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いい意味で、週末の天気予報は外れた。雨を告げる天気予報を恨めしそうに何度も見ていた。テレビのニュースを見た後にパソコンを立ち上げ、変わらない予報に大きくため息をつく姿を見ると、気休めの言葉をかけるのも躊躇する。常々、ユカコは天気予報なんかあてにならないと言い張っていた。「あんな予報でOKなら、わたしだって予報士になれる」と言う。「雲がちょっぴりあったら、降水確率30%くらいって言っとけばいいんだから」画面に映る予想天気図には素人目でも分かる分厚い雲が、日本列島を覆っていた。「見たいって言ってた映画、無かったっけ?ほら、オダギリジョー主演の」「ない」別の天気予報のサイトを探すために、パソコンの画面を見つめながら、即答する。やれやれ、と僕はテレビのチャンネルを変える。変わった画面で、気象予報士が眉を少しだけひそめて喋っている。「今週末は、ちょっとお出かけには向かない天気となってしまいそうです」「はぁーあ」もうひとつ大きなため息を聞いて、僕はまた別のチャンネルに変えた。行き先は、動物園だった。ユカコの同僚から、何となく行ってみた動物園が思いのほか楽しかったことを聞いて、居ても経ってもいられなくなったと彼女は話した。動物を飼うことは人間のエゴだとか、動物の愛護だとか、そういった大した主義主張も無い僕は、素直に同意した。「20も半ばを過ぎて、動物園行きたいって言うのも、少し恥ずかしかったんだよ」あとからそう言ったユカコを素直にかわいいと思った。土曜の空は白く覆われていたけれども、僕らは出かけることにした。起きたときに雨が降っていれば、素直に諦める。それがきのうの夜に決めたルールだった。歯を磨きながら点けたテレビの天気予報は、曇ところにより雨。玄関を先に出たユカコに、傘は?と尋ねると、傘を持たずに出かけようと言った。「傘を持って出かけたら、きっと雨が降る」根拠の無いこの言葉に、なるほどそれもそうだと僕は納得した。本当にそのとおりだと思った。ベットリとした空気と、日差しの無いくせに高い気温、真っ白い空は、お世辞にも行楽日和とは言いがたい。僕らにとっては、それでも、雨が降らないでくれていることだけで、何かに感謝したくなるような天気だと思った。ギリギリまで寝ていたい二人には、手作りのお弁当も無かったけれど、「遠足みたい」とユカコが言った。バスから降りて、入場ゲートまで歩く頃には、8月の太陽と変わらない日差しが、9月の動物園前の道路を照らしていた。いい意味で、週末の天気予報は外れた。予想天気図にあった分厚い雲の行方は、とりあえず考えないことにした。ユカコの言うとおり、天気予報なんてあてにならない。雲は雲の思うように流れるだけだ。チケットを二人分買ってユカコに渡す。財布を出していたユカコをわざと無視して園内に入った。獣臭さというか、もっと端的に言えば、糞の臭いが立ち込めているのを感じた。何かの鳴き声が聞こえる。動物園の臭いと湿度の高い空気が身体を覆う。腕で汗を拭ったそばから、新しい汗が流れてくる。檻の中にいるクロテテナガザルがこちらをじっと見ている。日差しをモロに受ける僕よりも屋根のある檻の中にいるテナガザルの方が涼しげで、妙な気分になる。どちらが見世物なんだか。人並みに、僕らは動物園を楽しんだ。ゾウやキリンやシマウマやライオン、まったく動かないコアラや二本足で立ち上がらないレッサーパンダも見た。シロクマはゴムのボールに捕まりながらゆったりと水の中に浮かんでいて、それは頭からアザラシを噛み殺す獰猛な生物とは対極にいる動物に思えた。ユカコはひとつひとつの動物の前で、どの動物も同じくらいの時間をかけてゆっくりと眺めた。嬌声をあげて喜ぶことはしなかったけれども、ゆるやかに笑いながら、ひとつひとつ確認作業をするように動物を眺めた。そして、ひとつひとつに、短くだけれども余すことなく感想をつけた。それは、「ラクダは、思っているより大きい」だとか「あのクマ、きっと暑すぎてやる気が無い」だとか、小学生でも言えるようなものだったけれども。「ぜんぶ、同じだけ見て回るつもりなのか」という僕の問いに、「不公平は、動物達に悪いもの」と答えた。動物たちは動物園で働いているプロフェッショナルなのだから。プロの仕事には誠意をもって応えないと。そういうこと。僕はそうやって動物を見ている彼女の横にいて、時折、檻の前にある立て札を読んでいた。「動物園の動物達が幸せだとか」「うん?」「そういうこという話」「ありがちだね」「で」「うん」「『彼らは、動物園以外の場所で暮らしたことが無いんだから、比べようが無い』っていうでしょ」「それもよくある話だね」「うん」「ユカコはどう、思うのさ」「わたしも、彼らのほとんどを動物園の中でしか見ることはないから」「俺も、まぁ、ここにいる人たちのほぼ全員がそうだろうけど」「わたしは、幸せだよ」「いま、幸せだと思ってるよ。ここにくる人たちみんなも幸せな気持ちになると思う。だから、そう思わせられる彼らは、誇りを持って、幸せだといってもいいんじゃないかな」誰かを幸せにできることを幸せと思うのは、僕ら人間だけじゃないのかなと思う。ただ、そう思いつつも、僕は幸せな気分になってる彼女を見て、そして、こうしていられる自分を幸せにも思う。動物達には悪いけれども、君たちが幸せかどうかに、僕は興味が無い。ただ、僕は、こうして幸せな気分にさせてくれて、ありがとうとは思う。よ。いい意味で、週末の天気予報は外れた。夕陽が赤く顔を染める。まだ少し汗ばむような気温の中で、僕と彼女が手を繋ぐ。ぐおう、と唸ったトラは、別に僕らに何か言おうとしたわけじゃないと思う。亀を見ると、「亀頭」って言葉の語源が本当によく分かるね。
2007.09.12
待ち合わせ場所に僕のほうが遅く現れたのは、多分初めてのことだったと思う。改札を出た所で携帯をかけると同時に、アキが柱にもたれ掛かるように立っているのが見えた。「ごめん、ちょっと遅くなった。新幹線が混んでてさ」「そういう下らないことを言うのは、ちっとも変わってへんのやね」「あれ?ちょっと痩せた?」「じゃ、行こか」手に持った携帯をパタリと閉じてスタスタと歩き出した彼女の後ろを追って、隣に並ぶ。横からアキの颯爽と足早に歩く姿を見る。足にぴったりと張り付いたような細いジーンズがよく似合う。お世辞の意味だけじゃなく、元々長かった手足が更にすらりと見えた。連休中の駅は観光客でごった返していた。その人の流れの中を僕と彼女だけが周りと違うスピードですり抜けていく。僕は自慢じゃないけれど、歩く速さが人よりも遥かに速い。そしてそれは彼女も同じで、僕らは並んで上手に人波を泳いだ。彼女と僕が所属していた大学の研究室から、教授が退官するとの知らせが一月くらい前に届いた。僕はあまりお世話になった覚えも無く、その上、僕の顔と名前を最後まで覚えなかった教授の退官と彼の退官記念パーティーには全くと言っていいほど興味が無かった。パーティが行われるという連休には、予定らしい予定が入っていることは無かったけれど、迷わず欠席の返事を出した。貸したことをすっかり忘れてしまっていたCDを、返すとアキが言ってきたのはその一週間後くらいだった。「いいよ、そんなCD。貸してたのを忘れてるくらいだったから」「良くない。こういうの、しっかりしときたいんよ、私は」「それやったら、貸したジッポも返して欲しいんやけど」「それとこれとは話は別」かくして僕は、教授のパーティーに出る訳でも無いのに大学時代に住んでいた街に向かうことになった。「どうせ、連休って言っても予定無いんやろ?」そう言ったアキに「教授のパーティより魅力的な予定ならある」と答えた。その魅力的な予定であるところの切れた電球の交換は、彼女に会うことに比べたら確かに魅力的ではなかった。川沿いにあるダイニング・バーで、今ごろ行われているパーティーが如何に退屈だろうかを、二人で予想しあうことにした。恐らく僕らが苦手としていたドクターは張り切って場を仕切っているだろうし、教授のこれまでの研究成果をまとめたような話は、誰も聞いていないだろうと思った。ただ、このしょうもない予想話は長く続かなかった。僕ら二人に共通して言えるのは、研究室に居た人間の殆どと交流が無かったことなので、パーティーの退屈さどころか、パーティーの様子を想像したところで限りなく他人事のようにしか思えないからだ。僕が研究室に配属されてから程なくして、ひとつ歳上の彼女の家で昼過ぎまで二人でだらだらと過ごして、必要最低限『以下』の研究室の滞在時間を経て、バイトへ向かう生活を続けていた。非生産的と言う意味では、大学の研究も、その頃の僕らの生活も大差無い。今でもそう思っている。二人は音楽も映画も本も全部趣味が違ったから、同じものを観たり聴いたりすることは無かったけれども、二人で別々のものを観たり聴いたりしながら同じ空間で過ごし、同じタバコを吸った。アキにCD貸したのは、恐らく1枚だけだった。僕が何となく買ったJazzのコンピレーションで、一度しか聴いたことが無かったし、それ以上聴こうとも思わなかった。だから、きっと彼女が興味を持ったんだと思う。そのCDをバッグから取り出し、僕の目の前に置く。「引越しの準備してたら出てきてん」そう言いながら。居心地が良い程度にモノが散らばった彼女の部屋を思い出した。あの場所が無くなると思うと、例え行くことが無いとしても寂しくなった。僕は、あの部屋が単純に好きだった。女の子らしさと女性らしさが混ざって、シンプルだけど乱雑で。それを彼女に言うと、少し笑って、それから、いい加減オトナの女の部屋っぽくせなあかんと思って、と言った。「男の影響か」わざとそう言った。彼女が付き合ってる男に影響を受けないことは、十分過ぎるくらい分かってる。「いま、付き合ってる人、会社の上司」「へぇ」「その人、奥さんも子どももおるんやけどね」「あ、そう」「…あんたの、そういうとこ、最高に好きやったけど最高にムカついてたわ」ビーフィーターのロックを空けてから、僕は声を立てて笑った。だから僕らはうまくやってこれたし、上手に別れることも出来た。そう自負している。店を出て、そこそこ呑んだくせに人ごみの中を颯爽と歩いていくアキの後姿を見ながら僕は思った。彼女は小さい頃から中学生までずっと水泳をやっていたらしい。それと人波を上手にすり抜けていくことに関連があるのかは知らない。ただ、一度も見たことの無い上手に泳ぐ彼女の姿を想像することは、何故か難しくなかった。そして僕も宿のある違う方向へ、人波の中へ歩いていった。こういう宿のアテが外れたときに夜を明かすのは、決まって漫画喫茶。
2007.05.19
15cmだけ開けた窓からベランダに手を出して、着ていくジャケットを選ぶ。汗かきの僕がここで間違えるとその日一日はどんなに占いの結果が良かろうとも失敗だと思う。慎重に手の先に感じる空気の温度を測る。パーカーの上に黒いテーラードを羽織って出かけたその日は、見事に失敗に終わった。妙に混んでいる電車に乗ったときに今日から新学期だってことに気付いて、それから4月になったことを思い出した。駅前の広場に空の殆どを覆った雲の隙間から薄く日差しが落ちていて、僕は額に薄っすらかいた汗を指先で拭った。「オマエが誰かと付き合ってる姿ってのは想像できないな」待ち合わせた場所からすぐ近くにあるコーヒーショップには、まだ僕とマリコしか居なかった。メンバーが時間どおりに集まる筈が無いのが分かっていても、律儀に集合時間を守る自分の几帳面さは、実はそんなに嫌いじゃない。ただ、全員が集まるまでポツリポツリと集まりだしたメンバーとその場しのぎの時間つぶしをするのは少しだけ苦手だったりする。僕の次に来たのがマリコで良かった。携帯には2人から5分くらい遅れると集合時間の10分前にメールがきて、かれこれ15分が過ぎる。コーヒーショップの外のテーブルで本日のコーヒーとタバコを2本、それだけの時間はたぶん、余裕がある。いつも周りの盛り上げ役になるマリコに彼氏が出来たと聞かされたときの正直な感想だった。外見は、悪く無い。と思う。常々、仲間で馬鹿騒ぎをするのが好きで、それを邪魔されるくらいなら彼氏は要らないと言うのが彼女の信条のひとつであって、僕らはそれを素直に認めることが出来た。「意外とね、まぁ、うん。まだよく分かんないけれど」生クリームがたっぷりと乗ったカフェ・オレにぷすりとストローを差して、成り行きでね、と付け加える。ふうん、成り行きねぇ。とりあえず相槌を打ちながらそんな成り行きの恋愛をした記憶を探ってみるもロクなものが無いことに気付いて次の言葉に困る。それも、いいんじゃない、我ながら嘘臭いと思う言葉で取り繕う。本日のアイス・コーヒーのカップに氷だけが残り、携帯が鳴る。紙のカップを手にとってゴミ箱を目で追いながら立ち上がった。集まりだしたみたいだね、生クリームだけが無くなった手元のカップにストローを差してマリコもゴミ箱を目で追った。駅前の広場に見慣れた顔が見える位置まで歩いたところで、「ところで、」後ろからマリコの声が聞こえた。「ウソ、なんだけど」「何が」「彼氏の話」「は?」「エイプリル・フール」歩きながらマリコの方を向いて、目を逸らして口を尖らしている顔を見る。「リアクション薄いし、つまんねー!」「微妙なんだよ、オマエのウソはよ」僕はそこで声をあげて笑う。あいつ等にも、それ言ってみたら?提案してみるけれども、まだ口を尖らせたままで、いいよ、どうせ信じてもらえないか微妙なリアクションされるんだと言う。「まぁ、そうだろうな。それでいいんじゃない?」「んー、まぁ、エイプリル・フールって、そんなもんだよね。ネタとしては」それでいいんじゃない?---彼氏とか、作らんでも。そう言いたかったんだけどな。まだ、もう少し、誰かだけのものになるんじゃなくて盛り上げ役やってるマリコと、あいつ等とバカやってたいの。な。*****エイプリル・フールに彼女が出来たと言ったこと、あります。
2007.04.02
「ほら、さくらが咲いているよ」ちがう、よ。あれは うめの花だ。すう、と指を伸ばす前に答える。あれは桜の花じゃない。だいいち、今朝のニュースで桜前線はまだ本州の端っこの方にしか届いていなかったじゃないか。うめとさくらの違いも分からないのかいと笑う。その違いは何であるかを明確に説明することなんて出来やしない。確か、梅のほうが桜よりも先に花をつけ、その色は紅梅と白梅があって。いま、先に見えるあの木に咲く花は濃いピンクであるからきっと紅梅なんだろうね。あれは、うめの、花だ。繰り返して言い聞かせる。「さくらに見えるよ」繰り返してそう言う。うめ さくら うめ さくら口の中で繰り返す。遠くに見える梅の木に花を見つけた。道ばたに立つ裸の木は、桜。あとひと月もしないうちに花をつけるよ。「ほんとう?」さあね。桜のことは詳しくない。でも、確か、桜の木にはたくさん毛虫がいるんだっけか。虫が苦手な人がさくらを見るのは少し危険なことかも知れない。毛虫がうねうねと身体をくねらせて地を這う姿を想像するのは、あまり気持ちの良いものじゃないけれど、きっと来月の今ごろはさくらを見ているんだろう。毛虫を気にしながら、道端に立つ木の下で。桜前線は中国地方あたりにありながら、東京はいまが満開。花見の予定は、無し。
2007.03.28
どうせあなたはすぐに忘れてしまうでしょうね、そう言われたことを今でもはっきりと憶えているというのに、何をすぐ忘れてしまうと言われたのかは思い出せない。そうやって忘れてしまったことを思い出せないままでいると、脳の細胞が少しずつ死んでしまうんだって。大丈夫、それを言われたことは憶えている。「ほんとうに、ちょっとしたことよ」タバコはやめたの、僕がタバコに火を点けて灰皿をアサミとのちょうど間に置くと彼女が言った。火を点けたばかりのタバコを灰皿に押し付けようと手を伸ばしたところで「煙、嫌じゃないから」そう言い、灰皿を僕の方に押しやった。「ちょっと、したことねぇ」「少なくとも」「うん?」「何かの記念日とか、誕生日とか、そういうものでは無いからね」だろうね。自分で言うのもなんだけれど、かなりその辺はマメにやってきた。どんなにベタな手法であろうと、僕は立派に恋人を勤め上げたつもりだったし、彼女を喜ばせたという自負もあった。誕生日に味なんか分かりもしないフレンチ・レストランを予約して、本当に小さなダイヤが付いた指輪を買い、クリスマスには食べきれない癖にホール・ケーキとシャンパン、それから僕にしてみればどうしてこんな値段がするのか分からないバッグを奮発した。1年目の記念日には取ったばかりの免許でレンタカーを借りて温泉街へ旅行もした。本当に嬉しいのは、喜ぶようなことはそういうことじゃない、そう思っていたところで正解を考えるでもなく誰も教えてくれる訳でもなかったから、「どうせあなたはすぐに忘れてしまうでしょうね」そう言った顔を見たときにどうしてか、後悔した。何かしてしまったことについてなら『反省』することも出来たのに、結局本当に心の底から嬉しいということをしてあげられてなかったんじゃないかという『後悔』をした。何かをしてしまったことより、何もしなかったことの方が取り返しがつかないんだって、たぶん、そのとき知って、それを強く感じたのはそれからひと月か、長くてもふた月後の話。2年目のアサミの誕生日には、何かをしてあげることさえ出来なかった。「正解、聞く?」その声で、僕が黙り込んでしまっていたことに気付く。いや、ごめん、思い出そうとしてたんじゃなくて、ぼーっとして。いちどタバコを取り出した後に、気付いてすぐに仕舞う。「いいのに、タバコ」ちょっと困ったように眉をひそめて言われると、逆に吸わないことが申し訳なく感じてタバコに火を点けた。まだ、正解はいいや。「正解を聞いたら、脳細胞が死んでしまうからな」「タバコ吸っても死ぬんだけどね」「え、そうなん」「うん、酸素がじゅうぶんにいかなくなるから、死ぬよ」「じゃあ、もうええか、聞いても」小さく手を挙げて、降参を表す。諦めが早いね、アサミが言って、諦めが良いんだ、と答える。「タバコ、吸ってる姿が好き、って言ったんだけどね」「ああ」「ちょっとしたこと、でしょ」「それなら、憶えてる」「言うまで、忘れてたでしょ」そういうちょっとした仕草とか、そう言えば「ちょっと細めたときの目」とか「伸ばしたときの指の形」っていう身体の一部分とか、彼女はそういうところを褒めてくれたり好きだって言ってくれたりした。指輪やバッグや、フレンチ・レストランのディナーじゃなかった、な。僕がアサミにしてあげれば良かったことは。どうせ僕は忘れてしまっていたのだから、どうせ僕はそのときに気付くことなんて出来なかっただろうし、例えいま時を戻したとしても同じように彼女にしてあげることが出来るのか、ちょっと自信が無いのが嫌だった。吸いたくも無いのにもう一本タバコに火を点けた。精一杯アサミの前でカッコをつけたつもりで、でも残念なことにそれがカッコよく見えたかどうかを知ることは出来なかった。歳上の彼女に負けたって気持ちで一杯になったけれど、そもそも勝ち負け言ってる時点でダメな気がしないでもない。きっとアサミは勝ったなんて思っても居ない。次、会うときまでにちょっとはマシになっとるわ。口には出さずに煙と一緒に飲み込んだ。僕があの頃といまと比べて変わったのは、伝票を手に取るタイミングが自然になったことくらいだった。*****タバコを止めて2ヵ月になるけれど、脳細胞の数は減りつづけてる気はするし、酒の量と体重は増えた。
2007.03.27
休み時間が来ると同時に机の上に突っ伏して考えてることの半分が「どうやって自殺するか」だというツカサは、同年代の女の子より少し長めのスカートから伸びた足をプラプラさせながらステージに腰掛けていた。「残りの半分は?」ドラムスティックでビュンビュンと空気を切る音を聞きながらツカサの方を見ずに訊ねた。暗幕を抱えて慌ただしく走り回る後輩の視線を感じた気もしたけれど、そちらも見ないようにした。「どうやったら世界が滅びるか、ってこと」「ロックだねぇ」半分本気で半分冗談でそう言うと、彼女は僕を睨んだ。卒業式の直後にある軽音楽部のライブを明日に控えた視聴覚室は、仮設ステージ用に運ばれたビールケースと机の余りがまだ乱雑に放り出されていて、ミキサーから伸びたケーブルはむき出しのまま床に伸びている。ステージの上では音響チェックが始まっていて、ディストーションとクリーントーンのカッティングの音がギターアンプから交互に繰り返されていた。3年生が引退して2年生が主役になれるライブなんだってマナブは張り切っていたけれど、助っ人で入った僕にとっては半分はどうでも良かった。ツカサは最後までJUDY AND MARYを唄うことを拒んでいたから、たぶんもっとどうでもいいと思っていると思う。JUDY AND MARYの『クラシック』の歌詞を英語に翻訳して唄うことで、ツカサはやっとマナブとバンドを組むことを了承したらしい。さすがは元・優等生だと思った。中学生の時から彼女を知ってる人間はみんな口を揃えて「変わった」と言う。その中のひとりであるところの僕は、同じバンドメンバーにでもならない限り、たぶん彼女と口をきかないまま来年の3月を迎えた筈だった。元・優等生は高校入学後、少ししてからカート・コバーンを敬愛するようになったらしい。その頃の僕はNIRVANAはSmells Like Teen Spiritしか知らなかったし、彼女はそんなクラスメイトたちのことを知ろうとしなかった。視聴覚室の窓を覆う暗幕の隙間から外を見た。僕らの住んでいた山間の街ではこの時期には梅も花を咲かせない。誰がつけたのか"Spring Has Come!!"と銘打たれたライブの当日は、予報によると雪が降るらしい。春はまだ来ない。「なぁ、別にどうもしなくても世界なんてそのうち滅びるんじゃねぇ?」「そのうち、じゃなくて今すぐに滅びる方法」否定されることを分り切ってる質問をする。そうでもない限り、僕は彼女と会話する術を知らない。彼女は大人になって折合いをつけて窮屈になってしまうこの世界から自分が消えるか、世界のほうを消すかしないと我慢が出来ないんだろう。それくらい僕にだってわかってる。でも、そういう彼女になんて言うのが正解かは、僕は知らない。ドラムスティックをまた振り始める。本番は、明日だから。でも練習してないと不安だとか、緊張してる訳じゃない。バンドのメンバーであること以外、彼女とのつながりを見つけられないから僕はドラムスティックを手放せない。「まぁ、せめて明日のライブまでには滅んで欲しくないけどな」そう言ってステージの上に胡坐をかいて座る。ツカサの隣。その直後にツカサはステージから勢いよく飛び降りて、正面にあるビールケースの上に胡坐をかいて座った。「ん。そうだね。明日、だ」思いの外、ツカサは明日のライブが楽しみなのかもしれない。少し嬉しくなって、でも、そのライブが終わって一度きりのバンドも終わってしまったあとのことを考えると、少しがっかりもした。背中にバスドラのキックの音が響く。ドラムの音響チェックが始まった。後ろを振り向いてステージに並んだ機材やスピーカーを眺める。自分があそこにいてライブをやる姿は想像できなくても、ツカサがステージの真ん中に立って唄う姿は簡単に想像できた。振り返ってツカサを見ると彼女もステージの真ん中を見てた。そして胡坐をかいている足の隙間から、黒い下着が少し見えて「ロックだねぇ」と思った。"Spring Has Come!!"春はまだ少しあと。
2007.03.23
天高く、馬肥ゆる秋――馬がどうして肥えるのか、その理由は分からなくても、空が高く澄んだ青でいることは分かり過ぎるくらい分かる。パーカーの上にジャケットを着た。空気が澄んで空が高くなったせいで、太陽はきっと燦々と照らそうにも、僕らが立つ地面からその距離を伸ばしてしまったんだろう。息が白くないのが不思議なくらい、きんとした空気の中でそう思った。そうでなければ、雲がひとつも無いこの空であって、僕が上着をクローゼットから引っ張り出す理由がつかない。秋が、すき。そう言ったひとのことを思い出した。僕がそのひとと一緒に見た秋の空は、この青より少し深かった気がする。気がするだけで、そうじゃなかったのかも知れない。そう言えば、太陽ももう少し黄色みがかっていたっけ。そうして、途切れ途切れの雲が山際の端に引っかかっていた。そのひとがどうして秋が好きだったのか、その理由を僕はしっかり聞かなかった。だから、そのひとのことを思い出しても秋の何が好きだったのかは思い出せない。だから、僕は秋があまり好きではないのかも知れない。肌を焼く太陽を蒸し風呂のような湿気をあれほど嫌っていたにも関わらず、夏を懐かしんで寂しい気持ちにさせるからだ。秋をすきと言ったあのひとを思い出させるのも、寂しい気持ちになるひとつかも知れない。秋は寂しい。秋は、寂しい。自転車を漕ぎ出した。ジャケットの隙間から、パーカーの襟元から澄んだ、きんとした空気が流れ込んでくるのを感じた。あのひとと秋の空の下を歩くときは、いや、それは春の空でも夏の空でも冬の空でもその下を歩くときは決まって自転車を押しながらゆっくりと歩いていたから、自転車が空気を切り裂く風ではない、街路樹の葉を揺らすのと同じ速さの風を感じていた。きんと冷えた空気は襟の隙間から吹き込んでくることは無かった。僕が自転車を押して歩くのを、あのひとは嫌がった。だって、両手でハンドルを握るから、手を繋げないじゃない。そう言って嫌がった。僕はバランスを崩しそうになりながら片手で自転車を押して、もう片方の手であのひとの手を握った。ときどき大きくバランスを崩して、自転車が倒れそうになった。ばーか、と言って、自転車は邪魔だからきらい、そう言いながら、でも顔は笑っていた。どんな季節の空の下であっても、僕が自転車を押しながら、ゆっくりと歩く機会はすごくすごく減ってしまった。もう、何年もそうして街路樹の葉を揺らすのと同じ速さの風を感じながら押すことも、バランスに気を遣って片手で押すこともなくなった。自転車を漕ぐスピードをあげる。びゅう、と透明な、透明すぎる空気を切り裂いて自転車がその中を走った。漕いだ。ずんずん漕ぐ速さを上げていった。寂しさだとか、冷たさだとか、神聖さを感じるくらいの青さの空、透明な空気、それら全て。そういうものがひょっとしたら落っこちてしまうんじゃないかってくらいに漕いで、ぐんぐんとスピードを上げていった。そうして、目の前を走る女子高生を必死で追ったのに、終ぞその短いスカートの中の下着が見えることは無かった。
