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昨日(4月28日)の報道。やっぱりそうなったか。茨城県選管の裁決は、木内氏の当選を無効とするもので、石田氏(得票同数でくじで敗れた前職)が当選人になると結論付けた。具体的に言うと、木内氏の有効票とされた「まんじゅうや」「だんごさん」の計2票を無効と判断した。木内氏の実家が和菓子店だが、それが同氏の通称として広く使われた十分な証拠がないとしたもの。他方で、石田氏側で有効とされた票のうち1票に、欄外に他事記載があったとして無効と判断。結局、石田氏16,723票、木内氏16,722票で、1票差で逆転。特定の候補に投票した意思が明白かどうか、ということになるのだろうが、通常は「まんじゅうや」で有効票にはならないだろう。ただし、投票者の意図がポイントだから、当該自治体の区域において、相当程度明確に、通称、屋号、芸名、あだ名などが一般に通用しているなどの事情があれば例外的にオーケーなのかも知れない。また、(最近記事にした那須町長選挙の場合のように)対立候補の氏名との関係で特別な判断が必要かどうか、もあろう。さて、県選管で全票検査が行われたので、あとはこの2票をどう評価するかに絞られたと言えよう。市長の座が半年で入れ替わるかも知れず、また、選挙や係争に要するコストなども無視できないが、考えようによっては、民主主義のもっとも重要なイベントである選挙というものについて、当該地域のみならずすべての国民が考える機会になるとも言えるような気がする。さまざまな意見があるだろう。2票の有効性について。あるいは両陣営の姿勢について。また、市選管の判断の透明性を求める意見、たとえば疑義票でこういうものがあってこう判断した、と公表するとか。まずは迅速に市選管で事務処理し、不服があれば事後に県選管さらには訴訟で決着という仕組みだが、相談もできず判断せねばならない市選管も実は負担だろうし、とにかく時間と費用のコストがかかる。私が思うのは、もう現行の投票システムを見直す機会にすべきではないかということ。候補者名を自署する方式だが、例えば選択式、さらに電子投票にすれば、集計の手間もコストも省ける。固定した投票所を前提にした電子投票は現行法でも可能だが、さらに、在宅でネット投票も技術的には不可能ではないだろう。ほかにも、選挙や投票をめぐっては見直しを検討すべき点が多いと思う。投票権行使はありがたい機会、あるいは公民の義務感をもって誰もがわざわざ足を運んで投票に臨み、選挙を実施する行政側も人的財政的コストをいとわない、というような昔のモデルに拘泥していていいのか。いまや、投票率低下こそ民主政治の危機だし、コスト削減も重要だ。あまり表に論議されないが、投票所における本人確認の問題は常にリスクがあるが、電子基盤を活用すれば確実性と迅速性が飛躍的に高まる。■関連する過去の記事 得票同数の神栖市長選等について(2026年04月21日) 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.04.29
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やはり気になる。大差で現職が信任された、とはいえ、朝日新聞は無名の対立候補が5千票以上を集めたことを、今朝(4月28日)の朝刊でも追っている(福留庸友記者)。記事の概要は、こうだ。ポスターも事務所もない新顔に、約2割の得票率を許した。また、白紙投票も985票で、前回(選挙戦となった2018年)の3.8倍。多選や頑固な市政への批判ともみられる。河村和徳さんの解説があって、復興から変わろうとする局面でもあり、現職への不満が可視化されたとする。以下当ジャーナルのコメントだが、たまたま同日(26日)に行われた福島県昭和村の村長選挙では、3人の新人が争い、当選者が543票、次点が139票、三人目はわずか7票。この人は昨秋の宮城県知事選挙にも出た乗馬学校代表の85歳。知名度なら福島県でも多少はあると思うが、気仙沼市と比較すれば顔の見える地域で浮動票がないのか(投票率は79.87%)、とにかくまさに泡沫扱いの結果だ。気仙沼市の市長選挙でも、開票前はおそらく有権者もマスコミもその程度に考えていただろう。朝日の記事にもあったが、無投票で良いものをわざわざ公費を使わせて、的な批判も正直あるだろう。今回は市議選があったが、市長選単独だったとしたら、出費も差が大きいが、市職員の労力も多大なのが実際だ。(もちろん、民主主義の正当なコストだが。)だから、2割で5千票という結果は、まさに衝撃だ。どのような気仙沼の状況がそうさせたのかは、政治社会学的に非常に関心がある。■関連する過去の記事 気仙沼市議と市長選の結果を考える(2026年04月27日) 気仙沼市議選挙を考える(2026年04月24日) 大崎市議選挙結果を考える(2026年04月20日) 大崎市長選挙はじまる(2026年04月13日)
2026.04.28
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昨日(4月27日)の読売新聞で、社会生活上の法的問題として関心を引くものがあった。概要はこうだ。(見出し)盲導犬に犬接近 責任は/急停止し女性「転倒」 飼い主に損賠訴訟(松山支局 宇仁菅玲香、氷見優衣 両氏の署名記事)(以下記事の趣旨。おだずまジャーナル整理)・2023年6月、視覚障害者女性(50歳代)が盲導犬(ラブラドルレトリバー)と路上を歩いて帰宅中に、小型犬(チワワ)が接近したため盲導犬が急停止し女性は転倒したとして、飼い主に約170万円(治療費、慰謝料)の損害賠償を求めた・この訴訟は松山地裁今治支部、2024年5月提訴・飼い主(被告)は、リードをつけず散歩させたことは認めた一方、呼び戻すとすぐに盲導犬から離れたと反論。盲導犬が立ち止まった際女性(原告)がその場に座り込んだだけで負傷していないと主張・裁判官からの和解提案も、双方が受け入れず・原告女性は、ガイド中の盲導犬に犬を近づけることの危険を広く知ってもらいたい、とする・盲導犬は全国で768頭・日本ライトハウス(盲導犬を育成)は、盲導犬に犬を近づける、許可なく触る、食べ物を与える、などの行為をしないよう注意を促す・急に犬が近づいて盲導犬が立ち止まると、状況把握が難しい視覚障害者は、予測した対応がとれず、危険につながる恐れがあるという・公益財団法人アイメイト協会の調査(2018年)では、盲導犬使用者からは、盲導犬に触ったり声をかけたりしないでほしいとの声が多かった。この訴訟じたいは、当事者同士こじれていると推察するが、一般化して考えれば問題の本質は、障害のある人ができるだけ自分らしく暮らせるために、そのための必要な条件整備や周囲がわきまえるべき注意事項などを、社会全体で意識共有して、障害のある人もない人も誰もが住みやすい社会を目指すべきという点にあると思う。法律論的にみれば、ミクロ的(個別事件の解決の視点)には、因果関係などの問題だろうが、もう少し法政策的に考えると、日常生活における責任の配分の問題ともいえる。盲導犬利用者が多少のリスクを負うべきか、それとも一般人(犬の散歩する人など)が注意すべきことなのか。いやしかし、おそらく、法的に根詰めた議論よりも、ちょっとした社会的な周知で解決をめざすことが可能であり、行政やメディアの啓発、学校教育などを含む理解促進で解決すべき問題だろう。そして、成熟した現代社会であるわが国では、そのようなインクルーシブな考えを許容できると期待する。
2026.04.28
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昨日投開票が行われた気仙沼市議選に注目した。定数21に対して27人の立候補は、議員のなり手不足がいわれる昨今では望ましいと言えることだし、そのうねりを押し上げているかも知れないのが、従来型の候補だけでなく、一般サラリーマン、よそ者、若者、女性、などいわば「新風」ではないかとの視点から、得票状況をみてみたい。投票率は55.61%で、を0.15上回った。ただし、これは、同日の市長選挙が前回は無投票だったことも影響するかも知れない。全体を見ると、当選回数が多く安定した地域基盤をもつ市議が安泰にみえる一方で、新風候補もだいぶ期待を受けたように思える。まずは、得票順に並べる。そのうえで、まことに恐縮でありますが、当ジャーナルの勝手な私見で、「新風」候補者(★印)に対するコメントを付したい。新風の判断は、選挙公報の記載と今朝の河北新報記事をもとにしている(結果として新人当選者と一致)。また、コメントは、出身地や、主な経歴など。選挙公報の記載で特に気になった点も記した(再度言いますが、私見で大変恐縮です。)