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『経哲手稿』33フォイエルバッハの弁証法
3、フォイエルバッハの弁証法のとらえ方に対するマルクスの批判
これまでマルクスは、フォイエルバッハが唯物論からヘーゲル哲学批判したことに対して、偉大な業績として、その基本的な正しさについて、大いに評価していました。
しかし、フォイエルバッハのヘーゲル弁証法に対するとらえ方ですが、この問題については十分にとらえられていない、その点を批判しています。
ここで、まず「否定の否定」ということに対する理解についてフォイエルバッハの理解の仕方を問うています。
国民文庫版では、P209第7文節からP211第13文節です。
マルクスは指摘します、
フォイエルバッハは「否定の否定」を次のように理解していると。
「ヘーゲルにとっては、論理的、抽象的一般(神学)から出発して、それを否定(止揚)して、現実的、感性的、有限な特殊なもの(哲学)を定立する。さらに次に、その現実的なものを否定して、抽象的な、無限なものに帰っていく」と。
この見解の根拠はどこにあるのか。
私などが見るのに、『将来の哲学の根本問題』の弁証法批判ですね。
「ヘーゲル弁証法の秘密は、結局ただ、神学を哲学によって否定し、それから再び哲学を神学によって否定することにある」(第21節 P45)
この箇所をさしていると思います。
フォイエルバッハは唯物論の点からはいろいろヘーゲル批判をしていますが、弁証法を問題にしている箇所というのは、少ないんです。その中で、一つの基本的な批判がこの指摘です。
これに対して、マルクスは何を問題にしているのか
マルクスにとって、フォイエルバッハのヘーゲル弁証法—「否定の否定」に対する理解には狭さがある、その内容と意義をとらえての批判になっていない、と。当時は解釈の仕方の違いのようにも見えますが、そこには、本質的な問題を含んでいると思います。
マルクスの批評です。
1、フォイエルバッハは、ヘーゲルの否定の否定は、神学の一般性の否定から、感性的に確実な哲学をとらえる。さらにその否定としての神学・一般性を肯定するものとなる。こうしたものとしてとらえている。基本は神学と哲学の関係といったことでとらえている。はたして、そうなのだろうか。
2、フォイエルバッハは、否定の否定をとおしての肯定というものを、自分自身に確信のない、「そうであるかもしれない、ないかも知れない」と、疑いを持つような、こころもとないものとしてとらえている。はたしてそうなのだろうか。
しかし、マルクスの理解するヘーゲルにの「否定の否定」とは、そうしたものではない。
それは、
1、ヘーゲルにとって「否定の否定」は、その関係からして真実であり、唯一の肯定的な、自己実証行為としてある。
2、ヘーゲルがその言葉で意味しているのは、歴史の運動を、その抽象的な、論理的な、思弁的な形においての、一般的な表現として見いだしたに過ぎない。
ヘーゲルの弁証法のとらえ方についての、マルクスとフォイエルバッハの間には、この時点で、解釈の違いがあったことが表明されています。なぜマルクスはそれを問題にしたのか、それが、この論文での検討が示している、ということなんですが。
そのことの、マルクスによる表現です
「ヘーゲルにあっては、否定の否定は、唯一の自己実証行為としてとらえていること。これにより歴史の運動に対する論理的、思弁的表現を見いだしたに過ぎない。その歴史はまだ一つの前提された主体としての人間の現実の歴史ではなく、やっと人間の産出行為、発生史であるにすぎない。われわれは、この抽象的形式を明らかにするとともに、まだヘーゲルにおけるこの運動が現代的批判に対し、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』における同じ過程にたいしてもっている対照的な区別をも、あるいはヘーゲルにあってはまだ批判的でないこの運動の批判的すがたをも、あきらかにするだろう」(P210第13文節)
マルクスの言いたい点を確認します。
1、ヘーゲルにとっての歴史というのは、まだ今という現実を発生させてきた歴史でしかないとみなしていて、それは一つの歴史条件によって前提された、主体としての人間の歴史ではない。
これは歴史観におけるヘーゲル流の歴史観に対して、マルクスの唯物論的な歴史観の対置を示唆していると思います。
2、「否定の否定」とは、弁証法とは、現実の運動の抽象的な形式を示している。このことをマルクスは明らかにすると、この論文の課題を表明しているわけです。
3、フォイエルバッハが『キリスト教の本質』でしめした、神というのは人間関係の反映だということ。それを、ヘーゲルにおいては、神が人間の諸関係をつくった、人間関係は神の意志のあらわれである、と。そのことは、同じ事柄についての、対象的な関係を明らかにする、と。同じ関係に対する、観念論的な見方と唯物論的な見方との、マルクスはその違いを明らかにする、と。
4、ヘーゲルにあっては、まだ批判的になっていない弁証法の批判的姿を明らかにする、と。マルクスは、ヘーゲルが発見した弁証法ですが、それがもっている曖昧さが、どこから来るのかを明らかにして、弁証法がもっているその革命的な性格を明らかにする。
マルクスは、こうした論点を課題提起しているわけです。
ようするに、このマルクスの「フォイエルバッハ論」というのは、これからすすむヘーゲルの弁証法の批判という本論の、いわば序論であり、これから解明することの、あらかじめの、大まかな見通しを提起しているということなんですね。
以上が、一、マルクスの「フォイエルバッハ論」です。
付録です。
一、フォイエルバッハの一節を紹介します。
「いったい類が一個人のうちにしめされるとか、哲学が一哲学者のうちに絶対的に実現されるということが、はたして可能かどうか。このことを問題にしていないところに、先の有識者の無批判なふるまいがある。この問題こそ主要問題なのだ」(「ヘーゲル哲学の批判」岩波文庫 P123-129)。
これは、フォイエルバッハが、弁証法に対してまったくの無感覚ではなかったことを示しています。
それをも踏まえつつ、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』の一節です。
「(ヘーゲル体系)のような任務を哲学に課すということは、ただ人類全体だけがすすみゆく発展のうちではたせることを、ひとりの哲学者にはたせと要求することにほかならない」
これは二人の論旨は重なっていますね。
フォイエルバッハも弁証法的思考に対する意識をもっていた。
エンゲルスの論文は、あらためて、1886年に、フォイエルバッハが言いたかった点を生かして、明確な形にしたということです。忘れ去られた業績に対して、その評価を明確にしたということです。
二、ここでの探究課題に対するエンゲルスの指摘です。
マルクスが『経済学批判』を出したときに、エンゲルスは『マルクス『経済学批判』の書評』(全集第13巻)を書きました。
「マルクスは、ヘーゲル論理学から、この領域における真の諸発見をふくむ核心を取り出し、弁証法的方法からその観念論的な外皮を剥ぎ取って、それを思想展開の唯一の正しい形式となるような簡明な形につくりあげるという仕事を引き受ける唯一の人であったし、今でもそうである」と。
私などは、このエンゲルスの『今でもそうである』との指摘ですが、なるほどと思っています。
以上、P211第13文節まで、です。
次は、第二章、マルクスによるヘーゲル哲学を概観しての問題です。
P211第14文節からP217第19文節です。
それは次回ですが。
『経済学哲学手稿』34 余談 2024年11月29日
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