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日露和親条約と、伊豆・戸田にあるロシア人の墓
10月31日に西伊豆・戸田港に行ってきたことは、以前に紹介しました。
それに関連して、まだ紹介しそこねていた事がらを紹介します。
今、日本と中国や韓国との間で領土問題が問題になっています。
ロシアとの間にも領土問題があるわけですが。
日本とロシアの領土問題を検討するうえで、大事な資料がここにありました。
西伊豆の戸田をまわった時に、戸田造船郷土資料博物館があり、
そこに1854年の日露和親条約の条文も展示されていました。
1854年(安政元年)12月21日に伊豆・下田で調印されたものです。

この第二条で、領土問題が合意されて、和親条約が締結されたんですね。
「エトロフ島とウルップ島の間に境がある。
エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島とそれより北のクリル諸島はロシア領とする。
カラフト島は境界を定めず」と。
その後、カラフトと千島の交換条約につながっていきますが。
幕末の1854年に、日本とロシアが、正式に国境をさだめた文章です。
それが博物館に展示されていました。
その戸田港です。岬がのびていて、綺麗な自然の湾になっています。

この資料館には、幕末当時の位置関係が分かる村の略図も展示されていました。

1854年末、伊豆・下田で和親条約を結ぶための交渉が行われようとしたのですが、
第一回目の顔合わせをしたとたんに、
直ぐその後に、11月4日安政の東海地震が発生した。
その約30時間後の、11月5日には今度は安政の南海地震が発生した。
この地震と津波で、ロシア代表のプチャーチンのディアナ船が沈没してしまったんですね。
ロシアに帰えれなくなり、プチャーチンたちは、幕府と村民の協力を得て、
代わりとなる船(ヘダ号)を、この戸田で建造したというんですね。
博物館には、その模型がありましたが、200トンくらいの小さな船です。
沈没したディアナ号は2000トン級で、528名の乗組員がのっていた。
それが、震災の遭難者になってしまったわけです。
その略図には、様子が紹介されてます。
プチャーチンは宝泉寺を宿舎としたこと。
他の大勢の乗員は、地図にもありますが、
応急の長屋を建てて、住宅としたとのことです。
こうして、船が出来るまでの3ヶ月間くらいでしょうか、
一行は、この戸田で難民として暮らしたというんです。
当時、戸田村は、人口250人くらいでったでしょうか。
そこに、500人余もの避難者を受け入れたんですね。
その長屋による仮設住宅のくらしが始まったわけです。
もちろん、幕府の支援があったから出来たことですが。
戸田村民の温かい被災者支援があったんですね。
その時、プチャーチンの宿舎となった宝泉寺です。
お寺といっても、小さなお堂があるだけで、裏手はすぐにお墓になっていました。
お寺に近づいたら、この庭の右側に、「露国人の墓」がありました。

二人のロシア水兵が、その当時に亡くなったとのこと。
左側に日本語による碑が、右側にはロシア語の碑文がありました。二つのお墓のうち、右側の円筒形の墓は、
安政の当時に建てられたお墓だそうで、そのままのものだそうです。

プチャーチンたちは、代わりの船が出来るまで、
12月7日から3月22日まで、ここで暮らしていたんですね。
条約交渉は、約一カ月の中断の後に下田で再開され、
12月21日は、この日露和親条約がまとまり、調印されました。
ここからプチャーチンは、下田まで出かけていったことになります。
プチャーチンと500名余の乗員の、国交をひらく条約交渉の航海は、
とんでもない旅となったなったわけです。
安政の東南海大地震、その地震と津波に巻き込まれて、被災者となった。
震災直後は、帰る船も失い、お先真っ暗だったでしょう。
それでもめげないで、日露和親条約をまとめあげて、使命をはたしたわけです。
日本とロシアの両国間に、しっかりと歴史に残る条約の締結となりました。
困難な被災者となったプチャーチンは、
生活支援と代りの船の建造といった、この村民の難民への支援に対して、
プチャーチンは生涯の終りまで感謝の気持ちをもっていたとのことです。
その遺志により、娘さんが感謝を伝えに戸田までやってきたそうです。
そうしたことは、碑文が建てられているように、今日にも引き継がれてます。
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