仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.08.18
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カテゴリ: 宮城


葛西氏はどこに行ったのか。下記の文献から。

■江田郁夫編『秀吉の天下統一 奥州再仕置』勉誠社(アジア遊学294)、2024年
 より、泉田邦彦「葛西・大崎一揆と葛西晴信」による

1 奥州仕置と再仕置

天正18年、小田原北条氏を滅ぼした秀吉は、翌8月には会津黒川に下向し、破城、刀狩、検地を強行するいわゆる奥州仕置を行う。奥羽ではこれに反発する一揆が各地で起きた。しかし、豊臣政権やその意を受けた伊達政宗により、鎮圧され、天正19年秋までに奥州再仕置がなされて、豊臣政権の全国支配が実現された。

2 一揆と葛西氏の動向

小田原攻めには、政宗が天正18年6月に参陣したのに対して、葛西晴信は不参だった。7月上旬に米沢城に戻った政宗は、7月23日に秀吉を出迎えに宇都宮に出発する。その前日の7月22日付で、葛西晴信、一族で桃生郡山崎館主(石巻市相野谷)の葛西流斎(重俊)、栗原郡三迫の富沢日向守(葛西一門)に宛てた3通の政宗書状があり、晴信は使者を遣わしていた。

政宗は、晴信には、奥州の仕置は政宗に仰せつけられたことをよく考慮すべきと、また、流斎には、晴信が伊達氏へ一統に属するよう働きかけを求めた。奥州仕置以前の段階で、流斎、冨沢日向守ら葛西氏の一族・重臣は伊達氏とも気脈を通じていた。

天正18年7月下旬の宇都宮仕置で、葛西、大崎、和賀、稗貫各氏の知行召上げは決定した(小林清治はこれを奥州仕置の第一段階と位置付け)、同年8月から10月にかけて、北上川中下流域の葛西領(牡鹿、桃生、本吉、登米、磐井、江刺、胆沢、気仙郡)では、豊臣政権による破城、刀狩、検地が進められた。浅野長吉、石田三成が主体となった検地、刀狩を経て、葛西・大崎旧領は、木村伊勢守吉清、弥市右衛門吉久の父子の手にわたり、吉清は登米城、吉久は古川城に入城した。旧臣たちは従来の居城と武士身分を剥奪され、農村に年貢のほか伝馬役や人足が課せられた。

加美郡米泉(加美町)では、伝馬の負担を不満として大崎旧臣や百姓が隠し持っていた刀を取り出して、30人余りが中新田で磔にされたという。各地の城主は上方から召し連れられた者に置き換わり、年貢や妻子等を奪い取るなど無道の仕形であった(貞山公治家記録)。旧臣等の一揆は、胆沢郡柏山(金ケ崎町)、気仙郡、磐井郡東山、玉造郡岩手沢(岩出山)で立て続けに起き、各地へ波及した。一揆勢は10月16日には、佐沼城に吉清、吉久父子を包囲することに成功する。

注目すべきは、一揆蜂起直後に出された(10月23日付)宛て所を欠く(晴信家臣宛てと推定)政宗の書状で、政宗が木村吉清を助けるべく一揆鎮圧の助力を晴信に依頼したこと。他方、蒲生氏郷が政宗に宛てた書状では、一揆鎮圧に励むなら晴信の所領安堵を秀吉に取り次ぐ意を示したとみられ、また政宗も晴信の処遇に関与していたと指摘される。

晴信の発給した文書をみると、一揆発生後の天正19年2月以降、家臣の奉公に対する恩賞として宛行っており、実際に一揆鎮圧に動いていたこと、政宗の下での所領回復を目指していたことが推測される。

政宗が申し開きのために上京した天正19年2月から奥州再仕置が始まった6月までのものであることから、晴信の牡鹿郡支配は政宗の庇護の下でなされたとする見解がある。確かにそうだが、晴信の宛行行為は、奥州仕置の以前から牡鹿郡及び遠島に限られている。また、仕置以後も晴信が牡鹿郡にいたものと推定されている。

