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前回の記事(奏社宮道の道標)の道標(市川追分)から、塩竈道を230m上ると、右手の路傍にあるのが、この「伏石」である。■関連する過去の記事(多賀城市) 奏社宮道道標(市川追分の碑、多賀城市)(2026年03月30日) 塩竈道と七ヶ浜道 ー 仙台藩の流通統制システム(2026年01月06日) 多賀城古代米の酒 おもわく姫(2024年10月01日) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日)■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 多賀城碑をよみとく(2024年12月21日) 国宝指定された多賀城碑(2024年09月16日) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)
2026.03.31
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奏社宮(そうしゃのみや)道の道標。明治17,18年頃に塩竈新道ができたことから、大正13年に建てられた。左に塩釜旧道とある。当区佐藤長八建立、と読める。よく通る道だが、碑を気にかけることはなかった。下記の記事のもととなった斎藤教授の著作に塩竈道の市川追分の碑が出ていたので、よく眺めに行こうと思って出かけてみた。天気の良い3月下旬のうららかな陽気。多賀城跡、壺の碑、ガイダンス施設、新設のスケボーパークには多くの人が来ていた。■関連する過去の記事 塩竈道と七ヶ浜道 ー 仙台藩の流通統制システム(2026年01月06日)■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 多賀城碑をよみとく(2024年12月21日) 国宝指定された多賀城碑(2024年09月16日) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)■関連する過去の記事(多賀城市) 多賀城古代米の酒 おもわく姫(2024年10月01日) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日)
2026.03.30
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今月22日投開票の栃木県那須町の町長選挙は、現職が5099票で3選、次点の前町議が5098票で、1票差の結果だった。なお、次点の候補は町選管に異議申出書を提出したと報道されている。今日の報道だが、町選管は、投票用紙の再点検を来月5日に一般公開で行うことを決定したという。投票者総数 10,566有効票 10,426無効票 140候補(現職) 5,099候補(前町議) 5,098候補(農業) 229ところで、獲得票が同数だった昨年11月の神栖市長選について。くじ引きで当選者が決定したが、他方が異議申立て。市選管による投票用紙の再点検が行われて、得票数は変わらず。次点だった人が12月に県選管に審査を求めていた。今月21日に3度目の点検があり、点検結果は来月以降発表されるという。■関連する過去の記事 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度)
2026.03.26
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昨日(23日)、東北高校は帝京長岡に1回戦で勝利し(5-1)、ダルビッシュを擁した2004年(ベスト8)以来のセンバツ大会の勝利、と報じられた(なお、甲子園での勝利は2009年夏以来)。4投手の継投で快勝だ。思い出す。いまでも時折テレビで名場面が流れるのだが、あの年、準々決勝で済美に9回裏に大逆転サヨナラを喫したときのマウンドは、ダルビッシュではなく、マカベッシュだった。実力派の真壁投手。宮城県民は本気で全国優勝を彼らに託していた。■関連する過去の記事 04年センバツ東北高校が大逆転負けした理由(2013年4月1日)
2026.03.24
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日露戦争で工作活動を行った明石元次郎大佐と並んで、我が国の歴史上、傑出したインテリジェンスを展開した人物で、連合国の脅威となったのが「諜報の神様」と呼ばれた小野寺信少将だ。英国国立文書館には、MI5が監視した人物の個人別ファイル(KV2)があるが、日本軍駐在武官で個人ファイルがあるのは小野寺ただ一人である。小野寺は、ヤルタ密約の日本関連部分で、ソ連はドイツ降伏から3か月を準備期間として対日参戦する、というウルトラ情報をスクープした。小野寺は、日ソ中立条約を破棄するソ連の裏切り行為に驚愕し、即刻東京に打電したが、結果として陸軍参謀本部内で握りつぶされた。情報を重視できなかった当時の陸軍中枢は、ソ連仲介の終戦工作を期待し続けた。また小野寺はこの情報を前提に参謀総長あてに電報を送り、モスクワを仲介し平和工作の動きがあるようだがそれは帝国の将来に最も好まざること、と諌めたとされるが、それも黙殺されたようだ。