おじん0523のヒロ散歩

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2022.11.01
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カテゴリ: 沖縄旅行
清末隊 慰霊之塔から更に大嘉陽林道を上る。

9月27日(火) 12:45
「大嘉陽林道の展望台」 の四阿が建っていた。
所在地:沖縄県国頭郡本部町大嘉陽


しかし天気も悪くなり、樹が生い茂り展望は十分ではなかったので車中から。


さらに上るとT字路にぶつかり右折して「八重岳頂上」に向かって坂を上る。


12:50
T字路から少し進むと道路沿いに立つ道案内(帰路に撮影)。
← 100m 八重岳 野戦病院跡


八重岳野戦病院跡
所在地:沖縄県国頭郡本部町並里
この案内板は谷間に立っていた。


説明板の左方向の広場。


戦跡 国頭支援本部壕・野戦病院跡
ここは、一九四五(昭和二〇)年の沖縄戦の時、国頭支隊(球七〇七一部隊、隊長:宇土武彦大佐、
通称:宇土部隊)の本部壕と沖縄陸軍病院名護分院(八重岳野戦病院)のあった場所です。
国頭支隊は、日本軍の飛行場があった伊江島の守備と、本部半島を中心とした北部地域でゲリ
ラ(遊撃)活動により米軍を足止めすることを任務としていました。その目的は本島中南部にお
ける日本軍の作戦を容易にすることでした。
国頭支隊は大分・鹿児島・宮崎・熊本・沖縄の各県出身の将兵によって編成された兵員約四千
人の隊で、伊江島守備隊の第一大隊と、本島守備隊の第二大隊、砲兵隊、遊撃隊(護郷隊)、鉄
血勤皇隊、防衛隊等で構成されていました。
八重岳、真部山に布陣した国頭支隊は、一九四五(昭和二〇)年四月十一日頃から米軍の空爆と
艦砲射撃を受け、十三~十六日には西海岸の渡久地方面と東側の伊豆味から進撃する米海兵隊
の猛攻を受けました。真部山では激しい攻防戦となり日本軍に多数の死傷者が出ました。米軍
は十七日に八重岳北東頂上を占領し、十八日から敗走する国頭部隊を追撃しました。米軍によ
る八重岳周辺の掃討戦は四月末まで続いたといいます。
国頭部隊の宇土隊長は四月十六日、米軍の伊江島上陸を機に八重岳、真部山の陣地を放棄し、
遊撃戦に移ることを命じ、第三遊撃隊のいる多野岳に後退しました。その際、八重岳野戦病院
には多くの負傷者が置き去りにされ、この一帯は悲惨を極めたといわれています。この本部半
島における戦闘で、山中に避難した住民はかえって戦火に巻きこまれ、軍人・軍属を含む町民
約一七〇〇人の尊い生命が失われました。

●上原米子さん(恩納村出身、一九ニ六(大正十五)年生まれ)が見た野戦病院
  八重岳野戦病院では県立第三高等女学校の生徒で編成された「なごらん学徒隊」が負傷兵
  の看護に従事しました。元なごらん学徒隊の上原さんは長年にわたり平和教育活動を行い、
  自身の体験を語ってきました。


4月20日 本部半島における日本軍の抵抗終わる。
米軍進路  →   ​​米軍第一線(および日付け)  ​​


上原さんが描いた絵と証言を元に当時の野戦病院の様子を紹介します(以下三枚の絵)。
野戦病院のあった谷間には当時、川が流れていた。石積みの土台の上に掘っ建て小屋があり、
病床や手術室として利用した。


手術室は医療設備も不十分で、部屋は暗く、ろうそくを灯して手術が行われていた。
手足の切断手術も麻酔なしで行われた。


部隊の撤退前、動けない負傷者に手りゅう弾とカンパンが配られた。負傷者の「なぜこんなも
のを配るのですか」という質問に上原さんは答えられなかった。


案内板横の森に伸びる道の入口から向かって右側の斜面に、本部壕と野戦病院跡の石垣が残っ
ている と。


12:55
八重岳野戦病院跡からT字路へ戻り、「 三中学徒之碑 」。
所在地:沖縄県国頭郡本部町並里
三中学徒之碑は本部町八重岳の山頂につづく道の途中にある。碑の正面には日米両軍の戦闘が
行われた真部山があり、学友たちの多くが戦死した近くに慰霊之碑を建て、目の前で慰霊祭を
行いたい、という元学徒兵の皆さんの思いが伝わってくる。