3 政宗と氏郷

11月10日、江戸では徳川家康と浅野長吉が対応を協議し、20日までに名生城に入った蒲生氏郷は、須田伯耆の密告を受け、一揆と政宗の関係を疑う。政宗は、宮沢城、中目城、師山城(いずれも大崎市古川)、高清水城を攻撃、11月24日には佐沼城へ軍勢を進め木村父子を救出する。この後、木村から政宗へ登米、佐沼両城を渡すことと「葛西大崎之儀」を政宗へ預けるよう秀吉に取り成すこと等が、氏郷から浅野六右衛門と政宗に伝えられ、政宗も氏郷に起請文を提出した。

しかし、氏郷から浅野長吉に政宗心替の報が入り、京都にもたらされる。これを受け、二本松にいた長吉と政宗の会談が行われた。翌天正19年正月9日付で、政宗に長吉の書状が出され、政宗が富沢日向守以下の葛西大崎旧臣を抱えていながら未だその妻子を人質として豊臣政権側に差し出していなかったことが窺えるが、こうした状況も政宗と一揆の密な関係が疑われた要因だろう。

その後、長吉の勧めもあり、政宗は天正19年1月30日米沢を立ち、(閏1月をはさみ)2月4日京に上洛する。晴信は政宗に書状を送り、その返書が閏1月朔日付で政宗から出された。その書状には、1月19日に秀吉からもたらされた朱印状により、一揆の鎮圧を中止し上洛を命じられたこと、朱印状の内容は安心してよいこと、(晴信の問いに対する)残りのことは京都から申し述べることが伝えられている。依然として、政宗と晴信の密接な関係が窺える。

政宗は上洛後、2月6日秀吉に参礼し、12日には侍従に補任、羽柴姓の名乗りを許されたほか、屋敷を与えられ公家衆とも交際した。2月9日付浅野長吉宛政宗書状は、国元から一揆大将(佐沼城主)を岩沼に捕縛したことを報告したものだが、この時点で葛西大崎旧領を政宗に与え、会津周辺5郡(田村、塩松、信夫、小野、小手)を秀吉へ進上することが命じられている。

4 葛西大崎合戦

一揆の鎮圧を命じられた政宗は5月20日ころに米沢に帰国し、6月14日葛西大崎旧領への出馬を家臣に報じた。直後の6月19日付で政宗が流斎に宛てた書状では、流斎から何度か書状が送られていたこと、大崎衆は過半が政宗に出仕してきたこと等が判明する。

葛西大崎一揆と伊達方の、宮崎、佐沼両城における合戦は、政宗が秀吉家臣たちに宛てた書状に詳しく、それらによれば、6月24日一揆が籠る宮崎城(加美町)を取り囲み、翌日に攻め落とし、数百人に及ぶ撫切りを行い、佐沼城は、2月に討ち取った一揆大将(城主の子の彦九郎)を残党が支援して抵抗したが、7月2日に伊達方が城を取り囲み、翌3日には落城。城主の兄弟をはじめ旧臣ら5百人が討ち取られ、2千余人の首が刎ねられて、女童にいたるまで撫切りにして葛西の残党は退散される。

一揆勢のうち宮崎城を拠点としたのは大崎旧臣ら、佐沼城を拠点としたのは葛西旧臣らが主で、後者がより強硬に抵抗を続けたと窺える。この後、政宗は登米城に入城し、対一揆勢の合戦は葛西残党を中心としたものになる。

5 深谷の役

7月14日頃には磐井郡東山も伊達方が押さえたようで、一揆の鎮圧は進む。この頃、秀吉は、葛西大崎一揆及び九戸一揆を討滅すべく、秀次と徳川家康を中心とする大軍を奥州へ指し向け、宮崎佐沼両城を落とされた一揆勢は政宗に降参を申し入れた(貞山公治家記録)。政宗は、秀次に助命を取り次ぐことを約束し、桃生郡深谷に彼らを移した。しかし、秀次からは一揆勢の首を刎ねる指示が出され、政宗は、一揆の武頭20余人を討ち、その首を京都に送ったという。石巻市須江糠塚「殿入沢」に伝承される「深谷の役」である。

この事件は史実で、家臣宛て政宗書状でも弁明している。宮崎、佐沼の撫切りもそうだが、奥州仕置を強行する豊臣政権の命に従って政宗が実行したものだった。

6 一揆の背景と影響

8月下旬から9月下旬にかけて、葛西大崎旧領の城館破却と普請が豊臣政権の手でなされた。葛西旧領では、胆沢郡柏山城を上杉景勝が、江刺郡江刺城、胆沢郡水沢城を大谷吉継が、磐井郡大原城、気仙郡気仙城を石田三成が普請し、大崎旧領は玉造郡岩手沢城、栗原郡佐沼城を徳川家康が普請した後、政宗に渡されたという。

