仕事のこと 0
母の備忘録 0
全45件 (45件中 1-45件目)
1
【2021年11月13日(土)】 京都産業大学日本文化研究所の上席特別客員研究員を務めさせていただいていますが、「京カレッジ」の講師を依頼されていました。もともとは2020年5月の予定でしたが、コロナで1年延期になり、さらにまた半年延期になり、ようやく今日行われました。 テーマは「伏見稲荷大社とその周辺の『お滝』について」。私の研究員としての初年の研究成果をまとめたものです。初年の研究における発表は、2018年4月でしたが、そのときは多くの研究員が発表したので、1人当たりの発表時間は10分強と短いものでした。しかし、今回は45分と十分な時間が与えられました。 発表のレジュメやパワーポイント資料は今年5月のときに提示済みで、その見直しで済んだので、忙しい中でしたが、何とか準備ができました。もし一からの準備であれば、どうしようもなかったでしょう。 今日の講義は、全体で3時間で、最初に笹部昌利准教授が「『志士』と時代祭-丹後郷士と近代京都-」というテーマで話され、次に同じガイド会仲間のTさんが「明治改暦~京都での改暦をめぐる様相~」というテーマで話されました。 そして私の番。話す原稿までは、準備できなかったので、ぶっつけ本番になりました。緊張することなく話しはできましたが、やはり詰め込み過ぎで、レジュメはそのままでいいとしても、「しゃべり」はもっと絞り込むべきだったというのが反省点です。京カレッジ募集要項該当部分(今年5月の版)いずれ講義の詳細内容を投稿したいと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/11/13
コメント(2)
【2020年12月27日(日)】 伏見稲荷大社お山巡り裏参道の私の故郷名が入った鳥居のある祠を研究中です。 第1回⇒こちら 第2回⇒こちら 今日の三重への今年最後のお墓参りのついでに、私の故郷での現地調査をしました。 まず、私の家の菩提寺玉保院へ。ここでは、以前、伏見稲荷裏参道の祠で発見した「菊池藤次郎」という名前が本堂に向かって左側の水槽に彫られていることを発見しました。今日はもう1つある向かって右側の水槽の字彫を確認しました。玉保院玉保院の水槽向かって左側の水槽の字彫向かって右側の水槽の字彫本堂向かって左側の水槽の字彫「當所橋向町 喜久家 菊池藤治郎 昭和八年九月 五十四才 妻 ゑい」向かって右側の水槽の字彫「當所橋向町 花定 若林定吉 昭和八年九月 七十九才 妻 むめ」 続いて、氏神様の一御田神社を訪問。赤い鳥居の連なった小さな社がお祀りされていたとの記憶があったからです。一御田神社 やはりそうでした。本殿に向かって左側に「花山稲荷」というお社がお祀りされていました。花山稲荷 石鳥居には「平成七年六月吉日」と彫られ、木鳥居約15本には「平成二十三年十月吉日」と書かれています。社殿の裏にはお塚があって「花山稲荷大神」と彫られています。その裏には「大正十五年三月建之」と彫られ、寄付人名14人刻字があります。この中に玉保院水槽の若林定吉、菊地藤次郎(菊池藤次郎ではなく)ご両名の名前も刻まれています。お寺さんも神社も篤く信仰されていたのでしょう。さらに荒木神社での刻字との共通の名前は「松村弥次男」「若林定吉」「菊地藤次郎」「田中廣治(荒木神社は廣吉だが)」です。石鳥居も木の鳥居も年代が新しいので、今も地元の方で手厚くお祀りされているようです。また神社の掲示板に「松村弥次男之命」の札が掛けられており、松村弥次男氏は神として祀られているようです。 花山稲荷は山科にあります。ここから勧請したのでしょうか? 一度訪れたことがありますが、また研究のために近々訪れたいです。石鳥居の字彫木の鳥居社殿裏の花山稲荷大神のお塚お塚の裏の寄付人名松村弥次男之命の札が見える 続いて菊池藤次郎氏の子孫の方(私の小学校の同級生)のお宅を外からだけですが拝見させていただきました。昔料亭をやっていたお家なので、広いお家です。お庭にお稲荷さんを勧請したと思われる小さなお社がありました。いずれはお話をお伺いしたいと思っています。 色々な発見がありました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/12/27
コメント(2)
【2020年12月23日(水)】 先日、伏見稲荷お山巡りの裏参道の私の故郷名が入った鳥居のある祠についての現地調査結果について投稿しました。⇒こちら 帰宅後、2014年2月に現地でこの鳥居を発見したときの写真を確認しました。すると、祠の左側はお塚の全くない空き地になっていました。祭壇上に設置されていたお塚群が、倒壊したか何かですべて、この左側の空き地に移し替えられたようです。この12月18日撮影 (お塚群は祠の左側に見える)2014年2月9日撮影 (お塚群は祭壇上に見える。祠の左側は空き地) そこで今日荒木神社に再度訪問し、神社の方に確認しました。やはり倒壊したので移し替えたとのこと。ただ持ち主に連絡がつかない状況なので、神社側で移設したとのことでした。 持ち主が分かる場合は、持ち主から管理料を払ってもらって維持管理しており、修理が必要であれば連絡しているが、連絡先が分からなくなった場合は、神社側負担で処置していますとのことでした。 覆いは誰が造ったものか分からないし、そして近年キレイに塗り替えられているようですが、それも誰が塗り替えたのか分からないそうです。 お塚群の刻字も記録にとどめました。設立者、設立年代は刻字されておらず、神名が表面に刻字されているのみです。必ず複数の神名が刻字されています。全部で23柱です。 最上段:「花丸・花菊」 2段目:「花光・八丸」「寶丸・花徳」 3段目:「光照・薬光・薬照」「花山・清照」「光丸・花治?」「朝日丸・菊吉」 4段目:「花之栄・智恵丸・玉之栄」「千江丸・藤松 吉高・石船」「??・福丸」 「吉丸・金光」「松栄・花本」 5段目:「五豊・綱?」「末丸・丸菊」「??・??」「中西・金?」「玉?光・浮松」 「丸吉・吉玉」「??・玉?」「石船?・玉橋」「房吉・栄吉」「向?・五向」 向かって左の狐像には「鈴木清一」の刻字がありました。 「花」「栄」「菊」などの漢字が多用されています。姓名と組み合わせた神名が多いようです。お塚群お塚群が載っていた祭壇よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/12/23
コメント(0)
【2020年12月18日(金)】 研究員の年度研究成果を来年の3月始め頃には提出する必要があります。A4で1枚か2枚程度の短いものですが、この年末から来年5月にかけては、会の庶務、会での2つの研修講師、「京カレッジ」講師が立て続けにあり、非常に忙しくなるので、早めにスタートする必要があります。そこで今日は「京の冬の旅」妙蓮寺の見学が終わった後(こちら)、伏見稲荷大社を訪れました。 私の研究テーマは「伏見稲荷大社とその周辺の不思議研究」というテーマで、これを変えることはできません。過去、次のような研究をしてきました。2017年度 「お滝」の成立過程と現状2018年度 「お滝」の成立過程と現状」その2~個々の「お滝」の詳細まとめ2019年度 「あなたの知らない伏稲荷大社」~知られざるスポットのフィールドワーク案内 2019年度の「あなたの知らない伏見稲荷大社」は麓エリアだけだったので、2020年度はそれの山腹、山上エリア版にする計画でしたが、コロナ禍もあったし、フィールドワークに行く時間もとれず、別のテーマを取り上げることにしました。 研究テーマ「伏見稲荷大社とその周辺の不思議研究」と決めたとき、将来の研究の題材の一つとしてあげたのが、伏見稲荷大社の「お山巡り」の裏参道にある、とある祠です。そこの石の鳥居には「伊勢国 一身田」という字が彫ってあります。研究員を始める前の京都歩きのときに見つけたものです。津市一身田は私の故郷で、今も月に一度か、2カ月に一度お墓参りに帰っています。こんなローカルな地名を伏見稲荷大社参道で発見して驚いたので、いずれは研究テーマに取りあげたいと思っていました。そして、そこには「㐂久家藤治郎」という名も彫られています。 これには後日談があります。2018年3月に故郷の菩提寺を法要で訪れたとき、境内の水槽に「喜久家菊池藤治郎」の名を見つけたのです。ご住職のお話によると、「菊池藤治郎」氏は、当時、料亭を営んでいて財をなされ、地元の名士で、お寺などにこうやって寄進されていたようです。伏見稲荷の鳥居も、その一環だったのでしょう。そしてその菊池家は、私の小学校の同級生あるいはその親戚筋の家だということも分かりました。ご住職経由で現在の菊池家の方(恐らく私と同年代)に聞いていただいたところ、「小さいときは、その祠に連れていってもらったことはあるが、それ以降は訪れたことはない」とのことでした。 今回、この題材を研究テーマとし、一度菊池家の方にお話をお伺いしたいと思い、そのためには現場をよく調べる必要があると考え、今日、訪れた次第です。 色んなことが新たに分かりました。追々紹介していきます。伏見稲荷大社「お山巡り」裏参道の問題の祠伊勢国 一身田の刻字㐂久家藤治郎の刻字一身田の私の菩提寺の水槽に「喜久家藤治郎」の刻字よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/12/18
コメント(2)
【2020年3月20日(金・祝)】 祖母の二十七回忌の法要を三重の玉保院さんで取り行いました。 この玉保院さんで2年前父の二十七回忌の法要をしたとき、境内樋受けの彫字に伏見稲荷大社の裏参道に奉納された石鳥居で見つけたのと同じ名前「喜久家菊池藤治郎」を発見しました。ご住職にお聞きしたところ、喜久家さんは、玉保院さんの檀家さんで、むかし料理屋さんを営む地元の有力者で羽振りがよくて、寄進してもらったとのことでした。今も末裔の方が、同じ住所に住んでおられるとのこと。 このことは研究員研究「伏見稲荷大社とその周辺の不思議研究」の研究材料としたいと以前から思っていました。樋受けの彫字には「橋向町」となっています。小学校のとき「菊池」という名の同級生が橋向町付近に住んでいて、料亭風の大きな家に住んでいたという記憶があるので、今回法要が終わった後、ご住職に伺いました。やはり、その菊池君だということが分かりました。ご住職も「菊池君」と呼んでいました。お勤めで菊池家を訪問することがあるそうで、私の研究計画書と伏見稲荷参道で撮った「菊池」の入った写真をお渡しして、私が一度お話しを伺いたいと言っていたと伝えていただくようにお願いしました。快く引き受けてくださいました。玉保院の樋受けの彫字伏見稲荷裏参道に奉納されたお塚の菊家藤治郎の名 今日の法要に至った経過も触れておきます。 お彼岸は毎年三重にお墓参りに行くことにしていますが、この3連休で空いているのは、22日だけだったので、22日に行く予定にしていました。家内は都合が悪く、私一人で行く予定でした。祖母の二十七回忌が、この13日だったのですが、忙しくて気持ちの余裕がなく、自宅で二人でこじんまりと執り行う心積もりでした。 ところがコロナで状況が変化しました。色んなことがキャンセルになり、気持ちと時間に余裕ができ、やはり祖母の二十七回忌は正式に執り行おうと思うようになりました。今日20日はゴルフの予定でしたが、私の提案でキャンセルになりました。そこで20日か22日でご都合を菩提寺ご住職に尋ねたところ20日ならOKとのこと。20日なら二人で行けます。それで急ではありましたが、今日、三重の菩提寺(玉保院)で祖母の二十七回忌の法要を営むことになりました。 11時半の法要開始に間に合うよう朝9時半に出ました。3連休というもののコロナで渋滞はないだろうと思っていたのですが、甘かったです。京滋バイパスが久御山ジャンクションから笠取まで渋滞し、想定より40分くらい余計にかかってしまって、10分くらい遅刻でした。ご住職に電話をして開始を少し遅らせてもらいました。渋滞したのはちょっと驚きでした。サービスエリアも結構混雑していました(さすがに観光バスは皆無に近かったですが)。こんな光景を見ると、やはり日本は危機的ではないと思ってしまいます。 日本でコロナの感染者数がそれほど増えないのは、検査件数が少ないからだとよく言われていますが、果たしてそうでしょうか。私は検査を必要とする人自体が少ない、すなわち感染している人が実際に少ないのではないかという気がして仕方がありません。それが本当だとすると、その理由はよく分かりません。推測でしかありませんが、中国、韓国との差は、公衆衛生道徳の差、国民性の差をあげたいと思います。欧米とは生活習慣の差をあげたいと思います。西欧人の握手、ハグ、キスがオーバーシュートの要因になっているのでは?欧米ではマスクは感染していない人には効果がないということで予防のためにはしません。握手、ハグ、キスが習慣になっていればマスクの効果が出ないのは当然です。そんな習慣のない日本人は予防のためのマスクは効果があるのではないかと思います。 話しが横道に逸れました。祖母が亡くなったのは26年前ということになります。父のほうが先に亡くなって、その3回忌の法要のあと、老人ホームに入っていた祖母をお見舞いに行って京都に帰ってきたところで祖母が亡くなったことを聞きました。老人ホームの方の話によると、孫の私や曾孫が来ることを楽しみにしていたようです。私が会ったときも元気そうでした。孫や曾孫に会えて、もう思い残すことはないと思ったのかも知れません。コロナが無かったら、お寺での法要はしていなかったので、こんな言い方したらダメかもしれませんが、コロナのおかげで供養ができたという感じです。 法要のあとお墓参りをして、京都に戻りました。帰りは渋滞もなくスムーズでした。今回もお願いした花youさんのアレンジメント 話しが戻りますが、昼食は実家近くの「五郎太夫」さんで。私は「スタカツうどん」(スタミナカツうどん)をいただきました。当然味噌は入っていると思うのですが、タンタン麺のスープのような味でもあり、ちょっと不思議なピリ辛味。こしのしっかりした麺、ボリューム満点のカツとお出汁のマッチング。なかなかの一品でした。お値段のリーズナブル。コロナ禍のなか繁盛していました。 「スタカツうどん」@五郎太夫さん-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/03/20
コメント(0)
【2020年2月19日(水)】 今日は4日しかに、2月の完全OFF日のうちの一つ。年初から手間がかかるけど、やらねばならぬことが目白押しです。光照院準備、某支シニア講座フィールドワーク準備、ほろ酔いコンサート準備、本能寺・二条城同行ガイド準備、ここまでは何とかこなしてきました。 これから次ぎのような、ルーティーン外事項をこなしていかねばなりません。・上席特別客員研究員の年度研究成果報告書・次年度研究計画書(締切3月5日)・第6回西京会案内準備(本番3月6日)・櫻谷文庫準備(初日3月8日)・次回オーイ会案内準備(本番3月14日)・確定申告(最終日3月16日)・花山天文台準備(初日4月4日)・第7回西京会案内準備(本番5月11日)・京カレッジレジュメ・発表資料準備(本番5月16日) 一つ一つ地道にこなしていくしかありません。今日は、丸一日かけて、最初の年度研究成果報告書と次年度研究計画書を作成し、事務局に送付しました。私の研究テーマは「伏見稲荷大社とその周辺の不思議研究」です。ずっとこのテーマに沿った研究を求められます。今年度の計画書では、「お滝」の研究を続けることにしていましたが、某シニア講座で、フィールドワーク「あなたの知らない伏見稲荷大社」の企画・運営を主担当し、そのなかで「お滝」以外にも、数多くの不思議スポットを研究してきました。そこで、これを成果としてとらえ研究成果報告書を作成しました。今年度は稲荷山麓エリアに限定した不思議スポットの研究でしたが、次年度の研究では、それを伏見稲荷境内全域、稲荷山エリア全域に拡げることにし、研究計画としました。今年度研究成果報告書次年度研究計画書 初年度にアドバイザーを務めていただいたM先生には、成果物であるレジュメも送付しました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/02/19
コメント(0)
【2018年4月17日(火)】 真如寺ガイドの事前説明会(こちら)、「無限洞」での昼食(こちら)、上賀茂神社の公募ガイド下見(こちら)の後、まだ三味線レッスンまで時間があったので、京都府立図書館に向かいました。 バスを乗り継いで行ったのですが、百万遍のバス停で乗り換えるとき、他の方が携帯を取り出して電話をされているのを見て、昼頃に間力教会様に電話をしなければならなかったのを忘れていたことに気が付きました。 あわてて間力教会様に電話したところ、教主様は来客中とのこと。1時間後に電話をする旨、伝えていただくことにしました。 京都府立図書館に到着しました。ここは二度目です。前回3月20日に来館し、京都新聞の前身である京都新報の記事をマイクロフィルムで閲覧しました(こちら)。しかし、当然といえば当然ですが、この方法で伏見稲荷大社及び周辺の「お塚・お滝」関係の記事を洗い出すのは、時間的に無理があるのが分かりました。 そこで今回は、データベース化され、記事検索が可能な記事の検索にトライしました。明治時代からの記事が検索できる新聞は限られています。朝日の東京本社版、大阪本社版、読売の東京本社版、毎日の東京本社版のみです。 今日は、朝日の記事を検索してみました。「聞蔵」というシステムで、大学・公共図書館など法人向けの有料サービスです。府立図書館が契約していて、来館者は無料で利用できます。「聞蔵」のホーム画面 まず、「滝行」で検索してみましたが、関連記事は見つかりませんでした。「伏見稲荷」で検索したところ、直接「お滝」に関係する記事は見つかりませんでしたが、間接的に関係しそうな記事はありました。4月28日の成果発表までは、発表用資料の作成と話す練習に集中しないといけませんし、5月になっても、5月末の最終報告書作成で手いっぱいでしょう。従って、新聞記事検索は、次期の研究で行いたいと思います。 午後4時に、間力教会様に電話することになっていたので、記事検索のトライアルを切り上げ、図書館の前から電話を入れました。ようやく教主様とお話しができました。お昼に電話できなかったことのお詫びを申し上げ、お話しをお伺いしました。 ・「間力滝」はその前の鳥居の字彫どおり、昭和57年に建設された。 ・昭和28年に、間力教会を現在地に建てたが、「間力滝」を作るまでは、先代教祖が 信者さんを連れて、弘法滝や青木滝を回っていた。 ・「真心滝」は聞いたことがない。 ・「間力滝」は他所から移築したものでもないし、印章大社も他所から遷座したもの でもない。 ・「お塚」は、教会設立後建てられたもの。これも他所から持ってきたものではない。 ・水は使うときだけ水道水を溜めておいて流す ・「ホームページで滝行に興味のある方は連絡ください」と書いているが、滝行は 危険を伴うので、興味本位の方はお断りしている。結果的に信者さんのみ。 滝行をされる人数は限定的。 ということで、真心滝やその近くあるいはそこにあった印章大社との関係をお伺いできるかと期待していたのですが、特に関係がないということでした。七面滝の修行見学でお会いした老齢の男性の方のお話(こちら)と食い違う部分があるので、この滝行の方のお話を、またお聞きしたいと思います。 雨が降ってきました。三味線のレッスンに向かいました。→こちら -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/04/17
コメント(0)
