回のハルハ訪問には、チョイバルサンから大変重要な人が合流してくれました。バルガ族のトゥメンウルジーさんです。バルガ族と言うのはモンゴル族の一つの部族です。今のモンゴル国の多くはハルハで、南モンゴル(内モンゴル)にはチャハルが多いですが、この2つの集団以外にも多くの部族があります。バルガ族はロシア革命などで難を逃れてホロンボイル高原に南下してきたブリヤード人らがその先祖とされています。モンゴル族のアイデンティティは、モンゴル語(もちろん、方言は多い)を話すことと、遊牧・狩猟などを生業とする人たちです。ノモンハン戦争の時はハルハ河より西のモンゴル国側にはハルハ族、東の満洲国側にはバルガ族が住んでいました。その背後の支援勢力がソ連と日本だったのです。ソ連と日本はお互いを敵視していましたから、戦おうが何しようが問題ないのですが、ハルハとバルガはともにモンゴル人です。このことが、戦争そのものよりも大きな悲劇を生みました。要するに、お互いモンゴル人同士ですし、通婚もあったようです。憎み合う理由もなければ、殺したいなんて思うはずもありません。むしろ当時の「モンゴル人全体」としていれば、できれば仲良くなりたい、ロシアや中国にバラバラにされた民族をもう一度一緒に一つになりたい、という願望があったのです。同時にこの「汎モンゴル」の思想に対しては、中国もソ連も、日本までもが「危険な考え方。絶対に阻止しないといけないこと」との共通の危機感を持っていたことが、更なる悲劇につながったのです。ハルハ族がバルガ族と会って、少しでもニコニコして和やかな雰囲気を持ったら、ソ連は「危険人物。スパイ」と見なしました。ソ連だけではありません。日本人も同じ考え方を持っていました。当時は「スパイかもしれない」イコール「粛清」、つまり処刑を意味しました。事実、たくさんのハルハ人とバルガ人が殺されたのです。敵国ではなく、自分たちを「保護」する国によって。恐らく遊牧民らしい穏やかな挨拶をしたことでしょう。「サエンバエノー」と言いながら、匂いたばこを交換したかもしれません。それら遊牧民としての当たり前の行為は、ソ連と日本から見たら「危険な行為」となったのです。そんな背景を持つバルガ族のトゥメンウルジーさんです。ご両親は第二次大戦後、中国化する満洲を逃れて「モンゴル人の国」モンゴル人民共和国へ逃亡してきました。この写真のご両親は、モンゴルに入った後、「日本のスパイ容疑」で殺されました。もちろん、ハルハ人がバルガ人を憎んで殺すことはあり得ません。当時のモンゴルにはほとんど主権がなく、すべてはソ連の言いなりでした。モンゴルの首相さえも簡単にソ連により殺されていた時代です。トゥメンウルジーのお兄さんは、ノモンハン戦争で満洲国側の戦士として活躍したそうです。その後、モンゴル人民共和国に渡りましたが、結果はご両親と同じで、粛清されました。幼かったトゥメンウルジーさんだけが生き残ったのです。まさに「中国内に残って、漢人によるモンゴル人粛清」にあうか「モンゴル国に逃亡してスパイ容疑で処刑されるか」、行くも地獄、残るも地獄しか待っていなかったのが、当時のバルガ族だったのです。実は、ノモンハン戦争の戦場で亡くなったモンゴル人(ハルハとバルガ)よりも、その前後でソ連人や満洲国(つまり日本人)の手で粛清された人数の方が多いという事実があります。この流れは、社会主義時代のモンゴル国の粛清、南モンゴル(内モンゴル)におけるモンゴル人の大量殺戮にもつながる思想がベースにあるのです。この話は、別の日にまた本ブログで書きたいと思っています。今回この場で、互いに戦争をしたモンゴル人と日本人が仲良くなれて平和になったことを喜ぶだけでなく、厳しい運命を背負わされたバルガ族の彼が同じ場にいてくれたことに、私は本当に感謝しました。トゥメンウルジーさんは、日本人にもハルハ人にも言いたいことは山ほどあるでしょうけど、終始穏やかでニコニコしておられたのが印象的でした。ちなみに彼は苦労して勉学し、その後モンゴルの国会議員にまでなったのだそうです。翌朝4時のキャンプ地です。曇りが多かったですが、なんだか最終日は晴れそうな感じでした。早朝の草原です。どこまでも続く草原。ようやくゲルが見えました。写真左に小さく数軒のゲルが見えます。写真中央右の黒いのは犬です。あのゲルから朝の散歩に出ているのでしょう。何やら異様な人工物が見えます。手前だけでなく、遠くにも大きな建機のようなものがいくつも見えます。近づいて見ると。大きな掘削機械です。これは石油の掘削をしているのです。実はソ連時代からモンゴルのここドルノド県では石油が埋蔵されていることはわかっていました。今ここで石油を掘っているのは中国企業です。掘った原油は全量中国へ送られて、そこで精製されます。モンゴルでどんなに石油が採れても、ガソリンは輸入するしかないのが現状です。旅の途中、ずっと曇天が続いていましたが、遂に晴れました。やっとモンゴリアンブルーに巡り合えました。今晩なら満天の星が見れるだろうなあ、と心で思いながらハルハの地を後にしました。(完)
2019.07.16
