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現在形の批評 #7(俳優)・伊藤俊人 悲しみを感じるコミカルさ今回は私たち記憶から忘れ去られないよう、は2002年5月24日に逝去して今年で3年が経った俳優、伊藤俊人について記す場にしようと思う。日芸出身の彼が同級生だった三谷幸喜が主宰する劇団「東京サンシャインボーイズ」に参加したのは1990年、「12人の優しい日本人」と題された陪審制度を扱った舞台でだった。その舞台で伊藤はその場の空気が悪くなるのは議論を進める上で不都合が生じるために仕方なく仲裁に入るという典型的日本人の一人を演じた。「90年代初頭、最もチケットが取りにくい劇団」にまで成長させたのは間違いなく三谷幸喜も語ったように機転が利いた伊藤俊人の存在が大きかったのである。それを示すエピソードとして、ビルに締め出された住民を描いた舞台「もはやこれまで」(92年・東京サンシャインボーイズ)で、まだ出番があるにも関わらず奈落に落ちた小林隆を助けるためにとっさにからはこう言った「みろ! 一階に引っかかってるぞ!」。彼は悲しみを背負った人物を演じた俳優だった。上の者からの嫌言と下からの突き上げの中で右往左往して取り持つ人間を演じる彼が忘れられない。その代表作が舞台「ショウ・マスト・ゴー・オン」(初演・91年)、TVドラマ「王様のレストラン」(CX系・95年)である。そこには青い悲しみに溢れていた。己を犠牲にしても周りとの調和を重んじる。決して黒色ではない、青色のような悲しさとコミカルさが混じる演技は我々日本人的ないい人が見事に存在していたのである。もちろんこれ以外にも、冷徹でサディステックな演技も得意としていた。TVドラマ「TRICK2」(ANB系・02年)や「踊る大走査線」(CX系・97年)での演技はそれである。また、敏捷性溢れる身のこなしはタップから培われたものであり、身体能力も高かったのである。もし、今でも生きていたなら八嶋範人はこんなにも売れてはいなかったはずである。なぜなら、抜群の敏捷性があり、つっこみ役が出来て笑いが取れ、それだけでなく、そこに悲しみが加わることによってそこはかとない重層性のある演技をする彼と比べれば、似ているようでいても八嶋範人ではやはり一歩引けをとってしまう。最後の舞台作品となった作・演出三谷幸喜「VAMP SHOW」(パルコプロデュース・01年)は是非観ていただきたい。DVDも出ている。きっと伊藤俊人の演技力に感嘆するはずだ。
Sep 27, 2005
現在形の批評 #6(テレビ)・「女系家族」舞台が変わっても面白くなる8月27日、朝日新聞のライター・島崎今日子の「女系家族」(TBS系)についてのコラム。彼女はこのドラマを俳優良し、脚本良しで「なかなかの出来」と評している。が、「イマイチしっくりこない」理由として舞台が原作の大阪・船場でなく東京に設定したため、「迫力がな」く「物語は味気ないもの」になっていると結論付けている。果たしてそうだろうか? 私もこのドラマを毎週楽しく見ている。島崎が言うまでもなく俳優、脚本は良いのだ。「エゴと欲望」が渦巻く人間模様がよく表現されている。だったらそれでいいではないか。島崎は無理に大阪を舞台にすれば「ステレオタイプ」になり「腹が立つ」と言ってるにも関わらず、だ。このドラマの核は何か。それは米倉涼子扮する浜田文乃の魅力に尽きる。嘉蔵の愛人として子供を身ごもっただけで満足で、遺産やその他一切を必要としないと三姉妹に言い切った彼女だが、真意は他にあるはずだ。今週こそ米倉の本章が出るぞ、と思いながら見るのがこのドラマの見方である。いわば感情移入の役どころを引き受けており、ころっと態度を急変させて切り替えした時にこそ私たちはカタルシスを覚えるのだ。下手な大阪弁を語られると、特に大阪出身の者ならばそういう見方は出来なくなるのだ。別に大阪に舞台を移すドラマがあってもいいが、このドラマの場合はその必要がないのであって、土地色を出したいのであれば東京の下町あたりに設定すれば済む話である。「ステレオタイプ」になるのは大阪弁だけが原因になるのではなく、見え見えの演技と脚本だからである。こういった類のものを「説明的」と言うのだ。その点、行動が読めない浜田文乃という人物と、見事に演じきっている米倉涼子の存在の果たす功績は大きい。原作が作品世界を最も表現していると思うのは戯曲第一主義の「新劇」と同じなのだ。
