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「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」コリントの信徒への手紙13章13節天のエデンの園が実現すると、そこには愛だけがあふれている。神と人が愛で結ばれる。信仰はもういらない。希望もいらない。瑞々しい、永遠の今がそこにある。そこには愛があるだけ。たったそれだけ。
2018年10月31日
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今日は今日の道を歩む夕暮れの景色と共に歩む神が共におられるのでそれで良い明日が用意されているなら新しい決意は明日しよう
2018年10月28日
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年甲斐もなく「ガラスの靴」(新潮文庫)を手に取った。シンデレラ物語「シンデレラ」を、現代風に書き著したエリナー・ファージョンという人は、作家であり詩人だそうだ。流れるようにやさしく書いている。翻訳の野口百合子さんは、大人向けにこれを訳したそうだ。子供のようにときめいて読んだ。
2018年10月25日
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「特攻隊の生き残り」という98歳のかたのインタビューを、昨日のテレビで見た。確かに風貌は年相応かと思われたが、その言葉の確かさに感銘を受けた。語り継ぐ使命が与えられ、今日まで生かされたのだと思った。日本の特攻隊現今の過激イスラムの自爆テロのお手本となったのだ。そんなものを考案した為政者実行を命じた為政者人ではない。「ヒトデナシ」命じた長たる者、自ら進んで出撃すべきだったのだ。戦争を始める,始まることは、何かの弾みだったとしても戦況が不利になりつつあり、敗色が濃くなれば、収めることを模索するのが理性だろう。悲惨な沖縄戦、焼け野原となった日本、そして2発の原子爆弾気が遠くなるような人的被害そこまで行き着かなければ手を挙げない。その罪深さは計り知れない。最後は、「天皇の御聖断を仰ぐ」などと、戦争の責任を天皇におっかぶせる悪辣さ。かいらい人形のように、戦争遂行に利用された天皇の心痛を思わずには居られない。
2018年10月20日
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神谷美恵子の著作を読んでいて、この本が推薦されていたので、ボクは取って読んだ。昨日読み終わった。神谷美恵子の訳だ。マルクス・アウレリウスは「哲人皇帝」といわれるローマ帝国の皇帝。哲学者であって皇帝は、歴史上たった一人と言われている。ほんとうは哲学する学徒として生涯を過ごしたかった。晩年は戦乱の中で過ごし、皇帝として出陣中に客死した。58歳。折々に書き留めていた短文をまとめた「パンセ」形式の書物。アウレリウスはキリスト教を知らない。「自省録」は、キリスト教ではなく、ストア哲学の背景に依っている。「自省録」原題はギリシャ語で「ta eis heauton た えいす へあうとん」=「自分自身に」人に読ませるためではなく、自分を励ますために書き綴った。心を貫く書物だ。心に矢が突き刺さり、向こう側に抜けていくのだ。ボクは貫かれた。ストア哲学徒に、一瞬ボクの心は変身した。読み終わって静かに自分を振り返った。そうだ、クリスチャンだからこそ、心に響くものがあったのだとわかった。
2018年10月16日
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各教派の代表クラスの牧師さんたちが集まり地図を広げながら、協力とか、合併の可能性とかあけすけに話し合うなどとは、衝撃に近いものがあった。日本のキリスト教界もここまで来ているのだ。自分たちの弱さをも披瀝する。披瀝し合う。敷居が低くなっているな。今に、今に何か良いことが始まる。
2018年10月13日
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ボクたちの日曜礼拝は、毎週4人でささげる。少ない人数でも、集まって主イエスを礼拝する喜びを強く感じる。伴奏もある。ギターだ。贅沢だな。賛美を歌う。歌っていて酔いしれるようになる。1節、2節、3節・・・・曲はあっという間に進行、終わる。もっと歌いたい。もう1曲加えようか?しかし自分を戒める。賛美の大洪水は、天の御国でよい。ここは地上だ。浸りきっているいとまはない。先は短い。急がねばならない。
2018年10月11日
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「モーセ」浅野順一(岩波新書)©1977 を読む。浅野先生とは、若き日一度だけお目にかかった気がする。確か真っ白な髪がふさふさしていた。かつての青山学院神学部の先生で、ボクのボスの恩師でもあられる。お二人とも天国におられる。ボクもそこへ行く。安心して読めるのは、翻訳のぎこちなさがないから。これは助かる!一般人を読者に想定しているから平易である。ただ専門的な部分もある。ご自分の浅学を告白しておられるところがある。牧師と、学者の両立は大変だった。牧師をなさっていたから、読者への配慮が随所に表れるこんな本が書けたのだ。「勉強ばかりしていると、伝道への思いが高まり、伝道や牧会に時間をとられていると、学問への思いが高まる。」どこか他の所でこんなふうに書いておられた記憶がある。さてどこを引用しようか?「神のごとく正しく厳しいモーセは民の前にでる時のモーセであり。人間らしい謙虚・柔和なモーセは神の前に出るときのモーセである。このような矛盾が一つとなって働いているところに、われわれがモーセから教えられるところが多い。」(「モーセ」71頁)