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いよいよ、本当の戦場跡地です。前日行ったところも本当の戦場跡地なのですが、ほとんど痕跡は残っていませんでした。が、今日訪れたのは「屋外ハルハ河戦争跡地保存時域」とでも言うべき、80年前の戦争の爪痕を今日に伝える場所なのです。まずは入口です。この一帯の案内図です。よく見ると、車や飛行機などの絵が描かれているのが見えます。ここにはこうした残骸が残っているということです。入ってすぐに目についたのは、掘立小屋です。これはソ連・モンゴル軍の基地だったところです。草原の中のくぼんだ場所にありました。80年前の木造にもかかわらず、しっかりと残されていました。中に入っても、3‐4人は動けるスペースがありました。このソ・モ連合軍基地から見える光景がこれです。写真中央に二本の柱が立っているのが見えます。ここが日本側の陣地でした。まさに、ほんの数百メートルしか離れていない感覚で対峙していたのがわかります。鉄砲でも大砲でも簡単に届きそうな距離です。対する日本軍の基地はどうだったのでしょうか?木造建築なら日本の方が優れていそうですが・・・これだけ?はい、これだけです。いわゆる土豪です。ちょっと穴掘って、木の柵みたいなので土を押さえているだけ。はっきり言って、ほとんど無防備と言えばその通りです。いろんな書物を読むと、彼我の戦力の差は歴然としており、1:10どころか1:100くらいの差だったようです。例えば、ソ連の戦闘機100機に対して日本側3機とか。日本側は高性能で、1機で3機や5機を相手に撃ち落としたとありますが、だから何だというんでしょうか?勝てるはずありません。戦闘機の残骸です。これはソ連製だそうです。同行した日本人の中に自動車や機械のエンジニアの方々がおられて、「80年前でこんな素材を使っていたのか!」と日本との差を説明してくださいました。翼にアルミを使い、軽量化を図っていたとのこと。80年前はソ連の方が技術的にずっと進んでいたのでしょう。飛行機の残骸は、あちこちにありました。日本側のはもともと少ないせいか、見当たりませんでした。車もありました。オープンカーで、恐らくフォルクスワーゲンのビートルのような形をしていたのではないかと推測されます。驚くことにサスペンションなどもしっかりしていて、とても80年前から放っておかれた状態には見えませんでした。これは日本軍の車のようです。メーカー名も全く分からないほど、朽ち果てていました。このブログだけではお伝えきれないほどの大量の残骸が残っていました。こんな薬きょうもそこら中に落ちていました。鍋釜などの生活用品や小型の武器のなどもありました。が、当然のことながら物量的には圧倒的にソ・モ連合軍の方が多く、日本側には情けないような軽量品(飯盒や虫よけの網を付けた帽子とか)しかありませんでした。ノモンハンのことを書いた本の多くには「重火器で装備したソ連軍」と「竹やり装備の日本軍」みたいに書かれていましたが、本当にそうなんだと思うばかりです。こんな遠い戦場にも日本人の遺族の方々が訪れていた跡がありました。実はロシア側の慰霊碑もあり、それは大きくて立派です。しかも、とても綺麗に清掃され、生花が供えられていました。遺族を思う気持ちには、国の違いはありません。今回訪れて思ったのは、こうした戦場跡地は「たまたま残っていた」わけではないということです。モンゴル側がロシアと共同で意図的にこの地を整備し、保存してきたのです。なので、ハルハの他の地域にあった残骸をこの保存地域に移動させて置いたというのもあるそうです。この地に、日本人がモンゴル人の案内で訪れる平和な今に感謝せずにはいられません。モンゴル人は他の東アジアの国々とは違い、戦争結果を政治や資金援助の駆け引きに使おうという人たちではありません。社会主義時代には「反日思想」が教育されましたが、それを今も引きずっている人も見当たらないほどの親日国家です。昔を共に悲しみ、思いをはせてくれる人たちでした。ここは日本人として感謝しないといけないと思います。(続く)
2019.07.15
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戦場を巡る旅は更に続きます。これはまさに戦場となったハルハ川の支流のホルステン河です。こういうのどかで小さな河のそばには、馬たちものんびり草をはんでます。この馬たちの行動を国境侵犯というのが、日本軍の論理です。まさに「こじつけ」としか言いようがありません。この辺りは昔ながらの、のどかな遊牧民が住んでいます。少年たちがモンゴル相撲をやっています。ウランバートルではもうなかなか見ることはできませんが、田舎へ行けば相撲を取っている少年を目にすることは多いです。日本人慰霊碑の一部が壊れかけていたので、修理をするためウランバートルから職人さんらがやってきました。実はこの建設会社の社長さんとは、数か月前に日本の新宿で一緒にお寿司を食べました。まさか、この西の果てのハルハで再会するとは思ってもいませんでした。