【2018年4月13日(金)】 研究員研究の13回目のフィールドワークで稲荷山に出かけました。 お昼過ぎにJR稲荷駅に着き、修学旅行昼食処下見を兼ねて師団街道の「きんちゃん」という中華料理屋さんで昼食をとりました。→こちら 今日の目的はまだ訪問できていない「お滝」管理者の方を訪問することと、滝行の体験です。◆間力滝 まず、御産婆稲荷道の間力教会へ。中にいらしゃった女性の方にお伺いしたところ、「お滝」のことはよくご存知ありませんでした。宮司さんは出張中とのこと。宮司さんは毎月1日と第1日曜は確実にいらっしゃるが、それ以外は信者さんところを回るために不在のことが多いとのこと。奥様は今日は所用でたまたまいらっしゃらないが、普段はだいたいいらっしゃるとのこと。 この女性の方に、知っている範囲でよいからと「お滝」のことを尋ねてみたところ、いつできたかはご存知ありませんでしたが、別の場所から移したとのことでした。七面滝での滝行の信者さんのお一人が、真心滝が間力教会に移ったというお話と符合します。 成果発表会のレジュメと名刺をお渡しして、後日電話させていただくので、宮司さんや奥様にお渡しいただくようお願いしました。◆熊鷹滝 次に以前「熊鷹滝」のことについてお伺いした茶店「梶亭」さんへ。前回のインタビューのお礼を申し上げて、成果発表会のレジュメをお渡ししました。ご主人のお歳をお伺いしたところ、75歳とのことでした。子供の頃はまだ「お滝」が実動していたとのことですので、「熊鷹滝」は昭和25年~30年頃に廃滝になったと考えられます。◆荒木滝 三ツ辻から「荒木滝」へ。初めて管理者宅を訪問します。外で作業されていた、老齢の女性の方が作業の手を休めて応対してくださいました。 今で3代目。「お塚・お滝」のできた年代は詳しく分からないが、明治時代終わりではないか。大正初期の「獨案内」と「神蹟全図」に掲載されていることと符合します。 今は、「お滝」をされる方はほとんどいらっしゃらない。「お塚」の多くは持ち主が分からなくなっている。ご主人は石清水八幡宮の神職、今は城南宮(ここは私のウロ憶え)の神職をやっておられる(おられた?)。ご主人が別に職業を持っておられて、奥様が「お塚・お滝」のお守りをしておられる構図は、他の多くの「お塚・お滝」と共通の構図。 「お滝」の水は上流の溜め池の水を使っていたが、溜め池が農地になったので(時期は不詳だが、昭和の初め頃とおっしゃっていました)、湧水をせき止めて、各「お滝」に流すようになった。豊富な水量が流れていました。 ここは北九州小倉に本部を置く神理教の教会。ただ、「お塚」建立者は九州に関係なく、お稲荷さんの信者の方が多いとのこと。後でネットで調べると、神理教は神道十三派のうちの一派。ホームページを見ると明治時代に全国に布教をしています。九州の本院内に大元稲荷神社があるので、そういった関係で、ここに教会を置いたのかもしれません。◆ねざめ滝 吉田図絵では、「荒木滝」と「権太夫滝」の間に、「ねざめ滝」が描かれています。以前、民家の庭にお塚が多数建っているのを発見し、そこが「ねざめ滝」と推定し、無断でお庭を拝見しましたが、「お滝」は発見できませんでした。しかし、「荒木滝」の管理者の方が、そのお家の裏に廃滝が残っているとの証言をいただきました。管理者の方は「お滝」の名前まではご存知ありませんでしたが、そこを「ねざめ滝」と特定できました。 今日は、「ねざめ滝」のお宅を訪問しました。ご主人が応対してくださいました。ご主人で3代目、現在70歳代前半とのことです。創建年代は分からないが、お爺様が始めたので、明治時代ではないかとのこと。ただ、大正初期の「神蹟全図」にも「獨案内」にも掲載されていません。大正初期の創建と考えるのが妥当だと思われます。 ここは明心教(「めいしん」と読むことを知りました)の教会だった。「お滝」は、物ごころついてから、使われるのを見たことがなかった。中学生のときに、おじい様が亡くなって、父親は教会を継がなかった。上流の溜め池が農地になり、下流の滝群が湧水をパイプで引いて「お滝」を存続させたが、そのパイプが壊れたことも廃滝の引き金になった。昭和30年頃には廃滝になっていたと思われます。昭和13年生まれの、権太夫滝の管理者の方が、物ごころついたときには、廃滝になっていたというお話とほぼ符合します。 「お塚」にお参りになる方は、全くいないとのこと。破損して撤去する費用も大変だとのこと。お家の中には祭壇が設えられていて、信者さんのお参りはなくても、明心教を継いでおられるようです。お父様が継がれなかったので、2代目という表現もされていました。 裏に回って、「お滝」の痕跡を見せていただき、写真も撮らせていただきました。◆権太夫滝 3回目のインタビューになります。上流のため池が農地になったのは、昭和25年頃。 「お塚」の所有者は幸いなことに、多くが分かっているとのこと。この点は、他の「お塚」場とは異なります。管理費用は、「お塚」にお参りになるときに、志納の形でいただいている。ご主人は若いときは別の職業に就いていたが、お父様は「お塚・お滝」を専業としていた。この辺りは、他の「お塚・お滝」と似た構図です。子供が近くに住んでいるので、継いでくれるものと思っている。継承は問題ないようです。土日にお参りが多いので、土日が休みではなかった。そこは子供たちに申し訳なかった。 「一度、滝行を体験したいのですが。」とお願いすると、快諾いただきました。以前、行衣を貸していただくことも可能とお聞きしていたので、貸していただくことに。白の下着は必要かもと思って、行きがけにイオンで白いパンツを買ってきてはいたのですが、腰巻も貸していただけたので、いっさい特別な衣装は不要でした。 行衣に着替え、滝場へ。危険を伴いますし、作法も知りませんので、ご主人に導師を務めていただき、指導を受けながら滝行を体験しました。 まず、滝場には前に行をされた方の穢れが残っていることがありますので、通常は置いてある箒で掃除をします。今日はご主人が掃除済みですので、私も掃除したという仮定で前に進みます。 次に蝋燭とお線香に火を点けてお供えします。ここでは蝋燭は1本でした。そして、お皿に盛った塩を、「の」の字を描くように、上のほうに何度か振りまいて清めます。相撲の取組み前に塩を撒くのに似ています。 そして、滝水の横に立ち、導師が祝詞をあげて下さり、私も名前と歳を唱え、手を合わせます。滝の水を前に見て、落ちるポイントの前に足を揃えます。首を横に移動させたうえで、前に出し、頭に滝水が当たらないようにして、頭を横に戻します。首の付け根に滝水が当たるようにします。導師の祝詞が続きます。滝水の圧力は想像以上です。滝水は冷たく、体が芯から冷えていきます。寒くて、体が震えます。導師が頃合いを見計らって、滝水から首筋を外すように導いてくださいました。最後に神様にお礼の言葉を申し上げ滝場を離れました。その後も、導師の神様へのお礼の祝詞がしばらく続きました。 滝に打たれていた時間は2、3分でしょうか。それ以上続けるのは、体が冷えて危険だと感じました。私の年齢や気候、水温などを見ながら、導師が滝に打たれる時間を判断されるのだと思います。初心者は適切な指導者なしで滝行をするのは危険だと、ネット情報でよく見かけますが、まさにその通りであることを実感しました。 普通はダメなのかも知れませんが、研究のためにということで、導師に修行中の写真も撮っていただきました。下半身が少し黒く見えるのは、緊張していて、ボトムの下着を脱ぐのを忘れていたためでです。幸い前述のようにイオンで買った白い下着があったので、履きかえることができました。滝に打たれる前滝に打たれているところ 滝行が終わった後、お茶をいただきながら、ご主人(導師)と色々お話しさせていただきました。非常に清々しい気持ちになりました。体はむしろ火照っいます。冷たい水に当たったので、体温を上げようと体が反応しているのでしょう。精神的な面でメリットがあるだけでなく、滝行で病気が治ったりという例がよくあるのも、こういう点にあるのかもしれません。 貴重な体験をさせていただきました。また、時々滝行をしたいと思います。◆不動滝? 岩龍滝? 「権太夫滝」を後にして、四ツ辻から、左回りでお山を巡り、「末広滝」に下り、より上流の「不動滝」と思われる「お滝」に行ってみました。そこから「お滝」の入口に示してある連絡先に電話してみました。ご不在でしたので、メッセージを残し、帰宅後、再び電話をしてみました。 奥様が電話で応対してくださいました。「お滝」の名前は知らないとのこと。伏見稲荷大社の近くに住むおじい様が、昭和8年に修行のための滝を建設されたとのこと。「お滝」の前に建つ鳥居の字彫が昭和8年だったのと符合します。昭和25年におじい様がお亡くなりになり、お父様が継いだが「お滝」は廃滝にした。「お塚」は今は何もないが、往時は「お塚」もあったのではないかとのこと。滝の傍に住んだことはないとのこと。 大正末期の吉田図絵には「不動滝」と掲載されていますが、このお話しだと創建は昭和8年。矛盾が生じます。昭和初期作成ではないかと思われる「参拝図」では、「岩滝」と「末広滝」の間に、「岩龍滝」があります。これが位置が間違っており、上流から「岩龍滝」「岩滝」「末広滝」で、「岩龍滝」の位置に、大正末期には「不動滝」があったが、一度廃絶して、現所有者のおじい様が新たに建設・あるいは整備して、「岩龍滝」と命名した。あるいは「不動滝」の持ち主から、お爺様が譲り受けたり、買い受けたりして、名前だけを「岩龍滝」と変えたとも考えられます。「岩滝」上の建物跡「岩滝」の管理者の住居跡か?「岩滝」横の平坦地 滝行の小屋跡地か?「末広滝」上の貯水槽 ここに一旦水を溜め、水量を確保しているようだ。大岩大神の磐座にも足を延ばしてみました。「七面滝」の題目碑の字彫 石碑側面に写真では見にくいですが、明治四三年と彫られており、これが滝建立の年と考えられる◆熊鷹本滝 山を下りて、滝道から少し離れた「熊鷹本滝」へ。ここは「廃滝」になっていますが、近くに管理人が住んでおられると思しき建物があったというのを記憶していたので行ってみました。軽トラックは置いてありましたが、表札もなく、戸も閉まっていて、インターホンもなく、住んではおられないようです。軽トラックも近くの農家の方が置いておられるのかもしれません。連絡先なども見当たらず、ここは管理者へのインタビューはあきらめざるを得ません。 新たなことが色々分かり、滝行初体験もでき、実りの多いフィールドワークとなりました。 間力滝は後日電話連絡をとるとして、あと清明滝、清滝の聞き取り調査ができていません。こられは伏見稲荷大社の御膳谷奉拝所の管理になっており、文献でも歴史がある程度明らかになっています。また、成果発表会までも時間も限られているので、一旦フィールドワークはこれで終え、今後は4月28日の成果発表会の表示用資料の準備と発表練習に集中したいと思います。 最終報告書が5月の末ですので、清明滝、清滝についての聞き取り調査は、成果発表会が終わって、時間に余裕があれば行いたいと思います。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/04/13
コメント(0)
【2018年4月1日(日)】 午前中、固定点ガイドが始まる下鴨神社資料館秀穂舎の下見をした後(こちら)、東福寺駅前の「大黒ラーメン」で修学旅行就職処の下見を兼ねて昼食をとった後(こちら)、研究員研究の第12回目のフィールドワークを開始しました。 京阪電車を伏見稲荷駅で降りず、東福寺駅で降りたのは、大4正初期の「獨案内図」記載の「東福寺滝」の痕跡を探すためです。この地図では、「五社滝」の下流に登場します。恐らく、「御壺滝」、「五社滝」と同じ「三の川」の川筋にあったと思われ、川にできるだけ近い道を歩いてみました。 先行研究のM.Yagai氏のネット記事でも、この「東福寺橋」の場所は特定されておらず、「1949年創立の日吉ヶ丘高校のあたりにあったのではないかと推測する。」という記述にとどまっています。日吉ヶ丘高校の下の川沿いに「一廣社」という「お塚場」がありました。M.Yagi氏も、この「一廣社」の近くに「お滝」があったのではないかと推定されています。しかし、何も痕跡は確認できませんでした。そして、すぐ南が東福寺境内になっていて、川とは離れていますので、この付近に「お滝」があったとは正直考えにくいです。「一廣会」と書いた掲示板があったので、帰ってからネット検索をしてみましたが、何も情報は得られませんでした。一廣社 さらに上流に向かい、大雲院南別院の西に位置する行き止まりになっている広場に行ってみました。川が谷底に見え、石垣のようなものが発見できました。ここが「お滝」だった可能性がありますが、川に下りる道も発見できず、それ以上の探索はあきらめました。谷底の川岸に石垣らしいものが見える 「五社滝」は近くでした。管理棟の休憩室で、管理者の女性の方が、どなたかとお話しになっていましたが、研究のためのインタビューをさせていただきたいとお願いしてみました。「先に滝で、手でも清めていただいてから、どうでうか?」とおっしゃっていただき、滝まで降りました。ここの「お滝」を間近で見るのは初めてです。とても水量が多くて、滝水で直接手を清めることはむつかしく、傍の流れの水を汲んで手を清めさせていただき、管理棟に戻りました。 中で管理者の方とお話しになっていたのは、このお塚場の「お塚」の所有者の方で、30代と思われる若いご夫婦でした。お爺様のときに、ここに「お塚」が建てられたようで、以来、代々お参りに来られているとのこと。1年に1回くらいのい頻度で、いつも稲荷山のお山を巡った後、ここに来られるとのこと。ご自宅には、おじい様だったか、お父様だったか忘れましたが、滝行をしている写真があるそうです。しかし、お父様は、「滝行はするな」とおっしゃっていたので、滝行は経験したことがないとのことでした。今まで「お塚」所有者の方と、時間をかけてお話しをしたことがなかったので幸運でした。「命婦滝」ではたまたま「白菊滝」の奥様が来られ、「白菊滝」では、こちらもたまたま「弘法滝」の奥様がおられ、この「五社滝」では、たまたま「お塚」所有者の方とお話しができました。こんな幸運なことが続くと、やはり「お稲荷さん」の御利益かなぁと思わざるを得ません。 さて、管理者の奥様にもお話を伺いました。「五社滝」の創立時期はよく分からないが、100年以上前ではないかとのこと。上流の「御壺滝」が廃滝になったのは、10年くらい前ではないかとのこと。これらのことは、以前、立ち話でお聞きした既知の内容です。期待したのは「東福寺滝」のことを何かご存知ないかということ。しかし、名前さえも聞いたことがないとのことでした。 ご主人が別にご職業を持っていて、奥様が「お塚」や「お滝」のお守をされているということや、持ち主が分からない「お塚」が多くなっているといことは、他の多くの「お塚・お滝」と共通の構図でした。 「三の川」沿いを「白滝」まで上りました。 管理棟で、管理者の奥様(かなりのお年)にお話しをお伺いすることができました。ここは、伏見稲荷境内だが、一度官有林になって、その後、神社に戻された土地。そういう経緯もあって、私営の「お塚・お滝」を認めてもらっていて、賃貸料は納める必要はない。ただし、ここで販売できるものは神社の制限を受け、売れる物は限らており、ご朱印も多分できないだろうとのこと。 現在6代目で創始は江戸時代と。昭和42年にここにお嫁入りされた。ご主人は25年前にお亡くなりになったが、「お塚・お滝」管理専業だった。現在もここに居住しており、買い物は下まで買いに行くが、東山の商店街もシャッター商店街になってしまって残念(このお年で、山道を東山商店街往復されるのは、かなり大変だと思われます)。持ち主が分かっている「お塚」は、奥様がお嫁に来られた後建てられた2、3のものくらい。ここは九州の信者さんが多い。昔はここに泊る人もいたくらい。今は、泊って「お山」「お滝」をする人はほとんどいなくなった。様変わり。 最近、毎日放送だったかの放送で、「白滝」が映っていた。、 蝋燭を上げさせていただきました。ここで知ったのですが、仏教の場合は蝋燭は1本でもいいのですが、神社の場合は、1対が基本のようです。そういえば、権太夫滝でも命婦滝でも本数を指定せずに蝋燭をいただいたら1対でした。 お山巡り参道の「薬力滝」に向かいました。唯一、お山巡り参道沿いにある「お滝」です。 「お山巡り」をする観光客がひっきりなしに通るので、「お滝」がある「お塚」の中で、唯一賑っているところです。訪問したときも、ご主人(男性)が片言の英語で外国人に対応されており、忙しくされていましたが、手すきになったときにお話を伺うことができました。このご主人だけではなく、何人かの他の店員さんも忙しくされていました。 ご主人で8代目になる。ただし、代替わりが早かったので、江戸時代に遡るかもしれないが、確かなことはいえない。明治になって、茶屋の前にあった鳥居・社殿を今の場所に移した。移す前の絵の額がお店に飾られている。茶屋のすぐ前に鳥居・お社があったことを示す絵 参道のお店は、土地を伏見稲荷大社から借りている格好なので、賃貸料を神社に払っている。店で売るものも制限があるし、ご朱印もできない。滝行をする人は、現在は月10人くらい。 続いて南谷へ下りて、一番上流の「末広滝」へ。この前は管理棟が閉まっていましたが、今回は奥様のお話をお伺いすることができました。 ここの「お滝」は、一の峰と同じ末広大神が親塚。創建はよく分からないが、もともといらっしゃった管理人の方がいなくなって、一の峰の方から(茶屋か?)信者だった奥様のお婆様(鹿児島出身だったか?)が要請を受けて管理者になった。奥様で3代目(なので、今の家系だけで100年くらいは経過)。 生まれたときに、岩滝の上流の滝は廃滝になっていたとのことなので、それが「不動滝」だとすると、80年前にはすでに「不動滝」はなかったことになる。 今、滝行をするのは、月に50人か60人程度(これは、「お滝」群の中では多いほうだと思われる)。「お山」「お滝」をする方々が寝泊まりできる広さはあり、奥様が子供の頃、たくさん来られたときは、奥様が使っていた子供部屋が宿泊のための使われたこともあった。ここの「お滝」は、前に扉があって、しかもその前にロープが張られて普通は中を覗くことができません。今日は特別に見せていただき、しかも写真も撮らせていただきました。もともとは滝流は1本だったようですが、おじい様の代かお父様の代だったか不確かですが、滝行をする人であまりにも混雑して待ち時間が発生するので、工事をして3筋に増やしたとのことでした。 日も暮れかかってきましたので「末広滝」を最後に山を下りました。 今回も、分からないということが分かったということも含めて、色々と収穫がありました。私営の「お滝」で、管理者がいらっしゃるところで管理者にお会いできていない「お滝」は、「荒木滝」だけになりました。成果発表会までには、訪問したいと思います。あと、伏見稲荷大社管理の「清明滝」「清滝」のお話も聞けていません。「不動滝」(と思われる)管理者の連絡先は分かっていますので、連絡をとりたいと思いますし、「ねざめ滝」は廃滝になっているものの、「お塚」は残っていて、そこに住宅もありますので、お話しをお伺いしたいと思います。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/04/01
コメント(0)
【2018年3月26日(月)】 研究員研究の11回目のフィールドワークで稲荷山南谷に出かけました。 前回フィールドワーク(3月22日)(こちら)の後、「七面滝」でアトリエを待たれている大岩さんとメールでやり取りをするうち、七面の滝での日蓮宗のお寺さんの滝行が今後3月26日(今日)と4月16日にあることが分かりました。4月16日はゴルフがありますが、3月26日(今日)はフリーなので、大岩さんに繋いでいただいて、今日、滝行を見学させていただくことになりました。滝行を実際に見るのは初めてです。 JR桂川駅からJRで行こうとしたのですが、桂川駅に着いたら、京都駅での乗客との接触事故があって運転が止まっており、再開の目途も不明とのことでしたので、急きょ、阪急洛西口駅まで歩いて、阪急・京阪を乗りついで伏見稲荷に向かいました。 滝行は11時半から12時半頃だそうですので、その前に、この前お会いした「白菊の滝」の奥様にお会いして、聞き洩らしたことを確認させていただきました。今のところ、ご朱印はどこの「お塚」「お滝」ともやってないそうで、滝行は危険が伴うので、観光化は躊躇するが、ご朱印くらいはやってもいいのかも知れないとのことでした。また、「お塚」「お滝」の管理者の組合的なものは存在せず、南谷は同じ町内会としての交流はあるが、北側の「お塚」の管理者の方々とは交流がないそうです。何か観光化を企てるとすると、組織作りから取り組まないといけないようです。 この前「命婦滝」の管理者の方とお話をさせていただいたとき、たまたま「白菊滝」の奥様がいらしゃってお知り合いになることができました。今日は、「白菊滝」になんと「弘法滝」の奥様が偶然来られていて、「弘法滝」についても同時にお聞きすることができました。以前、管理棟を訪れて、身分を明かさずにお話をさせていただいたことがありますが、こういう形でインタビューできると、打ち解けた雰囲気でインタビューできるので幸運です。2回連続で、このようなことが起こるのに、不思議を感じるのを禁じ得ません。 「弘法滝」は奥様で3代目。やはり記録がなく正確なところは分からないが、奥様で3代目で、「お塚」「お滝」ができたのは、120年くらい前、明治時代の中頃ではないかとのこと。お塚で一番古い字彫が明治31年だそうです。 色々お話をお伺いするうち「七面滝」で滝行が始まる11時30分になったので、おいとまさせていただいて「七面滝」に向かいました。大岩さんに、来られていた大阪柏原市にある日蓮宗欣心寺のお聖人に繋いでいただき、快く見学をお許しいただきました。すでに滝行の準備が始まっていて、祠ではお参りが始まっていました。お聖人とお弟子さん、男性の信者さんが2人、女性の信者さんが3人、総勢7人です。信者さんはいずれも私よりお歳を召した方々とお見受けしました。都度メンバーの増減はあるそうですが、毎月、滝行に来られているそうです。 しばらく法華経の読経が続き、やがてお聖人さんが滝に入られ、続いてお弟子さん、男性信者さん、女性信者さんの順で滝に打たれておられました。途中で、お聖人さんが、信者の方の滝行のときに、「気」を入られている作法も見ることができました。 許可を得られたので、お聖人さんの滝行だけ写真を撮らせていただきました。 滝行後、読経がさらに続き、それも終わると、更衣所に全員が輪になってお食事をとられました。といってもカップ麺と皆さんが持ち寄ったおにぎりとか、そんな質素なものです。私も、いっしょにいただきながら、お聖人や信者の方々に色々お話をお伺いしました。 お聖人曰く、昔はたくさんの人が滝行をしたが、今は滝行をする人が減っている。昔は流行みたいなところがあったが、やがて自然淘汰されて、今は真剣に滝行をする人しか滝行をしなくなった。生駒にも「お滝」が複数あるが、稲荷山ほど数はない。星田の妙見にも「お滝」がある。外国人がよくこの滝を訪れるのは、ネットで紹介されたから。こんなノートも置いてあります 男性信者さんのお一人から興味ある情報を聞くことができました。この方が、このお滝に父親に連れられてきたのは約70年前。当時は、少し下流の今自動販売機が置いてあるところに「真心滝」があり、その茶店にたくさん人が休んでいた。水の流れはないところなので、鳴滝からポンプで水をあげて滝を作っていたのではないか。間力教会の方がが今の場所に移る前は、その場所におられた。当時は、この辺りは人通りがすごかった。今日はまず宝塔寺に寄ってから来た。宝塔寺にも「お滝」があったが、立命館高校ができ湧水が少なくなった閉じられた。(立命館高校が深草にできたのは、昭和63年約30年前。宝塔寺でお会いした方が、廃滝は20年くらい前ではないかと言っておられたのと符合する) もう一人の男性の信者さんは、大工さん。このお滝で修行をするようになったのは、最近のようで、ここで修行を始めた頃は、着替えをする建物は半ば壊れていた。見るに見かねて自費で修理をさせていただいた。題目石は以前はもっと高いところにあったが、台風で崩れ落ちた。それを今のところに建て直した。このような奉仕をさせていただいた後、良いことが起こるようのなった。これもご利益か。昔は茶店だったことをうかがい知ることができる建てつけ この前のフィールドワークで管理者の方が不在だった末広滝を訪問したかったのですが、修学旅行の下見で太秦映画村にも行かねばならないので、山を下りました。途中、信者の方がおっしゃていた自動販売機のあるところに立ち寄りました。そこは、以前、「真心滝」跡ではないかと思って探索した石材置き場でした。社務所跡のようなところがあったのですが、滝場跡は見つかりませんでした。今日は、咎められるのを承知で、社務所跡のような建物の裏に回り込んでみましたが、やはり滝場の跡は発見できませんでした。 道に戻ると、以前「七面滝」の大岩さんが教えてくださった鳥居製作所の方が表に出ておられたので、お話をお伺いしました。ここに住んで60年になるそうですが、「真心滝」はご存知ありませんでした。「真心滝」がさきほどの石材置き場にあったと仮定したうえで、滝行の信者さんのお話も含めて考えると、「真心滝」は60年強前に廃滝になったことになります。すなわち昭和30年頃です。「不動滝」もご存知ありませんでした。 お山巡りの鳥居を製作されているのですが、鳥居を作るところは現在5社あるとのこと。一番有名で時々テレビにも登場するのが、伏見街道にある「長谷川工務店」。千本鳥居に向かう入口の鳥居列の最大サイズの鳥居(電通の名が入ったものなど)は、家が一軒建つくらいの値段がする。昔の鳥居用の木(杉だったか?)は、時間をかけて成長させていたので、もっと年輪が込んでいた。乾燥させてから加工していた。今の木は早く成長させるので、年輪が込んでいない。また、山の奥に入らないと太い木が採れないので、緊急用に近くにヘリポートを作ったうえで、ヘリポートで吊って採ってくる。乾燥させないので水分も多く含んでいる。水分を抜く装置を使っている。根元の腐りやすい部分は、表面を焼く。他にも色々興味深いことを教えていただきましたが、「お塚」「お滝」と直接関係がないので、メモもとっておらず、詳しいことまで記憶に残っていません。また時を改めて訪ねたいと思います。 太秦映画村に向かいました。→こちら-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/03/26
