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この世を単に、「神が与えしもの」ととらえる考え方の中から、救世主の思想や、人類救済の思想が生まれます。この世は、神が与えたものかも知れないが、「学びの場である」と考える立場からは、救世の思想の思想は生まれず、誰もが一修行者になります。この世のすべてのものは、学びのために与えられています。お金、仕事、地位、名誉、家庭環境、虐待、男女関係、性別や、宗教(一神教と多神教)、神からのメッセージ、霊能力、悪霊の概念など、すべてのものが、学びのための材料として与えられており、それらをどのようにとらえ、処理をするか、それらのものからどれだけの学びを得るかが、我々の世に生きる目的であり、たとえば、神からのメッセージを受けたと称して、宗教を創ってしまう人のほとんどは、(永遠の魂の進歩から言えば、失敗はあり得ませんが)魂の修業に失敗していると言えます。つまり、それをどう処理し、そこから学ぶべきなのかが大切なのであり、単に神からのメッセージを神からの賜物として有難がっているレベルでは、魂がそこから十分に学んでいるとは言えないのです。人間の魂には、あらゆる修業のバリエーションがありますから、人生の計画の中に、神からのメッセージを受けとるという計画を仕込んで生まれてきている人も居ます。それは、その人個人の魂の学びのために与えられているもので、そうしたことが起こる自分を偉大な(選ばれた)存在としたり、神からのメッセージは、人類にとって貴重だなどと誤解したりしているうちは、魂はまだ、そこから何も学んでいないことになります。この世に存在するあらゆる現象が、魂の学びのために配置されています。宗教的現象さえ、学びのために与えられているものなのです。学びの視点を越えたところに、神は居られず、学びの視点の中に、神は居られるのです。
2011.10.31
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我々はなせこんなにも苦しまなければならないのでしょうか。神は居ないのでしょうか。いいえ、神は確かに存在します。しかもその愛は常に途絶えたことがないのです。誰しも、霊的ガイドというものをもっています。それは、あなたの幸せを、あなたの成長だけをただ願っている存在なのです。あなたを愛すればこそ、あなたを大きく手放すのです。ここまで成長してみなさい、あなたがもっと限りない可能性を秘めていることを知りなさいと。苦悩と絶望は神からの愛でもあるのです。あなたは、神に手放されているのです。あなたへの愛の大きさが分かりますか。大きい愛であればあるほど手放しも大きいのです。あなたの絶望が、「愛への気づき」と変わりますことを心から祈っています。
2011.10.26
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宗教は、底辺では争いに満ちているが、その宗教の道を究めたマスター達の次元では、対立は起こり得ない。ユダヤ教ではカバラ、キリスト教神秘主義、イスラム教のスーフィズムなど、これらの世界で最高位の悟りを開いたマスター達なら、聖典は、単なる信仰の対象となる文字ではなく、深い悟りを現わしたものであり、その悟りは、他の聖典にも同様に見られることを発見しているであろう。文字を文字としてしかとらえることができない人々、また、聖典の外に真理を見出し得ない人々、残念ながらこうした方々が、神の名の元に戦争を起こしてきたのである。文字の信仰を有難がっているレベルでは、あまりに悟りが低すぎる。我々は聖典の文字ではなく、そこに込められた真理に気づくべきなのである。
2011.10.25
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人の運命は神様によって閉ざされてしまうことがあります(それを神様によるものとは思えないという人もありますが)。しかし、それは同時に神様から、別の開かれた新しい扉を与えられたことを意味します。ヴィッキー・ウォールは、生薬を用いたクリニックを開設していましたが、晩年に失明してしまいます。しかし、それは同時に、ヴィキー・ウォールに霊的な目を開かせ、オーラ・ソーマを開発させることになります。ヴィッキーの失明がなかったらオーラ・ソーマも生まれなかったことになります。ヴィッキー・ウォールは片目ずつ失明していったのですが、『オーラソーマ』の中でその体験を振り返って、「神はさらなる準備のために、私の後ろで扉をぴしゃりと閉じたのです」と語っています。あなたの人生の道に間違いがあれば(もっと良い方向性があれば)、神様はきちんと扉を閉めてくださいます。人生に恐れは不要なのです。
2011.10.24
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オウム真理教の麻原彰晃は、自身を唯一の最終解脱者としました。解脱とは何でしょうか。もし世の中に解脱者という存在が居るのだとしたら、それは自分のこの世での生きる意味を学び終え、「もういつ死んでもかまわない」と自暴自棄精神でなく、心から思える人を言うのです。こういう気持ちは、死期の宣告を受けて、精一杯人生を大切に生きた人や、老年期の方の一部の人において存在します。必ずしも宗教的修業をした人にのみみられるものではありません。頭で考えた「輪廻の輪から逃れた人間」という観念と、実際の感覚として、「何も思い残すことはない」と感じていることとは違うのです。どちらの方が真実でしょうか。また、本当に輪廻の輪から逃れたかどうかは、あの世に帰ってみて、あの世の霊人の感覚として感じ、考えてみて自分で判断するものなのです。この世に生まれてきて人生を「苦」と感じたとしても、その生まれは自分が意思をもって選択したものだし、再び生まれ変わるかどうかも自らが意思をもって選択するものなのです。麻原の間違いは、自分が「輪廻させられている」、「苦しいこの世に生まれ変わらされている」と誤解したことにあるのではないでしょうか。「生まれ変わらされている」と考えている人間の人生観の根底には、「責任感」というものがありません。そこからは、「善悪観」は生まれません。人生が被害的なものになってしまいます。
2011.10.24
