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(ウツボ)横道にそれたが、隈部予備中尉の話に戻ろう。昭和十九年十二月二十日、隈部大尉は、横須賀鎮守府付の辞令を受けた。(カモメ)この時点で隈部氏はすでに大尉に昇進していました。しかも官制の改正があり、予備大尉の呼称も、「予備」がとれて、「隈部大尉」になっていたのです。(ウツボ)隈部大尉は、三年三ヶ月乗っていた掃海艇「第二号朝日丸」を離れて、横須賀に向けて汽車に乗った。(カモメ)横須賀鎮守府の人事部に行くと、「よく生きて帰ってきたな」「ご苦労さん、次の命があるまで休んでいなさい」と言われたので、熊本県菊池郡の故郷に帰ったのです。(ウツボ)昭和二十年の元旦は、両親や妻と子供と迎えることができた。一月八日、電報が届いた。「第一五四号海防艦艤装員長に補す」とあった。(カモメ)隈部大尉は、今度は生きて帰れないと思ったのです。海防艦であろうと、他の軍艦であろうと、この頃には、出港したら再び帰って来れない艦が多くなっていました。(ウツボ)当時は、次々と艦の数が少なくなっていく中で、海防艦だけが次々と建造され、海上に送り出されていた。(カモメ)そうですね。海防艦には甲、乙、丙、丁型があり、甲型艦と乙型艦の艦名は鳥の名が、丙型艦の艦名は奇数番号が、丁型艦の艦名は偶数番号が着けられていました。隈部大尉の「第一五四号海防艦」は丁型艦でした。(ウツボ)甲、乙、丙型艦の主機はディーゼルエンジンで二軸の推進機を備えていたが、丁型艦はタービンエンジンで一軸だった。(カモメ)第一五四号海防艦は基準排水量七四〇トン、全長六九・五メートル。蒸気タービン一基一軸の二五〇〇馬力で速力一七・五ノット。乗員百四十一名でした。(ウツボ)兵装は、四五口径十二センチ高角砲単装二基、二十五ミリ三連装機銃二基、対潜水艦用に水中聴音機、探信儀、三式爆雷投射機十二基を装備していた。(カモメ)軍艦には通常第一、第二士官室がありますが、この丁型海防艦には士官室は一つしかなかったのです。艦体は溶接が多く、甲板は平らで湾曲がなく、雨が降れば上甲板の雨水が部屋に落ちるので、バケツで受けて部屋中が濡れるのを防ぎました。(ウツボ)昭和二十年二月七日海防艦「第一五四号」は相生(兵庫県)の造船所で竣工した。二月中旬、艦長・隈部大尉の指揮する「第一五四号」は佐伯湾の新造海防艦の訓練に参加した。(カモメ)訓練は、呂号潜水艦を相手に、実戦さながらの訓練でした。訓練も終わって、呉に入港しました。(ウツボ)四月四日早朝、上陸員出迎えのほかの艦の内火艇が、「第一五四号」近くで爆発沈没した。爆発音に部屋を飛び出して、隈部艦長が見たときには、水柱は崩れて、内火艇の姿は消えていた。(カモメ)米軍機が投下した感応機雷でした。艦船の接近によって起爆装置が発動する新兵器です。船が近づけば爆発するので、不安を与える心理効果も大きく、威力は大きかったのですね。(ウツボ)「第一五四号」は命令で、門司港に向け、呉を出港することになった。当時は敵機の攻撃で海防艦が撃沈されたり、関門海峡で触雷し沈んだりしていた。(カモメ)隈部艦長は門司港まで五隻の海防艦が行動を共にすることになったので、司令の現役大佐が乗艦している甲型艦「能美」に挨拶に行きました。(ウツボ)すると、「能美」の艦長は、隈部艦長と同じ会社に勤務していた予備士官だった。その艦長は「君は新しい艦長だから知るまいが、海に出たら直ちに戦闘だから気をつけろよ」と親切に言ってくれた。(カモメ)五隻の編隊は呉を出港し瀬戸内海を航海したが、無事関門海峡に入り門司港に入港しました。そのあと、早速、呉から行動を共にした海防艦は「第一五四号」以外全艦、外洋へ出撃しました。(ウツボ)四月十四日、彼らは一隻だけを残して他は沈没したという知らせが入った。だが、「第一五四号」だけは、何日も岸壁に横付けしたまま、何の命令も来なかった。(カモメ)その後、第七艦隊司令長官から隈部艦長は命令を受け取ったのです。