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(カモメ)昭和9年3月の定期異動で林陸相は永田鉄山少将(統制派)を陸軍省軍務局長に抜擢しました。同時に永田と同期で喧嘩相手の小畑少将(皇道派)を陸軍大学校幹事に補しました。(ウツボ)山岡少将(皇道派)は軍務局長から整備局長に横滑りさせた。また、永田問題で悪評を買った東条英機少将を陸軍士官学校幹事に転出させた。(カモメ)そうですね。東條は着任すると、士官学校の改革に乗り出しました。ですが士官学校の教官、職員はほとんど無天(陸大卒ではない)だったので、皇道派に近かった訳です。(ウツボ)そこで、士官学校には反東條の空気が醸成し、それが真崎教育総監の耳に入り、在職五ヶ月、9月8日の異動でr久留米歩兵第二十四旅団長に飛ばされてしまったんだ。(カモメ)赴任の前、永田は「しばらく地方に行って、風当たりの強いのを冷やして来い。もう少し時間を待て」と東條少将に言ったと記されています。(ウツボ)久留米は東條にとって失意の土地であったが、昭和10年8月の永田軍務局長惨殺事件後、その才幹を知る川島陸相に拾われ、従来無縁だった関東軍憲兵隊司令官に転出した。(カモメ)東京に呼ぶと永田の二の舞になると思ってひとまず満州に送ったのですね。(ウツボ)そうらしいね。永田軍務局長の就任は永田少将を筆頭とする統制派の陸軍制覇を志す第一歩であったんだ。昭和9年8月1日の異動で、永田少将は林陸相に進言し、陸軍将官の大人事異動を行った。(カモメ)その結果昭和10年には皇道派で要路の課長以上に止まるものは教育総監・真崎大将、整備局長・山岡重厚中将、作戦課長・鈴木率道大佐等、二、三の者に過ぎない状態になりました。(ウツボ)林大将はよく部下の意見を容認する「オオ、オオ居士」であるとともに、優柔不断のところもあって、幕僚たちにとっては好都合な陸軍大臣だった。永田軍務局長の献策がことごとく実行された。(カモメ)皇道派のみならず、中立派の幕僚も「ロボット陸相」と呼んで蔑視し、永田少将の試作を「幕僚ファッショ」と罵るようになりました。(カモメ)「軍務局長斬殺」(図書出版社)によると、昭和9年11月21日、陸軍士官学校生徒隊第一中隊長・辻政信大尉による「十一月事件」(陸軍士官学校事件」が起きました。(ウツボ)統制派の辻大尉が士官学校候補生、佐藤勝郎をスパイに使って、陸軍大学校学生の村中孝次大尉、近衛歩兵第四連隊の磯部浅一二等主計に接近させ、彼らを中心としたクーデター計画を聞き出した。(カモメ)佐藤候補生から報告を受けた辻大尉は、11月20日、塚本誠憲兵大尉と一緒に軍務局の統制派の片倉衷少佐に知らせましたね。片倉少佐は二人とともに橋本虎之助陸軍次官を訪れ報告した。翌日東京憲兵隊が村中、磯部を首謀者として逮捕したという流れです。(ウツボ)ここのところは「或る情報将校の記録」(中央公論事業出版)によると、著者の元憲兵大佐・塚本誠氏によると、そもそも塚本誠憲兵大尉(当時)が辻大尉の自宅を訪ねたのは昭和9年11月11日だった。(カモメ)それは塚本憲兵大尉の士官学校の同期生某が内縁の妻と正式に結婚するため、塚本憲兵大尉が同期生のために辻大尉の援助を求めるために訪ねたのですね。(ウツボ)そうだね。当時将校の結婚は師団長またはそれに準じる所属長の許可を必要とした。その関係上司の了解を取るために、辻大尉に援助を頼んだんだ。(カモメ)辻大尉は塚本憲兵大尉の依頼を快諾しましたね。そのあと辻大尉は「いい時に来てくれた。これは極秘だが」と切り出して、「村中、磯部のところに、士官学校の生徒が出入りしている。村中、磯部はクーデター計画を持っている可能性がある。これを片倉少佐だけには話してある」と話をしました。(ウツボ)それで塚本憲兵大尉は参謀本部第四課国内班長、片倉衷少佐を訪ねてクーデター計画の存在を確認したということだ。