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旅の3日めの4月2日朝食の後 呉市内を流れる堺川沿いを皆で散歩がてら下り、再度呉港に出て、10時出港の艦艇ツアー船に乗り込み、自衛艦のもっと近くに寄ってみることにしたが、生憎最大艦の空母 加賀 は一時間前に出港した旨、判っていれば前日に乗ればよかったとガッカリだった。そんなこんなで呉を離れ、小一時間ほど鉄道にゆられ広島駅で 皆と又の再会を期してお別れした。H氏はこの旅の仕上げに 市内電車で「平和記念公園」前で降り、原爆ドーム前に降り立った・・。戦中派最後の世代として、嫌でも どうしても目に留めて置かねばならぬこの場所は、思わず圧倒される景色には違いない・・・。 写真を撮りつつ周囲を眺めてみると、アメリカンスクールの児童達を含め、若者や年寄りも含め、外人が非常に多く、周囲を巡り歩いていることに気づいた。それは 橋を渡り 一番南端の「広島平和記念資料館」に入場しても 凡そ半数は外国からわざわざこの平和記念公園に来ている事は、何か日本人だけで傷口をなめあう為に訪れた時期とは随分変わってきているのを実感させられた・・・。館内に入り 係員に写真撮影の許可を尋ねた処 ほぼフリーで OK との事・・で。原爆投下以前のある日の穏やかな風情の中に「県産業奨励館」のドームが一際あざやかな元安川・相生橋近くの中州沿いに建つ景色を近くのビルのハイアングルな角度から撮った風景写真をコピー撮影し、ほぼ同じ角度のローアングルから 撮影した 原爆投下後の 惨めな姿に一変した様子も思わずコピー撮影した・・・。或いはわが身も同じめに遭ったかも知れぬ 展示物を見ながら思わず 目頭が熱くもなり、再びこの惨劇を繰り返してはならないことを心に誓い 署名簿を提出して館外に出たが帰り道の元安川沿いの風景は 桜も満開で あくまでも平和そのものに明るく輝いて見えたことだった。
April 10, 2018
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翌日早目の朝食は Hotel直属の小料理屋で家庭料理風のセットで摂ったが 中々乙な味だった。因みに前日は道後温泉商店街で今が旬の宇和島の「鯛めし」、これも癖になりそうな風味だった。電車でJR松山駅に出て、松山観光港まで直行バスで20分、周遊券でセットになっているジェットフェリーの一等船室で凡そ1時間20分の 伊予灘の船旅を満喫し、桜の花盛りの音戸の瀬戸の狭い瀬を抜け、日新製鋼岸壁を通過すると 海上自衛艦の母港・・稜線に咲く山桜を背に あらゆる自衛艦が屯し、分けても大きな船影は 間違いなく最新鋭のヘリ空母。(寄港後尋ねると へり空母加賀2.6万トンを始め 練習艦船数隻に紛れ そうりゅう新型潜水艦も3隻ほど屯していた)港から 長い通路を歩き、待ち合わせのJR呉駅まで来ると程なく7名が全員集合。再会を寿ぎ、また港までバック、先ずは男なら皆あこがれた事のある(戦艦)「大和ミュージアム」へ行き矯めつ眇めつ、下から上まで眺めまわし、過ぐる日の呉で生まれた雄姿を回想・・・更に同館 別スペースには 特殊潜航艇 回天や 零戦まで 展示あり。昔少年の琴線をくすぐられた後、現在も 屋久島沖に眠る 大和の残骸調査ビデオに胸を痛め続いて2004年まで現役だった潜水艦「あきしお」の鎮座する「てつのくじら館」に移動。内部の操舵室では 潜望鏡を覗き込み 軍事少年気分を堪能。大正~昭和20年期、そして今に続く呉の造船技術の凄さを改めて思い知らされた事だった。その晩の 同窓宴会も勿論 大盛り上がりだったが、二次会に訪れたカラオケでは年若い地元の青年が誰に教わったのか「愛国行進曲」「ラバウル小唄」等の軍歌カラオケに圧倒されたのも呉ならではの珍事であろうか・・
April 9, 2018
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年初より お誘いあった会合に出席の為 3月31日からお気楽な一人旅に出かけた。目的は半世紀も前の社会人一年の折に 同じ会社に新入社員で入社した気の置けない連中との久しぶりの懇親会を「呉」で やろうとなり、その目的も、戦艦大和の原寸の1/10サイズの模型館や 実物の潜水艦を見学しようという趣向に、久しぶりに子供に帰り、一も二もなく参加申し込みしたもの・・・・・。偶々JRのツアーを調べて、関西から岡山迄の「のぞみ」を乗り換え、特急「しおかぜ」で瀬戸大橋線経由で松山に向かい更に松山観光港から船で呉に行き、広島経由「のぞみ」で帰阪する格安ツアー切符を見つけ 二泊三日の旅を企画し、これが丁度早目の桜鑑賞旅行ともなり、春旅を楽しんで来た。松山では下調べもせず、道後温泉方面行きの電車に乗り込んだ為、これが松山市駅行きで松山城方面に戻るのに予期せぬ徒歩行となったが 、まあそれも一興。先ずは県庁裏手の旧松山藩主久松定護 別邸「萬翠荘」と その庭園の見事な桜を見物。 初日目的地の安藤忠雄設計の「坂の上の雲ミュージアム」をじっくり見学させてもらった。司馬遼太郎が40代ほぼすべてを費やして小説「坂の上の雲」を完成させた訳だが秋山好古・真之の明治期の軍人としての生き方や正岡子規の文才が集積したのは、此処松山の風土と歴史が大きく貢献していた事が 改めて理解できました。世界的には当時新興国にしか過ぎなかった明治日本の若者たちの向上心が如何に純粋で、又時代の流れも 日本に味方して衰退期ロシアに辛うじて負けずに矛を収め、そのことを心に刻んだ軍人の謙虚さこそ、日本の教示として伝えてゆくべき処、 1905(明治38)年 5月7日 日本海海戦当日連合艦隊出撃に際し司令部幕僚 秋山真之が起草した電文「本日天気晴朗なれども波高し」と付け加えた。 内務大臣を辞して降格人事を自ら志願し満州軍総参謀長となった児玉源太郎は日露戦争直後55歳で、日本海軍の名参謀 秋山真之は大正7年49才の早世も災いし、結果的には『勝った勝ったの下駄の音』よろしく神国日本の説話のみ信奉する国民と、それをあげつらう一部軍人政治家の思い上がりで その後の昭和期20年間に我が国の運気を使い果たし、敗戦国日本になっていったのはご存じの如く・・・ 、昨今の「ええとこばっかりを拾い集め、不都合を隠す」危うき政治手腕に、明治150年期も否定はしないが、過去を三省し、運気を使い果たさぬ事も大事と、道後温泉に浸かって しみじみ思い知った次第・・・。
April 9, 2018
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