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岡田嘉子著『ルパシカを着て生まれてきた私』を
読んで思う
岡田嘉子著
『ルパシカを着て生まれてきた私』
(
婦人画報社 昭和
61
年
5
月
20
日刊
)を読みました。
そして、翻弄されてしまった生涯ということと、今日につづく負の遺産を克服することが必要だ、とあらためて感じさせられています。
岡田嘉子〔
1903(
明治
36)
年-
1992(
平成
4)
年
89
歳没〕は、
1938
年
(
昭和
13
年
)
元日に、
演出家・杉本良吉とともに、
樺太の国境を越えてソビエトに亡命しました。
34
年ぶりに、
1972(
昭和
47)
年
11
月に
日本に帰国していますが、
その後、1992年にモスクワで亡くなっています。
そうした方の著作です。
その岡田嘉子の著書ですが、次の
3つの
点で注目しました。
一、亡命する背景となる当時の日本社会について。
二、あまかったことを、自己反省していることです。
三、ひょんなところに、日本共産党の金子満広さんが出てきたこと、です。
一、順序は変わりますが、こんなところに金子満広さんの名が出てきてました。
私なども金子満廣さんとは、少し縁があったんですが、
このエピソードは、まったくの初耳でした。
岡田嘉子は、モスクワにあった当時ですが、杉本良吉のお墓をつくろうとしたそうです。しかし何も遺品がなくて困っていたそうです。
『ちょうどそのころ、日本共産党の金子満廣さんが-今、書記局長をしていらっしゃいますけど、まだお若い時分でした-、モスクワにいらっしたものですから、お願いしてみたんです。日本になら何か遺品があるでしょうから、せめて日本につくっていただけないでしょうか、って。それで金子さんたちが村山知義さんたちと相談してくださって、結局、青山にある日本共産党の無名戦士の墓に名前を入れてくださいました。』
(
第七章
P91)
そうしたやりとりがあったことが紹介されてます。
この杉本良吉のソビエトへの亡命については、宮本顕治氏の著書『網走の覚書』にも出てきました。「小林多喜二とその戦友たち」、1973年2月20日「小林多喜二没後40周年記念の夕べ」での講演の中でなんですが。
『
1932
年でありましたが、杉本良吉と一緒に彼ら
(
今村恒夫
)
をソビエトにやりたいと考えたわけです。それは日本の文化・芸術運動、この働き手を多少残しておきたい、どんどんつかまるから。こういう人たちを残しておきたい、それにはソ連にやっておこうと考えたわけです。』
『マンダートといって、信任状、これは日本共産党員であることを証明する文書、それをかれらに渡しました。』
(
P72)
と。
杉本氏がソビエトに行くには、こうした経過があったんですね。
二、この本には、岡田嘉子が亡命した時の状況について、具体的に述べています。
(
第四章「国境を越えた日」
)
。
私などが注目したのは、この当時の日本社会の状況に述べている部分です。
『昭和
10
年代の初めのころの日本の状況っていうのは本当に異常でした。今また少しそうなりかけているようですけれど・・・。』
『
(
あのころは
)
芝居をやるといっても、まず脚本を警察に出して検閲を受けなければ舞台をひらけない。ところが検閲を通ってくると、台本によっては、ベタベタに赤札が貼ってあるんです。朱でずーっと消してある。』
『客席の後ろのほうには検閲官の席が設けられていて、そこで台本を見ながら、いつも監督してるんです。朱筆で削られたところを、うっかりしゃべりでもしようものなら、「ストップ!」って、とたんにどなられるんです。』
『昭和
12
年の中ごろ、中国との戦争が始まったでしょう。芝居が終わると全員が舞台に並ばされるんです。そうして、「ただいま、皇軍がどこそこで勝利を収めましたという報道が入りました」といって、『バンザイ』をやらされる。俳優が全部総出でやらなきゃあいけないんです。』『そういうのがいやだとおもったら、芝居も俳優もやめなくちゃぁならない。でもさうなれば、生活に困ってしまうじゃありませんか』
(P44)
私などは戦後生まれですから、戦前のそうした権力の監視・取り締まりの社会というものは、歴史の中でしか知りません。現実な感覚としては、実感としてはつかみにくいんですが。
それでも岡田さんも言っているように、最近の政治状況を見ていると、節々で強権政治が顔をのぞかせています。政治と権力による横暴というか、国民を取り締まる政治ということも、憲法改定案に書かれているわけですから、少しはわるような気がしてきます。いや、理解しなければならないと思っています。
