全7件 (7件中 1-7件目)
1
画家に関するクイズです。1834年ー1917年1839年ー1906年1840年ー1926年1841年-1919年 1853年ー1890年1867年ー1947年ゴッホ Vincent Van Gogh、モネ Claude Monet、ボナール Pierre Bonnard、セザンヌ Paul Cézanne、ドガ Edgar Degas ルノワール Pierre Auguste Renoirはどの年に当てはまるでしょう。意外と知らないものなんですよね。解答は下記の通り。自分もまた忘れるとは思うのですが。1834年ー1917年 ドガ Edgar Degas1839年ー1906年 セザンヌ Paul Cézanne1840年ー1926年 モネ Claude Monet1841年-1919年 ルノワール Pierre Auguste Renoir1853年ー1890年 ゴッホ Vincent Van Gogh1867年ー1947年 ボナール Pierre Bonnard印象派時代というのは大体1864年から1883年までの絵画運動だそうです。日本に憧れた画家と言えば、何と言ってもゴッホ、モネやボナールがいます。ドガって一番若いと思っていたが、意外にこの5人の中では古株なんですね。ドガは19世紀のフランスの画家の中でもデッサン力は抜群です。色彩とデッサン力を同等の魅力で見せる画家は少ないのですが、ドガはその点がほかの画家と一線をひいているように思えます。さて長い間、私はセザンヌにはデッサン力はないと思っていました。しかし南仏の光を浴びた松の木のある道を描いた絵のポスターを偶然見てその写実力に改めて驚かされました。セザンヌのアトリエは今でも南仏の大都会エックス Aix-en-Provence 市内から徒歩で訪問することができます。やはり、北側に大きなガラス窓があり、大作を運べる工夫がしてありました。セザンヌは南仏エックスでは大変な英雄扱いです。どうも、若い時に、セザンヌが物は三角や円錐形やなんかでできているようなことを言っていたらしいという話を聞いて興味が半減してしまってから好きになれなくて。しかし絵ってもっと神秘的なものだろう、と。今、南仏に住んでいるので、セザンヌが描いた聖ヴィクトワールの山もたまに見る機会に恵まれるのですが、本物の山を見るまでは「聖なる勝利の山」は三角の形をした山だろうと思っていたんですが、本物は結構長く伸びた山でした。ものすごく雄大です。うーん、そりゃ富山県の剣岳などの立山連峰にはかないませんが。それでもかなり迫力のある美しい山です。風景に敏感な人は雄叫びあげるでしょう。エックス市内の大型バスに乗ってサン・マクシマン・ラ・サント・ボームの町までくると、雄大な山の横顔を見ることができます。余談ですが、海沿いのサント・マクシムに行こうとしていたイタリア人カップルがバスを間違えてサン・マクシマン・ラ・サント・ボームに漂着して何時間も別のバスを待っていました。まぎらわしいです、確かに。サン・マクシマン・ラ・サント・ボーム Saint-Maximin-la-Sainte-Baumeサント・マクシム Sainte Maximeセザンヌに比べて、あのモネのアトリエのある場所は小さな村でずっとひっそりしている感じです。しかし、美しい小さな村ジヴェルニー Giverny のモネのアトリエは雨の日でも世界中から人が集まります。アトリエ公開をしていない4月か3月後半に一度行った時ですが、モネの庭の一部が外から見えるのですが、チューリップや水仙が満開で観光客が来なくても庭師が楽しんでいる感じがしました。パリ生まれのモネは最初、アトリエを探してヴェルノンに列車で来て、この小さな緑の町に惚れてしまった。ヴェルノンに住もうと思いつつ、その美しさに誘導されるようにジヴェルニィの村まで来てしまったそうです。公開されているモネのアトリエには私が行った時は確か原作はなく、驚かされたのは日本の版画家たちの作品群です。古い白黒の写真があり、画家モネの横に着物姿の日本女性が写っています。一体誰だったのでしょう。モネのアトリエを大事に保護した人の中に彫刻家のダニエル・グピルDaniel Goupilさんがいます。若い彫刻家は誰もいなくなっていたモネのアトリエにそっと潜りこんでそこで制作活動を行っていたこともあるそうです。俺にはデッサン力がないんだ、と悩んでいたというボナール。確かにそんな感じがしますが、実はなかなか優れたデッサン力を見せる彼の絵には逆に何故か魅力が少し減っているような気がしました。