コメント(0)
【2018年3月22日(木)】 今日は、研究員研究最終発表会レジュメ締切日です。第2回中間発表会(3月3日)のレジュメも同じA4・1枚で作成したし、その後、大きな進展もないので、第2回レジュメの小変更で対応できそうです。最終レジュメまで、もう1回はフィールドワークを挟んで内容を濃くしたかったのですが、ようやく時間がとれるようになったこの3日間、ずっとお天気が悪くて、フィールドワークを自重していました。 今日もお天気はあまり良くありませんが、上記状況から判断して、フィールドワークから帰ってきてからでのレジュメ作成でも間に合いそうなので、昼前に思いきってフィールドワークに出かけました。修学旅行の昼食処下見を兼ねて伏見稲荷大社参道沿いの「祢ざめ家」で昼食をとった後(こちら)、南谷の「お滝」管理者を訪ね歩きました。●清め滝 まず、麓の「清メ滝」から。ここは、管理者はいらっしゃいますが、「お滝」には水が流れておらず、「お塚」も荒れが目立ちます。 管理者宅は、伏見稲荷大社奥社の横から谷底のほうに見下ろすことができ、壁面に「伏見稲荷教会」と看板が掛かっているのが確認できました。大きな建物ですので、昔は宿泊もできたのではないかと思います。あとで「伏見稲荷教会」でググってみましたが、何も分かりませんでした。 管理者宅は、外からは全く中の様子が分からず、お供えの「ろうそく」を売っておられるかどうかも分かりませんでした。インターホンを押して、しばらくすると、70代か80代の男性の方が、玄関横の戸を開けて応対くださいました。名刺をお渡しして、研究の内容をお話したうえで、色々お話を聞かせていただきました。心よく丁寧にお答えいただきました。・「お塚・お滝」ができた時期はよくわからないが、ご主人で3代目になる。できたのは、昭和の初めだと思うとのこと。(吉田地図には載っているので、大正末期にはすでに存在していたと考えられる。大正初期の「獨案内」には載っていないので、ご主人のお話も加味して、大正末期の建設と考えるのが妥当かと思われる。)・「お滝」を止めたのは、15年くらい前か。上流に畑ができて水が汚くなったので止めた。水は川の水だがポンプで揚水していた。・「お塚」の管理費を払わない人が増えて、管理が大変な状態になっている。 その後上流を歩きましたが、確かに畑が広がっていました。「お滝」ができた頃は、森林だったのでしょう。この下流に「お滝」があります。 確かにこの上流の「お滝」のさらに上流は、畑などは少ないので、水が濁ったりすることはなかったのでしょう。●八嶋滝 次の「お滝」は「八嶋滝」です。 管理棟のインターホンを押すと、女性の方が出られましたが、ここには住んでおらず、離れた場所に住んでいおられるとのこと。インターホンがそちらに繋がるように設定してあるようです。午前中なら「お滝」管理のために管理棟にいることが多いとのことで、出直すことも考えましたが、今日の締め切りまでに、最低限の情報は収集したかったので、お断りしたうえで、インターホンで基本的なことのみ質問させていただきました。・できたのは100年以上前。・水源は自然の川の流れ。水が濁って困るようなことはなかった。・「お塚」「お滝」が観光化するのは、信者さんには抵抗があるのではないか。●命婦滝+白菊滝 次に、さらに上流の「命婦滝」へ。 ここは「お塚」に向かう細い道を挟むように管理棟が建っています。上流に向かって右側の建物に入って声をかけました。奥様が出てこられて、対面の休憩所で、わざわざ暖房を点けて、お茶も出してくださって、お話を伺うことができました。途中で旦那さんも呼んでくださって、旦那さんからもお話を伺うことができました。・ここは「奥社」の「お滝」である。神社ごとに身を清める場を持っていた。そこにお塚もできた。(このときは神職さんのための「お滝」と思ったが、神前の茶店の客用ということかもしれない)・私で5代目になる。女系だったので、田中、中村、伊藤と名前が変わってきた。記録が残っておらず、いつごろ「お滝」や「お塚」ができたかは正直よく分からない。・ご主人は平安神宮の神職を勤めていた。・滝行をする人は減っているが、月次祭(つきなみさい)の月初には、5、6人来られる。月に15人程度来られる。・中田幹夫さんという伏見神宝神社の宮司さんが、「お滝」を色々調査された。一度コンタクトされるとよい。 色々お話しするうちに、上流の「白菊滝」の奥様が来られて、いっしょにお話しを伺うことができました。偶然です。南谷の「お滝」は同じ町内会で交流があるとのこと。・「末広滝」の上流の平らな場所は、現在の「白菊滝」の奥様のお家があったところ。そこには昭和49年に引っ越してきた。住みながら「岩滝」を管理していたが、昭和60年頃廃滝にした。(水を共同利用していた別の一軒のお家が引っ越して出て行かれたのでとの説明だったが、イマイチよく理解できなかった) ・昭和49年に引っ越ししてきたときは、すでにより上流の滝は廃滝になっていた。その滝が「不動滝」かどうかは分からない。「岩龍滝」は知らない。・奥様のお婆様が「白菊滝」に住んでいて、亡くなられたので、平成元年に「白菊滝」に引っ越しをした。・「末広滝」のお塚と地続きになっているが、「岩滝」のお塚の領域があり、「岩滝」分は、今も「白菊滝」で管理している。・「三光滝」という名は知らない。 偶然ですが、2箇所の「お滝」の管理人さんに、いっしょにお話しをお伺いすることができたよかったです。 「命婦滝」の管理人さんに志納をお渡しして、立派な蝋燭とご神饌をいただいたので、お社にお参りして上流に向かいました。いつも、上流側の入り口が閉まっているので、横の隙間からコソコソと出入りしていたのですが、戸を開けることができることも教えていただいたので、今日はコソコソではなく、堂々と戸から出ました。 下の写真はいただいたご神饌を自宅に持って帰って撮ったものです。「スルメ」もあったのですが、帰省中の長女が大好物だとのことで、焼かずに食してしまいましたので、写っていません。●青木滝 一つ上の「お滝」は「弘法滝」になりますが、一度お話を伺っているので(当方の身分を明かかさずにですが)、さらに上流の「青木滝」に向かいました。インターホンを押すと、中から男性の方が出てこられてお話をお伺いすることができました。・できたのは明治30年頃ではないか。・「お塚」の持ち主が分かっているのは、半分くらい。・5、6年前までは人通りが少なかったが、最近外国人の方が多く通るようになったので、道に沿った部分を整備した。●御剱滝 七面滝と鳴滝は、以前、訪問させていただいているし、白菊滝は先ほど命婦滝で管理人の奥さまのお話を偶然お聞きすることができたので、より上流の「御剱滝」に向かいました。 私はこの滝を「ごけん滝」と勝手に読んでいたのですが、さきほどの命婦滝でのインタビューで「みつるぎの滝」と読むことを知りました。 管理棟のインターホンを押したところ、奥様が出て来られてお話をお伺いすることができました。・いつ「お塚」「お滝」ができたかは、よくわからない。・古い地図に載っている「三光滝」「新熊鷹滝」の名は聞いたことがない。・お塚の雛段で何箇所か何も立っていないところがあるのは、以前の台風で倒れてしまったところ。幸い連絡先が分かっていたので、持ち主に連絡したところ、「撤去してください。」とのことだったので、撤去した。・最上段の柵で囲われた「白砂舎」のお塚は、以前は、当方で管理していたが、信者さんご自身で管理されるとのことで、そうしていただいた。しかし、先生がお亡くなりになたので、これから先どうなるか分からない。 その上の「末広滝」にも行きましたが、管理棟に鍵がかかっていて、管理者の方が一時的にご不在だったようなので、別の機会に訪れることにして、時間も遅くなってきていたので、下山しました。 帰る途中、「七面滝」に立ち寄って、仏師の大岩さんにご挨拶。この前の訪問のお礼も兼ねて、志納をさせていただきました。鳥居の修繕に使わせていただきますとのこと。 またこの滝で修行をされている方が、この滝のことを書いたインターネット記事のコピーをお渡ししました。お名刺もいただきました。近々日蓮宗の信者さんが滝行に来られるという情報、そして、この近くの鳥居を製作している会社の主の方が、この地域で生まれ育った方で、この付近の「お塚」や「お滝」のことはよくご存知ではないかとのことでした。また、水源になっている金鉱石の採掘場だったところは、七面滝の入口駐車場近くで、痕跡が残っているとの情報もいただきました。 鳥居製作所には後日訪問するとして、今日は、もう一つの目的「真心滝」の痕跡探しをしてから帰ることにしました。 「吉田絵図」、「参拝図」によると「青木滝」の上流を右に入ったところに「真心滝」というお滝が掲載されていますが、現存はしません。未だにどこにあったかよく分かりませんが、インターネットでのM.Yagi氏の記事によると「建築用砂採取場となり消滅」とあります。その場所と思しきところをウロウロしてみましたが、痕跡は発見することができませんでした。 今日のフィールドワークで、南谷で訪問できていないお滝管理者は、末広滝だけになりました。北の谷と「お山巡り」参道のうちの私有分では、荒木滝、白滝、薬力滝の管理者が未訪問です(廃滝も含めると「ねざめの滝」も。 「お塚」「お滝」の管理者は世襲が基本のようですが、その起源については、記録も残っていなくて、今の管理者の方はよくご存知ないようです。また、利用者が多かった時代は管理者を専業にしていたようですが、時代とともに、「お塚」にお参りする人も、滝修行をする人も少なくなり、志納が少なくなって、ご主人は他に仕事を持っておられて、奥様が「お塚・お滝」のお守りそしているケースが多いようです。「お塚」の持ち主が、半分くらい分からなくなっているのも珍しくありません。 「お塚」「お滝」の観光利用については、滝行をする方は、色々問題を抱えた方々が多く、あまり人に見られたくないという意識があるし、滝行は意識を失ったり危険な行為でもあるので、指導も受けずに慣れない人が滝行をして倒れられたら困るということもあります。こういったことから賑やかになるのは嬉しいが、観光化には諸手をあげて歓迎とはならないようです。 下記は、アトリエを七面滝内に持って、鳴滝も含めて面倒を見ておられる大岩さんのホームページです。https://narutakioinari.jimdo.com/よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/03/22
コメント(0)
【2018年2月20日(火)】 今日はガイドOFF日。第3火曜日は夕刻月イチの三味線レッスンがあるので、勤務不能日にしており、勤務が入りません。 研究員中間発表の3月3日まで、OFF日が今日を含めて4日しかないので、早く文書作成に入りたいところです。しかし、フィールドワークが消化不良なので、今日、歴彩館に行って都市計画図を確認したうえ、「お滝」でのインタビューをしようと考えました。しかし、家内は今日友達との「歩こう会」の日。「歩こう会」とはいうものの、今日はエキスポシティとのことなので、どこが「歩こう会」なのかという感じです。家内は午前中から出るため、ワンちゃんをお昼くらいまで面倒を見なければならず、出られるとしても昼過ぎです。しかし、交通費を気にせず、最速の交通機関を使えば、歴菜館も「お滝」も行けると踏みました。 まず歴彩館へ。目的は過去の都市計画図で、所在不明の「東福寺滝」、「真心滝」、「岩滝」、「不動滝」/「岩龍滝」の場所のヒントを得ることです。大正時代の都市計画図は、山間部が全くあてにならないことが前回分かりましたので、昭和時代の都市計画図を係の方に出してもらって調べ始めました。 短時間で済まそうと思いましたが、やはり甘かったです。時間がかかりそうです。早々に今日の「お滝」訪問でのインタビューはあきらめました。地図確認に集中しました。 とはいうものの、あまり収穫はなかったのです。そんな中の収穫は次のようなことです。・「真心滝」は、前回のフィールドワークで訪れた印章大社があった場所ではないかと推定していましたが、印章大社がこの場所に地図上で現われるのは、昭和62年の地図からです。それ以前の地図では、山になっています。山を削って、昭和57年以降、昭和62年以前に建てられたようです。大正15年の吉田初三郎地図にすでに「真心滝」は載っているので、「真心滝」の場所は、ここではないということになります。 ネット情報では、「採石場ができて潰された」との記述がありましたので、採石場らしき場所をトレースしてみました。しかし、採石場が現われる以前の地図では、建物も何もありません。結局、「真心滝」の場所は不明のままです。・「末広滝」の上流部の変化をトレースしてみました。次のような変化が見られました。これが何を意味するのかは不明です。 Aの建造物は以前新たな「お滝」を発見した場所です。この「お滝」が昭和44年から昭和50年に造られたものということなのかもしれません。この滝は「不動滝」あるいは「岩龍滝」だと思っていたのですが、この年代に造られたものであるとすると、そうではないということになります。 やはり「末広滝」の管理者へのインタビューが必要です。また、階段下の建物は、「七面滝」をお世話されている方から聞いた「金鉱石」採掘場所ではないかと考えており、その場所もこの世話人の方にもう一度インタビューする必要があります。・「東福寺滝」は全く手掛かり得られずです。 今日、フィールドワークができなかったので、文書作成前にもう一度フィールドワークをしたいところです。しかし、中間発表まで、あとOFF日は3日しかありません。悩ましいところです。レジュメや発表用資料を一通り作っておいて、時間があればフィールドワークをするということにするか、発表をした後、フィールドワークをして、最終レジュメに間に合わせるかです。悩ましいところです。 三味線レッスンに向かいました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/02/20
コメント(0)
【2018年2月17日(土)】 研究員活動の今後の予定は、・3月3日 第2回目の中間発表・3月22日 最終発表レジュメ案提出・4月28日 最終発表です。 日があるようですが、ガイドやプライベートの予定が詰まっていて、あまり時間がありません。3月3日まで昼間時間がとれるのが、今日を含めて5日しかありません。3月3日以降、3月22日までも、7日だけです。これに確定申告作成、他の「冬旅」スポット見学が入ります。早く、文書、発表資料作成に入りたいところですが、フィールドワークや文献閲読が不十分なので、もう少しだけ継続です。 今日はフィールドワークに行こうと思い家を出たところ、天気が悪くなりそうだったので、急きょ歴彩館行きに予定変更しました。 歴彩館では前回ざっと見た地形図を閲覧しました。まず、いくつか最近のものを出していただきました。しかし、2万分の1や2万5000分の1では粗過ぎて、「お滝」の管理棟を捕捉するのは困難だと判断し、深追いはやめました。 次に都市計画図を閲覧しました。地形図は最古のものは明治22年のものがありましたが、こちらは大正11年のものが最古です。縮尺は3000分の1程度で、管理棟が捕捉できます。しかし、大正時代のものは、山中のお滝場の管理棟は全く捕捉していないことが分かりました。今回の目的には全く使い物になりません。 地形図や都市計画図である程度、「お滝」の成立時期が分かると思っていたのですが、ダメでした。 残った時間を利用して、「伏見稲荷大社御鎮座千三百年史」をもう一度ざっと読んで、今回の準備に必要だと思われる部分を約50枚コピーしました。中間発表と最終レジュメ作成までの文献検索は、今回を最後にしたいと思います。あとフィールドワークを1回行って、それ以外の時間は文書、発表資料作成に割きたいと思います。 今日は私の63回目の誕生日。家内は私が出歩いてばかりいて好き勝手しているので機嫌よくないし、おまけに体調不良。晩御飯もケーキも無しの誕生日でした。さきほど、コーヒーとビスケットで遅い夕食を済ませました。家内の体調不良が心配です。寒いと言っているので、風邪か、インフルエンザか。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/02/17
コメント(6)
【2018年2月14日(水)】 今日は、ガイドオフ日。普通なら在宅するところですが、研究員の2回目の中間発表が3月3日にあり、最終レジュメ案提出が3月22日なので、追い込みのため今日も研究員活動で外出しました。次女が里帰り出産を終え、この16日に東京に帰るので、その準備で家内も忙しそうにしているので、申し訳なかったのですが。家内に白い目で見られながら、「行ってらっしゃい」の言葉もなく出かけました。少々つらいですが、できるだけよい論文にしたいので、ここしばらくは止むを得ません。 まずは、フィールドワークへ。 伏見稲荷大社の御茶屋に寄って仲間に挨拶。受付はSさん、その時の門の当番は同期のJさんでした。Jさんはインフルエンザで休んでおられましたが、今日は出勤でした。ただ、まだ鼻声で、医者から「歳をとったら、インフルエンザからの快復も時間がかかる」と言われたそうです。 まず、吉田初三郎絵図の「熊鷹滝」を探します。 その途中、「愛染寺」の燈籠を探しました。納札所を東に行った橋の手前に「愛染寺」と彫った燈籠を発見しました。何度もここは通っていますが、気が付きませんでした。「愛染寺」は明治維新後の廃仏毀釈で廃寺となった伏見稲荷大社の本願所。字彫にもあるように宿坊にもなっていました。この燈籠が建てられた年代も彫られていましたが、風化していてよく読めません。「文禄」かもしれません。「愛染寺」と彫られた燈籠判読が困難だが「文禄」とも読める(この写真では難しいですが) 御産婆稲荷から北のお山参道を上ります。以前フィールドワークした際に、小丸居神社近くで、谷底のほうに「お塚」を発見したので、それが吉田初三郎図絵の「熊鷹滝」の跡ではないかと考えていました。小丸居神社横の「梶亭」というお店で、蝋燭を買い求め、研究員の名刺もお渡しして、お店の方にお話をお聞きしました。フィールドワークで名刺を使うのは初めてです。お店の方はお年は70歳代とお見受けしました。お伺いしたことをまとめます。・子供の頃、「お滝」が谷底に見える「お塚」のところにあった。 「お滝」と呼んでいただけで、それが「熊鷹滝」かどうかは分からない。・ほどなく「お滝」は廃絶になった。・昔は下から行けたのだが、その道がなくなったので、「お塚」参拝の方のために、 この近くから降りられうように階段道が作られた。一般の方は通ることができない。 (上記の無くなった道というのは、以前のフィールドワークで大日本大道教横を 通って行こうとして、途中で道がなくなっていたところだと思われる。)・今は、お塚にお参りする方もほとんどいない。 やはり谷底に見える「お塚」の場所が、「熊鷹滝」跡と判断していいようです。谷底に見える「お塚」。ここが「熊鷹滝」と思われる。 次に、やはり吉田初三郎図絵の「ねざめの滝」の調査です。三ツ辻まで上がって、この前訪れた「坊崖遺跡」横を通って、荒木滝の上に出ました。その下に「お塚」が庭にたくさんある民家があります。そこが「めざめの滝」のあった場所だと考えていました。以前、フィールドワークでは外から見ただけで、「お滝」は発見できませんでした。「お塚」にお参りされる方のために、家の門が開放されているようですので、中に入ってみました。池はありましたが、「お滝」の跡は発見できませんでした。家の裏手のほうに「お滝」がありそうな雰囲気でしたが、普通の民家になっているところの裏で廻り込む勇気はありませんでした。 その下の「権太夫滝」の社務所に入って、ここでも蝋燭を買い求めたうえで、管理者の方に研究員の名刺をお渡しして、色々とインタビューさせていただきました。前回、お話を伺ったときは、年配の女性の方でしたが、今日は年配の男性の方でした。以前、全寺社巡りのときに立ち寄って、伏見稲荷周辺に「お滝」が20箇所くらいあると教えていただいた方かもしれません。分かったことは、次のような内容です。・上流の今農地になっているとろは、池があって、私の子供の頃は、その水を飲料水にも 使っていた。蛇口をひねるとその池水が流れ出した。 「お滝」の水もその池の水を使っていた。しかし、その池が今は農地になっている。 ところが湧水がそのあたりに出るので、池がなくても「お滝」の水源は確保できている。・上流の荒木滝とここの権太夫滝の間に「ねざめの滝」があった。 今、一般の住宅になっていて、お塚だけが残っている。裏に「お滝」があった。 代替わりされたときに、「お滝」を廃絶されたようだ。 私が生まれたのは昭和13年だが、物ごころついた頃には、すでに「お滝」はなかった。・その「お塚」は「明心教」という教会の設立したお塚だった。・北谷の「お滝」は湧水や自然流があり、「お滝」の水量には困らないが、 南谷は宅地蔵造成で湧水が出にくくなったと聞いている、上記に出てくる権太夫滝、荒木滝上流の池の跡 ここでお昼時になったので、本殿方向に戻って、京阪伏見稲荷駅近くのラーメン屋さんで、昼食をとりました。修学旅行の昼食処下見を兼ねているので、こちら。 昼食後、「ぬりこべ地蔵」に寄って、奥社(千本鳥居の出口)方向を目指しましたが、偶然「清め滝」に東側から入る道を発見しました。「清め滝」ではお堂の前で、読経をする3、4人の集団に遭遇しました。「お滝」は廃絶になっていますが、お塚やお堂は全部ではないにしても、こうやって信者さんによって保持されているのだということを目の当たりにしました。 南谷を上っていきます。八嶋滝、命婦滝を通り過ぎ、弘法滝へ。弘法滝でも蝋燭を買い求めて、管理者の方(年配の女性の方)にお話をお伺いしました。ここでは、研究員の名刺を渡しませんでしたが、今後のこともあるので、渡しておけばよかったと後悔です。分かったことは下記のような内容です。・明治中頃、先々代が開いた「お滝」。「お塚」と同時に開いた。・水源は「お滝」の上の湧水。