1当 1879 村上佳市 無現(6) ・68歳、気仙沼市、PTA会長、防犯協会会長、(現)市議会副議長2当 1516 杉浦美里 無新(1) ★37歳、浜松市、復興支援、モデル事務所、4児の母3当 1410 菊田 篤 無現(4) ・59歳、階上、県PTA連合会会長4当 1394 熊谷伸一 無現(6) ・68歳、古町、旧市議、市議会議長、学校法人理事長5当 1331 三浦友幸 無現(3) ・45歳、本吉町前浜、大谷まちづくり協議会事務局長6当 1315 秋山善治郎 共現(5) ・77歳、旧市議、日本共産党7当 1307 鈴木高登 無現(6) ・64歳、唐桑町議、市議会議長、総合型地域クラブ理事長8当 1273 臼井真人 無現(6) ・74歳、気仙沼市、倉庫業、旧市市議、市議会議長9当 1189 白川雄二 公現(2) ・50歳、大島、サラリーマンを経験10当 1155 佐藤健治 無現(6) ・59歳、九条小、条南中、旧市の市議、市防犯協会会長11当 1080 垣下美紀 無新(1) ★48歳、気仙沼市、3児の母、ひとり親家庭の不安を経験、津波伝承館職員12当 1029 村上伸子 無現(3) ・61歳、気仙沼市、豪キャンベラ大、女性の視点などを強調13当 1018 菅原雄治 無現(4) ・62歳、中学教諭、NPO理事14当 1017 佐藤俊章 無現(3) ・67歳、階上小中、PTA会長、県漁協15当 925 及川善賢 無現(6) ・63歳、小泉中、本吉町議、本吉地域の平等な発展を訴えた16当 892 宮井和夫 無新(1) ★50歳、気仙沼観光タクシー、JC理事長、社会福祉法人理事17当 840 三浦由喜 無現(5) ・77歳、津谷、本吉町職員、副議長18当 798 今川 悟 無現(4) ・41歳、面瀬、地元紙記者、防犯協会長19当 791 千葉慶人 無現(6) ・62歳、(現)市議会議長、本吉、JC理事長、PTA会長20当 656 菅原清喜 無現(6) ・76歳、市議会議長21当 615 遠藤秀和 無現(2) ・58歳、津谷中、本吉町職員、稼げる農業を訴えた------------22落 600 熊谷雅裕 無現 ・74歳、大島、小中学校再編計画に反対、議員定数削減を訴えた23落 544 菅原俊朗 無現 ・76歳、現職1期、酒店、風力発電反対を訴えた24落 530 斉藤巳寿也 無新 ・昭和40気仙沼市生、元県職員、市長選挙(平成30年)12300票、騒音に配慮して選挙カーは使いません25落 486 白幡 章 無現 ・昭和39生まれ、漁業、農業26落 365 村上 敬 無新 ・54歳、松岩、関係人口創出などを目指す27落 328 田中実尚 無新 ・47歳、気仙沼市、選挙公報の記載は非常に独特■関連する過去の記事 気仙沼市議選挙を考える(2026年04月24日) 大崎市議選挙結果を考える(2026年04月20日)ところで、市長選挙について。・当選 菅原茂(現)68歳 19,734・落選 岩村彬(新)79歳 5,305事実上の信任投票で、しかも対抗馬は告示直前に名乗り出た無名で、街頭活動をほとんどしない上に、選挙公報を見ても具体的政策は不明。それなのに、5千票もとることに率直に驚きだ。見出し的には「大差」なのだが、例えば朝日新聞県内版(今朝)は、供託金没収ラインを大きく上回る票を集めた、と解説。現職への批判票として岩村氏に入れた人の声を紹介している(朝日新聞は福留庸友記者の署名)。閉塞感打破の期待、ということか。
2026.04.27
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夜のニュースでも、赤々と燃え上がる炎が生中継されていた。発生4日目になる大槌町の林野火災だ。各県の防災ヘリや緊急消防援助隊が、懸命に消火活動を実施。今朝の時点で約1176haを焼失、避難指示の対象は町人口の3分の1にあたる3,233人。燃える山の麓に家があるという人が、避難した街中の路上から、淡々とインタビューに応じる姿をTVで見たが、眠れない日々が続いているだろう。消防団の懸命の活動が報道される一方で、専門家が、こうなると林地の延焼を食い止めるよりは、住宅地の側で住家への飛び火を監視して機動的に消火する作戦に移るべき、と話していた。今後1週間は雨も期待できないという。平成以降で、昨年の大船渡市の被害(約3,370ha)に次ぐ規模になっているとの説明もあった。消火活動や避難者の支援に携わる方々に、感謝しつつ心から応援の思いだ。そして、火勢が弱まること、そして、住宅や施設への被害が広がらないように、願う。
2026.04.25
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大崎市議選で新しい動きを探ってみる記事(下記)を書いたが、今週末が投票の気仙沼市議選のほうが、ダイナミックなようだ。■ 大崎市議選挙結果を考える(2026年04月20日)今朝の河北新報記事にも出ている。議席21に27人が立候補、新人6人も多彩な顔触れ、と。震災後の移住者、Uターンした人、若手経済人などで、3月になってから名乗りを上げる動きが一気に表面化したという。議員成り手不足、市議会の活性化、地域と議員の関係などの観点から、市町村議会の選挙に着目してきたのだが、今回の同市議選挙は興味深い事例になるだろうか。見方を変えれば、それだけ市政への関心が高い、つまり閉塞感打破の願いが強いということか。市議候補者の選挙公報を市ホームページで読んでいる。限られたスペースでアピールする内容もさまざま。選挙期間中なので論評はいまは避けるが、新人を中心に分析を進め、日曜夜の開票の後で、当落や得票数などを踏まえて、当ジャーナルが市議選結果をどう見るか、渾身の記事を書きます。
2026.04.24
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今朝の河北新報に出ていた。涌谷藩志会が主催した講演会(18日、約140人)で、佐藤憲一さんが話したとの事。あきる野市の寺に、政宗の弟が住職を務めたという資料が残り、義姫と政宗の手紙を見ても仲が悪い様子がない。当時の伊達家は存続の危機もあり、政宗は一人だけの弟を寺に逃がしたのではないか。義姫も自分が悪者になることで藩の安泰を祈った可能性もある。このような内容だったようだ。新聞記事には、政宗と再会した時の義姫の年齢と近くなり、義姫の気持ちが理解できる、という参加者の感想が載っていた。歴史だけれど、身近に感じられるところが、非常に興味深い。佐藤さんの説などについては、下記の記事に以前書きました。■関連する過去の記事 政宗毒殺未遂と小次郎生存説(2016年5月2日) 再び政宗毒殺未遂事件を考える(07年10月12日) 政宗毒殺未遂事件を考える(07年6月28日)
2026.04.23
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4月21日河北新報の記事(菅野正道さんの連載)に、原町の平田神社が出ている。菅野さんの記事の概要はこうだ。神社の名の由来である平田五郎は政宗に仕えた勇猛な武士だが、祖父が会津の戦国大名の蘆名氏の重臣であった。仙台藩士の出自には、政宗治世下で新たに召し抱えられた家臣が意外と多く、蘆名氏の旧臣も目立つ。蘆名分家の猪苗代、針生。会津の執権と称された金上(かながみ)。四天王といわれた平田、佐瀬、富田、松本など。他にも、荒井、栗村、黒沢、小荒井、十二村(じゅうにむら)、中目、生江(なまえ)、西方、樋渡(ひわたし)など。政宗は黒川城を攻め落としたことから、伊達氏と蘆名氏はライバルと受け止められるが、実は以前から友好関係にあり、対立したのは晴宗時代の一時期と蘆名氏滅亡直前の5年ほどの期間だけだ。そして、記事の冒頭で、こういう。「一般に神社の名は、八幡や諏訪などの祀られる神の名か鎮座する場所が多いが、神でも地名でもない神社名はあまりなく、平田神社は東北ではここだけではないだろうか」と(おだずまジャーナルで若干要約)。直接には、平田神社の名は東北ではここだけ、という説明だが、おそらく、神社の名前に「勧請された神や(神格化して)祀られた人物」を冠することはあるが、それ自体は俗人である「祀った人」(この場合は平田五郎)の名を冠することは珍しい、という意味なのではなかろうか。平田神社の境内に掲げられる「由来」には、遷宮者の姓から公式に平田神社と称したとある。(下記の記事に画像があります) 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日)平田五郎は、慕われ続けている人物なのだ。 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日) 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日) 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日)■関連する過去の記事 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)■関連する過去の記事(神社について) 神社の多い福島、少ない岩手(2014年02月09日)■関連する過去の記事(付近の地域) 清水沼のこと(10年9月8日)■関連する過去の記事(松原街道の関連) 岩切の追分の道標(2026年04月11日) 御立場町の道路愛称(2025年12月06日) 案内のネコ(2024年10月14日) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2026.04.22