で、もしかしてデッサン力ないの、と思える絵のほうが色彩も美しく魅力にあふれている感じがするのです。日本のことをフランス語ではジャポンと呼びますがフランスでは「ジャポナール」というニックネームも持っていたボナールは日本に憧れた画家の一人です。「ナビ派の画家」として知られています。どちらかと言えば、北のほうで生まれ、今でもヴェルノンからそう遠くないヴェルノネという村には彼のアトリエが残っているそうです。お孫さんもヴェルノンで絵画鑑賞会をセーヌ河の遊覧船を活用したりして頑張っていらっしゃると、この冬聞きました。ボナールは晩年は南仏に引っ越したそうです。ル・カネ le Cannet という小さな愛らしい町で南仏で家探しをした時に行ったことがあります。でも、南仏ってヴェルノンのあの神秘的な鉛色の曇り空や豊かな緑がないのでボナールも最初は北仏が恋しかったんではないだろうか、って勝手に思いました。強烈に日本に憧れた画家と言えば、ゴッホ。彼はオランダの生まれです。寒い国です。絵は独自に学び、教会の息子として生まれ、彼自身も牧師になったことがあったようですが、自分の服を貧しい人にあげ、ぼろばかり着ていたので牧師らしくないというのが原因だったのか、教会を追われたりもしています。若い女の人に恋して、彼女の家に行って彼女の父親にお嬢さんに会わせてくれなければ自分はこの暖炉の中に自分の手を入れると脅かしたそうですが、それやっちゃストーカーですよね、なんて逸話が残っていますが。ゴッホの展覧会に行った時、実は編み物が好きで赤い毛糸も展示されていました。オランダも寒い国ですから、編み物しちゃいますよね。たぶん、男だって。そのゴッホが日本の版画を油絵で見事に描いている絵がパリのオルセイ美術館 Musée d'Orsay のゴッホの展覧会で展示されていることがありました。ああ、ゴッホ、ここまで日本に憧れてくれたのか、と感動せずにはいられませんでした。ゴッホは点描主義的な描写を研究した絵も残していて、意外に研究熱心な画家ですし、フランス人のラングレ氏が油絵の技法の本の中だったか、それとも新聞の記事だったか、ゴッホの絵にはひび割れがまったくない、と絶賛していました。ちなみにひび割れの原因は白色だそうです。いえ、チタニウムでも鉛の白でもなく、白亜の色です。名前忘れた。そう、情熱の画家ゴッホですが、油絵を描く際の樹脂の使い方にはすごく気をつかったいたはずなのです。出身がなんといってもオランダですからね。北欧の完璧主義者的な血というのはあったのではないかと。オランダは伝統の絵、よく緻密に描いた静物画で見事な作品を描く画家たちの絵で有名です。現代でもロマン・レイシンガー Roman Reisinger という画家が思わず息をとめて眺めたくなるような伝統の絵画を披露しています。オランダというか、ベルギー、フランスにかかる地方フランドルで14世紀末に開花するフラマン絵画、別名フランドル絵画の画家として知られるヴァン・アイク兄弟が有名ですね。弟の方はジャン・ド・ブリュージュ Jean de Bruge、ブリュージュのジャンの呼び名で油絵を開発した画家として有名です。Jan Van Eyck と同一人物です。彼が油絵を開発した話は有名でも、実際にはすでに存在はしていたようですが、普及に貢献したといったほうが近いのかも知れません。それまではテンペラ画が主流だったとされています。アムステルダムの美術館でヴァン・アイクの本物を見ましたが、もう絵じゃなくて陶器みたいな画肌でした。ヴァン・アイクの絵画技法は今でも謎とされているようです。画家希望の人や美術批評家になる人にはぜひ一度見てほしい絵です。でも、あの絵をみて画家やめたろか、と筆を捨てる画家がいても不思議ではないけれど、みんなそれぞれだから絵の世界はいいのでそんな簡単に筆捨てんなよ、なのです。ルノワールと言えば、銀座のルノワールですよね。私も好きでした。なんちゃって。画家のルノワールの絵も好きです。たぶん、ゴッホと一緒に展示されていたのを見てやっぱり違う、ルノワールにはほのぼのするような暖かさが伝わってきました。ルノワールの父親は息子の絵を見て、「あいつは中途半端な絵ばかり描きおって」と呟いていたそうです。さて、別のクイズです。「印象派」という呼び名を軽蔑的に使った愚かな批評家がおり、それを価値あるものとして別の視点から眺めたのが実はアメリカ人でした。彼らが「印象派」を救ったのです。それまでは「印象派」展に妊娠した妻を笑わせようと誘う夫たちもいたくらい嘲笑の的とされたようです。それで、最初にこの「印象派」と形容された絵を描いた画家は 誰だったでしょうか。