2018年10月07日
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ボクたち家族は皆、モンゴルからの力士を応援していた。白鵬、はにかみ屋で凜々しかった。日馬富士、速攻相撲。相手に全身全霊で突き刺さっていく。鶴竜、小さいのに相撲のうまさは抜群。でも人は強くなると変わっていく。それは人である悲しみなのだ。ダビデだってそうだったもの。あの苦しんで上っていく時代の初々しさ、すがすがしさはいつしか消えた。相手が脳しんとうを起こすような恐ろしいエルボーボクシングのような張り手。そこには憎しみさえ垣間見た。勝負がついた後にも、土俵下にはげしく突き落とす。いつかは辞めなければならないその恐怖心と孤独感を払い落とすかのように。あの美しい相撲はどこへいってしまったのかと、心は悲しみでいっぱいになる。土俵の外ではいつしか白鵬はモンゴル・グループの父親のようになり日馬富士は、母親のようになりグループに入りたがらない貴の岩に、日頃の態度についてお説教聞いている態度が悪いと、熊のように殴りかかる。異常な雰囲気。かつての過激派の壮絶な集団リンチを連想。グループには時に魔物が棲み着く。そんなグループさえなければ、そんなことは起こらなかった。ああ、そんな悪い仲間意識が相撲界から、また社会からなくなるように。
2018年10月04日
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中高生時代、剣道を放課後楽しんだが、昇段試験に臨むと、「型」のテストがある。なんだこれ? 型などつまらない、なんて思っても型を練習型のテストの後は、試合のテスト。「勝てばいいのではないよ、型に沿うことを心がけよ」と先輩。武道にはみな型があるのだろう。相撲は特に型を重んじるような気がする。土俵入り、塩撒き、立ち会いの前のしぐさ立ち会い顔を張って相手をひるませたり、くるっと身をかわしたりするのは型にはないだろう。ガンとぶつかり、ぐぐーと押していく。それが「型」だ。相撲は力比べが基本だ。相手にケガをさせないように心がけることも大切と思う。そういう相撲取りは、優勝できなくても、大好き。優勝は、努力の結果自然に付いてくるものだから、過度にこだわらないでほしい。型にこそ、こだわってほしい。
2018年10月03日
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「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」ヘブライ書12章7節繰り返される災害を、キリスト教徒として、信仰ある身として、どう思えば良いのかな、と思案していると、この聖書の言葉が心に浮かんできた。神からの、耐え忍ぶべき鍛錬なのかな。こんなふうに神はボクたちを訓練されるのかな。良いことも、つらいことも、何かが起きるたびに、神に心を寄せる。それが信者へのテストなのだ。不信仰者なら、何が起こっても、それを神を拒む理由とするだろう。神に心を寄せる。病気になっても、病気が治っても。子供が生まれても、生まれなくても、子供が死んだとしても親・兄弟を亡くしても、神に心を寄せる。そうだ、神に心を寄せよう。
2018年10月02日
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雨模様の朝は、90歳の母を養護老人ホームに迎えに行く。礼拝は、ペトロの手紙1最終回。雨は上がり、母は弟に六実駅まで送られて、あとは一人で帰る。ひと日の終わりは、近所の散歩。1600歩ほど。台風に備えて2階の雨戸を閉める。雨戸がかみ合わなかったり、押せば外れてしまう場所もある。8時頃寝床に入り、11時頃目覚めると風雨が雨戸を揺らしている。夜が更けるにつれて、風雨は激しく、まるで地震のように建物がぐらぐら揺れる。ガガーと、トタンのようなものが落ちる音ガシャンと、ガラスのようなものが割れる音もする。隣家の玄関ガラスが壊れたのだ。向いの物置の屋根の一部が飛び直撃。老夫婦が段ボールの切れ端を賢明に貼り付けていた。手助けしたいが、外は荒れて道具もないので、申し訳ないが家に戻った。3時を回る頃、ボクも眠りについた。夜が明けると晴天だった。何事もなかったように、10月1日が始まっていた。夜になって散歩に出ると、夜空には綿をほぐしたような白雲が一面に広がっている。穏やかな空の下に地震あり、台風あり、豪雨ありアンバランスなボクたちの人生を映し出しているのかな?黙って教えているのかな?
2018年10月01日
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