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今日は天気が良く、暖かいので京都の東山の山麓を、南禅寺から北に銀閣寺の方向に歩きました。 疎水(人工の川)に沿って小道があり「哲学の道」という名前が付けられています。このあたりは京都大学の近くで、西田幾多郎という京都大学の名物哲学教授がうろうろした道です。今はこの西田幾多郎にあやかって「哲学の道」という名前になっているのです。観光客でごった返しているいるかと心配してのですが、人影はほとんどありませんでした。この辺の山麓は「鹿ケ谷」といいます。平清盛が頑張っていたころ、平家一門を失脚させようとした陰謀があって、その舞台が「鹿ケ谷」です。平家物語にも出てくるので、私は平家物語の一説を思い出しながら散策しました。この陰謀は密告によって未遂に終わり関係者は流罪になりましたが、本当の首謀者である後白河法皇はうまく逃げおおせました。トカゲの尻尾で有罪になった三人の法王の近臣は喜界が島に流されてしまいました。その内の一人俊寛僧都は都を恋い慕って狂い死にしてしまいました。都に住めないというだけで発狂するというのは私には解せない心理です。まあそんなことを考えながら「哲学の道」を歩いていて「法然院」のところに出てきました。法然院は鎌倉時代初期の法然上人ゆかりの寺で静かな良いところです。写真を撮りましたので見てください。法然上人は念仏を説いた浄土宗の創始者で浄土真宗を興した親鸞聖人の先生です。彼は比叡山の学僧で抜群に頭が良かったそうです。法然は頭が良いだけでなく、女犯をしたことのない折り紙付きの模範僧でした。その彼が天台宗に背を向けて新しい宗派を興したというので「可愛さ余って憎さ百倍」となり、当時の仏教界の幹部から様々なイジメを受けました。天台宗の修行の一つに「念仏」があるのですが、彼はその念仏をクローズアップして「浄土宗にしたのです。法然の思想はまた改めて書きますが、京都はふらっと訪づれてもなにかしら歴史に出会います。
2008年02月29日
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宇治川に散歩に連れて行きました。剃った跡に毛が生えつつあります。だいぶ暖かくなってきたので、日中は家から外に出します。そうすれば、私も外出できますから、近いうちに京都に遊びに行きます。哲学の道あたりでしょうか。4000円のドッグフードがなくなってきましたので、1200円の安いのに戻ります。だんだん待遇が悪くなるのでタローはまた文句を言うかもしれません。
2008年02月28日
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ライプニッツ(1646~1716)も「実在」を徹底的に考えました。「実在」というのは、「他の助けを借りずにそれ自体で存在するもの。変化せず永遠に同じ状態で存在するもの」であって、単にそこにあるというだけの物ではないのです。デカルトにとって実在は「考える自分」でしたが、ライプニッツは「単子(モナド)」が実在するのだと考えました。このモナドというのは、物理的な側面もあるが本当は魂なのです。人間の肉体はモナドから成り立っていて、それぞれが魂なのですがそのなかでひときわ重要なのがあって、それが人間に固有の魂と呼ばれるものだというのです。ライプニッツは、神の存在を面白いやりかたで証明しています。まず、最善・完全な存在を「神」と定義するのです。もしも神が存在しないとしたら、上記の神の定義からして最善なものではありません。他の条件が全く同じ二つのものを比較した時、一方は存在しもう一方は存在しなかったら、存在するものの方が存在する分だけ優れています。すなわち、存在しないものは最善ではなく、ゆえに神ではありません。だから神は存在するというのがライプニッツの主張です。これはもう屁理屈であって、言葉の遊びです。こういう言葉の意味を駆使して「実在」を証明しようとするのが西洋哲学の特徴ですが、こういうやり方を徹底的に排除しているのが実は大乗仏教なのです。大乗仏教はご存知の通り、「実在するものなど存在しない」という考え方ですが、それを実在すると錯覚するのは言葉があるからだといっています。この「空」の論理は別の機会に説明したいと思いますが、とにかく大乗仏教の言うとおり、ライプニッツは言葉による錯覚を利用して「実在」を証明しようとしているというのが私の理解です。しかし私たちはライプニッツの生きていた環境を考えてあげなければなりません。彼は18世紀初頭というまだ神が頑張っていて、無神論者は命がけで生きていかなければならない時代だったのです。とくに彼は政治家で外交官でしたから、神は存在すると主張しなければならなかったのです。そこで、世界はモナドという原子から出来ているという発想からスタートしながら、モナドは実は物質ではなく魂だと言い、最終的に神は存在するというふうに論理を持っていったのです。哲学というのはその時代に大きく影響されているもので、「永遠の真理」などというものは存在しないのだなとつくづく私は思います。こういう言葉遊びによって物事を説明しようというやり方は当時の人もなかなか納得しなかったでしょう。これより時代が少し下ると、自分の直感を大事にしようということになっていきます。ルソーなどはその典型です。私もルソーのやり方のほうがまだしも正直だと思うのです。
2008年02月28日
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実は私の家の近くにtsutayaがあります。あのビデオやCDをレンタルする店です。タローを散歩させる道の脇にあるのです。そこでつい会員証をつくるはめになってしまいました。店の中をうろついて、面白そうなDVDはないかと探し回りました。アメリカの映画はうんざりだし、日本のものもあまり面白くないし・・・・・・そして「探偵物」の棚を発見しました。シャイロックホームス、アルセーヌルパン、マーブルおばさんと並んでアガサクリスティーのエルキュール・ポアロものがシリーズで並んでいたのです。エルキュール・ポアロというのは面白い人物で、タクシーに乗ると運転手が教科書どおりに10時10分過ぎの時計の針の位置に両手でハンドルを握っていないと落ち着かないのです。そして運転手に運転の仕方を教え始めます。殺人現場である部屋の中の置物があるべき位置にないと気持ちが悪くなるのです。こんなポアロが面白くて、ナイル川殺人事件、ABC殺人事件、そして誰もいなくなった、スタイルズ荘殺人事件など次から次へと借りました。カウンターの女の子が「このオジサン、私に気があるのかしら?」と疑るような目つきをするまでになりました。確かに心理小説は違和感だらけです。殺人を犯した人間が完全な精神のバランスを維持したままでいられるとは現実にはありえません。でも推理小説は、深い面白さは無いけれど別の面白さがあります。ポアロもので面白いのがあったら教えてください。
2008年02月27日