(カモメ)けれども塚本憲兵大尉が憲兵隊の上司に報告したとき、持永憲兵東京隊長が「こんなことは、いつものことです」と、すぐに手を打とうとしなかった訳です。(ウツボ)そこで塚本憲兵大尉は辻大尉のところに行き、一緒に片倉少佐のところに走った。そして三人で橋本虎之助陸軍次官を訪れ報告したと記されている。(カモメ)一方逮捕された村中、磯部は「辻は佐藤候補生をスパイに仕立てて、自分らの考えを聞きださせ、これをいかにもクーデターのごとく、でっちあげた。これを辻に示唆したのは辻の上司である陸軍士官学校の幹事である東条英機であり、これを企画したのは永田軍務局長である」と弾劾し、辻と片倉を誣告罪で訴えました。(ウツボ)しかし永田軍務局長は厳罰主義をとった。この種の事件の続発を防ぐため、厳しい処分を行なったんだ。村中、磯部は謹慎処分となった。(カモメ)このことにより、永田軍務局長はすべての皇道派将校のうらみを買うことになった訳です。当時相澤中佐は福山歩兵第四十一連隊の隊付でしたね。(ウツボ)そうだね。この十一月事件で相澤中佐のの永田軍務局長に対する公憤はいよいよ昂じた。五・一五事件直後に会った政策班長・池田純久中佐の言質も全く虚構であったと判断したんだ。(カモメ)池田の言ったことはすべて嘘ではないかと。(ウツボ)それはね、やはり相澤中佐の個人的判断もあるけど、シンパの皇道派青年将校たちも怒ったんだね。結局、村中、磯部は免官となったんだからね。(カモメ)相澤中佐のもう一つの憤激は、真崎大将が教育総監を罷免されたことですね。(ウツボ)「龍虎の争い」(紀尾井書房)によと、真崎排撃の空気は昭和9年3月の異動後生じたが、具体的運動となったのは十一月事件の頃からとある。(カモメ)そうですね。さらに宮中、重臣、内閣においても、真崎は天皇機関説について訓辞を出したり、内閣の施策を批判したり妨害して困る、なんとか辞めさせてもらいたいとの声が聞こえ始めた訳ですね。(ウツボ)そこで林陸相は閑院宮参謀総長と協議の上、昭和10年7月初め、真崎大将の軍事参議官転補を含む8月の定期異動の原案を作成しこれを真崎に内示した。(カモメ)ところが真崎は自分を含む二、三の将官の人事に反対し、逆に二、三の将官を追放すべきと主張しました。(ウツボ)昭和10年7月12日、閑院宮参謀総長と林陸相、真崎教育総監の三長官会議が開かれた。だが、甲論乙論相譲らず、なんら決定を見ることなく解散した。(カモメ)7月15日、二回目の会議が開かれました。真崎は粛軍の本質を説き、その完成は三月、十月事件の適切なる処断なくしては絶対にあり得ないと結論しました。(ウツボ)だが、これに対して閑院宮参謀総長は「教育総監は事務の進行を妨害するのか」と言った。そして最後に「今回は陸相案で行こう」と談を下した。皇族である閑院宮の仰せに真崎は論議を中断した。(カモメ)結局、7月16日、皇道派の真崎大将は教育総監を罷免され軍事参議官となり、統制派の渡辺錠太郎大将(八期)が教育総監のあとを継ぎました。
2008.01.25
(ウツボ)相澤中佐は陸軍省の政策班長・池田純久中佐(統制派)を自宅に訪ねた。この時の相澤中佐と池田中佐の問答の様子を池田中佐は後に文藝春秋(昭和31年11月号「統制派と皇道派」)に発表している。それによると要旨はつぎのようなものだった。(カモメ)読んでみましょう。『相澤中佐は紅潮しながら「軍中央部には革新を断行する決意があるか。血盟団のような一人一殺主義や、五・一五事件のような線香花火式では、啓蒙には役立っても、革新の目的は達成できない。犠牲が多いだけだ。軍中央部が決意すれば容易にできるように思うが、軍中央部の真意を聞きたい」と国家革新の核心に触れた』(ウツボ)次を読むよ。『そこで私(池田中佐)は「よく分かった。軍中央部は決して国家革新に無関心ではない。いや、大いに熱意があるのだ。その方法については目下鋭意研究している」と言った』(カモメ)『相澤中佐「軍中央部は誰が中心なのか。永田軍務局長だと聞いているが」。池田中佐「その通り。