なんでも、この日本人戦没者慰霊碑がある「ソ連・モンゴル ハルハ河戦争博物館」には、8月にプーチン大統領も来るのだそうです。それもあって、この慰霊碑も綺麗にするのだと言ってました。中国と北朝鮮の「血の友誼」もそうですが、やはり戦争で共に血を流した関係を重視するのは、政治としての大事な行動なんだと思います。ロシア側から見れば、今のモンゴルにとってロシアは過去の存在のようになってしまっているかのようですが、「ロシアがモンゴルを助けた。共通の敵は日本。」を常に意識させるのは、重要な政治的行動なのだと思います。慰霊碑には、日本語、モンゴル語そしてロシア語で平和への祈りが書かれていました。この慰霊碑の前で、皆で1分間の黙とうを捧げました。そして、正装したモンゴルのトッププロ奏者、アマルバヤルさんの馬頭琴の音色が、日本人戦没者慰霊碑に響き渡りました。日本の歌も含めた音楽が、無念に散った日本兵の魂に届くといいです。慰霊祭には地元の子供たちも参加しました。たくさんの子供たちがやってきました。手にしているのは、日本から持ってきた歯ブラシセットのお土産です。最後に記念撮影です。同行者の中には、メディアの方もおられました。同行された共同通信の記者の方です。携帯もインターネットもつながらない場所でも、衛星とつなげて日本と電話したり、ネットで記事を送ることもできます。この写真右側にある白い弁当箱みたいなのが、衛星通信向けのアンテナみたいなものだそうです。日本の編集の人と「今日の締め切りに間に合いますか?」みたいに普通に話していました。その記事はなんとその日のうちに新聞のニュースに載っていました。これは日経新聞のネット上のニュースです。共同通信ですから、全国の地方紙などにも載ったことでしょう。80年前の悲惨な戦争の思いの中で通信衛星を使うハイテク装備を見て、なんだか映画に出てくる「通信兵」のように感じてしまいました。この後は、いよいよ屋外の戦争遺品を残してある保存地域に行きます。(続く)
2019.07.14
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ハルハ河に到着しました。信濃川のような大河ではないですが、モンゴルとしては結構大きな河です。近くには牛や馬たちがのんびり草を食んでました。こうした家畜たちが、ハルハ河に水を飲みに来るのは当たり前のことですし、ハルハ河を渡って向こう岸に行くのもごく日常的な光景なんでしょう。その馬を追いかけてきた遊牧民を見て「国境侵犯」として武力で襲ったのですから、明らかに日本側に非があったと思います。私たちは実際の戦場となった場所へ行きました。ここはモンゴル・ソ連連合が拠点としたところです。平原が続く中にある比較的凸凹した高台です。思ったより傾斜が強い登り道でした。頂上へ行くと、結構見晴らしがいい高台です。こちらからは日本軍は丸見えだったというのがよくわかります。平成4年や10年に日本から慰霊団がやってきた記念碑がありました。平成4年と言えば1992年とまだモンゴルは民主化した直後でモンゴル社会は混乱していた時期です。しかも当時は社会主義時代の反日教育が色濃く残っていたでしょうから、親日で優しいモンゴル人に囲まれながらここまでやってきた私たちとは全く違う苦労があったことでしょう。何のために戦い、戦死したかもわからないような戦争で命をなくされた方、その遺族の方々の無念の思いは本当に辛いものがあったと思います。慰霊碑にはこんなものも。ヘルメットです。しかも弾で打ち抜かれた日本軍のヘルメットでした。むごいというしかありません。別の慰霊碑です。なんだか1枚でも多く慰霊碑の写真を撮って帰るべきだと思いました。もしかして何かのきっかけで、ご遺族の方が本ブログのこの写真を目にしていただける方がおられたらいいなという思いで載せてます。私たちにできることは、黙とうして慰霊の気持ちを捧げるだけです。心からの黙とうの念を捧げました。モンゴル馬頭琴奏者のトッププロのアマルバヤルさんが、ここでも馬頭琴を演奏してくれました。ここではモンゴルの曲と日本の曲も弾いてくれました。日本の調べが天に届くように祈ってます。(続く)
2019.07.13
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長い長い道のりを経て、ようやくハルハに到着しました。ハルハ河 90と書かれています。これはハルハ地域全体を見下ろせる場所で、1990年にロシアと共に建てたものです。遠くに戦場だった場所が見下ろせます。左の高い塔は、ハルハ河戦争記念碑で、右にハルハ村(ソム)が見えます。モンゴルとロシアが共に戦った地として書かれています。忘れてはならないのは、日本は敵国であり、モンゴルはソ連兵に助けられてこの戦いに勝利したということです。当然のことながら、アジア各地に残る戦争記念碑はほぼすべてが「日本が敵国」であったということです。戦争の傷跡は、何年たっても消えることはないと改めて思いました。上記写真のハルハ村に降りて、戦争博物に行きました。ここでも主役はモンゴルとソ連であり、日本は敵国です。建物は一見立派ですが、もう50年近く経っているので、建物自体は相当劣化しています。