Sep 27, 2005
現在形の批評 #5(舞台)・大人計画『キレイ』 8月12日 シアターBRABA! ソワレ大劇場で公演するということ90年代、サブカルチャー路線の作風でナイロン100℃と共に「静かな演劇」とは一線を隔した活動を続けてきた大人計画。今や確実にエピゴーネンが増え続けるほどメジャーになった劇団の初見。はっきりいって楽しんだ方ではない。方ではないとは曖昧な表現だが、その曖昧さは作品自体にも言えるからだ。三つの国に分かれ、100年もの間、民族紛争が続く“もう一つの日本”。民族解放軍を名乗るグループに誘拐され監禁されていた少女(鈴木蘭々)=成長したケガレ(高岡早紀)が10年ぶりに地上へ逃げ出す。記憶を失った少女は自らを<ケガレ>と名乗り、出生の秘密を探りながら本当に<キレイ>と呼べるものを求める「ミュージカル」。作品の骨格はかなり骨太な戯曲が根底になっているのだが、ミュージカルに肝心な歌が効果的に役割を担っているように思えず、笑いを誘うため、また、劇場を照明と音響でいっぱいにし、観客をそれなりに満足させるためだけにしかその機能を果たされていない。それは役者についても言えることである。いわゆる個性豊かなキャラクターとギャグで溢れ、全体を笑いで引っ張ってはいるが、役者の表情も身体の厳密な状態も分からないくらい後方にいた私にはどうしてもその面白さが伝わってこないのだ。鈴木蘭々と阿部サダヲが光っていたぐらいでその他の役者に至ってはかつてビデオで観たキャラメルボックスの役者のように台詞の洪水を浴びせてくれるだけである。座った位置が問題だったのか。そんなことはない。かつて大阪MBS劇場として、劇団四季の常打ち小屋だった時に観劇した『アイーダ』はそんなことは思わなく、オペラグラスを用いた程、後方に座したが十分に楽しめるものだった。あらゆる音波が席に座っていても身体に伝わってくる感覚はさすがと唸ったほどだ。確かに遠くから見ていることには違いないが、物理的に身体に何かしらを感じさせることによって舞台との距離を内在的に縮めていた。大劇場での公演の最大のリスクはこの距離にあると言って良い。舞台は全ての観客を等価に観る情報、体感する熱気を提供するべきである。多少座る位置によって観え方が変わるとしても小劇場ではまずそういった事態は起こらない。鈴木忠志の言を借りれば「非動物性エネルギー」に集約される舞台機構の仕掛けに頼らざるを得ない大劇場での公演に不可欠な、情報を伝達技量が明らかに不足していたと感じさせられた。
Sep 26, 2005
現在形の批評 #4(舞台)・尼崎ロマンポルノ『ワルツの女』 8月14日 in→dependent theatre 2nd マチネ 逃れたい、しかし依存してしまうコミュニティ旗揚げ2作目。前回公演『演廓の中、男子の悲しみ』に比べ、やりたいことが伝わってきた作品。 宗教も家族も依存し合ってる点では息苦しさは禁じえない点で同義だ。そのより所である教祖=親が壊れてしまったら従う者(信者・子供)は迷走する。 宗教も家族も所詮は小さなコミュニティでしかない。小共同体だからこそ阿吽の呼吸が成立する。しかし、そこに含意するのは、自分のことは今更言わなくても分かってくれているという自明を基に接することで呼び込んでしまう悲劇である。 自立自立と急き立てる家族の求めにうまく応じれず失敗した者の駆け込み寺としての宗教は、結局包容してくれる存在を求めることに落ち着いてしまうからこそ二律背反になるのだ。 その事を父と姉、ラジオ編成局員とDJがそれぞれ家族、所属する宗教について話す台詞をオーバーラップさせたシーンに如実に表れている。 全体は笑いで引っ張る舞台だが、「どや!」と言わんばかりの演技が多くわざとらしく見える。力を抜いてギャグでないと思わせるギャグ、つまり関係性のどうしようもない所の笑いをやってもらいたい。観客の間を掴まない限り笑いが発生しない芸人コントのような押し付けがましいギャグよりも、まずは関係性の笑いを軸にした正当を目指すことで、主題が孕むグロさも強調されてくるはずだ。
