全16件 (16件中 1-16件目)
1

見映えは相変わらず悪いのですが、よくつくるレパートリーからサーモンマリネとワタリガニのアヒージョです。これにサラダとバゲット、そしてワインがあればいい晩酌です。明日、明後日は何かつくろうと思います。
2018.09.30
コメント(0)
音楽、演奏をどう位置付けるのか、どう臨んでいるかを言葉で表すことは大切であると思います。それはコンサートのタイトルであったり、曲のタイトルもそのひとつです。無難で綺麗なものが便宜的なものが多いように思いますが、より具体的で切実、新鮮で印象に残るものでなければ、個性的、新しいと言うイメージはないかもしれません。名曲、名演奏であってもそれを位置付ける言葉があって、知らない人の記憶に残り広がりを見せるのではないかと思います。シェーンベルクは作品そのものよりも12音技法という、それまでの音楽とは異なる考え方を示したことで知られています。サティは「ジムノペディ」「ジュ・トゥ・ヴ」などなどよく知られている曲もありますが、一方でそれまでの音楽理論に沿わない手法や書き方で、ドビュッシーやラヴェルと共にいろいろ行った人です。それまでのことを打ち壊したという意味では共通しています。ドビュッシーは新しい和声法でもありましたが、フレーズの作り方、流れそのもそれまでの音楽とは逆と言ってもいいくらい、まったく新しい世界を持っていて天才を超えて宇宙人のよう。ラヴェルは古典的な枠組みの中で独自の和声法を展開、構造が緻密で音色の重ね方も斬新で美しい、それは魔術師のよう。それに対して、シェーンベルクやサティは理論の提示であり、その理論=言葉が従来のメロディ、和声、拍子などの意味をなくしました。それだけでは「だから何?」「音楽?」と言われることもあるでしょう。しかし、考え方が後世に多くの影響を与えたことがソリューションと言えます。今は後付けでそのように偉大な作曲家と受け入れられるわけですが、当時にそのような作風を出していくことは相当なエネルギーが必要でしょう。サティが異端児、変わり者呼ばわりされるのは至極当然かと思われます。しかし、どのようにその注目を集め維持できたかということです。そこが知りたいところなのです。
2018.09.28
コメント(0)
このブログは日常の中で思いつくことを書いていて、自分のことを思い出した時に見てもらえればと思っています。このブログのプロフィールを少し変えました。生存報告、独り言&覚書きなので不拡散希望。(笑)隠れ宿的なブログ。人にはコンサートなどで「宣伝して、宣伝!」とやたらいう癖に、自分のことになるとそうでもない変な奴なのです。このブログ、まだ始めてから半月超えたくらいですから、検索などにもかからないと思っていたところ、昨日は遠方の方から連絡をいただいてしまい、かえってご心配をかけてしまいました。あくまで生存報告です。よろしくおねがいします!
2018.09.27
コメント(0)

タクシーがすごく並んでいて一流ホテルみたいですが、前回の診療から経過を診ていただくために予約された東京医療センターです。家からは歩いて行けますが外来では初めて来ました。勝負病院なのでいつもは救急で来ます。(笑)人を介さず受付を済ませ心電図を撮りに行きました。早めに着いたのですが予約だったからかかなり優先的に待ち時間なしでした。直ちに終わり診察までの時間が30分ほどあったのでどうしようかと思っていたところ、すぐさま親切な心電図検査受付の方に「どうしましたか?」と聞かれ、次の診療までちょっと時間があると伝えたところ、「循環器の受付で順調に進んでいるか聞いて延びていたら食事ができますよ。」「飲食できるところは1階のエクセルシールだけですか?」と尋ねたところ、「入院棟にはレストランが2つあります。こちらから行ってください。」とのことだったので、食べる気はなかったのですが行ってみました。病院なのでお洒落な雰囲気はまったくありませんでしたが、ちょっと興味をそそるメニューはありましたね!それから15分前に循環器系受付に行って、進行状況を聞いたら、何と先生から自分の名前が呼ばれ時間前に受けることができました。「発作性上室性頻拍」という病名で心臓の電気系統がおかしいようです。心臓内で血の巡りが通常ではないところに流れることが起こるため、その軌道を封鎖させれば不整脈が起きなくなるということでした。完治するにはカテーテル手術を2泊3日で受けるかどうかのお話でした。手術は先延ばしすることにしました。ここまでやや緊張しましたが、さすが予約ということで順調に終わりました。大病院特有の会計時の時のみは待ちました。でも、ひと安心。名医に受けると説得力が違うと感じた1日でした。