実戦で使われた戦車も展示されてます。その建物のすぐ目の前に、日本兵の慰霊碑が建てられていました。2001年に京都の知恩院などが中心となって建てたものです。明日はここで慰霊祭を行う予定です。ハルハ河戦争博物館の中は、戦死者の名簿や数々の写真が展示されていました。ここにはモンゴル人兵士の戦死者の名前が書かれています。たくさんの戦場の写真がありました。これは戦場マップと言えるものです。やや左側にある青く蛇行している線が「ハルハ河」で、日本側が主張した満洲とモンゴルの国境です。中央部の左上から右下に書かれている直線が「ノモンハン・オボー」を貫く、モンゴル・ソ連側が主張した国境です。なので戦争は主として、この2つの国境線の間で行われたことがよくわかります。地図の左側(モンゴル・ソ連連合軍の陣地)の方が標高が高く、右側の日本陣地を良く見通せたことがわかります。(ハルハ河の左側は等高線が寄っており、高地になっているのがわかる。)日本兵の遺留品も展示されていました。この後、更に戦地跡地に行きます。(続く)
2019.07.12
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私たちを乗せた6台の車は、真っ暗な大地を突き進んでいきました。厚い雲に覆われて、残念ながらモンゴル特有の満天の星は見ることはできませんでした。とはいえ、日本の空気の澄んだ田舎で見れるレベルでした。真っ暗な道でもスピードはすごいです。時には時速90kmや100kmも!遠くで見るとまっ平らな草原ですが、実際には凸凹がたくさんあります。穴が開いてたり、石があったり。もちろん、草原そのものも舗装路とは全く違います。こうした集団で運転するときは、日本人であれば常に「6台一緒かな?」を確認しながら走行しますが、モンゴル人はある程度は意識するものの、あっという間に見えなくなるほど離れてしまいます。そんなこんなで、真っ暗闇の中、道に迷ってしまいました。他の車はどうしてる?と思っても、もちろん見えません。携帯電話の電波すら届かない大草原の真ん中です。ドライバーは、地元の人もいれば、ウランバートルからの人もいます。あれこれ迷って、ようやく他の車たちと再会し、一路目的地ボイル湖を目指しました。ようやく到着したものの、1台がいません。なので、私たちを下ろした後、再び草原に向かって探しに行きました。結局、40分ほどで最後の1台が到着することができました。当初の予定では夜中の12時か1時ころの到着でしたが、大幅に遅れて早朝の4時半到着となってしまいました。へとへとになった私たちは、ボイル湖のほとりにあるリゾートキャンプに入りました。モンゴル東部から中国北部にかけての大きな草原をホロンボイル高原と呼びますが、これはホロン湖とボイル湖周辺の草原であることを意味します。そのボイル湖がここです。手前は砂浜で、その先にボイル湖があります。なかなかきれいなキャンプ地です。ゲルのような形をした固定式住居でした。もちろんトイレ付きです。こんなリゾート地ならなかなかいいなと思いましたが、当初の予定ではここを朝8時過ぎには出発のはずでした。部屋に入ったのは5時半過ぎですから、ほんのちょっと横になってから出発しないといけません。ですが、結局皆寝入ってしまい、朝10時過ぎまで休んでいました。湖まで行ってみると、何組かの家族がリゾート気分でのんびりと日光浴をしていました。この湖は随分と遠浅です。お父さんと小さなお嬢ちゃんが、かなり沖まで歩いていきましたが、こんなに浅いです。ここ数日雨が降ったから大丈夫でしょうが、モンゴルは雨が少ないので、場合によっては湖の大きさも結構縮んでしまうのではないかと思いました。リゾート気分を味わう間もなく、わずか数時間の滞在でハルハ河へ向けて出発です。朝、到着した時から気になっていましたが、このプリウス、とてもじゃないですが自力脱出は無理でしょう。恐らく後でランクルに引っ張ってもらうことになるでしょう。こんなところへプリウスが来てはいけないということです。昨晩は真っ暗で外の景色は見えませんでしたが、やはり大草原は続きます。こんな景色が延々と続きます。何枚も写真を撮りましたが、どれも似たようなものです。道もこんな感じ。送電線に沿って草原の道は続きます。人間は休憩できましたが、車も給油が必要です。ガソリンスタンドは滅多にないので、あるところで入れておかなければいけません。この2台、どちらもランクル(正確には1台はレクサスLX)ですが、給油口が左右逆です。微妙な違いを発見して、なんだかうれしくなりました。そして再び出発です。私たちのランクルは最終尾車として、全員を確認しながら進みました。(続く)
2019.07.11