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近代哲学はデカルト(1596~1650)から始まります。彼はあらゆるものの存在を疑いました。自分の体ももしかしたら存在していないかもしれないと考えたのです。しかし自分が考えているということは疑えませんでした。そして「私は考える。ゆえに私は存在する」という有名な言葉を吐きました。物質は、「考える精神がその存在を感じることができるのでおそらく存在するのだろう」という程度にしか確かでないものです。「自分の精神の外にある物が存在しているか否かをどのようにして確認できるか」という問題に対してデカルトは一つの回答を出したわけです。彼以後のヨーロッパの哲学者は、「ものははたして存在するか? 存在するならどのようにしてそれが分かるか?」という問題に夢中になりました。デカルトが近代哲学の創始者だというのはこういう意味です。それ以前の中世までは、本当に存在するものは神だけでこの世は仮の姿で幻なのだと考えるべきで問題ははっきりしていたのです。「私は考えているという事実を疑うことは出来ず自明のことだ。 非常にはっきりして自明のことは真であり存在する」というのがデカルトの立場です。彼は蜂蜜から作ったろうそくを例にあげます。蜂蜜で作ったろうそくは、蜂蜜の味がし花のにおいがして、たたけば音がします。しかし火に近づければ柔らかくなりたたいても音がしなくなります。冷たくて硬いろうそくを見ても、温められて柔らかくなったろうそくを見ても、人は同じ蜂蜜のろうそくだと理解します。つまり、ろうそくをみても冷たい状態のろうそくを見ただけで、ろうそくの本質を見たわけではありません。彼はその精神によって、それがろうそくだと分かったのです。見たり聞いたり嗅いだりという感覚でもの自体を理解することはできないのです。デカルトの思想は、精神と物質は互いに独立しているが、精神の方が物質より優位にたつという主観主義です。精神の方が物質より優位に立つという点を強調すれば観念論になります。デカルトは近代観念論の始祖です。また物質は精神とは別だという点に着目すると唯物論になり、彼は唯物論の始祖でもあるのです。
2008年02月27日
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私は「西洋哲学を読みました」を実存主義の手前で終わらそうと考えています。実存主義には色々なものがあって私自身がその全体を把握していないから、というのがその理由の一つです。また実存主義とは仏教のことではないか、という思いもあります。仏教、特に大乗仏教は「諸行無常」や「空」が主要な考え方で、「永遠不変のものなど存在しない」と、実在を否定しています。私は、仏教とは実存主義だと思っており、わざわざ西洋哲学で実存主義を話す理由もないと思うのです。実は「仏教とは実存主義だ」というのは、日本の哲学者に共通の思いです。日本を代表する哲学者とされている西田幾多郎は東京大学で西洋哲学を学びましたが、後に自分の哲学を作り上げました。「絶対矛盾的自己同一」などと唱えていて「絶対の無」を強調していますが、私はこれなど仏教の思想そのものだと思っています。西田幾多郎以外にも、多くの日本人が若いときに西洋哲学を学んで最終的に仏教の研究者になっています。彼らは、「ヨーロッパ人が長い間考え続けた結果の最先端の学説が実存主義であり、それは仏教である。であるから、仏教は世界最高の哲学なのだ」と自画自賛しています。私は素直にはこの考えに賛成できませんが、もっと仏教をしらなくてはならないとは考えています。
2008年02月26日
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ルネッサンスによってトマス・アキナスのカトリック神学の権威がなくなってしまいました。ルターとカルヴィンは宗教改革を始めましたが、彼らの神学は初期キリスト教神学であるアウグスチヌスに若干の修正を加えたもので新しい哲学と言えるほどのものではありません。ルネッサンスと宗教改革の騒動が収まった17世紀にカトリック神学には頼らない新しい哲学が登場してきました。この近代哲学はデカルトから始まるのですが、彼もヨーロッパの昔からの伝統である「実在」の追及をしたのです。デカルトが「他の助けを借りずに存在し、永遠に変わらないもの」を追求して「考える自分」が実在するのだという結論を出しました。デカルト以後、キリスト教の神ではない「実在」を追及するのが流行となり、ライプニッツは「原子」が実在すると考えました。このような「実在」を追及する流れは、カントや19世紀半ばのヘーゲルまで続きました。共産主義はヘーゲル哲学から派生したもので「実在」を信じていますから、こういう意味では20世紀末まで「実在」を追及する哲学は健在だとも言えます。一方、このような「実在」追及に対してそれを疑問視する動きも出てきました。一つはイギリスで盛んになった「経験主義」で、これは「実在」の証明などというめんどくさいことは脇に置いて、現に存在するものの法則を明らかにしようというものです。現代の産業社会はこの「経験主義」に上に成り立っていて日本人もこの発想にどっぷりと漬かっています。もう一つの反「実在」の流れが「実存主義」です。「実在」と「実存」は言葉が紛らわしいですが、「実在」はreal existence で本当に存在するものです。即ち、イデアの世界のように変わらず永遠に存在するもので、これに反して現世は仮の姿、幻なわけです。「実存」は現実存在の略語で、現にこの世にあるものという意味です。パルメニデスやプラトン以来2000年以上「実在」を追求して徒労に終わったのだから、「実在」など無いのだという考え方です。19世紀後半のキルケゴールやニーチェに始まり、20世紀にはいるとハイデッカーやヤスパース、戦後はサルトルと現在の哲学はこの実存主義が主流となっています。
2008年02月25日
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さて、この「西洋哲学史を読みました」も近代に入ってきたわけですが、こうして西洋の哲学を歴史的に読み直すとなるほどと感じたことがあります。それは西洋の哲学が「実在」を一貫して追及してきたということです。この「実在」というのを改めて定義してみると、「他の助けを借りずにそれ自体で存在するもの。変化せず永遠に同じ状態で存在するもの」ということになります。人間の肉体は絶えず老いに向かって変化していますから、存在しているとは言えるかもしれませんが実在はしていません。動植物や大地、人間の心も変化しますので、これらも実在するとはいえません。西洋では古代ギリシャから、「実在するものは何か」を追及しています。「実在などという確かなものは存在しない」という経験論や不可知論もありましたが、それは少数派で、主流は「どこかに何かの形で実在するものがある」と思い込んでそれを追求してきたのです。古くはパルメニデスが、あらゆるものの基をたどると「一なるもの」にたどり着くとしましたが、この「一なるもの」が実在です。「一なるもの」はその後の哲学者に大きな影響を与え、プラトンもこれからヒントを得て「イデアの世界」を考え出しました。「イデアの世界」は全てが変化するこの世ではなく、あの世のことです。そこにはあらゆるものの理想的な原型が存在しています。そこには「テレビのイデア」や「犬のイデア」から「美のイデア」まであらゆるもののオリジナルが揃っています。人間の魂はかつてこの「イデアの世界」に住んでいてイデアを見ていたので、この世でイデアの拙い模倣を見ても「あれはテレビだ」「あれは犬だ」とすぐ直感できるのです。「イデアなど実在するものはない」と主張した者たちにソフィストがいましたが、彼らは社会の支配者や「真面目な哲学者」から非難を受けました。今ではソフィストは「悪党」「詭弁者」ということになっています。「変わらない存在」の権威を背負った善悪の基準がないと、社会の秩序が維持できないからです。「昔から将来まで変わらない善悪などなく、道徳はその社会の支配層が勝手に作ったものだ」ということになれば誰も真剣にその道徳を守ろうとしないのです。永遠に変わらない「実在」であるイデアの世界にある善を説いたプラトンの哲学が2000年の歴史を越えてヨーロッパ人に人気があるのはこういう理由です。ローマ時代の代表的な哲学であるストア派哲学もプラトンの哲学の一分派といえます。キリスト教もプラトン哲学でその神学を組織しました。この場合、「他の助けを借りずに存在し、永遠に変わらない実在」はキリスト教の神になります。このように西洋では、「実在」の存在を前提にしてその社会を維持してきたのです。
