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現在形の批評 #65(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・桃園会 『a tide of classics』・兵庫県立ピッコロ劇団『場所と思い出』6月16日 ウイングフィールド マチネ6月17日 ピッコロシアター マチネ記憶のある風景生きている限り我々は日々誰かと接し、何かを見聞きし、物の質感を肌で感じ続ける。それらの堆積が記憶となる。それは準拠枠として耽溺することで保証される、現時点での私性の一助であり、未来のあり得べき自己への視座を見定める里程標でもある。同じ根から出る異なったベクトルが人間を支えている。言うまでもなく、その日その時に起こった出来事を逐一ストックできるわけではない。主に睡眠時に行われる大脳での取捨選択を経て、重要度の低いものは葬り去られることになるのだ。だが、外界から与えられるふとしたきっかけによって、葬り去られたはずの記憶が潜在意識下の無意識領域へ引っ張りだされ、それを契機に芋づる式に過去遡及の時間旅行を送ることを私達はしばし体験する。対人はもとより、記憶誘引作用をもたらすのは物や景観によっても成されるから、それらも固有の意志を孕んでいると言えるかもしれない。もしくはそれらに、「今ここ」に生きているという同時代性を得るための恣意的な自己鏡像を投影しているのかもしれない。いずれにせよ、良くも悪くも種々様々に渦巻く記憶を拠り所にしながら私達は有機的生命を前駆させている。そういった意味では身体の奥深くから同心円状に広がるように、記憶というものが我々の生殺与奪を握らんばかりに支配的に君臨することの不幸がある。しかし、それが基となって派生する種々の行動こそがドラマ=対話を立ち上がらせる原初的なものでもあるのだ。記憶を巡る二つの舞台について触れていきたい。岸田國士戯曲の上演に挑戦した桃園会『a tide of classics』と別役実戯曲を松本修の演出で上演した兵庫県立ピッコロ劇団『場所と思い出』である。未見であるが、深津篤史の岸田戯曲演出については、評価を得た05年新国立劇場公演の『動員挿話』(読売演劇賞 演出賞・作品賞)が先行しており、『紙風船』『驟雨』『留守』『可児君の面会日』の四本をまとめた今作は、それを踏まえた上での試みであろう。日替わり上演のため、私は『驟雨』以外の作品を観劇できた。結論から言ってしまえば時代風俗は異なるが、日常世界に住まう市民のちょっとした内面の襞やニュアンスを丁寧に掬い取って心象風景として立ち上がらせる、岸田戯曲の完全なる「文学的世界」に心地よく浸ることが出来た。確かに「静か」系と称される、日常の淡々とした一コマを切り取った作品の洗礼を浴びせかけられた90年代演劇を通過したからこそ、こういった作品を受容する素地が形成されているとは言える。いや、「静か」系の特徴である、円卓を囲んで繰り広げられる、平穏な日常を一歩外に出れば、我々の想像だに出来ない悲惨で無意味な権力闘争が世界史レベルで勃発しているのだという、ふり幅を対比させるという政治的効果は少なくとも今作でセレクトされた岸田戯曲にはない。あるのはただ徹底した小市民の戯言にも近い卑近な日常現実世界なのである。日曜日の午後、ささやかでとりとめもない会話を交わす夫婦(『紙風船』)、主人の居ぬ間に近所の噂話に花を咲かせる女中(『留守』)、月に一度の面会日に面会客が殺到してしまい、右往左往する小説家(『可児君の面会日』)といった具合に、日本の歴史においてエアポケットのように泰平だった大正期をそのまま表した、足元の暮らしをゆるやかに送る登場人物達の振る舞いや生活感は、限りなく日常であることで限りなくしあわせで、限りなく明るい。『紙風船』で描かれる夫婦の妄想会話にしたって、退屈を持て余した暇つぶしには違いないが、そういったことが時折顔を出すことも含めてしあわせな日常なのであって、決して内向的でなければ孤独感や絶望感も感じさせない。したがって、言葉や振る舞いは全て外部=他者へとやさしく投げかけられる。私は舞台を観ながら、岸田國士はベケット的世界の真裏に位置する作家ではないかと思った。つまり、『紙風船』の夫婦は『ゴドーを待ちながら』のウラジミールとエストラゴンである。両者は退屈を過ごすという共有項目を境にしながら、絶望的状況の中で自己内省的に苦心惨憺やり過ごさねばならないベケット戯曲とは陰陽の位置に岸田戯曲がある。ただ、以上の現出に寄与しているのは、戯曲はもちろんのことだが、桃園会の舞台に常に張り付く観客の心理を宙吊りにする奇妙な空白を排した演出があってこそである。