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【福田雅太郎(ふくだ・まさたろう)大将】(カモメ)福田雅太郎は慶応二年五月二十五日(一八六六年七月七日)生まれ。長崎県大村市出身。大村藩士・福田市兵衛の次男。大村中学校、有斐学舎を経て、明治二十年七月陸軍士官学校(旧九期)卒業、歩兵少尉(二十一歳)、歩兵第三連隊小隊長。(ウツボ)明治二十三年十一月陸軍大学校入校。明治二十四年七月歩兵中尉(二十五歳)。明治二十五年六月修学、野砲兵第一連隊附。明治二十六年六月修学、近衛工兵大隊第一中隊附、十一月陸軍大学校(九期)卒業、歩兵第三連隊附。(カモメ)明治二十八年一月歩兵大尉(二十九歳)、六月第一師団副官、七月参謀本部出仕、十月功五級金鵄勲章。明治二十九年五月参謀本部第二部員。明治三十年七月ドイツ駐在(軍事研究)。明治三十三年十月歩兵少佐(三十四歳)、参謀本部編制動員班長。(ウツボ)明治三十四年四月兼陸軍大学校兵学教官、六月兼元帥副官(元帥陸軍大将大山巌附属)。明治三十六年十二月オーストリア公使館附武官。明治三十七年二月第一軍参謀(作戦主任)、八月歩兵中佐(三十八歳)、第一軍参謀副長。明治三十八年十二月第三師団参謀長。明治三十九年四月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章。(カモメ)明治四十年一月オーストリア公使館附武官、二月オーストリア大使館附武官、十一月歩兵大佐(四十一歳)。明治四十二年十月参謀本部情報課長、十一月歩兵第三八連隊長。明治四十三年十一月歩兵第五三連隊長。(ウツボ)明治四十四年九月少将(四十五歳)、歩兵第二四旅団長。大正元年十二月関東都督府陸軍参謀長。大正三年五月参謀本部第二部長。大正四年二月勲二等瑞宝章、十一月勲二等旭日重光章。大正五年五月中将(五十歳)、参謀本部附(欧州出張)。大正六年八月第五師団長。(カモメ)大正七年六月正四位、十月参謀次長。大正九年十一月勲一等旭日大綬章。大正十年五月台湾軍司令官、七月従三位、十二月大将(五十五歳)。大正十二年八月軍事参議官、九月兼関東戒厳司令官、軍事参議官。(ウツボ)大正十二年九月一日午前十一時五十八分、マグニチュード7.9の大正関東地震が発生した。十万五千人余りが死亡あるいは行方不明になった関東大震災だ。(カモメ)当時の関東戒厳司令官・福田雅太郎大将でした。福田大将は、陸軍部隊を指揮して、戒厳地域内の警備にあたりました。この時、「社会主義者、朝鮮人を徹底的に取り締まれ」との通達が出されたのですね。(ウツボ)そうだね。この時、甘粕事件が起こった。甘粕正彦憲兵大尉(陸士二四)とその部下により、アナキスト・大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、大杉の甥・橘宗一の三名が殺害された事件だね。(カモメ)この事件により、関東戒厳司令官・福田雅太郎大将はその警備が不手際であったという理由で、関東戒厳司令官を更迭されてしまったのですね。(ウツボ)そうだね。また、甘粕憲兵大尉らは軍法会議にかけられ処罰されたが、後に複数の陰謀説が出てきて、その一つに、関東戒厳司令官・福田雅太郎大将が甘粕事件を主導し、大杉栄らを殺害したというものが出て来た。(カモメ)それで、大正十三年、福田雅太郎大将は、フランス料理店で、狙撃されたのです。これは大杉栄殺害の恨みによる狙撃事件でした。この時、福田大将は無事でした。(ウツボ)また、大正十四年五月にも福岡市中洲の料亭で、立花小一郎陸軍大将の福岡市長任命祝賀会で、福田大将は、再び狙撃されたが、これも無傷だった。(カモメ)福田雅太郎大将は、大正十三年九月正三位。大正十四年九月待命、予備役。昭和二年一月大日本相撲協会長。昭和五年四月枢密顧問官。昭和七年四月後備役、六月一日死去。享年六十五歳。従二位。【山梨半造(やまなし・はんぞう)大将】(カモメ)山梨半造は元治元年三月一日(一八六四年四月六日)生まれ。神奈川県平塚市出身。