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ノモンハン戦争80周年シンポジウムのあった翌日に、日本人モンゴル人合わせて28名程度がノモンハン戦争のあった現地ハルハ河に向かいました。昨年から、「今年はハルハ河方面に行く!」と決めていました。オプションは2つ。友人のUさんとのんびりキャンプでもしながら行くか、このツアーに参加するか。日本人にとってモンゴルはビザ不要で自由にどこへでも行ける国です。が、このハルハ河地域の中国との国境付近は違います。事前に国境警備軍の許可証が必要なのです。また私なりにノモンハン戦争についてはいろんな文献を読んではいますが、日本のトップクラスの研究者と同行できるのは大きな魅力です。これらのことから、「のんびり個人旅行」ではなく「研究者らとのグループ旅行」を選びました。ハルハ河は首都ウランバートルからは遠く、飛行機でドルノド県の県庁所在地であるチョイバルサンまで1時間半。更にその後車で7時間の予定です。もちろん、その行程は舗装道路なしというか、そもそも道路はないので、草原の轍を走ることになります。ゴビやフブスグルへの旅行でも車での大草原走行は経験していますが、さすがに7時間走りっぱなしはありません。ウランバートル空港で乗り込みます。飛行機は1時間遅れで出発しました。窓から見える風景は、もちろん果てしなく続く草原です。チョイバルサン到着は夕方5時半でしたが、まだまだ昼間のように明るかったです。フンヌエアーのプロペラ機でしたが、結構快適でした。フンヌというのは漢字で書くと匈奴。そうです、昔歴史の授業で学んだ「きょうど」です。モンゴル人は、この匈奴をモンゴル人の祖先の国と考えています。これがドルノド県のチョイバルサン空港です。チョイバルサンは、モンゴル国独立時の有名な将軍です。ここからは車です。ご覧の通りの「ランクル軍団」です。正確には、ランクル2台、レクサスLX2台、アルファード1台、ハイエース(ワイド版)1台の合計6台に乗り込みました。アルファードとハイエースは、これからの難路大丈夫かなとちょっと気になりましたが、まあドライバーはプロですから大丈夫でしょう。私はランクルに乗り込みました。全体の8割近くが日本人ですが、私の車両には日本人は私だけです。ま、日本から来た人たちには、私は「現地側の人」ということになっていたようですから。ドルノド県の草原は、大草原の多いモンゴルの中でもトップクラスの「どこまでも平地の草原が広がる場所」としてモンゴル人には有名な地域です。ドルノドの草原をモンゴル人が「車でずっと見ていても、何も景色が変わらない。眠くなって2‐3時間寝て起きたら、まだ同じ場所を走っていた」と表現するほど、平原が続きます。モンゴルには大きな草原は多いですが、山も起伏も見えず、何時間も地平線が見え続けるのはドルノド県にしかないかもしれません。何時間も走ったら、ようやく夜も更けてきまっした。チョイバルサンのスーパーで買ったパンやハムをサンドイッチにして夕食で食べたら、なんと馬頭琴の登場です。この奏者アマルバヤルさんは、モンゴル国立馬頭琴楽団のソロ奏者で、モンゴルでも名高いトッププロです。こんなすごい人が、一緒に来てくれたのには感激しました。実はアマルさんは、日本で5年間演奏活動をしたことがあり、日本語も上手です。私はずっとランクルで隣のシートでしたが、穏やかでとても優しい素晴らしい方です。ちょっとモンゴル人にはいないタイプです。大草原で夜空を見ながら素晴らしい馬頭琴の音色を聞くなんて、ウランバートルではありえない贅沢です。馬頭琴を聞いていると、やはりこれは街中やコンサート会場の音楽ではなく、草原で聞くべきものだとわかりました。日本人全員が、草原で聞く馬頭琴に大感激していました。私も今まで聞いた中で最高だったと断言できます。しかしながら、夜はどんどん更けていき、周りは真っ暗になっていきました。もう草原が凄いとか言ってられません。そしてついに、懸念していたハイエースが沼地にハマってしまいました。まっすぐの道(轍)が連夜の雨で大きな水たまりになってしまったところがあり、それを避けようと草が多いところへ進んだのですが、そこがなんと草が茂っている沼地のようになっていたのです。モンゴル人らは「これは避けられなかった沼地だな」と言ってました。で、ランクルです。ロープでけん引したら、たくさん人を乗せたままで重いはずのハイエースを力強く引っ張り上げました。いやー、やっぱり陸の王者ランクルです。昨今のなんちゃってSUVとはわけが違います。やはりモンゴルの大草原を走るには、1台だけでの走行は、たとえ夏でも危険であることがよくわかりました。(続く)
2019.07.10
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シンポジウム後は、ホテルでパーティでした。場所はなんとシャングリラ!大きなテーブルが5つ6つ出て、フレンチっぽいコースを美味しくいただきました。シンポジウムにいなかった来賓が結構していました。左の男性は、モンゴル国初代大統領のオルチバトさんです。まずは田中先生が挨拶されました。田中先生はモンゴル語で話されたので、通訳のUさんは日本人向けに日本語に通訳しました。日本語も知ってる(当然!)田中先生からは、Uさんの通訳に対して「上手な通訳でしたね」と言ってました。続いての挨拶は、朝青龍のお母さんことプレブバダムさんです。