それに加え、『紙風船』で見せた江口恵美の上品でしなやかな演技と『可児君の面会日』で橋本健司の演じたコメディセンスの良さといった、役者陣の巧みさも抜きにはできない。この舞台が見る者に触発するのは、かつてあった安穏でのんびりとしたしあわせな日々である。それに呼応して我々は同様の記憶を奥底から再び引き起これるのだ。岸田戯曲に描かれる対話が現代性を持っているとすれば、幼児の記憶、あるいは時代回顧・追憶の喚起という過去耽溺が一つにあるのかもしれない。しかし、とどのつまり記憶は記憶でしかない。個人の記憶とない交ぜとなった既視感を抱きつつも、劇場を一歩出れば殺伐とした飼い殺しの社会が猛スピードで目の前を走り抜ける。この落差を改めて明瞭に突きつけられた我々には、現実との格闘の日々が待つ。潜在下に仕舞われていた記憶が外部作用によって誘引されて、自身の記憶と混濁した結果既視感を抱かせるのが桃園会の舞台であった。それが、何者かによる意図的な操作だとしたらどうか。ピッコロ劇団『場所と思い出』は、記憶の耽溺に浸らせようと人のいい顔をしてひたひたと忍び寄る外部作用の恐怖を描く。ここでは、既見感という共有風景を個々に喚起させてある効果を齎すことが、心優しさを装った管理する側の思惑でしかないことを示す。記憶というものが、自分の記憶、思い出だと言い切ってしまえばそれを受け取った他者は客観的に証明の仕様もない。バスを待つセールスマンにとってなんの思い入れも滞在する理由もない場所。バスが待てども待てども来ないばかりにその場所に住んでいると思しき人々の思い出に翻弄されてゆく。会話のささいな齟齬から蟻地獄のように神経症なまでの追求を展開する論理的なドラマツルギーが別役劇の特徴であり、その表出はたいてい、確たる自己基盤を形成している一人の男が召抱えている記憶=アイデンティティに他の人物が揺さぶりをかけるというものである。見えない大衆の無意識の暴力という管理性に翻弄され、骨抜きにされる小市民という、一対他の構図を現代社会の映し鏡として提示する。言葉巧みにセールスマンの身包みが剥がされる過程はまさにそれを可視化したものだ。あるかないか定かでない、その場で共有されている思い出(記憶)に、ふいに付き合ってしまったばかりに破壊される自己像が滑稽に描かれる。松本修の演出も注目に値するもので、ダリの絵を想起させかのような、せりあがった後景に電信柱とポストが埋まった砂地(白いシーツで処理)は、ぐにゃりと時と場所が捻じ曲がったまま滞留した、不定位な濃霧空間のようだ。その中を関西弁を操り、妙な生活感を出す登場人物が置かれることでより不気味さが引き立っていた。現在、ネットでは1000万IDを突破した「mixi」が驚異的な人気である。かつての掲示板やチャットよりも匿名性を配して参加できることが特徴で、そこでは一見貌を突き合わせたコミュニケーションが行え得ると錯覚してしまう。もはや極小とはいえなくなったこのサイバー空間で氾濫する個人性とはしかし、自由に脚色された仮想自己というデータ記憶で溢れる虚構空間でしかない。現実と虚構の隔たりがどんどん薄くなる中、演劇の果たせる役割についてもっと意識的になる必要があるだろう。今年、虚構空間にこれ以上なく耽溺可能な『セカンドライフ』が米国から上陸してくる。
Jun 25, 2007
現在形の批評 #64(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・演劇ユニット 昼ノ月 『顔を見ないと忘れる』6月10日 人間座スタジオ ソワレ貧困さを武器に強さへと変奏せよ人間座スタジオは、モデルハウスの玄関に射す光が醸し出す清潔さと同様の印象を受ける。だが、下駄箱からほんの二、三メートルほど進めば、やはり「いつも」体感するあの小劇場空間が口を開いている。劇場名から連想する古びた小屋ではなく、日常生活を営む家に付着する平穏さと演劇小屋の醜悪さが程よいバランスを保持しながら隣合っている。大通りを挟んでそう遠くない場所にあるアトリエ劇研を含め、住宅街にひっそりと佇んで溶け込んでいるかのような劇場立地は京都特有のものである。そういった場所で、鈴江俊郎が新たに始動させた演劇ユニット・昼ノ月の舞台は上演された。舞台空間に入って驚かされたのは、狭さではなく空間造形にある。コの字型の客席は、アクティングエリアを見下ろすように上方に設定されている。縦に細長くなった空間によって狭さがさらに強調されるが、私の座った最下層部は、足を宙にぶらぶらと浮かせることができるため、不思議な心地良さを感じることができる。劇場立地に見合うようにほどよく密閉さと自由が両棲する外枠は、この舞台のユニークさを際立たせる。