山梨安兵衛の次男。(ウツボ)山梨半造の義弟は本間雅晴(ほんま・まさはる)陸軍中将(新潟県佐渡市・陸士一九・陸大二七恩賜・イギリス大使館附武官・歩兵大佐・陸軍省新聞班長・歩兵第一連隊長・少将・参謀本部第二部長・中将・第二七師団長・台湾軍司令官・第一四軍司令官・予備役・戦後マニラ軍事裁判で刑死)だね。(カモメ)明治十九年六月陸軍士官学校(旧八期)卒業、歩兵少尉(二十二歳)、歩兵第五連隊小隊長。明治二十二年十二月陸軍大学校入学。明治二十四年十二月歩兵中尉(二十七歳)。明治二十五年十二月陸軍大学校(八期)卒業。
2016.01.29
(カモメ)田中義一大尉は、ロシア留学時代は、キリスト教の正教に入信、ロシア人を誘って教会に礼拝に行き徹底的にロシアを研究しました。また、地元の連隊に入隊、内部からロシア軍を調査しました。このため、日露戦争前は、陸軍屈指のロシア通と自負していたのですね。(ウツボ)そうだね。この時期、同じくロシアに留学していた広瀬武夫海軍大尉と一緒に酒を飲んで、開戦論を叫ぶなど、田中大尉は一本木で短気な性格だった。だが、長州閥の後ろ盾があったとはいえ、軍人としては極めて有能だった。(カモメ)田中大尉は、明治三十三年六月参謀本部附、十月歩兵少佐(三十六歳)。明治三十五年七月参謀本部員、十一月兼皇族附武官(閑院宮載仁親王附属)。明治三十六年五月兼陸軍大学校兵学教官。明治三十七年一月兼海軍軍令部参謀、二月大本営陸軍参謀、六月満州軍参謀(作戦主任)、八月歩兵中佐(四十歳)。明治三十九年四月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章。(ウツボ)明治三十九年に提出した「随感雑録」が枢密院議長・山縣有朋元帥に評価され、当時田中は陸軍中佐ながら、帝国国防方針の草案を作成した。また、田中中佐は、明治四十三年には、在郷軍人会を設立、組織化した。(カモメ)明治四十年五月歩兵第三連隊長、十一月歩兵大佐(四十三歳)。明治四十二年一月陸軍省軍務局軍事課長。明治四十三年十一月少将(四十六歳)、歩兵第二旅団長。(ウツボ)明治四十四年九月陸軍省軍務局長兼軍事参議院幹事長。大正元年十二月歩兵第二旅団長。大正三年八月参謀本部附。大正四年十月中将(五十一歳)、参謀次長、十一月勲二等瑞宝章。大正七年九月陸軍大臣、勲一等瑞宝章、十月正四位。(カモメ)田中義一中将は、陸軍大臣在職中、マスコミの論調を陸軍に有利にするため、陸軍省内に新聞班を創設しました。(ウツボ)大正九年九月男爵、勲一等旭日大綬章、十月従三位。大正十年狭心症で倒れ、六月に陸軍大臣を辞任、大将(五十七歳)、待命、八月軍事参議官。大正十二年九月陸軍大臣。大正十三年一月待命、二月正三位。(カモメ)田中大将は、大正十四年四月予備役、高橋是清の後を受けて立憲政友会総裁、五月従二位。大正十五年一月貴族院議員。昭和二年四月内閣総理大臣兼外務大臣。昭和三年五月兼内務大臣。(ウツボ)昭和三年六月四日、関東軍により、奉天軍閥の指導者・張作霖が乗る特別列車が奉天近郊で爆破され、張作霖が暗殺された。(カモメ)この「張作霖列車爆破事件」について、十二月、当時の田中義一首相は、昭和天皇に「関東軍参謀・河本大作大佐が単独の発意で、その下に少数の人員を使用して行いしもの」とした上で、関係者の処分を行う旨の上奏を行なったのです。(ウツボ)だが、その後、田中首相は、陸軍や閣僚、重臣らの強い反対にあった。白川義則陸軍大臣は三回に渡って、天皇に「関東軍に大きな問題はない」という旨の上奏を行い、軍法会議を回避して、行政処分で済ませる為、河高級参謀本大作大佐を内地へ異動させた。(カモメ)このため、田中首相は、河本大佐ら関係者の処分を断念せざるを得ず、天皇に対して「陸相が奏上いたしましたように、関東軍は爆殺には無関係と判明いたしましたが、警備上の手落ちにより責任者を処分いたします」と上奏したのです。(ウツボ)これに対して、天皇は「それでは前と話が違うではないか」と田中首相を叱責した。