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すべての人が自分なりの世界を自分で創り上げています。その自分なりの世界で、自分で成功と失敗を定義づけて生きています。そして、自分を成功者と失敗者に色分けしているのです。自分にとっての、成功と失敗は何でしょうか、そして自分は成功者と失敗者どちらに位置づけられるものですか?そしてそれは、自分自身によってただ定義づけられた基準に他ならないのではないのですか?そしてその自分自身によって定義づけられた基準は、他者から与えられた基準を自分の基準として採用しているだけではないのですか?今もこれからも人は「自分で生み出した世界」に生きています。目立つ人=成功者ではないのです。目立たないところで幸せに生きている人々が世の中には沢山居るのです。動かなければそうした人々に出会うことはできません。メディアは世界のごく一部の人を映し出しているに過ぎないのです。
2011.10.24
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自分の心の苦しみは、この宇宙の全体の中で、意味あるものとして起こっている。決して全体から切り離された個人だけの苦しみではない。自分と他人の関係性が宇宙を形作っている。自分の悩みも喜びも、世界に影響を与えている。自分の苦しみも、宇宙全体にとってより良きものとして起こっている。
2011.10.23
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実は私は高校生の頃、少しだけオーラを見ることがあった。だからオーラという存在は、体験者として存在していると言い切ることができる。また、高校生の頃は三日以内にすべての悩み事が解決するという不思議な現象を抱えていた。蜂の巣の構造を詳しく知りたいという悩みでさえ、三日以内に解決するのだった。一時期心の中に一切の悩みがなくなった。小学生の頃、夕日を眺めていた時、突然音楽のインスピレーションがひらめき、天国が素晴らしい世界であること、また、音楽のインスピレーションは、一瞬の(たとえば一秒の)時間の内に、曲の始めから最後までを把握できるという、まるでカプセルに詰まった楽譜が下りてきて、一瞬で曲の始めから最後までを把握できるというようなものであり、それが存在している天国という世界は、三次元的な時間も空間もない世界であることを知ることになった。成人になってからの特異的な神秘体験としては、私がキリスト教の教会の受付に行った時に本が本棚から飛び出してくるというポルターガイスト現象に遭遇した。受付の人が本を戻したにも関わらず、再び本が飛び出して来たので、単なる物理現象であると結論する事の方が信仰であり、ポルターガイスト現象を素直に認めた方が科学的な感じになるという不思議な状態に陥った(一回だけ起こったのなら私は間違いなくこれを物理現象と解釈していただろう)。受付の人が怪訝な顔をしたので、聖書にあるような悪霊に自分は取り憑かれているのではないかと思い、不安な気持ちになってしまったことを覚えている。こういう神秘的体験は、体験者じゃないと分からないし、体験していない者にとっては、外から判断して、妄想とか、脳内現象として語るしかないのである。その意味で私は少しであるけれども、子どもの頃からこうした神秘的体験をすることができてよかったなぁと思う。一切こうした体験のない人には、こうした世界観の広がりはないのだから。
2011.10.22
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自分と他者を比べる時は、我々は既に「ワンネス」の発想からズレている。自分と他者を比べる時は、同時に、物質的な地位やお金、自分の保有する家族や恋人、友人などを通して自己を評価している。自分と他者を別な存在として比べる時、既に魂の発想は失われ、物質的に自己を把握することになる。自己と他者を比較している時は、心の自由は得られない。【送料無料】あなたは、わたし。わたしは、あなた。
2011.10.22
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悟りとは、自分の魂の偉大さを気づく、使命を気づくといったことではない。幸福の科学の大川隆法は1981年に自分がこの地球で最も位が高く、人類創造に関わったエルカンターレという魂だと気づいたとし、これを「大悟」と言っているが、こういうことは悟りとは言わない。悟りとは日々の生活の中で、人生を乗り越えるための様々な気づきをすることを言う。宗教家が自分の魂の偉大さと、救世の使命を気づくといった感覚は、ユダヤ教にみられる預言者の思想というものが関わっている。この世のごく一部の魂は偉大であり、それはこの世を救済するために生まれてくるという発想である。こうした伝統的な発想というものが宗教界の一部の根底に流れ、自分の偉大さを自覚することが悟りであるという誤解が生じているものと思われる。
2011.10.22
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僕は絶対に敏感で傷つきすぎる人、(HSP=Highly Sensitive Person)なんだと思う。このままでは、恋愛なんてムリだー。『敏感すぎてすぐ「恋」に動揺してしまうあなたへ。』は絶対読まねば(もう恋愛することにこだわってないですが)。
2011.10.21
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人との縁(霊的な糸)の断ち切り方の本としては、『入門 オーラを見る』と『執着のコードを切る12ステップ 』などがあります(私は、人の縁というものは普通は無理に切るものではなく、自然と新しい縁に流れていくものだと思っているのですが)。『執着のコードを切る12ステップ 』の本は『エンパシー』の本で有名なローズ・ローズトゥリーさんが書いています。エンパシー(エンパス)とは、霊的に過敏すぎるが故に生きることが困難になる人のことを言います。説明が詳しい代表的なサイトをいくつか挙げてみます。ITAちゃんの オープンハートカウンセリングエンパシーとは(傷つきやすい人、HSPにも詳しい)Free Willヒプノセラピー シェア マイスピ
2011.10.21
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よく、「運命の赤い糸」という言葉が使われますが、実際に人と人との関係性が生まれる時、霊視が効く人がみれば、霊的な糸が発生しているかのようにみえるようです。これは、あらゆる対人関係に対してです。この糸を通して人はエネルギーを交換し、精神のバランスを保っているようです。自分が変わらなければ良い人との出会いは生まれない、という言葉は真実ですが、逆に良い出会いがなければ、自分も変われないと思います。引きこもっていては、人は変わることができないのです。【送料無料】癒しの光(下)