政治関係は軍務局長の職務だから」』(ウツボ)『すると相澤中佐は「軍中央部にそれだけの決意があるなら、私は命を捨ててその下働きをつとめよう」といかにも得意のような表情だった』(カモメ)『池田中佐「いや、それは困る。軍は組織の力で革新を断行しようと計画しているのだ。個人個人が策動するのは、かえってマイナスとなる。また、軍内に横断的な団結をつくるのもよろしくない。この意味で隊付き将校は政治問題から手を引いて、本来の職務に専念してもらいたい」と言った』(ウツボ)『相澤中佐は意外のような口吻で「軍中央部が率先して、国家革新に乗り出すなら、われわれ隊付き将校は手を引こう。しかし、果たして軍中央部を信頼していいのか」と念を押した』(カモメ)『池田中佐は「大丈夫だ。絶対に信頼してもらいたい」と答えた。私(池田中佐)の言葉を聞いて、相澤中佐は納得したものか、涙を流さんばかりに喜んで帰っていった』(ウツボ)『私の宅を辞去した相澤中佐は、その足で村中大尉や西田税を訪ねて、私との会談の模様を披露した』(カモメ)『その場で「池田のようなダラ幹のいうことが当てになるものか」と茶々を入れられると相澤中佐は「ああ、そうか」と思いなおすような単純さがあった』以上のように池田中佐は相澤中佐との会談の様子を述べています。(ウツボ)しかしこの池田中佐(後に中将)の文藝春秋(昭和31年)の発表に対して大蔵栄一元陸軍大尉は、「相澤中佐を、さも単純な男のように馬鹿にして述べているのはけしからん。相澤中佐はその様な人ではない」と自著「最後の青年将校~二.二六事件への挽歌」(読売新聞社)で元陸軍中将・池田純久氏(統制派)を痛烈に批判している。(カモメ)池田氏は戦後、昭和28年に「陸軍葬儀委員長」(日本出版協同)や昭和43年に「日本の曲がり角」(千城出版)を出版して陸軍中枢の内情を著わしていますね。(ウツボ)「陸軍葬儀委員長」は読んだのだが、自分の体験的に具体的に述べているのですが、自分に批判の目を向けることはしていないね。軍人としては大蔵栄一氏とは対照的に保身が感じられる。(カモメ)元々軍人でありながら好戦的な人ではありませんね。戦後は松竹の顧問や歌舞伎座サービスの社長など文化方面に力を入れた人ですね。(ウツボ)ところで、「龍虎の争い」(紀尾井書房)によと、永田軍務局長惨殺事件で相澤中佐が永田少将を惨殺した動機は、元々「永田軍務局長を陸軍で一番悪い人物」と決め付けていたことだと。さらに相澤中佐の尊敬する、真崎甚三郎教育総監が罷免されたことが決起した直接の動機であったと述べているね。(カモメ)そうですね。昭和7年1月、参謀次長に補職された真崎中将は、満州事変の真っ只中、実質的に参謀総長であるとの自覚を持って鋭意職務に奮励した訳です。(ウツボ)後年、真崎大将は「私は次長として参謀総長の閑院宮殿下に御決済を仰ぐことはしなかった。宮殿下に責任がいくような決済は仰ぐべきでないと考えた。宮の恩徳は仰いだけれども、その能力は仰がなかった。だからいつも『これこれの案が御座いますがこれでよろしゅう御座います』と申し上げてあの満州事変を乗り切った」と述べているんだ。(カモメ)それが当時の参謀総長である閑院宮殿下に対する真崎中将の態度だったのですね。このことが反って閑院宮殿下の心証を害したのですね。(ウツボ)もちろん真崎中将は良かれと思ってそういう方針を貫いたのだが、逆効果になった。現代の我々だって良くあることですね。その人のことを思ってやったことが、逆に恨まれたりする。(カモメ)会社でも、課長がよく研究して徹夜で書き上げた提案を部長に提出したら「これはまずいよ、これこれに影響がでるじゃないか」とあっさり却下されたりしますね。その場合、どちらが悪いのでしょうかね。(ウツボ)いや、どちらがというわけではなく、むしろ主義・思想・価値観の相違になってくる。その場合、階級の下の人が涙を呑むのだろうね、通常は。