その上で天正19年秋から冬にかけて、伊達氏は重臣を本領から切り離す大胆な知行替えを実行。江刺郡岩谷堂城に桑折政長、胆沢郡水沢城に白石宗実、磐井郡大原城に粟野国顕、同郡黄海城に留守政景、栗原郡真坂城に富塚近江、同郡築館城に遠藤宗信、同郡佐沼城に湯目景康、遠田郡涌谷城に亘理重宗、志田郡松山城に石田宗朝が移された。

7月7日付政宗書状では、深谷保小野城主の長江月鑑斎(勝景または晴清)と黒川郡黒川城の黒川月舟斎(晴氏)に対し、横目を付けるよう指示している。彼らは必ず居残ろうとするから、引越しを交渉し、拒否するなら切腹の外なしと述べているように、知行替えは容易でなかった。亘理重宗の場合も、涌谷城への移転は応じ難かったようで、亘理郡の知行高の差出はなかなか実現されなかった。秋保定重の下に預け置かれていた長江月鑑斎は、12月7日付で政宗から定重に命がだされ、13日に「生害」が定重から政宗に報告された。翌14日、政宗は、湯村右近衛に対し「深谷一宇惣成敗」を認めており、深谷保も政宗の支配下に組み込まれた。

月鑑斎の「生害」では、政宗は定重に、月鑑斎の妻子を弟の晴信のもとに返すことを指示している。天正19年12月時点で、晴信はなお牡鹿郡周辺で存命した可能性がある。ただし、この段階で晴信の立場は厳しいものだった。12月9日政宗が家臣に与えた知行配分日記では、登米郡米谷、西郡、本吉郡鱒渕等が石母田頼景へ、志田郡坂本、蟻ヶ袋、磐井郡東山、桃生郡寺崎、牡鹿郡真野、鹿妻等が大条宗直に与えられた。これまで葛西晴信のみが牡鹿郡に対する宛行行為を行えたことを踏まえれば、天正19年冬までには政宗は葛西大崎旧領を完全に手中に収め晴信は領土権を失ったとみられる。

7 その後の葛西氏

葛西晴信の行く末は、前田利家に預けられて慶長2年加賀で死去(葛西真記録)、大崎義隆とともに上京して上杉景勝に属した(貞山公治家記録)などの説があるが、後者が有力視されている(大石直正、竹井英文)。晴信の子葛西長三郎清高に比定される人物が慶長5年7月の白石城における上杉氏と伊達氏の合戦(いわゆる北の関ヶ原)の際に、(家中の富沢吉内、黒沢豊前、高野佐渡守らとともに)伊達氏に降っていること、上杉氏から伊達氏に渡された刈田郡内の知行目録に、かさい、とみさわ、が確認されるからである。

なお、大崎義隆は、蒲生氏郷の客分を経て会津上杉氏に仕え、その後山形最上氏を頼って慶長19年までに没したという(遠藤ゆり子)。

一方、いち早く伊達氏に仕官した者たちもいた。天正19年冬には、葛西流斎が宮城郡幡谷村、竹谷村に100貫文の所領を得て幡谷村に居住。晴信の重臣だった赤井景綱も幡谷村を与えられ、近世には仙台藩士として存続。流斎の系統は、二男の葛西俊信が文禄6年(1597)桃生郡飯野川に113貫文も所領を得た後、寛永4年(1627)政宗に「先祖旧領之地」を望んで桃生郡相野谷村、成田村を拝領したといい、近世には準一家飯野川葛西氏として在郷支配をしていく。流斎の長男葛西重信は、宇和島藩士になっている。

ほかにも、晴信の子葛西勝兵衛延景は、慶長3年盛岡藩南部氏の客分となり、慶長6年南部利直より和賀郡毒沢村、浮田村700石を与えられる。盛岡藩には、江刺柏山氏ら江刺郡胆沢郡を治めた葛西一族らが出仕している。