2011.10.21
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神様をこうしろ、ああしろという命令を下す存在としてみる背景には、この世の生活を出来るだけ安楽に生きたいという欲望が隠れています。神様を自分の成長のために自分と共に一歩一歩歩んでくださる存在としてみる背景には、この世の生活を「学び」ととらえている背景があります。神様=霊的ガイドは、人の人生の方向性を決定し、そちらに歩ませる存在ではありません。たとえ間違えを犯そうとも、自分で修正し、立ち直ることを常に見守り、援助し続ける存在です。神様が人の人生を決定づけることはありません。決定してしまえば、人はそこから学ぶことが出来なくなります。神が人の人生を規定する、この考え方は、ユダヤ教辺りから始まっているのかも知れません。人間の選択肢を狭めるものは、修正しなければならないカルマだけです。【送料無料】スピリチュアリズムに苦しんで本当の答えは自分の心にある
2011.10.20
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カルマの解消とは、あらゆる束縛、恐怖から自由になることです。自分で自分を束縛し、人にもダメージを与えるのがカルマです。宗教に束縛されることもカルマです。本来の人間は何事にも束縛されることなく自由なのです。
2011.10.20
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超心理学者があの世や霊的存在を証明する日は、もしかしたら永遠に訪れないかもしれないと私は思っています。スピリチュアリズムによれは、この地球は魂の修業の場として与えられているといいます。あの世などが証明されてしまったら、我々の価値観が一気に変わり、この世が修業の場ではなくなってしまう恐れがあります。シルビア・ブラウンのような偉大な霊能者が、霊的世界の証明のため、犯罪事件の解決にに肩入れし、霊視に失敗してしまう。なぜこのようなことが起こるのか。彼女の体調が悪かったなどの理由も考えられますが、霊的世界は、その人の魂の学びの度合いに応じて、その人自身によって徐々に知られていくべきで、証明すべきものではないから霊界によって阻止された可能性を考えてみなくてはなりません。超心理学者が霊的世界を証明してくれれば、この世はハッピーになるかもしれない。しかしそれは修業の場としては望ましくないことになるかも知れないのです。能力をもっていながら霊的世界を公の場で証明しようとして失敗した人が沢山います。この現象が不思議でならないのですが、霊界の方から行き過ぎを止められているのかも知れません。
2011.10.19
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スピリチュアリズムを良く知る者にとっては、メッセージを送る霊が、著名な人物の名を語る場合、それは迷った霊である可能性があり、人を宗教的に隷属させようとしている場合があるので気をつけなくてはならないということを常識として知っているでしょうが(霊が多数の空間に同時に作用できるという現象はここでは除く)、そもそも、霊が高級霊だから信じ、低級霊だから信じないというのも、なんともレベルが低い話ではないでしょうか。高級霊がその人に通信を送るからって、それを有難がることの意味がどこにあるのでしょうか。我々のこの世の目的は、学び、成長することにあるのではないでしょうか。だとしたら、我々は、高級霊の言いつけを守るといった次元の生き方ではなく、様々な失敗や挫折を繰り返しながらもそこから大いに学び成長するというのを第一義に据えるべきで、メッセージを受け取るというのは、第二義以降に据えるべきなのではないでしょうか。おかしな霊能者や宗教家が出るのも、高級霊と低級霊を判断する術をもたないという次元のみではなく、啓示というものをやけに有難がってしまっていることにあるのではないでしょうか。そもそも現代における一般的な霊能者は、人のためにメッセージを受け取れはしても、自分の人生の諸問題を解決するためのメッセージはほとんど受け取れないという状態にあるようです。著名な人で言えば江原啓之さんもそうですし、シルビア・ブラウンなどもそうです。これなども、霊能者と言えどもこの世の修業という原則からは出られないという現実を現わしていると思います。この世では修業が第一義であり、神からの啓示を受けるといったようなことは、第二義以降の問題なのです。 【中古】afb【古本】スピリチュアル・カウンセラー江原啓之物語/和田育子【送料無料】シルビア・ブラウン
2011.10.19
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我々はこの世に生きておりながら、あの世を推し量ろうとします。従って多分に我々の想像とあの世の現実はかけ離れています。霊能者がどんなに啓示を受けようと、そこから得られた着想はこの世的な視点でとらえたものであり、「真のあの世の感覚」とはズレています。例えば我々は個体として他者と自分を区別して生活しているために、「名前」というものを必要とします。しかし、あの世の住人の感覚としては、その人の存在する霊界のレベルにもよるのでしょうが、相手の経験や感覚を自分のことのように感じる感覚をもっているので、恐らく、「あなた」と「私」という感覚がそれほど強くなく、名前を持って生活するということにそれ程意味はないでしょう。つまり「あなた」という名をもつ実態が何かを考えているというよりかは、思考そのものが私であり、あなたであり、それは即感じ取ることもできるものだとすれば、高次元な世界であればあるほど、名前というものは意味がないものになってきます(この世の動物の世界を想像すると少し分かりやすいかもしれない。彼らは人間よりも勘に優れている)。ここから考えられることは、宗教家や霊能者が考える、「過去世で自分は偉大な存在であった」という考え方や、「過去この世に生きた偉大な名をもつ魂が自分を指導して下さっている」という考え方(一つのスピリットがあらゆる空間に同時に現れるという現象はここでは除く)は、不自然で意味のないものであることが分かります。これらは極めて物理的な感覚の発想であり、あの世の住人の自然な感覚を現わしたものではないのです。
2011.10.19