田中首相が恐懼(きょうく)して弁解しようとしたが、天皇は奥に入って行き、鈴木貫太郎侍従長に「田中総理のいう事はちっとも判らぬ。再び聞くことは、自分は厭だ」と話した。(カモメ)鈴木侍従長から天皇の言葉を聞かされた田中首相は、引責辞任の腹を決め、村岡長太郎関東軍司令官を予備役、河本大作大佐を停職、斎藤恒前関東軍参謀長を譴責(けんせき)、水町竹三満州独立守備隊司令官を譴責とする行政処分を発表し、昭和四年七月二日に田中内閣は総辞職しました。(ウツボ)この天皇の叱責が堪えて、辞職後の田中義一は、あまり人前に出なくなり、塞ぎがちだった。昭和四年九月二十九日急性の狭心症で死去した。享年六十五歳。正二位、勲一等旭日桐花大綬章。(カモメ)吉田茂と田中義一のエピソードがありますね。田中義一が首相の時、外務次官のポストを得ようとしていた吉田茂は、田中内閣に拒否され、スウェーデン大使に出されることになりました。(ウツボ)吉田茂は首相官邸に乗り込み、田中首相に長時間に渡り、次官の自己推薦の弁舌を行なった。ところが、田中首相は、吉田茂の話を始終、つまらなそうに聞いていた。(カモメ)とことん話し終えた吉田茂はこれで外務次官もダメになったと、せいせいして、帰宅してスウェーデンに出発する準備に取り掛かりました。(ウツボ)その数日後、田中首相から吉田に電話があり、「ところで吉田君、事務次官になってもらうよ。異論はないね」ととぼけた感じで言われた。吉田は、驚いたが、次官就任を受けた。それ以後、吉田は田中義一のことを尊敬するようになった。
2016.01.22
【河合操(かわい・みさお)大将】(カモメ)河合操は、元治元年九月二十六日(一八六四年十月二十六日)生まれ。大分県杵築市出身。杵築藩士・河合盛益の次男。明治十二年十一月陸軍教導団入隊。工兵軍曹。明治十九年六月陸軍士官学校(旧八期)卒業、歩兵少尉(二十二歳)、歩兵第四連隊小隊長。(ウツボ)明治二十年十月陸軍教導団歩兵大隊附。明治二十一年三月陸軍教導団歩兵大隊小隊長。明治二十二年十二月陸軍大学校入校、歩兵中尉(二十五歳)。明治二十三年三月歩兵第五連隊附。明治二十五年十二月陸軍大学校(八期)卒業。(カモメ)明治二十六年十二月陸軍士官学校大尉教官心得。明治二十七年十一月歩兵大尉(三十歳)、陸軍士官学校教官。明治二十八年二月監軍部副官事務取扱、八月台湾総督府参謀。明治二十九年四月台湾総督府軍務局陸軍部課員、功五級金鵄勲章。(ウツボ)河合操大尉は、明治三十年一月監軍部参謀。明治三十一年一月陸軍士官学校教官、四月陸軍大学校兵学教官兼陸軍軍医学校教官。明治三十三年十月歩兵少佐(三十六歳)、陸軍大学校兵学教官。明治三十五年十月ドイツ駐在(軍事研究)。(カモメ)明治三十七年四月参謀本部附、五月大本営陸軍幕僚附、六月満州軍参謀、七月歩兵中佐(四十歳)、十一月第四軍参謀。明治三十八年一月第三軍参謀副長。明治三十九年一月陸軍大学校兵学教官、二月陸軍省軍務局附(ドイツ駐在)、四月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章。(ウツボ)河合操中佐は、明治四十年二月陸軍大学校兵学教官、十一月歩兵大佐(四十三歳)。明治四十一年九月兼陸軍大学校監事、十一月陸軍省軍務局歩兵課長。明治四十三年十一月少将(四十六歳)、歩兵第七旅団長。(カモメ)明治四十五年四月陸軍省人事局長。大正三年九月兼俘虜情報局長官。大正四年一月陸軍大学校校長、八月中将(五十一歳)、勲二等瑞宝章、十一月勲二等旭日重光章。大正六年八月第一師団長、十月正四位、従三位、十一月勲一等瑞宝章。(ウツボ)河合操中将は、大正十年一月関東軍司令官、四月大将(五十七歳)。大正十一年五月軍事参議官。大正十二年三月参謀総長、十二月正三位。(カモメ)大正十二年九月一日、関東大震災が起きた時、陸軍参謀総長は河合操大将でした。この大震災で陸軍の作戦計画は改定を余儀なくされました。大正十一年、十二年に山梨軍縮を行なった陸軍は、さらに大正十四年四月、四個師団を廃止するという宇垣軍縮を行う事になったのですね。