仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2015.01.24
XML
カテゴリ: 仙台
年末だったと思うが、石川太郎さんのラジオの中で聞いたこと。リスナーの方の母はその昔、(今の)名取市から仙台市の山田に嫁に来た。さほど離れてはいないから習慣の違いなどはなかったはずだが、家の畳を普段は壁に立てかけて(つまり床は床板のままで)生活していたことに戸惑った、とかいう話だったように思う。時代を感じさせる深い話だと思ったが、もう一つ、そのご母堂は名取川を渡しで越えてきたということが印象的だった。

太郎さんが、栗木橋もなかったのね、とか相槌をいれたように記憶しているが、本当に太郎さんは仙台をよく知っている。

ところで、今では随所に立派な橋がかかって、車でスイスイ走っているが、戦後もしばらくは彼方此方で渡船がみられたはず。通学や買い物など、日常の足だった。

名取川なのだが、七北田川や広瀬川に比べて、橋が少ないような気もしていた。下流から見ると(鉄道橋や水管橋をのぞく)、(1)県道塩釜亘理線の閖上大橋、(2)仙台東部道路の新名取川橋、(3)国道4号バイパスの名取大橋、(4)国道4号旧道の名取橋、(5)県道仙台館腰線の太白大橋、(6)仙台南部道路、(7)国道286号の名取1号橋、(8)栗木橋、(9)国道286名取2号橋、(10)県道仙台村田線の生出橋、などと続く。その後は赤石地区や秋保になる。

これらのうち、かの昔日のお嫁さんが渡った頃と思われる昭和前期を想定すると、奥州街道のメインである(4)ぐらいしかなかったのではないか。

木村孝文『太白の散歩手帖』(宝文堂、2001年)に記されている内容から、名取川の渡しに関するものを拾ってみた。


(要約)
中田宿を通る奥州街道は江戸時代に通じたもので、それ以前は、東街道が重要な交通路であった。高館から名取川をわたる地点によって2つの道があるという。一つは、 栗木渡し から鈎取に入る。西多賀から茂ヶ崎山の麓を南から北に回り越路から鹿落坂を下り、広瀬川を渡り、米ヶ袋、田町を通って宮城野、多賀城へ通じたという。「仙台鹿の子」はじめ郷土史書はほとんどこの道が記される。

(なお、奥州街道の広瀬川の渡りは、はじめ宮沢渡しで舟丁に連絡する道を通っていたが、慶長17年、長町渡しで渡ることとされ、さらに、寛文8年(1668)には長町渡しに橋が架設され、長(永)町橋と名付けられた。今の広瀬橋のやや上流にあり、渡ってから鈎の手に折れて長町の通りに出た。初めて橋を架けるとき通りかかった巡礼の女を人柱にしたといい、橋姫供養碑が建っている。木橋は、明治22年9月の洪水で流失したとき、鉄橋架設の庵のあったが、当時外国から伝わったばかりの鉄筋コンクリート造にし、明治42年11月竣工、広瀬橋とした。)

栗木渡しから鈎取、鹿落坂、田町を経由するコースは回り道過ぎる。東街道の別コースは、高館から柳生を通り、上河原の 相の瀬渡し で名取川を渡り、大野田の宿在家・王の壇を通り、広瀬川は宮沢渡しか、永町橋(広瀬橋)下流の瀬(俗称ネギ洗い瀬)を渡って宮城野に向かう道である。高館と陸奥国分寺を直線で結ぶと、相の瀬渡しが線上の最短コースになる。東街道の主幹道路だったと思われる。

相の瀬渡しを渡ると大野田の宿在家である。宿在家には、荷屋(にや)という屋号を持つ郷内家がある。宿在家の地名とともに、東街道筋を証するものとして注目すべきだ(関根一郎「西多賀郷土史物語」)

栗木渡しは今では栗木橋となり下流100メートルほどには名取1号橋。栗木渕を渡ると、北に太子堂に至る道に出る。この太子堂は耕田寺の400メートル西になる。栗木橋の北80メートルには大神宮等の3つの石碑がある。ここから国道を越えて東に800メートルほど歩くと、船渡前というところにつく。もとはここから熊野堂へ川を渡れたが、今は有料道路があって通行止めになっている。さらに東に約200メートル歩くと山田八幡神社(旅立八幡とも)。