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産経新聞の面白い記事があった。4月19日(日)の東日本総合版で、深層リポート茨城発として「神栖市長選、月内にも裁決」と題して。以下は当ジャーナル要約・再整理。3選をめざした石田進氏と、元市議の木内敏之氏が、いずれも16,724票で、くじにより木内氏が当選となった(昨年11月9日)。石田氏陣営の異議申し立てで市選管が、全33,667票(無効票219含む)を再点検したが(11月26日)、結果は変わらず申し立て棄却(12月5日)。次いで、石田氏陣営は、県選管に審査申し立て(市選管の棄却決定の取り消しと木内氏当選を無効とする裁決の2件を求める、12月22日、23日)。木内氏の有効票の中に、「まんじゅうや」「だんごや」とだけ記載されたものがあり、これらは無効票とすべきだと主張。木内氏の親族が和菓子店を営んでいるという。30年ぶりとなる県選管の再々点検は、県選管職員約30人が全投票用紙を確認して、慎重な判断を要する票を抽出した(3月21日)。現在は、その審理を進めているという。今月以降に県選管の裁決が見込まれる。県選管が裁決したケースとしては、令和5年4月の小山市議選がある。1票差で敗れた次点候補者が栃木県選管に審査申し立て。この裁決では、最下位当選者の氏名以外に「!!」の記号と二本の縦線が記載された計2票が、他事記載(公選法68条1項6号)に該当し無効投票とされた。この候補者が裁決取り消しを求めたが、裁判を経て確定。次点候補者が逆転当選となった。栃木県選管の裁決当時の委員長を務めた平野浩視弁護士は、神栖市長選について、「まんじゅうや」「だんごや」だけの記載は、候補者のだれを記載したのか確認しがたく、無効票(68条1項8号)になる可能性もある、とする。また、かりに候補者名と併記されれば、他事記載該当の判断が行われると指摘する。なお、同法67条は、68条の規定に反しない限り、投票者の意思が明白ならその投票を有効とするよう規定する。単にその投票用紙にどう記載されたか、の判断でなく、その地域ならではの事情や、さらには他候補者の状況(類似した氏名など)も影響するだろうから、なかなか難しい判断が迫られるようだ。■関連する過去の記事 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.04.21
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昨日の19日(日)は宮城県内でも投票日の自治体があった。・大崎市長選挙 合併以来5期続けた現職の勇退に伴う選挙。元県議会議長の中島さんが、自民党支部が支える市議などを制して初当選。投票率53.09%は、前回選挙戦となった2018年を1.85上回った。・山元町長選挙 現職の橋元さんが再選。政争の町ともいわれたが、町政停滞から脱することになるだろうか。投票率は59.31%で前回から8.42の減。・山元町議補欠選挙 定員3に対して立候補3人で、無投票だった。さて、ここでは、大崎市議選に注目したい。28議席に30人が立候補した。市長も代わるが、現職11人が引退し、2人は市長選に出るため、半数が入れ替わり世代交代が進むとみられていたことと、従来は農村部的な政治風土が色濃かっただろうが(そして特に地方部では地方議会のなりて不足が深刻だ)、若い世代や「よそ者」の進出などがあるか、に着目していたからだ。落選者は2人しか生じないので当落という分かれ目から決定的な評価はしにくいが、得票数などの動向から、どんな候補者が受け入れられたか、を探ることができないだろうか。得票順に書き出してみる。1 3,587 加川 康子 無現 22 3,309 早坂 憂 自現 33 3,155 山田 匡身 公現 24 2,634 佐藤仁一郎 無現 45 2,458 小玉 仁志 無現 26 2,404 伊勢 健一 自現 37 2,373 佐藤 弘樹 無現 68 2,316 富田 堅治 無新 19 1,985 八木 吉夫 無現 510 1,954 遠藤 彰 公新 111 1,939 荒井 純 無新 112 1,877 吉越 美穂 無新 113 1,828 木内 知子 共現 614 1,767 高橋 雅博 無新 115 1,672 木村 和彦 無現 616 1,577 五島 啓太 無新 117 1,529 法華 栄喜 無現 218 1,509 後藤 錦信 無現 619 1,454 菅原 智宏 無新 120 1,439 石田 政博 無現 221 1,395 結城 豊 共新 122 1,331 鎌内 克美 共新 123 1,322 遊佐 辰雄 共現 624 1,306 山口 寿 無元 225 1,255 小嶋 匡晴 無現 226 982 平野 洋子 無新 127 912 山口 文博 無元 228 839 川合 明弘 無新 1(ここまでが当選者)落 581 畠山 紳悟 無新落 124 梅津 泰幸 無新新聞記事で紹介されていた肩書と年齢くらいしか情報がないが、上記の視点から当ブログの独断で注目した候補の得票数を見てみる。(1)若い人(40代以下)・川合明弘 無新 46歳 会社代表 28位・早坂 憂 自現 40歳 塾講師 2位・平野洋子 無新 46歳 鍼灸師 26位・五島啓太 無新 44歳 会社代表 16位・伊勢健一 自現 45歳 会社役員 6位・吉越美穂 無新 37歳 トレーナー 12位・加川康子 無現 48歳 研修講師 1位・小嶋匡晴 無現 41歳 会社役員 25位・畠山紳悟 無新 31歳 環境NPO代表 落・小玉仁志 無現 42歳 会社代表 5位・山田匡身 公現 47歳 党地区支部長 3位現職がある程度優位とは思われるが、新人で順位の高いのは吉越さん。(2)よそ者(選挙公報から新人で出身地が市外とわかる人。当ジャーナルで拾った)・畠山しんご 秋田県潟上市出身、大崎三年目。議会と戦う、政治家に嫌われる仕事、などやや過激な内容を選挙公報で記載している。→落選・平野洋子 結婚を機に大崎市に移住。→当選26位出身を明示しない候補もいるし、仕事で東京等にいた人も何人かいるようだ。正しい分析にはならないが、おそらく、今回の選挙では、従来にないような「流れ」が生じたとまでは言えないか。もっとも、選挙は議会政治の入り口。これから、新しい市議たちの活躍に期待いたします。(4月21日補遺)河北新報記事によると、当選者一覧で表示された出身地は、大崎市がほとんど。大崎市以外なのは、平野洋子さん(26位)の兵庫県西宮市、川合明弘さん(28位)の美里町、だけだ。
2026.04.20
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■前回記事 奥州藤原氏と貢馬の道(2026年04月16日)北方へのびる道(2026年04月17日) に続く■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」後半部分から。おだずま要約・再構成)1 陶磁器の道 - 北上川の舟運平泉の遺跡から大量に出土する陶磁器の9割は、渥美・常滑焼だが、陶磁器の搬入ルートは海上や水上しか考えられない。例えば柳之御所跡遺跡からは直径高さともに90センチ超の大型の渥美焼の甕が出土したが、馬の背で陸路を運ぶことは考えられない。そして、東海地方から運ぶのだから、太平洋岸の海路ということになり、太平洋岸の海運はこれまで考えらたより古くから発達していたと考えねばならない。そのルートは、海と北上川であった。北上川は日本でも有数の流れのゆるやかな川で、流域の仙台藩領の広大な米作地帯の産米が石巻に集められ、江戸に運ばれ、仙台藩の財政収入のかなりの部分を占めていたことは有名な事実である。江戸時代の北上川では、大型のヒラタ舟(艜)が筵帆をあげ米俵を満載してゆっくり川を下った風景が日常だった。さらに近代には、河口の石巻には水運の商社が創設され、鉄道による舟運の衰退まで続いた。中世の北上川の舟運を証拠立てる材料のひとつは、石巻で産出する井内石の分布である。井内石は粘板岩で、天然スレートともなる。北上川流域では13世紀中ごろから井内石を素材として板碑(供養碑)の造立がはじまり、中世末に及ぶ。関東においては秩父青石(緑泥片岩)を素材とする武蔵型板碑がつくられ南関東一円に分布していたことと同様のことが北上川流域でおこっていた。井内石板碑の北方への分布は、北上川をさかのぼって平泉の北の胆沢郡まで及び、井内石文化圏とでもいう分布圏が存在する。石材は当然石巻から北上川を舟で遡って運んだと考えられ、平泉のやや北で分布が終わっているのは、この時期の北上川舟運の北限がそのあたりだったことを示しており、その水上交通圏は奥州藤原氏の時代に形成されたものにちがいない。自然条件でみても、北上川は平泉付近から北は流れがやや急になる。現在の県境付近に狐禅寺という狭窄部があり、その北の一関市付近は磐井川との合流点でもあり古くは池沼上の地形だったと考えられる。平泉はその台地上に位置し、北上川水運の基地はこの付近ではここ以外には考えられないような場所である。藤原清衡は12世紀のごくはじめ頃に、奥六郡内の江刺郡豊田の館(たち)を出て平泉に居を構えるが、平泉を選んだ理由の一つには北上川水運があったと思われる。2 陸上の道一方、陸上交通でも平泉は重要な場所で、陸奥国を縦貫する陸上の道と北上川水運の水上の道が交差するところでもあった。吾妻鏡(1189年=文治5=9月17日条)には、中尊寺建立の由来について、清衡は白河関から外が浜にいたる20余日の行程の一町ごとに笠卒塔婆を建て、その中心をはかって山頂に一基の塔を建てたのが中尊寺のはじまりで、寺院の中央の多宝寺には釈迦如来と多宝如来が左右に安置され、その中間に関路が開かれていて旅人の往還の道となっている、と記されている。中尊寺は山号を関山(かんざん)と称し、その山頂には歌枕で有名な衣関(ころもがせき)があったと伝える。関山を越えるとすぐ北に衣川があり、その北が胆沢郡。関山は磐井郡の北端で奥六郡との境の山である。古代の奥六郡は俘囚の地で、以南の内国とは政治風土が全く異なるところであったので、関山は政治的にも重要な境界であった。また、関山の麓は衣川と北上川の合流点に近くかつては低湿で交通困難であったため、奥六郡に入る交通路は関山を越え衣川をわたるルートをとらざるをえなかった。中尊寺はその交通路上に、それを扼する形で建てられた寺だったのである。一方、南から平泉に入る道路は、今の一関市市街地を通るルートはかつては低湿であったため、現在より西のルートだと考えられる。