(ウツボ)そうだね。河合操大将は、大正十三年十二月勲一等旭日大綬章。大正十五年三月待命、予備役。昭和二年五月枢密顧問官。(カモメ)昭和五年一月に開催されたロンドン軍縮会議で希望量を達成できずに調印、批准した浜口内閣を、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という大日本帝国憲法第十一条を持ち出し、枢密顧問官たちは「統帥権干犯問題」を提起しました。当時枢密顧問官だった河合操大将も浜口民政党内閣を激しく非難したのです。(ウツボ)河合操大将は、昭和五年三月従二位、四月後備役。昭和九年四月退役。昭和十一年五月議定官。昭和十二年四月正二位。昭和十六年十月十一日死去。享年七十六歳。従一位、勲一等旭日桐花大綬章。大分県杵築市の杵築城に銅像が立っている。【田中義一(たなか・ぎいち)大将】(カモメ)田中義一は元治元年六月二十二日(一八六四年七月二十五日)生まれ。山口県萩市出身。萩藩士・田中信祐の三男。田中信祐は藩主の駕籠かきを務める下級武士でしたが、武術には優れていました。(ウツボ)村役場の職員や小学校の教員を務めた田中義一は、二十歳で陸軍教導団に入隊した。その後、陸軍士官学校に入校し、明治十九年六月陸軍士官学校(旧八期)卒業、歩兵少尉(二十二歳)、歩兵第一連隊小隊長。(カモメ)明治二十二年十二月陸軍大学校入学、歩兵中尉(二十五歳)。明治二十五年十二月陸軍大学校(八期)卒業。明治二十六年十二月第一師団副官。明治二十七年十月歩兵第二旅団副官、十二月歩兵大尉(三十歳)。(ウツボ)田中義一大尉は、明治二十八年二月第一師団参謀、十月功五級金鵄勲章。明治二十九年十月参謀本部第二部員。明治三十年十二月兼陸軍大学校兵学教官。明治三十一年五月参謀本部編纂部員(ロシア留学)。明治三十二年一月参謀本部出仕。
2016.01.15
(カモメ)大正十三年四月秋山好古大将は、私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)の校長に就任しました。陸軍大将で教育総監まで務めた高級軍人が中学校の校長就任とは異例のことでしたが、本人の強い希望だったのですね。(ウツボ)そうだね。中学校長時代、生徒や父兄から、「日露戦争のことを話してほしい」などと頼まれても、秋山好古は、一切断り、自分の武勲や功績を話す事は無く、自慢もしなかった。(カモメ)秋山校長は、「学生は兵士ではない」として、中学校での軍事教練を極力減らしました。また、生徒の見聞を広めるために、修学旅行先は日本の統治下にある朝鮮にしました。(ウツボ)昭和五年四月秋山好古大将は、校長辞任した。十一月四日糖尿病による心筋梗塞により東京の陸軍軍医学校で死去。享年七十一歳。従二位、勲一等、功二級。(カモメ)栄典は、勲一等旭日桐花大綬章、勲一等旭日大綬章、功二級金鵄勲章、勲一等瑞宝章、聖マウリッツィオ・ラゾロ勲章コンメンダトーレ(イタリア)、二等赤鷲勲章(ドイツ)、一等文虎勲章(中華民国)、レジオンドヌール勲章グラントフィシエ(フランス)、二等スタニスラウス勲章(ロシア)、二等聖アンナ勲章(ロシア)などがあります。【宇都宮太郎(うつのみや・たろう)大将】(ウツボ)宇都宮太郎は、文久元年三月十八日(一八六一年四月二十七日)生まれ。佐賀県出身。佐賀鍋島藩士・亀川貞一の四男。その後、宇都宮十兵衛泰源の養子となる。宇都宮太郎の長男、宇都宮徳馬は衆議院議員、後に参議院議員。(カモメ)明治十二年四月宇都宮太郎は、陸軍幼年学校入校。明治十八年六月陸軍士官学校(旧七期・首席)卒業、歩兵少尉(二十四歳)、歩兵第五連隊附。明治十九年四月近衛歩兵第四連隊附。(ウツボ)明治二十一年十一月歩兵中尉(二十七歳)、陸軍大学校入校。明治二十三年十二月陸軍大学校(六期・恩賜)卒業。明治二十五年四月参謀本部出仕。明治二十六年十一月歩兵大尉(三十二歳)、十二月印度出張。(カモメ)明治二十七年十一月日清戦争で大本営参謀。明治二十八年七月参謀本部第二局員、十月功五級金鵄勲章。