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現在形の批評 #63(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・南河内万歳一座 『滅裂博士』5月25 ウルトラマーケット ソワレ 「演戯人間」の終焉「魂」は存在するか。魂という字から想起されるのは、目には見ることのできない霊魂や精霊といった、人身を凌駕した超自然的な位相に慄きや敬虔さを伴って存在する、極めてアルカイックでプリミティブなものである。そこで、魂を「心」や「精神」という言葉へ置き換えるとどうか。途端に、我々に近接したものとして接近してはこないだろうか。心と精神を、五感に相当する感情とそれを制御する理性に至極簡単に峻別してしまえば、それは動物と人間とを分かつ最大要因となる。融通無碍な感情の湧出とその自制機能である理性との平衡が、我々の高度な共同幻想社会の通低路を開いてきたからのである。だが現代では、冒頭に記したような設問を抱かせる事態が人間一般に広がっているような気がしてならない。つまり、魂の存在への疑義である。もちろん、それはあるか泣きか判然としないものである。しかし、既に見たようにそれを心と精神へと置き換えることは可能だ。したがって私が言うのは、イメージと実感ができる様に置き換えられた心と精神の疑義ということである。という閉塞した時代状況は、魂すなわち心と精神なき人間が生息することによると言っても過言ではない。その象徴を私は愛知県の立てこもり事件が示しているように思われる。二九時間という、近年稀に見る長時間に渡った立てこもり劇は、一人の若き機動隊員の死と三人の負傷者を出した。私はこの事件の一連の過程で大きな失念を抱いた。この事件は死者を出すという悲劇の結末に至ってしまった。その原因はどこにあるかという問題については、確かに多くの者が言及するように、警察側の手際の悪さにあるだろう。だが、やはり追求されなければならないのは犯人・大林久人であろう。まるで子供をあやすかのように「あなたを助けに行くからね」と警官に言われ、両手を挙げて投降する大林容疑者の映像が流れた時をもって、人間の倫理と意志の完全な崩壊を実感させられた。人間的な心と精神の喪失はもとより、それを支えるある種の矜持の崩壊を私は感じたのだ。大きな失念とはこのことである。卑近な痴話げんかというあまりの身勝手な動機が、大事件にまで拡大するということはよくあることだし、歴史的な事件を取ってみても、程度の差こそあれ所詮この限りではないだろう。主観的な情動の激しい揺れ動きを、自制するはずの理性が機能しなかったということなのだ。ただ、この事件が奇妙なのは、犯人が犯人然としていない所にあるのだ。犯人としての矜持がないと言い換えても良い。大林容疑者があそこまで追い込まれてしまった状況に終止符を打つためには、二つの選択肢しかなかったはずだ。すなわち、警官による射殺か自殺。テレビ報道を見た者が警察を非難したのは、起こした騒動の大きさに見合う、我々が思い抱いていた犯人像でなかったからとは言えないだろうか。このような推測を行うのは、ある人物を念頭に置いているからである。場に存在する人間関係と、それを取り巻く状況に相応しい人物をストイックなまでに追求し捏造する「演戯人間」を70年代に登場させたつかこうへいの存在である。『熱海殺人事件』『初級革命講座・飛龍伝』といった作品でつかが「演戯人間」を描いたことは周知の通りである。敵となる大きな問題が明瞭に措定できた時代においては、それに打ち勝つことを最終目標に、連帯する集団に内在する意志と倫理を保てば良かった。組織の強固な維持はそれ故、そこに参集する人間に無条件でアイデンティティを付与する。だが、80年代以降敵が不透明となる。その為、仮想敵を苦心して設定しなければならなくなった。それは、集団の成立根拠を脅かす。攻撃のベクトルは内向きになり、その果てに集団は内部崩壊を引き起こしてしまう。その過程を現実に体現したのが連合赤軍事件であった。