文治奥州合戦の際には、頼朝は鎌倉への帰途に平泉の南の達谷の窟(いわや)、西光寺の前を通り、西光寺に水田を寄付している。西光寺には大量のカワラケを出土する遺跡も存在する。頼朝の通った道は、毛越寺の門前から太田川の谷に沿って南下し、山を越える道で、現代や江戸時代の道より西のルートを通るが、平安時代はこれが平泉に入る主要なルートだったにちがいない。この道はそのまま南下して陸奥国府の多賀城にいたる。つまり、陸上の道は平泉ではじめて北上川の水上の道と交差するのである。平泉は水陸の交通路が交差し、奥六郡と以南の境界をなす、交通上きわめて重要な場所であった。3 伊勢と陸奥渥美・常滑焼が海路から石巻でヒラタ舟のような吃水の浅い船に積み替えられて、北上川を遡ったであろうことは、石巻市水沼で発見された、渥美焼とそっくりの陶器を焼いた窯跡の発見により明らかである。この窯跡は、渥美から工人を招いたと考えられ、12世紀の渥美焼と瓜二つの袈裟襷文(けさだすきもん)の陶器を焼いていた。この窯で焼いた陶器片が柳之御所跡遺跡から出土しているのである。この窯の製品が北上川水運で平泉に運ばれたことを踏まえれば、海路太平洋岸を運ばれた渥美・常滑焼の陶器が、石巻と北上川を経由したことはほぼ間違いない。北上川は流れがゆるやかとはいえ、浅瀬もあれば狭窄部もある。安全に上り下りするには、水路図が必要で、場合により改修も必要だったろう。そうした水上交通の開発維持のために奥州藤原氏が何らかの寄付をしたことも想像できる。1338年(延元3、暦応1)伊勢国の大湊を発って海路陸奥国に向かった南朝の北畠親房の一行が目指したのも石巻港でなかったかと考える。親房は実際には台風で常陸の国に漂着し、親房が奉じる義良親王は伊勢国に帰ったが、親房は陸奥国白河の結城親朝に対して、宮(親王)と国司(北畠顕信)は宇多か牡鹿に着いているはずだから連絡を取るようにと書き送っている(結城古文書写)。宇多は松川浦、牡鹿は石巻港をさす。こう書いたのは、両港のどちらかが到着予定地だからと解され、伊勢と石巻をつなぐ海路が14世紀に存在したことは確実である。それは12世紀にもさかのぼるものだったに違いない。知多半島の中ほどの常滑焼や、渥美半島先端の渥美焼が、どこから船に積まれてか確実なことはわからない。小野正敏氏は、産地からいったん伊勢国の桑名か大湊に集められて、大船に積み替えて東国をめざしたのではないかとする。それは北畠親房がたどろうとした道の先蹤をなすものである。15世紀初めに武蔵国品川湊に出入りしていた船に、大塩屋、馬漸(まぜ)、和泉、本郷、藤原、通(とおり)など、大湊の付近の地名を船名とするものがある。綿貫友子氏が、そこからこれらの船は伊勢から来航したと推定することも参考にして良いだろう。大湊は伊勢と関東や陸奥国をつなぐ港として早くから開けていたと思われる。4 陶磁器を運んだ人々尾張や三河の窯業地帯から陸奥に陶器を運んだのは、小野正敏氏によれば、伊勢大神宮の神人(じにん)や熊野の御師(おし)であり、中でも前者の役割が大きいという。筆者(おだずま注、大石氏)は、熊野の海上勢力の荷担を重視したい。その根拠は、12世紀における伊勢勢力の東国進出の証拠とされる大神宮領の御厨の設定が、常陸国でとどまり陸奥国に及んでいないこと、奥州藤原氏周辺に熊野勢力の存在が強く観察されること、秀衡の庇護を受けた義経周辺に熊野海上勢力の存在が見え隠れすること、などである。だが、平泉に運ばれたのは、渥美・常滑焼だけではなかったし、平泉から運ばれたものも伊勢国どまりであったはずはない。紀伊半島をまわって京、畿内、さらには瀬戸内海経由で博多、中国、朝鮮半島に向けられた道もあったにちがいない。そして、伊勢大神宮の神人以上に、熊野海上勢力との関係は大きな意味を持ったはずである。5 日本海海運従来は、日本海海運のほうがずっと大きく評価されていた。越後国小泉荘の定使(じょうし)が、清衡の金、馬、檀紙などを押しとったという事件がある(中右記、1120年=保安1=6月17日条、24日条)。小泉荘(新潟県村上市を中心とする地域)には岩船潟があり、中世には船着き場や町が形成されていた。二代基衡の代に、摂関藤原家の奥羽の家領の年貢納入の責任を奥州藤原氏が負っているが、それは清衡の代に始まったと考えられる。この事件は、摂関家領の年貢が港に保管されていたと考えられる。これらが日本海海運で、越前、若狭、さらに琵琶湖の水運で今日に運ばれたことは間違いないだろう。基衡が管理して年貢納入の責任を負っていた荘園は、陸奥国本良(吉)荘、高鞍荘(栗原市金成)、出羽国の屋代荘(高畠町)、大曽禰荘(山形市)、遊佐荘(遊佐町)の5つである。基衡と本家左大臣藤原頼長との間で年貢増徴交渉が行われていたが、これらの荘園の年貢は、布、金、馬、鷲羽、アザラシ皮、漆などであった(台記=頼長の日記)。檀紙もまた陸奥国土産として有名なので、これも年貢となることは充分考えられる。6 大楯遺跡ただし、奥羽の荘園年貢がすべて日本海海運を利用したかはわからない。貢馬の例からすれば、出羽国の荘園だけが日本海を利用したのが実情だったのかもしれない。出羽国の3荘のうち最北の遊佐荘内に、平安時代の大楯遺跡があり、大量のカワラケ、珠洲焼系統の陶器などが出土する。保元の紀年銘の木製品が発見され、曲物の素材の年輪年代鑑定からも12世紀前期または中葉とされている。この遺跡が荘内の有力者の館に関連することは疑いなく、柳之御所跡とカワラケ文化を共有しながら、国産陶器は日本海海運による珠洲系陶器の流通圏内あったのである。陸奥は太平洋海運、出羽は日本海によって西日本と交流したというのが実態だろう。奥州藤原氏はこの両地域を支配しており、平泉は両方の交通路の一つの終着駅であった。数は少ないが平泉から珠洲系陶器も出土する。7 日吉神人日本海海運の担い手は、鎌倉時代後期には時衆(じしゅう)が目立つが、この時代の手掛かりはまったくない。ただ、この時期に、北陸道諸国の海辺には比叡山地主の神で山門と一体の日吉社(ひえしゃ)の神人(じにん)の存在がかなり見られることは注目に値する。網野善彦氏が推定するように、海上交通にかかわりを持つ者がいたに違いないのである。そして当然ながらこの日吉神人の活動は奥州藤原氏の周辺にもみられる。また、中尊寺経蔵別当領の骨寺村には、山王岩屋というものがあったが、これは、この村がその開発と中尊寺領化とともに、日吉神人の手で設定されたからと考えられる。山王権現は日吉神社の別称だ。さらに、奥州藤原氏と北陸の白山の関係も注目に値する。平泉の鎮守に白山社が勧請されているほか、秀衡が加賀国の白山本宮に獅子駒犬の像や五尺の金銅像を寄進した伝えがある(白山之記)。白山社は12世紀には山門の末社となり、白山神人は日吉神人を兼ねることがあったという(網野善彦)。これらから総合すると、日吉社の神人が平泉と西日本を結びつける媒介を果たしたことは充分に考えられる。日本海方面の山門、日吉社の勢力と、太平洋側の熊野海上勢力は、海を通して平泉を西日本に結びつける二大勢力だったのだ。彼らが運んだのは年貢物ばかりではない。陶磁器が商品だったことはもちろんだが、金、馬、鷲羽、アザラシの皮、檀紙、奥布といわれる陸奥国特産の麻布なども、年貢としてだけでなく商品としても流通していた。彼らは、商品を運ぶ商人でもあった。そして、奥州藤原氏の自立的政治権力は、こうした商品流通によって支えられたのであり、陸上と海上の道の存在なくしてはありえなかったと言ってよいだろう。(完)
2026.04.18
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■前回記事 奥州藤原氏と貢馬の道(2026年04月16日) に続く■後続記事 東北と海の大道(2026年04月18日)■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」から。おだずま要約・再構成)1 出羽と陸奥をむすぶ道交易御馬は、陸奥国だけの制度で、奈良時代に同様に馬を貢納した出羽国には存在しない。その理由は、交易御馬の制度が奥六郡の北の糠部郡の馬産から生まれたこと(1)と、津軽や糠部をふくむ北奥羽が全体としてこの時期に陸奥国の側から支配された(2)からと考えられる。第(1)の要因について。渡辺真紀子氏の研究では、岩手山麓から糠部郡に至る地域は、全国的に最大の黒ボク土地帯である。黒ボク土は馬の放牧を主要因に形成されるが、興味深いのは、岩手山麓の植物珪酸体の分析から、約千年前からシバ草型の草地成立の時代に入ったと言われていることである。シバ草の形成は過放牧と密接に関連するという。つまり、10世紀ころから過放牧になるほど馬産がさかんだったのである。陸奥国交易御馬の制度はこれを踏まえて成立したと考えられる。第(2)の要因。9,10世紀の蝦夷の反乱は出羽国方面が多く、馬や鷹の交易にともなう紛争が起因であった。出羽国の北の米代川流域の鹿角・比内郡や津軽方面でも一定の馬産が行われたことを示しているが、同時に、糠部地方がこの時代、鹿角・比内と半ばは一体の地域と把握されていたのではないか。馬淵川流域の糠部が、北上川流域の奥六郡よりは鹿角・比内に近く、日本海方面の文化の影響下にあったことは考古学者がしばしば指摘するが、中世においても、高橋与右衛門の研究では、糠部の建築は中世を通じて平面プラン、柱間寸法ともに、北上川流域よりは米代川流域や津軽地方に類似しているという。道に即していえば、能代から米代川をのぼって比内・鹿角を通り、安比川に沿って北上し糠部にいたるコースが、当時の北奥の主要交通路ということになる。奥六郡から糠部に至るコースも、現在のように直接奥中山を越える(国道4号)のでなく、いったん鹿角方面への道に入ってやはり安比川沿いに一戸に入ったと考えられる。