明治二十九年五月参謀本部第三部員、十月参謀本部編纂部員。(ウツボ)明治三十一年十月宇都宮大尉は、歩兵少佐(三十七歳)に進級。明治三十二年一月参謀本部員。明治三十四年一月イギリス公使館附武官。明治三十六年一月歩兵中佐(四十二歳)。(カモメ)明治三十八年三月歩兵大佐(四十四歳)、九月参謀本部附。明治三十九年四月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章、陸軍大学校兵学教官兼幹事。(ウツボ)明治四十年五月歩兵第一連隊長。明治四十一年十二月参謀本部第一部長。明治四十二年一月少将(四十八歳)、十二月参謀本部第二部長。(カモメ)明治四十四年に中国で起きた辛亥革命では、宇都宮少将は、清朝保護の立場をとった政府の方針に反して、三菱財閥の三菱合資会社社長・岩崎久弥から資金援助十万円を提供させて、密かに革命派の活動の支援を行っています。(ウツボ)大正元年十一月第二次西園寺内閣の陸軍大臣・上原勇作中将は、陸軍提出の二個師団増設案が緊縮財政を理由に拒否されると、上原中将は単独で天皇に辞表を提出し、陸軍大臣を辞任した。(カモメ)この時、参謀本部第二部長だった宇都宮太郎少将は、上原大臣に面会し、暴挙を思いとどまるように進言しています。(ウツボ)そうだね。だが、結局上原大臣は辞任した。辞任後、陸軍は後任の陸軍大臣候補を出さず、軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を総辞職させた。(カモメ)宇都宮少将は、大正三年五月中将(五十三歳)に進級、第七師団長、勲二等瑞宝章。大正五年五月正四位、八月第四師団長。大正七年七月朝鮮軍司令官。大正八年三月「3・1朝鮮独立運動」を鎮圧、六月従三位、十一月大将(五十八歳)。(ウツボ)大正八年三月一日に勃発した朝鮮独立運動では、一万人以上の朝鮮人が独立の宣言書を撒き散らし、街中を「独立万歳」と叫びながら行進した。朝鮮軍司令官・宇都宮太郎中将はこれらのデモ隊を鎮圧した。(カモメ)だが、「宇都宮太郎日記」には、この独立運動が起きた原因を、「日本が無理に韓国併合を強行した」とし、さらには、「併合後の朝鮮人に対する差別に起因する」と記していますね。(ウツボ)そうだね。事実、宇都宮中将は、朝鮮人の民族運動家や宗教者らと会って、意見交換をし、情報収集などを行っている。(カモメ)宇都宮太郎大将は、大正九年一月勲一等瑞宝章、八月軍事参議官、十一月勲一等旭日大綬章。軍事参議官在職中の、大正十一年二月十五日胃ガンのため死去。享年六十歳。正三位、勲一等。功三級。(ウツボ)著書に、「日本陸軍とアジア政策1―陸軍大将宇都宮太郎日記」(宇都宮太郎関係資料研究会・岩波書店)、「日本陸軍とアジア政策2―陸軍大将宇都宮太郎日記」(宇都宮太郎関係資料研究会・岩波書店)、「日本陸軍とアジア政策3―陸軍大将宇都宮太郎日記」(宇都宮太郎関係資料研究会・岩波書店)がある。
2016.01.08
(カモメ)秋山好古中尉は、明治十九年四月東京鎮台参謀、六月騎兵大尉(二十七歳)。明治二十年フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学中の久松定謨(ひさまつ・さだこと)伯爵(松山藩主である久松家の当主・後の陸軍中将)の補導役としてフランスへ出張し、騎兵戦術を習得しました。(ウツボ)フランスに滞在中、秋山好古大尉は、腸チフスになったが、医者にはかからず、自分で治した。そのため、頭髪が全て抜けてしまった。だが、その後、秋山好古大尉は自力で頭髪を生やした。(カモメ)また、明治二十一年暮れ、陸軍の大物、山縣有朋中将がヨーロッパ視察に来て、フランスに滞在しました。この時、秋山好古大尉は、山縣中将からフランス軍の高級軍人への使いを頼まれたのですね。(ウツボ)そうだね。だが、使いの途中、秋山好古大尉は電車内で酒を飲み過ぎ、居眠りしたあげくに、置き引きにあった。(カモメ)明治二十四年十二月騎兵第一大隊中隊長。