2008年02月24日
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今日はルネッサンスのことを書こうと思いますが、実はこの時期の哲学には特に書くべきことはありません。13世紀に出来たスコラ神学の権威がなくなりましたが、それに代わって新しい哲学が出てきたわけではなく、古代ギリシャ・ローマの哲学の復興というか模倣が盛んになっただけだからです。ルターやカルヴィンが始めた宗教改革は、ルネッサンスと時期的にダブッていますがルネッサンスとは正反対の方向を向いています。イタリアで始まったルネッサンスは宗教的権威を否定して「もっと現世を楽しもうよ」という運動ですが、宗教改革は「今までのカトリックは本当のキリスト教ではない」として徹底的な宗教的生活を求めたものだからです。この間、日本の高校生用世界史教科書を見てみたのですが、ルネッサンスに比べて宗教改革に割いているページが少なく内容も半端なので驚きました。おそらく宗教改革が何なのか、日本人には良く分かっていないのではないでしょうか。そしてこの教科書の結論は「ルネッサンス以後ヨーロッパ人は、宗教の拘束から解放されて人間らしい生活を送れるようになった」というものです。この結論は宗教に無知な日本人が好みそうなものですが、私は間違っていると思います。「人間らしい生活」と宗教は正反対だと主張しているわけですが、もともと宗教というのは「どうしたら精神的に動物ではなく人間らしくなれるか」「人間の本質は何か」を考えて出来たものでしょう。宗教改革によりプロテスタントになった国は、イギリス・ドイツ・北欧・フランス(宗教改革当初はプロテスタントが盛んでした)など、中世では辺境でした。後には北米やオーストラリアがプロテスタントに加わりました。これらの国々の繁栄ぶりや影響力はカトリックに留まった南欧や南米の比ではありません。図式的に言えば、カトリック諸国 - 南欧・南米 - 不安定・貧しい - ルネッサンスプロテスタント諸国 - 北欧・北米 - 安定・豊か - 宗教改革となります。世界のより重要な部分が15~16世紀に、以前よりもっと宗教的になったのです。現在、アメリカは次の大統領選びで大騒ぎしており、エスタブリッシュメント(保守的支配者層)のクリントン夫人が苦戦しています。現大統領のブッシュが人気を失っていますが、これはあまりにキリスト教的だからです。キリスト教的な政治にうんざりしたアメリカ人は、エスタブリッシュメントと言う点では同類のクリントン夫人を嫌がったという側面があります。「非宗教的」ということで白黒混血のオバマの人気が沸騰しているわけですが、アメリカは非常に宗教的ですからこの人気も長続きしないでしょう。日本以外の国では、今でも宗教は非常に大きな影響力を持っています。実は日本でも宗教は非常に重要なのですが、日本人は故意にそれを無視しています。
2008年02月23日
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14世紀にそれまで強固だったカトリック教会の基盤が瓦解しはじめますが、その原因は哲学ではなく外部要因の変化です。フランスやイギリスの王国が強力になり法王の言うことを聞かなくなってきました。ルターやカルヴィンに先立ってイギリスのウィクリフが宗教改革を始めましたが、彼が法王に逆らうことができたのはイギリス国王が彼を支持したからです。ウィクリフはカトリックの神父でオックスフォード大学の有名な教授でしたが、司教の任命権は国王が持つと主張したのです。この学説にイギリス王が喜んだのも当然で、彼は逮捕されることもなく自由にイギリス中を説教して廻りました。当時のイギリス王の妻がボヘミア(チェコ)王家の出身だったので、ウィクリフはボヘミアへの布教に力を注ぎました。そしてウィクリフの弟子がヤン・フスで、彼はチェコでウィクリフを真似して宗教改革を始めました。当時のチェコはイギリスほど自立した国家でなかったので、チェコ王は法王の機嫌を取るためにフスを逮捕し焼き殺してしまいました。ヤン・フスの宗教改革は挫折しましたが、その伝統はドイツに後々まで残り(チェコは歴史的にドイツの一部です)、ルターの宗教改革となってまた表面に出てきました。ルターが宗教改革を始めても焼き殺されなかったのは、ザクセン選挙侯がドイツ皇帝や法王を向こうに廻して彼を保護したからです。宗教改革の原因の一つは国王が法王に逆らい始めたことです。裕福な俗人の知識レベルが上がってきたこともカトリックの基盤が瓦解した要因です。地理上の発見はヨーロッパ人の世界観を広げ、コペルニクスの天動説はそれまでのカトリックの宇宙観を粉砕しました。教養ある俗人たちが法王の権威を疑いだした時に、「コンスタンティヌスの寄進状」が偽造文書だということが証明されたのです。「コンスタンチヌスの寄進状」というのは、キリスト教を事実上の国教にしたローマのコンスタンチヌス皇帝が帝国を法王に寄進するという内容の文書です。歴代の法王は、この文書を自分の国王に対する権威の根拠にしていました。
2008年02月22日
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二日ほど前から風邪をひきました。最初は毎年恒例の花粉症かと思ったのですが、熱が出てきたので風邪だと分かりました。私は春秋定期的に体調が悪くなるので、一種の「強制休養」である風邪にはほとんど縁がありません。しかし今回は特別の「強制休養」が必要だったようです。引越し騒ぎ、タローの事故、ボロ屋の修理交渉、巨大企業との喧嘩でかなり疲れてしまいました。巨大企業との喧嘩の件はそのうち気が向いたら書くかもしれません。非常に面白い体験で、古い巨大企業にいる連中はここまで発想がおかしくなっているのかと感心しました。日本の企業というのは「同じ釜の飯を食う」一族組織で内部の関係を外部より優先しますが、通常は競争にさらされて対外的な常識を保っています。しかしこの内部志向がある限度を越えると外部を一切意識しなくなります。今中央官庁も入れて三つ巴の争いをしています。こういうわけで風邪が治ったらブログを再開しますが、このまま花粉症に移行する可能性もあります。
2008年02月20日
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西ヨーロッパがローマ崩壊後大混乱している間に、東の方でも大きな変化がありました。エジプト・トルコ・シリアなどはもともとローマの版図でローマが東西に分裂した後は、東ローマが領有していました。この地方はギリシャ人が多く、キリスト教も盛んで経済的にも豊かだったのです。ところがこの東ローマの勢力がどんどん衰えて、これらの地方はイスラム教徒に征服されてしまいました。シリアを占領したイスラム人は、シリア人からギリシャ哲学を教えてもらったのですが、シリアではプラトンよりアリストテレスの哲学の方が人気がありました。そこでイスラム人もアリストテレスの哲学で神学を考えるようになったのです。そしてこのイスラム神学が十字軍やイスラムに征服されたスペインの再征服によるキリスト教化を通してヨーロッパに流れ込んできてスコラ哲学が生まれました。スコラ哲学とそれ以前のアウグスティヌス神学との違いは、簡単に言えばプラトンとアリストテレスの違いです。アリストテレスはプラトン以前のギリシャ哲学を整理したので、色々な矛盾を取り除いたものですが、その分個性がないものです。スコラ哲学が生まれたのは13世紀ですが、このころは中世の末期で商人たちが力を得てきた時代でした。