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写真の力は凄いと思い知った昨日今日。見てどっと疲れた。アルバムには父方の祖父母の姿も納められていた。
然し 母方の祖母は・・姉に聞かないと判らない・・
母が5歳の頃からはじめた日本舞踊 赤堀流の名手になる
ずっと以前 幼い頃の母の「牛若丸」の姿が残っていた。
母には姉が居たが15歳で結核で死亡。以後 一人娘で育った母。
伯母の名も しず だったと踊りの舞台袖に写っている
めくり(紙)から判明した。
昭和3年の名古屋市の本に記載されている母の実家の写真も在った。
屋号「大米亭」・躾が厳しかった為 此処で働いていた人達は
殆どが名家へ嫁いで行ったと聞かされていた。
某大企業社長の奥様になった人の顔に見覚えがあり彼女の若かりし頃の写真が残っていた。
代々の庄屋で旧名古屋市を出れば其処は総て母の実家の土地。
農地改革で殆どを失ったが私の三代前の爺様は名庄屋で飢饉の折り年貢を半分にと直訴し半減は認められたが規則で(直訴はご法度)
3日間 水牢に入ったと言う。其の顕彰碑が今も残っている。
幼い頃 母の実家の法要等に連れられて行った時の事を ぼんやりと
思い出した。お寺の大きな庭石に真っ黒な蜻蛉が止まっていたっけ。
「あれは オハグロ蜻蛉って言うのよ」と耳元で母が囁いた事も。
母は結婚後苦労を重ねてきたが常に人様の為に動き回った人生で母は何時も何かしら動いていた。人様の苦労を見捨てては置けない気性だった。
入退院を繰り返しながらも母の活動は止む事は無かった。
6人の子供を良くぞアノ不整脈の体で産んだものだと思うし 反面
一番初めに産んだ息子を舅 姑に取り上げられた哀しみは想像を絶する。
兄も母も引き裂かれ辛かっただろうと思うと涙が止まらなかった。だから
私にとって一番上の兄はお正月に現れ お年玉を呉れる親戚のオジサン
程度の認識しかなく一緒に生活した事が無いから長い間 兄とは気づかず・・
一昨年 先に亡くした二番目の兄が私の一番大事なオニイチャンだった。
今日は此処までしか書けない・・ごめんね
セピアカラーの写真は一杯 私にメッセージを送り続けてくる
暫く 見ないようにしないと バテそうです・・・ふにゅ~!
上記 午前5時ごろ記載 タイトルが「 地は 水より・・」と誤変換に!あちゃー!
ただいま 正しい「 血は 水より濃い」に書き換えました。
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