明石の成果は明治の参謀本部に生かされたのに対して、小野寺の成果は生かされず日本は無残な敗北を迎えたのだった。小野寺はいかにして情報を手に入れるネットワークを作り上げたのか。1935年にラトビア公使館付武官を発令されると、バルト三国の重要性から参謀本部と外務省に掛け合い、エストニアとリトアニアの武官も兼務する。そして、バルト三国、ポーランド、ハンガリー、フィンランドなど、ソ連の脅威に晒される国々の情報任務にあたる軍人たちと関係を確立する。それは、誠実な人間関係に結ばれた仲間と協力者であった。機密電報の暗号化や、日本料理で来客をもてなすなどの百合子夫人の功績も大きい。1939年小野寺はいったん帰国する。1939年第2次大戦の勃発のあと、ポーランドは独ソに分割占領され、ソ連はフィンランド領を割譲させバルト三国を併合した。1940年小野寺は、中立国スウェーデンの公使館付武官に発令され、翌年1月ストックホルムに着任する。ここで、小野寺がつくったヒューマンネットワークはすでにできあがっていた。バルト三国公使館時代の各国の情報任務の軍人たちが期せずしてストックホルムに亡命していて、ソ連はもとより連合軍の情報までも小野寺に集まる仕組みができていたのだ。ヤルタ密約でソ連参戦まで3か月しかないことを知った小野寺は、スウェーデン王国を通じた平和工作を企図し、折しも1943年10月ストックホルムに来た扇一登海軍大佐と投合し、扇を海軍武官として迎えようとしたが、臨時海軍武官の三品伊織大佐と組んだ岡本季正公使からビザ発給を妨害され、終戦工作の機会を逸した。以上は下記文献から、おだずまジャーナル要約である。インターネット情報では、小野寺信は1897年(明治30)岩手県前沢町の助役の小野寺家に生まれ、本家筋の遠野の小野寺家の養子になり、陸軍士官学校を卒業している。戦後は、妻の小野寺百合子とともにスウェーデン語の翻訳などにも努めた。■福山隆『スパイと日本人:インテリジェンス不毛の国への警告』ワニブックス、2021年
2026.03.23
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面白い記事だった。河北新報2026年3月15日の「とうほく・総合」面で「北から」のコーナー。秋田総局織田雅子さんの署名記事。趣旨は以下の通りだ。(記者は)東北に来て4年になるが、名前の最後に「悦」が入る人が目に付く。就職以前に暮らした関西や東京では一人も会ったことがない。全国の叙勲など名簿では、「悦」の名は東北に多い。不思議だ。この3年間で、取材用の携帯電話には、宮城と秋田で出会った8人の「悦」さんがいるが、全員が東北で生まれ育っている。由来を尋ねると、・(宏悦さん)農家に長男が生まれて喜ばれた・(仁悦さん、敬悦さん)他方の漢字の由来は明確だが「悦」ははっきりしないなど。由来がはっきりしないほど良く使われたのか。一説には、方言でイチとエツの音が混同されやすく、「一」と同じように使われた。たしかに今回尋ねた人はみな長男だった。氏名の名の方の地域性なんて考えたこともなかった。意識されるのは、名字の場合の地域的な偏りよりも、時代による偏在であろう。語感や有名人(翔平)などで「流行り」が考えられるが、我が国は全国エリアでほぼ日本語一本だし、メディアも全国規模で同質だ。地域によって「流行り」の偏りはないと根拠もなく思っていた。おそらく、記事の最後にある「イチ」の転訛または代用、というのが実態のような気がする。親が、真一のつもりでシンエツと発音したのを戸籍係が「悦」で受理した。エツと発音した、と書いたが、エはイとエの中間音、そして、ツは実際はヅだったろう。そんな事例からむしろ定着して、とくに長男の二字目に付けることが広まった、と考えられないか。また、悦の字だが読みはイチなんだ、という例も聞く。私自身も10人くらい知人の例を挙げられる。みな長男かどうかわからないが。(以下、関連する過去の記事) 方言漢字、地域文字(2025年01月03日) 方言漢字を考える(2019年11月18日)■姓名など 東北各県の特徴的な名字と珍名(2019年11月24日) 仙台の苗字の特徴(2016年1月11日) 変わった名前で珍問答(2015年2月10日) 東北の変わった苗字(2015年2月9日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城の代表的な苗字は(06年9月13日) 宮城県の苗字ランキング(06年9月12日) 姓と苗字の違い(06年8月23日) 宮城県の由緒ある苗字(06年8月1日) 苗字と名字の違い(06年5月22日) やっぱり多い鈴木さん (06年5月9日)■人の名前あれこれ シンコペーテッドな名前 再論(2023年01月03日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 下から読んでも同じ名前(2011年11月25日) 同一の段だけの氏名はあるか(09年4月23日) ア列の名前(08年7月26日) 回文を考える(07年9月15日) シンコぺーテッドな名前(06年12月22日) 姓と苗字の違い(06年8月23日) 苗字と名字の違い(06年5月22日)
2026.03.20