連合赤軍事件によって、時代相が180度転換したという意味では、メルクマークとなった事件であった。その後に登場した「演戯人間」とは、強烈な個性を持った集団に託せばアイデンティティが手に入った「個」人が、集団の自己解体によって人間個々自らがそれを獲得せねばならなくなって「孤」人と化した者のことである。パフォーマティブに振舞うことでしか、それを得る可能性ができなくなった時代状況では、あらゆる関係性を「それらしく」やり過ごすという苦心惨憺しか残されなかったのだ。たとえ手に入ったとしても「捏造」されたまがい物だと知りながら。80年代のキーワードである「ゲーム」、あるいは「レッスン」といった語が象徴するような一時の狂騒時代を通過し、もはや仮想敵すら見つけることができなくなった人間は、演戯することすら疲弊しきって「孤」同士の連帯を求めず、神経症的で視野狭窄に陥った「底流する人間」となった。愛知の立てこもり事件が突きつけたのは、そういった「演戯人間」の終焉だと規定できる。冒頭の記述に今一度立ち返れば、心・精神という意味での魂はなくなってはいないが、それを支え鼓舞する強固な意志と倫理、規律訓練すらも目に見えて欠損が知覚される時代を我々は生きている。長くなったが、以上のことを南河内万歳一座、春の新作公演『滅裂博士』を観ながら考えていた。不動産開発の推し進めにより、周囲は何もなくなって絶海の孤島のように孤立した病院。物語の主軸となるのは、ここを死守しようとする病院経営者や様々な事情を抱える入院患者であるが、マッドサイエンティストによる現実か虚構か判然としない人体実験の模様が思わせぶりに要所で挟み込まれるという劇構造を持つ。この舞台で内藤裕敬が提示したのは、意志・倫理や規律を声高に主張し墨守することの困難さである。雷雨の激しい夜、恐怖する何かに追い立てられて病院に迷い込んだ女が遭遇するのは、中央の手術室に横たわった人造人間が今まさに完成しようとする所であった。しかし、生命力となる魂が足らない為に頓挫してしまう。そこで、その場にいた女を解剖することにしようと捕えるまでがプロローグである。メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』に登場する怪物のように、墓場を掘り返して集めた部位の接木に電気刺激を与えるだけでは人間的生命を獲得することにはならない。ここでの魂とは、理想を矜持でもって追求し続ける烈火の如くたぎり立った生の原動力である。それがなければ、純粋物体にどんな万能化学を駆使したところで、再-駆動という幻想を可能たらしめることにはならない。魂の欠損は、劇中の現実場面に以後引き継がれる。先祖代々の墓はただの石だから後生大事に守る必要があるのか。自由に幽体離脱することが可能と嘘をついている入院患者は魂の存在を逆手にとって、周りの者に畏怖の念を植え付けることですき放題に振る舞い、自らの病気と向き合うことから逃げている。魂とは既に有るものではなく、想い・願うという倫理の強固な根を滋養にして生成するものである。既に記したようにその倫理の設定自体をどこに、どう持てば良いかが不透明な社会では、魂に辿り着くまでの道のりは果てしない。女が追い立てられた不確かな何かとは「胸騒ぎのそよ風」という台詞が表すように、そのような不透明さの中で生きることを強要する無言の圧力=世間の風潮のことであろう。「演戯」という対話方法すら消失したシニカルな「孤」の集積で構成される社会の中では、倫理や意思を語ることや、持続させる意志といった泥臭いものは黙殺されてしまう。演劇にしてもそうだ。芝居について熱く語ったところで、周囲の人間には無意味という洗礼を痛烈に与えられてしまう昨今、芸術というパッションとある種の高尚さは一層浮世離れしたものにならざるを得ない。魂なき人間が住まう時代で、とりわけ演劇という生身の肉体を手がかりに、宇宙の真理を開陳させんと目論む倫理性と矜持の持続は果たしてどれだけ可能なのか。