2018.09.26
コメント(0)
自分の周りを見渡して本当に見てくれている人、 また、自分の音楽を好きでいてくれる人、 自分の親を含めた環境、周りの人が音楽を育ててくれる。 しかし、自分にチャンスをくれる人は本当に少ない。 普通はいないかもしれない。 20代の頃は皆が友達で音楽の盟友として仲間であって、 音楽家としての期待値としての株価も高い。 先生や親も何かと援助してくれることが多い。 ところが本当の音楽家として物心のつく20代後半、 周りはその方向性について徐々に着いていけなくなる。 それは生き方として音楽は独特だからです。 瞬時に大成するわけではなくうまくいっても一時的なこともあり、 具体的に何を目指してどのような研鑽を積むか、 それが本当に個性的で独自な音楽であればあるほど孤高であり、 周りは見守ることしかなく離れてしまったかのように感じるでしょう。 結局認めてもらうためには自分の言葉と行いしかありません。 いくらいい曲をつくりいい演奏をしても、 その先はわかる人に聴いてもらって何より言葉が必要です。 音楽を聴くことは趣向が強いのは普通のことで、 よくできている、上手いから聴きたいわけではありません。 音楽にソリューションが必要でそれを語ることがいると思っています。
2018.09.25
コメント(0)
そろそろ核心に向かいます。演奏も作曲も同じことは、学んだことをまっとうし完成度を高める、そしてコンクールやオーディションなどを極めるわけです。本当に力をつけている状況ではありますが、そのソリューションがほとんどないのが世の中の現状なのです。つまり次をつくるのはやはり自分なのです。それはそのコンクールやオーディションの結果が次を生むのではなく、その人を取り巻く環境や周りの人の方が大きいとも言えます。もちろんそのことはその人の別の実力であると言えます。現代音楽を長年見ていて感じるのですが、音楽史や教える題材そのものは昔からそれほど変わっていない中、20世紀末から新しいものや実際に素晴らしい作品は、今先生と呼ばれる人たちがたくさん残してきたものの、ヨーロッパで認められなければ位置付けされにくい現状があります。それは音楽史の本くらいに載っていなければ認知されていないということで、残念ながら過去に聴いたことのある音楽や手法のものがほとんどです。ただ、本当に新しいことは誰かが広げてくれるものではありません。本当に新しいものを新しいと理解できる人はほんのひと握りです。多くの人にとって新しいかどうかは関係なく、新しいかどうかもわからないでしょう。しかも、主流でないことや異種のものを手放しで認める社会はないように思います。それは演奏において、コンクール以外ではどれほど上手いかが、聴き手にとってもそれほど問題ではなかったりわからないのも同様です。また、逆に仕事としてニーズを優先して易しいものを演奏しても、背伸びして難しいものに挑戦しても一般的な聴かれ方はそう変わりません。初めての聴き手はその音楽や演奏をその人そのものとして解釈します。
2018.09.24
コメント(0)
では、音楽で新しいとは何か?現代音楽は一時に比べさらに新しい音を追求するようになったと感じます。20世紀末に現代音楽のルーツの中に新ロマン主義的な手法があったり、調性への回帰が目立ちました。しかし、今はさらに特殊奏法を推し進めた作風が多く聴かれます。ただ特殊奏法の歴史は浅いものではありませんので、それが今ようやく熟成しつつあるのか、その新しい音響の中から何を見出せるのか、イズムとして到達するのか、興味深い局面にきているように思います。しかし、真に新しいと言えない新しさとしては、日本で言えば日本民謡など、民族音楽由来の曲です。これは親しみやすい、作曲動機として喜ばれやすいわけですが、やはりスタイルや語法として新しいかどうかによると思います。他に、ジャンルや珍しい楽器の融合、同属楽器アンサンブルが挙げられますが、前述のようにバランスや音楽的要素が損なわれたりしないかと、伝統的な美学の上に成り立つかが大きいのです。作曲的には楽器編成は大きなコンセプトのひとつとなりますから、ただ面白いということで合わせることは疑問です。本当に新しい独自の効果がコンセプトとして必要なのです。