(カモメ)閑院宮殿下は壮年にして長くフランスに留学し軍事を学び、日露戦争には少将で騎兵第二旅団長として出征し、秋山好古少将とともに勇名を馳せた方で、決して能力のない人ではなかった訳ですね。(ウツボ)そうなんだ。だから真崎次長のこの態度は閑院宮殿下にとって驕慢不遜と写った。日時の経過とともに、両者の感情は次第に疎遠していった。(カモメ)このようなことから、昭和天皇が皇族の最長老である閑院宮殿下の真崎に対する悪感情は、折に触れ天皇に伝えられ、天皇の真崎に対する感情を増幅しました。(ウツボ)結局、真崎中将は昭和8年6月19日大将に昇進し、参謀次長の職を植田謙吉中将に譲り、軍事参謀官専任となった。(カモメ)でも真崎の同期の桜、陸士九期では、同日付けで大将に昇進したのは、真崎が筆頭で、侍従武官長・本庄繁、台湾軍司令官・阿部信行の三人でしたね。真崎の同期で盟友・荒木陸軍大臣でさえ、松井石根とともに10月に大将になっています。(ウツボ)そうだね。真崎はトップを走っていたことは間違いないね。翌年9年に同期の林仙之が大将に昇進したので、真崎の士官学校の同期の桜647名のうち、六名が大将になっている。まさに花の九期だね。(カモメ)昭和9年1月荒木陸相は、正月に酒を飲みすぎて寝込み、急性肺炎を起こし快癒の見込みが付かなくなりましたね。1月末には国会が再開されるので荒木陸相は辞任を決意しました。荒木陸相は後任にはもちろん、真崎大将を推そうと思いました。(ウツボ)そう。だが、参謀総長・閑院宮殿下の反対があるかもしれない。だから荒木は次のように筋書きを考えたんだ。(カモメ)読んでみます。『林銑十郎大将に陸相出馬の声をかけ、受ければ、真崎を林陸相の後任にし、受けなければ、林大将に閑院宮殿下に「真崎を」と口説かせる』(ウツボ)林銑十郎大将は「俺より真崎のほうが適任と思う」と言ったので、結局林大将と柳川陸軍次官が有末精三陸軍大臣秘書官とともに小田原の閑院宮の御別邸に向かったんだね。(カモメ)林大将は閑院宮に「部内に人気のある真崎大将が大臣に就任すれば統制も充分とれると思います」と真崎大将を推薦しました。(ウツボ)だが閑院宮は「君たちは我輩に真崎を無理やり押し付けるのか。私は久しく真崎を次長として使ってその人物を知っている」と言葉を切り「林大将、貴官はこの際進んで難局を引き受けてくれ給え」と発言した。(カモメ)そこで林大将は「それでは真崎大将を私の後任の教育総監にご推奨ください」と言ったのです。閑院宮もそれには賛意を表し、これで実質的な三長官会議は終ったのですね。(ウツボ)そうだね。三長官とは陸軍大臣、参謀総長、教育総監のことで、三長官の人事は三長官の合意で決済されると決められていた。結局林大将が昭和9年1月23日陸相に就任した。(カモメ)陸軍省軍事調査委員長の閑職にあった東条英機少将はこの時とばかり、永田少将の復帰運動を始めました。(ウツボ)そうだね、この頃から東条英機が歴史的舞台に登場する。林陸相は東條の推薦する永田少将が軍事課長の経験もあり、その俊秀を知るが故に採ることにし、真崎教育総監に諮ったんだ。(カモメ)ところが真崎は荒木陸相時代における永田の行動を述べ立てて反対したのです。(ウツボ)だが林大将は「これだけは俺の顔を立ててくれ」と哀訴してやっと承諾を得た。だが東條の執拗な運動を知った皇道派の幕僚たちは「東條のやつめが」と憎悪の念をいっそう強くしたということだ。
2008.01.18