関門海峡東部掃海部隊指揮官として発令し、「部崎灯台の南東一五〇〇メートルの地点に投錨し、敵飛行機及び機雷の監視並びに掃海部隊を指揮し、投下機雷の掃海を実施せよ」という内容でした。(ウツボ)四月十九日、「第一五四号」は指定の地点に投錨し任務を開始した。数日後に掃海艇四隻が隈部艦長の指揮下に入った。(カモメ)毎日毎日、隈部艦長は掃海隊を指揮して、掃海作業を行い、機雷を処分していきました。その頃関門海峡の上空を、毎日のように敵機がゆうゆうと北上して行きました。これを迎え撃つ我が飛行機は一機もなかったのです。隈部艦長は、くやしい思いをしました。(ウツボ)ある日、天気が良く、初夏の雲一つない空を、B29が、「第一五四号」の隈部艦長の頭上を北に向かって悠々と飛んでいくのが見えた。(カモメ)一万メートル以上の高高度を飛んでいるので、海防艦の十二センチ高角砲では届かないことを承知していたが、隈部艦長は悔しくて、とうとう我慢できなくなったのです。(ウツボ)B29を追って、照準を合せていた砲員は、今か今かと待っていた。隈部艦長は、ついに砲術長に発射を命じた。高角砲は火を噴き、弾は飛んで行ったが、B29は変針もせず、何もなかったように飛行を続けた。(カモメ)すぐ近くに錨泊していた防空駆逐艦から、「貴艦の測距いくばくなりや」と信号を送ってきました。誰が見ても海防艦の十二センチ砲の砲撃可能な高度ではなかったのです。(ウツボ)その防空駆逐艦には司令が乗り、艦長は中佐だったが、隈部艦長は失礼だと思ったが、返信はしなかった。撃っても弾は届かないことは分かっていたが、一発撃ってやりたかったのだ。
2011.01.28
(ウツボ)召集令状に、汽車は一等または二等となっていた。隈部予備中尉は東京から一等寝台車に乗った。大阪、神戸から、知った顔がたくさん乗り込んできた。(カモメ)彼らは高等商船学校出身の予備士官たちで、ほとんど隈部予備中尉と知り合いだったのですね。(ウツボ)そうだね。当時、一斉に予備士官が召集されたからね。(カモメ)一等車の最後部には展望車が連結してありました。快適な豪華な車両で、いつの間にか隈部予備中尉ら予備士官で一杯になりました。二等に乗っていた予備士官達も乗り移ってきました。(ウツボ)こうなると、展望車の貴族的な静かさは打ち破られ、ワイワイ、ガヤガヤと予備士官の集会所のような賑やかさとなった。(カモメ)ところが、折あしく、車内に一人の主計少将が乗っていました。彼は黙ってこれら応召者のこの車両に似合わない動きを見ていました。(ウツボ)「後に、この少将が呉鎮守府の主計長であることを知った」と隈部予備中尉は記しているが、当時の呉鎮守府主計長は高橋四郎主計中将で少将ではない。だが、後の十月十五日に、吉村武雄主計少将が呉鎮守府主計長に着任しているので、吉村少将のことを言っているのかもしれないね。(カモメ)そうですね。その少将はこの若い応召士官の傍若無人振りを見て、憤慨していたのでしょう。「この若い者はもともと二等の客だ。身の程もわきまえず、展望車に乗り込んで騒いでいる」。少将は、ぐっとこらえて、見ているようでした。(ウツボ)黙っていても、その少将の顔つきや態度で分かるからね。あとで隈部予備中尉は、海軍士官は一等車で旅行しても良いと書いてあるが、実際に一等車に乗るのは将官だけであることを知った。(カモメ)呉海兵団で身体検査や訓話等を受けていた隈部予備中尉は、昭和十六年九月二十日、「補第二号朝日丸掃海艇長」の辞令を受け取りました。(ウツボ)第二号とは海軍に徴用されたほかの「朝日丸」があったので、識別するために着けられた。(カモメ)「第二号朝日丸」は広島県因島の造船所に入っていました。もともと二八三トンの小型貨物船で、海上トラックと呼ばれていた船でしたね。(ウツボ)そうだね。その海上トラックを海軍は、因島の造船所で掃海艇に改造したのだ。優秀な高等商船学校出身の予備士官を、海軍はいきなり、このような小型船に乗せて使ったわけだ。(カモメ)そうですね。隈部予備中尉は、若くして大型商船の一等運転士でしたね。(ウツボ)一等運転士は、現在で言えば一等航海士で、軍艦では航海長に相当する。