それはつまり、風当たりの強さにどこまで強靭に耐えていられるか、それが内藤の今の問題意識としてはっきり提示されている。ラスト、病院経営者は土地を手放さないことを明確にし、女も自分が今存在することの意味を意識し、墓を守ろうとする。その後、今まさに女の体が解剖されようとするあの冒頭のシーンの続きがエピローグ的に展開される。解剖しようとするマッドサイエンティスト達は女に再び宿り始めた魂の力に抵抗される。しかしその時、病院は不動産業者の放った火によって業火に見舞われる。古くなって桃尻病院の桃の字が汚れ、通称「尻病院」と呼ばれるそれに放たれた火を前に女は「尻に火がついた!」と叫び、助けを求める。内藤にとっては珍しく、ささやかな夢の手がかりすらも打ち壊した幕切れであった。作品全体を通しても内藤の変化が見られる。南河内万歳一座の魅力であるアクロバティックな動きと、均整の取れたアンサンブルという振り幅の大きな集団力は、今作では冒頭とラストの解剖実験シーン以外目だったものはない。贓物が撒き散らされて禍々しさが全開するパワフルな猥雑さは、唐十郎の劇世界のような演劇的虚構力をしっかりと感じさせるが、大きな破綻はなく整然としている。そのため、女の迷い込んだ先は自分の脳内世界だったかもしれず、そうなると、非常に偏狭な劇世界に収斂してしまう。そういう点で小品な感は否めないが、演劇の倫理に拘泥し続けることの困難さという内藤の現在の反映として私は受け取った。開場して三年という節目を迎えたウルトラマーケットと共に、今後も南河内万歳一座には注目しなければならないだろう。
May 31, 2007

現在形の批評 #62(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・アルディッティ弦楽四重奏団+ケージ+白井剛 『アパートメントハウス1776』5月18日 伊丹アイフォニックホール ソワレ見事なイメージの共有が生み出すコラボレーションの形異なる芸術ジャンルが一つ所で共演する、所謂コラボレーションという方式の多くが成功しないのは、顔合わせの新鮮さだけしか考えない理念なき単純さが、組み合わせの新奇さ以上の何ものも生み出さないからである。しかし、アルディッティ弦楽四重奏団+ケージ+白井剛という取り合わせの成功はそうではなく、まさに「ハーモニー」を奏でるが如く身体・楽器から遊離したイメージ群が観客の想像力を刺激するからである。両者の間の親和空間の形成とその維持の一点に向かって、観客をも含めた場の全体が投企するかのようであった。したがって、この舞台はコラボレーションの一つの在り方を示した。白井剛が登場してからの第二部は私の予想を裏切るものだった。クラシックに知悉しているわけではない私にとって、それでもアルディッティ弦楽四重奏団による第一部が興味深かったのは、舞台真ん中で向かい合って演奏する彼らから、身体性の強さに気付かされたからである。四人は演奏開始の音合わせはもちろんのこと、観客席にまで聞こえるくらい終始、呼吸を合わせる。ピンと張り詰めた空気を作った身体が、流れような旋律を持たない激しい曲調の演奏を行う。それ故、何度も叩き付けられるように引かれた弦はとうとう切れてしまう。もちろんこのダイナミズムさは選曲に拠る所が大なわけだが、それを抜きにしても四人の身体+楽器から感得されるファナティックなパッションと、時に訪れる夜の海のような寡黙さとの見事なコントラストは圧巻である。そのために、いつしか我々は微動だにすることなく集中を彼らへと注ぎ続け、字義通り固唾を飲んで対峙する姿勢になるのだ。その後の第二部は、そういった緊張の中を白井剛が如何様に分け入って行くかが注目点となるのは当然だろう。鍛錬された姿態から導き出される審美的フォルムを、ただただ生音をバックに披露するという安易な手法を採るとは思ってはいなかった。しかし、少なくとも音楽(演奏者)を身体と拮抗するという意味で異なったベクトルと捉え、その間から透けて見える白井剛というダンサーの個性をその都度即興的に模索し、生きる様を提示するのではないかとは思っていた。