(カモメ)「秘録永田鉄山)(芙蓉書房)によると、有末精三氏の回想として、もともと永田鉄山と小畑敏四郎、岡村寧次の三人は陸軍士官学校16期の同期生で、大正10年10月27日、欧米出張中の岡村中佐がスイス公使館付武官・永田中佐、ロシア公使館付武官・小畑中佐の三人がドイツのバーデンバーデンで会合しました。(ウツボ)その会合では陸軍の派閥解消、人事刷新、軍制改革等について話し合い、密約し、誓い合った。そういう仲だった。(カモメ)昭和2年荒木貞夫少将が参謀本部第一部長(作戦)のとき小畑中佐を作戦課長に抜擢した。そのとき一部には河村恭輔要塞課長、柳川平助演習課長(陸士12期)がいた。(ウツボ)当時有末精三氏は演習課の庶務将校だった。柳川課長は何とかして作戦課長だけには一室を与えたいと言って、演習課の室制を変えて、無理をして後輩の小畑課長のために独立した部屋を準備させた。(カモメ)柳川課長は自分の課はしのんでも作戦課長の小畑中佐の仕事をしやすく考えたということですね。(ウツボ)そうなんだ。しかも一番古参の柳川課長自身と河村課長(陸士15期)の二人は同室にして、中佐の小畑課長を単独の部屋で執務させたのだ。(カモメ)こういう人柄を買って、荒木大将が満州事変勃発後の昭和6年、十月事件のあとに、陸軍大臣になった後、昭和7年8月、柳川中将を次官にしたといわれていますね。(ウツボ)軍内部では作戦畑出身の小畑敏四郎を軍務局長にするという意見が多かったが、荒木大臣は教育系統の山岡重厚少将を昭和7年2月29日軍務局長にした。(カモメ)昭和7年4月小畑大佐は少将に進級し参謀本部第三部長に、永田鉄山少将は第二部長に就任しました。この時の参謀次長は真崎甚三郎中将だった。(ウツボ)このとき小畑第三部長と永田第二部長の対立が起こった。意見の相違だった。(カモメ)その相違は、永田第二部長は今は対ソ作戦はやるべきでない。とにかく国内体制や満州問題を固めるべきという意見でした。(ウツボ)小畑第三部長は作戦課の出身でもあるし、とにかくもく目標をロシアに置いて対ソ作戦準備第一主義だった。(カモメ)それが実際問題の対立となって現れたのが北満鉄道買収問題でしたね。(ウツボ)小畑第三部長は北満鉄道なんてそのうちに転げ込んでくるのだ。下手に買収などするとソ連の経済状態を良くし、情報募集を容易にすると主張した。(カモメ)一方、永田第二部長は、それは買ったほうがいい。買えば満州国の治安維持は非常に楽になると主張しました。(ウツボ)この問題の意見の相違で、二人は仲たがいし、対立した。それは皇道派と統制派の対立でもあった。(カモメ)参謀次長・真崎中将は二人の対立を押さえてまとめきれず、結局喧嘩両成敗で二人とも旅団長に転出させました。(ウツボ)クーデター計画「三月事件」の一ヵ月後の昭和6年4月14日、浜口内閣は総辞職して若槻礼次郎内閣が発足した。宇垣陸相は辞任したが、直系の南次郎大将を後任に推した。(カモメ)南新陸相は8月の定期異動で、序列上、当然として関東軍司令官とすべき真崎甚三郎大将を、台湾軍司令官に出した。このため温厚篤実な本庄繁大将を関東軍司令官に任じました。(ウツボ)このときすでに関東軍は満州事変を計画しており、真崎大将に妨害されることを恐れたのだね。満州事変の発端となった柳条溝の満鉄線が今井新太郎大尉の指揮で爆破されたのが9月18日午後10時30分だった。(カモメ)ところで三月事件の計画は前年の昭和5年から小磯らの間でひそかに練られていましたね。そしてこの計画書を作ったのが当時軍事課長の永田鉄山大佐でした。(ウツボ)昭和5年、小磯軍務局長は永田軍事課長を呼びつけてクーデター計画書の作成を考えてみてくれないかと持ちかけた。だが永田は「非合法な方法で政権を握ろうとは、もってのほかです」と拒否した。(カモメ)だが小磯のしつこい説得で「それなら小説でもかくつもりで書きましょう」とようやく承知したのです。(ウツボ)そこで小磯は永田の計画書を橋本らに見せた。だが計画は実施されず、計画書は永田に返された。永田はそれを自分の金庫に投げ込んだ。(カモメ)「軍務局長斬殺」(図書出版社)によると昭和7年5月15日に5.15事件が起きました。(ウツボ)三上卓海軍中尉、古賀清志海軍中尉、中村義雄海軍中尉ら海軍将校五名と予備役海軍少尉、陸軍士官学校本科生十二名、民間人の大川周明ら四名が当時の犬養毅首相を殺害、牧野内大臣邸、立憲政友会本部などを襲撃した事件だね。(カモメ)決行の前の3月20日、歩兵第三連隊第十一将校室で海軍の古賀中尉、中村中尉、陸軍から大蔵大尉、村中栄治、香田大尉、安藤大尉らが出席して謀議を開きました。