実はこの絵、一時期、パリのマルモッタン美術館から盗まれてなんと日本で見つかったことがあったそうです。Soleil levant 「日の出」を描いたクロード・モネです。面白いのは Soleil levant という題名ですが、フランス語で聖徳太子の「日いずる国」もこのle pays du Soleil levant になります。 この時代の画家と言えば、ほかにもゴーギャンやヴュィアールやベルト・モリソやたくさんまだいると思います。2017年12月はヴェルノンの町を少し歩いたのみでジヴェルニーの村には残念ながら行っていません。この三枚の写真はヴェルノンの町の中にある美術館で小さいながらボナールの絵も置いてあります。
January 26, 2018
コメント(2)
よく遊びで家の間取り図を描いていた時期がある。いろいろ考えて両親と子供が二人の4人家族の家には雨の日に洗濯物を干す場所を考えたり、女の書斎、男の書斎なども考えると最低120メートル平米が絶対必要だと思った。が、庭が広くて日照時間の長い土地ならもう少し家が小さくても大丈夫だろうと思った。犬も猫もいて、庭には野生の小鳥たちを呼び寄せる木々と餌場もある。もろちん、お風呂場はある。日本の人口密度は少子化で人口が減っているという。が、それでも、人口密度はフランスの3倍はある。日本には空き家も増加しているという。昨年、知人の空き家(富山県東部の田舎の空き家)を紹介したが、いまだに家を借りる人は現れていないという。富山県は大雪警報も最近出たそうでそのせいもあるのだろうが大家の話では、舟見という宿場町が7キロほど先にあり、雪に覆われた日本庭園を眺めながら、露天風呂につかることもできる素敵な温泉があるそうで、犬と45分散歩した先にひと風呂浴びて帰宅することもできるなんて最高だったそうである。大家の話では雪道を走らせて行く山間の小川温泉も風流であるとか。その入善町の隣の町、ヒスイ海岸のある朝日町には農薬を使わないお米を作っている農家もあるそうだ。無農薬栽培40年梅沢農園都会には仕事があり、仕事のある場所に人は集まる。狭いワンルームのアパートに安くても家賃5万円を払う。いい場所なら狭い場所に10万円も払うそうである。十か月で100万円が飛ぶ。パリ市内でもわずか7メートル平米のワンルームを貸している広告を見た時は実に非人間的だと思った。つまりシャワー室はない。トイレはかろうじて別室にあるか、共同の廊下にあるのかも知れない。場所が比較的安全な区域として知られているので家賃も結構していた。若い時はそれでいいのかもしれない。短期間ならそれでもいいのかもしれない。フランスには銭湯がないので、日本人にはシャワー室もないワンルームの部屋など想像ができない。で、そういう場所に住む若いフランス人の学生などはたらいにお湯を張り、タオルで身体を拭いておしまいにするそうである。中にはあのキッチンのシンクにシャワーをとりつけてシャワーを浴びる若い女性もいた。あとは市営プールやスポーツクラブのシャワー室を利用する手も確かにある。知恵を絞れば確かになんとかなるものである。意外に北フランスの普通に大きい石造りの家に住んでいた人の家にはシャワー室はなく、タライにお湯を母親が注いで入ったそうである。ピエール・ボナール(1867-1947)という色彩画家というかナビ派の画家の絵やドガの絵にもタライの前で髪や身体を洗う女性の絵があったりする。ボナールの有名な絵の一枚にバスタブに浸かる奥さんの絵があるが、あれは自慢のバスタブだった、というのもあるそうだ。話は完璧にそれるが、この2017年12月末にパリから北に約75㎞ほど離れた町ヴェルノンで年末を過ごしたが、地元の女性が、ヴェルノンでなんと画家ピエール・ボナールのお孫さんが地元で絵に親しむ催しをしているそうだ、と聞いた。写真は2017年12月ヴェルノンの大聖堂(右)と観光案内所(左)Vernon 駅はパリからだとサンラザール駅から列車に乗り、Vernon-Giverny 駅で降りる。この駅名は数年前はヴェルノンだけだったが、クロード・モネのアトリエで知られるジヴェルニーが世界的にあまりにも有名になってしまったので、名前を観光客用に変えたと思われる。なんだか、ほんとうに話がそれてしまった。
January 26, 2018
コメント(0)