2006.11.09
時計の針が8時を指すのを待ってメールを送信した。10時からは研究班のミーティングだった。体調不良により欠席します。班の先輩にメールを送る。この時期にミーティングを欠席することの重大さを分かっているのかと、博士課程後期の竹原さんは目を三角にするだろう。その顔は、すぐに消えて、腕の中のサユリの顔を覗き込む。マスカラが溶けて頬に薄く黒い筋を残していた。眠ってしまったのは何時だろう。確か、外はまだ暗かった。この季節だから日の出は遅い。6時頃だったのかも知れないし、ひょっとしたらそれより後だったのかも知れない。息をゆっくりと吐いて、腕の中のサユリを起こさないようにソファにもたれかかって首を鳴らした。原付を隙間がほとんど空いていないアパートの駐輪所に、半ば強引に押し込んでサユリの部屋のドアまで走った。原付を走らせているときには殆ど感じなかったけれど、部屋の鍵を取り出そうとしたときに、手がうまく動かないことに気付いた。寒さでかじかんでしまった手では、鍵を開けることにひどく手間取ってしまった。苛立ちが強くなる。部屋に入ると、コタツの横で左手を押さえてうつむいているサユリと、コタツの上の包丁が目に入った。部屋には暖房が入って、痛いくらいの冷たさの中を走ってきた身体を包んでくれるような温度を感じたのに、背中には冷たいものを感じたままだった。「おい」サユリは動かなかった。見えている範囲では大きな出血が無いように見えて、少し落ち着きを取り戻した。横にしゃがみ、右手で押さえている辺りを見た。それからゆっくりと右手を外そうとした。「見ない…で」思ったよりも右手には力がこめられていたけれど、解くのにそこまでの力は必要なかった。傷は、思ったよりも浅かった。浅かったけれど、思ったよりもたくさんの赤い筋が並んでいた。水平にいくつか並び、それを横切るように斜めにも幾筋か走っている。黙って立ち上がり、クローゼットから小さな救急箱を取り出す。それをコタツの上に置いたとき、包丁に少し当たった。その包丁を握り、持ち上げたときに、ふだん料理をするときには感じない嫌悪感、そう、嫌悪感と呼ぶのが一番近い嫌な感情がざわりと握った手から背中を辿り、胸のあたりに落ちた。これが、サユリを傷つけた。いや、正確には傷つけたのはサユリ自身なのだけれども、そのときの僕には包丁が人を傷つけるおぞましいものとしてしか見えなかった。台所に向かい、包丁を半ば投げ捨てるようにシンクに置いた。ガキン、と鈍い音が響いた。包丁が視界から消えた後は、驚くほど冷静になった。消毒液を傷口に塗り、ガーゼを当てて包帯を巻いた。消毒液を塗った時に沁みたのか、サユリはそのときだけ身体をビクリと強張らせ、その後は全く動かず俯いたままだった。包帯を巻き終わっても、僕は左手を離さなかった。指先を軽く握る。サユリは動かない。もう少し強く握る。右手でサユリの左手を握り、残った左手でサユリの頭を撫でた。「苦しかった」サユリが初めて声を出す。頷く。サユリは僕を見ていない。けれど、何度も頷く。苦しかった。そうだろう、こんなにも幾筋にも腕を切るくらい。「そうやな」手首を切るリストカッターは、死ぬことが目的じゃない。それくらいは知っている。むしろ、死ぬほど苦しいから、心が苦しいから身体に傷をつけることでその苦しみから逃れようとする。生きるために、手首を切る。生きるために。「だいじょうぶ、な」頭を撫でる。自意識過剰かも知れないけれど、自分が居ることで、サユリは苦しさから開放されるんだと思っていた。自分が居れば、サユリは手首を切ることが無い。「俺がおるから。側におるから。ごめんな」サユリが顔を上げる。その顔は安堵に満ちた顔である筈だった。なのに。「切っても、切っても血が出ないの。私が、臆病だから。刃物が、恐いから」恨めしい目をして言ったその台詞は、耳を通し脳に届くのではなくて、胸の辺りに直接斬りつけるように響いた。うまく、口が動かなかった。本当に、サユリは苦しいから、それから逃れるために手首を切ったのか?「苦しかった」は、切る前の話じゃなくて、うまく切れなかったから…そこまで浮かんだ自分の考えを振り切った。サユリが、死にたいと思っているなんて、思いたくなかった。違う。手首を切って、動転しているだけで、だから何を喋っているのか分かっていないだけだ。そう繰り返して、サユリの後ろに回り、背中から抱き締めた。始めは強張ったままだったサユリの身体がゆっくりと僕にもたれかかった。そのまま、何も言わずにずっとそのままでいた。腕にサユリの体温が伝わる。生きている。生きていたい筈だ。だから、手首を切ったんだ。サユリの両手を僕の両手で包むように握った。僕の手首に包帯が触れた。大丈夫、だから。そう言おうとしてサユリの顔を覗き込む。その顔は、ぼんやりと宙を眺めていて、微かに動いた口が何かを言おうとしていることが見えた。サユリの目は、それから瞼が閉じてしまうまで、僕をとらえることは無かった。
2006.10.23
1週間が過ぎ、そして10日が経とうとしていた。サユリに1週間は会えないと告げてから、最初のうちは1日に5通のメールと毎日あった電話が、週が変わってから1日置きのメールになった。半分くらいの月が、それでもいやに明るい姿で黒すぎる空の中にあって、空気は上着を着ずに自販機に向かった僕の首元が痛いくらいだった。財布と一緒に携帯を取り出すと、ディスプレイのデジタル時計が丁度2時を指すところだった。その日も明るくなる頃に研究室を出ることになりそうだった。長時間ディスプレイに向かったせいでどんよりとした痛みが眉間の奥の方に鈍く響く。カップのブラックコーヒーの効き目も、最近は無いに等しい。けれど、それが無ければ、とてもこのままパソコンに向かい続けることが出来ないように感じた。サユリと会わなくなった所で、研究の進む速度が上がった訳ではなかった。一昨日のメールで「順調?」の問いに初めて「まぁまぁ」と返した。余計な心配をするな、と調子の良いカラ元気の返信ばかりを繰り返していたから、それだけの返信でも僕がどんな状況か分かったんだろう。無理をしないで、と繰り返したサユリの声は沈んでいた。僕にはカラ元気も残っていなかった。焼けるような熱さが口の中に広がった。猫舌だけれど、無理に熱いまま流し込んだ。身体に染み込んでいく、というのはこういう時に使うのだろう。喉の奥と胃の中から熱が腕のあたりまで広がっていくのを感じた。まだ熱いカップの端を持って、研究室のある棟に向かった。身体の芯はコーヒーで温められても、薄いニットの上から刺してくる空気で肌は冷えていった。左手の甲で触った頬は感覚が少し鈍くなっていた。タバコを吸うためには上着が必要だと左手をポケットに突っ込んだ後に思い、大きなガラスで仕切られた渡り廊下の中に入った。少し冷たさが収まった空気の中で、キリリと引き裂く音が響き渡った。正確にはピリリという着信音。着メロの類が苦手で、無機質な着信音を僕は選んでいた。それも、普段は鳴らすことなく振動のみで着信を伝えるに留めておいたが、この時は着信音が鳴った。静か過ぎる廊下に響いた音に少しビクリと身体をすくめてから、足早にもと来た道を戻り、再びキンと冷えた外に出てから携帯を取り出す。サユリの名前がディスプレイに映っていた。深夜2時過ぎ。さっきコーヒーで焼けた胸のあたりに冷たいものを感じた。「もしもし」電話口に出てから少し時間が空き、ややあってサユリの声が聞こえる。泣いているような、か細い声。何かを喋ったが、聞き取れなかった。「・・・った」それだけが聞こえた。「もしもし?どうした?」少し苛立って大き目の声を出した。声が上ずる。寒さのせいと、胸の辺りに感じる冷たく重いもののせいがあった。こんな時間の電話は普通の何でもない会話のためではないことは嫌でも分かる。「どうした?何かあった?」繰り返した。「切・・・った」そう聞こえた。次の瞬間、サユリの手首に残る幾筋もの傷跡が頭に走った。携帯を握った右手が震えたのは、もう、寒さのせいだけじゃなかった。「手首か?」声が出なかった。開いた口が渇いていくのを感じる。顎がガクガクする。胸にあった冷たくて重いものは痛みになって中からドンドンと叩いている。「なん、で」それだけを乾いた声で言った。電話の向こうから鼻を啜り上げて、しゃくり上げるような息遣いが聞こえる。「すぐに、行く」電話を切らずに研究室に向かって走り出した。廊下を全速力で走り抜け、誰も居ない研究室に飛び込むと、財布と鍵が入ったコートだけを椅子から引っ張り上げ、パソコンの電源を点けたまま電気を消した。原付が置いてある駐輪所までは少し遠かったが、走る足を緩めなかった。原付の横でコートを羽織ると、マフラーを忘れたことに気付いたが、そのまま原付にまたがった。正門脇の通用口を出たところで思いっきりアクセルを開いた。汗がにじんだ首筋に冷えた空気が当たり、痛みに近い冷たさが走る。それでも、大通りを出たところで更に原付を加速させた。サユリのアパートに向かう大通りの方向に、明るすぎる半月があって、それが少しだけ視界に入る。その後は、信号機さえも視界に入っていたか、怪しかった。
2006.10.12
夏でも涼しいことだけが取り柄の地元で汗だくになって歩いていると、もう帰ってくることの意味なんて何も無い気がしてきた。夕日の照り返しがひどいアスファルトはキャンバスの靴底を溶かしてもおかしくない。心なしかゴムの靴底が焦げる臭いがしたけれど、それは家々の前にある打ち水が蒸発する匂いにかき消された。「俺らが出会って、もう、10年になるんか」しみじみ、という副詞の模範的とも言える言い方で、カズヤが呟いた。ビールには一口しか口をつけず、2杯目の烏龍茶が入ったグラスを空にしていた。グラスを指差すと「烏龍茶」と答える。「高校のときと酒の強さが変わらない」と笑った。僕は高校の時と比べ物にならないくらい酒は強くなったけれど大学生の頃よりは弱くなった。そう言うと「歳だな」と周りが囃し立てた。10年。その数字がウソに思えるほど、信じられないほど目の前にある顔は変わらなかった。誰一人として、あの頃のままのように見えた。お盆や正月になると必ず声がかかり、こうして顔を合わせているからだろうか。中には滅多に顔を合わせないヤツもいた。カズヤもその一人で、考えてみればこうして顔を合わせるのは5年ぶりで、酒を飲むのは6年ぶりだった。カヨに至っては顔を見たのは高校を卒業するとき以来、つまり8年ぶりになる。少し遅れてきた彼女を見ると、おおー、という歓声が上がった。女性陣からは「キレイ!」「カッコいい!」という言葉が飛び交い、タバコを取り出して火を点けたときにも同じ声があがった。ただ、その賞賛の声を聞いて少し照れたように小さく笑った顔は、8年前と全く変わっていなかった。「タバコなんて、全然カッコよくないよ。肌にも悪いし」そう言って煙を吐き出し、焼酎のロックに口をつける姿は、確かに、カッコいいオトナの女性に見えたので、僕も「それ、カッコいいわ」と言い少し睨まれた。エイジとキヨトとナオヤ、サツキとそれからハルコは地元で働いていて、その他もみんな同じ県内に残って就職していて、僕とユウヤとカヨだけが遠く離れたところで就職していた。僕とユウヤは毎回顔を合わせていたけれど、ユウヤの方がみんなとよく連絡をとっているらしく、みんなの事情に詳しかった。時には地元に残っている人間より詳しい話を知っていて周りを驚かせた。そして、今回も。「はいはーい、注目ー」ビールの入ったグラスを片手に持ってユウヤが立ち上がった。「発表がありまーす」ニヤニヤと笑いながら、ハルコとナオヤを交互に見るものだから、すぐに何の事かわかった。「びっくりするなよー」もったいぶるユウヤに向かって言う。「結婚、するんだろ。ふたり」「え!知ってた!?」「いや、分かるよ、お前見てたら」ハルコとナオヤは高校の頃からずっと付き合ってて、だから今年で8年目か9年目になる。「おめでとう」軽くグラスを上げたところでユウヤの大声が響いた。「かんぱーっい!!」僕らは笑っていた。サツキが持ってきた高校のときの写真を見た。同じ顔で笑っていた。写真の顔は若くて、やっぱり顔は変わってしまっいたけれど全く同じ笑顔だった。仕事帰りのナオヤはスーツにネクタイだった。エイジは坊主だった髪を伸ばして、キヨトは親父になっていて、マサミは小麦色だった肌が真っ白になっていて、黒髪のストレートで真面目そうだったユリは茶色い髪を巻いて化粧をしていた。けれど同じ顔で笑っていた。明日も仕事だと言うナオヤはすぐ帰り、しばらくしてから人が減っていった。最後に残ったのは集まった15人中5人だけだった。3人は停めてあるキヨトの車に向かった。ここから歩いて15分のところに家がある僕は、ハルコが迎えの車を待つのに付き合った。タバコをもう一本取り出す。「歩きタバコ」ハルコが僕を指差し「立ち止まってるやろーが」ポケットから携帯灰皿を取り出して苦笑いした。覚えているこの街での夏の夜の記憶。忍び込んだ学校。花火。一晩で5ケースのビールを空にしたキャンプ。そのどれにも涼しい風が髪の毛や半そでの腕や頬を撫で付けていた。今は。じっとりとした空気がまだそこで淀んでいた。「ここは、変わらん」灯りの消えた商店街を見ながら言った。「うん、ちっとも変わらん」ハルコがしゃがんだ。「私は。私は来月、結婚する」「うん」「短い間だったけどね、外の街へ出て思った。私はこの街が好きなんだって」「そうやな、俺も、好きだわ」記憶の中の涼しい風とは似ても似つかない濁った温度の風が吹いた。「戻ってはこないの?ここに」「勤め先が無いし、それに」それに、退屈だ。それは言わなかった。「それに、もう少し、外の街を、あちこちに行ってみたい」「そっか」「好きやけどな、ここは。もう少ししたら帰ってくるかもしれない」帰ってくるかもしれないし、帰って来ないかも知れない。「結婚してね、きっと、ずっと私はここにいる。だから、さ」そう言って立ち上がって伸びをした。もう一度風が吹いた。さっきより幾分、気持ちの良い温度が流れた。「いつでも、帰っておいでよ」「おお」携帯灰皿にタバコを押し付ける。手のひらに熱が伝わる。それと同時にハルコの電話の着信音が鳴って「うん、分かった。そっちに行くね」ひとことで電話を切った。「それ、じゃね。結婚式の2次会の案内出すから」ひらひらと手を振って灯りの消えた商店街を走っていく姿を見てもう一本タバコを取り出した。風はもう吹かない。街灯の下にいる自分の姿がショウウィンドウに映ってさっき見た写真の笑顔を作ろうとして、やめた。変わってしまったこと。変わらないこと。写真の顔と同じ顔で笑えなかったら、ってことを考えると、少し恐くなったことも少しあったし、何より。実家に帰って明らかに肥ったことに気付かされたたから。
2006.08.24
「よぉっ」「おお」景気良く上げた右手の調子に合わせて、思わず自分も右手を上げてしまった。向い側から歩いてくる姿は、普段通りの姿で、もう少し正確に言うと『普段通り過ぎる』姿だった。つまり、彼女はすっぴんに近いメイクでTシャツにジーンズとスニーカーだった。「よぉっ」僕の目の前に立って、エリはもう一度同じ台詞と同じ動作をした。右手を上げて、それから薄い唇をめいっぱい横に広げてその端を上げた。「お待たせ」ちっとも待たせたことを悪びれない様子で言った。「7時を15分ほど過ぎてるんだけど」「ごめん、悪かった」「まさかとは、思うけど」「まさかとは、何さ」「寝てた?」目をそらして口笛を吹く真似をしたワザとらしい姿は図星だと認めるのと同義だ。エリは、もちろん、口笛を吹けない。それから、昼間から2通送ったメールの返信が無かったことからもそれは割と簡単に想像できた。そして、何より、彼女は昨日、朝まで飲んでいたはずだった。「寝癖」「うそ!?どこ!?」「うそだよ、やっぱ寝てただろ」その指摘を無視するように、彼女はまくしたてた。「聞いてよ!」「いいから、聞いて」「何だよ」「起きて、携帯を見たら、何時だったと思う?」「知らんよ」「6時半過ぎてたんだよ!それから顔洗ってちょっとメイクして服を着替えてバスに乗って来たんだ。偉くない?すごくない?」「7時に待ち合わせで6時半に起きる時点で偉くない」「あ、お金下ろしてきていい?」都合が悪くなると、すぐ僕の言葉を無視する。ワザとらしく首をすくめて両手をあげた。エリが到着する寸前に、予約したお店には30分遅れることを伝えた。平日だったこともあってか、それとも単に人気の無いだけか、アッサリ了承を得ることが出来た。銀行からダイニングバーはすぐ近くだった。先に立ってスタスタ歩き出したエリの着てるTシャツが、僕が見たことのないものだったことに気づいた。いつもの古着じゃなかった。首元にラインストーンがあしらわれていて、たぶん、それは新品だった。遅刻したなりにもおしゃれしたつもりだったらしい。それが良かった。きっと、彼女には巻き髪とバッチリメイク、ワンピースとミュールよりもそれくらいのおしゃれの方がずっと似合う。「それじゃー、乾杯!」景気よくジョッキを鳴らした。うだるような暑さの中を歩いた後の生ビールは、よくのどに染み込んだ。ジョッキの半分を空けた僕を見て、エリはレモンサワーを更に飲んだ。彼女は変なところで僕に張り合う。「っあー、うめー」ジョッキを置いて言う。本当に、それはうまかった。「オッサンじゃん」「うるっせーな」僕の言葉に、エリはまた、唇をめいっぱい横に引いた顔で笑う。僕は、その顔がすごく好きだった。飾りっけのない、媚びた感じの全くしない、その笑顔が。僕は何度かそれをエリに言ったことがある。その度、同じ顔をした。恥ずかしがることは無かった。むしろ得意げだった。「小さいころから、笑顔が良いって何度も言われてたから。必殺スマイル、ってヤツだね」なにが『必殺』なのか分からないけれど、少なくとも僕はその笑顔にやられた訳だから、まぁ、ある意味『必殺』か。「あ」「なに?」「いやいやいや」テーブルにくっつきそうなくらい顔を下げてニヤニヤしながら僕の顔を見上げる。「なに?」「間違えましたよ」「ああ?」置いたばかりのジョッキをもう一回持って、僕に向かって差し出した。「誕生日、おめでとう!かんぱーいっ!」笑って僕もジョッキを差し出した。ガチン。景気の良い音がもう一回鳴り響いた。今日は、僕の、誕生日だった。彼女と過ごす、初めての誕生日。その割には自分でお店を予約して、あげく彼女は遅刻し、Tシャツとジーンズとスニーカーで現れた。それでも、いい気分だった。だって、目の前にいるのは、時間にルーズで、Tシャツとジーンズとスニーカーが似合って、とびきりの笑顔を持っている大好きな彼女だったから。「はいはい、それじゃ、お待ちかねお楽しみのプレゼントタイムですよ」カバンからヴィレッジバンガードの袋を取り出して僕の目の前に差し出す。それを受け取って、プレゼント用の包装紙にくるまった包みを出す。包装紙を開けると、無意味に大きい目覚まし時計が出てきた。「これ、どっちかと言うとエリのほうが必要だよな」「いや、喜べよ」「ん。ありがと、な」僕に家にはすでに目覚し時計が2つほどあるのだけれど、更に朝が騒々しくなるだろうことを想像した。この無意味に大きな目覚し時計は特に大きな音を立てて、僕を夢の世界から引きずり出すだろう。それはエリが僕を起こすときによく似ていると思った。僕の家に泊まるとき、エリは僕をバシバシ叩いて起こした。「朝だー!」僕をバシバシ叩いて大騒ぎして僕を起こした後、いつも自分は2度寝した。「さ、私の誕生日には、何が出てくるのかな」プレゼントを渡したことで、僕のお祝いはすでに彼女の中で終わったらしい。彼女は半年後の自分の誕生日のことを話し始めた。必殺スマイルで。*****今年の誕生日も一人で迎えました。8月12日。ハッピーバースディ、自分。(誕生日プレゼントは随時受け付けております)*****【追記】「祝え」と言わんばかりの恩着せがましい内容の更新にもかかわらず、おめでとうメッセージを何通かいただきました。本当にありがとうございます。現金の方が良かったなんてことは心の切れ端にも思いません。いま現在、自宅からは離れた場所(ヒント:漫画喫茶)に居りまして、この先はいつPCが触れるか分からない状況にありますが、きっと、いつか、必ずお返事をいたします。まことに失礼ながらこの場を以ってメッセージを頂いた方に御礼申し上げます。ありがとうございました。あんまりうれしいので、来月も誕生日とか言い出すかも知れません。
2006.08.12
そのときも、僕は約束を守れなかった。10分。彼女が10分の間、恨みつらみを言った後に、それ以上には絶対に何も言わない。だから、僕らはやってこられた。そして。だから、僕らは終わってしまった。きっとそうなんだと思う。僕は約束を守れないことが多くて、彼女はそんな僕を結局いつも許した。花火。花火に行けなかった。否、行かなかった。人ごみが嫌いで、暑いのも嫌いだった。高いだけで不味くて不衛生な出店も、甚平を着て歩く金髪も、好きじゃなかった。つまり、僕は花火が、花火大会が好きじゃなかった。彼女も、マナミも実は、僕と同じだった。人ごみも暑いのも出店も甚平姿の金髪も嫌いだった。違ったのはすごく花火が好きで、そして、好きな人とそれを見るのを、僕が理解できないくらいに楽しみにしてたこと。それは、僕が真夏のカンカン照りの中で汗まみれになりながらロックフェスに行くことを、彼女が理解できないのと同じ理由だと僕は言った。「浴衣」その日も例外なく暑かった。2回目のカフェでの休憩の後。夏休みは5割増になる人通りの中に浴衣の女の子が二人いた。キャミソールから出た細い腕を伸ばして、真っ直ぐに指を差した先に。「ゆーかーたー」「はいはい」「いいな」「いいね、俺も好き。浴衣。帯でグルグルーって」「あーれーお代官さまーってね」「良いではないか良いではないか」左手のマナミを見た。冗談を言ってるときの顔じゃないことはすぐに分かった。「いいな」もう一度言って、指していた指を僕の左手に絡ませた。僕は彼女の顔を見るのをやめた。富田林で花火があったのを聞いたのは、その夜のニュースだった。10万発の花火。日本一の。10万という数字がよく分からない。大学の友達が言うには見なきゃ分からない迫力だって。じゃあ、僕にはきっと一生分からない。洗い物が終わってマナミがソファの下に座った。僕はまたマナミの顔を見なかった。彼女は何も言わなかった。責めてるように感じた訳じゃなかった。けれど、僕は思わず口にした。花火に、行こうって。「嫌いでしょ、花火大会」「まぁ、好きじゃない」「うん、去年ずっと言ってた」「付き合いだして、すぐな」「わたしが、好きな人と花火行くのがすごい楽しいって言ったときに」「じゃあ、行こうか」「覚えてないの?」「何を?」ソファの下からマナミが僕を見上げた。責めてる訳じゃなさそうだった。けれど好意を持った顔じゃないことは確実だった。「何を?」もう一度尋ねて、僕がとぼけてる訳じゃないことに気付いたように諦めた顔になった。「去年も、そう言った。じゃあ、行こうか、って」富田林で日本一の花火があがった何日かあとに、淀川の空で花火があがる。バイトのシフトを確かめた。見事に。シフトが入ってた。2度確認したから間違いない。携帯を開いてマナミにメール。10秒もしないうちに着信音が鳴った。「ばーか」絵文字も入れずに返ってきたメールを見て、さて、どうやってなだめようか迷った。すぐに折り返した電話が留守電に繋がった。中途な約束はするもんじゃない。何回目かのおんなじ反省をしたあとに、大学の研究室へ向かった。夏休みは、4年生には関係が無い。研究には、関係が無い。世間が休みだろうが、暑かろうが、花火があがろうが、彼女を怒らせようが。「と、言うことで、実家に行って浴衣を持ってきた」研究室からバイトに行って、夏休みはどこ行ったって感じの1日を終えたところに、マナミから電話が入った。原付をとめてすぐに着信音が鳴った。「浴衣、って。誰かと花火行くのか?」「誰かって、あんたやん」「だから、バイト」「だから、淀川じゃないって」なにが「だから」なんだ?「淀川じゃなくて、宇治川。それに行こう」マナミの実家は住んでるアパートから片道2時間半はかかる。往復5時間かけて、浴衣を取りに行った。どうしても、今年は行くんだって。こうして僕は後に引けなくなった。遮断機の下から見た花火は、富田林にあがる10万発の花火の10分の1もないんだって言う。それでも浴衣のマナミの右手を握って、首が痛くなるくらい近くで見た花火は、じゅうぶんにすごかった。もう、表現力が乏しいにも程があるんだけれど、何年ぶりかに見た花火はすごかった。そして、マナミが花火を見たかった理由が、好きな人と花火を見たかった理由が分かり過ぎるくらい分かった。花火が上がってる間、ほとんど僕らは喋らなかった。暑かった。人も多かった。もちろん、甚平を来た金髪も何人もいた。高くて不味いタコ焼きも食べた。それでも、僕は左手をマナミは右手をずっと離さなかった。花火が終わり、人が流れて、息が詰まるくらいの人ごみの駅、それから駅を降りて、マナミのアパートに着くまで。何を喋ればいいのか、と言うより何か喋るのがもったいないというか。ただ、マナミは今にも笑い出しそうな顔をずっとしてて、僕もきっと同じ顔だった。「来年も、行こうね」ふたり、きっとずっと帰り道の間思っていたことを、部屋についてからマナミが言って、「おお、行こうか」僕は缶ビールを開けながら言った。そして、また僕はその約束を破った。いや、破ったのはマナミも一緒か。僕らが、二人で花火の咲く空を見上げることは、もう、無い。僕は富田林で10万発の花火があがったのを、今年もニュースで知った。