明治二十五年四月陸軍士官学校馬術教官、十一月期兵少佐(三十三歳)。明治二十六年四月佐久間多美と結婚、五月騎兵第一大隊長。(ウツボ)明治二十七年七月日清戦争に出征。明治二十八年五月騎兵中佐(三十六歳)。明治二十九年八月陸軍乗馬学校長。明治三十年十月騎兵大佐(三十八歳)。(カモメ)非常に酒好きだった秋山好古は、戦場でも水筒に酒を入れて携帯していたそうですね。(ウツボ)そうだね。だが、それだけでは足りなかったので、従兵が自分の水筒にも酒を入れて持ち歩いていた。秋山好古少佐(当時)は、騎乗で身を乗り出して、その従兵の水筒の酒を飲むという曲芸まがいのことをして、部下たちを驚かせた。(カモメ)けれども、酔って、自分を失ったり、判断を誤るようなことは一切なかったのですね。ところが、晩年は、この酒のせいで、重度の糖尿病になり、命を失ったのですね。(ウツボ)そうだね。秋山好古大佐は、明治三十一年十月陸軍騎兵実施学校長。明治三十二年十月陸軍獣医学校長兼任。明治三十三年七月第五師団兵站監。(カモメ)明治三十四年五月清国駐屯軍参謀長、七月清国駐屯軍守備司令官。明治三十五年六月陸軍少将(四十三歳)。明治三十六年四月騎兵第一旅団。(ウツボ)明治三十七年二月日露戦争で騎兵第一旅団長として出征、騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦った。その後、秋山好古は「日本騎兵の父」と呼ばれた。(カモメ)奉天会戦後のある日、騎兵第一旅団長・秋山好古少将は、第三軍司令部を訪れることになりました。第三軍司令官・乃木希典大将は、「秋山少将は久しく入浴していないだろうから、風呂の用意をしておくように。それから酒の準備もしておけ」と部下に命じたのです。(ウツボ)だが、秋山少将は、夕方になっても司令部に来なかった。とうとう夜になってやっと現れたが、酒気を帯びていた。(カモメ)驚いた参謀・津野田是重大尉が、遅刻を注意しましたが、秋山少将はこれを無視しました。さらに、風呂にも入らず、乃木大将との会談も数分で帰ってしまったのですね。(ウツボ)秋山好古少将は、大変な風呂嫌いで、日露戦争中、入浴したのは二回だけだった。軍服も洗濯を一切しなかったので、シラミが湧き、異様な悪臭を放っていた。(カモメ)部下や同僚が風呂に入って、体をきれいにするよう何度も勧めたが、秋山好古少将は「軍人たる者、戦場においては、いつでも敵に対応出来るようでなければならない。風呂に入るために戦場に来たのではない」と言って、進言を退けていたそうです。(ウツボ)無欲の人として知られていた秋山好古少将は、凱旋した時でも、給料や品物の多くを部下に与えていたため、かばんには目録や明細書ばかり入っていた。(カモメ)明治三十九年二月騎兵監、四月功二級金鵄勲章。明治四十二年八月中将(五十歳)。大正二年一月第一三師団長。大正四年二月近衛師団長。(ウツボ)大正五年八月朝鮮駐箚軍司令官、十一月大将(五十七歳)。大正六年八月軍事参議官。大正九年十二月教育総監。大正十二年三月予備役。(カモメ)秋山好古大将は、大将昇進後、帰郷し、先祖の菩提寺の墓参りをしました。その時、寺の住職にお金を紙に包んで、渡しました。住職は、それを開いて見て、「これは頂き過ぎなので、お返しします」と、遠慮して包みを返したのですね。(ウツボ)そうだね。すると、秋山大将は、「ああそうかい」と言って、その包みを軍服のポケットに突っ込み、そのまま帰ってしまった。秋山好古大将は、次のような言葉を残している。(カモメ)読んでみます。「いかにすれば勝つかということを、考えてゆく。その一点だけを考えるのが、おれの人生だ。それ以外のことは余事であり、余事というものを考えたりやったりすれば、思慮がそのぶんだけ曇り、乱れる」(ウツボ)「向いていなければ、さっさとやめる。人間は、自分の器量がともかく発揮できる場所を選ばねばならない」。
2016.01.01
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