「過去形」ってまず何だろう。日本語には「過去形」があると思いますか。いや、ないわけがないよね。しかし、文法用語としてはないのです。国文法では終助詞が過去時制を示す、という説が普及しているようです。 「遊ぶ」→「遊ん・だ」 「遊び・まし・た」「食べる」→「食べ・た」「食べ・まし・た」「思う」→ 「思っ・た」「思い・まし・た」「笑う」→ 「笑っ・た」「笑い・まし・た」などのように「た」あるいは「だ」という終助詞を使うことで過去の出来事や状態を示す、という説です。 さて、フランス語の「過去形」には「単純過去」passé simple 「複合過去」passé composé 「半過去」imparfait また「大過去」plus-que-parfait があります。名前からして「単純過去」passé simple が一番簡単だろうと思うのは早合点です。これを使いこなせるフランス人は立派なものです。何故なら話し言葉で使うことはないためかなかなか使いこなせないフランス人も多いようです。作家や学者が「単純過去形」を使いこなせないのは問題外です。 今回は「半過去」 imparfait について少し書いてみます。フランス語で アンパッフェ imparfait と呼ばれるものです。parfait は英語でもパーフェクトの「完璧」を意味するものですが、アンパッフェ imparfait なので中途半端なイメージがあります。終っているのか終わっていないのかグレーゾーンみたいですが、確かにある出来事がいつ始まっていつ終わったのかを伝えることを目的とはしていません。これは● よく過去に習慣的に行った事柄を表す時や● あるいは過去に動作が連なる時や● また一枚の絵にたとえて、主題の陰で背景を表現する場合(描写)、● そして仮定法でも使われます。例文を見ながら確認しましょう。動詞が「半過去形」の例文です。フランス語では主語に合わせて動詞の末尾(=語尾)が変わりますから注意が必要ですよ。ここが日本語や英語と大きく違う点です。例文1小さい頃、よく友達とサッカーをして遊んだ。Quand j'étais petit, je jouais au football avec mes copains.上記の例文には「よく~したものだ」という習慣的な事柄を示すニュアンスがあります。これをフランス語は「半過去」の動詞を使って表現します。「小さい頃、(よく)外で遊んだものだ」は英語では used to ~ を使って表現できますね。When I was small, I used to play outside. 例文2昔は我々はテレビもコンピューターもなく暮らしていた。映画もなかった。学校がない時は外で遊んだものだ。Autrefois, nous vivions sans télé, sans ordinateurs. Il n'y avait pas de cinéma. Lorsque nous n'étions pas à l'école, nous jouions dehors…事柄を描写する時の動詞は「半過去形」になります。暗に「昔は~だった」という「過去の状況」を示している例文です。例文3今でも彼女はケーキを作る度、母の顔が浮かんだ。Aujourd'hui encore, chaque fois qu'elle préparait un gâteau, elle revoyait le visage de sa mère. 「~するたびに~した」「今でも」とあるので「過去」ではない、とふと思うかも知れません。確かに「現在形」でそのような文章は可能です。「今でも~するたびに~する」知っている?君の写真を一人で見る時、今でも泣けてしまうことを。Sais-tu que je pleure encore chaque fois que je me retrouve seul face à tes photos.このセリフは自分の現在の心理状態を伝えています。「今でも彼女はケーキを作る度、母の顔が浮かんだ」Aujourd'hui encore, chaque fois qu'elle préparait un gâteau, elle revoyait le visage de sa mère. これは筆者がある人の心理状態を描写している文ですね。筆者は女性の心理状態は見聞したか、想像したか、筆者から見るとその人の心理状態は描写する段階で「過去」なんですね。さて、どの過去のどの時間であるかを特定していません。「ケーキを作った」「母の顔が浮かんだ」がほぼ同時に発生し、このように二つ以上の動作が過去にほぼ同時に連なった時に「半過去形」を使います。さらにここでは「~するたびに」で始まっていますから、「習慣」の要素がありますね。ただし、面白いのはたとえば、「彼女はみんなに挨拶をし、バゲットを頼んだ」Elle a dit bonjour à tout le monde et elle a demandé une baguette. という、動作が連なっているにも関わらず、すべて「複合過去形」と言う例文をあげることができるのです。