この点は、頼朝に追われた泰衡が夷狄島をさして糠部郡に赴き、また比内郡贄柵にあらわれて河田次郎に殺された事実からもうかがえるが、しかしそれは、9,10世紀において糠部地方を外界と結ぶ主要な道ではなかったことになる。だが、12世紀には、糠部のみならず鹿角・比内、その北の津軽地方までが陸奥国に編入され、それぞれ郡に編成される。北奥がすくなくとも政治的には北上川をさかのぼるルートで支配されたのであり、その原型ができあがるのが10世紀後半で、その結果、交易貢馬は陸奥国だけのものになったと考えるのである。その景気は、鎮守府を中心とする北方の軍事的支配の強化、鎮守府直轄としての奥六郡の一体化、その司の安倍氏の台頭などにあったと考えられる。2 北海道ルートとの関係奥州藤原氏が都に貢納したのは、馬や金だけでなく、鷲羽やアザラシの皮がある。鷲羽は上質のものは北海道産で、アザラシは北海道でも主にオホーツク沿岸の住人との交易ではじめて供給が可能になる。12世紀以前のオホーツク海岸はオホーツク文化人の生活地で、それ以外の北海道は、本州と接触する渡島半島を含め、擦文文化人の居住地だった。アイヌ文化は、擦文文化を母胎にオホーツク文化を吸収して成立したと言われる。アザラシの皮の供給は、その変化すなわちアイヌ文化の形成を促進した役割を果たしたことが推測される。いずれにしても、奥州藤原氏が北海道方面の交易を自己の重要な権力基盤としたことを示しているといえるだろう。この交易は、津軽半島の陸奥湾側の海岸(外が浜)または日本海側(西が浜)で行われた。平泉からそこに至る道は藤原氏時代に開発されたものだが、北上川を北上し、鹿角・比内を経て、上記の北奥横断路と交差するものである。この結果、鹿角・比内郡は、12世紀には陸奥国内の郡として編成された。これは、鹿角・比内を北上する交通路が主として平泉と津軽・北海道を結ぶ役割を帯びるものとして、開発、維持されたことを如実にものがたる事実といえるだろう。そのことを示すのが、津軽地方のこの時代の遺跡から出土する、渥美・常滑焼の陶器とカワラケ(土器)である。渥美焼、常滑焼は、奥州藤原氏の時代の12世紀初めに勃興し、中世においては東国で使用される陶器の最大を占めるのであるが、平泉にもすでに12世紀の段階で大量に搬入された。柳之御所跡遺跡からも出土している。ところが、その渥美・常滑焼の陶器が、それも12世紀のものだけが津軽から出土するのである。津軽地方から出土する中世陶器で、最も多いのは珠洲焼の系統のもので、多くなるのは13世紀以降であるが、渥美・常滑焼は12世紀のものだけで、以後のものは出土しない。つまり、藤原氏時代のものだけが出土し、その滅亡後は出ないのである。これは、渥美・常滑焼が奥州藤原氏を媒介として、その北奥支配の政治的ルートによって津軽に運び込まれたことを示している。鷲羽やアザラシとは逆の道をたどったのだ。一方、カワラケは、京都風の宴席の使い捨ての食器だが、平泉では非常に大量に出土する。柳之御所跡だけで10数トンである。東北地方では前後にもこれだけ大量に出土するところはない。京都の12世紀の仏教文化の最先端をストレートに移入したことは、中尊寺や毛越寺で明らかだが、カワラケ大量出土は、それが生活文化の面にも及んでいたことで明らかになった。京都風の華麗な宴会が頻繁に催されていたのだ。このカワラケが津軽の遺跡からは出土する。そして、これも12世紀のものだけで、以後はまったくない。これもまた奥州藤原氏の政治的支配を媒介に運び込まれたと考えねばならない。出土する遺跡の中には、外が浜の館もある。そこは中世の日本国の東の境界で、北海道から来た人々と本州の人々が接触する場所であった。
2026.04.17
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東北と貢馬の歴史、そして交易の道について。■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」の前半部分から。おだずま要約・再構成)■後続記事 北方へのびる道(2026年04月17日) 東北と海の大道(2026年04月18日)1 貢馬遞送1188年(文治4)、藤原泰衡から京都に送る途中の貢馬(くめ)、貢金、桑糸などが、相模国府に近い大磯駅(おおいそのうまや)に着いた。すでに義経を保護し交戦状態にあった平泉からの貢納物であったため国府役人が源頼朝に報告すると、頼朝は、泰衡は反逆に与するものだが、これらは公物であるから抑留すべきではないと返事した(吾妻鏡)。このことから、奥州藤原氏の貢馬や貢金は東海道を通って京都に運ばれたことと、公物すなわち国家的な貢納物と考えられていたことが明らかだ。これ以前の11世紀の陸奥国からの貢馬は、新任の陸奥守が第一に行わねばならない重要な仕事であった。公物である馬の運送は国家的に行われ、官道の宿駅の間を国内の人民の負担する役によって、遞送(送り継ぎ)された。貢馬遞送の実態は、天喜年間(11世紀中ごろ)の例が、美濃国大井荘(大垣市)と茜部荘(あかなべ、岐阜市)の史料で知られる。2 東海道と東山道貢馬の官道が、陸奥国と美濃国が含まれる東山道であることは当然とも思われるが、冒頭の1188年の貢馬は、少なくとも相模国までは東海道を通っている。じつは、東海道から東山道の美濃国に抜ける道は、すでに奈良時代から使われていた。734年(天平6)尾張国正税(しょうぜい)帳、739年(天平10)駿河国正税帳には、陸奥国から進上する御馬の飼糠米などの費用が記されている。陸奥国からの貢納物が東海道(尾張、駿河)を経由したのは明らかである。おそらく、陸奥国から常陸国に出て東海道を通るコース、あるいは下野国から後の鎌倉街道と同じような道で相模国に抜けるコースが使われただろう。陸奥国に属する出羽国の場合は、進上御馬が北陸道を通っていた(733年(天平5)越前国郡稲帳から)。なお、陸奥国から下野国に出る東山道本道は白河関を越えるが、陸奥国から東海道の常陸国に抜ける道は菊田関(勿来関とも)を越える。後者の地域は陸奥国内でも古くから海道あるいは東海道といわれていた。また、東山道本道から分かれて久慈川の谷に沿って南下して常陸国に入る道もあった。その途中に焼山関があった(茨城県太子町北田気、南田気と推定)。「今昔物語集」巻27第45話には、相撲使(すまいのつかい)が焼山関付近を通る話だが、官使も東海道を通って陸奥国と都を往返したことを示している。3 陸奥国交易御馬と糠部郡奥州藤原氏の貢馬の前提となる陸奥国交易御馬は、陸奥国の正税をもって交易(きょうやく)して入手した馬を毎年11月12月のころに20疋または30疋づつ貢納する制度である。年の前半に、陸奥国御馬交易使なるものが朝廷から派遣され、その交易使が馬を牽いて上京する慣例だった。貢進された交易馬は、紫宸殿または清涼殿の南庭で、天皇の前で陸奥国交易御馬御覧の儀式が行われた。この陸奥国だけの制度は、10世紀中ごろに始まった。対象となる馬は北奥産だったと考えられる。陸奥国には、南部にも安達牧のような馬産地はあるが、陸奥国の産馬の名を高らしめたのは何といっても北奥の糠部郡の牧である。糠部(ぬかのぶ)郡は、現在の一戸から九戸にいたる広大な地域で日本最大の郡である。全郡が馬牧のようなところで、糠部駿馬の名声は全国に聞こえ、武士にとって垂涎の的であった。「源平盛衰記」では、熊谷次郎直実が上品の絹200疋を投じて買った名馬権太栗毛は一戸の牧の産。頼朝秘蔵の名馬で宇治川の先陣争いで有名な「いけづき」「するすみ」「わかしらげ」は、三戸立ち、七戸立ちの馬という。藤原基衡が都の仏師雲慶に送った品物にも糠部駿馬50疋が加えられていた(吾妻鏡)。糠部が郡に編成されるのは12世紀で、それ以前は蝦夷の村として把握されていたが、その時代からすでに蝦夷は名馬の産地で人々は争って蝦夷と馬の交易を行っていた。すでに787年(延暦6)、王臣百姓が綿や冑鉄を売って狄馬、俘奴婢を買い求めることが禁じられ、815年(弘仁6)には、権貴の使、豪富の民が争って蝦夷の馬を求めるため馬の値が騰貴し兵馬が得がたいとして軍用に耐える馬を国境から持ち出すことを禁じている(類聚三代格)。これらの狄、蝦夷の居住地の中に後の糠部郡が含まれていたのは間違いない。4 馬の交易と蝦夷の反乱9世紀から10世紀にかけて北奥羽では、馬の交易をめぐり蝦夷との紛争が絶えなかった。出羽国方面のことだが、元慶の乱(878年)の原因は馬と鷹の交易に伴う紛争であった(出羽国の国守藤原保則の伝、三善清行筆)。また901年(延喜1)に、陸奥守藤原滋実(しげざね)の死の遠因となった蝦夷との交易の問題性や官吏の腐敗を、菅原道真が痛烈に批判している(菅家後集)。道真は、人々は陸奥国に対して金・皮衣・鷹・馬などを求めるが、これらはみな狼のごとき夷民との交易で得るもので、昔から夷民の変が起こるもとになっているという。ところが蝦夷の反乱の記録は10世紀中ごろまでで、以後はぱったり消える。これは、陸奥国交易御馬の制度化の時期と一致するので、両者は関係するのだろう。10世紀後半、陸奥守には、平貞盛、平繁盛、平維叙(これのぶ)など桓武平氏一族(平将門の乱で活躍した家柄)が相次いで任ぜられたが、こうした武者の登用による軍事力強化は、蝦夷の反乱鎮圧がねらいであったに違いない。並行して蝦夷との間の馬の交易の統制が行われ、それを踏まえて陸奥国交易御馬の制度ができたと考えられる。糠部の南は、奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、志和、岩手)だが、これは胆沢城直轄の俘囚(服属した蝦夷)の居住地として編成された特殊な郡である。