この湧水からの「お滝」は「お塚」建設前からあったのかも しれない。・南谷の「お滝」のある場所は、伏見稲荷の境内地や公有になったことはなく、 ずっと個人所有の土地・弘法大師をお祀りしているので、滝行をする方は、「オダイさん」より仏教信徒が多い。・昨日も3~4人滝行をされた。 もちろんピークのときに比べると、滝行をする人数は減っている。 さらに上って、青木滝を通り過ぎ、「真心滝」があったと思われる場所へ。七面滝に下りる道の手前に、石材置き場のような場所があり、その奥に鳥居と「お塚」が一つ。 さらに奥には、神社の社務所跡のような建物が残っていました。 裏に「お滝」の跡がありそうだったのですが、私有地なので、無理に探索するわけにも行かず、ここが「真心滝」の場所とは特定できませんでしたが、その可能性は大です。 次に、「七面滝」へ。今回のフィールドワークでは初めて訪れますが、以前、全寺社巡りで訪問したことがあります。ネットで色々調べていたら、最近整備がされたとのこと。滝に下りるところに、こんな看板を発見。鳥居に七面天女の扁額 木彫をされる方がアトリエにされているようです。以前は、こんな洒落た看板はなかったような気がします。 ここの方が、「お滝」「お塚」のお世話をしておられるようです。こんな張り紙が。 滝に下りてみたら、確かに以前訪れたときよりきれいに整備されていました。七面滝 ネットで既知でしたが、やはり宝塔寺の管理のようです。 外国人も多くなっているので、英語での警告も。 お滝から上がってきたときに、管理棟から人声して、外国人の男女が出てきました。外国人観光客がふらっと立ち寄ったようです。私も思いきって入ってみました。中年の男性の方がいらっしゃって、蝋燭を買い求めたところ、マッチを持って滝まで下りてくださいました。蝋燭は「お滝」の近くの参拝所に置いてあったのです。この方が張り紙のお名前にあった大岩さんのようです。「お代は特にいただきません。」ということでしたが、それではあまりにも申し訳ないので、多めにお賽銭をあげさせていただきました。大岩さんから色々お伺いしたことを列挙します。・23年前からこの場所をお借りするようになり、アトリエにして、 お滝の世話をさせていただいている。 以前は管理棟所有者の方も住んでおられたが、今は、ここには住まわれていない。・「お滝」の水源は湧水。上流に金鉱石?を掘っていた穴があるが、そこに湧水があり、 それを使っている。「お滝」の脇を流れる水は川の水。 ここの「お滝」の水は大雨が降ったりすると、たくさんの水流になる。 水質的に飲み水にはならない。 下の「鳴滝」は飲料水になり、実際に飲んでいる。水流が「七面滝」とは異なる湧水。・この場所は、宝塔寺の所有。・滝行をされる方は日蓮宗の信徒さんが多い。 山伏装束の方が、護摩を焚いたりされることもある。・「鳴滝」の世話もしている。所有者の方は、別のところに住まわれている。 固定資産税も大変なので、市に土地を寄付されようとしたが、宙に浮いたままになっている。 木の乾燥場として使ったりしているが、谷底なのでなかなか乾かない。・真心滝というのが過去近くにあったというのは初耳。 印章社というお社があり、お塚とともに引っ越したのは知っている。 掲示にあったように、鳥居がきれいに整備されていました。 その奥の鳴滝は逆に荒れ放題 しかし、お滝はさきほどの方がお世話をされているので、整備されていました。 さらに上流の「白菊滝」へ。白菊滝 入口に大正4年建立の碑がありました。「お滝」建設の年代が明らかになりました。 その奥が「御剱滝」 一番奥のお塚。結界が置いてあって、侵入禁止になっていました。 そのお塚の管理棟のようですが、閉まっていて、連絡先が貼ってありました。今後、お話をお聞きすることもあろうかと撮影しました。「お滝」の管理棟は別にあります。 「お塚」が設置されていた、あるいは設置できる階段状の土地はありますが、「お塚」は見当たらず、全体でも「お塚」の数が少なく、年代字彫を見つけることができませんでした。 その上の「末広滝」へ。ここの管理棟でも、蝋燭を買い求めて、管理者の方に「岩滝」「岩龍滝」「不動滝」のことをお聞きしたかったのですが、残念ながら管理棟は閉まっていました。 もと来た道を引き返して、京阪電車伏見稲荷駅から、丹波橋駅に向かいました。 「京の冬の旅」の大黒寺を見学した後、伏見中央図書館に入りました。初めて使う図書館です。大正2年発行の「お滝」を掲載した地図「伏見稲荷神社御山獨案内図」が、ここでしか見ることができないので、この図書館に来ました。伏見稲荷神社御山獨案内図 大正末期の吉田初三郎絵図にあって、こちらにはない滝や、名前の変わっている滝もあり、滝の建立年代や変遷をトレースできそうです。 その他2冊、伏見稲荷大社関連の本を閲覧しましたが、特に有用な情報は発見できませんでした。 こんな出歩いて好き勝手ばかりしているので、家内や次女からのバレンタインチョコは無しです。トホホ。でも、今日一日、全体的には大きな収穫のフィールドワークと古地図閲覧になったので、それは慰めです。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/02/14
コメント(2)
【2018年2月6日(火)】 伏見稲荷御茶屋のガイド11日目(こちら)の前に、研究員の8回目のフィールドワークを行いました。勤務前のショート・フィールドワークとしては、4回目になります。前回1月24日にフィールドワークを行った後は、伏見稲荷御茶屋勤務の朝、足元が悪い日が続きましたので、間が空いてしまいました。 実は、前回勤務日(2月2日)は足元が悪くなかったので、フィールドワークをしたのですが、カメラにSDカードが入っていなくて、写真を撮ることができませんでしたので、今日やり直しをしました。 2月2日の目的は、吉田初三郎図絵にある、「熊鷹滝」を探すことでした。2月2日にウロウロと探し回っていたとき、1つの滝を新たに発見しました。今日も、まずそこに行ってみました。 「御産婆稲荷」からお山巡りの裏参道を少し上がったところに「伏見稲荷本教間力教会」があります。2月2日にその駐車場の奥に、「お滝」を発見しました。以前、ネットで発見した「間力の滝」のようです。見たところわりと新しい時代に建設されたようですので、吉田初三郎図絵の「熊鷹滝」とは直接関係ないようです。 伏見稲荷本教間力教会「間力の滝」 水は流れていません。早朝だからかもしれません。まだ新しい由緒書き「お滝」の上の小さな鳥居の字彫は平成7年「お滝」入口の鳥居の字彫は昭和57年 2月2日ここを発見した後、「熊鷹滝」探索のため、事前にグーグルマップで目星を付けておいた道を行ってみました。「間力教会」の上の「大日本大道教」の横をすり抜けて谷に下りていく細道です。しかし、途中で道が判然としなくなっていました。道なき道を行って見ることも考えましたが、足元が滑りやすいのと、勤務の待ち合わせ時間に遅刻する可能性もあるので、この日は断念しました。また時間があるとおきにトライしてみようと思います。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/02/06
コメント(0)
【2018年1月31日(水)】 公募ガイドの清閑寺下見の後(こちら)、研究員研究のため歴彩館に向かいました。歴彩館訪問は7回目になります。 もう午後3時頃になっていて、あまり時間がなかったので、優先順位を決めて文献の確認を開始しました。 まずは「伏見稲荷+神蹟」でのネット検索でヒットした大正時代の神蹟付近を描いた古地図です。国会図書館に所蔵されているもので、デジタルデータで提供されているのですが、アクセス権が大きな図書館などに限られているので、歴彩館に来てアクセスさせていただくことにしていました。 係の方にお願いしてシステムを立ち上げていただきアクセスしました。「官幣大社稲荷神社境内及稲荷山神蹟全図」という大正2年に作成された地図です。 期待した通り、お塚、お滝場の所在が記載されていて、お滝場があるところには滝のマークが記入されています。大部分のお滝をカバーしています。残念なのは解像度が悪いために、字の判読がむつかしいことです。それでも名前を既に知っているので、一部を除いて判読することができました。最終的には印刷をしてもらうのですが、印刷するとさらに解像度が落ちるであろうから、画面上でできるだけ判読しようとしたので、けっこう時間がかかりました。 大正14年の吉田初三郎地図には登場するが、この大正2年の地図には登場しないお塚場、お滝場がいくつかありました。記載があった滝:命婦滝、弘法滝、青木滝、七面滝、鳴滝 白菊滝か御剱滝のどちらか(字影から御剱滝の可能性が高い) 末広滝、薬力滝、清滝、白滝、○滝(判読不能。○は1字。初音滝の位置) 荒木滝、御壺滝?、五社滝? (?は画面での確認が漏れており字は不確か。次回歴彩館訪問時要確認)記載がなかった滝:清メ滝、八嶋滝、真心滝(地図の範囲に入っているかどうは不確か) 白菊滝か御剱滝のどちらか(字影から白菊滝の可能性が高い)、、 岩滝、不動滝、ねざめ滝、権太夫滝、熊鷹滝熊鷹本滝は地図の圏外と考えられる。大石滝は明らかに圏外。 今までお塚、お滝場の成立年代がよく分かりませんでしたが、これで大正2年にはすでに存在した「お滝」と、大正2年以降大正14年までにできた「お滝」の分類ができました。大きな成果です。 あと残った時間で、伏見稲荷大社の機関誌「朱」の文献をいくつかコピーしました。今まで、第1号から全部の文献にざっと目を通して、有用なものだけ精読したり、コピーしたりしてきました。しかし、時間も限られています。今回、大社のホームページの各号の目次から有用だと思われるものを前もってマークしておきました。今日はそのうちでも特に有用だと思われる、「お塚」や山岳信仰、修験道、イナリサゲ、稲荷講などについての文献をざっと読んで、役に立ちそうなものだけをコピーしました。 これらはまだ読んでませんので、読んだうえで、有用な内容があれば、投稿したいと思います。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/31
コメント(0)
【2018年1月24日(水)】 伏見稲荷御茶屋のガイド6日目でしたが、2本早いバスで出て、勤務前に、研究員の7回目のフィールドワークを行いました。勤務前のショート・フィールドワークとしては3回目になります。 今回は、稲荷山のいわば周遊「お滝」ルートではない、「たつみの滝」を訪問しました。 「たつみの滝」は、伏見稲荷大社の南にある、日蓮宗宝塔寺境内の七面宮にあります。以前、「京都市内全寺社巡り」の際に、偶然発見した「お滝」です。 「七面宮」は、江戸時代1666年に建立されたもので、かつては宝塔寺の鎮守社でした。神仏習合がそのまま残った格好です。七面大明神が祀られています。七面大明神は釈尊の応化身であり、法華信仰の守護のため、身延山の西の七面山の頂に、鬼封じのために垂迹示現した吉祥天だといいます。 瑞光寺開祖・元政によれば、平安時代、建治年間(1275-1277)、身延山で法華経を説く日蓮の前に、参詣者に混じり、若く美しい女が現われました。日蓮は正体を見抜き、本当の姿を見せよと言います。女は、一滴の水さえあればと答え、日蓮が、傍らの花瓶の水を与えると、女はたちまち龍身と化します。龍蛇は再び女の姿に戻り、釈尊の仰せに従い、法華経守護のために現われ、七面山の方に消えたといわれます。 七面宮の奥に「たつみの滝」跡がありました。前回訪れたときからですが、廃滝になっています。回りには「お塚」はありません。「たつみの滝」と彫った比較的新しい石碑があり、裏面には「昭和52春年開発 第四十八世日誠代 信者百余名」と彫られています。伏見稲荷周辺の「お滝」に比べると、年代は大幅に新しいです。この石碑の「昭和52年」は今回新たな発見です。 「たつみの滝」のネーミングは推定ですが、上記の「『龍蛇』は再び女の姿に戻った」の「龍蛇」からきているのでしょう。また、「たのみの滝」は、伏見稲荷周辺の「お滝」より、ずっと新しく、日蓮宗信者のために建てられた「お滝」のようで、他の「お滝」とは性格が異なります。 帰りに参道の石段を下りるとき、参道の落ち葉を掃除されている方がいらっしゃったので聞いてみました。お寺の方かと思いましたが、ご近所の方が奉仕されているようです。・「たつみ滝」は信者さんが、昭和52年に建設した・記憶は定かではないが、閉鎖されたのは20年ほど前か・以前は、修行衣に着替える小屋があった・伏見稲荷大社南谷に、宝塔寺のもう一つの滝がある(七面滝)・昔は、七面滝にショートカットするための道が南側にあった宝塔寺総門宝塔寺本堂七面宮に向かう石段七面宮七面滝石碑の裏面には昭和52年開発の字彫七面滝七面滝内の石碑 ここにも昭和52年の字彫 伏見稲荷大社に戻り、御茶屋のガイドを務めました(こちら)。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/24
コメント(0)
【2018年1月16日(火)】 伏見稲荷大社御茶屋ガイドの受付の下見に午後2時半に行くことにしたので、それまでの時間を利用して、伏見稲荷「お滝」の6回目のフィールドワークを行いました。 夕刻には月イチ三味線レッスンがあるので、阪急で京都河原町に出て、河原町御池の十字屋に三味線を預けて、京阪で伏見稲荷へ。午前11時過ぎから歩き始めました。今日歩いたルート 伏見稲荷大社の講務本庁の前を通った際に、講員加入についてのポスターがありました。正講員は年額2000円以上となっています。今後も伏見稲荷大社についての研究は続いていくことになると思うので、これくらいの金額であれば、入会してみようかなと思います。講員加入案内 「三ツ辻」から「四ツ辻」へ。四ツ辻では、ご神跡の一つ、荒神峰(田中社)により、鳥居やお塚の字彫を再確認しました。古いものは大正前半でした。 御膳谷に到着。御膳谷の社務所は、ネット情報によると、戦前は民間の行者宿で、断食修行の世話をしてくれたそうです 御膳谷の「お塚」を再訪です。1月4日のフィールドワークでは、大正元年が発見した中では一番古い字彫でしたが、今回、明治33年の字彫を発見しました。御膳谷の「お塚」 明治33年の字彫「清明滝」(地図の1)へ。この「お滝」は伏見稲荷大社の境内地にあり、伏見稲荷大社が管理しています。入口には「お滝利用の方は、御膳谷の社務所へお越しください。」だったか何だか書いてありました。清明滝 伏見稲荷のお滝群の中では、最も大きな「お滝」ではないかと思います。そして今までの「お滝」は、「お塚」とセットでしたが、ここは「お塚」はありません。そして、他の「お滝」では、滝近くに不動明王などが祀られていることが多いのですが、ここはそういった偶像が一切ありません。最も静謐な印象を与える「お滝」です。「お滝」の水は勢いよく流れています。自然の水流のようです。 近くには「清明舎」と呼ばれる建物があります。滝行のための着替えや休憩の場所であったり、今はどうか知りませんが、ネット情報によると、宿泊もできるようです。清明舎 再び坂を上って、「薬力の滝」(地図の2)へ。数は少ないですが、「お塚」が滝の近くにあります。 滝口の上に上ってみますと、人口の貯水池があり、そこから流れ出ていました。山の方から自然の水流も来ていますが、それほど多くはなく、ホースもありますので、循環もさせているのかもしれません。 「薬力の滝」近くの分かれ道を山科の方に向かいます。「山科の里 大石良雄旧跡」と書かれた道標のところを下ります。大石良雄(大石内蔵助)が山科の岩屋寺に隠棲していたとき、伏見の遊郭に通うのに通った道だと伝わります。 ほとんど山科側に下り切ったところに、「大石の滝」の跡(地図の3)があります。ここは、一昨年、「京都市内全寺社巡り」の山科区のパートで訪れたことがあります。そのときは、もちろん山科側から入ったのですが、今日は伏見側から訪れたということです。「大石之瀧」と書かれていたのでしょう。祭壇お滝着替えをする建物でも建っていたのでしょう。 「お滝」は廃墟になっていますが、詳しい説明書きが設置されています。前回訪問時も説明書きは見たのですが、そのときは、こんなところにも「お滝」があるんだという程度で詳しくは読みませんでした。 今回、詳しく見てみますと、あの吉田初三郎の絵も掲載されていて、「大正14年に建立され、昭和34年に廃墟になった」と書かれています。吉田初三郎の地図が大正14年に発行されていますので、ほぼ同時期に建立されたもののようです。ここ以外の「お滝」はすべて稲荷山頂付近か、伏見側の谷にあります。山科の住人が「お滝」をしようとすると大変です。それで山科側にも作られたのではないかと思います。「お塚」は見当たりませんでしたが、「祀られていた一部は、岩屋寺境内、西野山墓地に祀られている」とあるので、昔は「お塚」もあったのでしょう。 下りてきた道を引き返します。途中の別れ道で、山に沿って南の方に向かいます。 四叉路があり、記憶が不確かですが、立て札に「大石神社」「深草」「一之峰」と書いてありました。次は「末広の滝」に行きたいのですが、地図は持っているものの、こんな細い山道は載っておらず、「深草」か「一之峰」かで迷いました。「一之峰」の方向に行って、お山巡り参道に戻って、そこから急な坂道を下りれば、「末広の滝」に行けるのは分かっていたので、「深草」なら近道かも知れないとも思ったのですが、おり確実な「一之峰」の方に向かいました。 そこから上りになっていて、しばらくしてお山巡りの道近くに到達。急坂を下りて、「末広の滝」へ。帰宅後、地形図を調べたら、やはり「深草」の方向に下りるのが、「末広の滝」への近道だったようです。 「末広の滝」(地図の4)は、管理者の住宅があり、店も開いていました。外に「お滝」の案内地図が貼ってありました。これを手に入れたくて、お店に入って尋ねたのですが、売り物ではなく、貼ってあるものしかないとのこと。 止むなく、写真を撮りました。地図部拡大説明部拡大 これを見ますと、伏見稲荷の南側の「お滝」に特化したものです。ここには、吉田初三郎の地図に載っている「真心滝」と「熊鷹本滝」が書かれていません。また「伏見稲荷山参拝図」に書かれた「岩龍ノ瀧」も書かれていません(初三郎の地図にもない)。「熊鷹本滝」はメインルートから大きく外れているので、書かれていないということかもしれませんが、「真心滝」は、この地図がいつ作成されたものか分かりませんが、比較的古い年代で廃滝になったのかもしれません。そして、「岩龍の滝」は、初三郎地図が出た大正14年より後にできて、「真心滝」より後に廃滝になったということかもしれません。「末広の滝」。扉が閉ざされ、立ち入り禁止となっています。水流は勢いよく流れていました。「お塚」、鳥居の字彫の古いものを探しました。大正7年、8年、15年などが見つかりました。 たまたまお塚にお供えをして帰られる老夫婦がいらしゃったので聞いてみました。お歳は70歳くらいでしょうか。年に1回お参りに来られる程度だそうです。その方のお父様がお塚を作られたとのことですので、その方がお生まれになった頃だとすると、戦後間もなく建立されたようです。個人で建てられたのか、共同で建てられたのかは聞きそびれましたが、地代を払っていらっしゃるとのこと。やはり「お塚場」は管理料で経営が成り立っているようです。附属の滝で滝行をすることが少なくなっても、やっていけるのはそのためなんでしょう。 これらお塚群の近く、「末広の滝」に近いところに「岩滝」と思われる「お滝」があります。水は流れておらず、脚立も置かれていて、長い間使われていないうようです。 昔、「お滝」巡りをした際に、「伏見稲荷山参拝図」に書かれている「岩龍の滝」を発見できませんでした。地図では「岩滝」と「末広の滝」の間にありますが、それらしきものはその時も今回も何も発見できませんでした。今回、さらに奥に行ってみました。ありました、廃墟になっていますが、立派な「お滝」です。 鳥居には、手書きのようですが、「竜王出現社」と書かれているので(何故、彫ってなくて手書きなのか分かりません。古い時代に書かれたのではなく、新しく誰かが書いたのかもしれませんが)、「岩龍の滝」とみなしました。 鳥居の裏には昭和8年の字彫があります。これが「お滝」創設時に同時に建てられたものであるとすると、さきほどの初三郎地図が発行された後に作られたものだという推定と符合します。「伏見稲荷山参拝図」での「岩滝」の位置関係と逆になっているのは、地図の記載ミスと思われます。 この「岩龍の滝」(推定)の下には、平らな広い土地があり、構造物の跡があります。さきほどの鳥居の前には「木田家私有地」の看板があり、075で始まる電話番号を消して、0727で始まる電話番号が連絡先として書いてあります。大阪の箕面あたりの電話番号です。「末広の滝」とは別の管理者だったのだと思われます。周りには「お塚」がないので、「お滝」だけだったのかもしれません。「お滝」の利用者が減り、「お滝」だけではやっていけなくて、早い撤退になったのかもしれません。あるいは、「末広の滝」の「お塚」が、昔は部分的に、「岩龍の滝」の「お塚」だったのを、「末広の滝」の管理者に管理を委ねたのかもしれません。 伏見稲荷御茶屋の受付下見の時間が近づいたので、伏見稲荷大社に戻りました。→こちら-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/16
コメント(0)