しかし、白井剛が行ったのは演奏者+観客と「溶融」するというものであった。白井剛の身体は内向的なものとして存在した。場に存在する諸要素とあくまでも並列的に対置しようとする身体。高次のイメージへ奉仕する身体とでも言おうか。ちょっと内気な身体ながら、でも好奇心といたずら心に溢れた子供のような無邪気さが感じられる。白井の行動は、子供が舞台上をちょこまかと動き回っていたずらをするようなものであった。その過程の内に、開かれた外部へと場に居合わせた者を誘うに至った点は白眉であった。具体的には、演奏の高低・リズムに連動させて身体を動かせたり、演奏者の間に入り込んで指揮者の真似事をしてみたり、時に演奏者に触れてみたりといったものだ。おずおずとした性格を打ち負かしてしまう、「好奇心といたずら心に溢れた無邪気」な子供心は、しだいに場全体に瀰漫しゆきやがて和ませ、笑いすら生み出す。冒頭で記した「ハーモニー」たる所以は、白井剛の無邪気なトリックスター性にある。だが、決して場を掻き乱すのではない。子供なら誰でも抱く壮大な夢―大空への飛翔―への憧れという純粋さを、空間に存在するありとあらゆる人・モノに一陣の爽やかなる風を吹き込ませるように伝播させるやさしさに似たものだった。この舞台では浮遊するガス風船が重要なアイテムであり、「大空への飛翔」のシーニュの立役者として登場する。初めは、ひもに括り付けられた紙ヒコーキの質量に負けて床に付いてしまうが、やがて均衡を保って上空へ浮かんでゆく。その後方の壁にはケージの五線譜が投影されている。映像は滑走路を走る飛行機から、上空を浮遊する映像に変わる。そこに羽ばたく格好をした白井剛と弦楽四重奏団の演奏が加わる。ガス風船、映像、身体、音楽がミックスされた時の見事なタブローは美しく感動的ですらある。おそらく舞台の肝は、飛躍するイメージの共有を完遂するこの一瞬間の親和空間の形成にあると言って良い。そもそも第一部の硬質さと、第二部の親和空間とで構成される舞台自体に絶妙な緩急が認められる。決してどちらかが単独で主張することはない。音楽とパフォーマンスが溶融して表現されるシンフォニーの妙味がある。コラボレーションの目的とは、閉塞した個々のジャンルを再び開かれた地平へ押し出す過程であり、極めて自己内省的な思索作業が根底にある。単なる足し算では得られないイメージの創出を達成したこの舞台は、それに加えて音楽演奏、コンテンポラリーダンスへの問いとしてそれぞれの領域へと還元されるだろう。しかし、どうにもならない動かし難い事実があえて気になっている。上演空間は「劇場」ではなく、冠せられた「ホール」の名に相応しい三階席まで含めた収容人数約500人の中規模空間である。張り出した舞台はプロセニアムアーチのような固定した印象を薄めてはいるものの、前に座った観客の頭が邪魔にならない十分な傾斜角と座り心地の良い椅子、ウッド長の落ち着いた印象を与える色彩、果てしなく高い天井には瀟洒な照明機材が設えられている。これは小劇場ではありえない、このような空間にさほど好んで出入りしていない者にとっては、筏帆船にいるかのような居心地の良さは新鮮であった。それだけに、空間が発する高級さにこれまで記述してきた事柄を先導されたのではないかとの思いを正直感じる。もちろん、舞台内容と空間は必然的な関連性がある。高い天井ぎりぎりまで昇ったガス風船が照明の光を反射して美しく輝く光景はこの空間だから実現できたものである。しかし、立派な装置と内装を施された劇場が、白井剛とアルディッティ弦楽四重奏団による完成度の高い「セッション」を、客席の向こうで綺麗に円環を閉じる「高級芸術」へと過剰に仕立てているのであれば、私たちはそれをただ享受するしかなくなる。だから、白井剛が今回のコラボレーションを、自らが属するジャンルへの自己内省的な視線=批評眼を持って臨んだかどうかを、今後の作品で注視する必要がある。
May 24, 2007
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