もっと大きな軍艦に乗せても、活躍するだろうけどね。帝国海軍の海軍兵学校出身者の温存主義を垣間見る感じだね。(カモメ)そうですね。「第二号朝日丸」は艇首に八センチ平射砲一門、機銃一挺を搭載し、艇尾に掃海台、爆雷投下台が設けられました。爆雷庫はその甲板の下に設置されていました。(ウツボ)貨物船時代の船倉は、兵員室と弾薬庫に改造され、恐ろしいことに、船底に穴を開けて、水中探信儀が取り付けられていた。(カモメ)「第二号朝日丸」は、第三十三掃海隊に属し、訓練を行いました。訓練終了後、昭和十六年十一月十二日、山口県下関市吉見の下関防備隊基地に入港したのですね。(ウツボ)そうだね。下関市吉見には、現在も海上自衛隊下関基地隊があり、第四十三掃海隊がいる。さて、昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦となった。(カモメ)開戦後、「第二号朝日丸」は関門海峡で航路指示や哨戒任務に従事しました。(ウツボ)そして、昭和十八年十月五日、関釜連絡船「崑崙丸」(七九〇八トン)が関門海峡を目の前にして、響灘でアメリカ潜水艦「ワフー」の雷撃を受けて沈没した。(カモメ)船員・乗客六百五十名のうち五百四十四人が死亡しましたね。(ウツボ)このガトー級のアメリカ潜水艦「ワフー」(一五二六トン・水上)は、日本の商船や船舶を多数撃沈している、脅威の潜水艦だった。(カモメ)そうですね。隈部予備中尉の「第二号朝日丸」ら第三十三掃海隊と下関防備隊の全艇は沈没地点に急行して救助に当たったのです。亡くなった人が多数浮かんでいました。海面は実に悲惨な状況でした。(ウツボ)潜水艦「ワフー」の艦長はアナポリス海軍兵学校出身のモートン中佐(三十六歳)で、彼は優秀でアメリカ海軍では有名な軍人だった。パイロットで言えば撃墜王で、この「崑崙丸」を撃沈するまでに、昭和十八年一月から九ヶ月間ですでに十五隻の日本の艦船を撃沈していた。(カモメ)そうですね。そのほとんどは商船でしたね。十月五日に「崑崙丸」を撃沈した後も、十月六日と九日に、日本の商船を二隻撃沈しています。(ウツボ)そのあと十月十一日に、宗谷海峡を浮上突破しようとした「ワフー」は日本軍の陸上砲台から砲撃を受けた。それで、急速潜航した。(カモメ)だが、稚内から離陸し哨戒していた日本海軍の水上偵察機により、潜航中の「ワフー」は発見され、水上偵察機の報告で、駆潜艇など三隻が現場に急行したのです。(ウツボ)別の水上偵察機が、爆撃を実施した。さらに、かけつけた駆潜艇も五時間に渡り爆雷を六十発以上投下した。その結果、「ワフー」は撃沈され、モートン中佐と八十名の乗組員は、海の藻屑となった。(カモメ)モートン中佐の戦死はアメリカ海軍に大きな衝撃を与えました。以後、半年間位、アメリカ海軍は日本海に潜水艦を侵入させなかったのです。(ウツボ)一九九五年、モートン中佐の親族により潜水艦「ワフー」の捜索が開始され、二〇〇六年十月、宗谷海峡の水深六十五メートルの海底に横たわる潜水艦「ワフー」が確認された。(カモメ)二〇〇七年七月、アメリカ海軍は「ワフー」沈没現場海上で花輪献呈式を挙行しました。
2011.01.21
(ウツボ)すると、分校長は、やはり「勝たない。しかし、負けない」と言った。山本大尉が「勝たないというのは負けることでしょう。負けないというのは勝つことでしょう。勝たない、負けないなんてこと、あるものですか」と詰め寄った。(カモメ)だが、依然として分校長は「勝たない。しかし、負けない」を繰り返しました。とっさに山本大尉は分校長に飛びかかったのです。(ウツボ)大佐と大尉は、取っ組み合ったまま、畳の上をごろごろ転がった。そして縁先からいっしょに地面に落ちた。日頃、若僧めが、と思っていた大佐も、この頃敗戦の情報でも入っていたのか、大尉に飛びかかられても、反発する気力もなくなっていた。(カモメ)八月十五日正午、教官と職員一同が整列して終戦の放送を聴きました。九月一日付で山本大尉は召集解除になりました。(ウツボ)その後、山本大尉は故郷に帰り、海軍兵学校の三号生徒で終戦になった弟と再会した。