「半過去形」と何が違うのでしょうか。「複合過去形」の表現では、一つ一つの動作がきっちり終了しているイメージがあります。「半過去形」で示されるような習慣的なニュアンスも描写的なニュアンスもそこには全くありません。この違いを考えるのは面白いですよ。バゲットは日本ではフランスパンのことですね。あの長いパンです。例文4Quand tu m'as appelé, je dormais.あなたが電話をしてきた時、私は寝ていた。「寝ていた」が「半過去形」です。リーンと電話が鳴るシーンが起こった時、「寝ていた」電話が鳴る前からすでに寝ていたわけです。何時に就寝した、というのはこの文章の中では問題としていませんね。「電話が鳴る」という一つのアクションが「寝る」状態をつきやぶったわけで、「寝る」行為は「背景」の動作として表現されている、と解釈するとどうでしょうか。難しい?英語でもこれは同じです。文法用語は違うけれど、英語では背景としての「寝ていた」は「過去進行形」で表現できましたね。When you called me, I was sleeping.ちなみに tu m'as appelé, あなたが電話をしてきたこれは「複合過去形」です。フランス語では主に書く時のみに使う「単純過去」がありますが、過去のことを話す時はこの「複合過去形」を使います。例文5きみはこの歌手を知ってた?Est-ce que tu connaissais ce chanteur ?いつの頃から知っていたか、という質問ではなくてもっと漠然とした感じで聞いています。例文6 "si" 仮定法で人に何かをすすめる時。あなた、シャワー浴びたら?Si tu prenais une douche ?例文7 この試合に勝ったら、彼は一晩中お祭り騒ぎだな。S'il gagnait ce match, il ferait la fête toute la soirée.仮定法で「~したら」の部分が「半過去」です。どうでしたか。習慣的な動作「いつも~した」「毎日~していた」「雪が降っていた(描写表現)」そして仮定法「~したら」などで「半過去」として大活躍するわけですね。Paris décembre 2017姉 半過去の例文「あなた、シャワー浴びたら」って シ チュプ r ネ ユンヌドゥーシュ? Si tu prenais une douche ? なんかすごく汚い人に言ってしまいそう。生徒 下手にいうと誤解されるから。 子供の頃はよく川で遊んだ、なんて時代じゃないし、 子供の頃は隠れてよくネットで遊んで親に怒られたっていう時に 半過去を使うのか。 先生、フランス語で何て言うんですか。先生 それを考えてほしいから教えているんだが。生徒 子供の頃は Quand j'étais petit, っすか。姉 あなた、ちょっとすごくない?生徒 je jouais à l'ordinateur, で「俺はコンピューターで遊んだ」ってあるなあ。 隠れて、は あれか、en cahette 怒られるって何? 先生 gronder あたりがこの場合はいいでしょう。 imparfait では grondait 母親に私は怒られた ma mère me grondait Quand j'étais petit, souvent je jouais à l'ordinateur en cachette, ma mère me grondait. l'ordinateur コンピューターが長いので l'ordi と短縮してしまう人が多いです。姉 隠れて遊んでいるのに母親にはわかるものなのよね。先生 昔「禁じられた遊び」というフランス映画がありましたが。姉 そうだったわね。Jeux Interdits 生徒 あの小さな女の子がやがて「ブーム」という映画の中で お母さん役してるんだよね。先生 そうそう。 さて、半過去形と複合過去形を比較してもっと勉強すると面白いですよ。Marseille 2017フランス語ランキング
January 10, 2018
コメント(0)