正面の「三中学徒之碑」の両側には、右側に碑文、左側に観音菩薩が建立された。


正面の「三中学徒之碑」。


左側の観音菩薩碑。
レリーフの下部には、88名の学徒戦死者の名が刻まれていた。


右側に「添碑(三中学徒之碑)」
太平洋戦争も末期の昭和二十年三月米軍の烈しい砲爆撃中を 沖縄県立第三中学校生徒数百名
は 軍命により通信隊要員または鉄血勤皇隊員としてあるいは繰り上げ現役入隊の形で 郷土
防衛の戦烈に馳せ参じた。
四月一日 米軍の沖縄本島に上陸するや 陸上戦の火蓋は切って落とされ 我が三中の生徒は
ここ八重岳・真部山地区そして多野岳その他各地において圧倒的に優勢な米軍と果敢な戦闘を
展開し数十名が あたら十代の若き生命を無惨にも散らしてしまった。
彼等の三十三回忌を迎えるに当たり 学業半ばにして斃れ 諸々の思いを残して逝った彼等の
霊を慰めるとともに 平和の礎となって散華した彼等の死を永く後世に伝え 二度と再びかか
る残酷悲惨な戦争を惹起することがないよう 我等はもとより 子々孫々に至るまでの永遠の
戒として ここにこの碑を建立する。
        諸霊よ 安らかに眠り給え
         我等は常に諸霊と共に在らん
           昭和五十二年四月十六日
             沖縄県立第三中学校
                  生存学徒一同


沖縄戦継承事業 戦場に動員された21校の学徒隊
三中鉄血勤皇隊・三中通信隊 (沖縄県立第三中学校)
沖縄県立第三中学校は1928年(昭和3年)1月、名護町(現名護市)に開校しました。
1945年(昭和20年)3月26日、鉄血勤皇隊三中隊が編成され、4・5年生と2年生の一部の生徒は、
独立混成第四十四旅団(宇土部隊)の第ニ歩兵隊鉄血勤皇隊と第三遊撃隊鉄血勤皇隊に、3年生は
第ニ歩兵隊通信隊へ配属されました。
名護岳に配置された第三遊撃隊鉄血勤皇隊は、4月10日には多野岳に撤退し、羽地ー源河一体
で遊撃戦を展開しました。
今帰仁村302高地に配置された第二歩兵隊鉄血勤皇隊は、13日、八重岳に到着、戦闘に参加さ
せられましたが、16日、命令により多野岳に向かい撤退。多野岳も米軍の猛攻を受けるように
なり、24日、命令により東村の山中に撤退しました。
第二歩兵隊通信隊に配属の生徒たちは、3月23日以降、八重岳、真部山の配置先で任務につき
ました。4月16日朝、米軍との戦闘が始まり、翌17日、多野岳への撤退命令が下り、生徒らは
1週間後、多野岳で第三遊撃隊鉄血勤皇隊に合流し、24日、東村の山中に撤退しました。
右側に「三中鉄血勤皇隊・通信隊足跡図」。
   平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部 保護・援護課


この後、再度八重岳(桜並木)を上り八重岳休憩所へ。
八重岳休憩所からの帰路、再度この前を下ったのである。


三中学徒之碑の前では多くの蝶が飛びまわっていた。しばし我等も戯れる蝶をカメラで追った。


花に留まってくれないのでピントが合わず。


三中学徒之碑の前だけに10代の若者が戯れているような・・・に。


じっくりと腰を構えて撮影したかったが。


いろんな蝶が飛びまわっていたが何種類?


どうにかピントが合う。


13:00
再度八重岳方面へ上り、 「八重岳休憩所 」へ。
所在地:沖縄県国頭郡本部町大嘉陽976
ここはトイレ休憩ができる施設である。山の上に「ちゅらハートFM 78.2MHz本部送信所」。


ちゅらハートFM 78.2MHz本部送信所
送信所下まで歩いて上れば素晴らしいパノラマが見れ、太平洋と東シナ海、そしてたくさんの
島々とビーチの景色を楽しめるビューポイントであると。車でも行けたのか?