2006.08.03
アスファルトはまだ濡れていた。僕が昔住んでいた街は、昼は身体を溶かして汗にする温度にまで上がっても、夜はひんやりとした風が吹く、そんな夏を過ごすことが出来た。ただ、大学進学のために出てきたこの街は、皮膚を焦がす日差しが無くなった後にも、身体を溶かす温度と湿度は残したままだった。深夜の夕立が止むと、バカみたいに電気メーターを回すクーラーの効いた部屋から追い出されて、買出しに行かなければならなかった。言い出しっぺはユウスケだった。真夏にクーラーのガンガン効いた部屋でキムチ鍋をやる、これが究極の贅沢だと彼は言って、ユウスケと彼女のチヒロ、アキラとショウジ、それからユウコとメグミ、僕の7人がユウスケの部屋に集まった。まぁ、想像以上にこの提案は素晴らしいものだと、始め面白半分に集まった僕らは認めざるを得なかった。真夏にクーラーの効いた部屋で食べるキムチ鍋はうまかった。真冬に食べるそれの、何倍もうまかった。ように感じた。それからは、結局いつもと同じに、鍋を食べながら片手に持っていた缶チューハイとビールから始まって、いいちこや安いジンとウォッカをオレンジジュースで割ったものを飲みながら、プレステで2人一組になっていただきストリートをやった。つまみと、酒が少なくなったから、最下位チームが買いに行く、と。それもいつものことだった。そして、僕とメグミが、夕立のあがった住宅街の毛細血管である路地を歩いた。「あそこの増資のタイミングが…」とか、そんな反省をするでもなく、いただきストリートでは完膚なきまで最下位だった。僕には、計算とか経営とか、それ以前に先の見通しを立てる能力がひどく低いように感じられた。コンビニまでは少し離れていた。ユウスケの住んでいるマンションがある住宅街のすぐ側に平成への時代の移り変わりを拒否し続ける商店街があった。商店街が近くにあって便利、というのは昭和の話で、僕らは平成の、21世紀を生きている、しかも主な活動時間を夜とする学生だ。僕らはその『便利』な商店街を抜けてコンビニに向かった。多種多様の店舗が並んでる商店街はシャッターが下りていて違いが分からなかった。「夜なのに、あついー」メグミは両手を顔の前でぱたぱたと振った。なまるい空気を混ぜ返しても涼しくなんかなりそうにも無かった。首元を右手でつかんでTシャツの中に空気を送り込んで僕は思った。「夏だから、あつい」そう答えた。暑さよりも、まとわりつく湿気が不快なんだ、そう付け加えた後に「西海岸じゃ、同じ気温でも湿気がないから過ごしやすい」と言った。僕がアメリカに行ったのはずっと昔のことで、そのときは春だったから実際はどうだか知らない。「アメリカは、いつも、なんかズルイ」メグミがひとりごとなのか、僕に言ってるのか分からない声のトーンで更に言った「男も」。それは、別れたばかりの恋人のことだと思った。「健全な大学生男子は、遊ぶものだ」「浮気は文化?」「それは違うけど」「ずるいだけだ。卑怯だ。不健全だ。バカだアホだスケベだ!」両手を広げて叫ぶメグミを1歩下がったところから見てた。酔っ払ってるな、確実に。そう思った。確かにメグミはいつもより酒を飲んでた。それからずんずんと真っ暗な商店街を歩いていき、その2歩くらい後ろを何も言わずに歩いた。商店街が終わって目の前に片側2車線の車道があった。向かい側に青い看板のコンビニがあった。信号は黄色だけが点滅していた。メグミはそのままずんずんと歩き続けて車道を渡ろうとした。「おいおい」声を出したのか出してないのか、はっきりとしないけれどメグミは立ち止まってこちらを向いた。いまは真夜中で、車道は見通しが良かった。けれど、メグミは真っ直ぐ正面だけ見て、酔ってるくせにずんずんと歩いていた。さすがに、それは危ない気がした「おいおい」だった。「おいおい」僕は改めて、今度はちゃんと声を出したことを確認しながら言った。「点いてない」メグミが歩行者用の信号を指差した。赤も青も青の点滅も無かった。「点いてな」「赤は!」僕が言い終わらないうちに声を張り上げた。「赤は、とまれ!青は、進め!」指を真っ直ぐに信号機に向けたまま声を上げる。「信号機に従わなきゃいけないなら。いけないなら、黒は?」「くろ?」「くろ、だ」歩行者用の信号機は何も点いてない。黒。確かに。黒、だった。「知らん」僕はメグミに追いついた。見通しのよい車道の遠くにヘッドライトもバックライトの赤も無かった。ずっと黒、だった。車道を渡りだした。そのあとにメグミが走ってついてきた。黒は?ハッキリとすべきことを示してくれるものが見えてるなら。「進め」とか「とまれ」とか「好きだ」とか「嫌いだ」とかそういうものが、いつも見えてたらきっと誰も何も考えずに、盲目的と言ってもいいほどその通りにするだけ。赤だったら真夜中で車が一台も無くてもぼーっと突っ立てるだけかも知れない。だけど、黒だったら。自分で、決めなきゃ、いけないだろ。例えば。例えばの話だけれど、恋人と別れたばかりの女の子が他の男にいきなり好きだって言われたらどう思うかなんて、その子の顔に書いてある訳ないし、まして、自分のことをどう思ってるかなんて。だから、僕は分かりきってることをやった。コンビニでビールと酎ハイとウォッカとオレンジジュース、おつまみとチョコレート、そして2本アイスを買った。夏にアイスを食うのは、間違いが無くてハッキリとしていることだった。僕と、そしてメグミの分のアイスを買って、それを食べながらコンビニ袋を下げて帰ること、それは青信号ですごく分かりやすいことだった。「ガリガリ君は、あんまり好きじゃないんだよなー」僕は右手に持った食べかけのガリガリ君を口にくわえて、メグミの頭をはたいた。メグミはグーでコンビニ袋を下げた左手の肩を殴った。袋の中身をがちゃがちゃさせながら僕は走った。ぬるくて、じっとりと湿った空気の中を走って、汗をかいた。メグミも走った。マンションの入り口で暑い、暑いと二人で言いながら汗をぬぐった。「なんで、走るのよ」もう一回左肩をグーで殴られた。そのあと、部屋で勢い良くビールが缶から飛び出し、僕は部屋にいた全員からはたかれた。黒信号で立ち止まった僕の夏は、こうして終わった。そして僕は今では赤信号でも平気で渡る。(そして、轢かれる)(引かれる、のです)
2006.07.24
みんなからはクーと呼ばれていたから、僕も彼女をクーと呼んだ。初めて会ったのはバイト先のいっこ上の先輩のマサヤくんがバイトの飲み会の2次会に連れてきたときで、そのときクーは18歳だと言って、その1ヵ月後に実は16歳だったことを知った。その場で本名も聞いた気もする。でもすごく周りがうるさくてよく聞き取れなかった。それに僕は1次会ですでに酔っていた。「今日もクソ忙しかったけど、お疲れっしたー!!」2次会の乾杯の挨拶は1次会と一緒で、確か前の飲み会の時とも同じだった。大学に入ってからすぐに僕はここのバイトを始めて、正直バイトはクソがつくほど面白く無くて忙しかったけれどその分バイトの人たちはクソがつくほど面白かった。何だかんだ理由をつけて週に一度は朝まで飲んだ。僕がそのバイトをやっていた時期は、実質3ヶ月と半月くらいだったけれど20回近くは飲んだからそういう計算になる。特にマサヤくんはバイトの中でもリーダーというかムードメーカー的な存在で、いかにも遊んでそうな大学生の風貌で、そして実際遊んでいた。悪い人では決して無かったけれど。クーはマサヤくんの隣に座って、その向かいが僕だった。田舎から出てきたばかりの僕は、大学デビューに憧れて、バイトを始めて最初のうちはこういう場に慣れているように振舞っていたけれど、その頃にはたぶん、少しは本当に慣れていて、女の子に「遊んでそうな大学生」のような喋り方をしていた。「お、ハジメマシテー」僕がそう言うとすごくゆっくりとした喋り方で「こんばんわー」と言った。頭が悪そうな子だなと思った。クーはマサヤくんの隣にずっといて、周りの会話に時々笑ったりもしていたけど、大体きょとんとした顔をしていた。肩まである髪は真っ黒のストレートで、長すぎるくらいのマスカラの下に見えた黒目が大きくて、対照的に胸の辺りが広く開いた服から見える肌が真っ白だった。白黒のコントラストが強い見た目とは違って、中身はぼんやりとしてそうだった。大体、深夜を過ぎた飲み屋のトイレはひどい状況になっている。特に週末ともなれば凄惨な現場を目にする可能性は高い。おえぇと声を立てる何人かの「死骸」が転がっているトイレから戻ってくる時に、矢場くんとすれ違った。矢場くんが上機嫌そうに「おー」と手をあげた。「なぁ、あの、今日来てたクーて子、いるじゃん」「ああ、マサヤくんが連れてきた子っすか?」「そうそう、あの子、さ。誰とでも寝るらしーよ」「マサヤくんの彼女じゃないんすか?」「マサヤの彼女じゃねーよ。アイツいま居ないって。あ、いるかも。まぁいいや。クーは、便利な子ってやつ」ちょっとフラフラしながら矢場くんはトイレに行った。『誰とでも寝る子』って、実際にはあまり聞かないけれど。やっぱりそういう子はいるんだなと思った。矢場くんは「らしーよ」って言っていたので矢場くんとは寝てないんだとも思った。それから僕はセックスのことを『寝る』っていうのはテレビの中だけだと思っていたので、そう聞いてもなんだかぱっとしないまま席に戻った。クーはウーロン茶を飲んでいて、その視界に入るようにわざと身体を乗り出し、いま聞いたことを表に出さないように「たっだいまー」と変に高いテンションで言った。「おかえりー」手を目の前でパタパタと振って笑った。その喋り方はやっぱりゆっくりでバカっぽいなと思った。クーは飲み会の度に席に居た。よく考えたらクーは高校生のくせに、朝まで僕らと飲んでいることがほとんどだった。都会の高校生はこんなもんだと僕は勝手に納得した。でもそれから今までの間で、僕はクー以外に朝まで飲み屋にいる高校生には一度も出会ったことが無い。とにかく、僕はいつの間にかクーの電話番号とアドレスを知っていて、「女子高生を紹介しろよー」と相変わらず「遊んでいる大学生」のようなことをしていた。酒が無い席で女子高生と盛り上がる術なんか知らないくせに。クーは本当に女子高生を連れてきて僕と大学の友達とカラオケに行ったこともあった。大学の友達はクラスが同じってだけで、その話をしたときに初めてメルアドを知ったくらいの仲で、少なくとも僕よりは本当に「遊んでそうな大学生」だった。カラオケのとき、僕はクー以外の女の子とほとんど喋ること無く、一緒に行ったヤツのひとりはそのときの女の子と付き合い、別の一人は自慢げに「女子高生を喰った」とその2週間後に僕に言った。「マジでかー!」と僕は大げさに言いつつも、それほど何とも思わなかった。クーはカラオケのあと、「意外に大人しいんだねぇ」と僕に言い、なんだか悔しいような気がした。「女子高生を喰った」って自慢してるヤツの話を聞いたとき、そいつの方が世間では普通と思われているような気がして、それを少し思い出した。クーが僕を呼び出したのは、バイトを辞めて1ヶ月くらいの真夏で、僕は日雇いのイベント設営のバイトをした帰りだった。真っ黒に日に焼けた僕を見て、「遊びに行ったのー?」と聞いて「バイト」とだけ答えた。「あのね、わたし、マサヤに告白しようと思ってる」前置きも何も無く、クーが話し始めた。「どうすれば、いいと思う?なんて言われたら男の子は嬉しい?」バイトを辞めるまでの間、僕はマサヤくんとよく一緒に遊んでいた。飲みにも行ったし、バイトのメンバーでバーベキューに行ったりもした。それは僕がバイトを辞めた後もちょくちょくあって、僕はマサヤくんのことをよく知ってるつもりだった。面倒見がいい人で、周りをよく見て、リーダーシップもある。何より頭が良かった。勉強じゃなくて、生きてく上での。ただ、女癖だけが本当に悪かった。きっと、僕なんかが想像できないくらいうまいことやるんだろうけれど、何人もの女の子の話を、何人もの人から聞いた。「無理だと思うよ」僕は率直に答えた。変に期待を持たせても仕方が無いと思った。高校生だったら、マサヤくんなんかすごく魅力的に見えるだろう。憧れの対象になっても全然無理は無い。でも、それだけのほうがいいと思った。「マサヤくん、すげー遊んでるって知ってるでしょ」「うん。知ってる」「告白しようが、何も変わらんよ」「それも分かってる。って、バカかな、わたし」オレンジジュースの氷をストローで1回だけつついた。僕は背伸びして頼んだ好きでもないアイスコーヒーを一気に飲んだ。「バカだと思う」最初から僕はクーをバカっぽいと思っていたし。『誰とでも寝る子』って言われているのが、更にそれを強く思わせた。実際に誰とでも寝るのかは知らないけれど。「バカかな」言った顔は今にも泣きそうだった。少し慌てて付け加えた。「恋は、人をバカにするって言うしな。仕方ないかもだけど」全然フォローにも何もなってなかった。しかも、ろくに恋もしたことのない僕が言うんだから、いま考えると僕もバカにしか見えない。「ありがとう」クーは何のお礼か分からないお礼を言った。僕はきまりが悪くなった。「したいなら、すればいいじゃん。でも無理だと思う」「うん。何て言えばいいと思う?」「何て言えばって。『好き』って言われたら嬉しいもんだよ」僕の場合は、そうなんだろうけど。マサヤくんなんて告白され慣れてるだろうな。きっと、すごく、それは僕にとって難しすぎる問題だった。大学で初めての期末試験のどの問題よりも。そして僕はカンニングすることも出来ないのだから。「うん、わかった。やってみる」クーは残りのオレンジジュースをストローで吸って、僕はそれを見た。視界に胸の開いたキャミソールが入って、その白い肌と胸の谷間が見えた。「ありがとう」もう一度クーは僕にお礼を言った。「あのねぇ」「なに?」「うんと、マサヤの次に好きだよ。2番目に」「はぁ?」「だから、マサヤにフラれたら、わたしと付き合ってください」「何言ってんだ」僕はつとめて冷静に言った。本当は動揺していた。胸元の白い谷間がまた視界に入って、『誰とでも寝る子』って言葉が僕の頭を回った。「あんな、そんな2番手って言われて、保険みたいな言い方されて、喜ぶかと思うか?今の告白は2点」「うん、だよねぇ。ごめんねぇ」クーはそこで店に入ってから初めて笑った。笑った口から見えた歯もやっぱり白かった。実はそれからクーとは会ってないし、連絡も無い。マサヤくんとはそれからも何回か遊んだ。あの後に連れてた女の子はクーじゃなかった。だから僕はマサヤくんにクーの事を聞くことも、クーに何かを聞くこともできなかった。クーがフラれるって最初から分かってて、やっぱりフラれたんだろうけれどクーは僕に付き合ってと言うことは無かった。クーと初めて会ったのは、僕が大学に入ってすぐの18のときで、クーはそのとき自分のことを18歳と言ったけど本当は16歳だった。喋り方が頭悪そうで、実際にバカだって思ったこともあった。黒くて真っ直ぐな髪の毛と、大きな黒目。それと対照的な白い肌と白い歯。おっぱいが少し大きくて、胸の開いた服を着てることが多くて、そこから胸の谷間が少し見えてて。『誰とでも寝る子』って言われていた。それから、僕のことが、たぶん、好きだった子。2番目に好きだと言った子。実際にクーが『誰とでも寝る子』だったのかは知らない。ただ、言えることは。クーは誰かに恋して、そして真剣に悩む子だったってこと。それと。僕とクーは寝ていないってこと。
2006.06.20
放課後の図書室、それも夕方の図書室は何か秘密めいたことが起こるにはすごくうってつけの場所なんだと、思春期を迎えて少したった頃には思っていた。心のどこかにある ものすごく甘ったるくてそれでいて胸が締め付けられるように酸っぱくて苦しくなるものと、あと、憶えたての恥ずかしくも興味があって仕方の無い少しヨコシマな気持ち。それこそまさにその図書館で読み漁っては想像の中でしか存在しない「少し気が強くて冷たい態度を取るんだけど、どこか主人公に惹かれてるところがあるヒロイン」と、二人だけしか知らないキスに、口ではバカバカしいと思いながら期待していた。図書室のカウンターに座り、そういうことが起こる事を期待してみたりそんな自分がバカだと思ったりを繰り返した。その時の僕には読んだ本の女の子とは少し違うけれど、好きな子がいた。肩の長さくらいに切りそろえられてストンとおりた黒い髪の子。笑うと右の八重歯だけ見える子。バカだと思われても仕方ないけど、僕は彼女と同じ図書委員になるだけで、何か「そういうこと」が起こる気がしていた。ただ、あの子にはずっとカレシが居て、それは違う学校のサッカー部だって聞いていた。他のヤツからは同じ学校の男子バレー部のキャプテンと付き合ってるって聞いて、そしてあの子の親友は「好きな男は同じクラスに居るんやって」と僕に言った。あの子の親友の美菜は、僕があの子を好きなんだろうって言った。僕は違う、とだけ言ってそれを見て「ふうん」と笑った。その言葉に希望を持ったり、また学校の裏山の神社にある公園で男と二人で居たのを見た、キスしてたって話を聞いて絶望したり。「思春期」は忙しい心の浮き沈みをひとことで片付ける、そんな便利な言葉なんだろうけど、じゃあまさにその時の僕は「思春期」そのものだったんだろう。そして放課後の図書室カウンターに僕と彼女が一緒に座ることは、ついに最後まで無かった。図書室の本の匂いは嫌いじゃなかった。紙の匂い、かどうかは知らないけれど。比較的新しい校舎の中にあるからカビ臭さや暗さは無かった。陽がよく差し込む図書室で、本が傷まないように本棚はうまく窓に背を向けるように並んでいた。都合よく本棚が囲うようにして、入り口や机の並んでいる場所からは見えない一角に、その日、僕と何故か美菜がいた。「ちょっと。いい?今からここに呼んでくるから。ここまでお膳立てしといて何も無いとか、それは無しだからね」なんで女子ってこうなんだろう。おせっかいも度を越すと嫌がらせとしか思えない。僕は嫌に冷静に考えてため息をついた。あの手のタイプは何を言っても聞きやしない。いまからあの子が来るって考えるとどうしたって心拍数は上がるけど、でも、何か委員会の話でも何でもしてやり過ごせばいいと思った。僕は、その、変に大人ぶってカッコつけで。告白なんて、男子からするものじゃなくて女子からするもんだと硬派ぶったことを思っている、結局 意気地無しで。あの子がやって来て、「今度の図書月間のポスター、係は水田と西口とやんな?2枚だけでええんやろ?」と言った。きょとんとした顔でこっちを見て、「そうやけど、用ってそれだけ?」「おう」「えぇー。美菜が『何か話があるらしい』なんて言い方するから。告白とか何かかと思うやん」そう冗談言って笑った口に八重歯が見えた。「そうやで、告白や」そう口から出してしまえばその、思い描いてたシーンみたくなるのかなと少しだけ思った。思っただけ。そのまま「告白といえば中家と福岡が付き合い始めたってホントなん?」とか喋りながらカウンターに向かった。美菜が居てにやにやしてた。「ばーか」と口だけ動かして、美菜が大げさにため息をついた。その、僕が好きだった女の子もその子の親友の美菜も僕とは違う高校に進んで、僕は高校では図書室へ行くことも本を読む事をしなくなった。卒業間際の2月から美菜が少し離れた高校に通いだした5月まで、僕は何故だか美菜と付き合うことになった。あの肩までの黒髪の八重歯の女の子と図書室で、じゃ無くて駅から少し歩いた公園で僕は美菜とキスをした。思えばあのとき読んだ本のヒロインは美菜の方がイメージ通りだった気がした。そのことは言わなかった。きっと「ばか」としか言わないだろうから。美菜は忙しくてなかなか会えなくなるから、友達に戻った方がきっとおたがい楽だと思うんだ、と言い、教えてもらったポケベルの番号にその後 僕から何か連絡を入れることは無かった。忙しく浮き沈みする気持ちと裏腹に大人ぶってカッコつけた思春期の僕は図書室の奥に残ったままで、変に物分りが良くて口から出まかせみたいな軽口を叩く僕だけが高校に進んだ。数え切れないくらい「付き合って」と言ってそれとほぼ同じ数だけ断られた。きっとあの図書室にいる僕がもっとも嫌いで、でも羨ましがるであろう男になっていた。それが、いまの僕です。こんにちは。
2006.05.28