さらに、見下ろして覗き込む感覚は、アクティングエリアへのことさらな注視を促す。。ブルー照明の美しさが華を添えていることも忘れてはならない。少ない手持ちを逆手に取ることの錯覚が限界効用を高めてゆくという貧乏芝居の極致に拘泥する鈴江俊郎らしい工夫であろう。だが、劇内部へと分け入ってみれば、さして目新しいものは発見できずにすっきりとまとまりすぎている感は否めない。天井から垂れた数本のワイヤーが空間を左右二分割している拘置所。そこで繰り広げられる夫婦の会話劇である。窃盗を繰り返してこれで四度目の拘置というしがなく情けない失態を繰り返す男と、そんな夫に見切りをつけ嫌気をさしつつも、それでも足繁く面会に訪れ続けざるを得ない妻の一種奇妙な関係性を描く。それは、タイトルでもある「顔を見ないと忘れる」という妻から発せられる台詞が端的にこの舞台の肝を示すものとなっている。ねじれた関係ながらも互いに求め合ってしまうことの支柱が、妻の優位性による所が大きいのが最大の問題点だろう。それがために所詮ダメ男とダメ女とのやり取りにしか私には映らない。夫が取るに足らない窃盗を繰り返して拘留されてしまうそもそもの始まりとは、親からも友達からも無関心な扱いを受けてきた子供時代、万引き行為によって関心を引き付けてきた経験が根底にあることが吐露される。だが、この行為に救いがないのは、万引きを誰にも見つからずに成功することは、自分に向けられる目が無関心であるという立場をいささかも変えることはなく、喜びは孤独さを一層増すことはあれ、他者との交流を取り結べない。残された道はわざと見つかって叱られ、いじめを受ることと引き換えに後退した関係を得ることであった。つねに孤独の円環をなすことを知りながら。このいじましいバックボーンを根拠にするしか他者との関係の取り方を知らない男、それを結局のところ許してしまう妻の態度は以前から、そして今後も無限ループよろしく続いてゆくことが容易に想像できる。つかこうへいの描き出したマゾヒズムの隷属関係というものでもなく、両者の関係は動かしがたく固定し完成されたものとして容認しており、「顔を見ないと忘れる」という文句はとりあえずの納得する着地点として常に使用されているものである。立場が複雑に入れ替わるシーソーゲームがつかの世界だとすれば、この作品の登場人物とは、互いの立場を保障するためだけに相手を必要とする、安定し釣り合った天秤状態を維持し続ける。内容もさることながら、そもそもワイヤーロープを境に登場人物の位置が変わることなく固定されている点に演劇的変化が乏しいことに、単調さから抜け出すことができない要因の一つがあろう。そういった中では俳優の演技力がことさら重要になってくるのは言いうまでもないが、二口大学と押谷裕子の演技はことさらは言葉を相手に届かせることよりも自らのいじましさを熱のこもった台詞回しで語り続けることに終始し続けたために、モノローグ的で自己完結的な戯曲構造に引っ張られたままであった。なによりも演劇の本質である、身体による空間の変容が、先に指摘したワイヤーロープによる左右二分割によってあらかじめ封じられているために、言葉は一直線に放たれる他なくなった。演技合戦という生身の身体のぶつかり合う過程から浮かび上がる、現在進行形でしか感じ取れない襞というものを互いに掬い取ろうとする共同作業があればこの舞台の手触りはもっと違ったものになったはずだ。ただ一箇所、両者が一度だけ手が触れるシーンがある。唯一血の通った交流を私はそこに見たが、それは夫の回想シーンであり、妻は夫の会社の同僚に見立てられている所がポイントとなって印象的なものとなっていた。このシーンのような個人の倒錯したいじましい「ねじれ」を、時折挿入される日本の刑務所の面会制度の不合理さとはっきり対比させて闘争劇に仕上げるべきでなかったか。小さくなっても、したたかに抵抗し続けるというささやかな批評精神すらなければ、国家制度に屈した負け惜しみを繰り広げることにしかならないからだ。鈴江のこれまでの作風からして、そのことも念頭にあったとは忖度するが……。すり鉢状の見下ろす客席で行われることが、アクティングエリアを四角柱のようにくっきりと浮かび上がらせるという空間造形を最大限活用し、地の底から果てしなく劇場の天を突き破るほどの昇華力があった時、平穏と醜悪の隣り合った小劇場の本質へと辿り着くことができる。制度に馴致されて小さな関係を維持し続ける拘置人と妻を高みから見下ろすという単純な対比に私は何の面白みも感じないし発展を見出せない。
Jun 14, 2007
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