商売を行うには交渉術が必要で相手に負けないためには論理的でなくてはなりません。こういうわけで商人の方が封建領主より教養があったのです。このころにはプラトンとアリストテレスの違いも分かってきて、精緻な理論のアリストテレスを基礎にしたスコラ哲学に人気が集まったということです。スコラ哲学は現在のカトリック教会の公式教義ですが、広く世間で通用したのはルネッサンスまでの200年足らずです。それ以前のアウグスティヌスの神学は1000年ぐらいキリスト教の教義となっていて全てのヨーロッパ人の精神を支配していました。アウグスティヌスの神学の方がはるかに重要なわけで、私はスコラ哲学にあまり興味がなくその詳細を説明するだけの根気はありません。スコラ哲学を完成させたのは聖トマス・アクィナス(1225~1274年)です。彼は「自らは動かず、動かすもの」というアリストテレスの哲学によって神の存在を証明しようとしました。諸々のものにはそれの原因があるわけで、原因は「動かないもの」で結果として出来たものは「動かされたもの」。この原因をたどっていくと最後に「自らは動かず、他を動かすもの」に突き当たるわけで、それが神だというわけです。そして神の被造物である人間には神の本質を知るだけの理解力はありません。だから神を信じれば良いのだというのがトマス・アクィナスの結論です。
2008年02月17日
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紀元410年にゲルマン人のゴート族がローマを占領しひどい略奪暴行をしました。この時に伝統主義者から、古来の神を放棄したにこんな目にあったのだとキリスト教を避難する声があったので、それに反論するためにアウグスチヌスは「神の国」を書きました。人間が生きている現世は地上の国だが、もうひとつ神の国があり、教会がこの神の国とつながっていると主張している本です。この本でアウグスチヌスはプラトンを高く評価していて、その哲学に影響を受けていることを隠していません。プラトンはイデア説で、本当に実在するのはイデアの世界でありこの世はイデアの世界が投影されたものにすぎないといっています。アウグスティヌスは、「プラトンが全ては神から来ていることを正しく理解している」として評価しています。プラトンは、「人間の見たり聞いたりする知覚は頼りないもので、それによって真理を知ることは出来ない」としていますが、アウグスチヌスはこのプラトンの見解にも賛成しています。信仰によってはじめて真理は理解できるのです。また、有徳でさえあればこの世的な幸運は得られなくても本当は幸福なのだともアウグスチヌスは言っていますが、これはストア派の「義務を果たすことが正しい」というのと同じ主張です。このようにアウグスティヌスは、神の存在の証明にギリシャ哲学を援用しています。また彼は予定説をこの本のなかで次のように述べています。「神が人類を選ばれた者と見捨てられた者に分けたのは、功罪によってではない。全ての人間が永劫処罰に値するので見捨てられた者も不平をいう根拠はない。」つまり、人間は原罪を持っているので全員が本来なら救済されるはずはない。しかし神の特別の好意によって一部の人間は救済されるのです。この場合にどういう人間を救済するかという判断基準は、人間には知ることができないというのです。ここのところが多くの凡人にはなかなか理解できないところで、「あんないい加減なヤツが救済されて、行いの正しい自分が救済から外されたのは納得できない」と文句が出てくるのです。こういう不平不満をキリスト教では、「神を自分の召使にする思想だ」と非難します。神は全能で人間の主人であり、決して人間の召使ではありません。神は人間が考える判断基準(正しい行いをするとか真面目だ等等)など考慮せず、自身の判断基準を持っているわけです。そして、神の所有物であり神の家畜(子羊)である人間は、主人の判断に無条件で従い文句を言ってはならないのです。神が全能だというのは、こういうことでもあるのです。
2008年02月16日
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個人の犯した罪に対して、集団を罰するという考えと個人を罰するという考えの両方がキリスト教にあります。集団と個人をゴチャにしているわけですが、この混在はキリスト教の他の面にもあります。その一つが予定説です。予定説は16世紀の宗教改革のときに、ルターやカルヴィンが強調したものですが、パウロやアウグスチヌスなどごく初期のキリスト教神学にすでにあります。神は救う者をあらかじめ彼が生まれる前に決めているというのが予定説です。この予定説を初めて聞いたほとんどの人は魂消ます。個人の努力を一切認めない大変な説だからです。ですからまだ信者になっていない人が教会に行くと、牧師はこの説を露骨に言わないように注意します。イギリスの詩人のミルトンだったかは、こんな理不尽な神を信じるぐらいなら地獄に落ちる方がましだと言ったくらいです。予定説の神学的理論については後ほど説明しますが、いずれにしてもこれは神と個人との直接関係です。その一方で、洗礼を受けて教会員にならなければ救われないという教義もあって、これは神と人間の集団との関係です。神が救おうと決めた者はいずれ教会員になるということです。ダンテの神曲というのは、ダンテがあの世で見聞したことを書いたという想定になっています。ダンテは地獄に行って、古代ローマの人格者で有名だったヴェルギリウスに会って驚きます。「なんで貴方のような立派な方が地獄にいるのですか」これにたいしてヴェルギリウスは「キリストより早く生まれた為にキリストの教えに接する機会がなかったためだ」と返事をしました。キリスト教の根本的な教義は信者でない日本人にはとうてい納得できないものだと思いますが、アウグスチヌスは彼なりに考えた結果だったのです。アウグスチヌスは慈悲深い神がどうして人間を苦悩の中に放置するのだろうかと必死に考え、「原罪」という考えに到達したのです。人間の原罪とそれに対する神の救いというのが、キリスト教の中心課題です。ですから、宗教改革というキリスト教の本質を問い直した改革運動が、罪の意識を異常なほど強く持ったルターによって始められたのももっともです。
2008年02月15日
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アウグスティヌスは自伝を書いていて、彼の生涯はわりとよく分かっています。彼は北アフリカのかつてのカルタゴの地で生まれました。人種的にはアラブ系か黒人系ではないでしょうか。彼はまだ十代のときに女に子供を生ませたりしてけっこう現世を謳歌していました。宗教的にもマニ教に入信しその後キリスト教に改宗しています。彼は色々遍歴しているのです。こういう若い時の生活を人生の後半になって強烈に後悔していて、その気持ちが彼の思想の根底にあります。彼にとって昔のことはあらゆることが後悔の種だったらしく、少年の時に空腹でもないのに隣の家の梨を盗んだことを「神の国」に延々と書いています。アウグスティヌスの思想でもっとも特徴的なのは「罪の意識」です。この罪の意識はユダヤ教が持っていたものと彼の個人的な後悔が結合したもののようです。ユダヤ人はヤハウェの神に愛されて繁栄を約束されていたはずなのに、現実は国が外国に滅ぼされたり奴隷として拉致されたりと悲惨な目に遭っています。ユダヤ人はその原因を考え、自分たちが神の教えに背き偶像を崇拝して異邦人の女と結婚したからだと考えました。ユダヤ教の面白いところは、罪に対する罰はその罪を犯した個人に下るのではなくユダヤ人全体に降りかかると考えていたことです。しかし個人の犯した罪に対する罰が集団に下るというのも不合理なので、後には罰は個人に下るという発想も出てきました。結局ユダヤ教では、ユダヤ人の個人が犯した罪により、個人も罰せられるがユダヤ人という集団も神に苦しめられるというように考えるようになりました。こういう罪に対する罰の発想をアウグスティヌスは、自分の若いときの罪に対する後悔で増幅させ「原罪」というものに結晶させたのです。この罪の意識がキリスト教に入ってきた時に変形しました。キリスト教の教会は罪を犯すはずがないので、個人的な問題に過ぎないと考えられたのです。その一方で人類全体が罰せられるという発想も残っていたので、それは全ての個人が罪を生まれながらに持っているからだということになって行きました。これが「原罪」です。原罪というのは非常に分かりにくい発想ですが、個人の犯した罪によって集団が罰せられるという思想が根底にあると考えると分かりやすいと思います。