【2018年1月13日(土)】 伏見稲荷大社御茶屋ガイドの集合時間までの時間を利用しての、研究員フィールドワークです。こぅいう形では2回目、通しでは5回目になります。今日は時間があったので、前回行けなかった坊崖遺跡まで行ってきました。 「帰り坂」と呼ばれる、北側の参道を登って三ツ辻へ。地図によるとその分岐点近くに、下に下りる道があるはずです。それらしき道が見つかりました。ここは「三ツ辻」という名前ではあるものの、この道を含めると「四ツ辻」です。しかし、それではもう一つ上の「四ツ辻」と同じになってしまうので、「三ツ辻」と呼んでいるのかもしれません。人の流れの多い道だけでいけば「三ツ辻」ではありますが。 下りていく道には、遺跡や行き先の表示は何もありませんから、観光客はまずこの道を下って、遺跡に行くことはないでしょう。私も何度もここは歩いていますが、過去はそんな遺跡の存在すら知りませんでした。 2,3分歩いたところに、それらしい場所がありました。「平安時代の?僧 浄蔵貴所旧跡」と書かれた石碑が立ち、お地蔵さんや祭壇のようなものが並んでいます。お地蔵さんの前掛けの赤が鮮やかなので、どなたかがちゃんとお世話されているのだと思います。 先日のフィールドワークの際に買った「深草・伏見」という本によると、この地は浄蔵貴所が修行をした場所であるとのこと。 浄蔵貴所は、京都検定の勉強で「一条戻橋」、「八坂の塔」の話を知っている程度で、詳しくは知りません。Wikipediaで調べてみました。「浄蔵(じょうぞう、寛平3年(891年)- 康保元年11月21日(964年12月27日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は三善清行。兄弟に日蔵がいる。宇多法皇に師事して出家。比叡山で玄昭に密教を、大慧に悉曇を学んだ。扶桑略記によれば、909年(延喜9年)怨霊となり藤原時平を祟っているという菅原道真を調伏しに行くが、時平の両耳から青竜に化現した道真が現れ祈祷を制止したので調伏を辞退した。その後、ほどなくして時平は死去したという。 935年(承平5年)から940年(天慶3年)にかけて平将門が関東で乱をおこすと、その調伏のため修法を行い霊験があり、その他にも験があたったという。美声の声明を行うことでも知られ、また天文・医薬にも通じていた。」 これで全文です。詳しくは書かれていません。 「坊崖遺跡」でググってみましたが、有用な情報は見つかりませんでした。浄蔵貴所が修行した場所かどうかも真偽のほどは分かりませんし、仮に修行したとしても滝行のような修行をしていたのかどうかも不明です。 御茶屋でのガイドの集合時間が近づいたので、もう一度「帰り坂」で本殿の方向に戻りましたが、時間が少しありそうなので、一番上のお社「小丸居神社」に立ち寄りました。 大連市と彫られた鳥居があり、裏には昭和15年と彫られていました。第二次世界大戦前、大連が日本領だったとき、大連に住む日本人の方が奉納されたものなのでしょう。 続いて昭和11年と彫られた鳥居を発見しましたが、さらに探すと明治33年と彫られた鳥居を発見しました。昨日探索した熊鷹社のお塚と同じく、今まで見てきたお塚の中では最も古い部類に入ります。 途中の茶店で、以前ネットで見つけて「お滝」リスト作成の参考にした「伏見稲荷山参拝図」手書きの地図が100円で販売されているのを見つけ、まだ営業時間前でガラス戸が閉まっていましたが、開けてもらって買い求めました。制作年代が書かれていることを期待しましたが、何も書かれていませんでした。 東京の中村風祥堂というところが発行元のようです。ホームページに問い合わせフォームがありましたので、制作年代について質問しました。回答待ちです。 この茶店の方に、この「帰り坂」に建つ神社群は明治時代にできたものですか?とお尋ねしたら、明治時代にはすでにあったとの回答でした。神仏分離で「お塚」が林立し始めたときに、これら神社群も建てられたと推定していたので意外でした。回答の内容の真偽のほどは不明ですが。 ガイドの集合時間に間に合うよう、伏見稲荷御茶屋に向かいました。今日のガイドの状況はこちら。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/13
コメント(0)
【2018年1月11日(木)】 伏見稲荷大社御茶屋ガイドの集合時間まで少し時間があったので、研究員のフィールドワークをしました。都合4回目になりますが、今回はショート・フィールドワークです。 先日のフィールドワークで手に入れた「深草・伏見」という本によると、三ツ辻の近くに浄蔵貴所が修行したという「坊崖遺跡」というのがあるのですが、ネットである程度場所も特定できたので、そこを目指しました。しかし途中で、そこまで行っていては集合時間に間に合わない可能性もあると思い、途中の「熊鷹社」のお塚の字彫の年代だけ調べることにしました。 明治32年や明治33年と彫られた石柱や石鳥居が見つかりました。今まで巡ったお塚の中では最も古いのではないかと思います。 御茶屋でのガイドの集合時間が近づいたので、本殿の方向に戻りました。今日のガイドの状況はこちら。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/11
コメント(2)
【2018年1月9日(火)】 今日は、午前11時頃から午後2時くらいまで、明日から始まる「京の冬の旅」伏見稲荷大社御茶屋のガイドの下見をしました(こちら)。夕刻から、ガイド会に月イチエリア会議があるので(こちら)、それまでの時間を利用して、「伏見稲荷大社とその周辺の不思議研究」の3回目のフィールドワークをしました。 去年12月11日には、伏見稲荷大社南側の「お滝」を巡り(こちら)、この1月4日には北側の「お滝」を巡りました(こちら)。 今日は、より南側のより東側の「お滝」を時間の許す限り回ろうとスタートしました。回ったルートは下記です。1回目に回った「お滝」も含め表示しています。1 清メ滝(12月11日)2 八嶋滝(12月11日)3 命婦滝(12月11日)4 弘法滝(12月11日)5 熊鷹本滝(本日)6 青木滝(本日) まず、「熊鷹本滝」を目指します。そのため以前訪れた「命婦滝」の中を通過します。前回は古い年代の字彫の写真撮影がなかったのですが、今回、入口近くで大正5年の鳥居への字彫を発見しました。 「弘法滝」の前を通って、「熊鷹本滝」に向かいます。伏見稲荷南側の「お滝」が、1本の道沿いに並んでいるのに対して、この「お滝」は離れたところにあるので、最初「お滝」巡りをしたときに見つけるのに苦労したところです。今回は、その経験があったので、少し迷いましたが、比較的簡単に見つけることができました。 鳥居が新しいので、廃墟にはなっていません。 しかし、管理棟のようなところは、無住のようです。しかし、入口近くにお住まいになっている家があったので、そこで管理されているのかもしれません。 「お滝」は水流がなく、落ち口はカバーがされていて、落ち葉で覆われ、最近使われた様子はありません。 「熊鷹本滝新設」の碑がありました。 裏面に建立年が彫ってあります。「昭和四」のあとが何と読むのかよく分かりませんでしたが、干支ではないかと思い、帰ってネットで調べたら、昭和4年の干支は「己巳」でした。「昭和四己巳」と彫ってあるようです。昭和4年に新設されたようです。今まで回った中では、比較的新しい「お滝」になります。(後日追記:大正15年に発行された吉田初三郎の「伏見稲荷全境内名所図絵」には、「熊鷹本滝」は記載されていますので、「熊鷹本滝」の創建は、大正15年以前と思われます。この記念碑が何年か遅れて建てられたのだと思います。あるいは新たに造り河替えて、それが昭和4年ということかもしれません) 鳥居やお塚で古い字彫を探しましたが、鳥居の昭和14年、お塚の昭和12年が探した中では古かったです。 「青木滝」に向かいました。 ここはしっかりと、きれいに管理されています。管理棟はシャッターが閉まってましたが、きれいにされています。 横にガラス戸の箱があり、個人名を書いたお供えのためと思われる三方がたくさん置かれていました。信者の方から依頼され、管理の方がお供えをするのでしょうか。 「お滝」は水流がありますが、チョロチョロです。これでは滝行にならないでしょうから、滝行をするときには、たくさん流すのでしょう。 他のお滝ではなかった由緒書きがありました。消えかかっていて読みにくいです。 探した中で、最も古い字彫は、大正10年でした。 時間が無くなってきたので、それ以上は奥に進まず、伏見稲荷大社本殿の方向に戻りました。 途中、「弘法滝」の上を通る道に沿って、注連縄で飾られたマンホールのようなものがあるのを発見しました。この下の水が「弘法滝」の「お滝」に流れているものと思います。ここに湧水を溜めているのかもしれません。1月4日の「お滝」巡りのときに買い求めた「深草・伏見」という本によると、熊鷹池が弘法の滝方面に流れる砂川の水源にもなっていて、熊鷹池から峠を越えて弘法の滝に流れるとの農家の古老伝承があるとのことで、その水路跡が弘法の滝の近くにあると書かれています。ひょとすると、これがその水路跡ということなのかもしれません。 京阪伏見稲荷駅からガイド会の地区組月例会に向かいました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/09
コメント(0)
【2018年1月4日(木)】 去年誕生した孫2人を我が家の車に乗せるためのチャイルドシートを買い求めた後(こちら)、天気も何とか持ちこたえてくれそうだったので、特別客員研究員のフィールドワークの2回目に出かけました。この前(昨年12月11日)は伏見稲荷の南側の「お滝」をいくつか回りましたが(こちら)、今日は北側から始めて、可能な限り「お滝」を回る心積もりで出かけました。結果として下記の地図ルートを時計回りに回りました。 JR稲荷駅で降車して、伏見稲荷大社で初詣した後、伏見稲荷の北側に回り込みました。雨がけっこう降ってきたので、どこも寄らずに帰ろうかなとも考えたのですが、ガイドの仕事が始まってしまうとなかなか来られなくなるし、雨も酷くなりそうにはなかったので続行しました。最初は地図を見ずに行ったので、北に行き過ぎましたが、地図を取り出してルート修正。分かれ道で「権太夫の滝」「荒木の滝」の道標を発見。新しい道標が、これら「お滝」が現役で活躍していることを物語っています。 最初の目的地「権太夫の滝」(ルート図の)に到着。ここは3年前に最祖に訪れたとき、宮司さんから伏見稲荷の周辺には20近い「お滝」があると教えていただいたところです(こちら)。それがきっかけで興味を持ち、その後ほぼ全部の「お滝」を巡りました。そのことが今回の研究に繋がっています。いわば研究のルーツになった場所です。 研究員の名刺を持ってくるのを忘れてしまいました。またあの宮司さんにお会いできれば、研究のためのお話を色々お聞きすることができます。そのためにも名刺は携帯すべきでした。 3年ぶりの訪問です。「お滝」への道は、扉が閉まっていて、「社務所にお声掛けください。」とあります。社務所に入ると、年配の女性の方が出てこられました。3年前にお会いした宮司さんの奥さまかもしれません。「お滝」への扉を開けていただいて「お滝」を見学させていただきました。水が勢いよく流れていました。少々質問させていただきました。 分かったこと、・ここの創建は大正元年・今も、滝行をする方はいらっしゃる。一般の方。・滝行の代金は決まっておらず「志」。滝行の衣装は貸していただくことも可能。 「お塚」や鳥居に刻まれた年号の一番古い物を確認しましたが、私が発見した中では、大正2年が最も古かったです。管理人の方のが大正元年創立とおっしゃってのと、ほぼ合致します。 東に進みます。大正14年の吉田初三郎筆「伏見稲荷全境内名所図絵」(以下「図絵」)では、現存する「荒木の滝」の間に「ねざめの滝」というのが描かれていますが、その痕跡がないかどうか探索しました。「伏見稲荷全境内名所図絵」の該当部分 ありました、ありました。「荒木の滝」の手前に隣接した一般の住居のような家の敷地内に「お塚」があり、昔「お滝」だったような池もありました。「図絵」でも、「荒木の滝」の西隣に描かれています。不確かですが、これが「めざめの滝」の痕跡と思われます。門は開けらたままで、中に入ることはできそうです。「お滝」は止めても、「お塚」はお参りに来る人もいるので、入れるようにしておかなければならないのかもしれません。「ねざめの滝」の痕跡と思われる 東に進むと「荒木の滝」があります(ルート図の)。ここも「権太夫の滝」同様、管理人が居住し、滝の水流もしっかり流れていました。 最も古い年代の字彫を探しましたが、探した範囲では昭和16年と比較的新しい年代でした。しかし、前出の大正14年に描かれた「絵図」には載っているので、少なくとも大正14年には存在していたと思われます。昭和16年の字彫刻(左端)吉本興業の字彫があるお塚を発見しました。 「荒木の滝」の北隣には、前出の「絵図」の赤の楕円内にある池の痕跡も確認することができました。今は荒れ地になっています(残念ながら写真を撮るのを怠りました)。ここに溜めた水を落差を利用して「荒木」、「ねざめ」、「権太夫」の各「お滝」に流していたのではないかと思います。 さらに北に進み、三之橋川沿いの「お滝」である「御壺の滝」と「五社の滝」に向かいます。三之橋川はより下流に行くと、東福寺の通天橋の下を流れます。これらの「お滝」を訪れるのは初めてです。「荒木の滝」から北上して直行する道はかなりややこしいですが、過去二度ほど近辺を歩いたことがあるので迷わず到達することができました。 より上流にあるのが「御壺の滝」です(ルート図の<3>)。荒れ果てています。これが滝の跡だと思います。小さな滝壺状になっているので「御壺の滝」と呼ばれているのだと思います。ここの「お滝」は自然の水流を利用していたうようです。「白髭の滝」の石柱。「御壺の滝」というのがこの「お塚場」の名前で、滝の名前は「白髭の滝」ということなのかもしれません。管理人の住宅はありますが、住んでいる気配はありません。荒れ果てています。古い字彫を探すと、大正2年、4年、6年などが見つかりました。昭和31年の字彫平成30年(今年)の記入がある鳥居。管理がされていなくても、熱心な信者の方はお参りをきちんとされているようです。 少し下流に「五社の滝」があります(ルート図の)。管理人が住んでおり、管理も行き届いています。今回始めて訪れましたが、伏見稲荷周辺のお滝で最も管理が行き届いた「お滝」ではないかと思います。私が訪れたときも、年配の女性が掃除をしておられました。 お滝も立派です。さきほどの「御壺の滝」の流れの下流にあり、ここもポンプで揚げたりすることなく、自然の水流を利用しているようです。 最も古い字彫を探しました。私が見つけた中では「大正5年」の字彫が最も古かったです。 掃除をしておられた管理人の女性にインタビューをして分かったこと、・創建は100年ほど前か?(100年前は1917年=大正6年。最古の字彫とほぼ一致)・今も「お滝」の利用はある。修行をされる方が利用。・滝行の料金は志納・滝行をされる場合、衣装は自分で用意していただくとありがたい。 腰に着ける白い布1枚で、腰に巻きつける紐を両端に付けるだけでよい。 この布を腰に着けるだけで、あとはスッポンポン。・滝行の経験がないと単独でするのは危険。管理人がそばについて指導する。 今は冬場なので、暖かくなってからのほうがよい。・上流の「お滝」は「御壺の滝」。無住になっている。廃業して10年くらいか。 「図絵」では「御壺の滝」と「五社の滝」は、下図の赤色の楕円部分です。「御壺の滝」が下流、「五社の滝」が上流になっており、実際と逆です。「図絵」の中の別の概略図では「五社の滝」が下流になっているので、単純な間違いだと思われます。 川沿いに坂道を上って「白滝」(ルート図の)に到着します。今まで書いてきた「お滝」は伏見稲荷の境外、すなわち私有地にあったものですが、ここは伏見稲荷の境内地です。 管理人がいらっしゃいました。住居ではなく、昼間だけ詰められているのだと思われます。伏見稲荷の公式の「お滝」である旨の表示は発見できませんでした。滝の水流は勢いよく流れており、蛇の形をした滝口になっています。 一番古い字彫は探した範囲では、最初鳥居に見つけた大正7年でしたが、石柱に明治43年の字彫を発見しました。前回も含め最古の字彫です。ただし、明治45年=大正元年ですから、今まで見てきた「お滝」も最古字彫に比べ、大幅に前の時代といくわけではありません。 もう一度坂を下り、分かれ道に戻り、東側の谷筋の道を上ります。「清滝」に到着します(ルート図の)。ここも伏見稲荷大社の境内地で、管理事務所があり、ここには「伏見稲荷清瀧勤番所」と書いた看板が掲げられています。しかし、その下に写真のように「御用の方は御膳谷奉拝所にお越しください」との平成11年に書かれたプレートが置かれています。利用者がやはり減っているのでしょう。 滝は2筋流れており、お塚全体もしっかりと整備されていました。 古い字彫としては、大正2年、大正3年が発見できました。 まだ、フィールドワークができていない「お滝」が数か所残っていますが、暗くなり始めたので、今日の「お滝」訪問はここで切り上げ、御膳谷奉拝所まで上がりました。お山巡り地図御膳谷奉拝所 御膳谷奉拝所は伏見稲荷大社境内の「お塚場」になります。字彫の年代を調べてみましたが、探した範囲では、「大正元年」が最古でした。他の「お滝場」と大きく変わらないようです。 お山巡りの道を半時計回りに進み、「四つ辻」へ。お山巡りの絶景ポイントです。四つ辻からの眺め お山巡り参道を降りる途中の茶店で、吉田初三郎筆「伏見稲荷全境内名所図絵」(100円)と「深草・稲荷」という深草稲荷保勝会が編集した本(500円)を売っていたので買い求めました。後者の本で何か発見があれば、後日投稿します。 写真のようなお山巡りの地図が茶店の前に貼ってありましたが、お店の方に尋ねたところ、手書きであって、売り物はないようです。 「三つ辻」を奥社のほうには向かわずに、そのままお産婆稲荷の方向に下りていきます。 伏見豊川稲荷本宮の鳥居で、明治31年の字彫を発見。今までで最も古い字彫です。 途中で、3年前に発見した私の地元の三重県の小さな町「一身田」の住人たちの建てた「お塚」を再発見することができました。 石碑には当初明治32年に建立されたとあります。鳥居には大正元年の字彫があります。 将来の研究の題材にしょうと考えており、写真は他にもたくさん撮りました。 荒木神社。最も古い字彫は鳥居の大正4年でした。「図絵」では、毎日稲荷近くに「熊鷹の滝」が描かれています。今回痕跡を発見すべく探しましたが、何も手掛かりは得られませんでした。次回、再トライです。 前回、今回のフィールドワークから推定されるのは、「お滝」群にしても、北側参道に林立する伏見稲荷大社境外の寺社群も、明治末期から大正前期に、急速な勢いで増えていったのではないかということです。 帰りに伏見稲荷大社にもう一度寄って、御守りや御札を授与していただきました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/04
コメント(0)
【2017年12月11日(月)】 午前中に「京の冬の旅」伏見稲荷大社御茶屋の事前説明会があり参加しました(こちら)。この勤務箇所はエリア会で希望調査があったとき第1希望にしたところです。なぜ第1希望にしたかというと、朝早めに出勤すれば、客員研究員の研究のフィールドワークができたり、コネクションができて神社に色々お聞きすることもできるかもという期待からです。 そして今日は、事前説明会が終わったら、今までできていなかったフィールドワークをする予定でいました。まずは、研究目線で「お塚」とその中の「お滝場」の現場確認をすることを考えました。もちろん関係者への聞き取りも必要ですが、現場確認が不十分なままでは的外れの聞き取りになってしまう可能性も大きいので、まずは現場確認と考えました。軽症ながら風邪をひいてしまいましたので、体調と相談しながら「お滝場」を巡ることにしました。 昼食後、千本鳥居すぐ南側の細道を通って奥社南側へ。道標があり、「命婦滝 是ヨリ一丁半」と彫られ、裏面には「大正十?年六月」と彫られています。今日、これから訪れる命婦滝への道標です。 この道標の少し東を南に入ると、「清メ滝」があります。この南への入り口には何も道案内は立っていませんので一般の方がこの「清メ滝」に気付かれることはまずないでしょう。かなり荒廃していて、滝には水は流れていませんが、管理人の方の住居があり、表札もかかり住んでおられるようなので、管理はされているようです。頼めば水流を流して、滝行をすることは可能かもしれません。滝の上に上がると、パイプが設置されていて、下から延びていました。 祠があり、「昭和初期に大峯山から不動明王尊を勧請したが、お堂が破損したので、昭和50年に京都信誠会の入山50年を記念して修理した。」というような旨が記されています。すなわち最初お堂ができたのは、大正末期か昭和初期ということになります。 個々のお塚には建立年月が書かれていることは稀ですが、書かれている中で一番古いものを探したら、「大正十三年」(写真ではちょっと読みにくいですが)と彫られたものがありました。 東に進み、次は「八嶋滝」です。管理者が住んでおられるだけでなく、整備がしっかりとされていて、滝の水流も流れていました。やはりお塚の最も古い年代は大正10年代でした。 さらに東に進み「命婦滝」です。やはり管理者が住んでおられ、整備もされていて、滝の水流も流れていました。パイプは斜面を利用して、上流のほうから流れていましたので、ここは落差を利用して流しているのかも知れません。 次が「弘法滝」。管理者がおられ、整備もされ、滝の水流も流れていました。お塚の掘られた年代で最も古かったのは写真に撮影した大正14年でした。石が新しいので、作り直したけれども建立年代は古いままにしたのではないかと思います。 鳥居に「お塚建立三十五周年祈念」と彫ってあり、やはり彫ってあった鳥居建築年代(写真に撮影しましたが、うまく写っていません)から逆算すると、大正10年代だったとの記憶があります。 「お塚場」には、「教師」と彫られている鳥居やお塚が多くあります。講社の教師のようです。このような方やこの教師についた信者の方々が「お滝場」で修行をされたのでしょう。 「弘法滝」の上にも「お滝場」はたくさんありますが、風邪を悪化させてもいけないので、ここで引き返しました。途中で「伏見神寶(かんだから)神社」に立ち寄りました。この神社は伏見稲荷境内にあるように見えますが、実は伏見稲荷境外にあり、伏見稲荷とは別の神社です。伏見稲荷のような朱塗りのお社ではありません。 社務所の方に伺ったところ、再建されたのは昭和時代だが、創建は平安時代と古く、今は竹藪で見えないが、昔は三ヶ峰を遙拝する場所だったとのこと。そのための鳥居もありました。稲荷三ヶ峰遙拝所由緒を記した石碑 今回のフィールドワークで、お塚や鳥居の建立年代が彫られたもので、最も年代の古い物は、どのお塚でも大正10年代であることが分かりました。文献閲読で、大正年間の中頃にお塚が急増したとありましたので、今日回った「お塚場」は、その頃にできたとも考えられます。 ではそのときに「お滝場」もできたのでしょうか。今日回った4つのお滝場は、1つの谷の小川沿いにあります。水流をポンプで揚げているところがありましたので、ポンプが世に出てからお滝場が作られたのかとも考えましたが、上流に溜め池を作って落差を利用して流せば滝を作れるので、ポンプがなかった時代であっても、これらの場所にお滝場がすでに存在していて、そこに「お塚」ができたという可能性もあります。 逆に、昭和2年に結成された稲荷講社の信仰生活の重要な位置を占めたのが、お塚や滝などを巡ることだったとの文献もあり、お塚場ができてから、そこに「お滝場」が追加で設置されたという可能性もあります。 京阪で祇園四条まで行き、この15日にガイド会同期の飲み会で使う烏丸四条の「輝庭」というお店に寄りました。人数1名追加のお願いと当日の行うクイズ大会に備え机の配置を確認しました。 それほどハードではなかったですが、動き回って風邪を悪化させたかもしれません。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/11