(ウツボ)そうだね。海軍側は即時決行を主張し、陸軍も立ち上がれと叫んだ。(カモメ)そのとき相澤中佐があとから入ってきて、「時期尚早だ」と反対した。それで結局5.15事件に陸軍側の青年将校は参加しなかった訳です。(ウツボ)5.15事件が起こったとき、相澤中佐は青森の連隊勤務だった。自宅で風呂に入っていたが、ラジオで5.15事件の放送を聴くと、裸で飛び出してきて、しずくも払わずに座り込んでいたという。(カモメ)そして軍刀を掴むと連隊に駆けつけ、連隊長の許可を得て汽車に飛び乗ったのですね。しかし、途中の盛岡駅で憲兵に阻止され、そのまま青森に戻りました。(ウツボ)5.15事件の後、相澤中佐の革新思想はますます高揚した。相澤中佐は陸軍省の政策班長・池田純久中佐を自宅に訪ね、国家革新について問答を行った。(カモメ)そうですね。池田中佐は統制派の中心人物、永田軍務局長の指示で国家改造の具体案を作成していた訳です。この改造は、精神主義的な皇道派を一掃し、そのうえで合理的な改革を行おうというものでしたね。
2008.01.11
(ウツボ)皇道派青年将校が引き起こした2.26事件の導火線となった相沢事件、つまり白昼の陸軍省での永田軍務局長惨殺事件には様々な陸軍軍人が登場してくるから、皇道派と統制派の色分けをしておこう。(カモメ)そうですね。「龍虎の争い」(紀尾井書房)によると、まず統制派ですが、陸軍士官学校の期別と名前は次ぎの通りです。(六期)南次郎、(八期)渡辺錠太郎、林鉄十郎、(九期)阿部信行、松井石根、(十一期)寺内寿一、(十二期)杉山元、二宮治重、小磯国昭、(十三期)建川美次、(十五期)梅津美治郎、多田駿、河本大作、(十六期)永田鉄山、板垣征四郎、土肥原賢二、磯谷廉介、(十七期)東条英機、(十九期)今村均、(二十二期)鈴木貞一、(二十三期)清水規矩、根本博、(二十四期)土橋勇逸、(二十五期)武藤章、田中新一、富永恭二、(二十六期)影佐禎昭、田中隆吉、(二十八期)池田純久、(二十九期)田中清、(三十一期)片倉衷、(三十六期)辻政信。皇族は、閑院宮載仁義親王。(ウツボ)次に、皇道派だが、(三期)武藤信義、(九期)荒木貞夫、真崎甚三郎、(十二期)柳川平助、香椎浩平、秦真次、(十五期)山岡重厚、下元熊弥、(十六期)小畑敏四郎、持永浅治、(十八期)山下奉文、(二十一期)鈴木率道、(二十二期)村上啓作、(二十四期)森本五郎、(二十五期)前田正実、(二十六期)満井佐吉。次いで皇道派青年将校として、(二十二期)相沢三郎、(三十三期)山口一太郎、(三十四期)西田税、(三十五期)大岸頼好、(三十六期)野中四郎、(三十七期)菅波三郎、大蔵栄一、香田清貞、村中孝次、(三十八期)磯部浅一、安藤輝三、(三十九期)渋川善助、末松太平、(四十一期)栗原安秀。皇族は、(三十二期)賀陽宮恒憲王、(三十四期)秩父宮雍仁親王。(カモメ)秩父宮は昭和6年11月28日、陸軍大学校を卒業しましたが、卒業成績は極めて優秀でしたね。(ウツボ)そう。皇族は一般学生と異なり卒業序列を附けないのが恒例だった。だが、卒業前の教官会議で、一教官が「今回に限り秩父宮を序列一番に据えたらどうか」と提案したくらいであった。(カモメ)序列一番は不採用になりましたが、それほど頭脳明晰、意志堅確な宮様でしたね。(ウツボ)「龍虎の争い」(紀尾井書房)の著者、谷田勇元陸軍中将も、当時この教官会議に教官として出席していたので、作り話ではないと記している。(カモメ)中立派は、(十期)川島義之、上田謙吉、(十二期)畑俊六、(十四期)、古荘幹郎、西尾寿造、山田正三、(十六期)岡村寧次、(二十一期)石原莞爾でした。(ウツボ)また、両派閥のほかに、清軍派と呼ばれる小派閥もあった。十月事件により解散させられた桜会の残党の集まりだね。(カモメ)そうですね。(二十三期)橋本欽五郎、、(二十八期)長勇、(三十三期)根本博、田中弥などですね。