2008年02月14日
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アウグスティヌス(紀元354~430年)、アンブロシウス、ヒエロニムスの三人は教会の三博士といわれていますが、彼らは同年輩でそれぞれの分野で活躍しカトリックの基礎を作り上げた男たちです。彼ら三人が行ったことを読んで行くと素直に「偉い人たちだったのだな」とは私にはとても思えません。当時蛮族が侵入してローマは大変な時だったのですが、彼らは現実的な対処によって信者の現世での苦しみを和らげようという気持ちがまるでないのです。ヒエロニムスは修道院制度を作ったということでカトリックでは非常に高く評価されていますが、彼は蛮族が侵入して皆が略奪暴行に苦しんでいる時に貴婦人に対して婦徳を守ることがいかに大切かを説いています。アンブロシウスは、教会の権力・権威を皇帝より高めることに成功した人です。皇帝が現世の安全・秩序の維持に不可欠な処置をしたことに対し、それが教会の権威を損なったとして大反対し皇帝の命令を撤回させたのです。彼らの行為により現世の悲惨がますます大きくなっていきました。彼ら三人は非常に頭がよく教養もあり滅び行くローマに対する愛情も強かったのですが、現世に対する関心が完全に欠如しているのです。私は彼らに関する記録を読んだあとしばらくぼう然としていましたが、やがて一つの結論を得ました。彼らの性格が異常だったのではなく、そういう時代だったのだと。現世の不幸を防ぐ方法がなくそれを甘受するしかないとしたら、意識的に現世のことを頭から追い払うようになってしまうのです。理性的なギリシャ・ローマ文明に背を向けて、多くの人がなぜキリスト教という哲学から見たら荒唐無稽な宗教に走ったかは、この観点を無視しては分からないのです。滅亡が避けらないものであるなら、人々に忍耐心を与え宗教的希望を持ち続けさせるのが良いと考えて「神の国」を書いたのがアウグスティヌスです。
2008年02月13日
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世の中に新興宗教が次々と現れては消えていく中で、なぜキリスト教が大宗教に成長したかということは非常に興味深い問題です。これには色々な学者が様々な説を唱えていますが、ギボンのいうことはなかなか説得力があります。一つはキリスト教が寛容でなかったという理由が挙げられます。キリスト教は一神教で、自分たちだけが天国に行けると確信していました。仏教で効果がなかったら神道にしようかなどという選択の余地がなかったのです。こういう非寛容は、時として自分たちの宗教に対する非常な熱意を生みます。奇跡もキリスト教が大宗教になった理由の一つです。イエスは死者を蘇らせたり、病人を治したりしました。またイエスの死後、彼の弟子たちも突如として奇跡を行う能力を持つようになりました。奇跡は別にキリスト教だけでなく、色々な宗教が宣伝しています。仏教の経典でもお釈迦様が超能力を発揮したと書いていますし、オーム真理教の麻原彰晃は空中浮揚できると称してその姿をビデオで公開していました。しかしキリスト教は聖書で奇跡を大きく取り上げて積極的に宣伝するなど、他の宗教よりはるかにその扱いを重視しています。この奇跡重視は現在も変わらず、カトリック教会は「奇跡」の報告を受けると十年・百年単位の時間をかけ、ノーベル賞学者を大動員して調査をしています。聖書に書かれている奇跡に感動したことがきっかけで入信する人が、今でも多いのです。キリスト教徒が強固に団結していることも将来の発展の要因でした。キリスト教はローマでは禁止されていましたから、キリスト教徒は団結しないと生き残れなかったのです。そして、軍人や官僚などの支配者に積極的に布教する戦略を採りました。その結果軍人にキリスト教徒が多くなり、コンスタンチヌス皇帝が敵と戦って勝った時、部下のキリスト教徒の将校たちは口々に「これはキリスト教の神のおかげだ」と宣伝したのです。つまり、キリスト教はその団結力によって強力な政治的圧力団体になったわけです。コンスタンティヌス皇帝もすっかりその気になって、キリスト教の禁止を解除し公認しました。ギボンは、死後の「復活」死後もキリスト教の勢力拡大に貢献したと主張していますが、復活は多くの宗教で主張されていましたから、キリスト教の特徴ではないと私は考えます。古代エジプト人なども復活を信じてミイラを作ったのです。
2008年02月12日
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キリスト教というのはユダヤ教とギリシャ哲学が混じりあったものですが、ユダヤ教の教義というのは非常に単純です。ユダヤ教ではヤハウェという全能の神が全宇宙を創造したのですが、キリスト教はこのヤハウェの神をそのまま使用しています。ヤハウェの神を信じた正しいユダヤ人は、この世で納得できない扱いを受けても天国に入ることでちゃんと帳尻が合います。この考えはキリスト教でも受け継がれています。ユダヤ人だけが神から愛されていて異教徒は絶滅すべしという選民思想は、「選ばれた人」というように少し変えられてキリスト教に入っています。この発想はキリスト教の根底に根強くあり、何かの折に社会の表面に出てきます。例えば第二次世界大戦の時、アメリカは日系人を強制収容所に入れましたがドイツ系はそういう扱いを受けていません。こういう事態はアメリカ人の宗教的感情以外に理由を説明できません。また大航海時代にスペイン人は南米のインディオを大虐殺しましたが、これを積極的に推進したのはキリスト教の宣教師です。「義」「博愛」というのもユダヤ教からキリスト教が受け継いだものです。救世主(メシア)という発想もユダヤ教のものですが、異教徒を撃退し征服する有能なユダヤ王というものからキリスト教ではイエスという宗教的な存在に変わっています。初期のキリスト教はユダヤ式に単純なものでしたが、徐々にギリシャ哲学の影響を受けて変化しています。キリスト教の「信条」というのは、ユダヤ教の戒律がギリシャ哲学の影響で大きく変わったものです。ユダヤ教の戒律というのは生活全般を規制する法律のようなものです。例えば、男子は割礼しなければならないとか、ひずめのない動物や鱗のない魚は食べてはならないというものです。キリスト教はこういう瑣末な法律を排除してそれを「信条」にしました。信条というのは「道徳的基準」というべきものでこれを破っても警察に捕まえられて裁判にかけられるというものではありません(イエスは律法に違反したので死刑にされたのです)。「信条」という信念を持つことが重要なのであって、これはギリシャの哲学者が「善」に絶対的な価値を置いたのと同じ発想です。また、ストア派哲学で「義務」を尽くすことが正しいと考えられたのとも同じです。このようにキリスト教の教義の部分はギリシャ哲学で組み立てられたのです。