「私は日本人からはいつも「朝青龍のお母さん」としか呼ばれず、名前で呼ばれたことはないんですよ」と笑っていました。私は以前、飛行機の中でお目にかかっていたので、今回が二度目でした。朝青龍のイメージとは違って、とても優しそうな方です。最後はオチルバト元大統領の夫人のあいさつでした。この後は、同じテーブルの方々といろいろお話しました。日本人とモンゴル人が8人ほどいましたが、全員初対面です。モンゴルに来るのは4回目という方もいますし、初めてという方も。大学の先生や高校の先生、元新聞社の方や、外語大モンゴル語科卒業の方など、いろんな方がいました。モンゴル初心者の方からは、いろいろ質問を受けたのでできるだけ丁寧に答えました。「いやー、あなたの説明は本当にわかりやすいですね!」と言っていただけて、なんだかとても嬉しかったです。こうした機会で、少しでもモンゴルファンの日本人を増やしたいと思いました。明日からいよいよこの方々(来賓は除く)とハルハ河へ向かいます。予定では、飛行機でドルノド県の県庁所在地へ1時間半、その後は車で7時間とのことです。一体どうなることでしょうか?(完)
2019.07.09
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田中先生は、ホワイトボードにハルハ河付近の見取り図を書きながら説明されました。以下、先生のお話の骨子を私の理解と合わせてまとめます。ハルハ河戦争(ノモンハン事件)に関心がない方も、日本とモンゴルに縁のある方は是非とも頭の隅にでも入れておいてください。まずは、名称から。ご存知の通り、日本ではノモンハン事件、モンゴルではハルハ河戦争と呼びます。日本側が「事件」と呼ぶのは、建前上は「正式な宣戦布告をしていないから」ですが、本音は「関東軍が勝手に起こしてしかも大失敗したので、責任を逃れるためにいかにも軽い国境紛争に見せかけるために「大したことありません。ちょっとした事件です」みたいな感じで命名した」というところです。この名称の違いが、実はこの戦争(当たり前ですが、両軍合わせてわずか3か月ちょっとで4万人以上も死んだのですから、大きな戦争です)の原因でもあるのです。ノモンハンというのは、ハルハ河よりも東、つまり満洲寄りにある地名で、ノモンハニー(ノモンハンの)・ブルト・オボーのことです。オボーとは、モンゴルの交通の要所などにあるあのオボーです。ノモンハンのノモンは元々はお経などに由来する言葉で偉い僧侶のことで、ノモンハーンというのは法王と訳すのがいいようです。今ではノミン(本)というモンゴル語で一般的に使われています。当時、モンゴル側はこのオボーを起点とする線を国境と見なしていたのです。一方の満州国(イコール日本人)は「国境とは通常河や山であるのが常識」ということで、ノモンハンより西側20キロにあるハルハ河を国境と解釈していました。この20キロの違いが、大きな犠牲を強いる戦争につながったのです。ハルハ河のあるドルノド県は、モンゴルの中でも大草原で有名な地域です。とにかくまっ平らな草原が延々と続く地です。そこは首都から1000キロ近くも離れた、のんびりとした遊牧民が暮らす土地でした。当然、家畜もたくさんいます。ある時、馬がハルハ河に水を飲みに来ました。そしてその馬が、ハルハ河の向こう岸へ渡ったんです。なので、遊牧民はその馬を追いかけてハルハ河を渡りました。現地へ行っていればわかりますが、それはそれはなーーんにもないところですから、馬が河を渡るのも自然なことですし、牧民が馬を追うのも生業として当然です。遊牧民だから国境なんて知らない、という説を唱える日本人もいますが、それは違います。遊牧民は、我々には目印もわからないような大草原でも、昔から「境界線」は意識してきました。その時は、ハルハ河からは国境のノモンハンまで20キロも離れているのですから、何の問題もなく河を渡ったということです。が、日本軍はそれを「国境侵犯だ!」と騒いで、無防備の遊牧民を攻撃したのです。要するに殺したってことです。これをきっかけにノモンハン戦争がはじまりました。私は満洲事変やその後の日本軍のやり方を見ても、「これは難癖付けるいいチャンス」とばかりに、陸軍本部には内緒で関東軍が勝手に攻撃したのだと確信しています。ここからのその後の経緯を書きだすと、とても本章では対応できないので、いつか別の形で皆さんにお届けしたいと思います。ただ、田中先生が指摘された重要な点を一つ書きます。それは、バルガ族の存在です。バルガ族というのは、主としてロシア領内にいたブリヤード・モンゴル人がロシア革命などで難を逃れて満洲北部に南下したモンゴル人の部族です。モンゴル人には多くの部族がいますが、今のモンゴル国の人口の8割を占めるのはハルハ族です。なので、このノモンハン付近はハルハ族とバルガ族の部族境界線だったのです。境界線とはいっても、同じモンゴル人、同じ遊牧民同士ですから、お互い親近感があり、とても憎み合って殺し合う関係ではありませんでした。会えば一緒にたばこで挨拶する(モンゴル人は匂いたばこで挨拶する)関係でした。