フランス映画の何がいいのか僕はよく分からない。暗い主人公がぼそぼそと喋るフランス語は聞き取りにくくて抑揚の無いストーリーは退屈そのもので、何よりモノカラーの画面が映画の重苦しさを更に増した。映画が始まって10分後には5回目だか6回目だかもう分からないあくびをして手元のレポート用紙にさっき映った髪の長くて暗い陰気な青年が乗っていた自転車の絵を描こうとしてすぐにやめた。僕に絵心なんてこれっぽちも無かったのだし自転車の形がおしゃれだなって思った以外にその自転車に対して何の思い入れも無かった。映画が終わってカーテンが開くと教室の半分以上の学生が伸びをしてその中のひとりに僕も含まれていた。後半、と言うか3/4以上は記憶が無くてそれは伸びをした連中がみんなそうだろうと思った。少しヒステリックの気がある中年のフランス人女性講師が「退屈な映画でしたか、みなさん」と皮肉を言って僕はレポート用紙にどんな感想を書こうか悩んだ。自転車がオシャレだった、と書いてすぐに消した。となりのユカを見るとレポート用紙の半分くらいをすでに埋めていて僕は苦笑した。「空気、っていうのかな。意味とかストーリーなんかより、空気が好き」フランス映画の何がいいんだって僕はユカに聞いて、講義の後に食堂に向かう道でユカが答えた。僕は自転車を押しながらまたひとつあくびをした。空気、ねぇ。空気か。僕が同じ学科の連中の大半が取っていたスペイン語じゃなくて第2外国語の単位をフランス語で取ろうとしたのに大した理由なんか無かった。フランス語の講義は毎回の出席代わりの小テストだけで期末試験が無い、それと昔に父親が学生時代にフランス語を専攻していたという話が頭の片隅にあっただけ。もちろん父親は今じゃbonjourだってうまく発音できやしない。語学はどうせ毎回出席しなきゃいけないのだから、期末試験が無い分だけ楽だと思った怠け心だった。蓋を開けてみれば小テストは毎回の授業内容を聞いてノートに取らなければとても及第点が取れないような内容で、僕は毎回のカンニングで(一度はあのヒステリックなフランス人女性講師に見つかり単位を無くしかけた)何とか及第点を取れていた、といった具合で怠けも何も無かった。それにイマドキの若者が最も苦手とするところの「コミュニケーション式の授業」があり、大声でお互いの興味のあるものとその理由をフランス語で言い合うなんて授業が始まった時には、その講義に友達もおらずたったひとりで受けていた僕は逃げ出したい気分でいっぱいだった。「ユカ、彼のパートナーになってあげてください」みんなが次々とペアを作る中で、どうやってこの居心地の悪い空間で存在感を消すか考えてできるだけ身をかがめていた僕の姿は、アッサリとフランス人女性講師に見つかり、細いジーンズを履いて少し派手な色の花柄シャツを着た背の高くて長い茶色の髪の女の子を僕の前に連れてきた。彼女のことは知っていた。たぶん、デザイン課の学生で(デザイン課の知ってる女の子と一緒にいるところを何度か見たことがあったから)、講義が終わると講師のところに毎回何か話をしに言ってた、言わば講師お気に入りの生徒だった。「ん。じゃ、やろっか」手元の自分の趣味が書かれたプリントを僕に渡し、彼女は、たぶんすごく流暢な発音でフランス語を喋った。そのあと僕を見たときに彼女が茶色いカラーコンタクトをしていることに気付いた。その後、フランス語の講義で僕はユカと喋ったり喋らなかったりした。喋った、と言ってもカンニングがばれて一番前の席が指定席になった僕のとなりに彼女が座っていることが多くて、何かペアになってやる授業のときには必ずユカとペアを組まされたからだった。変な話、僕はその授業の内容のおかげで、なんでユカがフランス語の講義を取っていてなんでフランス語がうまいのかを知った。彼女は、小学生の頃に父親が見ていたフランス映画の虜になって、いつかフランスへ行ってフランス人になりたいと真剣に思ってる、そんな女の子だった。デザイン課に進んだのも、フランス留学を視野に入れてのことだと。僕はフランス語を取った理由がまさか小テストとは言えず、「父親が、フランス語を勉強していたから」と答えた。彼女はそれがとても嬉しかったらしく「お父さんも、フランス語が好きなんだ」と言った。僕はわざわざ否定することをしなかった。「も」って言葉は気になったのでそこだけ訂正したかった。僕はフランス語が好きで講義を取ってるわけじゃない。昼食前の講義だったので、フランス語の講義が終わると学生は一斉に食堂のある方向に向かった。僕はユカがひとりで食堂に向かっている姿を毎回見かけた。その日もユカは食堂に向かい、僕は校舎の前に停めていた自転車を押しながらユカの少し前を歩いた。「別に、俺はフランス語が好きな訳じゃないんだけどな」「なんで?」ユカは足を止めずに僕の方を向く。日差しが強い日だったのでユカのカラーコンタクトがもっと明るい茶色に見えた。僕は「なんで?」の意味が分からずに少し言葉に迷って、それを「なんで好きじゃないのにフランス語の講義を取ってるの?」と言う意味だと解釈して答えた。「大学の勉強なんて、全部好きでやってる訳じゃないっしょ」「まぁ、ね」肩から提げたキャンバスのショルダーをくるんと反対側に回して彼女が言って、僕はそのまま自転車にまたがって先に食堂に向かった。そのとき、ユカがどんな顔をしていたのか、僕は知らない。月に一度、講義でフランス映画を見せられた。「フランス映画は、文化としてとても優秀なのです」満足そうに講師が言って見せられる映画は全部同じものに見えた。感想文のレポートはある意味、毎回の小テストよりもきつかった。感想なんて何ひとつ無かった。僕がユカにフランス映画の何が良いのか聞いた次の月にも、白黒の画面の中で暗いピアノの曲が流れた。「退屈」と僕はレポート用紙の端に書き、僕は机に伏せた。書いてある字までは読めなかっただろうけど、講義が終わって食堂に向かう途中でユカが「また退屈そう、だったね」と話しかけてきた。「逆に、退屈じゃないヤツの気が知れない」と言いかけてやめた。自分が好きなものにケチをつけられるのは気分のいいものじゃない。「じゃ、今度。退屈じゃないフランス映画見せてあげるよ」きっと来ないであろう「今度」の約束をユカが口にして、僕はそうか、とだけ言った。「今度」って言葉がどれだけ薄っぺらなものか、僕は知っているつもりでいた。その時に交換したメールアドレスが少しだけその言葉の意味を重くしたとしても。夏休みあと少しの7月にユカから「今度の水曜の夕方から暇?」とメールが入って、そのときに「今度」の約束をすぐに思い出した。彼女にとっての「今度」は少なくとも僕の「今度」よりもちゃんとした形で残っていた、と言うよりもちゃんとした約束のつもりだったんだろう。バイトのシフトは水曜と木曜が空きで「暇だけど」とメールを返し、次の日に約束の映画を見せてあげるというメールが返ってきた。待ち合わせ場所は繁華街から少しだけ離れた場所で、僕はそこに映画館がある事を知らなかった。結論から言うと、僕はユカと一緒に映画を見ることができなかった。待ち合わせ場所にメールで来た時間より少し遅れて到着しそうなときにメールが入った。講義の関係で間に合いそうも無いという内容だったと思う。僕はそのまま行ったことがなかったけどすごく有名で美味しいという評判のラーメン屋に30分くらい並んでラーメンを食べた。その味は今では思い出せないくらい何でも無かったものだった。お詫びに、とラーメン屋から出ようとした時に彼女からメールが来て、今から飲みに行かないかと言ってきた。僕はそれを丁寧に断って、その後にもう一度「それじゃ私の気が済まないから」というメールが届き、僕はしばらく繁華街の端にあるコンビニでどうでもいい雑誌を立ち読みをしながら彼女を待った。ごめんね、を繰り返すユカに僕は別にいいよと言いながら正直フランス映画を見なくて済んだという気持ちも少しあった。うんざりするほど何も無くて長い夏休みが終わって。それから僕はユカの姿を見ることが無かった。進級する時に何かの拍子にユカのことが耳に入ることになった。苗字もそういえばはっきりと憶えていなくて携帯に「ユカ」とだけ入っている彼女が、僕より2つも上の学年で夏休みの途中から念願のフランスに留学に行ってしまったことを、その時に初めて知った。確かその話を聞いたのは僕の知り合いのデザイン課の女の子からで、彼女とユカは同じサークルに入っていて、その時はサークル同士の新入生勧誘合戦の最中だったと思う。僕は自分のサークルの宣伝のチラシの束を持ちながらその話を聞いて彼女の白い肌とかカラーコンタクトの入った大きな目とか、ヒールを履くと僕と同じかそれより身長が高くなることとか、あの日見れなかった映画のこととか、飲みに行った時に何も彼女が言わなかったことを思い出した。けれど、彼女が何も言わずにフランスに行ったことを何故だろう、とかましてや責めたりする気持ちは生まれなかった。きっと僕にとっても彼女の存在はそれだけだったのだろうと、後から思ってみたりもした。けれど、何かの拍子にフランス映画と聞くと決まって思い出すのは彼女のことで、でも僕はそれからフランス映画を見たことは無かったし、これからも無いのだろうと思った。いま、僕に残っているのはそれだけの記憶と、その後に買ったあのとき映画に出ていた自転車によく似た自転車だけ、で。そして。この何も抑揚の無くてオチも無い話は、すごくフランス映画みたいだなと思った。
2006.05.23
「セックスがしたい」すごく真顔で僕は答えて、きょとんとした顔の後に彼女は大声で笑い出した。「ちょっとー。いくら何でも正直すぎ。はー、おなか痛い」涙を流すくらいに笑って、ひとしきり大きな笑い声で笑って、その後に僕に向かって言った。さすがにここまで笑われるとムっとする。「正直に言えって言ったの、ゆっこさんじゃないですか」真顔のまま言い返した。ゆっこさんに飲みに連れてかれるのは珍しいことでもなんでもない。塾講師のバイト仲間で授業が終わった後にダラダラ講師控え室で喋っていると、「はーい、今から飲みにいくひとー」って社員のゆっこさんがドアから顔を覗かせる。「就職活動がめんどくさいから」って理由が本当かどうか知らないけど、ゆっこさんは塾の講師のバイトからそのまま社員になった「変わり者」で、(僕らバイトはみんな、社員の給料や待遇を目の当たりにしていて「ここの社員になるなんてありえない」と常々口にしていた)その変わり者は生徒にもバイトの講師にも人気がある「お姉さん」的な存在だった。だからゆっこさんの誘いがあればみんな ゆっこさんを囲むようにして「Earth」に飲みに行った。その日、ゆっこさんが講師控え室に顔を出したときには小テストの採点をしていて遅くなってしまった僕以外には誰も居なくて、「なーんだ、ひとりしかいないのか」ってそれだけ言ってドアをぱたりと閉めた。「なんすかー、俺ひとりじゃ不満ですか」とっさに僕はそう言って。まぁ、聞こえないように言ったつもりだったんだけど。その後に小テストの採点を続けようとした。そこで気が付いたのは、確かゆっこさんは今日の仕事は休みだったんじゃないか、ってこと。あれ?そう思ったところでドアが開いた。「べつに不満じゃないですけどー。行く?」ゆっこさんがジョッキを飲むフリをして、僕は頷いた。今月はちょっと苦しいんだけど、ゆっこさんが今日ここに来たのが何か気になったから。さっさと採点を終わらせて、「Earth」に向かって自転車をひきながらゆっこさんと歩いた。ゆっこさんは一言も喋らなかった。普段は四六時中喋ってるくせに。「何かあったんすか?」って聞こうとしたけど、「Earth」に着いてからでいいかと思ってそのまま歩いた。「Earth」に着いてからは、それはもうすごかった。生中をイッキに飲み干した後、急に叫びだした。「おらー!今日は飲むぞー!!」ええー、いつも飲んでんじゃん。その後バーテンのケイちゃんに次々とメニューにないものを頼むわ、断られる度に騒ぐわ、僕はゆっこさんが仕事休んだのに顔を出した理由とか、Earthに向かう途中に無言だったこととか聞くことを忘れていた。一通り「暴れ回った」後に、ゆっこさんは長いため息をひとつついて、3杯目の黒丸のロックを飲み干した。「ねー、ゴメンね」「なんすか、急に」「やー、ほら。付きあわせちゃって」「ホントですよ」ちょっと間が開いてゆっこさんは笑い出した。ロックグラスを置いて手を叩いて。「うん、ほんと。そのさ、正直なとこ。けっこう好きだよ」「そうですかー、ありがとーございます」箸でチャンジャをつつきながら答える。まったく。何があったかなんて聞く気はもう無かった。どうでも良かった。目の前のずっと大人なくせに僕よりずっと子供に見えるゆっこさんの相手に本当に疲れてた。「聞かんの?」「何をっすか」「や、うん。ほら私がさ、飲んだくれてる理由とか」「最初は気になってましたけど今は別に」「そか…」「…フラれた、とかですか?」グラスに残った氷を口に含んでゆっこさんがじっとこっちを見る。さっきまで暴れまわって疲れたのか落ち着いたのか分からないけれど、ゆっこさんが妙に落ち着き払ったと言うか静かな口調でちょっと居心地悪くて僕は言うべきじゃないことまで言ってしまったような気がして「しまった」と思った。いくら僕でもこういうときに核心を突くようなストレートな言葉はマズイと思った。泡が消えてしまった生のジョッキに口を少しつけながら恐る恐るゆっこさんの顔を見ると氷を左右の頬に行ったり来たりさせながらこちらをじっと見ていた。「すいません、余計なこと言いました」僕が言ってゆっこさんが氷をパキリと噛み砕いた。「あのさ、私がなーんでも言うこと聞くとしたら何したい?」「へ?」って言うようなそんなマヌケな声が出たと思う。全く予想も何もしてなかった言葉だったから。「いや、急にそんなこと聞かれても」「正直に、言ってよ。遠慮とかせずに」僕は困ってゆっこさんの目から視線を外した。ゆっこさんは胸元が少し開いた服を着てて、さっきからちょうど僕が持ってたジョッキに目をやると視界に入ってた。とっさに口を開く。「セックスがしたい」きっと、すごく真顔で僕は答えて、きょとんとした顔の後にゆっこさんは大声で笑い出した。「ちょっとー。いくら何でも正直すぎ。はー、おなか痛い」涙を流すくらいに笑って、ひとしきり大きな笑い声で笑って、その後に僕に向かって言った。さすがにここまで笑われるとムっとする。「正直に言えって言ったの、ゆっこさんじゃないですか」真顔のまま言い返した。「うん、やっぱいいわ、その、バカがつくくらい正直なとこ」口元がまだ笑ったまま、ゆっこさんがそう言って僕は何も言わなかった。「そうやって、みんな正直だったらすごく楽なんだろうね」独り言みたいにつぶやいているのを聞いて、やっぱり恋人と別れたのかなって思った。でも「正直」じゃなかったのはゆっこさんなのか、相手の彼氏だったのかは分からなかった。僕はゆっこさんはすごく正直で真っ直ぐだと思ってたけれど、それはそういうフリをしてるだけなのかなって、何故だかその時に思ったりもした。「ありがと、ね」ゆっこさんがEarthを出た所で振り向いて言った。飲み代は「お礼だ」って言ってゆっこさんが全部出そうとして僕は断った。あれだけ飲んだくせに、僕よりも足元がしっかりしてた。「ねぇ、セックス、したいんだ?」にやにやしながら聞いてくる。僕はなんだかさっきとっさに言った自分の言葉が恥ずかしくて「別に」とだけ言った。本音を言うと本当にセックスしたいって思った訳じゃなくて、でもあの時口から出たのはその言葉だった。そりゃ全くしたくないって訳じゃないけど。「不健康だぞ、青少年!」「別にゆっこさんじゃなくても、相手はいますから」居もしないのにぼくは強がりだか照れ隠しだか分からない言葉を言って「そっか、そうだよねぇ」ってゆっこさんは妙に納得したように言った。バカみたいに正直なのって、どうなんだろう。「大人」になって僕はたまに思ってみたりもする。バカ正直が通用するのは「社会」に出る前までって、あのころの自分だって知ってた筈だけれど。「正直」が余りにも無い現実を見てるとそれが少し恋しくもなって、それだけじゃ生きていけないのを知りながらも。ゆっこさんに言われた僕のあの頃の「バカ正直」は、いまになってみると「好きだ」って言ったゆっこさんの意味が分かるような気がしてた。今の僕には言えるのかな。バカ正直が。「セックスしたいです」って。
2006.05.10
お金について少し真剣になってみた。⇒消費≒浪費
2006.05.07
国道16号に差し掛かった時にいちいちざわつく感情が嫌だ。邪魔だ。だから16号を走るのは好きじゃない。高架をくぐって見えてくる景色のコンビニだとかガソリンスタンドだとかゲームセンターだとか。でも、これが無くなるのも嫌だ。僕が彼女に逢いに行くには、この大きな国道を走る他に行き方を知らなかった。バイクでぶっ飛ばして逢いに行く。僕が逢いたいって思うのはいつも突然で、「いま近くにいる」って電話をすると「そっか。じゃあ仕方ないね」って顔は見えないけれど、きっと苦笑している彼女の声が聞こえる。それは今考えたら本当にはた迷惑なことだった。僕は彼女の都合なんかお構いなしにバイクを走らせた。休みの日の夕方だとか時には夜遅くだったりもした。お土産に彼女の好きな生クリームの乗ったプリンをコンビニで買って、それを彼女の淹れてくれた紅茶を飲みながらいつも食べていた。僕は彼女の部屋で彼女に触れることはなかった。どういった感情をそのとき持っていたのか。実はそれをハッキリと思い出すことが出来ないでいる。憧れなのか恋心なのか分からなかった。ただ僕には彼女といる時間がとても必要だったことはハッキリしてる。彼女の感情がどうだったのか、それを確かめる術はもう無い。ただ、僕と一緒にいるときの彼女の顔は笑顔でしかなかった。「これで最後、にしよ」電話をかけて初めて彼女が少し渋った日。紅茶を飲んでプリンを食べて僕が言う下らない冗談に一通り笑って、それから彼女の部屋を出ようとした僕に彼女が言った。その言葉を聞いて何の疑問も持たなかった。僕はそれでもいつものくせで「またね」と言った。彼女も「またね」と言った。彼女には大切な人が居て、僕にはそういう人が居なかった。僕が大切だったのは彼女と居る時間でそれがとても必要だったことはハッキリしてた。それでも僕は頷いて部屋を後にした。僕は大人なんだからと自分に言い聞かせて笑って部屋を後にするんだとずっと決めていたから。バイクを走らせる16号線は雨で濡れて、僕もバイクもずぶ濡れになった。涙が出たのかどうかなんて分からないくらいにずぶ濡れだった。かけていたサングラスにもいくつも雫がついて信号機の青だとかコンビニの看板だとかが滲んだ。国道16号に差し掛かった時にいちいちざわつく感情が嫌だ。邪魔だ。だから16号を走るのは好きじゃない。高架をくぐって見えてくる景色のコンビニだとかガソリンスタンドだとかゲームセンターだとか。でも、これが無くなるのも嫌だ。自分勝手な感情だって分かってて、それでも僕は夜明け前の16号線を走って海に向かった。
2006.05.07
「ねぇ」「うん?」「こんなに長い間、なにやってたの?」「そうだなぁ。たくさんのことをした気もするし、何もしてなかった気もする」「何それ。変なの」「変でも無いさ。じゃあ、君は僕が居ない間なにをしてたの?」「えっと、いろいろ」「いろいろって?」「色々は色々よ。学校行ったりバイトしたり遊びに行ったり」「それは何かをしてた、って言える?」「少なくとも、何もしてないって訳じゃないと思う。けど」「けど?」「『何かしてたか?』って言われると、何もしてない気もする」「それとおんなじだよ」「え?」「僕も同じ。何もしてなかった訳じゃない。だけど、『何かを成し得た』って、そう胸を張って言えるほど大したことをした訳じゃない。確かに少しの間 君の前から姿を消したけれども、僕がしてきたことなんてここで堂々と言えるほどのものじゃないんだ」「ふーん。で、何してたの?」「オナニーしてました」更新しないからと言って必ずしも何か理由がある訳じゃないのですよ。別に誰から理由を聞かれた訳じゃないですけど。
2006.04.28
先日、夢のお告げ(違う)によりアンケートをしてみたところ、その日のうちからメールを送って頂きましたが、土曜の19時をもって終了させて頂きました。極々シンプルに「読んでいる人はどんな話が一番好きなんだろう」という僕の好奇心を満足させるだけに過ぎないアンケートにも関わらず、それに答えて頂いたばかりか「結果を楽しみにしています」というような内容のものまで頂いてすごく光栄と言うかもったいないお言葉すら頂けました。ははー。(土下座しながら)まずは、送って頂いた方の総数から。この究極の自己満足に過ぎない言わば僕の自慰行為のお手伝いをしてくれた大変奇特なある意味オナペットとも言える方達の総数をまず発表したいと思います。と同時に不適切な発言があった事を深くお詫びします。オナペットて。応募して頂いた方の総数:10名10名もの方がアンケートに答えて下さいました。一人でなくて良かったです。もちろんこの「一人」というのは答えて頂いた方が0人だったときに自分で応募するようにしていたものを含めます。そして、この方々の中には「一つだけ選んでください」という内容にも関わらず、2つや3つも送って下さった方もいらっしゃいまして、票の総数はこうなりました。票の総数:17では、順に選んで頂いたものを発表させて頂きたいと思います。1票:止まらぬ針。春雨。左側の空白。(以上mijinco8より)あと10秒で君からの着信 ころり、ころりずっと一緒(以上Plastic Worldより)08 わたしが死んだらうそつき死に至らない病 (シリーズ前編)寝寝覚めの悪さはあなたのせいなんです(あなた=エロ動画)。『ノウ』のプロフィールの年表(以上ノウより)2票:対価(Plastic Worldより)3票:何も分かってない (Plastic Worldより)以上が結果です。『何も分かってない』が3票と一番の人気でした。と言うには票が少ないのですが、Plastic Worldの話が多いんだなぁと思いました。個人的には「ノウのプロフィールにある年表」と答えてくれたのが何か嬉しいです。こういう意表を付かれるのが好きです。オチも何も無いのですが、こんな自己満足にお付き合い頂きまして本当にありがとうございました。ご応募頂いた皆様には後ほどお礼のメールをお送りしますが、この場をお借りしてお礼を申し上げます。ありがとうございました。この結果を受けて、今後も嘘八百なお話を書き続けたいと思います。がんばります。書籍化は目指しません。映画化のほうがいいです。(儲かるからです)
2006.04.08
下北沢には一度も行ったことが無い。知っているのは古着屋とかカフェとか飲み屋があっるてことと、雰囲気が良いってこと。それと。関東に来て僕はすぐにこの東京に慣れたのだけれどそれは「慣れた」って表現があまり当てはまるものではなかったのかも知れない。ここは誰でも何でもすんなり入り込めるような隙間みたいなものがあって、僕はちょうどその隙間にするりと入ってしまって周りの人は誰も気付かなかった。いい意味でも悪い意味でも癖が無くて好きでも嫌いでもなかった。どこに居ても暇にはならないのに退屈な気がするような気がしていた僕はその日、明大前に住んでる付き合いの長い友達のナオキに呼び出されて渋谷をフラフラしていた。「シモキタに来ねぇ?」明大前の家から下北沢にいたナオキが言って、渋谷でいい、と答えた。どこに行っても一緒だと思ってた。HMVで暇つぶしているときに電話に出たら「着いた」と電話があってセンター街の方の入り口に出たところでナオキがタバコを吸っていた。となりに背が低くて肩の辺りで髪を切りそろえた子がしゃがんでいて、コンバースを履いて生地の薄いひらひらしたスカートにデニムのジャケットを着てた。「こいつ、マミ」ナオキはそれだけ言って「どこに飲みに行く?」って聞いた。マミって子は「こんばんは」と言って笑った。たぶん、彼女じゃないんだろうなと思った。理由はよく分からないけれど付き合いも長いから何となくそう思って聞かなかった。マミは下北沢に住んでいてナオキとは仕事仲間。アパレル系だってそれだけしか聞いてないしその世界のことはちょっと知ってたんだけど、ナオキは詳しいことを言わないから僕も聞かない。そうやって僕らは長いことやってきてそれがちょうどよかったから長く続いている。マミもどうでもいいことはよく喋って(近所の猫がなついた、だとか。近くのコンビニにハーゲンダッツのパルフェが入って嬉しいだとか)自分のことをあまり話さないのがよかった。「関西のひと?」マミが聞いて首を振る。「関西弁っぽい話し方だからー」「いや、こいつと同じとこの生まれやで。関西は近いけど」「そっかぁ。あたし、関西弁しゃべる人が好きなんだ」「なんでなん?」「なんとなく」にっ、と笑って八重歯を見せた。東京っぽいな、って思った。何がって言われたら答えにくいけれどそう思った。ナオキは店で寝てた。弱いくせにすぐたくさん飲むのが悪いくせで、マミもそう言って笑った。「下北沢には何があんの」僕は聞いて「うーん」マミが首をかしげた。「古着屋、とか。あとなんかオシャレな感じ」「俺、下北沢行ったことないねん」「あ、じゃあ、あたしが案内するよ」「そっか、んじゃ、頼むわ」マミはもう一回八重歯を見せて笑ってそのあとにシークァーサーサワーを飲んだ。その約束が果たされないまま僕が関東に来て3度目の春が来て、ナオキは5回目の転職をした。マミちゃんは?聞いた僕に「最近、連絡とってへんわ」と去年の冬に職無しだったナオキが言っていた。それからマミのことは聞いたことが無い。下北沢には一度も行ったことが無い。知っているのは古着屋とかカフェとか飲み屋があっるてことと、雰囲気が良いってこと。それと。背が低くて笑うと八重歯の見える関西弁を喋る人が好きなマミって子が住んでいる。渋谷から井の頭線に乗って下北沢を通る度に僕はそれを少し思い出して次の日には忘れている。東京はそんな街。僕の中ではそんな街だ。
2006.04.07