2008年02月11日
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ギリシャやローマの伝統的宗教は現世幸福を得るためのものでしたが、ローマも下り坂になると、多くの人はこの世に絶望しあの世に希望をつなぐようになりました。当時のローマには様々な宗教が流れ込んで栄えていましたが、一時期はペルシャ製のミトラ教が流行しました。しかし結局はキリスト教が絶望した人にもっとも良く慰めをもたらしました。キリスト教はギリシャ的な要素も多く吸収し後の世にこれを伝える役割を果たしたのですが、ギリシャ的なものをキリスト教に橋渡ししたものに新プラトン主義というのがあります。新プラトン主義を始めたのはプロティノス(204~270年)という男です。彼の時代は蛮族の侵入とそれによる農村の衰退によって財政が破綻し、政府は比較的豊かな都市に重税を課しました。その結果、豊かな市民は都市から田舎に逃げ出して都市も衰退しどうしようもない状態になりました。プロティノスは現世の破壊と悲惨から目をそむけ、善と美の永遠の世界を瞑想したのです。プラトンは、本当に存在するのはあの世であるイデアの世界で、現世はイデア世界のお粗末な影に過ぎないと考えました。この末世にプロティノスはプラトンの思想を復活させたのですが、キリスト教の哲学者はイデア説を大いに参考にしました。天国をイデアの世界に重ね合わせたのです。こういうわけでプラトンの哲学はキリスト教でも重んじられました。初期キリスト教神学者である有名な聖アウグスティヌスは、プラトンを「あらゆる哲学のうちもっとも純粋で輝かしいもの」でプロティノスを「プラトンが再現したようだ」と言いました。プロティノスの時代には、生き延びることが今の我々には想像も出来ないほど大変なことだったようです。とにかく戦乱と疫病で人口が半減し、生き残ってもいつ蛮族に殺されるか分かりませんでした。不幸がすぐ目の前に迫っており、幸福は遠く離れて現実には見ることが出来ません。幸福は頭の中で考え出すものだったわけで、このような幸福を味わうには、日常生活の感覚を無視し超感覚的な世界の実在性を信じる楽天的な性格が必要でした。プロティノスは、頭の中に幸福を見つけようとした人だったのです。天国が美しいとそれをイメージするのも容易なので、プロティノスは非常に美しい言葉でイデアの世界(天国)を描写しました。私はヨーロッパのキリスト教とアメリカのキリスト教は違うと感じています。想像によって天国を味わうやり方は、現世の絶望を経験しなければ生まれないのではないでしょうか。アメリカのキリスト教が、超越的な希望よりは地上での義務や日常生活の進歩に多くの関心を持っているのはこういう絶望がなかったからだと思います。そしてアメリカ式のキリスト教が朝鮮や支那に渡り新興宗教となっているのも、その現世利益的な性格の故だと思います。
2008年02月10日
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ストア派哲学者であったマルクス・アントニウス皇帝は紀元後2世紀後半の人でした。彼の時代から急に北方蛮族の侵入が激しくなり、彼はそのために東奔西走して疲れ果て死んでしまいました。彼の死後実子が皇帝になるのですが、無能だったので軍隊の幹部に殺されました。この時代、かつてローマを繁栄に導いた元老院は名前だけで皇帝の飾りに成り下がっていましたし、市民はかつての活力を失っていました。そうして軍隊だけが政治勢力としての実力を保持していたのです。マルクス・アントニウスの息子を殺害した後、各地域に駐屯していた軍隊の司令官たちが互いに皇帝になろうとして争うようになりました。国境を守る軍隊が互いに戦っていたので、北方の蛮族も好きなように侵入し始めました。まさにローマの終わりの時代が始まったのです。日本人のローマ史家である塩野七生は、「ローマの各時代の彫刻を見るとそのときのローマ人の心理状態がよく分かる」と面白いことを言っています。ローマが隆々としていた時の彫刻は、写実的で力強いです。しかし落ち目になった時代の彫刻はまるでヨーロッパ中世の作品のようで、写実性がなく非常に幼稚な感じで、どの彫刻も個性がないのです。彫刻を見るだけで、この時代はもはや中世なのだなと感じることが出来ます。また経済的な衰退のために軍隊の数も激減しています。かつてのローマ軍は、各地に駐屯している軍団を合計すれば30万人ぐらいあり、皇帝が直接率いる遠征軍は10万人を下りませんでした。しかし落ち目になった時代には皇帝が率いる軍隊も1万人や2万人程度になってしまいました。この数字は中世そのものです。14世紀の百年戦争でイギリス王やフランス王が率いた軍隊も五千人や1万人ぐらいです。もう一つこの時代の特徴として、宗教が大いに流行ったことが挙げられます。これも中世と同じです。ヨーロッパの中世は、蛮族の侵入によりローマが滅びた時から始まるのではなく、3世紀から始まっているのです。
2008年02月09日
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ストア派の思想で重要なのは「自然権」ですが、哲学が生まれた経緯を振り返ってみると自然権という発想をストア学派が持ったのも納得できます。古代ギリシャの各ポリスは、他のポリスには通用しない独自の正義を持ち、それを表現したのがそれぞれのポリスの神話でした。その正義はポリスを一歩外に出ると通用しないものでしたので、その後貿易や軍事同盟など「国際化」が進展すると、神話に代わる多くのポリスに共通の価値観が必要になり哲学が生まれたのです。紀元前300年ぐらいから、ギリシャ人の支配する世界はアレクサンドロス大王の東方遠征によってエジプトやペルシャなど異民族の住む地域まで拡大しました。その後地中海を取り囲む広大な地域はローマが支配するようになりましたが、ローマ人はストア哲学にほれ込み、自分たちの哲学にしました。ローマ人はストア派哲学によって様々な民族が住む広大な版図を統合しようとしました。ローマの支配階級は、征服した異民族の支配者も自分たちの仲間にしてその支配に協力させました。例えば、征服した部族の王や貴族にローマ市民権を与え、更には元老院議員にし、その師弟をローマに留学させストア派哲学を学ばせたのです。ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」を読むと、彼の敵味方となったガリア人の指導者の多くは若いときローマに留学していて哲学的な議論も出来たのです。このようにして広大なローマの版図内の支配者は、ストア派哲学によって何が正しく何が正しくないかを判断するようになりました。この場合、ローマ人もローマに服属している弱小国の支配者もそれぞれの国内では、伝統的な価値観に基づいて生活していました。その一方、彼らはローマ全体を考えるときはストア派の哲学に基づいて考えました。ストア派哲学では、自然と調和する生活が正しいと考えていましたが、自然は民族による差別をしませんから結果的にあらゆる民族に共通の価値観になるのです。このようにして「自然法」という概念が成熟していきました。この「自然法」は自然という人類共通のものから来ていますから、全ての人間は平等であるという発想を根底に持っています。ストア派のローマ皇帝だったマルクス・アントニウスは「省察録」に次のように書いています。「全ての人間に同じ法律が適用され、平等な権利と平等な言論の自由とを尊重して行われる政治体制が望ましい」。この思想の影響を受けて古代ローマでも次第に奴隷制度はよくないという考えが広まっていきました。また、男と同権を主張する女性たちもこのころ輩出しましたが、彼女らの言動は現代の「ウーマンリブ」運動家など足元にも及ばないほどですが、これも「自然法」の影響です。この自然法はキリスト教に大きな影響を与えました。