2018.09.23
コメント(0)
では、ここでいう新しいとは何かということですが、芸術として新しいのはただ新しいとか珍しいということではなく…ラーメンにカレーを入れたら美味しかったとしても、ラーメンにマヨネーズを入れられる可能性はあるのか、ヨーグルトを入れられる可能性はあるのか、それもどちらかの味が強いと成立はしないなど、数々の条件を経て新たな絶妙のブレンドと味覚が生まれるのです。食べ物の場合は民族によってかなり異なりますが、美味しいと思うかまずいと思うかがそう変わらなければ、あとはそれを食するチャンスがあるかどうか、それが食通やレストランオーナーなどに広まるかどうかということです。しかし、真に新しい食べ物や味わったことのない味覚、見た目のものを食べようと思う人はなかなかいないかもしれません。そこで有名なレストラン、名の通ったシェフが作れば売れ行きは変わります。しかし、本当に美味しいものは知らない所や家庭にもあると思います。このことは音楽にも共通しています。ただ音楽は聴いて栄養がついたり空腹が満たされるものでもなく、趣向がより幅広いことから状況をより混沌とさせています。21世紀に入ると音楽を聴く人よりも演奏する人が爆発的に増え、音楽は選ばれた人の演奏を聴くものではなく自分が演奏して楽しむものになりました。このことから共通の楽器や同族の楽器で演奏することが増えました。しかし、同族楽器で演奏する時にその編成と音域、バランスは、整えるにかなり難しいファクターとなります。クラシック音楽の伝統から考えて、従来の楽器編成より作編曲的にオーケストレーションは遥かに難しいのです。そのような今日、新しい芸術ということを考えることは、需要のある音楽と芸術音楽との間にますます格差をもたらしていると感じます。本当は誰も食べたことのないような最高の料理を作れるお父さん、お母さん、そんな演奏家や楽曲が家の中の人を喜ばせるだけのものになっているかもしれません。そのような時代が決していいとは思えず、やはりヨーロッパのように芸術音楽の素晴らしさを皆が知り、それを踏まえた上で音楽の方向性を今一度考えていいと思うのです。
2018.09.22
コメント(0)
ジョリヴェはメシアンと同世代で共に意識していました。メシアンが特にジョリヴェに親睦を求めました。ジョリヴェの作曲法は論理的ではあるのですが、それまでにあったものを引き継ぐものではなく新しいものでした。しかもそのジョリヴェならではのものを生み出すにあたって、原始的、民族的、呪術的といった説明のつきにくい根拠でした。これは人として本能的なことでありあとからつけた理論ではありません。しかし、エリートであったメシアンはそれらに関心を持ちつつ、洗練された論理的な作曲技法として体系化しました。それはジョリヴェのように凝ったイレギュラーのあるものではなく、音楽を数学的に非の打ちどころのない語法として著書まで出したのです。ジョリヴェの文献が少ないことは、その作曲法を明らかにしなかったことがあります。それはメシアンが明快に自ら語ったこととは大きく異なり、神秘や謎に満ちた音楽として21世紀に再評価が進んでいる、と言っても過言ではありません。新しいことを生み出すことは画期的なことですが、ほとんどの人には理解されず毛嫌いさえされるものです。そこは言葉があってこそ好感されるものかもしれません。いかにその言葉を真摯に聞く人が多いかということになりますが、それは置かれている立場やポジションによって左右されることでもあります。ジョリヴェは理論としては残したものは少ないのですが、音楽そのものとして残したものが多く、それが理解されますます啓く時がきたと言えます。
2018.09.16
コメント(0)
自分の作曲の先生と呼べる人は日本人で4人いて、だいぶ以前に亡くなりましたが宍戸睦郎先生という方がいます。その先生はパリでアンドレ・ジョリヴェに師事した数少ない日本人です。宍戸先生からはとてもたくさんのことを学びジョリヴェのことも聞きましたが、分析されたデュティユーやルトスワフスキ、ペンデレツキ、メシアンなど、興味はフランスとポーランドの現代作品に向かいました。20世紀までは日本でジョリヴェは今より演奏されず、その頃まで絶えず不協和で休まることがない音楽という、ごちゃごちゃして音の多い曲のイメージがありました。また、同じ大家でもデュティユーやメシアンに比べると異端児であり、作曲法や理念が多岐に渡り抽象的に感じられました。