しかしながら、ハルハ人の後ろにはソ連が、バルガ人の後ろには満洲国・日本がいて、ソ連、日本両国とも「モンゴル人同士が仲良くなるのは絶対に認めない」という立場でした。通婚もしていましたから、親戚もいたことでしょう。ですが、ノモンハン戦争ではこの両モンゴル人部族が駆り出され、「嫌々ながらも」お互いに殺し合うという悲劇が起きたのです。ノモンハン戦争は、小さな領土問題を大きな戦争にしてしまっただけでなく、友好的であったモンゴル人部族同士をも引き裂いてしまった、とんでもない戦争なのです。悲劇は続き、当時モンゴル側(ハルハ族とソ連人)と満洲側(バルガ族と日本人)が接触したり、話し合いの場を持ったりもしたのですが、その場にいたハルハ人とバルガ人のほとんどは、その後ソ連と日本によって処刑されたのです。敵を殺したのではなく、味方(ハルハ人をソ連が、バルガ人を日本が)が殺したのです。なぜなら「敵同士の場なのに、お互い和気あいあいと仲良さそうにしていたから。」要するにスパイ容疑で銃殺されたのでした。このような、なかなか日本国内では語られることがない視点を持つ田中先生ならではの話がたくさん出て、皆聞き入ってました。(続く)
2019.07.08
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日本ではノモンハン事件と言いますが、モンゴルではハルハ河戦争と言います。この戦争は1939年に起こったもので、今年でちょうど80年になります。それを記念してモンゴル研究家の大家、田中克彦先生(一橋大学名誉教授)らのモンゴル研究者やモンゴルに縁のある日本人らとモンゴル側からも研究者などが出席して、「ノモンハン戦争80周年シンポジウム」がウランバートルにあるモンゴル日本センターで開かれました。田中先生は、前日のモンゴル最大の新聞「ウヌードゥル紙」に全面でインタビュー記事が載りました。記事の題名は「タナカさん」です。モンゴル側の関心の高さを示しています。残念だったのは、ハルハ河戦争の有名なモンゴル人の研究者ムンフオチルさんが体調を崩されて出席できなかったことです。モンゴル側の研究成果を聞いてみたかったです。ということで、スピーチは田中克彦先生とノモンハン戦争時に医師として衛生兵に加わり、その後「茫漠の曠野ノモンハン」を書いた松本草平氏のご子息松本文六氏が登壇しました。まず最初のあいさつに立ったのは、会場であるモンゴル日本センター所長であるダワードルジさんです。元同僚で懐かしかったですし、まさか今回会えるとは思ってもいませんでした。彼は私がモンゴル国立大学経済学部で教えていた時の経済学部長でしたが、その後このセンターが大学の付属機関となったことから、所長になったのです。滋賀大学、京都大学へ留学されており、日本語は流ちょうです。歓迎の言葉と、現在の日本センターの活動をお話しされました。続いては、大分県で医師をされている松本文六さんです。松本さんはお父上である草平氏が残した手記を2年前に復刻出版されましたが、その経緯をお話しされました。前線で20人中1人だけが生き残った者として、その悲惨さ、無意味さ、そして臨場感あふれる戦場の現場を記した草平さんの手記を復刻出版した大きな理由の一つとして、現在の政権が進めている法改正(戦争が再び起こるかもしれない法律)への強い懸念を挙げていました。あのモンゴルに造詣が深い司馬遼太郎さんからも「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と言われたそうです。確かに従軍当事者がこのように詳細に戦記を書いたものは私も読んだことはありませんでした。会場は日本から来た20余人に加え、モンゴルの関係者や若い学生らも加わり、50名を超えるほどの盛況となりました。モンゴル人の方が多かったので、私の友人のUさんが「司会兼通訳」をやりました。こんな感じで進めました。そしていよいよ田中先生のお話が始まりました。(続く)
2019.07.07
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安倍首相の靖国神社参拝で、近隣諸国がざわついています。中国や韓国が文句を言うのは予想通りでしたが、今回はアメリカからもヨーロッパからもブーイングが出ているようなので、首相としても想定外の部分があるかもしれません。靖国神社の問題は別ブログにも書きましたが、私は国内問題だと思っています。(ご興味ある方はこちらをどうぞ。http://blogs.yahoo.co.jp/uncle_summy/39582341.html)いい悪いは別にして、日本と諸外国では情報ギャップ等か認識ギャップがあるのは確かです。「違う国だから仕方ない」「相手が反日教育をしているから仕方ない」と済ませることも可能でしょうが、そのブログに書いたように「そもそも日本としての態度は明確なのか?」という根本的な問題を残したままでは、他国の言い分に批判してもしょうがないんじゃないかと思います。日本人として、日本という国は信じたいし、私は信じています。