そのとき、弟は持参した兵学校の数学の教科書を取り出し、「これは世界一の数学の教科書だ」と大真面目に言った。(カモメ)山本大尉が「世界一? そんなことがあるものか」と言うと、「いや世界一だ。教官がそう言っていたから間違いない」と答えたのです。(ウツボ)それで山本大尉はその教科書を仔細に見た。初歩的ではあるが、軍の学校らしく、確かにユニークなものだった。山本大尉は、東京高等商船学校時代に数学の参考書として使っていた本を取り出して、次の様に言った。(カモメ)読んでみます。「東京の商船学校では、数学も物理、化学もエンジンも、教科書は一冊もなく、全部ノートばかりなんだ。ただ、数学の教官が参考書としては、これが良いと言うので、大体みなこれを使っていたようだ」。(ウツボ)弟はその参考書をじっと見ていたが、一日か二日して、「こっちのほうがいいようだ」と、ようやく納得した。「世界一の教科書」という信念を植えつけるのは、兵学校教育の魔性だと山本大尉は思った。(カモメ)山本大尉は、戦後、大阪商船、航海訓練所「海王丸」機関長、海上保安大学校教授、第七管区海上保安本部次長、海上保安学校長、海技大学校長などを歴任、昭和五十七年に退官しました。(ウツボ)戦後、山本氏は、教育畑に奉職、シーマンを育ててきた教育者だ。大阪大学工学博士でもある。(カモメ)昭和五十九年、山本氏は、東京高等商船学校同期で親友だった、青木伸夫大尉の実家を訪ねました。(ウツボ)青木大尉は駆逐艦「初月」の機関士官だったが、山本大尉の乗っていた「秋月」と同じ、昭和十九年十月二十五日に「初月」は撃沈され、青木中尉(当時)は戦死した。(カモメ)青木大尉の実家は宮崎県高鍋町でした。山本氏は九十歳を過ぎた青木大尉の母親に案内されて墓参をしたのです。(ウツボ)青木大尉の墓の十メートル近くには小沢治三郎海軍中将の墓があった。母親は、青木大尉の思い出を語った。(カモメ)母親の話によると、青木大尉は高鍋に帰ってくると、「こんなもの、恥ずかしくて、下げて町なかを歩けない」と言って、海軍短剣を風呂敷に包んで、いつも戻ってきたというのです。(ウツボ)軍港やほかの町で、海軍士官が制服を着用しながら短剣をはずして歩くと問題になろうが、生まれ故郷の高鍋では、その心配もなかったのだろう。(カモメ)本職の海軍士官にとっては誇りであり、海軍軍人のシンボルであった短剣も、本来、軍人志望ではなく、商船の船乗りが志望であった青木大尉にとって、お飾りの短剣は、恥ずかしくて吊って歩けなかったということです。(ウツボ)これで、東京高等商船学校・機関科出身の山本平弥大尉の話は終えて、次に神戸高等商船学校航海科の海軍予備生徒について述べてみよう。(カモメ)はい。「機雷掃海戦」(隈部五夫・光人社NF文庫)によると、著者の隈部五夫氏は神戸高等商船学校航海科(海軍予備生徒)を昭和十年五月に卒業、海軍予備少尉に任官しました。(ウツボ)同年七月に隈部氏は大阪商船(株)入社、大連航路の定期客船の運転士(航海士)として勤務。昭和十四年八月、国策船会社として設立された東亜海運(株)に乗船中の船とともに移籍した。(カモメ)昭和十六年八月二十五日、隈部氏は「春日丸」一等運転士として勤務中に海軍から応召令状を受け取った。呉鎮守府に出頭することになった。
2011.01.14
(カモメ)そこで山本中尉は再びラッタルを昇り始めたのです。今度は、どうやら昇れて甲板まで出ることができました。(ウツボ)中部甲板上はすべての構造物が爆風で飛び散り、森閑としていた。上甲板の機銃群も、すべて吹き飛んだのか、全く消えていた。目に付いたものはマグロのような遺体だった。(カモメ)機械室の上の甲板に大きな楕円形の穴が開いていました。ここに爆弾が落ちたのか?中で爆発したのだろうと思われる、爆発でできた大穴でした。(ウツボ)中をのぞいて見ると、黒い重油に覆われた海水がタービンケーシング上すれすれにただよっていた。遺体は一体も見えなかったが、おそらく誰一人生きてはいないだろう。