コメント(0)
【2017年12月8日(金)】 特別客員研究員の11月度報告を本日、下記のように提出しました。前月同様、歴彩館や京都市中央図書館に出向いたり、図書を借りたりして、文献を読んだ内容を列挙して、考察を加えました。 「滝場」の成立過程について、まだまだ分からないことだらけですが、明治以前は修験者が滝修行 ↓明治以降お塚場隆盛。修験者を受け入れる滝場を併設 ↓稲荷講の修行の場へと変遷こんな仮説が成り立つのかなとおぼろげながら考えています。今後、いよいよフィールドワークも開始です。 私は月イチの高血圧診察で近所の病院に行く以外は在宅でしたが、今日は家内は湖西マキノへ友人と「紅葉狩り」と称して「メタセコイア」の並木道を見に出かけました。次女は友人とランチでした。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/08
コメント(0)
【2017年12月6日(水)】 今日は興臨院勤務(こちら)の後、京都産業大学日本文化研究所の月例研究会に参加しました。 この7月に日本文化研究所の特別客員研究員に就任しましたが、その特典の一つとして、日本文化研究所の研究会にオブザーバー参加できるというのがあります。今まで案内が来たのは2度。7月の月例研究会と、11月のミニシンポジウムですが、いずれも都合が悪く欠席でした。今回が初参加となりました。 大徳寺から歩いて北大路バスターミナルへ。そこから市バスで京都産業大学へ。夕食は、ここに来たらいつも使うリブレという学食で食べました。味噌汁付きふじかつ定食 450円 このボリュームはすごいですし、注文してから揚げてくれて美味しかったです。あとでネットで調べたら、名物の人気メニューのようです。「ふじかつ」の名前の由来は不明です。 18:30から3号研究棟会議室で研究会でした。小林所長はじめ、全部で20人くらいが参加されました。客員研究員の方が3分の2くらい、先生方が3分の1くらいという感じでしょうか。現在、特別客員研究員として活動されている方もお一人来られていました。 発表会は「近世京都における皇室ゆかりの寺社を巡って」というテーマで文学部教授の若松正志先生による発表でした。 1.近世京都寺社研究入門2.京都の皇室ゆかりの寺社概観3.いくつかの寺院・神社の資料からという章建てでの発表でした。 1.は、寺社を研究するうえでどんな文献やネット情報があるかというお話で、私が伏見稲荷の研究を進めるうえでも参考になるお話でした。 3では泉涌寺の出開帳のお話や上賀茂神社の触穢の賀茂祭(葵祭)への影響など、今まで聞いたことのない内容で、興味をもって聞きました。皇族が亡くなったときには、賀茂祭が中止や延期になったりしたことがあるようです。また、乱世の際には、勅使派遣を中断したときも、世襲の社家の人々だけで、本殿祭と社頭の儀を行っていたようです。 次回開催は1月10日だそうです。ということは「月例」の名の通り、毎月行われてきたのでしょうか。でも私に案内があったのは、上記のように、月例研究会は過去1回だけでした。事務局の案内漏れかもしれません。これからこちらかも問い合わせるようにしないといけないのかもしれません。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/06
コメント(0)
【2017年11月21日(火)】 今日は夕刻に津軽三味線のレッスンがあるので(こちら)、その前に客員研究員の研究のため京都歴彩館に午後から出かけました。これで歴彩館訪問は6回目になります。三味線をレッスン会場の十字屋さんに預けるとよかったのですが、時間が惜しいので持ち歩きました。歴彩館でコインロッカーがないか探したのですが見つからず、止むを得ず三味線を図書閲覧場所に持ち込み。大きな荷物の持ち込みは困ると言われるかもと思いましたが、何も言われませんでした。 さて、持ってきたノートを開いて、間違ったノートを持ってきたことに気付きました。いつも図書閲覧時に持ってくるノートには、何という本の、何号あるいは何章まで読んだという記録が書いてあるのですが、それがないため前回何号まで読んだか分かりません。止むを得ず、重複してもいいからということで、若い目の10号から30号を書庫から出していただきました。そしてこの日は10号から14号まで読みました。帰宅後調べたら前回(こちら)、9号から13号まで読んでいるので、結局新たに読んだのは14号だけということになりました。スマホを持っていれば、ブログをチェックできるのですが、ガラケーなのでそれもできませんでした。 重複部分の新たな気付きも含め、気になるところをピックアップしました。第10号 稲荷山の経塚 三宅敏之 法性寺御領山指図の地図に、稲荷山の麓に「天龍寺」「天龍寺小山」とあります。裏参道にたくさんの寺社が建つエリアがありますが、ここは神仏分離で廃寺になった愛染寺の寺領だった場所と推定していたのですが、ここ最近の文献閲読で、愛染寺は本殿の近くにあったようで、どうもそうではなさそうだということが分かってきました。ひょおとすると、この天龍寺の寺領だったところかもしれません。なぜ、ここの天龍寺の寺領があったのかもよく分かりませんが。第11号 好去好来 宮司対談 キツネ=命婦(Wikipedia:稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられた)第12号 お塚の信仰 上田正昭 お塚数 昭和14年 2500基、 昭和40年 7762基第13号 稲荷信仰序説 イナリ信仰覚書・10 近藤善博 ・・・そうした低い動物霊の活動による陰うつな伝搬と、一方国民のそうしたものを信じようとする共感的な基盤の存在は、狐をしてイナリの専有化を強めることとなるのでありますが、これをかくならしめたものは、仏教者やヒジリの参加による神仏習合や、ダキニや弁財天などの合揉による点も多かったのです。またそうした上での命婦や霊媒がイナリにはいたのであります。第14号 伏見稲荷山信仰の特殊性 岡本吉二郎 日本人は元来理論を好まない。最初日本に渡った仏教が理論的だったので、日本人僧侶の中には、不満に感じ、釈迦の体験を体得し、真実地に到達しようとするものが出る。彼らが峻山峻嶽に入った。吉野の金峯山などが山伏の起源。熊野も代表的で、修験道の旺盛を極めた。 次第に低い山まで神祠が設けられるようになった。これが、山から山への巡礼旅行者を生ぜしめ、民衆の間で強固となった。しかも仏教との握手で仏教とともに発展した。 過去における稲荷山も山嶽信仰の一つとして認めることができる。大山の山嶽信仰と同じく、山嶺に神霊を認め、中腹を中院とし、山麓に拝殿を設けた。しかし他の山嶽信仰が山麓の本宮のみ繁栄して、山嶺が忘却せられたのに対し、稲荷山は双方繁栄した。これが稲荷山の特殊性。稲荷山が低いので、登攀が容易だったという以外に、稲荷信仰の教義も影響している。山は低いが、峯あり、谷あり、滝ありで一応山嶽信仰の形態を備えていたし、冬季でも登ることができたし、女人でも自由に入山できた。 この稲荷山の普遍性に先ず第一番に着目したのが空海。空海の山嶽信仰的入山により急激に開発され、稲荷神道は発展した。僧侶や山伏からなる修験者たちは、空海の例にならって手近で登山の容易な稲荷山に頻度高く入山した。空海や浄蔵貴所は稲荷山に住居し、また他の行者たちも稲荷講をつくって、女子子供にいたるまで従えて、稲荷山に群参し、寒中滝に打たれ禊祓をあげて苦修するものが続出した。 これらの行者たちが稲荷信仰を高めていったのは事実だが、その中の僧侶一派の代表的人物が空海であり、壺満上人。山伏一派の代表的人物が浄蔵貴所。稲荷山は空海の入山で、仏教的形態を一層深め、神山混合の信仰形態へと移行していったので、稲荷山はその多くを仏教的に塗り替えかれ本地垂迹説*の本拠の感があった。 そして稲荷山の特殊形態である「塚」への信仰へ漸次向かっていった。「塚」は、古来の磐境が原拠であるが、稲荷山の塚は碑面に「大吉良大神」「お福大神」など、庶民性を露呈しているのが特徴。このような塚の信仰をもつところは他にない。 稲荷山はその後、応仁の乱で一時衰退し、僧侶はほとんど去り、秦氏一系の社家のみとなり、本領所は空虚だったという。文禄年間に至って無縁の僧が来て、本領所の住職となって幕末に至った。明治維新の神仏分離令で、現在の稲荷山には仏教遺跡は皆無となった。*ほんじすいじゃくせつ【本地垂迹説】 本地である仏・菩薩が、救済する衆生しゆじようの能力に合わせた形態をとってこの世に出現してくるという説。 日本では神道の諸神を垂迹と考える神仏習合思想が鎌倉時代に整備されたが、その発生は平安以前にさかのぼる。 垂迹である神と、本地である仏・菩薩との対応は必ずしも一定していない。 一番興味を持つのが、最後の文献。稲荷山での空海から「お塚」に繋がる過程、稲荷山の山嶽信仰の特殊性もよくわかります、時代順に書かれているとすると、講ができて女子子供にいたるまで滝修行をしたのは、結構古い時代になることになりますが、この論文の特徴として、時代があっち行ったり、こっちに行ったりしているところがあるので、そこは?です。また、修験道が釈迦の体験を再体験するところから出発点になっているというのも、なるほどという感じです。応仁の乱以前も多くの僧がいたということも書かれていて興味があります。「伏見稲荷大社御鎮座1300年史」の平安時代~室町時代のところはもう一度読み直してみる必要があるでしょう。 「京の冬の旅」で伏見稲荷大社お茶屋を担当するので、「朱」の中でそれについて書かれた文献も一部コピーしました。 津軽三味線の河原町御池のレッスン会場へ急ぎました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/11/21
コメント(0)
【2017年11月16日(木)】 嵐山の公募ガイドがは12時で終了でしたので、その日のガイド仲間と嵐山で昼食した後(こちら)、京都市中央図書館に行き、客員研究員の研究のため、「伏見稲荷大社御鎮座千三百年史」の続きを閲読をしました。(前回の閲読はこちら) 「お塚」や「お滝」に関係すると思われる部分を、第1部第5章から閲読しました。 参考になるところを列挙します。●第1部 第5章 近・現代の伏見稲荷大社 第1節 官幣大社への軌路・徳川将軍と愛染寺(P259~) 将軍家茂の上洛時、稲荷社本願所「愛染寺」に「小休」すること5度、一橋慶喜が「小休」すること7度あった。 「稲荷社本願所 愛染寺」にいつ頃なったかは不明だが、寛永10年(1633)に天阿が愛染寺に入っている。明治元年に廃絶された「愛染寺」の名称が定着、継続されるのは元禄期(1688~1704)頃であった。●>第2節 あらたな歩み・上地と神仏分離(P268) 愛染寺の堂塔が神仏分離でなくなるやいなや、「稲荷山巡拝者、私に訳け無き拝所、且つ紛らわしき神号を信じ、石を持ちこみ、神蹟破壊に及ぶおそれ」、それらの停止、取り払いの旨の制札が3か所に立てられた。・稲荷山のお塚と経塚(P267~) しかし、個々人の「私の」お稲荷様は制札を立てて収まるような、魅力のない神様ではない。明治7年~8年にかけて、神社側から、稲荷山へ向けた正統な信仰の仕方の標識として、いくつかの神蹟が一段高いところに築かれた。しかし、これが却って呼び水となって、「お塚」がさらに増えた。大正年間の中ごろには好景気を後ろ立てに、登る人より登る石のほうが多かったと言われれる。・工事・祭儀・奉納などの推移昭和9年8月 清明滝改修 地鎮祭(P292)●>第6章 稲荷信仰と行事 第3節 稲荷信仰の流布・農業神としての稲荷信仰 中世期の稲荷社には、真言宗関係の堂塔があり、修験僧が稲荷山で修行していた痕跡もあるから、熊野信仰などと同じように、稲荷信仰を奉じる修験者の存在した可能性は否定できない。彼らが中世後期の農民のなかに稲荷信仰をひろめたに違いないのだが、確実な資料のない現在では、あくまでも想像の域を出ない。(P349) 江戸の流行神としての稲荷信仰が庶民の話題となり・・・(中略)・・・これら突然に起こり、流行する信仰には、必ず修験・山伏・法印・巫女など、さまざまな下級宗教者が仕掛け人として存在しており、彼らが政情不安などに乗じて、都市民を煽っていたはずである。(P350-351)・愛染寺と御師(十穀聖) 「愛染寺の十穀聖(勧進聖)が、中世末期から近世を通じて、稲荷信仰の布教や配札に活躍していた」とあるが、彼らが修験者や山伏であったりとか、稲荷山で修行をしたなどの記述はなし。(P351)●>第4節 稲荷山の信仰と民俗・雨乞いと膝下の村々 農民たちが稲荷山で雨乞いを行った。社務の「日記一一冊」(万治2年(1659))に、滝壺を浚えで雨が降ったとある。(P356)●>第7章 稲荷山の社叢 第2節 近代の社叢の管理と現状・明治から昭和初期の変遷 上地令で境内地を失い、知らず知らずの間に多くのお塚が建ち、茶店が出店し、信者の登拝でにぎわい、責任体制の明確化が必要となり、神蹟巡拝に必要な土地の復旧が明治35年に許可された。大正13年には、神社境内、官有地併せて2336基のお塚を数えた。お塚の多さは稲荷山の社叢を大きく変えるとともに、多くの人が登拝するお山へと変貌した。(P383)・戦後の社叢管理 戦後、神社が国の管理を離れ、宗教法人としての法人格を保有した結果、昭和25年に、上地した土地は元の所有者に無償譲与されることになった。 しかしその面積は、かつて上地した半分にも満たなかった。神域を保全し、尊厳を高めるためにも奥山は必要であるので、境内地周囲の国有林と等値交換を行い、その後も境内地隣接地を買収した。(P385)●第2部 伏見稲荷大社の建築と美術 第3章 稲荷山の景観 第2節 近代の境内景観・お塚の新設と茶屋>新拝所と鳥居の出現(P527,528) 稲荷山の朱の鳥居とお塚は、そのほとんどが明治以降に奉納されたり、つくられたもの。お塚の信仰は中世にさかのぼるとされ、三ヶ峰と荒神峰も明治に入るまでは、上ノ塚、中ノ塚、下ノ塚、荒神ヶ塚と称された。 こうした古くからの神蹟地の拝所のほかに、人々の信仰による新たな拝所がつくられたことが史料に確認されるのは明治2年頃。この時期、参拝者のなかに私設の拝所をつくったり、石を持ち込む者があり、これに対して神社側は神蹟を破壊する恐れがあるとして、こうした行為の停止と取り払いを示した、制札を参道の上り口や四ツ辻に立てている。参拝者によって鳥居が建て始められたのもこの頃。明治2年鳴滝に建てられた鳥居を、命婦谷へ引き移すかどうかが検討されている。このことは、以前には、山中のい参道に信者が寄進した鳥居が立ち並ぶことはなかったことを示している。近世の絵図や明治初期の境内図にも、命婦谷(奥社奉拝所)以外は、こうした鳥居は確認できない。新拝所や鳥居の出現は、山上の信仰が新たな性格を帯びていったことを物語る。あわせて山上に参拝する人々も増加していたようで、参拝者を相手にした茶屋を山内に出店することを願い出るものも増えている。 新拝所に対して、神社側は強硬な態度をとっており、新造を禁止するとともに再三撤去作業を行っている。しかし、明治4年の上知によって、稲荷山のうち七神蹟とそれらを巡る参道以外が官有地となったことで、神社の管理・監督が徹底したのは七神蹟の周辺に限られた。官有地は明治19年までは京都府の管理下におかれたが、管理体制が確立していないなか、新しく官林に編入された面積は広大で、なかば放置された状態の山林が少なくなかった。そのため官有地となった場所では、新拝所が次々と築かれるという状況を招いた。国の対応は遅く、明治21年にようやく付近に出店していた茶屋に取り払いを申しつけている。新拝所がお塚と呼ばれ始めるのは、明治20年前後とされる。鳥居についても同様の経過をたどったと考えれられる。・>お塚の方針転換と茶屋の役割(P529,530) 神社におるお塚の規制にもかかわらずお塚は増える。明治35年の大規模な官有地の境内地への編入があった。編入後の境内地に存在した標石の数は633基。この標石は認めるが、新造は禁止。 茶屋も境内地に含まれることになった。山内に茶屋がつくられた時期は明らかでない。四ツ辻に建てた家に西村氏を常駐させ、そこに茶屋を開いたのが最初とされる。明治41年から44年の修理記録によると、この当時山茶屋があった場所として、青木谷、栗木谷(2)、グワラ(3)、御膳谷、新池ノ向(4)、小灯籠、間之峰があげられている。これらは現在の茶屋と大きく違わない。神社は茶屋に神蹟近辺の清掃を義務付けている。 お塚新造は禁止したが、実際には増え続ける。最も盛んだったのは大正期前半とされる。昭和7年の「お塚台帳」では2254基。明治35年から3.5倍。 戦後昭和37年の境内地の拡大を機に、お塚建設を許可。昭和41年調査で、境内3322基、境外4440基。 お塚が増えたもう一つの要因は、昭和2年に結成された稲荷講社。この講社の信仰活動で重要な位置を占めたのが、お塚や滝などの稲荷山の施設を巡ることだった。彼らは茶屋に滞在した。・近代化のなかの稲荷神社>鉄道の開通と参詣道の変化(P535~537)*明治10年 国有鉄道東海道線 京都~大津 営業開始*明治28年 京都電気鉄道 塩小路東洞院~伏見油掛 開通 第4回内国勧業博覧会・遷都1100年記念祭 稲荷新道完成 稲荷神社~稲荷道停留所(のちの勧進橋駅)*明治37年 京都電気鉄道支線 勧進橋~伏見稲荷間 開通*明治43年 京阪電車 大阪天満~五条 開通>観光旅行の流行のなかで(P538~540) 参拝者が大幅に増加するのは大正期後半以降。旅行や観光が全国的に流行する。京都では明治28年の第4回内国勧業博覧会をピークに多くの観光案内書が刊行され、市も観光を産業の柱の一つにした。大きな盛り上がりは、大正期後半から昭和初期。 吉田初三郎が大正14年に「伏見稲荷全境内名所図絵」を発行。鉄道路線や駅を正確に書いたのは、全国からの観光客を意識したもの。山上風景が詳しく描かれ、「御山めぐり」の解説がある。発行者は稲荷神社ではなく、茶屋経営者の西村秀孝、蜂須賀伊三郎。 今回の閲読で分かったこと、確認できたことのうち特記事項。・愛染寺の僧が修験僧だったり、山伏だったりということは記載がない。・中世期の稲荷社には、真言宗関係の堂塔があり、修験僧が稲荷山で修行していた痕跡がある。修験者の存在した可能性は否定できない。しかし肯定もされていない。・私的な「お塚」は明治2年頃が最初。明治2年鳴滝に建てられた鳥居を、命婦谷へ引き移すかどうかが検討されている。・明治35年のお塚数は633。昭和7年2254。昭和41年3322、4440。・境内地の国有化、返還、交換が行われており、これらが谷間のお塚や新しい寺社群の登場に関係しているかもしれない。・昭和9年に清滝の修理が記録として記載されている。・昭和2年に結成された稲荷講社。その信仰活動で重要な位置を占めたのが、お塚や滝などの稲荷山の施設を巡ることだった。・国鉄の開通だけでなく、京都電気鉄道、京阪電車開通も参拝者増加に寄与している。大正時代の好景気が後押し。・吉田初三郎の俯瞰図は茶屋経営者による発行。「伏見稲荷大社御鎮座千三百年史」伏見稲荷大社HPから-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村大
2017/11/16
コメント(0)
【2017年11月13日(月)】 嵐山の公募ガイド下見の後、午後からガイド会の企画委員会でしたが、時間があったので、京都市中央図書館に立ち寄って、客員研究員研究のため「伏見稲荷大社御鎮座千三百年史」の閲読をしました。 今までの続きではないと思いますが、「お塚」の隆盛に繋がると思われる、「第1部 第4章 近世の権力と稲荷社」を閲読しました。 参考になるところを列挙します。●第5節 稲荷社の組織(P228) 中世後期から大きな社寺には、その社堂の修理・造営のための勧進を行う本願と呼ばれる僧侶があらわれた。稲荷社でも、応仁の乱以前にその存在が確認される。その後、近世には「本願所」また愛染寺として、稲荷社のなかに位置づけられる。●第7節 社領稲荷村>雨乞い(P245) 万治2年(1659)7月19日、干ばつにさいし、稲荷村から祈雨を願って伏見稲荷大社で雨乞いの踊りが奉納され、御山の滝壺を浚う(さらう)と雨が降り出し、翌20日にも夕立があった。 短時間であまり収穫はありませんでしたが、幕末頃、御山に滝壺はあったようだというのは分かりました。それが詳しくはどこなのかは分かりませんが。 伏見稲荷大社HPから 某講座の企画委員会(こちら)出席のため、室町出水上ルの京都YWCAに歩いて向かいました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村大
2017/11/13
コメント(0)
【2017年11月3日(金)】 特別客員研究員の10月度報告を昨日、下記のように提出しました。歴彩館や京都市中央図書館に出向いたり、図書を借りたりして、文献を読んだ内容を列挙して、考察を加えました。8ページに及んでしまいました。読み飛ばしてください。 明治時代より前に、修験道の修行の場であったのは確かなようですが、明治以降は、色んな立場の人々が「お滝場」を利用した(している)ようです。しかし、現存の「お滝場」が、修験道の行場だった時代からあったものかどうか、歴史的な繋がりは以前不明です。 夕刻から、M社時代のISマネジメント関係有志による飲み会が京都でありましたので(こちら)、若冲・応挙の次回打ち合わせの内容の検討を少しだけして出かけました。あとフルで、この準備に充てることができるのが、5日と9日の2日だけです。何とかしなければ。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/11/03
コメント(0)