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江原啓之さんがよく本やメディアで言っている、運命と宿命という考え方、これは宿命(生まれてきた身体、性別、家庭環境など)は変えられないけれど、運命は変えられるので、運命を自らの意思で変えようというものです。大根は大根としての持ち味が、ニンジンにはニンジンとしての持ち味があり、それを活かして人生という名の調理をしようというものです。しかし、江原さんの『DVDスピリチュアルバイブル』を見ると、江原さんの考え方はさらに深く、宿命として選んだ、生まれてきた身体、性別、家庭環境もまた、自分の魂修行のために最適に自分が望んだものという視点が現れています。つまり、我々は変えられないと思える宿命さえもまた自分で選んだものであり、自分が選択しない運命などはどこにもないということになります。生きている人間には理解できないことですが、魂として存在している者は、この世に生まれる際に、貴重なこの世での冒険(修業)をするために、あえて厳しい環境を選択したいと願うものであるということが、アラン・カーディクの『霊の書』に述べられています。生きているうちは、できるだけ楽な人生を望む意識が強いのですが、霊になると全く逆のことを考えるようなのです。貴重な地上生活を有意義に使うために、自から自分に厳しい試練を課すというのが我々の本来の性質のようです。
2011.10.19
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人間には二つの時しかない。外的基準によって自分を判断している(裁いている)時と、内的基準によって生きている時である。外的基準によって自己を評価している状態とは、収入、仕事、学歴、付き合っている人間、家族、身体や心の病気と障害、外形、他者との関係性の中で生じる自分の態度などによって自分を判断している時である。親が、自分の子どもに対して、頭や運動能力のないことを嘆くこと、それらがあることを喜ぶことも外的基準で自分を判断していることに当たり、子どもが親の行動や態度を問題視していることも外的基準によって自分を制限していることを意味する。恋人や友人によって自己存在を評価することも外的基準である。それほど間違ったことをしていないのに罪悪感に悩む、自分をダメな人間だと思う、自分を人と比べて偉大だと思う、これも外的基準である。人間は常に外的基準を持ち込み、自分の心のみで自分を判断することがない。自分を内的基準のみで判断して生きていくには、相応の訓練あるいは、テクニックが要求される。外的基準に基づいて自分を判断することは、精神のエネルギーの浪費であり、疲労と共に、精神の安定を遅らせる結果になるものと思われる。
2011.10.19
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バーバラ・アン・ブレナンの本を読んで、自分で瞑想して感じたこと。第七のチャクラ(頭頂のチャクラ)と第六のチャクラは人生観、哲学に関わっている。自己の存在が物質的に思えたり、生きる意味を失う時、ここのチャクラは閉じている。自分はもう生きる価値がないと感じる時、ここのチャクラのエネルギーは逆回転している。第五のチャクラ、第四のチャクラ、第三のチャクラは、幼少期の親とのつながりと関係しており、親に十分愛されることがなかった人は、成人になってもここのチャクラが閉じている。そして第五、四、三のチャクラが閉じることによって、それにつられて、第六、第七のチャクラも閉じられようとすることがある。つまり、親に愛されなかったために、自分は生きる価値がないと思い始めた時、自分を支えていた人生観が消失し、人間は所詮死んだら無だと考えるようになる。また、第五、四、三のチャクラが幼少期から閉じられることによって、インナーチャイルド(未発達の自己)が生まれ、それが現れること(退行すること)を必死に理性で抑えようとして、分裂気質が生まれる。分裂気質とは、理性と退行の激しい葛藤の中から生まれている。
2011.10.17
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霊感というものは誰でももっている。それが少し強く、訓練によって常に一定の程度正しく働くようになった人を霊能者と呼ぶに過ぎない。「自分には普通の人と違う霊的能力がある」このように考えること自体、分離の世界に入り、既に精神的、霊的に、問題のある状態に入ってしまっている。自分は人より優れている、こんなことを考える霊能者や宗教家ほどおかしい。こんなことは普通の人なら誰でも気づいているが、信者だけはそれに気付かない。
2011.10.17
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霊的世界や霊的現象は証明すべきではない。なぜならこの世は修業の場として与えられ、それを認めることができないことも織り込み済みだからである。それが実在するか知りたいと思う者にのみ真理は開かれるべきである。この世は、これらを認めることができない者にとって最適な修業の場である。
2011.10.17
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人は、自分という心のフィルターを通してしか人を認識できないという特性をもっている。自分が我欲にまみれていれば、人を我欲をもった存在としてしか認識できない。自分がお金のことしか考えていなければ、人をお金を欲しがる欲望をもった存在としか認識できない。時折そういった範疇でない人を見かけたとしても、そうした人間は異質な存在として自己の意識から排除される。欲深い宗教家の立場からは、人の善良さが見えない。自分も他人も欲深い存在として認識される。彼らに「善」というものを教えることは困難を極める。また、猜疑心が強い人間も、人と自分は多様性をもちながら同一であるという概念を教えることが困難である。結局のところ人は、自分という色眼鏡を通してしか世界を認識できない。逆を言えば、少なくともこのことを自覚していれば、人は、少しはましに人生を生きられるのではないだろうか。
2011.10.16
