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私の家の猫はエジプシャンマウ(エジプト猫)マウとは猫を意味する
エジプト語。中国でも猫を同じマウと言う(アクセントが異なるが)
最初 国内で入手した子は後で血統書を見て吃驚!
当時のマウは耳がコンナに立ってた!
なんと一枚の血統書の中に同じ猫の名前が 6か所
も記載されて居た。
これは其の猫が凄く血の濃い近親交配で作りだされた事を意味する。
在りし日のキャシーとファラオ以前住んでいたマンションにて
近親交配は飛びっきりの良いショータイプも極稀に造る事が可能だが
不幸な事にダメージを持ったまま生まれて来る小猫達が多い。
ファラオと名付けた最初のマウは ヘルニア 喘息 不整脈で獣医曰く
3歳半まで生きるかどうか と言われた。
台風や気圧の変化で何時も喘息の発作を起こした。チアノーゼになり
(鼻の色や口の中が薄紫色になり呼吸も荒くなるから直ぐ判る)
我が家の気象予報士みたいな存在だった。
ファラオは賢い子で私が猛勉強してステロイドと抗生物質を投与すると
言う方法を獣医師から教えて貰った後 気圧の変動で発作が起きても
必ず私に合図を呉れた。今どの位の薬が必要か?私の試行錯誤が始まった。
チアノーゼが出る度に薬・でも酸素テントのドアを開けても彼が入らない
時と決めた時は与えた薬だけで治ると彼が判断した時。
自ら進んで酸素テントに入る時は大抵3時間後には回復して即 ご飯を要求。
彼の看病を通じ私は酸素ボンベの減圧機の取り扱い其の濃度等の統計を
取る事にした。是が今の老齢猫達にも役に立っている。3年どころか
食べるのが大好きで食欲旺盛だった彼は12歳半でお星様になった。
旅立った後 大阪の獣医師に報告した時 先生は「ぎゃ~!」と叫んだ。
「未だ生きとったんか!」獣医師が驚いて居たのを今でも覚えている。
私は近親交配が大嫌いでカナダ アメリカから合計11頭の猫を輸入した。
健康体を作り 性格の改良をし 次に耳付きに取り組んだ。
是が一番難しくて8年掛った。そして自分の理想とする上品なエジプト猫を
世に送り出せる様になった。当然米国やカナダから新しい健康な血を求めて
譲って欲しいとの依頼が来た。
スイスからもFAXが届いたが私は自分の友人以外には手渡す気は無かった。
私が改良を重ねた優秀な血統を持つ子はお世話になったカナダと米国の友人に
只で贈り物として合計5頭プレゼントした。
ベストオブブリードの栄誉に輝いた翌年 米国東海岸のレベッカからパテイ
をどうしても欲しい!と懇願された。彼女の家には子供が二人居る。
私は渡す気にはなれなかったが間に入った友人のドットが私に言った。
「ベッキ-の子供達はマナーが良いから心配は無い。渡してやって」と。
パテイを関空まで連れて行き彼女は其処からニューヨークへ飛んだ。
彼女のメニュー1カ月分のフード 好物は何か・総て書いた私の手紙と共に。
其れが4月のGW 最後の日だった。6月に総会出席の為フイラデルフイアに行き
其処でレベッカに逢い「パテイは元気?」と聞いたら「元気よ~♪」一安心
レベッカの家は私の宿泊先のヒルトンからあまり離れて居なかった筈だが
今パテイに逢うと「里心が付いてしまう」と私は逢うのを我慢して帰国した。
帰国後 未だ時差ぼけ中に一枚のFAXが届いた・レベッカからであった。
「パテイは何が好物なの?」と書いてある。私は胸騒ぎを感じ即電話をした。
何が在ったの?
心配かけたく無くて言えなかったけどパテイは入院して居る。
どう言う事なの?何時から入院してるの 病気は何なの?
矢継ぎ早に聞いても
レベッカは詳しく教えて呉れない。ただ2週間獣医の所に居て此のままでは
助からないからペンステイトに転院するように勧められたから転院させた。
とだけ・
何ですって?私がフイラデルフイアに居た時に同じ市内の病院に入院してた?
何故 教えて呉れなかったの!!私判ってたら病院に飛んで行ったのに!
もう2週間パテイは何も食べて居なかった・・・涙が止まらなかった。
でもペンステイトに転院したのなら(其処は米国中で一番の病院)何とか
命だけは助かる筈・・そう自分に言い聞かせて一晩過ぎたら又一枚のFAXが。
Patty has died. 私は何が何だか判らぬまま泣き崩れた。
こんな酷い事がコンナ事が在って良い筈が無い・Fax を握り締めて泣いた。
どう言う事なの?何が在ったの?涙が溢れた 其れはもう止まらなかった。
翌日ドットから電話があったが 私は満足に話せなかった。
パティがホームシックだったと聞いて・・私は愕然とし自分を責めた。
彼女は私だけを信じて居たんだ
。 きっと私が何時か迎えに来ると信じて・・
レベッカの家で我慢して居たのだ。
何と言う事 私が其れに気が付かなかったなんて パテイに申し訳なくて
毎日 毎日 私は泣いた。涙がこれほど溢れて来るとは思いもしない程
私は泣き続けた。母を亡くした時だってあんなに 泣きはしなかった。
結局 私は2ヶ月間 家から出られなかった。
ペンスティトに転院と言うレベッカの言葉は本当だったかどうか・・・
今となっては どうでも良い 判った所でパティが戻る訳では無い。
只 大急ぎでレベッカに私は千ドル送ったけれど其の返事も無く解剖
したら結果を送ると言う約束も反古にされた。
間に入ったドットは私に
「私が無理に勧めた為に本当に御免なさい」と何度も手紙を呉れた。
ドットとの友情は今も続いているが ベッキ-は音信不通のまま・・
彼女の身勝手さを嫌と言うほど思い知らされた。
日本出発前夜のパティと 其の年のパスポートの記録
大阪の獣医に「猫のホームシック」について尋ねたところ やはり 人間と猫と
特別な信頼で結ばれている場合 其れは充分あり得るとの回答。
そして最期は身体中にアンモニアが溜まってしまい死亡すると。
今迄 沢山の猫達を見送って来た。精一杯看病し見送った子に後悔は無い。
でも海の彼方に旅をさせたパテイには何もして上げられなかった。
今でもパテイの写真を見る度に辛くなる。後悔の念が私の涙を誘う
仔猫時代のパテイ
パティ♪と呼ぶと必ず即 私を見たから彼女の写真は総て私を見ている
ごめんねパティ ママを許して!1998年から写真にそう語りかけて・・・
今も・・・パティの可愛らしい声が私には聞こえる。
彼女の とても綺麗で澄んだ声が 甘えん坊だったね・・
パティは心から私だけを信じて居て呉れた・それなのに・・
人間の愚かさを教えて呉れたのもパティ 貴女でした。
虹の橋のたもとでパティは待っていてくれるかな?
私はパティに逢ったら真っ先に抱き締めてキスの雨を彼女に贈りたい!
いつか きっと逢えるね 其の時は真っ先に飛び付いて来てね パティ
今 涙で一杯の私を慰めて呉れるロン 実に有難い存在です。
完全に熟睡中Zzzz~♪
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