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13日の新聞に出ていた。町側は仙台地裁判決に対して期限の11日までに控訴しなかったことがわかり、これで、町議会の解散の是非を問う住民投票は行われないことが確定した。直接請求のもととなったSSP構想は、事業者と町が取り止めているから、これで一連の騒動は一段落ということになろう。ただし、それは政治的な一段落だ。町長選挙でも争点にされた町の重要政策をどうするかという意味と、併せて、住民自治のための直接請求の機構を用いて争われた過程としては終息という意味に過ぎない。まずもって、一番大事な点だが、地域政策として町の振興をどう図るのかの根本課題は当然残っている。加えて指摘したいのは、署名を有効として対応した町や町選管の事務処理の適正さ、である。この点は忘れられてはならない。公務が正しく運営されていたのかの問題であり、今後の公務の信頼性にかかわる問題であるから、事実解明と対応策の表明が不可欠だ。町長が代わったからとか、裁判所が白黒つけたから、という話ではなかろう。■関連する過去の記事 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.03.16
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源義経が生き延びて樺太を経てアジア大陸に渡り、モンゴルに入ってチンギス・ハーンになった...よく言われる説だ。岡田英弘によると、次のように説明されている。(岡田英弘『歴史とはなにか』文春新書155、2001年)木村鷹太郎は、日露戦争の後の1911年、『世界的研究に基づける日本太古史』を発表し、日本人の祖先は古代エジプト人と古代ギリシャ人で、世界のすべての文明は日本からはじまったと主張した。小谷部(おやべ)全一郎は、日本軍のシベリア出兵のあとの1924年、『成吉思汗ハ源義経也』を発表して、大ベストセラーになった。こうした奇書は、時代の節目ふしめに出現したが、なかでも竹内巨麿が1928年に発表した『竹内文書』の内容は奇抜で、神武天皇より古い日本超古代王朝が全世界に君臨したとした。こうした超古代ものでは、第二次大戦後に和田喜八郎が創作し1975年に公開した『東日流外三郡誌』というような「古文書」もあるし、それがいまでも結構人気がある。小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』のもとは、1879年(明治12)、英国ケンブリッジ大学に入学した末松謙澄(のちの逓信大臣、内務大臣)が、差別的な待遇が頭に来て、イギリス人をよそおい匿名で書いた論文だ。それを1885年内田弥八が『義経再興記』として訳述・出版して、大きな反響を呼んだ。それがいまに絶えない源義経=チンギス・ハーン説の起源だ。(以上は引用だが、一部おだずま編集あり)上記の引用で、時代の節目ふしめに奇書が登場した、とある。岡田氏の著作によると、日本人の明治以来のコンプレックスを背景に、日本人のアイデンティティ探しがさかんに行われた。『古事記』の高天原を探して、モンゴルかチベットか。また、世界中に日本語と同系統の言語がないことから、ルーツ探しとして、朝鮮語と同系統だとして日鮮同祖論がはやった。しかし実は日本語と韓国語・朝鮮語には共通点は少なく文法構造も違う(語順だけ似ているが)。そして日本語のルーツ探しはますます空想的になり、木村鷹太郎(ようたろう、英文学者)は日本語の祖先はギリシア語だと提唱。これは当時の列強とおなじ印欧系となり心強い。さらに、アジアは一つ(岡倉天心)として、レプチャ語と同系統(安田徳太郎)、ビルマ語が同系統(西田龍雄)、タミル語と同系統(大野晋)などの系統論がでたがどれもうまくいかない。などなど。■関連する過去の記事(平泉、義経、ジンギスカン) 高橋克彦の描く泰衡(2022年3月28日) 仙台四郎はジンギスカンか(2016年6月30日) 十三湊の信仰の山 靄山(2015年9月21日)(泰衡の見た靄山) 厩石と義経寺(2013年6月13日) 判官堂(義経神社)、白山神社、樋爪館(2012年10月28日) ジンギスカンと遠野(2010年12月14日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(2010年10月24日) 平泉の終焉 泰衡の実像と義経北行の真実(08年5月26日) 聡明なる藤原第四代泰衡(08年5月19日) 生きよ義経 泰衡と月山神社(08年5月11日) 奥州藤原氏17万騎消滅の謎(08年4月29日) 平泉の優位性を考える(07年11月5日) 発進!平泉を世界へ!(07年9月30日) 都市平泉の予想図(07年1月28日) 平泉への道(06年1月11日) 義経伝説と東北の歴史ロマン(05年12月8日)■関連する過去の記事(東日流外三郡誌) 十万都市だった十三湊(2014年4月29日) 壮大なニセ歴史ロマン(07年5月27日) 津軽とジャパン(06年8月28日)■関連する過去の記事(キリストの墓) 大石神ピラミッドと新郷村の旅(2012年8月19日) キリストの墓(2012年8月18日) 新郷村とキリスト伝説を考える(2010年12月12日)■関連する過去の記事(タミル語、大野晋) 父母を示すアッチャ、アヤの不思議(2016年1月5日) 縄文時代の言葉(08年11月24日) 東北はイロリの文化(07年2月14日)
2026.03.06
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