8 一揆と葛西氏

江刺郡の曹洞宗正法寺に伝わる「正法年譜住山記」には、天正18年条に、江刺城の場合、九左衛門という上方勢が新たな城主に置き換わり、9月17日に蜂起した一揆が落城させて元の侍が城に復したと記される。一揆の主たる構成員は、大崎、葛西の残党などと確認できるほか、一揆とは距離を置いて政宗に扶持されていた氏家典膳や、富沢日向守らの「葛西大崎牢人衆」も確認できる。

つまり、一揆の主たる構成員は、葛西晴信、大崎義隆の所領が没収され自身も居館を追われた葛西、大崎の旧臣らが中心であったが、凡下や百姓ら地域住民を巻き込むものであった。

一方で、葛西晴信や流斎は、奥州仕置前後から政宗と連絡を取り合い、一揆蜂起直後には鎮圧への協力を依頼されたことからすれば、一揆の結成は必ずしも葛西大崎両氏を盟主と推戴するものではないと思われる。「京儀を嫌う」心理と、仕置後の上方勢による年貢、伝馬役の賦課、妻子、下女、下人の略奪等の横暴が耐え難いものであったと推察される。

9 葛西氏と牡鹿郡

葛西七郡、葛西八郡と呼ばれる広大な支配領域をもちながら、なぜ奥州仕置後の葛西晴信は牡鹿郡に身を寄せたのか。

そもそも葛西氏と牡鹿郡のつながりは、文治5年(1189)奥州合戦の後、葛西清重が源頼朝から恩賞として陸奥国5郡2保を賜ったことに始まる。平泉周辺に加え、飛び地として北上川河口の牡鹿郡を獲得したのは、牡鹿湊(石巻、湊、伊原津の3地区が複合的に機能)による流通が指摘される。

葛西氏惣領は興国3年(1342)前後、牡鹿郡に下向し、天文年間に登米郡寺池城に移転するまで牡鹿湊を拠点としていた。14世紀半ば以降、支配領域の重要な基盤が牡鹿郡であり、16世紀初め以降は山内首藤氏を滅ぼして獲得した桃生郡が加わった。葛西晴信の宛行行為は、対象が牡鹿郡及び遠島に限られている。

晴信の父葛西晴胤が宛行を確認した永禄8年の判物には、桃生郡三輪田村に関する可能性がある。

天文年間以降、葛西氏の本拠は登米郡寺池城に移転するわけだが、その支配領域では、薄衣氏と浜田安房守の合戦、一族江刺氏の再乱、元吉氏の再乱、遠野孫次郎と鱒沢氏の対立、磐井郡東山での内乱等が相次ぎ、麾下領主たちを統制できていなかった。室町中期以降、江刺郡や胆沢郡は葛西一族の江刺氏、柏山氏が、葛西氏惣領を頂点とする家格秩序に位置づけられながら、それぞれ郡内では頂点に立ちその下に郡内の領主が編成されていたことがわかっている(高橋和孝)。

すなわち、戦国期葛西氏の支配領域は、葛西氏惣領を頂点としながらも、江刺郡は江刺氏、胆沢郡は柏山氏、本吉郡は元吉氏、気仙郡は北の浜田氏、南の熊谷氏といった「郡主」とも呼びうる一族、重臣が支配を展開したと推察される。
(磐井郡は、東部に薄衣氏、東山の大原氏、黄海の藤沢氏、西部に小野寺氏がおり、南部の流は三迫の富沢氏の勢力が及んでいたと考えられる。)

葛西氏惣領が自ら家臣に宛行行為をおこなった牡鹿桃生両郡と遠島、天文年間以降の本拠であった登米郡は、さしあたり惣領家の直轄領と位置付けられよう。とりわけ、流斎が拠点とした山崎館があった桃生郡に対して、牡鹿郡には有力領主が存在しなかった。

奥州仕置後、登米郡は木村吉清の手にわたり、晴信は直轄領たる牡鹿郡に身を寄せることとなった。当該地域では大規模な一揆がなかったと指摘されるが、それは晴信が一揆に与しない選択をしたため牡鹿郡の旧臣らは合流しなかったものと捉えたい。

■関連する過去の記事
葛西氏と大崎氏 (10年9月22日)
そのほか、フリーページの記事リスト  (10)戦国・藩政期の仙台・宮城  をご覧ください。





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最終更新日  2025.08.18 08:44:13
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