が、特に近代史の扱いとなると、中韓ほどのねつ造はないにしても「曖昧なままにしておきたい」「まあ、そこまで深く突っ込まなくてもいいだろう」的な姿勢が垣間見られるのは残念です。モンゴルに関しては、ノモンハン事件がそれにあたるでしょう。これは私がモンゴルシンパだからというレベルの問題ではなく、日本という国の体質、特にエリートと言われる上層部の人たちの今も残る体質だと思っています。日本は平和な国で、もう長いこと戦争はしていないという認識が広がっていると思いますが、そういう意味ならモンゴルもそうです。戦争の記憶というのは、何年前かというよりも「その国にとっての最後の戦争は?」ということがカギになるような気がします。日本人にとっては、ベトナム戦争や湾岸戦争、あるいは近代史としての最初の戦争である日清、日露の戦争などよりも、やはり「The戦争」と言えば、第二次世界大戦でしょう。モンゴル人もいろんな戦争を経験していますが、モンゴルにとっての最後の戦争は「ハルハ河戦争」なのです。これはモンゴル人なら誰もが知っている対日戦争のことです。義務教育で教えますから、「日本人が遊牧民をたくさん殺した」「モンゴル人にとって命である井戸に毒を入れて殺した」などは必ず知っています。このハルハ河戦争こそがノモンハン事件のことなのです。そもそも「事件」と「戦争」ではイメージがずいぶん違います。それは同じ事実を共通認識できていないのか?こういう場合、特に中韓相手の場合は、針小棒大にしたがるのは先方の国である場合が多いのですが、ノモンハン事件については完全な日本側の「わい小化」によるものです。詳細は省きますが、当時の上層部はソ連とモンゴルの連合軍なんて簡単に勝てるという根拠のない自信(あえていえば、日露戦争の勝利)で戦い、完璧なまでに叩きのめされた戦争でした。近代史上、最初の敗戦は太平洋戦争ではなくハルハ河戦争なのです。が、当時の上層部はこれをひた隠しにし、敢えて「事件」などと軽いいざこざくらいの扱いとして本国に報道しました。日本のマスコミも、「日本は強い」という新聞の方が売れるので、大本営をそのまま記事にしたのです。本質的な問題としては、このハルハ河戦争を真面目に教訓として反省していれば、その後の太平洋戦争を引き起こすことはなかった可能性が非常に高いと言われています。モンゴル通の司馬遼太郎も「ノモンハンの夏」を書いた半藤一利もそう言及しています。当時のエリートは「国の将来」「国民の安全」などというよりも「自分の栄誉」「自分の出世」しか考えてなかった集まりだったので、負けたことはわい小化し、犬死した兵士らのことは忘れ去ったのです。でも、ここまでは日本の問題です。問題はここからです。第二次世界大戦の総括すらできていない日本は、この「事件」の総括なんかできるはずありません。その結果、現代の教科書も大本営の発表のまま「事件」ということにして、簡単な記述で済ませています。モンゴル人の多くはご存じのように親日です。会う前から日本人と喧嘩しようなんて人は滅多にいません。ですが、そんな彼らだってザイサンの丘で「えー、日本とモンゴルが戦争してたの?ウッソー!」などと奇声を上げる若い女性旅行者の声を聴いたら、面白くないに決まっています。戦争の多くは、対峙する両者が一触即発の状態やどうしようもないところまで追い込まれて起きてしまうものです。が、この戦争に関してはモンゴル側には落ち度はなく、単に日本軍がモンゴルの領域に無断で入ってきて起きたものなのです。そういうところもしっかり教育されているモンゴル人からすると「そもそも知らない」、言っても「興味なさそうにしている」日本人は、反日思想なんかなくても嫌いになるのは当然です。この話は親日国のモンゴルだからこれで済んでいるのです。これが中国だったら・・・「えー、南京に日本軍が来たことあるの?ウッソー!」なんて言われたら・・・ま、この辺でいいでしょう。私としては、本当はモンゴルに興味を持つ人たちには必ずノモンハン事件のことを勉強してもらいたいと思っています。が、モンゴルに遊びに来る人にまでそれをお願いする気はありません。せめてこのことだけは知っておいてほしいのです。一つは、モンゴルが最後に戦争をした国は日本であり、日本はモンゴルとソ連の連合軍に徹底的に叩きのめされたという事実。しかも、これは日本側が引き起こしたということ。二つ目は、このことを日本側は「事件」と意図的にわい小化し、教育の場でもほとんど触れていないのに対して、モンゴルでは最後の「戦争」としてほぼすべての国民に認識されていること。三つ目は、モンゴル人が怒るとすれば「戦争の事実」に怒りを向けるのではなく、日本人が情けないほどこの事実を知らないでノー天気な発言を繰り返している、ということです。日本は近隣諸国からの批判にやや「被害妄想」になっている部分もありますが、こと「ノモンハン事件」に関しては、批判の原因はほぼ日本側にあると考えてください。でも、ちゃんとそうした意識を持っていれば、モンゴル人は気持ちよく日本人を受け入れてくれるでしょう。
2013.12.29
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