【2017年10月31日(火)】 今日の修学旅行ガイドは終了時間が午後1時だったので(こちら)、最初から計画して、終了後、京都・歴彩館に行きました。 伏見稲荷関係研究の継続で、今日は伏見稲荷大社刊行の機関誌「朱」の続きを読むのが目的。過去詠んだ号数を書いたノートを持っていくのを忘れたので、記憶を頼りに9号から読み始めました。帰宅してから記録を見たら、以前読んだのは5号まででしたので、次回抜けている部分を読まなくてはなりません。 読むといっても、ざっと目を通しながら、お滝場の歴史に関わるようなところだけを細かく読み、必要なところをコピーするという方法です。2時間半で9号から13号まで読みました。前回も30分に1冊くらいのペースでした。60号まで発刊されていますので、全部読もうと思ったらまだまだです。 気になるところをピックアップしました。第11号 お稲荷さん 長谷川幸延(作家) 奥様が救いをもとめて伏見稲荷のお山で滝行をしたいというくだりがある。修行者や巫覡だけでなく、救いを求める本人も行をすることがあったことを物語っている。第12号 現世利益稲荷信仰と稲荷社 小池長之(東京学芸大学助教授)「稲荷山には麓には、いくつもの滝がある。ここでの祈願の者は、人目を忍ぶ場合が多いので、表からのぞかれないようになっており、・・・ 夏などは順番を待っているような有様だそうだ。・・・ 夜半に白衣にわらじばきで入って来て、大声で祈っている者がいるそうだ。・・・」 色んな境遇の人の利用がありそうだ。観光に利用できないかなど不謹慎なことを考えてはいけなのかもしれない。第12号 大西家所蔵狐狩の古文書 桑田忠親 石田三成、増田長盛が伏見稲荷宛てに書いた書簡。「(意味)宇喜多秀家の内室が、病中に物の怪が憑いたのでのは、野狐のしわざだろうとのことで、関白秀吉から、狐を退去させよ、さもなくば当社を破却し、以降は狐狩を行わせ殺し倒す。」 狐がこの時代すでに忌み嫌われる存在であったことを物語っている。第12号 稲荷と狐 岩井宏美 大坂市立博物館学芸員 「狐憑き」は人の持ち得ぬ霊力を備えた鉱物を招き寄せて、その宣託を聞こうというのが、そもそもの始まりでした。それは村の行事として行われもした。しかし、畏い神はひとたび一転すると恐るべき神、嫌悪すべき神にもなった。狐持ちの問題も、狐の信仰の霊落した一形態。「朱」の外観の例https://ameblo.jp/kyototherapy/entry-11990584578.html 最終発表時期を考えると、そろそろフィールドワークを始めたい時期ではありますが、まだまだ文献閲覧を重ねないと手持ち情報が手薄なままのフィールドワークになってしまいそうなので、しばらく文献閲覧を重ねたほうがいいようにも思います。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/10/31
コメント(0)
【2017年10月27日(金)】 午前中、粒子線治療後の経過観察で、大坂府下のM病院に行った後(こちら)、京阪電車で京都に出て、京都市中央図書館に向かいました。 2週間前に京都市中央図書館で、10冊本を借りたのですが(こちら)、今日が返却日になっていたためです。10冊のうち若冲・応挙関係6冊は、もうちょっと借りて勉強しないといけないのでネットで貸出延長申請をしてあります。稲荷信仰の本4冊も延長申請すればよかったのですが、10冊めいっぱい借りていると他の本を借りられません。若冲・応挙関係で、江戸時代全体を見た絵画史についての本も借りたかったし、稲荷信仰関係4冊のうち1冊に予約が入っていた(予約が入っていると、2週間で返却しなければなりません)こともあり、4冊とも返却することにしました。 このごろ歩行歩数が稼げてないので、丸太町神宮神宮道から徒歩で中央図書館へ。返却する前に、もう一度ざっと目を通して、気になるところをコピーしました。 要点です。●神仏信仰事典シリーズ<3> 稲荷信仰事典 山折哲夫編 戎光祥出版(株) 1999年9月30日 発行■第一章 「稲荷信仰」入門 知っておきたい基礎知識・「稲荷信仰」七つのキーワード 編集部 朱の鳥居とお塚(P39~)P40~P41 抜粋、要約 「塚」とは、文字が「墓」にも通じ、忌まれたため、後に「峰」と改称されたが、もともとは後に神蹟と称される、神祭り場のことだった。しかし、明治以降、「お塚」とは、人々が稲荷山の奥、社中の目の届かないあたりに好き勝手に土を盛り、また石を積んで標木や標石を立てた私的な拝所を指すようになった。明治政府による神仏分離政策が、その原因の一つと考えられる。 「お塚」は以降大流行。明治35年初頭633基、昭和7年2254基。 昭和37年、御祭神・稲荷大神御分霊の依代(よりしろ)に限ってはお塚の建立を許可するという、方針が伏見稲荷大社によって定められた。さらに「お塚」が増え、昭和41年から42年の調査では、境内地に3322基、境外地に4440基、総計7762基。・お塚の信仰 上田正昭(P100~)P106 お塚の淵源が、秦公伊侶巨(はたのきみいろこ)の稲荷社伝承より以前に発することが次第に明らかになってきている。お塚の「塚」の由来するところが、祭祀遺跡にあるか古墳にあるか、なお検討を要するところだが、三の峯より二神二獣鏡や変形四獣鏡が出土しており、4世紀後半頃にはすでにその地域が聖域とされていたと確認できる。●仏教民俗学大系 8 俗言と仏教2.諸天・諸仏・祖師信仰荼吉尼天と稲荷信仰-近世における稲荷社の勧進聖と荼吉尼天を中心にして-(P259~)大森恵子著P262~263 抜粋・要約 近世における当山派修験は、伏見稲荷の信仰圏を、全国的に拡大する役割を果たした可能性が高い。 ・醍醐寺三宝院は地理的に伏見稲荷に近い 異本「応仁記」で、稲荷山は当山派修験三宝院の勢力範囲だった様子が推察できる。 ・伏見稲荷社祠官の松本為量家だけをみても、当山修験三宝院との間に強い絆が存在していた らしいこと。 他の稲荷社祠官も同様。 ・伏見稲荷社本願所の愛染寺の一代住持となった天阿上人は醍醐寺と強い絆で結ばれていた。 天阿上人は愛染寺の基礎を固め、真言密教による稲荷の行法を大成した行者でもあった。 伏見稲荷社本願所の愛染寺は、教王護国寺直属の寺であった。愛染寺は伏見稲荷の社殿を修復する本願所となる一方、諸国の民衆の間で勧進活動をした聖達の拠点にもなった。 ところが近世のみならず中世でにおいても、伏見稲荷が鎮座する稲荷山に修験者が入山したらしく、文保2年(1316)の序をもつ「渓嵐拾葉集」に、真言密教僧の仁海僧正が稲荷峯で一千日の間修行して吒枳尼法修めたことや、三井刑部僧正も山伏となって吒天一宇呪王の秘法を呪して、稲荷山に入ったことが記され、稲荷山が修験の行場であったことを物語っている。P265 近世において、天阿上人が説いた仏教的稲荷信仰を民間に流布していった聖達のなかには、当山修験者も本山修験者も含まれていた。P269 近世には愛染寺は稲荷社を支配していたが、一方では狐落しの祈祷をしたり、稲荷巫覡(ふげき)に狐落しの法を伝授していたと推察できる。本立院・荼吉尼天(京都市左京区)●稲荷信仰の世界 稲荷祭と神仏習合 慶友社 2011年12月10日発行 大森恵子著第1編 稲荷信仰の諸相第1章 現代社会における稲荷社の祭祀形態1.神道的稲荷信仰総本宮の伏見稲荷大社(P22~)P25 興味深いことにこのお塚は、木曽の御嶽山の霊神碑と同一の宗教観念をもって祭祀されていると推定できるので、山岳修験者の関与が窺える。P25-26このように伏見稲荷大社の信仰は、伏見稲荷山に寄せられる自然崇拝の進行や古墳をもとにした神奈備信仰、修験的な山岳霊場などをもとに形成された庶民信仰が、古来、生き続けていることが特徴の一つである。2.仏教的稲荷信仰最上稲荷(P35~)P38最上の滝で修行すれば指一本で超巨岩をも動かすことが可能な験力(げんりき)が身につくと教化している。P41偶然、数人が交代で滝行を修する場面に遭遇したのである。まさにそのありさまは、修験の行場の様相であった。P42最上稲荷は、平安時代以来、仏教的山岳修行者によって管理されたので、仏教的稲荷信仰になった。それもはじめは天台宗であったというのは、三井寺園城寺系の山伏の止住で、龍王山の稲荷信仰が管理されたのであろう。そのために密教的稲荷神である荼吉尼天像を本尊とするようになったものと思われる。第2章1.伏見稲荷本願所と荼吉尼天信仰(P47~) 前述の内容と同様の記述が随所にあり。第2編 伏見稲荷大社の稲荷祭の諸行事とその歴史的変遷過程第4章 稲荷祭にみられる東寺と伏見稲荷の関わり2.稲荷山修験と伏見稲荷本願所の愛染寺 前述の内容と同様の記述が随所にあり。P207 近世のみならず古代・中世においても、伏見稲荷が鎮座する稲荷山に、修験者が入山し、修行したことは「愛法神・性愛神と稲荷信仰-特に、女狐と女性・神子を中心にして-」(「山岳修験」第25号 日本山岳修験学会刊)のなかで指摘したとおりである。これらの修験者は当山派に属する者もあれば、本山派(聖護院)に属する者もいたと考えられる。第7章 狐と御霊2.狐落しの修法(P128~)P130 昭和40ごろまでは巫覡の宣託により、偶然発生した災難や厄、病気などの原因を、狐(御霊)が憑いた(祟った)から発したと、人々が信じたのである。そのときにもっとも活躍した宗教者は、行者や稲荷下げ・稲荷巫女・修験者・陰陽師などの巫覡であった。 今までの文献も含み、稲荷山は修験者の場であったことが分かります。なので滝行をする場所がもともとあったと考えられます。そこに民間の巫者・行者・祈禱師が加わり、滝行を含め修行を行ったと考えられます。しかしながら、現存するお滝場が、修験者の時代から使われていて、そこにお塚が加わったのか、修験者のお滝場は別にあって、あるいは限られたところにあって、お塚の増加に伴って、お滝場を備えたお塚場が増えていったのか、そこのところがよく分かりません。 4冊返却したので、新たに借りることができるようになったので、若冲・応挙関係の関係で、江戸絵画全体が見渡せるような本を2冊追加で借りました。・すぐわかる 画家別 近世日本絵画の見かた 安藤敏信著・別冊太陽 江戸絵画入門 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/10/27
コメント(0)
【2017年10月18日(水)】 季節外れの秋雨が続きますが、今日は少し晴れ間ありました。特別客員研究員の研究のため歴彩館を訪れました。4回目になります。家内はテニスでした。 伏見稲荷大社及びその周辺の「お滝場」は「お塚」と呼ばれる地に設置されているので、「お塚」からアプローチすれば、「お滝場」のこともわかるのではないかと考えました。「お滝場」のことを詳しく調べた本として、伏見稲荷大社発行の「お山のお塚」「続・お山のお塚」という本があるのを、今までの文献閲覧で把握していました。蔵書検索で(自宅からでも検索できます)、歴彩館に収蔵されていることが分かりましたので、今日歴彩館を訪れた次第です。 午後2時前から4時過ぎまで歴彩館にいました。 まず「お山のお塚」「続・お山のお塚」とそれぞれの別冊である「塚台配置図」を書庫から出していただいて閲覧しました。 もっとお塚の歴史とか書いてあって、「お滝場」のことにも触れているのではと期待したのですが期待外れでした。お塚に祀られている神名とそのお塚がある場所をリストにして羅列してあるだけでした。残念です。 しかし、少し参考になることもありました。昭和40年頃、伏見稲荷境内には約3300のお塚があり、境外には約4400のお塚があったということ。今ではなくなってしまった「真心滝」とか廃れてしまった「きよめの滝」「七面滝」「鳴滝」もリストに掲載されていたので、昭和40年当時は、それらの「お塚」は営業されていたのではないかということです。(廃れているように見えても、実は今でも営業しているのではないかという疑問も残りますが)「お山のお塚」と 別冊「続・お山のお塚」と別冊「続・お山のお塚」掲載の地図 これらの本をこれ以上詳しく読んでも仕方がないので、「修験道」で検索して、「修験道」からのアプローチを試みました。「修験道」で検索すると、歴彩館だけでも約30冊の本がヒットしました。リストされた順で、稲荷山での修験道のことが書かれていそうな5冊をピックアップして書庫から出していただきました。書名は、「山岳宗教史研究叢書1 山岳宗教の成立と展開」和歌森太郎著「山岳宗教史研究叢書11 近畿霊山と修験道」五来重編「里修験の研究」宮本袈裟雄著「里修験の研究・続」宮本袈裟雄著「回峰行と修験道」楠淳證編 それぞれ修験道についての素晴らしい本なのですが、残念ながら伏見稲荷や稲荷山についての記述は見つかりませんでした。唯一「山岳宗教史研究叢書11」内に記載の近畿の霊山一覧表に稲荷山の名前だけが登場します。それ以上のことはわかりませんが、昔から修行の場であったことは間違いないようです。 行き帰りのバス・地下鉄の中では、昨日に引き続き狩野博幸著「若冲」を読みました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/10/18
コメント(0)
【2017年10月13日(金)】 M病院、K歯科、修学旅行食事処「本家田毎」下見の後(こちら)、午後、洛北の歴彩館へ。3回目の来館になります。 特別客員研究員の研究で、伏見稲荷大社発行の「朱(あけ)」という機関誌を、以前からここで閲覧しています。 前回9月30日は時間があまりなく、創刊号を読んだに留まりました(こちら)。 今回は、約3時間をかけて、第2号から第5号まで閲覧しました。 今日の閲覧から、稲荷山は江戸時代以前、修験道の行場であったことがわかりました。だから何らかのかたちで滝行の場はあっただろうと推定されます。そして、明治以降のお塚の増加とともに、「お滝場」が増えていったのではないかと思われます。しかし、江戸時代以前に滝行が実際に行われていたかどうか、どこにどんな滝場があったかなどについての具体的記述は発見することはできませんでした。継続閲覧していきます。 続いて京都市中央図書館へ。ここでSKY大学講師準備のための応挙・若冲関係の図書を6冊借りるとともに(こちら)、稲荷信仰関係の図書を4冊借りました。「稲荷信仰」をキーワードに「お滝場」についての記述を探そうというアプローチです。借りた本-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/10/13
コメント(0)
【2017年10月4日(水)】 特別客員研究員の9月度報告を昨日、下記のように提出しました。前回からの主な進展はTさんに教えていただいた「霊能一代」を読んだ内容です。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/10/04
コメント(0)
【2017年10月4日(水)】 9月23日に京都産業大学日本文化研究所平成29年度特別客員研究員の中間発表会がありました(こちら)。そこにも書いたように伏見稲荷大社及びその周辺の「お滝場」を研究テーマにしていますが、私と同じアプローチでの先行研究を発見しました。かなり突っ込んだ研究を既にされており、これからどう進めていけばいいか悩んでいるところです。 この中間発表の内容を投稿した直後、私のブログの読者のTさんが、下記のようなコメントをくださいました。「だいぶ前に伏見稲荷の参集殿で、『霊能一代』と言うタイトルで本購入をしました。その中にお山のお滝行の事が書かれてました。著者の方はこの滝行をされてをり、断食もされたりした事を書かれています。清滝、弘法大師の修行された滝、いろんな滝があるみたいですね・・」 お滝で実際に修行された方のお話は何か参考になるかも知れないと思い、是非この本を読んでみたいと思いましたが、9月中は超多忙でアクションができませんでした。10月になって時間が少しとれるようになったので、伏見稲荷のフィールドワークを兼ねて参集殿に行って、この本を買おうと思いました。しかし、アマゾンで手に入れる方法もあるので調べてみました。 ところが、もう絶版になっているようで、中古しかありません。中古でもいいのですが、びっくりです。定価1800円に対し、何と8万円以上の価格がついています(Tさん、読んでますか?どうですか?)。これじゃいくら何でも買えません。伏見稲荷へ行ってもないでしょう。 そこで、図書館の蔵書を検索しました。京都市内、京都府内は所蔵なし。大阪府もなし。兵庫県もなし。よく使っている京都の歴彩館もなしです。あきらめかけたところ、滋賀県大津市立図書館の書庫に一冊あることが分かりました。大津市立図書館の案内をネットで調べるとラッキーなことに、京都市民でも借りることができるとあります。 たまたま、昨日、滋賀県のゴルフ場でプレーすることになっていたので(こちら)、帰りに寄ってきました。そして免許証で身分証明して貸出カードを作っていただき、この本を借りて帰ってきました。 今日、その本をざっと読んだところです。 この著者の砂澤たまえという方の霊能者としての生涯が書かれています。その中にTさんがおっしゃってたように、伏見稲荷でのお滝による修行の話が書かれていました。 滝行のことがよく分かりました。そして、「弘法の滝」は、弘法大師が実際に修行した滝だと伝わるということも分かりました。先行研究では、そこまで書かれていません。まだ、研究をどのように進めていくか明確にはできていませんが、この本はその方向を決めるうえでのヒントを与えてくれるのではないかと思います。Tさん、ありがとうございました。 必要なところをコピーして、次の滋賀県でのゴルフ(10月11日)の帰りに返却に行きます。 ようやく日記の投稿が追い付きました。特別客員研究員の月次報告をしたうえで、10月9日が初日の興臨院の「紙芝居」準備にとりかかります。後付けでの投稿です。よろしければお寄りください。・9月21日【§京都ガイド】修学旅行ガイド#22。「刀剣乱舞」「進撃の巨人」。9月22日【§京都ガイド】下鴨神社第11日。最終日。初の雨の中の案内。9月23日【§京都研究】中間発表9月23日【§飲み会】特別客員研究員・中間発表会後の懇親会9月24日【§京都ガイド】随求堂#19。危うく拝観券不足になりそうに。9月25日【§京都ガイド】興臨院下見。本野精吾邸見学。9月26日【§今日のこと】お墓参りと長女宅訪問9月27日【§京都ガイド】随求堂#20と第1回企画委員会9月27日【§飲み会】第1回企画委員会後の臨時飲み会9月28日【§京都ガイド】花山天文台・渉成園蘆庵見学。その1~花山天文台9月28日【§京都ガイド】花山天文台・渉成園蘆庵見学。その2(渉成園・蘆庵)9月29日【§京都ガイド】随求堂#21・最終日9月29日【§今日のこと】女子プロ野球観戦9月30日【§京都ガイド】大雲院見学9月30日【§飲み会】「京の冬の旅」下鴨神社勤務打ち上げ10月1日【§健康管理】健康診断結果届く10月2日【§ニュース】小池さんに失望10月3日【§ゴルフ】'17-#12。京阪会。またまた110超え。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/10/04
コメント(4)
【2017年9月23日(土)】 今日は、京都産業大学日本文化研究所・平成29年度特別客員研究員の研究中間発表会が、京都産業大学でありましたので行ってきました。 来年の4月の最終発表に向け、中間段階で研究の進捗をアドバイザーの先生方や他の研究員に聞いてただき、意見やアドバイスを得る機会です。 私のテーマは「伏見稲荷大社とその周辺の不思議研究」です。その中でいくつかの想定テーマが考えられましたが、私の意向、担当の先生のアドバイスも踏まえ、「お滝場」をクローズアップして進めてきました。しかし、先日、私と全く同じアプローチで研究をし、かなり細かいところまで分析をしている先行研究があることが分かりました(こちら)。その後、色々と忙しかったこともあり、進捗をしていないので、今日の発表では、・テーマ選定の背景・その後の研究経過・直近の先行研究の発見・今後の進め方という流れで、正直に説明させていただくことにしました。 ガイドの仕事やプライベートでスケジュールがぎっしりで、9月に入ってから昨日までの22日間のうち、18日間が昼間フル外出でした。ですので、実質的には一昨日、昨日、今日と早起きしてでの資料準備になりました。 資料は先生方や他の研究員の方にお渡しする文章中心の資料以外に、プロジェクターで表示する資料も作りました。後者はパワーポイントで作るといいのですが、今使っている手ちのパソコンにはインストールされていないので、ガイドの「紙芝居」と同様エクセルで作成してPDF化して、PDFのフル画面表示で対応することにしました。 何とか今日出発前ギリギリに、配布資料を必要部数印刷し、プロジェクター表示用のデータをUSBに保存することができました。大学のPCを使ってプロジェクターに表示をするのですが、もしうまく動作しないといけないので、荷物が重くなりますが、私のPCも持っていきました。 発表会の集合時間は正午。早めに着いて学食で昼食をとる予定でしたが、バスの乗り継ぎが悪かったり、渋滞で遅れて、コンビニでおにぎりを買って歩きながら食べるという慌ただしさでした。おまけに大学へのシャトルバスが休みで、上賀茂神社から路線バスで大学に行かねばなりませんでした。 会場のある建物に着いたら、建物のドアがロックされていて入れません。今日は休みだからのようです。集まった他の研究員の方も右往左往。ちょうどその建物に入られる大学の方に中に入れてもらいましたが、会議室がロックされています。すでに集合時間になっています。「どうなってるんだ。」と皆さん。そうこうしているうちに、係の方がカギを持ってやってきました。渋滞で遅れたとの弁明。しかし、こういうときは渋滞も想定して早めに来るものです。内心少々憤慨。 係の方がパソコンを準備してきていましたが、トラックポイント式ですごく使いづらいもの。研究員の幹事の方が、「どなたかパソコン持ってきていませんか。」と聞くので、私のPCを提供し動作させようとしましたが、ディスプレイを認識しません。止むなく係の方が持ってきたパソコンで私提供のマウスを使ってでの対応になりました。 会社なら重要な会議でこんな準備不足を露呈すれば即査定に響きます。大学の職員ってこんな失態が許されるんだと少々驚いた次第です。係の人も特に慌てる風情もありませんでした。民間企業ではありえないです。 そんなこんなで、少し予定より遅れて発表会がスタート。最初、日本文化研究所所長のご挨拶、引き続き、9人の研究員のうち今日出席の8人の発表が、それぞれ持ち時間20分で行われました。発表時間は13分、質疑応答が7分という設定です。 質疑応答がそれほど時間をとらないので、途中でスタートが遅れた分を取り戻しました。先生方は、所長以外に2名の方が出席。全部で所長含め8人の先生が方がご担当ですが、お休みの日とはいえ、3人のみのご出席は淋しいです。私のご担当のM先生はご出席で、最後の全体講評もしてくださいました。プログラム私の配布資料私のプロジェクターでの表示資料 私の発表は、13分で話し切るには、盛りだくさんの内容で、早口で分かりにくい説明になってしまいました。反省です。でも先生や他の研究員の方々には内容を理解していただけたのではないかと思います。私は、先行研究に直面して、もがいているのですが、他の方も、まず本を読んでみました、先行研究を見つけて困っていますなど、私の状況とあまり変わらない状況で、ちょっと安心しました。 ほぼ予定通り、発表会が終わり、「がんこ二条苑」での懇親会に向かいました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/23