フランス語で エオリアン éolienne と呼ばれる風力発電機が強風で倒れたというニュースに耳を疑った。地震のないフランスでエオリアンが倒れるとは想像もしていなかった。Vendée県で1月1日に強風カルメンに煽られたらしい。Nordex社の高さ62メートルのエオリアン。24メートルの深さから土台を築いているらしいが。今回のカルメンより激しいはずの2010年の強風にも耐えたとか。何度も強風にさらされて弱っていたのかも知れない。強風カルメンは時速130㎞以上、コルシカ島では180まで達したようです。これが初めてのエオリアン崩壊事故ではなくて、今までにもフランスやドイツでも事故は起こっていたようです。このエオリアンがうまく稼働すれば、原子力に頼らなくてもいいのですが、「反対派は風景を破壊する、危険だと盛り上がるんだね」とため息をつくあるフランス人。崩壊した風力発電機 ル・パリジャン紙
January 9, 2018
コメント(0)
うーん、笑った。足の先まで羽をつけた鶏が歩く姿。いやあ、笑ったらニワトリだって気分を害するだろうとおもいつつ。2017年12月後半 北フランスにて撮影写真では砂利の色と重なるのでよく見えませんが羽が足先までついています。なんというか、大きな雨靴を履いてどたんどたんと歩いているような感じでした。こんなニワトリ見たことあります?なかなか立派は立派な鳥ですよね。
January 9, 2018
コメント(0)
2017年12月中旬のパリは寒かったです。空気が冷たかった。南仏マルセイユからTGVでパリのリヨン駅に到着。夫と何故かはぐれて一人ホテルを探すのに苦労しました。パリ大の近くのホテルだし、簡単に見つかるだろうと思っていたのに。荷物を抱えたまま、ずっと石畳の歩道をひたすら歩き、やっと目的の通りにたどり着いた、と思ったら、なんとそこは袋小路。通常、そのような標識は出ているのになかったような。さすがに疲れ切って、カフェで休憩。ホテルを探すのにかなり迷子になっていることをカウンター越しの男性に話したら、カフェのオーナーでしょうか、親切に地図を出して探してくれました。その後、パリ市内のホテルで一泊し、翌日、ホテルからパリ大学の前を通り、セーヌ河沿いに歩きました。久しぶりのパリは重々しい雨雲に覆われていました。まあ、最初から南仏の青空は期待はしていなかったけれど。 荷物を抱えての移動でしたが、ずっと歩いていました。大昔、パリに住んでいた時も休日には一日中歩いていました。何故かパリは歩きたくなる街です。正面中央の建物は国立パリ・ソルボンヌ大 文学部とかある第四大学 2017年12月中旬撮影第三大学の授業もここだったりする。右側の奥のカフェはフランソワーズ・サガンが生前、講演を大講堂で開いた時、講演後に学生たちに取り巻かれて行ったカフェ。サンミッシェル 2017年12月中旬撮影写真では見えないけれど、セーヌ河があり、その向こうはシテ島。わずかに見える美しい塔は Saint Chapelle の塔だろう。サンミッシェルの大噴水 2017年12月中旬撮影パリに住んでいると見慣れてしまうが、ほんとうによくこんなの造ったよね、と思う。大天使ミカエルがサタンを退治している像で1860年のもの。学生と観光客の待ち合わせ場所にもなったりもする。渋谷のハチ公みたいな感じ。北フランスは地震がないからこういう建造物も残るのね。とよく思う。中央の奥に見えるのはノートル・ダム寺院です。2017年12月中旬撮影職人さんが建築物の修理をしていたので撮影。2017年12月中旬撮影これは Office Des Longitudes 2017年12月中旬撮影天文学関連の研究機関で1795年創立だそうです。と、書いていましたが、Institut de France フランス学士院として、天文学関連やフランス語の保護に努めるアカデミー・フランセーズ Académie Française なども含まれる機関を置いた建物でした。セーヌ河に浮かぶ遊覧船 2017年12月中旬撮影 パリ市内 セーヌ河を超えたところ。 2017年12月中旬撮影ボザールの近くで店に寄って出ようとしたら、荷物をたくさん持っていたので、フランス人男性がドアを空けて待っていてくれた。親切です。Merci!ルーブル美術館です。Musée du Louvre 2017年12月中旬撮影左中央のアーチ型の門を超えるとパレ・ロヤワル。移動だけで終った久しぶりの短い間のパリでした。
January 9, 2018
コメント(0)
新年あけましておめでとうございます。2018年が皆さまにとって喜びの多い一年となりますように。夢が一つ一つ叶っていきますように。努力が芽を出し、大きく育っていきますように。努力する力を持続できますように。心身共に健やかでいられますように。Bonne Année 2018!
January 6, 2018
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1