インターネットの片隅でブログスペースを間借りして細々と何やら妄想めいたお話をちょこちょこと書いてきましたが、たくさんと言うほどでは無いにしろ読んで頂ける方もいらっしゃって。そしてとてもありがたいことに「好きです(文章が)」「素敵です(文章が)」「惹かれます(文章に)」「楽しみにしています(文章を)」というお言葉を頂いて本当に幸せに思っています。これだけでも「ああ、書いてて良かったなぁ」と毎日しみじみ噛み締めて生きていけますし、頂いたメールの内容を思い出せばご飯も3杯はいけます。ごめんなさいそれは言い過ぎました2杯くらいです。デブですが小食です。話が逸れましたが、そんな小さな、でも、大切な幸せを日々感じている僕の元に更にとんでもなく嬉しくてありがたいお話がきました。本を出さないか?という話です。現在、ブログや個人サイトの書き物が本になることは決して珍しいことではありませんし、少々食傷気味であることも否めません。それでもこうした書籍の市場はまだまだ存在しています。お金が、動くのです。僕の書いたもので。それに書籍化ともなればこれまでとは違った幅広くの方に読んでいただける機会が増えるのです。しかし、正直言って全くそんな話は信じられた物ではありませんでした。何しろ、僕の書いているものを読まれている方はそれほど多くは無いのです。それに、たくさんありがたいお言葉を頂いたとしても、ブログや個人サイトをされている方の中にはもっとたくさんの人に読まれていて、もっと面白いサイトがごまんとあるのです。それらと比べて僕の書くものが需要があるとは到底思えないのです。どういったことか、僕は更に詳しくメールでお聞きすることにしました。実はインターネットで創作の書き物をされている方の作品をいくつも集めて短編集のようなものを作る企画があり、その編集を担当されている方が有名なテキストサイトだけでなく、自分の足でインターネットのあちこちをまさぐり、何人かに声を掛けているとのことでした。つまり、「僕の本が作られる」わけではなく、「僕の話のひとつが本に載る」とのことです。そこまでお聞きしてやっと納得がいきました。それでも本当にありがたいお話です。共同著作、しかもたくさんの人間が一同に書くものですので印税だとかは出ない(に等しい)ということですが、お金が動くことは間違いないですし、全国の書店に並ぶ、というほどにはいきませんが「amazon」で購入もできるようにするということもお聞きしました。僕はこの「ノウ」の他に「Plastic World」という書き物もしていますが、「ノウ」と「Plastic World」の両方の中に書いてある創作の中からそれぞれ一つずつ載ることになりそうです。詳しいことはまだ決定していませんが、載せるお話を編集の方と検討するとのことです。検討するにあたって、読んで頂いている方からどれがいいかアンケートみたいなのが出来ればいいなと思いました。それを参考にして載せるお話を考えてみたいなと。まだまだ詳細は決まっていませんが、これからどんどん話が進んでいくということで、大変なこともあると思いますがとても楽しみにしています。というところで、目が醒めました。おとついのことです。僕は出張でアメリカにいたのですが、起きたときに慣れない大きなベッドの上にいたので「こっちのが夢だ」と最初は思ってしまいました。けれど枕元にあったラジオクロックの日付が4月1日になっていたのでそこでハッキリと気付いたのです。「夢に嘘を吐かれた」なんということでしょう。僕はこの歳になってまでエイプリルフールに嘘をつかれるなんて思ってもみませんでした。しかし、ヤツは。夢のヤツは僕に嘘を吐いてぬか喜びをさせたのです。僕は夢に騙されたのが悔しくてちょっと「チクショウ」と思い枕を殴ったのですがその後にホテルの朝ご飯をたくさん食べて落ち着きを取り戻しました(ベーコンエッグとヨーグルトがおいしかったです)。まぁよく考えたらまさに「夢みたいな話」だったので夢だった方が納得してます。でもせっかくなのでアンケートはしてみようかなと思いました。僕の書いたものの中で「これがいちばん好き」というものを、おこがましくもお聞きしてみたいと思ったのです。本にはなりませんが、僕がいい気になります。「ノウ」「Plastic World」それから「mijinco8の僕が書いたもの」の中からひとつだけ、お好きな創作のお話を教えて下さい。日記みたいなものではなく、物語から選んでいただければと思います。締め切りは4/8(土)の19時まで。こちらの宛先に「このお話が好き」という題名でメールして下さい夢だったのはちょっと残念でしたがこうしてアンケートなんてものを思いついたので結果オーライかなとか思っています。いまはあの夢に対してこんな感じの気持ちだったりします。
2006.04.03
すごく笑い上戸の彼女は顔をくしゃくしゃにしておなかを抱えて笑って、「はー、くるしい。おなかいたい。もうやめてよ」なんて言うものだから僕はもっとくだらないことをたくさん言って、そしたら彼女はもっと声が出なくなるくらい涙を流して笑った。それは僕の前でだけだって言うからもっと嬉しくなってたくさんバカみたいなことを言う。メールや電話でも僕は彼女を笑わせようとしてたから僕の中での彼女の記憶はほとんど笑っているところ。それも爆笑しているときの顔とおなかを抱えて顔をくしゃくしゃにしながら声も出せないくらいに涙を流して笑っているところ。普段は綺麗に着飾って丁寧に手入れされたネイルと大人なメイクをした彼女が子供みたいに笑い転げるところ。「もうね、だいすき」涙を拭いながら彼女は僕に言うからニッと笑って頭を撫でると「ふふ」って笑ってそのときの安心したような笑顔も僕は好きだった。だから。僕はただ彼女を笑わせているだけで良かったと思っていたし、そのために下らないことだけ言っていても良いと思っていたから、寂しいって言って電話をしてきたときに何て言えば良いのか、少しずつ彼女が笑わなくなっていった理由とか、分からなかった。僕が望んでいたのは彼女の笑顔だけで、彼女の望んでいたのは笑うことだけじゃなかった。それだけのこと。考えてみれば僕は彼女の笑顔以外を見たことがほとんど無くて「さよなら」のときに初めて笑うとき以外の涙を見た気がする。「映画じゃ泣かない」って言った彼女が笑うとき以外に見せた最初で最後の涙だった。僕の中での彼女の記憶はほとんど笑っているところ。僕の言ったくだらない言葉で笑っているところ。それしか無かった。僕は下らない冗談以外に言葉を知らなかった。そして、それは今でも。「ほんと、下らないこと言うね」って冷めた目で言われてる。
2006.03.31
だって僕はそれ以上口にすることも出来ることも何も無くて、「ごめんね」も「ありがとう」も言えなかった。「さようなら」も。「またね」も。そうして春がまだもう少し先の繁華街の中にある小さな公園のベンチの前で、彼女の白いコートの上から2番目のボタンを見てた。それより上の白くて細い首には僕のプレゼントしたネックレスがまだあって、それを真っ直ぐ見るとどうしようもないくらいに胸の辺りから熱くて焼けるようなものがこみ上げて来るから目に入らないように。たぶん少し震えてるくちびるや夕方の風で冷たくなった鼻先や長いまつ毛の潤んでるであろう目や黒く染めたばかりの髪やそういうものをちゃんと見れない。「ねえ、すごく。すごくしあわせだったよ」どうして僕が言おうとすることとか思ってることとか。彼女と同じなんだろう。やっと見つけた台詞を奪われて頭の中をぐるぐると手探りでいろんな言葉を探すけれど。そうだね。例えば何か言葉を見つけてそれを口にしたとしても彼女は「知ってるよ」と笑うだけで。僕もそれを知ってる。知りすぎてる。それは皮肉なことだけれど。お互いのことが分かり過ぎるって時に残酷過ぎる。少しの、たった少しの歪みですら知りたくも無いのに分かってしまう。少しの歪みをお互いに気付いてしまったらその歪みは大きくなるばかりでもう止めることも気付かなくすることも出来なくて。こんな時にまで僕らは同じ事を考えていて、それが確かな繋がりであると同時にとても大きくて冷たい鎖みたいに思えた。その鎖が僕らをお互いに不自由にするならその鎖を解いてしまうことも答えのひとつだと、それも二人同時に思ってしまったんだから僕らはお互いに持っている鍵で相手の足かせを解こうとした。そんなこと。同じ音楽を聴いて同じ映画を見て同じ本を読んで同じ感想を二人で言って。同じ料理を食べて同じ景色を見て同じ道を歩いて同じことを同時に言って。それが心地良かった。二人同時に口を開いて言い掛けた言葉を二人同時に飲み込んでそれでもお互いの言いたいことが分かった。きっと。ちょっとお互いが見えないくらいのほうがバランスは保てるんだって。そして彼女も同じ事を思ってると思うから。僕は頷くだけで良かった。そうして春がまだもう少し先の繁華街の中にある小さな公園のベンチの前で、僕と彼女は最後の言葉を交わす。これまでと同じ。同じ言葉を同時に言って。「そろそろ、ね」「ああ、うん」「じゃあ」「じゃ」「あの、お金だけは返してね」「ありがとう、元気でな」最後の言葉だけすれ違って、僕は苦笑いをした。いろんな意味で。
2006.03.14
店から出ると思いっきり伸びをして深呼吸をする。胸いっぱいに空気を吸って口と鼻から出す。となりでおんなじ様に伸びをした手が肩にぶつかる。「いってー」「あー、ごめーん」にっ、と歯を見せて彼女が笑う。「いってーな」もう一度、僕が言ってそのころには駐めてある自転車のところに彼女がいた。空気が気持ちよかった。そこはごちゃごちゃした繁華街の一角にあって通りは人が溢れていたけれど、地下のお店から出てきて少し酔った僕にとっては気持ちの良い空気だった。もう一度、深呼吸をする。すー、はー。「ねぇ、行くよ」自転車を引いた彼女が先に歩き出していて僕はその後を走った。「なぁ、春の空気っていいよな」「あー、どうだろ。うん、まぁいいかも」「えー中途半端な答え」「うーんと、好き、かな」その、「好き」が僕のことだって言う脳内変換をちょっとしかけたけど、それじゃあ余りに気持ちが悪いのと、少しガキ臭いなと思ってやめた。それでも「俺のこと、どう思ってる?」って聞くほどの勇気も無かった。いやいや、ちょっと待て。今時そんな質問するヤツなんていない。それこそガキ臭いよな。そう考え出すと可笑しくなってきた。「なにニヤけてんの」「あーっと、なんて言うんだろ。ほら春って言ったらもう少しで新入生!でしょ。ウチのサークルにもカワイイ子入ってくるかなぁとかね」「エロ」「え、えろぉ!?」「顔が」にっ、と歯を見せて彼女が笑う。さっきと同じ顔。いや、僕が2年前に会ってからずっと彼女は同じ顔で笑う。この顔が見たいから、ずっと見ていたいから僕は彼女から離れることもこれ以上近付くことも出来ないまま。「ね、さっきの話」「は?何だっけ?」「春の空気が好き、って。その話」「ああ、うん」「空気とかじゃなくて、なんて言うのかな。匂い?匂いっていいよね」「匂いかぁ」立ち止まって鼻から思いっきり空気を吸い込む。花粉症じゃなくて良かった。彼女が好きだって言う春の匂いを思いっきり吸い込んで、ふーっと吐き出す。それから石畳の歩道をたたっと走って自転車を引く彼女の方を向いた。「なー、なんかDVDでも借りて見ねーか?」ちょっとずつ暖かくなってきたけれどこの時間になるとやっぱり少し寒くて、春物のベージュのロングコートを着た彼女は少し寒そうだった。目の前にレンタルDVDショップがあったから、指さして僕は言ってみた。「んと、課題が残ってるんだよねぇ」「まじか。それっていつまでに提出?」「・・・あさって」少し残念に思ったけど、彼女も少し残念そうに見えてちょっと彼女の僕に対する気持ちに期待なんかしたりした。でもそれは課題を思い出して憂鬱になってるだけかも知れないし、とまた頭をよぎる。僕はつくづく弱気だ。軽口なら幾らでも叩けるのに。「さーってと」「お?どした?」「うん、課題とか思い出しちゃったしね。今日もちょっとやろうかな」「そっか、おつかれ」「だから自転車で早く帰るぞ!」そう言って彼女は自転車のかごに入れたマフラーを取り出してコートのボタンをとめた。はっきり言ってすっごく残念だった。少しでも彼女と一緒に歩いていたかったし、話していたかったから。このまま彼女の家の前まで送って行けたら、今日はひょっとしたら告白できたかもしれないのに。って思ったけど、どうせ出来ないんだろうな。「ささ」「っは?」「いやいやいや、こいでよ、自転車」彼女は荷台のところに座ってこっちを見てた。ねぇ、その。バカげたことかも知れないけれど。それは春の空気のお陰なのかな、って思った。彼女はその匂いが好きで、僕はそんな彼女が好きだった。だんだん暖かくなってきてるけどこの時間になると空気は冷たくて。頬に当たる風は気持ちいいけど、ちょっと僕の着ていたコートじゃ二人を乗せた自転車をこぐには厚すぎる。汗がちょっとずつ吹き出してくるけど、僕はこぐのをやめない。「ちょ、っと。はーやーい」後ろから彼女の声が聞こえる。もうちょっと早くこがないと。いま、すっごく言いたいんだけどさすがに彼女に聞こえるようには言えないから、春の空気だけに聞こえるように言うにはさ、風の音でごまかすにはさ。もう少し早くこがないと。「好きだ」って声が彼女に聞こえちゃうから。その言葉は、ホントに春が来たら、彼女に言うつもりだから。あくまで「つもり」だけど。*****たぶんそんな感じの2人乗りカップルの横をレミオロメンの「粉雪」を歌いながら僕は自転車(折りたたみ)で追い抜いた。「こなぁーーーゆきぃいいいいい ねぇ こころまーでしーろーくー」まだ春なんか来ない。
2006.03.07
日々流れるだけの生活に疑問を持ちながらもその流れに逆らうことの出来ないまま溺れるようにその中に飲まれて行く。何処へ行くの?何がしたいの?自分は誰なの?それすら分からないから必死にもがこうとしても沈んでいってしまって、そして気付けば何もかもが無かった…なんてことは全く無いのですが、平々凡々と生きている中で日常に存在するちょっとした悩みについて役に立つのか立たないのかさっぱり分からないお悩み相談です。相談者:メイ(匿名希望)さん相談内容:私は優柔不断なんです。買い物に行っても、うろうろ見て回って、結局買わないって言う事が多くて。他にも「コーヒーかココアどっちにする?」と聞かれ、「んーコーヒー…。あーやっぱり、ココア」とか言っておいてココアをつくり始めると「やっぱりコーヒー!うん。」なんてことも日常茶飯事で。しょうもない一例ですが、要するに意思が長続きしないというか、一度決めた事をコロコロ変えてしまう悪い癖があるんです。自分の進路にしたってそうで、激しく親ともめた事もしばしば。さらに泣けることに、私の親だけあって父親があれこれ意見を変えているのを見ると「どっちがはっきりしてよ」なんて思うことも。(自分の嫌な部分を持ってる人を目の当たりにするのは辛い)悪い癖なのは身に染みてわかります。何かこう、一度決めた事はやり抜ける、心構えみたいなのってないでしょうか。。 回答:はじめましてこんにちはメイさん。ブログ会の みのもんたを目指す僕が回答をさせて頂きます。主にみのもんたの夜の生活を目指すつもりです。お昼のテレ○ォン○ョッキングの部分は目指すつもりはありません。優柔不断ということでお悩みですが、人生と言うものは幾つも幾つもの別れ道があるものです。それはとても大きな物からどうでもいいようなちっぽけなものまで様々ですが、別れ道には変わりありません。人生は一度きりなのですからそうした別れ道が例えちっぽけなものだとしても悩んで悩んでそしてしっかり決めたいと思うことは決して悪いことではありません。しかし、そういった場面でハッキリと『良くない』と言えることがあります。それは自分が選んだ選択肢を「間違っていた」と後悔することです。選んでしまった道を後戻りすることは、絶対に出来ません。それだけに「あのときあっちの道を選んでいれば…」といくら悔やんだとしても、それはただの後悔としていつまでも残ってしまい、次の別れ道で無駄に悩んでしまったり、最悪の場合そのことが原因で間違った道を選択してしまうことさえあり得るのです。「後悔するような道を選ぶな」と言うと余計に優柔不断になってしまいそうですが、「間違った道を絶対に選ぶな」と言っている訳では無い、というのがポイントです。間違いの起きない人間はいません。要は例え間違ってしまった道を選んでしまったとしてもその後にどうするかが重要なのです。「やっぱりあっちが良かった」と思うのでは前に進んだことにはなりません。どうしてこちらの道を選んだのか。その原因は絶対にあるのです。それを反省として同じような別れ道もしくは非常によく似た別れ道に再び差し掛かった時に前回の反省を活かして正しい道を選択すればよいのです。メイさんの例で言うと、ココアを選んでやっぱりコーヒーが良かったなと思えば、今回はココアをおいしく飲んで、次の機会にコーヒーを飲めばいいことなのです。一生コーヒーが飲めなくなる、なんてことは無いのですから。それは進路にしても一緒です。たしかにココアとコーヒーの選択に比べたら進路の選択はとても大きな物です。けれど幾つか目の前にある進路のうちのどれかを選んで、残念なことにそれがあまり自分に合ったものでは無くても、それを無理に貫いたり他の進路が途絶えたりするものではありません。その気になれば途中で別の進路に進むこともできるのです。心構え、というのを言うのであれば、別れ道・選択肢を目の前にした時に、これから自分がそれを選んで例え失敗したとしてもそのときのことを「マイナス」と考えないこと。成功はもとより失敗であっても次への反省として糧になるのです。くわえてもう一つ。人間の直感というものは結構当たる物なのです。なのであれこれ選択肢があったときは一番最初に思いついたものをなるべく選ぶのも良いかも知れません。あとから出てきた選択肢を選んで「やっぱり最初に選んだもののほうが良かったなぁ…」と思うことのほうが多い気がしませんか?根拠は何も無いのですが、そういう考え方もあるかな、くらいにどこかに思ってみてはいかがでしょう。最後に。メイさんがこれからの人生の中で別れ道・選択肢にぶつかった時になかなか決められなくてもスパッと決めても人生の最期の瞬間に「ああ、いい人生だったな」と思うことができればそれが一番素晴らしいことなんです、と付け加えてお悩みの回答とさせて頂きます。結論:優柔不断でもそうでなくても、失敗を恐れずにそして選んだ道に「後悔」だけはせず、終わり良ければ全て良しの精神が一番大切。ちなみに僕が生まれてきたことは恐らく失敗ですが、死んで生まれ変わったときのためにこの人生を教訓にして生きています。
2006.02.20
2/1に完全な思い付きのみで僕のHNを募集してみたところ、思いの外たくさんの応募を頂きちょっとばかり困惑気味の週末、みなさまいかがお過ごしでしょうか。一生懸命考えて送って頂いたであろう人が多数いらっしゃいまして本当に感謝の言葉をいくつ並べても足りません。すごく愛されてるんだなぁ僕。愛され過ぎかも知れない。そう言えば今月の14日って何かあった気がします。いいですか、14日。2月の14日ですよ。それはともかくとして、せっかくのこの場ですので、応募頂いたHNを全てご紹介させて頂きたいと思います。出来る限り僕からのコメントも付けさせて頂きました。『雲弧(うんこ)』『云呼(うんこ)』『運子(うんこ)』『乙牌(おっぱい)』『小通杯(おっぱい)』『緒詩理(おしり)』『小至離(おしり)』『汚尻(おしり)』コメント:真っ先に届いたメールがこれです。非常に残念です。遺憾の意を表明します。うんこて。おっぱいて。おしりて。おっぱいとかおしりとか。本当にもう。大好きですよ。僕。『変態王子』コメント:そうですね、変態。間違いない。ただ、『王子』だなんておこがましい。乞食です。僕なんか乞食でじゅうぶんです。足とか舐めます。むしろキレイな女の人の舐めたい。『恋愛702』コメント:どこかで聞いたような名前ですね。恋愛210さん。恋愛。甘酸っぱい響きがたまりません。が、お揃いとかマジで気持ち悪いですよ。(にっこり)『マッド』コメント:サイエンティスト。連想ゲームみたいになってきました。『doku.』コメント:かなりHNぽい感じになってきました。本来ならこういう感じだと思うんです。HNって。完全に主観ですけど。『毒を吐く、の、「どく」。独創的、の、「どく」。なんか変なものがドクドク出ちゃったよ~、の、「どく」』という意味らしいです。主に3番目の気がします。『ナオ兄』コメント:いろんな意味でドキリとしましたが、『兄』の響きがホモっぽくて素敵ですね。僕は限りなくノーマルですけど、これに改名した暁には新しい世界に飛び込めそうです。飛び込みません。『MO-SO』コメント:「妄想」に絡むHNがまた来ました。やや変化球ですね。「もそもそしてそう」という意味も込められているんでしょうか。確かにもそもそしてます。あごひげ辺りが。『ひげ』『あごひげ』『ひげあご』『あごげ』『あげ』『まんげ』コメント:僕の身体的特徴を見事に捉えた秀逸なHNです。と言うか見たまんまじゃないですか。むしろ「ひげ」しかないみたいじゃないですか。「まんげ」はありませんけど。でも自分に無いからこそ憧れるものってあると思うんだ…。『ヒゲ男』←ワイルド。『もじゃもじゃ君』←キュート。『ノッポさん』←親しみやすい。『ムッツ・リエロ』←欧米人みたい。『七○二』←和って感じ。『妄想君』←そのまま。『妄想男爵』←「男爵」って響きが良い。『妄想博士』←「博士」って響きで。『妄想先生』←「先生」ってすごい気がする。『妄想生徒』←「先生」って程じゃないと遠慮してみる。コメント:解説付きで頂きました。後半が全て「妄想」で固められてます。妄想はこのサイトのコンセプトであり僕の日常の多くを占めるものですのでしっくりくるなぁ。「生徒」のセンスに脱帽です。正確には脱力です。『本名』『この際、本名フルネームというのはいかがでしょう♪漢字で。』コメント:お前にプライバシーってモノは無いと言われてるようでして、どうしましょう僕。本名でもいいですけどね。ちなみに「妻夫木 聡」です、本名は。『平井堅』『みのもんた』コメント:なんでやねん。『林』『キヨシ』『太郎』『花子』コメント:誰?『fish sausage』『ぎょに君』コメント:魚肉ソーセージはキライです。『半信半疑』コメント:この名前を見たときの僕の気持ちです。半信半疑。ホントにHNとして応募して頂いたのか半信半疑でした。そこまで計算して送られたのなら素晴らしいです。そうでもない。『love』『evol』『fic』『fict』『peace』コメント:ヴィジュアル系のバンド名とか曲名にありそうな名前ですね。これは僕をヴィジュアル系だと思われてると信じておきます。ヴィジュアル系です。見た目で衝撃を受けます。悪い意味で。みんなヒトゴトだと思って好き勝手に色んなHNを送って来やがって本当にありがとうございました。送る前に「自分がこういう名前になったらどうしよう」という気持ちがあれば、もう少し結果は変わっていたかも知れないと思うんですがそれは胸の奥深くにしまっておきます。たくさん送って頂きましたが最終的に決まった名前を発表します。応募総数たくさん(集計不能です)を頂き、僕が決めたHNは。『7O2』です。『702って暗号みたいでいいのになぁ』『702。かっこいいと思いますけどね』『「701」と「702」という名前に超慣れ親しみ、超愛着を感じるファンの方々(僕含む)から見れば今のままでエクセレント!僕エレクト!ってな感じですよ。』『やっぱ、702さんは、702さんかな』以上のようなメールを頂きました。僕は間違っていた。間違っていたんです。読み方が何だ。今まで(良くも悪くも)慣れてしまったこの名前をいつしか愛着すら感じていたこの名前を手放そうとしていたなんて。それに気付かせてくれたのはたくさん名前を応募してくれて、そして「今のHNがいい」と言ってくれた皆さんのお陰です。見た目が変わっていないのは何の問題もありません。この募集によって大切なものに気付かせてくれた。僕の中身が変わった。変わったんです。誰が何と言おうと。以上、HN募集と決定したHNの発表でした。たくさんご応募頂いたみなさんにお返事が出来ていませんが、この場をお借りしてお返事と感謝の言葉とさせて頂きます。HNは変わらずともちょっぴり見た目とサブタイトルが変わった『ノウ』をこれからもよろしくお願いします。
2006.02.04
今から書くことは完全に思いつきです。いったん言い出して「やっぱ無し」って言う可能性大です。それでも書きます。僕のHNを募集します。ピコンときたらその名前に変えるかも知れません。期限は2/3まで。理由は『702』ってどう読むの?って問い合わせがちょくちょく来るからです。僕自身にも分かってないのに。だから読みやすい名前にしたいです。幼稚園児でも読める名前がいいです。どうせ応募数なんか少ないと思います。おもしろがって変な名前とかばっかり送って来ると思います。それでもいいです。どうでもいいです。「うんこ」って名前でもいいかなぁとか思ってるので、誰か止めてください。
2006.02.01