コメント(0)
【2017年9月9日(土)】 客員研究員の8月度の担当教授への進行報告は、二条城ガイドがあったために少し遅くなりましたが、下記のように9月3日に完了しています。長女の出産や二条城ガイドの準備で公私に忙しく、あまり進まなかったのが実状です。 今日は、もともとは午後から上京探訪の無料講演会を家内といっしょに聴きに行く予定にしていました。 しかし、9月はガイドの仕事が修学旅行も加わるため日数が多いのと、ゴルフの回数も多く、スケジュールが建て込んでおり、さらにこの前の二条城のガイドの内容を機関誌に掲載するとのことで、その原稿も20日までに書かねばなりません。そして、23日には客員研究員の中間報告会があるので、その発表内容も準備する必要があります。二条城ガイドが終わったので、一息つけるかと思いましたが、そうは問屋が卸してくれません。 そこで、あれもこれも出来ないので、2、3日前に今日の講演会聴講はキャンセルすることに決め、今朝キャンセルの電話を入れました。そして、23日の研究員の中間発表に向け、フィールドワークを企てました。ところがです。私が当面研究しようとしていた内容が、すでに他の方によってほぼ明らかになっていることがインターネット検索で分かりました。 このままフィールドワークに出かけても意味がないので、急きょ中止。担当教授に経緯を下記のようにメール送付しました。これから先生のアドバイスも得ながら、方向の修正を行わねばなりません。ちょっとショッキング。 ということで、今日は終日在宅で、午後から家内と長女が買い物に行くというので、孫のお守もしました。 明日から、研究員中間発表(23日)まで、13日ありますが、完全OFF日はゼロです。ガイド関係が9日間、私用が4日間です。中間発表の準備とガイド会機関誌の原稿作成(20日まで)を、帰宅後の時間でやり切らなくてはなりません。ピンチです。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/09
コメント(0)
【2017年8月22日(火)】 今日は午前中にガイド会の研修があり(こちら)、夕刻から三味線レッスンがあったので(こちら)、その間の時間を利用して、伏見稲荷お滝場研究の文献探しをしました。 京都市中央図書館で読みかけの「伏見稲荷大社御鎮座千三百年史」の続きを読もうと思ったのですが、休館日なので、北山にある今年4月にグランドオープンした「京都府立京都学・歴彩館」に初めて行ってみました。 2階の図書室に入ろうとしたところでモニターに京都東山を表した古地図が映し出されていました。この古地図に「お滝場」のことが描かれてはいないかと思い、係の方に書庫から出してきていただきました。大きな古地図を想像したのですが、扇子に描かれた小さなものでした。残念ながら、「お滝場」は描かれてはいませんでしたが、この地図の著者は吉田初三郎で、以前、日文研で閲覧した伏見稲荷の名所図絵と同じ著者だと気付きました。この吉田初三郎はこのような俯瞰図を数多く世に多く送り出しており、京都についてもいくつかの俯瞰図を残していることが分かりました。 旧京都総合資料館のホームページにデジタルデータが公開されています。http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/yoshida-t.html見ているだけで楽しいですし、現在との比較も面白いです。 次に伏見稲荷大社の機関誌「朱(あけ)」のバックナンバーを書庫から出してきていただき、初卷から閲覧を始めました。昭和42年から半年に一度刊行されているようです。今日は時間の関係で、第2巻までの閲覧でしたが、「お滝場」についてに記述は発見できませんでした。 「歴彩館」の方が中央図書館よりは、参考になる図書が多くありそうです。これからも頻繁に足を運ぶことになると思います。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/22
コメント(0)
【2017年8月9日(水)】 8月1日に特別客員研究員の第1回報告を提出しましたが(こちら)、今日、担当教授の方からメールで回答いただきました。 1週間強、回答に時間を要していらっしゃいますが、お忙しいなか、非常に詳しく読んでいただいたからのようです。コメントも的確です。さすが、この道のプロフェッショナルでいらっしゃいます。 回答の要点と、それに対する私の返信です。。・下記地図は、他の参拝者のブログにもアップされており、現在伏見稲荷神社で配布しているものか?神社に聞けば原本がいつ頃のものかわかるかも。(私の返信) 伏見稲荷の公式文書には、官有地以外のお滝場についての記述は今のところ発見されていないので、民間会社の作成と思われますが、神社にも確認します。・この説明部分(赤四角枠)に「明和安永の頃盛んに文人たちが吟謡した稲荷山十二景」という記述があり、これももっと具体的に分れば面白い。(私の返信) 「稲荷山十二景」に「お滝場」が入っていれば、「お滝場」先にありきという証明になりますね。調べてみます。 ・仮説(「お滝場」は江戸時代にはなく、明治時代にできた。)については、確かに説得力はあると思いますが、やはり江戸時代の実態がわからないと確証がない。逆に「お塚」が滝のある場所に建てられたという仮説も成り立つ。(私の返信) 確かに「お滝場」が先で、「お塚」が後という仮説もありますね。視野を広めて調査します。・もともとの稲荷山信仰には秦氏と空海がからんでいて、東寺の密教僧たちの修行場であったそうなので修行場が古くからあったことは確かだろうが、明治以前の実態がまるで見えてこない。(私の返信) 空海や修験道との絡みについての調査は、まだ手付かずですので、これから調査します。 最後に「なかなか資料がない中、ここまでよくまとめられた。」「近世の資料がなければ、明治大正期のお滝場が盛んであった頃のことがもう少し見えてくるといい。」「当方でも何かわかればお知らせする。」「報告を読んで、私も一度稲荷山へ登ってみたくなった。」とのコメント、アドバイスもいただきました。 9月1日に、ボランティアガイドを養成する某講座の二条城現地見学の講師を担当しており、その準備で8月いっぱいは京都研究活動になかなか時間がとれないので、本格的には9月以降の取り組みになると思いますが、少しずつでもネットなどで調べを進めたいと思います。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/09
コメント(0)
【2017年8月1日(火)】 正式に京都産業大学日本文化研究所の特別客員研究員になって1ヵ月。1ヵ月に一度、担当教授に研究進行状況を報告しなければなりません。日は特に決まっていませんので、月末か月初に送るようにしたいと思います。 昨日、今日とガイドがなしですので、昨日から書き始めて、今日書き終わって、さきほど先生にメールで送りました。 文献の検索・閲覧は最初のほうは比較的時間をとったのですが、ここのところあまり時間がとれていません。以前、「お滝場」巡りをしたときの情報と、文献からの情報を組み合わせて考察しました。最初は、まだまだ仮説を立てるところまでは、とても行かないと思ったのですが、こうやってまとめながら、色々調べるうちに、あり得るかもしれないという仮説を立てるところまで行きました。・「お滝場」は、江戸時代はなかった。 ↓・廃仏毀釈で「お塚」信仰が盛んに。 ↓・東海道線が最初、伏見経由で開通。稲荷駅開業で伏見稲荷が盛況。 ↓・民間人が伏見稲荷の回りで、お塚所を次々開業 ↓・客寄せに「お滝場」も併設。伏見稲荷周辺は谷なので、水には困らない。 ↓・このとき、宝塔寺の「七面の滝」を引っ越し。それが今の「七面の滝」 もとの滝は「たつみの滝」として残る。今は廃業。 ↓・伏見稲荷大社も「お滝場」をお塚所に併設する。 かなり大胆な仮説ですが、あながちナキニシモアラズと思っています。 果たして、先生からどんな反応が返ってくるでしょうか。 8月は、さらなる文献の探索・閲覧と、一度研究視点での現地訪問をしなければならないと思っています。 今日は、長女が三菱京都病院で定期健診でした。今日は、家内が在宅なので家内に送り迎えをしてもらいました。 赤ちゃんの体重は少なめですが、正常値内とのこと。予定日は16日ですが、検診結果から判断すると、今週中に生まれてもおかしくはないとのこと。そうならなかったとしたら、来週火曜日の検診の翌日に入院して、促進剤を使っての出産になるとのこと。あまり身体が丈夫なほうではないので、とにかく母子とも元気であって欲しいです。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/01
コメント(4)
【2017年6月28日(水)】 6月17日に京都産業大学の特別客員研究員の入所式があり、入所式後、それぞれの研究員一人一人についてくださる先生との面談がありました。 私は文化学部 国際文化学科 教授 宮川康子先生にご担当いただきますが、入所式当日ご都合が悪く、今日、お時間をとっていただいて、色々とアドバイスをいただきました。 宮川先生は、近世日本思想史がご専門です。私より2つお歳が上で、専門は近世日本思想史。東京都出身。神戸大学文学部卒業。大阪大学大学院文学研究科博士課程修了。千葉大学留学生センター助手、助教授を経て現職にお就きになっています。京都産業大学HPより 私からは、当面「お滝場」のことを研究対象にしたいということを申し上げ、すでに文献などで調べた内容を説明させていただきました。 私が研究する伏見稲荷を研究されたことはないそうですが、私のアドバイザーになっていただくことが決まってから、色々文献を調べていただいたり、他の先生にも相談していただいたりしたようで、例えば、「お滝場」ということであれば、空海が伏見の山中で修行をしたと書かれたものがあるので、それが何か端緒になるのではないかとか、滝修行といえば修験道なので、修験道からのアプローチもいいのではないかとか、あるいは伏見稲荷大社発行の「朱」という機関誌が参考になるのではないかなど、色々アドバイスをいただきました。また、時間はあるようでないと思うが、ここ1、2ヵ月は文献をできるだけたくさん当たってみるのがいいとのアドバイスもいただきました。 お忙しい中、小一時間お時間をとっていただきました。「会って相談したいなどということがあれば、わざわざ大学まで来ていただくのは大変なので、通勤の帰りに京都駅近辺で会ってもいいですよ。」とおっしゃってくださいました。親切にご指導いただけそうです。 月に一度経過報告を提出する必要があります。観光ガイドでアップアップの状態で、こちらの研究のほうに、どれだけ時間が割けるか不安な面がありますが、うまく時間配分をして実りある研究にしたいと思います。 先生に面会する前に、学食でお昼をいただきました。「神山(こうやま)定食」+小鉢=330円。近くに上賀茂神社のご祭神が降臨した神山があるので、それに因んだ命名のようです。 宮川先生との面談をはさんで、朝と夕に7月から勤務をする清水寺随求堂の下見をしました。それは別途投稿予定です。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/06/28
コメント(0)
【2017年6月21日(水)】 今日は、C&C会のゴルフコンペの予定でしたが、天気予報で激しい雨との予報だったので、昨日時点で、7月18日に延期することが決まりました。延期なのでキャンセル料はかからないとのこと。 丸一日の自由時間ができました。 先日(6月17日)、京都産業大学日本文化研究所の特別客員研究員の入所式がありましたが、その終了後、研究テーマの伏見稲荷についての文献を図書館で検索しました。私の住む桂坂にある、国際日本文化研究センター(日文研)の図書館に「伏見稲荷大社境内名所図会」という地図があるのが分かりました。そこで京都産業大学図書館経由で閲覧を申し入れたところ、後日、日文研図書館に来所のうえ閲覧可との回答がありました。 そこで偶然できた自由時間を利用して、今日、日文研の図書館に行ってきました。歩いて2、3分の距離です。講演会で何度か日文研に足を運んだことはありますが、図書館に行くのは初めてです。国際日本文化研究センター(日文研)http://www.zai-nichibun.jp/info.html日文研 図書館 閲覧させていただいた地図は、大正14年作成の伏見稲荷大社全山の俯瞰図で、期待していたとおり、具体研究テーマにする予定の「お滝場」も記入されていました。ハードコピーはできないため、位置関係をノートに書き写しました。(1)「伏見稲荷大社境内名所図会」の書写(今回閲覧)(2)京阪伏見稲荷駅から伏見稲荷大社に向かう道路脇にある地図看板(3)伏見稲荷参道図(ネットに掲載されていたもの。作成年代不明)http://fushimimonogatari.web.fc2.com/takiba/inarimichi.htm 私が以前現地の「お滝場」を回って把握した内容、(1)(2)(3)の4者は「お滝場」の位置関係や名前はほぼ合致します。一部合致しない部分がありますが、後日今回の俯瞰図の電子データを送っていただくようお願いしたので、詳細はそのあと比較したいと思います。 いずれにしても大正末期には、現在残っているお滝場とほぼ同じお滝場が整備されていたということが明らかになりました。さて、いつ頃からこれらお滝場が作られ、利用されたのでしょうか。これからの研究課題です。 その他の伏見稲荷についての蔵書も収蔵庫でパラパラと閲覧させていただきました。残念ながらそれら図書は、我々外部者は借りられないとのことです。今後も、研究で日文研の図書館には足を運ぶことになるかもしれません。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/06/21
コメント(0)
【2017年6月17日(土)】 平成29年度京都産業大学特別客員研究員の入所式・オリエンテーションが午前中に京都産業大学でありましたので、行ってきました。説明会のときは、車で行って無理やり駐車させてもらったのすが、本来は車は入れないので、今回はバスとシャトルバスを利用しました。 最初に日本文化研究所の小林所長と京都商工会議所の方の挨拶があり、その後、事務局からの説明があり、続いて図書館を案内をしていただきながらの、図書館の利用や文献検索の仕方をガイダンスいただきました。下記が図書カードで、これで図書館に自由に入館できるようになります。 その後、今回研究員になる方々の自己紹介とご指導いただく先生方のご紹介がありました。ご指導いただく先生方 今回の特別客員研究員は9名です。Aさんが紅一点です。5、8、9の方が、複数回目で、両Oさんに今回の幹事(世話役)をやっていただくことになりました。お一人大学3回生の非常にお若い方がいらっしゃいます。今年度研究員 座談会では、色んなお話がありましたが、小林所長の古文書の取り扱い注意についてのお話が秀逸でした。下のような機関のよくできた閲覧注意事項を配っていただいたうえで、次のようなお話をいただきました。・手袋は使わない。かえって傷をつける。手を洗って、素手で触るのがよい。・メジャーを使う場合は、ナイロン製・マスクを着ける。上着は脱ぎ、ネクタイ・時計は外す。古文書に触れないように・神戸震災で被害に遭われたお家に古文書があったが、タンスとピアノの間に保管されていて助かったことがあった。古文書を保管する家系は、それくらい慎重に古文書を取り扱っている。・先方に着いたらお茶を出していただくことがあるが、それは汗を引かせ、気持ちを落ちつけさせるのが目的。・本を手で上にあげない。常に机の上に置いた状態で扱う。・飲み物を出された場合は、同じ机の上には置かず、隣の机に置いた場合は、2つの机の間に隙間を空ける。倒れても液体が本にかからないように。・時間ギギギリまで見ない。点検・戻すための時間を15分以上確保する。・巻き物は湿度によって、適切な巻き方があったり、個別の適切な巻き方があるので、戻すときは先方にお任せしたほうがよい場合もある。などなど、古文書はこういう慎重な取り扱いの中保管されているのだということを認識しました。これから、古文書を拝見させていただく機会もあるので、心しなければなりません。古文書に限らず、図書館の一般的な本も、こういう気持ちで取り扱わないといけないのでしょう。 オリエンテーションが終わった後、各研究員が担当の先生と研究の進め方について相談する場が設けられたのですが、私のご担当の宮川先生は、お仕事の関係で、ご挨拶をさせていただいただけで、相談の時間は後日設定させていただくことになりました。 来年4月下旬の研究成果発表会、5月下旬~6月下旬の研究成果・成果報告書作成に向けて、研究をしていきます。 昼食はせっかくですから、学食でいただきました。色々レストランはあるのですが、オーソドックスな「リブレ」というカフェテリアでいただきまた。窓からは五山の送り火の船形も見えて見晴らしは最高です。 午後からは、早速図書館で文献探し。午前中に図書館を案内いただいた係の方に、文献検索方法を教えていただいたりしました。私が住む桂坂にある、国際日本文化研究センターに「伏見稲荷大社境内名所図会」という地図が蔵書されていることが分かったので、京都産業大学図書館経由で閲覧を申請していただくことにしました。 夜、M社RMの仕事仲間の飲み会があるので、大阪に向かいました。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/06/17
コメント(0)
【2017年5月16日(火)】 京都検定1級合格者の特典として、京都産業大学日本文化研究所の特別客員研究員への就任資格が得られるというのがあります。以前から、1級に合格した暁には是非務めたいと思っていました。 4月22日に募集説明会があり、5月7日に応募書類を送りました。 今日その選考結果の通知があり、研究計画が採択され、京都産業大学日本文化研究所の特別客員研究員の受入候補者となりました。 「客員研究員願」など必要書類を6月1日までに提出し、6月17日に入所式があり、7月1日から特別客員研究員として正式受入となる予定です。 今回提出した研究計画書「伏見稲荷大社とその周辺の不思議研究」を紹介させていただきます。 ガイド業で手いっぱいで、研究員がちゃんと務まるのか不安な面もありますが、昔から思い描いていたことが実現の方向に向かっていますので、何とか乗り切りたいと思います。 今日は、月イチの津軽三味線レッスンでしたが、明日ガイドする修学旅行の昼食場所が祇園周辺になるので、短時間ですが、レッスンの前に、いくつかの食事処を外からですが確認してきました。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/05/16
コメント(4)
【2017年4月22日(土)】 京都検定1級合格者の特典として、京都産業大学日本文化研究所の特別客員研究員への就任資格が得られるというのがあります。 今日その募集説明会が京都産業大学であったので、行ってきました。 京都産業大学は、洛北の少し不便なところにあろます。家内は今日は一日家にいるというので、車で行くことに。多分構内には駐車できないだろうから、最初は近くのコインパークに停めて、直接歩いて行くか、上賀茂神社から出るシャトルバスに乗って行こうと考えていました。しかし、駐車料金ももったいないので、ダメモトで係の人に電話をして車を駐車できるところがあるかと聞いてみました。「基本だめなんですが、保安所で言っていただいて、許可証を書いていただくかたちでいけるかも知れません。」とのこと。それで直接大学に行ってみることに。保安所での会話。「客員研究員の募集説明会で来ました。」「このような目的での、構内駐車はダメです。」「係の人に電話で聞いたら、保安で申請してもらったらいけると言っておられたんですが。」と、ちょっぴり嘘をついてゴリ押し。「困りましたね。仕方ないです。申請書を書いてください。」 何とか構内に停めることができました。何事もまずはダメ元でトライですね。 さて、この特別客員研究員ですが、自分でテーマを設定して、自分で研究をします。研究期間は1年間です。ただし、それを過ぎても上席特別客員研究員として残って研究を続けることも可能です。我がガイド会の先輩も、複数人上席特別客員研究員の方がいらっしゃいます。京都産業大学の図書館を利用したり、同大学の先生のアドバイスを受けることができます。1年後に研究発表が義務付けられています。 募集人員はアドバイスをいただく先生方のキャパの問題もあるため、若干名となっています。去年は1級合格者が少なく、応募すれば採用されたようですが、今年は合格率が約10%でしたので、応募する方は去年に比べて多いと思われ、応募書類で選考されることになるのでしょう。 授業を受ける訳ではないので、授業料は要りませんが、研究費用(たとえば書物を買う費用とか取材のための交通費)は自己負担です。 この特別客員研究員は1級に合格したら、是非チャレンジしたいと思っていました。しかし、現状はガイドの仕事を始めたばかりでアップアップの状態です。果たして時間的にやっていけるのかという不安があります。1級合格していれば、この応募は来年でも再来年でもいいので、先延ばしも可能です。しかし、苦労して合格した1級です。やはり即チャレンジずべきと思い、今年応募することに決めています。履歴書と研究計画書をGW明けの5月8日に提出する必要があります。 今日は、10時からその説明会があり、その後は、昨年度の特別客員研究員の方の成果発表でした。その内容は下記です。この中で、「発表1」の方は、我がガイド会の同期の方です。また、「発表4」の長谷さんは、2年連続で研究をされている方で、去年の発表では「蛤御門」の命名時期についての新発見が新聞記事にもなりました(こちら)。今年も新聞社の方が取材に来ておられました。説明会・成果発表会のプログラム 研究テーマは一応頭の中では考えてあるのですが、研究計画書は深い推敲が必要です。期限の5月8日まで2週間ありますが、ガイド関係で8日間、私用で4日間埋まっており、実質3日間しかなく、ますます目が回りそうです。ブログもしばらくお休みにせざるを得ないかもしれません。京都産業大学構内 今や名実ともに立派な大学になりました。説明会・発表会のあった図書館棟 駅の改札口のような立派なセキュリティーゲートがありました。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/04/22
コメント(4)
全45件 (45件中 1-45件目)
1