Sep 26, 2005
現在形の批評 #3(舞台)・燐光群「上演されなかった『三人姉妹』」捕われの身になった観客『CVR』や『ときはなたれて』といったセミドキュメント劇を上演し『だるまさんがころんだ』では現代の戦争状況を笑いの要素も巧みに盛り込んで批評してみせた坂手洋二は今最も脂が乗っている劇作家・演出家である。これらの作品が上演された彼が率いる劇団燐光群は20年を越える歴史があり、精力的に海外ツアーも敢行するなど主宰者と集団は最高の舞台創造状況を築いている。 今回の新作「上演されなかった『三人姉妹』」を7月22日、兵庫県立ピッコロシアター・大ホールで観た。 見所はやはり何といってもその演出力の見事さである。通常、関西公演ではAI・HALLや精華小劇場といった場所で上演することが常な為、「大ホール」で上演することを知らなかった私は少々戸惑った。 席に着くと舞台には大きな暗幕が掛けられており見えなくなっている。そして前から3列目までは空席になっており、観客は座ることができない。この空席の意味は何? なんてことをぼんやり考えていると客電も落ちず始まり、俳優が一人、また一人とやってきてぽつぽつ語る。内容は『三人姉妹』を上演していた劇場に突然、反政府ゲリラが乱入し場内を占拠したことを証言する、その舞台を観劇していた観客の回想であった。 その後、暗幕が落ちるとオーリガ・マーシャ・イリーナが現れ台詞を発する。すると突然、サイレンが鳴り響き、反武装ゲリラ達が客席後方や舞台袖からも多数やってくる。約3年前にロシアで 武装派勢力がモスクワの劇場を占拠し、多くの観客が犠牲となった事件が下敷きとなっていることを我々は了解する。 ここで全ての設定が了解する。前列3列の客席は、冒頭に回想する観客役の俳優の席だったものであり、舞台装置として扱っているということ。それと同時に私たち「本当の観客」も反武装ゲリラに扮した役者達によって包囲され、事件に巻き込まれてしまった当事者であること。坂手は巧みに劇場機構内にメタ位相を持ち込んだのだ。 母国から軍隊の撤退を要求するため乗り込んだ「虚構」のゲリラ達によって、「本物」の劇場と「虚構」の役を演じる俳優、そして「本物」の観客がんだに占拠される。そこに、チェーホフ『三人姉妹』の、出来を希求しながら実行できない人間模様がこの現実状況に重ね合わされて進行する。劇設定と劇内容の2つが虚実入り混じり展開することで、虚構が現実に侵入して反転させる暴力的な劇性がここに発生する。もちろんそれらをひっくるめての舞台上演であるためことは理解している。実際に生命の危機を覚え逃げ惑う混乱は生じはしない。だが、進行する芝居を見守り理解しようと、今いるこの席に踏み留まることは、舞台が上演される劇場の公共空間を死守しようとする闘いと同義の想像力が生まれる。 この舞台の入れ子構造は複雑で、『三人姉妹』を深く理解していないとはっきり言って細部までどう絡んでいるかが明瞭に見えてこない。かく言う私もその一人であり、完全に理解はできなかった。しかし、大劇場の空間を見事に利用して、舞台を観るという行為自体が能動性を孕んでいること、その維持が公共空間におけるテロとの闘いという我々の問題として突きつけた導入の演出は見事だ。改めて、坂手洋二が芸術と社会、戦争と人間を追及し続けてることに大きな「意志」を感じ取った。
Sep 26, 2005