ちゅらハートFM 78.2MHz本部送信所をズームアップ。


13:05
八重岳休憩所から折り返し坂の途中にあった「 八重岳展望台 」。
所在地:沖縄県国頭郡本部町大嘉陽 八重岳(桜並木)
この辺りは八重岳の桜並木で1月末には寒緋桜が満開になる場所である。


展望台から本部町方向を見おろすが、霞がかかっていた。


眼下の左側に「八重岳野戦病院跡」がある、この後坂を下りこの道へ。


ちゅらハートFM 78.2MHz本部送信所方向を見上げる。


八重岳展望台廻りでも多くの蝶が飛びまわっていた。


こちらではペアで飛び回っていた。


八重岳展望台から八重岳野戦病院跡入口前、三中学徒之碑前を通り坂を下る。
途中にあった「 八重岳桜の森公園
所在地:沖縄県国頭郡本部町並里921
ここは、平成22年(2010)2月6日(土)に野球の沖縄遠征で訪れた場所である。
以下2枚はその時の写真で、小雨の中訪れたが寒緋桜が満開であった。


12年前で皆若かった。


13:15
長い坂を下り、県道84号線(名護本部線)へ降り立つ。
ここを左折して国道449号方面へ向かい次の目的地「備瀬集落フクギ並木」を目指す。


県道84号線(名護本部線)を走り300m先で国道449号と合流し右折。


国道449号を北上。


旅友のナビでこの先の信号を左折して県道114号線を「海洋博公園」方面へと進んだ。
道路脇に「福助の玉子焼き」の看板。
気になる「厚焼きポーク玉子おにぎり」「厚焼きポーク玉子サンド」美味しそう!


県道114号線を進むと「海洋博公園」「美ら海水族館」の案内板。
ここへは前回2015年6月(日本100名城登城)にそれぞれ訪ねていたのでスルー。
フーテンの寅さんシリーズでも寅さんが訪れた水族館がある。


13:25
ローソン 海洋博公園前店
所在地:沖縄県国頭郡本部町備瀬121-1
備瀬集落フクギ並木も近くになり、また昼時も過ぎ、昼食のおにぎり等を購入し休憩。


ここまでの走行ルートを旅友から。


13:55
備瀬集落フクギ並木
所在地:沖縄県国頭郡本部町備瀬389
この奥が無料駐車場になっているが満車でしばし待機して駐車。


歓迎 めんそーれ
備瀬集落 フクギ並木通り


備瀬集落とフクギ並木
備瀬集落は、本部半島の先端部に位置し、南北へ連なる碁盤目型のフクギ並木と、その間を通る
白砂の道で形成されている美しい景観を残していることが、大きな特徴です。今から約400年程
前に形成され、約350年程前に完全な集落になったとされています。
神アサギを中心に集落が形成され、伝統文化を大切にする風習が強く、備瀬集落より行事や祭事
の多いところはないと思われるくらいに、一月の初御願に始まり十ニ月まで毎月のように行事が
行われています。集落の発祥が古い所以と思われ、主に五穀豊穣・無病思災を祈願する行事です。
集落のフクギは琉球王国時代の250年以上前に、国策として風水思想に基づく海岸域から里山に
かけての森づくりと、風害に悩まされた海辺に住む人たちの暮らしを守るためにフクギが植えら
れたと思われます。フクギは直立した大樹になり、防風・防潮・防砂・防火などの最適な樹木と
して、現在でも、先人から受け継がれたフクギを住民は守り続けています。



料 金  1~4人 2,000円


駐車場の入口に「備瀬の名木 フパルシ」。


根元の石碑には、
備瀬の名木 フパルシ
        樹齢380年
(和名 モモタマナ、一名 コバティシ
寄贈 環境ライフ設計 ㈱本部砕石 ㈲アジアストーン ㈾宮里住宅社



                                     ー 続く ー





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最終更新日  2022.11.01 08:40:16
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