「ごめんなさい」そう言って彼女がうつむいて俺はそれ以上何も言えなくなる。嫌いや。嫌いなんや、その言葉。「ごめん」って言われたら、それ以上何か言うことは全部お前を責めることになるやろ?「うん、ごめん」だから。それ、やめろって。ごめんて言われたら、俺が何も、言えなくなんねん。ごめん、の代わりにありがとう、って言って。「ありがとう?」そう、ありがとう。こういうときは、ごめんやなくて。ありがとうって言って。いつも迷惑掛けてごめん、じゃなくていつも迷惑掛けてるけど一緒に居て話を聞いてくれてありがとう、って。「うん。ごめ…ありがとう」口癖のように「ごめん」を繰り返す彼女は声が小さくていつも俺の様子をうかがうような彼女。電話の声も小さいから「え、なに?」って聞き返した俺にすぐにごめん、って言ってそれ以上何も言わないから俺はそれをとても歯痒く思ってそして余り好きじゃなかった。バカみたいに声が大きくて体育会系のノリで騒ぐ俺と、みんなが騒いでいるときにいつも後ろの方で静かに笑ってる彼女。春の新歓シーズン。サークルのみんなで新入生を交えて酒を飲んで、朝の3時くらいまで騒いでる中に彼女は居た。ウーロン茶の入ったグラスを両手で持って少し口をつけながら静かに静かに笑ってた彼女の姿が見えて俺は大声で周りの奴らと騒いでた輪を抜けてその隣に座った。「酒、飲まないの?」「ごめんなさい、飲めないんです」「ふーん、ええけどさ。もっとせっかくやからみんなと馴染もうや」「はい、ごめんなさい」「たのしい?」「えっと、はい。すごく。こういう風にみんなが笑ってるのを見るの。好きなんです」「そっか、よかった」「あの」「なに?」「ごめんなさい、あの、わたし。喋るのとか苦手で」「ええよ、無理せんでも。自分が楽しいのが一番や」「はい」そう言って微笑んだ彼女が、すごく自然に微笑んだ彼女の顔が、俺はしばらく頭から離れなくてもっともっとその顔を見たいと思って、酒を飲めないのにいつもサークルの飲み会に顔を出す彼女の隣に、俺はなんとなく座るようになってバカみたいにたくさん喋った。彼女は俺が話す内容にひとつひとつ真剣な目をして聞いて、時々ちょっと目を伏せながらも笑って、声を立てて大声で笑うことは無かったけれど、その唇が少しだけふわりと開いて目が少しだけ細くなる顔を、俺はずっと見ていたくてたまらなくて。「なぁ、彼氏とか好きな人、おるん?」ふだん全然映画なんか興味ないくせに、ちょっと「この映画見たいな」って口にしたのを聞いて俺は彼女を映画に誘った。映画は何かの小説が原作らしくて、彼女はその映画が好きで俺は本を読むと眠くなるからもちろんその小説を読んだことが無くて、映画もそんなに面白いとは思えなかったけど彼女が見たいって映画だからきっと面白いんだって思って必死に見たその帰り。無理矢理感想を言おうとして、でもうまいこと言えなくてちょっと沈黙が続いたときに俺は切り出した。彼女はちょっとうつむいてこっちを見なかった。マズったな、この空気。必死に何かごまかそうと他の言葉を探そうとして、すぐにやめた。遅かれ早かれ、だ。「あんな、俺と、付きあわへん?と、いうか一緒に居てください」その直後に彼女が鼻をすすって、ちょっと泣き出して。完全にマズった、って俺が思ったときに彼女が。「ごめんなさい」って。「や、ごめん。気にせんで。うん…伝えたかっただけやから。俺のただのワガママやな」そう言っても彼女は泣いたまま、もう一度。「ごめんなさい」そう言って。いいよ、そんなに。謝らないでいい。何か、本当に俺が悪いみたいで凹むから、さ。そう言おうとして彼女を見たら彼女はこっちを向いて、「ごめんなさい、嬉しいです。よろしくお願いします」って言うから俺は驚いて、すっかりフラれたって思ってたから、「へっ?」ってマヌケな声を出して。結局、彼女は「こんな自分でいいのか」ってことを気にして「ごめんなさい」と言ったらしく、でもそれを俺が分かるまでにそれから2時間くらいかかった。そのあと近くのファミレスで彼女はずっと泣いてて、途切れ途切れになんでごめんなさいって言って泣いてたのかを、何度も何度も「ごめんなさい」って泣きながら言うから、全部理解するのにすごく時間がかかった。周りから見たら、付き合いたてほやほやの俺たちは別れようとしてるカップルにしか見えなかったと思う。「ん。でも良かった」分かって安心した俺が笑って、やっと彼女も笑って。泣きすぎて腫れた目で笑ったその顔は、やっぱり俺が大好きな顔だった。「ごめんなさい」それからも彼女は何か言う度にその言葉を口にした。「もう、口癖なんだと思う」ちいさく彼女は言って、だから俺は彼女に言った。ごめん、の代わりにありがとう、って言って。ごめんの数が少しずつ減って、ありがとうと彼女が笑いながら僕に言う。それがすごくすごく良くて、「おう」ってぶっきらぼうに言いながら、俺は彼女の頭をくしゃくしゃってして。それから2度目の春を迎えたときに、俺と彼女が終わった。原因は何だろう。いま考えても、はっきりとした理由があったって思い出せない。「なんとなく」そう友達に苦笑い混じりに答えてた。「ありがとう」最後に彼女の部屋を出るときに、すごくはっきりした声で彼女が言った。それはいつも静かで声も小さくて、でも静かに笑う顔がすごく可愛かった彼女が、今までにいちばんはっきりと大きな声で言った言葉。俺は玄関でドアを片手で支えながら彼女の顔を見て、彼女のその唇が少しだけふわりと開いて目が少しだけ細くなる顔を見た。彼女は笑っていてその顔は俺が好きだった笑顔で。「ありがとう、ね。一緒に居てくれて」それを聞いたとき、俺の方が泣きそうで情けない顔をしていたのかも知れない。彼女はすぐ、ごめんなさいと言ってうつむいた。俺はごめんって聞くのが嫌いで、彼女にありがとうって言うんだと言った。最後にとても自然に彼女がありがとうって言って、逆に俺はありがとうって言えなかった。このお話は、「オリゴ糖って言うと、えなりかずきがありがとうって言ってるように聞こえるんだぜ!」と得意げに僕に話してくれた友達の言葉から生まれました。ありがとう。でも全然そうは聞こえないんだ。
2006.01.31
今だったら、どうしたら良かったのかが分かる。僕が出会ったひとの中で、いちばん強くていちばん弱くて、そしていちばんしっかりしていていちばん幼くて、いちばん笑っていちばん泣く年上のひと。そのひとに、僕がどうするべきだったのか今だったら分かる。僕らが出会ったことが偶然だろうと運命だろうと、そんなことを考えることは決してしなかった。彼女は僕にいちばん笑ってくれたから、それだけで僕は彼女の笑顔をもっと見たいと思ったし、彼女は僕の前でいちばん泣いていたから、それだけで僕は彼女のそばに居たいと思っていた。僕は泣いたり笑ったり怒ったりするのがひどく苦手だったから、彼女がいつもくるくると感情を表に出すのが羨ましかったのかも知れないし、憧れに近い感情を持っていたのかも知れない。可愛いものや綺麗なものを見たとき、それが例えどんなに小さなものでも。彼女は(僕から見れば大げさに見えるほど)嬉しそうな顔をして、指をさして僕に見せてきて。ペットボトルについたオマケのストラップ。UFOキャッチャーのぬいぐるみ。車の窓から見える夜景。雑誌に載っているかばん。店先に並ぶ安物のピアス。僕にとっては景色の一部に消えてしまうもので、見えていないもの。それらのひとつひとつに笑顔で僕に見せてくれたから、僕は彼女のとなりでゆっくりと歩くようになっていた。彼女は僕との共通点をひとつひとつ見つけては、大げさに喜んで見せた。「わたしたちって似てるね」と笑って。僕は、彼女が僕にないものをたくさん持っていてすごく遠くに感じることもあったから、そうやって一緒だと言われることがとても嬉しくて、でもその度に胸を痛めたりもした。僕はきっと、不安だったんだと思う。彼女があまりにも眩しすぎて、そしていつか、消えてしまうことを思って。僕は彼女に「好きだ」と言って彼女は僕に「好き」と言って。でも僕はお互いに触れ合うことを怖がっていた。触れ合えばもっと彼女が欲しくなることを知っていたから。僕は不安を振り払いたかった。いつか消えてしまうものを手に入れるのが恐くて、そしてそれよりも彼女自身がいますぐ僕の目の前から消えてしまうことの方がもっと恐くて。僕は近付くことも遠ざけることも出来なくてそれでも彼女と一緒に居ようとしていた。「もう、会えません。ごめん。ごめんなさい」メールが僕の携帯に入ってきたのは、冬がもうすぐ終わってしまうころで、少し前に風邪をひいた彼女がその直後に風邪をひいた僕をちょっと心配しながらも「また一緒だね」とメールしてきてから1週間後だった。メールには彼女が不安だったこと、その不安に耐えきれなくなったこと、それから最後に僕が本当に幸せになれることを祈っていますと書かれていた。メールを読んで、僕は胸の中にいつもとどめておくしかできなかった感情が、一気に溢れ出しそうになるのを感じて、それはすぐに形となって。僕の頬へと溢れていった。僕が見ていた彼女はいつも感情をストレートに表に出していたはずだったのに。耐えきれないほどの不安をいつも僕と居るときに感じていて。そしてそのことに、一瞬でも気付くことは出来なかった。その時の僕は不安の意味もそのつらさも、分かりすぎるくらい分かっていて、「わたしたちって似てるね」そう言った彼女の言葉の本当の意味を知った。僕らは本当は同じで、手に入れたいのに失ったときの悲しさを知っているから近付くことを恐れて、失いたくないから遠ざけることも出来ずに居た。そして僕の方が弱かったから。何も出来ずに居ただけで。彼女が僕にメールを送ったときのことを考えると、ずっとずっと胸が痛んだ。きっとすごく恐くて苦しくて悩んで迷って、その中でメールの文字をひとつひとつ打ったことを考えると、口から漏れ出す嗚咽を抑えることが出来なかった。そのメールの文字をひとつひとつ、何度も読み返しても僕はそれに対する返事を持っていなかった。悔いて謝ることも言い訳をすることも怒って怒鳴ることも全部意味を成さないと思えたし、その時ほど言葉や文字が全て本当の意味を伝える手段としては、とてもとても弱すぎると思ったことはなかった。携帯の画面にぽたぽたといくつも涙だか鼻水だか分からないものが流れても、国道をバイクで飛ばして会いに行くことも、リダイアルの一番上にあるはずの電話番号にかけることも、メールのただ一文字も打つことも出来ずに僕は何度もそのメールを読んだ。それから、メール画面を閉じて電話帳から彼女の番号とアドレスと、彼女の名前を消した。今だったら、どうしたら良かったのかが分かる。僕が出会ったひとの中で、いちばん強くていちばん弱くて、そしていちばんしっかりしていていちばん幼くて、いちばん笑っていちばん泣く年上のひと。そのひとに、僕がどうするべきだったのか今だったら分かる。きっともっと簡単で単純で、でも僕には恐くて難しくて出来なかったこと。彼女を抱きしめること、手を繋ぐこと、笑っていること。「好きだ」って言った後に「ずっと側にいる」って言うこと。僕が欲しかった「安心」を手に入れるためにはそういうことをすれば良かった。彼女に「安心」をあげることが出来れば良かった。今だったら分かる。今だったら。そうして戻らないものを時間を笑顔を声をあの人の全てを、取り戻したくてもやり直したくてもどうにも出来ないことを、繰り返し繰り返し思い出す度に胸の辺りを締め付けるけれど。僕が彼女に出来ることはもう無いって思って、だからその分彼女が誰かと凄く幸せになって笑っていて欲しい、その誰かに「安心」をもらって笑っていて欲しいって。電車で綺麗な女のひとを見ると、その人相手にそんな妄想をよくしてる。
2006.01.30
書き物をしています。Bookmarkにもありますが、お暇な方はどうぞ。⇒Plastic World
2006.01.28
僕が生まれて初めてキスをしたのはすごく寒い季節の公園で、その公園は周りに高い木がいっぱい生えている神社の横の公園で、夕方の5時になると、その季節では本当に真っ暗で、辺りに人の姿はほとんど無くなるから、誕生日を迎えたばかりの付き合いだして1ヶ月の年下の彼女に、街の情報誌の配達のバイトで貯めたお金で買った、小さなシルバーの星が付いたネックレスをあげて、彼女に誕生日プレゼントを買ったのは初めてだったから、それだけで十分かどうかよく分からなくてちょっと不安で、少しだけ背伸びをしたかった僕はカッコイイと思ってた演出をしようと、「もう一つプレゼントがあるんだ」って言って鞄を開ける振りをして、「ちょっと目をつぶってて」って言って目をつぶらせて、その隙に彼女の唇に自分の唇をす、っと近づけて、それを僕の頭の中ではスマートに自然にやるつもりだったんだけど、何せ初めてだから唇までの距離とか、首の傾け方とか、キスするときの自分の唇の形とか、自分も目をつぶるんだろうかとか、そんないろいろなことを考えてたから、なんだか唇の端の方に少し触れるだけみたいなキスになって、あー、かっこわりいな、俺。って思ってるときに、ちょっとビックリした顔で彼女が目を開けて、それから笑ったものだから僕はすごく恥ずかしくなって、「何笑ってんだよ」って言ったら、「唇が、がさがさ」って彼女が言って、僕は冬になるとすごく唇ががさがさになってしまうから、そしてその時はきっと緊張もしてたから余計にがさがさで、「はい」って彼女がメンタームのリップクリームを出して、でも僕はリップクリームを塗った後のベタベタする感じが嫌いで、「いや、いいよ」って言ったけど、彼女はリップの蓋を取って僕に押し付けてくるものだから、僕は仕方なくリップクリームを塗って、ああ気持ちわりいな、って、そう思ってたら、彼女がリップクリームをしまってもう一回目をつぶったものだから、今度はしっかりと、唇のまんなかにキスをした。ファーストキスの味なんか無いって、そんなこと言うヤツはいるけれど。僕の中では少しベタベタして、メンソールのスッとした味が、間違いなく、そしてハッキリと残るファーストキスの味で。今でも冬が来ると僕の唇はガサガサで、でもリップクリームはベタベタして嫌いだから塗ることは無くて。それでも、あのころよりずっと自然に、それからうまくキスできるようになった。だから僕にはもうリップクリームは必要無いんだってそう言い聞かせて、ガサガサのタバコをくわえて火を点けて、ふう、って煙を吐き出した。たぶん、リップクリームの味のする、スッとしたキスをすることはもう無い。タバコのフィルターに切れた唇の血がついてた。
2006.01.26
「雪はきらいです」ほう、っとため息をついて彼女は言った。僕が住む街に雪が降るのは本当に珍しくて、でも僕が生まれた街には、毎年毎年たくさんの雪が降って積もった。彼女の生まれた街がどうだったのかは知らない。僕は彼女が生まれた街がどこだか聞いたことがない。「ずっと、ずうっと小さい街です。でもわたしは好き」いつだったか彼女が僕に話してくれたその街は、きっとここからは遠いところにあるんだろうと想像した。その小さな街では、彼女は家族や友達と、何も無くても笑っていられる、そんな街なんだろうと想像した。彼女が生まれた街のことを話していたその時は、とても穏やかな笑顔で話していたから。僕と彼女は、あたたかいお店の中であたたかいコーヒーとミルクティーを飲んだ。はしの方がが曇っている窓の外には、ひらひら雪が降っていた。とても静かに、でもとぎれなく降っていた。「雪を見るのは好き。 でも、生まれた街にはたくさんの雪が降りすぎて、 雪かきをしなきゃ、家から出ることも出来なくなる。 だから、雪が降ると、ちょっと憂鬱になる。 でもここにいれば、この街にいればそんなに雪は積もらないからね。 そうやって憂鬱になることもない。 だから、ここにいるうちは雪は好きかな」僕は窓の外見ながらそう言って彼女を見た。「私は。私は雪はきらいです」彼女は外の雪を見ずに、ティーカップに目を落として答えた。僕はどうしてだか、聞くことが出来なかった。それ以上、何かを聞いても、彼女は答えない気がした。それもどうしてだかは分からないけれど。陳腐な、言い古された言葉かも知れないけれど、彼女の肌は雪のように白くて、透き通っていて、そして。触れただけで溶けそうに見えた。その時の顔が、表情が余計にそう思わせたのかも知れない。「春になれば。雪は、溶けて消えてしまいます」「そうだね」「消えてしまうものを好きになれば、消えたときに寂しいだけです」僕は彼女の恋を知っていたから。そうして、その恋の行方も全部知っていたから。彼女のことばのひとつひとつは僕の胸の辺りに静かに積もっていった。窓の外では、同じように雪がアスファルトの上に白を積み重ねていった。「また、冬になれば雪は降る。そして、冬は毎年ぜったいにやってくる」窓の外を見たまま、僕は話した。彼女の目を見なかった。分かってる。僕の言っていることは。ただの詭弁だ。気休めだ。終わった恋に胸を痛める者に、第三者が掛ける気休めほど無意味で、そして、時に傷つけるものだって僕は知っていた筈だった。話しながら僕は正しいことを言ってる気がしなかった。だから彼女の目を見ることが恐かった。恐かったんだと思う。「そう、ですね。同じ雪じゃないけれど。雪はまた降りますね」僕が思っていたよりも、彼女は強かった。でもそれは僕が思っただけで、実際の彼女は強かったのかも知れないし、ずっと弱かったのかも知れない。少なくともその時の彼女は真っ直ぐと窓の外を見ていた。その言葉に少し驚いて顔を横に向けた僕の目にうつった彼女はきらいだと言っていた雪を見ていた。お店を出る頃になっても雪は止む気配はなかった。僕は傘を持っていなかったけれど、彼女は柄の長い薄い水色の傘を持っていた。それを開いた後に、僕の方に差し出したけれど、「雪の日は、傘をささないんだ」そう言って僕は断った。「じゃあ、私もさしません」そう言って彼女は笑った。そうして、僕らは肩に雪を積もらせながら駅に向かって歩いた。さくさくとアスファルトの上の白を踏みしめて歩いた。春が来なくても、この街では雪はすぐに消えてしまう。彼女のきらいな雪はそうやって、すぐに姿を消してしまって。肩の上に積もった雪も、駅に入ればすぐに溶けるだろうし、僕と彼女が歩いた後に残った足跡も、明日になれば消えてしまう。彼女はすぐに消えてしまうから雪を怖がってきらいと言い、僕はすぐに消えてしまうから雪を好きだと思った。例えば、僕の隣を歩く彼女のように。もうすぐ、僕の前から消えてしまう彼女のように。*****雪は、好きですか?きらいですか?僕は、今の僕は。微妙です。(休日出勤しているときに雪が降るとスノボに行きたくなって悔しいからです)
2006.01.21
写真の中の彼女は、これでもかってくらいに幸せそうな顔をしていた。ベッドの中、僕は仰向けになり小さなフォトアルバムを一枚ずつめくる。「ね。ナナ。すっごく幸せそうな顔してるでしょ」ベッドの隣から聞こえた声に、僕は頷きもせずにアルバムをめくる。シルバーのドレスを着たナナの顔は、全部の写真で同じ顔をしてる訳じゃない。けれど、そのパーティーのどの写真からだって、「幸せ」ってことばがこれほど見事に当てはまるものは無いって思った。そのナナの隣にいる男性は、僕が一度もあったことの無い男性は、写真だけでも「いい人」なのが分かり過ぎるくらい分かった。きっと、僕がどれだけかかってもナナが見せないであろうその顔を、いとも簡単に作ることが出来たような気さえした。「ナナ、あんたに会いたがってた。呼べば良かったかな、って」「俺が。どんな顔して行けばいいのさ」そこでやっと。僕はとなりにいるトモの顔を見る。「そのままの、顔でいいんじゃない?」トモの指が僕の頬をつたう。「ナナ、ね。好きだったんだよ。それくらい分かってたでしょ」「・・・」「ふたりとも、変に不器用で。周りから見たらイライラしてた」「今は。俺は今は違うよ」「嘘がつけないところは、一緒。かわってない」「嘘だって、つけるようになった」「ううん。だって、さっきから一度もわたしの目を見ない。してる時だって」僕はもう一度、アルバムの中のナナを見る。来月には、母親になる。そう聞いても、幼い笑顔や声を思い出すと、すんなりと信じられなかった。当たり前だけど、僕の知らないところでナナは僕の知らない顔をして、僕の知らない人生を歩いていった。トモだって、そう。僕が街を離れてから、10年弱が経ってる。こうして、たまに帰って来たときに会う顔は、全く変わっていないって思っても。いま、こうしてトモと関係したことだって、あの頃の僕には想像もつかなかったことなのに。ナナが結婚したことを聞かされて、僕の知らないうちに結婚した事を聞かされて。少し酒が入り過ぎただけで、簡単に僕はトモと関係を持った。変わったのは僕もかも知れない。だけど、トモは。僕を、変わってないって、言う。アルバムを閉じて、枕元に置いた。それから、ベッドから降りてシャツを羽織る。「写真、持っていってもいいよ」後ろから、トモの声が聞こえる。「いや、いいよ。じゅうぶん。たくさん見たから、もう胸に焼き付いてる」僕は、嘘をついた。胸に焼き付いてなんかいない。それどころか、僕はナナのあの顔を憶えているのが、辛いと思った。僕が知っているナナの顔だけでじゅうぶんで。それはずっと変わらないと思っていたかった。僕の知らない顔のナナから、僕は逃げようとした。自分でも、それは情けない話だと分かるけど。「嘘、でしょ。やっぱり嘘つけないね。すぐ分かっちゃう」トモが笑っている。でも、それは馬鹿にした笑い方じゃなくて、ずっとずっと寂しい笑顔だった。その顔のトモも、僕の知らないトモの顔で、僕は。「人は、変わるけど。変わらないことだってあるから」俺も、そう信じたいよ。でも、それをトモには言わなかった。何も言わないままベッドに腰掛けて煙草に火を点けた。トモも隣に座って僕の煙草に火を点けた。二人とも、何も言わなかった。でも、煙をじっと見ながら。きっとトモもあの頃のことを思っているんだろうと、僕は勝手に思い込んでおいた。*****今年の同窓会も、そんなようなことはありませんでした。
2006.01.19
日記のようなものを始めました。じゃあ、このブログは何なんだと聞かれれば、曖昧な苦笑いを返すだけですが。
2006.01.13
言いたい言葉がある。それはどうしても遅すぎる言葉になってしまうかも知れないけれど。それでも。言わなければ前に進めない気がしていた。このままじゃいけない、って。そんな思いだけがどんどん自分の中で大きくなっていくのを感じる。昼間の街が、普段と比べ物にならないくらい賑やかになっているのに、夜は驚くほど静かで。静か過ぎて車も人も居ない道を歩いて。雪が凍ってしまった道を、轍の跡に凍ってしまった道を。その歩き難くなってしまった道を。僕は歩いた。言いたい言葉。それでも、伝えることが出来ない言葉。何度も何度も飲み込んで。ここでひとりでつぶやいても、聞こえることの無い声を。伝えることが出来る頃には、すっかり遅くなってしまうであろう言葉を。何度も胸の中で繰り返して、僕は生まれてそして育った街を歩きながら。いま。その言葉を伝えたい。それはどうしても遅すぎる言葉になってしまうかも知れないけれど。それでも。聞いてくれますか。そして、届くでしょうか。何を今更とあなたは笑うでしょうか。それなら、どうか、笑って。僕が見たいのは、その笑顔なのだから。ありふれた言葉を言うのは嫌いだけれど、それでも僕はどうしても言いたくて。そんなありふれた言葉を。僕の、僕のままの言葉で。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。(久々にパソコンに触りました)
2006.01.05
すっかり葉の落ちた街路樹を見ながら、冬の道を歩く。痛いくらいに冷たい風でも、私は真っ直ぐ前を見て歩ける。今日は、母の3回忌。高台の公園で全てを知ってから2年後。母は突然倒れそのまま帰らぬ人となった。心筋梗塞。『死に至らない病』の母は、余りにもあっけなく。けれども、走るように生きてきた母らしい最期だったと、そう今なら思える。あれから、何件もの『死に至らない病』の患者が亡くなっていった。母と同じ心筋梗塞、脳卒中、そして交通事故をはじめとする事故死。最初は騒ぎ立てていたマスコミも、やがて彼らの死に触れることは無くなっていった。『死に至らない病』は、老いて死ぬことは無くても、突然の病気だとか、事故では死んでいく。既に『死に至らない病』は『死に至らない病』では無くなっていた。今では人口のおよそ20%が『死に至らない病』の患者であると、いつかのニュースで聞いた気がする。もう、それは特別なものではなく、自然に私たちの中に入り込んできている。そして、皮肉なことに。死から遠ざかるはずの『死に至らない病』のお陰で、人々は以前よりも『死』に対して真剣に向かい合うようになっていった。私自信もそう。そして。弱かった私は、この『病』によって、随分と強くなった。いえ、でもそれは。『病』のせいだけでは無いのだけれども。「杉村・・・君?」突然の呼びかけに私は後ろを振り向く。そこには、以前、私が勤めていた職場の課長。「ああ、やっぱり。随分と久し振り」「ご無沙汰しております」立ち止まり、私はかつての上司に向き直る。「杉村君…ああ、いや、旦那さんが退職してから 君の話も耳に入ることはなかったからねぇ」そう言って目を細め、「いや、元気そうで何より」そう付け加えた。「私、もう、杉村じゃないんです」私がそう言うと、彼は目を大きくして驚いた表情を浮かべた。「いや、それは…知らずに。失礼」「構いません。お互いが違う道を歩いた方が、より良いんだと。 そう、二人で話し合ったことですから」そう、私が杉村と別々の人生を歩き出してから、5年。彼は今でも便りと、断っても生活費を送ってくる。どこか遠くの異国の地から。今でも『死に至らない病』のために飛び回っていると。「そうか…っと、その子は、彼との…?」私と手を繋いでる子に目を向ける。「ええ」私は微笑んで言う。杉村と別れてからすぐに、私はこの子を授かったことを知った。最初は不安で仕方なかったけれども、でも。私が強くなれたのは、『病』だけじゃなくて、何よりこの子のお陰。私と手を繋いだまま、真っ直ぐにかつての上司を見つめてた後に、手に持っていたオレンジ色の包みを彼に差し出した。「…僕に?」こくり、と小さな頭を頷かせる。「もらってやって下さい。この子、気に入った方にはみんなそれを差し上げるんです」私は笑いながら言う。「いい子だね」「ええ、ちょっとだけ変わってますけれども。優しい子です」「きっと、もっといい子に育つ」そう言って、この子の頭をくしゃくしゃと撫で。「じゃあ、杉…いや、高井君。お元気で」「ええ。お元気で」そう言って私はこの子の手を繋いで歩き出す。そう、きっと優しい子に育てる。この子にはまだ『死』を理解することなんて出来ないだろうけれど。それでもその意味を知る頃には、誰にも思いやりの心を持つ、そんな子に育って欲しい。『死に至らない病』。それは私から進むべき道を全て奪ったと思っていた。けれども、私は今、進むべき道をしっかりと見ることが出来る。小さい手がぎゅっと私のコートのすそを引っ張る。しゃがんで小さな目を見た。私の顔をじっと見つめる顔。私は笑って鞄の中からビニールの包みを取り出し、オレンジ色の魚肉ソーセージを渡す。それを持ってにっこりと笑う顔と、私はこれから。ずっと歩いていく。そう、ずっと。いつか、その命が途絶える、その時まで。いつか終わるからこそ精一杯、人生の全てを賭けて。[死に至らない病 完]