三、さて、もう一つ問題ですが、岡田嘉子が自分自身の甘さを反省しているところです。
それは、決して、彼女たちだけの問題ではないと思います。
いまわしい社会主義を語った歴史的な負の遺産問題です。
『(戦前の日本社会のことですが)こんな調子じゃ、これからいよいよ芝居は出来なくなる。もう日本にいてもしょうがない。それで「いっそのこと、ソビエトに行きましょうよ」って、あたくしが杉本に言い出したんです』。
『そのころの新劇人にとっては、ソビエトは憧れの国でした。築地小劇場が昔、チェーホフの芝居をやって以来、モスクワは新劇の本場だっていう意識がありますものね。』
『杉本にしてみれば、向こうへ行ったら、国際的なプロレタリア演劇の組織で働きたいと思っていたでしょうし、あたくしは演劇学校に行って、本格的に演劇の勉強をする―という夢を抱いていたんです。
ほんとに、何も事情が分からなくて、甘かったと思うんですよ。』
『それからまた、杉本はスターリンを神様のように思っていましたけどね。そのスターリンが、その時は、いわゆる血の粛清をやっていた。一番悪い時期だったんです。
おめでたいというか、向こうみずというか、あたくしたちは、ともかく行けば何とかなると思っていたんです。』
(P52)
ソビエトの社会主義国が誕生したことへの、理想としての社会主義がこの世界に誕生したとみなされていたわけですから、それに対して憧れの期待をいだくことは、抑圧された現実世界とはうらはらなものとして、世界の人々に期待と信頼からして、そうなっていたと思います。
私などが、高校生時代の1969年頃、はじめて社会主義の思想を知った時が、時代も場所も条件が違いますが、そうしたことだったと思います。
宮本顕治氏ですが、同じようなことを書いています。
当時は獄中にあったわけですが、ソビエトをどのように見ていたか、先の
講演
で述べています。
『当時、ソ連は世界の共産主義者のいわばひとつのあこがれでありました。私どもも、ソ連と聞けば身がひきしまるような、そしてここに新しい社会が生まれているんだ、といって自らを励ましていたわけであります。』 (P72)
『当時、杉本もそうでありますが、善意のコミニュストは社会主義の国ソ連にゆけば、「監獄と死」がまちかまえているとだれも予想しないのが当然であります。スターリンの問題が国際的に明白になったのは、戦後も大分たってからです。』 (P76)
初期の社会主義をめざしたソビエトから、スターリンなどの後継の指導者に変質がおこっていたこと。
それをはっきりと認識するには、判断材料が明らかになるまでに、時間がかかったこと。
共産党間での論争がおきていたとしても、私などの一般レベルではそうしたことは知りませんから、事柄を理解するには、さらに時間がかかったこと。
しかも、1991年にソビエト共和国連邦が崩壊しても、その後も負の遺産は引き継がれていること。
そうしたことが、見えてきます。
今日、不破哲三氏はスターリンのもつ問題点を『スターリン秘史 ( 全 6 冊 ) 』 ( 新日本出版社 2016 年 3
月刊行 ) にまとめています。 そうしたスターリンの負の実像が明らかにされだしたのは、フルシチョ
フの『スターリン批判』以降ですね。しかし、それを批判する政治家にもさらに問題は引き継がれ
てきたということです。
問題の根本をつく批判というのは、それが明らかにされはじめたのは、ごく最近のことなんですね。まだ
まだマイナス遺産があちこちにころがっている。問題が、十分に底をついて明確にされ、理解されるようになったとは、ひろい世間で見れば、まだ思えませんが。
この 12 月 15 日にはロシアのプーチン大統領が来日するそうです。
ここでも、 日ソ両国間の領土問題が懸案のテーマとなっています。
ここにも、領土の併合というマイナスの遺産の一つが存在しているわけです。
私などの学生時代は、官僚主義・大国主義とたたかうレーニンの活動に光が当ってました。
また、ロシア文学に脈々と流れる民主主義の思想なども学んできたわけです。
今回、たまたま図書館にあった岡田嘉子氏の著作ですが、
これを読んでみると、その人生を翻弄されてきた歴史なんですね。それは彼女
一人ではなくて、多くの人たちがこうむった被害でもあったわけですが、そしてそれは今もつづいています。
そうであればこそ、この機会に、プーチンが来るまでの機会に、日本とロシアとの間に ある
明と暗
の歴史の両面について、
安倍首相などによる対応とは区別
し
て、
自分なりに
あらためて根本的にしっ
かりと学びなおしてみたい、これは一つの宿題だと思っている次第です。
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