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チャクラの解説において、バーバラ・アン・ブレナンの『光の手』と『癒しの光』ほど詳しいものはないのではないだろうか。たぶん私は、『光の手』は昔、ちょこっと読んだことがあるような気がするが、その時はその重要性に気づかず、内容が分からなかった。バーバラ・アン・ブレナンの本は、オーラの解説も詳しい。人間は肉体と魂により成り立っているのだから、心の病といっても、それは脳内の現象だけではない。オーラが見える人がみれば、それは視覚的に全く違ったものとして見えることになる。それはフロイトの精神分析に見られるような様々な欲求が絡んだものとして認識される。もちろんダスカロスが指摘しているように、単に脳内の生理的現象によるものもあるが…。ちなみに、バーバラ・ブレナンの著作には、著名な心理学者、医師が推薦の寄せ書きが載せられている。『光の手』には、死にゆく過程のチャートを作成した『死ぬ瞬間』の著者キュブラー・ロスが、『癒しの光』には、人間性心理学の代表者ロロ・メイが言葉を添えている。特にロロ・メイは、実際に彼女のヒーリングを体験したようである。
2011.10.16
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人は、分離の世界に生きれば生きる程、精神がおかしくなるという法則の中に生きている。間違った宗教家のほとんどは、みな分離の世界に生きている。自分が導師(グル)だと思ったり、救世主だと思っている。人と自分を見比べて、良き方向であれ、悪い方向であれ、違う存在であると思う時、既にその人の転落が起こっている。自分を導師だとか、救世主だと主張する人間は、残念ながらあまりにも悟りが低い存在である。普通の人ならこうしたことにたやすく気づくものだが、その宗教の信者になるとそれが分からない。単に洗脳を受けている場合もあるし、前世のカルマによって、自分が信じさせられる立場になっていることもあるのだろう。スピリチュアリズムの担う役割の一つに、宗教世界の浄化というものもあるのだと私は思う。スピリチュアルな内容を語る以上、なぜおかしな霊能者や宗教家が生まれるのかという問題の説明は不可欠である。スピリチュアリズムの正当性を主張するためでなく、スピリチュアルな内容をより一般的で安全なものとするために、これは必要なのではないかと思われるのである。
2011.10.16
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原レオンさんのブログを見ていたら、日本の、相手を尊重するために、自分が譲るのが美徳だとし、それが不可能な状況下では、情に訴えた者が勝つという文化に疑問を呈する書き込みがあった。私も同感である。和を大切にする日本では必ず誰かが犠牲になる。また、「相手を察する」という文化のため、互いの会話が省略されやすい。対話がないまま相手を察する事には限界がある。対話を通して互いの立場をはっきりさせた上で、妥協点、解決策を探っていくのが欧米の考え方である。日本人は物事に白黒をつけ、すぐに全体主義の善悪の観念を作りやすい。それは、全体の和や通念を大切にしながら誰かを犠牲にする行為でもある。善と悪の観念は人それぞれ違っている。相手の善を尊重することこそ本当の善ではないだろうか。日本の文化がそれほど優れているとは私には思えない。それは日本の中だけに通用する文化である。
2011.10.14
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カルマとは己の中の内なる神と他者の内なる神が、より完全な形となって現れ出る形で解消される。人はある行いに対して、その時には罪悪感を感じなくても、心が成長するに従って、後に罪悪感を感じることがある。これがカルマが解消される瞬間である。
2011.10.14
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霊媒の犯す考え方の誤りの一つとして、人類は啓示を受けなければ生きる意味を見いだせず、この世で牢獄に入ったかように盲目のまま生き続けるしかないという考え方をもってしまうというのがあります。この問題は、よくよく考えてみなければならない重要な問題なのですが、我々は霊能者の啓示、メッセージというものを通してこの世とあの世の仕組みを知らない限り、正しく生きられないのでしょうか。本当に霊能者を通して何かを獲得しなければ、我々は盲目なのでしょうか。実際は違います、霊的な知識などなくても我々は正しく生きられますし、そもそもそうした霊界等に関する知識が正しいかどうか見分けるのは、我々自身の魂の真我によるしかありません。逆に真我が輝いていれさえすれば、啓示などなくても、仏教の僧侶の悟りのように、人生の生きる意味を自ずから知り、なんら盲目に陥ることなく、この世の生活を続けていけます。世の中の霊媒者には、霊界からのメッセージや宇宙人からのメッセージを受けたと称して、おかしなことをいう人がいっぱいいます。彼らの多くは、人は霊能者を通さなければ人生の真理は分からないと誤解し、自分を貴重な存在だと思っています。そしてここで知らなくてはならない重要なことは、実は彼ら自身が盲目の人生を生きており、霊的世界からのメッセージを受けないと生きることができない状態となっていることがあるということです。彼ら自身が己の心で物事を悟れず(判断できず)、心が盲目のため(真我が現れていないため)、世の中の人も盲目なまま人生を生きていると誤解しているのです。自分の心の状態を世の中の人に投影するということをしているわけです。人は霊能者の啓示などなくともいくらでも生きていけます。現にこの世の一部の人々はそういったものがなくとも明確に人生を悟って人生を生きています。心の内で悟ることと、メッセージを受けることを同一の次元でとらえるべきではないでしょう。江原啓之さんは、自身が霊能者でありながら、自分を含む世の中の霊能者の撲滅を唱えています。自分の生き方を霊や霊能者を通して知ろうとする考え方は、人を依存に導き、生きることを困難にすることがあります(より人が盲目になってしまうことがあります)。我々は、霊能者を明瞭に世界を知っている人と鵜呑みにすることなく、むしろ盲目の人生を歩んでいるのかもしれないことを考え、注意して観察すべきでしょう。世の中の霊能者、宗教家の中には生きる意味を見失い、霊に依存して(翻弄されて)生きている可哀そうな方々が結構いるのです。
2011.10.13
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日本で霊能者であり、同時に前世療法を行っている方としては、原レオンさんが居ます。国際スピリチュアリズム協会の方です。
2011.10.13