人員数は僅少で、高級将官も存在せず、統制、皇道両派に対抗し得るものではなかった。(ウツボ)その思想は統制派とほぼ同様で、根本博は統制派のメンバーでもあった。(カモメ)朝日新聞記者高宮太平が数次にわたり皇道派を誹謗する記事を書き、「陸軍はすみやかに清軍せねばならぬ」と唱えたのでこの名を附せられ、その名が表面に現れた訳です。(ウツボ)両派分裂の主因は国家革新の方途の差異によるものであったが、一般に統制派の人物は、頭脳明晰、合理主義者であるが、人を包容する雅量もあり、妥協性も乏しくなかった。(カモメ)これに対して皇道派の人物は、志操堅確、穀然として、その信念を主張し、人に対する好悪の念が強く、その団結は強かった訳ですね。(ウツボ)そもそも青年将校に皇道精神を植付けるのは陸軍士官学校の精神教育だね。2.26事件の三十四期から四十期の青年将校の主要人物が士官学校に在籍した期間に、ちょうど、真崎将軍が士官学校本科科長、幹事、校長として四年間在勤した時期と一致する。(カモメ)間違いありませんね。真崎将軍は皇道教育に心血を注いだと言われていますから。(ウツボ)陸軍全体から見れば、両派に属する人物は極く少数の人員に過ぎなかったが、陸軍省、参謀本部、および高等司令部の要路を占める人物であったから、その思想信念が、国防方針、対外施策や制度に強く反映し、歴史を変えていったんだね。(カモメ)「軍務局長斬殺」(図書出版社)によると昭和6年3月、桜会の橋本欣五郎中佐らによって計画された「三月事件」が起きましたね。(ウツボ)この計画には参謀次長・二宮治重中将、陸軍次官・杉山元中将、参謀本部第二部長・建川美次少将、軍務局長・小磯国昭少将、民間の大川周明らも同調者だった。(カモメ)その計画はときの浜口雄幸内閣を倒し、首班に陸軍大臣・宇垣一成大将を据えるというものでした。だが、結局宇垣が同調せずにこの計画は挫折しました。(ウツボ)だが、「相沢中佐事件の真相」(経済往来社)によると、三月事件、つまり統制派のクーデター計画は、皇道派によって真正面から爆撃され、壊滅したというんだ。(カモメ)そこのところは、山岡重厚中将が書き遺した「私の軍閥観」に、三月事件について次のような記述があります。(ウツボ)山岡中将は当時教育総監部の先任課長で大佐だった。(カモメ)山岡中将によると、「三月十一日、芝の飛行会館で会合があるから来てくれと言うから出かけたところ、永田大佐、岡村大佐が来ていた。実はこういう計画で軍部内閣を作りたい。宇垣さんの承諾も得てある。是非賛成してくれという」。(ウツボ)続けて呼んでみる。「私は非常に乱暴だ。賛成できない。兵馬の大権を私して内閣をつぶし、陛下に新たな軍部内閣を強要するのは、陛下の大権を犯す不逞行為だ。絶対に反対だと言った」(カモメ)山岡中将の話を続けます。「高知の男で、小畑敏四郎大佐も私の意見に賛成で、直ちにやめろと言ったので、永田も、岡村も、それではやめようと、土肥原賢二と岡村が参謀本部および陸軍省の方へ中止の手続きをとった」。(カモメ)山岡中将によると、「この当時から永田の思想は危険であった。永田は非常な秀才だが、ドイツに留学して、国家総動員法に心酔し、日本の国にも必ず取り入れなければならぬと信じ込んでしまった」とあります。(ウツボ)永田はドイツの軍事政権国家総動員体制を日本でやろうと思っていた。その道しかないと。(カモメ)これは山県有朋系の美濃部の天皇機関説が本当の憲法解釈として宣伝されていたが、これに比べたら永田らの国家総動員法はむしろ当然と言う空気であったのですね。(ウツボ)結局、クーデター計画は中止に至った。(カモメ)これが皇道派の爆撃で計画が壊滅したといわれる根拠であったのですね。(ウツボ)山岡中将は、小畑敏四郎とともに皇道派の重鎮となっていくんだね。
2008.01.04
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