そしてジョリヴェの文献は少なく肝心の作曲法について、なかなかわからないことも多いのです。その後、フルート、オーボエ、トランペット、打楽器などで、器楽曲や協奏曲が演奏される機会が増え、職業柄ジョリヴェの曲を分析することが増えました。すると何度も聴くうちに理念を超えた音楽の素晴らしさを感じるようになりました。例えば、激しいエネルギーを象徴としていた初期から叙情的になった中期の、「リノスの歌」では長い時間をかけてクライマックスに調性的な旋法が顔を出し、後期のピアノ協奏曲では素材が渾然一体となってリズムを伴ったカオスになるなど、その後の現代音楽シーンでよく見かける緻密な構築です。さらに紐解けたことは、なぜジョリヴェの分析を師があまり教えなかったかということ、それは師がジョリヴェそのものの作曲法であったということです。つまり、自分もジョリヴェの影響をたくさん受けているということです。
2018.09.15
コメント(0)
作曲は学べないなんて聞きますがそうでしょうか。自分は師から多くのことを学んだ気がしています。ひとつは完成されたスタイルを感覚的に美しいと実感すること、それは和声学や対位法、楽曲分析、果てはオーケストレーションなどです。もうひとつは曲を作るうえでの知恵です。これはさまざまなスタイルで誰々はどうしたかというようなやはり分析です。結果的に学ぶというより盗むということかもしれません。最近の作曲を志す人はこういう修行を好まないか、最初から自分は「持っている」と思っているのか、「ありのまま」でいいという社会がそうさせるのか、このブログのタイトルでもありますが「型」を学ぶことを薦めます。
2018.09.14
コメント(0)
名だたる作曲家はいつの時代もいるにはいますが、21世紀に入り作曲家のステイタスはますます落ちた気がします。実際にある演奏家から「あなたたちががんばらないからこうなった」と言われたことがあります。編曲家は逆にステイタスが上がりました。純粋に新しい音楽が広く受け入れられなくなってきた、少なくとも20世紀に現れたような衝撃はなくなり、新しさが閉塞的になり巡っていることです。コンクールやコンテストに合わせた選曲がなされ、既知のクラシック音楽やその編成のレパートリーの他に、ヨーロッパの奏者から持ち込まれる楽曲、編成や演奏時間をそのコンクールに合わせた編曲、ポップスと近代的手法を結びあわせたオリジナル。これらは今の言葉を借りるなら演奏者ファーストと言うことでしょう。しかし、真に作曲される曲は時間芸術であり、要所の長さこそが最も重要な要素である以上、小節のカットは考えられず、その編成でなければならないその楽器を最大限に活かしており、細部に渡って1音符も変えてはならないようにつくられているはずなのです。モーツァルトやベートーヴェンをカットすることは難しいように、あまり知られていないから変えていいとことにはならないと思います。そのためにも完成度の高い作曲が望まれます。作曲家はがんばらなければ存在意義すら危ういのです。
2018.09.13
コメント(0)
今回からは音楽のことを思いつくままに書こうと思います。音楽がアマチュアに委ねられたのはつい最近のことです。街中やどこでもここでも誰でもが演奏できるようになったのは、そんな昔からのことではなく日本では2000年を過ぎてからでしょうか。それまでは認められた人や限られた人でなくては、コンサートを開くなどということは許されませんでした。ヨーロッパでは早くから誰でもが音楽をどこでも演奏し、音楽やダンスは日常として皆のものでした。ただそれが本当に日常としての音楽か、芸術としての音楽か、それを聴く耳はヨーロッパの人は感覚的に持っていると思います。それはお金を稼げるか職業が何かということではありません。芸術としてどうかということです。残念なことに日本で多くは、音楽において芸術としてどうかという見方は、有料かどうか、演奏者の経歴や知名度がどうかということで判断され、あとは趣向として好きかどうかが聴くことの要因です。それでもプロとは何かというと、与えられたプロデュースに沿った演奏ができるかどうか、求められたシチュエーションで求められる音楽を演奏することができるかどうか、ということになってきています。今の世の中、学生を始めアマチュアはやりたいことができますが、それはその世界のことであって、あらゆるコンサートには企画意図が明確にあり、それを無視してやりたいことができるのはアマチュア、コンサートを開いても大した意図がなくやりたいことをできるのもアマチュア。音楽を志す人の方向性はきちんと出さないと、プロを目指すのであればそのギャップは大きいと思われます。