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あの世に帰れば、宗教や思想信条も外的基準に他ならないと気づくことでしょう。すべての真理は外から与えられているものではなくて、己の内から現れ、他者のそれと共感作用を起こしているに過ぎないことに気づくことでしょう。
2011.10.12
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人は外界から与えられたあらゆる基準によって自分を判断し、自分のみの基準で人生を生きることができません。「私にはお金も社会的地位もない」と叫ぶ時、お金や社会的地位という基準によって自分を測ってしまっていることを意味します。「私の体には障害がある」とか「私の体は病気である」も外からの基準です。「親からの愛情を十分得られなかった」とか「まともな人生をこれまで歩んでこれなかった」などの基準も過去の人生を通して現在の自分の価値を評価し、自己を狭めてしまっているという現実があります。我々はあの世に帰れば、自分で自分を評価するという時間が与えられます。「あなたはあなたであり得たか」、「あなたはあなたらしい人生を納得して歩んできたか」を自分で評価させられます。神様は評価を見守り促す存在であり、評価を下す存在ではありません。「あなた自身=あなたのスピリット」がすべての地上生活の歴史を思い出し評価します。その際、私には病気があったからこんな人生になったとか、お金がなかったからこんな人生になった、親に愛されなかったからこんな人生になったなどというのは、外の基準をもって自分を評価していたに過ぎないことに気づくでしょう。スピリットは始めからあらゆる基準から解き放され、完全に自由であったのに、なぜ自分は沢山の外的基準で自分を評価し、自分を蔑んできたのだろうか、自分が自分の運命を左右する鍵なのに、なぜこんなにも外的基準で自分を縛って苦しめてきたのだろうかと、きっと後悔する人も多いでしょう。死んでから外的基準に気づくより、生きているうちに自分がどれだけ外的基準に縛られているかに気づきましょう。そのままに完全なスピリットなのに、そこに足らなさを自覚したり、付け足しを考える必要はないはずです。我々は、完全によって完全なままに生き、努力すべきなのであって、不完全なまま何かを獲得するために奔走するべきではないでしょう。ダメだから努力するのではなく、環境がどうであろうと、完全さがそのままに現れる形で、努力し、環境を変えて(あるいは克服して)生きるべきなのです(既に十分すぎる物理的な何かを持ちながらさらにそれを獲得しようとしている人も、己の完全さを自覚できていない状態です。欠乏感がある限り、貧しさの中にあってそれを求める人と何ら変わりはありません)。考えてみれば、心理療法の究極の目標もここにあるのではないでしょうか。
2011.10.12
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よく、カルマと聞くと、自分の過ちや欠点を認識するのですが、カルマとは自分の罪ばかりでなく、人の自分に対する罪を許さないことも含まれています。自分の過ちを正さないことばかりでなく、人の自分に対する過ちを許さないこともカルマです。「心に理解することができない怒りを常に抱えている」これは前世において悲劇的な出来事に遭い、人を許していない証かもしれません。人を許さない限り、自分のカルマも相手のカルマも修正されません。人を許すことによって初めて、今まで与えられなかったものが与えられ、人生でのバランスがとられるのです。悲劇は手放すべきなのです。
2011.10.11
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シルビア・ブラウンのいう、ライフテーマは、前世から持ち越されて来たものと、今生のもの、二つがあるのではないでしょうか。私は、未消化な怒りといった感情に悩まされており、これは恐らく、黒魔術に身を染めなければならなかった時代のものだと思っています。これは私の空想かもしれませんが、かなり前の前世で、私は恐らく目の不自由な子として生まれました。しかし、母親に捨てられ、孤児になり、自分で子どもの頃から生計を立てなければ生きれませんでした。その頃私が生きるために選んだのが、黒魔術の道だったのだと思います。黒魔術のような職業を人が選択する裏には、生計を立てなければならないという苦しみや、孤独によって人から称賛されたいという苦しみが隠れています。私がその生で選んだライフテーマは、拒絶(目的)と霊能者(障害)だったように思います。ただ人から愛されたかった。しかし、愛されようとしてむしろ逆の人を呪うという職業に身を染めてしまったということがあったように思います。私は今も、人から愛されないという感情や、人からの愛情を拒絶するような性格が残っています。
2011.10.11
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さしずめ、幸福実現党を作った、幸福の科学の教祖、大川隆法は、シルビア・ブラウンによる44のライフテーマに当てはめるならば、第一テーマが勝者、第二テーマが犠牲を強いる人かな。お金を儲けたかったり、政治家に成りたいのなら、人(信者)を犠牲にせずにやってもらいたいものだが。
2011.10.10
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シルビア・ブラウンによれば、人は、44のライフテーマの内、二つのライフテーマを選び生まれてくるようです。一つ目のライフテーマは、A点からB点へ旅する基本的ゴール、二つ目は、乗り越えるべく用意された障害物です(一つ目のテーマを難しくしたり、不可能にするものがあったらそれこそが二つ目のテーマのようである)。このサイトに詳しく載っています。私は、一つ目がスピリチュアリティで、二つ目がハンディキャップかな?シルビアは、第一テーマが人道主義者、第二テーマが孤独を好む人だそうです。
2011.10.10
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越智啓子さんは『魂の処方箋』の中で、サイキックでもある前世催眠療法士の治療を受け、精神的に立ち直っていく過程の自分の体験談を載せてありますが、この催眠療法士は、シルビア・ブラウンのことではないでしょうか。シルビア・ブラウンは前世催眠療法士にして霊能者です。医師がそれが本当かどうか体験したいと申し出た場合と、医者が治療困難と認めたクライエントを送り込んでくる場合、無料で彼女は治療を行っています(前世を再体験することで、心の重荷が取れ、なかなか治らなかった身体や心の病気が快癒することがあるようです)。彼女に対しては、犯罪事件に関する透視で被害者の状態を当てることが出来なかったではないかという批判もありますが、100%確実に全てが見える霊能者は存在しないこととや、その時の体調(集中力)にもよること、彼女はむしろ前世催眠療法とサイキックな能力を併用することに長けていることを考えてみなくてはならないでしょう。『前世の癒し』は前世療法に興味がある人にとっては読む価値があります。