馬の交易統制はおそらく奥六郡の組織を介して行われた。奥六郡の司で蝦夷社会と深い関係にあった安倍氏が交易統制に一役買っていたことは疑いない。5 藤原氏の貢馬陸奥国交易御馬は1120年(保安1)を最後に史料から消える。奥州藤原氏初代清衡の晩年であるが、奥州藤原氏は私的な貢馬とともに、国土貢(くにのどこう)といわれる公的な貢馬を行っていた。これは交易御馬と同様に毎年20疋だったようで、交易御馬を受け継いだと考えられる。1186年(文治2)、頼朝は秀衡に対して、貢馬貢金は国の土貢であり東海道の惣官として自分が管領する立場にあるので今年から自分が伝進すると要求した。頼朝の管轄下にあるというのは、1183年(寿永2)宣旨による東国行政権に基づくのだろうが、いずれにしても奥州藤原氏は事実上頼朝の統率下に立ち、貢馬は鎌倉に進上され、鎌倉を経由して京都に送られた。冒頭(1 貢馬遞送)に述べた泰衡の貢馬・貢金はその後の義経問題を契機とする鎌倉と平泉の手切れ後のもので、奥州藤原氏滅亡直後の1190年(建久1)春に頼朝は20疋の貢馬を行うが、奥州藤原氏時代の例を受け継いだものであった。もう一つ重要なことは、頼朝による貢馬・貢金の伝進が、奥州藤原氏の鎌倉への従属を意味しているとすれば、逆に、貢馬・貢金は奥州藤原氏の独立の証だったということである。貢馬・貢金を行う政治権力として朝廷から認知されていたのであり、奥州藤原氏のアイデンティティにかかわる特殊な貢納物であった。
2026.04.16
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先日の12日(日)投開票された全国の首長選挙では、パワハラやセクハラに関わった現職の当落が分かれる結果となった。前回の当ブログ記事(下記)で取り上げた4つの市や町について、単純に結果を見れば、パワハラで2勝1敗、セクハラは1敗、というのが現職の当落状況だ。■関連する過去の記事 パワハラとセクハラの首長選挙(2026年04月14日)もちろん、選挙の争点はそれだけではないし、ハラスメントと一口に言っても状況はさまざまだし、当該行為だけでなく日頃の現職の首長の人格や言動、振る舞いが、どう有権者に受け止められているか、が問われるのだろう。あえて図式化すれば、当該現職が有権者の支持を得るかどうかについて、次の要素を提示したい。(a)行き過ぎた行為それじたいの重大性あるいは有権者の忌避感(b)当該行為によって生じる市政町政の混乱や停滞の度合い(c)当該行為についての当人の反省や再発防止策についての評価(d)当該行為を惹起する日頃の当人の人格、言動、振る舞いについての有権者の評価(e)上記以外での当人の首長としての実績に対する評価(更に、当落結果については、選挙なので相手候補の数、候補者の人物像や政策、支援者の状況などが大きく影響するし、投票当日の天候など投票率も影響する。)これらの要素の強弱によって、当人(続投をめざして立候補する現職)への支持が決まるという構図だ。(a)が比較的軽微で、(b)議案総反対や不信任決議もなく、言ってみればちょっと行き過ぎたところもある人物だがむしろその性格が市政や町政の推進に役立っているなどの(d)評価が高ければ、(c)もあることだし、現職の方が良いのじゃないか、と有権者が思うだろう、という説明だ。ここで、(d)と(e)をあえて分けたのは、「他の政策(e)でいいから、パワハラを重視しない」(峻別による正常化)というのと、「パワハラは行き過ぎだが、それも当人の実行力の逸脱であって、もとの実行力は(d)大いに評価している」(逆に関連付けて合理化)、というのを分けるためだ。そして、実は(d)が有権者に重視されているのではないか、と個人的に感じるからで、その感覚を持つ一つの原因は、明石市で市長をやっていた泉房穂さんへの市民の評価(出直し選挙で圧勝)を想起するからである。私は、前回記事に記した山形県西川町、黒部市、佐賀県有田町、同県吉野ヶ里町の状況について、的を射た解説はできないが、一般論として次のようなことが言えるのではないだろうか。パワハラは、対象者が職員、議員、関連の深い企業などだろうから、有権者のほとんどからみれば実害もなく、客観的には役場内の風土の透明性健全性には関心を抱くだろうが、議会で不信任や訴訟にまで発展して市政町政が混乱や停滞する事態(b)にでもならなければ、さほど気にしないのではないだろうか。むしろ、ある程度実績があると(e)、有権者の心理としては、パワハラは良くないけどそういう人だからね(d)とむしろ積極的に「合理化」してしまう(そう考えたくなる)ということかも知れない。ただし、セクハラは事情が異なり、当人の人格の印象を一気に下げるし(そんな人物が首長でいいのか)、好機の目から、自治体のイメージを長期にわたって落とす可能性もある。以上、役立たずの考察でした。投票率への寄与、争点の分析(発言データ)などをすれば、研究テーマとして大いに成り立つかもしれない。
2026.04.16
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昨日の月曜が新聞休刊日なので、今日(4月14日火曜日)の朝刊各紙(紙面)に日曜日の全国の首長選挙の状況が報道されている。気になったのは、パワハラやセクハラにまつわる記事が多いこと。以下、河北新報、毎日、朝日の記事から。●パワハラ認定菅野氏再選/「信任得られた」神妙に/大泉氏現職批判不発(山形県西川町)・現職の菅野大志氏(47)が、新人大泉敏男氏(71、元東北労金山形県本部長)を破り再選。・菅野2147 大泉1052・投票率 83.72%・菅野氏は、複数の町職員へのパワハラが第三者委員会に認定されていた。・4年前も争った大泉氏に1000票以上の差で圧勝・菅野氏は、街頭に立たず、毎晩個人演説会で実績を強調し、若者の定住策など町の未来を語ることに注力して支持を集めた・大泉氏は、パワハラ絶滅宣言の町にする、など現職批判を強めたが浸透せず●黒部市・前副市長上坂展弘氏(64、無新)が、現職武隈義一氏(58、無現)を破る。・投票率60.03%・管理職へのパワハラ疑惑を抱える武隈氏と、昨年まで部下の上坂氏が争う異例の構図・両氏とも自民党籍を持つ保守分裂選挙だった●パワハラ町長3選/佐賀・吉野ヶ里/「対応は卒業」(佐賀県吉野ヶ里町)・男性部下へのパワハラ発言が認定された現職伊東健吾氏(78、無)が、3選。・伊東氏2321票。次点とは435票差。前回から1500票ほど減らし、新人3人の合計得票が5216・投票率59.48%(前回55.33)・当選後、伊東氏は「これで卒業させていただく」と。その後、「行政はそれだけが仕事ではない、仕事の一つとしてやっていく」と発言を訂正。・町の課長だった男性は、新庁舎建設に関し財政負担に難色を示したところ、伊東氏の「俺が(課長職を)代えてやる、建設的な意見を言いなさい」とのパワハラ発言の後に死亡。町の第三者委員会は伊東町長のパワハラを認定した一方、死亡との因果関係は対象外として調査せず。遺族はパワハラが原因と主張している。●セクハラの現職 佐賀・有田は落選(佐賀県有田町長)・3選をめざした現職の松尾佳昭氏(52、無)が落選。・松尾氏3164票、元町財政課長鷲尾佳英氏(60)に1852票差をつけられる。・投票率69.70%(前回67.43)・松尾氏は、町内進出を検討していた名古屋市の企業を訪問した際、企業側が設けた宴席の二次会で泥酔し、飲食店女性にセクハラをし(昨年9月)、一度は辞意を表明(12月)したのち撤回していた■おだずまジャーナル補足。次の記事(下記)に続きます。 パワハラとセクハラの首長選挙(再び)(2026年04月16日)
2026.04.14
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久々の白熱した選挙戦が展開される、と評価していいだろうか。大崎市長選挙(19日投開票)が告示され、4人の新人が立候補した。合併新市の20年の歴史を担って勇退する伊藤市長の後任者が誰になるのか大いに注目される。届け出順に、候補者を紹介する(河北新報記事から情報を引用)・鹿野良太氏 元市議会議員(劇団員、銀行員) 48 2022市議トップ当選、0-2歳児保育料無料化、DX推進、企業誘致などをめざす・高島健一氏 農業(結婚式場勤務) 67 娯楽の充実、鳴子温泉への大手ホテル誘致などをめざす・藤本勘寿氏 元市議会議員(銀行員) 32 2022市議、財政再建、東北第2の経済圏形成、子育てワンストップサービスなどをめざす・中島源陽氏 元県議会議長(農業) 63 大崎未来塾の創設、農業の振興などをめざす2006年3月31日(年度末の最終日)に大崎氏は誕生した。翌4月の選挙で初代市長に伊藤康志市長が当選。人口は2006年13万9157人から2025年は12万1226人と1割強減った。合併後20年で小学校20校、中学校2校が閉校。新たに小学校2校、義務教育学校2校が誕生。15歳以下の子どもの数は合併当時に比べ約3割、6760人減った。合併前の旧6町に対して旧古川市域は人口が微増しており、人口推移には偏りも。また、観光振興や古川駅前の再生も大きな課題だ。(以上、河北新報記事から)これまでの選挙を振りかえる。・2006年当 39,546 伊藤 康志 無新 37,139 本間俊太郎 無新 2,941 渋谷 貞雄 無新・2010年当 34,404 伊藤 康志 無現(2) 25,924 本間俊太郎 無新 14,656 佐藤 仁一 無新・2014年 無投票・2018年当 39,982 伊藤 康志 無現(4) 14,774 加藤 幹夫 無新・2022年 無投票■関連する過去の記事 宮城の首長選挙の投票率を考える(再び)(2012年7月9日) 首長選挙の投票率を考える(2011年2月21日)(県内市長選との比較) 大崎市長選挙は伊藤氏再選(10年4月19日) 大崎市長選挙を考える(10年4月18日) 大崎は伊藤氏、気仙沼は鈴木氏(06年5月1日) 大崎市長選挙を注目する(06年4月30日)