2018.09.12
コメント(0)

今日はお風呂の掃除をプロが2時間かけてやってくれました。やはりなかなか奇麗になりました。夜は呑まない意志を持っていて、良く言えばひつまぶし、言い換えると鰻茶漬けですね。それで夕飯は終わる予定でした。写真を撮るのも下手ですが、身体のために胡麻と海苔をこれでもかくらい入れて、鰻が見えません!でも、見た目よりはかなり美味い鰻茶漬けができました!これで明日を迎える計画でしたが、どうしても口が寂しくなり、結局昨日のアヒージョの残りでビールを飲んでしまったという結末。身体はともかく今はストレスなく落ち着く状況の方が優先ですね。
2018.09.11
コメント(0)

昨日の闘いは午前中まで病み上がりな余韻がありました。昔、高校生くらいの頃までは「心臓発作」なんて言うと相当まずいと想像しましたが、昨日もらった薬の袋を見てそう書いてあると、風邪とは違ってやっぱりゲゲッて思ってしまいます(笑)なのにですが…それでもどうも反省が足りないようなんです。午後からは途端と普通の生活になってしまいました。特に昼過ぎまではしばらく禁酒しようと思ったりもしたのですが、夕飯の買い物に行った時にエリンギが目に止まってしまい、いま家にある豊富なオリーブオイルを思い出し、バゲットが手に入った途端、ワイン、バゲット、チーズならぬ、ワイン、バゲット、アヒージョの黄金のマリアージュが脳裏を過ぎり、結局は普段どおりに呑んでしまってですね。いかんですね。でも、例によってストレスは発散されました。一人で食す場合は鍋のままバゲットを浸す。味が濃厚なのでチビチビしか進まないと翌日もこれになります(笑)写真の色はイマイチですが…
2018.09.10
コメント(0)

自分のブログを書くことにしました。今実際に取り組んでいる音楽上の仕事は書けないこともありますが、当面はまず知ってもらうために日常のことを書いていくことになるかと…。昨日はコンサートのプロデュース案をつくりあげ掃除をしようとしていたところ、まったくそのとおりにはいかない残念な1日に終わりました。自分の消息がなくなった時などに参考にしてもらうべく!(笑)ブログの記念すべき第1回からネガティヴなスタート!発作というのは突然起こるので発作なのですが、その1年以上ぶりの立派なややこしい病名をいただいている不整脈が、昨日起きたという話です。今までは30分くらいで治ることもあったので、出先や職場でじっと我慢することでなんとかなっていたのですが、昨日は以前1度だけあった救急車を呼ぶほど長かったのです。でも1人で救急車を呼ぶのはなんか恥ずかしいこともあって、自力でなんとかすぐ近くの総合病院に行ったのですが、土曜日ということもあり1時間待ちと言われたので、ここはもはや一刻を争いわが「勝負病院」の東京医療センターへ。不整脈は心臓がバクバクするのですが、ともかく冷や汗で上半身はビチャビチャ、体温は35度しかなくフラフラです。病院に着くとそんな様子から見た目でやばいということで、すぐに検査が始まります。まずは脈拍が190あり普通の人の3倍あることで、場所が変わりたちまち救急救命の医師、助手と看護師の方々に取り囲まれます。そこから心電図、血圧、採血、点滴注射、体温がまたたく間に流れ作業で測定。(写真:行われた自分では解読できない検査の数々)バクバクしているというと血流がよく血圧が高いのかというとその逆で、手足の先は冷たくなります。そこで処置について、無呼吸、薬の投与、電気ショックがあることの説明を受け、順番にやっていきます。無呼吸というのは息を吐き続けるだけなのですが、それでは戻らず。次は薬を点滴の代わりに入れるのですが、これも量の少量、中量、大量の3段階あり心電図をとりながら投与されます。少量、中量は心臓まで届かなかったということで脈拍は戻らず、大量でめでたく劇的に正常に戻りました。薬が届き自分の血流があっという間に70までに落ちる時は、心地よいものではなくワクチンを打つシーンのバイオハザードが頭をよぎります(笑)3時間の医療体験でしたが、書き残すだけの経験でした。少し前と違って皆若くてかっこいいお医者さんたちに、素直に感謝です!
2018.09.09
コメント(0)
全16件 (16件中 1-16件目)
1