2011.10.10
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ダスカロスの本と、飯田史彦先生の本を読んで気づいたことですが、我々はあの世に帰ると、すべての存在とのつながりを自覚するようです。相手の痛みは、自分の痛みとしても感じられ、人の苦しみも、自分の苦しみとして感じられるのでしょう。あらゆる存在の痛みを自分の痛みとして感じる、これはイエスの体験した自覚そのものと同じでしょう。人の罪(苦しみ)が自分の苦しみとしても感じる、これがダスカロスによる我々はキリストでもあるという意味なのでしょう。カルマという概念がありますが、これも、この世の感覚を通した表現かもしれません。誰かが間違いを犯したとしても、決して一人で間違いを犯すということは考えられません。子どもの犯罪は親の責任でもあるし、親の責任は、さらにその親の責任や、助けてあげられなかった周りの責任でもあります。孤立した中において罪が生まれるというよりも、全体の関連の中で、歪みのようなものが生まれ、そこに罪が生じるとみた方が良いでしょう。この意味では、人の犯した罪をその人個人のものとして断罪することは出来ないし、自分の罪も個人的なものとして背負い込み、他者から孤立し孤独の道を歩むべきではないでしょう(孤独の心は結局また次なる過ちを生み出す結果となることがあります)。「私」とか「あなた」という概念を超えて「ワンネス」という概念をもつことが望ましいのではないでしょうか。この世においてこのような感覚をもつことは難しいかも知れません。しかし、いずれあの世でこのような感覚を我々はもつようになるかも知れません。
2011.10.10
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最後に一言。人間の幸せは、神様の啓示を受けるとか、超能力を使えるようになるとかではないはずです。すべての人が精一杯生きて輝いている。それを発見することこそが最大の喜びではないでしょうか。世の中には教祖や教団の幹部のようにになってしまい、信者をもってしまい、罪をもったまま後に引き返せなくなっている人も居るだろうと思います。しかし、すべての人間の内に神が存在するのだというのなら、この世に許されない罪はありません。自分の心の内の善性が永遠に埋もれて顔を出さないということはありません。自分の心の善性が現れないということは、他の人にとっての心の曇りともなります。人は教祖となるような試練を計画して生まれてくる場合もあるのです。人生の途中で神の啓示を受け、教祖のようになってしまわないようにできるか、そして教祖のようになってしまったとしても、人生を元に戻して普通の人として人生を修正できるのか、という魂の試練を課して生まれてきていることもあるのです。神の啓示がもし本物だったとしても、試練のための計画の一部に過ぎない、こんな人も世の中には居ると思うのです。どんな人にも光を見出し、普通の人として生きられること。すべての人に愛情を注げること。人間としてこんなに幸せなことはありません。すべての人が未熟で、精一杯生きて、愛に満ちているのです。
2011.10.03
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しばらく卒論に専念します。
2011.10.03
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心の内からあらゆるものを悟り、成長していくということと、霊視、霊聴、霊言を通して視覚的、聴覚的、文字的などの情報を自分に取り入れることとは違います。違うベクトルの話です。このことをきちんと分かっている新興宗教家はどれだけいるのでしょうか。追記一方が科学的に世界をとらえているのに対して、一方が宗教の悟りとして世界をとらえていることが分かる人は素晴らしい。飯田史彦『ツインソウル―死にゆく私が体験した奇跡』より光「しかし、お前が求めている『人生の真理』は、人間の心の奥、魂のところでつながっている、この精神世界にある。しかも、この精神世界の諸次元や諸原理は、物質世界で生きるかぎり、理解することは不可能だ」私「それは、そうでしょうが・・・」光「したがって、物質世界で生きる人間には、人生の真理を論理的に理解し、言葉として表現することなど、決して、できないのだ」私「決して?・・・本当に、決して、できないのですか?」光「できない」脳で処理するという次元において理解できることと、論理や言葉を超えた世界で理解できることは全く違います。
2011.10.02
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宗教用語に「霊格」という考え方があります。私はこれは、誤解の元だと思います。大変な愛の実践活動をしている裏に、自覚している、していないに関わらず、その人なりの「大きなカルマ」があることは良くあるし、日々成長している魂を格付けすることも無理でしょう。格付け精神自体が既に魂という存在を内側から見ているのではなく(自分の内と他者などの万物の内に神を見ているのではなく)外側から自分の魂と他人の魂を見て比較していることを意味します。つまりそれは、物質的に魂をとらえているということです。自分の内側のみ見ている人に、霊格の自覚などありません。世の中の新興宗教家は極めて未熟な人も多いのですが、それを成り立たしめているのは、盲信している信者です。教祖も信者も共に宗教的なこと、霊的なことに関して、まだまだ学びが足りないのです(自分たちには足りていると自覚されるのが不思議な現象である)。これらの人は、宗教思想上のカルマというものが世の中には存在することを知るべきでしょう(カルマがあるからある思想から抜け出せず、柔軟な(多様な)考え方をもつことができない)。カルマとは、自分ではそれが欠点であると自覚されにくいものでもあるのです。
2011.10.02