2008年02月08日
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ローマ皇帝にしてストア派哲学者だったマルクス・アントニウスは、宇宙と調和する生活が正しいと考えていました。神は、人間を指導する役割を持つデーモン(人間に潜む神的な力)を与えたと信じていました。このデーモンというのはキリスト教でいう守護天使と同じものです。マルクス・アントニウスは、運命は永劫の昔より決まっているとも考えていました。殺されるという不幸にあったとしてもそれは昔から決まっていたことであって、殺人者が彼の運命を変えたわけではないのです。「いかなる人間も他人に害を与えることは出来ない」というわけです。マルクス・アウレリウス皇帝の言動を見てみると、どうも矛盾を感じてしかたがありません。彼は、現世の幸せは無意味であると考えています。その一方で、皇帝として国民の現世の幸せのために奮迅の努力をしています。このことは、外敵を防いだり食料を確保するということが、国民の幸せだと考えているということです。ということは、現世の幸せは本当は無意味なのだが、次元の低い連中にとっては幸せなのだということです。これは「幸せ」には二種類あるという価値のダブル・サタンダードです。この二つの「幸せ」を結びつけるのが「義務」というものです。高いレベルにある者は「義務」として、低次元の連中の現世の幸せを確保してやらなければならない。しかし自分自身はそんなものに惑わされてならない。これはまさに、支配者の思想そのものです。
2008年02月07日
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ストア派の「徳」というのは少し変わっていて、悪い情熱だけでなく全ての情熱がいけないのです。妻や子が死んでも深く悲しんではならないし、友情を持ちすぎてはなりません。ストア派では有徳であること自体が目的であって、何か別の目的のために有徳になろうというのではないのです。公的生活は義務なのですが、人類に利益を与えよう(世の中を平和にしようとか食糧不足を解消しようとか)という欲望から政治家になって努力してはなりません。世界の平和とか食料の提供といったものは人間の本当の幸せではないからです。ストア派の代表的な人物はローマ皇帝だったマルクス・アウレリウス・アントニウスですが、紀元後2世紀後半の人で5賢帝の最後の人でした。5賢帝の時代というのはローマが平和で経済的に繁栄した時代だと一般的には言われています、実際にローマが平和だったのは四番目の賢帝だったアントニウス・ピウスの時までです。5番目のマルクス・アウレリウス・アントニウスが皇帝のとき蛮族が攻め込んできてローマの運命は下り坂になっていきます。彼は四番目の賢帝であるアントニウス・ピウスの養子になり、養父の死後皇帝になりましたが、同じくアントニウス・ピウスの養子で自分とは養兄弟だったルキウス・ウェルスを自分と同格の皇帝にしています。べつにそんなことをする義務はなかったのですが、道義上の理由からそうしたのです。このルキウス・ウェルスは無能でマルクス・アウレリウス・アントニウスの足を引っ張っただけでした。マルクス・アウレリウス・アントニウスには政治的・軍事的な才能がなく、人を見る目もありませんでした。自分の実子であるコモドゥスを跡継ぎにして皇帝にしたのですが、彼は余りにも無能だったので殺されています。この支配者としての資質に欠けるマルクス・アウレリウス・アントニウスが五賢帝の一人になっているのは、彼の真面目な性格のためです。彼が皇帝の時代は蛮族が領内に侵入していたので、司令官として多くの時間を野戦場で過ごしました。軍陣のさなかに彼は「自省録」という日記を書いていますが、哲学的な考えや皇帝としての義務のことを書いているだけで政治的・軍事的な事柄は書かれていません。彼にはこの世のことなど関心がなかったようです。しかし皇帝の義務に忠実で一生懸命に皇帝業を勤めたのです。当時ストア派の思想はローマの支配者層の常識でしたから、「義務」を最優先にしたストア派に忠実な彼の態度に人々は感銘を受けたのです。
2008年02月06日
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ストア派の創始者であるゼノンは、「万物は自然と呼ばれる一つの単一組織体の一部であり、個々人の生活は自然と調和しているときに善なのだ」と考えていました。「徳」とは心が自然と一致している状態なのです。この発想は、古代からのギリシャ人の発想そのものです。はるかな昔からギリシャ人は、「自然法則が様々な勢力をバランスさせ、それぞれの勢力は定まった境界を持っている」と考えてきました。彼らにとって正義とは、「定まった境界を侵さない」というものです。財産や健康などという肉体的な慰安はとるに足らないもので、自然の定めた境界・掟を守ることが正しい」とゼノンも考えていたのです。これは何度もいうように日本人の「あるべきようは」と同じ発想です。ゼノンはフェニキア人ですがこういうギリシャ人の伝統的な発想を唱えたのです。さらに「不平等が悪いわけではなく、他の縄張りを侵すのは悪いことだ」という発想は支配者に非常に都合がよいのです。こういうわけでストア派哲学は、当時地中海を支配していたギリシャ人・マケドニア人に受け入れられていきました。このゼノンがいうところの自然法則は、ルールであって「神」という非物質的なものとは違っていました。ところが後期のストア派は霊魂の存在を認め、その思想は神の教えというように変わっていきました。こうなるとストア派の思想というのはひとつの信仰になっていきました。「徳」を守ることはそれ自体が目的なのであって、何かの役に立つから大事にするということではなくなっていったのです。私は人間の大集団を統制する思想というのはこういうものだと思います。多くのキリスト教徒にとっては神を信じることが大事なのであって、それによって何か良い事があるから信じるわけではないのです。日本人も「無欲になって自然の中で自分のいるべき場所にいるのが正しい」と思い込んでいるわけで、それが自分に有利か不利かなどとは考えません。ストア派の思想も同じで、「徳」を守ることが正しいという考えが芽生えてきたのです。このストア派の哲学は、ローマ人の支配的な哲学になることによって歴史に大きな足跡を残しました。
2008年02月05日
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ストア主義を始めたのはゼノンというフェニキア人で現在のシリアに住んでいて、最初の頃の弟子もフェニキア人が大部分でした。当時のシリアはギリシャ系のマケドニア人が支配していましたが、やがてローマの領土となったので、ストア派というのは他のギリシャ哲学とは毛色が違うのです。ゼノンの哲学はキニク派の影響を受けていて、肉体的な快楽を軽蔑しています。また、ヘラクレイトスという哲学者の影響も受けています。ヘラクレイトスはヘーゲルの先祖のような人で、弁証法を提唱しました。ヘラクレイトスによれば、世界は神々が作ったものではなく、対立するものが闘争しているものだと考えます。互いに対立するものは、もう一段高いレベルで調和すると考えるのですが、これは弁証法の考え方です。そして最終的に「一なるもの」に収斂していきます。逆にこの「一なるもの」から全てのものが派生します。この「一なるもの」を神と考えると分かりやすいです。つまり宇宙は神の正義の法則に支配されていると考えるのです。このようにキニク学派とヘラクレイトスの影響を受けて、ストア派というのは禁欲的です。また、自然情け深い神神によって定められていて、全体が目的を達成するように設計されているとも考えます。そしてこの目的は人間のためにあるのであって、牛や馬は人間の食料になるために存在し、蚤やしらみは朝になってわれわれが目覚めるのを助けるためにあるのです。神は世界の魂であって、人間一人一人がその魂を含んでいると考えます。なにやら全てのものが仏性を持っているという大乗仏教の教えに似ているのです。このようにストア派は質素な生活と世界の正義を神のルールだと説いたわけで、その教えは支配者が喜ぶものでした。