2005.12.27
大学の3年生の頃だったと思う。殆んど喋ったことのない男に、校内でいきなり話し掛けられた。「不老不死について、興味があるんだって?」ってね。その頃の俺は、すっかり諦め切っていたし、寧ろ、その話を持ち出されたくも無い気分だった。だから、その男の話なんか聞くつもりは始めは全く無かった。どうせ何かの宗教の勧誘だとか、そんなもんだろうって。だけど、どうしても気になった。あれだけ固執していた『不老不死』。これまで一切何も手がかりが無かったその言葉が。いま、そこにあるかも知れない。最終的にそいつの話を聞こうと決断をしたのは、そいつの両親が亡くなっているってことを聞いたからだった。それでも、最初に『死に至らない病』のことを聞かされても、半信半疑だった。当然だけれど、そんな症例聞いたことも無かったし。事実、当時は『死に至らない病』の臨床実験は、人間に対して行っていなかった。何百年もの間には、人間に対しても病の臨床実験を行った例もあったかも知れない。ただ、『その団体』はあくまでも慎重にものごとを進めていると。そいつは言っていた。ゆっくりと、ただ、確実にそれを完璧なものにしていき、そして世界中に『その団体』を広げていく。その時にはほぼ世界中にその団体の人間は居たし、臨床実験も、最終段階の一歩手前、といったところだった。俺は、その団体に帰属することを簡単に決めた訳じゃ無かった。どれだけ話を聞いても、実際に団体の会合に出席しても、まだ俺の中で疑いの気持ちは残っていたんだろうな。俺がどれだけ調べても欠片も出てこなかった話が、こうも目の前で繰り広げられて、ちょっと悔しさもあったのかも知れない。けれど、最終的には。その団体に人生の全てを捧げることに決めた。*****「病院で会った男性は…その団体の方?」「そうだ」夫は長い話に少し疲れた声で答えた。「あの団体では、なんで自分がこうやって『病』に興味を持ったか、 そして、この『病』をどうしていくか、ってお互いに話すんだ」「そう…」私は夫の『希望』の意味を、そこでようやく分かった気がした。夫は『死』を憎んだ。大切な人を奪う『死』を。だから、自ら病になり、そして大切な人も病となって、そして、ずっと、共に生きていくことを望んだ。夫が私の方を向く。恐らく。私は全てを悟っていたことが分かったのだろう。小さく、頷いた。「君が、まだ。『病』に対して良いイメージを持っていないことは分かってる」ええ、でも…「だから。ゆっくりと時間をかけて。君に話そうと思っていたんだ」それから、また柵の向こう側へと目をやった。*****期は熟していたのかも知れないし、まだだったのかも知れない。ただ、団体は病の種を蒔き始めた。正直に言うと、それは、一部の人間の『暴走』だったんだ。臨床実験は成功した。数年前には一部の団体の人間はもちろん、その他の人間でも病の患者は居たんだ。ただ、団体の人間が把握出来ていないところで、『患者』が出てしまった。それが、君のお母さんも含め、世界で幾つか報告された患者達だった。団体の一部の人間が、無差別と言っていいほど、病を撒き散らし始めた。彼らは、世の中全ての人間が『不老不死』になることを、素晴らしいことだと思っている、少々危険な思想の持ち主だった。事故、って言っても過言じゃない。病は、簡単に感染するものじゃないけれど、製薬会社に勤める連中も、団体の中にはたくさん居る。彼らが、あらゆる薬品に病の細胞を混入させることは可能だったかも知れない。或いは、途上国に対する支援物資の薬品にも、それが混ざっていた可能性もある。ベトナムの集団感染は、恐らくその疑いが強い。だけど、こんな形は間違っている。団体は大きくなり過ぎて、自身を制御することが、最早出来なくなりかけているんだ。だから。俺は、『正しい形』に戻さなければならない。当初、団体が進もうとしていた、その形に。誓ってもいい。君のお母さんが『患者』だから、俺が君に近付いた訳じゃない。いつかも言ったけれど。俺は、君に惹かれて、その君のお母さんが『患者』になった。けれど、俺は、いま。俺の望みは。君も『死に至らない病』の身体になって、そして、俺についてきて欲しいんだ。*****夫の目は強かった。その目を真っ直ぐに見ることが出来ないくらい。彼の思いは強すぎて、私の胸は痛かった。知りたかったこと。私がずっと知りたかったその『答え』は余りにも大きくて、大きすぎて。潰されてしまいそうだった。私は、全てを知った今、それでも夫が大切な人であることは変わらなかった。そして、夫の進む道を痛いくらいに理解出来た。でも、私自身は。私自身の進む道は。「時間を、下さい」「ああ、分かってる。俺自身、この話をこんなに早くするとは思わなかったんだ」オレンジ色が消えた街に、灯りが点いていく。ひとつ、ひとつ。私の中には、灯りが見えなかった。いや、確かにあったのかも知れないけれど。その灯りを頼りに歩くには、余りにも心もとなくて。『真実』は時に、進む先を覆い尽くしてしまうのだと。私はその時に知った。
2005.12.26
幸福と不幸の量は等量である、と。そういったような思想だかをよく聞く。 つまり、いま不幸であっても、そのうち良いことがあるんですよ、 といった慰めみたいな。 そして、いま幸福であっても、それがいつまでも続くとは限らないから、 今の幸せを当たり前と思わず大事にしていきなさいよ、という戒めみたいな。 必ずしも等量だと、思わないし、思えない。 ただ、絶対に幸福のみの人生・不幸のみの人生は無い。 それは当たり前である。 こと、12/24~12/25になると、幸・不幸についての声が聞こえる。 いや、常にそれはあるのだが、よくよく耳に入ってくる、といった点に於いて。 だから?と言われても、取り立てて何か結論がある話でも無いのだが、 世に言う「幸せ」の部類に属する日常を送っている僕には、 ちょこちょこ「不幸だ」というメールが届き、 しかし、彼らに対して「そのうちいいことあるって」という内容のメールは、 力になる場合も無きにしも非ずだが、 しばしば、「手前に何が分かる」といったことにも発展する。 その時に言えることなど何も無いのだ。 「運命論」というものがある。 起こる事象のそれらは「運命」というものによって予め決まっており、 それらを変えることは出来ないという考え。 だとすると、努力することは無意味だと思うかもしれないが、 「努力することによって、成し遂げられる」というのも「運命」なのである、というものである。 実はこの「運命論」、一笑に付されるかもしれないが、 自分自身、信じている部分がある。 もちろん、全ての事象を「運命だから」と諦める意ではない。 「ああ、これも運命なのかな」と思うことがあるのだ。 その運命を、人が知ることはもちろん出来ない。 ただ、この先起こることが決まっているのなら。 その中に「幸せな運命」を望んでも良いんじゃないだろうか。 「どうせこの先もずっと自分は不幸だ」と思っていてもいなくても、 「運命」は変わらずその人にものごとを運んでくる。 だったら。 「幸せな運命」を少し待ってみよう。 過剰に期待しろと言ってる訳では無い。 幸福と不幸の量は等量だから、そのうち良いことがあるって慰めでもない。 ただ、これから起こるかもしれない「幸せな運命」を心のどこかで待つだけで、 少しは「不幸な今」に救いが見えるんじゃないかと思うし、 自分自身、そうやって生きてきている。 「不幸だ」と嘆く友人に、この言葉を伝えたかった。 ただ、伝えることが出来なかった。 携帯のメールって、打つのが面倒なんだ。
2005.12.25
不老不死は、人類の永遠の夢。それは、遥か太古の時代からずっとそう。でも、叶わぬ願い。そうやってずっと人類は生きてきた。今だって。だけど。ずっと前に。今から5世紀も前に。『不老不死』は存在してた。存在、とは少し違うかな。作り上げられてた。それが、『死に至らない病』。文献も資料も何も残ってないから、詳しいことは何も分かっていない。けれど、それは別の研究中、偶然に発見されたものだった、って。それだけは分かっている。何で、文献も資料も残ってないかって、そりゃ。握り潰されたんだよ。余りに、危険過ぎるから。時の権力者はこぞって不老不死を求めていた。当然、こんなものが広まったら、世界のバランスが崩れる。戦争も起こるだろうね。それも大きい戦争が。だから、それを恐れてこの世から『死に至らない病』の存在は消された。と言っても。『死に至らない病』そのものが、この世から消えた訳じゃない。よくある話かも知れないけど。やっぱりこういうものは『裏の世界』で生き続けるものなんだ。それは、宗教的なものだったのかも知れないし、単なる知的好奇心だけだったのかも知れない。ひょっとしたら政治的な力の関与だって。否定できない。何が関係したのかは知らないけど、それでも。*****私の方を向かずに、街を眺めながら、ゆっくりと夫は喋り続けた。まるで。おとぎ話を話して、そして私はそれを聞く子どもの様に、じっと彼の横顔を見つめて話を聞いた。黙ったまま。その話は、とても遠すぎて。母と、夫の身体にいま存在している『病』。それと、彼がいま話している『病』がなんだか結びつけることが出来なかった。*****きっかけは、そう。父方のじいちゃんが亡くなったこと。すごく、おじいちゃんっ子だったんだ。俺は。生まれた時には、ばあちゃんは亡くなってて。母方のじいちゃん、ばあちゃんも亡くなってて。だから、俺を『孫』として可愛がってくれるのは、じいちゃんひとりだった。両親が共働きだったから、俺の面倒は全部、じいちゃんが見てくれた。すごく、いろんな話をしてくれて、何でも知ってた。元々、大学の教授かなんからしくて。でも、頭の固い人じゃなかったし、偉ぶったところも無かった。俺は中学に上がってもじいちゃんが大好きで、尊敬してた。前みたいに、じいちゃんにベッタリって訳じゃ無かったけど、それでも。だから。じいちゃんが癌になって。それからだんだん弱っていって。その時に。『死ぬ』って何だろうって。どうして、死んでしまうんだろうって。すごくすごく考えた。何でじいちゃんが死ぬんだろう。人間は死ぬんだろう。俺もいつか死ぬのか?どうして、死ななきゃならない?ただ、いつまでも笑って、そして大好きな人と居ることが出来ないんだろうって。もちろん、人がいつか死ぬことなんて分かりきっていた。けれど、そのときまで真剣に考えたことが無かった。だんだん、じいちゃんが喋ることすら出来なくなって。そして、最期のとき。俺は泣かなかった。その時にはもうひとつの考えが俺の中にあったんだ。『死』を、俺は認めないって。大好きで、尊敬してた人を奪う死を。俺は認めたくないって。死ぬからこそ人生は美しいなんて、そんなのは詭弁でしかない。死は、終わりで、全てを奪うものなんだよ。じいちゃんは、それを最期に教えてくれた。『死』について、俺はがむしゃらに調べた。正しくは、『不死』について。馬鹿馬鹿しいと思うだろう?でも、俺は真剣だった。片っ端から、そう、おとぎ話のようなものから、医学書みたいなものまで。俺は調べまわった。けど、『不死』なんて存在しない。調べれば調べるほどそれがハッキリしてきて。高校を出る頃にはもう、『不死』について調べる事をやめてしまった。そして、普通に大学に入学して、普通に就職し、そして…いつか、普通に死んでいく。きっと、そういう人生になっていくって、自分でも思った。*****夫の悲しくて、寂しい顔を見ていると、私は言葉が見つからなかった。周りの景色が、少しずつオレンジ色に変わっていく。いくつもの夫の想いが、心の中に沁み込んで行く気がして、でも、それは、どこか哀しくてそして強い感情。口を開くたびに、私の中に沁み込んで行く感情。私は、それを。すべて受け止めることが出来るの?ふいに、寂しくなる。もし、受け止められなかったら?私は、ただ。目の前に居るこの人を。この人と、歩いていくだけでいいのに。また、しばらくの沈黙が続く。その後に。夫が口を開いた。「なぁ、俺は、ただ。お前と。愛する人とずっと一緒に居たいだけなんだ」ええ、私も、そう。「それすら、叶わない『死』なんて。消えてしまえばいい。だから…」冷たい風が吹いた。これから夫が話す事を、私はどう受け止めればいいんだろう。『死が消えてしまえばいい』私には分からないかも知れない。理解出来ないかも知れない。その時は。その時に、私は。どこに向かって、歩いていくんだろう。締め付けられそうになった感情が、くっきりと。今もそのまま残っている。
2005.12.15
「新着メッセージはありません」何度見たか分からない携帯の画面。ぱたり、と携帯を閉じてポケットに仕舞い、少し考えてからまた取り出す。発信履歴の一番上の番号を表示して、コールボタンを押そうとして、またやめる。そんなことをここ何日も繰り返してると、ロクでもない考えばかりが浮かんできて。俺って自分勝手なもんだったな、って思ってみる。ミカから最後にメールが来て、たぶん3日になって、それも、あんなメール。「ちょっと、しばらくひとりで考えたいから」たぶん。て言うかほぼ間違いなく俺が原因。慣れ過ぎた。3度目のクリスマスを控えると、何か特別なことをしようってそんな気持ちも薄れてしまって。「なぁ、今年は家でゆっくりとしようや。どこ行っても混んでるしな」今から考えれば、不用意なヒトコトだったって、そう気付けるんだけどな。仕事、仕事って最近はデートらしいデートしてない。「温泉行く」って約束は去年のからのまま。今年のクリスマスは3連休で、今月の始めには俺のプロジェクトも終わるって、そんな話してたから、絶対にミカは楽しみにしてたはず。なーんで、気付けないかな。もう一回、メールセンターに問い合わせしてみる。ここは、電波がいいからそんなことしなくてもメールが来たらちゃんと受信する。それでも、一応の期待を持ってするものだから、「新着メッセージはありません」ほら。余計にがっかり来る。表参道のイルミネーションの下をいくつものカップルが歩くから、ガラスの向こう側がなんだか別の世界に見えてきた。当たり前だけど、みんな幸せそうな顔してる。冷たいコーヒーをひとりですすってるのは、店内にも俺だけだって、そんなタイミングで気付くから、さっさと店から出ちゃってしまおうか。そんな気さえ起こってきた。「話したいことがあるから、○○に6時に来て」メールを打ってから「来る」って返信も「来ない」って返信も無いのに、7時半まで待ってる。こうやって、男は。せっぱつまらないと、考えやしないんだ。行動も起せないんだ。勝手について来てくれると、そう思い込んで。いざそれが無くなりそうになって、初めてジタバタして。そんで。結局…「ダメだ!」俺は立って携帯を取り出して、発信履歴の一番上、ミカの番号を押す。こうなったら、やれるだけやってしまえ。終わるならやれるだけのことやんないと、カッコつけたって何も残らねーんだ。精一杯、悪あがきをしてやる。「お掛けになった電話は、電波のとどかな…」電話を切って、また座る。なるほどね。じゃあ、もうこれは家まで乗り込んで、そして…「なにひとりでバタバタしてんの」ミカの声。ばっ、と振り向くとミカが立ってる。外はかなり冷え込んできたのか、マフラーを口元まであげたミカが。「って、いま、電話しようとしてたんだけど」「ごめん、電池切れてる」ぶっきらぼうに言って、俺の向側に座る。それから、ちょっと二人黙って。「…髪切った?」「いいとものタモさんかよ」俺の何とか場を持たせようと言った言葉を、バッサリ切って。それからミカが吹き出した。俺は訳が分からずミカを見て、それからミカがじっ、っと真面目な顔をして。「すっごい、考えてた」来た。俺は構えた。何を言っても俺は最後まで悪あがきする。そうさっき決めたから。来るなら何でも来い。「ずっと、最近、ダラダラと付き合ってるだけで、これでいいのかなって。 それで、この先、どうなるんだろうって」席についても、ミカはマフラーと、それからコートを取らなかった。手短に終わらせる気か?そうはいくかよ。「で。メールとか電話も。取らなかった。 だって、取ったらまたもとのままだって。そう思ったから」違うね。これからは違う。絶対同じ過ちは繰り返さないから。「きっと、そう言ったら、『同じ過ちは繰り返さないから、頼む』って。 そう言われるんだろうなって」・・・。「そう言われたら、信じるしかないじゃん。 で、考えて考えて、結局、いっこの結論にたどり着いた」「何だよ」俺はやっと言葉が出た。言おうとしたこと言われて、俺の頭の中はとっくに空っぽ。どうやって悪あがきしようか、もう何も残ってなかった。「結論!」ミカが前のめりになって、俺の顔を覗き込むようにする。「ひとりでウダウダ考えても分かんないから、会っちゃえ!って」なんだか、全身の力が抜けた。すごくマヌケな顔になっていたと思う。ミカは座りなおして続けた。「聞いて。私ひとりで考えるより、二人で考えようって思った」「だから。話そう?いっぱい。ちゃんと。これからのこと」うんうん、と頷く。ああ、やっぱいかんな、俺。『二人で話す』って何で気付かなかったんだ。ミカがすごく大人に思えた。同時に、自分がガキに思えてなんか悔しかったけど。「じゃ、さ。話し合いのために、なんか、おいしいとこ食べに行こうよ」ミカが立ち上がる。俺も立って、それから。カップルばかりが歩く、表参道のイルミネーションの下を歩いた。「おいしいとこって。もうすぐ、クリスマスだからそんとき行こうよ」「クリスマスは家でいいよー。だって、どっこも混むでしょ」何か、勝てないな。苦笑いをしながら、歩く。たぶん、こういうときって男はみんなジタバタするだけで、女はずいぶん先にいってしまう。だけど「これから」のこと。それは、俺だけじゃなくて。それに、彼女だけじゃなくて。二人のものなんだなって思うと、もう少しちゃんとしなくちゃなって思うよ。ジタバタするのは、もう少し、先でいい。願わくば。ジタバタしなくてもいいように。*****ここを見ているかどうか分からないけれど、僕の友達のことを考えて書きました。僕は彼女のことを全て分かってる訳じゃないから、「何言ってんの」って言われるだけかも知れないけれど。こんな寒い季節だから、「誰かと居られること」ってすごく大切じゃないかと余計に思うんです。冷えてしまうには、寒すぎる季節だから。(僕は主にフトコロが寒いです)
2005.12.09
「更新が遅い」と読んで頂いている方からのメールを頂くまで、心ここにあらずといった毎日を過ごしておりまして、何て言うかその、忙しいってこともなく、やる気が無い訳でも無く、紅葉が綺麗って思う間も無く、冬がやって来ても新しいコートも無く、風邪流行ってんなーってひとごとの様に思っても風邪ひくことも無く、ただはっきりしている事は財布の中にも通帳にもお金が無く、この現実から逃れる術も無く、久々のお悩み相談をさせて頂くこともやぶさかでも無く。相談者:夜鷹さん相談内容:『相談なのですが、私はまともな男友達がいません。「コイツとならいい男友達(親友)になれそうだ!」と思って遊んでもなぜか気づくと告白されるに至ります。「人間性<女」として見られてるようでショックです。断ると相手が離れていくので余計ショックです。彼女じゃなければ要らないってことなんでしょうか…。 ちなみに私は色気ゼロの人間です。顔は平均点。大雑把でガサツ。強引ぐマイウェイでツッコミ入れまくり。唯一のとりえは近所のおばちゃんに評判がいいことくらいでしょうか。こんな人間に恋する気持ちが分かりません。男は女なら誰でもいいのでしょうか。それとも私から恋人がほしいオーラが出ているのでしょうか。男と女は恋人にならないといけないんでしょうか。男と女が親友になるなんて所詮、無理なんでしょうか。702さん教えてください。お願いします!(ぺこり)』回答:本当に久し振りのお悩み相談へのメール、ありがとうございます。僕自身、すっかり忘れていました、ということも無く、人気が無いなら止めようかなと思ったわけでも無く、ただただ待ち続けて恋焦がれた訳でも無く、しかし、非常に興味深い相談内容ですので張り切ってお答えさせて頂きます。男女間の友情について。これは「どこからが浮気?」に次ぐ、古くからの男女間のテーマであります。結論から言ってしまうと、男女間の友情は「あります」。ですから、もちろん「親友」になることだってあるのです。(現にそういう例を僕は身近に知っています)しかし、「友情」の関係が「恋愛」に変わる可能性は、残念ながら男女である以上、0%では無いのです。(同性間でも0%では無いですが)「友情」にしろ、「恋愛」にしろ、相手を思いやるといった点に於いては同じで、そうなるとある種、この二つの関係は遠いものではありません。向いているベクトルは全く同じでは無いにしろ、両者とも「想う」という方向性に向いているからです。世の中、「友情」が「恋愛」に変わることは、往々にしてあるのはこのためです。夜鷹さんの場合を考えてみましょう。夜鷹さんが分析しているご自分の性格を参考にさせていただくと、非常に「親しみ易い方」であることがうかがわれます。通常、異性間でのコミュニケーションは同性間のそれと比べて困難です。「照れ」だとかを感じる「異性を意識する」ことも原因ですが、大きくは「社会性」に起因します。異性とコミュニケーションを取るのは、(動物学的に言えば)性交渉を前提としたものになりがちなのです。ですから、本能的に異性に対しひょいひょいとコミュニケーションを取ることができません。しかし、(いい意味で)そういった異性を感じさせない夜鷹さんは、恐らく男性が非常に接近しやすい方だと推測されます。そして、最初は「恋愛」感情が無かったとしても、仲が深まるにつれ、「恋愛」へと感情が変化していくのでは無いでしょうか。「恋愛」はより深く相手とコミュニケーションを取れれば取れるほど、発生しやすい感情なのは明確です。親しみ易い夜鷹さんは、そう考えると相手に「恋愛」感情を抱かせやすいのかも知れません。けれど、それをただ「人間性<女」なんだと悲観することもありません。何故ならば、夜鷹さんの「人間性」が無ければ、このように恋愛に変化することも無いのですから。では、もうひとつの悩みである「断ると相手が離れていく」のは何故でしょうか?もう少し言うと、「恋愛」が「友情」になることが稀なのは何故でしょうか?これは、「自己防衛」と「思い込み」によります。当然、恋愛感情を含めたお付き合いをお断りすると、その相手はショックを受け、大なり小なり傷つきます。そして、しばらくはフラれた相手を思い出す度にその傷が痛むようになります。相手が目の前に、近くにいるなら尚更です。そのため、「傷つく」ことから逃れるため、距離を置こうとします。もう一つは、「付き合えない」=「自分は必要とされていない」という思い込みです。「付き合えない」ということは、自分は相手にとって、それほど必要の無い人間なんだ、そう思い込んでしまうために、それまでの接触の仕方を間違っていたと勘違いし、適当な距離を置こうとするのです。普通に考えて「付き合えない」=「自分は必要とされていない」なんてことはありませんが、「フラれた」状態は、通常のように冷静な判断が出来ないもの。そのような考え方をしてしまうのも仕方の無いことでしょうか。以上のように、「男女間の友情」は、存在するにしろ、難しい部分もあると言えます。ただ。必要以上に悩む必要はありません。男女は必ずしも「恋愛」だけで結ばれる関係ではありません。非常に親しみ易い性格であると思われる夜鷹さんですので、これから本当の「親友」が、男性の方であっても出来る可能性は非常に高いと思います。結論:多少難しくとも、男女間の「友情」は確かに存在する。「恋愛」しかないのかと悩む必要は無く、自分が何かいけないのかと悲観する必要も無く、そして、真面目に書きすぎてオチも無く、アツく語った割に自分にはそんな悩みも無く、何故か悲しく、今日も泣く。
2005.12.07