(カモメ)機関長・柿田少佐、機関長附・金子中尉をはじめ、三十名近い全員が重油に覆われた黒い静寂の淵に沈んでいると思われました。(ウツボ)山本中尉は大穴に向かって、機関長と機関長附きの名前を何回も呼んだが、反応は無く、声は静寂の中に吸取られて行くだけだった。(カモメ)「八十名近い機関科は全滅したな」と山本中尉は思いました。「秋月」は昭和十九年十月二十五日午前八時五十六分、沈没しました。(ウツボ)山本中尉は駆逐艦「槇」に救助された。呉海軍病院に入院後、十一月二十二日、「自宅療養せよ」との命令で退院した。顔には火傷の痕が残った。焼け爛れて顔一面黒い痣のようになっていた。(カモメ)新潟県長岡市の自宅で療養した後、昭和二十年一月十日呉鎮守府に出頭すると、山本中尉は練習艦「八雲」乗組みを命ぜられ、教官に任命されたのです。(ウツボ)五千二百トンの巡洋艦「八雲」は練習艦隊の旗艦だった。江田島の錨地で乗艦した。航海長の少佐は東京高等商船学校の先輩、機械分隊長の大尉も神戸高等商船学校出身だった。(カモメ)山本中尉は機関長附兼機械分隊士の配置でした。海軍兵学校の生徒や予備生徒の教育にあたりました。(ウツボ)その後三月二十日付で、山本中尉は横須賀海軍砲術学校の教官に発令された。機械分隊長が山本中尉を自室に呼んだ。機械分隊長は、以前船会社に勤務中、アメリカやヨーロッパを何度か訪れていた。(カモメ)送別の意もあってか、一升瓶を取り出して飲ませてくれました。夜も深まった頃、「八雲」の舷窓から眺めると、海上遠く広島方面で空襲警報の気配がしていた。分隊長は、しみじみと次の様に言ったのです。(ウツボ)読んでみよう。「アメリカでは公園なんかで真っ昼間、男と女が抱き合っている。こんな乱れた国は、一撃加えれば、へなへなになると思っていたが、違うんだね。なかなかたいした国だ。日本は考え違いをしていたんだな」。(カモメ)いつの間にか一升瓶は空になり、二本目が半分になっていたが、二人とも酔いは全く回らなかったのです。(ウツボ)昭和二十年四月五日、山本中尉は横須賀海軍砲術学校長井分校に着任した。分校長は兵学校出身の中佐、その下に海軍機関学校出身の少佐、兵学校出身の大尉が一人、ほかに高等商船学校出身が四人、さらに特務士官出身の教官が多数いた。(カモメ)六月、山本中尉は大尉に昇進した。山本大尉は予備生徒を受け持ちました。予備生徒の一人が私信の規律違反で懲罰をくらった。授業を受けさせずに反省室に入れられたのです。(ウツボ)この時、分校長の中佐が山本大尉に「分隊から違反者が出るのは、担任教官が悪いからだ。教官も一緒に反省室に入れ」と命じた。山本大尉は一日中一緒に入った。(カモメ)予備生徒の違反者が出るたびに、教官会議で予備生徒の弁護をするのは、山本大尉ら高等商船学校出身の教官たちだったのです。(ウツボ)特務士官出身の教官の中には「こんなだらしない予備生徒を教育する必要はない。さっさと第一線に出したらいい」と言う者もいた。(カモメ)ある日の教官会議で、分校長が「軍隊には意見具申というものはない。部下が右を向きたいと思ったら、部下が右を向きたいと言う前に『右向け、右』をかけなければならない」などと述べたのです。(ウツボ)教官会議が終わった後、山本大尉は一人で分校長室に行った。そして言った「先ほど分校長は、軍隊には意見具申はないと言われましたが、私は軍隊にも意見具申はあると思います」と言った。(カモメ)分校長は鋭い眼で睨みながら「若いくせに、生意気だ!」と大声で怒鳴りました。山本大尉は、これでは話にならないと、室を出ました。(ウツボ)八月も近くなった頃、転勤者の送別会があった。会も終わりになって、会場には大佐に昇進した分校長と、山本大尉の二人だけが残った。二人ともかなり酔っていた。(カモメ)山本大尉は戦局の推移を分校長に質した。分校長は「勝たない。しかし、負けない」と言った。山本大尉は「勝たないが、負けないというのは、一体どういう意味ですか」と再び問うた。
2011.01.07
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