2026.04.13
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桜の名所、涌谷町の城山公園に行ってみた。晴天の日曜日だ。ここから、城山公園(涌谷神社)に石段を上る。往時はこのあたりが船着き場で、涌谷の町は舟運で大いに栄えただろう。江合川のはるか先に望むは舟形連峰か。城山公園の最奥部に、涌谷神社。非常に風の強い日で、桜の枝が揺れている。■関連する過去の記事(涌谷町。ほかにも多数ありそうですが) 箟岳白山小学校(2025年05月30日) 涌谷町の殺人事件(2022年11月20) 涌谷町の地名 産仮小屋(2015年4月25日) 誉れ高き箟岳分校史(2012年5月15日) 定時制箆岳分校の充実ぶり(2012年5月14日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日)=涌谷町と鉄道の歴史 ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月25日) 涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日) 金華山と涌谷を考える(06年12月17日)
2026.04.12
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県道泉塩釜線(旧道)を、今市橋方面から多賀城・塩竈方面に進むと、郵便局あたりに三差路がある。ちょっと先(東)には、利府街道(仙台松島線)が岩切大橋に続いてオーバーパスしていくのが見える。看板がある。こう書いている。追分(おいわけ)の道標ここは二つの路線に分かれる分岐点であり、昔はここを追分といっていた。一つは利府・松島方面への道(奥大道)、一つは岩切の町を経て多賀城・塩竈への道(東街道)である。従是右 しほがまミち 1り25丁左り まつしまミち 3り27丁年号は「安永3年」(1774年)側面に「施主亀屋庄右衛門」「妻」「子より」と刻んである。穀物問屋をしていた亀屋庄右衛門とその家族が、塩竈・松島遊歴の人々のために建てた。台座の上に建てたが現在は地中に埋もれて台座(大きな石)は見えない。刻んである文字はのびのびしており彫りが優れている。県内屈指の道標といわれている。岩切歴史探訪会■関連する過去の記事 奏社宮道道標(市川追分の碑、多賀城市)(2026年03月30日) 塩竈道と七ヶ浜道 ー 仙台藩の流通統制システム(2026年01月06日)■関連する過去の記事(松原街道、岩切など) 案内のネコ(2024年10月14日) 何事もあわてずいそがずまず相談(シリーズ仙台百景 43)(2024年10月14日)=苦竹の梅田川沿い 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日) 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日) 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 岩切城跡を歩く(2024年04月02日)=利府町側からも登ってみた パルテノン神殿?(シリーズ仙台百景 42)(2024年01月06日) 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日)=鶴ヶ谷カトリック墓地 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 清水沼のこと(10年9月8日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2026.04.11
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岩手めんこいテレビの記事だ。(ネットで4月10日朝5:00の配信。宿場町の面影が残る住田町「世田米」の由来 地名に刻まれた歴史と新たなにぎわい)以下に概要を記す。長年岩手県の地名を調べている宍戸敦さんが解説する。昭和30年誕生した住田町は、上有住村、下有住村、世田米町の合併による合成地名。最初は気仙川の旧名鳴瀬川から、鳴瀬町を町名案としたが議会で字が難しいとされ急遽決定した経緯がある。世田米は、内陸と沿岸の中継地点として発展し、街道沿いに町家を並べ後ろに土蔵を立てるようになった。金田一京助は、世田米は、アイヌ語で「セタ・オマ・イ」、犬(セタ)がいるところ、と解釈している。世田米に犬頭山(いぬがしらやま)があるからと述べられているが、犬と世田米の関係はわからない。一方で宍戸さんは、地形由来の説に着目し、「せ・た」で狭い土地の前の意、「せ」は気仙川の川の瀬で、気仙川の瀬の前の土地、と考える。世田米駅という地名は江戸時代の宿駅の名残である。交通の要衝だった世田米の役割を今に伝え、新たなにぎわいを創出するため、古民家を改修した「まちや世田米駅」で2016年オープン。私は住田町が合成地名とは知っていたが、それは宮城県に来て宮城のあちらこちらの地名に触れているうちに気が付いたことだ。岩手の中学生のころは、そんなことには気づかず、むしろ、有住(ありす)という地名に不思議感を覚え、有住中学校は略したらアル中だな、と友達と言い合っていたものだ。■関連する過去の記事 有住と世田米で住田町(2022年12月10日)なお、地名については合併等による命名についての下記の記事のほか、多数の過去記事があります。 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) 合併と広域地名を再び考える(岩沼と名取)(2024年03月22日) 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日)
2026.04.10
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4月9日の毎日新聞の記事(山田英之の署名)。なぜ猫は餌を残すのか。その答えを、岩手大学農学部の宮崎雅雄教授の研究グループが8日に記者会見で発表した。(以下、記事をおだずま要約)犬は一度に多くの餌を食べるが、猫は一日に複数回少量を食べ、空腹でも残す。その理由は不明だった。研究グループの実験によると、餌を与える回数を重ねると一回当たり食べる量は減るが、異なる餌を与えると食べる総量は増え、同一の餌でもにおいだけ別のキャットフードを嗅がせると食欲が戻った。また、休憩中に同じ餌のにおいを嗅がせ続けると、食べる総量は減った。この結果から、猫が餌を食べない理由は、満腹以外に、においが関わっていることが証明された。猫が食べないのは、気まぐれではなく、同じ餌を食べ続けることによる飽き(順応)と、新しい刺激による食欲の回復(脱順応)を繰り返すと説明される。9日の午後には、河北新報の記事(オンライン)にも出た。島形桜の署名。(以下、記事をおだずま要約)岩手大の研究グループがオランダの学術誌電子版に論文を掲載。気まぐれに見えるネコ特有の行動には、単なる満腹感だけでなく匂いが深くかかわっていることが判明した。ネコは一日に何度も少量づつ餌を食べ、空腹でも食べ残すことが多く、その仕組みはこれまで不明だった。研究では、同じ餌を繰り返し与えると徐々に食べる量は減少したが、途中で別の餌を与えると回復した。また、嗅覚の影響を調べるため、二層構造の餌皿(上段の餌だけ食べることができ、下段の餌は匂いを嗅ぐだけ)を用いた実験では、5回与えた後に下段だけ別の餌に替えると食べる量が再び増えた。研究は3年にわたり続けられた。ネコの食事行動は味覚より嗅覚に強く影響されることが分かり、高齢や病気で食欲が低下したネコの栄養管理やペットフード開発への応用が期待される。岩手大の宮崎雅雄教授(分子生態機能学)は、ネコが食事中に立ち去る行動の原因が、匂いへの慣れにあることが初めて科学的に解明された。匂いの調整で食事量をコントロールする研究は、人間や他の動物にも発展の可能性がある、と話した。そして、岩手大学の公式サイトだ。2026.4.8.掲載として、ネコがごはんを残す理由を解明ー同じ餌でも匂いを変えると再び食べるーが出ている。4月7日付のプレスリリースもあり、これは図解もあってわかりやすい。素人考えだが、匂いの多様性が食事量を促進するということは、なるべく多種多様な食物を摂取させることが、種の生存のためになるからなのだろうか。
2026.04.09
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国旗損壊罪の創設が話題になってきた。2025年10月、自民党と日本維新の会の間の連立合意に、2026年通常国会で制定をめざすとされ、特に高市総理の肝いりとされる。外国の国旗を破ると拘禁刑になるのに、日本の国旗をどう扱ってもいいというのはおかしい、と先の総選挙でも訴えていた。現行の刑法には、第2編第4章「国交に関する罪」の中に、外国国章損壊等の罪を定める(92条)。外国に侮辱を与える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊、除去または汚損した者は、2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金に処する(1項)。ただし、外国政府の請求がなければ起訴されない(2項)。この罪が存在するのは、日本の外交関係の保持という国家的法益をまもるためであり、日本の国旗等の損壊はここでの議論ではない。現行の実定法規の体系的解釈を旨とする刑法学の立場からは、「外国国章損壊罪があるのに我が国の国旗損壊が罪に問われないのはおかしい」式の主張は、的外れの議論と映るのが自然だろう。創設推進派が重視したいのは、日本の国旗に対する愛情や尊崇の念を法的に位置づけることだろう。適切な外交関係の保持という92条の保護法益とは全く異なるので、「外国国旗と同じように(それ以上に)日本国旗を守らないのはおかしい」式の議論は、上記の通りピント外れなのだが、主張派は(それを理解していても)一般受けはいい「わかりやすい」図式として、この主張をしていくだろう。そして、罰則を設けるかどうかも論点だが、「外国国旗だけ守るのはおかしい」式の主張からは、同様(以上)の罰則が当然となるのだろう。新聞各紙は、主に表現の自由に対する委縮効果を懸念するようだ。6日の日経社説は、国旗への敬意を強制することが、政治への抗議を国旗を用いて表現する場合を例にして、正当な批判や異論までも封じることになってはならないとする。国旗及び国歌に関する法律(1999年、閣法、小渕内閣)成立の際には、政府は国旗掲揚を強制することはしないと説明しており、法律には、国民の尊重義務などは規定せず、罰則も設けていない。(ところでこの時、与党は自民党、自由党、公明党。最大野党の民主党は採決に際し党議拘束を外し、議員の賛否は分かれた。ちなみに宮城県関係だと、衆院では賛成が安住淳、反対が日野市郎。参院では反対が岡崎トミ子、桜井充、である。)私自身は、立法政策としての選択の幅は広くあるべきと思うが、小渕内閣当時の配慮の経緯も踏まえ、感情論や大衆迎合、あるいは一過的な政治的得点の視点ではなく、我が国の社会のあり方を真剣に議論し合って、将来にわたり国民に納得される整合的な法体系を検討するのが真の立法府の責務だろう、ということを記したい。
2026.04.07
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1票差で当落が決まった3月の那須町長選挙について、5日に実施された全投票用紙の再点検の結果、次点で落選した小山田典之氏の得票が2票減ることになった。得票差は3票に広がり、平山幸宏町長の当選は変わらない。この件で続報があった。朝日新聞による。小山田氏の得票で2票減ったのは、いずれも小山田氏の姓に平山氏の名が書かれていたものが、新たに無効と判断されたからである。小山田氏は県選管に審査を申し立てる構えだが、自身の得票が減ったことは受け入れる一方で、平山氏の得票に疑問票があるとの見解だ。小山田氏側の立会人によると、平山氏の得票(5099票)のなかに、平山氏の名である幸宏(ゆきひろ)ではなく、「平山ひろゆき」などと漢字や平仮名で書かれた票が20票以上あり、すべて有効票とされたことを問題視する。那須町の副町長が平山浩之(ひろゆき)氏であり、小山田氏側は、候補者(平山幸宏)以外の名が書かれた可能性があると異議を唱える。ちょっと、ややこしい。町選管は、本来の「ゆきひろ」を「ひろゆき」と間違えたと考えられるため有効票とした。別人物(副町長)に投票した意図ではない、ということだろう。■関連する過去の記事 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.04.06
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1票差だった那須町長選挙(3月22日投開票)をめぐる投票用紙の再点検が今日(4月5日)午前から、町の体育館で行われたという。考えられる結果とその後の可能性について、朝日新聞の報道が良く整理されているので、以下に掲げてみる(表現等は、おだずま再整理)。パターン(1) 当落結果は不変→ (可能性。以下同じ)次点者が県選管に審査を申し立てパターン(2) 当落が逆転→ 現町長が県選管に審査を申し立て。訴訟に発展も。その間、町長の職にとどまるパターン(3) 得票同数=くじ引きで決定→ いずれも県選管に審査を申し立て更に朝日の記事には次のような解説がある。2017年葛飾区議選、2023年小山市議選では、票の再点検の結果、最下位当選者が1票差の次点者の票を下回ることになり、最高裁まで争ったが、当初最下位当選とされた者の当選の無効(次点の落選者が当選者となること)は覆らなかった。さて、午後の報道だ。再点検の結果は、次点だった小山田氏の票が2票減り、町長の平山氏との差は3票に広がった。当落結果は変わらない(上記のパターン1)が、小山田氏は県選管に審査を申し立てる構えだという。■関連する過去の記事 またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.04.05
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朝日新聞(宮城県版)2026年4月3日「石巻出身の軍人が見た「二・二六」」から。1936年の二・二六事件は近代史に残るクーデター未遂事件だが、石巻市出身の軍人が日記に書き残していた。旧稲井村出身の陸軍歩兵大尉、後藤東一郎(1915-1939)である。旧制石巻中学校を首席で卒業し、事件当時は、陸軍士官学校本科の生徒だった。26日の日記は、「社界に如何なる事変の生ずるにも拘らず余等は益々沈静(略)本分に邁進するのみ」。(おだずま注;カタカナを平仮名にし濁点を付した。以下同じ)翌27日には、「遂に戒厳令布かれ 香椎閣下戒厳令指令を拝命 帝都の治安に任ぜらる」、「デマはデマを生み 何とはなく不安の空色なり」。29日の日記は、「流血を出すに忍びざれど遂に武力を以て之を解決するに決せらると」。4日間のクーデターが終わった。7月には首謀した将校らに判決が下る。同月7日の日記は、「命令に依って動きし千有余名の兵の無罪を喜ぶ」。命令に従った兵士が咎められないことを後藤も喜んだ。事件から3年半、中尉となった後藤はノモンハン事件の戦場にいた。39年8月24日、ホロンバイルで、隊長の後藤は肉弾突撃を敢行。右腕を撃たれたが、自分よりも兵士の手当てを優先するよう衛生兵に告げ、立ち上がった瞬間に一弾が頭部を貫いた。23歳で戦場に倒れた。(死後に大尉に昇進。)後藤家は長男の戦死で家が途絶え、後藤の士官学校の卒業証書、勲章、日記などの遺品は、親戚が2010年、北村の施設平和資料館に寄贈した。館長で元女川高校校長の佐々木慶一郎さんは企画展を開いている。難を逃れた岡田首相の鉄瓶、斎藤実や高橋是清の掛け軸なども展示する。二・二六事件の背景には東北の冷害、米価下落、不況、政治腐敗があった。政治家は軍を恐れ、軍部独裁と大戦の破局につながっていった。過ちは繰り返してはならない、と佐々木さん。企画展は4月15日まで。
2026.04.03
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奏社宮道を歩くシリーズ。貴船神社(前回記事 貴船神社(多賀城市)(2026年04月01日))から更に110m上ると、多賀城神社。多賀城政庁跡の北側(集会所)に入る道の角だ。戦後の建立で、海軍工廠の遺構でもあるという。さすがは古代からの悠久の史都だけに、街道をちょっと歩いただけで、さまざまな時代の文化財に出会える。■関連する過去の記事(多賀城市) 貴船神社(多賀城市)(2026年04月01日) 伏石(多賀城市)(2026年03月31日) 奏社宮道道標(市川追分の碑、多賀城市)(2026年03月30日) 塩竈道と七ヶ浜道 ー 仙台藩の流通統制システム(2026年01月06日) 多賀城古代米の酒 おもわく姫(2024年10月01日) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日)■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 多賀城碑をよみとく(2024年12月21日) 国宝指定された多賀城碑(2024年09月16日) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)
2026.04.02
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塩竈道(奏社宮道)を市川追分から登っていく。伏石(前回記事 伏石(多賀城市)(2026年03月31日))から、さらに180mほど街道を上ると、貴船神社がある。■関連する過去の記事(多賀城市) 伏石(多賀城市)(2026年03月31日) 奏社宮道道標(市川追分の碑、多賀城市)(2026年03月30日) 塩竈道と七ヶ浜道 ー 仙台藩の流通統制システム(2026年01月06日) 多賀城古代米の酒 おもわく姫(2024年10月01日) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日)■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 多賀城碑をよみとく(2024年12月21日) 国宝指定された多賀城碑(2024年09月16日) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)
2026.04.01
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