現在形の批評 #2(戯曲)若き才能 「せりふの時代」2005年春号掲載、長塚圭史「悪魔の唄」は是非読んでほしい作品である。 古い洋館のリビング。苦悩を抱えて生きる夫婦のもとへ第二次世界大戦を戦った若き兵士達がやってくる。彼らは亡霊としてかつての恋人(後々亡霊だと判明する)がいる洋館へとやってきたのだ。 浮気がどうのこうのと小さいことに悩んでいる夫婦の姿は、「大日本帝国万歳」と喜んで戦死していった兵士達には貧弱に見えるだろう。 しかし、兵士全てが望んで死んだのではなく、実は恋愛を謳歌したかった兵士が描かれている。ただし現代人にない「魂」を彼らは持っている。現代と戦中をシンクロさせ、人間の普遍性を描く長塚は素晴らしい。 ラスト、「米国に、いや、その男に日本人の魂を見せつのだ!」と外に出、太陽を浴びてしまい文字通り本当に死ぬ兵士達。しかし、恋人と再会することが出来た兵士には今度こそ何の未練もないのだ。戯曲を読んで久しぶりに泣いた。 小林よしのりに代表されるようなプチナショナリズムの風潮は良いか悪いかは分からない。が、この戯曲を読むと本来の日本人の「心」というものは想像できる。 これを今年30歳の長塚が描いていことの意義がある。 骨太で感動できる作品。
Sep 26, 2005
現在形の批評 #1(舞台)演劇でしかできない「演劇」とは現在の若い世代の舞台作品-とりわけ関西に限ってみても-はコメディか身の回りの小世界を扱ったものが主流である。2005年2月から7月までロクソドンタという劇場で行われた演劇フェスティバル(注)の一般審査員を終え、よりその実感を強めた。例えば、6月4日に上演された劇団ババロワ#『よそいき。』(作・演出 高瀬和彦)も例に漏れず、昨年からの純愛ブームと笑いを織り交ぜ、同世代の観客がすんなりと作品世界に投入できるように作られている。しかし、その内容は決して質の高いものではなかった。小説家志望の柴原修平(平中功冶)宅から、同棲相手である木下アカリ(高橋恵美子)が出て行き、お見合いパーティーに参加する。しかしそれは、木下が柴原の本当の気持ちを確かめるべく行った愛情を計る行為であったのだ。それを柴原は勘違いし、彼女を取り戻すべく自らもパーティーに参加。最後は誤解が解けハッピーエンド。途中、柴原が執筆中の小説(恋愛物)をメイドとしてやってきた小村マキ(向田倫子)の助けを借りながら展開する場面がある。採用したアイデアとは、柴原と木下が前世からずっと運命的に繋がって、決して離れることはできないという願望を含めたものだ。これは柴原と木下の関係の伏線にもなり、ラストの復縁へと繋がるのだが、それが弱い。小説世界で前世まで遡り、柴原と小村が劇中劇まで演じたのなら、そこから時空を越えた冒険譚といった具合に破綻するほどのめり込んでゆく幻想物語にまで発展できなかっただろうか? 終始現実世界の恋愛事情を描くのなら、別に劇場へ行ってまでわざわざ観なくても「セカチュー」を読めばいい。身の丈にあった芝居では衆目に見透かされなめられてしまう。演劇が孕む制度を援用または裏切って、観客の意識をかっさらってくれるような芝居が観たい。彼らにも日常に対する違和があるはずである。それを如何に虚構として成立させるために不審しているか。「私たち」の問題として想像力の触手を椅子に座っている者の肝を捉えるか。その格闘の様が一瞬でも垣間見られた時に、同世代の心情を代弁する集団への第一歩が始まるのだ。(注)ロクソドンタフェスティバル「「演劇なのに、戯曲にしか賞がないのはおかしいじゃないか!」という大疑問を解消すべく、アマチュアからプロへの橋渡しととして小空間における表現を劇場と劇団が共に探ることを目的とし、意欲的な活動を実践している劇団を応援している演劇祭」「 2003年に第一回目を開催し、それ以降毎年回を重ね」ている。「団体及び審査員は自主参加形式によって選ばれ」、2006年ロクソドンタフェスティバル4から「フェスティバルで上位入賞団体は、年末に芸術創造館で行われる大阪セレクション(主催 大阪市)へ」の再演資格が与えられている。(劇場HPより抜粋)
Sep 26, 2005
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