2008年02月04日
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エピクロスに関連してギリシャ人の宗教の話をします。古代のギリシャには悪いことをした者は地獄に行くという考えが既にありました。公式のギリシャ神話であるオリンピア神話は地獄という考え方に対してあまりはっきりとは書いていませんが、ハデスという地獄の神は登場します。しかしプラトンは地獄の責め苦をその著作で書いていますから、哲学者も含めて地獄という考えをギリシャ人一般が信じていたと考えてよいようです。別にキリスト教になって初めて地獄という考えが出てきたわけではないのです。また輪廻転生という発想も古くからギリシャにありました。こういう意味では日本人と古代ギリシャ人の宗教観は意外と似ていたようです。疫病・地震・敗戦などは神に敬意を払わなかったためだとも古代ギリシャの一般民衆は考えました。どうも古代ギリシャの文学や芸術は、ギリシャ人の伝統的な発想である民間信仰という点に関して非常に誤解を招きやすいと思います。エピクロスは、このような古代からのギリシャ人の信仰は、人間に一定の行為を強制し心の平安を乱すとして嫌悪したようです。このような地獄に落ちるかもしれないという恐怖心から解放されるようになって、人間は自由になり幸せになれるとエピクロスは考えたのです。エピクロスが生きていた時はマケドニアの武将たちが互いに争い、非常にストレスがたまる時代でした。だから死んだ後もあの世があってまた面倒くさいことを続けなければならないと考えただけでうんざりし、死んだら完全に消えてしまうと考えて心が落ち着いたのです。このエピクロスの思想は一般民衆には普及しませんでした。いつでもどこでも「死の恐怖」というのは大変に強く、それに対する適切な説明が出来ない思想ははやらないのです。仏教は死を真正面から見据えた教えですし、キリスト教も善良な信者は復活し神と共に幸せな生活を永遠に送れると説いています。
2008年02月03日
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エピクロスの話を続けます。彼が考えた哲学というのは、幸福な人生を送るには実際にどうしたら良いのかを教えたもので常識から成り立っており、論理学や数学を駆使したものではありませんでした。公的な生活から逃げることを薦めたのは、権力を得るに従って自分をうらやんで害を加えようとする人間が増えるからです。たとえ不幸を逃れたとしてもそのような状態では心の平和は不可能なので、人目につかずに暮らすのが良いのです。彼は神の存在を信じていました。神が存在していないとすれば、いつでもどこでも神の存在が信じられ大問題となることはありえないから、という理由からです。面白いことに彼は神もエピクロス主義者だと考えていました。公的なことに煩わされるのは神も嫌がり、宇宙の統治などという余計なことはしないと考えたのです。神々は人間世界の営みなどには介入しないのです。神は人間のことなど無関心なので、神が定めた運命などはないと考え、占いも信じていませんでした。エピクロスは神を信じていなしたが、それは人間にとっていてもいなくてもよい様な神であって、伝統的なギリシャの神々への信仰には嫌悪を感じていました。ギリシャの神々はあつかましい残酷なものだったからです。今の我々はギリシャの神々をスマートなものだと思っていますが、実態はそのようなものではありませんでした。バッカス信仰では、全裸の女たちが野生動物を生で食い、人身御供もありました。オリンポスの神々も人身御供を要求しましたが、それは神話にもそういうエピソードが残っていることからも分かります。エピクロスが生きていた時代(紀元前300年前後)にはまだ人身御供の習慣があり、戦争などのような危機に際して行われたのです。ローマ共和政の最後の時代には、自由思想が流行してエピクロスの思想は上流階級に人気がありました。しかし初代皇帝であるアウグストスが、ローマの伝統的な徳や宗教を復活させてから、評判が悪くなっていきました。私はローマ時代のエピクロス学派と聞くとペトロニウスを思い浮かべます。彼は「クオ・バディス」という小説に登場する重要な人物です。この小説はポーランド人のシェンケビッチが書いたもので、彼はこれでノーベル文学賞を貰っています。ペトロニウスはネロ皇帝のお気に入りでネロの趣味の先生をしていましたが、実際は彼を馬鹿にしていました。そしてネロに恨まれたら、あっさりと美女と風呂に入りながら自殺したのです。
2008年02月02日
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英語のシニカル(皮肉な)という言葉はキニク学派が語源です。日本語では犬儒学派といいますが、これはこの学派の代表的な哲学者であるディオゲネスが犬のような生活をしていたからです。アレクサンドロス大王がコリントというポリスを訪れた時、その地の有力者は皆彼に会いに来たのにディオゲネスだけはやってきませんでした。そこで大王の方から体育場でひなたぼっこをしていたディオゲネスに会いに出向いて、「何か希望はないか」と聞きました。そのときの彼の答えが「あなたにそこに立たれると日陰になるからどいてください」とだけ言ったということです。この話は非常に有名なのでご存知の方も多いと思いますが、こういう逸話からキニク学派は「皮肉」と理解されるようになったのでしょう。キニク学派というのは洗練された哲学を否定し素朴な善だけを認めるという考えで、政府や私有財産、結婚などの社会的な約束を否定しました。奴隷制度も認めず「徳」を非常に重視し、これに比べて財産や社会的地位などなにほどのことがあろうかという態度です。このシニク学派のこの世の楽しみに対する軽蔑が受け継がれ、やがてストア派になって行きました。懐疑学派というのは、道徳に対しても疑いを持ったのでこういう名前が付けられました。人間は住んでいる国の習慣に順応するもので、それが特に合理的根拠を持っているわけではないと考えるのです。真理など分かるはずがないということから、現在を楽しむにかぎるということになっていって、この学派は一時的に大流行しました。しかし世の中が宗教色を深めていき、救いの道はこれしかないと独断的に教える宗教が栄えるのにつれて、この学派は衰微していきました。エピクロス学派も現在は大いに誤解されています。エピキュリアンは英語で美食家の意味で、エピクロス学派は快楽主義者とされています。しかし、これは創始者であるエピクロスの弟子に娼婦が大勢いたので、そういう噂がたったからです。エピクロスはパンと水だけの質素な食事に満足していました。美食をすると食べ過ぎて腹痛を起こしたり、痛風になって不幸になります。また、快楽を得るために金を稼ごうとしてあくせくしかえって不幸になります。だから肉体的な快楽を抑制し心の平静さを得るのが一番幸せなのだという主張です。このようにヘレニズム時代の哲学は、如何にして個人的な心の平安を得るかをテーマにしたものでした。
2008年02月01日
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