以上には、東街道ルート論を基礎に(他のルート説もあるようだ)栗木渡しと相の瀬渡しが登場する。ただ、藩政時代や明治、昭和前期の渡しポイントとは限らない。

太白区まちづくり推進協議会 のサイトによると、 落合の渡し が解説されている。


閖上から落合を通り、日辺から三橋の井土浜街道に繋がる閖上街道は、落合・日辺間で名取川で分断されるため渡し舟がありました。この落合の渡しは、初め私営で渡し守が名取川の落合岸に小屋を建てて住んでいましたが、後に落合地区の共同運営になり、渡し守りは落合の人が交代で務めるようになりました。また、渡し守りが船頭となって水棹を川底にさして舟を進めていたのが、後には両岸に渡した針金をたぐって進めるようになりました。
最盛期には閖上からの魚の行商人などで日に百人以上の人が利用した渡し舟も、昭和三十年中頃には姿を消してしまいました。



また、中田宿について、次のようにある。


奥州街道が整備されたのは、伊達政宗以降。それ以前は、高館を通る東街道が主幹道だったという。
東街道は、高館から栗木の渡しを通って西多賀へ、あるいは、高館から中田・長町・根岸を通り、宮沢渡しを越えて国分寺へ、などさまざまな説がある。最近ではそれらに加え、高館から増田を通り、郡山へ抜けたという説も取り上げられるようになった。
中田地区柳生にある 相の瀬 は、川幅が約三十メートル。深さ四十~五十センチ程度で、歩いて渉れる。高館から当時の旅人は、このあたりで名取川を越え、中田を抜けて郡山方面へ向かったとも考えられる。いずれの説も、いまだ証明されてはいないが、郡山官衙の発見とともに、増田や中田から郡山へ向かうルートが、重視されるようになってきた。
江戸時代に入り、伝馬制の採用とともに、主街道は東街道から奥州街道へと変わった。長町宿の開設とともに中田宿が誕生し、人や馬が中田の町を抜け、行き交うようになる。
長町・中田間は、およそ一里(四キロメートル)。さほど遠い距離ではないが、名取川の氾濫などのために川止めになることも多く、宿場が欠かせなかったらしい。
当時の中田宿は、長さ四町二十九間(約五百メートル)。街道に沿って宿屋や小間物屋が並ぶ小さな宿場だった。街道に面して間口がとられ、板戸を開けば、酒や醤油、小間物などが商えるようになっていたという。今でも町内には、そうした家屋のつくりがいくつか残り、宿場の面影を伝えている。



なお、同サイトには、かなり上流になるが、人来田付近には義経主従が平泉に逃げたという「判官瀬」も紹介されている。

他のサイトを巡ってみると、 藤塚の渡し 篭の瀬の渡し が存在していたという。

篭(籠)の瀬は、対岸の袋原と結ぶもので、昭和の時代まで使われた。船場からは、笊川にかかる北目橋をとおって、電力の施設の東を経由して、八本松に出た。閖上街道と呼ばれ、閖上の魚介類が仙台に届けられた。国道4号パイバスに、篭ノ瀬交差点の名がある。

藤塚の渡しは、藤塚川の岸に記念碑がある。船は人がたまると出るのだが、一日に40往復もした。最後まで残っていたのは相沢さんという方の私設で、地域からの寄付もあった。閖上からは魚売りや通勤、藤塚からは野菜売りのほか町場の閖上で買い物などでにぎわった。後に県営の形式になり、昭和47年に県道閖上大橋の開通で、江戸時代からの渡船が幕を閉じた。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2015.01.25 16:32:30
コメント(0) | コメントを書く
[仙台] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

コメント新着

おだずまジャーナル @ Re[1]:荒巻地区の新町名と宅地開発史(12/14) 荒巻昭和人さんへ コメントありがとうご…
荒巻昭和人@ Re:荒巻地区の新町名と宅地開発史(12/14) 団地名なつかしいですね。広告に使われて…

プロフィール

おだずまジャーナル

おだずまジャーナル

サイド自由欄

071001ずっぱり特派員証

画像をクリックして下さい (ずっぱり岩手にリンク!)。

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: