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人生の苦しみは、「ギフト」として人生哲学を与えてくれる。今後同じような苦しみに見舞われても乗り越えられる運命を開く鍵を与えてくれる。人生は、人生哲学の蓄積の連続で、苦しい経験を沢山した者ほど、深い人生哲学をもっている。素晴らしい人生哲学をもった人には、内なる輝きがあり、よい人とのご縁を結びつける力にもなっている。苦しみから抜け出すことより、よい人生哲学を打ち立てよう。人生哲学の輝きは、あの世までもって帰れる唯一のものである。
2011.08.27
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人生に早すぎるということはありますが、遅すぎるということはありません。人の生命は永遠のもので、後悔しても人生を終わりにすることはできません。人生を無にできないのが人生で、どんなに間違いを犯しても、そこから人生を出発させるしかないのです。他者と自分を比較することは意味がありません。 そもそも人と自分の人生は全く違うものです。大多数の人が一般の人生のルートを歩み、自分はそこから外れている、このような考え方は、実際の社会の実態ではありません。実際の社会の実態は、「みんなバラバラに全く違った人生を生きている」です。みんな他の人と同じだけ人生の過ちと挫折と紆余曲折を経験しています。 みんなが一般の人生のルートを歩み、自分はそこから外れている。このような考えは、日本の画一的教育の経験から生み出された、心の幻想に他なりません。 社会で成功している人とそうでない人の違いは、人生の過ちや挫折を心の成長に活かしているかどうかのみです。過ちや挫折や損失に比例して、頂けるものがある。このように考えられる人が、成功しているように見えるだけなのです。
2011.08.25
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近代スピリチュアリズムの視点に立つとき、人間が学ばなくていいものなどありません。宗教、科学、哲学、心理学、歴史学など、すべてを学んでこそ、人は成長していけるのです。他者もまた神の顕現です。他者の中にある知識もまた、自分が学ぶべきものなのです。
2011.08.25
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「偽りの霊性」とはウィルバーがとなえた概念で、個の確立がなければ、超個はない、合理性がなければ超合理性はない、常識がなければ超常識はない、という考え方です。たとえばあきらかに異常な(精神疾患と思えるような)スピリチュアルな体験を語る方には、個の確立(精神の安定)や合理的精神がありません。合理性や常識をもってこそ、健全なスピリチュアリティを獲得できるのです。内因性や器質性の精神障害があれば、そこに健全な精神は生まれませんし、精神障害や心因性の苦しみがあれば、そこに正常なスピリチュアルな知覚能力も生まれません(異常なスピリチュアル感覚が多いのです)。健全な肉体に健全な精神が宿り、健全な精神の元に、健全なスピリチュアルな感覚が宿るのです。「霊的防衛」とは、バティスタがとなえた概念で、(不健全な精神によって)不健全なスピリチュアルな感覚を獲得した結果、さらに精神が不健全になっていくことを指します。異常なスピリチュアル体験をすることで、自分が偉大な人物であるかのように誤解したり、偉大な使命があるかのように誤解したりして、さらに健全な精神が蝕まれていくことを指します。自我肥大(ego Inflation)が起こった現象です。精神疾患を抱えた一部の者に霊的混乱(スピリチュアル・エマージェンシー)が起こるのですが、これは、すべて幻想としてとらえるのではなく、その人の心の歪みを正すことで、その感覚を正常なものにするか、もしくは消滅させる形にしてもらいたいものです。薬物療法と心理療法の両方を併用すること、そして心理療法の目的を症状の消失やストレスの軽減に置くのではなく、「円満な人格を目指すこと」を目標にしてもらいたいものです。今現在精神科治療で行われていることは、薬物療法に傾きすぎていると私は思っています(大病院では、ほとんどカウンセリング時間さえとらないところがある)。【送料無料】こころがよくわかるスピリチュアル臨床心理学
2011.08.22
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人生の苦しみは、苦しみ自体というより、それによって成長できないところから起こるもの。人間の成長は魂の自然な法則であり、成長が停滞すると、苦しむようになっている。唯一人間が苦しまない状態は、日々障害なく、成長しているその過程。苦しみがない状態をどこかに求めるよりも、日々成長していくことを目標にしよう。
2011.08.21
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スター・デーリーという、かつてアメリカに居た極悪人を知っているであろうか。彼は、9歳の時から盗みを働くようになり、10歳にして少年院に入り、そして少年院から出ても、何度も少年院や刑務所への出入りを繰り返し、最終的に当時の有期刑としては最も重い懲役20年の刑に処せられた人物である。彼はまた、アルコール中毒、アヘン中毒者でもあり、裁判官からは、「この人は犯罪常習者で、気狂いである」と宣言され、また心理学者からは「お前はもう望みのない人間だ」とサジを投げられた人物である。彼は、ある日、刑務所からの脱獄を試み、失敗したことで、宙づりにされ、刑務官から改心を迫られます。しかし、彼はいっこうに改心せず、ついに気絶してしまいます。そして、彼はキリストの幻影を見るのです。それ以来、彼の人生は一変し、彼は刑務所内で、愛の実践を行うようになるのです。彼は言います「誰の魂の中にも、愛が完全な形で既に宿っており、それこそが、どのような問題も、病も癒す力なのだ」と。彼は、刑務所に居ながらにして心は完全に自由となり、彼の20年の刑期は、模範囚として6年に減刑され、刑務所から出た後は、牧師として神の言葉を伝える道を歩むことになるのです。彼は、昭和29年に一度来日もしています。人の心の自由とは、刑務所のようなところに拘束されるとかされないといった次元の自由ではない。刑務所外にいながらも、心が拘束されている人間がいかに多いことだろう。心の自由とは、魂の自由であり、それは愛を取り戻したときに叶う自由なのです。 「人間には愛が絶対に必要である。ただ愛のみが、すべての罪から人間を自由にする ―スター・デーリー」【送料無料】愛は刑よりも強し(10)
2011.08.20
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ひまわりの種を植えた。みんな大きくなるように。でも大きくなるものもいれば、大きくならないものもいる。枯れてしまうものもいれば、もたれてしまうものもいる。うまく育たないものを抜いてしまおうか…。 ひまわりの茎にふれた時、声が聞こえたきがした。「わたしは枯れてなどいないんです」枯れているのは外見だけ、こころはみなと同じようにはすくすく伸びていると、いいたかったのかな。 人もみな、生まれは違うけど、枯れているのは外形だけ、こころはみんななすくすく伸びている。大きくなる人、大きくならない人。枯れてしまう人、もたれてしまう人。こころはみな元気よく伸びている。
2011.08.20
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あなたは、いつ自分の人生を変えるのでしょうか。今日ですか、それとも明日ですか。永遠に変えないつもりですか。人は一生を終わればすべて終わると考えていませんか。人の人生は、一生どころか永遠に続くのです。あなたは、死後楽になることはできず、無になることはできず、何度も生まれ変わってくるのです。人はみな、今生の人生の到らなかったところからスタートです。今日人生を変えても、数千年後に人生を変えても、歩み出す一歩はみな同じなのです。
2011.08.20
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「働く意味」それは人によってまったく違っているが、当然のことながら、経営者のような立場の者こそ、より洗練された働く意味を考えていなければならないと思う。私は、働くということは、心を成長させること、心を輝かせることだと思う。それも会社のためではなく、自分のためにである。我々の生きる意味が、「単なる生存のため」と考える人間観からは、単に経営者は社員に仕事に見合ったお給料を渡せばよいということになるが、「働くことそのものに意味がある」という人間観からは、お給料を渡すことよりも、労働環境をよくすること、社員の可能性が限りなく開花できるようにしてやることに趣がおかれるだろう。果たして、どちらの労働観の方が、より優秀な社員が集まり、辞めることなく、仕事を続けてもらえるのだろうか。 経営者の労働観とは、極めて重要なものであり、そこには宗教や哲学という概念が入らざるを得ない。日本の経営者たちの労働観のレベルは果たして高いのか、低いのか。お金のことばかり考えざるを得なかった日本人の労働観は、世界から見て、決して高いものではないだろう。終身雇用制度レベルの考え方が、高い労働観だとは、どうしても私には思えない。【送料無料】ザッポスの奇跡改訂版【送料無料】破天荒!
2011.08.20
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ユダヤ人は、遊牧民族のヘブライ人であった頃は、他の民族と同じく、多神教の教義をもった方々であった。それが、ユダヤ民族という選民思想が生まれてから、一神教になったようである。ということは、旧約聖書の神は、一つの神ではなく、それぞれが受けた啓示の神に他ならない可能性があるかもしれないという程度のことは、容易に想像がつく。イエスが示した神の概念と、旧約聖書に示される神の概念も、多くの場合、まったく違ったものになっている。なぜ、神をそんなにも一つのものとして統一しなければならないのだろうか。究極の神はただ一つであるが、そこに到るための仮の神が多数あっても良いではないかと私は思う。そもそも近代スピリチュアリズムの研究からは、唯一の神から啓示を受けるなどということはあり得ないとされている。それだけ我々地上に生きる者の、心の波長が低俗のものだからである。我々は人類の救済のためにこの世に生まれてきているのではなく、個々の魂の修業のためにこの世に生まれてきているのである。
2011.08.19
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近代スピリチュアリズムにおいては、この世は魂の学校であり、我々はこの学校で、与えられた問題集をただ必死に解いています。神(ガーディアン・スピリット)が教師です。教師は、分からない問題に対して、やさしく解説してくれます。しかし、問題を解くのはあくまで我々自身です。人生において苦しみ、方向性が分からない、これは教師である神様と意識が交流していないことを示します。神様と意識が交流していないということは何を意味するのでしょうか。それは本人が求めようとする問題の答えと、教師が与えようとする真の問題の答えとの間にズレが生じていることを意味します。だから、必死になって解答を求めても答えが得られないことになります。ガーディアン・スピリットは我々の成長を心から望んでいるのであり、様々な雑念、「自己を否定する声」であるとか「欲望の実現を求める声」を否定し、ガーディアン・スピリットが自分にどんな成長を求めているのかを常に考えて生きることで、我々はこの世の目的に沿った幸せな人生を生きることができるのです。あなたの悩みは、グループ・ソウルであるガーディアン・スピリットの悩みでもあります。生徒の悩みは、教える側の悩みでもあるのです。答えが得られないことは絶対にありません。
2011.08.19
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自分の人生が空しいものと感じていたり、うまくいっていない人ほど、自分はこの世に生まれてきた偉大な使命があると考えることで、現実から逃避しがちです。我々は、使命をもってこの世に生まれてきているのではありません。この世での修行を精一杯こなすために生まれてきているのです。この世での修行を精一杯こなすことで、初めて、自分を救った力で、他の人の力にもなることができるのです。自分の人生を精一杯生きることこそが使命。このように考える時、人生の負を背負って生きている人の人生修行以上の使命はないのです。問題を抱えた人が精一杯その問題に取り組もうとするとき、それ自体が使命となって、人をも救う力となるのです。
2011.08.18
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近代スピリチュアリズムの草分け的存在の一人マイヤースは、魂の類魂説(グループ・ソウル説)を唱えました。類魂説とは、類魂(自身の本来の魂集合体)の中から、一部がこの世に人間として生まれ、また一部が霊界から我々を指導するガーディアン・スピリットとなるという考え方です。この考え方に従えば、私たちは、この世で魂を高めるための道を歩み、そして、ガーディアン・スピリットもまた、地上に生まれた人間をどう指導し、導けばいいのか悩み、考えることによって魂を進化させていることになります。生きている人間と、霊界のガイド、先生と生徒を同時に体験することで、我々の魂は全体として進化していることになるのです。これほど、効率のよい、魂の成長の仕方があるでしょうか。類魂であるガーディアン・スピリットからの助けが得られない。そんなことは絶対にあり得ない話なのです。あなた以上に、ガーディアン・スピリットは悩んでいるかも知れないのです(人生の生きる意味や目的がズレてはいませんか)。【送料無料】永遠の大道新装版
2011.08.18
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アラン・カーディク『霊の書 下』 潮文社 より共感し合う霊は互いに引き付けられるのに、霊が肉体をとると、愛が一方通行となることが多いのはどうしてですか。心底深い愛が片想いであったり、肘鉄を食らったりします。更にまた、命をかけた相思相愛なのに、その愛が冷めたり、憎しみに変わったりもします。「そういう感情の不一致は一つの罰である。しかしそれは一時的なものだ。それに、本当に愛し合っていると思っている人はどれだけいるだろう。と申すのは、二人はお互いを外見だけで判断しており、さて一緒に生活する段になると、お互いの愛が気まぐれにすぎなかったことに、やっと思い当たるのである。感じが良くて、素敵な人と、そう思うだけでは不十分。貴方の心を捕えた外観の裏にある真価が分かるのは、共に住んでからである。その反対に、初めは愛など芽生える筈もないと思えたのに、時を経て、不変の愛に入っていくカップルがどんなに多いことだろう。彼らの間には、互いの長所をしっかり認め合った、そこから生まれた相互畏敬の念が根ざしているのである。霊が愛するのであって、肉体が愛するのではない、この事を心得られよ。また、肉体的な魅力の迷妄が消えた時、霊は結ばれたものの真義に思い及ぶのである」「愛には二種類ある―一つは肉体の愛、他は、魂の愛。この二つはよく間違えられる。魂の愛は、純粋でうまく共感し合って居れば、永続する。ところが、肉体の愛はこわれやすい。永遠の愛と思い込んでいる二人が、夢うつつの時が過ぎれば、憎しみ合ったりすることが多いが、これはそのためである」一緒に暮さねばならない二人に、心が通い合っていないということは、悲哀の種ではありませんか。それも生活全体が傷つけられるわけですから、ひどい悲しみではないでしょうか。「それは確かに辛い。だが、それは常に諸君らの方に原因があって、そういう巡りあわせになっているのだ。第一に、諸君らの物差しが間違っている、好き合ってもいない二人が、一緒になるように神が定めているなど、なぜそう考えたりするのか(自分の自業自得であると言っている)。第二に、その罪は諸君ら自身にある、と言うのは、この結婚で、二人の愛による幸せよりも、プライドだとか野望の満足を目的としたりすることが多いのだから。その歪められた結果が、おのずからそこに現れているのである」
2011.08.17
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アラン・カーディク 『霊の書 上』 潮文社 より(人が生まれ変わる際に)最も苦痛の少ない試練を選ぶのが(選んで生まれるのが) 当たり前と思えますが。「諸君の立場からすればそう思えるだろうが、霊の立場からすれば違う。人が物質から解放されると、そういう考えはなくなって、違ったふうに考える」霊が自分で選ぶ試練の効果を見誤っていたということがありますか。「霊が自分の力に余る試練を選んで、これに負けてしまう場合があるやもしれぬ。また何の利益にもならない試練を選んでしまうことがあるかもしれない。例えば、本人が怠惰で、ろくでもない人生を過ごそうと思うような場合。しかしそういう場合、霊界に戻って来ると、何も得ることがなかったと感じ、失われた時間を埋め合わせようと願う」霊が(生まれ変わる際に)自分が受ける試練を決める時 、何が決め手になりますか。「霊が自分の欠点を償うのに役立つもの、同時により進化させてくれるもの、そういう試練を選ぶ。この目的のために、ある霊は貧苦の苦を自分に課して、それに耐える勇気を養おうとする。またある霊は、財産や権力の試練で抵抗力の訓練をしようと望む。これは、財産や権力をもてばこれを悪用したり、またそれがあるが故にかえって悪感情を持ったりするので、更に危険性の多い道である。またある霊は、悪い環境と闘う運命を選んで、自己の善意を養っていこうと志す 」霊が悪人達の中に生まれることを選ぶなどということが、あり得ましょうか「人はその求めている試練の性質に、かなった環境に入ることが必要なのである。彼が是正したいと思っている欠点と、彼が選んで入った環境との間には、きっと相通じるものがある。たとえば、もし彼が略奪という本能と闘わなければならないとするなら、彼は山賊の群の中に入る必要があるということだ」文明人が、償いのために、野蛮人の中に再生することがあり得ますか。「ある。しかし、それはどんな償いをするかによる。自分の奴隷に残忍だった主人は、次は奴隷となり、他人に与えた苦しみを今度は自分が受けることになろう。権力を奪った者は、前生で彼に頭を押さえられていた人々に従わなくてはならなくなる。自己の力を乱用すれば償いとして、上述のような人生が与えられるだろう(罪悪感から自らそのような人生を選択するようになるという意味)。しかし、一方、善霊も低級な種族の中に生まれる生まれる運命を選ぶこともある。これらの種族の進歩を促進させるために。この場合の再生は、使命による再生である」
2011.08.17
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坂本真綾さんが結婚したようです。ファンとしては、ちょっぴりさびしい気もしますが、幸せになって欲しいです。
2011.08.16
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大学院入試が一ヶ月を切ったので、しばらくはこのブログをあまり書かないかもしれません。前にも書かないかもしれないと言って、大量にブログを書いてきているわけですが。ヒキコミの文章も来月号も休みます。
2011.08.12
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罪を悔い謝罪するというのはどういうことをいうのだろうか。仏教のアングリマーラ経には、興味深いことが書かれている。釈迦が生きていた時代、コーサラ国に、アングリマーラという名の盗賊がいた。彼はむやみに人を殺して、殺した人の指を切り取り指の首輪をつくってぶら下げているという人物であった。彼のために、いくつかの町や村がさびれたほどである。釈迦は彼に対面する。アングリマーラは歩いている釈迦の命を奪おうとするが、不思議な力で釈迦を捕まえることさえできない(恐らく、一切の恐怖心なく無心の状態、死を恐れない者の命をアングリマーラは奪おうとして果たせなかった。死は認めた者の上に降りかかるのであろう)。「アングリマーラよ、私は止まっている。御身が止まれ」 「アングリマーラよ、いかなるときも私は常にすべての生物に対して害心を捨てて、止まっている。しかしながら汝は生物に対して自らを制することがない。それゆえに私は止まっており、汝は止まっていない。」アングリマーラはこの出会いによって出家し釈迦の弟子となる。彼は釈迦の弟子となったことで、民衆から土や石を投げつけられ、棒を投げつけられ、服は破られ、血だらけになる…。釈迦はいう。「婆羅門、御身は忍耐せねばならぬ。幾年、幾百年、幾千年、破滅の世界に生を受けたであろうはずの、その行為の報いを、婆羅門、御身はいま現に受けているのだ」罪を成すということは、己の神我を殺し、人の神我にも手をかけ殺そうとすることである。他者への業の反作用として、傷つられても、己の神我が無垢であることを信じ、人を愛し続けなければ、彼の罪は消えることがない。罪を滅ぼすとは実に、「罪悪感に悶え苦しんだ後は、自分が善良な存在と信じ続けること」なのである。間違っても自分の神我を殺し、人に怒りをぶつけてはならないのである。釈迦はアングリマーラに命じる。難産で苦しんでいる女性の元に行き、「婦人よ、私は生まれてからこのかた、故意に生物の命を奪った記憶がない。このことの真実によって御身に安らかさあらんことを、胎児に安らかさあらんことを」と祈りを捧げよと。アングリマーラは確かに多くの人の命を奪った。しかし、彼の内なる善性は、失われても失われたことは一度たりとてなかった。彼の神我は一度も生命を奪ったことなどなかったのである。この深い真理が分かるであろうか。我々は己の内なる神を殺しても殺すことはできない。一時内なる神が殺されたかのように隠れたとしても、内なる神我は決して我々から失われることがないのである。罪を謝罪するとは実に、自分を罪人としてではなく、どんなに人に傷つけられたとしても、神の子として認識し続けることなのである。自分を傷つけたり、卑しい存在と思うこと。これこそ人を害さずとも罪そのものなのである。アングリマーラの悟りが、一人でも多くの人の心に届きますように…。
2011.08.12
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どんな暗い霧のなかにも虹の道に通じる回り道がある。―ネイティブアメリカン ナホバ族神のなさることは、すべて時にかなって美しい。―伝道者の書3:11 人間はみな回り道するようにできている。そうしなければ目的地にたどり着くことはできない。回り道をしても目的地に到着するとき、初めて神の創られた法則の完全さに気づくのである。
2011.08.12
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ゾロアスター教の教義においては、宇宙の歴史は、光の神・善神アフラ=マズダーと暗黒の神・悪神アングラ=マイニュとの戦いの歴史であるという。アフラ=マズダーは戦いの途上でアングラ=マイニュに勝ち、世界を創造する。また、最終的に勝利を収め、世界を統一するのである。人間の心にも、善神と悪神が同じように住まうのだろう。悪神は、己の心から善神を殺し、自身の周りの環境も、悪に満ちたものとして統一する。自身の内も外も悪神に満ちたものとする。しかし、最後には善神アフラ=マズダーは勝利するのである。自身の内にある悪神を退治し、それに伴い、周りの悪神もかき消える。これによって善神は世界を統一するのである。
2011.08.12
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わたしのこころはすくすくのびるたけのこのようにすくすくのびるたけのこの成長のためには、太陽と水と空気が必要だ太陽と水と空気は生まれたときからあったなんという偶然!わたしに必要なものは始めから与えられていたのだこれを必然といわずしてなんというのだろうかたけのこのようにわたしのこころはぐんぐんのびるわたしのこころはぐんぐんのびる
2011.08.11
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コリン・フライ著 『あの世の「天使」に助けられて生きよう!』 徳間書店 より「正直なところ、私が死者の魂と交信する際、彼らのメッセージに悲しみを感じ取ったことは一度もありません。この世に愛する人たちを遺してきた深い悲しみを、死者は訴えたりしないのです。(中略)彼らが唯一悲しく思うのは、愛する人たちが彼らの死を受け入れられないときや、悲嘆に暮れて立ち直れない場合です。(中略)とにかく彼らは、私たちが抱くような喪失感を感じてはいません。だからこそ、遺された私たちが、自分の人生の中で大切な人を「生かし続けること」が非常に重要なのです」多くの場合は、供養されなくてはならないのは、我々自身の方である。我々が亡くなった方が健常であることを知り、彼らのためにもこの生を頑張って生きようと決意するとき、初めて彼らは天国に旅立てるのである(天国から安心して見守れるようになる。死後の状況に関しては、映画『奇蹟の輝き』も参考のこと)。亡くなったことが分からなかったり、心残りがある方に対してのみ、除霊や浄霊といった排除しようとする考え方ではなく、愛のこもった「供養」という考え方が必要になってくるのである。生きている人間側から亡くなった方を考えるのではなく、亡くなった人間の側から我々を見つめる視点を養う、これが大切なように思う。【送料無料】あの世の「天使」に助けられて生きよう!
2011.08.11
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人の「思想」、「哲学」といったものは、目には見えないけれど、その人の人生を形成している「要」である。人は単なる脳の中に考え方をため込んでいる存在なのではなく、心の波長というものを思念として周りに放っている。この心の波長は、対人関係を結びつけたり、離したりする力であり、自身がどの集団に属するかも単に能力だけではなく、心の波長でも決まってくるのである。似た者同士は引き合い、集団を保とうとする。このように考えると、人の考え方、思想といったものは、仕事の能力のための付属物ではなく、人生を左右する大きなものである。人の人生観が変わらなければ、自分が所属すべき集団も変わらない。自分の中により高度な「思想」や「哲学」をもつことは、人生においてヒジョーに大切な事なのである。
2011.08.10
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「淘宮」という日本に生まれた一つの人生哲学がある。横山丸三(1780-1854)という幕府の御家人であった方が開いた、人が幸運になるための哲学で、自分の悪い癖を直していくことで、人生が好転していくというものである。「開運淘宮術」として知られる(現在、池田光著『成功哲学ノート』が彼のことを知る上で誰でも入手できる文献としては唯一のものである。日本淘道会に入らなければ、さらなる探求は難しい)。調べてみると、日本にも素晴らしい思想家が沢山居る。ほとんど知られていない=大したことがないという図式は成り立たない。
2011.08.09
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悪しきカルマとは、人を不幸にするものではない。悪いことをしたから悪いことが返ってくるという苦しや罰がカルマであるとすれば大きな間違いである。カルマとは、魂の癖のことである。自分がどうしても改善したいけど改善できない性格の部分として自分に知覚されるものがカルマであり、そのカルマがあるからこそ、自分を不幸に追いやった結果、他者を不幸にしてしまい、さらに自分が不幸になるという現象が起こってしまうというものである。これは魂の癖なので、生まれてからこのかたまでの人生で形成されるというよりも、過去世によって形成されることが多いのである。親鸞は、歎異抄の中で、善良な人に「人を殺せ」と命令しても人を殺せないが、悪人は「人を殺すまい」と思っても人を殺してしまうとして、カルマを正確に描写している。そして、こうした業深き(自分を含む)人間は、ただ阿弥陀仏におすがりするしかないというのである。カルマとは自分の魂の欠点を知らせてくれるサインであり、それを改善することで人がより幸福になっていける、幸せへのサインである。
2011.08.09
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よく日本の戦争をモチーフにしたテレビドラマでは、全体主義の中で、戦争に行かなければならない兵士の悲劇、戦場で死ななければならない兵士の悲劇が描かれています。平和へのメッセージとしてとても大切なものだと思います。しかし、第一次世界大戦、第二次世界大戦において、反戦活動家としての道を歩んだ方が日本には沢山居たのです。それは、共産主義者、芸術家(作家、従軍画家、詩人、音楽家、映画監督、劇団俳優など多数)、学校の教師などでした。しかし、彼らの活動は厳しく警察に監視され、教師は職を奪われ、出版物は没収、発禁、また彼らは逮捕されたりもしました。逮捕された作家小林多喜二は、警察から暴行を受けて獄死しています。警察による反戦運動への封じ込めがあったため、彼らの活動は目立たなかっただけであり(一部の人は逮捕を恐れて潜伏活動をしていた)、本当は戦争に反対していた人も日本には多数居たのです。当時の日本では完全に全体主義だったわけではなく、本当は別の道を選択することはできたわけです。それは別の意味で実に険しい道だったわけなのですが。この辺のことは『母と子でみる8 反戦平和に生きた人びと』に詳しく載っています。さて、戦時下において、日本の宗教家たちはどのような選択肢をとったのでしょうか。昔読んだ本に書かれてあったのですが、ほとんどの宗教家は、戦争を肯定する立場でした(大本教は反対の立場をとり、内村鑑三も反戦の立場をとりましたが)。実はこの現象は、ヒトラーの支配下にあったドイツも同じでした。ボンヘッファーやボーデルシュヴィング(『福祉の町ベーテル―ヒトラーから障害者を守った牧師父子の物語』を参照のこと)のような偉大な聖職者を除いて、ほとんどの宗教家はヒトラーを否定するようなことはしませんでした。もっとも戦争を反対すべき宗教家が戦争を否定しない。これはどうしてなのでしょうか。付け加えておくならば、ドイツでも従軍慰安婦に匹敵する悲惨な出来事はありました。強制収容所に入れられたユダヤ人を始めとした囚人たち(900万から1100万人)の一部は、強制労働に従事させられました。その中で、ヒトラーの同性愛を禁ずる思想や、収容者たちの士気を高めるという考え方の基に、強制収容所内で女性を男性にあてがう、つまり売春婦として女性を働かせるということが行われていました。日本の(強制的に連行され、強制的に働かされた人という意味での一部の)従軍慰安婦と違うところは、彼女らが厳しい労働環境から逃れるために(強制労働で亡くなる人も多数いた)、自らその道を選択したことです。しかし、その選択肢は自分の命がかかった、狭い選択肢の中での選択でしかなかったのです(『ナチズムと強制売春』より)。
2011.08.06
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日本を守るために戦った兵士達、彼らは英霊なのでしょうか。 私は違うと思います。自己犠牲を通して、平和への大切さ、平和への学びを後世に残した、愛のスピリットだと思います。 英霊よりも何倍も偉大な人達だったと思っています。
2011.08.06
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戦争の時代に魂が生まれてくる意味はなんでしょう。それは「平和」を学ぶためなのです。そして、それを維持するためには、「民主主義」や「国連のような機関」が必要なことを学ぶためなのです。戦争をするために人がこの世に生まれてくることはないのです。
2011.08.06
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位の高かった軍人さんの中には、「軍人になったこともないのにどうして戦争のことが分かる」、「当時はそれしか選択肢がなかったのだ」と、戦争の時代を知らない若者の平和論者を批判する人も居ると思います。確かに若者は戦争を知らないでしょう。でも間違ってはならないのは、戦争を知らないというのは、生まれてからこのかたまでそういう経験がないという話であり、魂の中に一切の戦争の経験がないということではないのです。世の中には、戦争体験者じゃないのに世界平和のため、戦争をなくすための活動を非常な努力でしている若者が居ます。そういう人達は、単に祖父、祖母が戦争を体験し、その話を聞いたから活動しているという次元ではないと思います。こころに、魂に、戦争の痛みが誰よりも響くのです。こころが痛いほど苦しくなってくるのです。こういう方は概ね、過去世においてあまりにも苦しい戦争体験をし、世の中から戦争の惨禍をなくしたいと思っているのです。戦争をなくさなければ己のこころが休まることがないのです。戦争体験がない者が、戦争論を論ずるなというのは間違っています。彼らのこころの苦しみは本物であり、誰よりも戦争のことを分かっていると思うのです。
2011.08.06
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近代スピリチュアリズムにおいては、スピリットは愛そのものでもある唯一の神にいずれ帰る存在です。この世に生まれ学ぶのは、常に相手の立場でものを考えられるようになるためです。すべての存在の立場で物事を考えられるように魂はレッスンしているのです。相手の国の立場で物事を考えてみる。喧嘩した友人や恋人の立場から物事を考えてみる。夫の立場から物事を考えてみる、妻の立場から物事を考えてみる、子どもの立場から物事を考えてみる。障害者の立場から物事を考えてみる。動物の立場から物事を考えてみる。植物の立場から物事を考えてみる。あらゆる魂の視点が身についてこそ、我々は進化していると言えるのです。他国の側からの視点で自国を見れる。これも魂が進化している証拠です。ナショナリズムも結局は唯物論の視点に他ならないのです。
2011.08.06
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今日は、広島におぞましい原爆が落とされた日である。戦争の惨禍を経験するからこそそこに平和の精神が生まれる。広島からのメッセージは、世界の最も貴重なものの一つである。さて、私は昔から広島や長崎の惨禍よりも、日本人がアジア諸国に対して何をなしたかの方が気になって仕方がなかった。沢山の「日本軍が何をしたか」に関する本をよんだ。特に日本軍が中国に対して行った行為には目を見張るものがある。日本人は中国人を「チャンコロ(小さくてとるにたらないもの)」と罵り、アジアのそれぞれの国に散らばっている中国人を見つけ出してとらえたり(恐らく処刑等をしている。このことはアジア諸国の歴史教科書に載っていることである)、人体実験も行っている。また、従軍慰安婦(性奴隷)とされてしまった人も中国人に多数いるが、実はこうした被害に遭われた方々はアジア諸国全体に広がっている。我々が神風特攻隊が飛び立った基地として、慰霊碑を沢山立て、彼らの供養に訪れる「レイテ島」もまた、従軍慰安婦の被害を多分に受けている土地である。私がこうした、日本が与えた戦争の惨禍について調べるのも、恐らくアジア諸国、特に中国人としてこの世に生を受けたことが何度もあったからであると思う。魂に郷愁を感じる時、それはその人の経験によるものなのかも知れない。魂の観点から見る時、国同士の争いは、これほどバカらしくて愚かなことはない。魂は何度も様々な地域に再生する。国籍や性別などこの世だけの仮のものである。スピリットの視点からは、「命の大切さ」よりも、「愚かしさと無知」を感じるのである。神国日本の軍部指導部は残念ながら、魂のタの文字も知らなかったのであろう。死ぬことができない魂同士での争いほど愚かしいことはない。もうひとつのレイテ戦
2011.08.06
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すべての人に生きる意味はあると思う。そこに苦しみがある限り、それを通して学ばなければならない「何か」があるということだ。自分という苦しみの器を満たすための学びとしての何か。それを満たした時、それは他者への教訓や愛として滲み出るものだと思う。どれほど苦しくても人に生きる意味はある。
2011.08.05
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人生に問題や不幸は生じない方が良い。誰でもそう思うでしょう。しかし、我々が生まれてきたことの意義を考えれば、問題が起こってこそ人生に意味があると考えることができます。問題が起こらない平穏無事な人生、これでは生まれてきたことの意味がなくなってしまうのです。スタン・バラード&ロジャー・グリーン著 『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A』 ハート出版 より「Q6 そもそも、地上生活の目的とは何でしょうか?」「(中略)地球はトレーニングセンターです。肉体に宿った霊が、次の次元の生活への装備を提供してくれる教訓を学ぶための学校のようなものです。そういう理由から私は改めて申しあげます。あなた方が嫌な体験と思っているものが、最高の薬になっていることがあるのです。本当の自分を見出すのは日向の生活のなかではなく、嵐のような生活のなかなのです。」「(中略)人間は厳しく磨かれ、清められ、純化されなくてはなりません。絶頂もどん底も経験しなければなりません。地上生活だからこそ体験できるものを、体験しなくてはいけません。そうした体験によって霊性が強化され、補強され、死の向こうに待ち受ける生活への準備が整うのです。」「地上生活の目的は、霊性を活気づけることです。そのために、地上界の出来事は二面性と二極性を鮮烈に体験するようになっており、そこに地上生活の地上生活たるゆえんがあるのです。たとえば、善と善でないものとが同居しています。これは、私たちの世界にはないことです。高次元の世界には、対照的なものが存在しないのです。」「地上生活の目的は、魂がその霊的資質を発揮できるように、さまざまな体験をするチャンスを与えて、霊性を一段と強化することです。そのために悪もあれば罪もあり、暴力も存在するのです。」崇高な存在との対話 シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A
2011.08.03
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英国の近代スピリチュアリズムは、浅野和三郎氏によって日本に本格的に紹介され、また、近藤千雄氏によって近代スピリチュアリズムの著作は多数日本語に翻訳され、日本人が誰でも読めるようになりました。しかし、日本での近代スピリチュアリズムの位置づけは、単なる心霊実験や、心霊研究の次元に留まり、人間がスピリットであると仮定することでもたらされる人生観の根本的変化にまで注目が集まることは今日までなかったように思います。近代スピリチュアリズムを研究した丹波哲郎氏が、『大霊界』という映画を3本作ったり、霊界関係の著作を沢山書いたけれども、それは、「死後の世界の内容」と受け止められ、今ある現実とのリンクが少し乏しい形にしか世間に理解されていなかったと思います(もちろん丹波氏自身は実生活に結び付けて本も書いていたのですが、読者の理解が不十分であったと思います)。一方、一般大衆の注目を集め、人々を惹きつけたのは、宣保愛子氏でした。仏教的世界観を通して霊的世界を知覚し、人の生命が死後も生き続けることを強く印象付けました。ちょうど丹波氏や宣保氏が活躍している時代は、新興宗教の全盛期でもあり、宗教を信じることで人は幸せになれるという現世利益的な方向に人々の意識が向かっていく時代でもありました。また、オウム真理教を始めとしたカルト宗教が信者や世間を混乱に陥れた時代でもありました。現世利益的、現世回避的のどちらであっても、宗教の興隆が逆に人々のスピリチュアリティを傷つけ、人を地獄に突き落とした時代でもあったと言えましょう。正しい宗教とは何か、神とは何か、人がこの世に生きる意味とは何か。健全なスピリチュアリティとは何か。この答えが見いだせない混迷の中で、再び近代スピリチュアリズムを基軸にして、魂の世界を単に教えるのではなく、魂の世界を知ることによって生じる人の生きる意味を語りだしたのが、江原啓之さんだと思います。江原さんは、近代スピリチュアリズムの心霊研究の側面ではなく、人生哲学の側面を強調することに成功したのです(江原さんの思想の真骨頂はDVD『スピリチュアルバイブル』全4巻の中にあります。これを見ずして、「江原さんを語らず」です。その一部はyoutubeにアップされています)。さらに付け加えておくとするならば、経営学部の教授でありながら「生きがい論」を展開し続けた、飯田史彦氏の存在も近代スピリチュアリズムと同じ基本理念を広めた方として特筆しておくべきでしょう。近代スピリチュアリズムの日本人の受容には、実に100年~150年ぐらいの月日がかかったと言えるでしょう。心霊の世界が彼方にある世界ではなく、身近で合理的な世界として受け止められるには、かなりの歳月がかかったということです。
2011.08.02
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契約書に基づき、解約を申し出てから2ヶ月も賃貸マンションを解約できなかったので、今日ようやく解約してきました。クリーニング代と、シャワーカーテン代分だけしか敷金取られなくてよかった。しかし、2ヶ月も解約できないなんて知らなかったなー。契約書はよく読んどかないと、ダメですな。今回は、緊急避難的引っ越しだったから仕方がなかったけど。
2011.08.02
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宗教の側からみた現代哲学の問題点は、自身と同じように相手が世界を認識しているとは限らない、相手に意識があるかどうかも分からない、経験は極めて個人的なことであるとしながらも、一方では魂、霊などの存在を知覚する者に対して、自身の経験を基盤とした、一般的事実のようなものを持ち出して、彼らはそうした概念を生み出しているに過ぎないとか、精神疾患の現れであるといった結論に到達してしまいがちなところです。宗教的立場として言わせてもらうならば、「私」が「脳」であるとした場合、そこには、「私」と「脳」の二つのものが存在することになります。そこに展開される世界は、「私が脳であり、脳が私である」という、いつまで経っても一つになれない、「私ではない、私というようなもの」が存在する世界になります。常に私は、「脳」になったり、「私」になったり変化している訳です。しかし、宗教的立場では、概ね「私」こそが本当の私であり、「脳」は本当の私ではないという視点に立っています。つまり、第六感的知覚というものを我々の感覚の一つとしてとらえ、その感覚に従って「魂としての私」を如実なものとして実感しているがために、「脳」でない「私」が私であるとしているのです。この第六感的知覚は、必ずしも、瞑想や祈りをしている時のみに働くものではありません。たとえば、我々が何かに涙を流すほどにとても感動した場合、心が熱くなり、全身にエネルギーが満ちた感覚を味わい、「肉体ではないエネルギーのようなもの」を感じることがありますが、これが魂と言われているものそのものなのです。頭で知ろうとしても魂は分からず、心を澄まして感じなければ魂というものは掴むことができないのです。霊的な世界が、精神疾患のような病的な世界や、単なる哲学的概念に過ぎないかのように誤解されているのは、おかしな宗教家、霊能者が多いことと、精神疾患と、健全なトランスパーソナル体験をどう見分けるかといった心理学の研究分野が未だ未熟だということ。そして、人の第六感的感覚が極度に衰えてきていることに起因すると思います。恐らくこの問題は、学問の世界において、極めて解明が難しい研究課題として、今後もずっと残っていくことになるでしょう。追記「脳がないのになぜ物事を考えることができるのか」といった次元の話はあまりにもお粗末です。例えば、脳死状態の人が何も考えていないとどうして分かるでしょうか。自分が脳死状態になったとしたら「自分は何も考えなくなる」、それがどうして分かるでしょうか。単に何となくイメージをしているだけではないでしょうか。これこそ哲学的訓練が必要です。脳は、魂と肉体を特殊な形で結ぶ器官であり、魂に様々な感情と制限を与え、魂を理知的にしている器官です。脳があるから人間は理知的に物事を考えられるようになる。しかし、思考力そのものは、魂に始めから備わっているものなのです。【送料無料】こころがよくわかるスピリチュアル臨床心理学
2011.08.01
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スタン・バラード&ロジャー・グリーン著『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A』より「Q3脳の障害のために地上生活の体験から何も学ぶことができなかった場合、霊界ではどういう境涯におかれるのでしょうか?」「表現器官が正常でないために、地上で体験すべきものが体験できなかったわけですから、それだけ損失を強いられたことになります。貴重な物質的生活の価値を身につけることができなかったわけです。しかし、そうしたなかにも「埋め合わせの原理」が働いています。」そこから生まれる思いやりや寛容、やさしさ、魂に付け足されることはあっても失われるものは何もないのである。目には見えない魂の輝き。社会の上層部と下層部、果たして我々はどちらに魂の輝きを見るのだろうか。 崇高な存在との対話 シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A
2011.08.01
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