怖い。全てを知りたいくせに、知ることが怖い。けれど知らないことも怖い。あの海の綺麗な場所。その場所から帰ってきて2週間。一度は決めたことでも、日常に戻って夫との生活が始まれば、どんな些細なことでもひとつひとつが幸せ過ぎて。全てを知れば、それが壊れてしまうかも知れないと思ったら、私は全く動けないままでいた。このまま、何も知らずに居れば、時が来るまで続いていく。私は何でも無い女だから。それを壊すほどの力も、まして行動に移るだけの勇気すら無い。そうして、私が動けないままでいる内に、全てを知るときが来た。夫の検診。私は付き添いでまたあの病院にいた。『病』は進行しても身体を蝕むことは無い。むしろ、『永遠』の若さを与え、他の病気全てから守ってくれる。そして、『治す』方法は無い。はっきり言って無駄とも思える行為ではあるのだけれど。それでも母も夫も月に一度『検診』を受ける。病院の待合室で夫の検診を待つ間、私は読みかけの本を開いたけれど、文字を目で追っても頭まで伝わらない。幾ら考えたってどうにもならないし、そして死ぬ訳でもない病を心配しても仕方が無いのだけれど、それでも私の胸から不安が消えることなんか無い。何より夫の言葉も気になる。『永遠』そして『望み』。ぼうっとしたまま同じページを見つめ続けている私は、待合室にいる他の人たちにどう映ったのか。ガチャリ、と診察室のドアが開いて。夫が頭を下げながら出てくる。「ああ、お待たせ」私に向かって微笑む彼の顔を見ると、不安は少しだけ無くなって、ほ、っとした自分の感情を感じるのだけれど。「どうだった?」私は答えの分かりきっている質問で訪ねて、「ん、変わらず」分かりきっている答えを夫が答える。こうやって。このままでもいいのかも知れない。知らなくたっていいことなんて、この世には幾らでもある。「行こうか」そう言って歩き出す夫の後ろを、私はただついて行くだけで、それだけでも良い。私はこうやって今日も、真実から遠ざかろうとした。その時に。「杉村さん」声の方に私と夫が同時に振り向く。少しだけ年配の品の良さそうな男性がそこに立っていた。穏やかな表情をした、とても好感が持てる面持ちで、そして身なりも綺麗にしている男性だった。「やっぱり、杉村さん。お久し振りです」「ああ、ああお久し振りです」夫がやや不自然な笑顔を見せたのを、私は見過ごさなかった。「本当にお久し振りです。っと、失礼。奥様ですか?」男性がこちらに向き直ったので、私は軽く会釈をする。「そうですか、ご結婚なさったんですね。おめでとうございます」男性はにっこりと笑って、「ええと、こちらにいらっしゃるということは、例の…?」その言葉を慌てて遮るように夫が言う。「まぁ、そうです。そうなんですよ」すぐにピンと来た。この男性。知ってる。『病』の、そして夫の『望み』のことも。「そうですか、それは良かった」満足そうに男性は頷き、また口を開く。「奥様の方は…?」「すいません、せっかくお久し振りにお会いしたんですが、急ぎますので」夫は会釈をしてすぐに振り向き、歩き出す。私も男性に会釈して夫のあとを慌てて追う。私?私の方も?その時には、もう夫に全てを聞かなければいけないと思った。車に乗ると、すぐに私は切り出した。「さっきの男性、どういった…」「君には関係ない」いつに無く険しい表情で彼が答える。「ある」夫は少しびっくりした顔で私を見る。普段、私はそう強い調子で喋らない。だから。「あの人、あなたが『病』になること、知ってる風だった」こんなに問い詰める口調は、たぶん、初めて。「それに。私のことも言ってた」それきり黙りこんで車を走らせ、家へと向かう。帰り道。見慣れた街路樹が両脇に生える道。大きなショッピングセンターを曲がって、広い公園が見えて。「分かった」そこで、夫が口を開く。「もう少し。もう少ししたら話そうと思ってた」すごくゆっくりと周りの景色が動いていくように見える。夫は正面を向いたまま。そして私はその横顔を見てる。マンションの帰り道じゃない、道路を左折して。ああ、この道は。あの、高台の上の公園に向かう道。彼が私にプロポーズした公園。車を停めて、ふたりで高台を登っていった。木が生い茂る遊歩道。2つ並んだベンチ。街が見える。「ずっと昔から、知ってた」彼が口を開く。「なにを?」「病のこと」「…どうし…て…?」「君は、あれが急に降って湧いた病だと思ってるだろうね」「違う…の?」公園にはそれなりに人影があって、子供たちの声も聞こえる。けれどそれらは遠く遠く聞こえてくるようだった。夫はしばらく黙って。それから、ゆっくりと話し始めた。ここで、私は全てを知った。知りたかったこと。だけど。夏が終わろうとしていたこの日。陽が傾いて少し肌寒い風が吹いて。私は進む先を見失ってしまった。
2005.12.05
海の見える場所に行きたかった。だから、ここからの景色があまりにも私の思ったとおりで。ホテルのテラスから、全部の青を身体に受け止めるように、手を広げて伸びをした。予定より2ヶ月遅れで。私と杉村は式を挙げた。杉村、いや夫は『発病』してからも、何も変わらなかった。正直、今でも私は戸惑いを感じている。運命、って言葉があるなら、多分、私は運命が好きじゃない。ただただ、普通でよかった私を許してくれないのだから。それでも、幸せを感じないことは無い。小さな、ささやかな挙式を、あまり多過ぎない人たちが祝ってくれて。それから、こうして夫と二人で青の美しい国にいる。しばしの滞在の間、私は湧き上がってくる全ての悪い思いを、思い出さずに忘れていようと思った。夫の『病』のことも、それから私の母の『病』。これからの私の、私たちの運命。やもすると、一瞬でこの目の前の青さえ真っ黒に染めてしまいそうな思い。「気持ちいいよなぁ」後ろから夫がやって来て、私の横に来る。寄り添って。しばらく眺める。この、青を。ちょっと、贅沢をした。「一生に一度だから」って夫が言い、見たことも無いディナーを食べた。お酒も進んで、私は普段飲まない癖にたくさんのワインを飲んだ。夫も。『病』だからって言っても、皮肉なことに、どれだけ飲んでも身体を壊すことは無い、って医者が苦笑いをしながら言ってた。私と夫は随分とその夜は酔った。シャワーだけ浴びて、ベッドに潜り込み。深く、口付けをして指が身体を辿ってくるのを感じた。酔ってるせいにしたくも無いけれど。まるで身体が溶けてしまうような感覚がして、今までに感じたことも無いくらいに強く甘く、その行為を感じた。「なぁ」夢も現実も区別がつかない私の耳に、夫の声が聞こえる。「ホントに、俺、幸せだと思うよ」何も言わずに私は夫の身体に手を回す。ベッドが、夫の感触が心地良すぎて、今にも沈んでしまいそう。「望みが叶ったんだからなぁ」独り言みたいに夫が言う。私は、望みすらしなかった大きな幸せを手に入れられたよ。そう思う。「永遠にさ、愛する人と生きていけるんだ」永遠?私はそこで、小さな違和感を感じる。そういえば。プロポーズの時も、彼は言った。『永遠』って言葉。ねぇ、それってどういう…?言葉にしようとしても言葉にならず。私は眠りの中に落ちていった。目を醒ましてからも、私の中から昨日の夜の違和感が消えない。けれど、どう聞いていいものか。夫は変わらず笑っていて、残りの滞在を目一杯楽しもうとしている。私も、行く前から思ってたみたいに、悪いことはこの滞在の間だけは考えないでおきたかった。けれど、どうしたって頭から離れない。離れてくれない。『永遠』って。それが『望み』って。あなたは、知ってたの?『病』になることを。そして、それを『望んだ』?結局、帰りの飛行機の中まで、その思いは消えなかった。隣で寝入ってる彼を見ながら、私は全身の疲れを感じながらも眠ることが出来ないままでいた。どうしても、確かめなくてはいけない。成田に着くときになって、私の中で、そう、心が決まった。こうして私たちのハネムーンは終わった。そして、全てを知るまで。それから、時間はそんなにかからなかった。
2005.11.24
そうやって私は。いつだって全てうまくいくなんて思ってなんかいない。けれども、幸せの絶頂にいた私が、どうしてそんなことを考えられる?いつだって、何かが起こるときは突然で、そしてそれは、私がどうしようもない程の力で。全てを押し流して、奪っていってしまう。準備は、想像以上に順調に進んだ。杉村も私も、派手なものは望まない。そういうところが、お互い似通っていて、それを心地よく感じた。小さな教会でごく身内だけを集めて挙式をして。ささやかにパーティーを開く。それだけでも十分過ぎるくらいだった。それだけでも今まで大きな行事を体験したことの無い私にとっては、忙しすぎるくらいに感じられた。何かにそうして打ち込むことも、悪くは無いなって思って、けれどもそれは、幸せだからこそ感じられることなんだって思うと、自然に笑みがこぼれてくる。職場のみんなも、ビックリするくらい祝福してくれた。夢のように毎日が過ぎていって、夢のように私は幸せで。そして、結婚式まであと2週間の木曜日。杉村が、倒れた。電話で話を聞いた瞬間から、病院まで。どれだけ思い出そうとしても思い出せない。ただ、母が入院していたあの大きな大学病院に着いた時には、私の方まで倒れそうなくらい、走って、心臓が壊れそうで。そして、集中治療室の面会謝絶のプレートが目に入った瞬間に、崩れるように泣いた。「ご家族の、方でしょうか」座り込んだ私の後ろから、男性の声が聞こえた。あの、老医師。「あっ・・・」小さく、彼から声が漏れる。「婚約者、です。彼、の」喉から声を絞り出し、私はそれ以上何も言えなかった。夜が明けた頃になって、私はようやく落ち着いて話が聞けるようになっていた。彼の両親への連絡は、会社の同僚が済ませてくれて、今日の昼前までには病院に到着すると聞いた。母も、間も無くやって来る。治療室から少し離れた長椅子に座って、壁をぼんやりと眺めていた。どうして。自然に口をついてくる。彼は、丈夫過ぎるくらい健康で、病気なんか聞いたことも無い。過労?そんな。彼の仕事の様子は、私はちゃんと見ている。忙しくないことは無いけれど、決して働き過ぎなんてことは無い。じゃあ、どうして。「目を、醒まされました」その時、集中治療室から看護師の声が聞こえて、私は集中治療室に駆け込んだ。「ああ」彼は、私を見て微笑んで、それからすまなさそうな顔をした。「何も、こんなときになぁ」それでも笑顔を浮かべる彼の様子に、大事には至ってないことを悟り、体中から力が抜けた。私の頭に、彼の手が触れる。髪を撫でて、彼は言った。「うん、俺は、もう平気だから。二度と心配は掛けない」自分が倒れたと言うのに。私の方を気遣って。本当に、どこまでいい人なんだろう。この人は。私の顔にも、ようやく笑みが戻って、少し涙が出そうになったのは、何とか止めることが出来た。この後、検査を行って、その結果次第ではすぐにでも退院できそうな彼の様子が嬉しくて、安心できて。一時はどうなるかと思ったけれども。こうして目の前に私の髪を撫でている人が笑顔でいることを感謝した。そして、その日の夕方。彼の検査の結果を聞かされるまで、私はそんな気持ちで一杯で。彼と、彼の両親。そして、私と母。その前で、あの、医師が口を開くまでは。彼の病名は、死に至らない病。
2005.11.16
「乾杯」私たちはグラスを傾ける。杉村は自分が持ってきたワインではなくて、グラスに水を注いだ。車でやってきた杉村に、最初の一杯くらいはと勧めても首を横に振るだけで、その生真面目すぎる性格と頑固さは、想像以上に母の気に入るところになった。しきりに「今夜はうちに泊まればいい」と繰り返し、その度に私と杉村は目を合わせて苦笑いをした。普段、お酒を飲まない母は、早くに床につくと言い出す。「一応、病気なんだから」私は母を寝室に連れて行くと、杉村の座るテーブルに戻った。彼は穏やかに笑っている。私は、そこで。初めて安堵のため息をついた。最初から、ずっと緊張のしっぱなし。杉村がそんな私を見て微笑む。「ありがと、楽しかった」「私の誕生日だよ、もう」そしてふたりで笑い合う。向かい合わせで。ああ、そう。本当に。こういう形でいい。私は多くの幸せを求めたりしない。びっくりするようなイベントも必要ない。こういう、穏やかな、本当になんでもないことで感じられる、そういう幸せ。それでじゅうぶんだ。「まだ、眠くない?」杉村が聞く。「眠くない」と言いつつ、私は首を横に振る。「ちょっと、夜風に当たりに行かない?」「うん、行く」5月とは言え、夜は冷える。私は薄手のカーディガンを羽織り、彼の車に乗り込んだ。私の住む家から車で20分くらい。そこにはちょっとした高台があって、そこの公園からは街がよく見える。そこに行こう、と私は言った。彼には言わなかったけれど、ずっと前から私は、恋人と二人でそこから街を眺めたいと思っていて、いままでそれが叶うことが無かった。車から降りて公園の遊歩道を歩く。ワインで少し火照った頬に夜風が当たり、私は酔いが醒めていくのを感じながらも気持ちが高揚していた。ベンチが二つ並んだ先を抜けると、そこから。街が、見える。杉村と私は、並んで街を見た。夜の街を。決して素晴らしい夜景では無いけれど、ぽつぽつと並ぶひかりがとても綺麗で、私はちょっとした自分の夢が叶ったことに、少し感激を覚えた。「いいね、ここ」杉村も満足そうに街を眺める。私はそれが妙に嬉しかったことを、今でも強く記憶している。それだけ、私はその瞬間を幸せに思った。ちょっとした幸せ。それでも私にとって大切な幸せ。しばらく、何も言わずふたりで街を眺めていて、そして。彼が口を開いた。「ん、そう。誕生日プレゼント」振り向いた私に、小箱を差し出した。そう。私は、その形に見覚えがある。そして、その中身も、一瞬で分かる。ぱかり、と開いたその中に、指輪がひとつ。「えっと、なんだかこういうのってクサくて照れるんだけど」きまりが悪そうに笑ったあとに杉村が続ける。「永遠に、俺と、一緒に居てください」私は、何でもない小さい幸せで、それでじゅうぶん。そんな私が、その瞬間に抱いた幸せの大きさが分かる?息が止まるかと思った。心臓が壊れるかと思った。だから私みたいな女には、小さい幸せでじゅうぶんなのに。だけど、その時ばかりは。この幸せな瞬間を、この幸せな自分を、最高に感謝した。そのあとのことをほとんど憶えてないくらいに。泣いていた。次から次へと溢れる幸せの涙。ああ、それから困ったように笑いながら、私の頭を撫でる彼。そして、声が出ないから、何度も頷く私。それくらいしか思い出せない。胸がいっぱいで。頭もいっぱいで。だから、きっと。そのときに気付けなかった。気付くことなんかできなかった。このとき、気付いていれば、引き返せたなんて、今更どれだけ思っても仕方の無いことなのだろうけれど。
2005.11.12
池袋は雨。通りなれた道を、風景の中を、僕は歩く。そこに感じる違和感。雨が肩を濡らして周りの景色が人がいつもより早く動く。僕は歩く。ひどくゆっくりと。目の前にある「現実」を僕の中に入れていこうとする。うまくいかない。それだけ、僕の中に溢れそうなほどに、満たされていた。記憶。それは。記憶とだけに片付けてしまって。それだけで良いのだろうか。僕は歩く。池袋は、雨。顔を、肩を、現実を、濡らす雨。*****運命だとか、奇跡だという言葉を、簡単には使いたくない。それはその辺に転がっているものでは無いのだし、簡単に手に入れて良い物でもない。けれど、僕はそれを「運命」と、そして「奇跡」と名付けた。或いは「必然」だったのかも知れない。それでも。僕はこれが簡単なことだとはどうしても思えなかった。名前を。僕らは自分の名前をお互いに伝えた。それは単なる記号でしかない。ただ、その記号を通じてしか知り得なかった人が目の前にいて、僕はその記号と、そしてその人自身を繋げることは重要なことだと思った。僕は自分の名前をスケッチブックに書いた。そして、その「記号」と僕を、強く結びつけてもらおうと思った。こんな時にも僕は僕自身を偽ろうとするのか。照れ隠しにその名前を掲げたあとに、自分を恥じた。そうだ。僕は僕自身を見てもらうためにここにいる。だから、僕は僕の名前を。単なる記号だとしても、僕自身の名前を。ごめん、と言い、再びスケッチブックに僕は名前を書いた。もう、誰も見てなかった。このままではいけない。僕自身を知ってもらうことなんか出来やしない。慌てた。もう一度、チャンスを。僕は周りを見渡した。みんなの目は、暖かかった。これ以上の失敗は許されない。ゆっくりと、時間を掛けてスケッチブックに書いた。汚名返上のチャンス。僕はスケッチブックを掲げた。これで僕のことをよく知ってもらえたんだと思う。その証拠に、この後誰も僕の目を見なかったんだ。*****みんなが何かひとつのことに熱中できる状況というのは、確実にその距離を縮める。ボーリング。単純なゲームだけど、僕らはそれに熱中した。「ミスったらカンチョーやから」そう言って彼は笑った。僕の緊張をほぐしてくれようとしている。心が暖かくなって、体の力も抜けた。僕の手から離れたボールはまっすぐにピンに・・・向かわず溝に吸い込まれていった。僕は笑った。彼も笑った。彼女は手を叩いて笑った。こうして僕はお尻の処女を失った。*****歌が無ければ、世界はもっと殺伐としていた。そう、誰かが言ってた気がするし、言ってない気もする。でも、僕はそう思うんだ。歌うこと。それは、きっと素晴らしいこと。僕らは歌った。これ以上無いってくらい大きな声で。僕らは笑った。これ以上無いってくらい満面の笑みで。僕らは踊った。いや、踊ったのは彼女ひとりだ。僕は踊ってない。手を叩いた。僕はタンバリンを狂ったように叩いた。手が痛かった。あと、乗りすぎて周囲の目線も痛かった。空気を変えようと僕は焦り、お得意の物まねを披露した。河村隆一の「Love is…」歌い終わったとき、周りは静まりかえっていた。やった、僕は遂にやった。何だかんだあったけどこうして汚名も返上することが出来たし、何より終わりよければ全てよしという格言通り…「きもい」うん、デスヨネー。*****楽しい時間はあっという間に過ぎると言う。けれど、僕はこのあの時間が永遠のようにも思えたし、やっぱり一瞬のことのようにも思える不思議な感覚から抜け出せないでいる。日常に帰る瞬間。旅行でもお祭りでも何でもいい。人生の中では幾つも「現実」から少し離れることがある。しかし、それが終わる度引き戻される感覚。日常に帰る瞬間。僕はまだ帰れないままでいるのかも知れない。出来れば、あのまま。あの空間が現実となって欲しいとさえ思える。けれど、いま僕がいる「現実」なくしては、あの時の「記憶」は存在し得ない。「夢」が存在するためには「現実」が、そして、「楽しい」が存在するには「ツライ」ことも必要。世の中は全てバランスで保っていて、けれどちょっとした弾みに、それが揺らいだときに見える「奇跡」と「運命」。僕らは確かにそこにいた。たぶん。それを大げさだと笑ってくれても構わない。僕は夢を見ていたのかも知れないし、現実よりも強い「現実」を見たのかも知れない。いずれにせよそれは忘れられない「記憶」として、僕の中に残っていくのだろう。それは、いくつかの感情とともに。ひとつは、楽しかった。本当に楽しかった。そして、もうひとつは参加して頂いた皆さんに。ありがとう、の感謝の気持ちを。2005年11月 溺れるノウ主催者 7O2最後にひとこと。俺は空回ってねぇ!!空回ってるフリをしてただけだ!!
2005.11.08
運命、って言葉。私は信じるも信じないも無かった。映画だとかドラマ、小説の中では当たり前のように『運命』って使われてて、でも私にとってはそれは単なる記号のようなもので。意味を考えたり、ましてや信じるも信じないも無かった。けれど。家で、母と二人の生活をまた送れる日が来るなんて。私は永遠に失ってしまったと思っていた「普通」の生活を再び手に入れられるなんて、それを思っただけでも嬉しくて仕方なかった。母が退院したその次の日、目を覚まして台所に降りた私の目に、朝食を作る母の姿が映る。あまりにも自然すぎたその光景に、一瞬何の疑問も抱かなかったのだけれども、はっとして私は言う。「お母さん、無理しないで、寝てないと」母はこっちをむいてきょとんとした顔で言う。「無理って。何も悪い所もないのに」ああ、そうだ。「病」は母の身体を蝕むどころか、むしろ母を死の淵から救ってくれたような物だ。何かしら変な感覚は残るものの、以前と変わらず、いや、以前より元気そうに見える母を床に縛り付けておくのもおかしな気がして、私は頷くしかなかった。テーブルにつき、出されたお味噌汁に口を付ける。久し振りの、味。その瞬間、母が帰ってきたこと、そして、今までのもの全てが溢れてきて、目から涙が溢れだしてきた。「おいしい…」それだけ言って、泣いた。母は何も言わなかった。てっきり「また、泣いて」とやれやれといった表情で、そう口にすると思っていたのに。ぼやける視界の向こうで見えた母は、少し泣きそうな顔をしているように見えたけれど、実際はどうだったのか、今になっては分からない。「いってらっしゃい!」母の元気な声が背後で聞こえ、私は家を出る。退院してから、3ヶ月。街は春の匂いが立ちこめ、新しい季節を迎えた人たちの顔は、目に見えて明るく感じられる。私は2ヶ月前から職場に復帰した。元々、蓄えなんかほとんど無かった。母が病院から出たのだから、当然働かなくては暮らしてはいけない。ブランクを考えると、最初は憂鬱だった仕事も、いまでは順調すぎるくらい順調にいった。何より。杉村という恋人も出来た。杉村は会社の同僚で私より2つ歳下の男だけれども、顔立ちは30前という歳のそれに比べて少し上に見えたし、言動や立ち居振る舞い、そして営業成績は同期から群を抜いて優秀だった。彼に憧れている女性社員はまぁまぁ居たし、私も意識しないでも無かったけれども。恋人になったきっかけは、ブランク空けと母の「病」に対する社内の視線、それに参りかけていた私を、杉村がことあるごとにフォローしてくれたことからだった。私みたいに何も魅力のない女に、どうしてこんなにしてくれるのか、分からないまま、私は杉村に強く惹かれるようになっていった。そして、ひと月と少し前。ようやく仕事が順調になり始めた私は、お礼にと杉村を食事に誘った。私は杉村に好意を寄せていたけれど、もちろん、彼が私なんかに興味は無いと思っていた。だから、純粋に彼に対してお礼をしたかっただけで。その席で杉村から私に対する思いを告げられたときは、私は目を白黒させて、「どうして私なんか・・・」と言うのが精一杯だった。杉村は笑っていただけで、私はそのとき、世界で一番幸せな女だと思ったくらいだった。母はしきりに彼を連れてこいと私に言う。5月の私の誕生日には、お祝いをするから連れてこい、と。誕生日くらいは2人で過ごさせてよ、と私は言って、それでも母の勢いに押されるまま、会社の昼休みに、パスタを食べながら杉村に話した。「迷惑な話だよね、ごめん。断ってくれて良いから」そういう私に、「いや、いいよ。お招きに預からせてもらうよ」杉村は笑って言った。彼が笑うと目の周りがくしゃくしゃになる。「お母さんに、是非お会いしたいしね」そういった後に、「ああ、例の病気で有名の、って意味じゃなくて。君のお母さんだからだよ」そう慌てて付け加えた。それを見ていて、最初は何だか気が乗らなかった私の誕生日が、とても素敵なものになるような気がしていた。それは、別に大げさでも何でもなくて、とても幸せなことだったと思う。いま、思い返してもその記憶を他の言葉で置き換えることが出来ない。私は、幸せだった。『運命』は既に動き始めていたと言うのに。その『運命』は、もう、どうしようもないくらいに動いてしまっていたというのに。
2005.11.02
さて。淫林・尾生・女医問い、いやいや、なんて変換をするんだこのPCは。インリン・オブ・ジョイトイがブログをやっていることを発見してから、ああ、ついに。と思うわけで。変な物言いかもしれないけれど。彼女が文章を書く、ということが俄に想像が出来ないのである。家で暇があれば、M字開脚をしていると思っていたのである。つまり、会ったこともない彼女に対して、漠然と自分の中でキャラクターを作ってしまう、すなわち、「先入観」を持っているわけで。ブログ人口は増加の一途を辿る中、芸能人ブログも眞鍋かをりを始め、増える一方である。ブログをやっていないと時代遅れであるかのような様相さえ伺える。その背景をもってしてでも、「インリンはブログをやってない」とそう思ってしまう。こうして、その事実が明らかになったところで、セクシーな下着姿でM字開脚でPCの前に座り、パチパチとキーボードを叩いてる姿しか想像できないのは、僕の脳が膿み始めているせいでは無い。彼女が今までに作り出した「偶像」による物である。「偶像」。すなわち英語に直すと「idol」、アイドルである。アイドルはそれぞれの持つ明確なキャラクターにより存在し、そのキャラクター性が薄ければその姿を画面の中に認めることはあっという間に無くなるのであろう。インリンが僕に見せてきた「偶像」というものは、決してパジャマ姿ですっぴんでメガネをかけてPCをパチパチやるものではない。その内容たるや、まさに「普通」の日常が描かれているのだが、違う、「○○を食べました~」なんて聞きたくないんだ。『今日のセクシー体験』を聞きたいんだ。僕は。こういった意識、または「先入観」を持たせることで、ある意味ではインリンは芸能人として「成功」を納めている。しかし、彼女がすべき「ブログに対する姿勢」は失敗なのである。日常とのギャップを計る、それもいい。しかし、それは諸刃の剣でもあり。それを自覚した上でこういうブログを書いて欲しいものである。それは、別に僕は全くインリンのファンでもなんでも無いのだが、それでもそう思ったわけで。そして、それらは全てのアイドルに通じる物では無いかと思っている。彼女たちが売っている物は「偶像」である。その「偶像」をみだりに歪ませては、自分の商品性を失う行為に他ならないのである。それはそれとしてブログの最後に本文と関係なくM字開脚の写真が載っているのには、あっぱれとしか言えない。→■
2005.11.01
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