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道に迷い、宗教家を正しく見分けたいと思っている人に対して 正しい宗教家と間違った宗教家を見分ける時に、愛を実践しているか否かで見分ける人が居ますが、これはやめるべきでしょう。口先だけで愛を語り、実際に実践を伴わない宗教家が居るために、人を愛の実践行動で見分けるという考え方が生まれるのですが、これは、そもそも、宗教家と一般人を分けていること自体が間違っているし、良い宗教家と間違った宗教家を分けていることも間違いでしょう。そして、自分のために行動することと、他人のために行動することを分けていることも間違いです。日々自分のことを考え成長しているからこそ、その分、人も愛せるのです。人間は、ありとあらゆることを分断して考えれば考えるほど混乱するばかりです。これは昔からあらゆる宗教で述べられていることです。
2011.10.02
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人はみな、自分というフィルターを通して真理を見ています。すべての真理を合わせたものが神の御心そのものです。全ての人が自分なりの正しさをもっています。それをすべて合わせたものが、神の正しさです。人はみな、自分の信念体系からくる世界観をもっています。そのすべてを合わせたものが神の世界観です。自分というフィルターを通して、他人というフィルターを通して神は現れているのです。
2011.10.02
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人間は優秀であれば、有名になり、無名であれば優秀ではないということはありません。無名であっても優れた方は沢山居ます(当たり前ですが)。霊能者である荒川靜さんは、今までたった一人巨大な柱のような真っ白なオーラを放つ男性に会ったことがあるそうです(通常は白いオーラはあまりみられない)。その人はどこまでも「普通の人」としか言いようがなかった人だったようです。しかし、普通の人なのにもかかわらず、周りの人が「あの人といると、不思議な気持ちになる。そして不思議な、奇跡的な出来事が起こる」と言うのだそうです。このように、本当に霊性が高い人とは、どこまでも市井な人に見えるのかもしれませんね(ドラゴンボールの神様みたいにw)。私も、知的障害者の福祉施設に行った時に、天使のような笑顔と輝きの人達を沢山みました。霊性が高いとしか思えませんでした(まるで天使と悪魔の園のように見えました)。美輪明宏さんも似たような経験をしているようです。【送料無料】ナンバーとオーラの本
2011.10.02
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あの世から見た我々の存在は、ただ日々エネルギーを拡散し(叡智と愛を拡散し)、また、人との関係で生じたカルマを解消しているだけに見えるかもしれません。そのための活動が様々な次元の物質的活動になっているのです。しかし、あまりに単純なこの真理を、頭で考えるのではなく、理解することは、多分難しいに違いありません。簡単に理解してしまったら、この世に生きることが、修業じゃなくなってしまいますから。
2011.10.01
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宗教的な悟りや霊的何かを得たことと引き換えに、何かを求めるべきではないでしょう。自分の悟りや、霊的啓示を受けたとか、人を治す力が備わったということで、それを通してお金を得ようと思ったり、異性を獲得しようと思ったり(沢山の妻や恋人を抱える教祖が居ます)、霊的覚者としての名誉を得たいと思ったりするべきではないでしょう。自分の悟りや世界観の広がりなどは、ただ自分のためにのみ獲得するものであり、自分のものを通して、他人から何かを獲得しようとすることは間違っているのではないでしょうか。永遠に悟りを求める一求道者の視点からみれば、現在の悟りと引き換えに物理的な何かを獲得しようとすることは、とても愚かで残念なことです。多くの宗教者が自分が偉大な到達者(完成者)であると誤解し、自分をダメにしてきました。とても悲しいことではないですか。聖者から凡人に帰ってしまうなんて。他者の悟りは他者が自分を通して探求すべきもの。「悟らせてあげる」ことなど絶対にできません。
2011.10.01
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我々は普段、三次元の脳のレベルで思考していますが、霊的感覚を増すと、それは脳のレベルからはみ出で、魂の次元でも物事を感知し、思考していることになります(この段階で既に普通のレベルの人には理解できないでしょうが)。意識の一部が脳に収まりながら、同時に魂のレベルで物事を知覚し、思考を行う、これを行うからこそ、肉体上の自己と魂としての自己に相克が生じ、物事の処理が不十分になります。これが、霊的状態における異常性というものです。肉体の脳の状態の思考から抜け出すこともできず、しかし、魂の次元で物事をとらえ、思考しなければならない、この矛盾が霊的感覚の強い人には起こります。これはとても苦しいもので、これを抑えるためには、人に合わせて、霊的感覚を自由自在にコントロールする、すなわち、自分で自分を肉体の中に納まった脳として知覚したり、魂そのものと知覚したりを自在にコントロールするということが必要になってきます。人に合わせて、自分自身の真理の顕現度合いを変えるといっても良いでしょう。いずれにせよ、我々は三次元世界にある脳のレベルでも、それを超えたレベルでも物事を知覚し思考し、処理をしています。三次元の脳を超えたレベルで物事を知覚したり思考したりすると、脳に異常なほどの負担がかかっています。脳で処理ができるはずのないものを脳で処理しようとしているのですから、オーバークロック状態です。この辺のところが本当は、霊的世界を考えたり知覚できる人は、異常なのか、正常なのかという問題や、完全な霊能者は居ない(百パーセント正確に霊的世界を知覚できる者はいない)という問題に深く関わってくるのです。【送料無料選択可!】ツインソウル (PHP文庫) (文庫) / 飯田史彦【期間限定!エントリーで10/8(土)9:59までポイント10倍以上】【中古】エッセイ・随筆 ≪エッセイ・随筆≫ 教授の恋-彼はいかにして運命の人を探し出【a_2sp0922】【10P23Sep11】
2011.10.01
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